このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
>あの団体は純正シオニストによって巧妙にキリスト教潰しに仕立てられたものだとか。知らぬは>熱心な信者とは、、何とも。
にわかには信じられない見解ですが、興味深いですね
>創造主はいるのかいないのか、事実はそのどちらかのはずです。いるのが事実なら
>創造論は科学的であり、いないのが事実なら、進化論が科学的ということに
>なると思います。
創造主がいたとしても、創造論は「科学的」にはなりません。
科学的か否かは、その内容ではなく、その「論」が構築された過程によるのです。
詳しくは、いままで皆さんがなんども説明していますので省きますが。
もし、神なり創造主なりの存在が「科学的」に証明されたら、、、ある意味で科学はその役目を終えると言ってもいいと思います。
その意味では、宗教的真理の方が、科学的事実より上と考えている宗教家は多いでしょう。
saniku-aiki氏が、なぜそんなにも科学というラベルにこだわるのか全く理解できません。
科学とは有り体にいえば、手に入る限りの証拠を集めて、それらの証拠すべてを満足させる仮説をたてる行為です。
別の証拠が見つかれば、いつでもひっくり換える可能性を持った仮説です。
そんなもののラベルがなんで欲しいのでしょうね。
他の方がなんどか指摘している「信仰が揺らいでいませんか?」はこの、宗教的真理より科学的事実の方が大事という態度を見てのことと思います。
宗教家を名乗る(名乗っておいでと認識しておりますが違っていたら申し訳ありません)人物としてはずいぶん妙な態度ではないでしょうか。
改めて、saniku-aiki殿
いま現在のあなたの主張は、科学的ではないとはっきり明言なさいましたし、その他の発言からも進化論そのものについての知識が相当欠落していると見受けられます。
もう一度、進化論がなにを主張していて、それらはどういった証拠から来ているのか、またそれらを補強する技術について理解を深められた上で、創造論が科学的となるためにはなにが必要であるか、しっかりと考察なさることをお勧めいたします。
本日は、まじめな議論は抜きにして(時間も時間なので、誰のカキコも読まずに言っちゃいますが)
とにかくホークス!おめでとう!!!
で、オフ会は福岡ですか?
一週間早くシリーズ始めて消化試合はダブルヘッダーで早く終えて欲しいものだ。
>しかしながら、今saniku-aikiさんに最も求められているのは私へのレスではなく、NATROMさんの
> 【聖書の「解釈」 投稿者:NATROM 投稿日: 9月26日(金)00時30分34秒】
>に対するレスだと思われるのですが、如何でしょうか?谷庵さんもクハ72さんもお待ちですよ。
正確に言うと僕はこれに限らずすべてのレスに対するsaniku-sikiさんのレスをお待ちしています。特に進化論の証拠を無視することは許されるのかと言うことです。神は進化の証拠を捏造し創造の証拠を隠蔽した、と言うことも考えられないことはありませんが……
自分たちのみが本当のクリスチャンだと称して○○○の証人と言う一派が見受けられますが、あの団体は純正シオニストによって巧妙にキリスト教潰しに仕立てられたものだとか。知らぬは熱心な信者とは、、何とも。その教義の研究も必要ですが、案外その方面の調査も必要なのでは?と思うこのごろです。意外と超ど級の事柄が引き出されるかもしれません。
saniku-aikiさんに限らずだけれど、事実だとか真実だとか言うガイネンについてのコンセンサスくらい得ておかないと、永遠に会話が空回りすると思うのです。特に宗教的事実というのは、人それぞの心の中にあるものであり、ひとつの楽曲を聴いても、人によって感動したり不快になったりするのと同じことで(地下猫さんと同義のことですが)、自分が事実と思うからと言って、その理解に普遍性がないことを意識出来ない人は、誰と会話しても不自由するでしょう。
進化論が正しいとしたら、聖書は間違いだらけということになり、神が否定される。だから進化論は間違いでなければならない。こんな馬鹿な理屈を述べる人の知性を探っても仕方がありませんが、少なくともその人にはそう思えるのだから仕方がありません。進化論以前に、世界中にあるすべての宗教についても「お前ら間違ってる!」と主張しなければ同じことになるのに「信教は自由ですから」と言っているあたり物凄く偽善を感じたりしてしまうわけです。
tema さんへ
>saniku-aikiさんが聖書を信じるに至った「経験」を教えていただけないでしょうか?
皆さんをなるほどと満足させられるようなすごい経験があるわけではございません。
私はクリスチャンの両親に育てられまして、幼いときから聖書は信じていました。
聖書は間違っているとは思いませんでした。自分の祈りがきかれた経験や
聖書を自分で学んだ結果、聖書を信じる確信が得られています。
半月さんへ
>「事実を扱う前に」聖書が正しいと「決め付ける」のは、
いくら証拠を挙げても「科学的ではない」と思います。証拠を曲解したり無視するのは、
「聖書に合わせている」ことになります。事実に忠実ではありません。
創造論者は聖書が正しいという前提から全てを考えますが、聖書が正しいと
決めつけているのは、それはおっしゃるとおり、科学的証拠によるものではなく、
あくまで信仰によるものです。聖書は創造主なる神が世界を造ったと書いています。
それを信じるところから始るので、科学的でないといわれればその通りでしょう。
しかし、それなら同様に神は世界を創造しなかったという所から始る考えも
科学的ではないことになります。」「事実に忠実」とありますが、
創造主はいるのかいないのか、事実はそのどちらかのはずです。いるのが事実なら
創造論は科学的であり、いないのが事実なら、進化論が科学的ということに
なると思います。
>実際に神がいて、一方で、物理的な記述が科学と矛盾するなら、「聖書を執筆した人が間違っていた」、あるいは「信者が聖書の解釈し方を誤った」という事にすれば、
「神の存在は脅かされない」でしょう
問題は、聖書が間違っていたなり解釈を誤ったなりした場合、聖書の教えが
どう変化するかです。変化しないのなら、それで済むかもしれませんが、
創造が誤りでは聖書自体の教が根本から変わるというのが、私の理解です。
進化論は、創造主なる神の存在をまさに脅かすから問題なのです。
>「無信仰だから堕落する」という考え方には反感を持ちます
記憶が定かでないのですが、もし「無信仰だから堕落する」と私が発言して
いたのなら、言い過ぎなのでお詫びします。堕落するのは、罪の結果であるので、
信仰があっても無くても人は堕落すると考えています。堕落した人を助けるために、
「神の形に造られた」人を再びその姿に回復するために、キリストは死なれたのです。
したがって、堕落した人を救うキリストの働きを説明できるのは創造論です。
進化論では、人の堕落を説明できないので、キリストの救いの働きも説明できません。
NATROMさんへ
>saniku-aikiさんは「聖書には現代の我々から見て未来の出来事は予言されていない」という解釈を支持するのでしょうか
支持しません。未来の予言の代表として、キリストが再び来られる(黙示録22:20ほか
多数)というのがあります。再臨と呼んでいますが、再臨の教理そのものは、私のよ
うな創造論者のほかにも、多くの教会が支持しています。キリストはまもなく来ら
れるということを否定するキリスト教会はほとんど無いと思いますので、「未来の
出来事は預言されていない」は「多様な解釈が可能なよい証拠」とは言えません。
べつに、人に何を言われようとも気にしないけどね。
理解したくない奴は一生理解しないだろうし。
宗教にトチ狂った馬鹿に親友殺されて、感情的にならなかったらそいつは頭が変だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
優勝おめでとうございます
うしゃ,相手も決まったことだしイッチョ頑張って見ますかね.
トトロさんへ
何を教義というのかがまた難しいと思いますが,「創造科学」はキリスト教における世界観だとか,文字通り創造観を元に構築されたもので必ずしも教義とは関係があるものとは限らないと思われます.
地下ネコさんがにゃーにゃーおっしゃることを読みながら、
以前、ジャーナリストの武田徹さんという方がイラク戦争時の報道を批判している文中で
下記のとおりに書いていらしたのを思い出しました。
>あるいは「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督)とかどうでしょう。
>戦争が見えたと言いたい気持ちがぼくにはあるのですが。
私はこれにすごく共感したのですね。
CNNもFOXもアルジャジーラも日本のメディアもそれぞれの視点で戦争を報道していて、
戦場に記者が行って、「事実」を撮ってきているのは確かなのにもかかわらず
(中にはヤラセもあるかもしれないけど)、それらの報道全体が「真実」かどうか
は分からない。映像の編集の方法や解説で、報道される「事実」はいくらでも変わって
くると思うので。
一方、コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」は、ストーリーはフィクションだし、
爆弾も兵隊も死体も全て作り物だと分かっているのにも関わらず、
ベトナム戦争のある種の「真実」を映し出そうとする監督の意思が伝わってきますし、
実際にある種の「真実」が映し出されていると多くの観客が思ったからこそ、
名作だと言われているのだと思います。
譬えて言うと、
創世記を「事実」の記述だと言い張る人は、
ニュース番組の画像は「事実」だから価値があって、
「地獄の黙示録」の映像は「事実」じゃないから価値が劣ると考え、
もしも「地獄の黙示録」の価値を信じたいと思ったら、
「地獄の黙示録」はフィクションではなくドキュメンタリーだったという
証拠(?)をどうにかしてかき集めて「事実」だと主張しなければならない
と勝手に信じ込んでるように、私には感じられます。
それって、映画と映画監督に対して失礼だし、無駄な努力だと思う。
(今まで何度か書いたけど、私は「文学」「神学」として、創世記は価値があると
思っているので、疑似科学として扱われると、不快です。)
ゆんさま。こんにちは
> ・『進化論』を否定する事は『創造科学』を肯定する事にならない、
は了解できるのですが
> ・『創造科学』を肯定する事は『進化論』を否定する事にならない、
とは思えないのですが・・・創造科学の唱える生物に関する理論は”生物は変化しない”です。『創造科学』を肯定する事はこの説を認めることであり、それは即ち『進化論』を否定する事になります。
> 『進化論』を否定するには『進化論』の間違っている部分を指摘する必要があり、
進化論を否定するには、”『進化論』の間違っている部分を指摘”するだけでは多分、不足すると思います。もし、そのような指摘が行われたら、指摘された部分を修正して進化論を構成する新たな説が唱えられるだけではないでしょうか。
多くの科学や技術がこの方法でより確かと考えられる説を生み出してきましたし、これも科学の方法の1つだと思うからです。
進化論を否定するには、「進化は無かったといえる決定的かつ客観的な証拠」を提出すること以外には無いのではないかと私は考えます。
> 『創造科学』を肯定するには『創造科学』固有の大きな証拠を示す必要がある
これには納得するのですが、『創造科学』は宗教の1分野であるキリスト教の教義に基いています。すると、『創造科学』を肯定するには、キリスト教が正しい(唯一無二である)ということを示さねばならないのではないでしょうか。
1神教と多神教のように宗教上も対立する概念が多くあります。その内の1つが正しいとするならば、対立する概念を持つ宗教の教義は誤りということになります。
>過去の記録に頼って物事を推定するのは、れっきとした「科学」の一種であると、わたしは考えます。
皮膚に氷点下数十度の冷たい物質を押し当てられると、ニンゲンは「熱い」と感じるにゃ。これは生理学的事実だにゃ。
聖書が全能なる神がニンゲンに啓示を与えることによって成立したことを認めるとしても、ニンゲンの肉体を媒介とせざるをえにゃーという根源的制約があるのだにゃ。ニンゲンとは、その肉体にも時代にも地域にも拘束された矮小な存在だにゃ。
ニンゲンとは「熱い」と「冷たい」ということすら取り違える不完全なもの、まさにmortalなものだにゃ。有限存在は全能者の意図を正確に受け取ることなどできにゃーのさ。
さらに、聖書とは「記述」だにゃ。
自らのイメージと記述が異なることなんて、僕たちにとっては日常茶飯事だにゃ。
また、宗教的心性とは外界と内界の神秘的融合状態にある、ちゅうユングの見解なんかもあってにゃー。
観覧者さま
はじめまして。トトロと申します。
> 置いたわけです。当然、このような類のことは、実験・観察などで説明する
> ことは出来ないわけですが、「神のことば」を、事の起こった正確な記録と
> すれば、このように考えることも可能なわけです。
> 過去の記録に頼って物事を推定するのは、れっきとした「科学」の一種であ
> ると、わたしは考えます。
さほど面白い説であるとも思えないのですが、上記のような説は「反証不可能」
な説とされ、科学の範疇では扱われません。”れっきとした「科学」の一種で
ある”と考えるのは自由ですが、この掲示板に来られているような進化論者や
世間一般に科学者とみられているような方々は上記のような説を科学的とは決
して考えないでしょう。
科学とは何かを考える際には、科学とそれ以外を分ける境界が必要です。ポパー
(Karl Raimund Popper,1902〜94)という哲学者は、その境界を「反証可能性」
と規定しました。
この「反証可能性」という基準は、世間一般に出回っている様々な疑似科学から
科学を分けるものとしては一般的なものと認識(すくなくとも科学に携わる方々
は)されています。
まず、反証とは「ある仮説が間違っているということを、テスト命題が間違って
いることにより証明すること(否定否定式)」を言います。正確にいうと「ある
仮説が真であるならば、真であるはずのテスト命題が偽であることが示されたな
ら、仮説が偽であったことも示される」ということです。
反証可能性とはこのようなテスト命題が存在することを言います。
”全ての結果が、現在の観測と一致するように世界は創造された”という説は、
反証されるテスト命題を導くことができません。
従って、この説は科学的検証の対象となる説ではなく、科学の取り扱わない説
と見做されます。
>過去の記録に頼って物事を推定するのは、れっきとした「科学」の一種であると、わたしは考えます。
古い書物などから過去に起きた事件を推測することはよくあることですが、聖書が正確な歴史の記述であることが証明されるか、別の証拠による補強がなければ、「ああ、そうかもね。」で終わって相手にされないでしょう。
「群盲、象を評す」ちゅう唐土のことわざが在りますよにゃ。
多くの盲人が象を撫でてみて、自分の触れた場所から巨大な象を判断している様を指すわけで
転じて部分から全体を評することの愚を戒めたことわざであり、
小人物はものごとの部分しか見ることができにゃーということわざでもありますにゃ。
ところで、この群盲の発言は、それぞれ「事実」であることはまちがいにゃーわけだ。象の、尻・尻尾・鼻・牙・口・脚・耳などをさわり、各々勝手なことをいっている盲人たちは、みな「事実」をいっているわけですにゃ。しかし、そこにいるのは一匹の象なのですにゃ。
ここでは
・象は一匹である⇒事実はひとつ
・盲人たちのさまざまな意見⇒事実(の記述)は多数
この両者、事実がひとつであることと事実が多数であることは両方とも成り立つわけだにゃ。
象の外形という比較的単純な事実においても、事実が階層構造をもっていることを示しているわけだにゃ。
ところで、象を評すにあたって、象の外形だけをもってあたることが適切ともいえにゃーわけだ。
分類学的に・生態学的に・動物行動学的に述べることもできるし、民俗学的に・社会学的に・文学的に・心理学的に・宗教学的に述べることもできるわけだにゃ。そして、群盲の述べることも事実であり、生物学的な記述も事実であり、宗教的な記述も事実なのだにゃ。
視点を変えることはいくらでもできるし、どんな視点から述べてもその記述は重層的な構造をもつことになるわけだにゃ。
特に、文学・心理学・宗教学的に象を述べる場合、それは単なるほ乳類の一種としての象ではなく、ニンゲンのイメージの世界に生きる生物としての象(=心理表象)であるといっていいよにゃ。心の中でおこったできごともやはり「事実」なのだにゃ。
そこに存在する象 と 認知された象、存在と認識の両方がセットになって事実が構成されてるわけだにゃ。
> 証明されているといっても、私に言わせれば、それはノアの洪水後の話しでしょう。
> 洪水前後に激変はないという仮定に基づいていませんか。もちろん私は光速が
> 変わったというはっきりした証拠があって今言っているわけではありません。
> ただ、考えてほしいのは聖書に寄れば天地創造の4日目に太陽、月、星が造られて
> います。その二日後の6日目に創造されたアダムは星を見ているはずです。
> 何万光年かなたの星の光が2日以内に届くのなら
> 光の早さは今観測されている速さの何万倍にもなるはず、と私は思ったのですが
> そういう仮定を考えることは非科学的ですか。
上記の説は、面白い発想ではありますが科学的でもなければ、聖書的でもありません。
わたしは素人ながらこう考えます。創世記1章によれば、神は太陽、星、月を創られる以前の第一日目に「光あれ」と仰って実際にそのようになったと記録されてあります。すなわち(〜光年分の)光を先に創ってから、その光を継続させる発光物を置いたわけです。当然、このような類のことは、実験・観察などで説明することは出来ないわけですが、「神のことば」を、事の起こった正確な記録とすれば、このように考えることも可能なわけです。過去の記録に頼って物事を推定するのは、れっきとした「科学」の一種であると、わたしは考えます。
ヘルメス☆ 様、
感情的になって、ご自分の知能と気品の程度をひけらかしておられるも気がつかない様で。そのようなお振る舞いは、科学的でございませんことよ?
PDX. さま。お久しゅうございます。トトロです。
> そう言えば、昔タキオン靴下とかのインチキ商品が売られていたけどどう
> なったんだろう。
> なんか商品名変えたという噂も聞きましたが。
タキオンブームも宇宙戦艦ヤマトと共に飛び去り、今ではもう少し本当っぽい”まいなすいおん”が氾濫しています。インチキだけど。
saniku-aikiさま
お久しぶりです。トトロです。掲示板の流れが速いのですいぶん古いレスになってしまいました(しかもKosuke さんへの横レスだし)
> 証明されているといっても、私に言わせれば、それはノアの洪水後の話しでしょう。
> 洪水前後に激変はないという仮定に基づいていませんか。もちろん私は光速が
> 変わったというはっきりした証拠があって今言っているわけではありません。
> ただ、考えてほしいのは聖書に寄れば天地創造の4日目に太陽、月、星が造られて
> います。その二日後の6日目に創造されたアダムは星を見ているはずです。
> 何万光年かなたの星の光が2日以内に届くのなら
> 光の早さは今観測されている速さの何万倍にもなるはず、と私は思ったのですが
> そういう仮定を考えることは非科学的ですか。
光速度が約6千年前に1/10000程度に遅くなったという仮定の元に話を進めます。もし、この仮定が現在の確認されている事象と齟齬をきたすようであれば、それなりの理由付けか、仮説の廃棄が必要になります。
まず、光の周波数(振動数)が一定で、速度が遅くなった場合、波長は速度を周波数で除したものなので、波長が短くなります。つまり、光としては青方偏移を生じるはずです。約6千年前にそれが生じたのなら、6千光年より離れたところにある天体から来る光を観測すれば青方偏移が観測されるはずです。また、6千光年より離れたところにある天体はほぼ全てでこのような現象が観測されるはずです。
しかし、遠方の星は赤方偏移はほぼ理論通りに観測されるのに対してそのような一般的な青方偏移は観測されていません。
だとすれば、光速度と共に振動数も減少したのでしょうか?そう考えると青方偏移が観測されない理由にはなりますが、困ったことにエネルギー保存の法則に違反してしまいます。光が持つエネルギーはE=hνの式で表すことができます。ここで、Eはエネルギ、hはプランク定数、νは振動数です。単純にνが減少したとするならば、エネルギ保存の法則に違反します。
もし、エネルギ保存則を遵守してνを減らそうとするのであればプランク定数を大きくする必要があります。でもプランク定数は物質の不確定性に関係する重要な定数なので、この値が10000倍程度も大きければ、分子すら作れるかどうかがわからない世界になってしまいます。
また、プランク定数を変えずにエネルギ保存則を遵守してνを減らそうとするのであれば、光の量(光子量)が増加したと考えることができます。この前提に立つと、6千光年より彼方にある星は10000倍!も明るいはずなのですが、このような観測結果はほとんどありません(クエーサーなどでは観測されていますが)。
それでは、エネルギ保存則が成立していなかったと考えると・・・その世界は私の理解を超えてしまいますが・・・おそらく星自体が存在できるような世界にはならないと考えます。
というわけで、光の速度が遅くなったという仮定自体は非科学的ではありませんが、科学的な検証(と言えるほどのもんではありません)では、私程度の貧弱な物理学の理解をもってしても、多くの観測された事象に反しています。また、その理屈をこじつけてもより一層、悲惨な結果(世界が成立しない)になってしまいました。
従って、”光速度が約6千年前に1/10000程度に遅くなった”という仮説は、科学的には否定されます。それを”事実”といいはり、かつ、それが科学的だと言うのならば、上記の考察を覆すだけの検証できる証拠の提出が必要です。
> 光速が不変なら不変でも構いませんが
> それならば、どうやって2日以内に光が到達したのか科学的に説明していただけ
> ないでしょうか。また、現在の観測結果によって、神が最初に星を造ったときと今とは光
> の速さが異なることを否定できるものなのか、教えてください。
光速度が不変であったと仮定するならば、2光日以遠の光が二日で地球に到着したと考えるのは、確かな証拠が無い限り不可能であると考えるのが科学的な態度であると考えます。
以上のことから、現時点では神が星を創ったかどうかは別にして”神が最初に星を造ったときと今とは光の速さが異なることを否定できる”と考えます。
というよりも、どの宗教でもおんなじ事だが、「自分の信じる神だけが唯一絶対」とのたまうど阿呆が世の中に騒動と迷惑だけを撒き散らしていることに気が付いていないんだろうな。
何処でも良いから、好きなだけ迷惑振りまいてろ!
最近、宗教嫌い&人間不信のヘルメス☆
本音を言えばもっとえげつない言葉で罵りたい>宗教にトチ狂った馬鹿
たんぽぽさま
>いや、わたしは、べつに気にしてないし、
>とくに問題ないトピックだと思いましたが...
フォローありがとうございます。^^;
みなさまがせっかく冷静に「創造論は科学ではない、といっているだけで
創造論を信仰する信教の自由は保障されるべき」と書いている中で、
私が個人的な「原理主義」と「宗教右派」と「ネオコン」への
怒りを出してしまったので、論点をぼかしてしまったかな、と反省したのです。
temaさまへ
なるほど、イエスの復活は当時から奇跡だから、科学的検証はいらないのか。
ちょっと納得です。
「キリストの復活が本当だとは信じられない」という凡人に対して、
「神様の恵み(啓示?)があれば信じられる」と諭す人がいたので、
その場合の「本当」という意味は、どういう意味なのかな、
と思ったことを思い出したのです。
私の印象に過ぎないのですが、「創造論」が「事実」だったということを否定して
いる、まぁ、わりと「ふつー」(原理主義的でない)のクリスチャンも
「復活」については、「(科学的?客観的?)事実」と信じなくてはならない、
と信じ込んでいる人が結構多い感じがしてます。
地下ネコさんの「事実」についてのご意見を読んで、これは、キリスト教にとっては
「創造論」に限った問題ではないかもな、と思った次第です。
って、また論点ずらしちゃった・・・
すみません。
>『創造科学』は『創造論』をベースにした一つの『論』(つまり仮定)に過ぎないとも言える。そんな『創造科学』を否定されただけで『創造論』まで否定されたように感じてしまうのは、『創造科学』が『論』に過ぎない事をよくわかっていないからではないか?
「別の物」の意味によるのでしょうが、、、
創造科学が創造論をベースにしてできたものだとしたら(創造論から導かれた論の一つだとしたら)、創造科学が否定されたら創造論も否定されることになるのではないですか?
対偶ですから。
創造科学が創造論から導かれたものではないのなら創造科学が否定されようが創造論はびくともしないでしょうが、創造科学が創造論より導かれたものなら、創造科学が間違いだとなれば創造論も間違いだとなってしまうはずです。
思いつくままにつらつらと。
・『創造科学』は『宗教』から『自然科学』の分野への挑戦である。
・『自然科学』の分野での勝負を選んだ以上『創造科学』は『自然科学』のルールに従う必要があり、そのルールに文句をつけても仕方が無い。
・現時点で『創造科学』は『自然科学』のルールを十分に満たしていない。
# 至極当たり前の話なんだけど勘違いされる事が多いため強調。ボクシングの選手がK1のリングに上がって「蹴るなんて聞いてないよ! ずるい!」なんて言っても始まらないようなものだ。ルールは事前にチェックしておこう。
・『進化論』それ自体は『創造論』への挑戦は意図していない。
# そしておそらくこの部分が『聖書原理主義者』と一番見解がわかれるところ。『聖書原理主義者』的には『進化論』は存在そのものが暗に『宗教』への挑戦であるようだ。『進化論』が勝手に『自然科学』のルールで『宗教』のフィールドを踏み荒らしているから、逆にこちらも『宗教』のルールで『自然科学』のフィールドを踏み荒らしてもいいというロジックだろうか?
・『進化論』を否定する事は『創造科学』を肯定する事にならない、
・『創造科学』を肯定する事は『進化論』を否定する事にならない、
# 『自然科学』的には『進化論』と『創造科学』が同程度の『確からしさ』を持てば、両論が並び立つ時期が有り得る。最終的にどちらかの理論だけが残るにせよ、『進化論』を否定するには『進化論』の間違っている部分を指摘する必要があり、『創造科学』を肯定するには『創造科学』固有の大きな証拠を示す必要がある
・『創造論』と『創造科学』は別の物である。
・『創造科学』を否定する事は『創造論』を否定する事にならない。
# ここにもよく『聖書原理主義者』の混同が見られる。『創造科学』は『科学的仮説』として提出されているのだから、当然否定される事があるのが前提なのだ。否定されたら新たな証拠を積み重ねてて再提出を続けるのが『自然科学』のルール。『創造科学』は『創造論』をベースにした一つの『論』(つまり仮定)に過ぎないとも言える。そんな『創造科学』を否定されただけで『創造論』まで否定されたように感じてしまうのは、『創造科学』が『論』に過ぎない事をよくわかっていないからではないか?
理論上「光より速い速度で運動し続ける粒子」を想定することに矛盾はありませんが、これを検出するということは、光または光以下の速度で運動する通常の粒子と干渉することを指します。しかし、相対性理論が示すように、このようなカタチで情報伝達があるとすると、因果律の逆転が発生することになり、未来予知が出来ることになります。
未来のある一点から発せられたタキオンが検出される、ということは、実のところ「未来がたったひとつしかない」ことを示唆することになります。するとどうでしょう、不確定性原理は崩れ、量子論は抜本的に間違っていることになり、恐らくは相対論も多大な破綻を含むことになり、近年の物理学はほとんどが大修正を迫られることになるでしょう。
そこで、タキオンは存在そのものが矛盾しない粒子であるに関わらず、私たちには決して検出されることはない、つまり実質は存在しないも同然である粒子として扱われているのだ、というような記事を以前書籍で読みましたが、出所となる本が手元にありませんでした…^^;
ぽんさんへ
>「キリストは、死後3日目によみがえった」
>というの。
>創造論が「科学」と主張する人たちって、
>これも、「科学的」に証明できるとしてるのでしょうか?
想像してみました。
これは当時(1世紀当時)から奇跡だからいいのです。さらに聖書にも記述してあります。
聖書に記述されている以上、それを根拠にできますので、科学的に否定されようが信仰はゆらぎません。
ではなぜ、創造論を科学的に証明する必要があるのか?
ここからは想像以下の妄想です。
進化論の基となっている事実に、ある程度の説得力があったのでしょう。これをそのまま認める訳にいかない理由はsaniki-aikiさんが述べてくれました。
一方、これらの証拠も含めて神様の奇跡と考えると、今度は神様が何のためにこの奇跡を起こしたのか納得行く理由が出てきません。
人を惑わせるため?それは神様がやりそうに無いことです。その上、聖書にも書いてありませんので、宗教的に納得することは困難です。
宗教的には信じられないため、替わりに科学的に信じようとした結果が、創造科学なのではないでしょうか?
蛇足ですが、
>「キリストは、死後3日目によみがえった」
について科学的な説明を求める方には
鯨統一郎作「邪馬台国はどこですか?」をお勧めしておきます。
saniku-aiki様、大勢の方を相手にされるのは本当に大変だと思います。相手の書き込みを読んで
意味を理解するだけでもかなりの時間がかかり、まして相手は分からず屋ばっかりだし(笑)。ある程
度選ばれてレスされるのはやむを得ないとは思います。
一方私の方は(私だけ楽しているみたいで申し訳無いのですが)、あっという間に3ETさん、ゆんさん、
ぽんさんが的確なレスを返されているので、今回もほとんど付け加える事が有りません。ですから、こ
の私の書き込みは無視して下さって結構です。お暇なときにお読み下さい。
しかしながら、今saniku-aikiさんに最も求められているのは私へのレスではなく、NATROMさんの
【聖書の「解釈」 投稿者:NATROM 投稿日: 9月26日(金)00時30分34秒】
に対するレスだと思われるのですが、如何でしょうか?谷庵さんもクハ72さんもお待ちですよ。
-- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
>>saniku-aikiさんの「事実」は科学で使われている用語とは全く違う意味で使われている。
>それでは科学において「事実」とは検証可能なものを言うのでしょうか。
もちろんそうですよ!いまだ検証されていないものは事実とは呼ばないでしょう。
>実際に起きたことではなくても、真理でなくても「事実」というのでしょうか。
すみません、これは意味不明。
>宗教的な「事実」とは何を意味しているのでしょうか。
>科学であろうと宗教であろうと事実は一つではないのでしょうか。
もちろん一つでは有りませんね、「事実」の意味するところが違うんだから。科学的に検証されなくても、
芸術の世界での「事実(こういうジャンルでは「真実」という言葉の方がぴったりするでしょうが)」の価値
がいささかも揺らぐ事は無いでしょう。
ここは是非、地下猫さんの一連の投稿、
【事実はひとつ なんてオオウソ 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 9月24日(水)13時50分40秒 】 と
【事実について補足 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 9月24日(水)14時36分56秒】 を
お読み頂けますでしょうか。
武満徹さんの文章は、読んでいて背筋がぞくぞくするくらいの感動を憶えます。沈黙に抗わずにはいら
れない音楽家のものすごいエネルギー、その『事実』に我々はただただ黙って感動するしかないわけです。
そしてそこには科学的な検証を必要とするような「事実」は無いんですね。そんな無粋な物は犬にくれて
やれ!ってなもんです。
それを、「『死の暗黒世界』は物理的にこのように定義されているので、間違い無く存在するのです」とか、
「『広大な宇宙の沈黙』の広大とは100光年である事が科学的に確かめられた」とか言ってみても意味が
無いでしょ。意味が無いどころか、そんな事を言い出すアホに音楽や文学の芸術性なんかが理解できて
いるとは到底思えませんよね。ましてそれが根拠が嘘で塗り固められている疑似科学であった日には、芸
術に対する二重の冒涜では無いでしょうか。
>>仮定はあまりにもアドホック(その場しのぎ)で、より一層多くの知見との不整合が指摘されてしまうので、
>>結果としてはあっけなく否定されてしまいます
>創造科学の説明はまだ未完成で不十分なものであると私も思っています。しかし、
>これはアドホックの変更を行えばすむ問題です。理論が不十分だからと言う理由で
>創造主がいないと考えるのが正しいとは思えません。理論が不十分だからこそ
>創造科学のやりがいがあるわけです。
一度辞書で「アドホック」の意味と用法を御確認下さい。ググッたらこんなサイトが見つかったので、
貼り付けておきます。
相手を貶す場合以外は、恥ずかしくて論理的な文章の中では使えません。現在得られている知見が不足
している為に検証が不十分な理論と、その場しのぎで証拠を採用したりしなかったりする、アドホックな理論
をごっちゃにしてはいけません。
ぽんさま
>「創造主がいない」などと、誰一人、言って(信じて)いませんよ。
>「分からない」、「科学では扱わない」と皆さん書いていらっしゃいませんか?
わたしにも、よくわかりませんが、
それがsaniku-aikiさまの、信仰なのかな...?
「ほかのみなさんが、いくら『進化論が正しくても、
創造主がいるかいないかはわからない』と主張しても、
私の信仰では『進化論肯定=創造主否定』なのだから、
進化論を否定しないと、創造主を肯定できない。」
とか、なんとか...
>私自身は、原理主義を批判したり、saniku-aikiさんの聖書解釈について
>異議をとなえようとしてしまったことがありましたが、
>それは、この掲示板の趣旨からはずれましたし、
>論点をぼかしてしまいました。
いや、わたしは、べつに気にしてないし、
とくに問題ないトピックだと思いましたが...
(原理主義関係でレスしていた、わたしが言うものなんですが...)
To 通りすがりさん
>タキオンはエネルギーの低いものほど速度が速いという性質があるので、早いのは無限の速度でしょう。
>タキオンの存在はいまだ確認されていませんが、物理学の確認済のどの理論とも矛盾しないので、
>その存在は否定されていません。
>神様と同じ扱いです。
タキオンについては、一時期検出したという報告もあったのですがその後間違いだと発表されたはずです。
ともあれ、もしタキオンが存在して、直接的であれ間接的であれ検出が可能なのであれば、どういう方法で検出が可能か(タキオンが観測可能な物質とどのように相互作用するか)を考えて、その検証実験を行うことになります。
上の「検出した」と報告した人たちも、当然そういう仮定のもとに観測を行っていたはずです。
もちろん、もし観測できなかったら、仮定が間違っていたと考え直す覚悟の上で。
以下脱線。
そう言えば、昔タキオン靴下とかのインチキ商品が売られていたけどどうなったんだろう。
なんか商品名変えたという噂も聞きましたが。
>トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
こういう信仰だということじゃないの?
ただ、それじゃいつまでたっても救いは来ないよ、と私は言いたい。
救い(永遠の命)が欲しいのなら、進化論が正しかったら聖書は間違いだ(=聖書が正しかったら進化論は間違いだ)などと考えないことだと思うけどなぁ、、、
先ほど書き込んだ疑問なのだけど、未だどなたのレスもないので、
直接saniku-aikiさまにおききするのが一番かな、と思いました。
>創造論が「科学」的事実でなければ、信仰が揺らいでしまうというのならば、
>「死は罪の結果」であることも、
>マリアが処女でイエスを生んだことも、
>イエスが復活したことも、
>イエスが現在「神の右に座しておられる」ことも、
>全て「科学的」に説明できなくちゃ、信仰揺らぐんじゃないのかな。
>どうなのかな。
どうなのでしょうか?
教えていただければ幸いです。
>>2.完全な人間であるアダムは我々と違って超光速粒子タキオンを見る能力があった。
>なるほど、そうかもしれません。ただタキオンについてよく知らないので教えてほし
>いのですが、タキオンとは10億光年を1日にするほど、そんなに速いものなのですか。
>そんなに速いものを今の科学はどうやって測定するのですか。
タキオンはエネルギーの低いものほど速度が速いという性質があるので、早いのは無限の速度でしょう。
タキオンの存在はいまだ確認されていませんが、物理学の確認済のどの理論とも矛盾しないので、
その存在は否定されていません。
神様と同じ扱いです。
>間違っていないと認められているもの(神)を前
にした場合、私は後者をとります。
間違っていないと認められているもの(神)って、、、、
誰によっていつ認められたのでしょうか?
「認められてる」んじゃなくて、一部の人間に「信じられているもの」でしょう?
>よくわからないのですが、では「創造主がいない」ということをどれだけ徹底的に
>疑ったのでしょうか。「創造主がいない」とたやすく信じているのではないのでしょうか。
もうちょっと、人の書いたものをきちんと読んだ方がいいと思います。
「創造主がいない」などと、誰一人、言って(信じて)いませんよ。
「分からない」、「科学では扱わない」と皆さん書いていらっしゃいませんか?
ただ単に、「科学」的な手法で検討するのなら、創造論は「科学的ではない」ということ
を主張しているだけだと思いますが。
そして、その上(親切なことに)何人もの方が、「科学的でないからといって、
意味がないとか、価値が薄れると言うことはない」というようなことまで言及して
下さっていると私は思います。
saniku-aikiさんは、素晴らしい文学とか芸術とかに触れたことがないのでしょうか?
ルポルタージュのように、事実を忠実に記述する(それが可能かどうかはともかく)
方法以外にも、
科学的に「事実」を検証する方法以外にも、
「真実」を表現する方法はいくらでもあると思うのですが・・・。
創造論が客観的に見て「真実」と言える価値の在るものかどうかは私には分かりません。
でも、それがあなた自身にとって「真実」であるということは、
誰にも否定する権利も義務もないのです。
ただ、「科学的に」真実であるとか、事実であるという主張に対して、
「科学的ではない」と反論されているだけだと思います。
PS 私自身は、原理主義を批判したり、saniku-aikiさんの聖書解釈について
異議をとなえようとしてしまったことがありましたが、それは、この掲示板の趣旨からは
ずれましたし、論点をぼかしてしまいました。お詫びいたします。>ALL
>創造科学の説明はまだ未完成で不十分なものであると私も思っています。しかし、
>これはアドホックの変更を行えばすむ問題です。理論が不十分だからと言う理由で
>創造主がいないと考えるのが正しいとは思えません。理論が不十分だからこそ
>創造科学のやりがいがあるわけです。
・『創造科学』が否定される → すなわち創造主がいない
と結論づけられるわけがありません。現在提出されている『創造科学』なる
代物が現在の自然科学の基準から見て疑似科学でしかないと判定されるとし
ても、それはある一つの理論が捨て去られるだけの事です。新たに創造主の
存在を説明し既存の科学理論と見事に適合する理論を誰かが作り上げる可能
性は常にあります。
前から思っていたのですが、saniku-aikiさんは論理学の基礎がかなり怪し
くありませんか? 『必要条件』『十分条件』の区別はついていますか?
『裏』『対偶』『否定』とは何のことだかおわかりになりますか?
ゆん様
>それが科学であるかどうかって話題を語れるってのもちょっとすごいなとは思います。
そうですね。不思議なことです。
私自身は、
・光速は神が変えたかもしれない→創造科学に不利な証拠は神がなかったことにしてくれる。
・聖書には寓意が含まれている →創造科学に不利な記述は寓意であり、そのままにとってはいけない。
と言い出した時点で話は終わっていると考えていました。
加えて、書き割り宇宙の回答、
>そんなだまし絵みたいなものを造る神なら「真実な神」とはいえないのではないでしょうか。
これは、「光速は神が変えたかもしれない」と矛盾していることに気がついていないようです。
言論内容が一貫せず、理論的整合性などつゆほども気にしないのになんで「科学」のレッテルにのみこだわるのか
全く理解できません。
いろいろ(私としては)成果があったと、前に書きましたが、いまは謎も増えた気がしてます。
>>>科学の歴史には過ちがたくさんあり、今正しいとされていることが100年後には間違いとなるもしれません
>>これこそが科学的な手法に信頼が置ける根拠です、
>これは考え方の差でしょう。私には理解できません。間違っているかもしれないと
>認められているもの(科学)と、間違っていないと認められているもの(神)を前
>にした場合、私は後者をとります。それが普通だと思うのですが。
この発言から、saniku-aikiさんが自然科学の考え方と方法論、その信頼の
論拠をを毛ほども理解してないことが伺えます(少しでも理解してたらもう
ちょい別の表現になりそうなもんです)。そういう、ご自身理解してない
であろう物事について、
>私自身のことならその通りです。ただ、創造科学は疑似科学であるというのが
>この掲示板の主張ですから、それに反論するためには聖書と科学をどうとらえるのか
>他人のためには説明する必要があると思うのです。
それが科学であるかどうかって話題を語れるってのもちょっとすごいなとは
思います。
>私自身のことならその通りです。ただ、創造科学は疑似科学であるというのが
>この掲示板の主張ですから、それに反論するためには聖書と科学をどうとらえるのか
>他人のためには説明する必要があると思うのです。
あらやっぱりこの主張するんだ。
創造科学は疑似科学ですよ。明白です。
違うというのでれば、この質問に答えてください。
以下再掲です。
科学というものの手続きにおいて、
「この証拠は採用するけど、この証拠はなかったことにしよう」
と恣意的に決めることは許されるとお考えでしょうか?
ちーがーうー!!
それと、予め言っておく、
乳児プレイでもない
kosukeさんへ
>saniku-aikiさんの「事実」は科学で使われている用語と
は全く違う意味で使われている。
丁寧なお答えありがとうございます。
それでは科学において「事実」とは検証可能なものを言うのでしょうか。
実際に起きたことではなくても、真理でなくても「事実」と
いうのでしょうか。宗教的な「事実」とは何を意味しているのでしょうか。
科学であろうと宗教であろうと事実は一つではないのでしょうか。
>仮定はあまりにもアドホック(その場しのぎ)で、より一層多くの知見との不整合が指摘されてしまうので、
結果としてはあっけなく否定されてしまいます
創造科学の説明はまだ未完成で不十分なものであると私も思っています。しかし、
これはアドホックの変更を行えばすむ問題です。理論が不十分だからと言う理由で
創造主がいないと考えるのが正しいとは思えません。理論が不十分だからこそ
創造科学のやりがいがあるわけです。
>>科学の歴史には過ちがたくさんあり、今正しいとされていることが100年後には間違いとなるもしれません
>これこそが科学的な手法に信頼が置ける根拠です、
これは考え方の差でしょう。私には理解できません。間違っているかもしれないと
認められているもの(科学)と、間違っていないと認められているもの(神)を前
にした場合、私は後者をとります。それが普通だと思うのですが。
>我々は「信じる」などという態度は心底軽蔑します。徹底的
に疑って、疑って、疑い抜いた後に残るわずかな真実にしか興味がありません
よくわからないのですが、では「創造主がいない」ということをどれだけ徹底的に
疑ったのでしょうか。「創造主がいない」とたやすく信じているのではないのでしょうか。
A_Shift さんへ
光速云々について今ひとつわからなかったのですが、そもそも
私は不変と考えられているものの代表の一つとして、光速を取り
上げたのですが、光速が不変でないならE=mc2も成立しないと
いうことですよね。神はE=mc2 に縛られる存在ではないので
この式が創造時に成立しなくてもかまわないと思いますが。
洪水後の世界にいる私たちがどれだけ今とはまるで違う洪水前のことま
で観測できるか疑問です。
>測定範囲内で、実験できる範囲内で一番尤もらしい理論を組み上げるだけです。
もちろん理論に反する観測、実験結果があれば、理論は修正されていきますよ。
一番もっともらしいというのは、例えば今も昔も光速は不変だということですよね。
でも、「現在の観測結果によって、神が最初に星を造ったときと今とは光の速さが
異なることは否定できない」ものなら、光速が不変でないと考えても理論を作り上
げてもいいのではないでしょうか。
谷庵さんへ
>揺らいでいなければここでいつまでも書き込んでいないでしょう
念のためですが、私がここでいつまでも書き込んでいるのは、
単に私が返事を書くのが遅いためだけであって、信仰は揺らいでいません。
正直言うとこう毎日何人もの方に返事を書くのは疲れます。信仰がどうこう言う
問題ではなく、疲れるので早く私もやめたいです。返事しなくても許されるなら
そうしますが、それは失礼かなと思っているので、責任を果たすまでは書くつも
りです。
通りすがりさんへ
わざわざ答えてくださってありがとうございます。
私はどうしても光速不変を否定したいのではありませんが、
どれも無理があると思います。
>1.神は星を作っただけでアダムは星は見ていない(創世記に星を見る記述はないよね?)。
アダムについては確かに星を見たとは書いていませんが、見なかったとも書い
ていません。神が太陽、月と同時に星を造ったのであれば、聖書理解の上からは
星も見たと考えるのが聖書の上からは合理的です。
>2.完全な人間であるアダムは我々と違って超光速粒子タキオンを見る能力があった。
なるほど、そうかもしれません。ただタキオンについてよく知らないので教えてほし
いのですが、タキオンとは10億光年を1日にするほど、そんなに速いものなのですか。
そんなに速いものを今の科学はどうやって測定するのですか。
>3.創造当時の地球の自転は遅く、1日が何万年も続いた。
昼が何万年、夜が何万年ということになりますね。その間の生物は
どんな暮らしをしたのでしょうか。何万年も光合成できないし、生存は無理では?
聖書的には、安息日の問題からそうは考えられません。
>4.光が届くまでの間、神は地球の夜側の上空に星空の書き割りを置いておいた。
そんなだまし絵みたいなものを造る神なら「真実な神」とはいえないので
はないでしょうか。
PDXささんへ
>聖書の記述と科学を擦り合わせしなくてもいいように思えるのですが。
私自身のことならその通りです。ただ、創造科学は疑似科学であるというのが
この掲示板の主張ですから、それに反論するためには聖書と科学をどうとらえるのか
他人のためには説明する必要があると思うのです。
>聖書と量子力学が矛盾したときsaniku-aikiさんはどうするんでしょう?
進化論と同じように量子力学を否定するでしょうね。
>科学を全否定してしまうと、それを礎にした技術全般を否定することに繋がるわけで
というか、科学云々を言う前に、創造主が存在し、なおかつ創造主が秩序の神だから、
科学も存在するのです。原子の動きを定めた神がいなければ、全ての科学法則も成り
立たないのです。全てのものは神によって創造されたのですから、私は創造主を
否定することは科学を全否定することに繋がると考えています。
揚羽本手
だいぶ前からほとんどあきらめていて、長いこと首の皮一枚という状態。
今となっては首の皮も残っていないで、脱落することが決まっている角質層が残っているのみ。
ライオンズファンだって早く楽になりたい!
>  ̄|_|○
腹筋を鍛えてるんですよね!
もたついてんな
それは兎も角,打ち上げ(OFF会)は博多でええんか?
とりあえず
 ̄|_|○<寺原のばかぁ・・・
タイトルのとおり鈴木隆行選手が9/26のベルギー1部リーグの試合にて得点を取りました.オメデトー!!
日本代表のエースも長い沈黙からようやく復活ですね!!もうじきアジア予選も始まりますが一安心といったところです.
詳しくはリンク先を見るのだ!!
ところで最近の掲示板を読んでおりますと,saniku-aikiさんと皆さんのやりとりとなっておるようですが,少し気になるところが・・・
何と言うか,saniku-aikiさんの書きこみからは「おまわりさんに見つかるといけないから○○しちゃいけません」とか「怖い叔父さんに怒られるから△△しないようにしようねえ〜」といった,お母さんが子供に言い聞かせるための方便に近いものを感じてしまうのですね.
これ場合によっては○○や△△をお母さんはやっちゃいけないことと思ってない場合があるんだよねえ〜〜〜〜
またまたところで「神」という言葉も定義の難しい言葉ですね.元々の意味からすると(元々は申で雷からとってますね.自然現象そのものを崇めていたのか,それとも雷を神のいる証拠としていたのでしょうか?),神というのは複数いるのが前提みたいだから,『創造者』のようなものは神とは別の存在とも考えられるし・・・また別の見方として,神=守護神と捉えるならば,その民族の守護神が創造神的なキャラクターを持っているのだとすれば,創造神は神の定義に入るのだとも思われるし・・・
どなたか神の定義というものをご存知ないでしょうか?
無論,特定の「神」ではなく,普通名詞としての「神」です.
ではでは.おひさしぶりのかくりでした.
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20030927-00000014-kyodo_sp-spo.html
創造論が「科学」的事実でなければ、信仰が揺らいでしまうというのならば、
「死は罪の結果」であることも、
マリアが処女でイエスを生んだことも、
イエスが復活したことも、
イエスが現在「神の右に座しておられる」ことも、
全て「科学的」に説明できなくちゃ、信仰揺らぐんじゃないのかな。
どうなのかな。
よくわからん。
To saniku-aikiさん
>死は罪の結果ですから、アダムの前に化石があれば、アダムの前に
>罪を犯した者がいることになり、聖書と矛盾します。
聖書と矛盾しようが、自分の行いや先人の行為が無駄であろうが、そこから何かを見出し育んでいけば良いだけだと思うんですがね。聖書信仰ってのは子供じみた思い込みにしか見えないのですよ。そもそも神は万能で洪水前と後で地球の様子をガラリと変えられるくらいなのですから、人間の視点で無駄とか論じていること自体がナンセンスなのに、自己矛盾にまったく気付かないってのは偽善としか見えませんねぇ、私には。
#自己批判が出来ない人は、信用に値しない。
私たちが投げかけたこれまでの言葉にしても、saniku-aikiさんが答えているのは、割りと答えやすい部類の問い掛けに対してだけですし、それこそ無駄なことは自重された方がよろしいかと思うのです。事実が聖書に矛盾するくらいのことで揺らぐ信仰なら、私は少しも尊いと思いません。
前に「創造論者はどうして進化論ばかり問題にするのか」と言っていた方が何人か
いらっしゃいましたよね。
ちょっと問いを変えて、
創造論以外に、科学的にはありえないこと、沢山聖書に書いてありますよね。
その最たるものが、キリスト教の教理の根幹とも言える
「キリストは、死後3日目によみがえった」
というの。
創造論が「科学」と主張する人たちって、
これも、「科学的」に証明できるとしてるのでしょうか?
証拠とか、事例とか挙げて。。。
これを「ありえない」とする説に対して「(擬似?)科学的に」反論してるのかな?
ちょっと興味があるんですけど、誰か教えてくださいますか?
>厳密に聖書で使っている種の言葉の意味を知ろうとするなら、分類項目の何に当たるかは生物ごとにやるしかないでしょう。
だったら、最初っから、
何となくわかると思うのですが、分類項目上では、「科」あるいは「属」
に当てはまる大きな意味での種類という意味の{種}です。
なんて、言わずに「聖書の言葉に従った分類です。」って言えばいいのに...。
ところで、
>オオカミが犬になるような{種}を超えない小進化に分けた場合、大進化は否定しますが小進化は認めています。(投稿日: 9月17日(水)21時57分19秒)
家畜と野の獣は別々に創造されたのだからオオカミが犬になることは聖書の記述に反するのでは?
オオカミを家畜って言うことも犬を野の獣って言うこともありえないでしょうけど。
(豚とイノシシも別個に創造されたんですよね?)
temaさんお早うございます。
何をもって「普通人」とするのかは全くあやふやです。誰でも自分が普通だと思っているのでないでしょうか。
私の場合で言えば、啓示なんてものが有るのかどうかは想像もできません。
自分の想像を超えた想像論の掲示板(字、合ってる?(^^ゞ)は禁断の園であります。
贖罪は何故キリストでなければならなかったかを考える時、「罪の無い完全な命」が重要な事柄になってきます。ただ単に身代わりなどと云うだけなら人類のなかからでも大いに忠誠を示した(ヨブ・例えばの話)でも良かったわけで、極端に表現するなら「二羽の鳩」でも勿論良かった事にも繋がりかねません。贖罪に値する完全な命を持ち合わせていない人類に代わってキリストが与えられたのです。聖書の各部分は当然この事柄がベースにあるのであり、これが弱められると「神の愛」が当然ぼやけたものになってしまうでしょう。
あまり本などから回答を探す作業をされますと、最後は(本にありません)が回答になりますよ。何時かのバプテスト教会の古い牧師さんは「そこまで教会は教えてくれない云々、、」が最終の回答になりました。まあここはそのような場ではありませんのでそこまでやりませんが。
回答は求めませんが、貴兄はヨシュアの時代、太陽の運行が一日停止した記述と、イザヤの時陰が元返った現象とかご自分の口で説明できますか?掲示板には何でもご意見とありますが、それに甘えた体のよい布教活動は止めにしませんか?私は管理人でないのでそれを言う権利は無いのですが、皆さん閉口されてるように思います。
GOAさんへ
>つまり同じ「科」に属するヒトとチンパンジーは聖書で言うところの同じ「種」に当てはまるということだな
同じヒト科になるわけですが、別の種とみていますね。理由はなぜなんでしょう。
人間は別に造られたからでしょうね。元々聖書には「種」や「科」の言葉を
使っているわけではないので、厳密に聖書で使っている種の言葉の意味を知ろ
うとするなら、分類項目の何に当たるかは生物ごとにやるしかないでしょう。
ひろうすさんへ
>アダム以前に化石があっても別にかまわないんじゃないですか
死は罪の結果ですから、アダムの前に化石があれば、アダムの前に
罪を犯した者がいることになり、聖書と矛盾します。
ベレアの人々の末裔さんへ
>完全な命を請け戻すにはモーセの律法にある「目には目を」同様、同等の対価「完全な命には完全な命」が必要となり、人間の誰一人として出来ない役割を神の愛によって地上に派遣されたイエスが代行されたのです。身代わり云々ではちょっと話が違うような気がしますが?
この問題に答えていると、進化論と創造論の話題からますます離れてしまうので
申し訳ないのですが、創造論者にもこういう人がいると知ってほしいので書きます。
聖書はキリストを人類の「罪を負われた方」として描いています。
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは
/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和
が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・そのわたした
ちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5,6)
罪があれば死は免れません。私たちの罪がキリストに移されたので、その結果
私たちは罪のない清い者とされるのです。逆にキリストは罪は犯されなかったのに
私たちの罪を負ったので、死ななければならなくなったのです。このことを
キリストが私の身代わりとして死んでくださったと表現したのです。
また、身代わりの概念は旧約聖書にある聖所の犠牲制度にも明らかです。罪人は
自分の罪を羊や牛に移し、それらを犠牲として献げることで赦されましたが、
それは人類の罪を「神の子羊」イエスに移すことで救われるという救いの計画を
象徴していました。
参考「新キリスト教辞典」いのちのことば社 「贖罪論」の項
「教会においては,キリストの代価が身代金としてサタンに支払われたと見る考えと,
神に支払われたとする満足説の二つが基本的に認められてきた.西欧の教会は,
基本的に*アンセルムスの満足説の立場を取りつつ,それを補う形で贖罪論を形成し
てきた.アンセルムスにおいては,神の満足の面が強調されたが,キリストの代価が
人類の身代りであったことは充分に説明されていなかった.この身代りの面から贖罪
論を考察するのが代償説である.すなわち,キリストが私たちの罪を十字架上で負わ
れたので,その結果私たちの罪は赦されるというのである.このことはイザヤの預言
の中で語られている.(略・イザヤ53:5,6).さらにイエス御自身が「人の子が来
たのが…多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためである」
(マタイ20:28,マルコ10:45)と言っておられるが,この「(多くの人)のための」
と訳された前置詞〈ギ〉アンティには「…の代りに」という意味もある.また端的に
身代りを表す前置詞〈ギ〉ヒュペルも使われている.「神は,罪を知らない方を,
私たちの代わりに(〈ギ〉ヒュペル)罪とされました.それは,私たちが,この方に
あって,神の義となるためです」(Uコリント5:21).「私たちがまだ弱かったとき,
キリストは定められた時に,不敬虔な者のために(〈ギ〉ヒュペル)死んでください
ました」(ローマ5:6).このように,キリストによる贖罪には,人類の身代りの面
がある.」
Kosukeさんへ はじめまして
> 神からのインスピレーションを感じない普通人は書き込んではいけません。
つまり、
神からのインスピレーションを感じない人=普通人
神からのインスピレーションを感じる人=普通じゃない人
という事なのでしょうか?
あっ!違うかも知れない。
ひょっとして、神からのインスピレーションを感じない異常な人は書き込んで良いということでしょうか?
こうこさんへ はじめまして。temaも新参者です。
> なぜ聖書を信じていらっしゃるのでしょうか?
同じようなことをtemaも質問したことあるんですが、答えは貰えてないんですよ。言葉だけでは伝えそうにない内容なのかな? いや、それ以前にsaniku-aikiさんには質問が山積みなので、答えきれないのかもしれません。
気を長〜くして待ってた方が良いと思います。
ゲートに惜しいところで通らなかったゲートボールとか?
_| ̄|○
↑ここにゲートの影が伸びてるから、夕方ですか?
クラウチングスタートですよね(笑)
両膝がついているのもOKになりましたし(爆)
それと、予め言っておく、
痔の検査でもない
この前、それを見に芸術の森美術館へ行きました。
http://www.stv.ne.jp/event/lehmbruck/work01/02.html
このポーズを見ると、「オレはイスラム教徒じゃない!」というんじゃないかと...。
(ディスプレイの右側にメッカがある、と仮定して...)
RYU_TI_SYUさん
こんなポーズをとられると、背後から私のベビースタードデカイラーメンが襲ってきますよ。(CMネタ)
...て、この絵文字、上から見た図?
とりあえず
_| ̄|○ だ
長〜くなりそうですぞ〜(@_@。
はじめて書き込みさせていただきます。
過去ログを拝見していて感じた質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?
saniku-aiki様
なぜ聖書を信じていらっしゃるのでしょうか?
なぜ神を信じていらっしゃるのですか?
進化論や創造論からは離れてしまう質問である事はわかっています。
ただの興味ですので、もし失礼だと感じられた場合は無視してください。
どうぞよろしくお願いします。
ローマ13章1節では、人は皆上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。(この場合神は別格ということ)
saniku-aiki様は、過度に自我を通す事で、進化論はおろか返す刀で神にも逆らっているようにも見受けられます。
こうして盲人が盲人を手引きして両方共穴に落ちるのです。この事に御本人は気付いておられません。
創造論再評価の啓示板
神からのインスピレーションを感じない普通人は書き込んではいけません。
>進化は事実であるといったような主張は、私のような創造論者にとっては
まさに受け入れられるはずもない前提(聖書は間違い、創造主はいないなど)
を根拠にしているので、同じように立派な押しつけに聞こえるという
ことをご理解ください。
たんなる言葉のあやではなく、この話の核心と思いますので訂正させていただきます。
進化論は、「聖書は間違い、神はいない」を
前提にしておりません。
なんども指摘していますが、「進化論が正しければ神がいなくなる」と主張しているのは
saniku-aikiさん、あなただけです。
ここのページのコンテンツくらいは目を通すべきじゃないでしょうか>saniku-aikiさん
http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/flood.html
http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/panda.html
>進化は事実であるといったような主張は、私のような創造論者にとっては
まさに受け入れられるはずもない前提(聖書は間違い、創造主はいないなど)
を根拠にしているので、同じように立派な押しつけに聞こえるという
ことをご理解ください。
saniku-aiki さんがそのように感じていることは皆知っています。
そんなことは十分に知った上で皆さんが書き込んでいることをご理解ください。
まあ、いまはNATROMさんが提示した「聖書の逐語的解釈の矛盾」に答えてもらうことが先決ですので、しばらく静観させていただきます。
科学に無知と言うよりも、目が曇っていて素直な目で事実を直視できないのだと思います。
2つしか可能性を思いつかないと言うよりも、信仰が邪魔をしてわざと見つけない、見つけたとしても隠匿するということなのでしょう。
聖書によれば、真理は人を自由にするはずなのですが、想像(あえてこう書く)科学信奉者に自由はないのです。
それは、彼らの体系が真理ではないからなのかもしれません。
# そもそも進化論の主張をしても、「創造主」を否定することにはならないと皆さん言っているのに、彼はなぜわかろうとしないのでしょうか。この点も、理解力がないというよりも、わかりたくないからなのでしょう。
長谷川さん@創造論再評価の啓示板
http://158.teacup.com/kenko/bbs
巨大モルモットの化石発見の記事が、いったいどうして「800万年前」の地層が4500年前のものに相当する「証拠」となる理由も不明ですが、3万数千年前の、ルーマニアの、ネアンデルタール人と現生人類の両方の特徴を併せ持つ人類化石の記事を紹介した上で、長谷川さん@創造論再評価は
>既にネアンデルタール族と「現代人」がDNA分析鑑定結果で60万年前に完全分離した
>という結論を出している以上、3万年前の現代人にネアンデルタールの特徴がある
>はずがありません。
>この矛盾を説明するには次のふたつの可能性のいずれかが考えられます。
>(1)現代人とネアンデルタールは実は分離していなかった。
>(2)年代測定結果が不正確で滅茶苦茶。
と書いています。あいかわらずです。新聞記事程度でしか、「DNA分析鑑定」がどのようなものか知らないゆえです。大学教養部程度の生物学の知識を持っていれば、上記2つ以外の可能性をいくらでも思いつくことができるでしょうに(たとえば集団は分かれたが局地的な小規模の交配は起こっていた、など)。私はどの聖書の解釈が正しいかについてはあまり興味はないのですが、傍から見ていて、若い地球の年齢を支持する人たちはほぼ例外なく科学の知識について無知であり、にも関わらず科学について見当はずれのことを平気で言っているので、聖書の解釈についても、若い地球の年齢を支持する人たちは聖書に関する知識(ヘブライ語など)について無知なのに見当はずれのことを言っているのではないか、と邪推してしまいます。
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