進化論と創造論についての掲示板ログ181

2003年10月05日〜2003年10月08日
このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
トップページに戻る
掲示板ログ180へ
掲示板ログ182へ

夏王朝  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年10月08日22時13分

革離@隆行さんお久しぶりです。最近の話をネットで拾っていると、中国は夏王朝は実在の王朝だと言いたくてむずむずしているようですよ。中国4000年の歴史を更に伸ばしたいようで・・・。

さて夏王朝が実在かもしれないという話、日本ではどこまで進んでいるか、革離@隆行さんご存知ですか?

HN「革離」は墨家の人だったんですね、最近HPで見た話では、西洋に似た思想が中国にもあったと清の時代に墨家の思想が見直されていたようですね。


はじめまして  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月08日22時12分

To コークさん

 はじめまして、大文字ナンと申します。
>戦争が進化のなかの一段階ととらえると、戦争を通じて生存闘争が繰り広げられていると考えられると思います。

 深読みのしすぎかも知れませんが、進化論を「今のところ正しいらしい理論」と捉え、それが「理論的に戦争は必然である」ことに繋がり、果ては戦争の肯定に繋がるのだとしたら、それは誤りであるとはご理解されていますね?
 戦争に限らず、たとえば経済でも、あるいは文化でも、進化論が示すような適応・淘汰の姿は見られると思います。その本質にあるものは、恐らく「変化」だろう、と私は思います。ランダムな変化を内包し続けながら、環境に適応していったモノが子孫を残していくのが進化ですが、確かに戦争や天変地異などという環境の激変が、急激な進化を促したり、あるいは絶滅を呼ぶこともあるでしょう。
 
 人間社会を見ても、局地的な暴力や争いは、常に引き起こされています。そうした出来事が半ばイキモノの必然である、という主張には、同意せざるを得ない面があります。しかし、ニンゲンは本能のみで生きるわけではなく、また本能が引き起こす行動(かも知れない)だからと言って、それを肯定する理由もないのです。
 ニンゲンをニンゲンたらしめている特質は、ニンゲンに独特の本能とは異質な行動だと思います。その使い道のひとつに「戦争」があるだけではないでしょうか。


不確定性原理について  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月08日21時31分

秋月さんへ
> あと、えーっと『不確定性原理』でしたっけ、
(中略)
> できれば少し教えて下さいおねがいします。
 temaも人に教えられる程、知ってるわけではないのです。でも、この掲示板には相当知ってる人も居られることですし「誤りを書いてもすぐ訂正してもらえる」と良心をなだめつつ説明します。

 量子力学(不確定性原理)が生まれる前の物理学では、ニュートンの運動法則にしてもアインシュタインの相対性理論にしても、原理的に「未来は予測可能」と考えていました。予測可能ということは、未来は決まっていて変えられないということです。秋月さんがいつ生まれて、どこに行き、何をするのかも。何を考え、何に感動し、誰に恋するのかも、全て決まっていて変えられない、ということです。

 そのような世界には、自由意思も魂も(そして神様も)無く、ただ運命のみが存在しているとtemaには感じられるのです。

 不確定性原理は、“非常に小さい物の「位置」と「動きの方向及び速度」は、どちらかしか判らない“という原理です。「位置」が判った場合「動きの方向及び速度」が判りません。「動きの方向及び速度」が判った場合は「位置」が判りません。
 未来の予測には「位置」と「動きの方向及び速度」両方が必要であるため、不確定性原理によれば「未来は予測できない」ということになります。

 自由意思や魂や神様が存在できる場所は、不確定性原理の中にこそあるとtemaは思っています。
 しかし、不確定性原理に自由意思や魂や神様が関与しているかどうかは判っていません。もしかすると自由意思や魂というものは存在しないのかも知れません。temaにとって、これは自己の存在を脅かすものです。神の存在有無以上の大事なのです。
 宗教が人の心を救うためのものならば、この問題も考えるのではないかな?と思ってました。また、不確定性原理の中にこそ、神様の居場所があると思えるので、そこが話題になるのではないかな?と思ってました。


創造する神と流出する神  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年10月08日20時47分

日本神話なりギリシア神話なり、いわゆる多神教といわれている神話体系においても、実は原初からあった神はただ1柱なのだにゃ。ヤマト神話では アメノミナカヌシノカミ、ギリシア神話ではウラヌスにゃんな。この原初の神が、他の神を産み落としたり、体の部分から他の神が派生してだんだん神様が増えていくわけだにゃ。ニンゲンの世界が広がり、認識が精緻になるにつれて、神様が増えていくと言い換えてもよいと思いますにゃ。
こうして、神は自らの分身をつくりながら、つまり流出しながら世界を満たし、ヒエラルキーをつくるわけですにゃー。この流出する神においては、いわば「神=世界」なのですにゃ。

ところがね、聖書の神ちゅうのは創造する神なのですにゃー。世界のすべてを創り上げた神なのであり、ここでは世界と神はことなるもの、世界とは神にとってはobjectなのですにゃ。ニンゲンとて、神の似姿にはちがいにゃーけど、やはりobjectなのね。流出する神においては、ニンゲンは神の末裔として世界と一体であることが多いにゃんけどね。

この「創造する神」ちゅうのは世界の神話を見渡しても特異な存在だっちゅうのはマチガイにゃーみたい。
大洪水とか処女受胎とかいうモチーフは他の神話からのパクリとかいわれているけどにゃ。
(ユング好きの僕としては、パクリちゅうより共通のアーキタイプの発露と考えるにゃんが)


脱線  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月08日20時42分

ぽんさんへ
> インタビューを引用したものの、それほど中島みゆきに詳しくはないので(だから
> 「孤独の肖像」と二艘の舟」の話題にのれなかったのだ)、実は、
 いや、temaも詳しくありません。たまごちゃん(^-^)ノからのレスを見て、知識不足を実感しました。まさか、そんなふうに解釈されるとは..
 ちなみに、temaが如何に実感したかは下記の通りです。

たまごちゃん(^-^)ノへ
 はじめまして。
> 「孤独の肖像」と「孤独の肖像1st」の両方を聴いたことがあるということは、多分ご存知なのではないかとは思いますが、オリジナルのメロディーは「1st」の方です。
 ええっ!
 「孤独の肖像」が2バージョンあったとは知らなかった。
 tema's favorite songなのに...不覚っ
 ああっ!今見直すと
 「二隻の船」なのに「二艘の船」と間違えてる。
 tema's favorite song No.2なのに...うかつっ
 実は、temaが2曲と言ったのは、この2曲が途中でメロディというか雰囲気が変わるからなのです。
 雰囲気が変わるところがtemaにはたまりません。

付記
 本日、HMVに行き「孤独の肖像1st」を探しました。
 夜会Vol.5  8,000円ナリ...
 こ..高価だ。いや、だがしかし「孤独の肖像」はfavorite song No.1だ。
 悩みました。こんな時、信仰が厚ければ聖書に導かれて心が定まるのでしょうか?


コークさんへ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月08日20時39分

>つまり戦争は人間の本能にもとづいた産物といえることができるのではないでしょうか??

それを証明するには戦争の遂行は理性によらないことを明らかにしなければなりませんが、どのような方法によればそれは可能でしょうか?
私は打算によらない本能による戦争の方がまれなように思われるので、「戦争=生存競争」という主張ににわかには賛同できかねます。


命題  投稿者:無名 投稿日: 2003年10月08日20時31分

tema様

式や文章で表された事柄で正しい(真)か、正しくない(偽)か、判断できるものを
命題といいます。
「100は3で割切れる」は命題ですか?
たまにこういう質問をすると、勘違いして「NO」と答える人がいる。
 これはれっきとした命題で、正しくないと判断できるからです。
つまり偽の命題といえます。
「1億は大きい数である」などは、何を基準としているかがまるっきり判断できない。
つまり命題とはいえないのです。

それくらい知ってる。と返ってきそうですね。
非常に初歩的な知識です。

ですが、ご存知でしたら
「創造論は科学的に誤りでない」ということを
命題として取り上げることが不可能であることが、
例を出さずとも理解できたはずです。

命題の理想として、(仮定)pならばq(結論)としていないのと、与えられた命題が真であれば、その対偶も真なはずです。
事柄が命題として成り立つかどうかは、しばしば対偶で確かめるものです。
今回の事柄も明らかに対偶が成り立たないどころか、作りようが無いという時点で、証明
することが不可能であることに気づきます。

創造論は科学的に誤りでない(創造論は科学的である)は、
「1億は大きい数である」というようなことと同様で、
それは人それぞれの感じ方であり、
どうですかね。

1億は大きい数ですか?いやいや1兆の方が断然大きいですよ。
いや、兆なんかより**の方が、いや**の方が大きい!!
いやいや、しかしだからといって1億が大きい数ではない(1億が小さい数字である)
ことにはならないでしょう。

どうですかこの議論・・ 非常にばかげていますよね。一生やってろ!って感じですよね。
たって数は無限にありますから・・・

そしてまた、創造論が科学的に誤りでない(創造論は科学的である)も同様に、
人それぞれの感じ方がありますから。

分かりますよね?

ですから範囲(基準)を設けるべきと先ほどにもお伝えしました。
「1億は大きい数である(1兆より)」とすれば、それは偽であると判断できますから。

また、基準を変えることによって1億が大きい数字にもなりますね。
大きくも小さくも成り得る。

創造論が科学的であるかないかについても同様のことが言えるのでしょう。


神話のお話  投稿者:革離@隆行 投稿日: 2003年10月08日20時18分

神話は長い時間をかけて作られておりますので解釈には注意が必要と思われます.

例えば私のHNに使わせてもらっている「革離」という小説の主人公は「墨家」の一員です.
墨家はほとんど宗教団体といってもいい,技術屋集団なのですが,『禹』を守護神としている.
禹というのは夏(中国の最初の王朝とされてますが,まだ伝説の中の国ですね)の始祖とされてまして,司馬遷は史記にそう書いちゃってますが(その中で世の中を回りまわって治水に努めたので,技術屋集団の墨家がこれを守護神にした模様),他の文献とか追っていくとどうも違うらしい.
荘子を見ると「禹は偏枯なり」と書いてあって,また別の文献『山海経』を見ると「魚あり,偏枯,名を魚婦という」と出てくる.これら一連の文献から禹は魚形の神であったことが推察されますが,それが歴史の最初に現れたのは中国の最古の土器文化である仰韶前期だそうです.そしてどうもそのころは洪水神だったと思われる,そういった内容が最近読んでいる白川静先生の「中国の神話」に載っていました.

今あげた例は洪水神が治水で有名な王朝の始祖に,そしてある技術屋集団の守護神に変わっていったことを書きましたが,基本的に神話は複数の民族の競い合い争いあいから成長していくものですので,最初はそれぞれの民族毎に一つの神しかなかったものが段々あわさって複数の神になっていっている可能性は十分あります.日本の神話も大きく大和系,出雲系の神の2系統の神が出てきますが,そこに何らかの歴史的事件が絡んでいる可能性があります.

何がいいたいかというと完成されている神話においては複数の神が出てくるのがほとんどかもしれませんが,元々は一人神だった可能性は十分あるということです.そしてその神が奉っている民族において創造神であった可能性は捨てきれないのかもしれません.


進化論と戦争  投稿者:コーク 投稿日: 2003年10月08日19時06分

ダーウィンの唱える適するものが残るということと、なぜ戦争が起きるのかをつなげて考えることはできるのでしょうか??戦争が進化のなかの一段階ととらえると、戦争を通じて生存闘争が繰り広げられていると考えられると思います。つまり戦争は人間の本能にもとづいた産物といえることができるのではないでしょうか??


科学的に誤り?  投稿者:無名 投稿日: 2003年10月08日15時31分

tema様の命題から、saniku-aiki様へ


「いい気分になること」の本当の意味を考えてみましょ
う。いい気分になることとは、悪い気分であることを止めることでしょうか?
同様の質問が健康分野でも長い間なされてきています。健康は「病気ではないこと」
と定義さえしてきました。でもそれは本当に正しいでしょうか?健康であること
はただ単に病気ではないことだと、本当に思いますか?もしそうならば、あまり
ワクワクしませんね。だって、それなら、いい気分になることとは、悪い気分で
あることを止めることだと言わなければなりません。同様に、暖かいということ
は寒くないということであり、エネルギーがあるということは疲れていないとい
うことであり、満たされているということは心が空っぽではないということにな
ります。この論法をもう一歩進めると、幸せであるということは不幸ではないと
いうこと、と言えます。

tema様より
その芸術作品を作った芸術家に「私の作品は数学的に誤りではない」と言われた場合、temaは「あなたの作品は数学ではなく芸術です」「数学には芸術の正誤を判定する力はありません」と言います。
 saniku-aikiさんが主張されている事も、上記の芸術家と同じような主張に見えるのです。聖書が正しいということは信仰により支えられています。科学を使って信仰を表現すれば、それは科学ではなく信仰です。科学には信仰の正誤を判断する力はありません。
 あれ?その場合は「創造論は科学的に誤りではない」という命題は真か?

p.s. 大変でしょうから、レスは結構です。

内容自体にレスはないです。
ただ重要なのは、命題とは「正しいか正しくないかが判断できるような文章または式」
であり、この場合、創造論自体が科学のみの領域でなければ命題として成り立つはずがない。
もしくは範囲を設ける必要があると思いますよ。
というのも、創造論が科学的なところもあれば、そうでない(信仰)ところもある
のなら、正しいか正しくないか判断できません。命題では。
「私の作品は数学的に誤りでない」
この言葉に対して、
「あなたの作品は数学ではなく芸術です」「数学には芸術の正誤を判定する力はありません」
と補足したくなるのは、命題が命題として(実際命題でない)成り立っていないから生じることだと思います。
そしてまた、
「私の作品は数学的に誤りでない」
と言う分に良い。
しかし、「私の作品は数学的である」
とする場合、そうであるところもあれば、そうでないところもある。
しかし敢えて数学的であるという時、
数学的である部分をを数学的であると認めて欲しいという、
明らかな意向がありますよね。

創造論に対しても一概に言い切れないと思いますがね。
それは多くが理解されている様ですよ。

そしてまた、どこまでが科学的であり、どこからが科学的に明らかでないので
そこからは信仰(推測)としても論理的な領域にいられるかどうかの討論の場ですよね。

私は科学的に誤りでない、どちらにも成り得る。という分には多くが思っていて、
同意で終わると思います。
しかし誤りでないと繰り返しおっしゃると、
明らかに科学的であることを認めて欲しい。という意向が伝わってきます。
実際にそうなのでしょう?
でしてら証明すべきです。科学的に明らかでない部分を証明することは誰も求めていません。もちろん。
しかし明らかにされている多くの事柄を正確に指摘し合い、
推測し、真実に近づこうという状態が科学的であると私は思います。


つまらん授業は内職の時間  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年10月08日14時57分

 という事でよろしいと思いますネ。>ぽんさん

> 子ども(特に高校生にもなれば)は、大人が思うよりバカじゃない、ってことで、
> もしかしたらそれほど心配することもないかも…?

 ええ、先生の話をそのまま鵜呑みにするウブな高校生は今時居ないだろうとは思
います。その場の空気というのもありますしね。文字に書いてしまうと大真面目に
主張しているようでも、話としてはごく息抜き的に喋っている事は結構ありそうで
す。

 temaさん
> 授業中におりまぜるギャグの面白さで教師を評価してましたので

人間の考えって、糞真面目に大上段に構えれば人に伝わるものでもないようですね。
ユーモアのセンスも教師としての大切な資質なんですな〜。
 聖書の表現もそうなんでしょうけど、真実を伝えようとした時には、暗喩や反語的
な表現を使わないと意図した事が正しく伝わらない、というのは本当だと思います。
(だから聖書を逐語的に解釈するのは全く愚かな事だ)


>そうなんですか?  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月08日14時14分

ノアの洪水話はギルガメッシュ神話(だったなか?)のパクリそのものってのは記憶の中でも確かな方なんですが、他のもと聞かれると自信がありません。
ノアの洪水話がパクリってのに引きずられて記憶が変容したのかもしれないです。

ところで創世記の思想って?
唯一神が世界を創ったってやつですか?

世界を創ったってのは他にもありそうに思うんだが。
ただ唯一神がとなると少ないかも。
複数の神さんがとなるとほとんどがそうでしょう?

とにかく、私はこういう神話には無知です。
深く追求されると、ごめんなさい、知りませんとあやまるしかないです。


そうなんですか?  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月08日13時01分

>これもパクリじゃなかったですか、記憶があいまいであれなんですが。

そうなんですか?
私の知っている聖書学者は、この創世記の思想が一体どこから出てきたのか(どの文明のどういう影響からでてきたのか)を探るために古代オリエントの宗教書やら法典やらを長年研究しているのですが、未だにその源流がわからず、苦労しているようです。もし何かご存知の方がいたら教えて下さい。その人に教えてあげたいので。


神が宇宙を創った  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月08日11時53分

>創世記のすごいところは、アニミズムが当然だった古代社会で、「神が宇宙を創った」と宣言したところだと思います。つまり、「太陽も月も神ではない」「この世のものは全て被造物に過ぎない」と宣言した、というところです。

これもパクリじゃなかったですか、記憶があいまいであれなんですが。
(パクリってのは語弊があるけど、他の文化、宗教の影響によると言うべきか)


科学教育  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月08日11時52分

 私の高校時代がどうだったか、というとご多分に漏れず授業の中で科学的考察力だとか仮定〜理論の構築にいたるフローを習った経験はまったくありません。しかし反面、不良学生(笑)だった私は停学を喰らうたんびに強烈な補習に拘束される羽目になり、各課教師とのマン・ツー・マン体制で課題を突きつけられ、結果的に教師との豊富な問答を得て、考えることを覚えるに至ったのではないか、と思えたりするのです。
 科学的考察力を養う、と言っても、それが必ずしも科学の授業の中で行なわれるか?というとそんなことはなく、例えばスポーツ競技をやっていれば、ある目標に対してどんなアプローチでそれを達成し得るか、問題点はどこでどのように改善するか、などを学べるかと思います。特に私は怪我で選手生命を断たれたおかげで、後輩の指導にあたることが多かったために、ひとつの問題が必ずしも全体の問題ではないこと、ある指導法が誰にでも通用することではなく、個別の観察がないと集団の向上は得られないことなどを、なにげに覚えたのでしょうね。まぁ人間、何がどう役に立つか分からない、ということですか(笑。

 たとえばスキー競技について考えると、雪のない時期にどのようなトレーニングを夏場に行なうか?という問題対処が必要になり、たとえば階段を駆け下りる動作がゲレンデを下りる動作に似ているのでそれをやってみよう、などと考えるわけです。あるいは、シーズン中、雪質に対してどのようなワクシングで対処するのが良いか?を色々と試行錯誤すると、その場で検証し、結果を身体で感じ、データを取って大会に臨むなど、非常に科学的な考察力を養えます。教科書通りのことは誰でもやっていますから、それ以上のノウハウを持っている者が勝つわけで、仮定〜実験〜検証〜実践というプロセスを踏み、予測と実行があって、最初に戻るというループが出来上がります。

 まぁ何が言いたいか?と言うと、理科の時間に詰め込み教育になるのは、学校という制度の中ではある程度仕方がないと思うのです。教師のスキルもあるでしょうが、良い教師に巡り合うのはなかなか難しいことです。しかし、なにがしかの問題には誰でも必ず遭遇しながら生きていますので、そういう時に科学的思考力を養う機会を得ていればよろしいのではないか、と思うわけです。


Re:教育について  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月08日10時06分

Kosukeさま、temaさま

ふと思い出したんだけど、そーいえば、私の高校のときの理科教師は、「1999年に地球は崩壊するというノストラダムスの予言は当たる」とか何とか言って、宇宙の図とか取出して、○○年に星の配置がこうなるから、重力がどうのこうので、○○年に赤道が○度ずれて…、気候とかがむちゃくちゃになって…、と力説してました。
大学受験にも無関係な、あほな女子高生だった私は、「へぇ〜。ほんとうかいな」と聞き流しつつ、おしゃべり・内職・早弁に勢を出していました。
周りの人間もそんな感じだったような…

子ども(特に高校生にもなれば)は、大人が思うよりバカじゃない、ってことで、もしかしたらそれほど心配することもないかも…?
よくわかりませんが。


(無題)  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月08日 8時58分

sci98さま
レスありがとうございます。
>ポルトガル語の語感が好きというのはちょっとありますが。
私は、ポルトガルの語感とともに、漢字の見た感じ(ダシャレ?)がちょっと好きです。
基督っていう漢字もちょっと好き。

HMさまへ
はじめまして。
>進化論を肯定すると、即信仰の否定にはならないかもしれませんが、キリスト教の根幹が瓦解しませんか。
>例えば聖書には、事実と違って間違った部分があるとなると、何処が正しくて、何処が間違っているのか、誰が判断するのか?というような。

横レスですが、進化論を肯定するキリスト教徒としてご参考までに私の解釈を・・・
(キリスト教の一般的な解釈とか、正統的な解釈とか言うわけではなく、一人の信徒の
考え方に過ぎません)

まず、私は、聖書は人間が書いた書物であり、事実ではないことも仰山書いてあるし、間違いも矛盾も限界もある書物だと思っています。それでも、というか、だからこそ、人間の素晴らしさや希望、人間の醜さや絶望、理想の社会を目指して試行錯誤して失敗ばかりしている人間の姿、それでも希望を捨てずに生きていこうとする人間の姿が現れていて、だからこそ、ある意味、「真理」の一端を書いた書物として尊重したいという考えです。

さて、私は進化論を肯定し、宇宙が7日間でできたという創造論は事実ではなかったと考えていますが、それにも関わらず、創世記はキリスト教の根幹に関わる重要な書物だと考えています。
創世記を「科学書」ではなくて、ヘブライの思想を表明した「文学書」だと認識しているからです。
創世記のすごいところは、アニミズムが当然だった古代社会で、「神が宇宙を創った」と宣言したところだと思います。つまり、「太陽も月も神ではない」「この世のものは全て被造物に過ぎない」と宣言した、というところです。人間が認識して把握できるようなものは、全て「神ではない」。人間がこの世のものを「神」として拝み、その「奴隷」となる生き方を拒絶する思想です。「創世記」に続く「出エジプト記」という書物には、エジプト王の奴隷として生きることを拒否してエジプトを逃げ出した一群が、一人一人が自由人として生きる社会を目指して四苦八苦(仏教用語か、これ)する姿が描かれています。

無宗教の現代人が読めば「へぇ〜(10へぇくらいか?)」で終わる話かもしれませんが、絶対的な権力と「神」が一体となって統治し、「神」の存在の有無を問うこと自体ありえなかったような時代に、あのような思想を生み出した人々がいて、実際に短期間・小規模ではあっても、原始民主体制の社会を実現させたということは、私にとっては驚きであり、希望にもなるわけなのです。


データ量は一番少ないな  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月08日 5時32分

>別にどうでもいいことなのですが、
>sci98さんが切支丹という言葉を使うのは何か意味があるのでしょうか?

特に何も。
ポルトガル語の語感が好きというのはちょっとありますが。

別にキリスト教徒でもキリスト教信者でもクリスチャンでもキリスト者でも、
なんでもいいです。


>もしかしてなにか意味(こだわり)があるのかしら、とふと思いました。

なんもないです。
ただ、切支丹という言葉は主にローマ=カトリックを指すんで、
文脈によって誤読される可能性のあるときは「キリスト教信者」を使います。


>HMさん  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月08日 1時38分

御釈迦様が脇の下から生まれてきたということを信じなくても仏教徒になれるし、神々がエッチして日本列島ができたということを信じなくても神道を信じることができるでしょう。
そんなに重要なこととは思えませんがね<キリスト教と進化論
現実に、キリスト教徒には、一定程度進化論は受け入れられているわけで。

やたら騒いでるのは一部の原理主義者だけだと思いますよ。


初めまして。  投稿者:HM 投稿日: 2003年10月08日 1時25分

イラク戦争関連のサイトを検索していて、偶然このページを拝見致しました。皆様初めまして。

私は進化論の専門的な事は分かりませんが、思想的には社会民主主義的であると自分では思っています。

秋月様

進化論を肯定すると、即信仰の否定にはならないかもしれませんが、キリスト教の根幹が瓦解しませんか。

例えば聖書には、事実と違って間違った部分があるとなると、何処が正しくて、何処が間違っているのか、誰が判断するのか?というような。


こちらこそ、宜しくお願いします。  投稿者:秋月 投稿日: 2003年10月08日 0時27分

tama様
こちらこそ宜しくお願いします。
ごく親しい仲間内で熱くなってしまいました…。
私の説明が悪かったのかも知れませんが、進化論を肯定すると
進化論の肯定→創造論の否定→創造主の一部否定→信仰の否定
と言う図式に感じられたようです。
進化論に肯定的な立場をとるカトリックなのに…。
ああ、でもカトリックの簡単な要理の本に書いてある内容は凄いですよ
『ある一部の人々は進化論と言う説を唱え、植物は鉱物から、動物は植物から、そして人はある種の動物から進化したものだと主張しています』
ですから(凄い説明ですよね)。
あと、えーっと『不確定性原理』でしたっけ、今まで話題になったことはありませんが、たしか、存在、非存在は確率的にしか表せない??とかでしたっけ、(すいません全然わかってませんね)できれば少し教えて下さいおねがいします。


教育について  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月07日23時14分

Kosukeさんへ
>  誤解を恐れずに言えば、私の高校の授業はある意味では生徒が教師を試す場でありま>した。教師の知識ももちろんですが、
(中略)
> テープレコーダーのように話す先生は徹底的に馬鹿にされていました。
 それは良い高校ですね。temaが受けた教育があるべき姿であるとは思っていません。本来、教師には知識よりいかに考えるかを語って欲しいと思っています。そのような高校が多くあって欲しいと思います。
 考えてみれば、tema達は授業中におりまぜるギャグの面白さで教師を評価してましたので、この生徒にしてこの教師ありと言う..いやいや、ひょっとして考えは語られてたがtemaが気づいてなかっただけなのかも知れない..


はじめまして  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月07日23時10分

秋月さんへ
 はじめまして。 temaといいます。よろしくお願いします。
> 私は進化論にたいして肯定的なクリスチャンですが、(信徒の)仲間内でこのことを議論すると熱くなる人がいて苦労したことがあります。
 Temaも一応洗礼は受けているんですが、信仰心が足りずこのような目にあったことがありません。やはり進化論は熱くなる話題なのでしょうか?量子力学(というより不確定性原理)の方が熱くなりそうなものですが、話題にのぼりますか?


科学的に誤り?  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月07日23時07分

saniku-aikiさんへ
 saniku-aikiさんは以下の様に主張されています。
>私の主張は「創造論は科学的に誤りではない」です。
 temaの(おそらくは他の方々も)主張は「(saniku-aikiさんが示されている)創造論は科学ではない」です。

 ここが議論の焦点であると思います。

 以前、temaはフィボナッチ数列やマンデンブロ集合(注:どちらも数学の中に出てくるものです)を使った芸術作品を見たことがあります。もし、その芸術作品を作った芸術家に「私の作品は数学的に誤りではない」と言われた場合、temaは「あなたの作品は数学ではなく芸術です」「数学には芸術の正誤を判定する力はありません」と言います。
 saniku-aikiさんが主張されている事も、上記の芸術家と同じような主張に見えるのです。聖書が正しいということは信仰により支えられています。科学を使って信仰を表現すれば、それは科学ではなく信仰です。科学には信仰の正誤を判断する力はありません。
 あれ?その場合は「創造論は科学的に誤りではない」という命題は真か?

p.s. 大変でしょうから、レスは結構です。


どうなんだろ  投稿者:EME 投稿日: 2003年10月07日22時53分

初めまして。
このような会合に意見するのははじめてなのですが、色々面白い意見がある物ですね。自分は科学と宗教は視点がちがうだろう!です。
創造論を事実とされる側への私の質問なのです。、いわゆる聖書の言葉を一字一句事実その物である、と定義するのが創造説の主張であるとするならば、
@1日は24時間と主張している内容である24時間の時間単位(地球の自転などに関わりなく、確か何か原子の震動回数にとかとか言う、現代の=不遜な言い方をすれば捕れたた"きときと"の科学原理に於ける単位"として公認されたモノによって計算されたた結論なのでしょうか。であるならばその時間単位にそぐわない、あるいは説明できないと思われる事象が現れたとき、あなた方はどのような説明をなされるおつもりなのでしょうか。科学の手法のみで、キリスト教の知識などひとかけらもない、おまけに入信
つもりもない大多数の(深い意味はないのですが)にも納得出来る主張を持ってそれを証明する事は可能なのでしょうか
Aもしですよ、もし第1の前提(時間に対する取り決めが)がひっくり返ったとすると、創造論者は現代時間に合値していた神による創造を捨て去るのでしょうか。
天動説/地動説に限らず、構築していた理論がその足下から崩れ去る、なーんてのは科学の世界ではよくあるはなしですよね
B、これは重要だとお思いますが、第1に何故「聖書」なのでしょうか。例えば「古事記」にもこの世の始めにも3つの独立した神が誕生し…といった
一説が有りますが、それを1つは「時間」1つは「空間」そしてもう一つは「物質・あるいはエネルギー=この世に結果として観察される全ての事象を誘うナニカ」とでも解釈すれば「始めに光りありき」より遙かに具体的な「ビックバン理論」ではないかと思います。それに反論する方は勿論「聖書は文字通り受け入れる物で解釈すべきではない、という方法で、反論いただきたいですな。出来れば
光≠ただの光
更に光り=宇宙の始まり
を聖書の言葉で直喩的に証明して下され
(何故ならば比喩的手法は解釈、すなわち読み手にその言葉を自らの存続する文化文明等の体験に添いながら実体験と比較検討・翻訳する作業=に当たって何らかの文化的バイアスが掛かったで状態でしか理解されないのであり、読み手にに何らかの知識の蓄積が有った場合にのみ有効となると言うのであれば、一切無効となる手法では有りますまいか)
そして私の主張がよく言えば比喩にトンだ物でであり、普通に言えばクソ(まごう事なきこじつけ)で有ることを第三者でも理解できるな科学的手法で比較検討し、聖書の言葉の方があ・き・ら・か。・に・正しいと証明して下され。
C更に聖書を奇跡の書と呼ぶのであるならば、ただ一冊の書物が(文字通り個数にしてたった1冊の物体が)全世界の人々に共感を与え、即時平和に結びつくのでなければなりますまい。それが未だなされてないのは(とりあえず千年以上だよね)どっちのせいなのでしょうか。不完全な人間か・それともソンナノを創造し、途中からメメンドーを放棄したいわゆる完全無欠なアノ方か


サイコロの事実  投稿者:妥当?進化論 投稿日: 2003年10月07日12時07分

その昔サイコロの出る目について科学的な見方というのを話題にしたことがあったので、
saniku-aikiさんの理解の一助になれば・・・

ここに1個のサイコロがあります。がそれを振って出る目は間接的にしかわかりません。
つまり直接そのサイコロを見ることができないと仮定します。
そのサイコロを振ったところ100回振っても「6」しかでませんでした。
ここでの「科学的な事実」は「100回振っても6しかでなかった」であり、
「科学的な結論」は このサイコロは「6」しかでないor「6」の目しかない。 ということになると思います。

しかしこの考えが正しいかどうかはまた別のところにあります。もちろん科学的に考えるのであれば、101回目に「1」がでれば、このサイコロは「6」以外もでるとすぐに認めることができます。
このサイコロの目の状態の「本当の事実」を知りたければ、直接サイコロを観察するばよいのですが、この仮定ではできません。進化論も似たようなものだと思います。

化石や地質学、分子生物学や発生学の「科学的な事実」を検証すると、生物は小さな変化が積み重なって種という変化が起きるという科学的な結論が導かれる(はず)。(しかし、私がこのように考えているかどうかはまた別の話)
しかし「本当の事実」となると、タイムマシンでも使ってそして不老不死の薬を飲んだ大調査団がつぶさに確認するしかない。

創造論では、このサイコロは「6」しかでないと聖書に書かれている。だからこのサイコロは「6」しかないのだ。といっているように思えます。

話をかなり単純化したので、無理な部分もあるかもしれませんが、その他の方で補足してくださる方がいればお願います。


神は嘘をついていると言っている人を、、、  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月07日11時19分

>だったらなぜ、科学理論である進化論を気にするのですか?

答えは一つ。
科学よりイエス・キリストを信じると言っているが、実際は、イエス・キリストより科学を信じているから。

結局は自分の信仰に自信がないということにつきるんじゃないかなぁ。
だから、事実だという何か根拠を、それが泥縄だろうが欲しくなるんだろうし、あたかも間違っているという主張をしているのがあったら(実際はしているわけじゃないのに、自分勝手な誤解に過ぎないのに)、必死になってその主張を否定しようとする。

>進化が科学的事実であれば……
>・6日間で創造したと言っている神は嘘を言っていることになります。
>・嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。

>と主張なさっているのはsaniku-aiki様、あなただけです。

sanikuさん以外に、、、

進化が科学的事実であれば……
・6日間で創造したと言っている神は嘘を言っていることになります。
・嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。

と主張している人を、sanikuさんに挙げてもらったらどうだろう?
そうでないと議論はループになるだけじゃないの。
誰もそんなことを言っていないのに、そう言っていると勝手に取り上げてそれを批判する。これじゃマッチポンプじゃないですか。自分の尻尾をくわえてグルグル回っているようなもんだ。一歩も前に進まない。


(無題)  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月07日 8時45分

>聖書全体の主張と一致するかどうかです。

「聖書全体の主張」っていうのは誰がどうやって決める(解釈する)んだろ?


ほんとに大変  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月07日 8時29分

>順に回答なさっているようですが、私の分としては
>Re:9月22日の回答  投稿者:3ET  投稿日:10月 5日(日)16時20分44秒
>にのみ回答いただければ充分です

私もねぎらいの言葉+もう私への返答は結構ですよ、と書こうと思ったのですが、
多分それを読まれるのは2週間後くらいだろう、と思って書くのをやめました。。。


別にどうでもいいことなのですが、
sci98さんが切支丹という言葉を使うのは何か意味があるのでしょうか?
なんか、ちょっと古い感じで素敵、、、なんて何も考えずに思っていましたが、
もしかしてなにか意味(こだわり)があるのかしら、とふと思いました。


火による裁きについて  投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年10月07日 6時50分

>主の日は盗人のようにやって来ます。
>その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地
>とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」2ペテロ3:4-11

このペテロの預言は将来起こる出来事ではありません。すでに成就しているのです。
詳しくはこちらをお読み下さい。

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda/k5FtwbAx.htm


(有袋)  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月07日 6時19分

>下のはボタンの押し間違いです。sci98さんの敬称もなく失礼しました。

いえいえ、お気になさらずに。


>進化が科学的事実ということは、それはすなわち
>「6日間で地球が創造されたことは事実ではない」という意味になります。

はい、科学的事実ではありません。
ところで、科学用語の「事実」と、宗教用語の「事実」で、
意味が違うことはご理解頂いてますか?

科学用語の意味で、現在の科学的知見に基づけば
・進化→事実
・創造→事実でない
ですし、
宗教用語の意味で、原理主義切支丹の見解に基づけば
・進化→事実でない
・創造→事実
となります。

まだ「科学だろうと宗教だろうと事実はひとつだ」
と思っておられるかもしれないのでついでに書きますが、
なんと法律用語の意味だと
・進化→事実
・創造→事実
です。

「事実はひとつ」なんていう考えは、
宗教の世界でしか通用しないのがよくわかるでしょう。

私は神による創造を信仰するものであり、進化論は信じていませんが、
しかし進化は科学的事実だと考えます。


>6日間で創造したと言っている神は嘘を言っていることになります。

「科学的事実でないこと」を言っているだけです。


>進化論者はイエス・キリストは詐欺師だというわけですね。
>嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。

イエスが詐欺師かどうかとか、救い主かどうかとかなんて、
科学の立場からはアウトオブ眼中です。

私個人としては、聖書はただの御伽噺であり、ヤーウェは架空の存在であり、
イエスは存在はしたでしょうけど救い主なんかではないと信じています。
これは私の個人的信仰に基づくものであり、科学とは無関係です。


>まあそう言うのも自由ですが、
>私はイエス・キリストは真実を語っていると信じていますから、
>創造が事実であると信じています。

原理主義切支丹であっても、科学用語の「事実」の意味を知っていれば
「イエスは科学的事実ではないが真実を語っている」
「創造は科学的事実ではないが真実である」
と正しく主張できるでしょう。
あなたにそれができないのは、
科学用語と宗教用語の違いを理解していないからです。


>私は科学よりもイエス・キリストを信じますのでね。

私も科学よりも神を信じ、進化よりも神による創造を信じますが、
進化が科学的事実であることも知っています。

さらにいえば、私はヤーウェよりも神を信じ、
ヤーウェによる天地創造よりも神による天地創造を信じますが、
聖書的事実によればヤーウェは神であり、
ヤーウェは6日間で万物を創造したことも知っています。


>一般論としても「科学は正しい」とは証明されていないはずなのですが、

当たり前です。
前にも書きましたが、科学とは、
「もしかしたら間違っているかもしれない前提」から
「もしかしたら間違っているかもしれない推論」を用いて
「もしかしたら間違っているかもしれない結論」を導いている
に、過ぎません。


>正しいかどうかわからない科学によって、
>進化は事実だと断言されても信用できません。

「科学的事実」に過ぎず、「真実」ではないのですが、
やはりその違いは理解していないのでしょうね。


>カリフォルニア大学バークリー校法律学校のジョンソン教授は
>「進化論は未だ科学的に証明されていない一つの論理にすぎない。
>絶対的な真実として教えることに問題がある」と発言しています。
>私にはジョンソン教授の見解は正当だと思っています。

どこの世界で、進化論が絶対的な真実として教えられているのでしょうか?
単に、「科学的事実」として教えられているに過ぎません。

ジョンソン教授も、あなたと同様、
「科学的事実」と「真実」の区別がついていないのでしょう。


>>信仰の前には、たかが科学的事実などどうでもよかろうに
>人によって違うのでしょうが、私にとっては事実かどうかは大事です。
>パウロもイエス・キリストの復活の事実性にこだわったし、
>信仰する上で大切なことだと私は考えます。
>自分の命がかかっていますから、イエス・キリストが詐欺師かどうか、
>事実にこだわるのは当然だと思います。

私は「科学的事実」と書いたのですが、あなたは以下の文章で、
宗教的事実の意味で「事実」という言葉を使ってますね。
まあ、別に詭弁を弄そうとしたわけでなく、単にあなたに
両者を区別する能力がないだけだとは思いますが…


(有題)  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月07日 6時18分

>私の主張は「創造論は科学的に誤りではない」です。

簡単に答えのみ書きますと、
「創造論は科学的に誤り」
です。

もちろん、科学的に誤っているだけの話であって、
ウソともデタラメとも真実でないとも言っていません。
単に「科学的に誤っている」だけです。


>「創造主を認めることは科学的でない」とは言えないし、
>「認めないことが科学的だ」とも言えないという主張です。

その通りですが、それがなにか。


>創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は、
>創造主を前提にしているからだと私は理解しています。

違います。
科学の方法論に則っていないにもかかわらず科学を名乗るから疑似科学なのです。
創造主を前提にしようとも科学の方法論に則っていれば疑似科学ではありませんし、
科学の方法論に則っていなくとも科学を名乗らなければ疑似科学ではありません。


>ですから、創造主を認めるかどうかが問題点なので、
>どうしても宗教の話になってしまいます。

私は創造主を信じ、創造主による創造を信じるものですが、
創造論(聖書的創造論でなく、私の信仰するそれ)が
科学的に誤りなのは知っています。
なので、そのようなものが重要な問題だと思っているのは
あなたのような一部の原理主義切支丹ぐらいです。


最後にふさわしいねぇ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月07日 5時08分

 saniku-aikiさん、あなたとてもかわいそうな人だ。素直にそう思いました。まともな論理思考もないし、自己矛盾にも気付かない、そもそも最大の拠り所である聖書を自分で辱めていることにさえ気付いていない。あなた実は、自分も信じていないでしょう。

>進化が科学的事実ということは、それはすなわち「6日間で地球が創造されたことは
>事実ではない」という意味になります。6日間で創造したと言っている神は嘘を
>言っていることになります。

 聖書に嘘がないことを前提にするのなら、間違っているのはsanikuさんです。科学的事実など所詮は「ヒトの目に映るもの」に過ぎないことを私は知っています。しかしあなたは、ヒトの目で見て違うのなら、神は嘘つきだ、と言明しました。つまりそれは、人が神を評価している姿にほかなりません。

>進化論者はイエス・キリストは詐欺師だというわけです
>ね。嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。まあそう言う
>のも自由ですが、私はイエス・キリストは真実を語っていると信じていますから、
>創造が事実であると信じています。私は科学よりもイエス・キリストを信じますのでね。

 だったらなぜ、科学理論である進化論を気にするのですか?頭がおかしいのではないか、と私は思い始めています。3ETさんが既にご指摘ですが、詐欺師なのはイエス・キリストではありません、saniku-aikiさん、あなたです。
 sanikuさんはひとつも証拠を示すことなく、創造科学は正しい、と主張しています。そして一方では、進化論が正しいのだとしたら、神は嘘つきだ、と言っているわけです。これらはすべてあなたの言葉です。あなたの価値基準、判断、論理において言明しているのです。あなたの信じる通りの神が存在するのなら、間違いなど犯すわけがないじゃありませんか。それなのにあなたは、自分の目だけを信じ、耳を信じ、自分のおろかな考えだけを論拠にして、進化論が正しいなら神は詐欺師である、と言ったのですよ。


 投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年10月07日 4時20分

sanuki-aiki様が何やら回答されてるようですが、聖書は無謬の筈で、貴兄のようにあちらで使えてこちらで駄目と云うような解釈ではひたすら独善的なものとなるのは今までの経過から明白で、貴兄を見ていますと最近、聖書に出てくる放蕩息子の兄のように思えてなりません。それとも大げさに聖句入れを見せびらかすパリサイ人か?いずれにしても聖書にはイエスを信ずる者は救われるとあり、幼子のように信ずる者ともあります。貴方のように屁理屈ばかり言ってると始めの者が終わりにとなってしまうかもしれませんよ。それとも貴兄は神に替わって救いの基準を設けると言うのですか?


大変だよなぁ  投稿者:3ET 投稿日: 2003年10月07日 1時17分

saniku-aiki様

順に回答なさっているようですが、私の分としては

Re:9月22日の回答  投稿者:3ET  投稿日:10月 5日(日)16時20分44秒

にのみ回答いただければ充分です。
追記するとしたら、聖書をどう解釈するかと、ある説(創造論なり、進化論なり)が科学的であるかは全く関係ないってこと位ですね。

つまり

>進化が科学的事実ということは、それはすなわち「6日間で地球が創造されたことは
>事実ではない」という意味になります。

これは「いいえ」なんですよ。驚きましたか?

追伸:

進化が科学的事実であれば……
・6日間で創造したと言っている神は嘘を言っていることになります。
・嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。

と主張なさっているのはsaniku-aiki様、あなただけです。

・進化論者はイエス・キリストは詐欺師だというわけですね。

はっきりと否定します。私はこんなこと主張していません。

進化論が正しいなら、イエス・キリストは詐欺師だ と言明したのはsaniku-aiki様あなたです。


6日間と言う事  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月07日 0時48分

ベレアの人々の末裔さんへ

>「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」

確かにそうありますが、この聖句を使って、6日間は長い年月を指すと考えるのは
文脈を無視した用法だと思います。少し長いですが、前後を引用します。

「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、
世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。 彼らがそのよ
うに言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在
し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世
界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と
地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たち
が裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、この
ことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよ
うです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせてお
られるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、
あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。
その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地
とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」2ペテロ3:4-11

 イエス・キリストは来ると言っているがちっとも来ないではないか、という問いに
対して、人間の目には長く見えても、神にとっては短いのだという意味で
「1日=1000年」使っています。しかも、「天地創造の初めから何一つ変わらない」
(斉一説)との主張に対し、ペテロは全世界を滅ぼしたノアの洪水(激変説)を事実
として認め、反論しています。そして、洪水があったように、まもなく世界は火に
よって滅ぼされるのあり、その日が近いことを説明するために「1日=1000年」と
述べているのです。つまり、文脈上、この聖句は、進化論(斉一説)を否定して
創造論(激変説)を支持するばかりか、さらに洪水を認める以上6日間の創造論を
支持するものとなり、長い年月の創造論ないし進化論を支持するものとはなりません。
 また、この聖句はイエス・キリストの再臨が未来の出来事であることも支持して
います。一部分だけを読んで解釈すると誤解しますので、文脈の中で聖句を
読んでください。


(無題)  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月07日 0時20分

>それはすなわち「6日間で地球が創造されたことは事実ではない」という意味になります。


だから、「科学的」事実ではないってことに過ぎないって言ってるのに。

科学的に事実と言うのなら、科学的にそれについての立証活動を進めればよいだけのことで。
仮に進化論が否定されても、創造科学が科学的事実になるわけじゃないですよ?
当たりまえのことですが、そこんところわかってます?

心配になってきます。


9月24日分回答  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月07日 0時12分

>進化が事実ですか。

下のはボタンの押し間違いです。sci98さんの敬称もなく失礼しました。

sci98さんへ

>創造論者が信じようが信じまいが、あるいはどれだけ嘘八百並べ立てようが、
進化は科学的事実です。

進化が科学的事実ということは、それはすなわち「6日間で地球が創造されたことは
事実ではない」という意味になります。6日間で創造したと言っている神は嘘を
言っていることになります。進化論者はイエス・キリストは詐欺師だというわけです
ね。嘘を言うイエス・キリストは当然人類の救い主ではなくなります。まあそう言う
のも自由ですが、私はイエス・キリストは真実を語っていると信じていますから、
創造が事実であると信じています。私は科学よりもイエス・キリストを信じますのでね。
一般論としても「科学は正しい」とは証明されていないはずなのですが、正しいかどう
かわからない科学によって、進化は事実だと断言されても信用できません。
カリフォルニア大学バークリー校法律学校のジョンソン教授は「進化論は未だ科学的
に証明されていない一つの論理にすぎない。絶対的な真実として教えることに問題
がある」と発言しています。私にはジョンソン教授の見解は正当だと思っています。

>信仰の前には、たかが科学的事実などどうでもよかろうに

人によって違うのでしょうが、私にとっては事実かどうかは大事です。
パウロもイエス・キリストの復活の事実性にこだわったし、信仰する上で大切なこと
だと私は考えます。自分の命がかかっていますから、イエス・キリストが詐欺師かど
うか、事実にこだわるのは当然だと思います。

GOAさんへ

>Yahooの掲示板で「ノアの洪水後地球が冷えて縮んで山脈ができた」と言ってたが、主張を改めたのか?

はっきりと覚えていないので、私の勘違いだったら大変申し訳ないのですが、誰か他
の方とまちがえていらっしゃらないでしょうか。私は言った覚えがありませんし、
「冷えて縮んで」とは考えてもいませんでしたから。

3ETさんへ

>許されないと思うなら。

「創造科学」が科学的に正しいと主張なさっておられる根拠であるとことの聖書の記述について
「この記述は証拠であるが、この記述は証拠でない(寓意である)」と恣意的に決めているのは何故ですか

「恣意的」と言う見解には異議があるのですが、聖書全体の主張と一致するかどうかです。聖書には矛盾に見えるところがいくつもありますが、聖書全体の中でその部分を
読んで(解釈して)いくと矛盾が解消します。


saniku-aiki殿へ  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年10月06日23時43分

10月 6日(月)23時14分49秒の投稿は何のおまじないじゃ?


ハイ〜ζζζ〜♪  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月06日23時22分

To ぽんさん

 キリスト教音楽というか「チャーチモード」と呼ばれる音階があるほどですからね。さらに同じチャーチモードでも、いくつものスタイルがあって、ブルースと切っても切れない相補関係だったりしますので、かなり興味深い考察ではあります(笑。

 一方で、仏教の読経にも意識水準の低下を狙った韻の使い方がありますし、信仰を媒介とした個人的真実の獲得は様々な宗教によって、方法論が確立されているのかも知れません。まぁメディテーションとか、イメージトレーニングを実践するためにも、そうしたマインドコントロールは有用ですが、その転用・悪用には注意しなければいけませんね。

 キリスト教を広めることが、信者を救うことではなく、教団を反映させることにつながらないことを祈ります。


9  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月06日23時14分

sci98


(無題)  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月06日22時38分

to 大文字ナンさん

>それを収穫と思うしかないのでしょうね(笑
そうですね。
キリスト教徒の私としては、
「人の振り見て我が振り直せ」ってことで、けっこう色々と勉強になります。

>そうなると、合理的な判断は不可能に近くなりますし、集団の利益を保つために、ますます思い込みが強固であるかのように「振る舞う」というケースも散見されるように感じています。

キリスト教音楽に興味があって、色んな宗派の礼拝・ミサに出て観察してたことがあるのですが、その時に、「原理主義的」なキリスト教会は、音楽を過剰に多用する傾向があるように思いました。盛り上がれる音楽(最後に転調したりする)が数多く歌われ、間髪いれずに次々とプログラムが進行していきます。それから、説教者、祈る人の話し方が「日常会話」の口調とかけ離れている。結局、礼拝中ずっと教会全体がハイの状態なのです。信徒に落ち着いて考えて批判する隙を与えていないという印象でした。
私はそういうのに「のれない」性格なので、斜に構えて眺めながら「なぁんか、怪しいなぁ」と思っただけで、何がどう危ないのかはっきりと分からなかったのですが、後になって、原理主義的な教会の献金が「宗教右派」の政治資金源にもなっているという事実を知ると、あの礼拝形式は、専門の心理学者とかが集団心理とかを研究し、よくよく考えられて作られたプログラムなのかもしれない、と思ったりもします。


(無題)  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月06日22時25分

>私立病院といえども間違った医療を行って患者を傷つける事が許されないのと同じように、

彼の教団が病院を持っていたら(実際は持てませんが)、精神病を患った人に対しては、その人の頭にただ手を乗せ、

「イエスのみ名によって命ずる!悪霊よ去れ!」

と繰り返し言うだけかもしれませんね。(もちろん、これが「治療」)

肉体的復活を否定する医学と、聖書文字通りの内容は相容れませんから(笑)


たぶん  投稿者:3ET 投稿日: 2003年10月06日20時49分

>まぁ、何度も言っていることですが、なんで科学ってのにそうこだわるのかねぇ。
>科学のお墨付きってのをありがたがって、いったいどうするつもりなんだろう?

いろいろな発言から考えるに

・科学=事実。(を扱う)
・創造論=事実。
・創造論=事実=科学。

なる主張かと。


高校教育  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年10月06日18時30分

>temaが高校生の時に受けた教育は、基本的に「科学の方法論」を教えるものでは無く「科学の結果」を教える教育でした。
>今の日本の学校教育とは知識の習得であり、教師には「知識」「情報伝達能力」を求めることはあっても
>「科学的な考え方」を求める機会は少ないのではないでしょうか?

 これは私の受けた高校教育とは全く逆です。

 誤解を恐れずに言えば、私の高校の授業はある意味では生徒が教師を試す場でありました。教師の知識ももちろんですが、
彼の考え方が生徒一人一人の批判にさらされていました(その批判を必ず口に出すかどうかは別ですが)。
教師は知識という材料を生徒に提供し、それを体系付ける彼の考え(と言っても通常はごくアカデミックなものでしたが)
を述べます。それに説得力があれば、生徒達は納得してそれを受け入れていたと思います。
 人気のある先生は彼なりの物の見方を生徒に訴える授業をしてくれる人であり、参考書に書いてあるような事だけを
テープレコーダーのように話す先生は徹底的に馬鹿にされていました。

 30年近く昔の事で、今もそうなのかどうかは知りません。


理科教師としての適性  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年10月06日18時29分

 まず大前提として、saniku-aiki さんの信仰・宗教的信念を私は尊重したいと考えています。しかし、理科の教育者としての能力や適格性は
また次元の違う話だと思いますので、火だるま状態のsaniku-aiki さんに鞭打つようで申し訳ないのですが、少し述べさせてもらいます。

 私は、私立学校といえども公的な使命を持っているのだと理解しています。確かに、どのように教育するかという【方法】に関しては、
それぞれの学校の裁量が許されているでしょう。しかし、私立病院といえども間違った医療を行って患者を傷つける事が許されないのと同じように、
私立学校で明らかな間違いを教えて生徒の将来を誤らせる事が許されて良い筈がありません。
 宗教の授業なら宗教の土俵で正しい事を教えればよろしい。それに対して科学的にどうこう言うことはお門違いでしょう。
しかし、こと科学の世界の事であれば、理科教師は自らの正しさを【科学的】に明らかにする義務が有ります。
そして今のところそれに関してはsaniku-aiki さんは全く成功していません。
 科学的な方法論に対する認識の誤り、論理的に議論を進める能力不足、進化論その他の科学的な知識の不足・誤解。
これらの事から、saniku-aiki さんは【理科の教師としては】全く能力的に不適格であると思います。

 もちろん、創造論を信じているからという理由ではありません。


創造主を前提とした科学  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月06日17時46分

19世紀の博物学、特にリンネが創始した分類学って、造物主が創った生物を分類しようとしたんじゃないですか。
造物主が創った生物を、科学的手法を使って分類しようとした。

同じように、造物主がいることを前提にした科学の分野を創始するのもいいとは思うけど、その手法が科学の方法に則っていないといけない。そうでないとそれは科学とは言わない。

まぁ、何度も言っていることですが、なんで科学ってのにそうこだわるのかねぇ。
科学のお墨付きってのをありがたがって、いったいどうするつもりなんだろう?
信仰に科学なんて何の役にもたたんと思うけどなぁ。
科学のお墨付きなんて逆に妨げになるんじゃないの?


これまでの議論について  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年10月06日16時13分

saniku-aiki さま

今までの議論を読み返してみて、議論自体がかみ合っていないように思われます。
saniku-aiki さまの”私の主張は「創造論は科学的に誤りではない」です”ということはこの掲示板をご覧の方々は十分認識していると思いますので、そろそろ、その主張を裏付ける「証拠」或は「観測的事実」を提出していただけないでしょうか?
ただし、saniku-aiki さまは”科学的に誤りではない”と申されているのですから「証拠」或は「観測的事実」は科学が認めるものである必要があります。

それから”創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は、創造主を前提にしているからだと私は理解”されているそうですが、この掲示板では創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は科学的手法に則った検証に耐えない説であるとの説明が何度も為されています。その上で、科学は創造主の存在を肯定も否定もしないとの説明も繰り返し行われています。それらを踏まえて、何故、理解を変えていただけないのでしょうか?


事実と解釈  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月06日13時42分

 To ぽんさん

 個人的事実がその人の行動に最も大きな影響を及ぼすことは、信仰に関わらず当然のことですし、それはそれで理解していかないと、スムーズな人間関係を築くことは難しい。主張する側、それを聞く側で、お互いの立場を把握することが肝要かと思います。
 今回、宗教観をテーマに議論が長引いていますが、少なくとも私は信仰と科学についてあれやこれや考えることが出来ましたので、それを収穫と思うしかないのでしょうね(笑。ただ恐いのは、似たような個人的事実を共有する人たちが、それを普遍的で客観的な事実だとか真理だとか思い込んでいるケースだと思います。そうなると、合理的な判断は不可能に近くなりますし、集団の利益を保つために、ますます思い込みが強固であるかのように「振る舞う」というケースも散見されるように感じています。


そうまでして科学のお墨付きがほしいの?  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年10月06日10時33分

To saniku-aiki さん

>創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は、創造主を前提に
>しているからだと私は理解しています。

 別に創造主の存在を前提にしてもいいけど、「反証可能な仮説」
を立てて「科学的な手法」で創造論を検証の対象にすればいいので
はないでしょうか?
 創造主の存在の是非を問うのではなく、創造論から導きだされる
推論の是非を問うとか。

 科学的手法に価値を見出せないのだとしたら、どうしてあなたは
そうまで「創造が科学的に誤りでない」と主張されるのです?


大文字ナンさん  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月06日 9時28分

大文字ナンさん

>↑ちょっと参考に読んでみました。私としては、なかなか読みごたえのあるコラムだな、と思いました。

私も読んでみました。確かに読み応えのあるコラムですね。

以前書いたことがあるかもしれないけれど、
私の祖母は直接「聖霊」を受け、語ったり泣いたり倒れたり、人の病気を治したり
する人でした(←って、未だ生きてるんだけど、年取ったせいか、最近静か)。
川におぼれて死んだ(と皆が諦めていた)子どもを、祈りながらバンバンたたいて
生き返らせたこともあったそうです。
他人が「科学的」に分析すれば、現代科学で合理的に分析して「解釈」して説明できる
ことなのかもしれないけど、「解釈」するだけでなくて、その人に起こった「事実」を、
その人にとっては紛れもない「事実」だったのだと「信じて」受け取ることで、
分かることもあるのかもしれない、と最近思うようになりました。
両方の態度が必要なんじゃないかな、と。

ただ、問題は、そういう体験をした人というのは、そういう体験が強烈であり、
多くの人々に理解されない為に、その体験を絶対化しがちだということなのでしょう。
おばあちゃんも、「普通のキリスト教は本物じゃない」ってよく言ってるな。


雑談  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月06日 8時54分

たまごちゃん(^-^)ノ こんにちわ〜!

>中島みゆきという単語を見ると条件反射的に反応してしまう。われながら節操がないですな(^^;)

インタビューを引用したものの、それほど中島みゆきに詳しくはないので(だから
「孤独の肖像」と二艘の舟」の話題にのれなかったのだ)、実は、
「たまごちゃん(^-^)ノフォローしてくれないかなぁ」と心のどこかで期待してました。

>そうか、コンサートの最中に中島が突然違う歌詞を歌いだす理由がはじめて分かった。あれは電波を受信していたのか(爆)。

そうか、紅白のときも受信してたのか。

ところで、たまごちゃん(^-^)ノの一番のお気に入りの曲は何ですか?
私は、有名な曲の中では、「時代」と「最後の女神」が好きで、
「天才の閃き」を感じる(凡人には訳分からんのだが、深い意味がありそうに
感じる)のは、「吹雪」(グッバイガール)です。なんか、「真理」の一端を突いて
いるような気がする。。。「気がする」だけなんだけど。


こんにちは  投稿者:(*^_^*) 投稿日: 2003年10月06日 8時50分

『創造論が科学的か?』というのは、『イエスが水をぶどう酒に変えたのは科学的か?』というような質問と、ほぼ同質だと思いますね。ただ、私は、科学的には認識できない世界を否定する者ではありませんが…。

http://www.kirisuto.info/


最後にします  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年10月06日 6時42分

結局saniku-aiki さんの言っていることは「俺は絶対正しい。みんなが間違っている」と言うことなんだな。
しかも根拠は自分の思いこみ。

私へのレスがあったので、それには応えますが、意味のあるやりとりは出来そうにないので最後にします。

>誤解されているようですが、

誤解しているのはsaniku-aiki さんだけです。

>私の主張は「創造論は科学的に誤りではない」です。

聖書は科学的根拠にはなり得ませんから、創造論は宗教的にはともかく、科学的には誤りです。

>創造論の前提は創造主の存在を認めることですので、「創造主を認めることは
科学的でない」とは言えないし、「認めないことが科学的だ」とも言えないと
いう主張です。

それは誰も言っていないことなのに、どうしてそんな言いがかりを付けるのでしょうか。
何度も言われているように、科学は創造主の存在を否定しません。
観測事実と矛盾するような創造主のあり方は否定するでしょうけどね。
つまり、否定されているのは貴方の解釈だけです。「創造主」とひとくくりするのは背教的じゃないのですか。

>創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は、創造主を前提にしているからだと私は理解しています。

ちがいます。創造主を前提にするあまり、誤解・曲解・嘘などを駆使してつじつまを合わせようとするからです。
まあ、最初に結論があるのは確かに科学的ではありませんけどね。

>ですから、創造主を認めるかどうかが問題点なので、どうしても宗教の話になってしまいます。
お気を悪くされていることはわかります。申し訳ございませんが、もう少し我慢していただければ、立ち去ります。

気を悪くしているのは宗教の話だからと言うよりは、会話が成り立っていないからです。
多くの人は貴方と同じ立場に立つつもりはないのですから、貴方の立場に立たなければ意味をなさない主張を繰り返されても迷惑なだけです。
貴方の立場が科学的に正しいと証明できるのなら別ですが。
もちろん聖書は根拠にはなりませんよ。


ファンダメンタリズム  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月06日 2時04分

http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/biblread/chap2.htm

↑ちょっと参考に読んでみました。私としては、なかなか読みごたえのあるコラムだな、と思いました。

 さて、saniku-aikiさんとの直接対話には、今後も実りは期待出来ないと思います。しかし、聖書を逐語解釈(sanikuさんは違うらしいけれど)するにせよ、一部を比喩として解釈するにせよ、進化論(あるいはその他の科学理論)と聖書が対立している、と考える人は、どうやら理性と信仰の分離を拒否する点が共通なのかな?と思うに至ります。

 科学は信仰に頼らず、観測事実のみを評価することから始まるものであることが受け入れられないのだとすると、科学がいつか神の存在を証明したのだとしても、ファンダメンタリズムの立場を取る人々には「その神は我々の神ではない」ということになるのでしょうね。これがもしも「やはり神は科学的にも実在証明されるのだ」と言い換えられるようでは、180度態度が変わったと見られても仕方のないことです。

#先の投稿、間違ってボタンを押してしまいました。申し訳ありませんが削除お願いします。


アダムの罪と死  投稿者:秋月 投稿日: 2003年10月06日 1時29分

saniku-aiki様
色々誤解も受けているようですが、私はあなたの気持ちも解る気がします。
ただ、以下の質問には答えておきますね。

>進化を認めるクリスチャンの方は、アダムの罪と死の関係をどのように見ておられるのでしょうか。
 
 神は人祖たるアダムに特別の恩恵を与えられました。それにより、苦しむことも、悲しむこともなく、天国で永遠の命を与えられたのです。ところが、アダムとエバは試みに負け、神に背いて罪を犯しました。それにより人は原罪を負い死ぬべきと定められたのです。
 これの何処が進化論と相容れないのでしょうか?アダムの前にたとえ死すべき定めの北京原人がいたとしても、神から霊魂を与えられた人間はいなかったのでですし、絶滅していたアウストラロピテクスが神から不死の恩恵を得た人だとと聖書には書かれていないでしょう? これらは単に人科に属する生き物であって神がその姿ににせて作りたもうた人間では無いのです。
 
 
 皆様へ 
 上の文章非常に傲慢であると私自身も思いますが、これはsaniku-aikiさんに対する信仰告白であり科学的事実と合致しないとしても私の真実です。


雑談  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年10月06日 0時46分

皆さん、お久しぶりです。中島みゆきという単語を見ると条件反射的に反応してしまう。われながら節操がないですな(^^;)

To temaさん、ぽんさん

倉本聰氏との対談によると、曲は都合の良い時にアンテナにかかるとは限らず、「ステージで、たったいま本番で歌ってるなんてときにホニャホニャとやってきて,やめてくれ,こんなときに通るのはァなんてのもありますね(笑)。」とのこと。

そうか、コンサートの最中に中島が突然違う歌詞を歌いだす理由がはじめて分かった。あれは電波を受信していたのか(爆)。

>あ、ひょっとして、孤独の肖像や二艘の船は待ってるうちに二曲引っかかってしまったのでしょうかね?

「孤独の肖像」は自分で作ろうとしてうまくいかなかったって例だったりしてね(w
「孤独の肖像」と「孤独の肖像1st」の両方を聴いたことがあるということは、多分ご存知なのではないかとは思いますが、オリジナルのメロディーは「1st」の方です。シングル(Miss M)の「孤独の肖像」は、オリジナルのままでは後藤氏のサウンドに合わない、当時の中島の音域に合わずうまく歌えないなどの理由で新たに書き直したものなのだそうです。
もちろん、後藤のサウンドに合って自分の音域でも歌える曲がアンテナに引っかかるまでひたすら待ったのかもしれませんが・・・。

「二隻の舟」は、私個人としてはどのバージョンも根っこのところは一緒かなぁと思っているのですが、実際のところはどうなんでしょうね?


お手柔らかに  投稿者:秋月 投稿日: 2003年10月06日 0時06分

みなさま、初めまして秋月と申します
私は進化論にたいして肯定的なクリスチャンですが、(信徒の)仲間内でこのことを議論すると熱くなる人がいて苦労したことがあります。
進化論は創造主としての主に直接関わりかねない問題なので、例えば『蛇が塵をたべる』などについて、よりもセンシティブな議論になる可能性があります。
この掲示板で勉強してこんどこのことで議論になったときに理論武装しますね(笑)
あと、『塵もたべる蛇』ならいるそうですよ。(たしか消化の助けのために土だか砂だかを入れるそうでって、あやふやな知識ですみません)


雑談  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月05日23時51分

temaさま
>こ..これは凄い。
凄いですよねぇ。
松任谷由美もインタビューで同じようなことを答えていました。
小説家でも、「登場人物が勝手に動き出すから、私はただそれを記録するだけ」
って言う人、結構よくいらっしゃいますよね。
そういうの、一度くらい体験してみたいなぁ。


saniku-akiさん  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月05日23時41分

>はい、そうかもしれませんね。では、間違いという根拠を聖書で示してください。


ほんと悲惨な人だね。。
この場合、あなたの主張していることが真理と言うことを証明する責任が、あなたにあると思いますが。
(それが科学的に無理だから、創造科学は科学足りえないことになるわけ。なぜこんな単純なことがわからない?)

あなた、三位一体は証明できないから、スウェーデンボルグ主義やイスラム教の方が正しいと言うの?
ムスリムの方が、この意味では教義の整合性は取れているように一見して見えるが、ムスリムの信じる神が真実でないことを証明してくださいね(笑)


あとさ、例えば聖書には、女性は被り物を被って礼拝に出るべしって個所があったはず。
それなのに、君たちは何でそういう部分は無視するのかな?
こう言うところは合目的解釈、目的論的解釈をするのに、なぜ聖書の冒頭部分だけは目的論的解釈が許されないのだろうか?
ダブルスタンダードに思われる。

おそらく回答できないと思いますが、もういいですよ。

相手にしても無駄だと思います。後は任せました〜>みなさん


9月23日分回答  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月05日22時53分

谷庵さんへ

>「進化論は科学的に誤りである」という主張ならここで議論する価値もあるが

誤解されているようですが、私の主張は「創造論は科学的に誤りではない」です。
創造論の前提は創造主の存在を認めることですので、「創造主を認めることは
科学的でない」とは言えないし、「認めないことが科学的だ」とも言えないと
いう主張です。創造科学が疑似科学といわれる根本的な理由は、創造主を前提に
しているからだと私は理解しています。ですから、創造主を認めるかどうかが
問題点なので、どうしても宗教の話になってしまいます。お気を悪くされてい
ることはわかります。申し訳ございませんが、もう少し我慢していただければ、
立ち去ります。

NATROMさんへ

>蛇の食べ物について比喩的な解釈を許すとするならば、創世記の「一日」や死の起源について比喩的な解釈を許さないのはなぜですか?

比喩として考えれば、安息日や罪についての記述、キリストの十字架の死の意味など、
聖書のほかの箇所と矛盾するからです。聖書は科学で解釈する前に文脈の中で、聖書
全体の中で判断するのが筋だと思います。

>聖書のこの部分は比喩、この部分は文字通りの事実と、人間の判断によって解釈を行なうことは、「聖書のみ」の信仰とは言えないのではないですか。それとも聖書に「この部分は比喩と解釈せよ」と書いてあるのですか?

もちろん、聖書にここは比喩と書いてはいません。「聖書のみ」の意味解釈が私とは
異なるようです。私は、上記の場合でもその解釈が聖書全体の教と矛盾しないなら、
十分「聖書のみ」だと判断します。聖書以外のものによらず、聖書のほかの箇所に
よって支持されるのですから、問題ないと思います。

>進化を認める多くのクリスチャンも同様に、創世記のある部分は比喩表現と考えてもいいと思っているでしょう。そう考えても、信仰は崩されないからです

その方の信仰にとってはそうでしょう。否定しません。でも、それは罪と死の関係を
十分理解していないからかもしれませんし、その教会ではそれは問題ないと教えてい
るのかもしれません。人はどうであれ、これは私にとっては大問題なのです。
ほかのクリスチャンのように考えればいいとおっしゃるかもしれませんが、私は他
の方が間違っていると思うので、これまでの解釈を改めることは出来ません。

>アダム以前には肉体的な死はあっても、霊的な死はなかったと解釈すればいいだけではないですか。saniku-aikiさんは聖書を信仰しているのではなく、ご自身の聖書の解釈を信仰しているにすぎない

立場を変えれば、他の方々は聖書を信じないで自分の聖書解釈を信仰していると言う
ことも出来ます。アダムの死は霊的な死だという解釈が聖書的に正しいと、聖書を根
拠にしてNATROMさんは言えるのですか。それが言えるのであれば、私はそれを信じま
す。しかし、私は聖書を読む限りでは、霊的な死とは考えられません。

>聖書には比喩的な解釈を行なわなければならない部分がある。
・どの部分を比喩的に解釈するかは、人間の判断による。
・人間の判断は誤りうる。
>この三点には異論はありませんか

ありません。

>「キリスト教信仰の土台を覆すがゆえに、アダム以前の死を霊的な死と考えてはならない」という聖書の解釈は、間違っているかもしれませんよ

はい、そうかもしれませんね。では、間違いという根拠を聖書で示してください。

>真の「聖書のみの信仰」を持っている人などはいない、ということですね。saniku-aikiさんを初めとしてほとんどのクリスチャンは、「聖書のみ」ではなく、「蛇はカエルを食べる」という科学的事実を信仰より優先させているのです。聖書には「蛇は塵を食べる」とはっきり書いてあるのに、いったいなぜ比喩的に解釈するのです?


言葉の説明が足りずに申し訳ありませんでしたが、「聖書のみ」の意味が違います。
「聖書のみを教理の土台とする」と考えていただければ、おわかりになるかと思います。「蛇が塵を食べる」は比喩ではないとして、蛇は塵を食べる考えても、聖書の教えに
変化はないと思います。比喩だと考えても、前述したように、聖書全体には何の
影響もないと思います。ですから、後は実際に観察される出来事を考慮して、
これは比喩と解釈しているのだと思います。「塵を食べる」のとは違い、アダムの
前に死があったかどうかは、キリスト教の教理の土台となる問題です。キリストの
死の意味が変わってきます。復活のとらえ方も、十字架の死の意味も変わってきます。
だから、進化論は問題なのです。しかし、クリスチャンでも、進化論が聖書的に
何を意味するかをわかっていない人が多いと思います。と、偉そうに発言しています
が、私も実は進化論の問題点の大きさには数年前までは気づいていませんでした。


Re:たくさんのヨハネ  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年10月05日19時49分

To diamonds8888x さん

>イエスの後継者というくらいの意味でした。

 了解しました。


たくさんのヨハネ  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年10月05日18時30分

 黙示録のヨハネと使徒ヨハネの別人説については全く知りませんでしたが、私の発言の使徒には特に十二使徒に限った意識はありませんでした。イエスその人ではなくて弟子、もしくは孫弟子もしくはマゴマゴ弟子、まあなんでもいいですがイエスその人に比べれば預言能力を疑われてもいいんじゃないかと思われる人物という意味が強いです。
 イエスの後継者というくらいの意味でした。


9月22日の回答   投稿者:3ET 投稿日: 2003年10月05日16時20分

下の私の発言はちと意味が分かりにくいところがありますので、訂正します。
管理人殿、可能であれば削除をお願いいたします。お手数おかけいたしまして、申し訳ありません。

saniku-aiki殿
前半の宗教感については、言うことはありません。それぞれの主張があって可と思います。
私自身は、神の奴隷になるつもりはまったくございませんが。


>創造論は科学的証拠がどんなにたくさんあっても、創造主を認めなければ、根本か
>ら成立しないことはおわかりだと思います。

いいえ。
充分な証拠があれば、創造論自体は科学的根拠があると認められるでしょう。
それと、創造主の存在とはまた別の話です。「創造主の存在」は仮定の一つとして検討されることになるでしょうが、なんの根拠もなく、「超越的な意識の存在によらない創造」があった可能性やそのほかの可能性を否定したりすることもないでしょう。

もっとも、その証拠が「創造主の存在を前提に選定されたもの」であれば最初から科学的とは言えませんが。


>創造主は神であるために、科学では検証できません。

ここは「はい」です。そのとおり。検証できません。
だからこそ、創造主の存在を変更不可能な前提として上げる創造論は、科学になりえません。

>にもかかわらず、創造主がいないと考えて
>理論を構築するする点が進化論の根本的な誤りだと申し上げてきたつもりです。

これも「いいえ」です。
進化論が構築されていく課程では、創造主の存在を「前提も/否定も」していません。
もうなんども申し上げました。

>私には、「科学的証拠」という名をいいわけにして、問題の根本(創造主の存在)から目を離し
>ているように感じます。

なんの話をしているか理解しておいででしょうか?
創造論が科学的であるためには、科学的証明は必要なく、信仰心だけが必要だとおっしゃっているようにしかとれませんが?
これもみなさんがなんどもおっしゃていますが、「信仰心を持って見れば創造論はただしい」と主張することに異論はないと思います。
他の信仰を持っている方からのつっこみは別として。


さてと、、心情やら信念、解釈論の話はもう飽きました。
大部分のみなさまもそうだと思います。

saniku-aiki様、そろそろ検証に耐える科学的根拠を提出していただけますか?

もしくは、
このサイト内には炭素年代測定法についての記述があります。
その記述が正しければ、創造論は科学的に否定されます。これは明白ですね。
これをきちっと否定してください。

これ以上、「創造論が科学的なのは信仰の問題だ」と主張なさっても「まともに返す意味はなさそうだけど」で終わってしまいますよ。


まともに返す意味はなさそうだけど  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月05日 9時58分

>私にとっては、皆さんの方こそ、世界は進化論に基づいていてほしいと願う気持ちだけ
>に頼って、創造という真理から遠ざかっているようにしか思えません。繰り返しますが
>創造は願望ではなくて、事実なのです。

 すでにレスを返されている皆さんと同文ですねぇ・・・溜息が出ます。
 創造そのものは、もしかしたら真理かも知れませんよ。しかし、聖書のみに記述された創造なんて、どこをどうやったって信じようがありません。

>創造論は科学的証拠がどんなにたくさんあっても、創造主を認めなければ、根本か
>ら成立しないことはおわかりだと思います。

 滅茶苦茶ですね。saniku-aikiさん的「極端に狭い解釈の創造論」に、いったいどんな科学的証拠があるのでしょうか?列挙してください。私は、神による創造があった証拠とされるものを検証し、それが認められるものであれば、科学は速やかに創造を認める、と「信じて」います。


(蟹)の独り言  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年10月05日 9時57分

 saniku-aiki様はやはり「犬」に掻き裂かれた状態になりつつありますね。だから噛みあわない陳述には意味が無いと言ったのですが。聖書を読まれてたら早い段階で身を引いていた筈ですが、なにせ人は「見たいところしか見ない」もの。
 明治天皇のお孫さんに中丸薫と云うお人がおられ、この方の著作の中に「皇室男子は割礼を施す云々」と云うくだりがあったような。割礼と云うとユダヤ教なのですが、こんな人々にこれをさせる人々とは? 私の言う純正シオニストとはこういう面々の事で、トルーマンが「軍産複合体」と表現したような勢力はその一部のようで、これらが織り成す奇怪な重大事に目を向けたほうが聖書は解り易いように思われて。


ひとりごとのつづき  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月05日 7時21分

>なぜなら、神を批判することは、すなわち、自分を高めることであ
>り、高慢という罪を犯しかねないからです。

自分が批判されていることと、神が批判されていることの
見分けがつかないということは、自分と神とがごっちゃになってるってことで、
それってむっちゃくちゃ高慢じゃないのかな。

人間の(自分の)信仰ごときと神とを混同して、批判をしない姿勢と、
人間の有限性を自覚し、「神は分からない」として、人間の考えた論説を絶えず疑って真理を追究しようとする姿勢と、
どっちが高慢なんだろう。


(無題)  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月05日 1時21分

ぽんさんのおっしゃるとおり。
ほとんどの人は神さまを否定していない。
saniku-akiさんの論がおかしい(つーかもはや非常識)といっているだけ。


>9月22日の回答  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月05日 1時19分

>私には、「科学的証拠」という名をいいわけにして、問題の根本(創造主の存在)から目を離し
>ているように感じます。


この語に及んでこのようなセリフが出るとは(笑)
なんだかかわいそうな人ですね…狂信が客観的な事実を見れなくなってしまう。

「創造から目を背けるという人は一人もいないと思いますよ。どこをどう読めばそういう結論になるんだか〜(まあ、あなたの「願望」がそう思い込ませるのでしょうが。
しかし、都合のよい証拠だけを援用し、都合の悪い証拠は黙殺と言う、不公平な(というかずるい)手法を採用することによって、科学から目を背けている人は約一名おるようですが。
もはや、あなたのは「信仰」ではなくて単なる「願望」になってきていませんか。

大体、進化論を否定したからと言って、直ちに創造主を信じることになるわけがないでしょう。
全く論点が別なのだから。
同じだと思ってるのは、キリスト教原理主義者だけですよ。
しかも、創造主っても、あなたの場合、「世界を6日間で作った創造主」でしょ?
すべての宗教の中の一部じゃないですか。どうして進化論と、このような「創造主」を対立させるのかわからないね。進化論者には、いろんな神を信じている人はいると思いますが。

繰り返しますが、あなたの言う「創造主」は、すべての宗教の中の一つ(キリスト教)の中の、そのうち西方キリスト教の中の、プロテスタント諸派の中の、そのまた一部の信じるものに過ぎません。
主張に無理がありすぎます。
イタイ発言はやめましょうよ。。


ひとりごと  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月05日 1時13分

絶対で全知全能である「神」を、有限な存在である人間が批判することは、
確かに、信仰者から見れば愚かでしょう。

しかし、「神を批判すること」と「自分の信仰を自己批判すること」は違うと思うぞ。
ここでも、誰も「神」は批判してないぞ。
批判されてるのは「信仰」の一形態、というか、「信仰」を「科学」と言い張る
主張だと思うぞ。

そこんとこ、勘違いしてないかな?


9月22日の回答  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月05日 0時23分

大文字ナンさんへ

>なんらかの説や主張に巡りあった時、それを無批判に受け入れることは、とても危険な結果になるとは思いませんか?私にはありのままの世界を受け入れる用意があります

無批判に受け入れるのは確かに危険な面があるということには同意しますが、
知っていただきたいことは、信仰というものはある意味無批判でないと持てません。
神を批判しながら信じることは私には出来ません。信じるなら、どこまでも信じる
のが信仰です。神を信じるところまでは、批判というか確かめながらやるべきだ
と思いますが、信じるようになったら、とことん信じることが必要だと思います。
神のなさることの全てを人間は理解できません。たとえば、私の家族が通り魔に
殺されたとしましょう。神様なんか信じられないと言いたくなるときに、なぜ、
家族を神は守ってくださらなかったのか、不平を言いたくなるときに、それでも
「神は愛である」と信じ続けるために必要なのは、無批判に受け入れる信仰だけです。
信仰に必要なのは、検証して確かめようと言う精神ではなく、人間の判断や知識に
頼ることではなく、自分の知識や経験などに基づく判断を捨てて、神に全てをゆだ
ねるという思いです。「あなたは神を究めることが出来るか。全能者の極みまでも
見ることができるか」(ヨブ11:7)と神は人に問いかけます。「この世の知恵は
神の前では愚かなものだからです。」(1コリント3:19)とパウロは言いました。
人間が神を批判することは、3歳児が大学教授を批判する以上に愚かなことであり、
3歳児に求められることは無批判に大人の言うことを聞くことではないでしょうか。
換言すれば、信仰は神への服従を求めます。それは絶対の服従であって、いうな
れば神の奴隷です。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、
キリストの奴隷として、心から神の御心を行い人にではなく主に仕えるように、
喜んで仕えなさい」(エペソ6:6,7)と勧められています。信仰の世界においては
無批判であることは危険でないばかりか、批判することの方が危険という見方も
出来るのです。なぜなら、神を批判することは、すなわち、自分を高めることであ
り、高慢という罪を犯しかねないからです。
 わたしのとっては「ありのままの世界」とは創造主によって造られた世界以外の
ものはなく、進化論の描く世界は真実を歪めた偽りの世界です。

>心を満たしてくれそうな主張だけを取り上げ、世界はこうあって欲しいと願う気持ちだけに頼ることは(一般論として)真理から遠ざかることだとは思えませんか

私にとっては、皆さんの方こそ、世界は進化論に基づいていてほしいと願う気持ちだけ
に頼って、創造という真理から遠ざかっているようにしか思えません。繰り返しますが
創造は願望ではなくて、事実なのです。

>進化論は間違いである、と主張するのなら、科学の手法でそれを証明するしかありませんし

 創造論は科学的証拠がどんなにたくさんあっても、創造主を認めなければ、根本か
ら成立しないことはおわかりだと思います。創造主は神であるために、科学では検証
できません。にもかかわらず、創造主がいないと考えて理論を構築するする点が
進化論の根本的な誤りだと申し上げてきたつもりです。私には、「科学的証拠」とい
う名をいいわけにして、問題の根本(創造主の存在)から目を離しているように感じ
ます。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


戻る