進化論と創造論についての掲示板ログ194

2003年11月26日〜2003年11月29日
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すぐそこの「信じられない」もの  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月29日 8時49分

> 進化論に限らず、(中略)携帯電話に至っては、このサイズでよくもまあ、
>と、ホント信じられません。

 この感覚は実は科学者にとっては大切ですね。凡人は目の前にあるものは
当たり前と思ってしまいますが、そこに不思議を感じて「なぜ?」と問える
のが大発見に至る科学者の素養のひとつです。

>、100行ほどのプログラムをやっと書き上げた学生さんなら、こんなのを
>数千万行も並べればWindowsやらIEやらMS Officeやらができる、と言われ
>ても、やっぱりピンとこないでしょう

 えっ、あれは全部数千万行だかのプログラム文だけでできてるんですか!?
制作者が秘密の魔術をかけてるんじゃあなかったんですか!? だってこんな
ちいさなアイコンをクリックしただけでこんな見事な画面になるなんて。これが
たかだか文字の羅列だけなんて嘘でしょう!?
 えっ、メモ帳に落として見ろって?
 うああああ、なんなんだ、この呪文の羅列はーーー!?
 ありがたやありがたや、ナンマンダブナンマンダブ


長き時の彼方は  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月29日 8時47分

 200万年昔がどんなだったかと言われても確かに感覚的にピンとこない人は多いでしょう。この場合いくつかの可能性が考えられます。
 1)200万年昔も人の社会は現在と同じだった
 2)200万年昔は人の社会は現在では想像もつかないものだったが、
   人の身体は現在と同じだった
 3)200万年昔は人の身体は現在では想像もつかないものだった

 この中で3だけが信じられないのは、なあぜ?
 と自分の心に訊いてみることをお勧めします。
 プログラマーの方ならcase文は得意のはず(^_^)

「たとえば自然選択でナナフシやコノハチョウができるのかとか、魚は陸に上がれるのかとか、そういうのが、直感的に、ちょっと信じられんねえ」というのは「「サルみたいな生き物が、人間まで進化したとは信じられない」という感覚とほぼ同義に見えますが?

以下、ジョークです。
 56億7000万年後に弥勒菩薩が衆生を救うと言われても感覚的にピンと来ないよね。
 6〜7千年前に神が天地を創造したと言われても感覚的にピンと来ないよね。


私は  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月29日 8時09分

一介の写真教教徒に過ぎませんので>たまご(^-^)ノ教教祖様


想像もつかないのではない  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年11月29日 2時08分

この世は仮の世殿

もし、貴殿が地震の被害に遭い、貴殿の家族の身体が地震でぐちゃぐちゃに潰されたのを目の当たりにしたとき、
ワシが、
「本当は日本全土が壊滅的な打撃を被るはずだった、
ワシと、ワシの信者がが神に祈ったのでこのくらいですんだ」
と言ったら、貴殿はどう思うじゃろうか?

「ははーっ、ありがたやー!!」
と、地べたにひれ伏してワシを拝むんじゃったら

>com様が何を怒りなぜおこったのか想像もつきませんが
と言っても不思議じゃないけどな。

貴殿の場合、想像もつかないのではなく、想像をしていないのではないかな?


世界宗教への歩み♪  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年11月29日 0時04分

わけの分からない亜宗派の出現に、教会内での醜い権力争い。その上、既存宗教による理不尽な迫害によって教祖は殉教し、最高神ヨード卵光(^-^)ノとして復活することになるらしい?!
順調に世界宗教化への道を歩んでくれているようで、こんなに喜ばしいことはありません。


>地下に眠るMさま、

そんなに力んじゃって、失禁なさいませんでしたか?
御神体を本当に大切になさっているのですね。猫又教徒の皆さんが、排尿器官を皮袋の中に厳重に納めていらっしゃる訳がはじめて分かった気がします。たまご(^-^)ノ教の信者たちもこれくらいの信心深さを持ってくれるようになればよいのですが・・・。

>ミトラ教やオルフェウス教の教義をちゃっかりぱくった初期キリスト教のようなマネをしくさったなあああああああああ

清濁併せ呑む懐の深さというのは、世界宗教の必要条件の一つですから♪

>邪教たまご(^-^)ノ教教祖は、まんこから身体の裏表がひっくりかえってた後に生きたままニワトリの餌となり、ヨード卵光として転生するはめになるであろう。

お心遣い痛み入ります。でも、まんぐり返しってあんまり興味がもてないなぁ・・・。
それに、私は永遠の美少女たまごちゃん(^-^)ノ17歳にすぎません。教祖の神格化は望んでおりませんので、どうかお気遣いなく。


>トトロさま、秋月さま、takoさま、おずおずさま、その他ROMの信者の方々

律法には「卵は一日、一個まで!!」としかないにも関わらず、「一個までしか食べてはならない」という意味だと正しく理解できたことはまさに奇跡です。皆さんのような素晴らしい同志を得られたことを双子神様に感謝いたします。「卵は一日、一個まで!!」
しかし、意味を捻じ曲げて形だけ守ろうとしたのでは本末転倒です。人のために律法があるのであって、その逆ではありません。時には、どうしても目玉が二つある目玉焼きが食べたい朝もあるでしょう。我慢できずに食べてしまった者にも、双子神様はきっと救いの手を差し伸べてくださいます。とはいえ、自助努力も忘れてはいけませんよ。「卵は一日、一個まで!!」

>トトロ様

たまご(^-^)ノ教はご利益宗教ではないので、傘の見返りに入信っていうのはちょっと・・・。フロイトによると傘は猫又教と密接に関係しているらしいし・・・。
・・・でも、まっ、いっかぁ♪
「卵は一日、一個まで!!」


(無題)  投稿者:com 投稿日: 2003年11月28日21時40分

この世は仮の世さん。

>com様 私は地震の被害者でも被害者の知人がいるわけでもないのでcom様が何を怒りなぜおこったのか想像もつきませんが、気に障ることをいったのなら謝ります。

今、冷静に過去の書き込みを読んでちょっと冷や汗を流しています。本当は、串田氏への論評を元に、予知、予測等というのは慎重にすべきだ、ということを書き込むつもりでした。しかし、ちょっとした語尾や引用で頭に血が上ってしまったようです。

また、この掲示板では、まだまだ新参者の身分で大暴れしてしまったことをお詫びします。


懺悔...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月28日21時25分

>たまご(^-^)ノ教を信じるよゐこには、クリスマスにサンタさんがプレゼントを持ってきてくれます。

のご託宣に決然として猫又教から改宗する...つもりだったのですが、

酒飲みの私は、辛子明太子やイクラ、子持ちシシャモが大好きなのです。
で、...
「タマゴは一日一個まで!!タマゴは一日一個まで!!」が、
どうしても守れないのです...(T_T)
(この前は思いあまって午後11時59分59秒に...。でも、2個以上を...。)

こんな、偶蹄目・反すう亜目・ウシ科・子羊が救われる道はないのでしょうか...?


回避の努力?  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年11月28日19時05分

この世は仮の世さま

(もしかして、前にも同じようなことを、
おっしゃったかたがいたのかな、と思いつつ...)


>危機の予言も例外でなく人間達の自助努力によって
>はずれさせることが可能なのです。

>世紀末の予言は予言された危機を回避するために出された。
>人間を愛している人が予知能力を持った場合予測される危機が
>回避できるなら黙ってることはできないはずだからです。

たとえば、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』でしたら、
これが現実になりそうだと考えた人たちが現われたし、
また、それを回避するべく、DDTの使用を規制しようとする動きが
社会の中に出てきました。

このくらいのいきさつがあるのでしたら、
人類の自助努力によって、予言をはずれさせたと、
言えるだろうと思います。


『黄金の法』の予言を、事前に現実になりそうだと考えた人たちは、
(信者以外で)社会の中に、どのくらいいたでしょうか...?
そして、それをはずれさせるために、回避しようとする動きが、
社会の中に現われたでしょうか...?
また、回避の努力とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか...?


ちゃんと読んでる?  投稿者:GOA 投稿日: 2003年11月28日17時42分

この世は仮の世さん

1.予言は霊能者として予測できることをいったにすぎないので当たりはずれがある。
2.世紀末の予言は予言された危機を回避するために出された。人間を愛している人が予知能力を持った場合予測される危機が回避できるなら黙ってることはできないはずだからです。
(機種依存文字は変更しました)

すでに何度も指摘済みですが、あなたがそう信じるのは勝手です。ただし客観的に判断した場合、

1.について、予言が本当に予言なのか権威付けのための当てずっぽうなのか判断が不可能
2.について、予言が外れた場合に備えて「未来は変えられる」との言い訳を用意している可能性がある
のいずれも否定できません。

一般に人間には予知能力がなく、予知能力があると主張する人間の中で客観的な方法で予知能力が証明された者はいない以上、「大川隆法には予知能力がある」というならこの世は仮の世さん自信が証明するか第三者によってなされた証明を提示する義務を負います。

もし意味が理解できないのならさらに易しく説明したいと思いますのでレスをしてもらえませんか?
また可能なら「1999年の災害の予言が1995年の自信を指す」という“客観的”理由を出してください。この世は仮の世さんはそうかもしれませんが、一般には1999年は1995年を指さないことになってます。


いるよねこんな聖職者  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月28日17時36分

tako様
そのとおり、教義の解釈は我らが教祖様だけの特権なのだ〜。
しかし、私は直接豚骨ラーメンの煮タマゴ様から啓示を戴いたのだ〜。
これも、日頃のタマゴ様への信心のたまものなのだ〜。ふぉふぉふぉ(いやな笑い)
巷では私めの大司教への叙階も近いとか近くないとか(目元に浮かぶさらにいやな笑い)

これも我らがタマゴ様のお恵みなのだー
さあ、皆さんご一緒に

『タマゴは一日一個まで!! 黄身はタマゴに含みません』
『タマゴは一日一個まで!! 白身もタマゴに含みません』

ちなみに私は免卵符の販売には断固反対なのだ〜。


>(無題) 訂正  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月28日16時42分

>NATRONさん → NATROMさん
謹んでお詫び申し上げます。


ちんこを馬鹿にするなああああああ  投稿者:猫又教御神体ヨリマシ 投稿日: 2003年11月28日16時33分

>たまご(^-^)ノ教教祖へ

なにが排尿器官だあああああああああああ(怒怒怒!!!!
チンコを馬鹿にするなあああああああ!
チンコはチンコ、マンコはマンコとおおきくはっきり発音することこそ、
家内安全 国家安寧 人類平和 無事故無違反 キャット空中三回転ほかもろもろのイシズエなんだにゃああ

あとにゃー
猫耳巫女はわが猫又教の女衆の伝統的コスプレなのだにゃー
ミトラ教やオルフェウス教の教義をちゃっかりぱくった初期キリスト教のようなマネをしくさったなあああああああああ

そういうわけで預言の時間だにゃ
邪教たまご(^-^)ノ教教祖は、まんこから身体の裏表がひっくりかえってた後に生きたままニワトリの餌となり、ヨード卵光として転生するはめになるであろう。ふっふっふ


PS
タマキンを精子細胞製造器官と言い換えるのも許しがたい>tema


(無題)  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月28日16時31分

地下に眠るM さん
>サル学とごっちゃにしにゃーほうがいいと思うにゃ。
御意。「孝」と「報恩」が結びついたと考えると確かにすっきりします。感動したっ!それでは国家神道というのは徳川儒教の教えなのでしょうか(またごっちゃにする)。

秋月 さん
教義の解釈は教会しかしてはいけないのです。卵を食べなかったことにするには免卵符を(以下略 ごめんなさい。

この世は仮の世 さん
NATRONさんの愛の深さにひざまづきなさい。


(無題)  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月28日16時10分

うだうだ様 幸福の科学退会者トピ教えてくださってありがとうございます。存在は知ってたんですが、どうやったらみれるのかわかりませんでした。

(ば)様 「奇蹟の時代を生きる」は持ってます。内容は忘れてました。

com様 私は地震の被害者でも被害者の知人がいるわけでもないのでcom様が何を怒りなぜおこったのか想像もつきませんが、気に障ることをいったのなら謝ります。ところで「先生が地震の予言を一々しても意味がない」といった件ですが、「奇蹟の時代を生きる」という本の中で地震の予言がしてあったので撤回します。10カ所以上の地域で地震があると予言しています。予言が当たったかどうかはわかりません。
予言について万人が納得できる根拠は示せません。私自身が予言者ではないので予言というものを理解してないからです。予言を「当たった」「はずれた」という目だけで見ていいのかという疑問が残ります。大川先生が「黄金の法」の改訂を出すときに「ソ連の崩壊、阪神大震災についての予言は的中した」と付け足したのが私が「予言は的中した」という根拠です。
私が予言についていえることは二つだけです。
@予言は霊能者として予測できることをいったにすぎないので当たりはずれがある。
A世紀末の予言は予言された危機を回避するために出された。人間を愛している人が予知能力を持った場合予測される危機が回避できるなら黙ってることはできないはずだからです。


プロテスタント誕生?  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月28日15時49分

タマゴ(^-^)ノ教の同士諸君よ
私は30分ほどの葛藤の末、先ほど豚骨ラーメンの煮タマゴ様より啓示を受けた。
卵黄はタマゴよりいずるがタマゴではない。卵白もタマゴよりいずるがタマゴではないのだ。
 従って今朝私が食したのが、タマゴを丸々一個もちいたスクランブルエッグではなく、タマゴの黄身炒めであれば、もしくは白身のみをもちいたハムエッグ(黄身抜き)でれば、私はラーメンの煮タマゴ様をおいしく戴くことができたのである。

 全国の同士諸君よ一緒に唱えよう。

『タマゴは一日一個まで!! 黄身はタマゴに含みません』
『タマゴは一日一個まで!! 白身もタマゴに含みません』


>家父長制  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月28日14時52分

>tako
あれは純粋に社会学的な説明だにゃ。サル学とごっちゃにしにゃーほうがいいと思うにゃ。
文化人類学とかフェミ歴史学なんかの知見では、家父長制というのは歴史のある時点からでてきたもので、人類社会において必ずしもスタンダードとはいえにゃーものみたい。そもそも、「父」そのものがひとつの制度なのではにゃーかと思う。それぞれの文化における父親の役割にはだいぶ違いがあるにゃ。(まあ、「母」だって制度なんだけどね。)


古代中国や古代ローマの家父長制というのは、家内奴隷制ともいえるのだにゃ。♀やガキの処分権が父親にあったので、これは奴隷制といえるのだにゃん。ガキはとにかく一方的に親に従わなくてはならにゃーというのが「孝」。
一方、封建制は不完全ながら個々人の互恵的な契約という側面がでてくるものだにゃ。これが恩と報恩。
徳川儒教において、この二つが奇怪な合体を遂げて、恩に対する無限の報恩という、契約もクソもにゃー支配者に圧倒的に有利な道徳を形成したのだにゃ。そして、明治政府はそれを採用したわけ。

ニンゲンという生き物の忠誠心とか帰属感覚ちゅうのは、せいぜい部族社会の大きさのものに適用されるようにチューニングされてると思うんだよね。各々の規範が有効に働くのも、たぶん社会集団がある規模までではにゃーかと思う。
で、本来は部族社会ていどの規模に適合している諸規範を機能させるために、国家とか宗教は、家族・部族の擬制といった形をとりたがるのだにゃ。国家を家族とみなすわけよ。そして、臣民の忠誠心を国家に向けさせるわけだにゃ。天皇制はダイレクトにこれだにゃ。奇怪な徳川儒教は天皇制にとってはすんごくメリットがあったわけ。
ま、ファシズムに限らず、国家の功労者を「国父」とよんだりするだろ? 僕らの忠誠心はそういうチューニングをされとるんだろ、きっと。

こういう、家族の擬制としての国家、と資本主義がむすびつくと、貧乏人のガキが金持ちのために「××バンザーイ」とかいいながらバスバス働きまくり殺しまくり死にまくるという社会がいっちょあがりだにゃ。

あああ、なんかわけわかんにゃー投稿になっちった


敬虔なたまご(^-^)ノ教徒  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月28日14時36分

 
 私は正統神道の流れをくむ、古式ゆかしい猫又教よりも、クリスマスプレゼントと猫耳巫女さんの現世利益(笑)のついた(+美少女の教祖様)たまご(^-^)ノ教ですね。

 タマゴは一日一個まで!!
 タマゴは一日一個まで!!

 しまった、今日は朝スクランブルエッグを食ってきたから、3時のラーメンの煮タマゴは残さなきゃ〜!!


詳細な解説ありがとうございます  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月28日14時34分

地下に眠るM様
詳細な説明ありがとう御座います。
思わずプリントアウトして読んでしまいました(笑い)

つまり、江戸時代の泰平の中で本来封建的、かつ実用的なイデオロギーであった『恩』と『報恩』絶対化(形骸化?)して前封建的なのものに後退してしまったのですね。

 そして、その前封建的な儒教精神っていうか道徳観が現在至っても日本人の規範の考え方に影響をあたえていると…。

 日の丸、君が代の是非はとにかく、懐古主義者の方々の望んでいるのは天皇制の復権ではなく、古き良き(?)家長制度の復活だったりして。


セクハラ重大発言  投稿者:名無し 投稿日: 2003年11月28日12時37分

>猫又教は猫目小僧の排尿器官を本尊として祭っているそうですが、そのようなものを拝むくらいならかじりかけのアンパンマンの顔でも拝んだ方がまだましです。

この瞬間に、たまご(^-^)ノ教は、たまご様のXXXXを拝むのか?とこの掲示板を見ている3億8千万人の読者が妄想した。


謎はすべて解けた!  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月28日12時21分

トトロ さま
ミステリーサークルとはトトロが集団で(以下略


Dualレス!?  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月28日 8時24分

takoさま

そりゃもう、200万匹のぎっちり密集したトトロが、密集地帯の中心から、同心円状に跳ねているというところを想像してみてください。実にシュールつ〜か、悪夢(?)ですな。

temaさま

猫又教の御神体はその形状から、古くから信仰の対象である道祖神を模したものであると考えられます。今日でも細々と生き延びている秘宝館とやらに収蔵されていることが多いようです。
猫又教は神道とは公言しておりませんが、日本人の信仰対象としやすい形状のものをご神体にしております。たまご(^-^)ノ教のストイックな教義(「卵は一日、一個まで!!」)と教祖の美貌だけでは太刀打ちできない・・・かも知れません。


レ.レ.レ.Jump!Jump!  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月28日 8時05分

そうか、そうなのか、私は地震を消すために、ジャンプするために、存在していたのか!!!
確かに静止重量100Kg、等価重量1.5トンのトトロならば200万匹もあつまれば、震度4の地震くらい、1回のジャンプで消してみせよう(傘が必要)。ということでたまごちゃん(^-^)ノサマ傘をお貸しください。かわりにトトロはたまご(^-^)ノ教に入信いたします。
「卵は一日、一個まで!!」

これで、猫又教にFAX攻撃を仕掛けたり、猫又出版相手に訴訟を起こして負けたりできますネっ!!教祖サマ

訂正:先の書き込み(Re.Jump!Jump!投稿者:トトロ)でT=SQRT(2L/g)はT=SQRT(4L/g) ただしLは飛び上がる高さ の間違いでした。計算結果そのものは(多分)正しい値です。


(無題)  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年11月28日 7時42分

谷庵さん、
>点々と丸
ぽんさんのことをぼんさんと書かれる方も多いですよね。それをみるたびに、「かんざしでも買いよったがかえ?」と突っ込みを入れてしまう(w


ぱさま、はじめまして

>たとえば進化論で言うなら、突然変異と自然淘汰でこれほど生物が変化していくことが信じられない、と疑うことで、NATROMさんのページを見つけてサラブレッドの変化の過程を知り、そうかたった数百年でこれほどの変化が起きるのなら200万年もあればもっとダイナミックな変化が起きるかも、と認識を新たにすることができました。

これを読んで悦に入っているNATROM氏を想像して、一瞬殺意を覚えてしまいました。そういう露骨なお世辞を、私にも言って欲しい・・・。

>たった数百年でこれほどの変化が起きるのなら200万年もあれば

ゾウリムシはスーパーサイヤ人に、ネコは神様になるに違いない。


細かいことは後で書くとして  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年11月28日 7時35分

とりあえず、
>はたして、どちらに帰依すべきなのでしょうか?

たまご(^-^)ノ教を信じるよゐこには、クリスマスにサンタさんがプレゼントを持ってきてくれます。


とりあえず脱線  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月28日 6時37分

 半熟たまご様(^-^)ノと温泉たまご(^-^)ノ様。
 以前(11/14頃?)教えを請うたtemaでございます。ここ数日というもの、猫又教に帰依しようかどうしようか迷う日々が続いております。

>猫又教は猫目小僧の排尿器官を本尊として祭っているそうですが、そのようなものを拝むくらいならかじりかけのアンパンマンの顔でも拝んだ方がまだましです。

 確かに、ここは大きなポイントです。
 しかし、以前、頂いた御言葉(↓)

>さぁ、目をつぶってあなたの半熟たまご様(^-^)ノが江頭氏の温泉たまご様(^-^)ノと、あなたの温泉たまご様(^-^)ノが江頭氏の半熟たまご様(^-^)ノと出会うのを感じてください。

この(↑)御言葉を賜りし時より、半熟たまご様(^-^)ノと温泉たまご(^-^)ノの御本尊は..え〜..コホン..「精子細胞製造器官なのではないだろうか?」という疑いに取りつかれております。
 かたや、創造の処、かたや、導きの処。どちらも、失うわけには参らぬ処ですが、拝むには、さしさわりがある処かと存じます。

 はたして、どちらに帰依すべきなのでしょうか?


ご本人が訂正しないので  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年11月28日 5時44分

名無しさんへ
>初めまして(ば) さん。

(ぱ) さんですね。

私のパソコンでも同様ですが、マルと点々は分かりにくいですね。


塔は高いと思うけどなあ  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月28日 0時26分

>塔を登った奴に騙される

 大学教授の肩書きが付いてるからって信用してはいけない、とかいうことですね。私は(最近ここでよく見かける)水商売ウォッチングの掲示板をずっと読んでいるのですが、向こうでもそういう話はよく聞きます。
 気をつけるとすれば、こんなことでしょうか。
・明らかに論理的な自己矛盾のあるような主張は信じない。
・主張が批判に対して開かれていることを確認する→こことか天羽さんのところのように、掲示板があれば、現在の普通の科学の視点で見て明らかに変な主張があれば誰か突っ込みを入れるんじゃないでしょうか。もちろん、それを即座に削除してしまうような奴の言うことは信じない。
・批判に対する反論の筋が通っていることを確認する。

 でもきっと騙される可能性はゼロにはならないんですよねえ。悩ましいです。

>塔は高いものなのか?

 少なくとも私は、塔が高いと感じるんですよ。(私を含む)フツーの文系学生が、学生時代どれほど遊んでたかということを思い返すと(^^; 研究者さんには平身低頭ヒラに伏してしまいます。そりゃもう反射的に。

>信じられないことを疑うことは奨励されるべき、と私は思います。

 私もそう思います。たとえば進化論で言うなら、突然変異と自然淘汰でこれほど生物が変化していくことが信じられない、と疑うことで、NATROMさんのページを見つけてサラブレッドの変化の過程を知り、そうかたった数百年でこれほどの変化が起きるのなら200万年もあればもっとダイナミックな変化が起きるかも、と認識を新たにすることができました。
 とはいえ、現在多くの研究者さんが正しいと考えていることは、素人が独自の理論を組み立ててもひっくり返せないとは思っています。問題はむしろ、現在多くの研究者さんが正しいと考えていることが何か、ということすら、塔を上らない人間には区別が付きづらい、ということでしょうか。


塔は高いものなのか?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月27日23時44分

>自らは塔に登る努力もしてないくせに、塔に登った人が「遠くの景色はこうだった」と言ったとき、「そんなの信じられない」と否定したり、自分の身長から見える範囲から独自の理論を打ち立てたりするのは、傲慢な行為だろう、と思うわけです。

 研究者でもないくせに、研究を信じられないというのはおかしい(傲慢である)ということなら、私は同意出来ません。人が人に対して傲慢であることは、私がそうであるように、反省すべきではありますが、仕方のないことだ、とも思えるからです。研究者であろうとなかろうと、事実に対して謙虚であるべきだ、と私は思います。信じ難いことを疑ってかかることは当然です。一方で、それが確からしいことだと認められている事実も受け止め、信じ難いことであるからこそ、そうした事実に興味を持ち続けたいと思うのです。

 信じられないことを疑うことは奨励されるべき、と私は思います。研究者が言うことでも、間違いはあるかも知れないし、事実であっても理解出来ないことは多いでしょう。さらに一番疑ってかかるべきは、自分の理解が正しい、という思い込みですが、否定することと疑うことの間の大きな隔たりを混同してしまう人が多いのだろう、と私は思います。


塔を登った奴に騙される  投稿者:名無し 投稿日: 2003年11月27日22時53分

初めまして(ば)さん。


...という事もあるかも。


(T_T)>秋月さま  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月27日22時38分

>たとえば、カイギュウ目(旧名も海牛目)って言うのは一般的なのかな?(ジュゴン目、マナティ目??)

海遊びが好きなんですけど、海牛目って書かれるとどうしても、ウミウシとしか読めません。
ボクは分類学に向いていないみたいです...。
http://home3.highway.ne.jp/cd800199/umiushi.htm


Re:Re:信じたくないと言うよりは  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月27日22時24分

>文系であることと、進化について考えることのギャップが私には少しも理解出来ませんが、
>とにかく私は本当のこと、あるいは本当らしいことが知りたかったのです。

 そういうガッツが私にあれば、理系に進んだでしょうからね(^^;
 英文の学術論文を取り寄せて調べたり、という手間もかけてないヘタレです。
 私の感覚だと、科学というのは、先人が営々と積み上げてきた巨大な塔だと思います。研究者の方は、その塔にせっせと登って、さらに実験などを積み重ねて塔を高くしている。だから遠くまで見渡せるわけですよね。
 私は塔のふもとにいて、NATROMさんのような方が塔の上から見た様子を教えてくれるのを聞いている立場なわけです。努力はさしていらない代わりに、一次資料に当たるわけじゃなし、自分で実験するわけじゃなし、浅薄な理解になってしまうし、実は塔を上っていない奴に騙される可能性もあります。

>>世の中には、自分の想像力のおよぶものしか存在しない、というのは、どれほど傲慢な発想であることか。
> 仰る通りです。

 うーん、同意していただいたのに何ですが、また、私も大文字ナンさんのおっしゃることに同意するのですが、ちょっと話が噛み合ってないような。
 私が「傲慢」と書いているのは、人間が人間以外の動物に対して傲慢、という意味ではなくて、

・素人が、「科学」や研究者さんに対して傲慢
・素人が、「宇宙の真理(?)」に対して傲慢

ということです。

 自らは塔に登る努力もしてないくせに、塔に登った人が「遠くの景色はこうだった」と言ったとき、「そんなの信じられない」と否定したり、自分の身長から見える範囲から独自の理論を打ち立てたりするのは、傲慢な行為だろう、と思うわけです。


Re:人間の感覚の限界  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月27日21時59分

>百万という桁の数字に
>なると、すでに人間は直感的に把握することが出来ないそうなので、

 そう思います。だから200万年と言われてもピンと来ません。だからこそ「感覚が追いつかない」と言っているのです。

 というわけで、この巨大な数こそが問題なので、

>実は「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化したとは信じ
>られない」という感覚は「サルみたいな生き物が、人間まで進化したと
>は信じられない」という感覚とほぼ同義なのかも。

これは同意できません。

>これは多分に「進化してなければいけない/
>していてはいけない」何らかの規範がまだ自分の中に形成されていない
>子供の頃にその考えに接した所為ではないかと推測します。

 別に規範云々じゃなくて、たとえば自然選択でナナフシやコノハチョウができるのかとか、魚は陸に上がれるのかとか、そういうのが、直感的に、ちょっと信じられんねえ、と思っても不思議じゃないでしょう、ということです。ダーウインだって、進化の速度を説明するために獲得形質の遺伝を持ち出したりしましたよね。
 進化論に限らず、たとえば私はAND回路やOR回路、半加算器や全加算器程度の勉強はしましたが、そんなのを膨大な数組み合わせることでPentium4ができて、さらにそれを組み合わせてパソコンができて、こうしてブラウザが動いて掲示板に書き込みができる、というのも考えてみると信じられない思いです。携帯電話に至っては、このサイズでよくもまあ、と、ホント信じられません。
 私は一応プログラマなので、ソフトウエアに関してはある程度理解できるのですが、100行ほどのプログラムをやっと書き上げた学生さんなら、こんなのを数千万行も並べればWindowsやらIEやらMS Officeやらができる、と言われても、やっぱりピンとこないでしょう。
 先のレスでは、地球が丸いのがいまいち信じられない、という例を出しましたが、これも地球が人間の感覚からすると極めて巨大だからです。
 こんなふうに、規模がとてつもなく大きかったり期間が長かったりすると「感覚が追いつかなくて」とても信じられない、ということはあると思うんですよ。

 でも、素人の感覚では信じられなくても、現にパソコンは動いてるし地球は丸い。

>世の中には、自分の想像力のおよぶものしか存在しない、というのは、
>どれほど傲慢な発想であることか。

と先に書いたのは、そういうことです。


レレレのJump!Jump!  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月27日20時53分

takoさんへ

>いや・・・人が跳ねただけじゃだめかと(余計なことですね、すみません)
 temaがこれを見た時の衝撃を、どのようにしたら伝えることができるでしょうか?

 過ぎ去りし少年の日、
 小学校の先生の「みなさん宿題は持ってきましたかぁ〜?」の声に、クラス中の生徒が「は〜い!」と応えた瞬間、宿題の存在を思い出した、あの時の衝撃..
 そんな衝撃であったと言えば、分って頂けるでしょうか?


トトロさんへ

 Re.Jump!Jump!という題名の次に、あなた様のお名前を見た時の衝撃を、どのようにしたら伝えることができるでしょうか?
 キタ━━━━━(゜∀゜)━━━━━!!!
 とても、これでは伝えきれません。

 宿題の存在を思い出したついでに、その日が授業参観日だったことも思い出してしまった、あの時の衝撃..
 そんな衝撃であったと言えば、分って頂けるでしょうか?

 さて、本題です。
 すんません。すんません。temaが間違っておりました。ごめんなさい。


家父長制  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月27日20時43分

>地下に眠るM さん
実際のところまだ混乱してよくわかってないのですが、
封建的家父長制;サルの群れのようにボスは安全に対し責任を持つ代わりに、群れの構成員は絶対服従する。実力制で下克上あり。鎌倉室町の武家社会。
「報恩」的家父長制;家父長が実力を発揮しなければならない状況は少ない。絶対服従(孝)の根拠が薄らぐため、「恩」という概念が導入される。下克上は悪とされる。
上下関係の根拠を家族の性質に求めそれを「恩」として具現化し国家運営にも拡大したの事が日本の発明である。

ちょっと話が変わりますが、
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX.htm
↑の2章を見ると政変と道教が結びついている様子がわかります。中国で「恩」が幅を利かせなかったのは、「道」というまったく別の価値観が下克上を肯定(とまではいかないかも)していたからではないかと思います。


とりあえず布教  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年11月27日20時27分

しまった、しばらく来ない間にN氏の偽(?)予言のせいで、たまご(^-^)ノ教の信者達(いたのか?)が猫又教に流れているっ!!

猫又教は猫目小僧の排尿器官を本尊として祭っているそうですが、そのようなものを拝むくらいならかじりかけのアンパンマンの顔でも拝んだ方がまだましです。
たまご(^-^)ノ教は猫目小僧のくだらない教えとは全く異なります。その証拠に、たまご(^-^)ノ教の巫女はすべて猫耳少女なのです。猫耳少女はネコではないのかという声が聞こえてきそうですが、半熟たまご様(^-^)ノと温泉たまご(^-^)ノ様はそのような細かいことにはこだわらないお方なのです。この清濁併せ呑む懐の広さこそ、たまご(^-^)ノ教の真髄といえましょう。

さぁ、世界を救いましょう。唱えるのです。「卵は一日、一個まで!!」
特にトトロさん、大きな声で唱えてください「卵は一日、一個まで!!」


Re.Jump!Jump!  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年11月27日20時23分

トトロさんなら、独力で世界を救うことができるかもしれません。傘が必要ならば、私がお貸ししますよ。


Re:Re.Jump!Jump!  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月27日19時08分

トトロさま

詳細な考察ありがとうございます。実は例の表の半径は震源域です。なので、地表ではもっと広い範囲がゆれますので、あまり考えないことにしていたわけです。ただ、震源域を直接狙うとすれば、同心円状に人を配置し外側の人から着地するようにすれば衝撃が収束されて効果的かもしれません。

地震を止めるため人々がぴょんぴょん跳ねているという光景は想像するだけでなんだか幸せになります。


(無題)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2003年11月27日17時49分

この世は仮の世さまが、「予言するほどの大きな被害ではない」、
などと言ってのけたうち、今年に起きた
十勝沖地震と、宮城県群発地震について、リンクを貼っておきますか...

http://www.asahi.com/special/hokkaido/TKY200309290272.html
http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt49/20030725AS1G2503Q25072003.html


Re.Jump!Jump!  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月27日17時46分

takoさま

同じWebの表に地震域の半径が記載されています。地震域の半径は0.4Kmということは、約50万平米、ここに1億2000万人を詰め込んだら一人あたり、約6.5cm四方の土地しか割り当てることができません。ということでかなりスリムな人を集めてきても一寸だけ無理があるようです。
では、一人あたり50cm四方の土地を確保したらどうなるでしょうか。こうすると地震域に200万人が立つことができます。必要な人数は延べ1億2000万人ですから、一人が60人分の体重(約3トン)になるか、地震にあわせて60回飛び跳ねるか、あるいはその折衷案で対応します。体重は300Kg位までなら太ることも足で支えることも可能でしょう。これで6人分です。そしてこのデブが地震の振動時間に10回(実際は5回)飛び跳ねれば地震を制することが可能になるのです。

同じWebにある「地震波の種類」というページでは地震計の記録が載っています。いちばん振れの大きい表面波のところを見ると、振動時間は20秒程度ありそうです。ここは、私の独断で20秒とします。さて、体重300Kgの人が50cm飛び上がって、再び地上に降り立つまでの時間はT=SQRT(2L/g)=約0.64秒、地面は飛び上がるときと、着地したときにエネルギーを与えられるので、飛び上がる回数は5回となります。地面が揺れている時間が20秒あるならば飛び上がる間隔は4秒となりこれは滞空時間に比べて十分短いのでなんとかなりそうです。

と、いうわけで日本国民全員で飛び上がるよりも200万人のデブ(か、或は錘を背負った人)を集めた方が地震の対応になる・・・という話でした(お粗末)。


ながなが申し訳ありませんでしたにゃ(ぺこり  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日17時14分

途中まで、「孝」のはずが「考」となっているのはご愛嬌ってことで(恥


「孝」について(終)  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日17時06分

元来、家父長的権力の原理と、封建的臣従の原理はことなるものである。前者は、「支配者」に対し無条件に献身する隷従者であるのに対して(例えば、古代ローマの家父長は子供を無条件に奴隷に売ることのできる権利あるいは殺す権利を持っていた。子供とは家内奴隷だった。だからこそ、家父長には「徳」が要求されていたともいえるのだが・・・;私見)、後者は一応の独立した主体者間の関係であり、その支配・服従関係を支えるのは「恩」とそれに条件づけられる「忠誠」の意識である。

ところが、封建的権力構造のもとにおいては、家族協同体の中の家父長制的権力関係も、封建制の影響を受け、封建的な意識と構造を持つ傾向が認められる。「恩」によって義務づけられる「孝」の意識によって支えられる家父長制的権力は、「封建的」な性格を持つといっていい。

中国の古典儒教においては、孝と恩という連関・結合は存在しない。「孝」を全ての徳の基本とした「孝経」においても、「報恩」の思想は説かれていないし、「論語」においても「報恩」を説いているものがないといわれる。
古典儒教においては、「恩」に条件づけられた「孝」という発想自体がないのであり、日本の儒教における「孝」と古典儒教における「孝」は決定的に異なる。

ところが

徳川時代以来説かれてきた「孝」の内容は、心学道話に見られるがごとく、親がいかに不慈で残酷であろうと、常に「恭順」の意をもって接するべしと教えてきた。徳川時代の庶民儒教以降のイデオロギーにおいては、「恩」による条件付けという特殊で封建的な_主体性_は稀薄であったのも事実といえる。
(筆者は、こうした無条件の「孝」というのは、徳川幕藩体制の解体が始まった享保以降に出てきた、封建時代における反動ではないかという疑義を提出している)

これは、イギリスの中世家族法と比較すると明らかになる。
イギリスの中世家族法においては、全家族関係を蔽うような「家」の観念はなく、親と子・夫と妻の関係に分裂していた。これは、各人間において、「権利と義務」という主体的人間の間の規範が支配し、このそれぞれが、主人と家来 の封建的関係と同じカテゴリーによって構成されるものだった。
このような家族的規範関係こそ「封建的」と呼ぶにふさわしい。
しかるに、わが国では親(家長・夫)は、少なくとも流布された教説の上ではそのような「権利義務」の関係に立つことはなかった。

※この辺の議論は少し錯綜しているので、整理。
まず、筆者は封建的な主従関係というのはあくまで主体的な人間同士の契約関係の一種であり、それは権利と義務の関係であるとみなしている。
したがって、日本的な「孝」が中国古典における「孝」と異なり、「恩」を前提にした不完全ながらも互恵的な関係であることは前向きに評価している。
逆に言えば、中国古典における「孝」とは家父長専制制度のイデオロギーであるといえる。事実、中国では古代ローマと同様に子供を売ったり殺したりする権利が家長にあった。困窮した家長が、貴人へのもてなしに子供を殺して料理してさしだしたという話しも_美談として_紹介されてきた国である。つまり、絶対的な家父長制とは、前封建的なものであるわけ。封建制にも至っていない。
これは私見だが、鎌倉時代・室町時代においては、封建的、つまり主体的人間の間の契約的な関係が成立していたのだろうが、徳川時代に長く続く泰平によって、この主体的な人間という観念が後退したのではないだろうか? 一般に戦乱の時代とは「個」の時代であり、泰平の世とは「和」の時代といってよいように思える。
つまり、ここでは、本来は封建的な(つまり不完全ではあるが互恵的な)関係を基礎づけるはずの徳川時代の儒教イデオロギーが、反動化して家父長絶対専制君主的なもの(=非封建的なもの)と化してしまったということが述べられているわけだ。


「孝」について(3)  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日17時04分

ところで、一般的に言えば、恩というのは贈与である。特別の好意によって恵み与えられた贈与である。したがって、その恩恵を受けたものは特別にこれに感謝し、その受けた恩に報いる義務を負うこととなる。
だが、この義務はどのようなものであるかは、それぞれの社会構造によって一様ではない。

例えば、近代市民社会においては、友情や愛情とともにそれに対する感謝も、「自由」な意思に媒介された_純粋に内面的な_道徳的義務であり、社会的な保障や制裁を伴う外的義務としては成立しない。
したがってそこでは、贈与を受けることはなんら屈辱的な行為ではなく、それを受けたものの地位を与えたものに対して低める意味も持たない。当然、贈与を与えたものも、それによって自己の優越を意識する理由を持たない。全ては自由な人道精神ないしは愛情の問題である。
(贈与をうけたままでそれを返さないと、非近代社会においては上級下級関係の意識が生ずることは、人類学の知見、特に経済人類学の知見からも明らかであるように思われる;私見)

しかし、封建制社会においては、恩恵の授受は、_継続的かつ上級下級的な_人身的支配関係を生ずる。
つまり、「恩」という言葉は、一定の封建的な支配・服従関係を設定する基礎としての特殊な意味を持つに至った。

本来の意味における「封建的な」関係とは、主君から「封」を恩恵的に与え(御恩・恩給)、これに対し臣下が反対給付として一定の奉仕(特に軍務奉仕)をなすという契約関係である。これが封建的「恩」の典型であるが、そうした「恩」の論理的および心理的構造を分析すると以下のようになる。

・ここでいう「恩」とは、上から下への「恵み」である。そして、これは特別の好意であるがゆえに、恩の深さとは計算ができない深いものとされる(「海よりも深く山よりも高し」)。
つまり、恩と報恩とは一種の対価関係があるのだが、同時に恩の無限性・不可測性に対応して、報恩も無限かつ不可測でなければならない。すなわち、無限に「恩に着る」ものでなければならない。
そして、恩とはすでに恵み与えられたものである一方、報恩の義務は今後において履行されなければならないものである。すなわち恩恵者は権利のみを持ち、受恩者は義務だけを負い、しかもその義務は無限の大きさを持ち、恵みに対応する忠誠によって支えられなければならない。
こうして、封建的主従の人身的な関係が設定される。

・しかし、ここでの支配服従関係においては、服従者は一定の範囲でその主体者としての地位を保持しており、決して無制限かつ無条件な支配に服しているのではない。臣従契約がひとつの_契約_であるのもこの点と関連している。
そしてまさにこの点、すなわち服従者が支配者に対して一定の主体的地位を保持しているという点こそ、主従関係の媒介として「恩」を必要とする所以となる。
すなわち、本来は主体である臣下は、無条件かつ無制限に服従するのではなく、主君の「恩」を条件とし対価として服従しているのである。「恩」とはこのような_主体者的_な支配服従関係の媒介物でありその現象形態であるといえる。

・封建社会においては、このような「封建的」関係が、政治・経済・社会的全構造を規定する要素であり、個別の支配服従関係の基本原理となる。
封建的主君と臣下という関係を初めとして、領主と農奴・地主と小作人・商人と使用人・手工業者と徒弟・先生と生徒、そして親と子の関係もこの原理に貫かれる(博徒のようなアウト・ロウにおいても「一宿一飯の恩義」が重要である;私見)。


「孝」について(2)  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日17時01分

以上のような「恩」に対して、子が負うところの「考」の内容を具体的に示す。

・父母を尊んで敬うこと、「恭順」の意をもって対すること。これが根本の義務となる。
子は親に対して、態度動作においても、常に絶対的恭順の意を示さなければならない。

・こうした関係を制度的に固定化するためにも、家長(通常は父親)は日常生活においても際立った特権的待遇を享受する。
きわめて些細でなんの手間もいらない行為においてすら、これを自らすることなく(というより、自らすることは家長の権威を損なうものとして禁止され)、妻や子などによって一々「奉仕」されなければならない。
また、家長の食事も他の家族に比べて際立ったものでなければならず、家の出入りに関しても特別の儀礼をもって遇されなければならない。とにかく、その生活の些事にわたって、家長は特別の待遇を享受しなければならない。

・つまり、親、特に父の地位は至高至尊のものであり、親の意見や感情は全てが神聖にして不可侵な命令としての意味を持つ。
親の命令に背いたり、親に対して自分の意見を述べること_ことあげすること_は許されない

・さらに、この規範は、子が自分の考えで行動してはならない、という規範までをも含む。いかなる行為をなすにあたっても、子は必ず事前に親の許可・指令を仰ぐべきである。

・特に、結婚の相手方を決定することは、その最も重大な場合であり、旧民法にあるごとく「父母ノ同意」を得て子が結婚するのは考の義務に反し、むしろ、親が決定して嫁をもらいまたは嫁にやるのが本来あるべきやり方であるということになる
(特に、農村では結婚の時まで相手の顔も知らない嫁は珍しくなかった。最近(執筆は1957年)こそ、息子の結婚においては親が決めて息子にその意思を尋ねるのが一般的となっているが、娘の結婚については親が決めて娘に申し渡すのが一般的である地方は希ではない。)

・親の命令・指示を仰ぐ義務は、子の年齢にはよらない。たとえ妻子がいようと、不惑の年齢を過ぎていようと、親の前では幼児と同様の無能力者として取り扱われ、振る舞わなければならない

・次に、立身出世し、親と、親や自分の属する「家」との_名を上げる_義務がある


・第三に、「考」のうちでも親を養う義務は最も重要な義務となる。
養う義務とは、親に_仕え奉る_義務の延長であると理解されている。
しかし、以前述べたように、養う義務とは実際には家督相続人が負うべきものであり、扶養義務と相続権が相互規定関係になっていると一般に意識されている(この意識は現代にもはっきりとのこっていると思います、引用者)。

・徳川時代の庶民にとっては、儀礼的な親への恭順・父祖の地位などはたいした問題ではなく(だからこそ支配階級から軽べつされたのだが)、懸命に働き、生活を維持し、親を養うこと、それだけが「考」であったといえる


・第四に、考は、子を作る義務も含んでいる。
考は、親に仕えるだけでなく、先祖にも仕える(祖先祭祀)の義務をも含み、祖先祭祀を受け継ぐ子を作る義務までそこに含まれるのは当然である。
また、日本の封建制においては、子の有無は録や知行を受け継ぐものとして、全家族にとっての死活問題であったともいえ、子を作る義務はこの点からも加重されていた。

・このような事情から、特殊な結婚観が生まれた。
すなわち、妾をおくことが奨励され、子を生まない妻は夫が妾をおくことに協力するべきであるという規範である。
子を作るための結婚によらない男女関係は、我が国の伝統的道徳においては正当視されるのみならず、時には義務ですらあったということになる。

・考の規範のもとでは、結婚とはそれ自体が目的ではなく、子をつくり父祖の祭祀を行うための手段であった。
ここでは、結婚はそれ自身の固有の倫理的な価値をもたないことになる。
だから「家」の協同体的生活に直接の影響をきたさない結婚外の男女の結合は_それ自身としては_なんら反倫理的性格を帯びることはなかった。

以上のような教説においては、「孝」は次のような論理的および心理的構造を持っている。
すなわち、「孝」の義務の根拠は、子が親から「恩」を受けたという事実であり、ここに「報恩」という義務を負うに至る。
日本における「孝」とは、「恩」を前提とし「恩」に条件づけられている。


「孝」について(1)  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日17時00分

岩波現代文庫版 「日本社会の家族的構成」川島武宣著 読書メモより

イデオロギーとしての「考」,はしがき

考とは親に対する恭順・服従の義務を示すものであり、わが国の儒教道徳・家族道徳のの基礎をなす。親に対する恭順・服従の義務は拡大されれば主君に対する恭順・服従ともなり、考は封建社会を支える基礎道徳として徳川時代に称揚されるに至った。

このような「考」の儒教道徳は、明治維新後も国定の道徳理論として教育の基礎とされた。また、敗戦による教育原理の抜本的変換にもかかわらず、「考」の道徳は日本民衆の意識にある程度の支配力をもっている。

ここで扱うのは、あくまでイデオロギーとしての「考」であって、民衆の中で営まれている家族秩序についてではない。

現代儒教における「考」には2つの特色がある。
第1に、全道徳体系における「考」の位置について
第2に、「考」の根拠付けとしての「恩」について
以上の2点について、現代儒教道徳における「考」は、中国の古典儒教における「考」と異なる_現代的かつ日本的な_特色をもっていると思われる。
第1の問題とは、明治政府における政治イデオロギーとしての「忠」と「考」の関係である。(この問題は「イデオロギーとしての家族制度」で論じられている)
本稿であつかうのは第2の問題である。


「考」の内容

わが国における「考」とは、一定の具体的歴史的意味を持っており、その中には「恩」に条件付けられるという特殊な論理的・心理的構造を含んでいる。
我々日本人が「考」という言葉において、このようなものを観念し、親子関係の道徳としてはこのようなもののみが存在すると意識することが問題である。

まず、「恩」によって条件・根拠付けられる「考」の構造を明らかにする。

・考と恩の教説はすでに徳川時代に説かれている

・明治政府は1879年に、それまでの文明開化政策を捨て、武士的儒教道徳を再編成することを決意する。
この転換を決定したのが「教学大旨(1879年)」だが、この書で儒教が統一中央政権を支えるイデオロギーとして新たに採用される。

・これを受けて「幼学綱要(1882年) 第1章 孝行」には次のごとくいわれる。(原文はカナ文字)
「天地の間。父母無き人無し。其の始め胎を受けて生誕するより。成長の後に至り。其恩愛教養の深き。父母に若く者無し。能く其の恩を思い。其の身を慎み。其の力を竭して。以て之に事へ。其の愛敬を尽くすは。子たるの道なり」
ここで、恩による考の基礎づけが公式に承認され、わが国の国民教育の最も基本的な原理となる。

・この、恩による考の基礎づけは、修身の教科書においても重要視され、繰り返し繰り返し教えられる。本文においては豊富な具体例をもって記述されている。
また、こうした思想は太平洋戦争当時にまで変わらずに保持されていたことも指摘されている。

・親の恩として最も重要なものは「養育の恩」であるが、ほかにも重要な「恩」がある。
その第一は
息子に嫁を「貰って」くれ、娘を嫁に「やって」くれる親の恩である。
息子や娘は結婚の自由を持たず、自分で配偶者を決定することが許されない。そして、親に結婚を決定されるということは「恩」として教えられ、またそのように意識される。

・ほかに重要な親の恩は、財産の相続である。相続人に家産を譲り渡すということは、特に他の兄弟に優先して特権的恩恵を与えることを意味し、つまり相続人は親から格別の「恩」を受けたということになる。
徳川時代以来の儒教規範によれば、親を養うという考の義務は全ての子に平等にあるのではなく、家督相続人が専属的に負うものとされていた。
(しかし、古代中国の「考」の思想にはこうした意味合いはない。親を扶養する義務は子供に等しく付与されている)
(敗戦による民法改正によって子の平等分割権が認められたから親が老後に困る、という非難が実際にあったとのこと)

・また、親が自分を生んでくれたということそれだけでも、特殊な恩恵として教え込まれる。
このことは実は重要であると言える。生後いかなる具体的恩恵がなくとも、ア・プリオリに親の権力に服すべきだという規範が根拠づけられているからである。


日本の儒教の由来  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月27日16時23分

地下に眠るM様

>徳川儒教ちゅうのは実に独特の発達と変形を経たシロモノでにゃ。ひとことで言えば、封建制以前のシロモノなんだよにゃ。

ここをもう少し詳しく教えてください。
 現在の所謂、儒教精神を日本と中国や韓国と比べると同じ言葉で大きく隔たりがある気がします。
 また、日本においても鎌倉武士と江戸時代の侍では持っている道徳観が違ったのでしょう。
 これはやはり歴史背景の違いなのでしょうか?
 近世日本の儒教は中国の朱子学の輸入でしょう?
 でも、朱子学の本場(笑い)南宋の文天祥や陸游の詩文なんかをみたばあい、日本の葉隠なんかとはまた違うような気がします。
 同じものを輸入してもバックボーンが違うからでしょうか?

ついでに
>キリスト教の教義なんかは、性悪説を採用している典型ですにゃ。
 おもしろいことにイエス自身はユダヤ教の行き過ぎた規範主義に対するアンチテーゼを示していすので、福音書から彼の言動を拾っていく限りはむしろ『性善説』論者だったのではないかと思われます。
 もっとも同じ聖書の中でもパウロなどは生悪説的な言動を示してますが。
 ともあれ、そのキリスト教も帝政ローマ、中性封建主義社会と体制側にまわるにつれて教義の中につよい教義主義を取り入れていくことになります。
 民衆を支配していく上では、教義主義(とその根底になる性悪主義)が便利なのかな?
 基本的には罪と悪とは別物(キリスト教徒でも勘違いしている人がいるけれど)で、『人はみな悪人である』という風な論調で布教活動をしている教会にはうさんくさい物を感じるのですが……。


Re:信じたくないと言うよりは  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月27日14時04分

 (ば)さん、はじめまして。

>思うんですけど、「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化した」というのは、別に『信じたくないという「願望」』のあるなしにかかわらず、ちょっと聞いた分にはやっぱり「信じられない」のではないでしょうか。実のところ私も、ちと感覚が追いつきません。
 
 サルを見ると、なんてニンゲンに似ているのだろう、と普通に思えた私は、進化という概念をよほど簡単に受け容れてしまったのでしょうね。小さい頃から図鑑を読むのが好きだったので、カニとエビが似ていることや、さらにそれが地上のクモなどにも分類されていることを知り、それらに共通の祖先があって、進化の枝分かれで姿と住処を変えたことが、自然って面白いねぇ、と思えたのでした。
 文系であることと、進化について考えることのギャップが私には少しも理解出来ませんが、とにかく私は本当のこと、あるいは本当らしいことが知りたかったのです。私が進化をきちんと勉強するようになったきっかけは、むしろ創造論的な考えに触れ、神様がニンゲンだけを特別に創った、という考えに「猛反発」して、自然淘汰や利己的な遺伝子説などを知るようになりました。あるいは、レミングの大移動についての説明を読んだりして、長く考えていた謎が解けた!と喜んだことも良く覚えています。

>いかんだろう、と思うのは(3)ですよね。
>世の中には、自分の想像力のおよぶものしか存在しない、というのは、どれほど傲慢な発想であることか。

 仰る通りです。私は水泳を幼少期から教え込まれましたが、イルカの泳ぎが到底ニンゲンには及びのつかないものであることを良く知っていました。それが単に泳ぐという動作だけではなく、水に適応した結果、イルカの皮膚が劇的に水の抵抗を減らすメカニズムを持っていることを知ったとき、なんて凄いんだイルカ!と感嘆しました。そんな経緯から、ニンゲンが一番優れていて、他の動物はニンゲン以下である、という考え方は、私には唾棄すべきものでした。想像のつくものより、想像も出来ないようなイキモノの生態が、私にとっては崇拝すべきものだったのかも知れません。


分類の目的  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月27日13時40分

おずおず様

おめでとう御座います。
虫の目名当て問題は全問正解です。
パンパカパーン

>目の名前は属する科の構成員全てに共通する名称か、その目の中で最も進化論的に枝分かれのしていない科の動物名にするかして欲しいですね。

目名を決めるときに『解りにくいから、目の中でもっとも代表的な名称をもちいよう』としたんですね。でも食肉目のなかではネコって言うのはとにかくとして、たとえば、カイギュウ目(旧名も海牛目)って言うのは一般的なのかな?(ジュゴン目、マナティ目??)

新しい目名の犠牲者?として、昆虫にもこんなのがいるけれど

半翅目、同翅亜目、セミ科 アブラゼミ→カメムシ目、ヨコバイ亜目、セミ科、アブラゼミ
国際動物命名規約に定められた目名は分類学的特徴を示していて、その直訳の旧目名は漢字を見るとだいたい(全くわからない奴もあるが)目の特徴が解るようにできているのね。

>イヌやラッコがネコの先祖から分かれたのか?なんて疑問を持つのは私だけなのでしょうか?
分類学の目的の話になっちゃうのだけれど、じつは、分類学の分類はあくまで分類のための分類で、分類の階層図は必ずしも系統発生の系統樹との一致を目指しているわけではありません。
たしかに、系統樹と分類階層は一致していることが多いのですが、
同じ先祖を持つものは同じ特徴を持つことが多いから、結果的に一致していることが多いというだけです。
遺伝子の研究でもっと大きく分類学の区分が変わるかと思ったけれど意外と形状による分類と遺伝子的な相同性は一致しているのよね。
でも、たしか、細菌類の分類なんかは進化上の分類とは大きく離れているらしいのだけれど(くわしくは知らないのですみません)、分類学はあくまで分類学っていうのもすごい話だけれど。
長文ですみません。


Jump!Jump!  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月27日12時49分

憶測でものを言うのはよくないと思い直して計算してみました。
http://plaza22.mbn.or.jp/~islay/seismology/energy.htm
>M4 7×1017(エルグ)(10t車100台を富士山頂にあげるエネルギー)
体重50キロジャンプ能力50センチの人間で考えると、
10t車100台=体重50キロ*20000人分
富士山頂(3000m)=50cm*6000回分
よって20000*6000=120000000となり1億2千万人がJumpすればM4の地震に対抗できる計算です。やればできるじゃん!!M6クラスになると全人類集めても無理ですが(笑)


地震予知とその論評  投稿者:com 投稿日: 2003年11月27日12時30分

地震予知情報で時の人となった、串田氏に対する考察です。

http://www.edu.gunma-u.ac.jp/%7Ehayakawa/bosai/fm/report.html

この中で引用されている菊地聡氏の引用は、「予言」が「戯言」かどうかを判断する基準にもなりますね。
こちらの引用はおなじみ(?)の安井至氏のコメント。

http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/Week0310.htm#label10061

この程度のずれでも、これだけこっぴどく言われるのだから、年単位でずれたりしたら…。まして、そのものずばりを予言していないのに「当たった」なんて主張したら見向きもされない可能性大。


すいません  投稿者:いすずみめじな 投稿日: 2003年11月27日12時29分

>ゆんさん
一般論としてのお話でしたね。良く読まずに書いちゃいました。
要するに、サル(特に類人猿)のことを良く知りもしないのに「ヒトとサルは懸け離れた生き物だ」と言う人が多い、ということで。


Re:人間の感覚の限界  投稿者:とおりすがり 投稿日: 2003年11月27日12時25分

>ゆんさん

サルと言ってもピンキリです。
感覚で進化が信じられる、信じられないということを語ろうというのであれば、
人間に一番近いチンパンジーがどういう生き物なのか、現物にふれて感覚としてとらえることが必要です。
野生の集団の中で生活してみるとか。

そこまで行かなくても、チンパンジーのフィールドワークの書物くらいは読んでおくべきかと。


規範主義+α  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月27日 9時03分

統治する対象へ規範主義を用いる制度は、統治者に対しては性善説的な所があるように感じる。規範の源としての統治者の無謬性というか。
部族ではない国家としての過ちとして、天皇制にしろ共産主義にしろ統治者の無謬性、即ち権力機構の性善説的な構造が暴走や独裁を招き、失敗の源であったように思える。現在は官僚機構に対しこのような無謬性が指摘されたりしているが。

無謬性・・・O川先生のことですか?>この世は仮の世さん

追記>tema さん
http://plaza22.mbn.or.jp/~islay/seismology/energy.htm
いや・・・人が跳ねただけじゃだめかと(余計なことですね、すみません)
 


人間の感覚の限界  投稿者:ゆん 投稿日: 2003年11月27日 8時41分

>思うんですけど、「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化した」というのは、別>に『信じたくないという「願望」』のあるなしにかかわらず、ちょっと聞いた分にはやっぱり>>「信じられない」のではないでしょうか。実のところ私も、ちと感覚が追いつきません。

昔ものの本(タイトル失念)で読んだ話によると、百万という桁の数字に
なると、すでに人間は直感的に把握することが出来ないそうなので、実
は「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化したとは信じ
られない」という感覚は「サルみたいな生き物が、人間まで進化したと
は信じられない」という感覚とほぼ同義なのかも。

ちなみに私は初めて進化論的な考えを目にした時は、「なるほど、だか
ら人間と猿は似てるんだ」と目からウロコで、特に信じられないという
感覚はありませんでした。これは多分に「進化してなければいけない/
していてはいけない」何らかの規範がまだ自分の中に形成されていない
子供の頃にその考えに接した所為ではないかと推測します。ヒューマン
の尊さがどうこういう思想的な規範の刷り込みがすでに終わってから進
化論に接したら、それなりの違和感を感じていたのかも。


天皇制という規範主義  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日 6時05分

性善説と性悪説ちゅう話は知られているよにゃ。

性悪説は基本的に規範主義だにゃ。人間性は基本的に悪であるから、規範によってはじめてホモサピエンスという動物は人間たりえるちゅう考え方だよにゃ。キリスト教の教義なんかは、性悪説を採用している典型ですにゃ。
逆に、性善説だと、規範そのものが悪の源とみなされたりするんだよにゃ。ルソーの「自然に帰れ」はその典型。

性善説と性悪説の対立は、どんな民族や文化にも見られるといえますにゃ。どうもこれは各人の気質にも因るものみたいなんだよにゃ。僕なんか極端な性善説論者だしね。
規範主義的な感覚の持ち主って、社会不安などが大きくなる時期には規範を強化して状況をのりきろうとするんだよにゃ。社会集団の規模が部族くらいだったら、これは適応的な戦略だとも思えるけどにゃ。

日本という国家が採用した「規範」ちゅうのは、「天皇制」なんだよね。天皇制という装置は制度であり規範なのだにゃ。近代天皇制規範は、徳川時代の儒教をおおいに採り入れた規範なんだよにゃー。しかも、徳川儒教ちゅうのは実に独特の発達と変形を経たシロモノでにゃ。ひとことで言えば、封建制以前のシロモノなんだよにゃ。(オモシレーのだけど、詳細はパス)

さて、この規範主義なんだけど、為政者がこれを求める場合は、別の意味合いを持つのだにゃ。
例えば、戦前において日本という国家の規範教育である皇民化教育がもっとも徹底的になされたのは国内では沖縄なんだよね。周知のように、沖縄では唯一地上戦が行われたわけだにゃ。上層部は沖縄における地上戦を容認していたとしか思われにゃー節がある。

また、沖縄戦においては、集団自決や軍部(本土の軍人)による住民の虐殺がおこっているだろ?
そもそも皇民化教育においては、敵への投稿が恥辱とされていたわけで(これだけでも国際条約違反だよね)、沖縄ではそうした意識が最も徹底していたのだよにゃ。

どういうことかというと、軍部は、沖縄の民衆を信用していなかったのね。
為政者の規範主義というのは、自らが統治する対象への不信が基盤になるのだにゃ。
(もちろん、性悪説は人間への不信がベースにあるわけなんだけどね。民衆における不信の対象は自らの統治する対象とは重ならにゃー)


つあらとすとら補足  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日 5時27分

該当箇所が今ちょいと見つからにゃーのだが、こんな感じの1節もあったんだよにゃ
「人間が猿を見て恥辱をおぼえるのは、猿が人間に似ているからではない
 人間が猿に似すぎているからなのである」

サル学の本を読むと、どうも自分のことを書いているとしか思えにゃーのだよな。


サルとニンゲン  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月27日 4時59分

えーい、くそ、起きちまったにゃー

サルについてはニーチェが「ツァラトストラ」で巧いこといっとるにゃ。
「人間から見れば、猿は何だろう? 哄笑の種か、あるいは恥辱の痛みを覚えさせるものだ。超人から見たときに、人間はまさにそうしたものになるはずなのだ。哄笑の種か、あるいは恥辱の痛みに。
 あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。そしてあなたがたの多くのものはまだ虫だ。かつてあなたがたは猿であった。だが、いまもなお人間は、いかなる猿よりも以上に猿である。
 あなたがたのなかの最も賢明な者も、植物と幽霊のつぎはぎか、あいのこにすぎない。だがわたしはあなたがたに幽霊になれ、もしくは植物になれと命じるだろうか?
 いや、わたしはあなたがたに超人を教えよう!
 超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発して、こう言うべきだ。「超人こそ大地の意義であれ!」と
 わが兄弟たちよ、わたしはあなたがたに切願する。大地に忠実であれ、そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と。かれらは、みずからそれと知ろうと知るまいが、毒を盛る者たちなのだ。
 かれらは生命の軽蔑者だ。大地のほうで飽き飽きしている死にそこないの、みずからも毒にあたっている者たちなのだ。さっさとこの世を去ってくれればいい!」(岩波文庫版 P15〜16)


自己フォロー  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月27日 2時22分

>「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化した」
 私の記憶が確かなら、中学か高校の頃、アウストラロピテクスは200万年前、と習った気がしますし、当時の教科書にはかなり猫背の猿人の絵が載ってたように思います。
 でも今ちょっとぐぐってみると、アウストラロピテクスの年代はもうちょっと古いようですし(記憶違い?)、イメージ検索してみると、ほぼ直立してますね。まあ「サルみたい」と言える範囲かとは思いますが。
# そういえば「猫背の猿人」のイメージについては、「ダーウィン以来」という本で
# 批判を読んだような気が。


信じたくないと言うよりは  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月27日 1時45分

大文字ナンさん:
| 進化を信じられない(受け容れられない)理由はなんだったっけ?
| きちんと述べられますか?理由を述べられずに、生理的に受け容れられないとか、
| なんとなく信じ難いというのは、信じられないのではなく、信じたくないという
| 「願望」です。

 思うんですけど、「サルみたいな生き物が、200万年の間に人間まで進化した」というのは、別に『信じたくないという「願望」』のあるなしにかかわらず、ちょっと聞いた分にはやっぱり「信じられない」のではないでしょうか。実のところ私も、ちと感覚が追いつきません。
 既にどなたかが書いてたように、「地球が丸い」というのも、普通に地上で暮らしてればいまいち信じがたいことなんじゃないかと思います。

 そこで取ることのできる態度はいくつかあって、

(1)「この世界にあるびっくりする事実の数々を知りたい」と、(まずは先人の研究から)勉強を始める。
(2)「はぁ、なんだか信じられないけど、俺には関係ねーや」
(3)「そんなの信じられない! 『だから』あり得ない!」

 大文字ナンさんは(1)の立場を取っておられるようですが、(2)の立場もそれはそれでアリだと思います。実際私も文系人間なんで、立場的には(2)に近いのだと思います。多少の好奇心はありますが、あまり積極的に勉強はしてません。
# 一応、「新版 図説 種の起源」は、amazonで購入して先日届きました。現在4章です。

 いかんだろう、と思うのは(3)ですよね。
 世の中には、自分の想像力のおよぶものしか存在しない、というのは、どれほど傲慢な発想であることか。


神戸の人達は幸運だったそうで  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2003年11月27日 1時24分

みなさまはじめまして。ここには初めての書き込みです。よろしくお願いいたします。

comさん:
>これら地震の被害者を逆なでするような書き込みをする、この世は仮の世さんの品性を疑います。

例の予言の文句でGoogleしたらこんなのが見つかりました。
ソースが2ちゃんなのでアレですが、引用元は明示してあるので各自調べてくださいということでひとつ。
# この世は仮の世さん、この本は持ってますか?

このスレの47以降からです。
http://mentai.2ch.net/psy/kako/990/990915533.html
|  『奇蹟の時代を生きる』(95年3月出版)より
...
| 『東京には、大きな地震が少なくとも三つは来ます。
| おそらく、1998、1999年頃に来る地震が最大のものであろうと思います。
| その最大のものへの備えの時間は、まだニ、三年あります。その前に、その先触れと
| なるものがやってくるはずです。
|
| この首都圏を中心とした次なる大震災に、いかに対応すべきか――。
| 残念ながら、現実的手段として、打つべき手はほとんどありません。
| 世紀末までに押し迫っているこの時期において、こうした大きな震災を止めうる
| 手段はないと思います。
|
| これから日本列島を災難が次々と襲ったときに、いかほどのことができるでしょうか。 | 政府、地方自治体、自衛隊、警察、消防署・・・。
|
| これを考えたときに、のちの人は「神戸の人たちは幸福だったのではなかったか」と
| 言うのではないかと思います。

まあ教祖がこういうことを口走るような教団だということですね。
もちろん、この「予言」も思いっきり外れてますけど。


いったいどうすれば地震を回避できるのか  投稿者:tema@実は今日も酔っ払い 投稿日: 2003年11月27日 0時06分

クハ72さん、こんにちは
 震源地の位置、地震の発生時刻、規模、及び振動数が正確に予言できることが前提ですが..  
  1.信者を震源予定地に集める
  2.地震の発生予定時刻、信者に一斉にジャンプさせる
  3.その後も地震の振動数に合わせてジャンプor着地させる
 このようにすることで、地震の影響を緩和させることができると思います。


re^2:戦争と平和  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月27日 0時03分

 たんぽぽさん、クハ72さん。レスありがとうございます。

> ごく簡単に言えば、彼らは、天皇主権の大日本帝国時代を、
> 理想としているのだろうと思います。

> そこまで行かなくとも日本人が天皇を中心にして一つにまとまるのが理想なのでしょう。

 現代の日本の政治家は、利権(または票)のみにより活動する、と想像していたため、彼らが理念、理想を基に活動しているとは思ってません(公明党は別ですが)でした。でも、ひょっとしたら、言われるとおりなのかも知れません。
 それにしても...ヤな理想です。
 ひょっとして、進化論を教科書から落とした理由も、彼らの理想にあるのでしょうかね?


>今さん  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月26日22時12分

http://lovelove.rabi-en-rose.net/usada3.php
http://lovelove.rabi-en-rose.net/usada10.php
など、かなり執拗に追いかけてます。実際にゲームもしてるんじゃないかと思います。

ある分野↓
http://usada.sakura.vg/
ちょっとマニアックでしたね。


受け入れ難い事実  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月26日22時08分

 この世は仮の世さん。

 少し心をフリーにして読んでもらえますか。私のような科学を愛する者は、信じるという行為にとても慎重です。たとえば進化論についても、観測事実と合致して、理論から予測されるモデルと現実が良く一致することを知っています。ですが、もしも今ある理論よりも現実をうまく言い表せる新たな理論が出てきたなら、すぐに自説を修正したり、間違いをあらためる用意が出来ています。科学は信じるものではなく、暫定的に採用するものである、というのはそういうことです。
 
 理論を暫定的に採用するときでも、信憑性とか妥当性を評価するときに「信じる」に近い心の働きが生まれます。しかし科学的に物事を考えるということは、一度は採用し「信じた」説に対してでも、常に疑いの目を向け、繰り返し繰り返し自己批判しながら矛盾や誤謬を潰していくことでもあります。
 恐らく、この世は仮の世さんが信仰を持つに至ったときも、それなりに吟味して、疑うべきは疑った末に「信じた」のでしょう。しかし、一度「信じる」ことを決めてしまってからは、信じるために信じる状態に陥り、分析したり批判したり、新たな考えを受け入れる努力を怠ってはいないでしょうか?

 世の中には、なかなか認めたくない事実が多数あります。たとえば、私は今後ずっと老いていくのでしょう。今は自由に動くこの身体も、いつかは重い戒めをされたかの如く、不自由になることでしょう。その時を少しでも遅らせるために、体を鍛えたり、規則正しく生活しようと心がけたり、私は努力をします。祈ったり、崇めたりしたところで、過ぎ行く時間は止めようがなく、私に年輪は刻まれ、細胞分裂のたびに起きているエラーが、いつかは致命的な変異を生むことになるのかも知れません。
 生物進化も、そういう事実のひとつです。あなたが認めようと認めまいと、蓄積されたエラーが変異を生み、生物は進化をしてきました。進化を認めることは、あなたの心の平安を乱すことかも知れません。しかし、どんなに信じ難いことであっても、観測された事実というものは変えようがありません。あなたが信仰を持つことは、大変有意義なことなのでしょう。だけれども、私たちはこの現実に生きていることも、忘れてはなりません。


ネトゲに反応  投稿者: 投稿日: 2003年11月26日21時54分

>takoさん

ちと話は飛びますが、、、
UOが出たMMORPG草創期のころ、仮想現実がどうのこうの、、、
なんていう議論が流行りましたが、ああいうのは実際にゲームをやって
いない人の議論でないかい?という気がしてなりませんでした。
#この著者は、ゲームのデザイナーなのかな?


なるほどね...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月26日21時24分

等翅目(シロアリ目) 、粘管目(トビムシ目)、総尾目(シミ目)、隠翅目(ノミ目)
膜翅目(ハチ目)、蜚れん〈むし編に廉〉目(ゴキブリ目)

これらに関する限り、目の下の科に至るまで、シロアリ科とか、
トビムシ科とか、ちゃんと関連してる...。

結論、昆虫の場合はこの命名法は合理的...みたいです...。 (@_@;)


ネトゲに関する考察の紹介  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月26日21時10分

ここはある分野では有名なプログラマーの方の日記サイトですが、ネットワークゲームにはまることの考察がわかりやすく書いてあります。宗教にはまることにかなりにているなあと。息抜きにどうぞ。


便利な言葉:解釈  投稿者:com 投稿日: 2003年11月26日18時45分

この世は仮の世様。
>com様、私は予言の解釈をしただけです。

僕も解釈しただけです。

>日本はもともと地震国で先生が地震の予言を一々しても意味ないと思います。

なぜですか?理由をお聞かせ願います。僕の個人的な解釈としては、O先生は関東大震災が00年までに起きるつもりで予言し、たまたま被害状況が似ている阪神大震災を拡大解釈しただけでしょ。

>あなたのおっしゃった大地震ですが、予言の対象となるようなおおきな被害が出たのでしょうか?

奥尻島では、一つの町が丸々津波に飲まれました。もし、あなたが被害者の数や被害金額だけで評価する人であれば、(以下自粛)。

>阪神大震災では高速道路が崩れ、火災が広範囲におこり、死傷者が多数でてその影響が後々まで残りました。

道路が地震により陥没したり、橋が落下したり。色々ありますよ。また、奥尻島では青苗地区の住民多数が死亡し、町の復興がなされたのはつい最近です。

「予言が当たった」と言い張るならば、何が「当たり」で何が「はずれ」かを厳密に規定する必要があります(「誤差範囲」も含む)。万人が納得できる根拠を設定し、それに対して「当たり」「はずれ」を主張するのならともかく、根拠を出さないで「当たり」「はずれ」するから、皆様に
突っ込まれているんでしょ?

自分があやふやなのに、他人に厳密な設定を押し付けないでください。もし、そうしたいのなら、ご自分で範を示したらどうでしょ?


巻き直ししませんか  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月26日18時43分

はぇ〜、一寸見ないうちにえらく記事が進んでいる。
地下に眠るM様は、猫又教の尊師になって、GOA様にポア宣言してるし・・・

で、この世は仮の世様、大文字ナン様がおっしゃているように、一旦、議論を巻きなおしたら如何でしょうか。
私としては、貴方の下記の書き込み

> 以上書きましたがこれらは大川先生を信じてるからいえることだと思います。

で、貴方の主張が宗教的なものであり、事実を反映したものではないということが理解できましたので、予言の話題にはこれ以上立ち入ることはいたしません。
蛇足ながら付け加えさせていただくと、この掲示板は一応、疑似科学の批判を行う所です。宗教上の主張を行うことは、Webマスターが問題なしとされておりますが、一般的(少なくとも科学的に実証できる)な主張と宗教的な主張ははっきりと区別できるように書き込みされたほうが良いと考えます。


有難うございました>秋月さま    投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月26日17時24分

いきさつはわかりました。
にしても、目の名前は属する科の構成員全てに共通する名称か、その目の中で最も進化論的に枝分かれのしていない科の動物名にするかして欲しいですね。その意味で食肉目の方が好きです。
イヌやラッコがネコの先祖から分かれたのか?なんて疑問を持つのは私だけなのでしょうか?
(広い意味ではそうなんだろうけど...)


矛盾してるぞ!  投稿者:GOA 投稿日: 2003年11月26日16時49分

>予言の対象となるようなおおきな被害が出たのでしょうか?

未来は変わるんでしょ?被災地に当たる人々の営みが影響を及ぼして大きな被害に遭わなかったという可能性をどうして否定するのですか?
だいたい大川予言が阪神大震災ではなくて、別のもっと小さな被害しか及ぼさなかった天災(そもそもの予言では地震と限定していない)の発生を予言していて、“人々が未来を変えた”という可能性をどうして否定するのですか?

「予言は外れる」というのであれば、阪神大震災と予言の描写に類似があったとしても(本当は「災害があった」という以外の類似がなく、類似を主張しているのはあなただけだが)、阪神大震災が予言で描写された天災であることを証明できません。

この世は仮の世さんの発言は首尾一貫しておらず、発言になんの価値も見出せません。
支離滅裂な発言をして顰蹙を買うより、厳しい世の中から逃避して自分の世界に閉じこもっていたほうがあなたのためだと思いますよ。


巻き戻し  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月26日16時37分

 進化の事実を信じられないのが、この世は仮の世さんのもともとの主張でしょう?とりあえずそこまで戻りましょう。あなたの崇める教祖は、私やこの掲示板に集まるほかの方々にとって、最低な人物にしか見えてないし、なぜそう見えるのか、きちんと根拠を挙げて指摘出来るのです。放置すると弊害のある対象に対して、客観的な根拠を提示して批判することは、奨励されるべき。だけど恋愛と一緒で、それでもあなたが個人を崇めるのは自由にしたらいい。ただ、その部分をこんな論理を重んじる掲示板で主張しても、あなたの盲目具合をさらけ出すだけです。
 もしもあなたが信仰を重んじるのなら、あんまりボロボロの盲信を曝け出さない方が良い。あなたのせいで、あなたの信じる宗教がますます見下されることになるのだから。

 進化を信じられない(受け容れられない)理由はなんだったっけ?きちんと述べられますか?理由を述べられずに、生理的に受け容れられないとか、なんとなく信じ難いというのは、信じられないのではなく、信じたくないという「願望」です。最強の布陣で試合に臨んだのに、ボロ負けしたチーム監督の心境ですね。
 でも、事実を受け容れないことには成長はあり得ない。世の中にはいろんな考え方があって、あなたの知らない事実や、想像もつかない研究、成果が多々ある。それらを「信じられない」の一言で見過ごすことは、私だったら受け容れられない。確かめようのないあの世だの前世だのという下らない妄想に付き合うより、私はこの世界にあるびっくりする事実の数々を知りたい。

 無知であることはひとつの理想です。あなたの目指すユートピアは無知の理想です。でも人間は、無知であることに耐えられないものなのですよ。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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