このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
大文字ナンさんの鋭いつっこみで思わず吹き出しました。
私は笑顔は苦手だけどギャグだったらいえます。その一芸だけで小学生から高校生まで友人にも恵まれて楽しい学生時代を過ごしました。
いつまでも笑顔の話題も何かと思うので誰か何か話題ありませんかね?
え〜、ヒト段落したようなので、ぼちぼちと・・・って話題は笑顔かよ!
ま、まぁいいや、日曜なのに蒸してる今日、私は楽しくありません。だから、笑顔もさえないでしょうねぇ。こんな日に無理やり笑っていると「気持ち悪がられたり」するでしょう>予言。
でねぇ、この世は仮の世さん。笑顔ってのも形式論にすぎないんぢゃないかなぁ。笑顔が大事なのはその通りで、マクドナルドのメニューに「スマイル」があって、なるほどなぁ、と思ったのが何年前だったっけ?確かに「営業スマイル」とか、社長高笑いとか、そういう「押し」で攻めるのはアリだとよく知ってるけど・・・だからといって、作り笑いに価値なんかないよ。
笑いたいから、笑う。
それでいいんじゃない。
いえ、私こそ失礼しました。皆様には多大な感謝をしています
日記帳的な投稿に対してもレスいただきありがとうございます。
私としては笑顔は人に愛を与えるためには大事だと思っています。
笑顔のすてきな人になりたいと思います。
いつもにこにこ笑顔で接されると気持ちよいです。
アメリカ人などは努力していつも笑顔でコミュニケーションをとるそうです。人にお世話になったら「ありがとう」というのが常識であるようにアメリカではそういうことが常識のようです。
「人生を変える笑顔のつくり方」で検索したらスマイルセラピーなどというものがアメリカにあるのを発見しました。もちろん著者も笑顔教室などというものを主催しています。
笑顔というのは営業でも大事な成功要因だそうです。やはり努力して笑顔でコミュニケーションするのがいいようです。
>この世は仮の世さん
常に真顔でいること、その真顔が「怖い」ことのどこがおかしいの?
逆に、そんなに誰もかもが「幸せそうでにこやかな笑顔」をし続ける必要ってあるのです?
笑えないときに笑うことは出来ないし、幸せなときには自然に優しい顔になる。
それを他人にどういわれるのかをびくびくしていると、結局は楽しい気持ちが萎んでしまうし、気にしなければ自然に幸せな気持ちになる回数や頻度も高まるのでは?
笑顔は作るものではなく、笑顔があふれ出てくるような幸せを感じること、が大切な気がします。
真顔でいいんではないでしょうか?例え「怖く」ても
却って「笑顔」を取り繕えば繕うほど普通の人には怖く(もしくは「しらじらしく」)感じてしまいます。
相手の話のなかで面白いところがあればちょっとだけニコリとしようとすればいいんです。
そうすれば相手はきっと分かって「嬉しく」なります。
だけど注意!もしも相手に分かって欲しいならば、相手の考え方を分かってあげてください。
あなたが考えていると同様に相手もそれぞれの考え方があります。
それをふまえないでいると、あなたの笑顔は「人の気持ちを知らない傲慢な笑い」に見えて、多くの人に不快感を与えると思います
「人生を変える笑顔のつくり方」野坂礼子を買った。
私の関心事にあった本なので・・・
私は笑顔を作るのが苦手だ。父にもいえるのだが、笑顔が作れない。いつも真顔だ。
幸福の科学の支部のスタッフに「君の真顔は怖いよ」と言うようなことをいわれたこともある。
笑顔の練習をスタッフにさせられたこともある。そのときは「こんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか」と心で思いながら練習させられていた。
笑顔を作ることは私の関心事の一つだが、なかなかできない。人のせいにするのはいけないのだが、やはり父の教育の結果かなと思ってしまう。
いやそうではない。親子は合わせ鏡とも言うではないか?父と私の共通点にすぎないのではないか?
笑顔にこだわりすぎてるのかな?とも思う。
しかし笑顔は光の菩薩への一里塚でもある。
to: ふう様
なんか、ちょっと意外な結論になっていってしまいましたが、ふう様のなされた問題提起は改めて自分の道楽の昆虫の生態(特に隔離の問題、空間的/時間的-昆虫は出現期の問題がありますので)について深く考えさせられる契機となりました。時間の関係で余り掲示板にはかけませんでしたが・・・・
感謝申し上げます
>NATROMさんはなぜ創造論とエホバの証人を一緒にして批判してるのでしょう?二つに何か関係でもあるんですか?
エホバの証人も創造論を支持していますよ。
地下に眠るMさんへ、おずおずさんへ
分化妄想装置論について、レスが長くなった事もあり掲示板2に書き込みました。
↓
5100 新着 返信 文化妄想装置論 tema 2004/06/18 21:08
NATROMさんはなぜ創造論とエホバの証人を一緒にして批判してるのでしょう?二つに何か関係でもあるんですか?
http://www.houon.net/syoushinge/syoushinge11.htm
以下はこのサイトからの引用です。トトロさんに触発されて仏教用語のような古い言葉が本当にネットで調べられるのか確かめてみました。
正定聚について
>正定聚とは、お浄土で仏の悟りをひらき(大涅槃を証し)仏としてのはたらき
につくことが、今ここでまちがいなく約束されている(等覚を成る)ということです。
よくわかりません。
次に摂取不捨について
>摂取して捨てず
http://web2.incl.ne.jp/fujiba/goma/99haijo.htm
このサイトからの引用です。
>*「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」(『親鸞聖人御消息』 浄土真宗聖典p.735)
「真実信心の行人(ぎょうにん)は、摂取不捨のゆゑに正定聚(しょうじょうじゅ)の位(くらい)に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎(らいこう)たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
[現代語訳] 阿弥陀仏の本願他力をたのむ真実の信心を得た人は、摂取不捨の利益にあずかるから、必ず仏になることに定まっている正定聚の位につく。それゆえ、臨終の来迎をたのみとして待ち望むというようなことはない。信心が定まるときに往生もまた定まるのである。それゆえ、臨終に際して来迎を感得するための儀式である臨終行儀などは必要としない。(同上)
cf. 臨終業成説と平生業成説(へいぜいごうじょうせつ)(親鸞は後者)
真実信心の行人で検索してたらこんな文章を見つけました。トトロさんの訳とちょっと違うように見えます。
この訳から伝わる印象では不来迎とはトトロさんの言っているような意味で言っているようには見えません。トトロさんは親鸞の言ってる不来迎思想をどう理解しているんですか?
ところでトトロさんはWEBでどうやってこれら古文書の言葉の意味を調べたんですか?私もちょっと調べてみましたが、全くわかりませんでした。
http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~akimoto/literature4.html
引用した文章は上のサイトからの引用です。
私と皆さんの間で議論は成立しそうにないから私として皆さんに色々教えてほしいと思います。ちなみに私の部屋に広辞苑はないので仏教用語のような古い言葉は調べようがありません。
単純にいって、進化論的には、現生で大きな差のあるものほど、先祖は古く分化していなければならないわけです。
「脊索動物」と「非脊索動物」の差は非常に大きい。従って、「脊索動物」は先祖は、かなり古く出現していなければ、むしろ進化論的におかしいわけです。
グールドのいうように、「門」のようなレベルではカンブリア紀の段階で出揃っている、というのは、進化論的にむしろ真っ当な主張のような気がしますが?
私が長文を打っている間に、JA50さんが、コンパクトに同様の説明をしていました。失礼…
>あかさたなさん
>カンブリア紀の動物の大発生において、脊索動物がすでに出現していたことをどう考え>ますか??
はじめまして。
私如きがご返答していいのか、ちょっと疑問ですが、私も一応、進化論批判などという大それたことをした関係上、進化論関係の本はせっせと読んでいますので、なんとかお答えしてみます。
ご指摘の「カンブリア紀の脊索動物」については、ドーキンス著「ブラインド・ウォッチメーカー」(このHPで紹介されています)の第三章をご覧になれば、容易に理解できると思います。バイオモルフのモデルは、こうした問題に対する、最高の説明です。あわせて、グールド著「ワンダフル・ライフ」もご覧ください。
単純にいって、今はどれほど「似ていない」といえる生物でも、先祖の段階では、「似ていた」わけです。そこのところはよろしいでしょうか??
逆にいえば、「今の我々」と「我々の先祖」は、必ずしも、「似ていない」わけです。
そして、グループによって、先祖と現生のものが「似ている」かどうかは違います。
バクテリアなどは、カンブリア紀のものと今の奴はかなり似ていますよね。こういうケースは多々あります。それに対し、ヒトなどは、先祖とかなり違っています。そういうわけで、現生のバクテリアとヒトは、先祖は「似ていた」が子孫は「ぜんぜん似ていない」わけです。
つまり、バクテリアとヒトは、もともと、先祖の段階では「似ていた」にせよ、一方はあまり変わらず、一方はガンガン変化したので、「似ても似つかない」ものになったわけです。
上記例では、「変化するケース」と「変化しないケース」の比較ですが、「変化するケース」同士でも同じです。
祖先がいかに「似ていた」としても、子孫が別個にガンガン変化していけば、長い過程でお互い「似ても似つかないもの」になるわけです。
さて、脊索動物です。
基本的な問題ですが、脊索動物といっても、別段、現生の脊索動物と同じものすべてがカンブリア紀に存在していたとかいうわけではありません。
そもそも、脊索動物といっても、おそろしくヴァリエーションに富んでいます。非常に大きなグループです。ヒトもホヤも、脊索動物です。つまりは、「脊索動物」にもあれやこれやがあるわけです。
要するに、カンブリア紀に出現した「脊索動物の『先祖』」というのは、現生のヒトに「似ている」よりも、現生の「非脊索動物の『先祖』」に「似ていた」わけです。
現生の「脊索動物」のヴァリエーションのすべてが、カンブリア紀に出現していたとかいうのなら、もちろん、進化論は崩壊します。
脊索動物については、下記で調べました。参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%8A%E7%B4%A2%E5%8B%95%E7%89%A9
人間も脊椎動物だから、そのような脊椎動物は動物の中でもっとも高等な動物に違いない。そんな高等動物がカンブリア紀の初期に生まれるはずがない。脊策動物は脊椎動物の先祖だから、脊策動物も高等動物でないとおかしい、そのような高等動物は、ずっと後になって生まれてないとおかしいんだ!
てな、思い違いをしているお方なんじゃないでしょうか?
To あかさたなさん
化石に残っているものが少ないだけで、カンブリア爆発が見かけの現象だという考え方がまずありうるのでは。
あと、脊索動物とは言ってもピカイアはナメクジウオのように比較的単純な身体の構造をしており、バージェス生物群に含まれる様々な無脊椎動物の方がよほど複雑と申しますか。
当然、無脊椎動物の側にはその時期からさらに遡る種分化の歴史があったでしょうから、さらに過去に遡って、もっと多くの化石が発掘され、この時期の系統樹が描けるようになればいいなぁ、と思います。
当然、ピカイアを含む脊索動物の系統樹もわかればいいけど、化石に残りにくそうなヤツですからねぇ……。
>「連続的な量の変化が、質的な変化をもたらす1点が存在する」
>ということは確かにあるとおもうにゃ。
ええ、そう思います。実は私は最初、これを根拠に「連続的な量の変化では、質的変化の壁を越えられない」と主張していたのですが、谷庵さんその他の方から、「そりゃ、アキレスと亀の論法じゃないか」とご指摘を受けて、軌道修正しました。
>条件次第である毒の致死量はいろいろと変わっても、致死量というある1点が存在する>ことには変わりにゃー。そうした1点の存在もまた、ありふれているとも思うのだにゃ。
結局、私の問題提起の帰結は、そういうことになると思います。
>致死量という1点には確かに意味がある
>でも、黒と白の間に連続的な灰色のグラデーションがあるとして、その灰色のどこか1>点を指して、ここからこっちが黒、そっちが白ね、というのは意味がにゃーだろうね。
>こうした1点が意味を持つ場合と持たにゃー場合の条件を考えるとオモシレーかもしれ>にゃーな。
そうですね。ある病気に耐性があるか、ないか、とか。
「自然淘汰」の理論からみて、最重要でしょうではないでしょうか。「一点」に限定しなくても、「病気にかかりにくいか/かかり易いか」でも。
カンブリア紀の動物の大発生において、脊索動物がすでに出現していたことをどう考えますか??
スーファミソフトの「スーパー桃太郎電鉄2」をデイケアの友人からもらって現在これにはまっている。議論はしばらくお休みかもしれない
「連続的な量の変化が、質的な変化をもたらす1点が存在する」
ということは確かにあるとおもうにゃ。
条件次第である毒の致死量はいろいろと変わっても、致死量というある1点が存在することには変わりにゃー。そうした1点の存在もまた、ありふれているとも思うのだにゃ。
だから
そうした1点が何の意味を持つかが重要なのでしょうにゃ。
致死量という1点には確かに意味がある
でも、黒と白の間に連続的な灰色のグラデーションがあるとして、その灰色のどこか1点を指して、ここからこっちが黒、そっちが白ね、というのは意味がにゃーだろうね。
こうした1点が意味を持つ場合と持たにゃー場合の条件を考えるとオモシレーかもしれにゃーな。
我ながら、文の中ほどの論旨と結論があきらかにすり替わってるにゃ
素朴実在論に抗するために、
自然科学の概念は素朴な実在ではない、とする論法
と
自然科学的な観点から文化の素朴実在論の粉砕を目論む文化妄想装置論
の
両者がごちゃごちゃになってるにゃ。馬鹿にゃんな。
>ファシストの論旨は、統一された目的など持たない(とtemaは思っている)文化を、目的を持っている(または、持つべきだ)、と言ってしまう処に問題があるのだと思います。
いろいろなミームの総体をもって「文化」を形作る、としてみましょうかにゃ。
ミームの総体としての文化は、総体として自己の保全が「目的」となるでしょうにゃー。
ウヨの信念の最良のものは、「己の受け取ったものと同じものを子孫にも渡す」というものでさ、これ自体には僕は文句のつけようがにゃーのだよね。
進化の主役は実はジーンであるとしても、だからこそ個体が自己保存を図ると言えるわけだよにゃ。ミームのメタファーはそこがよくできていると思う点なのだけど、個々のミームが自己保全を図ろうとするから、故に文化が自己を保存しようとする、といってもいいように思うのだにゃ。
よって
・文化は自己保存という目的を有する統一的な有機体である
という反論は可能ではにゃーだろうか。
ここではミームを説明原理としてもってきたけど、ほかの論法でもこれはいえると思うんだよね。
で、ファシストの「文化有機体論」に対する有効な反論は、別のロジックに拠ったほうがいいように思えますにゃ。
いわく
・統一的な有機体がうまく機能するためには、一見対立的に見える諸力の葛藤が不可欠である。例えば、交感神経系と副交感神経系を見よ。
てなかんじ。
「自然主義的誤謬」という印籠を出すのもいいんだけど、生物学還元主義者のほとんどは生物学をよくわかってにゃーので、相手の土俵にのったうえで「生物ってね、チミの思っているようなもんじゃないのよ」と返してやるほうが「教育的でわかりやすい」なことも多いとおもうにゃ。
なにより、この論法ならば「文化の実体化」をそのままにしながら反論が可能であるといえるのだにゃ。素朴な人たちというのは、文化が実体をもつものであると思っているのではにゃーだろうか。だからこそ、個体とか種とかいう(ちょっと見には)実体的と思われる概念に拘泥するのだと僕は思う。
また、「自然主義的誤謬」というコトバを
「文化という実体には、自然科学的概念という実体をあてはめることはできない」
と解してしまうと、そうとうやばい落とし穴があるようにも思われますにゃ。
「自然主義的誤謬」論法は、素朴な実在主義を拒絶する論法として使用したほうがはるかに強力ではにゃーかと。
もっと踏み込んでいってしまうとさ
・素朴実在論は無知の産物
ではにゃーだろうかと
生物学者は「種」の素朴な実在など認めにゃーだろう。
物理学者は「素粒子」の素朴な実在など認めにゃーだろう。
同様に、社会科学系の学者は、「国家」「法」などの素朴な実在は認めちゃダメだと思うのだにゃ。自然科学以上に素朴実在論は忌避されるべきだと思うのだけどにゃ。
ところがなあ、僕の見るところ、社会科学系や人文科学系のほうが素朴実在論がまかり通っているわけだにゃ。
これは、この分野のガクモンが遅れているということではにゃー。しっかりした実績を残している(と僕が思う)学者は、素朴実在論を徹底的に否定した地平で仕事をしているにゃ。問題は、三流学者やアマチュアの解釈、つまりもっとも人口に膾炙するところの解釈がまだまだ素朴実在論なんだにゃ。物理学好きのアマチュアが、粒子が素朴に実在すると考えることは(トンデモでなければ)にゃーだろうけど、社会科学好きを自称しながら社会科学的概念を素朴実在論的に捉えるお歴々にはことかかにゃー。
で
素朴実在論者がなぜ生物学や物理学を用いたモデルを好むかというと、かれらは実体と実体の対応関係をそこに求めているからなのだにゃ。
文化妄想装置論は、素朴実在論粉砕戦略として考えてるんだにゃ。
(創造論って素朴実在論の極限だしね)
オモイツキながら書いてるんで、わけのわかんにゃーレスになってすまにゃーね
ま、勝手にやってるので、気が向いたらあそんでね>おずおず
いまは、やふ の某トピで「うんこが臭いのは妄想だ」ということについて考えてるとこだにゃ。
こっちでも紹介するつもり
開戦もしない内に休戦宣言を行うのは心が痛むのですが、
19日から27日まで旅に出ます。旅の疲れとたまった仕事の消化で、その後しばらく、ぐたーとしてると思います。
申し訳ありません...。
>そうですか。なんか、ナチの人種論への反論としての「人類同士ならどこの誰とでも交雑できる」というのが頭に染み付いていまして。
そんな、大仰なものじゃなく、不妊で悩むカップルは、ゴマンとおるじゃろう。
ワシの知り合いの夫婦は、ハネムーンベービー、年子、年子と3人立て続けに産んで、そこの旦那は『デューク東郷』、嫁さんは『山田太郎』と密かに呼ばれとる。
逆に100%の成功率のほうが飲み屋のネタになる程度には珍しいと言うこっちゃ。
これからも是非お付き合いいただけますよう、よろしくお願いします♪
> 全ての精神分析理論は仮説にすぎないと言うことです。要は患者の病気が
>治ればいいと和田秀樹は言ってます。
その治療法で治るかどうかという予測は、治療実績の正しい評価の積み重ねによらなくてはなりません。そこが難しいのだけれど、難しいからと言って、フロイト先生が言ってるからとか大川先生が言ってるからとかいう安易な理由は採用してはいけない。プロならね。
6月15日,大文字ナンさん
ある症状を精神病に入れるかどうかということは、むしろ社会的な約束事に関わることであり、実態を知るという意味での科学的な意義は薄いのではないでしょうか? 患者さんの気が楽になるとか法的責任を問えるかとかいう類の意義に関連することでしょう。以下のサイトの「病名にこだわることよりも、医師に予後や治療計画についてどう考えているかを確認することの方が重要」というのは至言だと思います。名より実をとれと。
http://www.mh-net.com/lecture/disorder/bunrui.html
現時点の精神障害の診断基準としてはWHO作成のICD−10と米国精神医学会作成のDSM−4が標準のようですが、以下にDSMの歴史が少し書いてあります。
http://www.matsuishi-lab.net/dsm3summary.htm
DSM−2以降の診断はまさに形態分類学を彷彿とさせるもので、これは他の慢性病や体調不良といった、はっきりした病因を特定できない症候群の診断基準と同じですね。あくまで全体の症状を正しく見据えて分類し、対症療法を基本とする東洋医学的対処法という印象です。症状しか判断の基になるものがないのだから当然ですが、DSM−1ではきちんと実証されてはいない病因を仮定しての診断基準になっていて科学的とは言えなかったということでしょうね。東洋医学で言えば陰陽五行説を全てに強引に当てはめるみたいな。
西洋医学と東洋医学の違いは別に国や文明の違いじゃなくて、対処する病気の性質の違いだったんだなと思いました。だからこそ慢性病に対しては東洋医学が見直されてきているのでしょう。
諒解レスと重複するものは省きます。
>おずおずさん
>問題点の明確化第2ステップ
「中間状態」というのは、単純に、「AはBと交雑可能:BはCと交雑可能:AはCと交雑不可能」、という状態です。
ですから、異所分化モデルだ考えた場合、分化したどちらかのグループだけが「中間状態ということにはならないと思います。
>命題1:或る生物群Aと別の生物群Bとが別の種である、ということの定義は、A、B>間の交雑は一切不可能であるということである。
>命題2:進化のある段階では、ある種Aの中に、「中間状態」といえる、別の「種」B>と交雑できる個体が、必ず存在しなければいけない。
>この二つの命題の関係って、いわゆる、「矛盾」だと思うのですけど...。
「種」という用語を我流に使ったのが、間違いでした。一応、私の議論の流れでは、「ある種Aの中に、「中間状態」といえる、別の「種」Bと交雑できる個体が存在する」のであれば、そのA,Bは別種とみなさない、ということになります。
>RYU_TI_SYUさん
>チンパンジーとヒトが「交雑可能」だった場合は、チンパンジーとヒトは(ふう殿が仰>る意味での)「同じ種」でした。メデタシ メデタシ
>で、いいのではないのか?
定義上、ヒトとチンパンジーが交雑可能で「種」であるとするなら、当然、「なぜ、ヒトとチンパンジーという二つの「種」が分化したのか」という疑問もありえないわけです。
「種」について我流に使ったのは根本的な間違いでした。この議論をする上で、使うべきでなかったと思います。「種」という用語を使わなくても、議論できたわけですから。
【中間状態】:「AはBと交雑可能:BはCと交雑可能:AはCと交雑不可能」
【交雑(不)可能】:この点、あまりはっきりさせることができなかったのですが、だいたい、「生殖前隔離は成立していても、生殖後隔離は成立していない状態」ぐらいになるでしょうか。
>たまごちゃん(^-^)ノ さん
>>夫婦が不妊だった時、「夫が悪い」のでもなく、「妻が悪い」のでもなく、「二人が出>会ったのが間違いだった」というケースも存在するということでしょうか。
>私は存在すると思っていますし、大抵の人は存在すると思っているのでは?っていう>>か、ふうさんは存在しないと思っていたのね(^^;)
そうですか。なんか、ナチの人種論への反論としての「人類同士ならどこの誰とでも交雑できる」というのが頭に染み付いていまして。
>ZIN さん
扇状で考えていたわけではないのですが、結果的に中間種と同じロジックになってしまったようです。
>地下に眠るMさん
失礼しました。諒解レスに書きましたが、私は、連続的変化ラインの一点を切って、「それがあるか、ないか」式の議論に嵌っていたみたいです。
>大文字ナン さん
確かに、生殖前隔離から、生殖後隔離に至る、長いラインがあるわけですよね。
実際問題として、「中間状態」はありふれている、ということだったようです。
>朱雀さん
(1)かなりいろいろな形で生殖前隔離が生じる。
(2)ある程度生殖前隔離が成立していれば、「別種」とみなされる。そのラインが攪乱されて、「別種」同士で交雑が起きることがある。
(3)従って、「種」に拘わることは、意味がない。
その点、理解しています。「種」という用語を不用意に使ったのが間違いでした。
>Kosuke さん、JA50さん、NORTONV世さん、
私の「種」の用法が我流で不適切でした。
>temaさん
>10^100回くらい実施すれば、人間とゾウリムシとの交雑だって発生するかも知れない、>と思います。
一応、「起こり得そうなこと」の累積で、「起こり得なさそうなこと」が起きることを説明するというのが、ドーキンスの議論だと思います。
確かに、「起こり得そうなこと」と「起こり得なさそうなこと」は確率論的に連続しているのですから、その間に、明確なラインは引けませんが。
こんにちは。皆さん、レスありがとうございます。
いろいろ検討した結果、私が勘違いしていただけだったようです。
ええと、異所分化モデルで考えてみても、まず生殖前隔離(これはかなりの段階を含む)が起こり、やがて、生殖後隔離(これもかなりの段階を含む)へと発展していくわけですよね。
で、異所分化→生殖前隔離のさまざまな段階→生殖後のさまざまな段階→完全な分化
の過程が連続して漸移変化しているのだから、私の議論のように、漸移ラインを任意の点で切って、そのポイントがみつかるかどうか、を問題にするのは、「中間種を示せ」「中間化石を示せ」というのと、結局同じロジックだった、ということのようでした。
次に、私の「中間状態」が、漸移ライン上のさまざまなポイントとしてみつかるかどうかということに関しては、
>「俺とあいつ問題」は発生頻度の問題だにゃ。
>したがって、同種における交配よりも「俺とあいつ問題」の発生頻度が増大した時点>>で、それは「中間状態」にあるとみなすほかにゃーのだよ。したがって、「中間状態」>なんてものはその辺にいくらでもごろごろあるありふれた状態なのだにゃ。
>中間状態は通常別種として分類されている中に非常にたくさん存在していると思われま>す。(何でふうさんは存在しないと思い込んでいたのかが分からない。)しかし、それ>を発見したという報告がなされることはあまりないでしょう。なぜなら、そんなものは>ふうさん以外ほとんど誰も中間状態とは呼ばず、興味も持っていないからです。
冷静に考えると、そういうことになりそうですね。なまけものさんに指摘されてから、そんな気がしてきていたのですが。
最後に私の議論の問題点を簡単にまとめます。
(1)私自身は「中間種」や「中間化石」とは別のロジックを提示したつもりだった。しかしながら、「中間状態」もやや込み入っているものの、基本的には同型のロジックであった。
(2)「中間状態」についてはありふれているが(特に任意のポイントを指定しなければ)、種にせよなんにせよ、普通の分類基準では関係ないので、単にあっても報告されないだけであった。
(3)用語が我流にねじまげてつかったり(「種」とか)、勝手な新造語を使ったり(「中間状態」とか)したので、議論が混乱した。この点、深刻に反省しています。
以上です。
なお、私自身としては議論を通じて、生殖前隔離とかボルバキアとか、随分勉強になったので、得るところ大きかったと思います。
皆様に多大な感謝いたします。ありがとうございました。
「種」に拘わってもいいんじゃないかなぁ、、、
進化論は、その「種」が万古不変のものではなく、千変万化、それも時とともに、というところにあるんじゃないでしょうか。
変化しているとしたら、「種」という括りにはグレーゾーンがいっぱいあって当然だし。
> この二つの命題の関係って、いわゆる、「矛盾」だと思うのですけど
「進化論はそういう矛盾を抱えている(と「ふう」さんは思っている)ので、新しい種が生まれる大進化は起こり得ない。その点に関しては進化論は間違っている」と主張したいのでは?
だから、「種」なんかに拘っちゃ駄目だ、と言っているのに〜。(え?コンコルドがうるさくて聞こえなかった?)
ふうさんからお返事が来ないのであくまでも推測ですが、
命題1:或る生物群Aと別の生物群Bとが別の種である、ということの定義は、A、B間の交雑は一切不可能であるということである。
命題2:進化のある段階では、ある種Aの中に、「中間状態」といえる、別の「種」Bと交雑できる個体が、必ず存在しなければいけない。
この二つの命題の関係って、いわゆる、「矛盾」だと思うのですけど...。生物学的に言ってどうかはともかく。
ここは売り場としてはちょっと人通りが多すぎて、地下猫さんの商品にはふさわしくないと思っています。
モーツァルトのピアノ曲のレコードを雑踏の中で試聴して、ボクの耳に手のひらで作ったメガホンを押し当てて、
「おーい!聞こえとるかぁ!!この楽章のぉ!ピアニシモのぉ!!余韻いんがぁ!まぁるうぅでぇぇ!!!宇宙ぅのぉ!かなぁたぁにぃぃ!!!!消えてぇ、行くぅぅようじゃぁろおおぅ!!!」
と言われてるような気分なのです。
あ、今、上空をコンコルドが低空飛行で飛んでいく...。
ツリー式の方が良いみたい...。
>で、「俺あいつ問題」は発生頻度の問題としか僕には考えられにゃーし、
そう、わしもそうおもっとるんじゃが、ふう殿は「いや、そうじゃない」って言ってるように読めるんじゃ。(読解力不足かもしれんが)
だからこそ、定義を提示してくれとお願いしとるんじゃな。
ふうさん、お久しぶりです。
temaの思い過ごしかもしれませんが、ふうさんは妊娠確率が10^-100であっても交雑可能と定義してないでしょうか(注)? 一方、人間とチンパンジーとでは交雑不可能と書かれています。なぜ、不可能と言えるのでしょうか?
ちなみに、本件を50億カップルで検証した場合、月1回実施しても10^20回あたりで太陽は燃え尽きます。
10^100回くらい実施すれば、人間とゾウリムシとの交雑だって発生するかも知れない、と思います。でも10^100回実施する前に宇宙が終わる方、に一票。
注)
6月14日(月)08時19分32秒たまごちゃん(^-^)ノの記述に対するレス6月14日(月)22時18分42秒 より判断
この流れの彼方で、地下に眠るMさんが喧嘩を売っているらしい...
現実世界はともかく仮想世界では金満家であるtemaは、「どれ、一つ買ってみよう」などと思ったのですが...恥ずかしながら、どこが売り場なのか判りませんでした。
でも、全然客が入ってないみたいなので、ウィンドゥ・ショッピングしてみます。
> ・文化とは、外部環境を内部環境化する試みである
この部分、基本的に同意します。また、文化が妄想であることも同意します。
> 個人は文化に適応し、文化が環境に適応する、という僕の前提を受け入れて
> しかも、文化は妄想に過ぎないというところを受け入れにゃーというお方は
> 即ちファシストということになるわけにゃんな
ただ、こう繋がると、突っ込みドコロはあるかと思います。
ファシストが主張する論旨は「〜べき」で語られるものと思います。「〜である」という主張をするファシストも居ると思いますが、彼・彼女らは「〜べき」から「〜である」を導くことができるので、本来の主張は「〜べき」であると考えます。
「〜べき」で語る以上、ファシストにとって文化が実体を持つか否かは、さほど関係無いと思います。
むしろ、ファシストと関係が深いのは、以下の記述だと思います。
> ・文化とは、外部環境を内部環境化する試みである
これは、人間が「実世界でなく文化に適応している」ということを表したメタファです。文化が「個々の生物のように統一された目的を持っている」ということは表してません。
ファシストの論旨は、統一された目的など持たない(とtemaは思っている)文化を、目的を持っている(または、持つべきだ)、と言ってしまう処に問題があるのだと思います。
>ふう殿の定義で議論を進めればええんじゃなかろうか。
>定義自体に「中間状態」なるものが論理的に有り得ないかもしれんし、
>論理的に有り得るが、条件が厳しすぎて「中間状態」の生物はないのかもしれん・・・
でもさー ふう は「中間状態」の有無がいわゆる「大進化」の有無につながっている、と考え(この考えも検討してもいいけどね)、中間状態はないのだから大進化はない、といいたくて来てるんだろ?
で、中間状態は「俺あいつ問題」だと ふう もいっているようにゃんが。
で、「俺あいつ問題」は発生頻度の問題としか僕には考えられにゃーし、不快なことに邪教たまご教の17歳も僕と同じ結論に達しているし、もちろん他にも同じ結論に達している人も見受けられるようだにゃ。
僕あたりの解釈が間違っていたならきちんと説明して欲しいし、そうでにゃーなら大進化の存在を認めて欲しいものだと思うわけですにゃ。
もしかして、ふうさんは系統樹が枝分かれするのではなく、扇状に広がるような状況を
想定しているのではないでしょうか。
それならば、中間種がいない理由は淘汰されたからです。
「フィンチの嘴」(ハヤカワ文庫)では中間形態が淘汰される様子が書かれています。
この本は この世は仮の世さんにも読んでもらいたいと思います。
進化論が地道な努力の上に成り立っていることが良くわかりますから。
ふうさん、お返事ありがとうございます。
>「YES」です。まさにそれを、「中間状態」と考えています。
でしたら、中間状態は通常別種として分類されている中に非常にたくさん存在していると思われます。(何でふうさんは存在しないと思い込んでいたのかが分からない。)しかし、それを発見したという報告がなされることはあまりないでしょう。なぜなら、そんなものはふうさん以外ほとんど誰も中間状態とは呼ばず、興味も持っていないからです。
ニホンザルと互いに交雑が可能であることが知られているヒヒAに対して、タイワンザルとも交雑可能かもしれないと思って人工授精を1000回やってみたけど、一度も成功しなかった。あなたが研究者だったとして、そんな結果をわざわざ報告しますか?私ならしません。
別種(ふうさんの定義ではなく普通の定義で)とされているものが交雑可能だったら報告されるでしょうが、不可能だったところでわざわざ報告するほどのことではありません。
>人間の間で、「俺とあいつ」問題が生じるとなるとどうなってしますのでしょう?
どうもならない。たまたま不幸なカップルが不妊に悩むかもしれないだけ。夫に問題があろうが、妻に問題があろうが、相性が悪かろうが、不妊は不妊。
>夫婦が不妊だった時、「夫が悪い」のでもなく、「妻が悪い」のでもなく、「二人が出会ったのが間違いだった」というケースも存在するということでしょうか。
私は存在すると思っていますし、大抵の人は存在すると思っているのでは?っていうか、ふうさんは存在しないと思っていたのね(^^;)
女性の側にも男性の側にも特に問題を見出せないのに、何回やっても(と言っても10回以下くらいだろうけど)人工授精がうまくいかないカップルというのは間違いなく存在します。だけど、本当にどうしても無理なのかどうかは無限回人工授精しなくちゃ分からないから調べようがないわよね。
>そういうことであれば、もちろん、「中間状態」云々の私の議論も無意味です。
うにゃ?なんで?ヒトとチンパンジーはともかく、ヒトとイヌはほぼ確実に交雑不可能だよ。
もとよりふうさんの議論はあんまり意味がないと思っているけど(ごめんね)、どうしてヒトとチンパンジーが交雑可能(ふうさんの定義で同種)だったらあなたの議論が無意味になるのか、よく分からない。
ちなみに、私は「ヒトとチンパンジーの雑種は比較的容易に作ることができるが、その雑種が妊性を持つことはないかあっても非常にまれである。」に一票。雑種を作ることができるとする根拠は、この2種がかなり近縁であるから。雑種が妊性を持たないとする根拠は、両種は染色体の数が異なっているので、雑種が減数分裂に失敗する確率が非常に高いと考えるため。
ふう殿の定義で議論を進めればええんじゃなかろうか。
定義自体に「中間状態」なるものが論理的に有り得ないかもしれんし、
論理的に有り得るが、条件が厳しすぎて「中間状態」の生物はないのかもしれん・・・
その場合は、
「確かに、ふう殿の仰る『中間状態』の生物はありませんね。でも、一般的に種とは〜となっていて、中間状態と言わず中間種という定義があって、〜となっていますよ。」
と言えばええんじゃなかろうか。
それを受け入れるか否かは、ふう殿のご自由にされればよかろうて。
それに、そもそも ふう様の言うユニークな種の定義が一般的なものであれば昆虫図鑑なんざ、1/4くらいの厚さになって、北隆館も倒産すると思われ
他の方々が仰られるように用語の定義をきちんとすれば、わしらもふう殿も余計な手間をかけずにすむと言うもんじゃな。
【種】
【交雑(不)可能】
【中間状態】
・
・
・
てな具合に、箇条書きにすれば分かりやすくてええな。
>>ヒトとチンパンジーの間で、こういう例があるかどうか、やってみないと分からない。
>>とにかく、多数の例でやってみないと、ヒトとチンパンジーの間で交雑は不可能だと決
>>めつけられない。
>>私なら、できるという方に1票を入れるな。
>そういうことであれば、もちろん、「中間状態」云々の私の議論も無意味です。
なぜ、無意味なんじゃろうか?
チンパンジーとヒトが「交雑可能」だった場合は、チンパンジーとヒトは(ふう殿が仰る意味での)「同じ種」でした。メデタシ メデタシ
で、いいのではないのか?
今この本を読んでる途中なんだが、聖書のどの記述を根拠に地球は6000年前につくられたと主張しているのかまだわからない。
しかし創造科学という分野は将来性があると思う。科学が進歩すればそれに応じて主張も変わる余地があるからだ。
今日初めてニュートンを買った。竹内均追悼企画をやっていたから
>皆さんは生物学上の議論としてふうさんの話を捉えているようだけど
いや、そんな「誤解」はしてないと思いますよ(笑。
一連の議論は「種分化」という指標への疑義への応答ではあるけれど、もともとの主題であったはずの累積的進化に対する反論への応答ではありませんね。まさに「パズル」というか「論証問題」について応答はあるけれど、進化そのものへの疑義にはなり得てない。好意的に見ると、
「種の分化ってどういう概念ですか?」
「それはですね」
と、やっているのと同じですね。
中間状態とやらについては、ある程度大きな産科・婦人科に行って不妊のカルテを一通り集めてくれば、それが「ヒトの中間状態の実例」と言えるでしょうね。
人工授精による「受胎の可能性」あるいは「発生可能性」などを吟味する、ということは、おしなべて「遺伝子の互換性を吟味する」ことにほかならないと思います。確かに、生殖細胞に互換性がなければ遺伝子の「情報交換・融合・複製」は出来ない。こうなると「完全なる別種」という定義にしたいのだろうけど、実際における「種の概念」は繰り返し述べられているように「恣意的であり、曖昧なもの」に過ぎない。チンパンジーとヒトは、実は高い確率で交雑できるのかも知れない。だとしたら「同種」じゃないか、とも言える。試さないだけのことじゃないかな、それを。
#無論、試した場合「想像に難くないモロモロのいやなこと」が起きるでしょうから。
しかし「試さないだけのこと」こそ、実は「ライン」だったりするのでしょうね。
セントバーナードとチワワの例じゃないけれど、極端に大きな男性器と極端に小さな女性器のペアで言えば、間違いなく「二人」は交配可能だけど、行為そのものはとても苦痛でしょう。生殖細胞同士の相性になんら問題はなくても、実際問題として「やりたくない」と結論されちゃう。実際における自然界においても、こうした生殖隔離はあると思う。「あいつとはやりたくない」と個体群の中で思われれば、それはまさに「淘汰圧」なのだし。
してその、「やりたい⇒やりたくない」というグラデーションを峻別するものとはなにか?生殖器の大きさが問題なのか?性に対する文化的価値観(妄想)の問題だろうか?
ってな具合の議論のほうが「おもしろげ」と思う今日この頃。
#これは生物学の話、だろうか?(笑。
ひとつの大きい沼があるとき、大地震によって、3つに分かれました。
真ん中の沼は背後地に広大な山を抱えていて豊富な地下水が地震前と同じように供給され続けました。
右側の沼は背後地が砂漠だったために、地下水の供給はわずかで、乾期にはほとんど干上がりました。
左側の沼は海との間を遮っていた岩盤にひびが入り、次第に塩水化していきました。
この結果、真ん中の「幸福な沼」の魚は今まで通りの生活を続けましたが、「かわき沼」の魚は両生類への道をたどり、「塩から沼」の魚は海水魚への道をたどりました...。
この場合、「幸福な沼」の魚が、或る世代においては、「中間状態」と言えるかも...♪
(皆さんは生物学上の議論としてふうさんの話を捉えているようだけど、ボクにはどうしても、1種のパズルとしか思えないのです...。)
ふうさんへ
「交雑可能性」についての明確な定義、ありがとうございました。
次に、「中間状態」についての明確な定義をお願いします。
つまり、...
幸福な沼の魚と、両生類としての道を歩む不幸な沼の魚の話を再度モデルにします。
このモデルには、幸福な沼の魚たち、と、不幸な沼の魚たち、という、2種類の生物群しかいません。
各々の沼の魚たちは世代を重ねていきます。
幸福な沼の魚たちは、沼が分かれてからも、同じ遺伝子を持ち続けます。
一方、不幸な沼の魚たちは、世代が変わるにつれ、遺伝子は変わり続けます。
したがって、不幸な沼の魚たちの遺伝子は、第1世代、第2世代...と世代を経るごとに漸進的変化を続けていきます。
さて、この物語において、「中間状態」と言えるのは、不幸な沼の、魚だったときの遺伝子と、両生類になってしまった遺伝子の中間に位置する、中途半端な遺伝子たち、だけなように思えるのですけど、それで良いのでしょうか?
つまり、この物語においては、「幸福でも不幸でもない沼の魚」は出てこないのです。
この場合、幸福な沼の魚と交雑が可能な「中間状態」の生物は、遺伝子がまだ幸福な沼の魚とあまり食い違っていない「世代」の、不幸な魚、しか、あり得ないように思うのですけど、それで良いのでしょうか?
ふうさんの定義を教えてください。
いい加減な定義では議論が不可能なので、仮に条件付けをした上で「中間状態」の存在を理論的に証明してみますにゃ。
・対象は哺乳類。生殖方法は人工授精。個体が出産にいたるまで成長できたら、交雑可能と見做す。
まず、同種であっても人工授精の成功率は100%ではない。だから、同種の個体どうしでも、個体Aは個体Bと繁殖可能だが、個体Cと個体Bは繁殖できないという事態は想定可能。つまり、「中間状態」という概念が「一例でも見られれば」という条件の下になるのなら、この時点で中間状態の存在は証明されたわけだにゃ。
まあ、それではちょい意地悪かもしれにゃーので、「一定以上の確率で人工授精による出産が可能」なのが同種ということにしておくにゃ。
さて、種分化はされているが近縁であると見做されている種(ライオンと豹とか)の人工授精の成功確率はどうか? これは、同種における人工授精の成功確率よりも低くなることが予想されますにゃ(現実にもそうなんだろ?)。
これは、ライオンと豹の間でカップルを多く作った場合、不妊のカップルが確率的に増えることを意味しているにゃんね。「同種」でも発生が不可避な「俺とあいつ問題@人工授精」の起こる確率が増大するわけにゃんな。
さらに、豹と山猫で人工授精を試みたら、その成功確率がライオンと豹のケースの半分ほどに落ちたと仮定するにゃ。すると、この場合も「俺とあいつ問題@人工授精」の起こる確率がさらに増大するわけだにゃ。
そして、豹といろいろな動物のの人工授精の成功率を近縁種からだんだんと調べていけば、どこかでそれがゼロになるだろうにゃ。(ま、その場合でも途中までは発生するとかいうことはあるだろうけどね)
「俺とあいつ問題」は発生頻度の問題だにゃ。
したがって、同種における交配よりも「俺とあいつ問題」の発生頻度が増大した時点で、それは「中間状態」にあるとみなすほかにゃーのだよ。したがって、「中間状態」なんてものはその辺にいくらでもごろごろあるありふれた状態なのだにゃ。
※僕は条件を仮に限定したけど、ほかの条件でもロジックは同じ。
そもそも、チンパンジーに人権がないとしているのがおかしいんだ!
ps
付け加えるべき例は、いくらでも挙げれますよね。
まさに、「中間状態なんていくらでもある」。
>細胞分裂は始まるんだが、途中で成長が止まってしまう場合はどうなるんだろう。
まだ付け加えるべきにゃんな
たとえば
・個体として成長はするが生殖能力を持たない場合
(繁殖能力のない子孫をつくることは「繁殖」とは言い難い)
さらに
・生殖能力はなくもないが、きわめて弱く、その子孫の生存が絶望的な場合
「繁殖」という言葉の定義次第では、このあたりのケースまで含めて「交雑「繁殖」が不可能」といいえるのだにゃ。
おずおず もいってるにゃんが ふう の論法は定義をしっかりとしめさにゃーで、ああいえばこういう を繰り返してるにすぎにゃーのだね。
だから 朱雀 みたいな本格的な反論を黙ってやり過ごすことになるわけだにゃ。
(ついでに、僕も無視されているけどね。中間状態なんていくらでもあるとはっきりいったのにさ、にゃはははは)
>交雑繁殖が「絶対できない」状態
これってどうやって判定するんでしょう?
100回セックスやらせてできない状態?
それとも1000回?
100回では失敗したが、1万回に1回は成功する場合は?
自然状態では交尾さえしないが、人間が強制的にやらせたら交尾して子ができる場合は?
交尾もしないが、人工授精ならできて子ができる場合は?
人工授精でもダメだが、精子の核を卵子に入れることで受精させることが可能な場合は?
細胞分裂は始まるんだが、途中で成長が止まってしまう場合はどうなるんだろう。
妊娠が、中絶してしまうんです。この場合は?
(妊娠中絶って、人工という修飾語がつくやつばかりじゃなく、それよりはるかに多数の神様がやっている妊娠中絶があるんだよねぇ、、、)
生殖隔離って、中間段階がいろいろありそうですね。
人間の間で、「俺とあいつ」問題が生じるとなるとどうなってしますのでしょう?
夫婦が不妊だった時、「夫が悪い」のでもなく、「妻が悪い」のでもなく、「二人が出会ったのが間違いだった」というケースも存在するということでしょうか。
乱交社会ならこういうことは別段、問題にならないのでしょうが。
>おずおずさん
交雑繁殖が「絶対できない」状態で考えています。
>学習能力が皆無な生き物が一匹いるようですね。
成りすましに1000点。
>おっしゃるように、定義をしっかりしないと、いくらでも「中間」が見出せてしまうのは、わかります。
>一応、ヒトとチンパンジーのような交雑可能性を、「できない」段階だと考えています。
「三角形の定義をお願いします。」といわれて、「定義は大事だと思います。で、三角形というのは、例えばこのようなものです。」といって、紙にテキトーな三角形を書かれても、例えばその線は曲線かもしれないし、頂点は微妙に丸まってるかもしれません。
例示、は、定義、ではないです。あなたは、「ヒトとチンパンジーのような交雑可能性」を、どのようなものだと想定しているのですか?1億回エッチすれば何とかなる状態?試していないだけで実は簡単に子供が出来る状態?「絶対出来ない」状態?
>人の精子をサルの卵子に受精させてサルに出産させるのは技術的にも可能だし、倫理上も問題ないと思うが、どうか?
こういう提案する場合、無事出産した時にその存在を人権を持つ人間として扱うのか、
サルとして扱うのかという回答と一緒に提出してほしいな。ついでに簡単でいいからその理由も付けてね。
#現在の法律にとって想定外のことだけど、無理矢理あてはめるとサルかな。
どちらの卵子を使うかと、代理母をどちらにするかの選択で4通りあるけれど、
全部同じ扱いか、それとも別の扱いか。
人間から出生したことを人権の根拠とすると代理母が人間の場合だけ
人間として認めることになる。これは受精卵人権派に噛みつかれそうだ。
>サルと人の受精卵を人に出産させると倫理問題で議論になるのは必至だが、逆はそうはならない。と思うが、これでも倫理問題になるかもしれない。
米国で実験したら、中絶医同様、原理主義者のテロ標的になること必至でしょうね。
クローンとか倫理問題になってるじゃないですか?
サルと人の受精卵を人に出産させると倫理問題で議論になるのは必至だが、逆はそうはならない。と思うが、これでも倫理問題になるかもしれない。
皆さんコンニチハ。
学習能力が皆無な生き物が一匹いるようですね。
>人の精子をサルの卵子に受精させてサルに出産させるのは技術的にも可能だし、倫理上も問題ないと思うが、どうか?
科学では、人の心を扱う「倫理」的な問題は扱わない、と散々指摘されているにもかかわらず、まだこんなことを言う。
いかにこの生き物が、他人の言っていることを理解しようとしていないのか、これで露見したね。
ところで、なぜ倫理的に問題ないと結論付けられたのか、問題あると結論付けられるのか、その理由を聞いてみたね。
皆様、こんにちは。
>NATOMさん
>「石と砂とが連続的だなんて信じられない」と言うから、1.01 mmの砂を例に出したら、>「それは1mm以上だら石じゃないですか。石と砂との中間状態はないんですか?石と砂>との中間状態は予測できるが検出はほとんど無理ということでしょうか」と言われたよ>うな気分です。
私が最初に問題提起した段階で、「交雑できるが、しない」というケースはどうなんだ、というご指摘を皆様から受けています。
で、私としては、生殖前隔離は「交雑できる/できない」の基準に該当しない、という立場でずっと議論してきました。
ヒトとチンパンジーの交雑可能性が、生殖前隔離の程度の問題にすぎない、とも思えませんので。
>たまごちゃん(^-^)ノさん
生殖後隔離についてのご説明ありがとうございます。よく理解できました。
>あいつがチンパンジーと交雑不可能になる頃には、俺もチンパンジーと交雑することが>非常に難しくなっている(1億回の人工授精に1回成功する程度とか)だろうということ>は理解なさっていますか?
いえ、「中間状態」というのも、まさに連続的に、グラデーションとして推移するので、「徐々に」推移していくはずです。「1億回の人工授精に1回成功する程度」の状態もあるでしょうが、(その状態は、グループの分岐の直前ですよね)、そこに至るもっと長い過程があるはずです。
>それよりも、0.8mmや0.5mmの普通は明らかに砂と呼ぶ粒を持って行ってもなお、「これ>は私の定義ではまだ石です」と言われるのが納得いかない。
これについてもずっと議論しているのですが、ヒトとチンパンジーの交雑可能性は生殖前隔離の程度の問題ではない、という立場で私は問題提起しています。
>1 ロバと馬、ライオンとヒョウ、マカカ属のサルとヒヒはいずれも同種である
私の議論の流れでは、「YES」です。「種」という語を便宜上、分類学的な意味と違って使ったのが間違いでした。かなりの方に混乱・誤解を引き起こして、申し訳ありません。
>2 ニホンザル(俺)はあるヒヒの種Aと交雑可能だが、タイワンザル(あいつ)はどう>やっても交雑は不可能であると言うことが示された場合、それは中間状態の例とみなす>ことができる。
「YES」です。まさにそれを、「中間状態」と考えています。
カモメの端と端で、交雑不可能であった、とうような状態に相当します。
>RYU_TI_SYU さん
>ふう殿の仰る「交雑可能」は、定義上「中間状態」なんてないんじゃないかと思う今日>この頃・・・
交雑可能性を、普通の意味で使ったらそうなりますが。
>おずおずさん
おっしゃるように、定義をしっかりしないと、いくらでも「中間」が見出せてしまうのは、わかります。
一応、ヒトとチンパンジーのような交雑可能性を、「できない」段階だと考えています。
「できる」段階を、「交雑して繁殖できる」として、よいと思います。
グループの分岐過程で理論的に想定されるのが「中間状態」なのですから、「交雑して繁殖」できなければ意味がありません。
>JA50 さん
>これって、ヒトという種の中にないですか?
>それも多数。
>a(オス)、b(オス)、C(メス)、D(メス)という組合せで、aとCには子はできず、aとD>ではできた。bとDではできず、bとCではできたっていうのはよくある話じゃないですか。
それが私のいうところの「中間状態」です。
よくある話なんですか。
>現在、別種とされている個体どうしの間でも、子を作るのが難しくなるが、ありえる
「難しい」というのが、別種とされる種の、それぞれ内部での個体間の変異として現れるのであれば、「中間状態」です。
>ヒトとチンパンジーの間で、こういう例があるかどうか、やってみないと分からない。
>とにかく、多数の例でやってみないと、ヒトとチンパンジーの間で交雑は不可能だと決>めつけられない。
>私なら、できるという方に1票を入れるな。
そういうことであれば、もちろん、「中間状態」云々の私の議論も無意味です。
人の精子をサルの卵子に受精させてサルに出産させるのは技術的にも可能だし、倫理上も問題ないと思うが、どうか?
「中間状態」というのが何を、どういう状態を指しているいるのか、いまいちよく分からないんであれなんですが、、、
>何度もしつこく繰り返しますが、「中間状態」とは、「俺(ヒト系統)はチンパンジー系統と交雑可能だが、あいつ(同じくヒト系統)はなぜかチンパンジー系統と交雑不可能だ」というような状態です。
これって、ヒトという種の中にないですか?
それも多数。
a(オス)、b(オス)、C(メス)、D(メス)という組合せで、aとCには子はできず、aとDではできた。bとDではできず、bとCではできたっていうのはよくある話じゃないですか。
なぜかというのもいろいろ考えられる。
例えば、血液型不適合とかメスのパートナーの精子に対する抗体ができているとか。
さらに、できた子にまた子を作る能力があるかないかというのも、またいろいろ。
もちろん、ヒトだけじゃなく、他の種にもこういう「状態」はあるし、現在、別種とされている個体どうしの間でも、子を作るのが難しくなるが、ありえる(既に他のかたで指摘されているけど、ロバと馬とかは有名だし、その他の種間でもある)。
ヒトとチンパンジーの間で、こういう例があるかどうか、やってみないと分からない。
とにかく、多数の例でやってみないと、ヒトとチンパンジーの間で交雑は不可能だと決めつけられない。
私なら、できるという方に1票を入れるな。
朱雀さんの「種は重要ではない 投稿日: 6月16日(水)03時41分57秒」で全て言い尽くされていると思います。
結局のところ、進化の単位は【種】などという恣意的なものではなく(個体ですらなく)遺伝子である、という観点に立たないと物事の本質を見誤るという事では?。
1.「交配できる」と「交配できない」の中間は、「交配が難しい」と考えますか?
2.「交配できる」と「交配できない」の中間はないと考えますか?
2の場合、
「交配できる」とはどの時点までを指すのか、明快に定義して頂けますか?例えば、
精子が卵に侵入した時点。
倍数体が出来て、第1回分裂を行った時点。
生きて出産までこぎ着けた時点。
レオポンのように、とりあえず自分の子を再生産出来た時点。
3代目まで再生産できた時点。
...。
YES/NOで答えてください。NOの場合には理由もお願いします。
1 ロバと馬、ライオンとヒョウ、マカカ属のサルとヒヒはいずれも同種である
2 ニホンザル(俺)はあるヒヒの種Aと交雑可能だが、タイワンザル(あいつ)はどうやっても交雑は不可能であると言うことが示された場合、それは中間状態の例とみなすことができる。
>「石と砂とが連続的だなんて信じられない」と言うから、1.01 mmの砂を例に出したら、「それは1mm以上だら石じゃないですか。石と砂との中間状態はないんですか?石と砂との中間状態は予測できるが検出はほとんど無理ということでしょうか」と言われたような気分です。
それよりも、0.8mmや0.5mmの普通は明らかに砂と呼ぶ粒を持って行ってもなお、「これは私の定義ではまだ石です」と言われるのが納得いかない。
>交配前生殖的隔離」が強化されているかいないかとう差だとすると、違うような気がしますが。同所だと、交配前生殖的隔離が強化されるというのは、なんか、カモメと逆ですね。植物と動物の原理は違うのだろうか。
はるか彼方に追いやられてしまった「はじめまして♪ 投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 6月13日(日)18時30分49秒」の中で、
>たとえそれが弱いものでも生殖後隔離が存在する個体群が同じ場所に存在する場合、かなり速い速度で生殖前隔離が蓄積していく傾向があります(なぜかは自分で考えてみてね)。
と、述べましたが、チガヤの話しはその実例と言えます。
交配後の隔離(子供の体が弱いとか、子供の稔性が低いとか)が存在している場合、グループ外の交配をすることは親個体にとって不利となります。従って、交配後隔離の存在するグループが同所的に存在する場合、グループ外交配を避けるような性質(=交配前隔離)が自然選択によって選択され、かなり速い速度で蓄積します。これは動物でも植物でも観察されています。
自分で考えてって言ったけど、結局答え書いちゃった…(^^;)
>何度もしつこく繰り返しますが、「中間状態」とは、「俺(ヒト系統)はチンパンジー系統と交雑可能だが、あいつ(同じくヒト系統)はなぜかチンパンジー系統と交雑不可能だ」というような状態です。
あいつがチンパンジーと交雑不可能になる頃には、俺もチンパンジーと交雑することが非常に難しくなっている(1億回の人工授精に1回成功する程度とか)だろうということは理解なさっていますか?
>これについては前にもレスしましたが、結局、端と端の種でも、人工的には交雑可能だそうです。このような生殖隔離は、ショウジョウバエの実験でも比較的容易にできる、と同書にありました。
「石と砂とが連続的だなんて信じられない」と言うから、1.01 mmの砂を例に出したら、「それは1mm以上だら石じゃないですか。石と砂との中間状態はないんですか?石と砂との中間状態は予測できるが検出はほとんど無理ということでしょうか」と言われたような気分です。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。