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■論文に発表された創造論
Peer-reviewed paper defends theory of intelligent design
要約
創造論を支持する主張が、正式な科学論文雑誌であるProceedings of the Biological
Society of Washingtonという科学雑誌に発表された。この論文の著者である研究者で
あるステファン・メイヤーは情報理論などのテクニックを使って、生物の複雑さは進化
論では説明できないと主張している(S. C. Meyer Proc. Biol. Soc. Wash. 117, 213-2
39; 2004).
>子供が可哀想なのは学校で科学として「進化論」「自然淘汰」の言葉が教えられるからです。
>宗教だったら否定すればいい、唯科学の名で教えられると抵抗できない。
周囲が「科学的に正しいことは道徳的にも正しい」なんて考えている大人ばかりだと、進化論をたてにいじめを肯定するような子供が育つのかもしれませんね。
道徳の大切さを教えてもらえない子供たちがかわいそう…。
ジョウカンさん
別に進歩しようと努力したっていいんじゃないですか。
変わらなきゃいけないって感じてる人は変わらないと安心できないでしょ。
それを無理に『そのままでいい、君は進化論に毒されてるんだよ』なんて
お節介するほうがどうかと思うよ。変わらなきゃいけない場合だってあるでしょ。
ケースバイケースだけど、なぜ進化論に因縁つけるか意味不明です。
こっからは個人的意見なんですが
『そのままの君でいい、君の個性は十分魅力的だ』ってニュアンスのことを言う
人がよくいるけど………嘘クセー!!って思うンですよね。そんなこという人は偽善
ですな。魅力的な人もいるし魅力に欠ける人もいるわけですよ。実際
『あなたに魅力を感じない』なんていわれたりもするしさ…………………………
そんなことがあるから自分に価値をもたせようと努力しようとするわけで、、、
それって良いことだと思うけどなぁ。
「沢山の若い人が悩んでいる」って人生相談に引っかけているけど、悩んでいるのは当人なんじゃないのかな?
強迫観念となっているのは、当人自身なんじゃ?
ジョウカンさんの言った通り、進化論と言うのを止めて、変化論と言い換えましょう。するというとどういうことになるか。
>私は人生相談等もしていますが、沢山の若い人が悩んでいます。
>自分が日々『変化』しなくてはいけないんだと言う意識があります。
>それが脅迫観念となって本人を押しつぶしています。
>私が「生まれたまんまで善いじゃないか・・・」といっても納得しません。
>昨日と同じ自分では駄目なようです、『変化』しないと淘汰されると思っている。
>「人間が『変化』するとか、個人が『変化』するなんて誰から教わったのか」と聞いても答えません。儒教でもそんな考え方はないし・・・
>どうやら学校で教える「『変化』論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
同じだ〜。
ジョウカンさんが指摘するように、進化論を誤解することによる弊害はあるかもしんない。でもね、安易な言い換えでは問題はまったく解決しないのよ。問題を解決するにはね、進化生物学と自然科学について正しい理解をすることなのだ。進化は進歩ではないし、よしんば生物が「進歩」してきたからといって、なんでヒトが「進歩」しないといけないの?他にもいろいろ、自然科学についての誤解が不幸の原因になっていることがあるけれども、なによりも正しく理解することで不幸を回避できることだってあるのだ。それと、
>内容を大まかにでも知っている訳でもないけれど、そもそもその表題から納得いかないので入っていけないのです。
内容を大まかにも知らないのに、「名称を変更しろ」ってのは、ずいぶんと傲慢じゃないですかね。
どおして皆さんは「光る風」に触れないかなあ・・・。
少年マガジン連載当時は中学生だったボクチンは、政治的にも性的にもそれはそれは大きなショックを受けたものだ。大学生になって読んだジョージ・オーウェルの「1984年」にも匹敵するデス。
なんてったって、ウンコの中を泳ぐシーンがあるんだから。
(収容所から汲み取り便所の肥溜めを通って脱走するんだけどね)
ガキデカの連載が始まった時は、「ケッ、堕落しやがって」と感じたのであります。
>そうそう、「こまわりくん」ではなくて、「ガキデカ」であったのか?
懐かしいな!ありがとう、地下に眠るマドンナのMさまへ(^^)
山上たつひこの「ガキデカ」ドコにも置いていないよ〜
「ウン子」ガキデカだけでよか!それ以上はオエップ!湾岸署のギバチャンに言いつけるぞ!
関係ないけど、ヴァイオリンの弦のような髪の毛をくっつけた頭のオジちゃん達は、満足しているのかなあ?いっそのこと、ツルッパゲにしちゃえばいいのに・・・・なんて思っているのは、私だけなのか(__)禿禿禿禿禿風の強い日は困る・・・・
To ジョウカンさん
「進化」という訳語にこだわっているのかなぁ……。
そりゃ私だって、baron を「男爵」と訳した人に対しては「困ったもんだ」と思っていたりしますけどね。
そのせいで baroness が「女男爵」なんて語になってしまってるんだから(笑)
(「男爵夫人」という表現もあるけど、これだと男爵の奥さんなのか、その男爵家に女子しかいなくてその女性が爵位を受け継いだのかが区別できない)
進化論における淘汰や闘争という語を、生物個体同士の戦いだと誤解して非難するというのは、ダーウィンの時代から存在する誤解です。
ジョウカンさんへ
>どうやら学校で教える「進化論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
学校で進化を教える時は退化も進化の一つであり、進歩と進化は違うというような事を教わります。
学校ではあなたの仰るような内容は教えていません。
>子供が可哀想なのは学校で科学として「進化論」「自然淘汰」の言葉が教えられるからです。
上記の繰り返しになりますが科学としてあなたの仰るような内容は教わりません。
むしろ学校で教わるはずの「進化」に関しての不勉強、言葉のみの先入観で判断していることに原因があります(本人、もしくは親など)。
科学として教えられるのが原因ではなく(教えられていたらジョウカンさんの仰るような誤解はうまれようがありません)、科学としてちゃんと進化を教わっていないのが原因ではないでしょうか?
ジョウカンさん、レスありがとうございます。
「進化論」という用語がふさわしくないというのは私も全くその通りだと思うのですが、ここまで定着した用語を廃するのはなかなか大変なんじゃないかなぁ。でも、ミリバールがヘクトパスカルになったり、規定濃度が廃されたりってことがあるのでがんばればどうにかなるのかも?
とりあえず、「この掲示板では変化論と呼ぶ!!」と決めたところで、学校での教育とかには何の影響力もありません。ほんとうに「進化論」という用語を「変化論」に変えたいのなら、もう少し影響力のありそうなところでがんばってみてはいかがでしょうか。
>どうやら学校で教える「進化論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
>極端にはイジメの事を弱肉強食と言い、適応出来ないものは自然淘汰されて自殺するしかない等と言う始末です。
たかが学校で習う進化論ごときがそこまで人の考え方に影響を及ぼすものなのか、はなはだ疑問です。
進化論って言葉を廃したところで、「進歩」「発展」「改善」「改良」「向上」「克己」「競争」「弱肉強食」などなどの言葉がなくなるわけではありません。「弱肉強食」という言葉は唐の時代に韓愈が作ったといわれています(本当かどうかはしらんが)。少なくとも「進化論」よりはずっと古い言葉です。
いっそのこと、それらも全部まとめてなくしてしまいますか?
>やがて大人に進歩するのではなくて、変化するに過ぎない。
子供から大人になることを進化とは呼びませんよ。
そんなことよりも、成長という言葉はなくさなくてもよいのでしょうか?「長じたもの(=優れたもの)に成る(=完成する)」必要があると子供が思いやしませんか?
>それ以上に(意思)が入る言葉だからです。
><意思を持って進む>と言う事だから絶対駄目なのです。
そうでもないように思います。「1秒間に光が進む距離は30万km」だとか「環境破壊が進む」といったような使い方では光や環境破壊が意思を持って進んでいるわけではないでしょう?
PDX.さん曰く:
> 「進化」というのはゲームソフトのポケットモンスターにおける「進化」のようなものなのではないですか?
そういえば、スポーツの世界でも、競技者として成長することを「進化」と表現することが
新聞などで目に付きました。
どうも「進化」という言葉が「成長」と同義で扱うことが広まっているような気がします。
ポケモンのせいかなぁ。
ジョウカンさん曰く:
> 自分が日々進歩しなくてはいけないんだと言う意識があります。
> それが脅迫観念となって本人を押しつぶしています。
(中略)
> 「人間が進化するとか、個人が進歩するなんて誰から教わったのか」と聞いても答えません
これって進化論のせいですか?「もっといい成績を出しなさい」「もっと強くなりなさい」
という圧力がその子の周囲に存在することが問題でしょう。進化論の呼び名を変えたところ
で解決するとは思えません。
> 極端にはイジメの事を弱肉強食と言い、適応出来ないものは自然淘汰されて自殺するしかない等と言う始末です。
これこそ進化論の内容に関する誤解であって、名前を変えたところで、根本の誤解を解消
しなければ意味がない。
ところで、進化論的には、逃げ出そうが閉じこもろうが生き残ればオッケーです。
イジメには直接向き合って対処しなければならない、対処できなければ死ぬしかない、
などという発想は進化論から来るものではあり得ません。
あるとすれば、(正しく進化論を理解したものではなく)「進化論のようなもの」を
振り回しているだけでしょう。
>どうやら学校で教える「進化論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
>極端にはイジメの事を弱肉強食と言い、適応出来ないものは自然淘汰されて自殺
>するしかない等と言う始末です。
そういう悩みを抱えた若者が相談に来るというのでしたら、あなた自身がきちんと進化生物学を概論だけでも良いですから勉強して、「学校で教わったという進化論的な考え方」とやらを修正してあげればよろしいのでは?
そうだね、進化論じゃなく「変化論」と呼べばいいじゃないか、などと「戯言」をいくら叫んでも、な〜〜〜んにも問題の解決にはなりませんよ。
To PDX. さん
私は進化論を否定する人ではなくて「変化論」と言う名前に変更しろと言っています。
ここのサイトは進化論と聖書による創造科学(科学的創造論)・・・・
と言うことなのですが、宗教の創造科学と言うのもおかしな物だと思いますが、進化論と言う言葉も五十歩百歩だと思います。
怪しい言葉です、「進」には善くなる・・・と言う意味があってふさわしくないが、
それ以上に(意思)が入る言葉だからです。
<意思を持って進む>と言う事だから絶対駄目なのです。
「淘汰」もそうです、<善いものを選び残す事>などと有ります。
是じゃあ自然と言う神様がいるみたいでは?
「変」にはそういう誤解は生じません。
現に・・・変異とか・・・変態とか使われているじゃありませんか。
子供が可哀想なのは学校で科学として「進化論」「自然淘汰」の言葉が教えられるからです。
宗教だったら否定すればいい、唯科学の名で教えられると抵抗できない。
是非「変化論」に改名して下さい、私の意見は是だけです。
To ジョウカンさん
> ですから「進化」とか「淘汰」とか言うその論の題目自体が既に恣意的で歪んでいる。
> 科学の名に値しないと言っているのです
ですから、あなたにしろ、あなたのところに相談に来ている若い方にしろ、「進化」「淘汰」という言葉を、生物学上の用語で認識されていますか?
先の記事にも書きましたが、進化論に関するまともな著書をお読みになることをお勧めします。
進化論を否定する人(特に宗教家)の場合、進化論に関する著書を読みもせずに、表面上の言葉から誤解をして、作り物の人形を仮想的にして叩いているケースが多々あるんです。
似たようなものとして、「相対性理論は間違っている!」なんて主張している「自称物理学者」氏が、相対性理論を誤解したうえで、その間違った「相対性理論」に対する攻撃をして「私は正しい!」なんてやっている。
あなたの先の書き込みをみてふと思ったのですが、もしかしてあなたのところに相談にきた「悩んでいる人」にとって、「進化」というのはゲームソフトのポケットモンスターにおける「進化」のようなものなのではないですか?
なんとなくそう思ったものですから。
>それは進化論に対する恣意的な誤解
ですから「進化」とか「淘汰」とか言うその論の題目自体が既に恣意的で歪んでいる。
科学の名に値しないと言っているのです。
To ジョウカンさん
> 「人間が進化するとか、個人が進歩するなんて誰から教わったのか」と聞いても
>答えません。儒教でもそんな考え方はないし・・・
> どうやら学校で教える「進化論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
> 極端にはイジメの事を弱肉強食と言い、適応出来ないものは自然淘汰されて自殺
>するしかない等と言う始末です。
> 是が科学の旗の下に子供の意識を支配してい
それは進化論に対する恣意的な誤解に(あるいは曲解に)基づいた考え方だと思います。
その人は一度でも「種の起源」を読んだ事があるのでしょうか?
グールドでもドーキンスでもマーギュリスでもいいから、まともな生物学者の書いた進化論に関する著書を、エッセイでもいいから読んだ事があるのでしょうか?
生物学における進化論あるいは自然淘汰説ではなく、社会ダーウィニズムに対する理解(の歪んだもの)という印象を受けます。
好き・嫌いではなく、ジョウカンさんご自身が一度「種の起源」を、そしてグールドやドーキンスの著書をお読みになることをお勧めします。
ここにいる人間がどう要約しても、その人なりのフィルタがかかっているでしょうから。
>人間が、「超音波」を160khzだす と 「探偵ナイトスクープ」で 小枝探偵が取材をしていたのを見ました。 人間は、本当に「超音波」を出す事が出来るのでしょうか?
映画「ブリキの太鼓」を見ろおおおおおお!
人は自らの意志で成長を止め、そして超音波を出せるのだああああああああ!
http://freiheit.hp.infoseek.co.jp/Kino/K.Blechtrommel.html
ところで「半田溶助女狩り」は、噂は聞いとるが未読だあああああ
えらそうなこといってごめんよおおおおおおおおお
サイン入り初刊本欲しいよおおおおおおおおおおお
逍遙 さん
>とりあえず、そういうラベルが付いている、というくらいに思われてはいかがでしょうか。
たまごちゃん(^-^)ノ
>「進化論」という言葉の響に拒絶反応を示してしまわずに・・・
そうも行かないのです。
私は人生相談等もしていますが、沢山の若い人が悩んでいます。
自分が日々進歩しなくてはいけないんだと言う意識があります。
それが脅迫観念となって本人を押しつぶしています。
私が「生まれたまんまで善いじゃないか・・・」といっても納得しません。
昨日と同じ自分では駄目なようです、進歩しないと淘汰されると思っている。
「人間が進化するとか、個人が進歩するなんて誰から教わったのか」と聞いても答えません。儒教でもそんな考え方はないし・・・
どうやら学校で教える「進化論」的進歩の観念が犯人ではと思います。
極端にはイジメの事を弱肉強食と言い、適応出来ないものは自然淘汰されて自殺するしかない等と言う始末です。
是が科学の旗の下に子供の意識を支配している。
もし「変化論」だったら全く受け取り方は違っている。
人は変化する、友人もイジメも変化する。
やがて大人に進歩するのではなくて、変化するに過ぎない。
これだったら沢山の子供が救われると思います。
地下に眠るMさん>山上たつひこの最高傑作は「喜劇新思想大系」であると断ずるにゃ(えらそう
あっしとしちゃあ「半田溶助女狩り」が…
あ、「喜劇新思想大系」、(恐らく)最初の単行本、全巻揃いでもっておりやすよ。ナント第1巻にゃあ、著者のサイン入り!(かなり自慢
そいじゃあ、横から失礼いたしやした。
人間が、「超音波」を160khzだす と 「探偵ナイトスクープ」で 小枝探偵が取材をしていたのを見ました。 人間は、本当に「超音波」を出す事が出来るのでしょうか?
えー、口の悪いのが失礼いたしやす。
最近話題の「量質転化」でございやすが、これは「量がある程度多くなったり少なくなったりすると、そのものの質が変化する」ってなことでよろしいんでやんしょうか?
だとすると、こいつはあながち科学の範疇だけのことじゃあねえように思いやす。
こっから先はあっしの一人合点になっちまうんで、突っ込み大歓迎ってことでお願いしてえですが…。
あっしは生業で年に何度か、あるまとまった数のデータを扱っておりやす。
元は手書きとか印刷されたデータで、そいつをコンピュータで扱えるようにしなくちゃなんねえんですが(まだまだこういった仕事もそれなりに残ってるもんでやす)、こういった作業の常として、入力されたデータをいつかは「校正」しなくちゃあなりやせん。
勿論、データの「検証」は別に行いやすが、あっしが相手にしてるのは、小は数百から多くても数万件程度なんで、元の紙データと突き合わせちまおうってことになるんでやすね。
で、この「校正」作業についてなんでやすが、扱う件数によってやり方が変わってきやす。
・数百件程度なら、あっしらが仕事として引き受けちまう場合が多いです。
・それ以上〜数千件程度なら、お客さん側に委ねて、校正してもらうことになりやす。
・数千以上〜万件になると、お客さんとあっしらとで人を集めて校正チームを作って、ある期間で集中的に校正するってぇ段取りを組みやす。
この辺の段取りについちゃあ、仕事を受けた端の段階で、お客さんと決めておかにゃあなりやせん。
後から「すいやせん、あっしらの手にゃあ負えねえんでどうかそちらで…」なんてえことになったら、次からそっぽを向かれっちまいやすからね。
どのくらいの件数ならどの段取りかってぇのは、経験(とお銭)によるところが大きいんでやすが、なんにしても、差し出された件数について、目端を立てなきゃならねえんですね。
つまり、量によってこっちの身の振り方を変えなくちゃならねえってとこで、厳密にゃあ違うかもしんねえですが、これも「量質転化」みてえなことなのかなと、そんな風に思えやす。
こいつは科学で言うところの「閾値」みてえなもんじゃあありやせん。お客さんとの兼ね合いなんかで、かなり幅のあるもんです。
けども破断界じゃあねえですが、できもしねえ、踏み外しちゃあならねえ段階ってのはどうしても出てくるもんで、そんな時に「量質転化」の考え方ってのは(見当違いかもしんねえですが)役に立つような気がしやす。
「ああ、この辺り(の件数)なら、やり方を変えてかなきゃぁなんねえかな」みてえな、ね。
相変わらずの見当外れだとは思いやすが、我が身に照らして、「量質転化」ってえ考え方そのものはすんなりと飲み込めるような気がしやした。
そいじゃあ、御免なすって。
>量が質に転化するという話は、だから毎日少しずつでも練習しなさいとか勉強しなさいとかいう教訓として聞いたような記憶もあります。
「量質転化」でぐぐるとさー、武道家の金言としてヒットしたりするのだにゃ。
宮本武蔵もそういうことをいってるみたいね。
と、こういう例を出すと、いきなり怪しくなるよにゃー>量質転化
ところで、量が質に転化、は自然科学だけの命題ではもちろんにゃーな
経済学にもそういう事例はいくらでもありそうにゃんね。限界効用とかね。
「種の起源」でダーウィン自身の用いた表現は「変化を伴う由来」ですよね。
あくまで「変化」であり、そして世代交替によって蓄積されていくものだから、良かれ悪しかれそこには「由来」があるし、そこから逃れることはできない。(たとえ要らないと思っていても痕跡器官は存在するわけで)
http://www.tbs.co.jp/bansen/moon/
どうでもよい話でごめん。
今日、こういうタイトルのドラマがあったみたいなんだけど、誰か見た人いますか?ゲーム理論とか関係があるのだろうか?
もちろん、「ガキデカ」は実にいいですよにゃー。
ガキデカがヒットしているのを、某フランス人新聞記者が見て
「日本人はもう戦争をしないだろうなー」といったとかいわにゃーとか。
しかーし
山上たつひこの最高傑作は「喜劇新思想大系」であると断ずるにゃ(えらそう
これは1972年から2年間「マンガストーリー」なる二流青年誌で連載されたもので、
二流青年誌であるということと、当時は「コトバ狩り」などがなかったということから
それはそれは現在ではとても発表できにゃーようなネタ満載(特に精神病ネタ、性倒錯ネタ)ですにゃ。
とにかく「黒い」。
秋田漫画文庫でも復刻されたけど、いまではもうなかなか手にはいらにゃーかも。
古本屋で見かけたら、速効でゲットすることをオススメしますにゃ
To 逍遙さん
> ダーウィンの原書は英語だから、最初から evolution と表現されていたと思いますが。
グールドの著書で「実は……」と書かれていましたが、「種の起源」の中では「進化」という意味で evolution という語は使われていないそうです。動詞の evolve が一度出てくるだけだとか。(版によっても違うかもしれません)
ダーウィンだけではなく、ハクスリーなど当時の進化論者にしても同様で、transmutation ですとか、人によって違う語を用いていたとか。
それが evolution に統一された本が、誰の何という本だったのかすぐには思い出せません(^_^; グールドの本のどこかに書かれていたのですが。
もともとは「巻物が広げられる」というような意味の語で、ダーウインの自然淘汰説が登場した頃には既に棄却されていた理論(精子の中には次の世代のホムンクルスが入っており、その中には次の世代の……と入れ子になっているという説)が使用していた語だったそうです。
その理論が死に体となり、evolution という語が「空いていた」から使われるようになったのだとか。下等な生命から高等な生命への直線的な進化という当時の思想には、進歩的ニュアンスの含まれる語が適切と思われたのだろう、と。
(巻物には始まりと終わりがあり、定向性があるということでしょうかね?)
>「『進化』という表現は適切ではないから改めよう」という御主張でしょうか。
実はその通りなんです。
もし「進化論」を「変化論」と言い換えたら、今までの色々の問題は解かり易くなり、誤解から生じる論争も殆んどなくなるのでは。
そんな事はない・・・と仰るなら騙されたと思って一度読み替えてお試しください。
ついでにもう一言・・「自然淘汰」「適応」・・・と言うのもまずいと思います。
自然が淘汰する筈もなく、適応する為に変化や変異が起こる訳でもないからです。
到底科学的表現とは思えません。
そうこうしていると「進化論」自体が中身がうすくなってくるような・・・
もともと自然が変化するものである事は大昔から誰でもわかるし、
いま残っている種は環境に適応出来るから残っているんだし。
残ったから残っている・・・当たり前のことなんです。
ダーヴィンに言われなくても江戸時代の熊さん八っさんでも解かっている。
自然の中で生物だけを取り上げてその多様な変化を統一的に一つの論で括ろうとするところに無理があるのでは。
>進化と言うと、反対語は退化です。
「愛」の反対語は「憎悪」か?
いや違う、「無関心」さ
>別にフツーで当然のことだと思います。ある特定のサプリメントについて、どのくらいの量で有害事象が生じるかについては知りませんが、とにかく「摂りすぎたら毒になるかもしれない」というのは当たり前のことです。
アタリマエもいいところを答えてもらってすまにゃーね。
酸素酔いとかアルコールの生理作用とか、ある程度わかっている実例を出すと、その度に「後付けだ」とか言いだすお方を相手にしているもんでにゃ。いささか卑近すぎるかもしれにゃーが、予防的な例を出してみたわけですにゃ。
ビタミンなりミネラルなりのひとつひとつの物質の生理作用を理解するなんてややこしいことはフツーの人にはとても要求できにゃーからね。「摂りすぎると毒になるかもね」の方が、市民の科学知識としてはよほど有用にゃんよ。
でさー、確かにこの板では、摂りすぎると毒になるなんてアタリマエだろ、で済むかもしれにゃーが、赤ワインポリフェノールブームの時なんて、毎晩毎晩「健康のために」へろへろになるまで赤ワイン飲んでいた馬鹿なんて、あちこちにゴロゴロしているらしいにゃんぞ。みのもんた司会の某疑似科学番組で紹介された食材はやはりよく売れているらしいしね。
>何が問題になっているのか、よくわかってないけど
とにかくキョーサントーやらユイブツベンショーホーが嫌いだ、という気持ちは僕にもよくわかるのだにゃ。
>予想通りのご回答
ほほう、僕としてはちょいと予想からは外れた回答だったにゃんな。
チミが空念仏を唱えるタイプの論者だとは思ってなかったもんでにゃー。
チミのいっていることのどこが空念仏か?
チミは「閾値」概念の有用性は確かに認めているにゃ。
しかし、量質転化の概念はどうとでもいえて役に立たない乃至は有害であるといっているにゃ。
ところが、閾値概念と量質転化の概念のどこが異なるかについて、まったく触れることができてにゃーのだね。
チミは壊れたレコードのようにこう繰り返すだけ
「閾値は量質概念の転化の具体例だとお呼びになるのは結構ですが、屋根の上に屋根を重ねるようなこと」
空念仏にゃんな。
遠藤(実名は呼び捨てにしにくいにゃー。するけど)も僕も量質転化が生物学分野に限らにゃー実例をいくつか出しているのに、チミはそこにはまったく触れていにゃー(触れることができにゃーのさ)。こちらは、質量転化概念が閾値を包含する実例を出しているのに、自説に不都合な実例にはなんら触れることなく、「屋上屋を架す」だって?
しつこく言うぜ。
質量転化概念が生物学分野における閾値概念にとどまらにゃー実例がでている以上、その辺を論破せずしてチミの「屋上屋を架す」発言は論理学的に無効、空念仏だにゃ。論理学的に無効だと以前もいったのに、チミには理解できなかったのかい?
で、こちらの挙げる例は片っ端から「後付け」だろ?
ここで自分がダブスタを行なっているのは理解できているかにゃ?
なぜなら、閾値概念においても、片っ端から「後付け」扱いにできるのだにゃ。
チミのへぼ理屈が通じるなら、閾値概念もすべて「後付け」、でオシマイだぜ。
チミは閾値概念と量質転化の概念の違いを明確にすることができにゃーまま、閾値概念は有用、量質転化概念は無用乃至は有害と決めつけ、量質転化概念が閾値概念を包含する実例を無視し、「屋上屋を架す」と無根拠に繰り返すだけだろ?
キョーサントーのガリガリ君たちが嫌いなのは、僕もよーーーくわかるつもりだにゃ。
しかし、チミのやっていることは、彼らと同レベルにゃんぜ
ダーウィンやそれ以前の時代はやっぱり
(低級)アメーバ→団子虫→犬→人(高級)
といった認識じゃったろうな。
じゃから、『進歩』と言う意味合いの言葉を使用したのはある程度しょうがないんじゃないんかな。
電子の流れとは逆に電流の流れを決めちまったようなものかな
To 流木さん
>大文字ナンさんがそのようにお呼びになるのは結構ですし、反対もいたしません。進化論を「万物変化の法則の実例」と呼びたい方がおられればそれもよいでしょう。私は呼ばないだけのことですから。
すると一連のやり取りは「なんだったの?」となるわけであります(笑。
いえね、誤謬や方法論の運用に関する間違いが露見している対象を相手に、万能理論を指向するのはおかしくないか?などと意見や指摘をするんだったら、首を傾げることもないのですが、誰も「量質転化」は万能理論だ、なんて言ってませんし、かといって「まるっきり無意味でなんの示唆も与えない」とも言ってないですよね、とそれだけの確認をしているんじゃありませんでしょうか。
私、弁証法についてコメントした覚えはありませんが、量質転化、という言葉=弁証法という脈絡で考察されたのかな。形式論理にしても弁証法にしても、なんでもかんでも「それで分かった、ひも解けた!」と考えるような人と思われたのかしら?>私。
diamonds8888xさんへのレスにもなるのですが、ごくシンプルに「量的な変化が質的な変化を生む」ということそのものは、当たり前のことですし、だからなに?という程度の話でしょう。しかし、哲学を学んでいない、科学的思考法も学んでいない私には、けっこうこれは「科学的価値なんかよく分からないし、どうでもいいこと」だけど、それでは質的な変化は「常に予想可能な範囲に収まるのだろうか?」ですとか「連続量を制御することで、質的変化の制御も可能なのだろうか?」などという疑問を生み、そこから「逆引き的に」科学的思考法や方法論を実践する「手がかり」くらいにはなる「こともあるだろう」と述べているだけなんですけどね。
連続量変化がカオス的に表現されるものの具体例として、私はある時期、趣味と実益を兼ねて内燃機関(自動車エンジン)に深く傾倒していましたが、たとえば吸気系において「効率を高める」とは、要するに出来る限りフレッシュな空気を(単位時間内に)多くエンジンに送り込むということですね。そして燃料と空気を混合して、理論が示す「理想空燃比率(14.3:1)」に近づけていけば、あるエンジンにとって最大効率といえる出力を得ることが出来る…ってなわけですが、これはもう、まるっきり額面どおりには運んでくれない世界です。
まず空気も、霧状の燃料も「乱流」であること。古くはキャブレターですが、現代ではインジェクター(燃料噴射装置)ですね。巨大な「真空ポンプ」であるエンジンの負圧が生み出す乱流は、かなり予想外の経路を通過するので、センサーの位置によって吸入空気量が大きく変動しますし、結局のところ「本当はどれくらい吸い込んでいるのか」よく分からない、という事態も発生します。そんなわけなので、かなりの面を手探りで行わなければならず、「保証レベル」の出力を狙うならともかく、「最大効率」を狙う場合には、かなりのトレード・オフが必要になります。これらの試行錯誤は、「量質変化」を盲目的に受け入れては出来ないことだと評価しておりますし、この概念が表す「実相」に即した考え方ではないだろうか?と(私は)思うのです。
私の考え方に異論はない、とのことですが、どうも引っかかるので補足を行いました、あしからず。
evolutionにも進歩とか発展という意味を含んでいるというようなことをグールドが書いていたような、記憶が、、、
ジョウカンさん、はじめまして。
>進化と言うと、反対語は退化です。
実は、そうではないのです。退化は進化の反対語ではなく、進化の一部です。進化の反対語はありませんが、あえて言えば「無変化」とかになるのかな?
>わたしはアメーバのミミズもカエルも人間もみな同じ・・・だと思います。
>当然複雑な物からそれこそ退化して単細胞に進んでゆく可能性も在ると思います。
>変化はします、唯それは進化かもしれないし、退化かもしれない。
その感覚は非常に正しいと思います。
進化学という学問もジョウカンさんと同じようなことをのべているのですよ。
進化という言葉には、「ヒトはアメーバーよりも進化していて優れている」と言ったような、進歩の概念は含まれていません。
「進」っていう字が使われているのでそういう誤解を受けてしまうのも仕方がないのかもしれませんけどね。元々、evolutionという単語は「進む」といったような意味合いはなく、巻物などを「展開」するという意味なのだそうです。
「進化論」という言葉の響に拒絶反応を示してしまわずに、「これは本当は展開論なんだ」なんて思いながら、進化論の本を読んでみたら、案外面白いことが書いているかもしれませんよ。
とりあえず、過去のいきさつにより使うようになった言葉を使って、進化論と呼んでいますが、
アメーバもミミズもカエルも人間もみな同じ・・・だと、ボクも思っています。
だって、みんな、生物が初めて生まれた時から数えて、同じ時間、生き抜いているのですから。
...ここの皆さんは、どちらかといえば、「変化論」という言い方を使いたがってるんじゃなかったかなあ?
よくある誤解ですけれど…
>わたしはアメーバのミミズもカエルも人間もみな同じ・・・だと思います。
まさに進化論者はそう言っているのです。
人間がアメーバよりも優れいてるというのは人間から見た主観に過ぎません。
退化も進化のうち、ということでしょうね。進化=進歩、発展というのは間違いです。
最初に日本語に翻訳した人が「進化」と訳したからでしょう。
英語では evolution ですが、どういうニュアンスなんでしょう?
ダーウィンの原書は英語だから、最初から evolution と表現されていたと思いますが。
個人的には、進化論的に「進化」と言う場合、「優れたものになる」というニュアンスは
僕は感じていません。せいぜい「より環境に適応する」といったところ。
で、「『進化』という表現は適切ではないから改めよう」という御主張でしょうか。
ジョウカンさん曰く:
> その表題から納得いかないので入っていけないのです。
とりあえず、そういうラベルが付いている、というくらいに思われてはいかがでしょうか。
私は進化論と言うものに強く疑問を抱きます、内容を大まかにでも知っている訳でもないけれど、そもそもその表題から納得いかないので入っていけないのです。
進化と言うと、反対語は退化です。
つまり進化論と言うのは時間の経過と共に生物は進化すると言う事でしょう。ここが納得できないのです。
アメーバより人間の方が進化している・・・・・優れている・・・と言いたいのでしょう。
そうでしょうか?
わたしはアメーバのミミズもカエルも人間もみな同じ・・・だと思います。
当然複雑な物からそれこそ退化して単細胞に進んでゆく可能性も在ると思います。
変化はします、唯それは進化かもしれないし、退化かもしれない。
以前の投稿を拝見すると、
>科学から道徳や倫理は引き出せないし、引き出すべきではありません。
と言う文章が在りましたが・・・・・
「進化」と言う言葉は随分倫理的価値観を含んだ言葉ではないでしょうか?
天文学で宇宙の始まりから今迄で、宇宙は進化したと言う言い方をするのでしょうか?
(そう言う人もいるかもしれませんね・・・)
もし宇宙規模の科学で進化の言葉を使わないとしたら、何故生物を扱う時だけ進化論等と言い出すのでしょうか。
そこに進化論の怪しさを感じるんです。
失礼ですが貴方のお名前は何とお読みするのですか?
「りゅうぼく」さんでいいんですか?
>私はむしろカオスを連想します。
私も、カオスを想定していましたが、文脈上おかしな推論でしょうかね(笑。
よく考えてみると、「量における連続的な変化が質的な転換をもたらす」というのは完全な述語命題にはなってないみたいです。
∀量x{∃a{(x>a==>質y=y1)かつ(x<a==>質y=y2)かつ(y2とy1は非常に異なる)}}
∃量x{∃a{(x>a==>質y=y1)かつ(x<a==>質y=y2)かつ(y2とy1は非常に異なる)}}
うーむ、どっちなんだ。全称命題ならたぶん例外が見つかるから偽。存在を言うだけなら真。でも本当は、ほとんどの量xについてとか、非常に多くの量xについてとか言いたいんですよね。そういう述べ方が古典論理記号にはないんですよねえ、困るなあ。
ここで量xと質yは同じ対象についての量であり質であるというのは、まあ当然とはいえ確認しとくのが良いでしょう。で、実は「非常に異なる」というのが非常に曖昧で困る(^_^)。実は質の違いというのも大抵は数値化することが可能です。それも連続量で表現できるので、単に
dy/dx(a)〜無限大
と表現することもできますね。強酸と強塩基の滴定曲線みたいな関数になるということですね。
量の変化が質の変化に転じるというのは、経験からして多くの人にすんなり納得されることでしょう。むしろそれが高じて、「ある数値を境に質が劇的に変化する」と思いこむ誤解の方が危ないですね。例に出た閾値にしても、ある数値を境に低い量では100%安全でその数値を越えると100%死ぬわけではありません。光の波長による色の変化も連続的なものです。そもそも人の感じる色というものが色彩空間に連続的に広がっているのであり、黄色と緑の明確な境界というものはありません。劇的に質が変化する例というと、融点に沸点、強酸と強塩基の中和滴定くらいしか思いつきません。
ところが境界から遠く離れたものだけを見て質の変化が不連続なものだと錯覚するために、「ウイルスは生物か非生物か」といった、ある限度を超えると不毛になる議論に、夢中になったりするものなのです。
大文字ナンさん発言
>量的変化の割合には変化がないのに、質的な変化の方向がまったく異なる次元にシフトしたりする。
具体的に想像されてるものがわからないので何とも言えませんが、なんとなく危ないような。微量変化で全く異なる方向に変化する、という話だと、私はむしろカオスを連想します。数学できっちり定義されてるカオスのことですけど。カタストロフというのもありますが、あれはよく知りません。
閾値の理解には質量転化の概念は不要でしょうけど、他のものを考える場合に、質の変化があるかも知れないなと当たりを付けることができるでしょうね。もしくは閾値というものを知らない人が初めて物質量と生理的効果の関係を考えるときに。残念ながら、最小作用の法則やエネルギー保存則ほどには確固たるものとは言えないと思いますが。
周期律表の縦に並ぶ元素同士の性質は似ている、というのはちょっと質量転化則に似てるかも知れませんね。理論的根拠もあるけれど、もちろん似てない性質もあるし。実験方針を決めるためには有用で定跡とも言えます。
量が質に転化するという話は、だから毎日少しずつでも練習しなさいとか勉強しなさいとかいう教訓として聞いたような記憶もあります。
>閾値概念で判ることを、「量質転化の実例である」と呼ぶのは、...
確かに屋上に屋を重ねるようなものです。
んでも、
閾値概念は、量質転化という概念に含まれる、と捉えるのは、...
有る特定の閾値がからむ現象を、をどう捉え、どう分析し、どんな数理モデルをあてはめるか、という問題に悩む研究者に、思い切り多様な情報を与えます。
量質転化という概念に含まれる、あらゆる分野での研究成果(具体的事例、量的分析、例えば鋼が或る応力の時に突然破壊すること、等)を、参照し、適用できるところは適用する、という道を開きます。
大事なことは、
これら他の分野の事例は、そのままの形では、例えば或る毒物の致死量を求める役には立たないだろう、(金属の破壊と生物が死ぬことは、さすがに相当違う)ということと、
にもかかわらず、或る程度の調整により、相当有益に、応用することが出きるだろう、ということです。
なぜならば、両現象をどちらも或る程度抽象してやれば、「同じこと」になるから、です。
...ボクは浅学にしてそのような事例は知りませんが、多分、そんなことはたくさんあるんじゃないのかなあ?
*大文字ナンさん(Re:どう深まりましたか 投稿者:大文字ナン 投稿日: 9月12日(日)21時09分42秒)
こんにちは。
閾値概念で判ることを、「量質転化の実例である」と呼ぶのは、屋上に屋を重ねるようなものではありませんかと申し上げております。
大文字ナンさんがそのようにお呼びになるのは結構ですし、反対もいたしません。進化論を「万物変化の法則の実例」と呼びたい方がおられればそれもよいでしょう。私は呼ばないだけのことですから。
>ビタミンとかミネラルなどのサプリメントがよく出回っているよにゃ
>で、サプリメント好きに対して
>「サプリメントが身体にいいとかいっても、摂りすぎたら毒になるかもしれにゃーので
> 用量をまもって服用したほうがいいよ」
>と忠告するのを、医者としてどう思う?
別にフツーで当然のことだと思います。ある特定のサプリメントについて、どのくらいの量で有害事象が生じるかについては知りませんが、とにかく「摂りすぎたら毒になるかもしれない」というのは当たり前のことです。
To 花男様
> 進化論とはなんとも信用しがたい学説です。例えば、偶然にことが生じると言うのならば、箱の中に分解した携帯電話を入れておきます。そして100年100万年とその箱を揺り動かし続けても、分解された携帯電話が、元の形には戻るとは皆さん思えないのではないでしょうか?
まぁ、実際に携帯電話をバラして、同様の実験を行ったら、100年と言わず、1年以内に部品同士の衝突で、全ての部品が破損してしまうでしょうね。ヘルメス☆さんが既に書かれていますが、分子レベルの話の例えとしてこの例は適当ではないでしょう。
> 進化論は本当に科学的でしょうか?ダーウィンが死んでからすでに150年ほどたっていますが、今まで決定的な証拠は何一つ発見されていません。それどころか、ダーウィンですら自分の学説が間違っていることを「種の起源」の論文の中で書いています。
この様な意見は反進化論者からは時折聞かれますが、私は不勉強からか、「種の起源」にそのような記述があることを知りません。出来れば、前後の文章と共に引用していただけませんか。
> 最近テレビでもやっていましたが、カブレラストーンをご存知でしょうか?メキシコにある小さな村で発見されたこの石には、なんと恐竜と人が描かれていました。年代は一万年前ほどだそうです。その石が進化論となんの関係があると言われるかもしれません。しかし、もしその石が本当に古代の人間が書いたのであれば、人間は進化などしてはいないと言う事ができるかもしれません。つまり進化論は一応途中に恐竜が人間に進化する前の何期か前としているからです。
私が理解しているIKAの石(カブレラストーン)は、複数の石があり、それぞれに異なる内容が線刻で記されていること。多くの偽造品が存在していることが判明していること。石の発掘状況が明らかなものが無いこと。フェルナンド・ラス・カサス博士(ペルー工科大)が線刻の分析から1万2000年前という作製年代を見積もっていること。位です。
12000年前というと日本では縄文時代初期です。私が疑問に思うのは、
・多くのIKAの石を作るほど人が住んでいたのなら、その痕跡が見つかっていないのは何故か?
・線刻石などは広い地域で同じ傾向(加工技術)を持つ出土品が見られるのが普通だが、IKAの石は比較的せまい範囲内でしか出土しないのは何故か?
・(12000年前という年代を認めたとして)その当時の(居たと言う)恐竜の痕跡が見つからないのは何故か?
> 進化論を否定できる理論はまだまだありますが、進化論者たちはまったく感情的になり学説ではなくただの痴話喧嘩とか化しています。
12000年前まで恐竜が生き延びていたとしても進化論に対する反証にはなりません。もし、IKAの石が科学的に本物であり、恐竜が12000年前まで生存していたということが判明したなら、現在の生物学者や古生物学者、そして進化論者は大喜びするでしょう。何故なら、進化の過程を研究するための貴重な教材を入手できる可能性が増すからです。
そして、花男様にお願いです。
(1)まだまだあるという”進化論を否定できる理論”をお教えください。
(2)”進化論者たちはまったく感情的になり学説ではなくただの痴話喧嘩とか化して”いるという例をお教えください。
私は浅学な為、上記の理論や例を知りません。お教えいただければ今後の参考にしたいと思います。
>花男さん
はじめまして。
この掲示板に限らず、進化論に関する誤解で、「偶然に部品が組み合わさって機能が作られる。すなわち、それは飛行機や携帯電話の部品が竜巻に巻き込まれて、何故か完成品になって落ちてくるようなものだ」という珍妙な言い回しがあります。
この場合、決定的にアミノ酸と機械部品の違いは、“自然界において化学反応や結合が人為的な手段によらずに発生し、組み合わさることが可能”かどうか、です。
アミノ酸のばらばらなパーツは工業製品のそれと異なり、単純な分子の集まりに過ぎません。厳密な加工を必要とする工業製品とはまったく異質なものです。
そして、それぞれが結合し、巨大なものとなっていく過程において、人為的な操作は必要ありません。
この結合や化学反応が自動的に行われるのがおかしい、という意見も聞きますが、逆に化学反応が起きない、と考えることも非常におかしな話です。
金属は人為的な手段を用いなくても酸化します。その化学反応は金属の分子が酸素と結合し、そして酸化するという結果となります。
であるならば、同じような化学変化がアミノ酸には起こらない、と考えること自体が発想としておかしいと思いませんか?
また、アミノ酸の結合によってひも状のDNA/RNAが形成された場合、ほぼ自動的に新しい結合はその先端部において行われる、と容易に推測されます。
これは単純な科学の分子構造を読むことが出来る中学生の科学の知識があれば理解できると思います。
これらの事から完全にランダムに結合が無秩序に行われるのではなく、ある程度の方向性を持ってアミノ酸の結合と精製が行われると考えられます。
>皆様
ヘルメス☆の片手間の時間で勉強した知識ですので、みょうちくりんな誤解をしている点がありましたら容赦の無いツッコミをお願いします。
今宵はちと忙しいので、ちょっとだけ
ビタミンとかミネラルなどのサプリメントがよく出回っているよにゃ
で、サプリメント好きに対して
「サプリメントが身体にいいとかいっても、摂りすぎたら毒になるかもしれにゃーので
用量をまもって服用したほうがいいよ」
と忠告するのを、医者としてどう思う?
「質量転化」という名で法則化されているとは知りませんでしたが、そんなの常識じゃありませんか?
私の見るところあまりに一般的普遍的過ぎて、「○○の閾値はこれだけ」とかいうような具体的法則とは異なり真偽確認の検証にはかからないとは思います。が、具体的法則を見つけるための指針にはなるでしょう。つまり当てはまらないこともある。でもいくら量が変化しても質が変化しない例を考える方が難しそう。とはいえ「質」というのが評価というか認識というか、そんなものが入っていそうな概念ですから質が変化したかどうかの見解が人により異なる場合も多そうです。
他にそんな指針の例を挙げれば、「系に変化を与えると、その変化をうち消す方向の変化が起きる」というようなものがありますね。別の言い方をすれば「因果応報」、ちと違うか(^_^)。流木さんの示した「万物変化の法則=万物は流転する(copy right by ターレス)」もそうですね。
webで調べたらひっかかったのはこれくらいで、あとは「質量がエネルギーに転化」とかいう話でした。でもフッサールは妙なこと言ってますね。自然科学がいつ質を無視したというのでしょう?
http://homepage3.nifty.com/ataraxia/ataraxia03/gaikann.html
だから市民だろうが研究者だろうが考える指針としては有用でしょう。
ターィリーツトーソー、シーツリョーテーンカー、ヒーテーノヒーテー、(チーン)ベンショーホーベンショーホーベンショーホー...(合掌)(チーン)
と、一心不乱に唱えてれば、宇宙の真理を体現できます...という程度の理解で学生運動に飛びこんでった仲間がいました。だから、おっしゃることはよく分かっているつもりです。
「資本主義の中に有る矛盾を止揚して社会主義にいたり、社会主義の矛盾を止揚して共産主義に至る。
...んで、共産主義の中には矛盾は発生せず、永遠に共産主義社会は続き、人は皆、ハープを奏で、歌をうたって毎日を過ごす...。」
って、...否定の否定、螺旋状の進歩はいったいどこにいったんや?!
...さて、皆さんが何度も言っていますが、ある抽象命題を「それだけを使って」演繹してもなんにもならないことは、命題の形式から言っても当然のことでしょう?
だから、「何に変わるか」は、観察や実験によらなければ、分かるわけがないのですよ。もちろん。そのことはエンゲルス自身が、著書の中で、明確に、(実践、という言葉を使って)述べています。
それが、科学的唯物論のタイトルの由来でしょ?思索だけでは真実には近づけないのです。ヘーゲルをひっくり返す必要があったのです。「正反合」や「質量転換」という宇宙の原理が先にあって、それに基づいて宇宙が作られているんじゃないのですよ。その逆です。だから、「お題目」だけではなんにもならない。
つまり、お題目「だけ」では、なんにもならない。
To 流木さん
>どのように理解が深まられたのでしょうか?閾値を量質転化の例として後付けただけではないのでしょうか?
「閾値を量質転化の例として後付した」ことが、「どのように理解を深めていないのか?」を、流木さんは明確に論じることが出来るのでしょうか。私には、出来ません。
これは、化石や孤島の生物の生態を観測することで、生物進化仮説を推論したことにも当てはまりませんか?ある現象を観察して、その裏に潜む法則性を発見することは「後付け」ではないのでしょうか。
ある量的な変化が質的な変化に対応しているかのように見えている時、明確ではないかも知れない閾値付近において、量的変化の割合には変化がないのに、質的な変化の方向がまったく異なる次元にシフトしたりする。いわゆるバランス・セオリーとも考えられますが、このような閾値に関する知識の背景に量質転化の概念があることを、完全否定することは出来ないでしょうし、その必要も「まったく」感じません。もし、量質転化の概念を「まったく無意味で無用の考え方である」とされたいのでしたら、それを論証すべきはむしろ流木さんの側でしょう。
#酒を飲み続けると、ある閾値付近では気分が高揚し、ある閾値付近では消沈するなどして、最終的には沈静化していく。閾値は個体によって大きく異なり、これらは肝臓のアセトアルデヒト脱水素酵素群の遺伝子型などの影響を受けているが、それ以上に通俗的な表現を使うなら「セット」によって変化する。これは本来、沈静作用を持つはずのアルコールが、量的な変化と共に多彩な質的変化をもたらす好例だと思います。
#上記のような概念を、定性的、定量的に統計化して普遍化(科学的な理論化)することは甚だ難しいでしょうが、だからといって「科学はない」とも言えないでしょう。
#閾値については、さらに「経時変化」を添えて考察することで、たとえば「高血圧症」を診断する際などに役立つと思います。たとえ高血圧症の指標に至っていない測定値であっても、時系列に基づく変化のグラフを見れば、隠れた病理(または未病)を発見することも可能となるのではないでしょうか。
私はキリスト者ですが、創造論者では、ありません。最近、下の掲示板で議論しました。私はそこで「てつお」という名前で書いています。教会は創造論でしたが、私は地質を専攻しましたので。ただ、神学的な考察の方も大事だと思います。
はっきり申し上げると、聖書的記述で科学を結論づけるのは誤りです。また、科学的思考で聖書の誤りを正し結論づけるのも同じように、誤りです。なぜならわたしたちにもまだ知り得ないことがあり、み言葉の深い理解は尊敬を以て読む者のうちにあり(その事項は常に現在であり続ける)、○か×でしかないなんてあり得ないからです。
http://members.at.infoseek.co.jp/kuha_72/bbs.html
*おずおずさん(横レス>予想可能? 投稿者:おずおず 投稿日: 9月12日(日)09時53分54秒)
こんにちは。
>>弁証法は、思い切り抽象化された命題群です。まさに、「世の中の物は全て変化する・」みたいな、「それがなにか?」といいたくなるようなレベルのものです。
そういう出来合いの図式を、個別に調べるという段階をすっとばして適用すると、トンデモ説に容易に転化してしまいます。「世の中は変わっていくから、資本主義は永遠に続かない」というところまでは頷(うなず)けたとしても、「資本主義の後に社会主義・共産主義の世の中が来るのは歴史の必然だ」という結論を示されて、「世の中のものは総て変化する」と知っているだけではそれを誤りだと退けることはできません。
「ものごとは変化する」というだけでは、「ものごとは変化しない」というのと大差ありません。ある範囲においては、ものごとは変化しません。ある朝起きてみたら、巨大な毒虫に変わっていたりすることはありません。人間からワニやアヒルの子どもが産まれるわけでもありません。適用範囲を誤れば、「ものごとは変化する」という見方もトンデモ説につながり得るのです。
>>例えば直角三角形が平面図形の中に含まれている、といった理解は、屋根の上に屋根を重ねることでしょうか?この理解こそが直角三角形と他の図形との橋渡しをして、直角三角形の理解を深めるのではないでしょうか?
直角三角形の集合は平面図形の集合に含まれるだけです。それを知ったからといって、直角三角形についての理解は深まりませんよ。
「あらゆる物事は変化する」という「万物変化の法則」を先にでっちあげましたが、例えば、「進化論とは生物学分野における万物変化の法則の別名なのである」ということによって、進化論についての理解が深まるのですか?
もちろん、そう呼びたい人は好きなだけお呼びになればよいし、私はそれに対して反対するつもりはありませんが、「そんなことをして、何になるの?」という素朴な疑問を抱かざるを得ません。
*遠藤さん(市民の武器 投稿者:遠藤 投稿日: 9月12日(日)11時13分22秒)
こんにちは。
>>結論として、市民が量質転化の概念を理解することは、ニセ報告や疑似科学に騙されない有効な方法だと判断します。
量質転化や、弁証法を知っていたところで、擬似科学に騙されなくなるわけではないと思います。メンデル遺伝学を「ブルジョア理論」とするルイセンコ学説はその弁証法的な装いゆえにソ連共産党公認の学説となって、害悪を撒き散らしました。
「ものごとは変化する」というだけでは、「鉄や銅が金や銀やプラチナに変わる」という錬金術(正確には、錬金術の通俗的な理解)を否定する役には立ちません。むしろ、「変化するのだから、何かすれば金や銀に変わるかも知れない」という結論を導くかも知れません。
>>※おそらく、流木さんは閾値概念という用語を生物学だけに当てはめていないと思う。
心理学でも閾値は使いますね。臨界値という言葉もあります。
ここのページで紹介されている「イカの石」って、要はカブレラストーンですよね?(笑)
http://www2.plala.or.jp/daisinjitu/koumoku.html#
*花男さん(進化論否定者 投稿者:花男 投稿日: 9月12日(日)15時43分22秒)
こんにちは。
この掲示板に書き込まれるのなら、まずはこちらのトップ・ページにあるFAQ(よくある質問と答え)ぐらいはお読みになったのでしょうか?
進化論批判については、私のサイトでも少しばかり取り上げておりますので、よろしければそちらもご参照下さい。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/kgh_main.html
せめて、カブレラストーンだけじゃなくて1万年前のものと鑑定される恐竜の骨とか出てくればいいんですけどねぇ。当時恐竜がいたのなら、その骨(化石化していないほど新しいかも)とか、それを彫って作った加工品(矢じりでも釣り針でもいいから)とか、一緒に出ていそうなものですが。
もちろん、その当時の人間の骨もね。
To 花男さん
> 進化論とはなんとも信用しがたい学説です。例えば、偶然にことが生じると
>言うのならば、箱の中に分解した携帯電話を入れておきます。そして100年
>100万年とその箱を揺り動かし続けても、分解された携帯電話が、元の形に
>は戻るとは皆さん思えないのではないでしょうか?
上記のような喩えをしている時点で、自然選択説を誤解していることがわかります。
自然選択説っぽく喩えるなら、下記のようになるんじゃないでしょうかね?
1)分解した携帯電話の部品を箱に入れる
2)箱をゆする
3)正しい組み合わせの出来た対のみを残して他は再度ばらばらにする
4)2)に戻って繰り返し
上で言う 3) の過程のような選択がなければ、自然選択説の喩えにはならないと思います。
もっとも、1)の時点で10台分の部品を入れて箱をゆすり、3)の時点で正しくない組み合わせは取り除く、の方がより的確かもしれませんが。この場合、3)の時点で正しい組み合わせの対が10組になるように部品を補充しないといけませんけどね。(世代ごとに、子の数は親の数より多いとするモデル)
>カブレラストーン
まず、このカブレラストーンが捏造でないことを証明しないといけないでしょうね。
そして、本物であったとしても、当時の人間が想像で描いたものである可能性も否定できません。
昔の人だって、その当時の知識でSFやファンタジーくらい書いたでしょうしね。
>昔のジャンプでトイレねたというと、月刊のほうだったかもしれないけど、「トイレット博士」なんてのがあったような。
懐かしすぎる!!!
てんいかりて、ぜんにんをたつ
りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!!!
たしか、こんな呪文をかけるのだ。
To 花男殿
質問
以下の著者の本を一冊でも読んだことあるじゃろうか?
チャールズ・ダーウィン
リチャード・ドーキンス
スティーブン・ジェイ・グールド
特に携帯電話云々はリチャード・ドーキンス「盲目の時計職人」を読んで、
それでも分からなければ質問していただければええんじゃないかな?
進化論とはなんとも信用しがたい学説です。例えば、偶然にことが生じると言うのならば、箱の中に分解した携帯電話を入れておきます。そして100年100万年とその箱を揺り動かし続けても、分解された携帯電話が、元の形には戻るとは皆さん思えないのではないでしょうか?
進化論は本当に科学的でしょうか?ダーウィンが死んでからすでに150年ほどたっていますが、今まで決定的な証拠は何一つ発見されていません。それどころか、ダーウィンですら自分の学説が間違っていることを「種の起源」の論文の中で書いています。
最近テレビでもやっていましたが、カブレラストーンをご存知でしょうか?メキシコにある小さな村で発見されたこの石には、なんと恐竜と人が描かれていました。年代は一万年前ほどだそうです。その石が進化論となんの関係があると言われるかもしれません。しかし、もしその石が本当に古代の人間が書いたのであれば、人間は進化などしてはいないと言う事ができるかもしれません。つまり進化論は一応途中に恐竜が人間に進化する前の何期か前としているからです。
進化論を否定できる理論はまだまだありますが、進化論者たちはまったく感情的になり学説ではなくただの痴話喧嘩とか化しています。
>少年チャンピオンなのですわ〜・・・・ありがとうです。
どこの本屋さんを、探してもないのです。
もう一度、読みたい本です。
「死刑」の、ポーズ覚えていますか?
進化論って何ジャーーーーーーーーーーーーーーーーー!
昔のジャンプでトイレねたというと、月刊のほうだったかもしれないけど、「トイレット博士」なんてのがあったような。
ジャンプじゃなくてチャンピオンでは?
少年ジャンプのこまわり君知っている人いますか?
こまわり君>ブラックジャック
>>閾値概念とは、量質転化の生物学分野における呼び名であり、量質転化の概念は閾値概念を包含するといいえる。(地下に眠るMさん)。
>お呼びになるのは結構ですが、屋根の上に屋根を重ねるようなことをして、何か意味があるのでしょうか?閾値概念を理解していれば済むことです。(流木さん)
量質概念は閾値だけじゃないですよね。便意の単位ゲリーもそうだし、金属への応力印加の増大による、バネ挙動〜永久歪発生〜破断もそう。誘電体への電圧印加の増大による絶縁破壊もそう。こうした個々の概念の上位概念を「量質転化の概念」と呼ぶことに、私は問題を感じないのですが。
>酸素酔いを知っている立場で、後から考えてみれば、「そういえば、これって量質転化だよな」というだけでしょう。(流木さん)
おそらく全ての事象に量質転化は存在するでしょう。一人の人間があらゆる科学分野に精通することなど不可能です。しかし、こうした概念を理解しておくことは重要でしょうね。「酸素がありすぎても体によくない」「ある応力以上になると金属はおかしくなる」「ある電圧以上でコンデンサはブッコわれる」。具体的な数値は必要になれば知ればいいと思います。
結論として、市民が量質転化の概念を理解することは、ニセ報告や疑似科学に騙されない有効な方法だと判断します。「絶対安全な原発なんて嘘っぽい」「性格や知力全てが遺伝子で決まるってどーなのよ」「こんなに僅かの添加剤で体に悪いの?」
疑問が生じれば調べられますが、生じなければ調べませんよね。
※おそらく、流木さんは閾値概念という用語を生物学だけに当てはめていないと思う。
>量質転化で分かることは、「酸素の濃度が変化すると、何かが起きるだろう」ということだけです。
或る命題の抽象化レベルよりも「具象化された」結論を、その命題だけから導き出されるわけがない。その意味においては上の記述はその通りでしょうね。
また、この命題は「定性的記述」なのだから、これから量的結果を(一酸化炭素濃度が具体的にどれだけになったら、人間の身体に何が起こるかを予め知ることができますか?)導けるわけがない。これは命題そのものに含まれている限界であり、いわば当たり前のこと。
>屋根の上に屋根を重ねるようなことをして、何か意味があるのでしょうか?閾値概念を理解していれば済むことです。
例えば直角三角形が平面図形の中に含まれている、といった理解は、屋根の上に屋根を重ねることでしょうか?この理解こそが直角三角形と他の図形との橋渡しをして、直角三角形の理解を深めるのではないでしょうか?
弁証法は、思い切り抽象化された命題群です。まさに、「世の中の物は全て変化する・」みたいな、「それがなにか?」といいたくなるようなレベルのものです。
知っているから、そう思うのです。
今の社会制度は永遠に変わってはならない(日本の伝統を!)とか叫んでいる人が、
「日本の伝統は変化しながらここに至っているのであって、オレが「永遠に続くべき日本本来の姿」だと思っているのは、たかだか100年前に出現した、移ろいゆくものかもしれない。」
と思い返してみることも出来ないで、フリーズ状態に陥っているのを見るに付け、
「弁証法」っての、読んでみたら?目からウロコだよ♪
って、言ってあげたくなる。
>>量質転化概念を理解していれば、「酸素酔い」という事態は予想可能だにゃ。
量質転化で分かることは、「酸素の濃度が変化すると、何かが起きるだろう」ということだけです。「酸素酔い」という事態を予想できるわけではありません。酸素酔いを知っている立場で、後から考えてみれば、「そういえば、これって量質転化だよな」というだけでしょう。
*地下に眠るMさん(回答の矛盾 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 9月11日(土)22時48分9秒)
こんにちは。
>>閾値概念とは、量質転化の生物学分野における呼び名であり、量質転化の概念は閾値概念を包含するといいえる。
お呼びになるのは結構ですが、屋根の上に屋根を重ねるようなことをして、何か意味があるのでしょうか?閾値概念を理解していれば済むことです。
量質転化を包含する「万物変化の法則」(「あらゆるものは変化する」という法則)とかをひねり出しても、腹の足しにもならないと存じますが?それともこの「万物変化の法則」なる代物は、非専門家である市民にとって極めて有用で実践的なのでしょうか?
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。