このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
進化論が間違っていることで、実際に私達の生活で困ることなんてあるのでしょうか。あるとしたら具体的にどういったことでしょうか。
例えば、ニュートンの万有引力の法則がまちがっていたら、人工衛星を打ち上げられないでしょうし、電気に関する法則に問題があれば、電化製品が動かなくなるでしょう。では、進化論の場合はどうでしょうか?
誰も遊んでくれにゃーので(泣)、首を突っ込むにゃ。
この交雑の議論を読んでいると(ざっとだけどね)、やふ あたりの中絶トピの議論にかぶっていると思えるのですにゃ。
中絶を絶対禁止とかぬかすお歴々は、受精の瞬間からそれはニンゲンであって、中絶は殺人だというわけよ(アフターピルも殺人らしいけどね)。彼らは「ここからニンゲンだ」という決定的な1点が存在し、それは受精の瞬間しかありえにゃーと考えているようなのですにゃ。(実はその考えは、「魂の注入」という考え方にほかならにゃーのだが)
それに対して、発生というのはいくつかのエポックといえる出来事(減数分裂とか受精とか着床とか神経系の完成とか)はあるけれども、基本的には連続的なプロセスであって、どこからニンゲンだと「カガク的」にはいえにゃーと、多少なりともカガクを適切に評価できる者は主張しているわけにゃんな。
種の分岐においても同じことにゃんよな。
生態的隔離から行動的隔離、ちんこまんこの大きさや形状、精子と卵子が接合するか否か、などなど、多種多様な線引きが可能であり、「・・・・な観点にたてば、AとBは別種(同種)です」としかいいようがにゃーのではにゃーだろうか。
「とにかく精子と卵子が接合すれば同種だ」
という言明は
「とにかく精子と卵子が接合した時点でニンゲンだ」
という言明とほぼ同じなのではにゃーかと思う。
※連続した量の変化が質的に違う意味を持つ、ということは確かにありえる。
前もいったけど「致死量」という概念なんてそうだにゃ。
ただ、すぐそばに毒に対してある程度常識的な処置が取れる人がいる場合
毒に対して非常に詳しく、適切な処置を取れる人がそばにいる場合
毒に対する専門家集団とそれに対する設備(解毒剤なども含む)がそろっている場合
など、状況次第で「致死量」が変わることもまた確かだにゃ。
>交雑は可能だが、しない、というケースは「交雑可能」のケースに含めています。
生態的隔離(生息場所や食性が違うから出会わないなど)とか行動的隔離(性行動が異なるなど)とかなら、それでも何とか納得できるけど、「雑種の妊性が非常に低い(0ではない)」というようなものまで、「交雑可能」の中に入れてしまうのはやっぱり問題があるのでは?
>(3)ラバ(>たまごちゃん(^-^)ノさん)
>不妊というのは種の分化にはなりません。あるグループとは交雑可能だが、別とは不可能、というのでなければなりません。
うん?言っている意味がよく分からないな。もしかして、私がラバは不妊だと言っていると思っている?もう一度確認させてくださいね。
ラバの雌は妊性を持ち、ロバまたは馬の雄と交配させることが出来ます。つまり、ラバの雌、クォーターの雌…を使えば(どの程度一方の血が薄まると雄の方にも妊性が生じるのか良く分からないけど)、ロバと馬を互いに無理やり交雑させることが可能なのです。
(本当に見境がないのは女のほうなのかもしれないねぇ>おずおずさん)
ほんのわずかな確率でも可能だったら「交雑できる」の方に入れる、というふうさんの定義に従うなら、ロバと馬とは当然同種ですよね?少なくとも別種ではないですよね?
ロバと馬を同種としてしまうような種概念は、私にはどう考えても実用的ではないように思えるのですが、いかがでしょうか?
動物園かどっかに飼われていたやつが逃げ出し、ニホンザルと交雑している。捕獲すべきかどうか問題になっていたのは、去年だったから2年前だったか。
せっかく別種として進化の道を歩んでいたのに、人間がそこに介入してまぜっかえしてしまった。
これなんて、人間が神の所行を犯したことになるんじゃないでしょうか?
まさに、不遜!
天罰を下すべし、、、(^^)
>進化論モデルは、「互いに交配できる生物群」が「互いに交配できない生物群のグループ」に分岐するというものですよね。
>その過程では、進化論モデルが正しいとすれが、私が先に示したような「中間状態」が絶対に必要です。
>おずおずさんの挙げている「亜種」というのは、「交配可能」なのですから、「中間状態」ではありません。
「交配可能」と「交配不可能」の中間は、記号論理学ではなく生物学を適用するのなら、
「交配が難しい」です。
全ての精神分析理論は仮説にすぎないと言うことです。要は患者の病気が治ればいいと和田秀樹は言ってます。
別の「種」であると言うことの定義は、「種A」と「種B」とは交配できない、ということである。したがって、たとえ1億分の1でも交配可能であるならそれは「種」とは言えない。
似たような論理
砂とは、平均直径1mm以下の岩石の粒である、と定義する。
この場合、1.0000001mmの岩石の粒は砂ではなく石である。
さて、この岩石の粒から、この岩石を構成する分子を1つずつ取り去っていく。
これ以上ない漸進的変化は、ある1分子の取り去りの時点で劇的変化を起こす。石が砂に変身したのだ!
つまり、石と砂とは連続性を持たない。
それって、単に定義だけの問題。岩石学じゃなくて、記号論理学...。
それと、念のため...
ダーウィンもドーキンスも、例えば鯨とネズミの間に、直接の中間生物がいなければいけない、なんて言っていない...。
一般的に言って生物学には2値論理は適応できないとおもいます。確率論的存在には線は引けない。
精神分析といっても、フロイト学派のものだけを指すのではありません。また、フロイト流の精神分析が「保険適応」されるのは「解離性障害」においてのみであり、統合失調症全般においては、たとえば夢診断することも認可されていません。
ここからは余談になりますが、いわゆる「気分障害」を「抑うつ障害」などと最近では表現するようです。さて、この「抑うつ障害:うつ病」を精神病とするのか、そうではなく「症候群・障害の一種」とするのか、という議論が今でもあるようです。主流は「うつは精神病ではない」に傾きつつあるようですが、どちらにしても「行動療法」などの「実験心理学から派生した治療技法」が、精神分析療法のひとつとして、この症例(社会的不適応:摂食障害・登校拒否・不安神経症・対人恐怖症など)に対する有効性を、医学界からも支持されていると言えるようです。
ふうさん、はじめまして。
さて、いきなりですがふうさんは一体なにに反論しているのだろう。種の分化についてだということは分かる。しかし、種という定義など私やあなたと同じ人間が、自然を観察して「恣意的に、便宜的に」行っているのに過ぎないでしょう。
あくまで、ドーキンスが試みた「進化は累積的変化の積み重ねでなければならない」という文脈に反論しているのだ、というのなら分からなくもありません。しかし、ドーキンスは「モーゼたちの行進」の喩えで示したように、進化を(時間スケールに対して)線形な変化とばかり「定義している」わけではないでしょう。
ドーキンスが(主にグールドの断続平衡説に対して、だと思うけれど)反論したのは、加速度的に変化が起きることも、一見定常状態に見えることも「どちらも漸進的進化で説明ができる」という点においてだと思うのだけど。
マクルーハンならこっちのリンクの方がよかったかにゃー
リンク先で言う「文字文化」と「電子メディア文化」という二項対立を
発展などと捉えずに
二種類の異なる妄想と読んだほうがよほど正しいように僕には思えますけどにゃ
構造主義哲学においては、この二者の対立をパラノイアとスキゾフレニーの対立と見做しましたにゃ
どっちもイカレテイル、ってね
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/lec02/McL00.html
うむ、我ながら粗雑な喧嘩の売り方だにゃ。
これなら誰か買ってくれるだろう、にゃはははは
(喧嘩は粗雑に売ったほうが買ってもらえるものですからにゃ)
さて、この「外部環境を内部環境化」というのは、実はある種の文明論そのままだにゃ。
http://www.jkokuryo.com/literature/bs/review/doctor2002/Mcluhan%201962%20Hattori%20rev01.htm
生物学で言う「環境」というコトバにはいろんな使い方がありましてにゃー。生物体内部の恒常性(ホメオスタシス)を「内部環境」とかいういい方もあるよね。
この概念を借りていえば、
・文化とは、外部環境を内部環境化する試みである
といえるわけだにゃ
ちょうど、僕たちの細胞ひとつひとつは直接的には外部環境に適応せず、内部環境に適応しているように、ニンゲンひとりひとりは直接的には外部環境に適応せず、内部環境たる文化に適応している、ちゅうことですにゃ。これはさして珍しくもにゃー考え方にゃんな。国家有機体論は、馬鹿右翼の大好きな理屈にゃんからね。
ただ、細胞に対する個体は実体のある概念にゃんが、個人に対する文化は実体のない妄想だと僕はいいたいわけだにゃ。
ちゅうわけで、僕が喧嘩を売っていることは御理解できますかにゃ?
個人は文化に適応し、文化が環境に適応する、という僕の前提を受け入れて
しかも、文化は妄想に過ぎないというところを受け入れにゃーというお方は
即ちファシストということになるわけにゃんな
(1)普通に交雑できる、(2)できるけど(出会いがないなどの理由で)しない、(3)解剖学的制約から交雑できないが人工授精すれば可能、(4)人工授精にさらに+αの工夫が必要、(5)何をどうやっても無理
野生生物を普通に自然観察する限りでは、(2)に関してはまれに出会いが生じて雑種ができることもあるでしょうが、(3)と(4)は(5)と同じですよね。「中間状態」を観察できないのはそういことでしょう。
ちなみにチワワとセントバーナードは、単なる人工授精ではだめで、体外受精させて中間の大きさの犬の子宮を借りれば可能かも知れないということらしいので(4)になるのかな?
ところで、ニホンザルをはじめとするマカカ属のサルのあいだには、繁殖力をもった雑種ができますが、別種と見なされています。さらに、ヒヒ類とも交雑可能らしいのですが、別属とみなされます。ふうさんの定義ではこれはすべて同種なのでしょうが。グループ間で明白な形態的特徴の差異が存在し、潜在的に交配可能でも、通常は互いに交配しないものを別種と見なし、形態的差異が比較的小さく地理的に棲み分けているグループを別亜種と見なすのが今の分類の実情のようです。生殖隔離がどのように確立するかと進化論の確からしさとはあまり関係ないような気がします。
考えてみれば、脳内メモリー空間がある容量に達した動物であれば、「外界」と「内界」にある程度の齟齬がでてしまう可能性は常にあるわけだにゃ。
したがって、先の妄想の定義によれば、動物も妄想を持ちえることになるわけだにゃ。
ただし
動物にとって、妄想は常態ではにゃー。妄想は常に修正を迫られているものだにゃ。
ニンゲンと常に関係を持つ動物、特に感情的なつながりをもつ動物(つまりペットね)の場合は、ニンゲンの妄想にあわせたほうが都合がいいので、妄想を共有するのではにゃーだろうか。
前にも触れたけど、K.ローレンツは、他の種の動物と感情的な紐帯がもてる生き物はニンゲンだけであるというようなことをいっていますにゃ。これは、ニンゲンだけが妄想を常態としているからだと言ってみますにゃ。
ハチ公は確かに妄想をもったかもしれにゃーが、妄想の共有者たる御主人がいなくなってしまったら、その妄想を修正しなければならなかったのだにゃ。しかし、修正できなかったので死んだわけだにゃ。
ある程度の脳内メモリー空間を持つ動物に共通する生態として、何がしかの養育期間を持つことがあげられると思われますにゃ。ぶっちゃけ、ある程度の賢さを持つ動物は、親子関係を経験しているというわけ。
そして、ニンゲンと動物の関係というのは疑似的な親子関係であると考えられますにゃ。とにかく、ニンゲンと動物の関係の基本は餌付けを基本にするわけで、あとは外敵から守ってあげているわけでしてにゃ。これを親子関係と言わなければ何を親子関係といえばいいのか、ちゅうとこですにゃ。家畜の心性というのは、野生動物の子どものそれなのだ、とシートンだかローレンツだかがいってたにゃ(出典忘却)。
ペットの側の「子ども」としての振るまいが、飼い主たるニンゲンを心理的に満足させているともいえるわけね。
動物にとっても、親に追いだされるというのはツライ経験であり、できればずっと依存して生きていけたらそれにこしたことはにゃー。ちゅうわけで、こうした動物とニンゲンが妄想を共有する素地は十分にあるわけですにゃ。
つまり、ニンゲンという生き物は妄想を常態とし、動物ですらその妄想世界に引き込むことのできる唯一の生き物である、ちゅうことになるわけだにゃ。
みなさん、こんばんは。
(1)交雑可能/不可能(>RYU_TI_SYU さん)
おっしゃるように、交雑可能/不可能というのは、定義のしかたによって、いろいろ可能です。私が考えているのは、ヒトとイヌ、チンパンジーのように「どうやっても無理」という状況を考えています。
交雑は可能だが、しない、というケースは「交雑可能」のケースに含めています。
(2)トートロジー(>おずおずさん)
進化論モデルは、「互いに交配できる生物群」が「互いに交配できない生物群のグループ」に分岐するというものですよね。
その過程では、進化論モデルが正しいとすれが、私が先に示したような「中間状態」が絶対に必要です。
おずおずさんの挙げている「亜種」というのは、「交配可能」なのですから、「中間状態」ではありません。
(3)ラバ(>たまごちゃん(^-^)ノさん)
不妊というのは種の分化にはなりません。あるグループとは交雑可能だが、別とは不可能、というのでなければなりません。
>で、この状態を見る限り、2つの種の間には中間「種」はないように見える。
の、「種」を、「生物群(亜種)」と訂正させてください。
この「生物群」は、両「種」と交配できるから、定義上、「種」ではない。
すみません、先の投稿のタイトルで、「さん」が抜けていました。お詫びします。
>現在、「中間状態」というのが、まるで確認されていない。なぜでしょう??ヒトについては、「たまたま」種の安定期である、というのでいいでしょう。しかし、ゴマンといる種があれもこれもが「たまたま」安定期なのでしょうか??種というのは一斉に、種→中間状態→種…の連鎖を行うのでしょうか??それはありえない。
ふむ。そういうことがおっしゃりたかったのか。
んでは、こんな例はどうだろう?ラバのオスは知られている限りでは全て生殖能力のある精子を作れない(そんなにたくさんのラバが作られているわけではないの出10000匹くらい作れば1個体くらいは例外があるのかもしれないけど)のだが、ラバのメスは大部分が妊性を持ち、馬またはロバのオスと交配させることが出来ます。これってふうさんの定義では同種ですか?中間ですか?別種ではないですよね?
こういうのを中間とみなす場合、中間状態と言うのはおそらくかなりたくさん存在します。
>俺はチンパンジー(系統)と交雑できるのに、あいつは無理だ」と、いうわけです。
より正確に表現すると、「俺とチンパンジーのマリリンちゃんとの間の息子が生殖能力を持つ確率は0%、娘が生殖能力を持つ確率は3%だけど、あいつとチンパンジーのモンローちゃんとの間の子供が生殖能力を持つ確率は息子娘共に0%だ」とかになるのでは?なんで「交雑ができる/できない」のラインにそんなにこだわるのか良く分からないなぁ。
こんばんは。はじめまして。
(1)ボルバキア(>>diamonds8888x さん)
ボルバキアについては、
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ken/news-back/030117a.html
で、確認しました。
この場合ですと、種の分化にはあまり関係ないのではないでしょうか。
ひとつの種の中で、単に、ボルバキアに感染したタイプが非感染タイプを駆逐するだけのような。
感染していない雌は、感染していない雄としか、子孫を残せない。そういう点では、「自分はあの雄とは交雑繁殖できるが他の雄とは交雑繁殖できない」と、いうことになり、「中間状態」のようにみえます。しかしこれは、別段、世代ごとに分化が進むということにはなりません。感染していない雌と感染している雄同士の子である感染していない雄も、感染した雌と交雑繁殖でき、その子孫は感染した雄と雌になるのですから。
(2)昆虫のアナーキー世界(>NORTONV世さん)
一応、交雑可能/不可能という基準と設けているので、
>昆虫の場合、形態/生態/DNAにより明らかに別種と認められる種間の交雑種で、生殖能力>を有する場合がしばしばあります。
そのようなケースは、同種として考えます。「種」の定義の問題です。
私がいっている中間状態というのは、A集団とB集団とC集団があって、AとBは交雑可能、BとCは交雑可能、しかし、AとCは交雑不可能、というような状態です。
(肺が先かウキブクロが先か、には目をつぶっておいてください。)
或る時代には、「魚」と「両生類」という2つの「種」は存在しないのです。同じひとつの種、「魚」の中の二つの亜種。
それが進化が進むと、「魚」と「両生類」にまで分かれる。中間種は最新モデルに駆逐されて絶滅するのです。
で、この状態を見る限り、2つの種の間には中間種はないように見える。ところが、...。
この「両生類」の中にやがては虫類となる、幼生期においてもほんの少し乾燥に強い「両生類の亜種」が存在しているのです。つまり、「両生類」という「種」は、その同一性については、決して安定していないのです。
種→中間状態→種、ではなくて、種=中間状態、なのです...。
(うん。我ながら良くできたお伽噺だ♪)
>0.994と0.999は、そのような判定法では同じ「種」の仲間になるけれど、もし少数位下3桁めで「切り捨てる」と、違った値(亜種)になる...。
を、
「四捨五入」すると、に訂正させてください m(__)m
>現在、「中間状態」というのが、まるで確認されていない。なぜでしょう??ヒトについては、「たまたま」種の安定期である、というのでいいでしょう。しかし、ゴマンといる種があれもこれもが「たまたま」安定期なのでしょうか??種というのは一斉に、種→中間状態→種…の連鎖を行うのでしょうか??それはありえない。
えっと...。
種の定義は、色々ありますが、その中に、「他の生物群と交配できないことをもって区別できる集団」と言うのがあります。もちろんこれも、他の方が何人もおっしゃっているように、固定的なものではありませんが。でも、とりあえずほ乳類では比較的正しいでしょう。つまり、「ある種と別の種の間では交配できない。」のです。別の言い方をすると、「互いに交配できない生物群を、種、と呼ぶ。」
つまり、「種」間では交配することが出来ない、という命題は、「種」の定義から来る、トートロジーじゃないか、と思うのです。
さて、「ある種」に属する生物集団を子細に見ると、もちろん個々の生物はそれぞれ異なっています。それを分類すると「亜種」等に分けることも出来ます。
これらの間では、もちろん、交配は可能です。(地理的隔離等により自然界ではあまり交配は起こらなくても。)
そう考えると、種と種の中間状態を捜したいのなら、「種」と「別の種」とを比べていてはいけない。「亜種」或いは、「亜種」と別の「亜種」の中間を捜せば、ふうさんの捜しているものが見つかるのじゃないでしょうか?
つまり、「亜種」とは、「交配が不可能なほどではないが、地理的自然的隔離による違いが相当程度にまで開いている生物グループ」である。
そして、今は「亜種」の程度にしか分かれていない彼らは、やがては別の「種」にまで、分かれていく...。
0.994と0.999と1を、たったひとつの判定、「整数位で切り捨てると違った値になる」で判断しているようなもの、じゃないかなぁ?
0.994と0.999は、そのような判定法では同じ「種」の仲間になるけれど、もし少数位下3桁めで切り捨てると、違った値(亜種)になる...。
あまり自信はないですけど...。
To JA50様
>なんか錨の役目ばかりすることになりますが
いえいえ、貴重な錨と存じます。しかし
>幻想という用語を使ってはどうかというのに、私も賛成。
八月の濡れた砂や、飛び出せ青春に郷愁を覚える世代としては「幻想」というと、どうしても、ばななパパの登録商標のイメージが・・・
(あと岸田秀センセも・・・)
あれより、今回の議論はずっと範囲が広いし、切り口も無論違いますが(さすがは進化論の掲示板だ)
同一種内の個体同士でも100%交雑(?)可能って有り得るんじゃろうか・・・
生殖機能、行為に何の問題も無いのに、できないときはできないじゃろう。
受精能力のみに目を向けてもいけない気がするんじゃが・・・
・求愛行動
・繁殖時期
・性器の形
等も考慮に入れないといけないんじゃなかろうか?
To:tema様
れぇ〜い〜こ〜(一部の人以外意味不明)
これって
ひっとのぉふこおぉぉぉ〜
ってやつですか?
BGMちぇんじ
あ〜いあまな〜きすと
あ〜いあまあ〜んちくらいすと
to:ふう様 はじめまして、この板では進化論に最も疎い新参ものですが宜しくお願いします。常連の皆様への統括の返事を出されるのに乗り遅れてしまいました
昆虫の場合、形態/生態/DNAにより明らかに別種と認められる種間の交雑種で、生殖能力を有する場合がしばしばあります。
http://www.city.himi.toyama.jp/~35200/BIOTOPE/Sympetrum%20eroticum%20eroticum.htm
このトンボの交雑個体なんぞの内には、交雑後何世代かを経たために、両親由来の核のDNAのパターンはすっかり元のこのトンボの物であったが、母親由来の、ミトコンドリアDNAのパターンは、最初に交雑した別種の物であった例などがあります。(この記事に名前の出てくる二橋さんの息子さんが、その手の解析が得意なんですが---学校の機器を使えるモンで)
おそらく、同様な交雑が起こっても、子が繁殖能力をもった場合も、もたなかった場合も、まともに受精しなかった場合も色々あったはずで、この辺常連の皆様のおっしゃる「中間状態」相当かと。
小生はこの辺の昆虫の事しか知りませんが、甲虫などでも似たような観察例はあるんじゃないでしょうか?種って言うのは昆虫に関する限りえーかげんなもん(で、そのえーかげんなところを細かく追求するのが楽しいって仁もいるんですな。これが)
虫さんにとっては、交雑できる/出来ないなんぞのラインは、羽の筋が一本多いか少ないか位の意味しかないんでしょ
長くなりすぎたので、分割投稿します。
##### 補論です。皆様の個々のご指摘について、考えてみました。
(1)チワワとセントバーナード(なまけものさんへ)
これについては、体型の問題で交雑不可能ということなのではないのでしょうか。
人工授精なりなんなりすれば可能ですよね。交雑可能/不可能というのは定義次第で変わってしまいます。私が交雑可能/不可能として考えているのは、ヒトとイヌ、チンパンジーのようなラインです。
(2)確率論的連続性(たまごちゃん(^-^)ノ さんへ)
ヒトが鳥のように飛べる/飛べないは、確率論的な問題ではありませんよね。
なぜ交雑可能/不可能が確率論的問題とおっしゃるのでしょうか??
(3)環状種(再び、たまごちゃん(^-^)ノ さんへ)
長谷川眞理子著「進化とはなんだろうか」第五章に、カモメの「輪状種」について紹介されています。このことでよろしいのでしょうか??
中間状態の実例かな、と思って読んだのですが、そうではないようです。
単に、「交雑可能だが、しない」という例です。
このような例なら、ショウジョウバエの実験でも、比較的容易につくりだすことができるそうです。
(4)「点突然変異」(三たび、たまごちゃん(^-^)ノ さんへ)
それも結局、地理的隔離と同じことになると思います。
昔、そのような理論を大学で教わって、なんとなく、原人の群れの中に新人のアダムとイブが手を携えて出現する、というようなことを想像しました。(間違いですが。ちなみに、手塚治虫の「火の鳥」にも、ナメクジのアダムとイブが登場します。どちらかというと、「跳躍的」進化モデルですね。あれは)
長くなったので、分割投稿します。
### 本論その2 ###
個体レベルでは、一世代間に(厳密にいえば一世代ごとに)、「交雑可能/不可能」のラインが引けますが、「種」(厳密にいえばグループかな)においては、截然と「交雑可能/不可能」のラインが引けるわけではありません。
「中間状態」の過程が存在することになります。
どういうことか。なまけものさんの見解を再確認します。まず、「ヒトとチンパンジーの祖先」が、「ヒト系統グループ」と「チンパンジー系統グループ」に分かれます(地理的隔離など)
「ヒトとチンパンジーの祖先」の時代も、「ヒト系統グループとチンパンジー系統グループに分かれた直後」の時代も、基本的に「交雑100パーセント可能」です。しかし、それぞれのグループで、独自に遺伝的変異が蓄積された結果、次第に、「自分の親はチンパンジー(系統)と交雑できるが、自分の代になったら、もう無理だ」という個体が出現してきます。これはあくまで個体レベルの話なので、当然、種に属する全個体が一斉に変異するわけではありません。「俺はチンパンジー(系統)と交雑できるのに、あいつは無理だ」と、いうわけです。そして、次第に両系統において、「交雑不可能な個体の割合」が増えていき、遂には、「誰も彼もが交雑不可能」になるわけです。
さて、こうしてみると、種の分岐というのは、まさにグラデーションになっています。
「100パーセント交雑可能」から、「99〜1パーセントの個体が交雑可能」そして、「100パーセント交雑不可能」へ。
「99〜1パーセント交雑可能」の段階を、「種の中間状態」と考えてみます。注意して頂きたいのですが、「中間状態」であって、「中間種」ではありません。「種」としては固定されていませんから。「交雑率0パーセント」となってはじめて、「種が分岐した」といえるでしょう。進化論モデルでは、まさに、この「中間状態」の過程が必須であります。つまりは、種→中間状態→種→中間状態→…と、いうわけです。
中間状態がある。それならそれでいいじゃないか、と思う方もいるでしょう。が、どうもそうはいかないようです。
例えば、人間とチンパンジーの場合はどうでしょう??現在、人間とチンパンジーの交雑率は0パーセントです。「俺はチンパンジーと交雑できるが、あいつはできない」という状態ではない。つまり、過去に中間状態を脱して、種が固定されてから、かなり時間が経っているということになります。進化論モデルでは、そう考えざるをえない。
つまり、「たまたま」ヒトとチンパンジーは中間状態を脱していた、というわけです。我々は人類としてのアイデンティティーに悩む必要はない。さらにいえば、人類の種内部でも、新たな種分岐の段階、中間状態はみられない。誰と彼とでも交雑できる。グールドのいうように、「たまたま」人種差別に生物学的根拠はない。ヒトは種として安定期である。
その通りだ、それでいいじゃないか、といわれるかもしれない。確かにそれでいいのです。なんの矛盾も生じてない。ヒトについてはそれでいい。しかしここで、生物界(有性生殖する、と限定するべきか)の全体に目を転じるとどうでしょう??おかしなことになりませんか??
現在、「中間状態」というのが、まるで確認されていない。なぜでしょう??ヒトについては、「たまたま」種の安定期である、というのでいいでしょう。しかし、ゴマンといる種があれもこれもが「たまたま」安定期なのでしょうか??種というのは一斉に、種→中間状態→種…の連鎖を行うのでしょうか??それはありえない。
進化論が正しい限りにおいて、中間状態というのは、よくある現象として現れる筈です。進化論から当然予測される現象として、普遍的に確認されなければならない。それが検証されないということは、結局、進化論が間違っていると考えねばならないのではないでしょうか??
####
本論(と、いうほどのものでもないですが)はここで終わりです。以下、皆様から頂いた個別のご指摘について考えてみます。
こんばんは、みなさん。いろいろご教示ありがとうございます。
議論のお陰で、私の疑問も些か深化(進化?)させることができました。
やけに長くなって、一度の投稿が無理となったので、分割投稿します。ではでは。
### 本論その1###
まず、私が繰り返し主張している、「交雑可能/不可能」のラインについての確認です。
進化論というのは、「いかなる大きな遺伝的変異」でも、かならず、「一世代間の小さな変異の累積」に解消することができる、というのが絶対原則です。
従って、「自分の親はチンパンジーと交雑できるが、自分の代になったら、もう無理だ」
と、いうような形で、「交雑可能/不可能」のラインが、個体1世代間の変異として現れなければなりません。
つまり、この変異は、進化論モデルに従うかぎり、谷庵さん風にいえば、「きわめて狭い」、おずおずさん風にいえば、「Y=int(x)上の0を1にする0.0001の変化」、でなければならない。要するに、このラインを個体一世代で跨げなければならないわけです。進化の系譜の中に、「個体一世代では跨げない跳躍」が存在していたのならば、進化論は成立しないのですから。
このようなことが実際の生殖メカニズム上可能かどうか疑問ですが、仮に、おずおずさんや谷庵さんの認識(進化論を成立する為には不可欠な認識)を前提としても、実は、もっと厄介な矛盾が生じてしまうのです。
なまけものさんのご指摘が核心を衝いています。
「チンパンジーの系統もヒトの系統も世代を経るごとに変化してゆき、それぞれの系統も各世代に多様な個体を含みます。それぞれのグループに他方の系統(の一部)と交配可能な個体と不可能な個体とが混在する期間があり、徐々に他方の系統と交配不能な個体の比率が増えていくのではないでしょうか」
>To おずおずさん
>>あなたは、ボクの精子とハムスターの卵子が、「決して」受精出来るわけがないと思いますか?
>思いません。ハムスターの卵子の透明帯さえ除去していたら、十中八九受精(卵子への侵入)可能でしょう。詳しくは「ハムスターテスト」で検索してみてね。
精子でさえそんなに見境いがないのなら、生みの親である男が見境いないのは納得できる...。
>それと、「誰がどう見ても文句なしの魚」と「誰がどう見ても文句なしの両生類」の違いは、何回かの種分化を経た結果起こったことで、1回の種分化とはタイムスケールがだいぶ違う事柄だと思うので、一緒くたに説明してしまうのはどうかと思います。
だって、だって、お話は或る程度単純化しないとややこしいんだもん (TヘT)
厳密に言い出したら、ボクのお話はどこもかしこもお伽噺ですよ。もちろん...。
交雑できる/できないの境界が非常にわずかな変異で越えられてしまう場合もあったのではないでしょうか。ある年を境に交雑不能になった昆虫の例とかあったような。昆虫ではボルバキアなどという寄生細菌が性をあやつり種の壁をつくり出しているのではないかという話もありますね。
具体性を欠く話で申し訳ありませんが、調べれば出てくると思います。
フロイト流の精神分析は科学的学説としてはトドメを刺されていたという認識でしたが、いまだに保険が利くんですか?
>以下の記述は「地下に眠るM」で検索して見つけたサイトからの引用です。もう知ってる人もいるでしょうね
素敵で美しい詩だと思います。地下に眠るM様の知的センス、教養の深さを感じさせる素晴らしいHNの由来が解り感激しあなたに感謝しますが……………
ここに引き出した意図はナンでしょうか‥‥‥‥‥?
以下の記述は「地下に眠るM」で検索して見つけたサイトからの引用です。もう知ってる人もいるでしょうね。
鮎川信夫
死んだ男
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
これがすべての始まりである。
遠い昨日・・・・・・
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
君を見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代
活字の置き換えや神様ごっこ
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・・・
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
『橋上の人』より
大文字ナンさんありがとうございます。私は人と話すのが苦手で人様のように楽しく世間話をするということができません。私の関心領域が人と違うことが原因でしょう。私はスポーツは全くだめなのでスポーツの話題は全く関心がありません。まあゲートボールくらいなら・・・幸福の科学の話題には関心ありますが、あなたには関心ないでしょうね。あと統合失調症とか精神科デイケアとか喫茶ほっとのこととかくらいですかね・・・
学生時代にヨーロッパ貧乏旅行したときはずいぶんお世話になった > ユースホステル。国内のは未体験だけど、小恥ずかしい事やらされるのね。いくら安くてもこれはゴメンだなあ 。
北海道3バカユース
http://sshida.com/~shida/Hokkaido92/06-2.shtml
「夜のミーティングではお客さんを集めて 8 時ごろから 10 時まで歌って踊ってとびはねます。」
息子の中学校の保護者会で「声に出して読みたい日本語…」の斉藤孝さんの講演がありまして、聴衆者どうし(保護者の我々ね)で4人組を組まされて、「白浪五人男」の山場のくだり(「知らざあ〜、言って聞かせやしょう〜」ってやつね)を1人ずつ大声出して朗読させられたのです。講演自体は大変面白かったけど。どうもPTA関連は羞恥心を捨てさせられる場面が多いような気がする。授業参観の後のクラス懇親会に出たら私以外はすべてお母さんだけで、その中で子どもの家庭での様子や教育観を語らされた、という経験もあります。トラウマになりそう。
進化論に全く関係ないなあ…
うちのサイトでも構いませんよ。>この世は仮の世さん
ちなみに私は専門学校出身ですが、この手の学校を出たかどうか、はあまり職業に関係ないと言って良いでしょうね。高卒でも、中卒でも、勉強さえしていれば「なれる職業」だと思います。おかしな学校で「センス」とか言われるよりは、よほど自学の方が良いのではないかな。
えーん。えーん。桃岩トンネルに大切なものを置き忘れちゃったよぅ(ToT)
(元から持っていなかったという話も無きにしも非ず?)
comさん、はじめまして。
>僕の古い情報では、愛とロマンの8時間コースは崖崩れの恐れがあるため、封印中(桃岩荘も含めて)だったと記憶していますが、解禁になったのですね。
8時間コースはこういうことになっています。
http://www.rebun.info/stay/c_guide1.html
桃岩荘は、去年のシーズン直前に崖崩れがおこり、二次災害等を防ぐため、1シーズン丸ごと閉鎖になっていたそうです。
>もし、この板のoff会があるのなら、桃岩荘でやったらおもしろそうですね。
「知性」と「教養」が売りのここの常連さんたちから、この二つに加えて「羞恥心」まで取り除いたら、いったい何が残るんでしょうね?見てみたいような、見るのが怖いような…。
>素朴な疑問ですが、不意に思い立って行けるコースとは思えませんが、気のせいでしょうか。
気のせいです(キッパリ)
と、まぁ、冗談はともかくとして、私が不意に思い立ったのは礼文帰省だけでして、それに桃岩YH&8時間コースが加わったのは、ちょっとした(?)アクシデントですな。
ローカルなネタばかり書き込んでしまって申し訳ありません。意味が知りたいという奇特な方は「知性 教養 羞恥心」または「バカユース」でネット検索してみてください。
いっぱい落ちていたから、この世は仮の世さんにも一つ拾ってきてあげればよかったなぁ(ボソッ)
ふうさん、こんにちは。
>しかしながら、「ないとは限らない」式の論理を濫用するのは、疑問です。なんでもありになってしまいますから。
その通りです。だから、「起こる確率が非常に小さいことは起こらないとみなしちゃった方が良い」こともあるのです。
たとえば、全個体数が60億程度1個体あたりの産仔数が1〜10程度の2種において、交雑によって生殖能力のある子供が生まれる確率が10^−100程度だったとしたら、それは「交雑できない」とみなしてしまった方がよいと思いませんか?
「交雑できない」と「交雑が無限大に難しい」とは事実上同じことで「交雑できる/できない」の間のラインなんてものは存在しないのですよ。
と、一般論を述べた上で…。
「点突然変異」による種分化というのもたぶん可能です。形態的にも遺伝的にもほとんど同じであるにも拘らず、生殖器の形態や生殖行動の様態を支配する遺伝子上の一つの塩基が異なるために自然状態では交雑が起こらない(交雑が非常に難しい)ということもありえます。
ただし、この場合、無理やり人工授精させるとおそらく正常な配偶子を作る能力のある子供が出来るでしょうから、ふうさんの定義では「交雑できる」の側に入ってしまうのでしょうが…。
>自分と親の変異幅は非常に小さい(しようと思えば交雑できる)
>しかし、その小さい変異幅によって、「チンパンジーと交雑できる/できない」>というラインが引かれてしまう。
>そのようなことは可能なのだろうか。
えっと。先に説明したようにラインは引かれないと思うのですが、わずかな変異の蓄積によって「交雑できる〜できないへの移行」が可能かということに興味をお持ちでしたら、「環状種」をキーワードにして図書館などで調べものをしてみるとよいかもしれません。(ネット検索ではここの過去ログ程度しか見つけられなかったよ^^;)
To おずおずさん
>あなたは、ボクの精子とハムスターの卵子が、「決して」受精出来るわけがないと思いますか?
思いません。ハムスターの卵子の透明帯さえ除去していたら、十中八九受精(卵子への侵入)可能でしょう。詳しくは「ハムスターテスト」で検索してみてね。
それと、「誰がどう見ても文句なしの魚」と「誰がどう見ても文句なしの両生類」の違いは、何回かの種分化を経た結果起こったことで、1回の種分化とはタイムスケールがだいぶ違う事柄だと思うので、一緒くたに説明してしまうのはどうかと思います。
「大文字ナン」で検索してるとどうやら大文字ナンさんが運営しているサイトにたどり着いた。大文字ナンさんてイラストレーターでいらっしゃったんですね。ということはどこかの美術科の出身かデザイン科の専門学校の出身・・・・私は九州デザイナー学院アニメーション科の出身です。
斬新的変化、って、断続的変化になり得ないものですか?
例えば或る変数xをごくわずか増加させていきます。で、Y=int(x)を計算します。整数にするわけです。
さて、x=0.9999 ではy=0、xを0.0001だけ増加させる(漸進的でしょ?)ではy=1となり、わずか0.0001の変化が0と1の差を生み出します。
0.0001は十分大きすぎる数だというなら、...あとは自分で考えてくださいね(^_^;)
皆様多数のレスありがとうございます。一つ一つにレスすることはできませんが、感謝しています。
地下に眠るMさん 本当に幸せな人は決して暴言など言いません。暴言によって幸せが壊れるからです。あなたは口で言うほど幸せではありません。仏典にも確か似たようなこと書いてあったような気がする。「真理の言葉・感興の言葉」だったかな?
ご指摘ありがとうございます。まさに、目からうろこ、です♪
ふうさんは「アキレスは亀に追いつけない」のようなレトリックにはまっているように見えます。
きわめて狭いところに「ライン」を引きながら、「ライン」を跨ぐのだから跳躍であり、漸進的ではないと言っていませんか。
ついでと言っては失礼ですが、気になったほかのことにも一言。
>おずおずさん
ウキブクロが肺の代用となったのではなく、先に肺が発達したという説もあるようです。
その肺がウキブクロへと進化し、すべての硬骨魚類の先祖となったと言うことのようです。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1995collection2/tenji_gyorui_29.html
>中生代(約2億4800万〜6500万年前)になると、条鰭類の多くのものは海への移住を完了した (Romer, 1959)。今日最も繁栄している真骨類は、軟質類より進化した全骨類を経て、中生代のはじめ頃(三畳紀)に出現した (Carroll, 1987)。デボン紀の不安定な環境と異なり、海洋は安定しており、空気呼吸(補助的あるいは緊急用の呼吸器官としての機能)の必要がなくなり、肺は完全に浮力調節器官としての鰾に変化した。<
うーん、どうレスして良いものやら。。。
横レスで申し訳ないですが。
私も過去に統合失調症で医者に掛かったことがあります。
> この主張はなかなか正しいが、あなたは口で言うほど苦境を自力で乗り越えた経験があるだろうか?ないのにこんなことを言うのは自分が恵まれた環境に育った故に出る考えで、考えが甘いと言うしかない。
口で言えるような状況や、自分で自分が苦労している、と言えるような状況は「まだ本当の苦労じゃない」と言えるでしょうね。
本当にどうしようもない状況では、そんなことを悠長に考えられるような余裕なんかありませんよ。
> 次は久保有正の「創造論の世界」を読む。
これよりも先に(さらに言えば、いままでここで紹介された進化論の本よりも先に)下記のような本を読まれることをお勧めします。
E.B.ゼックミスタ、J.E.ジョンソン『クリティカル・シンキング 入門編』北大路書房
『新しい理科の教科書』文一総合出版
E.フロム『自由からの逃走』東京創元社
どうも。普段はROMをしているものです。
> 「自分の親はチンパンジーと交雑できるが、自分の代になったら、もう無理だ」
チンパンジーの系統もヒトの系統も世代を経るごとに変化してゆき、それぞれの系統も各世代に多様な個体を含みます。それぞれのグループに他方の系統(の一部)と交配可能な個体と不可能な個体とが混在する期間があり、徐々に他方の系統と交配不能な個体の比率が増えていくのではないでしょうか。
ところで、チワワとセントバーナードのあいだに雑種はできません。この2品種だけ残して他の犬が絶滅すれば、両者は別種として扱われることになるでしょう。しかし、それぞれ、一回りずつ大きさの異なる犬と交配させていけば、3代目か4代目くらいには共通の子孫ができます。これなどは、中間の例にはなりませんか?
お初です。興味深く読ませてもらってます。ちょっと気になったので書かせてください。
>この世は仮の世さん
他の皆さんが明に暗に示しているとおり、貴方は「肩書き」とか「権威」で
情報の正しさ(確からしさ)を判断してしまう傾向があるように思います。
もしかしたら、大学教授の出した本とかテレビで流されている内容が
自分の考えと一致している場合、無批判に信じてしまっていませんか?
大学教授の出すトンデモな本はたくさんあります。
最近では「ゲーム脳の恐怖」なんかはいい例です。
肩書きや権威ではなく論理性や客観性で情報を取捨選択できる能力がないと、
ここにいる人たちと同じ土俵に立つことさえできないと思いますよ。
そこでこの世〜さんに提案です。
一般書籍ではなく、学術論文を読んでみてください。
テレビをアテにするのではなく、学術論文を読んでみてください。
慣れてきたら、それらを批判的に読んでツッコミを入れられるようにしてください。
(その際、「論理的に」批判するように注意してくださいね)
それを何年か続ければここでまともに議論できるかもしれませんよ。
こんばんは。
>生物の世界では、「必ずこうだ!」といえるほどの確たる原理は、あまりありません。
>ニンゲン程度のささやかな経験で、断言すると、えてして痛い目に遭いますよ。
それについては、全く、その通りだと思います。
しかしながら、「ないとは限らない」式の論理を濫用するのは、疑問です。なんでもありになってしまいますから。
一応、経験則から帰納される論理から、無理なく演繹できることが、科学的仮説の科学的仮説たるゆえんではないでしょうか。
さもなくんば、ドーキンズが「小さな変異の累積で大きな変異に至る」といった議論を組み立てる必要も無くなってしまいます。「バクテリアからいきなり人間が生まれることもありうる。まだ、原理的にそんなことは不可能だという研究結果はでていないはずだ!!」という議論でも、よくなってしまいますから。
>不幸な沼の魚の世代交代の中ではラインなんて生じません。
>不幸な沼の魚と幸せな沼の魚の間でラインが生じることこそが、「連続から生じる不連>続」なのです。
私も書いてて気がつきました。
「世代のどこかで、交雑できる/できないのラインが生じる」ということは、厳密にいえば、
「自分の親はチンパンジーと交雑できるが、自分の代になったら、もう無理だ」
と、いうことになりますよね。
自分と親の変異幅は非常に小さい(しようと思えば交雑できる)
しかし、その小さい変異幅によって、「チンパンジーと交雑できる/できない」というラインが引かれてしまう。
そのようなことは可能なのだろうか。
ふうさん、こんにちは。
既に四次元的に考えられていたようですね。これは失礼しました。
題名の件についてレスしようとしたのですが、22時25分50秒におずおずさんに言われてしまっていました。残念..
しかし、投稿寸前だった文章を読み返して見ると、女性が見てる掲示板には不適切な表現が山盛りでした。おずおずさん、temaの社会的生命を守っていただき、ありがとうございます。
たまごちゃん(^-^)ノへ。
あなたは非道い人です。後からお詫びされても、衝撃を受けた心と頭皮は癒されません。こういうことは、最初に書いて頂かないと心の準備ができないではありませんか。
貴女の長い髪がうらやましくて、うらやましくてうらやましくて...今夜は、泣くと、思います...れぇ〜い〜こ〜(一部の人以外意味不明)
人間以外の動物が妄想を持つか否かについては、おずおずさんや他の方々が言ってくれました。おずおずさん以上の説得力はtemaには出せそうにもないため、別の部分に突っ込みを入れてみます。
>「これはもう「絶対」「100%」「何があっても」確かだああああ」、というのは妄想で、「信」の領域
>「これはこういう条件の下ではだいたいこうなりますな」というのは経験的知識で「知」の領域
上記はその通りであると思うのですが、ちょっと気になることがあります。
「信」の反対語は「疑」でしょう。
「知」の反対語は「忘」でしょう。
この掲示板に来る創造科学論者や、実生活で個人的に知り合った進化論に反対する人、もし彼・彼女らが、進化論が間違っていることを「信じて」いるならば、「疑う」こともあって良いと思います。しかし、どれほど根拠を示しても彼・彼女らは疑うことがありません。
ひょっとして、彼・彼女らは進化論が間違っていることを「知って」いるのではないでしょうか? 知っているからこそ、忘れる(もしくは飽きる)ことはあっても「疑う」ことをしないのではないか、と思うのです。
もう一つの考え方があります。
「信」に相対するものは「忘」であり
「知」に相対するものは「疑」である
というものです。科学理論は「知」の対象ではありますが、また「疑」の対象ともなり得ます。
人間以外の動物が「疑」を持ち得るかどうかは判りませんが、「忘れる」ことはあります。「忘」を持っているのならば、相対する「信」をも持っていると思うのです。
但し、
>世代のどこかで、私が何度も指摘している「交雑できる/できない」のラインが生じ
るということを進化論があり得ないと言ってはいないとおもいますよ。
不幸な沼の魚の世代交代の中ではラインなんて生じません。
不幸な沼の魚と幸せな沼の魚の間でラインが生じることこそが、「連続から生じる不連続」なのです。
あなたがそんなラインが生じ得ないと思うのは、
そんなラインが生じるのなら、そこで世代交代が途切れる、
と思ってるからじゃないですか?
ところが、このたぐいのラインは、世代交代にはなんの支障もない。
>最初は交雑可能だが、世代を経るに従って、交雑不可能になる。
とは言っていませんよ。
>交雑不可能と「言っていいところまで」分かれてしまうでしょう。
としか書いていないのです。
つまり、交雑の可能性=1/X
但し、Xに、相当大きな数を入れてもいいんじゃないか、という状態です。
あなたは、ボクの精子とハムスターの卵子が、「決して」受精出来るわけがないと思いますか?
ボクは思いません。人工授精を数億回も繰り返せば、受精することもあるかもしれないと思っています。(発生すら、案外そこそこの段階まで進むかもしれないと思っています。体型的にはにかよっていますので。)あくまでも確率の問題です。なぜならば、「原理的にそんなことは不可能だ。」という研究結果はまだ出ていない(はずだ)からです。
生物の世界では、「必ずこうだ!」といえるほどの確たる原理は、あまりありません。
ニンゲン程度のささやかな経験で、断言すると、えてして痛い目に遭いますよ。
>本当に精神病の人のいる可能性のあるところで暴れようとは思ってにゃーけどな。
この世〜さんが統合失調症の治療中であろうと、なかろうと、ここで議論(ってほどのモノじゃないが)するんであれば容赦しません。さらに社会は、もっと容赦しないだろうしね。
>この主張はなかなか正しいが、あなたは口で言うほど苦境を自力で乗り越えた経験があるだろうか?ないのにこんなことを言うのは自分が恵まれた環境に育った故に出る考えで、考えが甘いと言うしかない。
あーあ、これも典型的なハナタレ論法にゃんな
僕がどういう経験をしてきたかで僕の言明の価値が変わるとでもいうのかにゃ?
依存心の強いハナタレにとっては、「
ナニが言われているか」よりも「ダレがいっているか」のほうが重要なんだよね
「僕の父親はヤクザで、毎日殴られて泣いていました」とでもいえばチミは満足か?
もし、本当にこうした経験を僕がしてきたとしたら、それをこんな場所でいうと思うか?
「オトナ」が何を恥とするかがまったくわかってにゃーのよ、チミは。
それはチミがハナタレだから。
>こんな人が自分は幸せだといっても私は信じない。
好きにすれば?
チミが何を言おうと、僕がシヤワセであることはいささかもゆるがにゃー。
>あなたの主張を「自殺志願者の憩いの場」でもやってみるといい。どんな反応が返ってくるか興味がある。
死を抱きしめて生きるというのは悪くにゃー。
ハナタレはダイキライだけどね。
本当に精神病の人のいる可能性のあるところで暴れようとは思ってにゃーけどな。
>親がどんなドグサレの屑(児童虐待屑とかヤクチュウとか)であろうが、自分の人生を引き受ける気概を持つかどうかが「ハナタレ」と「オトナ」の境目。自分の人生を自分で引き受けた奴が何をしようが親には関係にゃー。
この主張はなかなか正しいが、あなたは口で言うほど苦境を自力で乗り越えた経験があるだろうか?ないのにこんなことを言うのは自分が恵まれた環境に育った故に出る考えで、考えが甘いと言うしかない。
あなたが天才的な暴言の使い手であるのはわかった。こんな人が自分は幸せだといっても私は信じない。あなたの主張を「自殺志願者の憩いの場」でもやってみるといい。どんな反応が返ってくるか興味がある。
まずわが国の保険制度では、週に1度しか「保険適応」での精神分析が認められません。精神分析が有効なのは主に「神経症(一般にはヒステリーと解釈かな)周辺」と言われていますが、これを改善するのにも、最低でも週に3〜4回は「面接」を行わなければならず、制度に阻まれてそれができないことも、精神分析が「わが国の医療現場」でマイナーになる要因といえます。
しかし一方では、精神分析やカウンセリングが「強く求められている」ことも実情です。患者さんの立場では、強く激しい症状、たとえば極端な暴力衝動を抑えるのには、薬しかないことは百も承知なのです。その反面、不眠や摂食障害などの「周辺」に対しては「言葉のうえでの理解」を強く求めてもいます。患者自身が強く求めているものに対して、それは無効である、と論じたところで、返ってくるのは不信感だけであり、結果的に精神分析(的な)対話をなしに精神医療を論じても、それはそれでナンセンスだろう、と私は考えています。
実際に病理を抱えたひとと長い時間を過ごすと分かりますが(今も過ごしていると言えば過ごしているのだし)、患者さんの「心の中で起きていること」は患者さん自身の文法・文脈で「ストーリー」として置き換えられています。これがいわゆる「(病的な)妄想」というわけですが、妄想に対する固執は恐ろしいほどに強く、これを「頭ごなしに否定」するだけで、おそらくその人は治療そのものを拒否することも考えられるでしょう。
まぁこの辺に、オカルト精神分析や新興宗教の「テリトリー」があることは、すでに指摘したとおりですが、それは「強く求められている」から存在することも、私たちは忘れてはならないでしょうね。
イブキマイカグラのような、スレのスピード・・・
>してみると、世代のどこかで、私が何度も指摘している「交雑できる/できない」のラインが生じてしまいます。
うーん、それがなにか問題なんじゃろうか?
「不幸な沼の魚」と「幸福な沼の魚」それぞれでは何の問題もなく子孫が増えるんじゃから別にええではないか。
ダ・ヴィンチの手記を読んで、文化妄想現実化装置論にまたちょっと自信が出てきたんだけど、妄想野郎を相手にするんで今日はお休み(藁
さて「どんな親の元に生まれようと自分の幸不幸は自分の責任だぜ」という僕の発言が、共依存や家族関係の病理を考慮に入れずになされたものだというチミの考えは立派な妄想だにゃ。
いっておくが、チミが他人に教えられることなど、ほとんどまずありはしにゃーのだよ
親がどんなドグサレの屑(児童虐待屑とかヤクチュウとか)であろうが、自分の人生を引き受ける気概を持つかどうかが「ハナタレ」と「オトナ」の境目。自分の人生を自分で引き受けた奴が何をしようが親には関係にゃー。
ガキが何かやらかすと親のせいにしたがる奴等は、自分がハナタレなんだよ。自分の境遇を常に誰かのせいにしたがっているのだにゃ。この手の輩は本当に品性が下劣だにゃ。
>20年間親と一緒に暮らしていて親の影響が決定的でなかったとは言わせません。
チミは「親に決定された人生」でも歩め!>ハナタレ屑
>おずおずさん、はじめまして。
異所的種分化については、私もおずおずさんがおっしゃるような形で理解しています。
問題は、
>したがって、各世代の「不幸な沼の魚」と「幸福な沼の魚」とを定期的に採取して交配>させると、次第に子供の生存率は低下し、そもそも誕生するまでに至らない子供が増>>え、或る程度世代を経た時点で、この2「種」となってしまった魚たちは、交雑不可能>と言っていいところまで分かれてしまうでしょう。
の、ところです。最初は交雑可能だが、世代を経るに従って、交雑不可能になる。
してみると、世代のどこかで、私が何度も指摘している「交雑できる/できない」のラインが生じてしまいます。
>たまごちゃん(^-^)ノさん、はじめまして
ドーキンズの議論は、見た目はいかに大きな形態機能変異でも、小さな変異の累積として、考えることができる。従って、いきなりの飛躍はありえないが、小さな変異の累積によって、無理なく大きな形態機能変異が起きることが説明できる、というものです。
この場合ですと、大前提として、「大きい変異が小さい変異の連続性に分解可能である」ということが必要になります。
そこで私としては、「分割できない変異の例」を考えてみたわけです。
>「してやっても良いけど、あんまし好みじゃないなぁ」や「子供(孫)が生まれたはよ>いのだが、どうも体が弱くっていかん」
とかですと、まがりなりにも交雑可能なわけです。
交雑の難易度(実際にするかどうか)のグラデーションについてでしたら、確かに幅を想定することができます。
しかし、交雑可能/不可能を基準に考えると、中間はなくなります。「交雑が難しい」ケースは、すべて、「交雑可能」に含まれるからです。
「交雑可能」から、「不可能」への移行は、一世代での飛躍ということになってしまいます。
Z80程度のCPUでさえも、
例えば0ボルトを論理値0、5ボルトを論理値1として論理設計を行うのだけれど、実際の回路では出力はそんなに完璧な矩形ではなくて、例えば4ボルト〜5ボルトは論理値1、0ボルト〜2ボルトまでは論理値0、として演算を行っていて、演算結果として3ボルト(論理値1かな?それとも0かな?わかんな〜い♪)、というような、実に人間的な結果を頻繁にだすようなCPUは、ライン上の検査でハネられるのだそうな。
人間の脳のシナプス間の情報伝達にしても、病的な状態では、「ん?0ボルトじゃないって?んじゃ、論理値は1に決まっとろーが!」とかいう状態があるらしくって、このあたりの症状に対抗するためには、精神分析なんていうような、お伽噺みたいな話にせよ、お話なんてそもそも聞いてくれるわけもなく、トランキライザーなんかで、「4ボルトまでは0と見なそーぜ。」となだめるしかないとか...。
たまごちゃん(^-^)ノさん、初めまして。
僕の古い情報では、愛とロマンの8時間コースは崖崩れの恐れがあるため、封印中(桃岩荘も含めて)だったと記憶していますが、解禁になったのですね。
もし、この板のoff会があるのなら、桃岩荘でやったらおもしろそうですね。
素朴な疑問ですが、不意に思い立って行けるコースとは思えませんが、気のせいでしょうか。
足、お大事に。
板の流れに全然乗っていない書き込みでしたが、ご容赦ください。
追伸:
>この人たちは自力では幸せになれない人たちだと思います。他力の救いが必要です。
とぼやいている人が約一名いるようですが、なんたる傲慢。このように、いかに犯罪者(この表現は不適切かもしれません)といえども、このように決めつけられる要素は全くないはずです。
このような人がいるからこそ、世の中の争いごと、宗教/民族間での戦争が無くならないのでは、と愚考します。
総合失調症に罹患してしまった方々、見事に回復された方々、家族の方々の心を踏みにじるような発言、僕には許し難いですね。
>現在統合失調症の治療は薬がメインだが、将来は精神分析理論でいけるのではないかと思った。
まぁ、私もかつて似たようなことを思ったことがないワケじゃない。
けどしかし、それはこの病気が
・複雑、かつ多岐に亘る病状を示し
・なにをもって「診断」と成すのか、その明確さに欠ける面があり
・個々の治療・改善において、さらに慎重な方法論が求められるだろう
という、私なりの「経験」があったから、私論を持ったのに過ぎないのであって、あくまで一般論ではなく、個人の希望的観測であることを「忘れていません」でした。
無論、心理学と精神医学は違うものであることも、明確に理解していたし、その上で「友人を亡くした」というやり切れなさから、なにか「別のアプローチ」はないものか、と考えていたのでした。で、最近は、別の発言でも書いたけれど「医師や専門家と情報交換」している段階で、特に新しい主張は持っていません。
さて、この世は仮の世さんの「浅はかで浅ましいところ」とは
・ほんの少しの、それも入門書に過ぎないような本を読んだだけで
・複雑極まりない社会現象や、個人の人格に対し、浅はかなステレオタイプをつくり
・「親の教育」というスケープゴートを引っ張り出してきて
・自己批判の過程を踏まずに「思いついたことを、そのまま言う」
というところかな。
人前で自分の意見を述べようというのなら、少なくとも「自分の主張に矛盾はないのか、論拠は客観的に確かなものなのか」くらいのことを吟味してください。
>親の教育がなんらかの影響を与えた可能性まで否定しませんが、多くの場合、こうした問題に関しては親の教育は決定的な役割は演じていません
そういいきる統計的根拠でもあるんでしょうか?20年間親と一緒に暮らしていて親の影響が決定的でなかったとは言わせません。
>かつて、さまざまな精神病が親の教育のせいにされて、多くの親(主に母親)が責められましたが、それは偏見によるものです。
子供が精神病にかかった責任を第三者が責めるのは筋違いでしょうね。
>かつて、精神分析理論ではほとんど効果がなかったのです。
統合失調症治療ですか?
>現在、多くの統合失調症の方々が社会復帰できているのは、薬の進歩のおかげと言ってよいです。通俗本(しかも精神医学の本ですらない!)を一冊読んだくらいでそのような結論は得られません。
通俗本とは言っても和田秀樹は東大医学部卒でわざわざアメリカに留学してカール・メニンガーという学校で精神分析理論を学んだんです。馬鹿にはできません。
私としては統合失調症を治す精神分析理論を構築できればいいなと思いました。
>この人たちは自力では幸せになれない人たちだと思います。他力の救いが必要です。
>「自殺志願者の憩いの場」に集まる人たちもそうでしょう。
>麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗、輪姦事件を起こした大学生なども自力では幸せになれないと思います。こういう人達が出るのはもとはといえば親の教育が失敗したからです。
親の教育がなんらかの影響を与えた可能性まで否定しませんが、多くの場合、こうした問題に関しては親の教育は決定的な役割は演じていません(そもそも、精神病や麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗、輪姦事件を起こした大学生などをまとめて論じること自体が杜撰だ)。かつて、さまざまな精神病が親の教育のせいにされて、多くの親(主に母親)が責められましたが、それは偏見によるものです。こうした偏見を助長するかのような発言には慎重になっていただきたいものです。以前、「あなたは、両親からさえ、本当の愛を与えられなかった。断言してもよいです」という(ぱ)さんの発言に「言い杉」と注意したのも同じ理由です。
>現在統合失調症の治療は薬がメインだが、将来は精神分析理論でいけるのではないかと思った。
かつて、精神分析理論ではほとんど効果がなかったのです。現在、多くの統合失調症の方々が社会復帰できているのは、薬の進歩のおかげと言ってよいです。通俗本(しかも精神医学の本ですらない!)を一冊読んだくらいでそのような結論は得られません。
昔受験の神様と呼ばれた和田秀樹が書いた「痛快!心理学」という本を読み終えた。
精神分析理論について非常にわかりやすく解説していた。
私もこれについて勉強したいなという気になった。
フロイト、ユング、コフートの名を覚えた。
現在統合失調症の治療は薬がメインだが、将来は精神分析理論でいけるのではないかと思った。
次は久保有正の「創造論の世界」を読む。
以前あなたは「どんな親の元に生まれようと自分の幸不幸は自分の責任だぜ」とおっしゃいましたが、これは一面正しいんですが、一部の人には当てはまらないように思います。鬱病や統合失調症患者、パニック障害、機能不全家族の中で育ってアダルトチルドレンオブアルコホリックスになった人達です。
この人たちは自力では幸せになれない人たちだと思います。他力の救いが必要です。
「自殺志願者の憩いの場」に集まる人たちもそうでしょう。
麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗、輪姦事件を起こした大学生なども自力では幸せになれないと思います。こういう人達が出るのはもとはといえば親の教育が失敗したからです。
ふうさん、はじめまして(かな?)前にも話しかけたことがあったのに忘れていたならごめんなさい。最近物忘れが激しくて…。
個人的には、生殖隔離がどのようにして起こるのかは、進化論の分野の中でも一二を争う面白いテーマなのではないかと思っています。楽しいネタをありがとう。
>しかしながら、たとえば、イヌと人間などでは、「どうやっても交雑できない」わけで、「交雑は可能だが、しない」というのとは違います。明白にラインが引けます。
>要するにイヌと人間が同祖先から分離したとすれば、どこかに「交雑できる/できない」の断絶性を想定しなければいけないわけです。
髪の毛ふさふさとツルッパゲとでは明らかに区別がつくのですが、だからと言って、禿げじゃない人と禿げとの間に、「何本以上は禿げじゃないけど何本未満から禿げになる」という明白にラインを引くことは不可能だと思いませんか?
明らかに交雑できる(禿げじゃない)と明らかに交雑できない(完璧にツルッパー)の違いが明白だからって断絶性を想定する必要はないんじゃないかな?
ふうさんのおっしゃる「交雑は可能だが、しない」というのを生殖前隔離、「交雑できない」を生殖後隔離と言います。生殖前隔離も生殖後隔離も「する/しない」「できる/できない」と明白にラインを引けるものではなく、「してやっても良いけど、あんまし好みじゃないなぁ」や「子供(孫)が生まれたはよいのだが、どうも体が弱くっていかん」と言ったような中間が存在しています。
交雑する(できる)確率は0%〜100%までのグラデーションになっているのです。
しかし、ある程度以上強い生殖前隔離があるときには、生殖後隔離は比較的速く蓄積していきます。また、たとえそれが弱いものでも生殖後隔離が存在する個体群が同じ場所に存在する場合、かなり速い速度で生殖前隔離が蓄積していく傾向があります(なぜかは自分で考えてみてね)。
(いったん禿げはじめるとあっという間なのだぁ!?)
そのため、交雑できる確率0%や100%のものがほとんどで中間がないように感じてしまうのかもしれないですね。
♯ 投稿内に一部の男性を非常に不快もしくは不安にさせる表現がありましたことを、深くお詫び申し上げます。m(_ _)m
或る沼地に或る種の魚がいたとします。
ある時、この沼地が地質変動によって2つの部分に分かれました。一方は背後に大きな山を持ち、豊富な地下水が供給され続けたのですが、もう一方は水源に恵まれず、次第に乾燥しがちになっていきました。
元々同じひとつの種だった魚たちは、一方では昔と同じ暮らしを続けることが出来ましたが、もう一方は乾期を何とかして生き延びなければならなくなったのです。
不幸な境遇の方の魚たちは、(思い切りはしょった言い方ですが)両生類への進化の道を辿り始めたのです。
さて、交配或いは交雑が可能かどうか、は、両者の持つ遺伝子セットがどの程度似通っているか、で決まるようです。
ま、確かに、お父さんの遺伝子が浮き袋で呼吸し、その代わりにエラを退化させる遺伝子を持っていたとして、お母さんが普通の魚であった場合、子供は、「エラを退化させる遺伝子」をお父さんからもらい、その一方で「呼吸する機能を持たない浮き袋を作る遺伝子」をお母さんからもらったら、この子供は大変呼吸が不自由になり、どちらかと言えば生きる確率は少なくなるでしょうね。
その逆に、発達したエラと呼吸できる浮き袋を持っても、泳ぐには邪魔だし、呼吸にはエラが有れば十分だから、同様に、生きる確率は少なくなる。
遺伝子の相違がもっと激しくなったら、発生の過程で体のつくりがむちゃくちゃになり、生まれることすら出来なくなります。このような状態が、「交雑不可能」なのだ...と思います(ちょっと自信がない...)。
さて、不幸な沼のほうの魚は、ごくゆっくりと両生類に進化していきます。
つまり、各世代間の遺伝子の相違はいつもごくわずかなのです。
お母さんはほんの少し非効率な浮き袋とほんの少し退化したエラの遺伝子を持ちます。お父さんはお母さんのよりは効率的に呼吸出来る浮き袋と、お母さんのよりは少し退化していないエラの遺伝子を持ちます。彼らの子供はそれぞれわずかに違った進化の度合いを発現させ、ほんの少し、不幸な環境に強い子供はそうでない子よりもほんの少し生き残る率は高くなりますが、所詮みんな50歩百歩ですので、各世代の構成員はいつも交配(交雑)出来ます。不幸な沼の仲間同士で、なら...。
ところで、両生類を目指し始めた魚たちは、世代を経るにしたがって、「幸福な沼」の、魚のままで居続けた魚とは、遺伝子の相違は、どんどん大きくなります。
したがって、各世代の「不幸な沼の魚」と「幸福な沼の魚」とを定期的に採取して交配させると、次第に子供の生存率は低下し、そもそも誕生するまでに至らない子供が増え、或る程度世代を経た時点で、この2「種」となってしまった魚たちは、交雑不可能と言っていいところまで分かれてしまうでしょう。
...と言ったようなストーリーだと思うんですけど...。
みなさん、レスありがとうございます。
>ゆんさん、谷庵さん、はじめまして
長谷川眞理子著「進化とはなんだろうか」(岩波ジュニア新書 1999)というわかり易い本(特に第五章)を読んだので、ご指摘の、「異所的種分化」とか、「交雑は可能だが、しない」とかについても、理解しています。
自然状態で、「交雑は可能だが、しない」という場合でも、人工的には交雑させることは可能です。そのような場合は結局、「交雑できる」わけです。
しかしながら、たとえば、イヌと人間などでは、「どうやっても交雑できない」わけで、「交雑は可能だが、しない」というのとは違います。明白にラインが引けます。
要するにイヌと人間が同祖先から分離したとすれば、どこかに「交雑できる/できない」の断絶性を想定しなければいけないわけです。
>(ぱ)さん、はじめまして
>どっちかというとこの問題は、「交雑可能/不可能の断絶性をどう越えるか」というより>は、「交雑可能なうちは有用な変化もすぐに薄まってしまうのではないか」という文脈>で出てくることの方が多いような気がするのですが…
全くその通りです。その場合の「交雑可能」というのは、物理的に可能かどうか、です。あるグループが物理的(地理的その他)に隔離されたとしたら、当然、「交雑不可能」になります。しかしながら、それは生殖レベルでの「交雑不可能」とは違います。
だいたいの説明では、まず、物理的に隔離され、別々の集団ごとに、世代を重ねるうち変異が累積され、遂には生殖レベルでの交雑不可能が生じるとなっています。
つまりは、「交雑可能/不可能」というのは、あくまで「世代間」で生じなければならないのです。
>ウマとロバは繁殖可能ですが、その子であるラバには繁殖能力がありません。これは中>間状態のひとつでは?
定義しだいではそうなりますが。「交雑可能/不可能」というのを、「交雑して繁殖可能/不可能」とすれば、中間ではなくなります。このラインの解消は、論理的に不可能だと思うのですが。
私は素人ですんでもっと詳しい方からのフォローがあるかと思いますが。
>しかしながら、実際の生物界は、連続していない。単純にいって、
>交雑可能/交雑不可能という断絶性があります。
どっちかというとこの問題は、「交雑可能/不可能の断絶性をどう越えるか」というよりは、「交雑可能なうちは有用な変化もすぐに薄まってしまうのではないか」という文脈で出てくることの方が多いような気がするのですが…
>「交雑可能/交雑不可能の中間」というのはありえないので、1世代で、
>交雑可能/交雑不可能という跳躍的変異(いうなれば種の進化)が
>起きなければなりません。
たとえば人間同士でも、子供作ると致死遺伝子が発現するとか、致死までいかなくても生存に不利な形質が発現するとかのケースはあります。そういう人が人類とは別の種か、というとそんなはずはないですし。
ウマとロバは繁殖可能ですが、その子であるラバには繁殖能力がありません。これは中間状態のひとつでは?
ふうさん、初めまして。
>「交雑可能/交雑不可能の中間」というのはありえないので
「交雑は可能だが、しない」というのは中間と言っていいのではないでしょうか。
地理的断絶性で考えれば中間を考える必要はないので、そちらの方が理解しやすいのではないでしょうか。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。