このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
>いい年ぶっこいて、親がどうこういうハナタレ風情が、他人様に幸福がどうこう抜かすな!!!
昔のヒトは言いました。
『親のエンガチョ子にかかり』・・・ああ・・・無情。
(アーム・ジョーってマンガをしりあがり寿が描いてたな)
ところで私、現在「局部を怪我した」ので困ってます(笑。
>こんな暴言を平気で言える人に興味あります。進化論の思想的影響でしょうか?それとも単に劣等感の裏返しでしょうか?私は「暴言をやめるだけでもちょっとだけ幸せになれます」と親切にアドバイスしたでしょう?素直になったらどうですか?
そうだね。
妄想をする能力・妄想を受け入れる能力においては、僕はチミになぞとてもとてもかなわにゃーよ。ちょっと劣等感を抱いているかもしれん(爆
ところで、チミが果てしなく頭が悪くて下劣なのは事実にゃんが。
事実をいうと暴言になるの?
ま、進化論という事実をどうしても間違いにしたいチミのことだし、チミは事実が大嫌いなのだよにゃ。
それとね、僕は今、シヤワセなのよ、多分チミよりもずっとね。
ところでチミはシヤワセかい?
どんな親のもとに生まれようと、自分の幸不幸は完全に自分の責任だぜ。
自分の幸不幸を誰かの責任にするやつを「ハナタレの餓鬼」ちゅうんだ。
いい年ぶっこいて、親がどうこういうハナタレ風情が、他人様に幸福がどうこう抜かすな!!!
>例えば農業試験場において農作物や家畜の品種改良をするときに、進化論や遺伝子工学のような科学の理論は、宗教より確実に使い物になる「道具」として機能しているのが現実です。
ええーい、下郎がああああ
「カガクなんぞは道具であり、宗教の立場から見れば奴隷にすぎにゃーのだから、
宗教が「白」といえば、カガクは黒いものでも白といえ、いわなきゃ嫌だああああ」
と
この世は仮の世ダイセンセイはおっしゃっているのだにゃあああああああああ
>チミは本当に頭がワリイし下劣だし、僕は心から軽蔑しているけど
チミのような下劣な低脳が自然淘汰の末に生き残っているという事実に興味があって、いろいろ考えさせてもらったことには感謝しているにゃ。
こんな暴言を平気で言える人に興味あります。進化論の思想的影響でしょうか?それとも単に劣等感の裏返しでしょうか?私は「暴言をやめるだけでもちょっとだけ幸せになれます」と親切にアドバイスしたでしょう?素直になったらどうですか?
>宗教的主張ではあるが、宗教は科学より立場的には上であり、宗教側が「間違ってる」と主張したらそれは間違ってるのです。
そうだとしたら議論する必要なんて無いじゃない?議論って、「正しいかどうかわからないこと」について行うものでしょう?弁証法って、議論を通じて真理に近づいていく行程のことでしょう?正しいと分かり切っていることには弁証法は使えない。
あなたは、そんなに言いながら、実は、自分が間違ってるかもしれない、と不安になっているんでしょ?不安だから、「反論して自分の意見の正しさを強弁する」んでしょ?
「確実に自分が正しい」と信じている人は、相手の言葉に耳を傾ける余裕があるものです。
あなたの発言には余裕が感じられない。まるで、相手の発言の真意を読みとるのを怖がってるかのように、いつも、わざと本論を外して反論してる...。
To この世は仮の世さん
>宗教的主張ではあるが、宗教は科学より立場的には上であり、宗教側が「間違ってる」と主張したらそれは間違ってるのです。
この点が、双方の見解の相違なんでしょうね。
「宗教は科学より立場的には上」なんて、私は思っていませんし。
宗教も科学も、どちらも人間が作り出した文化であり、それぞれ異なる目的のために用いられる道具でしかないと思います。
宗教は、倫理や心の平安を求めるための道具、科学(自然科学)は自然を理解し、また利用する際の基準となります。
使用目的が異なり、使い分けが可能であろう道具に優劣はないと考えます。
上記は私の立場であり、この世は仮の世さんは納得できないかと思います。
しかし、例えば農業試験場において農作物や家畜の品種改良をするときに、進化論や遺伝子工学のような科学の理論は、宗教より確実に使い物になる「道具」として機能しているのが現実です。
ひええ、自分で自分のハンドルまちがっとる(恥
ついでに無駄話
この文脈でいけば
「人類の未来のためにもっと人権思想を普及させなければなりません」
という言明は、以下のように書き換えられるにゃ
「人間という種の、自らの作った文化という妄想に対する適応度を増大するためには、
人権思想という妄想の適応度を増大させなければなりません」
>適応的な妄想もある、非適応的な妄想もある。
ある妄想の適応度は、その個体の属する文化次第だと思うにゃ。
(ここでミーム概念を導入するのもオモシレーかもしれにゃー)
たとえば、人種差別・性差別・民族差別はみな妄想にちがいにゃーわけだが、
ある社会や文化においては、これらの妄想は適応的だにゃ。
(恥ずかしながら、今の日本文化においてもこれらはそこそこ適応的な妄想だにゃ)
だから、妄想に対して「適応的か否か」で判断することは、結局は「多数派か否か」で判断することと同じになるので気をつける必要があると思うにゃ。
ちゅうわけで、おみゃーさんのレスの後半には文句はにゃーのだが。>Kosuke
ところで、妄想(あくまで深層心理における妄想だけどにゃ)を分析していって、妄想の普遍的な型を考えた学者がいるんだにゃ。
ユングっていうの。
>宗教は過去間違ったこともありますが、こと進化論については宗教が正しいと信じます
わりいけどさ、僕は進化論が正しいと知ってるんだにゃ。
チミは本当に頭がワリイし下劣だし、僕は心から軽蔑しているけど
チミのような下劣な低脳が自然淘汰の末に生き残っているという事実に興味があって、いろいろ考えさせてもらったことには感謝しているにゃ。
おかげでちょっと楽しかったにゃ。
まさにこの「妄想」によって種として反映している
↓
まさにこの「妄想」によって種として繁栄している
に訂正
さて、チンパンジーとニンゲンを峻別するものとして、学術的にも明らかになっているといってよい能力の違いに「言語能力」があると以前にもいいましたにゃ。
そして、言語の操作とは、シンボルの操作、イメージの操作にほかならにゃーともいいましたにゃ。
(´・ω・`)
これ↑を「顔」と認識するちゅうのは実に不思議なことだにゃ。
こんなものはモニターに映された簡単な線と点にすぎにゃーはずだ。
これを顔であると認識するのは、ニンゲン独自の知覚だにゃ。
多分、犬にとっては、ダ・ヴィンチのデッサンも(´・ω・`)と同様に無意味のはずなのだにゃ。(´・ω・`)を顔と認識することが、そもそも妄想なんだにゃ。そして、顔文字を交換して意味が通じている、というのは、妄想を共有してコミュニケーションをしていることにほかならにゃー。
具現化された妄想である文化に適応するために、ニンゲンは妄想を共有するのだにゃ。
そして、共有されない妄想は排除される。「それは妄想だよ」といわれてね。
大文字ナンさん アドバイスありがとうございます。
私の今やってる進化論についての主張は宗教的観点から発言しているのであり、話が宗教的になるのは理の必然です。今やってる議論は進化論が科学的に間違ってることを指摘したものじゃありません。宗教的主張です。宗教的主張ではあるが、宗教は科学より立場的には上であり、宗教側が「間違ってる」と主張したらそれは間違ってるのです。
宗教は過去間違ったこともありますが、こと進化論については宗教が正しいと信じます。
「知と信」これらはいかに違うのか、ちゅうのはテツガクのテーマでもあってにゃ。
今の話に即してこのテーマを考えてみると
・犬や猫は「知る」ことはできるけれども、「信じる」ことはできない
ちゅうことになる。
僕たちは目の前のコップを「知る」ことはできても「信じる」ことはにゃー。
僕たちが目の前のコップを「知る」ことと、犬が目の前のコップを「知る」ことはたいしてちがいはにゃーだろう。
そして、僕たちは神を「信じる」ことはできても、「知る」ことはできにゃー。
(神を「知る」のが神秘主義の目標なんだけど、それはおいといて)
犬は「神」という概念を決して理解できにゃーだろう。犬には「信じる」という能力がにゃーからだ。
だから「犬や猫の「妄想」って、いったいどんなんだろう。イメージすらできない(JA50)。」わけだにゃ
「知る」能力と「信じる」能力は、たぶんぜんぜん別物だと考えられるわけですにゃ。
そして、僕の知りうる範囲では、この「信じる」能力をもった生き物はニンゲンだけ。
そして、「信」の対象とは何か。乱暴にいっちまえば「イメージ」にほかならにゃー。
さらに、「イメージ」とは何か。これも乱暴にいえば「いまここにないもの」であり、「自分の頭の中でつくりあげるもの」でもあるのだにゃ。
K.ローレンツは、「進化とは認識の過程である」といっているにゃ。ただし、この認識の対象とは、現実的な「環境」にほかならにゃーのであって、けっして「いまここにないもの」などではありえにゃーはずなのだにゃ。動物の行動は、現実的な環境の認識(=知)に応じて行われるものだけれども(でなきゃ、すぐ死ぬ)、ニンゲンの行動は、現実的な環境の認識(=知)だけでなく、「いまここにないもの、頭の中でつくりあげたもの(=信)」にも応じて行われるわけだにゃ。本来ならば、こんな「非現実的」な生き物などあっというまに滅びるはずなのだけど、この生き物は「いまここにないもの(=信)」を共有して、現実のほうを「いまここにないもの(=信)」にあわせて改変し、結果的に適応しちまったのだにゃ。
「いまここにないもの」に応じて行動するなんて、動物の行動としては「基地外沙汰」としかいいようがにゃーだろう。進化論を語るこの板では、こんな「いまここにないもの」なんて、一括して「妄想」と呼んでさしつかえにゃーだろ。
そして、ニンゲンという種は、まさにこの「妄想」によって種として反映しているとしかいいようがにゃーのさ。
To この世は仮の世さん
種の起源、でも、盲目の時計職人、でも、なんでもいいけれど、まずは進化論に対して「正しい知識」(と目されているもの)を吸収することからはじめれば良いでしょう?
本を読むことは、その本に書いてある知識を「すべて受け入れろ」という行為ではないはずですよ。読むなり、知った上で、ここが分からない、ここがおかしいと思う、などと反論もしくは質問してみれば良いのです。
何度でも言うけど、私はあなたが幸福の科学を信じていても、そんなことはどうでもいい。そもそもここは「信仰告白の場所」ではないのだから、あなたが信じる道を信じることに(嘆かわしいと思うことは私の自由であるように)邪魔をする気はない。だいたい、邪魔をされればされるほど、その反動として信心は強固になるのでしょうし。
ここで整理するならば、あなたは進化論に対する反論として、あなたの信じる教義を持ち出した。だから私はあなたの持ち出した「証拠としての教義」に反論をしているのです。そうじゃなければ幸福の科学の教義に私はなんの興味も持たない。そしてあなたが論理ではなく教義を重んじて「弁証法」を無視するから、議論の方向があらぬところに行くのです。
提案するのなら、あなたは科学議論において信仰を持ち出すべきではない。進化論に反論するのであれば、ただ「観測、論理、推論によって」反論の根拠を提示し、主張を行えば良いのです。
私がここに参加するのには目的があるが、その目的が達せられていない。
その目的とは自分の意見を世に発表することにより自分の意見の論理的不備を指摘してもらうこと、違う視点からの意見、知識を教えてもらうことにある。
しかし現実はそういう展開とはなってない。確かに初期の議論では私の意見の不備を突いた意見が示されるが、それに対し私は必ずしも目的が達せられるような反応をしていない。反論して自分の意見の正しさを強弁することは私の本意ではないが、現実にはそうなっている。
私としては議論を通して自分の意見の不備を指摘してもらい、自分の意見を固めていくのが理想だが、そうならずただ自分の意見の正しさを強弁するにとどまっている。それどころか議論が別の流れに変わっていっているようだ。これでは初期の目的が達せられない。
議論というのは正反合と弁証法的に固めていくのが理想だ。これからどう議論を進めていくべきか再考の余地が大いにある。
価値相対主義という考えがあって、世の中には絶対的に正しい真理などというものはないと考えている人々もいる。私としてはこれが正しいという考えと間違っているという考えと二つあって結論が出ない。これについても再考の余地がある。
低次な話で結構です。私にはそんな話をする能力も、そんな話をするつもりもありません。神は万巻の書を呼んだ人よりも心清い人の方を喜ぶと大川先生は言います。
知識人を気取って小難しい話をする虚栄心は私にはありません。
大文字ナンさん、このところ掲示板の流れが速くなりましたねえ。
>> でもね、「妄想」は当然のことながら両刃の刃でしょ?
>> 上手く手なずけられている限りは生存に有利でしょうが、この世の現実感を失ってしまった人やそのお師匠さんの様に、それに弄ばれている人の場合、果たしてそれを「適応的」と言って良いものかどうか。
> 適応的か否かは、ある環境条件に対する個体の生存確率なのだし、標準的な社会から逸脱してしまって、なおかつ小集団だけどその個体を許容する非標準的な「誇大妄想集団」に属した結果、もとの社会にとどまることよりも(その結果、自殺しようとかするよりも)近視眼的ではあっても生存に有利なのだから適応的だと思うのです、私。
御意。
適応的な妄想もある、非適応的な妄想もある。
それが適応的だろうが非適応的だろうが、妄想無しでは生きて行けないのが「人」っちゅうもんだす。
どうせ持つなら、壮大で夢のある構成のしっかりした妄想を持ちたいですね!
似非科学の衣を被ったり、虚言を垂れ流したりするしか能が無いのは見ていて悲しい。
質問の意味が理解できない。
質問自体、「信念」とか「妄想」という用語の意味を広げすぎだと思うんですが、、、
犬や猫の「信念」とか「妄想」って何だ?
という感じです。
「信念」なら、まだ何とか。例えば、この縄張りを絶対に守るぞとかあのネズミを絶対に捕まえるぞとかいうのを「信念」とかみなしていいかなとは思うけど(これもかなりな拡大解釈か)、犬や猫の「妄想」って、いったいどんなんだろう。イメージすらできない。
とにかく、私が言いたいことは、用語の意味をあまりにも広げすぎての主張の展開ってのは問題だよ、ってことにつきます。
いや、自分はそのように使うんだ、ってのなら、それ以上は横槍を入れるつもりはありません。そうなるともうご自由にというしかないですので。
質問
1)犬や猫は「信念」を持ちえるか?
2)犬や猫は「妄想」を持ちえるか?
3)その存在や正当性を完全に実証しうるものを「信念」あるいは「妄想」と呼ぶか?
う〜ん、やっぱり同じ意見しか言えないなぁ、、、
意味を広く取りすぎている、妄想という言葉の意味の一部しか合致していないのに妄想と言ってしまっている。
例えば、強い信念とか確信ということだけでそれを妄想と呼んでしまうのはどうかと、、、
妄想というからには、そこに誤ったとか訂正不能という条件もないと。
そして、できればさらに奇異なという条件があれば。
それと、妄想と虚言とは区別すべきじゃないでしょうか。
大川ダイセンセイが言っていることは「虚言」ではないんじゃないかな。内容はデタラメでしょうが、当人は嘘を言っているとは、少しも考えていないだろうと。たぶん、ひどく真面目に、「この真理で世界を救んだぁ!」とされているんじゃないでしょうか。
>「強い信念」と「妄想」をどこで区別するの?>JA50
質問の意味が、、、
定義を聞かれているのなら、もう既に、、、
グレーゾーンがあるじゃないかとの指摘なら、もちろんその通り。
夫が浮気をしているという強い確信を、妄想とすべきかどうか、こういう卑近なことでもはたしてどっちだろうというのがあるわけですから。
ゑびすさん
>メルモちゃんはどうなるの?
そういえば・・・「火の鳥」も。
あ、20日から未来編の放送だ。
互いに愛し合いなさい 】
男性 自営業 51歳 O型 ★ 2004/06/11(Fri) 04:56
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」
ヨハネによる福音書15章11〜17節
はじめまして、おじゃまします。
これをスルーするのはもったいないのでは?
>手塚治虫は神様です。 投稿者:この世は仮の世 投稿日: 6月10日(木)19時52分16秒
>この前手塚治虫が神様に本当になったという話をしたらそれを笑った人がいたが、笑い事ではない。
ならば、進化論を否定してはいけませんねぇ。
メルモちゃんはどうなるの?
To PEPEさん
まず大前提からです。
科学は超越者(神や超自然的な存在)を、否定するわけでも、肯定するわけでもありません。そもそもそれは、科学の範疇ではないのです。すなわち、
>進化論ではこれを否定できませんね
ここは「牧師さまの言うとおり」です。
そして、牧師さんの主張の中にこそ「矛盾」が潜んでいます。
>神様が、それぞれの動物にふさわしい「眼」を与えてくださったことに心から感謝申し上げます。すべて完璧に機能しております。
↑が、原文の通りであるのなら、
「それならば神はどうしてこうも不完全な形質をお与えになったのだろう?」
と、続くのでしょうね。
ドーキンスの「盲目の時計職人」などにもあるように、たとえばオウムガイの目は、ほとんど完全な網膜を持つというのに、なぜかレンズにあたる水晶体がありません。しかし、その近縁であるイカやタコには「ヒトに匹敵するか、それ以上に高度な」目を持っています。それなのにオウムガイに与えられたのは、やたらと完璧な「アンプとスピーカー」に対して、入力装置である部分は「ただ穴が開いているだけ」つまりコップに糸を結んだ程度の仕組みでしかないのです。
次に、
>その有利な変化を与えた主体が〜
主体があったとしても、なかったとしても、それは科学の範疇ではありませんから「眼中にありません」よね。たとえ牧師さまが「気に入ろうと、気に入るまいと」そんなことはどうでも良いのです。
主体はあるのかも知れない。しかし科学はそんな「余計なことまで」詮索しないだけのことです。
結論としては、主体があろうとなかろうと、現実に変異は起きている。それは生存に不利な変異もあれば、有利な変異もあるだろう。また、ある環境において生存にはまったく関与しないような中立変化もあることだろう。大事なことは、なんにしても「変異はある」ということです。
もしも神がいるならいるでそれはかまいません。しかし、その神は「進化というシステム」を内包する世界を創造したのでしょう。これならば、かなり不自由そうに見える生き物が多数存在することも、矛盾なく説明できます。そう、人の目に盲点があることも。
しかし、いきなり不完全で不自由なイキモノを「ヘタクソに」作るような神は、よほど頭が悪いのです。しかもせっかく作った大部分は絶滅してしまいました。これはそれが神などではなく、あなたに都合の良い「願望」でしかありません。…などと主張してみてはいかがでしょう。
#でも、必ず不毛なことになるでしょうけどね(笑。
ところで、カガク仮説、ちゅうのはこの観点からもオモシレーよにゃ。
自らを「仮説」と認めるのは
「うーん、これはもしかしたら妄想かもしれませんやねえ、
たぶん正しいとは思うんですけどねえ、へっへっへっへ」
という謙虚さが感じられるわけだにゃ。
つまり
カガク自体は、自らの妄想性の自覚により、
逆に妄想から距離をとることに成功しているのではにゃーかと思う。
ただ
カガクや科学者に対する社会的(文化的)な評価となると、
これは妄想そのものであるといっていいのではにゃーだろうか
さて、この手のことは、別に僕が独自にでっち上げたことでもにゃーのだ。
自分でイロイロ書いていて、
「ありゃ、過程はちょいと異なるけれど
この本と似たようなことを言ってるな」
と今気づいたので、似たような箇所を引用しておきますにゃ。
***************************************
つまり、文化の中のすべては根拠のないものだ、ということを知ること、何か目的原因論的な必然性を考えたり、あるいは勝手にでっちあげたユートピアに向かって進んで行こうとしないことが大切なんです。これを私ども言語哲学、あるいは人間学では、「実体論から関係論へ」と意識を転換させるパラダイム・チェンジだと言っております。すべてのものが実体としてあるんじゃなくて、本当は関係、しかも無根拠な関係です。
(「フェティシズムと快楽」丸山圭三郎P39より)
****************************************
>危険な航海に出ないといけないとき、大丈夫だという強い信念を持たねばならないこともあるでしょう。
明らかに危険で、自分のみならず乗員の安全さえ確保できないことを「知って」いるとしても、船出することが「強い信念」なのだとしたら、それは妄想でしょう。事実を客観的に「自然科学的に」評価できているのなら、危険を顧みずに船出することは「あり得ない行動」ですから。
#たとえば映画「パーフェクト・ストーム」にあるように。
行動しないことに比べれば、行動することの方がなんらかの結果を生み出すことは出来るでしょう。だから、不安だといってオロオロするよりも、行動した方が良い。しかしその結果「船出しないこと」を選択して行動することが選択肢に入っていないのならば、それは自殺行為に過ぎないでしょうね。
再度お答えすると、
>危険な航海に出ないといけないとき、大丈夫だという強い信念を持たねばならないこともあるでしょう。
信念などで行動するヒトを私は蔑視します。自己と他人の命に関わる選択をしなければならないとき、それは客観的観測に基づく冷静な判断でなければならない。大丈夫だ、というのならば、大丈夫なだけの「客観的根拠」を提示できなければならない。しかも、それだけの根拠を提示したとしても、不測の事態によってすべてが悪化することさえあるのですから。
「全ては妄想だああああああ」でオワリにしてもちっとも面白くにゃーので、もうちょい突っ込んでみるにゃ。
例えば、「ジンケン」なる概念を考えてみる。
「全てのニンゲンには生まれながらにして犯すべからざる一定の権利があり、
その権利を擁護するというタテマエで近代国家の権力の存在が認められている」
ちゅうことらしいですにゃ。
で
こうしたジンケン概念に対し、「保守系の論壇」は、「妄想だろ、妄想」などと抜かしやがっているみたいですけどにゃー。
そしたらニッコリ笑って、こう答えてやればいいのだにゃ
「うん、妄想だね。
で、万世一系のテンノーちゅうのは妄想ではにゃーのかね?
さて、ジンケンも万世一系もどちらも妄想ならば、有用な妄想はどっちだい?」
大抵のことは妄想だと思うのだにゃ。
カネとか権力なんてのは妄想もいいとこだし、恋愛とか家族の愛も妄想だにゃ。
もちろん宗教も妄想だよね。
ニンゲンちゅうのは、自らの属する小集団にアイデンティファイするようチューニングされちゃってるんだろ、きっと。
で、もともと妄想が適応的で、さらに世の中には妄想が溢れているというのなら、逆に妄想を適応度でランク付けすることが可能になるのではにゃーだろうか。
つまーり
「役に立つ妄想はいい妄想(爆)」
名づけて
妄想功利主義、あるいは、妄想プラグマティズム
多数を幸福にする妄想、というと妄想功利主義的立場で
適応的な妄想、というと妄想プラグマティズム
この辺の立場に立つと、大川ダイセンセイの妄想は、何の役にもたたにゃーので妄想ピラミッドの最下層あたりに属することとなるわけだにゃ。
さらにワリイのが他者に対する攻撃的な妄想で、魔女狩り妄想とかナチ妄想、あるいはオウム妄想なんかもこうした観点で否定できるわけ。
幻魔大戦、なつかしいですね。
あれって最初は石森章太郎との漫画で、漫画のほうは後に石森章太郎だけで続編が書かれています。
小説の方は最初の3巻くらいまでは漫画の原作みたいですが、次第にあちらに行ってしまいました。他にも「新幻魔大戦」(江戸時代の話だったと思います)や、「真幻魔大戦」がありました。真幻魔は幻魔大戦とは違う世界での幻魔大戦だったと思います。最初はSFでしたがすぐにあちらに行ってしまうのは同じでした。
日本SFの初期には最初から漫画やアニメの原作、脚本として書かれたSFがあります。8マンはそうだと思います。ゾンビーハンターもそうだとは思いますが、もしかしたら小説の方が先かも?
お返事ありがとうございます。今後もよろしくお願い致します。
> トトロさんのゆうように自然界に存在する様々な光を感じる器官を並べてみれば、
>人間の目が自然選択で漸進的に進化したと納得できると思います。
その牧師様が言いたいのは
神様が、それぞれの動物にふさわしい「眼」を与えてくださったことに心から感謝申し上げます。すべて完璧に機能しております。とのことらしいのです。先程のトトロ様の例をあげたにもかかわらず…
>どうやら、進化論はわからないことだらけのようですね。
>生物の体が目的性を持っていることから、その目的を与えた主体の存在は明らかです。
>その主体のことを創造主なる神様と呼ぶのです。
>進化論ではこれを否定できませんね
>すべて、神様の創造に愛が込められているから可能なのです。
>ひとりでに有利な変化が現れると考えているのは、ただの幻想です。
これに対して、牧師様のおっしゃる目的とは淘汰のけっか生まれた変化の方向性がもつ擬似的目的性であり、前述(投稿日: 6月 9日(水)17時53分20秒)のけっかからそれらの機能を与える主体の存在を必要としない。必要としないので創造主の存在の有無を否定も肯定もする必要がない。と反論いたしました。
それでも
>なんでそこで有利な変化が出て来れるんですか?有利な変化を勝手に作り出さないでく>ださいね。
それに対し、有利な変化も、勿論不利な変化も出現しました、不利な変化は淘汰されるので有利な(生存率を高めるように働く)変化が引き継がれました。
すると………………
その有利な変化を与えた主体が……と延々と繰り返します。うぅーん、なんの説明が足りないのでしょうか?主体は必要ないと主張したのに。
言っても無駄なことはわかっているんだけど。幸福の科学的にはダーウィンは間違っているかもしれませんが、自然科学的にはダーウィンは間違っていないってことは理解できます?大川先生が何と言っていようとも、自然科学に通じた人はダーウィンの主張が概ね科学的に正しいとみなしていることは知っています?
手塚治虫の漫画を読んだこともない人が、というか、漫画そのものを知らない人が、「手塚治虫は間違った漫画で後世に悪影響を与えた罪で地獄に落ちています」などと主張していたら、何か一言言いたくなるのではないですか?
To PEPE様
目というのはどちらかといえば進化の説明に好都合な器官だと思うな。
トトロさんのゆうように自然界に存在する様々な光を感じる器官を並べてみれば、
人間の目が自然選択で漸進的に進化したと納得できると思います。
あとよく言われるのがヒトの目には盲点があるが、タコの目にはないというものです。
進化のある段階で視神経がタコと反対方向(光の進入方向)に伸びてしまったため、
盲点が必須になったと考えられています。
もし人間の目を設計したデザイナーがいるのなら、蛸の目のデザイナーより
ヘボな別な設計者ということになります。タコが悪魔の魚と言われる所以かな?
To:この世は仮の世 さん
アナタの心を救うために、
「この前の広辞苑についての私の書き込みは間違っていました。」
「この前のネットについての私の書き込みは間違っていました。」
と、あなたの言葉で書き込んでみませんか?
自分の間違いを認めることは、他者のためではなくて、
「あなた自身の心をまっすぐにするために必要なこと」
なのですよ。
その意味で、小さい間違いかどうか、なんて、関係ない。
これは修行です。
...自分に語りかける言葉なのです。
社会は妄想を抱く。もちろん。
二酸化炭素等の削減が地球温暖化の決め手かどうかということは、今の科学の限界の内では、妄想でないと言い切れる人はまだ、いないと思います。
でも、「最新の(そして、特定の団体の利益を代表したりしない)妄想には従うことが」個体のみならずニンゲン社会にとって適応的だと思います。
...というか、その方向に賭けるしかない。
あとさ、
社会は妄想を抱くことはとうぜんご存知だよにゃ。
魔女狩りとかナチとか、いくらでも例はころがっているのだにゃ。
もちろん、文化に適応することはニンゲンの個体にとっては適応的だよね
>私はここに雑談しに来たんじゃないんです。
ボクも、アナタのまねをして、いいたいことを言ってるだけです。
というのはウソ。
ボクは真剣に、アナタに対して、
「アナタの言ってることとボクの言ってることは同じ(低)次元の話だよ。」と
言ってるのです。
大川さんは、(もし地獄があるのなら、)死後、無間地獄に落ちます。間違った思想で後世に悪影響を与えた罪です。
妄想ちゅう言葉をつかったのは、何割かは「煽り」なんだけど、半分以上は「ホンキ」でもあるにゃ。
(ホンキの要素がなければ煽りをする気にもなれにゃーし)
「強い信念」と「妄想」をどこで区別するの?>JA50
たとえば、大川センセイのいっていることなんて、妄想以前にただの虚言であり、どっからどうみたってハシニモボウニモかからにゃーよな。あの馬鹿のいっていることなんて、実証的に大嘘だといくらでも明らかにできるからにゃ。
では、
ゴータマのいっていることは、妄想かい? 強い信念かい?
親鸞のいっていることは、妄想かい? 強い信念かい?
日蓮のいっていることは、妄想かい? 強い信念かい?
I田T作のいっていることは、妄想かい? 強い信念かい?
妄想を信じちゃうことと、強い信念を持つことは、実は同じことだと僕は思っているにゃんが
もちろん、妄想と信念は別物だにゃ。
しかし、それを信じてしまうという機構は同じなのではにゃーかな?
おずおずさん 人の揚げ足とるのやめてくれませんか?
まじめな話なんですよ
私はここに雑談しに来たんじゃないんです。
ダーウィンは無間地獄に落ちてます。間違った思想で後世に悪影響を与えた罪です。
皆さんは妄想をあまりにも広い意味で使いすぎている。
そういう議論は不毛じゃないでしょうか。
船乗りの話が出たんで、私もそのたとえを使いますが、、、
強い信念を持って行動すべき時はある。危険な航海に出ないといけないとき、大丈夫だという強い信念を持たねばならないこともあるでしょう。不安ばかりでうろうろするだけでは、ただでさえ危険な航海なのにそれがより危険なことになってしまいます。
しかし、強い信念と妄想とは別です。
これは区別しなきゃぁ。
似ている部分があるからと、それをごっちゃにして議論するのは不毛です。
妄想というのは、その内容が間違っていること、そしてその確信が異常に強くて訂正できないということでないといけない。
強い信念というだけで、安易に妄想と呼んで議論をするのはどうかと、、、
以前、精神科医にこういう掲示板で尋ねたことがあります。
女性患者がいて、夫が浮気をしているという妄想を持っている。
夫が浮気をしている、などというのは、そう珍しいことではないですから、強い確信があるからというだけで、それを妄想としているわけではない。また、その女性が精神病だからというだけで妄想としているわけではない。
実際に、その夫が浮気をしていないのに、強い確信を持ち、その間違った確信のためにその女性がとらわれているから、それは妄想とされる。
もし、夫が浮気をしていて、その浮気の根拠となることを、その女性が示せるのなら、それは妄想ではない。強い確信を持って当然なんですから。
なんで、夫が浮気をしているとあなたは思うのかと尋ねたら、ラジオで言っていたとかいう根拠だから、それを妄想とみなすんだと。
間違った強い確信を持つことが適応的ではありえない。
それは「間違った」というのと「適応的」という用語の意味に反するはずです。
>私にとってこの人は生きている間既に信仰対象になっていた。信仰対象になる人のことを神と呼ぶ。
ボクにとってダーウィンは信仰対象です。ドーキンスは生きている間既に私にとっての信仰対象になっています。
したがって、ダーウィンもドーキンスも、神さまなんですね♪
(...彼らは神にはなりたがらないだろうけど。)
To Kosukeさん
適応的か否かは、ある環境条件に対する個体の生存確率なのだし、標準的な社会から逸脱してしまって、なおかつ小集団だけどその個体を許容する非標準的な「誇大妄想集団」に属した結果、もとの社会にとどまることよりも(その結果、自殺しようとかするよりも)近視眼的ではあっても生存に有利なのだから適応的だと思うのです、私。
To おずおずさん
自然科学は文化の「とても小さな一側面」に過ぎないことがポイントかな。数学も同じ。
たとえばJ-POPという「文化」があります。ポピュラーソングなんてのは「売れている」こと、ただそれのみが重視されて、楽曲の善し悪しなんてのはどうでも良い。個別には違う見解(もちろん私もそうじゃないと考えるけれど)であっても、社会全体は「そういう風に動く」わけで、あるミュージシャンを評価する場合にも「このヒトはプラチナ・ディスクを○枚生んだ」と評価される。
そして、人間社会で「最も妄想的な文化」こそ、恋愛ではないかな?
ファッションを見ても、基本的には集団(所属する環境)への適応度を高めるために行われて、それはそのまま、より好ましい異性との友好的な関係を築くために(端的ではあるけれど)働くのであって、原理的には「性適応」そのまんまだと思う。
これが恋愛、つまり「異性への思い込み」に終始すると、ヒトは極端に「妄想的な傾向」を示す、と私は観測しています。そして、ほとんどすべての文化がそれを助長しているでしょう。
まぁ、自由とかでもいいのかな。中国に行って思ったけれど、基本的に日本よりもずっと「我が侭・勝手」がまかり通るっていう感じです。私は道路事情とか見て、もっと統制した方がスムーズになるじゃん!と思ったけれど、それはそのまま私が「規制されること」に慣れて、適応しているだけのことだと思う。ガイジンと議論してもそう。あんまり主張を曲げないから奇異にさえ見えることがあるけれど、それは個々の文化に適応しているだけのことで、私が私の文化という妄想を見ているのに過ぎない、と思える。
>地上で生きているときに神の心にかなった生き方をした人は天国に行く。
>その中でも特に神と心を通じ、偉大な心で偉大な仕事をしていった人は天使とか神とかになる。
まあ手塚治虫が神様になるというのはわからんでもないけど、それならダーウィンとかセーガンとかファインマンだって、偉大な仕事をしたってことです。神様が存在したとしたら、神様は科学をこよなく愛していると私は思います。さまざまな証拠から、ダーウィン的な進化が起こったと考えるのは妥当な推論であって、ニセの証拠で人間を騙すような神様を仮定しない限り、ダーウィン進化論は正しいと言えます。それは正しいだけでなく、美しいとさえ言えます。私が信仰するとしたら、土から人間を造るようなどんくさい神様ではなく(予言を外すような誇大妄想狂など論外)、必要最小限の関与で現在のような多様性のある世界をつくるエレガントな神様です。
妄想が相手にすべき最大のテーマが「死」である事は間違いにゃーですな。(猫語は使い出すとやめられない(笑))
ただ悲しい事に、思索があまりに浅くて多くの人の共感を得られない妄想しか持ち得ない場合が多いのですね。
↓この人のように。
この前手塚治虫が神様に本当になったという話をしたらそれを笑った人がいたが、笑い事ではない。
人は死んだらどうなるかというテーマはあなた方にとって切実なテーマのはずだ。事実小学生の頃の私にとっても切実なテーマだった。
ここに参加してる人で120年後も生きている人はいない。みんな一人残らず死んでいる。人間は120年もしたら死ぬ運命にあるのである。それも天寿を全うした場合の話であって、実際は人の命は明日も生きているという保証はない。今日は無事に生を終えることができても明日は殺人事件に巻き込まれて死んでるかもしれない。あるいは交通事故で死んでるかもしれない。あるいは病気で倒れて末期ガンを宣告され、余命3ヶ月と宣告されるかもしれない。そういうろうそくの炎のように簡単に吹き消されるようなはかない生涯を我々は送っているのである。
「人間は死後どうなるか」というテーマははいろんな知識を詰め込むより我々にとって切実なテーマである。
人は死ぬと霊魂になる。あの世に行く。天上界で自分の人生のパノラマを上映され、自分が生きている間何を考えて生きてきたか、その心の中まで親や友人、先生など縁のあった人たちの前で明らかにされる。みんな自分の心の中までばらされて自分の本性をばらされる。私たちみんなそういう未来があの世で待っている。あの世で自分の人生を反省させられて、合格点に達しなかった人たちは地獄に行く。
地上で生きているときに神の心にかなった生き方をした人は天国に行く。
その中でも特に神と心を通じ、偉大な心で偉大な仕事をしていった人は天使とか神とかになる。
手塚治虫はそういう存在である。生きているとき既にマンガの神様といわれたが、この人の偉大さをおぼろげながらわかっている私としてはこの人が死んで神様になるのは当然の報いといいたい。
この人なくば今のマンガ業界アニメ業界はなかったのであり、この人以外にこういう大きな仕事を短い一生の間に成し遂げられた人はいない。この人の漫画やアニメに対する情熱は人並みはずれている。この情熱なくば今の日本はなかった。
私にとってこの人は生きている間既に信仰対象になっていた。信仰対象になる人のことを神と呼ぶ。手塚治虫信仰がこれから起きてくるだろう。既にNHKによってその信仰が起きている。アニメ「火の鳥」だ。
地下猫さんのメッセージにはいつもinspireされるし、大変面白い。で、敢えて絡んでみるにゃ(笑)
妄想は、ヒトが進化の過程で獲得した生存のための有効な装置だという発想は目からウロコです。
外界に働きかけ、時にはそれを改変できる能力を持った「ヒト」という生き物は、そのような働きかけの力の源となる文化(妄想と言い切っても良いけど)というものの持つ、得体の知れない「力」を骨身に沁みて知ってしまったのですな。おそらく「宗教」というものも、この恐ろしい武器を如何に手なずけるかという事にもがき悩んだ人間が生み出したものなのでしょうね。
でもね、「妄想」は当然のことながら両刃の刃でしょ?上手く手なずけられている限りは生存に有利でしょうが、この世の現実感を失ってしまった人やそのお師匠さんの様に、それに弄ばれている人の場合、果たしてそれを「適応的」と言って良いものかどうか。
「適応的」っちゅー言葉を使うのは、なかなか勇気が要りますね、下手するとトートロジーの泥沼に陥りますからな。
文化と妄想との構造的同一性自体については、原理的にはおっしゃるとおりだと思います。
ただ一方で、文化は自己の妄想の部分を現実に合致するように改訂し続けているという意味で、
文化と妄想は対極にあるとも思うのですけれど...。
例えば、自然科学的な意味においては単なる平均気温のずれでしかない現象は、昔の人たちにとっては「凶作」となり、単なるプレートの歪みエネルギの解放が、(今の人にとってさえも)「自然の脅威」となる、つまり、「我々人間にとり不幸なこと、か、そうでないか」という、実に人間中心な分類で語られるという意味においては、まさに文化は今も、妄想のしっぽを持ち続けているといえるでしょう。
大昔なら、それらの原因を理解する手段も、その現象を予防する技術もなかったから、彼らに出来る可能な限りの観察結果でもって、「我々にとって悪いことが起こるのは、誰かが我々をいじめようとしているんだ。」と思い、対策として「誰か」を、彼らが想像する限りの「なだめ」を行う(美人の処女、を生け贄とするとか...ものすごく勿体ない...)のは、今の科学技術で東南海地震を予知し対策をこうじるのと「同じレベル」の、対策だったと思います。その意味で、その時代の限界の内での、もっとも現実的な「妄想」だったはずです。
一方で、現代において、プレートテクトニクス等の、現代の人類の限界の中では最新の「妄想」があるにもかかわらず、「拝みかたが足りないから...」とかいう妄想にいまだにとらわれるというのは、「文化=妄想」というに値しない、「唾棄すべき妄想」だと思うのですけど...。
>自然に直接に適応しなければならにゃー生き物は、もちろん妄想なんてしてられにゃー
>妄想してたらすぐに死ぬ。
カガクに代表される一連の思考様式、つまり「懐疑的・自己批判的であること」は、だから一部の人々にとても嫌われるのでしょうね。現実をよく見ること、共同体意識という妄想を断ち切ることは「社会的な適応状態」を放棄することにほかならないから。
たとえ話によく出てくる「船の話」では、ある船で航海に出ようとする。だけど天候は悪く、船の寿命は限界に近く見えている。だけどヒトは、「今まで大丈夫だった、だからきっと今回も大丈夫だろう」とタカをくくる。その結果、船が漂流し沈むかも知れないことは、妄想で追いやって忘れてしまう。そして現実に悲劇が起きたときだけ、現実を見なかったことが取りざたされる。
しかし船を「軽信した」船乗りは、一方で不安を覚えていないわけではない。だからこそ、妄想で「適応する」ことが必要なんだけど、この不安が大きい場合、もはや超自然的な力にでも頼らないと妄想を維持できなくなって、標準的な「社会的妄想度」を外れてしまうんでしょうね。こういう場に、新興宗教やカルト、オカルトの類が「活躍する機会」があるのだと思う。
「信じること」ってのはつまり「無制限な肯定」だから、社会(狭義には家族、職場、友人関係など)から拒絶(つまり、その人固有の妄想を否定されること)されたことへの「不信」が、妄想障害を持つヒトを親和的に迎え入れる「より荒唐無稽な妄想社会」である教団に対して、妄信や盲従を生むのだろうな。一方で激しい不信を持つヒトは、別の方向では激しく信じやすいってことか。
そして、各々のヒトが文化に適応することと、文化が環境に適応することは、お互いに正のフィードバック関係にあるといっていいでしょうにゃ。「one for all, all for one」ちゅうことだにゃ。(ま、専制権力が現れるまではね)
つまり
ある文化に適応するほど、自らの妄想を現実化しやすいわけにゃんね。
あるいはこうもいえるにゃ
「ある文化の持つ妄想と、個人の妄想が合致したとき、その個人は幸福である」
(この原理を強制するとファシズムになる。
ファシズムの指導者は、国民みんなを幸福にしたいのだにゃ)
ちょい話がずれたにゃ
僕が言いたかったのは、ずばり
「妄想は適応的である」
ちゅうことだにゃ。
文化という妄想現実化装置を媒介に環境に適応しているニンゲンちゅう生き物にとって
妄想を現実化するために労働し、妄想を共有すると幸福を感じる生き物にとって
妄想するという行為は適応的であり、妄想を共有することも適応的なのだと思うにゃ。
ちゅうわけで、ニンゲンは妄想しやすいし、妄想は共有されやすいにゃ
「カラダが飯を食うように、ココロは妄想を食う」ちゅうのが僕の座右の銘。
自然に直接に適応しなければならにゃー生き物は、もちろん妄想なんてしてられにゃー
妄想してたらすぐに死ぬ。
まえからいっていることの妄想の観点からのマトメですけどにゃー
ニンゲンちゅう生き物は、その個体が直接に環境に適応しているわけではにゃー
で、環境に直接的に適応している装置のことを「文化」と呼んでいるわけですにゃ。
ニンゲンの各々の個体は、直接的にはこの「文化」に適応しているわけにゃんね。
で、この「文化」なるニンゲン独自の適応装置なんだけど、
この装置は現実を書き換えていくことを志向しているところに本質があるのではにゃーだろうか?
僕たちの多くにとって、心和む自然というのは、たとえば原生林や荒れ野原ではにゃーよね
ヒトの手がはいった林、水田の風景などが、「僕たちにとっての」自然、いわば「人間的な意味での自然」なのだにゃ。
自分が生きて食い、あるいは老人や病人や子供を養うためには、現実を改変していかなければならにゃー。僕たちは常に現実の改変を望みつづけ、そして「労働」によって実際に現実を変え続けてきたのだにゃ。文化とは現実を改変する装置の総体であり、本質的に手レオロジーであり、これはニンゲンにとって、ずーっと善であり正義だったわけね。
あるいはこうもいえるかもしれにゃー
「意図的に現実を改変する志向性の有無が、ニンゲンと他の生き物とを決定的に峻別する」
さらに言い換えるにゃ
「ニンゲンだけが妄想を現実化する。文化とは妄想現実化装置である」
生きるか死ぬかを決めるかもしれないって時、それも、肉体どころか、自分そのもの、これは自分だと感じている私という主体そのものの存亡がかかっている時には、手段は選ばない。それこそ生き残るという「目的のためなら、現実の捏造など平気でする」ようになるでしょうね。
>「見えてるのも聞こえてるのも」というのは幻覚(幻視や幻聴)で、それを北朝鮮の工場だとか神様とか悪魔の声だと意味づけし、思いこんでしまって訂正不能になったのが妄想なんでは?
一般的には、知覚が意味を生むといえますにゃ。
音楽を聴いて心地よいとか、歯が痛くてつらいとか
卵はおいしくて一日一個ではおさまらにゃーとか
ところが、観念(意味)が知覚を捻じ曲げることも多いのだにゃ
ブルマンと聞くとコーヒーがおいしく感じるとか
いつもと違う相手とせくーすすると新鮮で気持ちよく感じるとか
さらに、観念(意味)が知覚を捏造してしまうことすらありえちまうわけ
「自らの観念が見えてしまう、聞こえてしまう」
こいつがいわゆる幻覚にゃんな。先に意味があるのだにゃ。
ニンゲンの精神ちゅうのは、本質的に目的(意味)を志向しているわけだにゃ
目的のためなら、現実の捏造など平気でするものですにゃ
JA50さん
ご指摘のとおりです。
幻覚のたぐいは、見ている本人には「現実」そのものです。そして見えている以上は「意味づけ」して、もっともらしく解釈する。そういう妄想を、傍から「妄想だよ」と指摘しても反発しか返って来ないのは自明だった、と思い出したわけです。しかしかといって、奇異に過ぎる主張を前にしたとき、妙に配慮して「スルーし続ける」ことも、私はどうかと思う。
ただ私の母の場合は三日という短い間に錯乱がおさまり、見たもの、聞こえたものは覚えていたのだけど、それについて質問してみると、
「そんなのは、夢に決まっているでしょ」
と、再び(別の意味で)不機嫌になったのでした(笑。
だからどうだと言われるかもしれないですが、、、
>見えてるのも聞こえてるのも妄想だ、と言っても
「見えてるのも聞こえてるのも」というのは幻覚(幻視や幻聴)で、それを北朝鮮の工場だとか神様とか悪魔の声だと意味づけし、思いこんでしまって訂正不能になったのが妄想なんでは?
自分は神様(それがエホバだろうが、エルカンだろうがなんでもいいんですが)であるとか、神様の声が聞こえその教えを広めないといけないというようなものが、もし妄想であれば、当人にはもちろんのこと、他人が事実などを示してそれはおかしいと説得しても、訂正できない(できるようなものなら妄想とは言わないんだから)。対面しての説得でも不可能なんだから、こういう掲示板であれこれ説得してもそれこそ無駄。逆に病状を悪化させることさえあるんだそうな。
そういうのが妄想じゃなく宗教的信念ならば、どれほどそれが奇異だろうと、他人があれこれ口を差し挟むことじゃない。どうぞご自由にと言うしかない。
ということは、奇異な主張を前にしたとき、私たちにできることは、その発言が事実と違っていることを提示することまでだ、、、というのが理性的な主張なんでしょうが、他人の妄想って、意外と人の心を刺激するんですよね。心の深いところで素手で掴んで揺さぶっているような感じか。
それで、なんか、よけい過激に反応してしまう。
で、大論争が開始されることになる。
>トトロ様
わたしも気になっていたので目次の紹介していただき
ありがとうございます
紹介文の
>最前線のサイエンティストたちが
というのはいったい誰を指してサイエンティストといっているのかも
個人的には気になりますが(苦笑
これ以上は自力でちょっと調べてみます
よく紹介文とかに
「有名大学教授も絶賛」みたいなこと書いてあるのを見かけますが
矢追純一氏でさえ某大学の教授(しかも学部長)なわけですから
肩書きだけで「おぉじゃ科学的な内容なのか」と判断できませんねぇ
結構ネットで本とか買うのですが
紹介文だけでは科学系の本か疑似科学系の本か判別難しいことが往々にしてありますね
う〜進化論と関連の無い書き込みばかりで申し訳ありませんm(_ _)m
そもそも私が減摩対戦(ってスゲィ変換だなぁ、こりゃ)を持ち出した理由(ワ。
この世〜さんが列挙する「かみがみ」をみてて、あ〜こりゃ過去に似たような脱力感を感じたなぁ、なんだっけ???って考えてたら、そっかそっかアレだと、シーネ・ギプスが肘に擦れて痒かったなぁ、とか情景豊かに蘇ったのが幻魔大戦だったのです。
妄想障害に陥ると、好きなひとはなんでも神格化しちゃうし、自分さえも「あっちとつながってる確信」を持つようになるらしいんで、平井某も同じなんでしょうかねぇ…
#ちなみにウチの母が一度錯乱したことがあって、仕事を抜けて見舞いに行ったら、
「窓の外にある薬局の二階に北朝鮮の工場があって、そこの監視役が私をずっと見張っているから気をつけろ」だとか
「壁の中に神様と悪魔がいるんだけど、テレビのリモコンを渡せと言っているのがどっちか分からないから、悪魔には渡せないので迷っている」
なんてことを言ってて、かなりビビった。
見えてるのも聞こえてるのも妄想だ、と言っても決して信じようとはせず、ていうか本人には実際そう感じられるんだから仕方がないのです、と医師に言われて、なんでもいいけどリモコンくらい渡してやってもいいじゃん?と母に言ったら
「お前は何も分かってない」
と言われた。分かるわけ、ないじゃん(笑。
たまごちゃん(^-^)ノ様
ありがとうございます。また遊びに来ます。
大文字ナン様
はい。「オオモジ」ナン様と読むのは存じ上げておりました。これからは「ナン」様と呼ばせて頂きます。
NORTONV世 様
洗礼ですか!? 家族の団欒ではそのような部分は話しません。(キッパリ) 私は面白がっていますが。(笑)
地下に眠るM様は怖いですね〜。一番怖い方ですね。NORTONV世 様もここにはまっていらっしゃるのですね。私も勉強します。
なんだか板の流れを乱しているようなので、この辺で。
>その正体は拍子抜けするほど健全で知のバランスの取れた常識にゃんこです
きっさまああああああああああ!!!
喧嘩売ってんなら買うにゃああああああああああああ!!!!!
言われるとイチバンハジカシイことを言いやがってえええええええ!!!!
平井和正さんは、本当に惜しいことをしました。だから宗教って嫌い。
ゾンビハンターの後半にはいって、話が不自然にひっくり返ったのも、宗教のせいなのかな?だれか真相しりませんか?
この世は仮の世さんの歪んだ史観には、もうだれも突っ込ま無いの?それとも、既に見捨ててしまいました?>all
#読んでいて、アメリカの南北戦争の結果、南軍の人々が皆殺しにされたとでも誤解してるんじゃ無いかと、心配になってしまった。
チョコ2 様 はじめまして、新参のNORTONV世と申します
>実際に自分がここの板上に足を踏み入れてみますと身もすくむ思いです。
やー、ホントそうっすよねぇ。ここの常連の方たちって、賢人ぞろいで敷居が高くって・・・
でも、小生は勇気を出して、今後も、勉強させてもらおうと思っています(その割りに
知的討論にはなかなか出られませんが・・・)
>家族(主に息子)にも食卓を囲みながら「今日はね、地下猫さんがね…」
ご家族で団欒の席の話題にしていらっしゃるのは次のようなくだりでしょうか?
*****************************************************************
我に感謝し、あがめよ 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月25日17時37分
世界終末戦争を回避できたのは
吾輩がトイレでチンコを3回転させながら
「ぴぴるま・ぴぴるま・ぷりりんぱ」
と唱えたからであらせられるからだにゃー
******************************************************************
#うーーむ。いいのだろうか?
しかしながら、地下に眠るM様が賢猫であることは確かです。
猫様は、にゃん法「罵倒嵐の術」「お下劣隠れの術」「ユング手裏剣」「ローレンツ変換」
(これは違うローレンツさんか)などを使って正体を隠したつもりでおられますが、小生の
見るところその正体は拍子抜けするほど健全で知のバランスの取れた常識にゃんこです。
(おまけに猫のくせにヒューマンタッチ)。YAHOOトピ板での各方面での(野生の哲学は
歯が立ちませんでした)発言を呼んでつくづくそう思いました
初期の「アダルト・ウルフガイ」シリーズ、あの頃の犬神明を返してください。
>ところで(ここからみなさんへ)、平井和正ってやっぱりシューキョーにイっちゃってたんですねぇ。その後まったく無関心になったんで知らなかった。
彼がGLAじゃろうと、γGPTじゃろうと、なにを信じてもええんじゃが、
「仕事を途中でおっぽるな」と、言いたい。
「幻魔大戦」金返せ!!
はじめまして、カタカナで書いてみましたが、本人です(笑。
>「大文字さんはこう言った…」等と報告も。
あうぅ〜、私を略称で「親しみ深く」呼んでいただけるのなら、ぜひ
「ナン」
の方で覚えていただけると大変うれしゅう存じます。
#ていうかそもそもHNであるこの名を略称とかいってる私が変なのであるが(笑。
それはそうと、私、下手をすると朝方「焼酎ボトル2本」とか「瓶ビール10本前後」を飲んだあとに書き込みしていること「も」あります。これもひとえに「進化論を学んだ成果」でしょうね(オイ。
ところで(ここからみなさんへ)、平井和正ってやっぱりシューキョーにイっちゃってたんですねぇ。その後まったく無関心になったんで知らなかった。
To hsyykさま
> もーどーでも良いとは思うんですが読んだ本の題名と著者名が分かりましたのでご報告します。
> オーパーツと天地創造の科学 久保有政/著 でした。
>
> でも宣伝になっちゃうから書かなかった方が良かったんだろうか?
多分、紹介の仕方によってはこのWebをご覧になられる方々に有効な情報でしょう。で、私からもう少し宣伝してみます。この本は 学研ムー・スーパーミステリー・ブックス から出版されています。恐らく、ムー・スーパーミステリー・ブックスというだけで怪しさ満点の一冊でしょう。目次は
第1章 進化論を否定するミッシングリンクとオーパーツ
第2章 世界的ノアの大洪水と地球環境の大激変
第3章 オーパーツの正体
第4章 天地創造の科学
第5章 年代測定法の虚構
第6章 創造論科学者とサムシング・グレート
第7章 生命体に刻まれた創造の証
第8章 天地創造の科学が語る人類史
となっていて、ESブックスの紹介文は
恐竜を象った土偶や古生代の貝とともに化石化したハンマー…。その時代にあるはずのない謎の工芸品オーパーツ。アカデミズムが存在を無視しつづける一方で、アトランティス文明や異星人の関与が指摘されるなか、ついに、すべてを説明する学説が登場した!!根拠のない年代測定や矛盾だらけの進化論を超克するため、最前線のサイエンティストたちが提唱する「天地創造の科学」とは何か。21世紀の科学ルネッサンスが今、始まる。
で、トトロおぢさんからhsyykさんへの忠告。
信じ込まないこと。この手の本は、暇つぶしか軽い息抜きと心得てください。もし、疑問に思うなら、この掲示板で質問してください。この本に書かれている内容は多分、100%反証されています。多分と書いたのは、私がこの本を持っていない(類似の図書なら腐るほどありますが)からです。
To 大文字ナン様
こちらこそ宜しくお願い、いたします。いつも素晴らしい議論を楽しく、そして感心して自分も早く皆様と意見を交わせるよう努力したいと思います。
社長の目を盗み書き込みしているためバタバタしてしまいせっかくのレスに返答出来ず大変な無礼をお詫びいたします。僕にとって一番恐いのは生命の優れた眼ではなく社長の目ですからね。
>このような議論では自分の主張を訴えることも大事ですが、相手の主張を繰り返し引き出してみて、その中に潜む無知や矛盾をついていくことも「戦略として」有効かと思います。
ありがとうございます、いろいろな意味で初心者(掲示板の使い方さえ勉強中です)なのでまだ相手の矛盾を見つける所まで気がまわりませんでした。つい熱くなって自分の意見ばかり…これからはそのようなアプローチを身に付けます。
世界対戦予言→世界大戦予言
一生懸命いのりそのけっか世界対戦がさけられたと信ずるものです。を
一生懸命祈り、その結果世界大戦が避けられたと信ずる者です。
と訂正させてください、申し訳有りません。これから投稿する前に読み直します。
皆様多くのレスありがとうございます。
To 地下に眠るM様
私はNATROM様の世界対戦予言の呼びかけに応じ、そのような悲劇がおこらぬよう、一生懸命いのりそのけっか世界対戦がさけられたと信ずるものです。
その牧師様(おそらくKK氏と同じ宗教かと、合同結婚式なんかやっちゃう)の宗教的主張には問題ないと感じますが、その牧師様は、ダーウィン(我等が主神)さまの進化論から創造主の存在を証明したと唱えるものですからつい熱くなって噛み付いてしまいました。神様の愛だけ語るならばほっとけたのですが。小生もチ○コプルプルするだけですんだのですが…
To トトロ様
細かい、そして大量の情報ありがとうございます。ちょうど
<ここから、牧師様の引用>
>突然変異と自然選択とする根拠がまったくないではないですか。
不完全な器官をもった生物も示せなかったし、理由なしで感覚と判断能力が備わる過程も示せないのに。
<ここまで牧師様の引用>
と攻めあげられていましたのでこちらのレスを好材料とし、反論してみたいと思います。
TO 谷庵様
いつもご指摘感謝いたします。自分の無知と誤植の多さを恥ずかしく思い、いつも改善しようと勤しんでおります。(私は編集の仕事をしておりまして、職場でも誤植が多いとよく怒られてます(泣))愛情あるご指摘ありがとうございます。
>牧師様の間違い
>目的→機能
つまり牧師様は偶然獲得した機能をあたかもその機能を獲得することが目的だと勘違いしていると言うことでしょうか?
まだまだ勉強不足ですので、それは十分自覚しております。これからも宜しくお願いいたします。
http://www.h4.dion.ne.jp/~fmvbiblo/
このサイトは幸福の科学の会員が運営しています。
このサイトは目下幸福の科学の会員ばかりが集まってます。私も参加してます。会員と話してみたい方はどうぞ。
>ひょんなことから、とある牧師様(御存じの方もいらっしゃると思います。)と眼があまりに完全で良く出来ているから突然変異や自然淘汰だできるはずがない、神があなたを愛して下さるからあなたに眼がある。といわれました。
とりあえず「神があなたを愛して下さるからあなたに眼がある」のくだりについては、信仰者としてタダシイ!
「眼があまりに完全で良く出来ているから突然変異や自然淘汰でできるはずがない」のくだりはカガク的に間違いだけど、シロウトだから別にいいのだにゃ(ホントかよ
この坊さんの最大の問題点は、カガクの言明と神の愛を結びつけて語っているところだにゃ
「牧師様のいっていることはカガク的にはダメダメのぷーですが、
カガク風情なんぞ神の愛の前にはオッペケペーのぷーですから
もう基本的には牧師様が正しいのですにゃー
このさい、オッペケペーなんて気にするのはやめましょう」
と牧師様に伝えてくれにゃ>ぺぺ
ごめんなさい、下記の部分は削除してください。帆立貝の眼はレンズを備えています。
次のステップは、感光細胞が集まって眼の基本部分を構成している生き物です。帆立貝は外套膜に部分にずらりと並んだ”眼”を持っています。所謂、ヒモの部分です。この眼はレンズなどはありません。構造も感光細胞が集まっただけのものです。
でも、帆立貝はこの目を持っていることで、外敵の接近を検出し、逃げ出すという動作を行います。こんな単純な眼でも無いよりは有った方が生存に有利なのでしょう。
To PEPE様
人間の目よりももっと原始的な目を持つ生物も沢山いますし、人間の目よりも合理的な目を持つ生物もいます。恐らく、目は単に光を感じるだけの器官から進化によって生じました。
光を感じるだけの器官を持つ生物としてはミドリムシなんかがそうです。ミドリムシには光を感知するだけの眼点と呼ばれる細胞内器官があります。ミドリムシは光合成を行うので、光を検出して光の当たる場所に移動するだけでも、光を検出できない個体よりも生存に有利だった為、眼点を有しています。
面白いことに、葉緑素を持たない種類のミドリムシ(無色ミドリムシといいます)は眼点を持っていないものがいます。光合成を行わないなら、光を検出する必要は無いというところでしょうか。
つぎに光を感じる細胞を持つ生物がいます。オワンクラゲなどがその例です。ミドリムシは単細胞生物ですが、クラゲは多細胞生物です。感光システムも眼点から感光専用の細胞に進化しています。感光細胞は光を感知する専用の細胞で、光の刺激を筋肉内の神経組織に与えて収縮を促進し、光の方に移動するようにコントロールします。感光細胞はクラゲの傘の部分戦域に散らばっています。
次のステップは、感光細胞が集まって眼の基本部分を構成している生き物です。帆立貝は外套膜に部分にずらりと並んだ”眼”を持っています。所謂、ヒモの部分です。この眼はレンズなどはありません。構造も感光細胞が集まっただけのものです。
でも、帆立貝はこの目を持っていることで、外敵の接近を検出し、逃げ出すという動作を行います。こんな単純な眼でも無いよりは有った方が生存に有利なのでしょう。
次のステップは眼窩の構成です。プラナリアは窪みの底に感光細胞が集まっている眼(杯状眼と呼びます)を持っています。こうすることで、1対の眼で光の来る方向を検出できるようになりました。
眼窩が出来たら、開口部分を絞ってみましょう。こうすると、レンズが無くともピンホールカメラの原理で感光細胞の上に結像させることができるようになります。カタツムリの仲間がこのタイプの眼を持っています。
そして帆立貝の眼は外套膜をレンズの一部に使ったレンズつきの眼となっています。
私が言いたいことは、現生の生物を観察するだけでも色々なステップの眼を持つ生物がいるということです。我々の眼は、我々が進化する段階でこれらの原始的な眼の段階を経て、現在のような複雑な器官となったというものです。
従って、”眼が偶然の産物であったならば”という仮定は誤りです。眼は生き延びるために必然的に進化しました。だから”それは、光と関係ないトンチンカンな無目的な構造”ではありません。最初は光を感じるだけのものだったのでしょうが、絶え間ない改良によって眼は発達してきました。
では、何故改良できたのでしょうか?現在の多くの学者が支持している進化の考え方によると、微小でランダムな変化(突然変異)が生じます。そしてそれによって生じた形質の変化が生存に不利でなければ、その変化は定着します。光をより高度に検出し処理できるという能力は、生存に有利に働きます。その結果、小さな変化はランダムであったとしても眼は全体として高度になるように進化します。
> 最初動物に限らず植物でも光りを感じる単純な細胞が突然変異で出現します。彼等は光りを多く得られる所に向かうことができます。(もし強すぎる光が有害ならば避けることも可能!!)彼等は光りを感じる細胞がない生物よりも生き残る可能性が高いと言えます。自然と彼等の子孫が残りやすくなります。(ほら淘汰だ)かれらの中から偶然より高度に光りに反応できる器官を獲得した物が生まれます以下同様に優れた性質のものが生き残り現在の目にいたるほど高度に成長したと考えられます。目的性は必要ないと考えます。
基本的にこの考え方で私は問題ないと考えます。生存に有利だから発達した訳ではなくてほんの一寸だけ発達してしまったら生存に有利だったから、その形質が定着したということです。だから
> 『突然変異と淘汰では目的性や主体の説明になっていない』
進化には目的性や主体性は必要ないし、目的があってもその通りに進化できる訳ではないというのが答えでしょう。
かなり端折ったために不正確な部分や説明不足(嗚呼、ツッコミが怖い)な部分が沢山あるかと思いますが、まずは私の回答とさせていただきます。
>それと木村って誰のことですか?
誰も答えないようなので、私が答えてしまいましょう。木村資生。中立説を唱えた方です。神にはふさわしいと思います。
To NATROMさん。
マイア様はまだ生き神様ではないのではないでしょうか?あと、一ヶ月弱で生き神様になられるのではないでしょうか?
コミケの神様としてイワエモンを登録してあげてください。
邪神かもしれませんが。
>僕の主張はどこが間違っているのでしょうか?
光り→光
牧師様の間違い
目的→機能
PEPEさんの主張は基本的に間違っていないと思います。
このページの下の方からホームページに行くと、目についての解説があります。
参考にしてみてはいかがでしょうか。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。