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1998年2月24日(朝日新聞)
同性愛者は牧師になれるか 分かれる聖書解釈
日本のキリスト教界でも論議に
日本のキリスト教界でも同性愛の問題が論議を呼んでいる。最大のプロテスタント教団である日本基督教団の会議で「同性愛者は牧師にふさわしいか」との声が上がったのが発端。「同性愛は罪」「同性愛者も神の前では平等」と、聖書の解釈もからんで、賛否さまざまな意見が聞かれる。(池田洋一郎)
1月下旬の日本基督教団常議員会で、この春行われる、牧師の資格を得るための検定試験が議題に上った際、「同性愛を表明している人が受験すると聞いているが、そうした人は倫理的に牧師にふさわしくない」との発言があった。これに対し「差別だ」との反論が相次ぎ、議論は紛糾。結局、継続審議となった。
欧米のキリスト教界では、同性愛を認める司祭や牧師が解任される一方、容認する教派が出てくるなど論議は活発だが、日本では、公の場で議論されることはほとんどなかった。同教団の小島誠志総会議長も「これまではひとごとだった。今回初めて、議論のスタートラインに立った」と戸惑う。しかし、「同性愛も人間の性指向の1つであり、差別するのはおかしい。それにより傷ついている牧師や信徒がいるのも事実」(大下幸恵・性差別問題特別委員会委員長)という声もある。
聖書はこの問題をどう教えているか。その解釈を巡って議論は分かれている。
信徒でもある多井一雄武蔵工大教授(倫理学)は、旧約聖書「レビ記」18章の《女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである》といった記述や、新約聖書「ローマの信徒への手紙」1章の《女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています》というパウロの言葉を挙げて、「同性愛は自然に反し、罪だ」とする。
「新訳『コリントの信徒への手紙』6章でも、男色をする者は決して神の国を受け継ぐことができないとあり、新訳『テモテへの手紙』1章では、健全な教えに反することとして、誘拐や殺人などと並んで、男色が挙げられている」
「聖書は、男女の結婚関係を神の創造の秩序としている。いつの時代も変わらぬ倫理規範として聖書を受け止めるなら、同性愛を道徳的に正当化できないはず」と指摘する。
一方、森本あんり国際基督教大凖教授(キリスト教倫理)は、こう反論する。
「『レビ記』には、同性愛と並んで、食物や衣服などに関する多くの禁止事項があるのに、なぜ同性愛だけをことさら取り上げるのか。『ローマの信徒への手紙』でも、同じ文脈でどん欲、不誠実、親への反逆、無慈悲なども非難されている。同性愛を非難しながら、これらの罪を無視するのは、矛盾している」
「聖書は、自然に反する行いを批判しており、元々同性愛指向のある人は、それが自然なのであって、問題とするに当たらない」
さらに「批判者は、聖書の都合のよいところだけを取り上げている。奴隷制や女性差別などに関することも書かれているが、聖書の時代的制約としてそうしたことは乗り越えられてきた。聖書には、どんな人でも、神の前で平等であり、神に愛されるという、より根源的な洞察が含まれている。同性愛者同士の結婚にしても、それが1対1の誠実な人格的関係なら教会は認めてもいい」と主張する。
同性愛者が牧師にふさわしいかどうかについて、多井氏は「信徒ならまだ容認の余地はあるが、罪である以上、教えを説く牧師となると問題外」という。これに対し、森本氏は一般論とことわりつつも、「信徒と牧師で倫理規範が異なるいわれはない。神の前で平等である以上、牧師にもなれる」とする。
同性愛を自然に反することとして禁じてきたカトリックはどうか。吉山登上智大神学部教授は「司祭にはなれない。信徒の多くは女性であり、その気持ちを理解し、司祭の務めを果たすには、男性同性愛者は無理がある」という。
しかし、同性愛の牧師や信徒のための礼拝を主宰し、自ら同性愛者という女性牧師は「悩んで牧師に相談しても、『罪だ』『信仰が足りないからだ』と批判され、ありのままの自分を認めてもらえず、苦しんでいる人は多い」と訴える。
そして、「同じ境遇にある人の痛みや悲しみを共有できる同性愛の牧師こそ必要。イエスは社会から疎外され、差別された人々と共に生きた。そのイエスの生き方こそ信仰の中心であるはず。現在の教会は、本来のイエスの生き方を忘れ、いろんな人を切り捨てているのではないか」と語る。
ただ現状では、こうした肯定論、否定論以外に「まだ論議できるほど準備がない。結論を急がず、慎重に議論を」という声が大勢を占めてもいるようだ。
適者とは
じゃんけんの後だし、
後知恵講釈、
に過ぎないと認めるかどうか。
この1点だよ。
誤魔化しは効かないんだ。
ROMをしておられる方から当方の疑問の二重性(適応度の記述に現れる「期待値」「確率」の定義は何かという疑問とその定義を採用したときに「自然選択説」はトートロジーになるのかという疑問とがある)についてのメールも頂戴しております。議論の過程で当方の主張するところもずいぶんと変化してきたようですので、少し書き込みを控え目にして自分の考えを整理してみたいと思います。元に戻ってみた方がよいようにも思えますし。
メールを下さった方には、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
*大文字ナンさん・えめさん(Re:三高って実相なのかな? 投稿者:大文字ナン 投稿日:12月 3日(金)10時39分54秒)(貧乏人の子沢山は適者か? 投稿者:えめ 投稿日:12月 3日(金)10時42分42秒)
こんにちは。
人間の話を取り上げたのは、例としてはあまりよくないようですね。まぁ、あくまでもイメージということで受け取っていただけると助かります。
先の投稿で当方が意図したのは、「ある男性を見て、『三高だから、結婚希望者大勢いるだろう』と予想することができるのは、『女性が三高を結婚相手に求めている』という話を我々が知っているからであり、そういう話を全く知らなければ、『三高だから、結婚相手を探す上で有利だろう』という予想は出てこないだろう」ということです。
ある個体が持つ形質を見て、その形質がその個体が生きている環境の下で生存や繁殖していく上でなぜ有利だといえるのかといえば、それは同等の形質を持つ別の個体たちの生存率や繁殖率がそうした形質を持たない個体たちとの比較において高かったという事実を知っているからです。そうした観察事実を踏まえていなければ、「これこれの形質は有利」とはいえません。「有利じゃないかな」ぐらいはいえそうですが…。
で、これを踏まえて、いわゆる「適者生存」をいい換えると、「実際に生存率・繁殖率が相対的に高かった個体たちと同等の形質を持つ個体は、生存率・繁殖率が相対的に高い(だろう)」となりそうですが、ここまでくると、当初の当方の主張とはずいぶんとズレてきたように思えます。
恐らく、当初の当方の投稿では「多産だったものを適者と呼ぶ」といっていますので、これは、理由はともあれ実際に多産であった個体について述べているわけです。進化のメカニズムの説明としてのいわゆる適者生存説は、とにかく結果的に多産だった個体の形質が集団に広まっていき、そうした繰り返しの中で形質が変化していって、気がついたら元の種とは別種(種の定義はなかなか難しいようですが、簡便な方法としては交雑不可能という点で判別します)になっているという話だと理解しています。
「多産」という点に焦点があり、多産であるがゆえに、その個体たちの生活する環境においては限られた資源を巡って激しい競争が起き、その中で生き延びてより多くの子孫を残した個体が結果として適者と呼ばれるのだというのが当初の考えだったと思います。
「適者だから生存する(より多くの子孫を残す)」といえば、「じゃあ、その『適者』とは何だ?」「適者とはより巧みに生存するものだ(より多く子孫を残すものだ)」「だったら、より巧みに生存する(より多く子孫を残す)ものが生存する(より多く子孫を残す)というだけで、そんなのはただのトートロジーだ」という展開になるのは当然でしょう。一方、「結果的に多産だったものを適者と呼んだ」という立場ではトートロジーにはならないだろうと考えたわけです。
あれれ、考えてみたら耐性菌の定義は「抗生物質の存在下でも死なずに増え続ける菌」ですよね?
じゃ、抗生物質の降り注ぐ環境下では耐性菌は生き残るが非耐性菌は死滅する、もトートロジーですね!?
とはいえ、匿名希・望さんが書いたときのつもりでは、耐性菌という言葉は、ペニシリン耐性を持つ結核菌やストレプトマイシン耐性を持つ大腸菌や、その他多数の具体的菌種の集合を指すような意味だったのだと思います。OK?
匿名希・望さん
何に対するどういうコメントかわかりにくかったのですが、一般論としても興味深いです。法則の斉一性は通常は仮定していますけれど、検証は必要であり、法則の斉一性をのべてるだけでも一般に無意味ではないと思うのですが?
明日は昨日までの延長ではないかも知れない、ということもあるので。
wadjaさん
ながーいタイムホライズンでは環境が変化してしまいますから、同じ形質でも適応度は変化してしまいます。あくまでも環境は一定という前提で皆さん考えていらっしゃるはずです。
タイムホライズンという言葉は初めてですが、タイムスパンと同じ意味と考えてよろしいですか?
流木さん
いたみいります。こちらこそ早とちりで失礼いたしました。
ショックで一晩寝込みましたが。ええ、7時間ほどぐっすり、いつも通りに(^_^)。なんの、ダイヤモンドは傷つかない・・・なんちゃって、一度言ってみたかった。
では、不適モンの烙印を押されつつ今もたくましく生存するこの勇姿をどうぞ。
http://www.nature.museum.city.fukui.fukui.jp/gakugei/iso/momo/momoedu4.html
ちょくちょくROMさせていただいておりますazazと申します。
ここ暫くの「適者」に関する議論を拝見いたしまして、「適者」の意味(定義)について教えていただきたいと思い、書き込ませていただきました。
「適者」とは「多産(して繁殖可能になるまで生存可能)な個体」であるという事は理解しましたが、形容詞的に使われているため、「多産だった個体」なのか「多産であろう個体」なのかが理解できません。どうも流木様は前者の意味で用いておられるのに対し、他の皆様は後者の意味で用いておられるように見受けられますが、一般にはどのように定義されておられるのでしょうか。よろしくお願いいたします。
えめさん、ありがと! ですよね〜…。
ミツバチは1回しかヤりませんよー
ヤらずに増える生き物もいますよー(高等生物にもいます)
つらつらと考えていたことを書いて見ます。
適応度の正体というのはなんだろう?そんなことを考えていたのです。まずは、繁殖力。1回の交配で多くの子供を出産する形質というのは、有利に働く面もありますが、過剰になると生活圏の資源を枯渇させてしまい、飢餓状況を作りかねない。だからどうも、それだけを見て「適者」とはいえそうにありません。
次に、生存力。これは勝手に作った言葉ですが、要するに食料を得て、その個体<だけが>生き延びる能力です。しかしやはり、その個体だけがただ生き延びても子孫を残せません。すると、生き延びることで<ナニが>期待できるんだろう?ということになる。ああ〜<ナニ>ですね!
なんだそうか!と思ったのは、要するに適応度というのは「性交できる回数」と相関があるということなのかな。しかも出来るだけ多くの個体を相手に「やりまくった」個体は、自己の遺伝子を広範囲にばら撒くことが可能なはずです。すると…適応度を観察によって測り知るためには、ある個体群を観察して、観察期間あたりの交配頻度を統計し、そのピークとなる個体の形質を調べれば良いのではないだろうか?と思ったのです。で、どのような形質が個体の交配頻度を高めているかを観測し、その血縁グループが「適者」であると仮定したときに、果たして本当に子孫を多く残し、それが集団に広まるか/否か、を検証する…こんなのが「適応度の科学的検証」の実際ではないか?と、かなり勝手に想像してみましたが…どうでしょ?
適応度=「一生に残せた子どもの数を、同じ集団の他の個体のものと比較した相対値」とするならば、三高よりもテレビに出てくる「○○さん家は大騒動」見たいな夫婦の個体の方が《適応度が高い》のではないっすか?いや別に自分が三高じゃないからひがみで言ってるんじゃなくて。
でも同じ資質を持っていても、特にメス(女性の方ごめんなさい。あくまでも生物的学的に見ようとしたまでです)女性の立場で考えると発展途上国のド貧乏じゃ逆に適応度が低いとも言えますねぇー。(産まれた子供が皆生き残るとは限らないし、妊娠・出産における母胎へのリスク、栄養や感染症を防ぐための医学的設備の有無なんか)
三高については皆さんが前から仰有ってましたが
適応度=適応ではないってことだし、特にそのまま人間に当てはめるって事はかなり無理があると考えます。
例えば 今ヨン様ブームで韓国人と結婚したい人間が増えているってテレビで言っていたけれど、つまり今、朝鮮半島に生息するモンゴロイドのオスは、日本列島に生息する同種のオスに対し、配偶者を得ると言う知見から見て適応度が増しているってことになる。
流木さん、ごめんなさい。まーた論点がずれましたねー
三高がもし<ミーム>として優位性を持っていたのなら、実際に三高の属性を持つ男性が増え続け、それを支持する女性も増えていなければならない、と思うのですが、現実にそんなことってあるのかな?それはたまたまマス・コミが<作った>プロパガンダであって、実体が伴うものではなかったのではないかな?と思うのですが、いかがでしょう。
#バブル期に絶対的に価値を得たのが「高収入」であったことは間違いなさそうですが、その他の「2高」はかなり眉唾な気がします。
#もう一点、<婚姻>と<繁殖>は、どうも一筋縄ではいかない(笑)というのが私の価値観です。アンモラルな部分にこそ、本質がありそうな…。
それから、三高みたいな社会的属性は、その属性が増えていく/減っていくというデータを取ればミーム論的な文脈で「文化的な淘汰」を考えることは出来るかも知れない、とは思うのですが、それが果たして<繁殖>つまり、生物学的な文脈でいう<淘汰>にどこまで関わるのか、かなり複雑な事象になってしまい、議論が巨大になりすぎる惧れがある、と私は思いました。
バブルの全盛期に「三高(さんこう)」ということがいわれましたね。女性が結婚相手に求める条件で「高学歴・高収入・高身長」を指しました。
いま、ある男性が上記3条件をいずれも満たしていれば、彼との結婚を望む女性は多そうに思えます。ただ、それがいえるのは、女性が3高を望んでいることを我々が知っているからであり、そういう予備知識なしで、ある男性のプロフィールだけを見せられて、その男性との結婚を望む女性が多いか少ないか答えてくれといわれても、返答に困るように思います。ひょっとすると、女性は「話題が豊富」とか「包容力がある」とかを結婚相手に求めているかも知れないわけですから、3高の男性がそうでない男性よりも結婚に当たって有利か否かはそれだけでは判断できないわけです。
で、女性が本当のところ、どんな男性を結婚相手として望んでいるかは、実際に結婚している男性を見るしかないでしょう。あれこれの条件が結婚にあたって有利そうだと論じてみても、その見方が正しいか否かは実態に基づいて検証しなければ判りません。
…といったイメージだとどうでしょうか?例として適切なのかは若干の不安もありますが。
*wadjaさん(まー流れの速いこと 投稿者:wadja 投稿日:12月 3日(金)00時34分21秒)
こんにちは。
>確かに安定的な環境の下、多くの子孫を残すことが、高い適応の有力な証拠になることは疑いがありません。しかし、「判断するしかありません」は、やや極端に走りすぎている気がします。
ある個体と同等な形質を持つ個体(複数)がある環境の下で相対的に高い生存率・繁殖率を残しているという事実が観察されていれば、ある個体も相対的に高い生存率や繁殖率を記録するだろうという推論は成り立ちますし、子孫の数の期待値も求めることができるでしょう。しかし、そうした観察事実なしで、ある個体を見せられて、「さあ、この個体は適者なのか?YES/NO」と尋ねられても、答えることはできません。判らないとしか答えようがありません。そのような場合は、事後的に残した子孫の数を見て、他の個体(複数)との比較において適者の程度を論ずるしかないでしょう。「判断するしかない」とは、そのような状況での話です。
少なくとも、ある個体を見ただけで適者の程度、子孫の数の期待値が分かるとは思えません。ある個体が「力が強い」「逃げ足が速い」「感覚器官が鋭敏」といった形質を持っていれば、「多分生存には有利そうだ」ということはできるでしょう。しかし、その見方が正しいかどうかは、その個体が置かれている環境において事後的に検証するしかありません。
ある個体の残す子孫の数の期待値は、他の同等の形質を持つ個体(複数)の残した子孫の数の実績値に基づいて計算されるのであり、そうした観察事実抜きで子孫の数の期待値を求める方法があるとは思えないのです。それとも、そんな原理なり方法なりがあるのでしょうか?
いずれにせよ、自分なりにもやもやした部分がありますので、整理してみたいと思います。
流木さんこんばんわ。
ROMは頻繁にしていたんだけど、ちょっち頭が悪くて、文章を考える気力がわかずにいました。
>ある個体だけを見て、「適者」と呼べるのは、その個体が実際に多くの子孫を残したか否かで判断するしかありません。
この部分を流木さんは他の人に比べて、かなり限定的に考えている気がします。確かに安定的な環境の下、多くの子孫を残すことが、高い適応の有力な証拠になることは疑いがありません。しかし、「判断するしかありません」は、やや極端に走りすぎている気がします。soft_tractorさんが例示されたように、どれくらいのタイムホライズンで考えるかによって、結果は変わってしまいます。ながーいホライズンをとれば、絶滅した動物は全て適応度が低かったことになりますが、それらはそれらで、適応をエンジョイしていた時期もあった訳ですから。
人間だって、適応度が高いという保証はない。100年たたないうちに絶滅するかもしれないし。
#ごく一部ではらおさむさんが受けたのを喜んでるwadjaでした。
*大文字ナンさん(適応度とその意味 投稿者:大文字ナン 投稿日:12月 2日(木)21時39分49秒)
こんにちは。
>流木さんが上記考察を「トートロジーではない」とすでに解決されているのでしたら、この件については収束したと思えます。
うーん、今一つはっきりしないのです。グールドの『進化論以来』を読むと、事後的に子孫の数で測る方がトートロジーに陥るみたいな話が述べてあるように思えましたし。
ただ、堂々巡りになっているようでしたら、ツリー式掲示板に移るなりして、ご迷惑はかけないようにしたいと思います。「携帯でアクセスしたら、また同じ話で激しく脱力」なんてことになっては申し訳ありませんので。
こういう質問をする場合には、ちょっと「跳躍的な形質」を持ち出したほうが分かりやすそうなので、敢えてこんな例を挙げてみます。
Aという個体(血族)には<ハネ>が生えている。
Bという個体には<ハネ>がない。
A,Bともに、同じ<種>とみなされる虫で、同じ環境のもとで生活している。
適応度の概念は、結果的(事後的)には、子孫を残した数から逆算で得られる<期待値>なのでしょうが、形質または表現型の<違い>として、今まさに観測することも可能な事象なのではないでしょうか?
このケースですと、ハネの有無が中立でしかないのであれば、やがてその形質は交配によって所属する大きな個体グループの<平均>として薄まり、消えてしまうのでしょう。しかしそれが適応度という指標で優劣を生むようならば、やがてどちらかの形質を持つグループで埋め尽くされるでしょう。このように、適応度は「事後的な子孫を残した数」によって定まるものですが、それは垂直に移動していく形質であり、現在も<実体>として観測が可能で、今後もそれまでの傾向が続いていくとは限らない。そういうものなのではないか?と考えているのですが、はずれでしょうか?
>自然淘汰を擁護する側の人間はこの個体が適応的である事を「増えている事実」、
それ以外の論拠を持って証明する必要があると思いますが?
「か?」じゃなくて、「が?」ですね。失礼しました。
「適応的」という言葉を「環境に巧みに適応」とかいう意味で使うのではなく、「子孫をより多く残した個体がより適応的」「より多産な個体がより適応的」という意味で用いるなら、「環境に適応していないように見える」云々の時点で「適応度という場合の『適応』にはそういう意味はないから、あなたの主張は的外れだ」と一蹴できるように思いますが?
流木さん
>について疑問を持っているわけです。潜在能力とか優れた形質とかいっても、それが「優れている」というのは、同様の形質を持った別の個体(複数)で観察済みだからそういえるのであり、そこをすっとばして「優れている」とかいえるのかなと思うわけです。
揚げ足取りをとるようで申し訳ありませんが、流木さんは
>トートロジー? 投稿者:流木 投稿日:12月 1日(水)00時10分22秒
というタイトルで発言されていたので、上記考察もそれが「トートロジーか否か」を主題にされたいたのかと(私は)解釈しました。ですので、流木さんが上記考察を「トートロジーではない」とすでに解決されているのでしたら、この件については収束したと思えます。
また、
> 観察事実なしでいえるのは、「この個体が持つこれこれの形質はこの個体が置かれている現在の環境では優れていると考えられる」というだけでしょう。
というような文脈の議論がいまも続いておりますが、適応度の概念は<個体>に帰属しますが、適応度そのものは「ある環境における個体(形質または遺伝子)間の差」ですから、実際には血族グループに分類された<計量>を行うのではないか?(私は門外漢なので、想像するしかないのですが)と、思います。
*匿名希・望さん(やはり論点が伝わってないな・・・ 投稿者:匿名希・望 投稿日:12月 2日(木)19時03分53秒)
こんにちは。
>誰も子孫の数で「検証」する事を否定していません。
まぁ、そうでしょうね。事後的な子孫の数による検証を経ずに、あるいは、観察事実を無視して、「本当は子孫が多いはずだ」などと論じても、誰もまともに相手にはしないでしょうから。
>「定義」する事と「検証」する事の区別が必要だと言っているのです。
ご紹介いただいたグールドの『ダーウィン以来』の該当部分をとりあえず一読したのですが、どうもすっきりしませんでした。検証は上記のように実際に残した子孫の数で行うとして、定義はどうなるのでしょう?
>自然淘汰は環境に適応的な生物が増えていく事を予測します。
しかし、適応できていないように見える個体が数を増やしていきました。
自然淘汰に反対する立場の人間は「これは自然淘汰の反証事例だ」と主張します。
自然淘汰を擁護する側の人間はこの個体が適応的である事を「増えている事実」、
それ以外の論拠を持って証明する必要があると思いますが?
「実際に増えているんだから、これらの個体(複数)は適応的だ」というわけでしょうか?もし、そうであれば、「適応度は事後的に子孫の数で測られる」という話と違いがあるのでしょうか?
*diamonds8888xさん(誤解ですよ、ぐすん 投稿者:diamonds8888x 投稿日:12月 2日(木)20時17分23秒)
こんにちは。
先の当方の投稿は、貴兄が「バカにした」という話では全くありません。そのように読めてしまったとしたら、誠に申し訳ないことです。お詫び申し上げます。
貴兄の投稿を読んで、「議論のすれ違いというのは、そもそも想定している場面が違うことから起こるのではないか」ということを述べたものです。相手が的外れなことを述べているように見えても、それは自分と相手とが異なる場面・状況を想定しているからであり、アタマの良し悪しとかはとりあえず別の話ではないのかということを書きました。
「こんな当然のことも判らないのか、バカではないか」という前に、「ちょっと待てよ、相手は自分と同じ場面を想定しているのか?ひょっとすると、違う話をしているんじゃないか?」と考えてみると、「バカ」「お前こそバカ」といった罵り合いにならずに議論をできるかも知れないと思った次第です。
自分にとっては当然のことでも、他人にとっては全く想定外ということはそれほど珍しくもありません。議論がかみ合わないな、すれ違っているなと思ったら、自分と相手とが想定している場面の異同についても考えてみるとよいように思いました。
なお、これは自戒を込めて一般論を述べたものであり、特定の方の議論なりを念頭に置いたものでは全くありませんので、その点、付言いたします。
トートロジーじゃないかもしれませんが法則の斉一性をのべてるだけなら別の意味で無意味じゃないかな?
*diamonds8888xさん(期待値と実測値 投稿者:diamonds8888x 投稿日:12月 2日(木)20時29分12秒)
こんにちは。
> そうか、だから、『適者は生存する』という言い回しは常に、適者=(過去の実測から得られた)適応度期待値の高い者、生存する=(将来の)適応度実測値が高い、と解すべきとおっしゃりたいのですね?
ある個体だけを見て、「適者」と呼べるのは、その個体が実際に多くの子孫を残したか否かで判断するしかありません。一方、ある個体と同等の形質を持つ個体が多くの子孫を残してきたという事実が観察されているのなら、その個体も多くの子孫を残すだろうと予測することができますし、具体的に子孫の数の期待値を挙げることも可能です。
一方、そうした観察事実抜きで、ある個体の形質を見ただけで、「子孫を多く残す」ということはできませんし、まして子孫の数の期待値を上げることなど不可能でしょう。いえるのは、「残すだろう」ということだけですし、その見解が正しいかどうかはその個体が実際に残した子孫の数で判断するしかありません。
むろん、1個体の実例だけで「これこれの形質が生存・繁殖に有利」と結論を出すことは早計ですから、同等の形質を持つ個体(複数)についても実際に残した子孫の数を調べる必要があるのはいうまでもありません。
*diamonds8888xさん(別種の生物の「競争?」 投稿者:diamonds8888x 投稿日:12月 2日(木)20時32分4秒)
こんにちは。
進化を「集団における遺伝子頻度の変化」と定義すれば、異種間の競争で一方が滅んでしまったとしても、生き残った集団における遺伝子頻度が変化がしていなければならない理由はないでしょうから、進化とはいえないと思います。まぁ、滅んだ側についてはその集団内の遺伝子そのものが丸ごと消えたわけですから、「遺伝子頻度の変化」といえなくもなさそうですが…。
アンモナイトは絶滅直前の時代には、とうてい適者とは思われない奇怪な形のものが増加した。これは種の寿命の末期であったことを示しているのであろう。
なんて説が昔の啓蒙書にもまことしやかに載っていた覚えがあります。
soft_tractorさんの示した生物Aと生物Bは別種ですが、適応度の比較は同種の個体間、もしくは形質間で行うものです。生物Aと生物Bはそれぞれが異なる環境、別の言葉では異なる淘汰圧の下で生きていますから、両者間の生存競争で運命が決まるというものではありません。
とはいえ歴史を見ればsoft_tractorさんの示されたような事態がいくらでも観察されていて、なぜAは絶滅してBは生き延びたのか、というのも進化研究のテーマですよね。進化研究と言うより古生物学上のテーマといえば分野がはっきりするでしょうけど。
で、Aが絶滅するかBが絶滅するかは偶然なんだというのがグールドのよく主張していることですね。グールドやエルドリッジは古生物学者ですから、同種集団内での淘汰などというチマチマした(と言ったかどうかは確認できてませんが)話よりも、野外での本当のダイナミックな進化(というくらいはどこかで書いていそう)にこそ興味があるのでしょうね。
匿名希・望さんの主張は耐性菌の例が一番わかりやすいので、それにコメントします。
> 架空の耐性菌の適応度は実際の観察抜きに高い事が予想できるのでは?
その通り。抗生物質の降り注ぐ環境下では耐性菌は非耐性の菌に比べて適応度が高いでしょう。では、ここで述語となる「適応度が高い」という言葉の意味は何かと言えば、「子孫を多く残こす」という意味ではありませんか? というのが流木さんの言うところでしょう。
流木さん曰く
>形質が適応的云々という話は当方からはしていません。
たまごちゃん (^-^)ノのおっしゃるのは適応度の期待値とその実測値は別だということですよね? でもどちらも「適応度=生存する子孫の率」であるには違いないのではないでしょうか?
ひとつの定義で過去形も未来形も同時に言うのは難しいですけど。
それと、「(将来の)実測値は(過去の実測から得られた)期待値と一致するだろう」という命題は反証可能な仮説だから、トートロジーでないことはもちろんですが。
そうか、だから、『適者は生存する』という言い回しは常に、適者=(過去の実測から得られた)適応度期待値の高い者、生存する=(将来の)適応度実測値が高い、と解すべきとおっしゃりたいのですね?
>だから最初に私が流木さんと議論してたのは複雑な形質の発展の話ではありません。
>それにあなた複雑な形質の発展の話の例え話をして嘴を入れてきたのが発端でしょう。
ちがうにゃー。
「金持ち」は別に複雑な形質を持つものに限定されるわけではにゃーからね。
チミの批判が批判の体をなしてにゃーのはかわらにゃー。
削除お願いします>管理人さま
説教云々は人違いでした。
ごめんなさい。
> 相手をバカ呼ばわりするのは簡単ですが、実は、想定している場面が異なっているために議論がかみ合わないという可能性も大いにあるわけです。
うーむ、流木さんにそう読まれたと言うことは、他にもそう読んで気を悪くした人もいるのかなあ、ごめんなさい。バカ呼ばわりなんてした意識は全然ないんですが、自分の理解したところを独白的に書いていましたので、そう読めちゃったのかなあ。ガックリ(!_!)。
とはいえ優秀な論客多数の場で一人一人に対応みたいなコメントは今はしんどいので、申し訳ありませんが当面はこのスタイルで行きます。バカ呼ばわりではないと、声を大にして宣言しておきますので、以後よろしく。
想定している場面についての御懸念はおっしゃる通りで、できるだけ場面が明らかになるようにコメントしようとしているつもりです。
・地下に眠るMさん
>確かに僕は複雑な形質の発展を説明する理屈を出したにゃ。
>ただ、もともとは適応をカネとするメタファーにチミが嘴をいれてきたのが発端だというのは覚えているよにゃ?
だから最初に私が流木さんと議論してたのは複雑な形質の発展の話ではありません。
それにあなた複雑な形質の発展の話の例え話をして嘴を入れてきたのが発端でしょう。
>チミ、他人には議論のマナーをお説教していたようだけどにゃ。
>チミがどのような高尚な議論マナーをしめしてくれるかについても、興味津々だにゃ。
いつ私が議論のマナーについてお説教しましたっけ?
教えていただけませんか?
>自然淘汰は単純な形質の積み重ねによる複雑な形質の発展「も」予測しますが、それ「だけ」を説明する理論ではありませんよ。
はあ?
誰が自然淘汰は複雑な形質の発展を説明する「だけ」の理論だといったの?
確かに僕は複雑な形質の発展を説明する理屈を出したにゃ。
ただ、もともとは適応をカネとするメタファーにチミが嘴をいれてきたのが発端だというのは覚えているよにゃ?
「余剰資産を投資に回すという戦略がいったん回りはじめると」としっかり僕はかいているけどにゃー。もちろん、余剰資産を投資にまわさないという戦略もありうるわけで、この戦略をとれば生物は単純な形態のままだろうにゃ。
>またある形質を得る事で今の環境に適応しても、それが却って次の適応を制限する場合もあります
教えてもらうまでもにゃーのだが。
適応とは環境との関係で価値を持つものだにゃ。土地という資産をため込んでも、バブルがはじければその資産は無意味どころかコストがかかるだけになるよにゃ。
同じことを言わせてもらうけど、チミのいっているのは批判の体をなしてにゃーのだよ。
考慮に入っているアッタリマエのことを得得と指摘されてもしらけるだけだにゃ。
それはそうと、チミ、他人には議論のマナーをお説教していたようだけどにゃ。
チミがどのような高尚な議論マナーをしめしてくれるかについても、興味津々だにゃ。
・地下に眠るMさん
>適応度の自己目的的サイクル 投稿者:地下に眠るM 投稿日:12月 2日(木)00時13分4秒
>ゲノムから見れば、「生存(多産)=資産獲得の見込み増大」でなんかおかしいかにゃ?
>例えば陸棲つまり肺呼吸という資産(適応)は、血液の肺への循環も意味するよにゃ。
>心臓の構造としては2心房1心室だにゃ。2心房1心室という資産をえた生物が、
>2心房2心室というさらなる資産をえる見込みを得るわけだろ?
自然淘汰は単純な形質の積み重ねによる複雑な形質の発展「も」予測しますが、それ「だけ」を説明する理論ではありませんよ。
またある形質を得る事で今の環境に適応しても、それが却って次の適応を制限する場合もあります。
#大型化が有利な環境でいた生物が狭い地形に移動せざるを得なくなったら、
#適応のためサイズを小さくするのは中サイズの時より困難になるでしょう。
どの場合でも包括的に使える設定は「ある特定の環境下における、ある特定の形質を持った個体の集団内における頻度増加」のみです。
・流木さん
>基準は何でしょうか? 投稿者:流木 投稿日:12月 1日(水)23時23分50秒
>まぁ、「これこれの形質を持っていれば、この環境の下では生存・繁殖に有利だろうな」と予測することはできますね。
>で、その予測が正しかったか否かは、事後的にどの程度子孫を残したかで測られるわけです。
>子孫が相対的に少なければ、当初の予測は外れたと判断するしかないでしょう。
誰も子孫の数で「検証」する事を否定していません。
「定義」する事と「検証」する事の区別が必要だと言っているのです。
またもう一つ、適応しているかどうかの検証と自然淘汰そのものの検証の違いがあります。
自然淘汰は環境に適応的な生物が増えていく事を予測します。
しかし、適応できていないように見える個体が数を増やしていきました。
自然淘汰に反対する立場の人間は「これは自然淘汰の反証事例だ」と主張します。
自然淘汰を擁護する側の人間はこの個体が適応的である事を「増えている事実」、
それ以外の論拠を持って証明する必要があると思いますが?
*たまごちゃん (^-^)ノさん(Re:原理はなぜ原理といえるか? 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:12月 2日(木)08時48分7秒)
こんにちは。
>>現実問題として「Aの構造から理論的に求める」ことが実際に出来るかどうかはともかくとして、原理的にはそれが可能である場合にのみ、Aと同じ構造のさいころを何回も振ることは意味を持ちます。
…といいますか、「理論的」と「原理的」という言葉をあまり区別せずにお使いだとすると、上記は、例えば、「現実問題として『Aの構造から原理的に求める』ことが実際に出来るかどうかはともかくとして、原理的にはそれが可能である場合にのみ」云々となるので、意味がよく取れないと申し上げた次第です。
>実は、さいころAは緑色のさいころです。
さいころAで1の目が出る確率を求めるために、緑色のさいころをいくつも振ってみることには意味があると思いますか?ないと思いますか?
また、その理由は何故ですか?
ないと思いますが、「ないはず」という私見が正しいか否かは、実際に繰り返し投げてみて確認するしかありませんね。ひょっとしたら、「色によって目の出方が違う」という新事実が明らかになるかも知れませんから。なお、色が出る目に影響しているとすれば、色だけ違って他は同じに作ったサイコロを投げないと検証にならないでしょう。同じ緑色のサイコロを投げてみても無意味なように思いますが?
>なお、さいころは一つにつき一回までしか振ってはならないことにします。(一生は一個体につき一回だし)
1回では確認できませんね。再現性がない以上、「はず」とか「だろう」以上のことは科学的にはいえないと考えます。サイコロの特定の目が出る確率は、既に述べたように繰り返し投げ続けたときにその目の出た割合(相対頻度)がどうなっていくかで見るしかないわけですから、試行の繰り返しが認められない以上、特定の目が出る確率を云々するのは無理ではないでしょうか?
まだ
シロナガスクジラの適応度を言えるのは現われんのか。
くちばしが長いの高いのインチキは言えるくせに。
そうか、
都合の言い例だけをひっぱってくるのが
進化論の極意か。
うぷぷぷぷ。
「こいつは生き残ったハズだった」または
「こいつは今生き残ってるヤツと同程度に生き残れる可能性があった」
ということを言うことができないと、
ドリフトとか中立とか議論できないんじゃないかなぁと思います。
って話を統計の授業かなんかで聞いたことがあったような。
ある形質を持った個体がある環境においてどの程度有利なのか、
それは各パラメーターが全て決まっているなら、
ある特定の(複数かもしれないけど)値をとるでしょう。
でもそれは大体の場合が神のみぞ知ることなんでしょう。
実態(母集団)と観察結果(標本)は異なる場合が多いわけです。
それは標本の数を限りなく増やすことで解決はできるんですけど。
で、(真の)適応度が高いかどうかとそいつが生き残るかどうかってのは、
ちょうどこの母集団と標本の関係に当たるんじゃないかなと。
あるいは真の適応度と実際の(観察した)適応度との関係。
真実には常にヴェールがかかってるというか。
だから、「こいつは生き残ったハズだった」と言ってみることも
無意味ではないかと。
>こんにちは。「はらおさむさんに7000点!」とか思わずいってしまいそうな…。
それは、はらたいら(w
>>現実問題として「Aの構造から理論的に求める」ことが実際に出来るかどうかはともかくとして、原理的にはそれが可能である場合にのみ、Aと同じ構造のさいころを何回も振ることは意味を持ちます。
>この部分がよく分からないので、別の方法でご説明いただければ助かります
実は、さいころAは緑色のさいころです。
さいころAで1の目が出る確率を求めるために、緑色のさいころをいくつも振ってみることには意味があると思いますか?ないと思いますか?
また、その理由は何故ですか?
なお、さいころは一つにつき一回までしか振ってはならないことにします。(一生は一個体につき一回だし)
流木さんへ>お返事いたみいりやす。
流木さん>子孫の多寡といっても、あくまでも同じ種の中での相対的な話です。
>適者は程度問題です。残した子孫の数に応じてそれぞれがそれなりに適者なのです(だから、適応度という尺度が考えられたわけですね)。
こういうことなら、あっしにも飲み込みやすいです。
で、ちょいとひねくれたことを思いつきやした。
生物A:繁殖力旺盛で短時間に爆発的に増殖する
生物B:繁殖力そこそこで、長期間にわたり個体数は横ばい状態
この両者がある地域にいたとしやす。食いモンは別なモンを食ってて、互いに共存が可能だとしやしょう。
ある一定期間、こいつらを観察したとして…
生物Aはとにかくドンドン増殖しやす。それに比べて生物Bはいつまでたっても、3世代くらいの個体が一定数、増えもせず減りもせず、のんべんだらりと時を過ごしていきやす。
生物Aはいっとき、生物Bの100倍くらいの個体数になりやすが、あんまり増えすぎてある時、一斉に絶滅しちまいやす。
けども生物Bは、あいも変わらずのんべんだらりと生き残っておりやす。
こいつを、ある地域のある期間で比べてみたとしやしょう。
個体数の比較でみれば、生物Aの方が圧倒的に多くなりやす(ってか多くなったとしやす)。しかしながら、生き残ったのは生物Bの方って具合になりやす。
まあ、こいつは頭ん中でひねくりだしたおとぎ話みてえなもんで、実際にゃあ生物Aも適当に折り合いをつけて生き残っていくんでやしょうけどね。
いやどうも、トンチキにおつきあい下すってありがとうございやした。
そいじゃあ御免なすって。
*soft_tractorさん(つみれとカマボコ 投稿者:soft_tractor 投稿日:12月 2日(木)00時07分0秒)
こんにちは。
子孫の数ですが、もう流れてしまったログにあると思いますが、単に産んだ数ではなく、生殖可能な時期まで生き延びた数で測ります。サケやカキが産んだ卵が総て孵化して生態にまで育ったら、海はサケやカキだらけになりそうですが、そんなことはないわけですね。産まれてくる個体の数は多くても、それらが置かれた環境の下で利用可能な資源には限りがありますから、成体になるまで育たない個体も出てきます。むしろ、そちらの方が多いでしょうね。
それから、子孫の多寡といっても、あくまでも同じ種の中での相対的な話です。例えば、ゾウは百年ほどの寿命の中で平均して6頭ぐらいの子どもを産みますが、それが全部育つわけではありませんし、たとえ育ったとしても、「ヒトより多産だからゾウの方が適者だ」とはいえないでしょう。ゾウならゾウの中で大人にまで育つような子どもをより多く残したゾウは、より適した者だったといえるでしょう。
適者は程度問題です。残した子孫の数に応じてそれぞれがそれなりに適者なのです(だから、適応度という尺度が考えられたわけですね)。適者云々は大雑把にいえば個体単位の話です(正確には遺伝子単位ですね、包括的適応度などは)。ある種と別の種との間で「どっちが適者か?」を論じているのではないと理解しております(種が同じか否かの簡便な基準は交雑して子孫を残すことが可能かどうかです)。
>まぁ、「これこれの形質を持っていれば、この環境の下では生存・繁殖に有利だろうな」と予測することはできますね。で、その予測が正しかったか否かは、事後的にどの程度子孫を残したかで測られるわけです。子孫が相対的に少なければ、当初の予測は外れたと判断するしかないでしょう。
そういうことです。子孫を多く残すのかどうかは予言でき、かつ検証できます。人間の英知を知り、人間の浅知恵を知るには絶好の教材ですね。
基準は「子孫をどれだけ残すか」です。そして適応的な変化はドーキンスもグールドも楽しそうに報告している。解釈が難しかった適応的な変化もあります(例えば働きアリなど)。そうした変化も現在の生物学では適応で説明できています。素人の私は、この説明に神秘すら感じます。
私は何十回このセリフを書いたのか覚えていませんが、流木さんが適応進化を理解したいのであればドーキンスの「ブラインド・ウォッチメイカー」をお薦めします。
>何で「生存(多産)する=これから獲得するであろう資産」と言えるんです?
省略しすぎたかにゃー・・・
ゲノムから見れば、「生存(多産)=資産獲得の見込み増大」でなんかおかしいかにゃ?
例えば
陸棲つまり肺呼吸という資産(適応)は、血液の肺への循環も意味するよにゃ。
心臓の構造としては2心房1心室だにゃ。
2心房1心室という資産をえた生物が、2心房2心室というさらなる資産をえる見込みを得るわけだろ?
カネの問題で言えば、カネを多く持つものは、さらに多くのカネを得やすい。
学力の問題で言えば、一定以上の学力を得たものは、さらに学力を得る見込みが高い。
これらの傾向を、適応度(カネ、学力など)の自己目的的傾向・自己増殖傾向とでにいってみるかにゃ。
余剰資産を投資に回すという戦略がいったん回りはじめると、こういうサイクルになるのではにゃーだろうか。
えー、口の悪いのが失礼いたしやす。
流木さん>事後的な子孫の数以外に「有利だろう」という予測(仮説)を検証する基準はあるんでしょうか?
ピントがずれてたら申し訳無えですが、ここでおっしゃられてる「子孫の数」てえなぁどういったことをお考えなんでやしょうか?
てぇのも、例えば鰯なんてのはやたらと数が多い連中でござんすね(最近はけっこう減ってきてるみてえでやすが)。それにくらべて鮫なんてのは、鰯みてえにうじゃうじゃといるもんじゃあねえ。
確たるこたぁ言えねえですが、今現在の個体数で言ったら、圧倒的に「鰯>鮫」なんじゃあねえかと思いやす。
けども、そんじゃあ鮫が鰯に比べて適応度が劣ってる連中かってえと、あっしにゃあどうもそうは思えねえんで。
うーん、あっしゃあどっかでボタンをかけちがってますかね?
*遠藤さん(罪が支払う報酬は死です(ローマ.6.23) 投稿者:遠藤 投稿日:12月 1日(水)22時56分40秒)
こんにちは。
>というわけで、生存に有利かどうかはある程度予言できます。予言が難しいのは、最終的な子孫の数を想定するのに必要な情報が多いためです。生物にとって「適応していない」ことの報酬は死です(特異な生物である人間を除く)。
まぁ、「これこれの形質を持っていれば、この環境の下では生存・繁殖に有利だろうな」と予測することはできますね。で、その予測が正しかったか否かは、事後的にどの程度子孫を残したかで測られるわけです。子孫が相対的に少なければ、当初の予測は外れたと判断するしかないでしょう。
事後的な子孫の数以外に「有利だろう」という予測(仮説)を検証する基準はあるんでしょうか?
*たまごちゃん (^-^)ノさん((無題) 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:12月 1日(水)06時49分27秒)
こんにちは。
>ところで確認させてもらいますが、ある個体の残す子孫の数の期待値は、「その個体自体が実際に残した子孫の数」によって計算するのではなく、「同様の形質を持つ個体(複数)が実際に残した子孫の数」に基づいて計算するということでよいですね。
はい。ですから、そういう前提でなら、不幸にも頭に隕石が当たってお亡くなりになった個体についても「あれも生きていれば、たくさん子孫を残しただろうに(泣)」とかいえるわけですね。
他方、そういう前提抜きに「残したはず」といわれても、「本当にそうかどうかは確かめないと判らないんじゃないか?」と思っているわけです。
「残すはず」という個体(複数)について追跡調査ところ、どの個体も相対的に少ない子孫しか残していなかったとしたら、当初の予測は間違っていたわけです。そういう結果を見ても、「いいや、これはデータの方が間違っている。本当は残すはずなのだ」と言い張る人がいれば、わけの分からないことになるでしょう。
>この両親、子供をひき殺した憎き犯人からできるだけ多額の賠償金を巻き上げるために建前としてこんな計算をしたのでしょう?それとも本気で子供の価値を予想される生涯所得で計ろうとしたのでしょうか?
加害者がどんな償いをしても、死んでしまった我が子は生き返ってはくれません。いくらお金を積まれても、それでご両親の悲しみが癒えるわけではないでしょう。ただ、実際問題としては、賠償額は遺失利益で測るしかないわけです。
確か、当時は大学進学率が今ほど高くなかったので、当初、高卒者の平均生涯所得を素に賠償額が算定されて、それが不当に低いという理由で控訴したような記述を読んだ記憶があります。記憶間違いかも知れませんが。
>ちなみに、私は『ダーウィン以来』を含めグールドの著作はあまり高く評価していません。
今日、グールドの『ダーウィン以来』を受け取りました。さっそく、匿名希・望さんが指摘された第1部第4章「早すぎるダーウィンへの引導」を読みましたが、そこでの議論は結論としてはたまごちゃん (^-^)ノさんと同じで、「適者とは結果的に生き残ったものであるという、適者の定義は間違っている」というものでした。
一度読んだだけでは、「おお、なるほど!」という気にはならなかったので、少し時間を置いてから何度か読み直してみたいと思います。
※にしても、グールドがクルーグマンに「ガルブレイスみたいなもの」と評されているとは…。何だかなぁ。
肺呼吸か鰓呼吸か、いやいや、個体の大きさによっては皮膚呼吸や気管での呼吸が遙かに有利なときも有りますよ、例えば昆虫とか。深海魚の中にはでっかい目をしたのもいますよ〜?
「適応的でない」仲間を助ける哺乳類なんかも‥‥多いよねぇぇ〜?
(まぜっかえしちゃった?)
うちの娘‥来年受験なの
今、適応度を上げている真っ最中
>さて、ある個体が「環境に適した者」だとなぜいえるのでしょうか?その個体に限っていえば、その個体が結果的に子孫をより多く残したからでしょう。後からみて、「ああ、あの個体は環境に適していたんだな」と分かるのであり、事前に適しているか否かは判断できません。
後知恵でいえば、肺呼吸をする生物は鰓呼吸をする生物に比べて地上に適しています。暗闇で過ごす生物は、目を持つ生物に比べて目を持たない生物の方が、目のコストを払わない分生存に有利だろうと想定できます。
現世の生物に触れると、オウムガイは目にレンズを持たずに、瞳孔に海水を入れてレンズの代わりにしています(ブラインドウォッチメーカー 上のp149より)。そして我々は予言できます。「もしレンズを持つオウムガイが突然変異で生じたら、その個体は生存に有利だろう。」
というわけで、生存に有利かどうかはある程度予言できます。予言が難しいのは、最終的な子孫の数を想定するのに必要な情報が多いためです。生物にとって「適応していない」ことの報酬は死です(特異な生物である人間を除く)。
*たまごちゃん (^-^)ノさん(はらおさむ的には 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:12月 1日(水)06時41分46秒)
こんにちは。「はらおさむさんに7000点!」とか思わずいってしまいそうな…。
>こういう形質を持っている個体「だから」子供の数の期待値はこれくらい、という「因果関係」が存在するという意味です。
それがいえるのは、既にその個体と同等の形質を持った別の個体(複数)について実際に残した子孫の数が観察の結果として知られている場合ではないでしょうか?それとも、ある個体の形質を調べるだけで、「ううむ、おぬしの子どもの数はこれぐらいじゃぞ」とピタリ
と判るような原理なり方法なりがあるんでしょうか?
>「Aと同じ構造のさいころを何個も振ってみる」というのは、「A自体を実際に何回も振ってみる」の変形バージョンではなく、「Aの構造から理論的に求める」の変形バージョンであると私は考えます。
実際に振っているわけですから、振った結果として観察される事実に基づいてサイコロAで1の目が出る期待値を論じられるのではないでしょうか?
>現実問題として「Aの構造から理論的に求める」ことが実際に出来るかどうかはともかくとして、原理的にはそれが可能である場合にのみ、Aと同じ構造のさいころを何回も振ることは意味を持ちます。
この部分がよく分からないので、別の方法でご説明いただければ助かります。
架空の耐性菌の適応度は実際の観察抜きに高い事が予想できるのでは?
*たまごちゃん (^-^)ノさん(適者多産 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:12月 1日(水)06時34分15秒)
こんにちは。お身体、大切に。私は少々風邪気味です。
>私にとっての論点は、「適者多産」という場合の「適者」は「結果として多産だった者」ではなく、「環境に適応した者」「多産となることが期待されるような遺伝形質を持った者」のことだということです。「適者だから多産」なのであって、「多産だから適者」なのではないということです。(強調は引用者−−流木)
私が子どもの頃にたまたま読んだ永井豪のマンガ(タイトルは失念)の中で、満身創痍の主人公らしき青年が敵のボスらしき相手に向かって「正義は必ず勝つ!」という場面がありました。この言葉を聞いたボスらしき相手はニヤリと藁って、「そうではない。勝った者が正義となるのだ」と答えるわけです。
天邪鬼なところのある私は、子ども心に「なるほど」と妙に納得したのを覚えております。
さて、ある個体が「環境に適した者」だとなぜいえるのでしょうか?その個体に限っていえば、その個体が結果的に子孫をより多く残したからでしょう。後からみて、「ああ、あの個体は環境に適していたんだな」と分かるのであり、事前に適しているか否かは判断できません。
そうした判断が可能なのは、形質と子孫の数との間に、何らかの関係があるという暗黙の前提を置くとして話は進むわけですが、同等の形質を持つ別の個体(複数)がより多くの子孫を残していることが既に観察されている場合でしょう。そういった観察事実の裏づけを抜きにして、「環境に適した者」ということはできません(「適しているだろう者」とはいえそうですが)。
「環境に適しているだろう個体は、その予想が正しければ、事後的にはその個体が属する集団において相対的により多く子孫を残しているだろう」ということはできますね。これを適者生存説と呼んでもよいのでしょうか?(これは反語表現ではなく、単なる疑問形です)
「水入りボンボンの実験」、そんな風に受け取られないか、書いたときから心配していました。
イメージしやすいように表現を変えたのが失敗でした...。
元の問題は、「十分長い、ツルの間隔が十分空いた(つまり相当縮ませても上と下のコイルが衝突しない)バネの先に固体の錘がくっついている場合」、です。
しかも、回答は、量的な表現は必要ありません。
振幅は「大きくなる」か、「小さくなる」か、「最大」か「最小」か、
位相は、「等しい」か、「遅れる」か、「進む」か、「逆(180度遅れるか進む)」か、
とかいった、実にテキトーな表現で良いのです。
表現があやふやで済みませんでしたm(__)m
*diamonds8888xさん(自然淘汰の検証 投稿者:diamonds8888x 投稿日:12月 1日(水)21時26分1秒)
こんにちは。
ダーウィンやウォレスは、マルサスの『人口論』からヒントを得たと述べているわけですが、彼らは「人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」といった議論から「ある環境の下では生き残り可能な個体数は限られる。ところが、産まれてくる子どもの数は生き残り可能な個体数を上回っている。となれば、個体間では激しい競争が起きて、その環境により適している者が生き残り、その子孫が増え広まっていく」というアイディアを得たわけですね。
もっとも、マルサス本人は、自由貿易論者のリカードゥとの論争でも知られているように、競争制限的な政策を唱えた人物であり、地主階級の利益の代弁者といった見方もされているわけです。何か皮肉ですね。
*diamonds8888xさん(自然淘汰の検証 投稿者:diamonds8888x 投稿日:12月 1日(水)21時26分1秒)
こんにちは。多分、当たり前かも知れないことを述べますが…。
議論では、お互いに違う場面を想定していることがままありますね。例えば、「日本の農業をどうするか」といったテーマでも、「農業」で何をイメージするかは論者によって異なるでしょう。ある人は稲作を念頭に置き、他の人は都市近郊農業を…といった場合、論点は全くかみ合いません。
残念ながら、相手がどういう場面を念頭に置いているかは、とても判りにくいんじゃないかと思います。その結果、自分の前提とする場面からいえば、相手の主張が全く的外れに見えることもあるでしょう。で、「こんなことも分からないとは、バカではないか」といった苛立ちも出てきます。
相手をバカ呼ばわりするのは簡単ですが、実は、想定している場面が異なっているために議論がかみ合わないという可能性も大いにあるわけです。
学力というと具体的には何だかわかりにくいですが、話をさせると論理的だ、授業を熱心に聞いている、家で○時間勉強している、とかいうのは具体的な形質と言えますね。授業を熱心に聞くという形質は適応度が高そうだけど、他の要因も加わって総合的に決まるのが個体の適応度、となりますか。
何で「生存(多産)する=これから獲得するであろう資産」と言えるんです?
>#んで学力(=適応度)の高さはテストの点によって「測れる」かもしれないがテストの点で「定義」されるものではない
ほほー
学力についての定義(厳密なものでなくてもよい。「学力観」程度のものでもいい)なしにテストの問題をどうやって作るのだにゃ?
>厳密に言うなら模試の成績だって「学力の高さが現れるはずのもの」であって
>「学力」そのものじゃないですしね
温度計の目盛りは確かに温度そのものではにゃーが、そんな言明に何の意味があるんだ?
温度を測るのが温度計で、学力を測るのが模擬試験だろ?
(もちろん、温度計にも模擬試験にも出来不出来はある)
朱雀の例を使えば、これまでの勉強で得た能力が「適応(度)」
もちろん、個人の能力や努力だけでなく家庭の経済状況なども要因にゃんね。
そして、これまでの勉強でえた能力によって、
大学進学の見込みが変わるというのが「生存(多産)」に対応するところだにゃ。
おずおずさん
おずおずさんの大学での出題の意図はわかりませんが、まともに考えるとずいぶん難しそうな問題ですね。水の入った弾性膜ではなくて固体だったらもっと単純になりますけど。
ゴムひもの上端の運動をsin(w(t)t)とした時の運動を問うということでしょうけど、実際にはこの上端の運動をちゃんと行わせるのが難しい。特に手で動かそうとすると。なお、ここでw(t)は時間の増加関数という出題ですね。
*大文字ナンさん(トートロジーで長患い? 投稿者:大文字ナン 投稿日:12月 1日(水)02時57分19秒)
こんにちは。
> どの言明にしても、検証の必要がある主張ではないでしょうか。そうであるなら、トートロジーではありませんよ?
先の当方の投稿ですが、大文字ナンさんが省略された部分
>その「潜在能力」が「潜在能力」であると判断されるのは、「そうした能力を持つものたちがより生き延びてきた」という観察事実があるからではないんでしょうか?
について疑問を持っているわけです。潜在能力とか優れた形質とかいっても、それが「優れている」というのは、同様の形質を持った別の個体(複数)で観察済みだからそういえるのであり、そこをすっとばして「優れている」とかいえるのかなと思うわけです。
観察事実なしでいえるのは、「この個体が持つこれこれの形質はこの個体が置かれている現在の環境では優れていると考えられる」というだけでしょう。で、その考えが正しいか否かは、その個体が事後的にどの程度子孫を残したかなどで測るしかないだろうと考えております。結果的に子孫が少ないのに、「いいや、これはたまたまであって、本当は優れているんだ」などといい張るのはおかしなものだと思いますので。むろん、一回だけでは何ともいえませんから、同じ環境で同等の形質を持つ別の個体についても調べてみて、やはり同様の事実が確認されるといった繰り返しの中で、当初の「これこれの形質は現状では優れている」という仮説が確からしいと認められていくわけです。
もっとも、実験室でならともかく、自然界では、同じ環境が再現されることは期待できませんから、かなり限定した結論しか得られそうにありませんね。
「自然淘汰の検証」という場合、2つの局面がありますね。ひとつは多くの方から例が挙げられたように、対立形質AとB(とCと・・・)を持つ集団内で世代を経るごとに適者である形質Aが増加するのかどうかという検証です。
もうひとつは、「実際に長期間かけて観察されている進化について、自然淘汰の寄与があるのか?あるとすればどれだけの寄与なのか?」という話です。
最初の局面については、検証しなくても論理上自然淘汰はあるに決まっています。生き残り可能な個体数よりも多数の個体が生まれてふるいにかけられるとしたら、適者が生き残るのは当たりまえです。これはダーウィンも人為淘汰において観察した通りです。ただし適応度の差が小さかったり、集団の個体数が少なかったりすると、偶然に適者が消滅することもありうる、というのが中立説による効果であり、たまごちゃん想定の話だと推定します。
ダーウィンが特に主張したのは後半のことで、自然淘汰こそが進化の主因であるとしたのです。ただそのためには、淘汰されて変異が減った世代で新たに変異が生み出されなければなりませんが、その機構についてはダーウィン死後の突然変異説を待たねばなりませんでした。
なお、 前半の局面では流木さんのおっしゃるとおり適応度は事後的にしか観測できません。単にどちらが有利か、というだけでも同じことです。AとBのどちらが適者だったのかは事後的にしか観測できません。
言い換えると、「適者は生存する」というだけでは自然淘汰説を十分に表現してはいません。「『適者は生存する』というメカニズムが進化の原動力である」というのが自然淘汰説の主張です。ある特定の対立形質の組(例えばAとBとC)において、ある形質Aが最も適応的だという検証は、自然淘汰説そのものの検証とは言えないでしょう。
余談) 大腸菌のコントロール実験はむしろ人為淘汰でしょうねえ。蛾の工業暗化はどうでしょうか? 原因は人為的なんだけど、意図的に手を加えようとしたのではないから人為淘汰とは言わないかな? 耐性菌の増加だって原因は人為的だ! 進化を論ずる上では自然と人為を区別する意味はありませんが。
余談・でもないか) 成績の良い生徒は入試に合格する確率は高いと予測できます。しかし成績が良いというのは何故わかったかというと、定期試験や模擬試験などで良い成績を取ったという観測結果からです。
成績が良い=現在の適応度が高い
入試に合格=将来生き残る=将来観測される適応度が高い
学力:これは試験の成績とは別に定義される量であり、現在は観測不可能でしょう
>「金を持ってる」というのは生物に置き換えると何を指しているのか?
>というのが議論の焦点ではないかと思うのですが。
「自然選択(自然淘汰(とうた))の結果として生物が獲得した産物に対して適応ということばを用いるのが現在の生物学の慣例だからである(日本大百科事典、「適応」の項より引用)」
>現実世界において金持ちが資産を稼ぎやすいのは能力の差のみではなく、
>すでに手に入れた資産を再生産に利用する資源として有効利用できるからであって
アッタリマエだにゃ。
つっこみどころがそこだけなら、批判の体をなしてにゃーぜ。
・朱雀さん
>もっと具体例 投稿者:朱雀 投稿日:12月 1日(水)09時44分56秒
>大学受験生A君はこれまでの勉強の結果,模試で偏差値75まで到達した.
>そこでS台予備校は偏差値72のK大学R学部は総合判定でAを,偏差値78のK大I学部は総合判定でBを下した.
>A君はK大I学部専願で1年目はだめだったが,2年目はみごと合格できた.
>一方Bさんはあんまり勉強ができず,模試で偏差値55以上行ったことはなかった.
>そこでS台予備校は,偏差値65のF大学I学部と偏差値67のT大I学部に対し総合判定でDを下した.
> Bさんは結局合格できないまま現在4浪目に突入している.
現実には生物は模試を受ける訳ではないので。
厳密に言うなら模試の成績だって「学力の高さが現れるはずのもの」であって
「学力」そのものじゃないですしね。
もっと単純で分かり易い言い方なら「学力の高い者はテストで好成績をおさめやすいだろう」でしょう。
#んで学力(=適応度)の高さはテストの点によって「測れる」かもしれないがテストの点で「定義」されるものではない
>あー、相手しないように。ツッコミ・異論は、ツリー式かフロート式へ。
失礼しました。
しばらくここ見てなかったせいか、忘れて反射的にレスしてしましました。
申し訳ありません。
なんだ、
ツリー式にフローと式?
そんなもんはイランのだ。
それよりトピ主が知恵をつけるのが先決だろ。
種の適応度の概念が存在しない?
では適者生存などと言うのは止めるんだな。
馬鹿ではないか。
・地下に眠るMさん
>適者生存 投稿者:地下に眠るM 投稿日:12月 1日(水)11時34分13秒
>さて、適者生存(適者多産)というコトバにこれをあてはめると、「適者=金持ち(資産を多く持つもの)」であり、
>「生存(多産)=これから獲得されることが見込まれる資産」ということでいいのではにゃーだろうか?
よくないような。「金を持ってる」というのは生物に置き換えると何を指しているのか?
というのが議論の焦点ではないかと思うのですが。
現実世界において金持ちが資産を稼ぎやすいのは能力の差のみではなく、
すでに手に入れた資産を再生産に利用する資源として有効利用できるからであって、
例え話としてあまり成功しているようには思えません。
To:カクレクマノミさん
あー、相手しないように。ツッコミ・異論は、ツリー式かフロート式へ。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/915865/bbs_plain
http://jbbs.livedoor.jp/study/5329/
To:doutakunooomikamiさん
doutakunooomikamiさんも発言するときは、ツリー式かフロート式へ。何度か言わなかったっけ?日本語読めますか?
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