進化論と創造論についての掲示板ログ178

2003年09月21日〜2003年09月26日
このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
トップページに戻る
掲示板ログ177へ
掲示板ログ179へ

長谷川さん@創造論再評価の啓示板からのネタ  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年09月26日 0時47分

長谷川さん@創造論再評価の啓示板
http://158.teacup.com/kenko/bbs

巨大モルモットの化石発見の記事が、いったいどうして「800万年前」の地層が4500年前のものに相当する「証拠」となる理由も不明ですが、3万数千年前の、ルーマニアの、ネアンデルタール人と現生人類の両方の特徴を併せ持つ人類化石の記事を紹介した上で、長谷川さん@創造論再評価は

>既にネアンデルタール族と「現代人」がDNA分析鑑定結果で60万年前に完全分離した
>という結論を出している以上、3万年前の現代人にネアンデルタールの特徴がある
>はずがありません。
>この矛盾を説明するには次のふたつの可能性のいずれかが考えられます。
>(1)現代人とネアンデルタールは実は分離していなかった。
>(2)年代測定結果が不正確で滅茶苦茶。

と書いています。あいかわらずです。新聞記事程度でしか、「DNA分析鑑定」がどのようなものか知らないゆえです。大学教養部程度の生物学の知識を持っていれば、上記2つ以外の可能性をいくらでも思いつくことができるでしょうに(たとえば集団は分かれたが局地的な小規模の交配は起こっていた、など)。私はどの聖書の解釈が正しいかについてはあまり興味はないのですが、傍から見ていて、若い地球の年齢を支持する人たちはほぼ例外なく科学の知識について無知であり、にも関わらず科学について見当はずれのことを平気で言っているので、聖書の解釈についても、若い地球の年齢を支持する人たちは聖書に関する知識(ヘブライ語など)について無知なのに見当はずれのことを言っているのではないか、と邪推してしまいます。


あのねー>sanikuさん  投稿者:wadja 投稿日: 2003年09月26日 0時41分

元のwadjaのカキコを読んでいない人が誤解すると困るので、しつこいけどのせておきますね。

(以下9月15日のwadjaのカキコ引用)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>創造主が見えていない進化論者の方が私は盲目だと思います。

これだけ進化論者と議論なさっていて、この言葉はないんじゃないかな?確かにsanikuさんの思い描く創造主は、進化論と対立するかも知れません。でも進化論はあらゆる創造主を否定するわけでもなく、また特定の創造主を肯定する訳でもない。だからこそ、ある創造主の存在を信じていても、進化論を許容できる人たちも存在し得ます。上記の発言は「ぼくの信じているこの創造主がぜったい正しいんだもんねー。他の創造主を信じている人や、この創造主や信じられない人は、みんな馬鹿だ。」といった、小学生レベルの主張を連想させます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ということで、sanikuさんの創造主と進化論が対立することは、理解していたつもりですけど?もともと広義に「創造主」という言葉を使用しているのは、原文を読めば明白な気がします。wadjaは、創造主を信じながらも進化論を許容できる人々に対し、sanikuさんの発言は失礼では無いかと指摘したつもりでした。

>盲人が馬鹿ではないように、進化論者は盲目だと言ったからといって別に馬鹿だとは
思っていません。

なんかwadjaが「盲人は馬鹿だ」とでも言ったみたいに聞こえるじゃないですか(-_-;)

wadjaが言いたかったのは、自分が盲人でないと思っている人を盲人呼ばわりすることは、人をバカにする態度だとは思いませんかってこと。くどいけれど、「盲人は馬鹿だ」などとwadjaはこれっぽっちも思ってませんよ。スティービー・ワンダーや、長谷川清は、wadjaの敬愛する音楽家だし。


聖書の「解釈」  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年09月26日 0時30分

>私は創造の1日は
>あくまで24時間であって、長い時間をさす解釈は不適切だと考えています

「私はヘビの食べ物はあくまで塵であって、口が非常に土に近づくことを表しているとする解釈は不適切だと考えています」と誰かが言い始めたとして、その人は正しいとsaniku-aikiさんはお考えですか?

「夕となり朝となった」という言葉を比喩的に解釈してはいけない理由はなんなのでしょう?たとえば、「夕べも朝も、夜も昼も、創造主である神が支配し統治することを表している(#)」と解釈してはならない理由はありますか?なるほど、安息日からは創世記の一日を24時間と解釈すべきだという理由が得られるでしょう。しかしながら、聖書のほかの部分からは創世記の一日を24時間と解釈すべきでないという理由も得られます。「神にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という部分はすでに紹介されました。他にも、6日目にアダムはすべての家畜と鳥と野の獣に名をつけたとあるが、24時間のうちでその作業が終わるのか、とか、太陽は4日目につくられたとあるが、太陽もないのに朝も夕もあるのか、とか。

聖書には「被造物を通して神の力が認められる」といった意味のことを言っています(ローマ人への手紙 1:20)。地層や化石が被造物であることには異論の余地がないと思いますが、この聖書の部分が正しければ、聖書を知らない地質学者が地層を調べたとしても、その地質学者は神の力を知ることになるはずです。実際、地球の歴史が6000年なんて言っている地質学者はいないのですが、その点についてsaniku-aikiさんはどうお考えですか。若い地球の年齢の証拠を見つけようとした19世紀の地質学者でさえ、6000年以上の地球の歴史を認めたのですが。被造物からは、地球の古い年齢は明らかなのです。

もちろん、地質学者の地層の解釈は人間による解釈ですが、それなら安息日から創世記の一日を短い期間だと解釈するのだって、人間による解釈です。saniku-aikiさんの信仰の対象は、聖書ですか?それとも人間による聖書の解釈ですか?

#進化をめぐる科学と信仰 大谷順彦著 P145を参考にした


今日の答え 2  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月25日23時16分

谷庵さんへ

>異教徒には受け入れられるはずもないことを前提とした(聖書を根拠とした)主張をすることは立派な押しつけだと思います。

そう受け取られるのでしたら、大変申し訳ないことをしたと思います。
信仰は自由であるべきですから、押しつけは私の本意ではありません。
ただ、このことに関して一言だけ反論させていただきますが、進化は
事実であるといったような主張は、私のような創造論者にとっては
まさに受け入れられるはずもない前提(聖書は間違い、創造主はいないなど)
を根拠にしているので、同じように立派な押しつけに聞こえるという
ことをご理解ください。

>宗教がらみの殺人、無差別テロ、戦争が起きていますよね。

もちろんいいことだとは思っていません。確かに宗教が絡んでいますが
聖書的にいえば、これらのことは全て罪の問題です。罪の問題を解決する力は
宗教にしかありませんから、逆説的ですが、争いをなくすためにはもっと
信仰を成長させることだと私は思います。

おずおずさんへ

>この前確かに、キリストを信じない人も助けるって言ってたのにぃ

説明不足ですみません。キリストが2000年前に十字架にかかって死んだことにより、
キリストを信じない人も含めて全人類の救いが「すでに」与えられています。
救いは信じるから与えられたのではなく、信じる前に平等にただで与えられたのです。
キリストの救いは、人間がよい行いをしなくても誰にでも与えられました。
この意味においては、全ての人は宗教に関係なく救われるのです。
でも、実際に救われる(天国に行く)のは「まだ」先の話です。
そのため、ある人々はせっかくもらったこの救いの効果を信じません。
それで、キリストを信じ続ける人と、信じない人に分かれます。
キリストが再び来られるときに、信仰を持ち続けている者だけが天国に
行くことができます。キリストは人間の意志を尊重されるので、
もしその人がキリストの救いは要らないと考えるならば、いわば助けるために
伸ばした手を払いのけられたことになるので、キリストはその人を
救うことができなくなるのです。


今日の答え 1  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月25日22時44分

sci98さんへ

>私の信仰する宗教には「救済」という概念はありません。
「どの宗教も」という一般化はおやめいただきたい。

申し訳ありませんでした。「どの宗教も」は確かに言い過ぎでした。

>真理と観測事実が異なることなんていくらでもあるだろうに。
#たとえば、地球の衛星は全部で七つですが、観測されるのは一つ(月)だけです。
#理科年表とか天文年鑑には地球の衛星について月しか書かれていませんが、
#この記述は充分科学的でしょう。

そうなんですか。私は月だけかと思っていました。それで
一つ教えていただきたいのですが、観測事実と真理が異なっても
充分科学的であるというのなら、たとえ進化を示す観測事実があったとしても
創造が真理であると主張することも充分科学的ということになるの
ではないのでしょうか。

>「聖書を信じれば創造論を信じられる」のは当たり前です。

ご理解していただいて感謝です。


大文字ナンさんへ

>1万年も寓意である、としてしまえば万事解決するように思えます。

そうお考えになるのはごもっともです。事実、有神論的進化論者と
いわれる人々は聖書をそのように解釈して、聖書と進化論の調和を
はかっています。それも一つの方法でしょうが、1日は何千万年の
ことだと考えるには無理があると私は考えています。
 それは、「夕となり朝となった。第何日である」という言い方は
24時間を示すと考える方が妥当だからです。ヘブル語の「日」には
「時代」の意味もあるそうですが、第何日の言い方をするときには
「時代」の意味はなく、24時間の1日の意味だけであると聞きました。
言語学的な面からだけではなく、聖書の中からも長い年月をさすと
考えるのには無理があります。有名なモーセの十戒の第4条にはこう
あります。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれ
あなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
いかなる仕事もしてはならない。・・・ 六日の間に主は天と地と海
とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息
日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8-11)
 イスラエルでは今でもこの戒めに従い、7日目である土曜日を安息日として
聖別し、休んでいます。天地創造の1日が24時間でないのなら、土曜の1日を
休む根拠がなくなります。また、「イエスはお育ちになったナザレに来て、
いつものとおり安息日に会堂に入り」(ルカ4:16)とあり、イエスも安息日を
24時間のものとして受け入れています。もし、1日が24時間でないのなら、
イエスは土曜日を安息日として守る意味がないことを教えてもよかったはずです。
イエスは7日目が24時間であることを認めているので、私は創造の1日は
あくまで24時間であって、長い時間をさす解釈は不適切だと考えています。


>神は、この地球に「さも進化があったかのように」証拠を残されたことは事実だと思えないでしょうか

申し訳ありませんが、「さも進化があったかのように」見える証拠を見ても、
解釈が違うために私の目には、神は創造があったことを示す証拠を沢山残されたと
しか思えません。


まぁそのあたりは  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月25日20時11分

To 通りすがりさん

 創造論と進化論以外の説が無いことを証明してからでないと、「どっちも間違っている」
という可能性もありますけどね(笑)


>JA50さん  投稿者:通りすがり 投稿日: 2003年09月25日18時36分

私個人としましては、有神進化論の立場ですけど(^-^;

創造「科学」を信じる人に対しては、何も進化論が「正しいこと」を証明する必要までは無く、進化論が科学的に間違ってはいないということを証明すれば十分ではないのでは?と思っただけです。

正しいの反対は間違っているとは必ずしもいえず、正しいとも間違っているともいえない領域があると思うからです。


スーパー亀レス  投稿者:うさしゃぶ 投稿日: 2003年09月25日13時28分

法的根拠ではなく法的拘束力でした。
昔は指導要領をこえてはいけないという暗黙の了解があったようだけど、学力低下を受けて
今では、最低ラインであり、状況に応じて発展させてもよいとお役所は言い始めました。


対偶、その他  投稿者:JA50 投稿日: 2003年09月25日10時33分

>私は論理学とかにはあまりくわしくないのですが、この場合、対偶としては「進化論が間違っているとはいえないのなら聖書は正しいといえない」の方が近いのでは?

「聖書が正しいなら進化論は間違っている」の対偶は「進化論が間違っていなければ聖書は正しくない」でしょうけど、「正しくない」とは「間違っている」ということであり、「間違っていない」とは「正しい」ということなら、「進化論が正しいなら聖書は間違っている」となるんじゃないですか。

「できないから、いるかいないかは結局は信じるしかないのです」とsanikuさんは言っていますが、彼自身は「いると信じる」ことができないんじゃないのかな。
そういう確固とした信仰じゃないから、神を否定しているように見える進化論が不安でならないんだ。

進化論が正しかろうが間違っておろうが聖書は正しいという確固とした信仰があれば、進化論などどうでもいいことです(進化論が正しかろうと聖書は正しいんだから、聖書が正しければ進化論は間違いだなどとする必要はないんだから)。
それができないもんだから、進化論が正しかったら聖書が否定されるとビクビクしている。

ビクビクしているのは、あなたの信仰が揺らいでいるためだよ。その揺らぎは、進化論を否定しようが止まらないよ、逆によけい揺れるだけだよ、と皆さんがアドバイスしているんだけど(いろいろ手をかえ品をかえして)、信仰という個人の問題は他人があれこれできるものではないわなぁ、、、


脱線  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年09月25日 9時47分

>こういう「事実」はカガクなんかには手も足もでにゃーのだ。

ねこさん、地下で素敵な本読んでますなー。
地下の沈黙と闇の中で深い思索にふけるのかなー。
むかし、 「音・ことば・人間」(岩波書店・武満徹と川田順造の
往復書簡集)を読んでむちゃくちゃ感じ入ったことを思い出しました。
「音の河」も読んでみよ。


6日間と言う事  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月25日 5時30分

聖書では、ペテロ第二三章八節にこう明言されています。つまり、
しかし、愛する者たちよ、この一事を見逃してはなりません。神にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようであるということです。
とあり、(よう)と言う事ですので人間には如何程なのか決めかねるのです。


>JA50さん  投稿者:通りすがり 投稿日: 2003年09月25日 1時22分

>「聖書が正しければ進化論は間違っている」って言明は「進化論が正しければ聖書は間違いだ」>という言明と同義です、対偶ですから。


私は論理学とかにはあまりくわしくないのですが、この場合、対偶としては「進化論が間違っているとはいえないのなら聖書は正しいといえない」の方が近いのでは?

別に進化論が「正し」いことを証明する必要はないと思います。
間違っていないことを証明すればいいのでは。


感想  投稿者:こんばんは 投稿日: 2003年09月25日 0時37分

こんばんは。
足跡のこします。
進化論もなかなか奥が深いですね。
勉強になりました。
私は創造論は科学ではなく、スピリチャルなものだと思います。
良く(?)言えば科学を超えたものです。
それを科学とごっちゃにしてしまうから変なことになる気がします。
あくまで個人的な意見ですが。

http://www.kirisuto.info/


あーあ  投稿者:3ET 投稿日: 2003年09月25日 0時21分

すでに終わっている話だと思っていたんですが……私が言っていないことを言ったと主張されるのは心外なので……

>神様は人間の理解を超えた超越者ですし、科学法則さえも支配しておられる方だと私は考えています。

この部分について、私はまったく反論していません。この掲示板に来ている方の大半がそうだと思います。
なんどでもいいますが、「信仰」を持つことは自由です。

>人間がいくら神はいないと言ったところで、それで神が本当にいないとは言えないでしょう。

私は神がいないと言ったことはありません。
進化論が成立すると神がいなくなると主張なさっているのはsaniku-aikiさんです。


ひとつ聞きたいのですが、、、

科学というものの手続きにおいて、「この証拠は採用するけど、この証拠はなかったことにしよう」
と恣意的に決めることは許されるとお考えでしょうか?


許されないと思うなら。

「創造科学」が科学的に正しいと主張なさっておられる根拠であるとことの聖書の記述について
「この記述は証拠であるが、この記述は証拠でない(寓意である)」と恣意的に決めているのは何故ですか?


許されると思うのであれば、、
貴方の言われる「科学」は定義のあらゆる意味で、「科学」ではありません。貴方がどう思おうと。


ただ、、

>逆に言えば、神の存在も同じように科学では証明できません。
>できないから、いるかいないかは結局は信じるしかないのです。

この部分を読むと、saniku-aikiさんは、「創造論」(科学の字を外しました)は信仰的に正しいんだ。
と主張なさっているようにも思えます。
そうであれば、私とsaniku-aikiさんは、合意に達したと言えます。

そうです。神の存在/不存在は、科学が扱う領域ではありません。
進化論は科学的に正しい(かもしれない)。たけど、それとは関係なく神は存在する。


うそはよせ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年09月24日23時41分

>信仰によって「神はいない」と考えるのが科学なら、

つまりsaniku-aiki理論によればウルトラマンがフィクションだと信じるのも信仰によって信じているのであって科学的な判断ではないってことですね。

>ノアの洪水後については斉一論は成り立っていると思いますから、

Yahooの掲示板で「ノアの洪水後地球が冷えて縮んで山脈ができた」と言ってたが、主張を改めたのか?
それとも地球が数十度の温度変化でシワシワになるというのが“斉一説”が成り立つ今でもありえると思っているのか?...まあ、答えないだろうけどね。


2つの証明問題  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月24日23時22分

3ETさんへ

>神の前提なく、神の存在を証明すること

神様は人間の理解を超えた超越者ですし、科学法則さえも支配しておられる方だと
私は考えています。人間がいくら神はいないと言ったところで、それで神が本当に
いないとは言えないでしょう。科学的にいないと言ったところで、その方法では
見つからなかったというだけのことです。逆に言えば、神の存在も同じように
科学では証明できません。できないから、いるかいないかは結局は信じるしか
ないのです。信仰によって「神はいない」と考えるのが科学なら、同様に
信仰によって「神はいる」と考えるのも科学になります。

PDXさんへ

>斉一論を否定し、他人に納得をさせようと思うのであれば、斉一論が成立し
ないことを証明するしか無いと思います。

おっしゃることはわかります。確かに科学的に説明できればそれが一番皆さんを納得
させられることでしょう。そして、それが難しいことだと言うこともわかっています。
でも、斉一論が正しくないことが証明できないからと言って、斉一論が真実だとは限ら
ないでしょう。ノアの洪水後については斉一論は成り立っていると思いますから、洪水
以前も斉一論で正しいと言える可能性はもちろんありますが、事実正しいとする証拠
はないと思います。
 


wadja さんへ  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月24日22時52分

>進化論はあらゆる創造主を否定するわけでもなく、また特定の創造主を肯定する訳でもない。だからこそ、ある創造主の存在を信じていても、進化論を許容できる人たちも存在し得ます。

 広義においてはおっしゃっていることは正しいと思います。ただ、「創造主」と
いう言葉の定義の問題になるのですが、私のように6日間(144時間)で創造した
神と、何万年もかけて創造した神とは、聖書の理解が大きく変わってきます。
皆さんが問題にしている創造科学は、何万年もかけて創造されたと考える科学
(最初の生命だけは神が創造したが、その後進化によって多様化したと考える)
ではなく、6日間による創造を信じている科学だと私は思っていました。誤解し
ていましたか。私が使った「創造主」という言葉の定義は、あくまで6日間創造の
神であって、何万年もかけた創造主を意味するのではありません。


>「ぼくの信じているこの創造主がぜったい正しいんだもんねー。他の創造主を信じている人や、この創造主や信じられない人は、みんな馬鹿だ。」

盲人が馬鹿ではないように、進化論者は盲目だと言ったからといって別に馬鹿だとは
思っていません。

>聖書には寓話的な要素も含まれ得るということでよろしいのでしょうか?

そのとおりです。私の考えは以前と変わっていないのですが、これまで十分説明
できなかったか、私の説明が悪かったかのどちらかで、どちらにしても誤解を与えて
いたことは申し訳なく思います。士師記9:8−15には無生物を擬人化したたとえ話が
あります。「木々が、だれかに油を注いで/自分たちの王にしようとして/まずオ
リーブの木に頼んだ。『王になってください。』オリーブの木は言った。『神と人
に誉れを与える/わたしの油を捨てて/木々に向かって手を振りに/行ったりするも
のですか。』聖書に書いてあるからと言って、実際に木々が会話したとは私は考えて
いません。寓話であると考えます。イエス自身も死んだ者同士が会話するこんな話を
語っています。
「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れ
て行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目
を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見
えた〜」(ルカ16:22-23)。これはイエスの言葉であると私は信じていますが、死者
は何事も知らない、何事もできないというのが聖書全体を通しての教です。ですから、
この箇所は比喩として私は考えています。これは聖書のみを信じていることと矛盾す
るものではありません。聖書をそのまま信じていることとも矛盾しないことだと私は
考えています。大切なことは聖書全体を知り、聖書のほかの箇所と矛盾がないように
解釈することです。
 何度もしつこく書いて申し訳ありませんが、私が6日間創造にこだわるのは、そうで
ければアダムの前に死があることになり、キリストが人類のために死んだことには
ならなくなるからです。6日間創造を寓話とすれば、キリストは私の罪のために死
んだと考えるキリスト教の根本的な教理は寓話に基づくことになります。寓話に基
づく信仰は安全ではなく、不安定です。パウロはキリスト教徒の信仰の土台はキリ
ストの復活の事実性にあると言っています。「キリストが復活しなかったのなら、
わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたした
ちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、
復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたこ
とになるからです」(コリント第一5:14,15)。復活と同様にアダム以前には死がな
かったことを事実と考えなければ、信仰は無駄なのです。
 なお、アダムの死は霊的な死という考えは、肉体と霊をセットに
して考えている他の聖書記事と矛盾するので、そうは考えないのが私の立場です。

>アダム以前に死がなかったのなら、なぜ神はそれ以前にも死があったように見える科学的な証拠をこれほどたくさん残したのか

 アダム以前の死の証拠というのは化石の存在だと思いますが、化石はノアの洪水に
よるものだと私は考えています。私にとっては、化石の存在はむしろノアの洪水の
証拠であって、アダム以前には死がなかったことを示すと考えています。


事実について補足  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年09月24日14時36分

*****************************************
沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれをつかまえることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は、沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。
(中略)
沈黙にさからって発音するということは自分の存在を証すこと以外のなんでもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>とよべよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。芸術家はなににもまして、この<事実>に心をむけるべきだろう。そうでなければ芸術の現実性という問題もうかんできはしない。
そういう意味で、物をリアルにひきうつしているなどということは卑屈なのだ。芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだし歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。
武満徹「音の河」より
*****************************************

こういう「事実」はカガクなんかには手も足もでにゃーのだ。
聖書に書かれているのも、こういう「事実」なのだと僕は思っているんだけどにゃー。
教典を逐語解釈するなんて、馬鹿以前に「卑屈」だよにゃ。神様と教典を貶めているとしか思えにゃー。


事実はひとつ なんてオオウソ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年09月24日13時50分

「めしを食って、うんこを垂れる」
これだけのことを説明するにあたっても、物理学と化学と生物学と生態学では記述がちがうのだにゃ。もちろん、このことを経済学・社会学・政治学の観点から記述することもできるけど、これはこれでゼンゼン違う記述になるわけですにゃ。さらに、民俗学・哲学・宗教学・文学の観点から「めしを食って、うんこを垂れる」の記述もできますよにゃー。アタリマエのことだけど、特定の宗教の立場からも、食って出す ことについての記述はあるわけだにゃ。

こうした記述は、すべて「事実」を記述したものなのだよにゃ。
確かに自然科学の諸分野においては、いわゆる客観性が高く、相互に矛盾した記述は生じにくいとはいえますよにゃ。だからといって、文学的あるいは哲学的あるいは宗教的な記述が間違いであるとは絶対にいえにゃーわけだ。
「カガクなんてものは所詮たいしたことは述べられないのだあああ。文学や宗教の観点からの記述のほうがより高次の事実を述べているのだあああああ」などと威張っても別にいいと思うにゃ。


ある視点に立たなければ、ある記述そのものが存在しえないわけだにゃ。
例えあるテクストが万能の神の手になるものだったとしても、それがテクストとなった時点ですでに限定されたものとなっているんだよにゃー。それがテクストであるならば限定されたものであり、限定されたものだからテクストになりえるのさ。
そして、限定されているから、読み方ちゅうものがある。自然科学の記述を読むとき、法律の条文を読むとき、詩を読むとき、おのおのの事実に対応した適した読み方ちゅうものがあるにゃ。

聖書逐語解釈は、馬鹿の大権現様だと思うにゃ。


部外者の繰言  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月24日11時09分

私は通りすがりの部外者でしたが、聖書信仰は「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」
saniku-aikiさんの論法は仏教で言うところの「戯論」に終始して。
彼はーー「聖書を完全に信仰している(愛している)」と云う自分を愛しているーーのに過ぎない様に思われます。 面白い論議拝見させて頂き有難うございました。


ひとりごと  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年09月24日 9時24分

>原理主義に身をゆだねるのは(人生と言う苦しい崖登りの最中に)手を離すことに
>相当する。谷底にまっ逆さまだけれど、それは離れている人から見ての状態で、
>本人は、落ちて気持ちがいい。それだけのことでしょう。

「それだけのこと」じゃないよ、世の中に迷惑かけすぎなんだよ!!
(注:wadjaさんじゃなくて、養老さんに突っ込みを入れたいのです)

だから、原理主義の生まれる原因、原理主義が力を持つ原因を考える必要があるし、
原理主義者とも話し合える可能性をさぐる必要があると思う。

けど、、、それは不可能だと言うことなのかにゃ・・・?(涙目)


(無題)  投稿者:sci98 投稿日: 2003年09月24日 7時50分

#タイトルは実は手入力(笑)

>saniku-aikiさんにとって進化論について話す事は徹頭徹尾宗教の事で、
>科学の事じゃないんでしょう。

本来なら、
「聖書には興味がないのでどうでもいいです」
の一言で終わる話なんです。
(聖書に興味があり、saniku_aikiさんと結論が異なる人は
 「信仰上の話として」論議を行えばよい)

saniku_aikiさんがきっぱりと
「私は聖書が正しく進化論が間違っていると信じています。
 これは信仰です。科学的な根拠はありません。」
と言えば、
「何を信じようと個人の自由です。お好きにどうぞ。」
の一言で終わるんだけど、saniku_aikiさんにとって、
「信仰であって科学的根拠はない」というのは
「デタラメ」と同義らしい(Yahooでの発言から)。

このあたりの感覚は私にはわからん。
信仰の前には、たかが科学的事実などどうでもよかろうに。

#実際、私の信仰は科学的事実とかなり食い違うけど
#(進化論とも食い違うけど)
#別に気にならんもの。


事実ね  投稿者:sci98 投稿日: 2003年09月24日 7時48分

>進化が事実ですか。

はい、科学的事実です。
創造論者が信じようが信じまいが、
あるいはどれだけ嘘八百並べ立てようが、
進化は科学的事実です。


>創造主がいないことが事実ですか。

科学的には全くの不明ですね。


>キリスト教信仰は、
>イエス・キリストの復活は事実であると信じることから始まります。

そりゃそうでしょう。
そういう宗教なんだから。


>信仰は事実に基づくのです。

聖書的事実に基づくのですね。
別に科学的事実に基づくわけではないですね。
(それはまあ当然でしょう。宗教なんだから。)


>死んで三日目によみがえったのが事実であるから(以下略)

キリスト教の話に過ぎないので興味ありません。


>私は事実から逃避しているのではなく、事実を見て、
>神と聖書の無謬を受け入れているのです。

科学的事実から逃避し、聖書的事実のみを見て、
ヤーウェ(聖書に登場する神なる存在)と聖書の無謬を信じているのですね。
それ自体はすばらしいことだと思います。


創造論教育  投稿者:sci98 投稿日: 2003年09月24日 7時27分

:saniku_aikiさん
>ただ、もし日本でも私立学校の授業といえども
>創造論を教えることはだめだという法律を作ろうとするなら、
>私ももっと攻撃的になるでしょう。

勘違いしておられたらいけないので指摘しておきますが、
私立学校といえども公教育には違いありません。
私立学校で生物の時間に創造論を教えても問題ない理由は、
私立学校が無法地帯だからではなく、
馬鹿であることを禁止するわけにはいかないからに過ぎません。


:JA50さん
>授業ではこういう内容の範囲のものを教えなさいというのがあるんで、
>生物学の授業で創造論を教えるのはいけないのではないですか?

「範囲のものしか教えてはいけない」という決まりはないのですな。
「創造論は科学的にも正しい」と信じて創造論を教えることを禁止するすべはないし、
禁止するべきではない。
なぜなら、それを禁止するのは「馬鹿であることを禁止する」ことになってしまう。
「そんな馬鹿に教師をやらせるな」という批判は正しいけれど、
それは政治的な問題であって法的な問題ではない。

>確か、これに関する議論って、yahooでやっていたんじゃなかったかなぁ、、、

urbannetさんが「教育の自由」を理由に「禁止すべきではない」って言ってて、
NATROMさんも同意していたような気がする。
「(法的に)禁止すべきではない」という結論は同意するけど、
「教育の自由」を持ってくるのは根拠として弱いね。
(教育の自由は教師の教授の自由を含むけど、
 高等学校において無制限に認められるものではないとみるべき)


:うさしゃぶさん
>あと学習指導要領は国家基準であり、法的根拠はありません。

学校教育法43条、学校教育法施行規則57条の2に定められています。


聖書が正しければ進化論は間違っている  投稿者:JA50 投稿日: 2003年09月23日23時51分

「聖書が正しければ進化論は間違っている」って言明は「進化論が正しければ聖書は間違いだ」という言明と同義です、対偶ですから。

こんな信仰を持っている人って、それで安心なんですかね?
進化論が(もし万が一でも)正しければ、自分の信仰がガラガラと瓦解してしまうってことですよ。
それでいいの?
そんな信仰でいいの?
まぁ、そういう信仰だからこそ必死をこいて進化論は間違っているとやっているんでしょうけど。

でも、本当にそんな信仰でいいのかなぁ、、、

そうじゃない、進化論が正しかろうが間違いだろうが、聖書の正しさに揺るぎはないというのなら、聖書が正しかろうが進化論の真偽は無関係ってことになりませんか?


Re: いい加減にしませんか  投稿者:ゆん 投稿日: 2003年09月23日21時51分

>ゆんさんのおっしゃることはよく分かりますが、不快なことを不快だと言うことに意味がないとは思いません。
>なにもsaniku-aikiさんに合わせる必然性はないと思います。

そのことに関しては同意します。
いいかげん面白い論点も出て来てませんしね。


Re: いい加減にしませんか  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年09月23日21時48分

ゆんさんのおっしゃることはよく分かりますが、不快なことを不快だと言うことに意味がないとは思いません。
なにもsaniku-aikiさんに合わせる必然性はないと思います。
ちょっとつっけんどんな表現になっていますが、気を悪くしているわけではありません。

NATROM さん RYU_TI_SYU さん、酒におぼれても良いけど、川に飛び込んでおぼれたりしないように。(涙目)


今日読み終えたところです  投稿者:wadja 投稿日: 2003年09月23日20時42分

>最近流行の「バカの壁」を読みましたが、たしかに「話せば分かるなんて大嘘!」って
つくづく実感します。

養老孟司はあんまり好きじゃないけれど、たまにはいいかと思って、「バカの壁」読んでみました。ぽんさんの言ってるのとは少し違うけど、最後の章にあった、

原理主義に身をゆだねるのは(人生と言う苦しい崖登りの最中に)手を離すことに相当する。谷底にまっ逆さまだけれど、それは離れている人から見ての状態で、本人は、落ちて気持ちがいい。それだけのことでしょう。
(カッコ内引用者)

を見て、この掲示板の議論を思い出しました。


Re: いい加減にしませんか  投稿者:ゆん 投稿日: 2003年09月23日15時53分

>「進化論は科学的に誤りである」という主張ならここで議論する価値もあるが、
>「進化論は宗教的に誤りである」という主張ならここで議論する必要はないでしょう。
>ここで進化論を否定したいのならば、まずは科学的根拠を示すことです。
>聖書や宗教観を根拠にしたいのならば、そのような掲示板に行くことです。

これは仕方ないのかも知れません。

saniku-aikiさんにとっては最初からこれは宗教の問題であり、進化論など
という悪魔の説が存在し広く世に認められている現状自体が嘆かわしい事実
であり、自信の信仰への挑戦であるのだと見受けられます。信仰の根幹に関
わる問題である以上反論するしかないのかなぁ、と。

saniku-aikiさんにとって進化論について話す事は徹頭徹尾宗教の事で、科
学の事じゃないんでしょう。現に、創造科学の科学的妥当性の話にもあまり
乗って来ませんし。最初から進化論の話が宗教の話としかなりえない人にと
っては、「こっちは科学として進化論を議論してるんじゃあ」という言い分
はあまり意味を持たないような気もします。

以上、あくまで私の想像でしか無いことはいつも通り付け加えておきます。


(無題)  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年09月23日14時06分

たんぽぽさま

前回のつづきです。
>宗教右派と財界とで、たまたま利害が一致するので、
>同じものを支持しているだけ、というのが、
>むしろ、実態に近いんじゃないかな...?

宗教右派は、自分たちの信じる「神の意思の実現」のために政界・財界の力を利用し、
政界・財界は、選挙の票集めと献金集めのために宗教を利用する、
という持ちつ持たれつの関係が出来上がっているようですね。

確かに、saniku-aikiさんの書き込みを読んでいると、政界・財界の野望との関係は
感じられません。
誠実な、善意あふれたお人なんだろうなぁ、と文章を読みながら思います。
しかし、だからこそ、かえって、問題の難しさを感じざるを得ません・・・。
最近流行の「バカの壁」を読みましたが、たしかに「話せば分かるなんて大嘘!」って
つくづく実感します。
しかし、話しても分かり合えない人とも共に生きていかなければならないのが人間社会
ですから(わけ分からない人間、話の通じない人間を「悪魔」呼ばわりするのは、
どうかな、と思う)、どうにかなんとかやって行きたいと願うのですがねぇ・・・。

temaさま
>でも、temaが献金したの、NYはグラウンドゼロ近くのトリニティ教会なんですよ。
ありゃ。星条旗に化けたかな?
(でも、財布の大量の小銭が重いとき、どばっと献金しちゃいたくなるときありますよね。)


事実と真実と信仰  投稿者:tema 投稿日: 2003年09月23日11時03分

saniku-aikiさんへ
> キリスト教信仰は、イエス・キリストの復活は事実であると信じることから
> 始まります。信仰は事実に基づくのです。
 temaは自分のことをキリスト教徒と思っていおり、その信仰はイエスがキリストであったと信じることから始まっています。信仰のあり方は人それぞれ違うものですし、たとえ復活が事実で無かったとしても救われかたはあると思います。
 なお、「信仰は事実に基づく」ということには同意できません。事実であると信じる、そのことをtemaは真実と呼びます。「信仰は真実に基づく」であれば同意します。


献金にご注意  投稿者:tema 投稿日: 2003年09月23日11時01分

たんぽぽさん、ぽんさんへ

> 献金が合衆国の本部へ送られるのは、
> ぽんさまのお知り合いの教会のお話であって、

> たんぽぽさまもおっしゃってるように、教会にも色々ありますからねぇ。

 ありがとうございます。
 でも、temaが献金したの、NYはグラウンドゼロ近くのトリニティ教会なんですよ。
 よりによって、まずいところに献金してしまった。


聖書のみの信仰  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年09月23日 9時45分

>蛇が塵を食べないで、カエルを食べると
>どんな点で信仰が崩されるのでしょうか。どんな矛盾があるとお考えですか。

「聖書に書いてあることは、すべて文字通りに正しいというわけでない」という点で信仰が崩れます。蛇の食べ物について比喩的な解釈を許すとするならば、創世記の「一日」や死の起源について比喩的な解釈を許さないのはなぜですか?聖書のこの部分は比喩、この部分は文字通りの事実と、人間の判断によって解釈を行なうことは、「聖書のみ」の信仰とは言えないのではないですか。それとも聖書に「この部分は比喩と解釈せよ」と書いてあるのですか?


>私が言いたいことは、信仰が崩されないならば、その解釈で問題がなければ、
>蛇はカエルを食べるからここは比喩表現と考えてもいいと思います。

古い地球の年齢や進化を認める多くのクリスチャンも同様に、創世記のある部分は比喩表現と考えてもいいと思っているでしょう。そう考えても、信仰は崩されないからです。彼らも別に信仰を科学より優先させているわけではありません。それにしても、「蛇はカエルを食べるから」とsaniku-aikiさんは書いておられますが、いったいどうやってそのことをsaniku-aikiさんは知ったのでしょうか?聖書に書いてあったのですか?


>私が進化論を否定する理由は、一言で言えば「死」の起源です。

何度か指摘されていますが、アダム以前には肉体的な死はあっても、霊的な死はなかったと解釈すればいいだけではないですか。saniku-aikiさんは聖書を信仰しているのではなく、ご自身の聖書の解釈を信仰しているにすぎないのではないですか?

・聖書には比喩的な解釈を行なわなければならない部分がある。
・どの部分を比喩的に解釈するかは、人間の判断による。
・人間の判断は誤りうる。

この三点には異論はありませんか?saniku-aikiさんの、「キリスト教信仰の土台を覆すがゆえに、アダム以前の死を霊的な死と考えてはならない」という聖書の解釈は、間違っているかもしれませんよ。もちろん、古い地球の創造論者の解釈が間違っているのかもしれません。ことによったら、「蛇が塵を食べるというのは比喩表現」という解釈も間違っているのかもしれませんよ。


>>「蛇は塵を食べる」という「聖書のみの信仰」を持っている人は、科学の時間に、「蛇はカエルを食べるというのは間違いで、本当は塵を食べるのだ」と教えることでしょう。
>上記の理由で、聖書の時間でもそうは教えないと思いますよ。少なくてもわたしは教えている例を知りません。

つまり、真の「聖書のみの信仰」を持っている人などはいない、ということですね。saniku-aikiさんを初めとしてほとんどのクリスチャンは、「聖書のみ」ではなく、「蛇はカエルを食べる」という科学的事実を信仰より優先させているのです。聖書には「蛇は塵を食べる」とはっきり書いてあるのに、いったいなぜ比喩的に解釈するのです?


いい加減にしませんか  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年09月23日 5時46分

結局saniku-aiki さんのしていることは単なる布教です。
キリスト教の(それも特殊な解釈の)押しつけです。

「進化論は科学的に誤りである」という主張ならここで議論する価値もあるが、
「進化論は宗教的に誤りである」という主張ならここで議論する必要はないでしょう。

ここで進化論を否定したいのならば、まずは科学的根拠を示すことです。
聖書や宗教観を根拠にしたいのならば、そのような掲示板に行くことです。

まあ、私は管理人ではないので、単なる参加者の一人の意見ですけどね。 


えーと...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年09月23日 2時40分

>キリスト教信仰は、イエス・キリストの復活は事実であると信じることから
始まります。信仰は事実に基づくのです。

ちょっと今、記号論理におぼれてますので...。
「事実であると信じることから始まります。」
という前提から得られる結論は、
「事実は信仰に基づくのです。」であって、
「信仰は事実に基づくのです。」じゃないと思うんですけど...。


聖書について  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月23日 0時26分

ぼんさんへ

>「唯一絶対に正しいもの」として一つの文書が出来上がるということを危険視したからこそ、4つの別々の見方をあえてそのまま載せたのだそうです。

少し違うと思います。4人の福音記者が書いたのは、マタイが王としてのイエス、
マルコが人としてのイエス、のようにイエス・キリストのそれぞれ違った面
であり、そのどれもが大切だったから、4つとも載せたのではないでしょうか。

>ユダヤ教が滅びる危機に「やむを得ず」文書化したという歴史を知ってますか?

口伝を大切にしてきたことは知っていますが、私は創世記などのモーセの五書は
伝承通り、モーセが書いたと考えているものです。したがって、ユダヤ教が滅びる
危機どころか、ユダヤ教成立の時期から文書化されていると考えています。

大文字ナンさんへ

>事実から逃避し、神と聖書に無謬を覚えることも道理かと思います

何が事実か。ここで分かれてしまいますね。
進化が事実ですか。創造主がいないことが事実ですか。
キリスト教信仰は、イエス・キリストの復活は事実であると信じることから
始まります。信仰は事実に基づくのです。パウロはこう言っています。
「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、
あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされ
ます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずの
キリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリ
ストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今も
なお罪の中にあることになります。」コリント第一15:14-17
死んで三日目によみがえったのが事実であるから、イエスは
神なのであり、神がいるのが事実であるから、神がそういっている以上
六日間による天地創造も事実なのです。復活が事実である以上、進化は
一つの仮説であって事実ではありません。私は事実から逃避しているのではなく、
事実を見て、神と聖書の無謬を受け入れているのです。


メールアドレス変更(ウィルスメール大杉)  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年09月22日23時00分

Hotmailが容量いっぱいです。大事なメールが受信できないかもしれませんので当分の間アドレスを変更します。
新^H避難アドレス kuha-72@hokkaido.interq.or.jp
と言うわけで皆さん、くれぐれも添付ファイルは不用意に開かないように……(T_T)


そろそろ最終局面へ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年09月22日19時12分

To saniku-aikiさん

 今回はまた、別の角度から考えをお聞きしたいのですが…
 なんらかの説や主張に巡りあった時、それを無批判に受け入れることは、とても危険な結果になるとは思いませんか?私にはありのままの世界を受け入れる用意があります。そして、ありのままの世界は信仰をもたずとも、自ずと眼前に広がっていると感じています。もしかしたら、ありのままに見える世界の背後には、神の業や見えざる節理があるのかも知れません。しかし、それを解き明かそうとする時、心を満たしてくれそうな主張だけを取り上げ、世界はこうあって欲しいと願う気持ちだけに頼ることは(一般論として)真理から遠ざかることだとは思えませんか?

 聖書の教えに比べると、進化論の歴史は短いものです。そしてそれは、進化論が新たな発見であることでもあります。また、進化論は科学であり、相応の証拠に基づいて立脚している科学理論なのですが、創造科学にはそういう証拠がありません。彼らが証拠と言うものは、捏造だったり、誤解だったり、無関係なものばかりです。しかしそれでもなお、saniku-aikiさんが「進化論は間違いだ」と主張するのなら、とっくの昔に論破され尽くしたもの以外の新たな証拠を突きつけ、高らかに「創造はあった」と言うべきです。
 #他の方が指摘するように、進化論が間違いだったとしても、創造があったことの証拠にはなりません。

 ここは科学議論の場であって布教の場ではありません。あなたがどんな信仰を持とうと自由ですが、進化論は間違いである、と主張するのなら、科学の手法でそれを証明するしかありませんし、創造科学が事実であるのなら、同じくそれを証明するしかありません。神を信じようと信じまいと、それが事実を述べる者の責任なのではありませんか?


どう教えるかだよね  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年09月22日13時20分

話の流れから、当然宗教の時間で教えるという意味だと理解していました。
たとえ生物の時間でも疑似科学として紹介すれば問題ないし、却って非常に価値の有ることでしょうね。
(あ、この場合はあくまで「創造科学」をですね。生物の授業で宗教(創造論)に干渉しちゃいけませんね)


学校指導要領  投稿者:うさしゃぶ 投稿日: 2003年09月22日12時21分

まず高校の授業において生物で進化論を教えることも、今はあまりありません。旧課程(今の2年生まで)の生徒のほとんどが履修する「生物TB」には進化の単元はありません。もちろん新課程(今の1年生)が履修する「生物T」もしかりです。しかも生徒の半分くらいは「生物」すら選択しない生徒もいるし。だから高校生で「進化」という言葉を授業で見ることのできる生徒は、理系の進学する生徒のみです。
とするともちろん受験に「創造論」は不必要だし、大学受験しない生徒(就職組)は「進化」までは生物の授業は習わないということになります。
つまりどう転んでも、創造論を教えられる場が生物の授業時間にはないんです。
いきなり流れを無視して「創造論」を入れたら、それは生物の授業として成り立たないし。
ちなみに、学習指導要領の内容の範囲を大学受験問題はとっくにこえているので、それ以上のことを教えるし、あと学習指導要領は国家基準であり、法的根拠はありません。


生物学の授業で創造論を教えるのはいけないのでは?  投稿者:JA50 投稿日: 2003年09月22日11時56分

>日本において、市立学校の授業に対してなんらかの圧力があったわけでもないので、おっしゃるような心配は少なくとも当面のところ無用でしょう。

私立学校だろうが、学校である以上、日本の法律に従わないといけない。
そうでないと、学校を名乗れないし、卒業生も高校卒とかの資格を名乗れない。
授業ではこういう内容の範囲のものを教えなさいというのがあるんで、生物学の授業で創造論を教えるのはいけないのではないですか?
教えるのなら、課外授業なり、宗教の時間でやるべきで、生物学なら生物学を教えないと、法律違反になるのじゃないの?

確か、これに関する議論って、yahooでやっていたんじゃなかったかなぁ、、、
結論がどうなったのか知らないですが。


逆に言えば  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月22日10時37分

 先の記事の補足。

 どこまでも平行線をたどるだろうとしか思えないんですけどね。


結論はもう出ているのでは?  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月22日10時36分

To saniku-aiki さん

> せっかくのご提案なのですが、私にも無理です。申し上げにくいのですが、
>皆さんの方が私に同意してくださればと願っています。

 別に合意に至らなくてもいいんじゃないでしょうか?
 saniku-aiki さんがここに来られた理由は、もともと創造論者の考え方について
進化論者が誤解しているのを説明に来られたとかおっしゃっていましたよね?
 創造論者が進化論に、もしくは進化論者が創造論に転向する必要はないのではな
いでしょうか?


Re  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月22日 2時34分

sanuki-aiki様
貴兄は他人の意見の真意を読み取るのに疎いと見受けられ(小生もですが)、貴兄の的外れな回答に対する反論はもはや止めておきますが、改めて違う問いかけを致すなら、アダムが善悪の知識の木の実を食べると同時に目が開いたのは何故ですか? また飛躍しますが我々を含む他宗教の人間をゴイム(獣や家畜の類)と表現するタルムード、ミシュナなどを信仰する真正シオニストたちがニューワールドオーダーと云う野望を成し遂げようとしている時に、何故多分牧師さんであろうところの貴兄が進化論がどうのこうのと些事に憂き身を窶しているのですか?
悪魔の壮大なプロパガンダに飲み込まれていてはなりません。もっと真にやるべき事があると自分は思います。これ以上は非常に重くなりますのでやめておきますが。


あ、  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年09月22日 1時00分

ぶったたく権利もないか・・・


レスありがとうございます。  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年09月22日 0時55分

たんぽぽさま、
色々と興味深いサイトをご紹介いただき、ありがとうございます。
うー、、この先一体どうなっちゃうのかなぁ、と気持ちが改めてブルーになりますが・・・。

temaさん
>この前、教会に大量の小銭を献金してしまいました..
たんぽぽさまもおっしゃってるように、教会にも色々ありますからねぇ。
教会でも慈善団体でも、収支報告がきちんとしているところは大丈夫じゃないかなぁ、
と思うんですが…。でも、その収支報告が真実かどうかを確かめるのは難しいしねぇ・・・

saniku-aiki さま
>私自身はそうは考えておりません。でもある人々はそれは奇跡であり、神の存在を
>証明していると考えることでしょう。私には、その人たちがそう考えるのを誤りだと
>否定する権利はありません。

そうですか・・・
私は、(「信教の自由」とはいえ)自分の信仰を基に他者の命を侵害する権利は
誰にもないと思っています。だから、他者の命を侵害することを容認する信仰には
異議を唱えます。
(私的な聖書解釈では、イエスはそう主張し、行動を起こした人だと思います。)
それに、イスラエルとパレスティナに住む知人が原理主義的な宗教指導者の
せいで、本当につらい思いをし続けているので、どうしても「私には、その人たちが
そう考えるのを誤りだと否定する権利はありません」などと達観できない・・・。

自分の信じる神のために、他人の命を奪うのは間違っている〜!!
やめてくれ!!!
と、大声で叫んで、できればぶったたいてやりたい気分です。
(殺す権利はないけれど。)


有難うございます  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月22日 0時15分

saniku-aiki様
私は別に回答は良かったのですが、誠実なる回答有難うございます。

 ところで、本来キリスト教の問答はかくあるべきで、saniku-aiki様とここにおられる諸兄のやりとりを見るに付け、少しのメリットもあるのでしょうが、個人的にはいたずらに噛みあわない不毛の論議を積み重ねておられるように思います。

 もうここら辺で聖書的に表現するなら「足の埃を払って」隣の町に行かれるのも良いのではないのですか?
                                          それに先生と呼ばれて良いのはキリストイエスだけで、だれも先生と呼ばれてはなりませんとあるのですから、あまり真理に熱心なあまり「誇り」が優先されてはなりません。
                                          貴兄の発言をみていますとそこら辺の一種危うさがあります。


お答え2  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月21日23時31分

diamonds8888x さんへ 

>ひとつは我々が見解を変えてsaniku-aikiさんに同意する道。もうひとつはsaniku-aikiさんが見解を変えて我々に同意する道です。前者は無理ですから後者の道を試みられることをお勧めします

 せっかくのご提案なのですが、私にも無理です。申し上げにくいのですが、
皆さんの方が私に同意してくださればと願っています。


ベレアの人々の末裔さんへ

>食べたその場では死なずに900年以上経ってから死んだ事が記載されてあります。
これは「霊的な死」の暗喩

はじめまして。ベレアというのは使徒言行録17:11にちなんでのことですか。
それだけ熱心に聖書を学ばれていらっしゃる方だとお見受けしました。
お話しできて光栄です。この問題はいろいろ解釈できると思いますが、
私の考えはこうです。

新改訳の「そのとき」は、罪を犯した「そのとき」に死刑宣告(肉体の死の宣告)
がなされたという意味だと思います。このときから、人間も他の動物も死ぬ運命に
なったのです。アダムが罪を犯すまで、人は条件付きの不死の状態でした。
神に従い続けるかぎり、という条件です。アダムがすぐに死ななかったのは、
神の憐れみのためです。神は彼らにチャンスを与えたのです。キリストを信じる
時に再び不死(永遠の命)を与えるチャンスを与えることで、神は愛を示された
のです。(ヨハネ3:16)
「この少女は死んだのではない。眠っているのです」というのも肉体の死を
意味しており、霊的な死を意味してはいません。聖書は肉体の死をしばしば眠りと表現
しています(ヨブ14:10−12ほか)。死を眠りと表現するのは、死(第一の死)が
完全な滅びを意味するものではなく、復活を待っている間の一時的な無意識の状態
であると考えているからです。死と眠りには類似点が見られます。第一に眠ってい
る人は無意識です。「死者は何事も知らない」(伝道9:5)。第2に眠りはその日の
全ての活動を終わらせます。「あなたの行く陰府には、業も、計略も、知識も、知恵
もないから」(伝道9:10)。第3に眠りは私たちを、目を覚ましている人々から引き
離します。「彼らはもはや日の下に行われる全てのことに永久に関わることがない」
(伝道9:6)。
 キリストはヤイロの娘の時(マタイ9:24)もラザロの時(ヨハネ11:11−14)も
死を眠りと表現されました。ラザロは死後4日もたっていましたが、キリストにより
復活しました。ラザロの死は、「もうにおいます」と言っている以上
明らかに肉体の死であり、霊的な死ではありません。
従って、ラザロの復活も又、肉体の復活であって、霊的な復活ではありません。
もし、少女やラザロの死が霊的な死であって、肉体の死を意味するのではないと
いうのなら、イエス・キリストの死も霊的な死を意味するのでしょうか。霊的な
死で肉体の死ではないのなら、なぜキリストは復活されたとき、肉体を持ってい
ることを強調されたのでしょうか(ルカ24:39)。
 なお、聖書は人間を肉体と魂と霊の統一体としてみており、これらは分割不可能
です。肉体から離れた魂の活動を否定しているというのが私の見解です。


スカル&ボーンズ  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月21日23時02分

 アメリカのブッシュ大統領親子は、エール大学に基を発するスカル&ボーンと表現される言わば悪魔崇拝教信者ということが多くの人によって語られています。
                                          マタイ書4章8節に また、悪魔は彼をとりわけ高い山に連れて行き、彼の全ての王国とその栄光とを見せてこう言った。「もしあなたがひれ伏して私に崇拝の行為をするならば、私はこれらの全てをあなたに上げましょう」。その時、イエスは彼に言われた。「サタンよ離れ去れ!・・・云々                                                                         と聖書にあるのですから、彼らの行いが残虐なのは何ら不思議ではありません。                                              9.11も彼らの自作自演だったという見方をする人も多くいます。


Re:お答え 1  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月21日21時56分

To saniku-aiki さん

 お返事ありがとうございます。

>創造論者にもいろいろな方がいるので、一部と言えるのかどうかわかりませんが
>攻撃的な人もいるのは確かでしょうね。

 公立学校の授業から進化論を締め出すという法律が州法で成立してしまう
(法案に反対すると、次の選挙で自分が不利になると議員が考えてしまう)
程度には政治的圧力が存在します。
 また、連邦最高裁で違憲という判決が出た後でも、アメリカの生物学の教
科書の多くは進化論に言及しないような「配慮」が出版社の側からなされて
います。進化論に関する言及があると、地方の教育委員会にはねられてしま
うからだそうです。

>ただ、もし日本でも私立学校の授業とい
>えども創造論を教えることはだめだという法律を作ろうとするなら、私ももっと
>攻撃的になるでしょう。

 誤解の無いように言わせていただくと、アメリカでも私立学校の授業には
制限はないはずです。件の政治的圧力は、いずれも公立学校の生物学の授業
に対するものです。
 日本において、市立学校の授業に対してなんらかの圧力があったわけでも
ないので、おっしゃるような心配は少なくとも当面のところ無用でしょう。
 ご安心下さい。

>おっしゃる点は大変まずいことだと理解してます。

 ご理解いただけて嬉しく思います。

>聖書の全体像をよく知らないためにやったことであり、
>意図的ではないと思っていますが、それでも私には「明らかな歪曲」であり、
>「嘘」であり「欺瞞」に見えるわけです。この問題はお互い気をつけなければな
>らない点だと思います。この点ご理解いただけると幸いです。

 こちらも気をつけるようにします。「お互い」に。


蛇のこと  投稿者:ひろうす 投稿日: 2003年09月21日21時48分

私は聖書には詳しくないんですが
確かアダムをそそのかした罪で
呪われた「生き物」となり
地を這うようになり(手足を奪われたんでしたっけ?確かそれまでは直立していたんですよね)
舌が二つに裂け
塵を食べるようになる
と創世記で書かれていたと思いますので
これは動物の、いまでいう普通の蛇のことだと
思っていました

このうち地を這う(ウミヘビや水蛇もいますが)
舌が二つに裂ける(オオトカゲなど同じ構造の舌を持つトカゲもいますが)
という点では一応今でいう蛇と合致するので
最後の塵を食べるのが不思議だったんです(^^)

>ベレアの人々の末裔さん
のいわれる新しい天地では塵を食べる、というのは
たぶんそのときになっても許されないので塵を食べる生活が続く
のだろうと思っておりました


お答え 1  投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年09月21日21時46分

PDX. さんへ

>少なくともアメリカの創造論者は、科学的に進化論を論破するのではなく、
法律を作って授業から締め出すという政治的努力で進化論を口に出来ないよう
努力する程度には攻撃的なようですが。

創造論者にもいろいろな方がいるので、一部と言えるのかどうかわかりませんが
攻撃的な人もいるのは確かでしょうね。ただ、もし日本でも私立学校の授業とい
えども創造論を教えることはだめだという法律を作ろうとするなら、私ももっと
攻撃的になるでしょう。

>前後の脈絡を無視して
限定的な引用をしたりして読者を欺くことを行っています。
 このような「明らかな歪曲」は「嘘」であり「欺瞞」だと思うのですが、
信仰の為なら人を騙すことをあなたは許容できますか?


おっしゃる点は大変まずいことだと理解してます。ただ、創造論者を弁護しようと
いうのではありませんが、前後の脈絡なしの引用などの問題は何も創造論者に
限った話ではありません。進化論者の聖書の引用の仕方なども私に言わせれば、
まさに前後の脈絡なしに、限定的に引用して、読者の誤解を招くようにしている
と思ったことがありました。聖書の全体像をよく知らないためにやったことであり、
意図的ではないと思っていますが、それでも私には「明らかな歪曲」であり、
「嘘」であり「欺瞞」に見えるわけです。この問題はお互い気をつけなければな
らない点だと思います。この点ご理解いただけると幸いです。

ぼんさんへ

>9.11のテロの成功も、ブッシュ+ネオコンがアメリカの政治を
牛耳る力を持てたのも
奇跡(神の業)であり、神の存在を証明しているとお考えなのでしょうか?

私自身はそうは考えておりません。でもある人々はそれは奇跡であり、神の存在を
証明していると考えることでしょう。私には、その人たちがそう考えるのを誤りだと
否定する権利はありません。


Re: 教会への献金  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年09月21日20時07分

temaさま

>この前、教会に大量の小銭を献金してしまいました..

献金が合衆国の本部へ送られるのは、
ぽんさまのお知り合いの教会のお話であって、
temaさまが献金なさった教会は、そうではないかもしれないですよ。
(わたしは、ぜんぜん知らないですが、
教会によって事情が違っていることは、あるかもしれないです...)


>このことを先に知っていれば、神社へのお賽銭としたのに…

お賽銭は、神社の臨時収入になると聞いています。

>でも、神社だったら、大丈夫という根拠もないですね。
>ひょっとして余ったお賽銭は、首相の靖国神社参拝へのロビー活動に...

その可能性も、あると思いますよ。
「神道政治連名」という政治団体があるのですが、
そこへ、お金が送られていることも、あるかもしれないです。
(夫婦別姓導入反対のための、大量ファックス攻撃とかにも、
使われていたりして...)


宗教右派(2)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年09月21日20時06分

それにしても、おとといのサイトをつらつら読んでいると、
合衆国では宗教右派の活発化は、不穏なものがありますね...
(ブッシュがボーンアゲインで、進化論を信じていないらしい、
というのを、わたしは知らなかった...)
http://www.getglobal.com/war/iraqwar5.html
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-59.htm

前にお話した、善悪二元論的な世界観も、
むしろ、宗教右派の世界観から来ているみたいですし...
http://idoll.kir.jp/udauda/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0001&no=202&page=10&act=past#337

UFOは、宗教とはぜんぜん関係ないけれど、
それでも、宗教右派のこうした動きが、神秘主義的なものを
受け入れやすい雰囲気を、つくり出しているところは、
あるのかもしれないです。


宗教右派(1)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年09月21日20時03分

ぽんさま、レス、ありがとうございます。


>創造「科学」を学習させれば、自分たちの信念に沿う「証拠」だけを認めて
>自分たちの信念に沿わない「証拠」は平気で徹底的に無視する

そういえば、「創造学校」では、
日本で、進化論が急速に定着した原因として、
「日本には、科学とよべるものがなかった」などと
教えている、なんてのがありましたねえ...
http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hum-sci/sunadori149-TH.htm#SEC2

証拠のねつ造とは、おもむきが違うのかもしれないけど、
都合のいいように、事実をわい曲してはいますね...


>どこからどこまでが本当に「信仰」なのか、
>単に軍需・石油産業の利権に「信仰」を利用しているだけなのか、

宗教右派とか、原理主義者たちは、
利権にはとくに興味がないのでは、と思いますよ。
利権に感心があるのは、もっぱら財界の連中でしょう。
そして、財界の人たちは、宗教にはそれほど感心はないのだろうと思います。

宗教右派と財界とで、たまたま利害が一致するので、
同じものを支持しているだけ、というのが、
むしろ、実態に近いんじゃないかな...?
(それでも、利害が共通するので、
おたがい歩み寄ったほうが得策と考えて、
共闘しているところも、あるかもしれないけど...)

おとといのリンクさきだけど、
http://www.getglobal.com/war/iraqwar.html
利権にかぎらず、いろいろな角度から、
イラク戦争と合衆国の現状を分析していますね。
これに目を通せば、結構全体を見通すこともできるのでは、と思います。


>「信教の自由」が認められるのは、他人の生命に危害を与えない範囲だと思う・・・。

信教の自由もまた、基本的人権のうちのひとつですからね。
他人の人権を侵害してまで行使することは、
ゆるされないはずですが...


世界各国の宗教心  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年09月21日20時02分

おとといのリンク先の、そのまたリンク先に、
各国の宗教心についてのデータがありますね。
「自分の生活の中で、宗教は重要である。」と答えた人の、割合が出ているのね。
http://people-press.org/reports/display.php3?PageID=659

合衆国は59%で、おとなりのカナダ30%や、
イタリア(カトリックの影響が強いとされている)の27%とくらべても、
宗教心の強い人が多いことになるようです。
(ヨーロッパの国ぐには、多いところでも、せいぜい30%前後です...)

ロシアが14%など、値が低いのは、
ソビエト共産主義時代のなごりなのでしょうか...
それから、日本は12%で、「デカルトの子孫」のフランスの11%と、
ほとんど同じくらいですねえ...


たぶん、創造科学を信じている人が47%もいるのは、
合衆国だからなのでしょうね...

ほかのキリスト教国、とくにヨーロッパの国では、
もっと創造科学の支持者は、少なくなりそうですね...
これらの国で、同じアンケートを取れば、
おそらく、進化論支持(有神論的、無神論的のそれぞれ)が、
合衆国よりは、ずっと、多くなるのでしょう。


Re: 古い蛇  投稿者:後藤十案 投稿日: 2003年09月21日19時26分

まあ、キリスト教的には楽園の蛇=サタンというのは普通の解釈ではあると思いますが、
するとサタンは塵を食うのか知らん?
また、サタンが創造されたときに「蛇」と呼ばれていたのなら、現在われわれが「蛇」と呼んでいる生き物はそれとは別に創造されたのかな?


PDX.さん今さんありがとうございます  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年09月21日18時28分

今後は不用意にプレビューしないようにしないと。


古い蛇  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年09月21日17時11分

創世記のエバを騙した蛇に対して、黙示録では古い蛇と表現されていて、この場合サタンを表しているようですが、一方、イザヤ書65章後半では神の新しい創造の予言が記されてあり、新しい天と新しい地では(蛇は、塵をその食べ物とし、)とあります。
このような表現は両義予言と言うそうですが、いずれにしても今現在の蛇を指しているのでは無いことは明白でしょう。


(無題)  投稿者:GOA 投稿日: 2003年09月21日16時51分

>聖書の創世記のお話は半分神話的と言いますかワケがわからない場合が多いですよね。
いずれにしてもこの場合の蛇は動物のそれそのものではなくて、背後にいる霊者サタンを神様は叱りつけているのだと思います。

saniku-aikiの主張は聖書には人間の解釈が入り込む余地などないと言うものだから、蛇といえば蛇でその背後のサタン云々を指しているという可能性は否定されなければなりません。
別にあなたの聖書解釈について蛇の話を持ち出しているのではないでしょう?


へびについて  投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年09月21日16時29分

聖書の創世記のお話は半分神話的と言いますかワケがわからない場合が多いですよね。
いずれにしてもこの場合の蛇は動物のそれそのものではなくて、背後にいる霊者サタンを神様は叱りつけているのだと思います。


教会への献金  投稿者:tema 投稿日: 2003年09月21日12時41分

ぽんさんへ
> 私の知人の行ってる某教会の献金は、日本の教会の維持・宣教に必要な経費以外は
> アメリカの本部に送られているそうです。そんで、本部では、豊かな資金源を基に、
> 宗教右派を支える活動を展開していることを考えると、あんまり、無邪気に信じるの
> はちょっと罪じゃないかな、と思ったりするのです。(善意の第三者とはいえ)

 この前、教会に大量の小銭を献金してしまいました..
 このことを先に知っていれば、神社へのお賽銭としたのに…
 でも、神社だったら、大丈夫という根拠もないですね。
 ひょっとして余ったお賽銭は、首相の靖国神社参拝へのロビー活動に...


蛇が蛙を食べると...  投稿者:tema 投稿日: 2003年09月21日12時34分

saniku-aikiさんへ
>蛇が塵を食べないで、カエルを食べると
>どんな点で信仰が崩されるのでしょうか。どんな矛盾があるとお考えですか。
 蛇が塵を食べずに蛙を食べる事が判った場合、聖書には比喩が含まれて居ることを認めることになります。すると、以下の比喩が無いとは言えなくなると考えます。
・ アダム、イヴは1個人では無く、ある部族の比喩である
・ アダム、イヴの死は第2の死を比喩しており、アダム、イヴ以前にも生物としての死が存在した

 しかし、最も理解が難しく誤解が発生しやすいと思うのは、以下の所です。
>私は科学を無視しているのではなく、信仰を優先する立場です。
>どんなときに優先するのか。それは、
>科学と信仰が矛盾するときです。
 どんな時に矛盾が発生したと判断するのか、その判断基準が明確で無いのです。
 temaの想像では、その判断基準は各個人の心(魂と言っても良いかもしれません)の中にあり、saniku-aikiさんはsaniku-aikiさんの心が「矛盾だ!」と叫ぶ科学を無視しているのではないでしょうか?
 もし、そうなら、各個人の心が異なっている以上、100%納得し合うことは困難です。ただし、temaはそれが悪いこととは考えていません。信仰は心の問題であり、心で感じる通りに行うことが良いと考えておりますので。


オンラインウイルススキャン  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月21日12時08分

 自分の使っているPCがウイルスに感染しているかを調べるだけでしたら、オンラインスキャンで調べることも可能です。

ttp://www.trendmicro.co.jp/hcall/index.asp
(ActiveX を使用するので、IEで見てください)

 この手のサービスは駆除まではしてくれませんけどね。
 あまりにも被害が拡大したウイルスに対しては、アンチウイルスソフトベンダが無償の修復ソフトを提供してくれることもありますが。

 しかし、やはりウイルスに感染しないようにするのが一番。
 MSのテクニカルサポートページを巡回して、最新のパッチを常に当てている人なんて少数だとは思いますけどね(^_^;
(パッチを当てたら Office が起動しなくなった、なんてこともあるので、パッチを当てることに躊躇する人がいるのも理解できますし……)


Swen.A のこと  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月21日12時04分

To 今さん

 メーラーとして Outlook および OutlookExpress を使っている場合、ウイルスの添付されたHTMLメールをプレビューしただけで感染することもあります。
 この時、「実行しますか?」とかの確認は表示されません。
(プレビュー表示に用いるIEのセキュリティホールです)

 また、Swen.A の送るメールの中には、MSからの案内を偽装したものもあります。
 先の記事のリンク先のページを見てください。 画像が貼られています。

 IEにパッチを当てている場合、この動作はしないんですけどね。
 ちなみにパッチが公開されたのは2年前(!)
 パッチを当てていない人がいかに多いかが伺われます。

 このウイルスが利用しているセキュリティホールに限らず、IEと Outlook/OutlookExpress にはおそらくまだ多数の抜け道があると思います。
 特に理由がないのであれば、Netscape のような他のブラウザとメーラを使えば大分安心できると思いますが。そうでなければ、アンチウイルスソフトを導入されるか、プロバイダのウイルスメールフィルタリングサービスをご利用されるのが賢明かと。
(Linux や MacOS に乗り換えろとまでは言いません(^_^;)


そのウイルス  投稿者: 投稿日: 2003年09月21日11時26分

はメールを開かなくても感染するのですか?
何日か前に「MSからのお知らせ」(だったか「重要な連絡」だったか?)
とかいうメールが来ましたけど、危なすぎますね。


たぶんウイルス  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年09月21日 9時14分

To クハ72さん

 つい最近流行を始めた Swen.A というウイルスかと思われます。
ttp://www.symantec.co.jp/region/jp/sarcj/data/w/w32.swen.a@mm.html

 私のところには、1日あたり20〜40通届いてます(^_^;


ふと思ったのですが  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年09月21日 7時44分

saniku-aikiさんの頭の中には「進化論者=神を認めたくない人」という思い込みがあるようです。そりゃあ進化論は創世記とは矛盾しますけど、そんなに大事なことなのかと……科学と信仰なんだから一致するほうが奇跡だと思う……

ところで話変わりますが今朝添付ファイルついたメールが来て突然PCが遅くなりました。HDを検索したら"nzer.exe"と言う見なれないファイルがあったのでMS−DOSモードで起動して削除したのですが、これはウィルスなのでしょうか。検索してもそれらしいページが見つかりませんでした。


saniku-aikiへ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年09月21日 6時19分

>斉一論にもとづけばでしょう。申し訳ございませんが、化石はノアの洪水を
肯定するという私の確信はあのときと同様少しも変わっていません。

激変説に基づけばですよ!
ぜひ中生代の魚類の化石の下に新生代の魚類の化石がなかったり、人間や哺乳類の住処の痕跡が恐竜の化石の下にないのかなどの(よく知られている)反論に答えてほしいものです。
「このように考えれば矛盾しない」じゃダメでしょ。証拠を出さないと。


Re:創造論2  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年09月21日 5時23分

To saniku-aikiさん

> 神を信じたくない人は、どんなに証拠を挙げたところで神を受け入れないと思います。

 聖書的「創造」の証拠、あるいはキリスト教で言う「神」が存在する証拠、そんなものはどこにも、少なくとも誰にでも検証出来る客観的な事物としては存在しない、と思っていますが、どこかにそういう資料はあるのでしょうか?証拠、というからには、信じるだけでは困ります。十分な懐疑に耐えられるものでなければ困ります。

> 創造論を受け入れると言うことは、科学の問題だけではなく、信仰の問題と深く関わってくるわけです。

 創造論は科学と関わりのない信仰の問題です。創造を信じるのは個人の自由ですから、どうぞご自由に、と述べてきた通りです。一方で、創造科学は疑似科学であって科学ではありません。科学の文法に則れば、創造科学は「お話にならないくらい低レベル」で「誤謬とバイアスに満ちた」願望論のようなものだ、と思っております。


そのとおり  投稿者:通りすがりのクリスチャン 投稿日: 2003年09月21日 3時32分

>私は科学的証拠があるというだけで創造論を
>受け入れるようになるとは思えないのです。私がしばしば申し上げる、「創造主の
>存在を受け入れれば、創造論も受け入れられる」という発言はこの観点に立って


そうですね。
創造論や創造「科学」は科学ではないですから。信仰の問題。
また、進化論が正しくないからといって、創造論が正しいことにはなりませんよね。

また、創造主を受け入れても、例えばイスラム教を信じている人は、聖書に基づくのとは別の別の創造論があるのでしょう。創造主を信じることが、そのまま聖書の創世記そのまんまの進化論を唱えることにはならない。
アメリカの原理主義者たちが言っているような創造論は特殊なもので、キリスト教徒(の一部)にしか通用しないものなのですから。


わたくし個人としましては、進化の全過程が神さまによるものだと信じています。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


戻る