科学主義とは、いってみれば「科学が真理に至る唯一の方法である。宗教なんて必要ねえや。科学マンセー」って立場。科学主義に立てば、神の非存在証明ですら、科学的な方法論で可能と考える。NATROMのサイトは科学主義の立場には立っていない。扱っている内容のために、科学主義であると誤解されやすいし、実際に誤解する人もいる。しかし、注意深い読者は、科学主義であると誤解されないように、NATROMが努力していることに気がついていると思う。
科学主義者は、進化生物学のような科学によって、キリスト教の価値を否定できると考える。「聖書の創世記は進化生物学とは相容れない。創世記の内容はデタラメだ。よって聖書もデタラメだ。キリスト教もデタラメだ」というわけだ。私はそのような立場はとらないし、多くの進化生物学者をはじめとする科学者も、そのような立場はとらないであろう。実際、キリスト教徒の科学者はたくさんいる。聖書は科学の教科書ではない。聖書の一解釈が科学と合わないからといって、聖書がデタラメだとは言えない。科学主義者は、科学以外の価値を認めないので、「聖書はデタラメだ。聖書には価値はない」と主張する。しかし、科学主義者以外の人にとっては価値があるかもしれないし、実際にきわめて価値があると考えている人たちがいる。
進化生物学に関して、キリスト教徒のとりうる立場はいろいろある。一つは、進化を否定せず、科学の成果を受け入れる立場だ。「自然の現象はすべて神の働きであり、例えば、自然選択のプロセスについて、科学的な説明が与えられるのと同時に、神のみわざとして説明することもできる」というわけだ。一方、進化を許容しない聖書解釈をする立場をとるキリスト教徒もいる。彼らは、科学よりも、逐語的な聖書解釈が正しいと考える。科学が絶対に正しいわけではないので、そう考える人もいたっていいだろう。彼らに科学主義的な価値観を押し付けるべきではない。
このサイトの内容と整合しないように感じられた人もいるかもしれない。なにしろ、「若い地球の創造論はデタラメだ」とNATROMは言っているではないか。しかし、私の批判対象は、疑似科学であって、宗教ではないことを思い出して欲しい。NATROMの主張を正しく言い直せば、「若い地球の創造論は科学的には正しくない」だ。キリスト教徒がどのような聖書解釈をするかについては(例えば、創世記の「1日」が24時間か、長い期間か、あるいは象徴的な解釈をすべきなのか)、科学は役に立たない。「古い地球の年齢について圧倒的に科学的な証拠がある」からといって、若い地球の創造論が間違っていることにはならない。科学のほうが間違っているかもしれないではないか。科学は間違いうるのだ。
神学的な論争におさまっているうちは、科学者が口を挟む必要はないし、口を挟むべきではない。しかし、若い地球の創造論者の中に、「若い地球の創造論は科学的にも正しい」と言い始める人がいるので、そこに口を挟む余地が出てくる。「若い地球の創造論が科学的に正しいかどうか」を判断するときには、科学は役に立つ。手に入るさまざまな証拠によって、検証すればよい。で、検証の結果、結論ははっきりしている。「若い地球の創造論は科学的には正しくない」。神学的に正しいかどうかについては、私は判断する資格を持っていない。しかし、科学的に正しいかどうかについては、それなりの自信をもって言える。現在、若い地球の創造論が科学的に正しいと考えるまともな科学者はいないし、進化が起こったことについて疑っているまともな科学者もいない。
若い地球の創造論が科学的には正しくないからといって、逐語的な聖書解釈が誤りであるとか、価値がないとかは言えない。それを言ってしまうと、科学主義になってしまう。そもそも、どの聖書解釈が妥当なのかを考察する上で科学を持ち出したのが問題だったのだ。「創造論が科学的に正しい」などいう主張は、あえて言うが、カスである。「進化論は科学的に正しいから、聖書はデタラメだ」という主張と同じくらい、カスである。どちらも、根本には科学に必要以上の権威を認めてしまうという誤りを犯しているのだ。
今回、こういうことを書いたのは、
>ICFについて 投稿者:こねこ 投稿日: 7月22日(月)20時58分34秒
> 「キリスト教撲滅戦士」と名乗る荒しがクリスチャン・フォーラムに乱入して迷惑を掛けてますが、このサイトが後ろ盾みたいです。何とかして下さいませ。
(
http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/board020724.html#0207222058)
という投稿があったためである。何とかしないと。キリスト教を否定する科学主義者に対して、
「ジャワ原人の頭蓋骨は、たった二本の歯をもとにつくられたものだ」
「今西錦司も進化論を捨てた」
「進化は科学的に証明されていない」
などという反論はきわめてまずいものだと思う(いわんや、聖書の暗号や創造説再評価HPを持ち出すのは論外)。もし、ジャワ原人の頭蓋骨がたくさん発見されたなら、かの発言者はキリスト教を捨てるのだろうか?ホモ・エレクトゥスの化石は、山のようにというわけではないが、少なからず発見されている。今西錦司が進化論を認めたら、キリスト教を捨てるのだろうか?今西錦司は、ダーウィン的な進化のメカニズムを受け入れなかったのであって、進化自体は認めている。進化が科学的に証明されたら、キリスト教を捨てるのだろうか?少なくとも地動説を同じ位は、進化は科学的に証明されている。進化の証拠があろうとなかろうと、偉い科学者が進化を信じようと信じまいと、進化が科学的に証明されようとされまいと、そんなこととは関係なく、信仰者にとってキリスト教は正しいのではないだろうか?
的確な反論をされている方もいる。「逐語霊感説を採用しているのはキリスト教の一部だ」という反論は正しい。加えて言えば、逐語霊感説を採用しているキリスト教であっても、科学によって否定はできないのだ。例の科学主義者に対する反論は、「科学によれば聖書はデタラメ?ふうん。じゃあ、科学のほうが間違ってんじゃないの?」で十分だと私は思う。「科学は絶対に間違わない」などと科学主義者が言い始めたら、それはもはや、科学主義どころではなく、科学教だと言ってやればよい。
私は、「進化論は絶対に正しい」と主張したことは一度もありません。「地球が丸いという説と同程度には正しい」とか、「きわめて確からしい」とか、「科学的には正しい」とか、そういう表現をしてきました。科学は物事を知るための強力な手段ですが、一方で「絶対に正しい」と断言できるだけの力は持っていません。ノーベル物理学賞を受賞し、科学にまつわる著作で人気のあるファインマンは、「科学は不確かだ!」という本のなかで、こう述べています。
現在科学的知識と呼ばれているものは、実はさまざまな度合の確かさをもった概念の集大成なのです。なかにはたいへん不確かなものもあり、ほとんど確かなものもあるが、絶対に確かなものは一つもありません。(科学は不確かだ!、ファインマン著、岩波書店、P36)
地球が丸いという考えや、地球上の生物が共通祖先を持つという考えは、ほとんど確かなものとは言えますが、絶対に確かであるとは言えません。それが科学の限界ではありますが、利点でもあります。「絶対」ということがないからこそ、今後新たな証拠が出てきたら、いつでも既存の学説を疑うことができます。科学は不確かなものですから、科学的には妥当ではない主張、たとえば創造論を誰かが信じているからといって、それを間違った態度であると断じるべきではないと思います。ただし、「創造論は科学的にも正しい」といった主張がなされたのであれば、その主張を検討し、科学的な誤りがあれば批判するのはかまわないと考えます。
こうした問題についてもっと詳しく知りたい方は、科学哲学の本をお読みになることをお勧めします。どの本がいいとか悪いとかを判断できるほど私は科学哲学に通じているわけではありませんが、「疑似科学と科学の哲学(伊勢田哲治著 名古屋大学出版会)」はわかりやすく書けていると思います。遠藤さんによる書評も参考にしてください。
ツリー式掲示板のななさんによる「科学主義」批判に思うも参考にせよ。
NATROMさんの「科学主義」批判に対しては根本的な異論を持っているわけではないのですが、このような批判を展開する際には、是非とも科学と科学技術の腑分けや科学論、科学哲学などにまで踏み込んだ分析、論述がほしいと思った次第です。(ななさんの投稿より引用)
ななさんの意見に同意します。ただ、私にはそれをするだけの十分な能力はいまのところありません。不十分な点は、読者の皆さんのご協力によって補完できれば幸いです。
また、ななさんの指摘をうけ、
疑似科学批判は、気を抜いたら科学主義になってしまう(ex.大槻教授)。
の一文を削除いたしました。たしかに、よく考えれば、大槻教授の問題点は、科学主義とは異なります。