このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
他にはどんな物があるんでしょうかね・・・気になります
この人のこれからも気になります・・・話とカンケーなくてすみません・・・だって好きだから!!!
[画像: ./img/bbs/0000959M.png]
>創造論・・・創造科学論・・・創造進化論・・・
1番目と2番目の間には教会がありそう。
創造論は宗教だけど、
残りはトンデモ扱いかな。
>創造論・・・創造科学論・・・創造進化論・・・
>皆さんはこれらをどう受け止めていらっしゃいますか?
私の脳内の図書館では、これらについての本は『社会学』『宗教』とかそのあたりの本棚に分類されていますね。
少なくとも『自然科学』『生物学』の本棚には置かれていません。
せいぜいそれらの近くの棚では『科学史』の棚でしょうかねぇ。
ビッグ・パパ・パンプこと、筋肉オバケのスタイナーピョンなのらぁ。
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ささやいてみろ、悲鳴をあげさせてやる!
ビッグ・バッド・ブーディー・ダディが
ボディ・ロッキンで激ヤバで最高の登場をキメてやる
俺のフリークども、ビッグ・パパ・パンプこそ最高だろ!
HOLLA IF YA HEAR ME!
(俺様の声が聞こえるなら叫べ)
BOOM SHAKA LAKA!
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と長々引用したけんど、コイツプロレスが下手で、たまごどんの好みではないんだピョン。新日でのスタイナーブラザーズのときの方が、武藤や馳健との好試合が多かったのら。タッグでは何とか見えるけど、シングル戦線じゃお客さんが困るんだピョン。リックの方がプロレスは上手かったピョン。
スタイナーの得意技は腕立て伏せなのら。
創造論・・・創造科学論・・・創造進化論・・・
皆さんはこれらをどう受け止めていらっしゃいますか?
・・・ちなみに画像は筋肉オバケのスタイナーです(みれるかな?)
[画像: ./img/bbs/0000955M.png]
今晩は。まだ誰も話題にしていないようなので僭越ながら紹介します。
6月7日の朝日新聞夕刊の記事より。
以下引用
米教育界で新進化論争 カリキュラム入りへ攻勢 「神」に代わり?「知的計画」
「生命の誕生や進化の背景には知的な計画があった」という「Intelligent Design
(知的計画=ID)」説を学校で教えようという主張が、米国で頭をもたげている。
米国では、旧約聖書の創世記に基づき、天地と人類は神がつくったとするキリス
ト教右派が勢力を保つ。そうした宗教右派の「進化論を学校で教えるな」という
主張とは一線を画しているのがID推進派の特徴だ。
そうな。ペンシルバニア州やカンザス州で話題になっているとのこと。
以上。ご紹介のみ。
じゃあゾロアスター教徒の為に
牛の尿の販売サービスもすべきだな
「一番絞り」とか
AP通信によると、米オクラホマ州タルサのタルサ動物園が7日、理事会で動物園内に旧約聖書の創世記に基づく神による天地創造の展示物を掲げることを承認した。
同通信によると、同園職員や宗教指導者らが税金で運営される科学的な施設に宗教が入り込むべきではないとして反対した。しかし、ビル・ラフォーチュン市長を含む賛成派は、すでにゾウ舎の前にゾウの姿をしたヒンドゥー教の神の像があり、ほかにもアメリカ原住民のことわざ「大地は母、空は父」が刻まれた地球儀があるなどと反論した。
動物園にアイデアを持ち込んだタルサの住人は「公平さの問題。天地創造を含めないのは、差別だ」と語った。
動物園の担当者が同通信に語ったところによると、ヒンドゥー教の神の像は、動物の姿が様々な文化にどのように反映されているかを示すもので、共和党のシンボルのゾウも展示されている。
http://www.asahi.com/international/update/0609/014.html
……だそうで。
これまで一度もワールドカップで対戦したことのなかったサッカー強国のドイツとブラジルが、前回始めて決勝戦で夢のカードが実現しました。結果はブラジルが2−0でドイツを下しました。ところが奇妙なことに次回の開催国はドイツです。
マンガチックと笑われるかもしれませんが、次回のワールドカップで再び決勝戦でブラジルとドイツが対決し、ドイツが雪辱を果たし優勝する、と予言しておきましょう。根拠も何もありません。希望的観測で、こうなったら盛り上がるだろうなあ、と思ったからです。
仕事を終えたたまごどんは、有楽町のマリオンへ向かったのら。カマンベールピョン、あきピョン、谷庵ピョン、ひよこピョンと、再会あるいは初対面の挨拶を交わしたんだピョン。谷庵ピョンはオイラの予想とちょい違ってて、ダンディなお方だったんだピョン。全員揃ったから、そろそろドイツを満喫してやるかぁと思ってたら、なんとtemaピョンも合流するとのこと!temaピョングッジョブなのら。
ドイツといえばビールっしょ!ということで乾杯♪ドイツのビールは旨いんだピョン。日本のビールも旨いし、タイのビールもまた旨いんだピョン。よって帰納法から、「ビールは旨いモノである」と推論できるのら。ソーセージもポテトも全部旨かったんで、オイラ幸せだピョン。
ここでのお題は、「オイラやっちゃった?、人工無能プログラム「テンポ」は可能か、あきピョンのクイズ、こたつじいさん、読めない投稿、東大医学部に気を付けて、たまごどんと遠藤の棲み分け、二代目管理人の写真、医者の善し悪しは麻酔科医に聞け、おまえら頑張りすぎ、天才は自分のことを天才と言わんだろ、ひよこピョンも書き込むのが吉だピョンピョン、もちろんグインサーガ」
カマンベールピョンから、今日はNATROMピョンの誕生日なの、ふふ♪と色っぽい発言が。そいつはメデテエ、仕事の鬼を退治している管理人ピョンに、全員で励ましの言葉をかけることにしたんだぁ。以下はたまごどんの場合。「おぉ〜めでとうだピョ〜〜ン。ドイッツのビィールゥでご機嫌だピョ〜〜ン」「…はいはい」「楽しいピョンよ、ソーセージとジャーマンポテトかバッハ音楽のごとくゲマインシャフトして、見事にアウフハーベンしてるのらぁ」「お前、それは言ってないやろ」「正直すまんかった。ついキーボードが滑ったのらぁ〜」
みんながどんな電話したのか知りたいんだけど、店内では電波が届かないんで一人ずつ外でかけたから、まるで分からないのら。
谷庵夫婦とお別れして、残りのメンバーで喫茶店の一角を占拠。お題は「わざわざ論文取り寄せて、医者と医学博士の違い、あの二人はそっとしましょ、実年齢より若い方々、自分でいろいろ調べるトンデモさんがイイ、青森弁に「パードン?」、アクセントは直せない、あきピョンとケンカができる神経が欲しい」11時になってオイラ帰れなくなったんだピョン。いいのら、オイラ今この瞬間を生きるんだピョン。
たまごどん、temaピョンのところに泊めて貰ったのら。突然深夜にやってくるってんで、tema妻ピョンには正直すまんかったんだピョン。ワインとかビールを飲みながらダベったことは「漫画勝手にランキング、北朝鮮選手はこの先どうなるの?、じょりじょりのすね毛、ズボンにアップリケ、たまごどんの想像図、ナンピョンとたまごちゃんのアレ」いやー、突然すぎて悪かったとは思ってるけど、面白かったんだぁ。今回のお礼に、temaピョンズには長野に遊びに来て欲しいんだピョン。
思ったほど選手同士の掛け声やベンチの指示は聞こえなかったけど、場外からのサポーターの応援が聞こえてきたときは胸が熱くなりました。
8年前とは全く違った感慨ですね。なんかW杯常連国になったみたいな錯角を憶える。
ジーコのマネジメントが世界に通用するとは思えませんが、選手個々がしぶとくなったのは事実。しかし次の世代が続いていないから2010年が心配。
明後日からオランダで始まるワールドユースに注目ですね。初戦の相手オランダはフル代表候補が何人もいるらしい。何かを掴んで帰ってきてくれるとうれしいんですが。大熊監督じゃあまり期待薄。
一足早くドイツに行ってきました。
ビールも料理もなかなかのものでした。
正確にはキュンチャーの髄内釘と言いまして、骨髄に通す金属の棒ですね。
かなりしっかりと固定されますので、早期に歩くことが可能です。
この掲示板で最初にサッカーの結果を知りました。
DBRCTさん、ありがとうございます。
祝 ワールドカップ出場決定!
かくりさん、KOSUKEさん、ドイツへいくぞぉ!
>キュンチャー
ズッコの相棒とか(殴
谷庵さんキュンチャーって何ですか・・・
大腿骨骨幹部骨折でSHOさんにかかると、キュンチャー入れる代わりにお祈りをするのかしら。
唯物論を否定するなら、そこまでやって貰いたい。
唯物論ちゅうのはですにゃ、物質の存在こそが一義的なものであるという立場のことなんだよにゃ。
で、必ずしも目的論を排除するものではにゃーのだね。
ちゅうか、超越者を想定しない唯物論においては、事象を巨大な因果の鎖とみる見方がなされがちですにゃ。
ここから一種の、決定論的目的論が導かれることになるわけ。
マルクス主義なんてのは、「歴史の必然たる共産主義社会」を目的とみなしているだろにゃ?
というわけで、唯物論の立場にたっても、個々のニンゲンに対して崇高な目的意識を与えることは問題なくできるわけだにゃ。
SHOの否定しているのは唯物論ではにゃーですね。
非決定論ないしは非目的論がその否定する対象ということになりそうだにゃ。
>しかし、客観性に欠ける点があったとしても、それをもって愚説の正当性が損なわれるわけではないと私は思います。
すると、どのような場合において正当性が損なわれるのでしょう。客観性に欠ける主張の正当性が失われないようなら、論理的な正誤の判定はなにひとつ出来ないことになると思いますが。
>勿論、私もそう思っています。ただ、学会レベルのそれをお求めになるのであれば、苦しい立場に立たされるのは、私だけではないと思われますが(笑)。
云ってもいないことに対しておかしな反論をするものではありませんよ。
SHOさんの主張があまりに具体性に欠け抽象的で「なにを言いたいのかよく分からない」から、論拠を「可能な範囲で」求めたのに過ぎません。また、学会では重視されることが、一般的な「発言の場」では重視しなくても良い、とも私は思いません。むしろ逆に、学会という専門家の集まる特殊な閉鎖領域ならば、「特殊語」で通用してしまう概念でさえ、このような場では「できるだけ平素に一般化して分かりやすく」記述する必要がありますから、かえって難しいのだ、とさえ思います。
なんにせよ、Blogで応答をされる、というのでしたら了解しますが…本来はここの掲示板2などで、多数参加による議論を(私としては)望んでいます。
http://http://www.doblog.com/weblog/myblog/29790
>おっしゃる通りです。しかし、観念論がトリガーになっているというよりは、唯物論者、観念論者を問わず、人間存在が本質的に備えている排他性という性質がその主な原因であると私は思っています。
自分にとって都合の悪いことは全て別に原因があると言えるのは楽でしょうね。
そうやって他人も自分も欺き続ける生き方って私はやりたくないけど、依存する人っているんでしょうね。
「神に愛されていること」「神によって命じられていること」を信じ、この世は所詮かりそめのものにしか過ぎず、法律などむしろ信仰への障害でしかないとばかりに犯罪に走ったり、集団自殺するなどは唯物論的には考えられない行動です。
むしろ法律でがんじがらめにした法が世の中平安かもしれません。もし観念論によって世の中が平和になったとしてもそれは「地獄に堕ちるぞ」という脅しが効いてるだけかもしれませんが。
・・・と私は愚考します。
客観性に欠け、自分の主観に過ぎない主張をして、それでも正当性が損なわれることはないと言うのは、なんぼなんでも、、、
その主張に正当性があったとしても、それはたまたまそうだったというんであって、それこそ全くの偶然によるものに過ぎない。
偶然のたまものには「生きる価値」はないと言っている御仁が、それはないんちゃう?
>唯物主義・思想が「邪教」であり、「害毒」でさえあるという表現は、「唯物論的価値観を意識的あるいは無意識のうちに支持する人間が増えた結果として生じていると考えられる社会の風潮を根拠に挙げているはずです」とある、どのような「具体的な社会の風潮」を示すのですか?と述べています。
ご指摘と私のお返事とが、循環してしまいそうです。
誰かの論証を頼って社会の風潮を指摘してみせる必要を私は感じません。
事細かな法整備に頼らねば秩序を維持できない社会、個々の人間存在としての絶対的価値を見失わせた根本原因が唯物論的価値観にあるというのが、私の洞察です。
そこに基づいた考察であるので、確かに、これは私の主観に過ぎないでしょう。
しかし、客観性に欠ける点があったとしても、それをもって愚説の正当性が損なわれるわけではないと私は思います。
>しかし一方、意識が物理化学的な現象のあらわれである、とする「医学生理学生物学的な現在証明」なら、山ほどあるのではないですか?少なくとも、これを否定することはつまり、脳生理学や神経医学や精神医学の立証に対して、反論を述べることにはなりませんか。
ならないと思います。多くの生理作用、物理化学現象に関して、科学が解き明かしているのはそのプロセスだけです。その営みのもっとも初発段階で何が起こったかについては、全くわかってません。
つまり、明らかになったと思われているプロセスに関しても、観測可能な範囲内で明らかになったというだけです。
唯物論は、例えば高層建築が誕生する過程を巨視的に観察して、あのビルはクレーンが建てたという外見的な事実でもって、全てがわかったといっているような理論です。
本当は誰かがビジョンを思い描くことで始まった営みであっても、外からそれをうかがい知ることなどできません。
この限界をなぜ認識できないのか、その方が私にはとても不思議です。
>はなはだ信憑性の薄い主張なら目にしたことがあります。しかしもっと信憑性の高いデータがあるのでしたら興味がありますので提示をお願いできませんでしょうか。
心霊写真の類は、他人がこれを提示してもケチがついて終わるだけです。ただし、比較的親しい知人に、そうした写真をとってしまったというような経験が全くないのだとすれば、私にとっては、その方が不思議ですが。
病院に勤務していると、怪奇現象の類の体験談を聞く機会は多いものです。
それらを全て荒唐無稽と断定することの方が難しいと感じられます。
物理現象を伴った場合も存在するからです。
もっとも、それらは皆、客観的証拠にはなりません。やはり、多くは、個々の「感じ」や「体験」の中にあるからです。
こと、こうしたジャンルにおいては、伝聞や、体験談であるため、「信頼できる証拠」という定義づけからして困難です。
巷にでまわっている類書の中には、様々な物的証拠もあらわされていますが、これを信じる、信じないは、読者の判断にゆだねられてしまうのではないでしょうか。
結局、再現、検証可能性が乏しいという事実が、客観的証拠であることをゆるさないのだと解釈されます。
私自身は、臨死体験の中に、ヒトが肉体としての生命現象を超えているという認識を示唆する情報が含まれていると考えています。
近いうちに類書の中で科学的と呼べるものを探してみようと思います。
>科学の基本は唯物ではないのでしょうか?
科学万能主義や教条的な主張、あるいは科学的誤謬が引き起こす問題は、唯物主義ではなく、無知や無思考がもたらすもの、と私は認識しています。適度に科学を信頼し、生活することになんら問題がないのであれば、唯物論を批判する必要があるのでしょうか?
本論からその問題を認識していただけないのであれば、これ以上の議論は不毛です。論理が循環してしまうからです。
>現在起きているほとんどの争い、紛争、テロリズムなどは、経済至上主義と観念論を組み合わせたところから発せられている、と私は考えていますが、違いますか?
おっしゃる通りです。しかし、観念論がトリガーになっているというよりは、唯物論者、観念論者を問わず、人間存在が本質的に備えている排他性という性質がその主な原因であると私は思っています。
>この掲示板は「雑談、ネタ話もOKだけれど、メインは科学的もしくは論理的な議論の場」である、と参加者の誰もが認識していると思います。
勿論、私もそう思っています。ただ、学会レベルのそれをお求めになるのであれば、苦しい立場に立たされるのは、私だけではないと思われますが(笑)。
いずれにせよ、またしても長々と議論にお付き合いいただき、ありがとうございました。
例によって、これ以上は他の皆様のご迷惑になりかねません。お前らよそで勝手にやれといわれてしまいそうです(笑)。
続きは互いのブログに移行することを提案しますが、いかがでしょうか。
無論、ここでおしまいでも差し支えありませんが。
他の皆様へ
浅学菲才ゆえ、一度に複数の優秀な論客を相手には議論できない窮状をお察しくだされば幸いです。
コメントは貴重な参考資料にさせていただきます。
で、私が興味深いのは、先ほどの投稿で「保留」としたこの部分です。
>つまり、誰かや何かに必要とされる存在であればこそ、そこに存在意義が生じると
>いえる。
>だが、こうした考え方は、人生がすこぶる調子よくいっている間は害がないかもし
>れないが、社会からの孤立を感じている人間にとっては救いがない考え方であり、
>自殺や殺人を志向する人間にとっては抑止力をもたないばかりか、その行動を後押
>ししてしまう価値観である。
結城浩さんの文章にもそういう意見がありましたね。
# しかし、殺人を後押しするというのはこれまた論理不明ですが。
私自身、以前の投稿で、「自分が人生を楽しんでるんなら、人生には価値があるじゃないか」と書きました。でも中には人生を楽しめていない人もいるでしょう。そういう人はどうすればよいか。
若い奴が、彼女に振られてしょげてる程度のことなら、「まあこれからいいこともあるさ」と励ますことはできるでしょう。幸せなんてどこにでも落ちてるものです。でも、今現在幸せでなく、幸せになる見込みも立たない人、たとえば不治の病で苦しみ死を待つばかりの人とか、収容所で強制労働させられて出られる見込みのない人とかであれば、私は、そういう人が自殺するのを止める論理を持ち合わせません。
それはしょうがないというか、そういう人に「命は尊いから自殺なんかしちゃだめだ」なんて言うのは傲慢もはなはだしいと思うし。
どうもね、私にはSHOさんの言いたいことがさっぱりわからないんですよ。
>唯物論者によれば、これは脳内の物理化学現象の結果であると断定される。ところ
>が、この視点についていえば、何ら証明はなされていない。
こんなことが証明されたと思っている人は、少なくともこの掲示板には、ここ最近現れたことはないと思うんですが。
>進化に指向性なんてものはない。全てが偶然の所産であるという考え方は、我々人
>間存在もまた偶然の所産であることを意味する。
スタンダードな進化論は「全てが偶然の所産である」などとは言ってないと思いますが、変異に関しては偶然に起きるとされています。だからまあ、「我々人間存在もまた偶然の所産である」という考えだと解釈してもおかしくなはいでしょう。
で、
>偶発的に存在しているものには、絶対的な存在価値などないといえるだろう。ある
>とすれば、相対的な存在価値だけである。
>つまり、誰かや何かに必要とされる存在であればこそ、そこに存在意義が生じると
>いえる。
相対的な存在価値が認められればそれでいいじゃん、という主張を、私を含め何人かの人がしたと認識しています。
さて、
>だが、こうした考え方は、人生がすこぶる調子よくいっている間は害がないかもし
>れないが、社会からの孤立を感じている人間にとっては救いがない考え方であり、
>自殺や殺人を志向する人間にとっては抑止力をもたないばかりか、その行動を後押
>ししてしまう価値観である。
ここは保留するとして、
>結局、相対的価値しか認めないというものの考え方は、我々人間には、はじめから
>生きる意味など存在しないという短絡的な結論を導いてしまう。
>しかしながら、そうした視点で生きるとすれば、とどのつまり、我々は法を犯さぬ
>限り、何をしてもよいという歪な主張を生み出すことになるだろう。
この「とどのつまり」の部分の論理展開がさっぱりわかりません。
絶対的な価値観なんぞ存在しないと思うからこそ、他者の価値観を尊重し、相互に
譲り合って生きていくわけでしょう。
たとえば私は煙草は吸いませんし、煙草の煙は大嫌いですが、好きな人が喫煙することを止めるつもりはありません。私に煙を吹きかけてくれるな、と思うだけのことです。
絶対的な価値観をもとに、法律のごとく事細かに規制をつくるのは、むしろ宗教のほうの得意技だと思うんだけど。
>無論、唯物論が正しい可能性は否定できまい。だが、そうした考え方を容認してい
>たのでは社会秩序が破綻する。
SHOさん言うところの「唯物論者」などこの掲示板にはここ最近現れていない、ということを念押ししつつ言いますが、
もし(SHOさんの言うところの)「唯物論」が正しかったら、SHOさんによれば、人生には価値がないことになるんですか?
たとえば人工知能が人の意識を完全にエミュレート(チューリングテストみたいないい加減な意味ではなく)できる日が来たら、その日を境に、人類みんなの人生に価値がなくなっちゃうんですか?
なんかそっちの考え方のほうがずっと救いがないし、社会秩序も崩壊しそうに思うんでが。
私は手厳しくなんかありませんよ(笑。ごく当たり前の受け答えをしているつもりです。
>これを客観的に論証するには、実際の社会現象と、そこに携わった唯物論者の数を割り出し、その動的な推移を示してみなければならないことでしょうが、貴兄はそれがなければ論考足りえないと本気でお考えなのでしょうか?
その通りです。しかし、別にSHOさんがすべてを論証する必要はありません。文献、新聞記事、論文、専門家によるコラムなど、ソースを示せば良いだけです。唯物主義・思想が「邪教」であり、「害毒」でさえあるという表現は、「唯物論的価値観を意識的あるいは無意識のうちに支持する人間が増えた結果として生じていると考えられる社会の風潮を根拠に挙げているはずです」とある、どのような「具体的な社会の風潮」を示すのですか?と述べています。
>何の示唆も与えぬものであるか否かは人それぞれではないでしょうか。その意味では、このような一般化は妥当でないというご指摘ならば納得できます。
了解しました。私も「科学に限界があることと、霊性の追求の二点の相関は定かではない」と指摘するべきでした。
>貴兄のおっしゃるように、「同じ程度の説得力」であるかどうかは、読者一人ひとりの判断にゆだねられるのではないでしょうか。
つまりそれは、「表現の自由」に属する主張だ、という意味でよろしいでしょうか。
それであれば「〜のように、私は感じる」だとか「〜だと思う」などと表現すべきだったのではないでしょうか。それが個人の主観による創造的所産によるものなのか、科学ではないにしろ普遍化を目指す論理的命題であるのか、常に意識して書くことは大事なことだ、と私は思います。
>私は、意識というものの保存や作用がなされている証明があるとは申しておりません。これについては、以前の貴兄のコメント、「科学的にはわからない」でよいのではないでしょうか。
唯物論者が「意識活動は脳内の物理化学現象の結果である」というのですよね。実際のところ、脳死に至ったヒトの意識が何かをしただとか、計測されたというデータがない以上、それは科学の方法論によれば当然のことと思います。しかし、まっとうな科学者であれば「断言」はしないでしょう。私は「断言はできない」という意味において「分からない」と述べています。またそれは、私がこの分野について素人であることも加味してのお話です。
しかし一方、意識が物理化学的な現象のあらわれである、とする「医学生理学生物学的な現在証明」なら、山ほどあるのではないですか?少なくとも、これを否定することはつまり、脳生理学や神経医学や精神医学の立証に対して、反論を述べることにはなりませんか。
>但し、霊現象のいくつかは、科学的に異常が検知された報告があります。
はなはだ信憑性の薄い主張なら目にしたことがあります。しかしもっと信憑性の高いデータがあるのでしたら興味がありますので提示をお願いできませんでしょうか。
>私は、法を否定しているのではありません。唯物論が、結果として法整備に過度に依存した住みにくい社会をもたらすと警鐘を鳴らしているだけです。
科学の基本は唯物ではないのでしょうか?
科学万能主義や教条的な主張、あるいは科学的誤謬が引き起こす問題は、唯物主義ではなく、無知や無思考がもたらすもの、と私は認識しています。適度に科学を信頼し、生活することになんら問題がないのであれば、唯物論を批判する必要があるのでしょうか?
現在起きているほとんどの争い、紛争、テロリズムなどは、経済至上主義と観念論を組み合わせたところから発せられている、と私は考えていますが、違いますか?
>まず、ヒトが生命現象に束縛された存在でいることを容認するという考え方が唯物論ではないでしょう。
なぜでしょう?
私は生命現象の発端について、科学では解明しきれない要因が介在したかも知れないことを否定しません。どのようにして生命がはじまり、今ここにあるのかは分からないまでも、私たちが生きているという事実は生理的な化学反応で説明可能ではないのですか?化学反応で説明可能な事象として私は「生命現象」という言葉を使っていますが、認識が違うようですね。
>ご指摘の意味はわかります。しかし、一般的な掲示板で、みだりに学術的な論証のレベルを要求するのもいかがなものでしょうか。
この掲示板は「雑談、ネタ話もOKだけれど、メインは科学的もしくは論理的な議論の場」である、と参加者の誰もが認識していると思います。
大文字ナン様
>SHOさんの議論の構造はこれら「二つの要素」を提出し、その正当性を審議するものではなく、観念的に「受け容れられない」ことを表明し、自分が受け容れられない以上、それは「誤りに違いない」という論調に陥っているので、それを指摘したのです。
観念的に受け容れられないというご指摘ですが、本論においては、単に受け容れられないという視点だけを述べているわけではなく、唯物論的価値観を意識的あるいは無意識のうちに支持する人間が増えた結果として生じていると考えられる社会の風潮を根拠に挙げているはずです。
無論、これを客観的に論証するには、実際の社会現象と、そこに携わった唯物論者の数を割り出し、その動的な推移を示してみなければならないことでしょうが、貴兄はそれがなければ論考足りえないと本気でお考えなのでしょうか?
>二項の対立構造から現象を分析し紐解いていく説明手法は、たとえばこのサイトのテーマにもあるように分かりやすく、手っ取り早いのは確かですが、一項を否定したからといって第二項の正当性を証明することにはなりません。
第二項の正当性を「証明」したつもりはありません。
ただ、唯物論を支持することに潜んだ危険を指摘してみせたまでのことです。
一方、観念論の中にも、それを盲信することで社会に歪を生ぜしめる可能性をはらんだ考え方があることは否定しません。
>科学には限界があり、ヒトの知力にも、あるいは論理というものにさえ、自ずと限界はあるでしょう。しかしそれがすなわち「霊性」の追求につながるものかどうかについて、科学に限界があるという命題はなんの示唆も与えません。
何の示唆も与えぬものであるか否かは人それぞれではないでしょうか。その意味では、このような一般化は妥当でないというご指摘ならば納得できます。
「科学の限界を認識するところから、宗教的希求が生じる」は、少なくとも、私にとっての事実であったと訂正しましょう。
>「観念論が正しい可能性は否定できまい。だが、そうした考え方を容認していたのでは社会秩序が破綻する。」
と書くことも可能で、同じ程度の説得力を持ちます。要するに、そう書くことが「好まれる」ひとには、ウケるだろう、という程度のものです。
確かに、「」内の命題を主張することは可能だと思います。ただし、納得するに足る例証が示されればですが。
もっとも、これは極めて困難であるでしょう。
先にも述べたとおり、観念論は多様な宗教的、哲学的価値観の総称だからです。
文章としては等価にみえるかもしれませんが、貴兄のおっしゃるように、「同じ程度の説得力」であるかどうかは、読者一人ひとりの判断にゆだねられるのではないでしょうか。
>どのように証明されていないのか、根拠、あるいはソースを提示すべきでしょう。脳内の物理化学現象なくして、意識というものの保存や作用は可能なことですか?具体的な例示を行っていただけないでしょうか。
私は、意識というものの保存や作用がなされている証明があるとは申しておりません。これについては、以前の貴兄のコメント、「科学的にはわからない」でよいのではないでしょうか。
今のところ、証明の手段もないかわりに否定する手段もないというだけです。
そもそも、意識が実体をもたないにも関わらず、存在することだけが認知された存在だからです。
科学の俎上に乗らぬ、あるいは乗りにくいことをご自身が認めておられるのに、根拠、ソースを示せとは、いささか理屈が過ぎるのではないでしょうか。
意識だけの存在を具体例で示せということは、幽霊の存在を科学的に示せといっているようなものです。
但し、霊現象のいくつかは、科学的に異常が検知された報告があります。
もっとも、そうした報告、フィルムに霊が写っていたとか何とかは、最初から学術的な物証としては取り合ってもらえていないのが現状でしょう。
サーモグラフィー上の変化についても同様です。
>法も、実体を持たない観念の一種です。集団内のルールの中で、とりわけ普遍的に効力を保証されているのが法なのですから、法だけに頼る方法論は「極端な観念主義」ともいえ、「極端な唯物主義」と同じくらい危険なのは当然のことです。どんな主義主張思想観念も、度を過ぎれば毒になるのは当然です。同時に、適度にそれを用いることは「薬効」をもたらすこともあるでしょう。
私は、法を否定しているのではありません。唯物論が、結果として法整備に過度に依存した住みにくい社会をもたらすと警鐘を鳴らしているだけです。
>あなたにとってはそうなのかも知れませんが、他のひとにとってはどうでしょうね?
それとも、SHOさんは圧倒的に優れた知覚と悟りを持つのでそれを「知っている」けれど、ヒトが生命現象に「束縛された」存在であることを容認している人々には「分からない」ので、愚かである、という論調ですか?
まず、ヒトが生命現象に束縛された存在でいることを容認するという考え方が唯物論ではないでしょう。
見た目の生命現象がヒトの全てであるという考え方を指して唯物論であると述べているわけです。
確かに、本論は私にとっての事実認識にしか過ぎないかもしれません。
しかし、全く共感が得られない考え方ではないと思います。
実際、個々の唯物論者の思索を追究すると、少なからぬ御仁が同じような論理を展開するため、私の中ではこれを一般化することに抵抗がなくなってしまっただけの話です。
>思索や主観を述べることが悪いとは思いません。しかしそれを述べるなら述べるで、あたかも論証を試みているかのように行うならば、それなりの手順を踏むべきでしょう。
ご指摘の意味はわかります。しかし、一般的な掲示板で、みだりに学術的な論証のレベルを要求するのもいかがなものでしょうか。
貴兄が満足する水準の論考にならなかったということはわかりますが(笑)。
もっとも、ご指摘は謙虚に受け止め、今後の論考作成には役立てていきたいと存じます。
ありがとうござました。
#以下、とても主観的な話で誰もがそう思っているとは思えない話です^^。
生きる目的というか”生きがい”というのは突き詰めればきっと誰もが持っていると思います。
昔はあんまり考えたことなどなかったのですが子供が生まれて育児にかかりきりになって、研究を一時ギブアップしていたとき、暫くして”学歴に自信がなくても、家庭でできる資格が取れますよ”などという電話が沢山鳴り出した頃、アドラーの言う”自分には社会に貢献出来る何らかの能力があるという自信を持たせることが社会的に問題行動を起こす青少年を社会に戻す道である”というような思想に社会から置き去りにされた(と思っていた)母子カプセルのなかの人は胸を打たれたものです。直接的な感情のつながりを生きがいにしないというのはホスピタリティーにあふれた人には考えにくいことかもしれません。また何らかの宗教に救いを求めた人からも受け入れられないことかもしれません。
「進化論と唯物論」「科学と霊性」「生命と物質」「唯物論と観念論」「キリスト教と仏教」・・・
列挙するとキリがありませんが、SHOさんの議論の構造はこれら「二つの要素」を提出し、その正当性を審議するものではなく、観念的に「受け容れられない」ことを表明し、自分が受け容れられない以上、それは「誤りに違いない」という論調に陥っているので、それを指摘したのです。
二項の対立構造から現象を分析し紐解いていく説明手法は、たとえばこのサイトのテーマにもあるように分かりやすく、手っ取り早いのは確かですが、一項を否定したからといって第二項の正当性を証明することにはなりません。
>科学が備えている本質的な限界に気づくところから、霊性を追究する旅路が始まるのだ。
たとえば↑ですが、科学には限界があり、ヒトの知力にも、あるいは論理というものにさえ、自ずと限界はあるでしょう。しかしそれがすなわち「霊性」の追求につながるものかどうかについて、科学に限界があるという命題はなんの示唆も与えません。
>無論、唯物論が正しい可能性は否定できまい。だが、そうした考え方を容認していたのでは社会秩序が破綻する。
まったく同様の文法で、
「観念論が正しい可能性は否定できまい。だが、そうした考え方を容認していたのでは社会秩序が破綻する。」
と書くことも可能で、同じ程度の説得力を持ちます。要するに、そう書くことが「好まれる」ひとには、ウケるだろう、という程度のものです。
>唯物論者によれば、これは脳内の物理化学現象の結果であると断定される。ところが、この視点についていえば、何ら証明はなされていない。
どのように証明されていないのか、根拠、あるいはソースを提示すべきでしょう。
脳内の物理化学現象なくして、意識というものの保存や作用は可能なことですか?具体的な例示を行っていただけないでしょうか。
>なぜなら、人の行動規範を法に頼れば、互いの権利や自由を保障するためには事細かに法的規範を設けざるを得なくなり、結局、皆が不自由になっていくばかりだからだ。
法も、実体を持たない観念の一種です。集団内のルールの中で、とりわけ普遍的に効力を保証されているのが法なのですから、法だけに頼る方法論は「極端な観念主義」ともいえ、「極端な唯物主義」と同じくらい危険なのは当然のことです。どんな主義主張思想観念も、度を過ぎれば毒になるのは当然です。同時に、適度にそれを用いることは「薬効」をもたらすこともあるでしょう。
>しかし、人の本質が見た目の生命現象を超えた肉体以上の存在でなければ、人間存在に生きる意味も目的もありはしない。
あなたにとってはそうなのかも知れませんが、他のひとにとってはどうでしょうね?
それとも、SHOさんは圧倒的に優れた知覚と悟りを持つのでそれを「知っている」けれど、ヒトが生命現象に「束縛された」存在であることを容認している人々には「分からない」ので、愚かである、という論調ですか?
思索や主観を述べることが悪いとは思いません。しかしそれを述べるなら述べるで、あたかも論証を試みているかのように行うならば、それなりの手順を踏むべきでしょう。
PDX様
>科学という物を正しく理解してる人であれば、こういう拡大解釈はしない
私もそう思います。
大文字ナン様
>二項論に傾倒し過ぎていませんか?論理証明において「極論」が有効なケースは多いものですが、思索を述べるときのそれは、視野の狭い偏狭な主張になりがちですよ。
二項論の意味するところが今ひとつはっきりしないので、的外れな返答になってしまうかもしれないことをご容赦ください。
二項対立思考のことをおっしゃりたいのであれば、対立する二つの対象を明確にしていただければ幸いです。
ご指摘が、唯物論と観念論であるとするなら、おっしゃる通りかもしれません。
私は唯物論を容認していないからです。
また、その理由は、それが根拠のない信仰であると同時に、社会に実害を及ぼす思想であると考えているためです。
邪教とまで言い放ったのは、主張を明確にするためでもあります。
一方、観念論とよばれる考え方、即ち、人が見た目の肉体以上の存在であることを容認する考え方は、バリエーションが豊富で、どれが正しいと即断できる類のものではないと私は思います。
例えば、観念論の中には仏教も含まれるでしょうが、仏教の中には無神論的な考え方もあります。
唯物論を否定したからといって、即座にキリスト教的な神や世界観を肯定することにはなりません。
神と一口にいっても、キリスト教的な、神を己の存在とは別個の存在として捉える考え方や、古インド哲学にみられるように、己の意識の深奥に内在する神=真我として捉える考え方など、多様な概念が存在するからです。
私自身は、科学的事実とより矛盾しない形での神のあり方、人のあり方を模索し続けています。
>しかしながら、そうした視点で生きるとすれば、とどのつまり、我々は法を犯さぬ限り、何をしてもよいという歪な主張を生み出すことになるだろう。
礼節を重んじる生き方、法的拘束力をもたぬ行動規範など、何の意味もなくなってしまう。
あるいは、裁きの手を免れることができるなら、どんな生き方をしても個人の勝手ということにもなるだろう。
同じくらいに「神によって裁かれなければ法を犯しても良い」という主張が出てくるでしょうね。宗教的動機によるテロなんてその象徴的なもの。
人間は法に縛られなくても尊敬されたいとか近所づきあいや世渡りをうまくやりたいという思惑を持つものなのでそうそう無軌道な行動は取れないでしょう。
>やはり、法的規範のみに我々の行動規範を依存するのは間違っている。とすれば、各自が己の生き方を見つめなおさざるを得ず、そこには生きる意味や目的が必要不可欠なのだ。
そうですね。誰も法的規範のみに自分の行動規範を依存するべきなどと言っていないですね。
ただそれを「宗教的希求」にしか見いだせないというのは狭い了見。
>しかし、人の本質が見た目の生命現象を超えた肉体以上の存在でなければ、人間存在に生きる意味も目的もありはしない。
それをないと言い切ってしまえる唯物論者は、教条主義に陥った頑迷な狂信者と大差ないのではないだろうか。証明されてもいないことを頑なに信じる邪教の徒であるからだ。
SHOさんは教条主義に陥った狂信者のようですから、唯物論だけが狂信者を生むわけではないようです。
自分がそうだからと言って他人も同じだと思いこんでしまうというかたがおられる、、、(^^)
自分が、神様がいないと「裁きの手を免れることができるなら、どんな生き方をしても個人の勝手ということにもなる」からと言って、他人も同じだとするのは間違っている。神様がいても「どんな生き方をしても個人の勝手」という人もいるだろうし、神様がいなくてもそうじゃない人もいる。
とにかく、自分は神様がいないと不道徳になってしまうのだとしても、他人も自分と同じだとしてしまうのは間違っている。
あなた以外の多くの人は、神様に監視されていなくても道徳的に生きているんじゃないですかね。
To SHOさん
>それをないと言い切ってしまえる唯物論者は、教条主義に陥った頑迷な狂信者と大差ないのではないだろうか。証明されてもいないことを頑なに信じる邪教の徒であるからだ。
二項論に傾倒し過ぎていませんか?論理証明において「極論」が有効なケースは多いものですが、思索を述べるときのそれは、視野の狭い偏狭な主張になりがちですよ。
>科学を唯物論の支持根拠にまで拡大解釈する考え方
科学という物を正しく理解してる人であれば、こういう拡大解釈はしないと思うんですけどねぇ。
「生きる目的」に関して、一連の議論から思うことを述べてみます。
<進化論と唯物論>
進化論とは、単に進化のプロセスを科学的に追究した結果に過ぎず、唯物論の正当性を証明した理論ではない。プロセスの根本的な要因が明らかになったわけではないのに、そこを明らかになったと勘違いしている御仁は少なくない。
生命に物理化学現象を引き起こしている根本原因、人の生死を分かつ根本原因についてまで、科学が解き明かしたわけではないのだ。
例えば人の意識。
唯物論者によれば、これは脳内の物理化学現象の結果であると断定される。ところが、この視点についていえば、何ら証明はなされていない。
証明されていない以上、これを支持するのは信仰であって、科学的、客観的視点ではありえない。わかってもいないことを、さもわかったかのように結論づけることで成り立っているのが、唯物論なのである。
私は、進化の潮流に対してはある種の指向性を感じているが、これを感じぬ人間とはなかなか話がかみあわない。
進化に指向性なんてものはない。全てが偶然の所産であるという考え方は、我々人間存在もまた偶然の所産であることを意味する。
偶発的に存在しているものには、絶対的な存在価値などないといえるだろう。あるとすれば、相対的な存在価値だけである。
つまり、誰かや何かに必要とされる存在であればこそ、そこに存在意義が生じるといえる。
だが、こうした考え方は、人生がすこぶる調子よくいっている間は害がないかもしれないが、社会からの孤立を感じている人間にとっては救いがない考え方であり、自殺や殺人を志向する人間にとっては抑止力をもたないばかりか、その行動を後押ししてしまう価値観である。
相対的価値しか人にないなら、殺したい相手に生きる価値を見出すことなどできぬだろうし、死にたい人間にとって、己の命に価値など存在するはずもない。
結局、相対的価値しか認めないというものの考え方は、我々人間には、はじめから生きる意味など存在しないという短絡的な結論を導いてしまう。
しかしながら、そうした視点で生きるとすれば、とどのつまり、我々は法を犯さぬ限り、何をしてもよいという歪な主張を生み出すことになるだろう。
礼節を重んじる生き方、法的拘束力をもたぬ行動規範など、何の意味もなくなってしまう。
あるいは、裁きの手を免れることができるなら、どんな生き方をしても個人の勝手ということにもなるだろう。
実際、巷にはそういう価値観で生きる人間があふれかえっているように見え、こうした輩が己のエゴを際限なく主張することで、世界はどんどん住みにくく変わっているのではないだろうか。
なぜなら、人の行動規範を法に頼れば、互いの権利や自由を保障するためには事細かに法的規範を設けざるを得なくなり、結局、皆が不自由になっていくばかりだからだ。
しかも、そうした法は、力のある人間にとって、より有利に働くことになる。
法による利益分配の公平化など、幻想に過ぎまい。
やはり、法的規範のみに我々の行動規範を依存するのは間違っている。とすれば、各自が己の生き方を見つめなおさざるを得ず、そこには生きる意味や目的が必要不可欠なのだ。
そうした意味は、科学の営み、客観的論理の中には存在せず、各自が己のハートで感じるしか手立てがない。
これが宗教的希求である。
科学が備えている本質的な限界に気づくところから、霊性を追究する旅路が始まるのだ。
その行き着く先にあるのがキリスト教的世界観であるのか、仏教的世界観であるのかはわからない。
しかし、人の本質が見た目の生命現象を超えた肉体以上の存在でなければ、人間存在に生きる意味も目的もありはしない。
それをないと言い切ってしまえる唯物論者は、教条主義に陥った頑迷な狂信者と大差ないのではないだろうか。証明されてもいないことを頑なに信じる邪教の徒であるからだ。
無論、唯物論が正しい可能性は否定できまい。だが、そうした考え方を容認していたのでは社会秩序が破綻する。
がん細胞が限りなく増殖して宿主を死にいたらしめ、己自身も破滅する様とよく似た結果を社会にもたらすことだろう。
科学では今もってわからない命題があるということを謙虚に認め、わからないという己を受け容れることこそ、無知の智であると私は思う。
進化の営みそれ自体を疑うつもりはない。そして、科学を否定するつもりもない。
しかし、科学を唯物論の支持根拠にまで拡大解釈する考え方には、懐疑的とならざるを得ない。
JA50さんの、
>自己像ってのが不安定で、一貫した自我のイメージが保てない。
>そのためすぐ他者の言うことに影響される(被暗示性が強い、
とか、
>当然、すぐ依存状態に陥ってしまう。
>たぶんこういう人は、慢性的な虚無感に悩まされている。
というお話に説得力を感じます。
抽象的な概念を理解することに個人差があるように(これは数学とか物理とかの何次元とか、まぁ、そういうことでいいんですけど)、人間いかに生きてゆくかというような哲学的な奥行きみたいなものにも大きく個人差があると思います。
創造論者がよくやっている誤謬に、人間ってのは神様がいないと不道徳になってしまうってのもありませんか?
これも、「生きる価値」問題と同じ類の誤りじゃないでしょうか?
自分がそうだからと言って、他の人も同じだと思いこむのは間違いだよと。
人間の多くは、あなた達とは違い、道徳的に生きるのに別段神様など要らないんだよと。
「生きる価値」を探し求める人、って、自分が生きてることになにかしらとまどいを、あるいは引け目を感じてる人なんだろと思う。
生きてりゃ他人に迷惑をかけることもある。自分がここに立ってりゃそれだけで、ここに立ちたい他の誰かの邪魔をしてることになる。
他人は(そとから見てる限り)みんな自信たっぷりに、当たり前のように生きている(ように見える)。
とまどいや心細さは、自分だけのことのようにしか、思えない。
ボクが生きてることを誰かに喜んでもらえたら、ボクはその人のためだけにでも、一生懸命生きるのに...。で、誰でも実はそんなに思ってくれる人の一人や二人はいるものなんだけど、自信のない人にはそんなことは見えてこない。
...そんな人が、「ボクは神さまに愛されてるんだ♪」と信じることが出来たら、どれだけ救われることか!まさに、生きるための心の支えになる。
問題は、そんなに気の小さい、控えめで遠慮がちで善良な人が、「神」というモビルスーツを着たとたんに、
「神は絶えっ対だあぁーっ!!宇宙でこれが一番すばらしい価値なんだああぁーっ!!!」と、
今までの遠慮だらけ引け目だらけの人生の反動で、支配衝動の固まりになって、暴れまくる...ことなんだよな...。
...ちがうのかなあ??
HULKAMANIAな漢さんへ
自分自身だけを見てるとそうでもないけど
自分に至る命の道のりをかんがえると…
無数の「愛」と「死」が積み重なった上にいる自分て
もう存在しているだけで、存在を認識できる能力を持っているだけで
ラッキー♪
HULKAMANIAな漢さん、はじめまして。temaと申します。
> もし偶然がいっぱい重なって・・・その結果に人間ができたのだとしたら私達は何のために生きてる事になるのでしょうか・・・「偶然の重なった存在」に存在の価値はあるんでしょうか・・・
「価値」とは、誰かが与えるものです。猫しか居なければ、小判には価値がありません。馬しか居なければ、念仏にも価値はありません。
HULKAMANIAな漢さんの考える「人間の価値」とは、誰が与えるのでしょうか? 造物主でしょうか?
ならば、造物主が人間に飽きたら、人間の価値は無くなるのでしょうか?
temaとしては、人間の価値を造物主などに決められたくありません。temaにとって、人間の価値は人間が判断するものです。
更に暴言を承知で言えば、temaにとって、人間の価値はtemaが判断するものです。
このため、たとえ人が偶然の重なった存在であろうと、temaにとって人間は価値あるものなのです。
自身は「神さまによって目的を持って作られた存在であり、私は神さまから愛されている存在なのだ!」と信じないと「生きる価値」を見いだせないって人は、あれなんかなぁ、、、
よくいわれる「アイデンティティーの確立が不十分」というやつ。
自己像ってのが不安定で、一貫した自我のイメージが保てない。そのためすぐ他者の言うことに影響される(被暗示性が強い、教祖の言うことをすぐ信じて言いなりなる等々)。当然、すぐ依存状態に陥ってしまう。
たぶんこういう人は、慢性的な虚無感に悩まされているんとちゃうんかな。
それが神様に愛されている存在だとか、神様によって目的を持って作られた存在だと思いこむことで、いくらか救われるってんなら、それはそれでしゃーないんとちゃうかなぁ、、、
ただ、他人である私としては、くれぐれもカルトに引きずり込まれないように願うばかりです。
それは失礼
色々聞きましたが皆さんの考えを聞かせてくださってどうもありがとうございました
「生きる価値」に人によって違いはないと思っている、、、
じゃ、結局、あなたはいったい何が疑問なの?
あなた自身は「神さまによって目的を持って作られた存在であり、私は神さまから愛されている存在なのだ!」と信じないと「生きる価値」はないと自分をそう見ているんなら、勝手にしたらいいことで、それを他人に尋ねてもしかたない。
自分の「生きる価値」くらいは自分で見つけよってこと。でくの坊じゃあるまいし、それくらい自分でやれと。
と、同時に、あなたが他人に「生きる価値」をとやかく言う資格もない。
そもそも、自分の「生きる価値」を他人に尋ねるような人間に、他人の「生きる価値」をあれこれ言う資格などあるとは思えない。
To HULKAMANIAな漢さん
>でも自分で模索して「探す」という時点でこの考えに人の絶対的価値は見出せなくなってしまいませんか?
よく分かりませんが、ヒトには「絶対的価値」が必要なのでしょうか?少なくとも、私には「私の生きる価値」だけしかありませんし、他のひともそうではないだろうか?と思っています。
進化論でも、その他の科学理論でもいいです。そうですねぇ、パソコンがなぜさまざまな計算をしてくれるのか?を教えるような理論でもいいです。こういう理論には「普遍的な価値」があります。それは、その理論さえマスターしたなら、誰にでもその仕組みを考えたり、検証したり、場合によっては作り直すこともできる、という意味においてです。
要するにそれは、ボルトとネジみたいなものです。道具なんです。
進化論を学んでも、ヒトの生きる価値なんてものは見つかりません。見つからないことと、否定することは違います。ノコギリを持ってきて、ボルトを締めようとするようなものです。ヒトの生きる価値とやらを探すのでしたら、進化論はおよびじゃありません。それは道具の用法を間違っています。
この世に絶対的な価値なんてもの、ないと思います。あらゆる価値は、相対的なものに過ぎませんよ。
とんからりんさん・・・そんな感じで生きていけたら楽かもしれませんね・・・
大文字ナンさん・・・「依存」の一種ですか・・・・・・「依存」して生きていくのもある意味楽ですねぇ・・・でも自分で模索して「探す」という時点でこの考えに人の絶対的価値は見出せなくなってしまいませんか?
JA50さん・・・人間のクズですか・・・キツイいですねぇ・・・でも私は「生きる価値」が、人によって異なるなんて考えてませんよ!
>それは「依存」だ、と言われてもしかたないとは思うけど、それでその苦痛から解放されるんなら、それでいいじゃないですか。
でも依存したばかりに教祖様がとんでもないことをやらかしても止められなかったり積極的に加担したりする場合もあるから、どこに依存するかをよく見極めないといけないように思います。
ぱさんご紹介のサイトを読んでみました。
まぁ、あれですねぇ、、、なんというか、、、
自分は「神さまによって目的を持って作られた存在であり、私は神さまから愛されている存在なのだ!」と信じないと、苦しくて苦しくてということなんかなぁ、、、
そういう心性を私は理解できないけど、でも、そう信じることでその苦しさから解放されるってんなら、それはそれでいいんじゃないですか。それは「依存」だ、と言われてもしかたないとは思うけど、それでその苦痛から解放されるんなら、それでいいじゃないですか。
アンパンマンでもあるまいし、何のために生きるか、なんていらないなぁー。
HULKAMANIAな漢さん、はじめまして。
偶然の作用によってこの地球に生きる命が生まれ、私たちニンゲンが存在するのだとしたら…進化論はそれを「偶然」とは説明しませんが、この点は議論のポイントからズレますので機会があればまたお話しましょう。
とにかく・・・「偶然としか思えない仕組み」によって私たちがここにいるのだ、としたら・・・偶然が重なった存在に「存在の価値はあるのか?」というのがテーマですね。
それでは逆に考えましょう。なぜ、偶然が重なった存在には価値がないのでしょう。たとえば金の鉱石には価値がありますね。ダイヤモンドでも構いません。それは人が「生きる価値」とは若干違いますが、対価という価値や羨望、さまざまな利権構造という現象を人間社会に起こします。しかし金やダイヤは、この「問いかけ」の中で、明らかに「偶然が重なって生じた」ものではないでしょうか。
価値感の多くは、私たちが模索するまでもなく「押し付けられる」ごとくそこにあります。貨幣がその代表でしょうか。私たちは考えるまでもなく、お金を大事にし、必要とすることを「余儀なく」されます。しかしそんな貨幣・通貨でさえ、誰かが考え、作り出した「発明品」です。また、通貨が生まれたことでさえ「偶然がたくさん重なった結果」に違いがあるわけではありません。
価値、に実体はありません。あくまでそれは「感じるもの」なのです。ですから中には「存在価値」をまったく感じることができない人もいることでしょう。むしろ、それが自然なことかも知れません。なにしろ、そういう価値観は誰かに与えてもらうものではなく、自分で模索して「探す」ものだからです。
私としては、偶然が、これほどまでに奇跡的に重なって生命を生んだことのほうが、よほど不思議で、価値のあることだ、と思っています。また、誰かに「作ってもらった」と考えた場合、究極に「ヒトは自由ではない」ことを暗示するかのようで、閉塞感を禁じ得ません。しかし一部の人々は「誰かに作ってもらって、愛されている」ことを「保証」してもらわないと、不安になるようです。私はこれを「依存」の一種、と考えています。
結城浩氏の発言への反論のつもりで書いたのですが、あれだとHULKAMANIAな漢さんへのレスに取れますよね?
紛らわしい書き込みをして申し訳ございません。
まああまり堅苦しいことは考えずに手近な生きる価値ってものを見つければいいと思いますよ。
風呂上りにビールを一杯飲んで、「あ〜、この一杯のために生きてるぅ」でいいじゃないですか。
「偶然の重なった存在」であっても、「生きる価値」があると思っているなら、それでいいじゃないですか。「偶然の重なった存在」であっても、「神様によって目的を持って作られた存在」であっても、どちらも「生きる価値」がある。人の「生きる価値」などいうものに違いなど存在しない。それぞれ、無上の価値があるんです。
ん?
もしかして、あなたは人の「生きる価値」ってのが、人によって異なるとでも思っているわけですか?
自分は「神様によって目的を持って作られた存在」であり、そうじゃない「偶然の重なった存在」の人とは「生きる価値」が違うんだとでも?
もし、そうなら、あなたは人間のクズですよ。
JA50さん・・・自分という存在が「偶然の重なった存在」だとしたら、自分には生きる価値などないと思ってしまう・・・私はただ「だとしたら」と言っているだけです・・・
とんからりんさん・・・その・・・「私は神さまによって目的を持って作られた存在であり、私は神さまから愛されている存在なのだ!」 ・・・その前に「聖書に書いてあるように」と記しています・・・結城浩氏がクリスチャンで、聖書を基準にしているならそう考えて当然だと思います。
・・・考えがもう少しまとまったらまた書き込みます・・・
人間が「これは楽しい。」とか「これは大事。」とか考えるのは、単に思いつきだけだから価値がない。
...ふうん、そんなものか...。
んじゃ、神さまが「人間は互いを愛するべきだ」とか考えたりするのは、単に神さまの思いつきじゃないの?だって、神さまは何物にも縛られない。
だとすると、神さまの命じることに、価値はあるの?
あるとしたら、どういう論拠で?
結城浩氏自身は進化論は肯定も否定もしていないようですね。でも“進化論的世界観”というものは彼の信仰と相容れないと。
私はそもそも人間に価値なんてないと思っています。自分が生きていくことで誰かが価値を見出してくれるものだと思っています。
そして自分が生きている意味は自分には生きていて楽しいことがあるし、死んでしまうことに漠然とした恐怖があるからです。
どうして結城浩氏のように「私は神さまによって目的を持って作られた存在であり、私は神さまから愛されている存在なのだ!」なんて心の支えが必要なのか理解できません。
こういう発想みたいですね。
進化論的世界観
http://www.hyuki.com/diary/20040928142818
http://www.hyuki.com/diary/20040928230442
私にもさっぱりわからないです。
結城浩さんと言えば、プログラミング関係のライターとしてはかなり有名な人で、何万人も読者がいるわけですし、妻子もあるわけです。どうして自分の存在に意味がないなどと思えるのか。
別に本なんか出してなくても、妻子もいなくても、ほぼすべての人は何がしか周囲に必要とされているはずです。また、仮にまるっきり周囲に必要とされていないという人がいたとしても、その人自身が、自分の人生を楽しめていれば、それだけでその人の人生は本人にとっては価値があることになります。
何に楽しみを見出すかは人それぞれでよく(他人に迷惑をかける行為でない限り)、飲む打つ買うが好きな人はそうすりゃいいし、他のことが好きな人は他の事をすればいい。世の中一定の努力をしなければ手に入れられないものも多いけど、そういうものを手に入れたい人は努力すりゃいいし、努力するのが嫌な人はしなきゃいい。傲慢だろうと強欲だろうと色欲旺盛だろうと嫉妬しようと大食しようと憤怒しようと怠惰だろうと、その結果を本人がかぶるんならとやかく言われることじゃないですわな。
楽しめれば人生には価値がある、と言っても、人生を楽しめていないと感じる人には無意味かもしれないけれど、今の日本、人生を楽しむ方法はいくらでもあるんじゃなかろうか。「生きることの意味」などという問いに悩むくらいなら、もっと人生を楽しむべきだし、それこそが生きることの意味なんじゃないかと思ってます。私は。
自分という存在が「偶然の重なった存在」だとしたら、自分には生きる価値などないと思ってしまう、そういう考えが、私は不思議でならない。
よほど自分という存在に自信がないのか、自尊心というものがない人格をしているのか、、、
あのぅ・・・進化論についてなんですが・・・
もし偶然がいっぱい重なって・・・その結果に人間ができたのだとしたら私達は何のために生きてる事になるのでしょうか・・・「偶然の重なった存在」に存在の価値はあるんでしょうか・・・
そんなに振りかぶりはしなくても、御先祖様が守ってくれてるとか、仏壇や神棚にはお供えをしとくもんだとか、道具には魂があるんだよとか、道端のお地蔵様におまいりしとくともしかして良いことがあるかもねとか、正月には神社でお札をもらってお祓いをしとくと悪いことは起きないかもねとか、信心してる人は多いんと違いますか?
神藤だとも宗教だとも意識してないかも知れませんが、これはやはり一種の宗教でしょう。
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」(ちくま新書)の中では、こういった信心を「自然宗教」と呼び、キリスト教など教義のはっきりしているものを「創唱宗教」と呼んで区別しています。ちょっと最初の部分を立ち読みして見るだけでも、いわゆる日本人の無宗教というものの実体が納得できると思います。
進化論が否定されるから、創造論が肯定されるなんてのは、あまりに
単純すぎる。DNAの秘密も最近はかなり解明されてきてはいる。いず
れ人間を創造したとか聖書でいう神の正体も明らかにされるだろう。し
かし今の腐れ坊主やエセ神学者では無理だろう。メンデルは修道士であ
りながら遺伝の法則を発見するなんて、立派だ。
朝眠れなくてと書き込んだのですが、寝てしまって疲労が少し回復するといらいらが取れてきました。どうも疲れていて、この掲示板を見るといらいらしてしまうので、やっぱ去ります。
さいなら。
> 「うめぇことひのえうまを外してガキを産むなんざぁ、なかなか器用ぢゃねぇか!」ってね。
昔、以下のような事を読んだ記憶があります。大分前のことなので、はっきりした記憶じゃないのですが(^^;。
=====================================
統計1:1月1日生まれ〜12月31日生まれ
統計2:7月1日生まれ〜翌年6月30日生まれ
統計1だと丙午の年の出生率が下がる(ように見える)が、統計2だと変わらな
い。おそらく、丙午の年の1月上旬に生まれた子供は前の年の暮れの生まれ、12
月下旬に生まれた子供は次の年の初めの生まれとして届け出たため、「統計上」丙
午の年の出生率が下がったように見えるのではないか?
=====================================
こんな内容だったと思います。前後の年も含めた月毎の出生率のデータも見たような気がするのですが、覚えていません。
そいつぁオレっちみてぇな江戸っ子に特有の迷信てなもんで、今風にちょいと洒落た言い回しにするってぇと「都市伝説」とかいうもんぢゃねぇんでやんすかね?
オイラがおいちゃんやらおばちゃん方から聞いた話ぢゃぁ
「ひのえうま生まれの女房は旦那を食う」だとか「ひのえうまの年にゃぁ火事が起きる」なんてのがあったでやんす。実際んとこ、オレっちの学年だけクラスが少なかった。しかしオイラは思ったもんで…
「うめぇことひのえうまを外してガキを産むなんざぁ、なかなか器用ぢゃねぇか!」ってね。
> たまごちゃん (^-^)ノは確かに虚構だったかもしれない。
確かにどうでもよいや。それが遠藤さんだったらと考えると気分が悪かっただけ。
なんかそっちの話ばかりでどうも気乗りしないです。何かこの掲示板ROMしてると不満ばかり溜まります。そういう事言いたくなるから、特に僕への面白いレスが無ければ、また静かにします。
> どうもオイラはクソ真面目キャラすぎて、掲示板でノリが悪いんですわ。
あああーー馬鹿馬鹿しい。こんな事気にしなければいけない掲示板なんだと良く分かりました。すべて解けました。最近の僕の不快感はそういう事だったんですね。
別にどうしてもいなければいけない場所じゃないのに、なんでこんな妙な事考えるのか不思議です。僕がもっと良い文章をって感情と似た物はありますが、同一視されるとすると本当に不愉快です。
ヤフーでも不愉快だった。どこへ行っても刺激的で燃えるような気持ちになる内容が無い。だらだらべらべらつまらない事を話してるだけ、本人も息抜きって感じがミエミエ。そうだね息抜きに力入れたらやってられないですね。確かに僕にも疲労があるし、だから休みを取るし、分からないでもない。そしてそれを共有できる人達とって気持ちも分からないでもない。だがそればっかりだってのがどうにも不満だ。
掲示板にはプロがいない。ここも一応プロがいるはずなのに、所詮金にならんから真剣にやるわけないですね。しらけた場所、だから来なければ良いのに、って何度も思ってもつい何か期待して見てしまうし、書いてしまう。そういう自分に自己嫌悪してこんな糞みたいな発言ばかり。
ひょうたんから駒、こういう事もある事はあります。丙午ね…。あああああどうでも良い。ひょうたんから駒ね。何かあるかもね。頑張ってください。
>長いこと跡取りのような扱いでしたので、
>家では"ひのえうまというのは男の人にも負けない
>大した女の子なんだよ"とかなりポジティブに育てられました^^。
(ハッター@ひのえうま さま)
外に出ると、とやかく言われるだろうと考えての、
いわゆる、教育的配慮、って感じですね...
(この掲示板、ひのえうま産まれのかた、結構いっぱいいらっしゃるのね...)
でも、さきの占いのページを見ていると、
ひのえうまは、火が重なるのでエネルギッシュ、
ということで、まさに「たいした女の子」らしいです、はい。
http://www.ffortune.net/calen/calen/fromqa/qa018.htm
> まさかコ○ドームの普及が原因じゃないでしょうねw
(クハ72さま)
1906年当時、東京のような都会では、すでに普及していたけど、
いなかはまだだったから、そのまま産んじゃったって...?(笑)
(でもって、「お父さんは酔っぱらって、避妊に失敗したから、
ひのえうまだけど、産んじゃったんだよ」って、
精神年齢が発達したころ、娘にカム・アウト...?(笑))
でも、大阪でも出生率は、ほとんど下がらなかったから、
これには、無理がありますね...(って、まじめに答えてどうする?(笑))
>1966年の時点では、島根県に比べ、関東各県の方が心に余裕があったのではないでしょうか?
(temaさま)
いや、「都会といなか」、ではなく、「東京周辺とそれ以外」、なんですよ...
大阪など、関西の都市部でも、出生率は下がってない(らしい)んです。
だから、やはり、東京周辺だけの特殊事情であって、
生活の余裕ではないと思います。
temaは惜しいところで、丙午を逃しています。丙午だったら、受験とか多少は楽だったろうに...
>ひとつ前の1906年は、どうだったかというと、
>10%程度しか減っていないらしいです。(1966年は、約27%減。)
1906年に比べて、1966年は生活そして心に余裕があったからではないか、と思います。1966年の時点では、島根県に比べ、関東各県の方が心に余裕があったのではないでしょうか?
余裕があるため子育てに趣味が入り込み、少しでも良い条件を求めて丙午を避けた、と想像します。
このため、次回の丙午には女性が少なくなる、と予想します。
たまごちゃん (^-^)ノは確かに虚構だったかもしれない。
で、単に掲示板で「オイラ」と自分のことを呼ぶだけのことで、文章が硬くくそまじめなだけのことで、小汚いおっさんだと決めつけるのは論理的なことだろうか?
いつかOFF会で、コップ一杯のビールで耳たぶまでほの赤く染めた遠藤さんの華奢な体をおもわず抱きしめるボクがいるかもしれない。
遠藤さんは潤んだ目でボクを見あげ、
「...お姉さま、...だめ...。」
といいながら、言葉とはうらはらにボクの首に白い素肌の腕をまきつけ、濡れた唇を...。
大雪の北海どーで、酔っぱらいの遠藤は他のOFF会参加者に悩みをうち明ける。
「どうもオイラはクソ真面目キャラすぎて、掲示板でノリが悪いんですわ。野球とかプロレスとかなら多少は羽目も外せるけど、でもでも、オイラだってニャーニャー言いたいし、ああやって弄りたいジャン。なんか書こうにも、どうも今までの固いイメージに自分が邪魔されているんですわ。だいたい、オレはそんなに真面目じゃないんだけど、他のトンデモさんが凄すぎるんだよなあ。くっそー、地下猫さんのキャラは美味しいよなあ。RYUさんの爺さんキャラもいいよなあ。オイラの発言で議論がストップする気がするし、だいたいオレの発言は面白いんかな?。そもそも…」
酒癖の悪いこの中年を救うべく、参加者は知恵を出し合ってくれた。「じゃあさ、地上に眠る猫はどう?」「でも、なんかハンドルだけじゃ弱いなあ。アクセントが必要だな。」「語尾に『だべさ』とか『だっちゃ』とか付けるのは?」「いいけど、ちょっとありきたりかな」
「たまごちゃんが実はたまごどんだった」という初期設定はおずおず様のアイデアです。語尾ピョンはみんなのアイデア。かくして北の大地北海どーで、たまごどんは生まれたんだぁピョ〜〜ン!!
笑いについて、
人はコミュにおいて問題のある状態に陥ってはならない。そういう集団のルールから笑いがあるとする。
ベルグソンが言った言葉を僕なりに解釈して見ました。
僕はこういう集団ルールがどうも好きになれない。愛想笑いをする程利害関係を相手に感じない。
こういう心理って進化論的に語れないのかな?
何故真剣になってはいけないのかな?
適度に緊張をほぐしておいたほうが、良い結果が出るからかな?
集団の損得勘定で行動を決められるのは気に入らないな。
お前は敵だ、って言葉好きですね。
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たまごちゃん (^-^)ノは実在の女性です。
黒く長い髪、まつげの長いつぶらなひとみの、観月ありさそっくりの17歳の美少女です。
ただ問題は満月の夜...。
長い髪が見る見る短くなって2部刈りの坊主頭になり、顔も体もふくらんで、南しんぼうそっくりになり、
「おいどんがたまごどんでごわす!うわっはっはっは!!」と 野太い声で吠えながら酒を飲みまくり、あげくにはとあるキャッチバーのトイレをゲロだらけにするのです...。
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予想通り、思ったとおりのレスが来ました。良い意味で予測を裏切ってくれた遠藤さんに感謝しています。
甘やかしたら駄目!とか言えば良いのでは?
とても嬉しいです。不快感が蘇ってきました。僕は得をしました。
じゃ、確率の話誰か僕を喜ばせるレスが来るか楽しみにしています。
おっさんなんて失礼な言い方をした事謝ります。きっとからかわれて、そうだよーんって言われると思っていました。
僕が本気で言っているってネットでも伝わるんだと分かっただけでなんか嬉しい気持ちです。かなり自分勝手で幼稚なやり方ですが、単純明快で分かりやすかったです。ただこのまま嫌な気分で去ってしまいたかったって思いもあったのですが、その点ちょっとしくじったなって思いもあります。結局甘さが出てしまうんだろうなって自分に対してちょっと嫌な気持ちあります。聞かなきゃ良かったと後悔しています。良いじゃないか、くそったれで不快感たっぷりで終わってしまってもと思うのですが、本当に甘いです。ちょっとだけ気持ちにゆとりが出るとこんなつまらない自分が出てしまいます。
これじゃ間違いなく負ける、負け犬だ。
良く自分のやった事の意味を考えずに、自分にとって損になる事を平気でしてしまうなんて本当に自分は馬鹿だと思います。ああくだらない奴、本当に何の得も無い。気を引き締めるのに、これで何日掛かるだろうと思うとその損害の大きさと、たった2,3分で書き上げた文章の中身と比較して、頭が悪すぎて耐えられません。ただ確率の事でずっと引っかかった事を綺麗に書けて嬉しくて気が緩んだのかなって思います。
この3つ前、2,3気に入らない点はありますが、悪くない文章です。
はっきり言うと、自分直観99%ねーだろうと思ってる事を質問しました。ただ一度疑念が湧いてそうだったらどれだけ僕は馬鹿だろうと思って、逆にその事で吹っ切れた様な気持ちになりました。
僕のネットでも理想は、相手と発言が終わったら、相手の生死は一切考えないが理想なのです。それはお互い様で。記憶から相手の存在を一切抹殺する、これが理想です。だからと言って旅の恥はカキ捨て的な言動にはならない様にと考えています。感情の引きずりを一切なくしたいのです。
ネットで話した相手にネット以外で何らかの感情を持っても、何の得も無いどころか、損ばかりだと思うと、実に馬鹿げた事をやってきたとずっと考えていました。かと言ってこえをあまり傍若無人に押し進めると礼や敬意を失した発言をしてしまう為、ぎりぎりの妥協点として、僕との対話が終わったら”死ね”と思う気持ちでいられないかと考えています。
1日3回破ってしまっている為、今日はこのぐらいにしておきます。
それでは。
投稿者と題名ひっくり返してしまいました。すいません。
たまごちゃん (^-^)ノは実在の女性です。
黒く長い髪、まつげの長いつぶらなひとみの、観月ありさそっくりの17歳の美少女です。
ただ問題は満月の夜...。
長い髪が見る見る短くなって2部刈りの坊主頭になり、顔も体もふくらんで、南しんぼうそっくりになり、
「おいどんがたまごどんでごわす!うわっはっはっは!!」と 野太い声で吠えながら酒を飲みまくり、あげくにはとあるキャッチバーのトイレをゲロだらけにするのです...。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。