進化論と創造論についての掲示板ログ180

2003年10月01日〜2003年10月05日
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9月22日の回答  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月05日 0時23分

大文字ナンさんへ

>なんらかの説や主張に巡りあった時、それを無批判に受け入れることは、とても危険な結果になるとは思いませんか?私にはありのままの世界を受け入れる用意があります

無批判に受け入れるのは確かに危険な面があるということには同意しますが、
知っていただきたいことは、信仰というものはある意味無批判でないと持てません。
神を批判しながら信じることは私には出来ません。信じるなら、どこまでも信じる
のが信仰です。神を信じるところまでは、批判というか確かめながらやるべきだ
と思いますが、信じるようになったら、とことん信じることが必要だと思います。
神のなさることの全てを人間は理解できません。たとえば、私の家族が通り魔に
殺されたとしましょう。神様なんか信じられないと言いたくなるときに、なぜ、
家族を神は守ってくださらなかったのか、不平を言いたくなるときに、それでも
「神は愛である」と信じ続けるために必要なのは、無批判に受け入れる信仰だけです。
信仰に必要なのは、検証して確かめようと言う精神ではなく、人間の判断や知識に
頼ることではなく、自分の知識や経験などに基づく判断を捨てて、神に全てをゆだ
ねるという思いです。「あなたは神を究めることが出来るか。全能者の極みまでも
見ることができるか」(ヨブ11:7)と神は人に問いかけます。「この世の知恵は
神の前では愚かなものだからです。」(1コリント3:19)とパウロは言いました。
人間が神を批判することは、3歳児が大学教授を批判する以上に愚かなことであり、
3歳児に求められることは無批判に大人の言うことを聞くことではないでしょうか。
換言すれば、信仰は神への服従を求めます。それは絶対の服従であって、いうな
れば神の奴隷です。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、
キリストの奴隷として、心から神の御心を行い人にではなく主に仕えるように、
喜んで仕えなさい」(エペソ6:6,7)と勧められています。信仰の世界においては
無批判であることは危険でないばかりか、批判することの方が危険という見方も
出来るのです。なぜなら、神を批判することは、すなわち、自分を高めることであ
り、高慢という罪を犯しかねないからです。
 わたしのとっては「ありのままの世界」とは創造主によって造られた世界以外の
ものはなく、進化論の描く世界は真実を歪めた偽りの世界です。

>心を満たしてくれそうな主張だけを取り上げ、世界はこうあって欲しいと願う気持ちだけに頼ることは(一般論として)真理から遠ざかることだとは思えませんか

私にとっては、皆さんの方こそ、世界は進化論に基づいていてほしいと願う気持ちだけ
に頼って、創造という真理から遠ざかっているようにしか思えません。繰り返しますが
創造は願望ではなくて、事実なのです。

>進化論は間違いである、と主張するのなら、科学の手法でそれを証明するしかありませんし

 創造論は科学的証拠がどんなにたくさんあっても、創造主を認めなければ、根本か
ら成立しないことはおわかりだと思います。創造主は神であるために、科学では検証
できません。にもかかわらず、創造主がいないと考えて理論を構築するする点が
進化論の根本的な誤りだと申し上げてきたつもりです。私には、「科学的証拠」とい
う名をいいわけにして、問題の根本(創造主の存在)から目を離しているように感じ
ます。


憂鬱な東大医学生の日記・小説  投稿者:わたる 投稿日: 2003年10月04日23時11分

http://www011.upp.so-net.ne.jp/m-kom/
憂鬱な東大医学生の日記・小説
10月4日の日記で進化論に触れてる


tema殿へ  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年10月04日22時34分

> saniku-aikiさんが教師として優秀かどうかは「どのような考え方をするか」では無く「いかに知識があるか」「いかに判りやすく伝えるか」で判断するべきなのではないでしょうか?

一連の投稿を見る限り、その辺も相当なものだと思われ・・・


雑談  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月04日22時18分

 ぽんさんへ
>例えば、中島みゆきだって、「アンテナ張ってると、そこら辺に漂っている曲の断面が
>アンテナにひっかかるから、それを書き取るんですよ。
>一曲全部いっぺんに引っかかるとも限らないので、残りを自分で作っちゃおうと思うと
>うまくいかない。しょうがないから一曲全部引っかかってくれるまでただひたすら待つ
>しかないんです」ってインタビューで答えていて、
 こ..これは凄い。でも、自分で作ろうとするとうまく行かない..というのはなんとなく納得です。
 あ、ひょっとして、孤独の肖像や二艘の船は待ってるうちに二曲引っかかってしまったのでしょうかね?


教育について  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月04日22時09分

 saniku-aikiさんが生物教師を生業としていることが話題になっていますが、temaは「特に問題ないのではないか」と考えています。
 temaが高校生の時に受けた教育は、基本的に「科学の方法論」を教えるものでは無く「科学の結果」を教える教育でした。今の日本の学校教育とは知識の習得であり、教師には「知識」「情報伝達能力」を求めることはあっても「科学的な考え方」を求める機会は少ないのではないでしょうか?
 saniku-aikiさんが教師として優秀かどうかは「どのような考え方をするか」では無く「いかに知識があるか」「いかに判りやすく伝えるか」で判断するべきなのではないでしょうか?
 もっとも、授業として進化論を教える必要が出てきた場合、問題とはなるでしょうけれど。


saniku-aikiさんへ  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月04日22時07分

 回答ありがとうございました。
>  1,アダムが部族だとすれば、それ以後の聖書に人物名も全て部族の象徴と考えな
> ければならなくなり、おかしくなります。
(中略)
> 「良しとされた」と言われたのですから、死もまた良いもののはずです。すると、天国
> にもあって良いはずですが、天国には「死も涙もない」と明記してあり、矛盾します。
 この件については色々質問・反論があったのですが、ぽんさんやdiamonds8888xさんが既に発言してくれていました(感謝感謝)。
 しかし、その後の文について、
>  創造の出来事は聖書全体に関わってきますので、解釈に当たっては創世記だけでは
> なく、聖書全体を学ぶ必要があります。
これについては、もっともかなとも思います。聖書の一部についてtemaが行ったような解釈を個々に行っても、聖書全体に対して整合性がとれなければ意味がありません。
(ただし、これは科学理論に対しても言えることです。どのような理論であれ、科学理論全体からの検証が求められます)
 ですので、聖書を通読したことも無いtemaとしては本件は納得(というか降参というか)しました。


著者  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月04日21時52分

ヨハネ黙示録は、説が分かれますね。
しかし、パウロ書簡なんかの一部は、どう考えてもパウロが著者じゃないとされているものがある。
この時点で、「聖書を文字通り」ってのは、学問や科学から離れなければならないことになる(笑)

そもそも彼らは、「聖書は矛盾がない!誤りが絶対無い!」というのが大前提になっているから、聖書の解釈も、そのような前提に従ってやります。
そこに学問的姿勢はほとんどありません。
彼らが使う新改訳聖書などが、(彼らと同じ信仰を持つもの以外の)学者にほとんどかえりみられていないことが、そのことを端的に裏付けている。


もうおうちに帰ろー  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年10月04日20時48分

洗礼者ヨハネが間に入っている為さきほどのHPは不明瞭でした。新しく紹介しておきます。ついでにdiamonds8888xさんのおっしゃるようなHPも紹介してきます。

diamonds8888xさんのおっしゃる意見。

http://www.mm-m.ne.jp/nonbiri/sekaiisan/patmos.htm

PDX.さんのおっしゃる意見。

http://members11.tsukaeru.net/lutheran/revelation001.htm

PDX.さんはあくまでそんな説もあるとして断定してない事は了承しています。


ヨハネ  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年10月04日20時36分

PDX.さんのお話の件、僕も過去に読んだ事があります。気になって検索してみました。
聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子さんのHPだそうです。ここには別人と書かれています。ただ様々なHPを見ているとdiamonds8888xさんのおっしゃるように、黙示録のヨハネと使徒ヨハネと同一人物だと紹介しているHPもあります。

http://www.pauline.or.jp/imamichi/imamichi07.html


黙示録のヨハネって  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年10月04日18時45分

『黙示録』の著者のヨハネって、使徒ヨハネとも、『福音書』の著者のヨハネとも別人ではありま
せんでしたっけ? もっともこれは、文献としての聖書を研究している立場の人の意見であって、
信仰者の意見ではまた異なる見解かもしれませんが。
 それでも、ルターは『黙示録』を正典から外すべきだと言っていたそうですが。


(無題)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年10月04日18時39分

>本人が所属する教団が運営する私立学校なのですから

(もし、本当に、使命感だったとして)そのような使命を
まっとうできる場所は、そういうところくらいでしょうね...


なんて、わたし、本人の見ている前で、
saniku-aikiさまのお気持ちや、思っていらっしゃることは、
ああだこうだと、勝手に推測したりして、失礼になっていないかな...?
(そんなではないぞ、なんて不快にさせていたらすみません...)

それと、ほかのかたへの横レスで、批判しているのも、
不快にさせているかもしれない...

その気になれば、いつでも釈明できるけど...
(ほかのかたへのレスで、いそがしいでしょうし...)


(無題)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年10月04日18時33分

>次々と明らかになる衝撃の事実。
>よりによって生物かい!(Kosukeさま)

ああ、でも、進化論以外の科学なら(いや科学以外でも)、
いたってまともな思考を、しているのかもしれないですよ。
(この掲示板の議論だけ見ていると、すさまじいけど...)

ほかのことでは論理的なんだけど、
特定のことにかぎって、非論理的になってしまうというのは、
そうめずらしいことでもないので...


思うに、  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月04日18時09分

>ふと思ったのですが、たかだか使徒の一人にすぎないヨハネが見た幻覚の記録でも、それ以前のイエスの言葉や神の言葉と同様に扱われているものなんでしょうか?

「聖書は神の霊感によって書かれたもの」だから間違いがないはずだ、という信仰であれば、著者が誰であろうと、間違いのない「神の言葉」として扱うのではないでしょうか?

ところで、
「神の霊感によって書かれたもの」
っていうけど、例えば、
「天才の閃きによって書かれたもの」
という表現と、内容的にはどのくらいの差があるんでしょうかね。

例えば、中島みゆきだって、「アンテナ張ってると、そこら辺に漂っている曲の断面が
アンテナにひっかかるから、それを書き取るんですよ。
一曲全部いっぺんに引っかかるとも限らないので、残りを自分で作っちゃおうと思うと
うまくいかない。しょうがないから一曲全部引っかかってくれるまでただひたすら待つ
しかないんです」ってインタビューで答えていて、
凡人の私は、「天才の閃き」の一端を垣間見た気がして「すごいなぁ」と感心したこと
を覚えています。

えーと、何が言いたいんだっけ。。。よく分からなくなってきたなぁ・・・
あ、そうそう、私は「神の霊感によって書かれた」っていうの、
「天才の閃きによって書かれた」というのとあんまり変わらない意味で「解釈」
しているんだけど、それじゃダメかしら?
そう「解釈」している人間にとっては、「神の霊感によって書かれた」ということが
「間違いがない、矛盾がないものとして信じなくてはならない」という考えには
必ずしも繋がらない、ということを言いたかったんだっけな?


黙示録  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年10月04日17時03分

 ふと思ったのですが、たかだか使徒の一人にすぎないヨハネが見た幻覚の記録でも、それ以前のイエスの言葉や神の言葉と同様に扱われているものなんでしょうか?


根拠を示しとこう  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年10月04日17時01分

 根拠も示さずに「論理的思考力が欠けている」などと書いては誹謗中傷になりかねませんね。根拠はありすぎて困りますが一部を示しておきましょう。それから、ぼんさんだけとの論争でもありませんでしたね。以下の引用はtemaさんへのレスでした。

> 1,アダムが部族だとすれば、それ以後の聖書に人物名も全て
>部族の象徴と考えなければならなくなり、おかしくなります。

 聖書の人名のどれかが部族の象徴でどれかは個人であってもいい。

>また、アダムとエバの結婚も部族(複数)同士のものとなり、
>一夫一婦制の根拠が無くなります。

・アダム族とエバ族は互いに妻を出し合う関係だった。現実にもこういう例は珍しくない。
・アダムとエバはひとつの一族の男と女の象徴だった。
・さあ他にどんな場合が考えられるか。あなたの創造性が試されます。

> 2,死がアダムの前からあるのなら、イエスの十字架の死も
>生物として当たり前の死であって、人間の罪を負ってのものでは
>なくなります。つまり、人間の救い主にはなり得ません。

 「生物としての当たり前の死」がアダムの前にもあろうがなかろうが、「人間の罪を負っての死」の性質とは無関係。ふたつの「死」は全くの別物らしいから。まあふたつの「死」の性質をちゃんと説明してくれないと、知らない人には正誤判断など不可能ですけど。
 「生物としての当たり前の死」であることは「人間の罪を負っての死」であることとは両立しないというのが一般的なキリスト教での解釈なんでしょうか?

>また、創造の時から死があったのであれば、神は創造のたびに
>「良しとされた」と言われたのですから、死もまた良いものの
>はずです。すると、天国にもあって良いはずですが、天国には
>「死も涙もない」と明記してあり、矛盾します。

 前提としては、以下の2つですね。
1.神が最初に創造したものは全て「良い」
2.全ての「良い」ものは天国にある

 この仮定の元では間違った論理とは言えませんが、ここで「死」の定義が問題となります。キリスト教では死ねば(悪いことをしてない限りは)天国に行くことになってるはずで、その意味では死は良いことではないのかな? 自殺はいかんけど殉教は「良い」ことではないのかな? さて死とは「天国へ行く」ことであれば、天国には死がないというのはまあ言い方の問題で、「天国では皆死んでいる」と言っても間違いではないでしょう。つまり天国にも死はある。
 あーあ、我ながら言葉遊びのへりくつだな。

> 創造の出来事は聖書全体に関わってきますので、解釈に当たって
>は創世記だけではなく、聖書全体を学ぶ必要があります。

 そんなことしたらどこかで矛盾がでることは間違いないでしょうね。


悪用してない善用している  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月04日 9時04分

>ひょっとして、もしかして、思いっきり授業を悪用してない?

悪用なんてしない善用している。

自分のできることをしないことは悪と。
道で転んでいる人を助けない、それもできるのにそうしないことは悪だと考えているんじゃないのかな。

地獄への道は善意で敷き詰められている。


Re:キリストはまもなく来られる?  投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年10月04日 7時01分

>聖書には現代の我々から見て未来の出来事は予言されていません」というのは間違いなわけですね。

どうもすみませんでした。実は「ヨハネの黙示録」の第20章、7節以降は現代よりさらに未来の出来事なのですが、キリスト教徒以外の方にはどうでも良い信じられない話だと思われますので省きました。
差し当たってすぐには再臨も「この世の終わり」もないと言いたかったのです。


(無題)  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月04日 1時00分

>本人が所属する教団が運営する私立学校なのですから

アラヤダ、このような事実があったとはつゆ知らず。。

三育学院あたりですかね。
土曜日礼拝にこだわり、タコイカなどを食べなず、創始者を教祖的扱いにしていると言う。。


(無題)  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月03日23時04分

>進化論はまちがっていて、創造科学が正しいことを、ぜひ教えてやろうという

もし創造「科学」が、第一次的には信仰の問題であることがsanikuさんの論理の前提ですよね。
創造主を信じていても、キリスト教の聖典を原理主義的に解釈しないと創造「科学」なんてありえないのですから(例えばムスリムは創造主を信じているが、sanikuさんのような創造「科学」をとらないのでは)。
彼が公立学校の教師なら、憲法違反の行為じゃないですかね。
公務員は憲法尊重義務があり、公教育は特定の宗教上の立場からなされてはいけないはず。
そうでなくともPTAで問題になりそう。


Re: 実は  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年10月03日22時42分

>正解は......生物です。

わたしは、なんのショックも意外性も感じないです、はい。
(もう、ここまで(って、どこまで?)来ちゃいましたし。)

高校で生物の先生になったのも、子どもたちに、
進化論はまちがっていて、創造科学が正しいことを、
ぜひ教えてやろうという、使命感なのでしょうか...?


が〜ん!Σ( ̄ロ ̄lll)  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年10月03日22時33分

次々と明らかになる衝撃の事実。

よりによって生物かい!
ひょっとして、もしかして、思いっきり授業を悪用してない?


実は  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月03日21時21分

diamonds8888xさん

>地学もあるけど、地学と生物は違うよね。

本人が明かしているのだから私が書いてもいいですよね?


正解は......生物です。


理科  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年10月03日21時03分

>理科……化学or物理or生物ってことですよね……

 地学もあるけど、地学と生物は違うよね。と思いましたが、本人が所属する教団が運営する私立学校なんですか。

>学校で論理的思考を学べないのは、実生活に不便をきたすだろうとは思いますが

 御本人に論理的思考力が欠けているのは、ぼんさんとのアダム部族論争でもよくわかりますね。


うーん、、、  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月03日20時23分

>1,アダムが部族だとすれば、それ以後の聖書に人物名も全て部族の象徴と考えな
ければならなくなり、おかしくなります。また、アダムとエバの結婚も部族(複数)
同士のものとなり、一夫一婦制の根拠が無くなります。

どうしてなんだろう?
例えば、アダムとエバは想像上の人物、モーセはきっと実在しただろう、
セムとかハムとかは部族を表していて、
マリアとイエスとピラトとパウロその他はほぼ確実に実在の人物だろう、、、
というような解釈は「どうして」いけないのかな?
なんで、最初っから最後まで同じにしなくちゃなんないのかな?
理由がわかんない。
あと、
>一夫一婦制の根拠
ってなんなんだろう?
聖書には何人も妻をめとった人も出てくるし・・・
ソロモンなんて、「700人の王妃と300人の側室がいた」(列王記上11:3)
そうだし。  ちなみに↑は、「事実」なのかな?

>2,死がアダムの前からあるのなら、イエスの十字架の死も生物として当たり前の
死であって、人間の罪を負ってのものではなくなります。

・「死がアダムの前からある」そうすると「イエスの十字架の死も生物として当たり前の死になる」
・「イエスの十字架の死も生物として当たり前の死になる」そうすると「人間の罪を負ってのものでなくなる」
どうして?つながりがわからん…

>>進化論は、創造主なる神の存在をまさに脅かすから問題なのです。
>たかが科学理論に過ぎない進化論に存在を脅かされる神って一体…
私の推測ですが、人間が神の存在を脅かすということは、
神への冒涜になるからいけないのだと思います。
神を冒涜すると神が怒るから。
神が怒ると怖いから。
だから、saniku-aikiさんが一生懸命になるのではないでしょうか?
怒ったら、大洪水を起こして、地球上の生物を、一家族を除いていっぺんに
大虐殺しちゃうような神ですから(saniku-aikiさんの解釈によると、多分)。


(無題)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年10月03日17時39分

>saniku-aiki氏なら高校の理科の教師ですよ。(GOAさま)

わたしも、文科系の先生かな、と思っていたので、
しばし意外なものがありますねえ...

事実はひとつうんぬんのあたりは、杓子定規だなあ、
と思っていたけれど...
どうも、科学的な立場での「事実」でないと、
saniku-aikiさまには、意味がないみたいな感じですね...


>きっと、素晴らしい芸術にも文学にも衝撃を受けたことがなくて、
>科学のすごさしか体験したことがないんじゃないかしら。(ぽんさま)

そうだとしたら、科学以外のことにもぜひ触れてみてはと、
わたしからも、勧めますけど...
芸術や文学でなくても、歴史とか、社会科学系のものでもいいのだし。
人類の知的所産は、なにも科学だけじゃないからね...

(それとも、いろいろ触れた上で、科学がいちばんすばらしいと
お考えなのだろうか...?)


非科学的じゃいけないんでは?  投稿者:JA50 投稿日: 2003年10月03日11時00分

>イエスの復活ですが、これは「奇蹟」ですから非科学的で当たり前です。

そうかなぁ、、、sanikuさんの信仰は奇蹟も科学的事実でないといけないんじゃないのかなぁ、、、

もしイエスの復活というのが、何か科学の一分野で否定されるとしたら(実際、どの分野だろうと科学で否定なんてできないけど、当人が否定されるとビクビクしているだけの話)、それを否定しようとすると思うけどなぁ。
まさに進化論でやっているように。
そして、創造**てなもんを作るんじゃないかな。

医学上、死と診断されて生き返ってはいけない(生き返っては死という診断が間違っているか、あるいはその死の診断基準が間違っていることになる)から、まず最初にやり玉にあがるのは医学か。

で、創造医学とかいうのをでっち上げたりして、、、

医学だけじゃなく、創造医学も科学だから、学校で平等に教えろ。
医学はイエスの復活をしているから聖書によれば間違っている。
そんなものを自分は生徒に教えたりしないぞ、、、とか。

進化論などより、死からの復活などあり得ないとしている医学の方が、よっぽどせっぱ詰まった問題じゃないの?


横レス.信仰 洪水  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年10月03日10時07分

saniku-aiki さま

横レスばかりで失礼いたします。(大文字ナンさん、GOAさんごめんなさい)

>> 創造論は科学と関わりのない信仰の問題です。
> そうとは言い切れないでしょう。創造論は、創造があったと主張する以上、
> 明白に進化論を否定します。進化はなかったと考えます。それは単に信仰の
> 問題ではなく、事実は進化なのか創造なのかを問う科学上の問題でもあるのです。

事実は進化なのか創造なのかを問う科学上の問題ではありません。如何に”創造は科学だ”とわめこうが、科学の手続きに則らず、科学が証拠として認める観察事実と明らかに食い違う創造論は明確に科学から否定されています。進化は観測できる事実です。それに基いている進化論は反証することは可能なので、事実と断言することは出来ませんが、だからといって創造がつけいる余地はありません。

> 創造論は、空想の話ではなく、創造という事実を土台とした教なのです。
> 信仰の自由と言うことであれば、私たちが創造を事実として考え、進化は事実でないと
> 主張するのも自由であって何の問題もないことになるはずなのですが、これまでの
> やりとりを考えるとそうではないように思います。

それでは、創造が”事実”であるという科学的な証拠はあるのでしょうか?
”創造を事実として考え、進化は事実でないと主張するのも自由”です。ただし、それは信仰に基いて”という限定が必要です。
科学の手続きに則らず、かつ科学的な手法で否定されている創造科学を用いて「科学的に創造は正しい、進化は間違っている」と主張することは明らかな誤りです。


> 証拠は大事だとは思いますが、「矛盾しない考え」ではダメというのは
> 言い過ぎではないでしょうか。それを裏付ける証拠が見つかる前に、
> これまでの観測結果と矛盾しない理論を考えることは、物理学の世界では
> しばしばあると聞きます。しかもそれは高く評価されることです。湯川秀樹
> 博士の中間子論は、中間子の発見に10年近く先立っていたので、それが評価
> されてノーベル賞を取ったのではないのでしょうか。

ある観察事実(証拠)に対して「矛盾しない考え」を提示することは科学の基本ですが、「矛盾しない考え」にはもう1つの要求があります。それは、他の観察事実と矛盾しないことです。Aという観察事実に対してXという説を提示したとして、それが同類の観察事実B,C,・・・を説明できなかったり、矛盾したりするとX説はたとえどれだけ上手く観察事実Aだけを説明できたとしても受け入れられないでしょう。

蛇足ですが、中間子論は観測事実から導かれた理論ですが、中間子論が当時の原子物理学の諸理論と矛盾があった訳ではありません。

> 洪水地質学についてはまだ十分な証拠が無いことは承知しております。
> しかし、それでも洪水説を採る方が合理的だと私には思えます。

創造科学者が唱える洪水地質学については、”十分な証拠が無い”だけではなく、理論自体が観測事実に基いて反証されています。現時点で、洪水地質学を科学的だと主張するには、新たな証拠を見つけるだけではなくこれらの反証を却下する科学的な手続きを踏む必要があります。


(無題)  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月03日 8時49分

>なにしろ本人が所属する教団が運営する私立学校なのですから、むしろ“望まれた教育”を施しているのでしょう。

「貴重な人材」として重宝されてるのかもしれませんね。


本人は他のレスで忙しいでしょうから  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月03日 8時25分

3ETさん

>教職として生徒に教えている内容と自らの信仰とどうやって折り合いつけているのか。

本人がYahooの掲示板で語ったところによりますと、進化論というものは教えても、それは誤りで聖書どおりの創造が正しいと教えているようです。
なにしろ本人が所属する教団が運営する私立学校なのですから、むしろ“望まれた教育”を施しているのでしょう。

学校で論理的思考を学べないのは、実生活に不便をきたすだろうとは思いますが、「生まれの不幸を呪うがいい」ってとこでしょうか?(あっ!ガンダムねた)


復活  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月03日 8時24分

イエスの復活ですが、これは「奇蹟」ですから非科学的で当たり前です。
ヤーウェ(以下、神と記す)は全てを超越した存在であるので、
科学法則にはしばられません。
「復活」が非科学的であるのは、神の全能性を示すことに他なりません。
逆に、「復活」が科学的に説明されるようになれば、その方が困るでしょう。
「別に神の力によるものではない、一つの自然現象」なんてことになったら…
#そうなることは、まあないでしょう。

進化論の場合、神の御業である「この世の生物のありよう」を、
神の力を使わずに説明してしまったから困るのです。
しかも、キリスト教は人間中心主義に作られていて、
「人間は他の生物とはカテゴリが違う特別な存在」
としているのにもかかわらず、
「人間も他の生物と変わる所のない存在」
とやってしまっているわけですから。


思いつくまま  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月03日 8時23分

>例えば、化石のパターンを見て、これは進化の証拠であると言う人に対して、
>いやそれは、創造論の証拠だと私は言います。ノアの洪水の証拠だとね。
>これは、化石のパターンが存在することを無視しているのではありません。
>解釈が違うのです。ほかの証拠についても同じです。
>観測結果をどう見るかが違うのです。

もしかして、長谷川さんのページの馬鹿説明を支持しているんですか?
単に、「同じ信仰を持つ者として批判するのは気がひける」のかと思っていました。

>「神(創造主)はいない」という十分懐疑に耐えられる検証できる
>客観的な証拠も存在していないという点です。

「神はいない」と信じる人は、己の思想信条信仰に基づいてそう信じているのであって、
証拠に基づくものではないでしょう。

>創造論は、創造があったと主張する以上、明白に進化論を否定します。
>進化はなかったと考えます。

ご自由に否定なさればいいのでは。
「進化論は真理でない」とか、「進化論は聖書的に間違っている」と言われて
困る進化生物学者はいないでしょう。

「進化論が聖書的に間違っている」という見解は納得できるものがあります。
#進化論を支持する切支丹の見解を否定するわけではないです。

>それは単に信仰の問題ではなく、
>事実は進化なのか創造なのかを問う科学上の問題でもあるのです。

科学的事実としては、進化であって創造は誤りです。
#真理かどうかはおいといて。


>創造論は、空想の話ではなく、創造という事実を土台とした教なのです。
>信仰の自由と言うことであれば、私たちが創造を事実として考え、
>進化は事実でないと主張するのも自由であって何の問題もないことになるはずなのですが、
>これまでのやりとりを考えるとそうではないように思います。

信仰の自由というのは、
「信仰に基づけばウソデタラメを垂れ流しても指摘されない自由」
ではありません。

「進化は聖書的事実でない」という主張ならいくらでもどうぞ。
個人的信仰により反論される方がいらっしゃるかもしれませんが
(カトリックの方とか)、
科学の話ではないので、生物学上の論点から反論する人はいないでしょう。


創造主  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月03日 8時22分

>間違っているかもしれないと認められているもの(科学)と、
>間違っていないと認められているもの(神)を前にした場合、私は後者をとります。

あなたの信仰の問題に過ぎないので、それでいいのでは。
「進化論は科学的事実であるが真理ではない」
「創造論は非科学的であるが真理である」
これで、なんの問題もないと思います。

科学とは、
「もしかしたら間違っているかもしれない前提」から
「もしかしたら間違っているかもしれない推論」を用いて
「もしかしたら間違っているかもしれない結論」を導いている、
に過ぎません。

「絶対に正しい前提」から
「絶対に正しい推論」を用いて
「絶対に正しい結論」を得たいのなら、
科学など用いず宗教に走ればよいのです。


>「創造主がいない」とたやすく信じているのではないのでしょうか。

科学的推論の帰結として、「創造主はいない」と信じている進化生物学者の名前を、
一人でいいから挙げてみてください。
進化論から導かれる帰結は、
「現在の生物種のありようは創造主を用いなくとも説明できる」
というだけであって、
「創造主はいない」とはならないのですが。

#進化生物学者にも個人の信仰はあるから、
#たとえば仏教徒の進化生物学者が
#「創造主はいない」と信じていても不思議はないが、
#それはその人の信仰上の話であって、科学上の話ではない。


>創造主はいるのかいないのか、事実はそのどちらかのはずです。
>いるのが事実なら創造論は科学的であり、
>いないのが事実なら、進化論が科学的ということになると思います。

なりません。
創造主がいたとしても、単に、
「創造論が真理である」だけで、
「創造論が科学的である」ことにはなりません。


>進化論は、創造主なる神の存在をまさに脅かすから問題なのです。

たかが科学理論に過ぎない進化論に存在を脅かされる神って一体…

進化論は科学理論、科学的事実に過ぎず、
「真理と異なっていても気にしない」
ものであることを理解していますか?


事実とかなんとか  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月03日 8時21分

>それでは科学において「事実」とは検証可能なものを言うのでしょうか。

そうです。


>実際に起きたことではなくても、真理でなくても「事実」というのでしょうか。

科学における「事実」に「真理」という意味はありません。
これ、科学だけに限りません。
たとえば、法律用語の「事実」にも、「真理」という意味はありません。
「事実」に「真理」という意味があるのは宗教用語ぐらいじゃないでしょうか。


>宗教的な「事実」とは何を意味しているのでしょうか。
>科学であろうと宗教であろうと事実は一つではないのでしょうか。

科学用語の「事実」と宗教用語の「事実」では意味が違います。


ツキがとっても太いから  投稿者:sci98 投稿日: 2003年10月03日 8時20分

>そうなんですか。私は月だけかと思っていました。

聖書にも月しか書いてないですしね。
#肉眼では月しか見えないから仕方ないか。

>それで一つ教えていただきたいのですが、
>観測事実と真理が異なっても充分科学的であるというのなら、
>たとえ進化を示す観測事実があったとしても
>創造が真理であると主張することも
>充分科学的ということになるのではないのでしょうか。

逆です、逆。
「真理と異なっていても、観測事実に沿っていれば科学的」です。
だから、たとえ創造が真理であろうとも、
「観測事実と矛盾する以上、非科学的」です。


想像科学者の怠惰なところ  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年10月03日 7時09分

自分でつるはしとシャベルをもって証拠を発見しようとしない。
進化論側の証拠にヘッポコなツッコミを入れるだけ

後出しジャンケン、しかも負けてる方を出している。


めまいが……  投稿者:3ET@勤務中 投稿日: 2003年10月03日 7時00分

GOA様

うあ。衝撃的事実です。

理科……化学or物理or生物ってことですよね……教職として生徒に教えている内容と自らの信仰とどうやって折り合いつけているのか。
興味深いですが、個人的事柄でもありますので、質問は差し控えます……。


それにしても……すべての根拠は私の信仰(つまりsaniku-aiki氏の頭の中)と言い切ってしまったのに、まだ科学の体裁を纏いたいとは。


↓この勘違いが原因かもしれないので、説明を試みます。

>拠は大事だとは思いますが、「矛盾しない考え」ではダメというのは
>言い過ぎではないでしょうか。それを裏付ける証拠が見つかる前に、
>これまでの観測結果と矛盾しない理論を考えることは、物理学の世界では
>しばしばあると聞きます。しかもそれは高く評価されることです。湯川秀樹
>博士の中間子論は、中間子の発見に10年近く先立っていたので、それが評価
>されてノーベル賞を取ったのではないのでしょうか。

現在見つかっている証拠を説明するために「仮説」を唱えることは良くあります。
ご指摘の通り。
でもそれが本当に評価されるためには証拠が必要になります。
相対性理論にしてもそうです。証拠が観測されたので、評価されたのです。
証拠もない「仮説」はゴミ同然です。「ありそうな話」として受け入れられても、証拠がみつからなければ破棄されます。
中間子については、仮説として予言された時点では検証方法がありませんでした。
手段が手に入ったので実験したら仮説の通りだった。だから評価されたのです。

「このように考えれば矛盾しない」だけでは「だめ」ということは納得いただけましたでしょうか?
ここで同意いただかないと、以降、saniku-aiki様がどんな主張をなされようと「疑似科学」になってしまいます。

つまり、
「地層の存在は洪水の跡と考えれば矛盾しない」
だけではだめで、
「もし、その地層が洪水の跡であれば、こうなっているはずである。実際の調査でも合致する」
とならなければだめです。
現実には、そのための実際の作業として、現在の地質学で確立された理論の反証(仮説ではなく具体的証拠のことですよ)をきちっと見つけなければなりません。
そしてもちろん、示した反証はそれぞれ矛盾がないことが必要です。
これが出来ないかぎり、創造論を科学的と主張することは出来ません。
何人もの人が書いていますが、科学とは手続きなのですから。その手続きを踏まないものは「科学的」とは呼ばれません。

正直、アドホック的な(しかも稚拙な)仮説を提出しては一撃で却下されている現状はしょーもなさすぎです。
前回も書きましたが、もう少し進化論とその周辺の学問をもう少し勉強なさるべきと思います。


をいをい  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月03日 6時17分

>それを裏付ける証拠が見つかる前に、これまでの観測結果と矛盾しない理論を考えることは、物理学の世界ではしばしばあると聞きます。

あんたが言ってることはこれまでの観測結果と思いっきり矛盾してるじゃん!
だから証拠を出せといってるんだ。


フォントに粗忽  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年10月03日 6時10分

>「個人的な事実」
はじめはこちらだけ強調しようかなと思ったのに。


自分勝手な理論  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年10月03日 6時06分

>私たちが創造を事実として考え、進化は事実でないと
>主張するのも自由であって何の問題もないことになるはずなのですが、これまでの
>やりとりを考えるとそうではないように思います。

いままでsaniku-aiki さんが主張すること、その行為そのものを問題だと言った人はいないでしょう。 
単に、主張の中身がおかしいから批判を受けているに過ぎません。
発言内容を批判することが信仰の自由を妨げていると言うのであれば、進化論を否定することは学問の自由を妨げていることになります。
saniku-aiki さんの論法からしても(上の引用は)自分勝手な言い分だと言うことは分かりますか。

そもそも多くの人が「客観的な事実」に基づいて話をしようとしているのに、キリスト教徒の中でさえ解釈の分かれるsize=6>「個人的な事実」から一歩も出ようとしないで議論を続けようと言うのは、極めて自分勝手な態度と言わざるを得ません。


いえいえ  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月03日 2時21分

>学校で、しかも思考力や批判精神がまだ十分育っていない初等中等教育で、「科学でないもの」を理科の時間に教えていいのでしょうか?

そりゃあまずいと思います。もちろん。

なんで、私に訊かれるのかな?
「納得」って書いたからかな?
この「納得」って言うのは「なんでこの人は創造論が「科学」だって、
ここまでこだわるんだろう」という疑問に対しての一つの答えとして
ちょっと「納得」がいったということです。
けっっして、「理科の先生でもいいんじゃない?」と言う意味での
「納得」じゃありません。
決して。
でも、本人突き止めてリコール運動する元気はないしねぇ。。。


不存在証明  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年10月03日 2時17分

>一つは、「神(創造主)はいない」という
>十分懐疑に耐えられる検証できる客観的な証拠も存在していないという点です。
>存在していないにもかかわらず、神はいないという前提で考えるのは正しいの
>でしょうか。2つ目は、「神を信じる」という意味です。「信仰」と言ってもいいです。

 聖書の、というより「saniku-aikiさんにとっての神」のことなんか知ったことではありません。進化論が正しいと証明される程度のことで不存在が確定するような神ならば、間違いなくいないのでしょうね。進化論など、さまざまな証拠をもとに、それら証拠が示す道理を矛盾なく説明した「ヒトの行為」に過ぎません。saniku-aikiさんの神は万能なはずなのに、たかだが聖書ごとき言葉に縛られ、挙句の果てにはヒトが産み出した科学の一分野によって「不存在が立証される」程度の存在なのですね。自説の矛盾に気づきませんか?
 #残りはまた後で。


(無題)  投稿者:>ぽんさん 投稿日: 2003年10月03日 1時53分

学校で、しかも思考力や批判精神がまだ十分育っていない初等中等教育で、「科学でないもの」を理科の時間に教えていいのでしょうか?


神は細部に宿る  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年10月03日 0時28分

>幾つもの地層にまたがる直立した木の化石や、厚さ150m以上もの石炭層の存在、
>北アメリカ全域に広がる礫岩層の存在などは、局地的なものではなく、地球規模の
>大洪水によってもたらされたと考える方が容易だからです。

そう考えているのは、ある特定の宗教の、しかもその教典の特定の解釈をとる一派だけです。いったいどうしてでしょうね。しかも、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」と考える人たちは、その証拠の細部に関して驚くほど無知であるのはどうしてでしょうね。saniku-aikiの挙げた例はどれも局地的な洪水で説明可能です。直立した木の化石にいたっては、「一度きりの世界規模の大洪水」を否定するよい証拠になるほどです。

直立した木はある時代の地層に根づいているわけですが、よしんば地層が世界規模の洪水によって起こったとしても、地球規模の大洪水が少なくとも二度あったという結論が得られます。まず一回目の大洪水が起こって地層を形成し、そこに木が生え根を伸ばし十分に成長し、それから二度目の大洪水が起こって木が埋まったというわけです。創造科学のいう大洪水は一度きりで木が成長するための十分な時間はありませんでした。それとも、神様が大洪水の途中で木を成長させるという奇跡でも起こしたのでしょうか?一体何のため?実際に起こったことはもっと簡単です。ある地層の上に木が生え、局所的な洪水によって木が埋まっただけの話です。

何度か指摘したことですが、19世紀の地質学者は、神が地層を創造したという前提に立って地層を研究しました。その結果、一度きりの世界規模の洪水などなかったという結論に至りました。キリスト教徒にとっては地層も被造物なのでしょうが、その被造物について無知なのに、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」などと安易に発言してしまうのは、本当に信仰があると言えるのでしょうか。地層について何がしか知っている人は例外なく、「地球規模の大洪水によってもたらされたと考える方が容易」とは考えません。

ちなみに「ノアの洪水後については斉一論は成り立っている」とのことですが、長い鍾乳石がいったいどのように説明できるのか、ご教示ください。鍾乳洞はある特定の地層を貫通しておりますので、鍾乳石ができたのは少なくともノアの洪水以降です。しかしながら、「ノアの洪水後については斉一論は成り立っている」とするならば、長い鍾乳石ができるには数千年では足りません。これも、神様が奇跡を起こされたのですか?だとしたら何のために?


キリストはまもなく来られる?  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年10月03日 0時05分

>>で、イエス様の再臨は、「現代の我々から見て未来の出来事」なんですか?
>>それとも、聖書が書かれた時代の人々から見て「未来の出来事」なんですか?
>どちらの時代の人々にとっても未来の出来事です。

「聖書には現代の我々から見て未来の出来事は予言されていません」というのは間違いなわけですね。


>>「イエス様の再臨は現代の我々からみて『まもなく』起こる出来事ではない」とするおせっかい
>>さんは、「キリストはまもなく来られるということ」は否定しているんですよね。
>そうです。下記をお読みください。

「キリストはまもなく来られるということ」について、キリスト教徒の間でも意見の一致が見られないわけですね。どちらも、聖書からそれぞれの意見を述べておられると愚考しますが、やはり聖書には多様な解釈が可能というよい証拠になると思います。


temaさんへ  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月02日23時14分

>蛇が塵を食べずに蛙を食べる事が判った場合、聖書には比喩が含まれて居ることを認めることになります。すると、以下の比喩が無いとは言えなくなると考えます。
・ アダム、イヴは1個人では無く、ある部族の比喩である
・ アダム、イヴの死は第2の死を比喩しており、アダム、イヴ以前にも生物としての死が存在した

わざわざお考えくださってありがとうございました。せっかくのご見解ですが、
聖書全体を考えると無理があります。まず、以前どなたかへの返事で書きましたが、
私は聖書に比喩があることを認めています。その上で、
 1,アダムが部族だとすれば、それ以後の聖書に人物名も全て部族の象徴と考えな
ければならなくなり、おかしくなります。また、アダムとエバの結婚も部族(複数)
同士のものとなり、一夫一婦制の根拠が無くなります。

 2,死がアダムの前からあるのなら、イエスの十字架の死も生物として当たり前の
死であって、人間の罪を負ってのものではなくなります。つまり、人間の救い主には
なり得ません。また、創造の時から死があったのであれば、神は創造のたびに
「良しとされた」と言われたのですから、死もまた良いもののはずです。すると、天国
にもあって良いはずですが、天国には「死も涙もない」と明記してあり、矛盾します。
 創造の出来事は聖書全体に関わってきますので、解釈に当たっては創世記だけではなく、聖書全体を学ぶ必要があります。


信仰 洪水   投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月02日23時10分

大文字ナンさんへ

>> 神を信じたくない人は、どんなに証拠を挙げたところで神を受け入れないと思います。
>「神」が存在する証拠〜少なくとも誰にでも検証出来る客観的な事物としては存在しない、と思っています〜証拠、というからには、信じるだけでは困ります。十分な懐疑に耐えられるものでなければ困ります

 これは十分懐疑に耐えられる検証できる客観的な証拠が確かに存在すれば、
神を信じることが出来るという意味なのでしょうか。信じないのはその証拠が
無いからだと言うことでしょうか。もし、そう言う意味でおっしゃっているのなら、
2つの点で、問題があります。一つは、「神(創造主)はいない」という
十分懐疑に耐えられる検証できる客観的な証拠も存在していないという点です。
存在していないにもかかわらず、神はいないという前提で考えるのは正しいの
でしょうか。2つ目は、「神を信じる」という意味です。「信仰」と言ってもいいです。
聖書は信仰をこう定義しています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです。 信仰によって、わたしたちは、この世界が
神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからでき
たのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:1,3)信仰というのは、
明らかになった事実を確認して信じることではなく、まだ検証されていない
にもかかわらずそれが事実だと認め受け入れることなのです。この意味において、
検証された証拠を受け入れるだけでは、神を信じているとは言い切れないのです。
ノアは、信仰によって、それまで存在していなかった雨や洪水が起こると信じ、
箱船を作りました。アブラハムは、信仰によって、行き先を知らずに、一族を連れて
故郷の町を離れ、旅に出ました。「十分懐疑に耐えられる検証できる客観的な証拠」
を必要とするならば、これらのことは出来ませんでした。「十分懐疑に耐えられる検
証できる客観的な証拠」があったとしても、その証拠に頼るだけでは、未知の世界に
入ったとき、神を信じることが出来なくなるでしょう。科学の思考だけでは神を理
解することは出来ません。

>創造論は科学と関わりのない信仰の問題です。

そうとは言い切れないでしょう。創造論は、創造があったと主張する以上、
明白に進化論を否定します。進化はなかったと考えます。それは単に信仰の
問題ではなく、事実は進化なのか創造なのかを問う科学上の問題でもあるのです。
創造論は、空想の話ではなく、創造という事実を土台とした教なのです。
信仰の自由と言うことであれば、私たちが創造を事実として考え、進化は事実でないと
主張するのも自由であって何の問題もないことになるはずなのですが、これまでの
やりとりを考えるとそうではないように思います。

GOAさんへ

>「このように考えれば矛盾しない」じゃダメでしょ。証拠を出さないと

証拠は大事だとは思いますが、「矛盾しない考え」ではダメというのは
言い過ぎではないでしょうか。それを裏付ける証拠が見つかる前に、
これまでの観測結果と矛盾しない理論を考えることは、物理学の世界では
しばしばあると聞きます。しかもそれは高く評価されることです。湯川秀樹
博士の中間子論は、中間子の発見に10年近く先立っていたので、それが評価
されてノーベル賞を取ったのではないのでしょうか。
 洪水地質学についてはまだ十分な証拠が無いことは承知しております。
しかし、それでも洪水説を採る方が合理的だと私には思えます。
幾つもの地層にまたがる直立した木の化石や、厚さ150m以上もの石炭層の存在、
北アメリカ全域に広がる礫岩層の存在などは、局地的なものではなく、地球規模の
大洪水によってもたらされたと考える方が容易だからです。


逆にちょっと納得かも  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月02日22時59分

>宗教か芸術を選ばれば良かったのに、よりによって理科の先生とは。

確かにぎょっとしたけど、ちょっと考えたら、逆に納得がいきました。
だから、何が何でも「創世記」を「科学」として取り扱いたいんだな。
きっと、素晴らしい芸術にも文学にも衝撃を受けたことがなくて、科学のすごさしか
体験したことがないんじゃないかしら。
ちょっと視野を広げて「文系」にも興味持ってくださいな。
そうしたら、「創世記」を違う視点で「信じる」ことができるかもしれませんよ。

元音楽教師より。


証拠の解釈  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年10月02日22時18分

 共通の祖先からの進化の証拠以外の解釈が不可能だから進化論が正しいとされたのです。もし創造の証拠としての解釈が可能なら具体例を挙げていただけないでしょうか(但し反証可能な解釈に限ります)。
 以下は一般論ですのでsaniku-aikiさんにも当て嵌まるとは限りませんが、創造論者は証拠の解釈以前にどんな証拠があってどんな証拠がないか、進化論者は証拠をどのように解釈しているかを理解していない場合が多いです。このページのコンテンツや進化論関連の書物に具体例が挙げられています。
 後半部分は納得しました。


う〜ん  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年10月02日22時02分

そうなんですか(-_-;)

学校で創造科学を教える事の可否うんぬんが話題になった時は、そうとは知らずあまり気にしていませんでした。
そういうお立場の方の発言となると・・・
科学的な考え方をお解りでない方に、理科の先生ができる訳ないでしょうとか、
御自身の宗教観はとりあえず脇に置いといて、アカデミックな授業を行って頂けるのかとか、
とっても心配。

宗教か芸術を選ばれば良かったのに、よりによって理科の先生とは。


進化論の証拠  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月02日21時43分

クハ72さんへ

>進化論の証拠はいったいどうなってしまうのでしょうか。

例えば、化石のパターンを見て、これは進化の証拠であると言う人に対して、
いやそれは、創造論の証拠だと私は言います。ノアの洪水の証拠だとね。
これは、化石のパターンが存在することを無視しているのではありません。
解釈が違うのです。ほかの証拠についても同じです。観測結果をどう見るかが
違うのです。

>「創造主の存在を受け入れる」と「創造論を受け入れる」は同義ではないでしょうか。

基本的には同義だと思います。ただ、6日間ではなく長い時間をかけて創造した、
ないしは最初の生命だけは創造したが、、あとは進化に任せたという創造主の場合は
創造主の存在を受け入れても、創造論を受け入れるとは言えないのではないでしょうか。むしろ、創造主と進化論を受け入れているという方が適切かと思います。


通りすがりのクリスチャンさんへ

>創造主を信じることが、そのまま聖書の創世記そのまんまの進化論を唱えることにはならない。

それはその通りです。私の言葉が足りませんでした。「聖書の創造主を信じれば、
聖書の通りの創造論を信じることが出来る」と訂正させていただきます。

>わたくし個人としましては、進化の全過程が神さまによるものだと信じています

私とは違う考えなので、教えていただきたいのですが、進化を認めるクリスチャン
の方は、アダムの罪と死の関係をどのように見ておられるのでしょうか。


再びお詫び  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年10月02日21時22分

 saniku-aikiさんのハンドルに敬称を付け忘れました。失礼しました。

 話変わりますが、「イエスの再臨が近い」という主張は昔からありました。それも戦争や災害等がある度に何度も繰り返し言われてきたことです。湾岸戦争がその前兆と言われたこともありましたし、1948年のイスラエル共和国建国が前兆と言う牧師もいます。エホバの証人の1914年説は有名ですが、西暦999年が世の終わりと信じられた時代もあったと聞いています(ノストラダムス関連の番組でやってたと記憶)。恐らく聖書がかかれた時代から言われ続けてきたことでしょう。
 再臨がいつかは聖書にも書いてありません。今日明日中かもしれませんし何千年も先のことかもしれません。「間もなく」と言い続けるクリスチャンがカルト扱いされないか心配です。


科学は結果ではなく方法  投稿者:tema 投稿日: 2003年10月02日21時13分

saniku-aikiさんへ
 回答、ありがとうございました。
> 私はクリスチャンの両親に育てられまして、幼いときから聖書は信じていました。
> 聖書は間違っているとは思いませんでした。(後略)
 なるほどです。
 temaの両親は冠婚葬祭時のみの仏教徒です(ん?婚の時はキリスト教徒だったか?)。そのためかtemaは宗教や神様という考え方に出会う以前に科学という考え方に出会い、それを妥当だと考えて育ちました。
 幼い時から育った環境が違えば、同じ物を見ても同じ文章を読んでも受け取ることは違うでしょう。我々は同じ地球で生きていますが、別世界に住んでいるようなものかも知れませんね。

 同じ文章を読んでも受け取ることが違うのであれば、意志疎通は非常に難しいですが、それでも主張してみます。
> しかし、それなら同様に神は世界を創造しなかったという所から始る考えも
> 科学的ではないことになります。
 科学は「神が世界を創造したかどうか判らない」または「神が世界を創造したことも疑う」という考えです。ただし、結果として「神が世界を6日で創造したとは考えにくい」という結果が現在出ているため、「神が世界を創造しなかった」という所から始まる考えとの見分けが付きにくくなっています。両方とも結果は同じかもしれませんが結果を導く方法が違います。後からも出てきますが、科学とは検討のための方法論であり検討の結果では無いと考えています。

>「事実に忠実」とありますが、
> 創造主はいるのかいないのか、事実はそのどちらかのはずです。
 創造主は居るが6日では造らなかった..という考えもありますので、ここは「世界は創造主が6日で造ったかどうか」という事でよろしいですよね。

>いるのが事実なら
> 創造論は科学的であり、いないのが事実なら、進化論が科学的ということに
> なると思います。
 「世界は創造主が6日で造った」ことが事実なら、創造論が正しく進化論が間違ったということになります。しかし、その場合でも創造論は科学では無いと考えています。
 temaは科学を「世界を理解するための方法論(の内の一つ)」と考えています。この方法論は全てを疑います。神様の存在すら疑います。創造論が正しいかどうかはともかく、その点において科学では無いと考えてます。


ちょーびっくり  投稿者:まじで? 投稿日: 2003年10月02日20時47分

>saniku-aiki氏なら高校の理科の教師ですよ。


3ETさんへ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月02日20時42分

>宗教家を名乗る(名乗っておいでと認識しておりますが違っていたら申し訳ありません)人物としてはずいぶん妙な態度ではないでしょうか。

saniku-aiki氏なら高校の理科の教師ですよ。


Re:聖書の多様な解釈   投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年10月02日20時26分

NATROMさんへ

>で、イエス様の再臨は、「現代の我々から見て未来の出来事」なんですか?
>それとも、聖書が書かれた時代の人々から見て「未来の出来事」なんですか?

どちらの時代の人々にとっても未来の出来事です。

>「イエス様の再臨は現代の我々からみて『まもなく』起こる出来事ではない」とするおせっかい>さんは、「キリストはまもなく来られるということ」は否定しているんですよね。

そうです。下記をお読みください。

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda/escha2.html


つけたし  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年10月02日15時53分

>「事実などない。あるのは解釈だけだ」

こんなこといったって、ダーウィンにも武満にも全くダメージを与えることはできにゃーわけ
「あっそう。だから?」
でおわりだもんにゃー。

馬鹿逐語アドホック「事実はひとつ」クンには致命的にゃんが。


さらに事実について  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年10月02日14時39分

「運動をやらせると、太郎は次郎より上だね」という文があるとするにゃ。
この文を逐語的に解釈するとどうなるか?
何かの運動をしているときに、太郎は次郎よりも「空間的に実際に上方にいる」となるのか?
聖書を逐語的に読んでいくとかぬかすお歴々は、この文をどう読むのだろうかにゃ?

「上」というのは、すぐれている・えらい などという意味をもちえるわけにゃんが、これはそもそも比喩表現なのだにゃ。こうした「上=すぐれている・えらい」とかいう空間を用いた比喩 ちゅうのは、多分全人類・すべての文化で通用する比喩ではにゃーかと思われますにゃ。頭を下げるという行為が、普遍的に謝罪・恭順を意味しえる(進化心理学的に説明可能だろう)ことからも、上下の比喩の普遍性は納得できるところでしょうにゃ。
上、下、という比喩はあまりにも当たり前すぎて僕たちはこれが比喩表現であることに普段は気がつかにゃーくらいだにゃん。自然科学の論文を書くにあたっても、この手の比喩を全く使わずにすませることはできにゃーだろう。例えば、土台、とか、基礎、というのはある理論を建築構造物に喩えているところから由来するわけだにゃ。さらに、この「由来」という言葉も空間的な比喩だにゃ。
比喩表現なしで文章を記述すること自体が、ほとんど不可能といっていいのだにゃ。
あるテキストを逐語的に解釈するというのなら、どのレベルの比喩ならよくてどのレベルの比喩からダメなのかを示さなければ、それはテクスト読解としては最悪の「アドホック読解」ですにゃ。

さらに、だ
ことは認知科学にかかわる問題にゃんが、ニンゲンの認識の基本的なありかたに「類推・アナロジー」ちゅうものがある。めんどいので詳しくは書けにゃーけど、「比喩」なくしてはニンゲンの認識すらありえにゃーと考えていいのだにゃ。

こうしたことを考えていくと、以下のニーチェの言葉も腑に落ちるわけだにゃ
「事実などない。あるのは解釈だけだ」


川に飛び込むといえば  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年10月02日11時07分

 先日読んだ4コマ漫画で、北海道にプロ野球球団が移転した後、札幌ドーム(でしたっけ?)で優勝が決まったチームのファンが川に飛び込んだら、10月の北海道で川に飛び込むなんて立派な自殺行為だ、だなんてネタがありました。
 そんな話を思い出したり。


RYU様  投稿者:ハッター 投稿日: 2003年10月02日 9時59分

ありがとうございます。
RYU様ってとてもいいお方ですね^^。
GOA様解釈ありがとうございます^^。


アスキーアートの多様な解釈  投稿者:GOA 投稿日: 2003年10月02日 8時37分

>  ヽ(゚ ∀゚ )ノ
>   へ  )
>      >

那珂川に飛び込もうと福博出会い橋の欄干に足をかけるRYU_TI_SYUさん


先ほどの書き込みの蛇足  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月01日23時51分

>この姿勢が、後にヨーロッパに自然科学が成立する際の精神的背景になっているとは、よく言われることである。

この神話が、後にアメリカ(?)に創造科学(疑似科学)が成立する際の基本的資料となっているとは、歴史の皮肉であるな。


>キリストはまもなく来られる  投稿者:その2 投稿日: 2003年10月01日23時31分

創造科学の主張者の人たちは、地球ができて6000年ちょっとしかたってないと考える人が多いわけですよね?
「まもなく」っていつなんでしょう。まさか、1000年も先のことじゃないですよね?
6000年しかたってないのに、1000年後なんて気が遠くなるよ。
やっぱり100年後くらいか?いやそんなにしないか。
ま、いずれにせよ誰が嘘つきかどうかわかるのにはそんなに時間は必要なさそうだ。


上のような批判をかわすためか、「神の一日は人の一日とは異なる」とか言う人がいる。
このような合理的解釈をするのならば、もはや聖書を文字通り受け取っているとは言えない。


かなり前になりますが、  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月01日23時20分

以前、私がここで創造「神学」は結構素晴らしい思想だと思うよーって、アピールしたとき、よねさんとおっしゃる方に「何かお勧めの本はありませんか」ときかれたのですが、その時は見つけられませんでした。
http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/board030610.html

しかし、今読んでる「ヨーロッパ思想入門」はかなりお勧めです。
でももう、よねさん読んでいらっしゃらないかなぁ・・・

一応情報を書いておきます。
 「ヨーロッパ思想入門」 岩田靖夫著
 岩波ジュニア新書(←だからかなり分かりやすい)

前書きから一部引用:
ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰である。
(中略)
では、第二の礎石であるヘブライの信仰の本質とはなにか。(中略)
その信仰の基本は第一に、唯一の超越的な神が天地万物の創造主であるという点にある。その基本の含意は、宇宙の中のいかなるものも神ではないということだ。古代世界では、ギリシア人でさえ、太陽や月を神として拝んでいたが「創世記」はこれらを光る物体と呼んでいる。すなわち、アニミズムの否定であり、世界からの魔神的な力の放逐である。この姿勢が、後にヨーロッパに自然科学が成立する際の精神的背景になっているとは、よく言われることである。

2章「『創世記』の神話」から一部引用:
この文書の意味は何かと言えば、バビロニア帝国の捕囚民として生きていたイスラエル人が、彼らを呑み込み、解体し、同化しようとするオリエントの神話、宗教、生活に対して、自分自身を確認し解放するために、イスラエルに独自の神と人間を思想的に彫琢しようとした努力が「創世記」なのである。


ハッター殿へ  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年10月01日22時17分

  ヽ(゚ ∀゚ )ノ
   へ  )
      >


聖書の多様な解釈  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年10月01日22時10分

To:おせっかいさん

>以前の私の書き方が悪かったですね。イエス様の再臨は未来の出来事ですが、それは現代の我々から見て「まもなく」起こる出来事ではありません。また黙示録は一世紀当時のクリスチャン宛てに書かれた書物であり、21世紀の人間の為に書かれているのではありません。

で、イエス様の再臨は、「現代の我々から見て未来の出来事」なんですか?
それとも、聖書が書かれた時代の人々から見て「未来の出来事」なんですか?

おせっかいさんの発言および、おせっかいさんがリンクしたリンク先を読んだ限りでは、おせっかいさんは後者の立場をとっているようですが、その理解でよろしいでしょうか。でも、saniku-aikiさんによれば、「キリストはまもなく来られるということを否定するキリスト教会はほとんど無い」とのことですが、「イエス様の再臨は現代の我々からみて『まもなく』起こる出来事ではない」とするおせっかいさんは、「キリストはまもなく来られるということ」は否定しているんですよね。


To:saniku-aikiさん

>支持しません。未来の予言の代表として、キリストが再び来られる(黙示録22:20ほか
>多数)というのがあります。再臨と呼んでいますが、再臨の教理そのものは、私のよ
>うな創造論者のほかにも、多くの教会が支持しています。キリストはまもなく来ら
>れるということを否定するキリスト教会はほとんど無いと思いますので、「未来の
>出来事は預言されていない」は「多様な解釈が可能なよい証拠」とは言えません。

ええと、「キリストはまもなく来られるということを否定するキリスト教会はほとんど無い」ということがよしんば事実だと仮定しても、おせっかいさんのような立場のキリスト教徒が少数でもいる以上、聖書の「多様な解釈が可能」である証拠にはなるでしょう。それとも、どの解釈が正しいかどうかって、多数決で決まるんですか?キリスト教の中の最大派閥の一番えらい人は進化を必ずしも否定していませんし、創造科学だとか言っているキリスト教会となるとむしろ少数派だと思うんですが。

おせっかいさんもsaniku-aikiさんもどちらも若い創造論を支持していますが、それでもなお、イエスの再臨の時期について意見の一致をみません。聖書の「多様な解釈が可能」であるきわめてよい証拠だと、傍目からは見えます。それとも、saniku-aikiさんは、イエスの再臨の時期についてのご自分の意見が絶対に正しくて、おせっかいさんの意見は間違っているとお考えですか?そうお考えだとしたら、saniku-aikiさんの信仰の対象は聖書ではなく、ご自分の聖書の解釈であると、再び指摘しておきます。聖書の多様な解釈が可能であることを認めないってことは、ご自分の聖書の解釈が絶対に正しいもので他の解釈は間違っていると言っているということですよ。


Re  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年10月01日20時57分

私がシオニスト云々と言ったのは、個人的かつ例外的な訳がありまして、仰る通り現在のキリスト教などもすでにパン種の混じった別物と認識しております。


名前間違えました  投稿者:投稿者: 投稿日: 2003年10月01日20時48分

saniku-sikiさんではなくてsaniku-aikiでしたね。失礼しました。


横レス  投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年10月01日18時29分

>支持しません。未来の予言の代表として、キリストが再び来られる(黙示録22:20ほか
>多数)というのがあります。再臨と呼んでいますが、再臨の教理そのものは、私のよ
>うな創造論者のほかにも、多くの教会が支持しています。キリストはまもなく来ら
>れるということを否定するキリスト教会はほとんど無いと思いますので、「未来の
>出来事は預言されていない」は「多様な解釈が可能なよい証拠」とは言えません。

以前の私の書き方が悪かったですね。イエス様の再臨は未来の出来事ですが、それは現代の我々から見て「まもなく」起こる出来事ではありません。また黙示録は一世紀当時のクリスチャン宛てに書かれた書物であり、21世紀の人間の為に書かれているのではありません。


ベレアの人々の末裔さまへ  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年10月01日 9時16分

>あの団体は純正シオニストによって巧妙にキリスト教潰しに仕立てられたものだとか。

そのような「噂話(陰謀説の類」は、いかようにも作り上げられることが可能だという
こと、そのような「噂話」を信じようと思えば、いかようにもそれなりの証拠を出すこ
とは可能だと言うことは分かった上で書き込まれてますか?分かっていらっしゃるのな
ら良いのですが・・・

まぁ、事実だとしても、キリスト教もかなりえげつない形でシオニストを利用してきて
いると思うので(その類の陰謀説も数多くありますしね)、どっちもどっちというか、
持ちつ持たれつというような印象を受けるだけですが。

イスラエル建国が可能になった理由、イスラエルの数々の国際法違反を、(キリスト教の
伝統を持つ西欧諸国が中心となって動かしている)国際社会が正当に糾弾できない
理由、重要な理由の一つには、キリスト教によるユダヤ人迫害の長い歴史と、
その頂点であるナチのホロコーストがあったこと、未だにキリスト教徒による差別が
ヨーロッパ各地で続いていることであるということは認識されていますか?
イスラエル・パレスティナ紛争を、「ユダヤ教徒とイスラム教徒の戦い」で、「キリス
ト教徒には罪はない」と思っているクリスチャンは多いですが、見方を変えれば、
キリスト教徒の迫害にあったユダヤ教徒たちが生き延びるためにイスラエルを建国し、
それを「ホロコーストを反省し、なおかつ自分たちの国からユダヤ人を追い出したかっ
たキリスト教徒」たちが後押ししたからイスラエル建国が可能になり、
そのお陰で追い出されたり殺されたりしたアラブ人側がイスラエルを攻撃しているわけで、
「ユダヤ教徒もイスラム教徒も被害者で、実の加害者はキリスト教である」
という見方もできます。

あまり、キリスト教徒が無邪気に「シオニスト」を悪者扱いするのは、キリスト教徒の
自己批判精神の欠如をアピールしているようで、正直なところ、少々恥ずかしいです。


おめでとうございます  投稿者:ハッター 投稿日: 2003年10月01日 8時31分

 決まりますまでの一喜一憂を拝見しておりました。
RYU様ぜひ現在の心境をAAで^^。


(無題)  投稿者:通りすがりその2 投稿日: 2003年10月01日 3時45分

>あの団体は純正シオニストによって巧妙にキリスト教潰しに仕立てられたものだとか。知らぬは>熱心な信者とは、、何とも。

にわかには信じられない見解ですが、興味深いですね


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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