このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
HMさん
>この議論の前提は、私が出したものです。例題として。
ということは今までの議論とは無関係に“仕切りなおし”として前提を出されたわけですよね?
そうなると結論にいたるまでの考察が抜けているように思えます。
まずこの「“有る人”の発言が誤りであるならば霊魂は存在しない」ということの証明からはじめなければならないでしょう。
HMさま
たびたび横やりですみません。
<有る人は、こう主張するとします。人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で、人の死後、その霊魂は死体を離れる。そしてその霊魂は生前の行いによって、天国へ行ったり、地獄へ行きます。
この有る人の主張する霊魂ってやっぱり科学的に検証不能ではないでしょうか?
その有る人がその霊魂を証明するためにこういう科学的根拠を持っていると主張するならばその根拠は科学的に否定することもできるでしょうけれど。
お盆にお墓の前で手を合わせている人に
「あなたのやっている行為は科学的に意味のないことを証明できる」
といっても誰も喜ばないのでは?
済みません。何か変な操作をしたようで、二重投稿になってしまいました。
こんにちは、GAOさん。
<マークは引用をしましたのですが。書き込み前はキチント表示されていたのに、書き込んだら行がおかしくなってしまいました。
この議論の前提は、私が出したものです。例題として。
こんにちは、大文字ナンさん。ついあわててタイプしてしまう癖があって済みません。
まず、この議論の前提です。
<有る人は、こう主張するとします。人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で、人の死後、<その霊魂は死体を離れる。そしてその霊魂は生前の行いによって、天国へ行ったり、地獄<へ行きます。
ですから、人間の体の何処にも霊魂が存在しない事を証明しました。
<有る人は、こう主張するとします。人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で、人の死後、<その霊魂は死体を離れる。そしてその霊魂は生前の行いによって、天国へ行ったり、地獄<へ行きます。
<印も気になるけどそれはさておき...。
この前提って今までの書き込みの中に見つけることができなかったのですが、どこでの発言でしょう?もしかしたらHMさんの発言以外のところにあるのでしょうか?
見落としているのかもしれませんので、教えてください。
>私がこだわるのは、科学的に検証できる事実かどうかではなく、実際に起きたかどうかであって、検証できなくてもいっこうに差し支えありません。
検証できないものならそれは科学ではない。
既に、何度も、多くの人が、そう指摘している。
検証できなくてもどうでもよいことなら、ほっておけばいいのに。
それなのになんでそう進化論を否定しようと必死になるのか?
それじゃ「いっこうに差し支えない」というのを自ら否定していることじゃないですか。
あなたのような、聖書が正しければ進化論は間違っているとかいう信仰は、条件付きの信仰じゃないですか。
進化論を認めることは聖書の間違いを認めることになる、救いを否定することになるなどという、そんな条件付きの信仰であなたは救われていると信じられるんですか?
進化論が正しかろうが間違っておろうが、聖書は正しいというのなら、聖書が正しければ進化論は間違いだとは言えなくなる。一旦、聖書が正しければ進化論が間違いだと言い出すと、もし進化論が正しかったら聖書が間違っているとなってしまう(この2つの命題は対偶ですから同義です)。
そういう条件つきの信仰に、あなた自身がしてしまっているのよ。
それを分かっているのかねぇ、、、
こんにちは、大文字ナンさん。ついあわててタイプしてしまう癖があって済みません。
まず、この議論の前提です。
<有る人は、こう主張するとします。人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で、人の死後、<その霊魂は死体を離れる。そしてその霊魂は生前の行いによって、天国へ行ったり、地獄<へ行きます。
ですから、人間の体の何処にも霊魂が存在しない事を証明しました。
HMさんが主張しているのは、実は「霊魂が観測不能であること」の論理的証明です。そういうことなら私はいくらでも同意しますが、最初に戻ったとき「存在を論理的に否定出来る」と嘯いてしまっているので反論していることに早く気付きましょう。
>私はあなたが言う「霊魂や神は論理的に否定出来る」という主張に反論しているのです。
霊魂や神は論理的に否定出来る、という主張に対して私は反論していますが、一方で私は、霊魂や神は論理的に存在証明出来る、とは主張していないことに注意すべきです。ですので、ここではHMさんが「霊魂や神は論理的に否定出来る」という証明を行なうことが先決です。そして私は、HMさんの主張が「そもそも論理的ではない」と指摘しているのです。
To HMさん
とりあえず、題名と投稿者蘭はきちんと使いわけましょう。それと、ミスタイプが多くて読むのが大変です。それでは、本題。
>私が知っているのは、あなたが主張する、霊魂が人間の体に有るという主張のみ。
そんなことは主張していません。私はあなたが言う「霊魂や神は論理的に否定出来る」という主張に反論しているのです。
>つまり知らない事を知っているという人間を世間では嘘つきと言う。
自分が知らないからと言って、知っていると主張する他者を嘘つきと呼ぶことを誹謗中傷と言います。また、私は知っている、とも主張していません。観測することは不可能だが、概念としての霊魂なら、ある程度認識しています。
>また私のように、人間の観点では認識出来ないと言うのならば、あなたは人間ではないと言う事になる。
人間の観点では認識出来ないものを論じたと言って、人間ではないことになりません。神という概念を論じるのも人間です。
>生命が観察されるたという事は無い。生命とは、例えば細胞、タンパク質、情報などのあり方を指し示す言葉に過ぎない。それならば生命とは空気の振動であり、文字、記号であるという事になる。
されるたかどうか知りませんが、生命は細胞やタンパク質のあり方を示す言葉だ、と定義したのは普遍的な解釈と言えるでしょうか?そもそも霊魂が「人間だけに」帰属する概念である、だとか、地球上の生命だけにある、などとも私は主張していません。さらに言うなら、生命が空気の振動だったり、文字や記号であることをどうやって証明しますか?
>生命が明らかに観測されたと言うのならば、その例を示せ。
生命活動が観測されることから、生命というものを定義できますが?
>霊魂は人間の体の何処にもなく、認識出来ないという結論に達した。
その通りです。認識出来ません。しかし存在しないとはいまだに言えません。あなたの言う論理は強弁と言って詭弁の一種です。
「存在する」という言葉ひとつとっても、「実体として存在する」「概念として存在する」「数学的モデルとして存在する」「空想上存在する」「ニューカレドニアに存在する」「銀河系のどこに存在する」などと数限りない論理のバリエーションが存在します。HMさんが主張するのは、単に「人間的手法によって観測出来るモノ」としての霊魂に対して、否定表明をしているのに過ぎません。ある条件の中においての論理的命題が真であることは珍しくありませんが、条件のレンジを無制限にした場合、そのような命題を用意することは難しいのです。
HM様、
横やりレスで失礼いたします。
大文字ナンさんの仰っているのは「霊魂が認識不可能でその存在が科学的に肯定も否定もできない」って事で
人の体の中に実存しているとは言っていないのではないでしょうか。
お二人の主張は学問の分野として別々の気がします。
あと少し気になったんですが
>認識出来した事がない。つまり知らない事を知っているという人間を世間では嘘つきと言う。
>現実にいない生物を単なる空想によりいると主張する場合、それを妄想などと言う。
レスを読んでいる限り、これは大文字ナンさんには当てはまらないでしょう。
秋月は霊魂の存在を観念的な意味では『信じている』ので嘘つきで妄想家だと言われても仕方ないですけれど。
>霊魂は人間の体の何処にもなく、認識出来ないという結論に達した。
HM様の定義に従う限り、これは間違いない結論ですね
霊魂がどのような物かは私は知らない。なぜならそれは存在しないから。霊魂が存在すると主張するのは私ではない。私が知っているのは、あなたが主張する、霊魂が人間の体に有るという主張のみ。
認識出来した事がない。つまり知らない事を知っているという人間を世間では嘘つきと言う。しかし私は先に挙げたように、上半身人間、下半身が馬である生物を想像する事は出来る。しかし私はひのよに空想の生物と現実にいる生物を混同する事は無い。現実にいない生物を単なる空想によりいると主張する場合、それを妄想などと言う。
あなたが嘘つきでなければ、認識出来ない霊魂が存在する事をどのようにして知ったのか示せ。また私のように、人間の観点では認識出来ないと言うのならば、あなたは人間ではないと言う事になる。
生命が観察されるたという事は無い。生命とは、例えば細胞、タンパク質、情報などのあり方を指し示す言葉に過ぎない。それならば生命とは空気の振動であり、文字、記号であるという事になる。
生命が明らかに観測されたと言うのならば、その例を示せ。
霊魂がこの生命と同じように、人間の細胞、臓器、などのあり方を指し示す言葉、観念に過ぎなければ、霊魂の存在は否定された。
霊魂は人間の体の何処にもなく、認識出来ないという結論に達した。
>人間の体の何処にも霊魂が認められない場合には、人間には霊魂が無いと言う。
霊魂というモノの定義はなんですか?少なくとも生物の臓器に該当するものではない、と私は主張します。科学的にそういう「認識不可能な存在」を扱うことは無意味ですが、認識不可能なものを論理的に否定することは不可能です。神も同様。
「生命」は明らかに観測されるものですが、それでは生命は脳や心臓に「固有」のものでしょうか?心臓が停止すれば生命活動は停止しますが、その現象を指して生命は心臓に宿る、と主張することは論理的でしょうか?人格も同様。
実証が可能なものを扱うのが科学です。しかし実証出来ないからと言って、論理的に不在が証明出来るわけではありません。それは単に、知る由がないだけです。たとえば科学では「余次元」だとか「虚数時間」という概念を「実証主義の観点で」扱っていますが、これがどこにあるのか、その測定方法を示すことは出来ません。しかし、人間の観点でこれらの存在を認識出来ないからと言って、余次元や虚数時間の存在が「ない」とは言えません。霊魂も同じことです。それは、今現在は扱いようがないものであるかも知れないからです。扱えないモノを切り捨てるのは科学的ですが、扱えないからと言って「ない」と断言することは非論理的です。
人間の体の何処にも霊魂が認められない場合には、人間には霊魂が無いと言う。
こうして霊魂の存在は否定され、その主張は誤りである。
しかし、あなたには、私には分からない方法で霊魂の存在を知る事が出来ると言うのならば、その方法を示せ。
又、その場合、人間のどの部分に霊魂があるのかを示せ。例えば脳にあるのなら、大脳のあの部分、この部分。心臓にあるのならば、心臓全体に等。
私は、上半身が人間で、下半身が馬、体高が300メートルある生物を想像する事が出来るる。しかし想像出来るからと言って、そうした生物は実際にはいない。
霊魂がこのような、単なる空想では無いことを示せ。
小さいから国と呼ぶにはふさわしくないという事ですね。僕も長江文明とは別に存在したと思います。司馬遼太郎さんは長江文明について知っていたのかな、小躍りしただろうな。
僕が夏にこだわっているのは、桀が実際悪王であったのか気になる事と、伊尹がいたのかが気になるためですね。
宮城谷昌光氏の著作を読んでいると紂についての書かれて方が2分しているんですよね。後世の王朝から見た紂が現在一般に伝えられている姿ですよね。夏王朝に関しても桀が同じように悪く書かれているんじゃないのかなと考えています。僕は商王朝の商業政策を高く買っていて、周とどちらに正義があるかと考えると分からなくなりますね。
saniku-aiki 殿
>早く終わりたいと思いつつもなかなか議論が終わらせてくれませんね。
終わっていますよ。
と言うより、始まってもいないと言うべきかな。
貴方のやっていることは、誰も同意していない貴方だけの前提を(根拠も示さず)押しつけているだけです。
これは悪質なプロパガンダです。
>アホらしいですか?では、反論して下さい。
「霊魂」の存在を論理的に否定、という意味は、物質として「量的に計測」するという意味だったのですか?それは単に「質量として測れない」ことと「目で見たり、触れたり出来ない」だけのことじゃありませんか?いったいどこが論理的なのか少しも分かりません。
無名さま、
>心霊写真については、どうやったら撮れるかっていうのには、結構そそられる疑問ですよ。
カメラ屋でバイトしているときに幾つか教わりました
1.多重露光する(どんなものでも作れます)
2.シャッタースピードを落として手や顔を振る(手や顔が消えます)
3.レンズ上の汚れを利用する(ワザとじゃないのでしょうけれどレンズの汚れとしか見えない心霊写真をよく見かけます)
4.ネガに細工する(直接書き込むこともできます)
他にもいっぱいあったような気がします。
私の友人はまじめに心霊写真を撮ろうと西日本の多くの心霊スポットを巡りましたがいまだに撮れてません。
そう言えばバイトしてたときに『写真に変なものが写っている』と受け取りを拒否したお客さんがいました。そんなもの店に残されてもね〜。
同意見という言葉のみでは、その意見を継ぐ(応じる)
ということをここでは意味するので、
勢いがどうだからというのは、無責任な発言でした。
皆様真剣ですのに、とんだ無礼をしばしば(しかも打つ文字間違え過ぎ)
馬鹿とかアホだとかも極力避けた方が好ましいのかも分かりません。
HM様より
その霊魂は肉体のどの部分に有るのか?腕か?足か?腹か?頭?
どの部分にも霊魂の存在は認められませんので、人間には霊魂は無いと結論します。
アホらしいですか?では、反論して下さい。
に同意見の勢いでしたので、
肉体が無いことから、見れない触れない、重さが無い(これは難しいが、霊魂が無ければ無いだろう)という感覚でしたが。私は。
写真等では(でなくとも)何らかの未知なるエネルギーが働いてるのでしょう。
決して投げやりではなく、それ以上の事は言えません。私には・・霊に関して。
それにしても意外と興味深いのかも分かりません。
心霊写真については、どうやったら撮れるかっていうのには、
結構そそられる疑問ですよ。
HM様、無名様
霊魂の定義についてどっかに載ってないか手持ちの(キリスト教系の)神学の本を見てみたのですけど、本によって、あるいは書いている箇所によって、人の精神活動の原因の様に書いてあったり、精神活動そのもののように書いてあったり、精神活動の結果の様に書いてあったり曖昧でした。やっぱり定義しにくいのかしら?
只、不可視、不可触で実体のないものとどれにも書いてあったので『見た』とか『触った』とか『重さがあった』とか言うのは否定しなくちゃいけないのでしょうね。昔のヨーロッパではこの手の実験が多数なされていたようですけれど。
下記の訂正
個人的には霊はいないだろうという曖昧な発想から・・
以下同文
おずおず様
私もそう思います。
個人の霊はいないだろうという曖昧な発想からの妙な確信ではあります。
言われてみれば、言われて見なくても、
そしたらあれもこれも・・こじつけで終わっている事が多々あり。
話題が尽きませんね。
有り難う御座いました。
>心霊写真についても、それ自体は見えても、霊魂が存在するかどうかは
>全く別物であり、写真のような霊魂は周りに存在しないという証明がいつか
>されるであろと。
存在しないという証明がいつかされるだろう、ということは、とりもなおさず、少なくとも今は、証明されていない、ということ。
つまり、今言えることは、
霊魂がまわりに存在しているかもしれない...ということですね?
>随分前に人魂が雷によるものだと科学的に証明されましたよね。
ん?人魂、つまり、霊、の存在が科学的に証明されたのですか?
...もちろん、多分、言いたいことは、人魂(霊の現れ)であると思われていた現象は、実は雷(というか、大気中の局所的な電荷の偏り)による、単なる自然現象でも起こりうる、という事を言いたいんだと思いますが、だからといって、
そういう現象は「すべて」電磁気学的現象である、とまでは証明できていないと思うのですけど。
形式論理的に言えば、
「AのうちいくつかはBである。」という命題と、「全てのAはBである。」という命題は別の意味を持つ。
だから、自然現象に起因する人魂現象があるからと言って、「霊」に起因する人魂現象があり得ないとは言えない...と思います。
http://www.littera.waseda.ac.jp/littera/li/kudo_news/kudo.html
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/nanchuka13-kakyo.htm
鈴木選手はチュニジア戦でケガ.んでルーマニア戦には出れませんでした.チュニジア戦結構頑張っていたんですがねえ〜
さて「夏王朝 考古学的証拠」でググッテみたら上のリンク先が見つかりました.
商以前に王朝があったかはかなり疑問が残るところですが,夏という国が周囲に覇を唱えていた可能性は高いと見ています.
夏については,商以前に唯一系譜が残されている国であること,商以前に洛陽近辺にそれなりの大きさの都市跡が発掘されていること等が,少なくともその時代ある程度の大きさの国があった証拠,そしてそれが夏であってもおかしくない状況証拠と言ってよいかと思われます.しかしながら文字が伝わっていないので詳しいことがわからない.その点商は文字が(武丁以降とはいえ)残されたのが大きかったと思われます.
尚,徐朝龍という人は「長江文明の発見」という本で良渚文化の担い手が,洪水による都市破壊のあと,洛陽に移動して夏王朝を建てたという説を唱えてますが,これは無理があると思ってます.その頃既に洛陽近辺には仰韶文化が興っていたわけだし,呉から洛陽への移動途中にも複数の異文化が待ち構えているわけで,たどり着くだけでもかなり厳しい状況だったと思われます(無論異文化間で交流があり親密になっておけば助けてくれたのでしょうが).良渚文化については玉をつくる素材が枯渇して廃れていったという説もあります.こっちのが正しいのかもしれません.
さて夏ですが,国しかもあたりに覇をを唱えていた可能性がある国があった可能性は高いと考えているのに,どうして王朝ではなかったと考えているかと申しますと,考えられる勢力範囲が非常に狭いことがあげられます.ゲームの三国志をなさるかたはわかると思いますが,洛陽の東隣の町,許都,これがもう昆吾という別の姓(己姓)の国となります(最も姓は周以降,各民族が言い出したものらしいのですが).商もけっして大きな国ではなかったですが,夏は国というより一都市国家にすぎなかったとも言えるのかもしれません.洛陽近辺の民族は夏を意識していたのでしょうが,それ以外の地域の民族はどうだったのでしょうか?夏末期になると東から竜山文化の商などが西進してきてぶつかったことも考えられますが,西の方の周とか召とか蜀とかは我関せずだったのかもしれないですね.
私の夏に関する認識はこんなところです.多くを白川先生の著書からの知識に拠っています.
本当は別の視点から書いた書物も読む必要があるのですけどね.なかなか古い時代について書かれた本というのは読むのに骨が折れるものです.
間違えました。
大変申し訳無い。
HT様より
反論では無く同意見です。
例に、心霊写真について等は、あまり深く追求した事がないので分かりませんが。
霊なのに写る(目に見える状態となる)って、どういう事なのでしょうね。
投稿で出されているものの大半は、人為的な物なのかも分かりませんが、
写真に写るという事実(見方によるが)は完全否定はしません。
しかし、だからといって霊魂はいるのかも知れないという思いは無いです。
随分前に人魂が雷によるものだと科学的に証明されましたよね。
火の玉ではあり、確かに存在した。だが、人の魂ではなく自然現象だった。
心霊写真についても、それ自体は見えても、霊魂が存在するかどうかは
全く別物であり、写真のような霊魂は周りに存在しないという証明がいつか
されるであろと。
ところで、霊魂のキーワードは「肉体の無い」だったりしますよね。
神様を信じている人の中には、霊魂を信じる方がいらっしゃるのかも分かりません。
>私がこだわるのは、科学的に検証できる事実かどうかではなく、実際に起きたかどう
>かであって、検証できなくてもいっこうに差し支えありません。
んじゃなぜ、あなたは科学にこだわるのですか?
まったく差し支えないものなら、放っときゃいいでしょ?
あなたは実は、放っとけないなにかを、科学に対して、感じてる。それはなにですか?
>どの部分にも霊魂の存在は認められませんので、人間には霊魂は無いと結論します。
霊魂が(例えば頭に)存在するかしないかをどうして確認出来るのでしょう?
霊魂は多分物理的存在じゃないですから、通常の測定器や観測装置では確認出来ないと思いますけど...。
>洪水地質学はノアの洪水が実際にあったと考えるところから始ります。
はい、ここで科学的言明でない
略
>「洪水以前も雨があった」ということも誰も検証していないのです。
「洪水以前も雨があった」かどうかは教会の中だけで議論すべきものじゃないのか?
科学的言明と非科学的言明を比べてどうするつもりなんじゃろうか?
ええか、科学っつうのは
「洪水があったかどうかも疑う」んじゃ。
「イエス・キリストが実在したかも疑う」んじゃ。
>そう信じて説明しているだけです。つまり、洪水以前も雨があるという考えは、科学的事実と
はいえません。
もはや、チンピラの言いがかりとしかいえんなぁ・・・
高級やくざならもうちょっとマシな言いがかりを言うと思うな。
こんちには、大文字ナンさん。
さて、簡単な所から行きましょう。あまりに簡単なので、そんな馬鹿なと思えば、反論して下さい。
有る人は、こう主張するとします。人間には霊魂があり、その霊魂は不滅で、人の死後、その霊魂は死体を離れる。そしてその霊魂は生前の行いによって、天国へ行ったり、地獄へ行きます。
それでは、その或る人の肉体と霊魂とはどのような関係が有るのでしょうか?
その霊魂は肉体のどの部分に有るのか?腕か?足か?腹か?頭?
どの部分にも霊魂の存在は認められませんので、人間には霊魂は無いと結論します。
アホらしいですか?では、反論して下さい。
ぼんさんへ
>アダムとエバは想像上の人物、モーセはきっと実在しただろう、
聖書に出てくる系図を事実と見るかどうかで変わるでしょうが、
イエスの系図をたどると、ダビデであり、アブラハムであり、アダムである
ことがわかります。(ルカ3章)
>一夫一婦制の根拠
「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が
妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えに
なった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお
造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と
結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」マタイ19:3-6
キリストは結婚が「二人」であると宣言しておられ、その根拠に創造をあげています。
>イエスの十字架の死も生物として当たり前の死になる」そうすると「人間の罪を負ってのものでなくなる」
どうして?つながりがわからん…
ここが大事な点です。進化論に創造論者が反対する最大の理由はこの点だと
私は思っています。聖書はキリストは神であると教えています。神は不死です。
不死のはずのキリストがなぜ、十字架にかかって死んだか。いやそれよりも
なぜ、神であるキリストが人間になったのか。その目的はどこにあるかです。
聖書は「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と言っています。死は罪を犯
した結果であり、キリストは罪を犯さなかったので、死ぬ必要はありませんでした。
しかし、キリストは人間を救うために死ななければなりませんでした。
「血を流すこと無しには罪の赦しはあり得ない」(ヘブライ9:22)ので、人間の
罪を赦すために、罪を犯さない者の血が流されなければなりませんでした。そこで
キリストが十字架で血を流し、人間の身代わりとして死んだことで、「わたしたち
は、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:14)。
キリストは死ぬべき人間として死んだのでは、人間を救うことは出来ません。死なな
くて良い神として、人間の身代わりとして死ななければなりませんでした。
「 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が
与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・そのわたしたち
の罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5,6)
アダム以前から死があるとすれば、その死はアダムの罪の結果ではありません。
ということは、イエスは人間の罪を背負ったわけではなくなります。イエスは
人間の「命の恩人」であることを進化論は否定するのです。
>人間が神の存在を脅かすということは、
神への冒涜になるからいけないのだと思います。
神を冒涜すると神が怒るから。
「神の存在を脅かす」という表現は良くなかったと反省しています。
神を冒涜すると、神は怒るでしょうが、それが怖いから進化論に反対してい
るのではありません。クリスチャンが信仰を持つのは、神の怒りを招かないた
めではなく、神への愛の応答なのです。多くの人は、恋人に怒られるから、怒られない
ように結婚するのではなく、恋人が好きだから、いつも一緒にいたいから結婚する
と思います。私の罪を赦すために、命を与えてくださったイエス・キリストに感謝し、
このイエス・キリストにどこまでもついて行きたいと思うから、進化論を否定する
のです。
saniku-aikiは間違っている
saniku-aikiはいつまでグダグダ詭弁を述べてこの明白な事実から目を逸らそうとしているのだろうか?
ひも状理論について詳しくどなたか教えて下さい。
場違いですかね?
トトロさんへ
>進化は観測できる事実です。それに基いている進化論は反証することは可能なので、事実と断言することは出来ませんが
早く終わりたいと思いつつもなかなか議論が終わらせてくれませんね。
進化は観測できると言うことですが、どういうことが観察されたのですか。いわゆる
大進化も観察されたのですか。おっしゃるように「進化を事実と断言できない」の
であれば、私は反論する必要はありません。
>創造が”事実”であるという科学的な証拠はあるのでしょうか
検証できるかという意味においては、現時点では検証できていないと思います。
事実という言葉の定義が問題になりますが、歴史上実際に起きたのはか進化なのか、
創造なのか、誰にも調べようがないでしょう。検証できるから、起きたとは言えず、
検証できなくても、起きなかったとも言えないわけです。科学とは、検証できるものを
扱うのであれば、創造論も進化論もともに科学とは呼べないでしょう。
>洪水地質学を科学的だと主張するには、新たな証拠を見つけるだけではなくこれらの反証を却下する科学的な手続きを踏む必要があります
洪水地質学はノアの洪水が実際にあったと考えるところから始ります。ノアの洪水
という大激変がどのように起こり、それがどれだけの影響を与えたのかはよくわかって
いません。聖書によれば、洪水以前は地球に雨は降りませんでした。雨が降らない
地球がどんなものか、なぜ降るようになったのか、全ての陸地を覆う多量の水はどこ
から来たのか、そうしたことに明確な答えを出した人はいません。確かに科学的に検証されていません。しかし、考えなければならないことは、
「洪水以前も雨があった」ということも誰も検証していないのです。そう信
じて説明しているだけです。つまり、洪水以前も雨があるという考えは、科学的事実と
はいえません。
JA50さんへ
>sanikuさんの信仰は奇蹟も科学的事実でないといけないんじゃないのかなぁ、、
私がこだわるのは、科学的に検証できる事実かどうかではなく、実際に起きたかどう
かであって、検証できなくてもいっこうに差し支えありません。創造も復活も
神様の奇跡ですから、検証できなくても当然です。大切なことは、検証できないものは
無視したり、否定しようというのではなく、人間の知恵を過信することではなく、
自分に検証できなくても、実際に起きたことは真実だと認めることです。
ですから、結局の所は、聖書の言葉をどう見るかにかかってきます。聖書の言葉を信
じるのか、科学者の言葉を信じるのか、人間の知恵に頼るのか、神の言葉を信頼するのか、その人が何に信頼を置いているかで見解は異なることでしょう。
ゲーデル・エッシャー・バッハ(あるいは不思議の輪)
なにやらsanuki-aiki様ご回答を見させて戴くにつけ、宗教家は果てしなく城の階段を繰り上がってると思い込んでる囚人のように思えたりして。エホバの証人のSTOP・OVER(途中下車)に拠りますと、あの(神の名前)信仰に打ち破れ言い様のない喪失感に襲われ、うつ病また社会復帰さえ儘ならない人が多いとか。六日間宗教の現在の論調はかつて論議を交わした名前宗教の最終返答(回答などでない)とそっくりだぶってきたりして。まあ宗教家はそれ程(純)でも無さそうに見受けられますが、あまり命を自分の手で必死呼び込もうなどと思わわれぬように。生も将来の命も信仰を持てるのも全ては神の賜物でしょう。
貴殿はやがてそのエゴイズムに自ら打ち破られる日が来そうに思えてなりません。
To HMさん
>簡単に言うと、人間には霊魂があり、輪廻する主体がその霊魂であるというのが、インドで仏教のライバル達の主張の一つなのでしたが、この説を論破するのは容易です。
存じておりますが、その議論とHMさんの主張の関連は見えません。というより、HMさんはご自分の言葉では何も主張されていません。インドの哲学議論で何かを論破したなどと解説していただかなくてもかまいませんので、HMさんがどのように神、その他を論理的に肯定したり否定するのか教えてください。
>解決はしないかもしれません。
と、トーンダウンしたのがちょっとよく分からない...。それともう一つ。
HMさん: こんにちは、おずおずさん、たまごちゃん。 たまごちゃんと呼ぶのは、少し気恥ずかしい...
たまごちゃん: どうして私に挨拶してくれたのか教えてください。気恥ずかしいとか言いながら、本当はたまごとお話したかったのかな?
HMさん:すみません。↓は、おずおずさんと書くつもりでした。
一番最初の会話の「たまごちゃん」を「おずおずさん」と書き換えたら、「こんにちは、おずおずさん、おずおずさん。」となって、おかしな文章になる...。
本当はたまごちゃんとお話がしたかったんだけど、挨拶を返されてはずかしくなって言い方を変えたんじゃないのですか?
...内気な人♪
もしそうじゃなくて、「おずおずさんと呼ぶのは、少し気恥ずかしい...。」の書き間違いなら、
...ボクは美少女じゃなくてオッさんです...。
ま、どうでも良いことですけど (^_^;)
おずおずさん。
ちょっと単純過ぎます。
もしも私が論理的に、霊魂の存在を否定する事が出来れば、私の主張は正しいとしても良いでしょう。
仏教哲学には大変興味が有りますが、、こうした形而上学的な議論は、仏教哲学中の、存在論的な思考をすると容易に解決すると言う事です。
いや、解決はしないかもしれません。もしも相手が、先の矛盾する存在であるような、盾と矛が有るという事を信じる限りは、水掛け論になります。
>仏教哲学は諸現象を主に、認識論と存在論からアプローチするのですが、徹底しているのは、その存在論です。
>簡単に言うと、人間には霊魂があり、輪廻する主体がその霊魂であるというのが、インドで仏教のライバル達の主張の一つなのでしたが、この説を論破するのは容易です。
えーと、HMさんの立場は、
1.仏教哲学の立場を正しい(単純すぎる言い方ですけど)とし、
2.「インドで優勢な、仏教哲学に反対の立場を採るライバル思想」が主張する、「人間には霊魂があり、輪廻する主体がその霊魂である」という考え方は、仏教哲学の存在論からは容易に論破できる。
という意味でしょうか?
>よくわからなかったのですが、なぜ「信仰があるといえるのか」なのでしょうか。
1. 聖書を信じるのなら、地層も被造物ですね?
2. 聖書を信じるのなら、被造物である地層にも神性があらわれていますね?
3. 聖書のある特殊な解釈をとるグループを別にすれば、聖書を信じない人たちのみならず、19世紀のキリスト教徒すら、地球の古い年齢を支持していることには同意しますか?
4. 被造物に対して知識が欠けているのに、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」などと断じることは、「被造物に神性があらわれて、これを通して神を知ることができる」という主張を否定することにはなりませんか?
創世記の「一日」について、「聖書全体から」判断しましょう。「被造物から神性があらわれている」という聖書の部分からは、創世記の「一日」について24時間と解釈してはならない、という結論が得られます。被造物からは、地球の古い年齢は明らかだからです。
>また、「例外なく」はNATROMさんにしては珍しく
>過大表現ではないでしょうか。「例外なく」と言えるほど検証できたのですか。
いつもは慎重な言葉遣いをする私がなぜ「例外なく」と断言するかというと、地層について何がしか知っている人で、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」などと考える人が皆無で、例をあげて反論などできないと考えているからです。どこかにそんな人がいるというのであれば、例を挙げて反論してみせればどうでしょう?もしそんな人が存在するのであれば、洪水についての創造科学の記述についてまともな反論が皆無なのはいったいどうしてでしょう?
>鍾乳石について、私はよく知らないので、今は何もお答えできません。
その程度の知識しかないのに、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」などとどうして言えるのでしょう?私のサイトにありますが、珊瑚礁はどう説明つけますか?長谷川さん@創造論再評価の馬鹿説明が正しいとでもお考えですか?
>全知全能の神のお考えの全てを有限の人間が理解出来るはずはありません。
まったくですな。saniku-aikiさんは、全知全能の神のお考えが理解できているのですか?まさしく、saniku-aikiさんは、ご自分[および同宗派]のみが全知全能の神のお考えが理解できているかのように振る舞っていると見られることをお忘れなく。
>多様な解釈が出来る証拠になるとは思いますが、「良い証拠」と
>いう意味では、適切ではないと思います。それは、再臨が未来と考える人々は少数
>であり、多数派は未来と考えているからです。
再臨が未来の出来事か否かではなく、「まもなく」起こるかどうかについて、聖書に解釈に不一致がみられたようですが、私の結論は同じです。以前も指摘したはずですが、どの聖書の解釈が正しいかどうかは、多数決で決定するのですか?それだったら、聖書から若い地球の年齢を信じる解釈も少数派です。ご自分の聖書の解釈は絶対に正しいのですか?若い地球の年齢を否定している人も、「聖書全体の中で判断」しているのです。
>「聖書のみを教理の土台とする」と考えていただければ、おわかりになるかと思います。
>「蛇が塵を食べる」は比喩ではないとして、蛇は塵を食べる考えても、聖書の教えに
>変化はないと思います。比喩だと考えても、前述したように、聖書全体には何の
>影響もないと思います。ですから、後は実際に観察される出来事を考慮して、
>これは比喩と解釈しているのだと思います。
蛇の食べ物を比喩的に解釈すると、「聖書は文字通り正しい」という信仰を持った人にとっては、聖書全体に影響がでます。なぜなら、聖書のどの部分が比喩でどの部分が比喩でないか、人が判断しなければならなくなります。「聖書全体から判断する」といっても、saniku-aikiさんは神ではなく人です。人による解釈を信仰することはできない、と「聖書は文字通り正しい」という信仰を持った人は言うでしょう。また、多くの(少なくとも少数派ではない)キリスト教徒は、地球の年齢が古いと考えても、聖書の教えに変化はないと考えます。ですから、後は実際に観察される出来事を考慮して、創世記の「一日」を文字通り24時間とは考えないのです。とまあ、saniku-aikiさんと異なる2つの解釈を示しましたが、この解釈は間違っていますか?ご自分の解釈は絶対に正しいですか?
>大洪水があれば、多くの木はなぎ倒される
>のが普通でしょうし、枝葉はもちろん樹皮さえもはぎ取られてしまいます。
>様々な大きさの土砂が流入するので、地層も一層ではなく多層が一気に出来る
>はずです。また、同じ場所に存在する貫通木は、またがる地層にばらつきが
>あります。下から順にA〜jの地層があるとして、ある木はA〜E層を貫き、ある木は
>C〜G層を、ある木はF〜jの層を貫いています。こうした現象はNATROMさんの説明よ
>りも、洪水による説明の方がいいように私は思います。NATROMさんはスプリット湖で
>観察されたことを無視するのでしょうか。
ええと、スプリット湖で観察されたことを無視しているのは、創造科学者のほうなのですが。スプリット湖と、古い(とされる)地層で観察される「貫通木」とは異なるように思えます。古い地層で観察される「貫通木」は、小根にいたるまで根が保存されているものもあります。「なぎ倒された」木が運ばれてきたのに、細かい根が保存されているのはなぜですか?「枝葉はもちろん樹皮さえもはぎ取られて」しまうほどの大洪水が、いったい木の根の細部を壊さなかった理由はなぜなのでしょう?また、「またがる地層にばらつきがある」というのは古い(とされる)地層でもそうなのですか?よしんばそうだとしても、オーソドックスな地層学で説明は可能ですが。
すみません。↓は、おずおずさんと書くつもりでした。
こんにちは、HMさん
とりあえず、どうして私に挨拶してくれたのか教えてください。気恥ずかしいとか言いながら、本当はたまごとお話したかったのかな?
こんにちは、おずおずさん、たまごちゃん。 たまごちゃんと呼ぶのは、は少し気恥ずかしい...
仏教哲学は諸現象を主に、認識論と存在論からアプローチするのですが、徹底しているのは、その存在論です。
簡単に言うと、人間には霊魂があり、輪廻する主体がその霊魂であるというのが、インドで仏教のライバル達の主張の一つなのでしたが、この説を論破するのは容易です。
でも、こんな事児戯のような事をしても大人げないのであまりやりたくないんですね。霊魂や天国、真理(定義が必要だが)の存在を主張するのは、当然ですが十分に宗教的ですよん。
もしも、神を否定するのが、信仰に基づく根拠のない主張だと言う方には、同様にも神、霊魂、天国についても口に出さないでね、と言いたいのですよ。と言うか、言っても構わないですけれど、あまり強硬な事はしないでね、という感じです(笑)
>ガイアはレアと一緒に、ゼウスにもウラヌスをやっつけるようにけしかけているし、
ウラヌス→クロノス
>ようするに詳細な話をさきほどは短くまとめて紹介したと言う事ですね。
そうじゃなくってぇーっ、ネタだったんだってばっ。(ToT)
>聖書の創世記に負けない面白い話ですよね。
聖書を読んだことがないのになぜそんなことが分かるの?
まぁ、私も個人的には聖書よかギリシア神話のほうが好きだけど。さらに、日本の神話の方が艶っぽさがあって好きです。
ようするに詳細な話をさきほどは短くまとめて紹介したと言う事ですね。長い話を聞いてみて、そういえばそんな話だったと思い出しました。真犯人はガイアだ!と言う事で良いですね。
ギリシャ神話創世記だとすれば、時は大地(空間)の後に生まれたんですよね。聖書の創世記に負けない面白い話ですよね。かくりさんがいらっしゃれば中国の創世記も聞きたいんですけどね。
>たまごちゃんの話では、クロノスが父殺し子殺しをした一方的な悪者となっていますが、僕が読んだ話ではカオスであるウラヌスを殺して時という秩序を与えたクロノスという話になっていましたよ?
私が書いたのはネタです(^^;)
でも、ちょっぴり本当の部分の割合が多すぎましたね・・・。
うだうださんもネタならばよいのですが、ウラヌスとカオスは別の神様ですよ。
最初はカオスだけが存在し、カオスからガイアが生まれて、ガイアがウラヌスを生んで、ガイアとウラヌスの近親相姦によって、クロノスたち巨神族やこの世のいろんなものが生まれるのです。しかし、いかにも強そうな巨神たちにウラヌスはいつか地位を奪われるのではないかと疑心暗鬼になり、巨神たちを幽閉してしまいました。そんな肝っ玉の小さい男にガイアは嫌気がさして、末っ子のクロノスをけしかけてウラヌスの**を切り落とさせちゃうのです。鎌で。(だから、クロノスが鎌を持っていると言うのは本当)
んで、一説によると、このとき切り落とされたウラヌスの**または血から、愛と美の女神ヴィーナスが生まれたって言うんだけど・・・。そんな美しくない話はたまごが認めませんっ!!
ここで、教訓3
3. 妻でありかつ母親である女性には特に注意しておかなくてはなりません。
ガイアはレアと一緒に、ゼウスにもウラヌスをやっつけるようにけしかけているし、一番残忍なのはガイアだって思うのは私だけ?どこが慈悲深い大地の神なんだよ(ToT)
>サターンのほうだけ強調しすぎてませんか?
これもネタならばよいのですが、ローマ神話のサターン(サートゥルヌス)とキリスト教のサタンはまったく別物ですよ。(私はここら辺を使って遊んでいたわけです)
ちなみに、ギリシア神話のクロノスとローマ神話のサターンは普通、同一神として扱われますが、たまごちゃんの独断と偏見によると、クロノスはヤな奴だけどサターンとして出てくるときはいい奴です(w
To temaさん
>つまり食べられたのに生きていたのです。
クロノスは子供に地位を奪われると心配することからも分かるように神経質な性格で、そのため胃腸を悪くしていたのです。その上、子供たちを丸呑みしたため消化できなかったというのが真相です。たとえゼウスに倒されなかったとしても、栄養失調で先は長くなかっただろうと思われます。
ギリシア神話では丸呑みしたってことになっているからまだいいのですが、ゴヤの「わが子を喰うクロノス」を見て、こんな食べ方をしたら吐き出されてもグチャグチャだよ(ToT) と思ったのは私だけではあるまい。
>全知全能の神様は当然避妊の仕方を知ってました。でも、子供達も神様なので避妊を潜り抜けて懐妊する方法を知っていたのです。
なるほど!さすがは神様、未受精卵の段階でそれほどまでの力を持っていようとは。愚かな人間であるたまごはてっきり・・・(自主規制)・・・だとばかり思っていました(w
電極をセットした血管を、ウジ虫を飼育している容器に入れます。
ウジ虫は血管を食べると電撃を受けることを学習して、その後、血管だけは何があっても食べなくなります。
このウジ虫を死体に振りかけるのです。
たまごちゃん(^-^)ノへ
> たまごの高校の生物の先生は、「血管の標本は、囚人に体温では液体だけど室温では固体になるプラスチックを注射して、血流に乗っていきわたらせてから殺して作るんだ。
temaが読んだ本では、水銀を注射すると書いてありました。
もちろん、心臓が元気に動いている間に...
でも、怖いのでtemaはこんな事信じません。
血管標本の人は、きっと、ものすごい動脈硬化だったのでしょう。
大人や微少女の中には時々うそつきが居ますので、必ず自分で調べるようにしましょう。
さて、先ほどたまごちゃん(^-^)ノが子供を食べる神様の話をしてましたね。食べられた子供達はどうなったでしょうか?
読んでいくと「食べられた兄や姉を助け出し」と書いてあります。つまり食べられたのに生きていたのです。どういうことでしょうか?
アロワナ等、ある種の魚は卵が孵化するまで口の中に入れて敵から守る習性があります。まさに、同じ事をサタンは行っていたのです。
なのに、その愛を妻レアが誤解しました。弁明しようにも口の中がいっぱいでしゃべれません。そうこうしている内にゼウスをけしかけられ殺されてしまったのです。
ここで得られる教訓は2つです。
1.人の行為は一面から見ると悪でも、もう一方から見ると愛が溢れていることがあるのです。
2.妻や母といえど、女性には注意しておかなくてはなりません。
付記
>神様(悪魔)なのに避妊の仕方も知らなかったのでしょうか・・・。
全知全能の神様は当然避妊の仕方を知ってました。でも、子供達も神様なので避妊を潜り抜けて懐妊する方法を知っていたのです。
たまごちゃんの話では、クロノスが父殺し子殺しをした一方的な悪者となっていますが、僕が読んだ話ではカオスであるウラヌスを殺して時という秩序を与えたクロノスという話になっていましたよ?サターンのほうだけ強調しすぎてませんか?ゼウスの話は僕も読んだ限りは同じです。
ただ神話というのはなんかビッグバン的なお話に似ていますね。時が生まれたなんて洒落ています。
>ローマ神話によれば、土星は農業の神です。関連したギリシャの神、 クロノス は、ウラヌスとガイアの息子であり、ゼウス(ジュピター:木星)の父です。「サターン(土星)」は、英語の「サタディ(土曜日)」の元となった単語です( 付録4を参照)。
もちろん、その通りです。ところで、サターン(クロノス)は父親であるウラヌスを鎌で切りつけて倒しました。悪いやつです。(だから、今でも悪魔や死神は鎌を持って描かれることが多いのです。)
しかも、その時にウラヌスに「お前も自分の子供に権力を奪われるだろう。」と予言されたため、生まれてくる子供を全部食べてしまいました。なんて悪いやつなんでしょう。それにしても、神様(悪魔)なのに避妊の仕方も知らなかったのでしょうか・・・。
この悪者を倒したのが、いわずと知れた我らの神様ゼウスです。ゼウスは末っ子でしたが、母親レアの機転によって食べられることなく生き残り、食べられた兄や姉を助け出し、力をあわせてに悪魔サターンとその仲間たちを倒したのでした。めでたし、めでたし。ちなみに、ギリシア語のゼウスとラテン語のデウスは同義です。
つまり、悪魔とは神様のお父さんのことだったのですね♪
ローマ神話によれば、土星は農業の神です。関連したギリシャの神、 クロノス は、ウラヌスとガイアの息子であり、ゼウス(ジュピター:木星)の父です。「サターン(土星)」は、英語の「サタディ(土曜日)」の元となった単語です( 付録4を参照)。
http://www2.crl.go.jp/ka/TNPJP/nineplanets/saturn.html より...。
混ぜっ返しが定着するのが怖くて...(T_T)
>形而上学と哲学ってどう違うんです?
ボクはその世界についてはシロウトですので、以下はボクなりの個人的解釈と言うことでご勘弁願います。
「形而上」という言葉の意味づけについては色んな解釈があります。
神や絶対性、超越性、実体としての法則性、等々。
んで、ボク自身は「実験や観察」で認識できないもの、と解釈しています。
自然科学的認識のさらに向こうにあるもの、といいますか...。
これは相当広い解釈だと思いますが、当面一般的に使われている「形而上」という意味とあまり齟齬がないようです。
(その意味では、観察される前の量子の振るまいを、「観察されていないから分からないだけで本当は決まっている」なんて言う場合の「量子の決まった状態」も、形而上...かも。)
んで、この「形而上」のものについての学が、「形而上学」。
一方哲学とは、いわゆる諸学の王、であり、総合の学問だと捉えています。
一般的には哲学は世界観の構築を伴うようですが、これは「総合」の学問であることから出てくるだけで、「不可知論」のような立場もあります。
つまり、形而上学は哲学の1分科であり、部分...だと思っています。
...なお、HMさんの発言への反応であるため彼の言葉を使っただけで、実はそれほど深い意味での言葉使いではありません (^_^;)
>最初から他種類の生物が存在した(創造された)と解釈すればいいわけです。
「この世界は全能の神が1秒前に創ったのだ」という説と同じく、反証不能です。
もしかしたら正解なのかもしれませんが、反証不能、検証不能である以上、
科学的に妥当な説ではありません。
このような検証できない説は科学的ではないということは同意されたと思いますので、
「最初から他種類の生物が存在した(創造された)と解釈すればいい」
とsaniku_aikiさんがお考えなら、
「創造科学は非科学的」という意見に同意してもらえるものと思います。
>共通祖先からの進化と言いますが、
>現在実際に検証されている変化はせいぜい「科」レベルではないのでしょうか。
>「綱」「目」レベルの変化は検証されているのではなく、仮説のレベルでしょう。
ひとつ大きな勘違いをされているようです。
>突然変異によって、「鳶が鷹を生む」はずなのですが、
>実際に観察されるのは「カエルの子はカエル」ということです。
現在の主流の進化学説では「鳶が鷹を生む」ことは否定されます。
「突然変異によって、『鳶が鷹を生む』はず」という発言が出てくるあたり、
saniku_aikiさんが進化論に無知なのをよくあらわしています。
もちろん進化論に無知なのは欠点でもなんでもありませんから、
>突然変異によって、「鳶が鷹を生む」はずなのですが、
>実際に観察されるのは「カエルの子はカエル」ということです。
という発言は、「進化生物学的には笑いものにしかならない馬鹿発言」
という結論だけ得て終わりにしておくのがよいかと思います。
>長い時間かければ進化するというのは仮説であって、検証されていませんし、
>現在観察される結果はむしろそれを否定していると思います。
「思う」のは自由ですが、進化論に対する無知に基づく誤りです。
もちろん進化論に無知なのは(以下略)
>セントヘレンズ火山の噴火によって(中略)こうした現象はNATROMさんの説明よりも、
>洪水による説明の方がいいように私は思います。
「思う」のは自由ですが(以下略)
>NATROMさんはスプリット湖で観察されたことを無視するのでしょうか。
NATROMさんは科学的な知識を有しているため、
そのようなバ解釈を採用していないだけでしょう。
※バ解釈…バイブル解釈(聖書に基づく解釈)の略。
同様の言葉に、バ科学(聖書に基づく科学。創造科学とか洪水地質学とか)、
バ感覚(聖書に基づく感覚。旧約の虐殺行為を正当化出来てしまう感覚とか)
などがあります。
>洪水地質学を採る人々も地層について何某か知っているわけですから。
洪水地質学を採用する人は、地質学に対してバ完全な知識を持つ人だけであり、
そういう人を「何某か知っている」とは評価しません。
※バ完全…バイブル完全の略。聖書に基づけば完全、の意。
>鍾乳石について、私はよく知らないので、今は何もお答えできません。
鍾乳石について何も知らないのは欠点でもなんでもありませんから、とりあえず
「鍾乳石についてよく観察すれば、洪水説は観察事実と矛盾する」
という知識だけ得ておいて下さい。
>ただ、一つだけ気になったのですが、なぜ奇跡の目的を聞かれたのですか。
>神の奇跡かもしれませんが、奇跡だったとしても、神の目的が人間にわかるとお考えですか。
>全知全能の神のお考えの全てを有限の人間が理解出来るはずはありません。
>神の目的が何であるか人間に全てわかるはずだというのは、傲慢だと私は思います。
>明日、私の家族が事故死したとして、神の目的は何かと聞かれても、
>私には「わからない」としか答えられませんが、
>それでも、「神が私を愛していることは間違いない」と私は答えられます。
>信仰とはそういうものです。
私は、「聖書はただの御伽噺であり、ヤーウェなど存在しないし、
真実の神はsaniku_aikiさんを愛してなどいない。」
と断言できます。
もちろん私の信仰に基づくものに過ぎませんが、信仰とはそういうものです。
#念のため、「真実の神はsaniku_aikiさんを愛していない」からといって、
#saniku_aikiさんになにか問題があるわけではありません。
#saniku_aikiさんに限らず、神は人間などこれっぽっちも愛していません。
#そのような真実がお気に召さないなら、どうぞ聖書でも信仰してください。
>神様が休んだその日に蠢くもの...土曜日はSaturday、Satan dayです。
土曜日の夜は特に注意し、夜遊び等してはなりません。Satanが蠢いております。
そっかぁ。だから土曜の夜は何かと誘惑が多いのね・・・。
だから、土星はサターンといって、占星術などでは凶星とされているんだよ。
なんて言ったら、どこまでが本当なのか分からなくなるに違いない。
>キリストの再臨が未来のことではないという考えがあるとは私は知りませんでした。
私は再臨が未来の事ではないとは言っていません。
それは未来に起こる出来事です。
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda/comp.htm
> セントヘレンズ火山の噴火によってスプリット湖に流れ込んだ流木の多くは根の方を
下にして垂直に沈み、泥の中に突き刺さりました。垂直に立っているからといって、
生きた木であると考える必要はありません。大洪水があれば、多くの木はなぎ倒される
のが普通でしょうし、枝葉はもちろん樹皮さえもはぎ取られてしまいます。
様々な大きさの土砂が流入するので、地層も一層ではなく多層が一気に出来る
はずです。また、同じ場所に存在する貫通木は、またがる地層にばらつきが
あります。下から順にA〜jの地層があるとして、ある木はA〜E層を貫き、ある木は
C〜G層を、ある木はF〜jの層を貫いています。こうした現象はNATROMさんの説明よ
りも、洪水による説明の方がいいように私は思います。NATROMさんはスプリット湖で
観察されたことを無視するのでしょうか。
永久ループの完成じゃな。
いつもより余計に回っておりまーす。
既にこのサイトのコンテンツに書いてありますが……
>長い時間かければ進化するというのは仮説であって、検証されていませんし、
進化論の検証と言うものをどのように想定されているでしょうか。
進化の過程をリアルタイムで観察することと思われますが、実際にはそれだけではありません。現存する生物種を比較して分類した場合、もし進化が正しいならば入れ子状になることが予想されます。そしてそれは現実に存在します。また、未発見の生物や化石の構造を予想し、それに反しない発見がなされます。これらのことからすべての生物が共通の祖先から別れたと認められているわけです。もし○○ならば××だろうという検証可能な予測をする、創造論ではできないと思います。
もし唯一の存在によって個別に創造されたのなら、鳥とコウモリと翼竜と昆虫が同じ空を飛ぶ器官を持っているのにそれぞれの構造が違う理由を説明できなくなります。昆虫はともかくコウモリや翼竜が鳥類じゃないのは創造主にとって何の意味があったか、反証可能な説明は不可能です。従って創造論は「科学理論としては」棄却されます。が、創造論を「信じる」ことは誰にも否定できません。
クハ72さんへ
>共通の祖先からの進化の証拠以外の解釈が不可能だから進化論が正しいとされたのです。もし創造の証拠としての解釈が可能なら具体例を挙げていただけないでしょうか
進化論が正しいとされている理由は他にもあると思いますが、それはいいとして、
最初から他種類の生物が存在した(創造された)と解釈すればいいわけです。
共通祖先からの進化と言いますが、現在実際に検証されている変化はせいぜい
「科」レベルではないのでしょうか。「綱」「目」レベルの変化は検証されている
のではなく、仮説のレベルでしょう。突然変異によって、「鳶が鷹を生む」はずな
のですが、実際に観察されるのは「カエルの子はカエル」ということです。
長い時間かければ進化するというのは仮説であって、検証されていませんし、
現在観察される結果はむしろそれを否定していると思います。
NATROMさんへ
>やはり聖書には多様な解釈が可能というよい証拠になると思います。
キリストの再臨が未来のことではないという考えがあるとは私は知りませんでした。
その意味では、多様な解釈が出来る証拠になるとは思いますが、「良い証拠」と
いう意味では、適切ではないと思います。それは、再臨が未来と考える人々は少数
であり、多数派は未来と考えているからです。多数の人々の中でも、洗礼の方法とか、
聖餐の意味とかの解釈は意見が分かれているので、こちらの方がより適切でしょう。
>一回目の大洪水が起こって地層を形成し、そこに木が生え根を伸ばし十分に成長し、それから二度目の大洪水が起こって木が埋まったというわけです
セントヘレンズ火山の噴火によってスプリット湖に流れ込んだ流木の多くは根の方を
下にして垂直に沈み、泥の中に突き刺さりました。垂直に立っているからといって、
生きた木であると考える必要はありません。大洪水があれば、多くの木はなぎ倒される
のが普通でしょうし、枝葉はもちろん樹皮さえもはぎ取られてしまいます。
様々な大きさの土砂が流入するので、地層も一層ではなく多層が一気に出来る
はずです。また、同じ場所に存在する貫通木は、またがる地層にばらつきが
あります。下から順にA〜jの地層があるとして、ある木はA〜E層を貫き、ある木は
C〜G層を、ある木はF〜jの層を貫いています。こうした現象はNATROMさんの説明よ
りも、洪水による説明の方がいいように私は思います。NATROMさんはスプリット湖で
観察されたことを無視するのでしょうか。
>本当に信仰があると言えるのでしょうか。地層について何がしか知っている人は例外なく、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」とは考えません。
よくわからなかったのですが、なぜ「信仰があるといえるのか」なのでしょうか。
「科学知識があるのか」ならわかるのですが、信仰があるから、洪水説を採るわけで、
どういう意味だったのでしょうか。また、「例外なく」はNATROMさんにしては珍しく
過大表現ではないでしょうか。「例外なく」と言えるほど検証できたのですか。
一般論としても、例外のない規則はないわけですし、洪水地質学を採る人々も
地層について何某か知っているわけですから。
>神様が奇跡を起こされたのですか?だとしたら何のために
鍾乳石について、私はよく知らないので、今は何もお答えできません。
ただ、一つだけ気になったのですが、なぜ奇跡の目的を聞かれたのですか。
神の奇跡かもしれませんが、奇跡だったとしても、神の目的が人間にわかると
お考えですか。全知全能の神のお考えの全てを有限の人間が理解出来るはずはありません。神の目的が何であるか人間に全てわかるはずだというのは、傲慢だと
私は思います。明日、私の家族が事故死したとして、神の目的は何かと聞かれても、
私には「わからない」としか答えられませんが、それでも、「神が私を愛していること
は間違いない」と私は答えられます。信仰とはそういうものです。
おずおず様
形而上学と哲学ってどう違うんです?
辞書をひいたのですが今ひとつ解らなくて
田中憲次というものです。私は若いときに
異常な体験をしました。そしてそれをきっかけにして
ありとあらゆる謎を解明することが出来ました。
詳しいことは私のHPをご覧ください。
http://home9.highway.ne.jp/cym10262/fenomina.html
>天国、魂、神の存在を科学は扱わないかもしれませんが、論理的にその存在を否定する事は出来ます。
論理的にその存在を肯定することも、形而上学的には出来そうに思うんですけど...。
初めまして、ゆんさん。
うーん、リクエストされてのかどうか...
この手の議論は、特に印度哲学ではいやという程されてきています。
なかでも仏教のそれは徹底的と言っても良いほどです。
私が読んだのは昔の創元文庫ですが、想像を絶する怪獣という印象は受けませんでした。アイヒ一族にしてもエッドール人にしても液体ヘリウム温度の住人という方が印象が強かったです。で、これはキニスンの友人にして第二段階レンズマンの一人、パレイン人のナドレックも同じなんです。
作者の視点では低温生命に偏見はありそうだけど、差別はしてない、というところでしょうか。
『リゲルのレンズマン』『ドラゴン・レンズマン』は出てるみたいです。
むしろ悪の組織が、共産主義を戯画化した自由なき階級社会であるという描写が印象的かな。
作品背景は以下がまとまってました。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/2179/newpage8.htm
http://f16.aaacafe.ne.jp/~echigo/hondana/renzu.html
>救いを得るために進化論は容認できないと言う私の主張を
>そろそろ理解してもいいのではないでしょうか。
この掲示板のたいていの人は理解していると思います。
saniku_aikiさんには進化論を容認しない自由があります。
ただ、「進化論を容認しない自由」があるからといって、
「その自由に基づく言動には何の批判もされない自由」はないので、
ウソデタラメを書き散らせば指摘されます。
完全に蛇足ですが、
>キリストが罪を犯さずに生きて、
>なおかつ罪人として十字架で人間の身代わりとして死なれたので、
イエスが死んだのは、当時の律法上、死刑相当の罪を犯したからです。
切支丹として、その見解に同意することはできないのは理解できますが、
あたかも当時の為政者が無実の人間を死刑にしたかのような、
当事者の人間性を否定するかのような侮辱的発言には指摘させていただきます。
#saniku_aikiさんが切支丹である以上、
#キリスト教の教義は重要でしょうし、
#そのため他人をこれほどまでに侮辱してしまうのも
#仕方ないものと理解しています。
#ですので、私も指摘するだけにとどめておきます。
>たとえ実際にはそうでなくても、検証できればそれが事実になると言うことですね。
>科学の歴史を見れば、今「事実」とされていても、科学の進歩により100年後
>には「事実」が誤りとなり、事実ではなくなることもありえるわけですから、
>科学的事実というのは、それが正しいかどうかよりも検証できるかどうかを問うて
>いるのですね。
そうです。
科学的事実とは、そういうものです。
>科学的事実とは真理を意味するのではないと言うことですね。
>私は、科学というのは科学がどんなに進歩しても決して変わらない
>正しい「真理」を探究するものだと思っていました。
「真理を追究する」なんて考えは、科学の世界ではとっくの昔に捨てています。
>「進化は事実だ」という意味は進化は実際には起きなかったかもしれないが、
>進化は誤りかもしれないがとにかく検証できるものだと言う意味ですね。
>「創造は科学的事実ではない」とは、創造は実際に起きていて、真理かもしれないが、
>それは検証できていないので、科学的事実とは呼べないというだけのことでしたか。
その通りです。
「進化は科学的事実であり、創造はそうではない」という言葉の意味は、
「人間が見て判断する限りでは創造でなく進化があったように見える」
というだけの意味です。
創造は神の御業ですから、人間の目には到底それがあったように見えなくても
不思議でも何でもありません。
#上記文章の「創造」は、聖書上の6日間による創造の意味です。
>この理解でいいのなら、これまで私はひどい誤解をしていたことになります。
やっと理解いただいたようですね。
>私がこだわっているのは、実際に起きたかどうかであって、
>検証できるかどうかではありません。
実際に何が起こったか、すなわち「真理」が何か知りたいのなら、
科学なんかに頼っちゃいけません。
>実際に起きたことを「事実」と呼ぶと思っていましたから。
科学用語の理解としては誤りです。
はっきり言って、「実際に起きたことを事実と呼ぶ」のは
宗教用語ぐらいのものです。
>創造は神様が行ったものですから、
>検証が十分出来るとは私は初めから期待していません。
そりゃそうでしょう。
>「創造は事実」だと私がこれまで述べてきた主張は
>創造は実際に起きたという意味であって、
>創造は検証できたと言う意味ではございません。
あなたが宗教的事実の意味で「事実」という言葉を使い、
それを科学上の話にまで持ち込んできて誤解しているのは
最初から皆わかっていて、いろいろと説明されていました。
私としては、「ようやく理解してもらえたか」という感じです。
>創造科学を支持する人は、宗教的に信じているから、
>創造が歴史的に実際に起きた事実だと信じており、
>実際に起きたことだから科学的にも説明できないだろうかとやっているのです。
今のところ、その試みはことごとく失敗しているようですが、
未来永劫成功しないとは限りませんので、まあご自由にどうぞ。
ただね、
「都合の悪い証拠・指摘から目をそむける」とか、
「ウソデタラメを垂れ流す」とか、
「科学用語と宗教用語をごちゃ混ぜにする」のは
勘弁いただきたい。
>天国、魂、神の存在を科学は扱わないかもしれませんが、
>論理的にその存在を否定する事は出来ます。
論理的にこれら未知の存在を否定するためにはまずその単語の厳密な
意味を定義して、その上で否定をしなければなりません。ですが、相
手が未知の存在であるだけに、その定義が正しいと言う保証がどこに
もありません。
多くの人を納得させる形で議論を展開するのは難しいと思うのですが
いかがでしょう?
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。