このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
>ここでの「自由意志」とは、「どのような行動をするかということは、意識以前の無意識のプロセスによって準備され、意識はそれを行うかどうかの「選択」を行うだけ」ということになるようです。
最終的なゴーサインの権限があるなら、会社で言えば一番偉い人になりますね。
>実験では、運動前野を刺激して、被験者の意志とは関係なく手を動かしたとき、被験者は自分の意志で手を動かしたと考え「ハエが飛んできたから追い払った」と、後付の理由で合理化したそうです。
社員が勝手にやったけど、報告書では色々と理由をでっち上げたと。
意志と意識は一応区別した方が良いのではないでしょうか。確かに意志と言えば意識されているものとされることが多いですが、ではその意識されている意志はどこから現れたかと言えば、無意識の中から現れたと言うしかありません。「ケーキが食べたい」という意志は、食欲中枢への刺激が生み出したことは明白でしょう。自分の心の中を見れば意識が存在することは明らか、つうか意識がある状態と意識を無くした状態があることは明らか。で、意識がある状態とは脳のどこがどう働いていることなのかというのは立派に科学的な設問であり、色々と挑戦が続いているようです。
では自由意志とは何かというと、ちょっと定義が不確かな気がしてなりません。無意識下の動機から意識された欲求(意志)まで、どこからどこまでを自由意志と呼ぶのでしょうか?
あら、リリスさんに先を越されてた。
>自由意思の問題は、意思が自由であるかどうかの問いではなく、自由意志をどう定義するかの問題かもしれません。
http://www.sankei.co.jp/news/060218/sha060.htm
帝王切開のミスで死亡、医師逮捕 福島の県立病院
狂ってますね、この国。
産科なんてやるなってことだ。
いや、メスは持つな、下手すると死ぬような薬(しかしよく効く)は処方するな。それよりトンデモ理論を打ち立てて、こうすれば治りますよ、治らないのはあなたが言うとおりしてないからですよ、治ると心の底から信じていなかったからですよ、ってやっていろってことか。
厚労省は何をしていると言われても、厚労省にはできることはあまりないんじゃないかな。
医師には、応召義務を課すかわりに医師のみが診療をできるなどの権利を与えている。その診療もその医師の自由裁量権がある。
オウムの医者が、治療と称して患者を熱湯につけて大やけどを負わせたことがあったけど、あの医者もそれで刑事罰を科せられなかったんじゃないですか。医師免許の方も、そのままじゃなかったですか?
他にも、確か近畿大学の教授だったか、独自の癌免疫療法をやっていて、正当な治療の機会を逸したとされて訴えられているけど、これも民事であって刑事じゃない。そして、民事で負けたとしても、医師免許の取り消しとまではいかないんと違うかなぁ、、、
独自の治療(と称するもの)であっても、きちんとインフォームド・コンセントがなされていたら、もう他人があれこれできるものじゃない。
一瞬、超ミネラル水の野島某氏かと思った・・・
保険診療はしてないそうなので、保険医登録の取り消しは効かないみたいです。
医師法第19条
診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。
正当な事由とは。
正当な事由がある場合とは、医師の不在または病気等により、事実上診療が不可能な場合に限られる。
ただし、罰則はないそうです。
あるとしたら行政罰かな。
保険医なら、保険医登録の取り消しとか。
診療にご案内のところに、、、
>診察を受けるに当たっては必ず先生の著書をお読みいただいていることと先生の講演会に参加されていることが条件となります
>お読みいただいていない場合は診察をお受けできません
こうあるんですが、これって応召義務違反じゃないの。
この人、医師なんですか?
医師でないのなら、応召義務はないけど、医師でないのなら医師以外の者が診療していることになり、これも法律違反になる。
患者さん、初めまして。(なんか変だな)
間違っても治療を受けに行ったり(行かせたり)しないでください。
リンク先を見る限り、医療施設と言うより、新興宗教のようですね。
あれを医療として行うのはまずいと思うのだが、
厚生労働省は何をしておる!
リンク先に書いてあったのですが
>月に何度か行っている講演のビデオを1本1000円にておわけしております
「今までに何度も月に行っていると言うようじゃ、相当重症だな」と思ったのは、私の誤読。(笑
>パラドックスさんへ
はじめまして。無神論者にして似非想像論者のリリスと申します、よろしく。
情報の選択や重み付け、というのも意識の重要な機能かもしれませんね。
トリンカーと言う生理学者によると、感覚器官などから脳に流入する情報のうち100万分の1だけが意識に現れるのだそうです。記憶の対象の大方は、この意識された情報か、あるいは意識された情報に無意識的に結び付けられた情報でしょうね。
関連する情報の組み合わせは、意識の基本機能であるばかりか、意識の本体でさえあるかもしれません。確かどこかに、入力される諸情報と自己との関連を表象する情報が刻々と更新され続けることが「自己」の感覚を生むのではないか、という説がありました。
>Kitkatさんへ
あの〜、私はもちっと違う方向を攻略して見ようかな〜、なんて考えていたんですけれど・・・
意識は多分に複合的・重層的な機能です。脳に損傷を負った患者の観察により、意識が複数の機能から構成されているらしいことが判ってきています。意識を構成する機能に対し、その機能がどのように進化してきたか検討することが可能でしょうが、似非想像論の墓穴を掘りそうで怖い・・・
>おずおずさん、まこさんへ
もしかすると、ケツァルコアトル神の御名を出すのは早かったかもしれません。
撒き餌としては・・・なにぶんマイナーですから・・・
ついでにダマシオ著「無意識の脳 自己意識の脳」より、意識に関する神経学的観察や神経心理学的実験により明らかにされた主要な事実として挙げられている5点を書いておきます。
1.意識のプロセスのいくつかの側面を脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけることができること。
2.意識と低いレベルの注意(覚醒)はどちらも分離できること。(単純な自己感さえ無くした患者でも、覚醒状態は維持されていて、見る・触るといった基本的な反応は可能である。)
3.意識と情動は分離できない。(意識に障害が起こると情動にも障害が起こり、情動が阻害されると論理的行動が妨げられる。)
4.意識は一枚岩ではない。有機体に「いま・ここ」という自己感を授ける単純な「中核意識」と、アイデンティティと人格や個人史といった自伝的自己に関わる「延長意識」に大別することができ、延長意識は中核意識の基盤のうえに成立している。
5.言語・記憶・理性・注意・ワーキングメモリといった認知機能は、延長意識の最上層が正常に作用するには必要だが、中核意識の作用には必要でない。
>決定論から逃れるにあたって、戦略がひとつに限定されるわけではにゃーのだから、そこで傾性が発揮される余地がでてくるんでにゃーの?
あ、この場合の「決定論」は量子論的な不確定性に対応する、ラプラスの魔的な決定論を考えていました。傾性が生じるということは、行動選択がニューロンネットワークの特性などに依存することを示します。厳密には、細部で影響しているかもしれない量子効果を否定するものではないですが・・・
しかし、最終的な行動選択の結果が量子並みの不確定性を有しているのなら、個性など発揮しようがないと思えます。
>自由意志について、自然科学のフィールドで論じてもあんまり面白いことにはならにゃーように思うんだけどにゃー。
ぶっちゃけ、哲学のフィールドに乗せるのも如何なものか、と言いたくなるくらい曖昧な概念だと思うんですよね。何故この言葉を使用したか。もちろん、響きがイイからです!
もとの主張は何でしたっけ・・・確か、ヒトの繁栄は、意識に関連した能力の向上による外部環境の利用という戦略が効を奏した結果であるが、戦略の有効性に比べてそれを実現できた種はヒトのみであり、この戦略をとる生物種が現れる確率は極めて低いと考えられる、そして、低確率の事象の実現には神の意思が仮定できる・・・と、こんな感じだったような記憶があります。(←トリ頭)
日々発掘される化石標本が全知全能の神の試行錯誤の痕跡であると言い張り、ハルキゲニアやオオグチボヤが神の深遠なる美意識の発露であると言い切ることは止めました。
しかし「自由意思」はともかく、「意識」については、それが科学的に探求されるべき対象であることは明らかだと思うんですけどね。
「自由意思の考察」は「意思決定のプロセスの考察」ということで。
>(なんか、宗教をなめた発言がこの場所でちょくちょく出てくるのは気になっている)
進化論の指し示す偶然性や無目的性は、ある種の宗教にとっては深刻な問題かもしれず、「宗教への人生丸投げに過ぎない」的な発言は少しばかり事態を軽く見ているのではないか、と感じたんです。無神論者なりに気になって問題提起してみようかと思ったのが動機の3割なんですが、その発言をされた方は火傷で休んでおられるそうですね・・・
基本的にボケキャラですので、ツッコミお願いします。
>意思、だとか、意識、だとかいうものの「実体」とはなんでしょうね。
>ここまでの経緯を考えると、私たちが「自由」と呼んでいるすべての事象が怪しくなってきます。
私は「意思」や「意識」は脳の機能の一つだろうと思っています。
ところでナンさん、「意思」をスルーして「自由意思」を検討する場合、自由意思と自由でない意思との相違を問うことになるのでしょうか、それとも意思のあり方が自由意思の名に相応しいかどうかを問うことになるのでしょうか。後者ならば、自由意思の問題はそのまま意思の問題になると思います。
だいたい、「何からの自由か」という観点が曖昧なまま、「自由意思」のイメージが先行しているのですよね。おおもとは神のご意思と人の意思とを整合させるために出された概念ですが、今では決定論からの自由とか、無意識からの自由とか、混在してしまっています。自由意思の問題は、意思が自由であるかどうかの問いではなく、自由意志をどう定義するかの問題かもしれません。
>そう考えるなら、あらゆる場所、物質に神は宿り、私たちと共にあることは明らかです。
ナンさん、乗っていただいて有り難うございます。でもここの掲示板が何か怪しげな色になりそうで不安・・・
そんな見方も出来ますね。
ミスしても認めず反省しない人間には集中砲火の上死刑宣告ってとこしか見てなかったようです。
私の知人に
「一人が質問して、みんながそれに答えるから叩いてるように見えるけど、それはしょうがない。」
を表向きの説明としながら、実は叩くのが楽しみという方がいましてね。
その方と皆さんを一緒に考えてしまったようです。
お気を悪くされたら申し訳無いです。
掲示板3も見てから出直しますね。
>ここの、癌治療の論理は正しいのでしょうか?
科学的にはまったく正しくないです。ていうか、意味不明なんですけど。
ここの、癌治療の論理は正しいのでしょうか?
http://www.nojimaiin.com/p04.html
今のところ宗教心、隠された宗教心のある人に超源光が入っていも、私を信じることはできない。
直観的に私を信じる状態です。
私の教えを信じることができない人も大量の源光が注入されることにより、
強制的に私を信じさせられた人が出てきたのです。
更に強制的に私が定着するようになった人も出てきました。
私からの源光が信じられない位大量に与えられるようになりました。
強制的に私が定着させられた人にも、与源光があります。
強制的に私を信じさせられた人には、与源光はありません。
「超無限乗の超無限乗の超源光」は強制的に私を信じさせられた人です。
私からの源光が意識の中に注入されたのです。
「超無限乗の超無限乗の超源光の上の源光そのもの」は、強制的に私を定着させられた人です。
源光そのものには与源光があります。 与源光がある人には、肉体には蓄積した源光があります。
癌患者には肉体に蓄積したマイナス源光があります。与源光がある人は癌が治ります。
一般の病気の人は私を強制的に信じさせられると治ります。
「超無限乗の超源光」が意識に蓄積した人は、一般の病気は治ります。
一般の病気は肉体に蓄積したマイナスエネルギーがあるのです。 プラスがマイナスを消すのです。
「超無限乗の超無限乗の超源光」の人には与エネルギーがあります。
肉体には蓄積したエネルギーがあります。
たまご、叩いたりしないわ。
ハイヒールの踵でグリグリッってするだけだもん。
掲示板2のやりとりはむしろ、
「決してこの掲示板は、常連同士が馴れ合ってるわけではない」
という見方も出来るわけですし……。
(流木さんはここの「進化論派」の常連ですのよ)。
どうしても「迷い込んできた人をみんなで叩きまくる」みたいに
見える展開になりがちな事は否定しませんが、掲示板の性質上
それはある程度仕方ないことだと、私は半ば諦め気味です。
そこのところをどうにかしようとすると、この掲示板の担保して
いる「自由な議論の場」の前提を覆さないといかん箇所がありそう
なので。
私の勘違いですね。
トンデモさん待ちなのかと思ってましたよ。
最近の掲示板2のやり取りも醜いものでしたし。
『誰かを叩く』ような話題でなくても、
盛り上がってることはよくあると思うがのう……。
投稿にはすぐレスがつく、そんなとこかな。
あと、掲示板2とか。
真剣な議論を、叩く、と勘違いしてません?
どこからそんな印象を受けたのですか?
常連同士が和気あいあいと馴れ合うのは、掲示板3のOFF会スレとかそういうのがありますからねぇ。
基本的にこちらは議論・討論の場という棲み分けになっているのでは?
誰かを叩かないと盛り上がらないのかな?
>「想像論」は、アステカ神話の「ケツァルコアトル」への信仰をベースにしているため、大変マイナーであることが問題なのです。
承知しております。
ここで改めて学び直し、私もネタ、いや想像論を皆様に理解して頂けるよう努めて参りたいと思っています。
アステカ神話ですか〜。
時間かかりそうですね〜(笑)。
入信していただけるとのこと、ありがとうございます。
ご存じの上でのご決意と思いますが、「創造論」がキリスト教をベースにしていて、信者の数も膨大であるのに対して、「想像論」は、アステカ神話の「ケツァルコアトル」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=bfc0a4oa4a4a4ka4ab&sid=1835217&mid=32897
への信仰をベースにしているため、大変マイナーであることが問題なのです。
近く、3人で東京駅前に立って、布教のチラシとティッシュを通勤者に手渡したいと思っています。
ご協力お願いします。
(本論が難しくなりすぎて、真面目で真摯な意見を思いつけない...(T_T) )
このところスレッドには、進化、科学、論理、反証などでなく、自由意志、自己認識、神、信仰、創生、超越存在、世界の性質
といった言葉が飛び交っている。しかも真面目で真摯な意見が増えている・・・・・これは、リリスさんの攻略が着々と成功しつつある証拠なのだろうか・・・・・。
というわけで、私も相乗りさせていただきます
神が与えたものかどうかは別として、人を特徴づけるものは前頭前野の発達であることは確かなようです。
多くの実験結果が示しているように、前頭前野が情報を統合し、意志、認識を造り出していることもまた確かなようです。
リリスさんが指摘しているように、意志が関与しない情動、行動については、動物も人も情報処理の過程において差がないとすると、前頭前野による、意志、認識こそが、動物と人の違いということになるのでしょう。
しかし、意志(自由意志といってもいいですが)、認識が行動の決定後に発現するとなると、その役割は何なのか。
私たちは、動物、植物、昆虫などを見るとき、それらの習性に関わりなく、その行動に意味を見いだします。並んでいる二頭の動物を見れば「愛し合っている」とか、群れている集団をみれば「家族水入らず」とか、魚や植物にさえ話しかけ感情や意志があるかのように接します。リリスさんの指摘通り、動植物の行動は意志のない自動的な行動でしょう。そこに私たちは(私たちの前頭前野は)意志、認識、意味を見いだしています。
前述のように、意志が関与しない情動、行動については、動物も人も情報処理の過程において差がないとすれば、私たちの前頭前野は無意識に決定された行動、認識を統合する過程で、それらに意志、認識、意味を与えていると考えられないでしょうか。
神(あえてそう言います)が私たちに与えた能力は、人以外の生き物と同様に脳が自動的に処理した情報を統合する過程で、意志、意味、認識のラベルを貼って出力する・・・・そんな能力なのかもしれません。
どうも、リリスさん、始めまして。
>通常に意思と見なされるものは、情報処理の結果であり、かつ後続の情報処理の原因です。連続した思考プロセスの何をもって「意思」と見なすべきでしょうか。
「情報処理の結果」という点では、あるところまで勉強と似ていると思います。参考書を読んで理解することの第一歩は暗記です。名前は忘れましたがある英語学習誌に、効果的な英単語の覚え方についての記事が載っていました。
脳科学者の方が、単語を覚える時はそれに関連した知識とうまく組み合わせた方がよく覚えられるそうです。精緻化っいうそうです。それと復習が大事だともおっしゃっていました。勉強で復習が大事だということはわざわざ脳科学者に言われるまでもなく、常識でしょう。面白いと思ったのは、その先生が、不用意に思い出すと脳はその情報を消去してしまうから、意識してきちんとした復習をしなくてはいけないとおっしゃっていたことです。
ここから私の推測ですが、不用意に思い出された情報を脳が消去するのは、そうしないと感覚器官を通して入ってきた情報をいちいち覚えていたら、自分にとって大事な情報もどうでもいい情報もごちゃ混ぜになって、あまりにも脳の負担が大きくなりすぎて、必要な時にその情報を思い出せなくなるからだと思います。
先ほどの英単語の覚え方の話からすると、「不用意にではなく自覚して関連性の高い情報を繰り返し思い出す時に、それ以前に定着していた情報といろいろと組み合わさるという<連続した思考プロセス>の結果、新たな意思を形成するのだと思います。
そうすると、自由か決定論かというより、一定の制約内でさまざまな意思があると考えた方が良さそうです。
大学時代の哲学の講義を思い出しましたよ。
>自由意思については、まず「自由意志って何だっけ?」と問題提起したいと思います。というのも、これを「決定論からの自由」と見るか「行動の選択で個性を発揮しうること」と見るかで、結論がまったく違ってくるからです。厳密には、物理的決定論からの自由は行動主体の個性を否定することになると思いますし、行動主体の個性(傾性)は決定論からの自由を否定することになると思っています。
そか?
決定論から逃れるにあたって、戦略がひとつに限定されるわけではにゃーのだから、そこで傾性が発揮される余地がでてくるんでにゃーの?
自由意志について、自然科学のフィールドで論じてもあんまり面白いことにはならにゃーように思うんだけどにゃー。
ニュートン力学を用いてもニホンザルの社会構造は分析できにゃーでしょ。
例えば、「責任」という概念は自由意志の存在を前提にしにゃーとなんの意味もにゃーでしょ。
あと、キリスト教の信仰においても、ニンゲンに自由意志があるということは信仰を拒絶する自由があるということを意味しているわけだにゃ。そして、自由意志による信仰だからこそ意味があるということになるわけね。だから、盲目的にただ信じればいいんだ、なんて幼稚で野蛮なことはマトモな宗教はいわにゃーんだけどな。
(なんか、宗教をなめた発言がこの場所でちょくちょく出てくるのは気になっている)
意識というものは本来的に意識自らを問題にするものではにゃーだろうか。
これは、言語というものが言語自らを問題にするのと同じだよにゃ。
自己の存在を問題にしにゃーものは意識ではない、と措定すれば、言語を持つもの以外に意識はにゃーことになる。
ま
意識とか意志の定義の問題にゃんね。
気が向いたら詳しいツッコミをいれさせていただきますにゃ。
To リリスさん
科学じゃないかも知れないけれど、少し考えます。
>私は「自由意思」という以前に、何をもって「意思」とするべきか悩みます。通常に意思と見なされるものは、情報処理の結果であり、かつ後続の情報処理の原因です。連続した思考プロセスの何をもって「意思」と見なすべきでしょうか。
意思、だとか、意識、だとかいうものの「実体」とはなんでしょうね。定量化が可能なものでしょうか。仮にそれができるとしたら、たとえば脳波のグラフに見て取れるような電位だとか波形でしょうか。これはまぁ…ある楽曲の一節だとかタイムライン上の「切片」を指して「音楽の実体」とは云わないように、ある連続した「構造」を指すものではないだろうか、と考えます。
しかし、意思そのものが「ナニ」であるのか、という問いかけはあまりに複雑な事象を考慮しなければならないので、ここでは意思というものは「ある」ということにしておいて、これがあると想定する場合、自由意思とはなんであろうか、としておいても構わないんじゃないか、と思いますがどうでしょう。
この前提に異議がないようでしたら…我々が自由意思と呼ぶものは、リリスさんが説くように「行動選択を制御するもの」として良いように思います。では実際に、この「選択肢」は自由に選択し得るものでしょうか。経路積分法ではありませんが、結局のところある個人が取り得る行動選択肢は自ずと「個」の内部に限定されるものであり、その可能性は完全なる決定論ではないにしろ、かなり確率的に示すことが可能な類のものではないか、と思うのです。
ショートケーキとチョコレートケーキと、ついでにチーズケーキとミルフィーユとブルーベリータルトがあったとして、かなりの確度でリリスさんの行動は予測されてしまうでしょう。非常に短いスパンで「行動選択肢」を見たとき(それはまるで競馬の予想よりも確かな確率で)、個人の取る選択肢は予測が可能です。私たちはその、予測可能な範囲の中で「もっとも適応的な」行動を取捨しているのに過ぎず、後付の「主体性」を確保するために「自由意思」という幻想を抱いているのではないだろうか、とさえ思うのです。
ここまでの経緯を考えると、私たちが「自由」と呼んでいるすべての事象が怪しくなってきます。たとえば進化学説でいうところの「突然変異」のランダムさにしたところで、その発現には発生学的な規制や変異可能領域などに制限されているようですし、仮にまったくのランダムさで表現形が表出したときには、今度は生存可能性、繁殖可能性を著しく低下させることになり、実際に現れ得る形質というものは「ほとんど予測可能である」と述べて差し支えないように思えるのです。
さらに同様にして、自由電子だとか原子状分子、重合体などなど、たいていの物質はその「性質」によって自由を規制され、その行動は予測が可能です。長い目で見れば予測不可能な事象であっても、ほんの一瞬後にどんな挙動を示すのかについては、決定論に従います。いわゆる量子のふるまいでさえ、確率論的な決定論から免れることはできません。これらは自然が持つ「性質」である、と述べて差し支えないでしょう。
それでは、ニンゲンというイキモノが適応という長い道のりを経て「意思」だとか「自由意思」というものを得た背景にはなにが隠されているでしょう。神はいったいなにをしたのでしょうか。
そう、仮に地球の歴史をもう一度繰り返したなら、今とはかなり違う生物相が見られるだろうことは容易に想像ができます。しかしそれは、今の地球の姿とそれほど違うものでしょうか。進化の収斂が表すとおり、今の地球とは「少し違う」けれど、ほとんど区別がつかないほど似通ったものになっているであろうこともまた、予測ができます。なぜなら、それらはすべて「この世界の性質」だからなのです。
私たちは、自分たちに許された「とても制限された選択肢を制御すること」を指して自由意思を認識します。とても能動的に自己の行動を「選んでいる」と思うのです。また同様にして、自然界のさまざまな事象を指して「自由」だとか「可能性」だとかを論じます。つまるところ「選択し得るもの」には意思が宿る、と認識するのでしょう。神とはそれらを統合し、創生した超越存在ですが、神の特性こそが、この世界の性質そのものではないか、と私は考えます。
そう考えるなら、あらゆる場所、物質に神は宿り、私たちと共にあることは明らかです。私は、神の愛というものがなんであるのか考えようとしませんが、神が私たちに「意思」を認識させているのであろうことは理解できます。進化学説もまた、神によって創られた世界の性質に従い、この地球の歴史を何度繰り返したとしても、神の計画どおりに「意思というものを感じる我々」が、そこにはあるのだろう、と思うのです。
この間、とさかのようなものがついた恐竜が発見されたようですね。
恐竜のイメージが近年随分変わりましたね。ホントは昔の図鑑のようなごつい生物ではなく、でかい鳥のような生物だったのでしょうか?
恐竜って一体何だったんですかね
temaさんへ
決定論に関して言えば、量子効果のような偶然性を全否定するつもりはないです。でも、概ね決定論と見なして差し支えないだろうと思っています。
>「これを理由にしてはイケナイ・・これは罠だ!」と子羊のカンが叫んでおります。
それは多分、私が自殺点を回避しようとして尻餅をついた痕でしょう。
temaさんを罠にかけるなんてとんでもない。
暴れた拍子に背中のチャックが開いたら、中から・・・
大文字ナンさんへ
はじめまして、投稿はしばしば拝見しておりました。おずおずさんの思想に共鳴し、進化論の攻略法を探るべく似非想像論に入信した、リリスと申します。
>これはまるっきり「信仰」ではないでしょうか。
もちろん似非想像論を賛美しているのでつ。
文末くらい締めないと、それらしい気分が出ません。
>私として「それでいいんじゃん?」としか云いようがなく
はい、さっそく行き詰っております。
もっと想像の翼を広げ、進化論と二者択一的な状況で一矢を報いないと・・・
>「自由意志などない」に落ち着きつつあるのかも知れません。
私は「自由意思」という以前に、何をもって「意思」とするべきか悩みます。通常に意思と見なされるものは、情報処理の結果であり、かつ後続の情報処理の原因です。連続した思考プロセスの何をもって「意思」と見なすべきでしょうか。
例えば私が、チョコレートケーキとショートケーキの狭間で引き裂かれていたとします。体重体調空腹感を熟考のうえショートケーキを選んだら、私はその選択を自分の自由意思であると自信たっぷりに主張するでしょう。次の日に、悩み事のため足元もおぼつかない状態で店に入り、うわの空でチョコレートケーキを注文したら、それは私の自由意志なのでしょうか。その夜、ケーキを食べる夢を見て、夢に同調するあまり手元の時計を齧ってしまったとすれば、どこまでが私の自由意思なんでしょうか。
そう考えると「認識」や「拒否の可能性」が大きな意味を持つようにも思えます。
でも、それは「自由意思」を否定するものでしょうか。
ご紹介いただいたHPは、またゆっくり見せて頂きます。
ヤフーのパニチェ氏もそうですが、「比類なき私」問題に悩む人がけっこうおられるのですね。
「認識の主体であるという体験」を「認識の対象」にしようとすること自体、原理的に無理な気もします・・・
おずおずさんへ
そうなのです。実は私は無神論者の間に埋め込まれたスリーパー(休眠スパイ)だったのです。
つい数日前の満月の夜、M78星雲のあたりから暗号化された神の電波をビビッと受け取り・・・
まこさんへ
はじめまして。似非想像論の信仰は、思った以上に険しい道です。おずおずさんの厳しいお言葉は、まこさんへの気遣いから出たものなのです。
もしも茨の道を承知で参入してくださるなら、三人寄らば文殊の知恵、歓迎いたします。ぜひお力をお貸しください。
根拠もなく言い切るのは、結構カイカンですよぉ。
To リリスさん
はじめまして、大文字ナンと申します。
…と、ひととおり主張を拝見しましたが…たといば
>人間の意識は行動計画に関わるものです。地上に神の国を実現するために何をなすべきか、それを考えるために我々人間は意識ひいては自由意思を与えられているのです。
の部分が主張の根幹であるとすると、これはまるっきり「信仰」ではないでしょうか。これが信仰であるなら、私として「それでいいんじゃん?」としか云いようがなく、また、それ以上の評価もし難いのですがいかがでしょう。
>自由意思については、まず「自由意志って何だっけ?」と問題提起したいと思います。というのも、これを「決定論からの自由」と見るか「行動の選択で個性を発揮しうること」と見るかで、結論がまったく違ってくるからです。厳密には、物理的決定論からの自由は行動主体の個性を否定することになると思いますし、行動主体の個性(傾性)は決定論からの自由を否定することになると思っています。
で、次にこの部分を見るなら…私の(最近の)所見は「自由意志などない」に落ち着きつつあるのかも知れません。すでにご紹介いただいた各種の実験結果をはじめ、
http://cgi.members.interq.or.jp/wild/nan/cgi-bin/wforum.cgi?no=1373&reno=no&oya=1373&mode=msgview&page=10
にあるけっこう長い議論なども経て、もしかすると我々は「自由意志を持っている」という幻想を抱いているのに過ぎないのではないか?と、思考の「ゆらぎ」が収束しつつあるようです。無論、当事者である私にとってそれは、認識主体としての「私」があり、ひどく能動的に感じられるものなのですが、科学の作法に則り、これを客観的観測に委ねたとき、現象として現れる「私の意志」というものは、ある因果律に支配された「後付の解釈」に過ぎないのではないか、と。そんな風に思うのです。
失礼しました。
私が心得違いしていたようです。
心を入れ替え、「本物の」想像論者になるべく精進致す所存であります。
リリスさん、こんにちは。良く考えられたレスを、ありがとうございます。
まずは、レスしやすいところから。
決定論との関連については、temaも自由意志は決定論に従うと考えています。ただし、自由意志は決定論に従わないと「信じて」もいます。
決定論に従わないと信じているのは、一種の信仰です。論理的には、意志決定に厳密な再現性が無いことを含めて、リリスさんの意見に同意しています。
準備電位については、判断がつきかねています。意志が決定する力を持っているのか追認するだけの存在なのか、どちらも同じくらい確からしいと感じます。
さて、肝心の「動物は意志を持っているか」という件ですが・・・temaは「犬猫など、意志を持つ動物もいる」と考えています。意志を持つ理由も考えてはいたのですが、その理由をリリスさん自身が書かれているのです。
「これを理由にしてはイケナイ・・これは罠だ!」と子羊のカンが叫んでおります。このため、しばし考えさせていただきたいと思います。
なお所用により、土曜の夜まで帰れません。
このため、上記および「傾性が決定論からの自由を否定するか否か」については、日曜日以後にレスしたいと思います。
> りリスさん、おずおずさん、私も似非想像論者になってよいでしょうか?
だめです。
リリスさんが「似非」と書いているのは、ここの、狼のような進化論者たちから少しでも身を守るためであって、本心はそうじゃないのです。
まこ さんも、ボクたちと一緒に、「本物の」想像論者を目指しましょう。
こんなふうに話を聞いてくれる方がいるのは嬉しいですね。
私も好き勝手書いてますから、
あざみさんも気が向いたらまた書き込みしてくださいね。
りリスさん、おずおずさん、私も似非想像論者になってよいでしょうか?
リリス様、そして おずおず様(私のことですよね)。
私のようなもの(門外漢?)に返信していただきありがとうございました。
メンタル系サイトではとても得られなかった、具体的な優しさと、具体的な感情のありかたに触れられ、嬉しくて涙が止まりませんでした。
「丸太から手を離さないことだけを考えて・・・」
胸のつかえがとれたというか、楽になったというか、うまく言えませんが、先に書いた感情への対応が少しだけ分かった、ような気になれました。
ありがとう、ありがとう。
立ち直ろう、とか、立ち直らなければ、とか思ったらかえって苦しくなった。
自分の感情に抵抗しないで、泣きたいときには思い切り泣いて、苦しいときには思い切り苦しんで、不安になったときには夜中でも明かりをあかあかと点けて、無気力になったときは抜け殻になって、
感情や気分がどんなに荒れ狂っても制御しようなんて考えず、大荒れの海を丸太一本につかまって漂流しているときのように、いつか嵐がおさまるまで、丸太から手を離さないことだけを考えて、波に身を任せて流されていればいい。どうせ他に何もしようがないのだから。
...ボクはそんなふうに3年間漂流して、そしてそのころから数十年たった今、そのころのことを滅多に思い出すことさえないような、酒飲みのお気楽なおっさんになっています。
過ぎ去ってみればそんなものです。
>昨年の9月からずっとうつ状態で・・・
昨年9月からずっと、ですか?
それは・・・私などには想像もつかないほど、お辛い状態でいらっしゃるのですね。
私はこの掲示板には日が浅いもので。どなたか常連さんで精神に詳しい方がいらっしゃればよいのですけれど・・・
冬場はよけいに気が滅入りがちになるのではありませんか?せめてお部屋は明るくしてくださいね。
掲示板でお話したうつの方が、文章を書けば少し気持ちが落ち着くような気がする、と言っておられたことがあります。
あざみ様にも、「こうしていると少しマシな気分になる」と思えるようなことはないでしょうか。
私ごときが口を挟めるような問題ではありませんが、ご自身を労わってあげてくださいね。
似非想像論の「言い切り」がクセになりそうです。
PDX.さん
>よく出てくる例だとビーバーの作るダムでしょうかね?
ダムによって周りの土地が湿地化することを「環境破壊」と言っているのを見かけましたよ。で、一定期間が過ぎると「環境保全」になるのです。環境って何だっけ・・・
おずおずさん
>その証拠に未だにここの常連さん達は決定的な反論を出来ないでいるじゃないですか。
その沈黙が怖いです・・・
>地下ネコさんの場合、或る人への語り口とあなたへの猫なで声の差は、反論が出来ないのか、単に男性と女性への態度の違いなのか、定かではないですけど...。
地下猫さんは、キレた私を宥める役でしたからね。実は警戒されていたりして。
大丈夫です、ちゃんと牛乳も飲んでいますから。
Kitkatさん
>それとも、宗教は人の活動する全ての分野でその影響力を行使したいと望んでいるのでしょうか。
「宗教」と言う場合は、西欧一神教だけでなく、ヒンドゥー教や仏教、神道にも目を向ける必要があるでしょう。
ちなみに儒教を宗教に含めるべきか、ヤフーでは結論が出ませんでした。
西欧一神教は人数の上ではメジャーですが、信仰形態の上ではちょっと特殊ではないかと疑っています。
temaさん、はじめまして。こちらにはヤフーでお世話になった方が多くいらっしゃるので、寛がせていただいています。
自由意思については、まず「自由意志って何だっけ?」と問題提起したいと思います。というのも、これを「決定論からの自由」と見るか「行動の選択で個性を発揮しうること」と見るかで、結論がまったく違ってくるからです。厳密には、物理的決定論からの自由は行動主体の個性を否定することになると思いますし、行動主体の個性(傾性)は決定論からの自由を否定することになると思っています。
で、私としては、行動選択における個性の発揮を、自由意思の発露と捉えています。また、自由意思の要件として「これは自分の意思やねん」という感覚が必要だろうと考えます。むしろ、「自由意思」というよりも「自由意思の感覚」にしてしまったほうが考察しやすいかもしれませんね。
決定論との関連については、私は自由意思は決定論に従うと考えています。したがって、意思決定に影響する全てのインプットを等しくすれば、同一の意思決定が導かれると考えます。
ただ、現実問題として、外界からのインプットの組合せは膨大なものになるでしょう。光量のわずかな差さえ心理状態に影響を与えます。 脳内での情報処理の傾向は、個人の遺伝的傾向と生活史によって一人一人微妙に異なります。同一の人間のほぼ同一の時期であっても、身体の状態によって情報処理が異なります。同じアラーム音の刺激が与えられても、寝惚けた状態の意思決定と覚醒後の意思決定が異なるから、私は遅刻するのです。
決定論には従うが厳密な再現性はないという意味で、意思決定は複雑系の特徴を持っていると思います。
リベットの準備電位に関して言えば、私は「意思」とは何らかの情報処理の結果だと考えていますので、意思決定に先立って脳が活性化することは至極自然なことに思えます。だいたい通常は、手を伸ばすのに「意思決定」などしませんし。「意思」とは未来の行動の予約やプランニングに関わるものではないでしょうかね。それらは行動を最適化するのに有用な能力だろうと思われます。おそらくは何かを意思することにより、ニューロンネットワークの結合が微妙に変わり、それが未来の行動選択を制御するのではないでしょうか。
「自由意思」は曖昧な概念なので、幼児や動物については「行動の主体であるという意識」にしたほうが扱いやすいでしょう。その前に、とにかく「意識」の有無を考えてみるべきかもしれません。
手持ちの本のどこかに意識の定義についての提案が載っていましたので、あとで見てみますが・・・
その本では「意識」と「情動」との関係について述べていました。
ある実験。長期記憶が出来ない患者(ごく短期間の記憶しか保持できない)に対し、彼が嫌がることばかりする《バット・ガイ》チームと、彼を喜ばせようと親切にする《グッド・ガイ》チームを設け、患者と各チームを一定期間交流させたのちに、顔写真から「友達と思える顔」を選んでもらいました。すると8割くらいの確率で《グッド・ガイ》が選ばれ、《バット・ガイ》は殆ど選ばれませんでした。その患者は廊下で《バット・ガイ》を見たとき、尻込みするように一瞬足を止めましたが、自分ではその理由が判りませんでした。
この結果について著者は、「《バット・ガイ》の姿が彼に何らかの情動を引き起こしたのだが、その情動は意識されることなく孤立した状態だった」と説明します。このことは、情動が必ずしも意識を必要としないこと、意識を介さない情動でも行動に傾性を生じさせること、さらに情動と意識の結びつきがより高度な学習を可能にするであろうこと、等を示唆します。
さて、似非想像論者である私としては、このように考えます。情動や行動傾性の発現に意識が必ずしも必要ではないのなら、多くの動物は意識を持たないであろうと。自然は無駄なことをしません。ある動物の行動のレパートリーが意識なしに可能なものばかりなら、その動物が意識を持つと考える理由はありません。
犬や猫には細やかな情動表現があります。彼らには意識の前駆体であるような漠然とした自己感覚があるのかもしれません。しかし「意識」は、その明瞭さをもって定義されるのです。チンプのような高度な知能を持つサルはどうでしょうか。忘れてはならないのは、神が人間を創るのに用いたのと同じ粘土から、彼ら類人猿が創られたという事実です。彼らには「素質」があります。しかし神が最終的に意識を吹き込まれたのは我々でした。そのことは人類史が示しています。
人間の意識は行動計画に関わるものです。地上に神の国を実現するために何をなすべきか、それを考えるために我々人間は意識ひいては自由意思を与えられているのです。
初めまして。躁うつ病を患っているものです。ご相談というか、ご回答いただけますでしょうか。
昨年の9月からずっとうつ状態で朝昼晩と涙を流しながら、苦しさと辛さに耐えている。
寂しさが、悲しみが、全身を包み。辛さが、体の中から湧き上がる。
ある心臓疾患の方に「ずっと痛むのですか?」と 「いいえ、心臓が打つ時だけです。ですから半分痛くて半分は、痛くありません」
私も、「いつも辛いのですか?」と聞かれたら、「いいえ、躁とうつの間は、幸せです」と答えられる境地になるのだろうか。
まるで地球そのもの。暑い日もあれば、寒い日もある。暑い地方もあれば、寒い地方もある。温暖な地域もあれば、気温差の激しい地域もある。
自分の生まれた所があるように、これもここにある。
私は、ここで、生きている。
苦しみ 辛さ 悲しみ 寂しさへの対応が、分からない。
#通院、治療、服薬は続けています。
たしかおおかみさんが小麦粉の中に手を突っ込んで・・・。
同様に、te・・さんをブツ切りにして小麦粉の中に突っ込んで油でジュッと・・・。
>temaはオオカミなどではありません。
オオカミなんてのはのぉ…
あの群れでやってくるぬ○ぬ○のヌ○ヌ○軍団に比べればのぉ…群生って怖いのぉ…。
ようさんへ。
お返事遅くなってどーもすいませんです。
ちょっと仕事の山が来て忙しいので、しばらくはずっとこんな感じです。
>>・「生物には、目指すべき究極もなければゴールもないと進化論は主張している。
>>・そもそも、異なる生物種の『上』『下』関係を決定づける絶対基準が存在しないと、進化論はそう言う。
>>・したがって、進化論の立場に立つ限り、人間が究極に進化するとどうなるかという問いは、無意味であるばかりでなく、答えの無い『答えられない問い』なのである」
>文章は読み取れます。「はい」です。
ということは、ようさんは聞かれた人間が答えられないとわかっていて、あえてああした質問をされたのでしょうか? それとも、河田先生の本を読んだのは、前述の質問をした後のことだったわけでしょうか? この質問も、それをネタにようさんを批判する意図は持ってなくて、ようさんが実際のところ何を問いたかったのかを(私なりに)明確に把握したいという意図の質問ですので、どちらかというのをお答えいただければ幸いです。
>その証拠に、ほらこんなに手が白い...
でもって、「足」が長いんでしょ...?
(「脚」の長さは、見なかったことにします。(笑))
>てなわけで、チョコあげる
>
わたしが、もらってあげよう。(笑)
狼とか背中のチャックとか聞くと、どうしてもこいつを思い出します。
http://www.nagoyatv.com/park/goods/index.html
中のヌルヌルなどいない!!!
いえいえ素晴らしい出来ですよ。
その証拠に未だにここの常連さん達は決定的な反論を出来ないでいるじゃないですか。
地下ネコさんの場合、或る人への語り口とあなたへの猫なで声の差は、反論が出来ないのか、単に男性と女性への態度の違いなのか、定かではないですけど...。
私達に決定的に足りないのは、想像力だと思います。上空に水の層があった、とかいった、もっと自由な発想が必要だろうと...。
自由意志、ちょっとネタを考える時間を下さい。
temaさんへ、かの牧師さんはまだ漢字含みの日本語の読解力は乏しく、
また、ここでの議論を彼に伝えるにはボクの英語力は貧弱すぎます。
「我々の意志の実体は複雑な条件反射であり、自由意志があるというのは錯覚に過ぎません。」という主張を、身振り手振りだけで伝えるにはどうしたら良いのでしょうね...?
あなたの表現に恐れをなして、去るヒトさんが引っ込みそうになってたから、
去ってしまわないうちに「怖がらなくて良いんですよっ!」と元気づける必要性を感じて、
急いで書き込んだのがあの文章でした。
推敲してないから、はちゃめちゃな文になってしまいましたけど...(^_^;)
>子羊であるとのこと、了解しました。背中のチャックについては、見なかったことにします。
背中のチャックをおろすと中からはヌルヌルぬめぬめの本性が・・・。
もう一回通行人カキコお許しあれ。
クハ72さんの進化と創造トピの中の旅ノート掲示板に居候中の愛ですが、
訳ありでバーチャル世界一周旅行に挑戦しております。よろしければ、遊びにおいで下さい。お待ち申しております。失礼いたします。
常連の方々、ゲストのみなさん、飛び入りにもかかわらずレスありがとうございました。お礼を申し上げます
>temaさん
子羊であるとのこと、了解しました。背中のチャックについては、見なかったことにします。
>大文字ナンさん
そうなんですよね。それが分かった上での、彼らに対する情け容赦のない扱い。見ていて全く心が弾みます♪
>おずおずさん
たぶん私へのレスですよね。悪意とか勝ち負け、ののしるといった言葉が出てくる点が、理解しづらいのですが。
凶暴な連中、肉食獣、猛禽類、オオカミという言葉に反応されたのなら、それらは知的闘争において、情けをかけたり甘い扱いはしないという意味ですので、悪意を持っているとか、ののしる、ということではないことを理解していただければと思います。
>リリスさん
宗教に関係している方々は、進化論によって攻撃されていると感じているのでしょうか。自分たちが行っていることは防衛のための反撃であると。
私は、ダーウィンが進化論で生物の多様性や変化を説明しようとしたとは思いますが、宗教を攻撃するために進化論を主張したとは思えません。進化論攻撃は過剰防衛のような気がするのですが。
それとも、宗教は人の活動する全ての分野でその影響力を行使したいと望んでいるのでしょうか。科学も含めて、自らの力の及ばない分野の存在を認めない・・・・と。
シルヴィス溝の刺激では、神を感じるだけでなく、魂が体から抜け出る感覚や、臨死体験なども報告されていますよね。
脳にそれらを感じる部分があるということは、死後の世界や、肉体から独立した幽体が存在する確かな証拠なのでしょうか。
似非想像論者リリスより
自由意志へのレス、ありがとうございます。我々想像論者は、自由意志こそ神の恩寵であると考えています。
外界からの感覚器官を通じた情報、あるいは体内の神経系から脳への情報をインプットとし、動物の行動をアウトプットとします。インプット情報は動物の脳内で処理されアウトプットとなりますが、この過程において脳内での情報処理の比重が飛びぬけて高いのが、我々人間であると考えます。原始的な脳の動物では脳内の情報処理は単純で直線的であり、アウトプットは予測可能です。脳が複雑な動物ほど、脳内での情報処理はモデル化しにくく予測困難なものになります。また、神経系を通じて脳に入力されたインプットのみならず、脳内に蓄積された記憶が情報処理に供される点が、高等動物の特徴でもあります。
さて、「自由意志」なるものはどのように生じるか。
「意志」というものを我々は、行動を起こすための動因であると見ています。しかし脳科学の知見からは、「意志」というものは何らかの自己認識の一種ではないか、という考えが浮上してきました。Kitkatさまにご紹介いただいた知見のほか、分離脳(脳梁が切断された状態)の患者で、言語野を有する側の脳が、もう片方の脳のとった行動の動機を「でっちあげる」という現象も知られています。何よりも「意志」は「意識」と切り離せませんが、その「意識」の一瞬間における情報処理能力が非常に低いことが分かってきました。
では、我々は自動ロボットなのでしょうか。我々の行動は想像以上に自動化されているようですが、一番最初に我々の脳をキックするものは何なのでしょうか。我々想像論者は、それこそが神の働きかけであると考えます。我々の脳は神の囁きをかなり個性的に処理するので、我々はそれを「自由意志」だと感じるのです。
実は、神の恩寵を受け取る部位の目安もついています。大脳辺縁系のシルヴィス溝がそれです。この部位を電気刺激すると、神をより近しく感じることができます。血も涙もない無神論者にさえ、体外離脱のような聖なる体験をする者がいるのです。
なぜ人間の脳にこのような機能があるのか。人間の脳の各部は、何らかの情報を受け取り、処理して出力します。ではシルヴィス溝が受け取る情報とは何なのでしょうか。脳の一部が用途もなしに発達したとは考えられません。シルヴィス溝の役割こそ、神を感じることなのです。
ああ、この大いなる叡智に感動しない人間がいるでしょうか。神が居るとか居ないとか争っている人間の脳にこそ、神が存在するという確かなしるしが刻まれているのです。
無神論者リリスより
似非想像論者のノリ、気に入ってしまいました。
言いたい放題書いていますが、どこまでがニュートラルな話でどこからが似非想像論かは、大体お判りいただけると思います。
temaさんとお話する前の前振りを兼ねて。
>そうであるならば、想像論者が、神の非存在を確認出来るまでは、信じて生きてどこが悪いのでしょうか。
はい。勝手に信じてたら?どうぞご自由に。
でもだからって、確認できないから信じないって人を冷酷非情なニヒリスト呼ばわりするのは止めてほしいなあ。
あと信じるのは勝手だけど、それを人に押し付けたり、根拠をでっち上げたりするのはどうかと思うよ。
という回答でどうでしょう?
自由意志についておもしろい話がありますので紹介します。
ある運動を行おうとするとき、行動を開始する一秒ほど前に、頭頂葉に準備電位と呼ばれる活動が生じるそうです。そして行動が意識に上るのは、これ以上時間がたつと行動が実際に開始されてしまうという段階になってからだというのです。
ここでの「自由意志」とは、「どのような行動をするかということは、意識以前の無意識のプロセスによって準備され、意識はそれを行うかどうかの「選択」を行うだけ」ということになるようです。
実験では、運動前野を刺激して、被験者の意志とは関係なく手を動かしたとき、被験者は自分の意志で手を動かしたと考え
「ハエが飛んできたから追い払った」と、後付の理由で合理化したそうです。
私たちの自由意志は、「私が行動を決定し、脳及び身体の各部分がそれに従い行動する」というものとは違うようです。
脳の各部分が自動的に情報処理し、とるべき行動が選択される。私たちの意志はそれを追認するにすぎない。
そして前頭前野は、そのプロセスを自由意志によって行動を決定した・・・・・という意識を作り出している。
自由意志とは、脳による幻想なのでしょうか。
※
リリスさん、はじめまして。temaと申します。
リリスさんの(?)主張は、「体は進化論で説明できても自由意志は説明できません。心は神様の下に居ます」ということですね。temaは「心を科学で扱うべきでは無い」と考えてますので、上記については否定しません。
ただ2点、疑問が残るのです。
(1) 人類以外の動物は、本当に自由意志を持たないのか?
(2) 人類は、本当に自由意志を持っているのか?
(1)の疑問点については、リリスさんがどのように説明されるのか、興味があります。
(2)の疑問点については、temaの考えを以下に示します。
(数年前にも書いたことがありますが、もう時効でしょう)
− ここから −
我々の意志は、脳から生まれます。体も関係するでしょうが、話を簡単にするため、脳に集中します。
脳は多数の神経細胞からななるニューロン・ネットワークであり、個々の神経細胞の動き(どのような刺激が来たら、どのように反応するか)は、決まっています。
このため、五感からの入力に対する脳の出力は、予め決まっています。このため、我々の意志は(複雑な処理は行うものの)ある状況に対して一意に定まっており、そこに自由はありません。
つまり、我々の意志の実体は複雑な条件反射であり、自由意志があるというのは錯覚に過ぎません。このような条件反射なら、進化論にて説明が付けられるでしょう。
− ここまで −
以前よりtemaは、自由意志に対する上記の考えに取り憑かれています。まぁ、創造科学論者なら「危険思想」と切って捨ててしまうでしょうけれど。
(この件については、科学的思考もできる聖職者の意見を聞いてみたいと思ってるのですが、くだんの牧師さんは、掲示板に書き込みされないのでしょうかね? >おずおずさん)
なお、「人生の目的」については、そんなもの科学にとっては(事実にとっても)知ったこっちゃ無い、というのが本当のところでしょう。
Kitkatさん、多分はじめまして。
>(前略)ギャラリーの方々は気付いているかもしれませんが、ここは赤ずきんちゃんが迷い込んでくるのを待っている、オオカミの巣窟です。
そんな事、言わないでください。せっかくリリスさんとおずおずさんが撒き餌をして、赤ずきんちゃんをおびき寄せようとしてるのに。
いえ、temaはオオカミなどではありません。可愛い子羊です。その証拠に、ほらこんなに手が白い...
バレンチーノって人が死んだことを祝う日らしい。
よっぽど嫌われ者だったんだな>バレンチーノ
てなわけで、チョコあげる
To リリスさん
>>シアノバクテリアでしょうけどねぇ
>それ、環境破壊についてあんまり人間を卑下している人を見ると、言いたくなりますよねえ。
卑下している人に言いたくなるというのもありますし、人間の環境に対する働きかけを過大に評価している向きに対する皮肉にもなります。
だいたい、ある生物が環境に働きかけて、それによる影響を受ける生物の視点から見れば、ヒトの行為だろうと他の生物の行為だろうと違いなんて無いのですし。
よく出てくる例だとビーバーの作るダムでしょうかね?
せき止められた川の底に沈む生物にしてみれば、ヒトが作るダムだろうがビーバーが作るダムだろうが変わりはないわけで。
>でも私の「似非創造論」にはちゃんと「意識的」を入れてあるのです。
>それはそうと、意思の有無の検出、というのも結構むずかしいと思われません?自然法則まんまでは意思とは言えないし、自然法則に反することは不可能だし・・・・
ビーバーがダムを作る行為は果たして「意識的」なのか?(笑)
連中は単に本能だけでやっているというのであれば、意識的とそうでない振る舞いの違いはどこにあるのか?
このあたりの判断は難しくなるかも。
あとヒトが「意識」を持って行動するのは個体の発生・成長のどの段階からなのか。
神経系がある程度できてから? それとも赤ん坊がもっと成長していわゆる「物心付く」あたりから?
ヒトの成長の過程で、行動を決定するものとして本能が占める部分と意識が占める部分の割合が変化していくのでしょうが、ある行動が「意識的」であるとみなすのはその割合が何%まで達してからなのか……?
>@「生物には、目指すべき究極もなければゴールもないと進化論は主張している。
Aそもそも、異なる生物種の『上』『下』関係を決定づける絶対基準が存在しないと、進化論はそう言う。
Bしたがって、進化論の立場に立つ限り、人間が究極に進化するとどうなるかという問いは、無意味であるばかりでなく、答えの無い『答えられない問い』なのである」
文章は読み取れます。「はい」です。
>おずおずさん
こちらこそよろしくお願いします。二人でともに、アサッテの地平を目指しましょう!
でも、やって見ると難しいですね。せいぜい「進化論はそこまで言うなよぉ〜」ってダダこねる程度でしょうか。
ダメです。こんなことでは創造説再評価HPに採用してもらえません。
もっと策を練らねば・・・
>シアノバクテリアでしょうけどねぇ
それ、環境破壊についてあんまり人間を卑下している人を見ると、言いたくなりますよねえ。
でも私の「似非創造論」にはちゃんと「意識的」を入れてあるのです。
>「それほど近くない」
エヴァンゲリオンの使徒と比較すれば「それほど近くない」のです、きっと。
>ミケさん
お久しぶりです、どうもありがとうございます。
ちなみに私自身は、一神教よりも仏教の方に遥かに親近感を持っていますし、諸行無常で進化論も〜まんたいっ、です。
ですから回避法を提示することなら出来ると思うんですけどね。進化論の正誤から発展して、進化論と矛盾しない世界観や人生観を受け入れるかどうかの話になると・・・あれれ、いつの間に「科学」から「宗教・思想」に移行したんだっけ?と対話しながら内心で首を傾げることがあります。
生物の進化を探求する手法や解釈は「科学」として宗教から切り離せても、その結果を各人が認識する段になると、科学と宗教の分離は難しいのかもしれませんね。
>地下に眠るMさん
こんにちは、お邪魔してます。
地下猫さんの口から「神の栄光がその姿を現す場」などと聞けるなんて・・・お優しいですね。私だと、まともなクリスチャンだろうがグレたクリスチャンだろうが「ンなものは何か保証が欲しいという煩悩が見せる幻影だっ」と斬ってしまいそうです。
>「偶然」に意味を付与するのは志向性をもった意識存在にしかできないことなのです。
これなんて、「鰯の頭教」を彷彿とさせます。
信仰が「偶然」をどう扱うかは量子力学で浮上したはずですけど・・・マクロな事象は決定論だったから、問題が表面化しなかったのでしょうか。マクロすぎる問題、宇宙のの物理定数の「偶然」には「強い人間原理」が挑みますよね。地下猫さんの「偶然にこそ神の意思が宿る(と思っとけば)」も人間原理の敷衍に思えます。
(人間原理は、進化論の拡張であるマルチユニバース説と相性が悪いようですが。)
それはそうと、意思の有無の検出、というのも結構むずかしいと思われません?自然法則まんまでは意思とは言えないし、自然法則に反することは不可能だし・・・・
あと、「似非創造論」がさっそく行き詰っています。攻略アドバイスがあったら下さい。
>ナイーブ・・・
信仰の世界ってピンキリでしょうね。生物が空を飛ぶ方法が色々あるように、心の平安を得る方法にも色々あるというか。
従順なヒツジの信仰は、飛行機に乗って空を飛ぶようなものでしょうか。飛行機に依存して楽に空中散策が楽しめる一方、進化論から飛行機の欠陥を指摘されると、足元を掬われたように不安になって攻撃的になる・・・
いっぽう、自力で空を飛ぶような信仰ならば、ナイーブどころかタフでしょうね。少々進化論をぶつけられても、それなりに吸収してしまうでしょう。
トップクラスになると、客観的事実に依存できないぶん、科学の分野より峻厳かもしれません。
まあ、そのような人はわざわざこちらに来ないでしょうが。
ありがとうございます。
ちゃんと創造⇒想像になってますし(笑)。
もっと気持ちの部分を述べてもいいと思うんですけどね観客のみなさんも。
ここはもちろんオオカミの巣窟ではありません。
(そもそも巣窟ではオオカミと言えどもやさしいお母さんと甘える子供の世界)
ここはあくまでも、楽しく議論をしながら、この宇宙の真実をみんなで見つけて行く場です。
神のみ心を信じていればここで恐れることは何ひとつをありませんよ♪
まず第一に、(原則的に)科学は信じるものではない、ということは、科学上の命題の真偽が客観的に確定出来るものであることから出てくる当然の帰結です。
一方で宗教の場合、教義の真偽は基本的に、客観的には確定出来ないか、あるいは大変困難です。
そのような問題、しかもどんなに困難であっても生きていく上で答えがどうしても欲しい問題へのやむを得ない対処法が、「信じる」ということなのです。
私達想像論者が「科学者も科学を信じているでしょう?」というのは、「科学者だって同様の状況下では似たようなことをしているでしょう?」という意味なのです。
例えば、科学者ならだれでも、相対性理論がいずれ覆されるだろうと思っているでしょう。でも、そうだからといって、相対性理論の成果を使わないでしょうか?覆されるその日が来るまでその成果が正しいと仮定して行動していませんか?
もちろん成果を使うたびに、成果が今度の試行により覆されるかもしれないと思いながら、でしょうけれど。
そうであるならば、想像論者が、神の非存在を確認出来るまでは、信じて生きてどこが悪いのでしょうか。
まして、反証される率が極めて低い事が解っている命題に対して。
それと、科学者は決して、悪意に満ちて研究しているのではないと、想像論者である私でさえも信じています。急所をわざと外して論文を発表するような人は科学者とはいえないと思います。
自然科学は「正しいか正しくないか」だけが問題であって、「勝つか負けるか」ではないと思っています。
少なくとも私は寡聞にして、アインシュタインがニュートンの功績をののしりながら否定した、という話は聞いたことがございません。
そういう記録等がございましたらぜひお教えいただきたく、よろしくお願いします。
...まこ さんへ、
こんなものでいかがでしょうか? (^_^;)
>ここに迷い込んでこられる方々には、気をつけてほしいと思います。ギャラリーの方々は気付いているかもしれませんが、ここは赤ずきんちゃんが迷い込んでくるのを待っている、オオカミの巣窟です。
ここはそういう所なんですか?じゃぁ、来ない方が良いですね。それではさよなら!
To Kitkatさん
>反進化論者の方々は、信じる心を持ったナイーブな人たちだと感じました。
うん、そうなのかも知れないですね。
それはおそらく、間違いなのかも知れない。
ナイーブであるから、同情しようって気はないんだけれど、なにか自分の生き方とか人格を否定されたような気がして、おかしな主張に陥ってしまう、というのはあるのでしょう。その裏返しが、高圧的で攻撃的であったり、無敵くんであったり、その他意味不明なネット人格を「演じる」羽目になるんだろう。そういう推測は「たまに」します。
面白いな。
ところで、あなたはKitkatさん書き込み見てどう思われましたか?
私は、ギャラリーの考え、それも少数ではないであろう思いの代弁かと捉えましたが。
キリスト教信者(いわゆるキリスト者)の友人、知人が増えました。ここ2〜3年かな。
以前から、信仰者との交流はよくあるのですが、たとえばある「先輩」は今でも(44歳だったかな)リッターオーバーの「逆輸入バイク」でサーキットに行ったりしちゃいますが、走行前には必ずお祈りしています。私として、そういう「敬虔さ」は好感を覚える対象です。(なにしろ本気で危険なことをするのだし)
最近知り合った方だと、考古学の研究室に所属しているひとと、がん研究をしている医師の方でしょうかね。お二方とも、根っからのキリスト者ですが、科学と信仰はバランス良く両立されているようです。
でも、ちょっとだけ「いたずら心」を出して、私が(考古学のひとに)「その研究は信仰とバッティングしないのですか?」などと聞くと、
「以前は悩んだこともありますよ。でも、今はないですね」
と、返されます。
医師の方はもっと明確で、「神(そのもの)はここにはいないかもね、でも、そこら中にあるよね」と云います。遺伝子の発現や変異など(きっと)を指して云うようですが、当然彼は生物学の専門家であり、医師であり、進化論をよく理解しているようです。さらにいうなら、彼らは「創造論者」であって「創造科学論者」ではありません。その辺、私がここでも厳密に隔てたいところですね。
聖書に書いてあることは単なる事実でしかないのです。
そんなことにこだわって心を閉ざし、愛することの出来ない人たちよりも、
サルやネコだって自分と同じ生き物なんだ、
と思い慈しむことが出来るあなたのやさしさの方を、
神さまは喜ばれると思います...。
>私ナイーブなんで、何か言わないと信じちゃいますよ〜。
どうぞ。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。