このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
To:カクレクマノミさん
あー、相手しないように。ツッコミ・異論は、ツリー式かフロート式へ。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/915865/bbs_plain
http://jbbs.livedoor.jp/study/5329/
To:doutakunooomikamiさん
doutakunooomikamiさんも発言するときは、ツリー式かフロート式へ。何度か言わなかったっけ?日本語読めますか?
>シロナガスクジラの適応度
とか言ってる時点で、適応度の概念を全く理解していないことが確定(まあ、すでにわかりきったことだと言えばそうだけど)。
種の適応度なんて概念は存在しませんがな。
とりあえずさあ、もうちょっと勉強しましょうよ。
殿様「これ、そこの。この屏風の虎を縛れるのじゃろう?縛ってたもれ。ほれほれ。
……そりゃあ、虎を屏風から出してくれて、ついでに縄と、
銃とかの武器を渡してくれれば縛れるだろうね。太っ腹な人なら。
いやぁ、唐突に思いついたもんで。誰のことでもありませんよ。
ええ、ありませんとも。
資産を持つものは虐殺されたポルポトのころのカンボジアはどうするんかにゃ。
ポルポトの時点では特殊要因が働いたとして、
係数にそれまでとは逆の − でもつけるんかにゃー?
ポルポトは − にする期間がわかっているが、
新化の場合はどう調べるんかにゃ?
タイムマシンでも発明するんかにゃ?
お馬鹿な皆さんは
具体的に、
1950年と2000年の
シロナガスクジラの適応度を計算してみてくれんかにゃ?
適者生存(適者多産)を、経済活動のメタファーを用いて記述してみるにゃ
「金持ち(資産を多く持つもの)は、貧乏人に比べて、さらにより多くの資産を獲得しやすい。」これはトートロジーとはいえにゃーな。調査もできるし反証も可能だにゃ。
さて、適者生存(適者多産)というコトバにこれをあてはめると、「適者=金持ち(資産を多く持つもの)」であり、
「生存(多産)=これから獲得されることが見込まれる資産」ということでいいのではにゃーだろうか?
わからん人へもっと具体的な例を提供しよう.
大学受験生A君はこれまでの勉強の結果,模試で偏差値75まで到達した.そこでS台予備校は偏差値72のK大学R学部は総合判定でAを,偏差値78のK大I学部は総合判定でBを下した.A君はK大I学部専願で1年目はだめだったが,2年目はみごと合格できた.
一方Bさんはあんまり勉強ができず,模試で偏差値55以上行ったことはなかった.そこでS台予備校は,偏差値65のF大学I学部と偏差値67のT大I学部に対し総合判定でDを下した. Bさんは結局合格できないまま現在4浪目に突入している.
ここでS台予備校のしたことは,「学力の高いものほど,合格する確率が高い」という前提のもとに判定をくだすことである.B判定は確率的に合格圏内にはあるが,試験は1回きりのものなので,どうなるかはわからない.
学力を現在の繁殖成功度=適応度,合格をこれからの生残とおきかえれば,そのまま適者生存の表現になる.
これをトートロジーというのならば,S台予備校の立場は?
ぐだぐだいわずに、
1950年のシロナガスクジラの適応度
と
2000年のシロナガスクジラの適応度
を
計算してみろ。
環境を無視して生存率30%、20%、10%
などと言い出す馬鹿も居るんだから。
Re: 期待値 投稿者:流木 投稿日:11月28日(日)22時50分5秒
>では、ある個体の残す子孫の数の期待値はどうやって計算するのでしょうか?同様の形質を持つ個体(複数)が実際に残した子孫の数に基づいて計算するしかないでしょう。
(少なくとも現実的には)その通りだと思います。
ただし、その計算によってその個体の残す子孫の数の期待値が計算できたとみなせるのは、形質と個体の残す子孫の数との間に因果関係があると前提しているからだと思います。
ところで確認させてもらいますが、ある個体の残す子孫の数の期待値は、「その個体自体が実際に残した子孫の数」によって計算するのではなく、「同様の形質を持つ個体(複数)が実際に残した子孫の数」に基づいて計算するということでよいですね。
で、その期待値が高い個体がいたとして、まだ子供のうちに寝ている間に隕石に脳天ぶち抜かれて死んだとします。こいつは「適者多産」と言う時の適者であると言えますか?
言えるというのが私の考えです。
wadjaさんもおっしゃっているように、人生はお一人様につき一度かぎりです。同じさいころ(同じ個体)は一度しか振れません(生きられません)。たとえその一回で1の目が出なくても(子孫を残せなくても)、1の目のでやすい構造をしているさいころ(適応的な形質を持った個体)は1の目の出る確率の高いさいころ(適者)だと思います。
>ずいぶん昔に、北海道で小学生の男の子が交通事故に遭って亡くなりました。その子のご両親は「私たちの子どもは成績優秀だった」として、順調に進学し、それなりの企業に勤めた場合の生涯所得を計算して、加害者に賠償を求めました。
な、なんていうか……(^^;)
この両親、子供をひき殺した憎き犯人からできるだけ多額の賠償金を巻き上げるために建前としてこんな計算をしたのでしょう?それとも本気で子供の価値を予想される生涯所得で計ろうとしたのでしょうか?
もし本気だったらこの子かわいそうすぎまつ・・・。
想像したらマジで泣いちゃいそうなんですけどぉ……。
うぅーー。この場合も、小学校での成績と生涯所得との間には相関関係がある(この場合因果関係を想定しているかどうかは不明)という前提の元に計算が行われているのだと思います。
Re: 適応度 投稿者:流木 投稿日:11月28日(日)23時44分47秒
>「適応度=生存率×繁殖率」とすれば、ある個体の適応度を知るには、同等の個体(複数)が生殖可能な状態までどの程度生存したのか、そして、生殖可能な時期まで生存し得た個体(複数)がどの程度子孫を残したかという2つの事実を知らなければなりません。
私もそう思っています。ただし、繰り返し述べたようにこの「適応度=生存率×繁殖率」という定義は「適者生存」が正しいという仮定の元に再定義されたものだとも思っていますが。
>「適者」の定義はともかく、適応度についてはある個体の残した子孫の数で事後的に測るしかないと現時点では考えますが、グールドの『ダーウィン以来』(上・下)が届いたら、よく読んで考えてみたいと思います。これまでの当方の投稿は全く的外れな話かも知れませんので。
私の論点は一言でいうと「適者とは結果的に多産だったものであるという、流木さんの適者の定義は間違っていると思う」です。実際に適応度を計算するときにはどのような作業を行うかについては、私は何も述べていません。
「適者」の定義はともかく…と、いうふうに言われても困ります。
ちなみに、私は『ダーウィン以来』を含めグールドの著作はあまり高く評価していません。この掲示板の過去ろぐを検索すると私が「グールド本なんて百害あって一利しかなし(一利くらいはまぁなくもないでしょう)!!」とかほざいているのが見つかりました(w
>…というか、ここまでの論点はかみ合っているんでしょうか?そこが心配です。
あまりかみ合ってないです。前の投稿の私の書き方が悪かったのかもなぁ。これでかみ合うとよいのですが…。
言うまでもなく、「原理的」といえばは「はらおさむ氏の仮説に基づけば」と、いう意味ですな。
原理さん、私の母親と同い年なんだな。
うちの母さまは、ワトソン&クリックがDNAの二重らせん構造を解明(?)した年に生まれました。うちの父さまは、中島みゆき様がお生まれになった年に生まれました。おかげでたまごはなんとか父母の年は知らざるべからざるなりという孔センセーの教えを守ることができております。
父さまも母さまもたまごのように17歳で加齢をやめてくれていれば年を知るのも簡単なのに…。
と、そんなことはどうでもよくって。
「原理的」って語、けっこう適当によく考えもせずに使いました。「理論的には」とか「本来は」とかの語とちょっとだけ迷ってなんとなく「原理的」って語を使ったのですがあんまり深い考えがあってそうしたわけではないです。ごめんね。>wadjaさん
To 流木さん
>「原理的には計算できるはず」とおっしゃいますが、どういう原理に基づいて計算可能なのでしょう?変数が多過ぎれば実際上計算できないことは判りますが、肝心の「原理」なるものの見当がつきません。よろしければ、ご教示いただけないでしょうか?
個体の持つすべての遺伝形質とそれらが個体の生存繁殖に及ぼす効果と、すべての環境要素とそれが個体の生存繁殖に及ぼす影響がもし完全に分かっていたら、その個体がどれくらいの確率で生き延び子孫を残すかという期待値を計算できるはずだと思います。もちろん現実的にはそんなことは不可能ですけどね。
なお、この場合の「環境要素」には同じ個体群内のほかの個体はどのような形質を持っているのか、例えばハト派なのかタカ派なのかなんていうのも当然含まれています。
でも、確かに「計算できるはず」っていうのは語弊があったのかもしれないなぁ。
私達が実際に計算して求めることができるかどうかに関わらず、「これこれこういう環境下でこういう形質を持っている個体が子孫を残す確率はこれくらいである」っていう期待値は一意的に決まっているはずだという意味です。形質と子孫を残す確率との間はまったくの無関係ではなく、こういう形質を持っている個体「だから」子供の数の期待値はこれくらい、という「因果関係」が存在するという意味です。
いかさまさいころの例でいうと、特定のいかさまさいころAの1の目が何分の一の割合で出るかを知る方法には、「A自体を実際に何回も振ってみる」という方法以外にも、「Aの構造から理論的に求める」という方法もあるはずだということです。
「Aと同じ構造のさいころを何個も振ってみる」というのは、「A自体を実際に何回も振ってみる」の変形バージョンではなく、「Aの構造から理論的に求める」の変形バージョンであると私は考えます。
もしもさいころの構造と1の目が出る確率とがまったくの独立のものであったとしたら、問題となっているAの1の目が出る確率を求めるために、Aと同じ構造の他のさいころをいくつ振ってみたところで意味がありません。
こういう構造のさいころ「だから」これくらいの確率で1の目が出るというふうに、さいころの構造と1の目が出る確率との間に「因果関係」が存在してはじめて、「Aと同じ構造のさいころを何個も振ってみる」ことによってAの1の目が出る確率を求めることができるのです。(因果関係はなくても相関関係さえあれば求めることが出来るだろうけど、そこは深く追求しないでくださいな。)
現実問題として「Aの構造から理論的に求める」ことが実際に出来るかどうかはともかくとして、原理的にはそれが可能である場合にのみ、Aと同じ構造のさいころを何回も振ることは意味を持ちます。
なんだかくどいばかりで分かりやすくない説明になっちゃったなぁ。こんなんでも「原理的には計算できるはず」という表現で私が言いたかったことを大体理解してもらえるとよいのですが・・・。
レスが遅くなってしまってごめんなさいです。ROMは頻繁にしていたんだけど、ちょっち体調が悪くて、文章を考える気力がわかずにいました。
Re 適者多産 投稿者:流木さん 投稿日:11月28日(日)20時56分18秒
>既に述べましたが、適者多産という言い換えは、素人の私の発案ではなく、生物進化を研究している専門家が行っているものです。
それはすでに先の投稿を読んで知っています。ログを探したわけではありませんが著者の中には日高敏隆氏の名前もあったように記憶していますし、その置き換えはおそらくまともな進化生物学の著作の中で行われたものなのだろうとも思っています。
その上で、適者多産という言い換えは不必要なだけでなくむしろしない方が望ましいという私見を述べさせてもらいました。
> まぁ、「そんな言い換えは五十歩百歩で、どのみち説明は必要」という点はご指摘の通りですね。専門用語と日常的な意味とはずれているのがむしろ普通でしょうし、「見ただけで中身が分かるように命名せよ」というのは、どだい無理な注文ですから。
「多産」の場合、日常的な意味がずれていることに加えて、生態学や進化学の分野で比較的頻繁に使われる「多産少子とか小卵多産」などという用法ともずれているのでさらに問題だと思います。
もっとも、流木さんが望むなら私と流木さんの間に限ってなら「適者多産」という語で用語を統一してもかまいません。そこは私にとっての論点ではありませんから。
私にとっての論点は、「適者多産」という場合の「適者」は「結果として多産だった者」ではなく、「環境に適応した者」「多産となることが期待されるような遺伝形質を持った者」のことだということです。「適者だから多産」なのであって、「多産だから適者」なのではないということです。
生物Aをある環境に置いたところ、30%が生き残りました。
生物Bを同じ環境に置いたところ、20%が生き残りました。
生物Cを同じ環境に置いたところ、10%が生き残りました。
それぞれの生物の生き残りをその環境での「適者」と呼ぶことにしよう。
生物Dにも適者はいるだろうが、その割合はやってみなければ分からない。
トンデモさんなら、30、20、10と来たのだから、今度は0%だと言うかもしれんがな、ワッハッハ。
てなことを学者がやっているわけはありません。
これじゃ学問とはいえません。
学者であれば、対照群と生存群を詳細に比較し、各生物の生存群に共通する特徴を見いだそうとするでしょう。
そして、そのような特徴が発見出来れば、生物Dがどの程度その特徴を持っているかで、同じ環境での生物Dの生存率を予想することが出来ます。
議論の流れからは外れているかもしれないけど、こういうことも知らないROMさんもいるかもしれないので、ちょっと起き抜けに。
>では、ある個体の残す子孫の数の期待値はどうやって計算するのでしょうか?同様の形質を持つ個体(複数)が実際に残した子孫の数に基づいて計算するしかないでしょう。実際に残した子孫の数を全く考慮せずに、子孫の数の期待値は計算できないと思いますが、私が知らないだけで、本当はできるのでしょうか?
>ずいぶん昔に、北海道で小学生の男の子が交通事故に遭って亡くなりました。その子のご両親は「私たちの子どもは成績優秀だった」として、順調に進学し、それなりの企業に勤めた場合の生涯所得を計算して、加害者に賠償を求めました。実際の判決もその請求にそった形でなされたと記憶します。この例では、小学生のときに、その亡くなった男の子と同様の成績をとっていた人物が実際にどの程度の所得を得ているかという事実に基づいて賠償額を算定したわけです。「成績優秀であれば、それなりの企業に勤めてそれなりの所得を得るだろう」ということはできますが、実際にどの程度の所得を得ることになるかは、調べてみないと判りません。実際の事例を調べることなく、成績だけを見てその子の生涯所得を推計することはできないと思いますが、本当はそういうことが可能なのでしょうか?
そもそも、生命保険とか損害賠償とかいうものは、「生命」「健康」といった本来ならば交換不可能なものを交換的価値である貨幣に換算する制度ですにゃ。貨幣はあらゆる価値の媒介者でありモノサシであるわけにゃんね。流木の疑問はもっともなものにゃんが、そもそも損害賠償という正義の実現の方法が「原理的に無理」なことをしているわけにゃんね。この原理的に無理なことが僕たちの現実だっちゅうことだにゃ。
で、いまここでも軽く話題になっている進化論と経済学にゃんね。
両方ともコストとリターン、環境との相互作用などのシステムを追求することによって成り立つガクモンなわけで、確かに共通する部分は多そうだにゃ。
経済学においては、とにかく暴力的に価値の基準となる貨幣というお化けがあり、しかもその貨幣価値は信用によって創造されるという、シロウトにはトートロジーとすら思えてしまう(にゃははは)お話にゃんな。
進化において、適応というのは富=価値の増大であるというメタファーを用いて分析することは十分に有益であろうと思われますにゃ。ただ、進化論においては経済学における貨幣のような万能(つまり暴力的)基準ちゅうものはあるのかにゃ?
特に、遺伝子というものは貨幣と違って信用創造なんてできにゃーよな。常に必ず生物個体という「もの」に依存しなければ存在できにゃーわけだ。米本位制みたいなもんだよね。
価値をめぐる言説とか定義とかいうものは、どうもトートロジーに陥りがちなんだよにゃ。価値というものがそもそもそうしたものなのかもしれにゃー。
で、
進化論というのは価値に関する理論であるともいえますよにゃー。もちろん、現代進化論における価値とは遺伝子にとっての価値であり、ニンゲン的な意味での価値ではにゃーのだが、それでも価値としかいいようがにゃー。この、価値に関する理論であるというところが、トンデモさんたちのハートをわしづかみにしてはなさにゃーのだろうね。
適応を、遺伝子にとっての価値増大、と捉えることは特におかしくはにゃーだろう。
そして、一般的に言って、価値というものをトートロジー臭さなしに定義することはなかなかムツカシイといえるにゃ。
横ですが…
>「より生き延びるものほど、より生き延びる傾向にある」ではなく,「(現時点で)より生き延びる(潜在能力を持っている)ものほど,より生き延びる傾向(が予測される)」はトートロジーではありません.
「より生き延びる傾向」が<予測される>のであって、実際には違うかも知れない。これは自明ではなく、検証を<要請>するような命題ですから、上記を読む限りはトートロジーには見えません。
>そうした裏づけがなければ、「生き延びるはず」とか「生き延びるだろう」とか「生き延びるんじゃないかな」とかいう話で終わってしまうでしょう。
どの言明にしても、検証の必要がある主張ではないでしょうか。そうであるなら、トートロジーではありませんよ?
*朱雀さん(Re:適者と適応度の高いもの 投稿者:朱雀 投稿日:11月30日(火)23時47分20秒)
こんにちは。レス、ありがとうございます。
>あんまり同じことを何度も書く気はないのですが,「より生き延びるものほど、より生き延びる傾向にある」ではなく,「(現時点で)より生き延びる(潜在能力を持っている)ものほど,より生き延びる傾向(が予測される)」はトートロジーではありません.
うーん…?その「潜在能力」が「潜在能力」であると判断されるのは、「そうした能力を持つものたちがより生き延びてきた」という観察事実があるからではないんでしょうか?そうした裏づけがなければ、「生き延びるはず」とか「生き延びるだろう」とか「生き延びるんじゃないかな」とかいう話で終わってしまうでしょう。
>...「生存」は「その個体の生存」だけではなく、「その個体が子孫を残す」ことをも含まないと、進化のメカニズムの説明にはならないと思います。ある個体がいかに巧みに生き抜いたとしても、その個体の寿命が尽きたとき、子孫を全く残していなければ、その個体の遺伝子は集団内に広まりようがありません。
そのとおり,言うまでもなく,生残というのは遺伝子集団の生残を含めて表しています.要するに,遺伝子の乗り物はあくまでも個体なので,個体を通じてしか遺伝子は存在せず,生きている個体を通じてしか遺伝子は広まりません.
>「適応度の高いものとはより生き延びるものだ」といってしまえば、「より生き延びるものほど、より生き延びる傾向にある」となってしまい、やはりトートロジーになりませんか?
あんまり同じことを何度も書く気はないのですが,「より生き延びるものほど、より生き延びる傾向にある」ではなく,「(現時点で)より生き延びる(潜在能力を持っている)ものほど,より生き延びる傾向(が予測される)」はトートロジーではありません.
今日はこの程度でおしまい.
*朱雀さん(またまた失礼 投稿者:朱雀 投稿日:11月30日(火)20時36分36秒)
こんにちは。
>「適者生存」という言葉は現代の進化生物学者・生態学者は曖昧な表現なので普通使わない.生物学史や文献学,一般向けの教育でのたとえ,などでは使うかもしれないが,19世紀のお話である.学生の入門にはよいかもしれないが.
「適者」という表現はもちろん使わない.「適応度の高いもの」,「適応的形質をもつもの」なら使う.
確かに、「適者」という言葉は「じゃあ、不適者がいるのか」といった誤解を生みやすいと思いますが、「適応度の高いもの」と言い換えてみても、どの程度理解に資するかは当方にはよく理解できません。いずれにせよ、専門家は「適者」という表現を通常使わないということですね。
>適者生存(Survival of the fittest)=「最適者生存」,でありfittestは最上級,つまりfittness適応度がより高いものという意味.ようするに,適者生存とは適応度の高いものほど,より生き延びる傾向にある,という相関性を言ったもの
ダーウィン本人が「自然選択あるいは最適者生存」といい、「ハーバート・スペンサー氏のいうところの最適者生存という言葉の方がより適切な場合がある」云々と『種の起源』の中で述べている箇所があるわけですが、「適者」はともかくとして、「生存」は「その個体の生存」だけではなく、「その個体が子孫を残す」ことをも含まないと、進化のメカニズムの説明にはならないと思います。ある個体がいかに巧みに生き抜いたとしても、その個体の寿命が尽きたとき、子孫を全く残していなければ、その個体の遺伝子は集団内に広まりようがありません(もっとも、ダーウィンは自然選択の単位を「個体」に求めていましたが、現代の進化論では「遺伝子」単位で考えるようなので、その個体が子孫を残さなくても、その個体と近い血縁関係にある個体の子孫を残すことに貢献することも含めて考えるそうですが)。
ただ、トートロジーに話を戻すと、適者生存という19世紀的な表現を改めて、「適応度の高いものほど、より生き延びる傾向にある」と述べたとしましょう。しかし、もし、「適応度の高いものとはより生き延びるものだ」といってしまえば、「より生き延びるものほど、より生き延びる傾向にある」となってしまい、やはりトートロジーになりませんか?
*匿名希・望さん(仮説は「言える」 投稿者:匿名希・望 投稿日:11月30日(火)18時29分42秒)
こんにちは。
>実際の観察を要求されるのは検証の段階であって、仮説を提唱する段階ではないと思いますが?
そうですね。仮説の段階で検証を求めるのはおかしな話です。ただ、仮説は検証に移ることを前提としているわけであり、いつまでも検証を始めず、「はずだ」と繰り返しているのではしょうがないでしょう。当方が申し上げたのは、そういう意味です。
>逆に言えば、ある形質を持った個体が増加した場合、それがその形質が適応的だったからだと、どうやって「言える」のでしょうか?
確認しておきたいのですが、当方が申し上げたのは、「多産な個体を適者と呼ぶ」「ある個体がどの程度適者なのかはその個体が残した子孫の数によって測られる」ということです。形質が適応的云々という話は当方からはしていません。
>それには単に「増えたから」というだけでない「原理」を介在させないと不可能ではないんでしょうか?
理由はともあれ、より多く子孫を残した個体の遺伝子はその個体が属する種の中で相対的にシェアを高めるわけです。集団における遺伝子の頻度が変われば、それは進化でしょう(まぁ、世の中には表現型だけを見て進化と考える方もおられるようですが)。
>#「増えたから適応的だったんだ」と思考停止してしまえば「増える者が増える」というトートロジー以外の何物でもない
仮説として「これこれの性質を持つ個体は生存率が高いはずだ」とか「子孫をより多く残すはずだ」といっても、その検証は実際の生存率や実際に残した子孫の数で事後的に行うしかありません。そうした検証を経ずに、「はずだ」というだけでは観念論以外の何物でもなくなりそうに思えますが?
だのう。
>>>
そういうわけで,現時点,現環境での適応度なら生命表等から測定可能なので,生態学者は野外においても適応度を測定し,たとえば害虫対策ならその高い適応度に応じた対策,絶滅危惧種ならその低い適応度に応じた対策を練り,日夜励んでいるのです.
>>>
現時点、現環境での適応度なら測定可能だー?
じゃあ 適応度の計算式なんぞは
進化論に使うのは無駄と言うことだろうが。
馬鹿ではないか。
ほれ、
シロナガスクジラの適応度を出せよ。
1950年と2000年でな。
適応度の計算式 投稿者:流木 投稿日:11月29日(月)19時19分41秒
(lx × mx × e^−rx)を、期間αから期間ωまで集計したものが1に等しくなるという式ですね?これは、集団の大きさが一定であれば、つまり、増加率がゼロであれば、生殖開始時期から生殖終了時期までの生存している個体数×平均的な産卵(出産)数と同じですね?
・・・・・・・・・・・
そのとおり,適応度とはあくまで概念上のものですが,具体的には生涯繁殖成功度(Lifetime Reproductive Success, LRS)をさします.Lifetime Reproductive Successというタイトルの,多くの生物で測定された実例を紹介した本があります.
さて,論文の原稿も北大に郵送が終わったところで,ちょっと一息,ひとこと言わせていただきましょう.
「適者生存」という言葉は現代の進化生物学者・生態学者は曖昧な表現なので普通使わない.生物学史や文献学,一般向けの教育でのたとえ,などでは使うかもしれないが,19世紀のお話である.学生の入門にはよいかもしれないが.
「適者」という表現はもちろん使わない.「適応度の高いもの」,「適応的形質をもつもの」なら使う.
適者生存(Survival of the fittest)=「最適者生存」,でありfittestは最上級,つまりfittness適応度がより高いものという意味.ようするに,適者生存とは適応度の高いものほど,より生き延びる傾向にある,という相関性を言ったもの.
あえてこれを現代風に具体的に書かせてもらうと,
最も適応度の高いもの(適応的形質=競争力が高く,現在の環境で高い生残率を保証する形質=をもち,現在の環境で高い生涯繁殖成功度が得られている個体,遺伝子集団等)ほど,より高い確率で生残していくことが予測される.
そういうわけで,現時点,現環境での適応度なら生命表等から測定可能なので,生態学者は野外においても適応度を測定し,たとえば害虫対策ならその高い適応度に応じた対策,絶滅危惧種ならその低い適応度に応じた対策を練り,日夜励んでいるのです.
蛇足 進化論はトートロジー,たとえばこんなものか..
トートロジー:
朱雀:お兄ちゃん,天才ってどういうこと?
兄の玄武:アホの反対のことやで.
朱雀:じゃあ,アホってなあに?
玄武:天才の反対のことや.そんなこともわからんのか,あほ.
朱雀:ふーん.
こんなことでは困ります.
模範解答例:
朱雀:お兄ちゃん,天才ってどういうこと?
兄の玄武:たとえば,お兄ちゃんのようにな,xxx大学でてな,xxxに勤めているような人で,人から尊敬される人のことや.おまえも,兄ちゃんを見習いや.
朱雀:じゃあ,アホってなあに?
玄武:たとえばXXXさんのようにな,人の言うことが全く理解できない人のことや.こういう人はな,人から相手にされんようになるんやで.
朱雀:ふーん.
このように,よい子のみなさんは具体的な例をあげて説明するようにしましょうね.
さて,そろそろ明日の授業の準備にでもかかるか..
>適応度というのはそもそも「(その生物が現在置かれている)ある特定の環境における適応度」の事なので、
>環境の変化というのは最初から適用範囲の外に位置しているのですよ。
なるほど、御指摘有り難うございます。
でもちょっと複雑ですねー、生物の「もろさ」の度合いは数値化出来ないんですかねー
管理人様のブログ「NATROMの日記」の本日分にあるポール・クルーグマンのご紹介
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/
「わたしは経済学者ですが、一方でいわば進化論おたくでもあるんです。」
ふーん、流木様のような方がアメリカにもいるんだ
・えめさんへ
>適応度と降水確率 投稿者:えめ 投稿日:11月30日(火)16時49分55秒
>もう一つの見方、環境の変異に対する生存率ではお互いに片方の存在に依存している程適応度が下がる。
>自分の考えでは適応度は単純にひと括りに出来ないはずですがネー。
適応度というのはそもそも「(その生物が現在置かれている)ある特定の環境における適応度」の事なので、
環境の変化というのは最初から適用範囲の外に位置しているのですよ。
ある抗生物質Aに耐性を持つ想像上の細菌aの抗生物質Aが投与された環境での適応度は、耐性以外は変わらない細菌の原aよりも高い。
と実際に細菌aを自然界で発見するまでもなく予想できると思いますが?
・流木さん
>これまでの整理 投稿者:流木 投稿日:11月30日(火)12時51分15秒
>自分なりに整理してみると、
>「子孫を残さずに死んでしまったある個体について『生きていれば子孫を数多く残せたはずだ』といえるのは、
>同等の形質を持った個体についてそのような事実が既に観察されている場合であり、
>そういった観察抜きで『残せたはずだ』といってもしょうがない」
>というのが、現時点での考えです。
実際の観察を要求されるのは検証の段階であって、仮説を提唱する段階ではないと思いますが?
逆に言えば、ある形質を持った個体が増加した場合、それがその形質が適応的だったからだと、どうやって「言える」のでしょうか?
それには単に「増えたから」というだけでない「原理」を介在させないと不可能ではないんでしょうか?
#「増えたから適応的だったんだ」と思考停止してしまえば「増える者が増える」というトートロジー以外の何物でもない
適応度を考えた時点で戦争以外に候補に挙がったのが「本日の降水確率」。
降水確率は計算できるが、その地方に自分がいたとして、その「場所」で自分が雨に降られるとは必ずしも決まっていない(傘さしている、とかじゃない。その地方でも『所により』降らない場所が有る時も有る)。
この場合降水確率は適応度、で確立の求め方は過去の観察から求められた気象データの積み重ねより求められた幾つかの計算式(‥だと思う)
だーかーらぁー具体的なデータをだせっ、と言われても出せないけれど、それぞれの個体が、同じ種内で生き延びるのに長けているか、の物差しくらいは出せるのではないか?なと
だがそれは個体に対し必ずしも当てはまらない。
優れた兵(勇敢だとはかぎりませんよ)が必ず生き延びる訳ではないように、又降水確率が高くても、必ずしも雨に降られる訳ではないように、不確定な部分は必ず存在し、それは個々にとっての運命を大きく左右する。
だからと言って適応度を含め、それらの計算自体無意味だとも思えません。適応度の高い生物が生き延びる確立は科学として生物の進化を考える時重要な意味を持つと考えます。
適応度についての疑問はむしろ当てはめる「単位=スケール」の方
相互に不可分なほど依存している種は、互いの関係に絞って見ると依存の度合いが高い方が適応度が上なんだけれど、もう一つの見方、環境の変異に対する生存率ではお互いに片方の存在に依存している程適応度が下がる。
自分の考えでは適応度は単純にひと括りに出来ないはずですがネー。
話はころりと変わって
「進化大全」(カール・ジンマー著 光文社発行 5800円だが、これは《安い》と見た)を借りてちょっと読んだ所ですが‥
いいねー、「進化論」がダーウイン以前から、又ダーウイン当人の掌によって如何に熟成されていったかを知ることが出来ました。
感想は「良かったねぇダーウイン見たいな人が始めに発表して」でした。もしダーウインが軽率な性格だったら、進化論は凄まじい突っ込みと批判の嵐に吹っ飛ばされて、進化についての探求は半世紀は遅れていた可能性も有ると感じましたね(いつかは誰かが発表し、そしてそれはいつか認められるのだろうが)
送った側さん
>反証が成立した場合は それは「間違った理論」ではなく、「理論ではない」
>となる、ということでしょうか?
そうですね、少なくとも「棄却される」ことは間違いないのですが、「棄却された考え方・方法論」を以後どう呼ぶか?というのは、その人の価値観に委ねられてしまう問題のように思えます。
「原理」と言うときには、たとえば因果律のように「過ぎた時間は戻せない」など、この世界の根本的な特性を表す。しかしそれも、ある時代背景においては「いや、過ぎた時間だって戻せるかも知れない」という言明にも説得力があり、検証され尽した結果として原理になったのではないか?というのが私の考察です。
「理論」は、原理に基づいて導かれるものでしょうから、公理と定理の関係に似ていますが、公理はアプリオリであり、トートロジーだったりするのに比較して、原理と理論の関係は、両者がアポステリオリなのではないかな?と考えたのです。
つまり二つの呼び方は、検証の「され具合」に依存する、かなり恣意的な「呼称」なのではないだろうか?ということです。(勝手な考察ですので、間違いかも知れません)
*送った側さん(今読んでみた限りでは 投稿者:送った側 投稿日:11月30日(火)02時21分35秒)
こんにちは。
>ただ、背景に線が入っているので読みにくい気がしました。
ご指摘、ありがとうございます。IEだと確かに見づらいようですね。モジラとかネットスケープだと、平気なんですが…。背景のあの横線は単なる装飾ですから、実用性で考えれば外した方がいいかも知れませんね。
自分なりに整理してみると、「子孫を残さずに死んでしまったある個体について『生きていれば子孫を数多く残せたはずだ』といえるのは、同等の形質を持った個体についてそのような事実が既に観察されている場合であり、そういった観察抜きで『残せたはずだ』といってもしょうがない」というのが、現時点での考えです。
ただ、ご指摘いただいた「原理的には」云々は、そうした観察事実を踏まえてという意味ならば、その通りだと思います。先に述べたように、交通事故で亡くなった小学生の遺失利益の計算は、小学生のときに同等の成績だった人たちがどれぐらいの所得を得ているかに基づいてなされていますし、それを「原理的に」とおっしゃるのであれば、何の異論もありません。
当方が違和感を覚えるのは、そういった観察事実なしで「優れた形質」だとなぜ判断できるのか、あるいは、さらに進んで「生存率が高いはずだ」とかいえるのかという点です。恐らくそういう意味(観察事実抜きでいえる)でおっしゃったのではないと思いますが、もし、そうならば、そういえる原理なりを教えていただきたいと思っているわけです。
なお、「自然選択説にとって適応度の計算が不可欠」と考えているわけではありません。ただ、適応度という以上は数値的に計算可能だろうと思っているだけです。まあ、実は素人にありがちな「ないものねだり」(「進化論でこれからどんな生き物が登場するか予測してみろ」とかと同様の)であり、専門家にいわせれば「そんな計算はできない」というのが常識かも知れませんが。
>それらは全て環境との関係で結果的に判明するもので
これは進化論で扱う「適応度」は
ということ。
「兵の能力」は条件を決めれば計算はできると思います。
「生物の適応度」はそれと同じようには扱えない
前もっては決められない
と思う、ということ。
>■理論→かなり有力だけど、まだ検証途上にある知識。限定的には正しい知識。
とすると反証が成立した場合は それは「間違った理論」ではなく、「理論ではない」
となる、ということでしょうか?
これは反論じゃなくて、質問ね。
適応した、というのは現実に生存し子孫を残したこと
適応度 とはその表現型(あるいは遺伝子型)が子孫を残す数
つまり、その表現型の増加率
つまり、あらかじめ「このような形態が適応するはず」
として計算すべきものではない
と思います。
優れていそうな兵
と考えても、それは標的にされ易かったり、前戦に送られ易かったりで死亡率が高いかもしれない
弱くても仲間に好かれて守られるタイプに利点がある場合もあるでしょう
それらは全て環境との関係で結果的に判明するもので
あらかじめ算出できるものではないと
自分は今のところ思います。
けーさんは嫌いだ。
極論ですがね。適応度については ずばり「歩兵が戦争で生き残る(はず)確立」の確立
とでも考えた方がすっきりするんではないですか?
歩兵の個々の能力については生まれつきの差違(運動能力・性格)は見られるが、戦闘を重ねても「変化」しない=理想歩兵とでも定義します。
歩兵の装備は歩兵の生き延びる可能性を上げるでしょう。ただし、戦闘地域の地理条件にも左右されるし、戦闘形態(ゲリラ戦などの形態や補給・援護等戦闘に拘わる作戦全て)にも強く影響される。
戦闘前に兵士が生き延びる確立(損耗率)はそれぞれの因子に適当な値を入れれば「計算」が可能なはずだ(実際計算しているだろう、普通は)更にそれに個々のデータを加えて兵士個人が生き残る可能性も計算出きる。これは適応度
問題は計算できるのと実際そうなるのは別と言う事。戦闘が済んだとき生き延びている歩兵は「適応」したと考えれば、全体に適応度の高い兵士は生き延びる可能性が高い傾向にあるが、兵士個々に当てはめると適応度の高さ=適応とは言い切れない。
適応度100%の、戦いの申し子見たいな歩兵が補給のトラックにはねられて死んだり、逆に鈍くさくてろくに装備も扱えない、更に1番戦闘の激しい地域に派遣されたのが幸運の連続で生き延びたりと様々なパターンが有るでしょう。(そりゃ映画になるくらい色々)
と、自分としてはこのような解釈ですが。
適応度を計るには様々なレベルと言うか、角度があって、例えばある種のランとスズメガの関係のように相互に依存を深めている種などは適応度が高いのか低いのか‥
適応度にどういう基準が有るのか教えてくれませんかね。
私なりの解釈かも知れませんが。
原理も理論も、どちらもアポステリオリな知識に属する、と思うのです。どちらも、検証を経て採用される知識ではある感じ。
■原理→ほとんど検証の必要のない知識。十分普遍的な正しさを検証され尽した知識。
■理論→かなり有力だけど、まだ検証途上にある知識。限定的には正しい知識。
こんな感じじゃありませんかね。
>原 理(はら おさむ、1953年 - )は、政治学博士。玉川大学農学部卒業。ハワイ州立ハワイ大学博士課程修了。現在、県立広島女子大学講師。
読んでてひっくり返りそうになった!>wadjaさん…
今の投稿の後半部分は、流木さんへではなく、他の人へですね。
流木さんて、私ととても似た考え方をしているようです。
サイトの方を見たときもそう思いました。
ただ、背景に線が入っているので読みにくい気がしました。
自分の目が疲れているせいだったのかもしれませんけれど。
一見不利と思われる表現型が増えている(適応度が高い) ケースについて
何故そうなのかを考えるという場合もあるらしいことを指摘しておきます。
了解しました。
ここがまじめな人たち(もちろん良い意味で)の場であることも。
私は自然淘汰の論証に於いて適応度が計算できなくても構わないと思ってます。大まかにどっちが有利程度が言えれば十分かと。
ここから先は完全にwadjaの「原理」になります。元のたまごちゃんの「原理的」とは異なる可能性があります(いや、ほら、謎の美少女だから)ので、そのつもりでお読みいただければと思います。
仮にある完全にコントロールされた環境下で、αという適応度を実現した大腸菌の個体Aがいたとします。この大腸菌とは別の個体で、遺伝的には全く同一の大腸菌Bを、同一の環境下で培養しようとしていたのですが、そそっかしい研究員が大腸菌Bの培養中に温度管理を間違えてしまい、大腸菌群Bを全部殺してしまいました。
この場合、大腸菌Bの観察された適応度は0ですし、一旦死滅したものを生き返らせて実験するわけには行きませんから、当初想定された環境下でのBの適応度は永遠に謎です。しかし、想定した環境下での大腸菌Bの適応度は、原理的にはαと推定できると言えないでしょうか?
実を言うと、この「原理的」の使い方が妥当なのかどうか、wadjaにはわかりません(笑)
なんか、「理論的には」と言ったほうがしっくりくるような気もするのですが、じゃあ「原理的」と「理論的」はどう違うんだと突っ込まれても応えられない。
MS Bookshelf Basic Version 3.0によりますと、
げんり【原理】
1 多くの物事がそれによって説明することが出来ると考えられる、根本的な△法則(理論)。
用例・作例
アルキメデスの―
2 多くの人がそれに従うことが求められる、基本的な考え方。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
で、おんなじだけど、Wikipediaには
原 理(はら おさむ、1953年 - )は、政治学博士。玉川大学農学部卒業。ハワイ州立ハワイ大学博士課程修了。現在、県立広島女子大学講師。
なんてのもあります(何が言いたいんだか…)。
*wadjaさん(流木さんの疑問に対する疑問 投稿者:wadja 投稿日:11月29日(月)22時40分49秒)
こんにちは。
当方は、明確な見解があるわけではないのです。ひょっとすると、前後で矛盾しているかも知れません。議論を続ける中で自分の考えが無意識に変わるというのはそう珍しいことではありませんからね。間違っていれば、ここでその誤りを正していただける機会を得たわけですから、この先間違った考えをいだいたまま過ごさずに済むわけです。大いにありがたいことです。まぁ、多分、間違いは当然あるんでしょうが。
「原理的には測れるはず」というご意見に対しては、「その原理ってどういう原理ですか?」という疑問を抱いています。
地動説の正しさは「原理的には」年周視差その他で測れるはずでした。これは地球が太陽の周囲を回っているという地動説のモデルから導ける結論ですから、「原理的」と呼んで差し支えないでしょう。ただ、ティコ・ブラーエの時代には天体観測は肉眼で行っており、年周視差は小さ過ぎて確認できなかったわけです。これは技術的に不可能だったわけであり、原理的に不可能ということとは明確に区別すべきことです(両者の区別がつかないと、「望遠鏡が発明されるまで地動説は反証不可能だったから科学的な仮説ではなかった」といった奇妙な話になるでしょう)。
>実際に、子孫を残していなくても、[命題A]優れた形質を持っている個体は死なずにいれば子孫を数多く残した「はず」だといってよいのか、そうではなくて、[命題B]「実際に残した子孫の多さに応じて適者の程度を測る以外にないのでは?」
なぜ、上記2命題A・Bの間をつなぐのが、「そうではなくて」になるのかしら…?「実はAなんだけど、Aによる適応を数値化する手立てがないので、Bで測る以外にない」。というのには、流木さんも異議はない筈だと思ってますが、やっぱたまごちゃんの「原理的には計算可能」にこだわってます?。
まあ、「原理的には計算可能」の発言の真意は、永遠の17歳ご本人にお聞きする以外ないと思います(おーい出番ダヨ!)。でも彼女の発言の流れからして、流木さんの例示された、交通事故の被害者の逸失利益の推定の如き方法を、「原理」から除外する理由も無いように思うのですが?
>ある個体がどの程度「適者」と言えるかは、原理的には事前に計算できるはずの類のものだと思います。しかし、環境側にも個体側にも変数となるものが多すぎるので実際には計算できないというだけのことでしょう。
wadjaは、「環境側にも個体側にも変数となるものが多すぎる」とは、ある個体の事前の期待値を似たような環境の似たような他の個体の事後の適応度を元に計算しようとしても、個体も環境も完全に一致することはありえないので正確には計算できない、ということを説明するものだと思いました。
*匿名希・望さん(それは誤りだとおもうけど 投稿者:匿名希・望 投稿日:11月29日(月)19時34分37秒)
こんにちは。まず、ご報告ですが、ご紹介いただいたグールドの『ダーウィン以来』はネットの書店から本日発送完了とのメールを受け取りました。2、3日中には手元に届くと思いますので、早速読んでみますね。
さて、当方の先の投稿は、「子孫を残さなくても適者といえる」とのご意見に対して私見を述べたものです。実際に、子孫を残していなくても、優れた形質を持っている個体は死なずにいれば子孫を数多く残した「はず」だといってよいのか、そうではなくて、「実際に残した子孫の多さに応じて適者の程度を測る以外にないのでは?」という疑問を述べました。
よのー。
捕鯨で減ったシロナガスクジラが
捕鯨禁止で増えたミンククジラのせいで
増えないではないか?
適応度の計算式 だー?
そんなインチキは馬鹿馬鹿しくないかね?
・流木さん
>「はず」と実際 投稿者:流木 投稿日:11月28日(日)21時48分23秒
>「力が強い」「逃げ足が速い」「感覚器官が鋭敏」などといったことは、
>ある個体が生きていく上では有利に働くでしょう。
>そういう個体は、生殖可能な時期まで生き延びる可能性が高まるから、
>そのような個体の子孫が集団内で相対的に大きなシェアを占める
>ようになるだろうという推論はできます。
>
>ただ、個々の個体の持つある形質が本当に子孫を残す上で有利に働いたのか否かは、
>結局のところ、そのような形質を持つ個々の個体が実際にどの程度子孫を残したかで測るしかありません。
>相対的に多くの子孫を残せる「はず」だといっても、
>実際にそのような形質を持つ個体の子孫が集団内で占める割合が低ければ、
>その「はず」という見通しは外れだったということになります。
それこそが正に「自然淘汰」を検証する試みそのものだと思うのですがどうでしょうか?
そういう検証を経て、「有利な形質を持った者が子孫を増やす」という事が観測されたからこそ、
今現在、ダーウィンの進化論は正しいと推測されているのではないですか?
「実際に計測しなければ有利不利は判らない」というのであれば、
ドーキンスが眼の進化を説明する為に使ったモデルも無意味になってしまうと思いますが?
*朱雀さん(適応度,測るのがプロの仕事です. 投稿者:朱雀 投稿日:11月29日(月)01時51分20秒)
こんにちは。
>生まれた個体がx齢まで生存する率をlx,x齢での産卵(子)数をmxとする.lxとmxと内的自然増加率の関係を表すLotka(1925)の式は,...集団が安定齢分布の状態にあり,繁殖開始齢と繁殖終了齢をそれぞれα,ωとすると,この式は
ω
Σlxmxe∧-rx = 1
α
ここでrは内的自然増加率である.
(lx × mx × e^−rx)を、期間αから期間ωまで集計したものが1に等しくなるという式ですね?これは、集団の大きさが一定であれば、つまり、増加率がゼロであれば、生殖開始時期から生殖終了時期までの生存している個体数×平均的な産卵(出産)数と同じですね?
そうであれば、上記の式が意味するのは、ある集団が生涯に産んだ子孫の数ということではないでしょうか?誤解しているようでしたら、お時間のあるときにでもご指摘いただけると助かります。
そんな適応度の計算何回やっても無駄だ。
古新聞を根拠に未来や化石時代を推定しても
推定でしかないんだ。
・・・・と思う、と同列だ。
数式はどうでも良いから
そこにいれる
その数値自体の根拠を書いてみな。
またまた横から失礼,さきにのべたように,適応度なら計算でもとめられるので,多くの生物で計算されています.
以下,代表的な生態学の教科書である伊藤・山村・嶋田「動物生態学」より
「生まれた個体がx齢まで生存する率をlx,x齢での産卵(子)数をmxとする.lxとmxと内的自然増加率の関係を表すLotka(1925)の式は,...集団が安定齢分布の状態にあり,繁殖開始齢と繁殖終了齢をそれぞれα,ωとすると,この式は
ω
Σlxmxe∧-rx = 1
α
ここでrは内的自然増加率である.この内的自然増加率は,集団遺伝学の分野ではマルサス係数と呼ばれ,自然淘汰による進化を論じる際の適応度の尺度として使われてきた.このrと世代時間Tをいろいろな生物でしらべてみると,両者の間には負の相関があり...」
マルサス係数のもとめかたは先日省略してましたが,これまで何度も出されている「適応度=生存率×繁殖率」というのはマルサス係数そのものです.
「Arnold & Wade (1984a,b)の方法より,野外で自然選択力を推定する手順.この方法が適用されるには適応度のデータが個体ごとに取れることが必要で,そのためには個体識別可能で集団があまり分散しない生物が望ましい.たいていの生物では,一生のうちの一部の期間でしかこの方法は実行できず,生涯にわたる研究例は少ない.
1.集団中の個体を識別しておく.
2.生活史をいくつかに区分する.
3.各区分kで各個体xごとに形質iの値と適応度の要素となるデータWkxを取る.
4.その区分で,各個体ごとの適応度 Wkxと形質iのデータから回帰係数βikを求める.形質の選択差(選択されたグループの形質iの平均値ー形質iの集団平均値)と選択強度(選択差の標準偏差単位)も求める.
5.上記3.4.をすべての区分で繰り返す.
6.全区分にわたる適応度は
ΠWki
k
で,また全区分で形質にかかる選択力は
Σβikで求められる.
k
7. 形質iにかかる自然選択力は,全区分中もっとも大きい回帰係数と最大の選択強度を示した生活史区分でもっとも強いと評価される.」
他にも言いたいことはたくさんありましたが,原稿抱えているので今日はこれだけ.
流木さん、1の目が出る確立が出る確立を1/5に細工したサイコロとは、実は正20面体のサイコロなのです。20の面の内4つが「1」
おっとこいつは他言無用だぜ、細工がばれた日にゃー鉄火場に血の雨が降らぁ。
「適応度=生存率×繁殖率」とすれば、ある個体の適応度を知るには、同等の個体(複数)が生殖可能な状態までどの程度生存したのか、そして、生殖可能な時期まで生存し得た個体(複数)がどの程度子孫を残したかという2つの事実を知らなければなりません。そういう観察事実抜きに、生存率や繁殖率は計算できません。
そして、どの形質が生存率をどの程度左右したかを調べるとなると、条件を一定に制御できない限り、これは大変でしょう。「生き延びるはず」とか「生き延びるんじゃないか」とかいう以上のことをいうことができるとも思えません。推論としてはそれでもよいのかも知れませんが、「適応度」の計算に限定して考えるなら、それでは全く不充分ではないかと思います。少なくとも「はず」では数値化はできないでしょう。
「適者」の定義はともかく、適応度についてはある個体の残した子孫の数で事後的に測るしかないと現時点では考えますが、グールドの『ダーウィン以来』(上・下)が届いたら、よく読んで考えてみたいと思います。これまでの当方の投稿は全く的外れな話かも知れませんので。
…というか、ここまでの論点はかみ合っているんでしょうか?そこが心配です。
いま、コインを投げて、表が出たら100円もらえて、裏が出たら0円というゲームがあったとします。このゲームにおける獲得賞金の期待値は、コインの表と裏が出る確率が各々1/2であるとすれば、100×1/2+0×1/2=50(円)となります。この例では、期待値を計算するには、その事象の発生する確率が判っていなければなりません。
では、ある個体の残す子孫の数の期待値はどうやって計算するのでしょうか?同様の形質を持つ個体(複数)が実際に残した子孫の数に基づいて計算するしかないでしょう。実際に残した子孫の数を全く考慮せずに、子孫の数の期待値は計算できないと思いますが、私が知らないだけで、本当はできるのでしょうか?
ずいぶん昔に、北海道で小学生の男の子が交通事故に遭って亡くなりました。その子のご両親は「私たちの子どもは成績優秀だった」として、順調に進学し、それなりの企業に勤めた場合の生涯所得を計算して、加害者に賠償を求めました。実際の判決もその請求にそった形でなされたと記憶します。この例では、小学生のときに、その亡くなった男の子と同様の成績をとっていた人物が実際にどの程度の所得を得ているかという事実に基づいて賠償額を算定したわけです。「成績優秀であれば、それなりの企業に勤めてそれなりの所得を得るだろう」ということはできますが、実際にどの程度の所得を得ることになるかは、調べてみないと判りません。実際の事例を調べることなく、成績だけを見てその子の生涯所得を推計することはできないと思いますが、本当はそういうことが可能なのでしょうか?
>自分の間違いを認めないで済むのは、ここのやり方なのかな。
いいえ。
まず、自分の間違いを認めるか認めないかは、個人個人の判断です。掲示板の判断じゃない。
そして、自分の間違いを認めないで「済ます」ことが出来たかどうかは、その人のその後の人生が結果を出します。
その人のその後の人生の結果を引き受けるのは、その人自身しかあり得ません。
(ちょっと別の人のことを横目で伺いながら...。)
自分の覚えたいことを記憶にとどめるひけつは、例えばメモ用紙に書いて、時々見直すことです。
手近にメモ用紙が無いときは、
公共的であるべき掲示板をあまり個人のメモに使ってはいけないんだけど、たま〜に、だったら、
ボクはニュートン力学をわかってなかった!
と書いたりしても、許されるでしょ♪
*wadjaさん(物理I 投稿者:wadja 投稿日:11月28日(日)21時31分34秒)
こんにちは。
>最近のTV番組の血液判断、中には製作者の良心を感じられるものも無いではない。と、個人的には思ってます。
どうなんでしょう?良心というより、「あとで責任を問われないように、一応お断りを入れた」というところではありませんか?つまり、血液型性格類型論に基づいて具体的な問題が起きて、訴訟にでも発展した場合、「いや、ちゃんと『科学的に根拠はない』とテロップに入れましたから」と逃げるための布石なんじゃありませんか?
実際、例の足裏診断について肯定的に放送したことで、法の華三方行に騙されたという人たちが番組制作者を訴えたりしていますからね。
こういうと関係者には申し訳ないのですが、結局のところ、視聴率が稼げれば、番組の内容が本当かどうかなんてどうでもよいというのが制作側の本音ではないかと思います。番組スタッフが血液型性格診断を信用しているとかいないとかではなく、ご本人たちは全く信じていなくても、視聴率が稼げると思えば、そういう番組を作ろうという声は出てくるでしょう。いくら良質な科学番組を作っても、視聴率が低迷すればスポンサーがつかなくて、番組は打ちきりですからね。特定の食品などを取り上げて、「脅威の○○パワー!」とかやっている方が番組としては安泰でしょう。
「力が強い」「逃げ足が速い」「感覚器官が鋭敏」などといったことは、ある個体が生きていく上では有利に働くでしょう。そういう個体は、生殖可能な時期まで生き延びる可能性が高まるから、そのような個体の子孫が集団内で相対的に大きなシェアを占めるようになるだろうという推論はできます。
ただ、個々の個体の持つある形質が本当に子孫を残す上で有利に働いたのか否かは、結局のところ、そのような形質を持つ個々の個体が実際にどの程度子孫を残したかで測るしかありません。相対的に多くの子孫を残せる「はず」だといっても、実際にそのような形質を持つ個体の子孫が集団内で占める割合が低ければ、その「はず」という見通しは外れだったということになります。むろん、そのように結論を下すには、1つだけの事例では不充分ですから、数多くの事例を調べる必要があります(サイコロを投げるのとは違って、条件を同一にするのは事実上できないと思いますが)。
生物の進化は、ある個体が実際に生き延びて子孫を残したという事実に基づくのであり、「あの個体は生き延びていたら多くの子孫を残したはずなのに」と述べてみても始まらないように思うのですが、そういう理解は誤りなのでしょうか?
お許しを、おもわず突っ込みたくなってしまった。
>「期待」という言葉は「起きてほしいと願う」といったニュアンスを伴いますが、「期待値」とか「期待物価上昇率」といった場合には、そういう意味は込められていませんね
今の日本では少なくとも期待されてそうですね(笑
という冗談はさておいて。
>数千回・数万回とサイコロを投げ続けた場合に、1の目が出た割合(頻度)が1/6に近づくという意味です。
人生は一度きり、そう何度も繰り返して試行できるものでは無いと。
真の適応度が原理的に計算できるかどうかには、余り拘らない方が良いと思います。
横レスで申し訳ありませんが。
wadjaは文系だったので、高校では物理I(殆どニュートン力学のみ。質点しか出てこず、モーメントとかは範囲外だった)しかやってません。でも、おずおずさんの話を読んでて、物理Iの計算問題は、検算のときかならず単位をチェックしてたのを思い出した。懐かしい(遠い目)。
ところで運動の第一法則は、ニュートン以前にガリレイやデカルトが不完全ながら発見してたんですね。知らんかった。
http://homepage1.nifty.com/noric/Physics/Newton/1_LawOfMotion.htm
最近のTV番組の血液判断、中には製作者の良心を感じられるものも無いではない。と、個人的には思ってます。一応テロップで「科学的な根拠は無い」と流してみたり、有識者数人に意見を聞いてマジョリティー意見としてはは血液型性格判断を否定して見せたり。能見のアンケートの統計学的な無意味さを指摘したものもありましたね。まあ、少しは昔よりよくなったかな?
ただ、その理由まで詳細に検証するところまで踏み込まないので、そのあとの芸能人のコメントで全部ぶち壊しになるのは谷庵さん紹介の記事のとおり。結局「やっぱり関係ありそうだ」で終わってるものが多いかな?
*たまごちゃん (^-^)ノさん(たとえ話2 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:11月28日(日)14時14分57秒)
こんにちは。
>1の目が1/5の確率で出るように重心を細工したいかさまさいころと、普通のさいころを作りました。
そしてそのいかさまさいころと普通のさいころを10回振って見ました。
1の目が1/5の確率で出るようにどうやって細工したのかは判りませんが、10回投げただけでは何ともいえないでしょう。「いかさまなしで作られたサイコロの1の目が出る確率は1/6」だというのは、数千回・数万回とサイコロを投げ続けた場合に、1の目が出た割合(頻度)が1/6に近づくという意味です。
>さて、1の目の出やすいさいころはいかさまさいころと普通のさいころのどちらでしょう?
1の目が出る確率を1/5にできたのなら、数多く投げ続ければ、いかさまサイコロの方が1の目は出やすいといえるでしょうね。ただ、10回程度投げただけではいかさまなサイコロか否かは判らないと思います。
なお、ある原理に基づいてサイコロの重心を細工して、1の目が出る確率を1/5に調整できたとして、そのもとの原理はどうやって確立されたのでしょうか?「これこれの原理に基づけば、サイコロの1の目が出る確率は1/5に調整できたはずだ」といっても、それが本当なのかは結局のところ、実際に投げてみて確認するしかありません。そのサイコロを投げる以前に、そのような検証がなされているからこそ、まだ投げてもいないサイコロについても「1の出る目を1/5に細工した」と安心していえるわけです。
「適者」がいれば「不適者」もいるのかといえば、そうではないと思います。とりあえず、ある個体が子孫を残せば、その個体の遺伝子はその個体の属する種の中に広まっていきます。各個体は残した子孫の数に応じてそれなりに適者なのです。
適応度というのは、残した子孫の数に基づいてある個体がどの程度適者なのかを測る尺度であり、適者か適者ではないかを分けるものではありません。
*たまごちゃん (^-^)ノさん(トートロジーって何語? 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日:11月28日(日)14時11分52秒)
こんにちは。レス、ありがとうございます。
>話しの本筋に入る前に、他の方もおっしゃっていることですが「適者生存」を「適者多産」と言い換えるのはちょっと問題があるように思います。
既に述べましたが、適者多産という言い換えは、素人の私の発案ではなく、生物進化を研究している専門家が行っているものです。もちろん、「適者生存は誤解を招くから適者多産と言い換えろ」というどこかの誰かさんを思い出させるような意図から出たわけではなく、「適者」を先に引用したあの方のように誤解する人がいるので、説明の便宜として「多産」と呼んだまでだと考えます。
まぁ、「そんな言い換えは五十歩百歩で、どのみち説明は必要」という点はご指摘の通りですね。専門用語と日常的な意味とはずれているのがむしろ普通でしょうし、「見ただけで中身が分かるように命名せよ」というのは、どだい無理な注文ですから。例えば、「期待」という言葉は「起きてほしいと願う」といったニュアンスを伴いますが、「期待値」とか「期待物価上昇率」といった場合には、そういう意味は込められていませんね。
>「適者」とは結果的に多くの子孫を残したものではなく、残す子孫の数の「期待値」が高いものです。
ある個体がどの程度「適者」と言えるかは、原理的には事前に計算できるはずの類のものだと思います。しかし、環境側にも個体側にも変数となるものが多すぎるので実際には計算できないというだけのことでしょう。
「原理的には計算できるはず」とおっしゃいますが、どういう原理に基づいて計算可能なのでしょう?変数が多過ぎれば実際上計算できないことは判りますが、肝心の「原理」なるものの見当がつきません。よろしければ、ご教示いただけないでしょうか?
大文字ナンさんには、そんな意図はありませんでした。ボクは知っているのです。
単に、「間違った」、だけなのです。
自分の個人的興味を満たすためなら、あえて議論を混乱させてもいい、というような意図で発言する人じゃないのです。
ボクが、ニュートン力学を、間違えて理解していたように、単に思い違いをしていたのです。
そんな、過去の経緯なんて、どうでも良いのです。
大事なことは、「正しい命題は何か」だけです。
「正しい命題」にたどり着くことだけが大事なのです。
そして、その過程で、ついでだから、「正しい自己認識」に近づくことが。
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/energy.html
↑のサイトを閲覧しつつ、今回いろいろと書きました。というのも、ここの作者は実に分かりやすく物理学を紹介しようとされていて、そのためか、時に「表記のゆれ」を感じることがあったからです。ではそれを外部にそのまま「持ち出した」場合、どんな批判が生じるかな?なんてのも興味のひとつとなっていました。
なお、紹介サイト作者の意図するところを読み違えたりしているのは、私の責任であり、たとえば紹介サイト内で「重さ×速度」が運動量とその一部で提示されていることをそのまま(他の部分では質量×速度と書いてあるのに関わらず)ここで再利用したのは、私の勉強のためでした。再度、誤解を招く表記を多用したことをお詫びします。
そんな夜店のボールつりでなにがわかる?
どうせそれが夏休みの宿題だったんだろうが。
馬鹿ではないか。
大学時代に機械学の授業で出されたお題。
中指に、夜店で売ってる、水の入った風船にゴムひもをつけてその先を輪っかにしたヨーヨーをつけて、静かに垂らして、風船が完全に静止したあと、
10センチほどの振幅で、最初はごくゆっくり(1周期5分ほど)上下に動かし、
だんだんと周期を短くしていった場合、風船の挙動の変化を述べよ。
(振幅と位相について詳しく)
書いてからふと思ったんですけど、こんなお題を出すなんて、
...ボクの大学って、相当程度が低かったのでしょうか...(T_T)
>私の言い換えは間違っていました。お詫びして訂正します。
>少なくとも、ニュートンの3法則の中では、「静力学」は語られていません。
ありがとうございます。繰り返しになるので、これだけにします。
なお、単位系のご指摘については、私の理解の至らぬところに端を発しておりました。なので、おずおずさんに反論はありません。全面的に私の誤謬を認めます。
血液型性格判断という擬似科学が信じられているのは日本ぐらいだそうですが、科学的な根拠がないのに大衆(?)に支持されているあたり欧米の創造科学に通じるものがありそうです。都合のいいデータのみを提示してそれ以外は無視するのも酷似しています。似ていない部分もあるでしょうけれど、創造科学といい血液型性格判断といい自分自身の行動に指針を与えてくれるからなのではないでしょうか。
>しかも、その単位は、ニュートンの定義では(質量の単位:Kg、長さの単位:M、時間の単>位:Sとすると)、Kg・M・S^-1で、
>大文字ナンさんの定義では、Kg・M/S^-3です。
大文字ナンさんの定義では、Kg・M^2・S^-3です...。
間違いを認めないわけではありませんよ>送った側さん
>『外部から力が働かない限り、内部から力は出てこない』
>これと同じだと擁護したのが君
そう解釈される表現であったことを認めます、申し訳ありません。
ただ、すでにログで示されるように、私の意図はそこだけに集約されるものではありませんし、もとの議論のうえでも、それはすでに収束した問題ですので、繰り返しになることを避けたいです、と述べたのが先のレスの主旨です。
なお、
>「外部に力が働かない限り、内部から力は出てこない」
については、この「に」と「から」の差は、送った側さんが想定される以上に主客の反転が見られるのでは?という意図で指摘しています。
どちらにせよ、これにてこの件のやり取りは終えておきたい、と私は思います。
>>厳密に言えば私の言い換えは間違っています。
> 厳密に言わなくても、激しく、間違っています。
私の言い換えは間違っていました。お詫びして訂正します。
少なくとも、ニュートンの3法則の中では、「静力学」は語られていません。
その上で、
> 「静止」について、私は最初のレスで示しています。机の上に置いた本は、机の「位置エネルギー」と釣りあっているから、静止している、と観測されるのです。
また、エネルギーと仕事は等価であり、言語としての用法が違うだけの概念です。
机の上に置いた本が静止している理由は、本に外部から働く「力」が釣り合って、合力が0になっているからです。
F=maという式の意味は、加速度aは、力Fによって生じる、ということです。加速度が生じる原因は、力、のみです。
位置エネルギーは、例えば地球の重力加速度をgとすれば、E=mghで定義されます。
従って、仮に机の高さをh、本の高さも同じh、机の質量をm1,本の質量をm2とした場合、両者の位置エネルギーが釣り合うためにはm1gh=m2ghでなければならず、従って、本の質量と机の質量が同じでなければなりません。
あきらかにおかしいでしょう?
机の位置エネルギーと本の位置エネルギーが釣り合っている状態を強いて考えるなら、両者の質量差に反比例した長さの腕を持つ天秤に吊した状態でしょうか?
この場合、机が1cm下降する時、本は(机の質量/本の質量)×1cmだけ上昇しますから、両者の位置エネルギーは釣り合うと思います。
力学エネルギーとしては例えば運動エネルギーと位置エネルギーとがあります。
仕事というのは或る物体を力Fで距離Lだけ移動したときに要したエネルギーです。従って、仕事W=FLと定義できます。
エネルギーと仕事とは等価ではなく、しいていうなら、各種あるエネルギーの一つが仕事といえます。
位置エネルギーと運動エネルギーと、例えば熱エネルギーと、仕事とが等価である、という記述は意味をなしません。
そもそも「等価」というのは、「量が同じ」ということだと思いますが、各種エネルギーを持つ物体の状況を特定しない限り、「等価」かどうかは決定できません。
例えば質量mの物体が速度vで運動しているときの運動エネルギーは地球上でhの高さにあるm1の物体の持つ位置エネルギーm1ghと「等価」である、とかいったふうに。
>>運動量は、質量×速度です。それ以外の記述は、「間違っている」のです。「勇み足」ではないのです。
> その記述法で書くなら「運動量=重さ×移動量/単位時間」でしょう。
> #通常の(相対論だとか熱力学だとかを包括しない)範囲であれ、重さ(力)は重力に依存する相対的なモノなので、この(力×速度)という表記を使いました。
> #「質量×速度」で記述されるのは、慣性質量であって、これも運動量には違いないけれど、ある慣性質量を持つ物体の運動量は、重力に依存しています。
「重さ」とは、或る物体にかかる「力」です。地球上で考えると、物体の質量をm、地球の重力加速度をgとして、F=mg が、重さです。
移動量/単位時間 は、速度です。従って、
或る速度vで運動する物体の持つ運動量は、
ニュートンの定義では、mv で、
大文字ナンさんの定義では、mgv です。
両者の、値も、単位も、明らかに違います。大文字ナンさんの定義では、ニュートンの定義よりも g倍、大きいのです。
しかも、その単位は、ニュートンの定義では(質量の単位:Kg、長さの単位:M、時間の単位:Sとすると)、Kg・M・S^-1で、
大文字ナンさんの定義では、Kg・M/S^-3です。
いわば、同じ物について、一人は立方メートルで表し、もう一人は平方メートルで議論しようとしているようなものです。
「質量×速度」で記述されるのは、慣性質量では「なく」、運動量です。運動量と質量とは、全く違います。(v 倍、違うのです。)
ある慣性質量を持つ物体の運動量は、重力に依存「しません」。「速度」に依存します。
少なくとも、自然科学について議論するときは、その分野で合意されている用語の意味と各量の定義式を使って話を進めないと、「話になりません」...。
(この文章の中にはボクの誤解に基づく間違いがいくつか有るかもしれません。もしよろしければ、チェックの上、ご指摘いただければありがたいのですけど。>ALL)
>また別の機会でお話できれば、と思います。
自分自身で書いたことを忘れて、おかしなレスをしておいて、質問されたら返事もしないで、撤収などという人間とは議論しても仕方が無いので、またの機会は無いでしょう。
自分の間違いを認めないで済むのは、ここのやり方なのかな。
ともあれ『物体は外から力が加わらなければ、いつまでも速さと向きを変えない。』
を
『外部から力が働かない限り、内部から力は出てこない』
これと同じだと擁護したのが君
そんなバカな表現は止めなさい と言ったのが私
それだけ分かっといてもらえば良い
これにはレス不要。
すでにおずおずさんの中でも解決したみたいですが、せっかくなので机上の本の解説をしてみます。
本を机の表面と一致する位置で静止させた時、通常は誰かの手が本を支えていることでしょう。このときは本にかかる重力は手から与えられる抗力と釣り合っています。ここで手を離すと本にかかる力は重力のみとなりますから、
本は加速度を受けて下方へ運動を始めます。
本が下方へと移動するにつれて机は弾性変形してゆき、弾性力を本に与えるようになります。そして本の重力と机からの弾性力が釣り合う位置で本は静止します。
厳密にはこの描写はまだ近似です。まず、机のみならず本も弾性変形しますから、本による弾性力も加わります。現実には本の変形の方が大きいのが普通でしょうね。
次ぎに、簡単に「釣り合う位置で本は静止します」と書きましたが、これが一般的ではないことは、机の代わりに目に見える弾性体であるバネを置いてみるとわかります。一般的には本は釣り合いの位置より下まで運動して一瞬静止し、また上方へ動き出すでしょう。そして減衰振動しながら釣り合いの位置へ漸近してゆきます。
本の位置エネルギーの一部は熱エネルギーとして失われたのです。
本と机の組み合わせだと、本当に静止しているかどうかも確認しずらいですが。近くをダンプカーが通ったら最初の位置より上に上がったりして(^_^)。
おお、たまごちゃん (^-^)ノ のコメントはさすがに明快。再定義というのは特に定量基準を定めようとすると必然的に生じますね。1秒や1メートルも何度再定義されたことやら。
言ってみれば、概念としてはトートロジーではないけれど、定量的に評価するために基準を作ろうとするとトートロジーと見えてしまう。
血液型別に子供たちをグループに分けて街の地図を作らせるという番組を見たことがあります。A型は歩数を図って生真面目に一軒一軒書き込み、O型はいきなり海にいって遊ぶ、B型は食べ歩きをはじめ、AB型は観光地図を見て地図を作る…。という様な内容でびっくりするほど血液型で性格が違うようなつくりでした。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。