創世記の記述は地質学の証拠と一致するか?

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エホバの証人の主張とは裏腹に、創世記の記述は地質学の証拠と一致しない。科学の証拠をもって聖書の記述の妥当性を論じるのは、科学の誤用であり、科学と宗教の区別がついていない。

エホバの証人の主張

創造論もいろいろであり、地球の歴史が何十億年であることを認めるものもあります(古い地球論)。創世記に書かれている一日は24時間ではなく、さまざまな長さの時間をあらわしているというのです。「日」とか、「夕と朝」という言葉を拡大解釈できるのなら、多くのクリスチャンがそうしているように、創世記自体も比喩の物語であることを認めることができそうなものですが、彼らはそうしません。

日本での代表的な反進化論的な宗教は、エホバの証人です。彼らは古い地球論を支持しています。創造「科学」は知らなくても、エホバの証人を知っている方は多いでしょう。エホバの証人は自らの宗教を科学として学校で教えろ、などとは主張しませんが、そのパンフレットの中で見当はずれの進化論批判を行っており、進化論に対する誤解を広めるのに一役買っています。そのため、このページでの批判の対象となります。ただし、エホバの証人の信仰を批判しているのではなく、科学の誤用についてのみ批判していることを忘れないようにして下さい。

古い地球論者は、「地球の歴史が1万年以下」などと主張しなくても済むので創造「科学」の多くの問題を回避することができます。地質学は受け入れる(どういうわけかヒト科生物を扱うときに限って受け入れないが)ので、創世記の記述は科学も認めていると主張できます。エホバの証人の本の中で次のような主張がみられます。

数学的確率という観点から見ても、創世記の創造の記述は、その一連の出来事に関する知識を持つ方を源としていたに違いない、ということが興味深い形で論証されます。その記述は十の大きな段階を次の順序で挙げています。(1)始まり;(2)濃いガスと水に包まれた、闇の中の原始の地球;(3)光;(4)大空、すなわち大気;(5)広い範囲の乾いた陸地;(6)陸生植物;(7)太陽、月、星が大空を通して識別できるようになり、季節の推移が始まる;(8)海の巨獣と飛ぶ生き物;(9)野性の、また飼いならされる獣、陸の哺乳動物;(10)人間。これらの段階が、総合的に見てこのとおりの順序で生じたことを科学は認めています。(ものみの塔聖書冊子協会 1985 P36)

創世記の筆者が全くの憶測でこの順番通り並べる確率は362万8800分の1だそうです。偶然に「正しい」順番に並べられたわけがないから、正しい知識をどこからか(神から?)得たのだと言いたいようです。神から知識をもらわなくても、「(1)始まり」を2番目以降に並べることはないでしょうに、創造論者の計算する確率はどこか抜けています。

創世記の記述は地質学の証拠とは一致しない

(7)太陽、月、星が大空を通して識別できるようになり、季節の推移が始まる」というのは拡大解釈です。創世記の記述では、「識別できるようになった」ではなく、4日目に太陽と月と星を「造った」ことになっています。科学では植物よりも先に太陽や月や星ができたことになっていますので、それに合うように、それまでは「地球を包んでいた雲の層のため、地上の観察者には見えなかった」だけで、4日目に「地上の観察者からは太陽や月や星を観察できるようになったのだ」解釈したのです。解釈が許されるのかという問題がある以外にも、原始地球において「雲が覆われているため地上からは太陽や星が見えなかった」という科学的事実はあるのでしょうか?私は知りません。

(8)海の巨獣と飛ぶ生き物」についても、地質学的な証拠によれば、創世記の記述とは逆に地上の生物のほうが空を飛ぶ生き物に先行します。鳥は爬虫類よりも新しい地層からでています。海の巨獣がクジラなどの大型の海洋哺乳類のことを指しているのなら、やはり地上の哺乳類よりも新しい地層から出現しています。また、3日目に創造されたという「(6)陸生植物」は、創世記の記述によると、顕花植物を含んでいます。

「地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類にしたがって産する果実の木を、地の上に生え出させるように。」するとそのようになった(創世記1:11)

種が中にある果実を産する植物は、地質学的には、哺乳類よりもあとになって出現してきたものです。なのに、創世記では3日目に早々と創造されたことになっています。エホバの証人の主張とは裏腹に、創世記の記述は地質学の証拠とは一致しません。「これらの段階が、総合的に見てこのとおりの順序で生じたことを科学は認めています。」というエホバの証人の主張は誤りです。地質学の方が間違いで、創世記の記述が正しいと信じるという立場もあるでしょう。そうだとしても、創世記の記述が正しいとする根拠に、科学を使用することはできません。

エホバの証人は何がいけなかったのか?

エホバの証人の犯した高次の誤りは、創世記の記述が正しいことを示すために科学の成果を利用したことです。これがどんなに愚かなことかは、逆の例を考えてみれば明らかです。例えば、創世記の記述が地質学と矛盾するという理由で、聖書には価値がないと断じたとすれば、それは愚かなことです。ある宗教の教義が正しいかどうかは、科学的に正しいかどうかとは無関係なのです。

ある宗教の価値は、人生に生きる目的を与えることができるとか、不慮の悲しみをいやすことができるとか、そういうところで決まると私は思います。これは、決して科学では代用できないことです。科学は科学なりの素晴らしさがありますが、そういう宗教の領分に立ち入るべきではありません。同様に、宗教が、科学の領分に立ち入るべきではありません。

普通は両者の間に軋轢はありません。ローマ法王は進化論を容認しましたし、キリスト教を信じている科学者もたくさんいます。しかし科学の権威(実際にはそれほどの権威はないのだが)を利用しようとする宗教があれば、そこには何かしら問題が生じるでしょう。宗教を科学であると言い張っている創造「科学」や、科学の成果を利用して創世記の記述が正しいと示そうとするエホバの証人がそうです。

明らかに宗教が科学の分野を侵しています。私はエホバの証人が創造説を信じること自体は批判していません。信仰は批判されるべきではないからです。私の批判は、科学の誤用、つまり科学の成果を使用することで、ある宗教が正しいとする態度に対してです。なぜ、

「地質学的な証拠とは必ずしも一致しないが、創世記の記述は正しい」

「科学者は進化を支持しているが、我々は創造を信じる」

と堂々と言えず、「創世記は地質学と一致する」「進化を信じない科学者が増えている」と嘘をつくのでしょうか。そんなに自分の信仰に自信がないのでしょうか?科学という権威から認められていないと不安なのでしょうか?

カトリック教会は「万物のあるがままの状態は神の御心そのままである」という見解だそうです。科学者が進化やビッグバンについて明らかにしても、カトリック教会の信仰は揺らぎません。科学がどんなに進んでもそこに神が入り込む余地はあります。カトリック教会は反進化の証拠を捏造する必要はありません。そこには科学との軋轢はないのです。


参考文献

ものみの塔聖書冊子協会 1985.生命-どのように存在するようになったか 進化か、それとも創造か
スティーブン・J・グールド 1995.がんばれカミナリ竜(下) 早川書房

(補)
グールドは27章「創世記と地質学」にて、19世紀末に行われた、グラッドストン(政治家)の「地質学的な順序と創世記の順序は正確に一致している」という主張とハクスリー(科学者)の反論について書いている。参考にされたし。ただし、グラッドストンは進化を否定しているわけではないのはエホバの証人と違う。当時まともな知識人で、創世記の記述が一字一句正しいと信じている者はいなかった。


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2000/02/08
2005/08/30最終改訂