このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
>宗教戦争などイスラム教とキリスト教の価値観の統合が必要だと言ってるんです。
「イスラム教もキリスト教も、ついでに仏教も間違ってる。本当の神様、兼、仏様は、エル・カンターレ様だ!」
っていうのが「統合」なんですか?
...もっと死者が増えそう...。
>あら探しなどしていません。35年間両親と寝食を共にしてきたものの意見です。35年間両親をみてきました。父は人格的におかしいし、母も妻として母としてみた場合合格点にも達していないように思います。
そんな親として失格なご両親に今だ養ってもらいながら…そんな恩知らずな事を平気でおっしゃるですね…親の批判は1人で自立さえ出来ない人がまがりなりにも家族を養ってきてくれた人に言うべきことでは有りません。
第一あなたはご両親から愛されていたと言ったではありませんか、貴方の愛が貴方のおっしゃるように本当の愛ならば、そのようにご両親を批判などしないのではないでしょうか?なぜなら本当の愛は無償の与える愛だから。それなのに恩知らずにうだうだうだうだ私の両親は最低だなどと…その最低な人の加護がなければ貴方はこの社会で生きていくことさえ出来ないのに…とてもあなたが愛を理解しているなんて思えません。まして他人に愛について語る資格はないと感じました。
理系の頭を持ち合わせていないのは私も同じです (^_^;)
思想や宗教の押しつけに対抗するための自由な判断力や客観的な論理を勉強するのでしたら、この掲示板は打ってつけですよ。チョコ2 さんも、遠慮せずに思ったことを何でもどんどん書き込めば良いと思います。
そうして、自分の発言へのここの常連さん達の意見や反論を、誠実に、真剣に受け止めて、それに対して反論するなり反省の意の表明をするなり議論を発展させるなりしていれば、論理力も知識も、どんどん着いていきます。
私の、今程度のささやかな表現力も、この掲示板で培われてきたものです。過去の掲示板を読んでいただければ、昔の私がいかに初歩的なことを書いてたか、でも書いてるうちに少しずつ論理的になっていってること、が見て取れると思います。(進歩していない!という反論が聞こえる...。)
大事なことは、「主張しよう」と思って書き込むのではなく、「吸収しよう」と思って書き込むことだと思います。
議論は、言い負かすことが目的なのではないと思います。自分の知らなかった知識や自分の思いつけなかった論理を相手から教えてもらうことが目的なのです。その意味で、つたない考えを書いても良いのです。その考えを改善してもらうため、批判してもらうために書くのですから。
だから、いっぱい、お話ししましょ♪
私が価値観の押しつけをしてるとあなたは主張しますが、押しつけについての定義がされてません。私の押しつけの定義に従えば私が今やってることは押しつけではありません。なぜなら私がここで何か主張すればそれは批判や議論の材料になるだけです。これでは押しつけにはならないでしょう。
> 子供というのは自分がどれほど親から愛されたかわかるようになるには自分が子供を持たないとわからないと言います。そういう意味では今のわたしは子供などいないので実感として自分がどれほど親から愛されてるかわかりません。
この意見はある意味、真実です。新生児の世話は非常に厄介で、それでもお母さん達は我が子に愛情を注いで育てています。でも、社会に出るだけで、社会の厳しさと、親の有難さは分かると思います。
社会に出て、自ら稼ぎ、生活するという経験があれば子供などいなくとも親の愛を思い知らされることになります。我儘は通じず、仕事は押し付けられ、努力よりも成果が評価されるのが会社です。それに馴染めなければ辞めるより他無く、辞めれば当然、給料は無くなり生活出来なくなります。
勤めをしなくとも食べさしてくれる家庭。これが両親の愛であると悟ることができるでしょう。
>これとは別に質問です。
なぜ、多様な価値観を統合する必要があるのですか?
日本という国は民主主義国家です。民主主義の根幹の原則として、「多種多様な価値観を公共の利益に反しない限り、認める」、つまり思想の自由というのがあると思いますが、これとは真っ向からぶつかる主張に読めます。ご返答頂ければ幸いです。
日本国内での多様な価値観の統合を言ってるのではなく宗教戦争などイスラム教とキリスト教の価値観の統合が必要だと言ってるんです。両者は現在自分のところの価値観の元に行動してぶつかり合って多数の死者が出ています。この二つの宗教はどちらも神からの啓示によって始まった宗教です。どちらも正しいんです。でも統合しないとこれからも多数の死者が出ることが予想されます。私は中東和平の問題が第三次世界大戦の原因になると予想していました。
おっしゃっている事、まったくです。
どうして世の中の宗教を信心している人達はここの所が分からないのかと、常々思っていました。
はじめまして。ご挨拶が後になりまして申し訳ありません。
もうずーーーっと前からROMオンリーだった者です。
理系の頭を持ち合わせていなくて話には参加できずにおりましたが、ここに集っていらっしゃる方々のお話はとても面白くて、いつも楽しく拝見しておりました。
ついに書き込みしてしまいます…。(ドキドキ)
実は私の親類に怪しげな宗教にのめり込んでいる者がおりまして、会う度勧誘されるのが嫌で何度も反論を試みましたが、あの気合の入りようには為す術もありませんでした。
今はなるべく会わないようにするのが精一杯の抵抗です。
おずおず様のように上手に表現出来たら良かったのですけど…。
今度会う機会があったら、おずおず様の言葉を引用させていただこうと思います。
かく言う私、子供の時分は日曜学校に通った経験ありまして、宗教そのものに反感を持っている訳ではありません。人生に彩りを添える文化(?)のひとつと捉えております。
さて長居を致しました。また参加できる時にはお邪魔したいと思います。失礼致します。
To.この世は仮の世様
> 私があまりにも簡単に紹介したようです。一部ですが「自殺志願者の憩いの場」にのせられた投稿を引用します。これはたった今載ってる投稿なので今見に行けば投稿全てをみれます。
私は「心の病気」についての知識はありません。だから、貴方の提示した例について私自身の所感を記すしかありません。私の記す内容については、総合失調症の専門家やカウンセラーからすれば明らかな誤りを含んでいるかも知れません。その上で私の所感を記します。
まず、この方は、自身の状態を正確に親に伝達しているのでしょうか?”具合が悪くて横になるしかなくても〜とても病人とは思えないようです”ということなら、それなりの専門家に相談し、治療することが必要だと思うのですが。
そして、この人は、相変わらずご両親と同居し、食べさせて貰っているのでしょう?本当に親に愛が無ければ、子を追い出せば済むことだからです。
> 私の文章を理解されてないようですね。私は反抗期はとうにおわってます。私が簡単に書きすぎたのかもしれません。酒におぼれているときの父はそれはひどい状態でしたよ。
それでもご両親は貴方の面倒を見ているのでしょう。本来ならば、親には成人となった子供の面倒を見る義務はありません。しかし、それでも10年以上、寝食を共にしているのならば、それは親の愛というものでしょう。
もし、これが他人ならば、とっとと追い出されているでしょうから。
> トトロさんは親の愛を絶対化してらっしゃるようですね。私は親の愛も相対的なものだと思っています。
いいえ、私は全ての事象で絶対ということはありえないと考えています。それでも最も尊いものが「親の愛」であると信じるのは、様々な愛の概念の中で最も一般的で普遍的であると考えているからです。
コンニチハ。
(ぱ)さん、フォロー多謝です。
この世は仮の世さん、僕は思うのだが、「あなたの書いていることは理解できません」とあるが、本当は「理解しようとしていない」だけなのでは?
>究極の真理・神の言葉を伝えるのが私の現在関心あることです。地上の人間では結局多様な価値観を統合できません。
別に僕はあなたの関心ごとに興味なんぞ全くありません。ただ、この板で、進化論が科学かどうかを議論するのが主の板で、あなたの価値観をこのように傲慢な書き方をするから、「てめぇの愛(価値観)を押し付けるんぢゃねぇ」と突っ込みを入れているわけです。
これとは別に質問です。
なぜ、多様な価値観を統合する必要があるのですか?
日本という国は民主主義国家です。民主主義の根幹の原則として、「多種多様な価値観を公共の利益に反しない限り、認める」、つまり思想の自由というのがあると思いますが、これとは真っ向からぶつかる主張に読めます。ご返答頂ければ幸いです。
数ある宗教のなかで、これが絶対の真理だと、いったい誰が判断したんだ?
あなたか?
もしそうなら、あなたの判断は、絶対に正しいのか?
あなたは、絶対正しいという判定を下せるほど賢いのか?
自分の判断は絶対に正しいとか言う、そんな大それた資格があなたにあるのか?
もし、あなたの判断が、間違っている可能性があるのなら、これこれの宗教は絶対の真理だということも、あやふやなことになってしまうよ。
>世の中には様々な意見があるのはつまり世の中には人々の数だけの正しさがあるということだと思います。でもそういう多様な価値観を統合する絶対の真理を教えるのが宗教だと思います。
これこそが「多様な価値観を統合する絶対の真理」だ!と、様々な宗教はみんな主張しています。まさに教祖の数だけの「絶対的な真理」があるということです。大川さんもその中の一人に過ぎません。
>でも宗教戦争など起きているのでそういう宗教を統合する理論を説いているのが大川隆法先生だと思います。なぜなら大川先生が説くエル・カンターレという神は地球の文明を今まで導いてきた存在だからです。キリストが言った天の父とはこのエル・カンターレのことであり、大川先生自身は仏陀の生まれ変わりです。
大川さん以外にたくさんの人が「統合宗教」を説いています。(ラエリアンとか...科学なんだそうですが...)
実にたくさんの人が「自分はキリストの、仏陀の、...の生まれ変わりだ。」と主張しています。実にたくさんの人が「本当の悟り」を開いた、とか、未来や死後の世界を見た、とか主張しています。
さて、そのたくさんの人のうち誰が「本当の教祖」なのでしょう?たまたま自分の好みにあった人?んじゃ、人の好みは千差万別だから、「本当の教祖」は、「本当の真実」と同じく、無数にあることになる...。
...ボクは彼らがみんな、同じような、「人」だと思っています。つまり、
>世の中には人々の数だけの正しさがあるということだと...
という意味での、「人々」...。
「自分だけが正しい!」と思いこんでる、けど実はただの人...この人だけは「絶対的に」間違っている。
>地上の人間では結局多様な価値観を統合できません。
多様な価値観を統合(併合)しようと試みることを、「争い」といいます。「絶対悪」といっても良いでしょう。
多様な価値観を認めあうこと以外にこの世を平和に保つ方法はありません。
この世に絶対的なものは何もないとはよく言われていることです。これは一面の真理だと思います。でも宗教というのはその絶対の真理を教えるものだと思います。なぜなら宗教というのは絶対の存在である神の教えだからです。
>世の中は一つの理想解だけで描けるような単純なものではないはずです。
進化論に対する見解、愛に対する議論、その他を見ても感じているのですが、「世の中には様々な意見がある」という事実をどうお考えですか?
世の中には様々な意見があるのはつまり世の中には人々の数だけの正しさがあるということだと思います。でもそういう多様な価値観を統合する絶対の真理を教えるのが宗教だと思います。でも宗教戦争など起きているのでそういう宗教を統合する理論を説いているのが大川隆法先生だと思います。なぜなら大川先生が説くエル・カンターレという神は地球の文明を今まで導いてきた存在だからです。キリストが言った天の父とはこのエル・カンターレのことであり、大川先生自身は仏陀の生まれ変わりです。
>自分の考え(というか、その自分の現在の考えを導いてくれた『絶対の真理』もしくは『究極のお言葉』)だけが絶対に正しくて、そのほかの考え方は間違っているので、正さなくてはならない、という意見をお持ちではないですか?
究極の真理・神の言葉を伝えるのが私の現在関心あることです。地上の人間では結局多様な価値観を統合できません。
事柄はこの世には無い。
と断言してしまえるような気がしますね。
そんな蜃気楼のようなものにかまけて現実や他者との折り合いを付けようとしない結果として、相手を滅ぼすか自分が滅ぼされるかの二者択一、究極の選択になってしまいかねない。
この世は仮の世さんの意見を読んでいて、ふと抱いた感想ですが、少しばかり人との折り合いをつける余裕というか、度量を身に付けてみては、と思います。
確かに究極の何か、理想の何か、を見出してしまえば、それ以外のことを考えずにすみますから、精神的には楽です。
自分が見出した事柄や自分なりの真理を、他者の考え方や意見を受けいれ、そしてお互いが納得のいくように、もしくは受け入れられるようにお互いがお互いを認め合うのは『愛』ではないんですか?
色んな方々から「親の愛」についてレスを頂いていて、そしてそれに対する答えが「自分が(ろくでもないと信じている)親との関係」や「自殺志願者が体験した酷い経験」に対する見解『だけ』なのは少し、視野が狭いのでは?
少なくともそのような親「だけ」ではありませんし、私自身、親とは大喧嘩をしたこともあります。そもそも、アメリカに来たのも親との折り合いが悪かったのが原因の一つですし。
ですが、私は自分の親を信頼していますし、尊敬しています。
世の中は一つの理想解だけで描けるような単純なものではないはずです。
進化論に対する見解、愛に対する議論、その他を見ても感じているのですが、「世の中には様々な意見がある」という事実をどうお考えですか?
自分の考え(というか、その自分の現在の考えを導いてくれた『絶対の真理』もしくは『究極のお言葉』)だけが絶対に正しくて、そのほかの考え方は間違っているので、正さなくてはならない、という意見をお持ちではないですか?
私は自分が真の愛の持ち主かどうかなんぞには興味がありません。真の愛を実行していると吹聴して自分を尊敬の目で見てもらいたいような露出狂趣味もなければナルシストでもありません。
自分が本当に大切な人に対しては誠実でありたいし、自分が愛している人には全力で、しかし、押し付けにならないように愛したいだけです。
それを他人にどう評価されるかは興味がありませんし、誰か他の人に賞賛されたいから、人の愛し方を研究するようなこともしません。
自分がそんな不完全で未熟な人間だと知っているから、他の人の愛を云々する資格などありませんが、この世は仮の世さんの考え方に違和感を感じたのでレスをしました。
>筆が滑ったんなら訂正・撤回の機会はいくらでもあったはずです。
訂正も撤回もする気はないようですね。
>無償で与えてくれる神の愛に気づかないで本当の愛を理解することはできません。
これは、読みようによっては、一神教を信じる人以外は本当の愛を理解することはできない、と言っているようにもとれて、だとすると幸福の科学信者に比べれば数はだいぶ広がるけれど、それでも私や私の知人の大多数が含まれないことに変わりはないですし。
私としては実のところ、こんな傲慢なのが「本当の愛」なら、そんなもん知らずに生きていきたいものだと思ってますけどね。
私も人の親ではないので言う資格はないのかもしれませんが。
>私は親の愛も相対的なものだと思っています。
ことこの部分に関しては、この世さんに賛成だなあ。
どんなろくでなしだって、やることやりゃ子どもはできるわけだし。
産んでしまった以上、とりあえずメシ食わせて学校にも行かせてやらないと、今の日本じゃ捕まるわけだし。
そこまで言わずとも、「かわいいからかわいがる」のなら、すでに「見返りを求めない愛」じゃないように思います。大学に行かせるのだって、親の見栄とか世間体とか、あるいは老後の面倒を見てもらおうとかの「下心」もあるのかもしれません。そういうのと完全に無縁でいられる親なんて珍しいんじゃないかしら。
私に関して言えば、下心があろうがなかろうが、とりあえず食わせてもらって大学にも行かせてもらったわけですから、両親には感謝しています。私はボンクラ息子なので、いろいろ手間もかかったことでしょう。
# それにしちゃ親孝行してないけどな…
それだけの手間やコストをかけてもらったことを、私は「親の愛」と呼んで差し支えないと思っていますよ。もちろん親だって完璧じゃないから、不満が全くなかったわけじゃないですが。でも私にとっては大事なものであったわけで、それを「本当の愛」ではないなどと否定されたら腹も立ちます。
もちろんこれはあくまで私の話で、「とりあえず育ててはもらったが、親に感謝などこれっぽっちもしていない」という人もいるかもしれません。それは単なるわがままかもしれませんが、そうじゃないかもしれません。
自分でやったことは無いけれど、烏龍茶だろうが、紅茶だろうが、緑茶であろうが、べつに同じ茶葉なので砂糖もミルクも合いそうですね。とくにこの掲示板の常連さんは、口に入るものは何でも食べる好奇心旺盛な人が多いので、文句は出ないと思う。多分(笑)
個人的には良く熟れたトマトは塩で甘みを引き立たせるのが好みですが、若いトマトの皮をむいて砂糖漬けにして良く冷やしたものを、とてもおいしく頂いた記憶があります。何料理か忘れたけど。
>父や母のあら探しをするのは、その後にしたらどうか?
あら探しなどしていません。35年間両親と寝食を共にしてきたものの意見です。35年間両親をみてきました。父は人格的におかしいし、母も妻として母としてみた場合合格点にも達していないように思います。
父は酒に翻弄された人生を送ってきました。酒に酔った父の言葉として今でも覚えているのが「みんなで俺を馬鹿にしやがって」という言葉です。どうやら当時父は仕事がうまくいっていなかったようです。もう一つ言っていたことは「夫を蔑ろにしやがって」という言葉です。これは母に対していった言葉です。
父も母も私の前では短所が前面に出てきます。私の前では短所を隠す必要などないからでしょう。父は家庭だけでなく職場でも問題を起こしているようです。
でも、あなたの意見は厳しいけれど正しいと思います。一番身近にいるものの愛さへ理解できないで神の愛など理解できるはずありません。私としては当面両親に対する考えを変えようと思っています。
あなたの言うとおり私は思い上がっているのかもしれません。一時は幸福の科学の職員としても自分は通用すると考えていました。実際幸福の科学の職員になりたいとさへ思っていました。今もその気持ちはもっています。今はそれが思い上がりであることを痛感しています。
>私からみた父は人格的におかしい人間です。母も理想的な母とはいえません。
人間というものは、どこかにおかしな部分を持っているものです。
また、理想的な母など、この世にはいない。
両親が完璧な存在ではない、理想的な父や母ではないと分かって、独立心を育み、子供は大人になっていく。
父や母をあれこれ言う前に、自分はどうなのか、それを見つめてみたらどうか?
父や母のあら探しをするのは、その後にしたらどうか?
私などからみたら、あなたの両親よりもよほど人格的におかしいであろう大川某なぞに心酔している者の方が、はるかに人格的におかしいけどな。
それと、自分の両親の愛さえ理解できていないものが、神の愛についてあれこれ、よくぞ言えるものだとも思う。
両親というのは、あなたの一番近くにいる存在じゃないか。
その愛さえ理解できず、共感もできないくせに、よくぞ神の愛などということについてあれこれ言えるものだ。それも教祖の言っていることの受け売りだろうが、その教祖の言っていることが正しいと、両親の愛さえ理解できない者に分かるとでも思っているのだろうか?
何という思い上がり、、、
あるのかも。中国には。
さっき「招魂酒」で検索を掛けてみたら中国語のサイトがいくつか引っかかりました。なんて書いてあるのかさぱーり分からないけど。
私は中国に入ったことがありませんが、個人的な好みにより、時々日本茶や烏龍茶にもお砂糖&ミルクを入れます。何か文句でも?
かすりもしなかったかあ・・・。
商魂酒とかも浮かんだんですケド。
どちらかと言うと魂をお招きする方がこの場に相応しいかと(笑)
10年後の私なんてわかりませんね。たまごちゃんさんの言うとおりになってるかもしれないし、死んでるかもしれません。
なんとなくこの世は仮の世さんとは関わる気になれなくて、本の紹介など情報提供はしても、議論や会話はしていません。なんで、こんなに関わる気になれないのかなぁと考えると、「この人、10年後には幸福の科学を信じてなくて、逆に幸福の科学や大川氏のことをボロカスに言っているんじゃないかな」って思いがわたしの中にあるからのようです。
「過去に誰か(何か)を手放しで信じていた人が、その誰かに裏切られてように感じて、その誰かを罵倒している」という状況が、私は非常に苦手です。だから、将来そういうのを演じてくれそうな人は前もって避けてしまうんだろうなぁと思ったしだい。
こんなことは黙っていればよいようなものなのだが、なんとなく言いたくなったので書いてみた。気分を害したならごめんなさい>この世は仮の世さん
それにしても、このサイトに来る「何かを信じている人」に対しては、大抵、「この人は一生このままなんだろうなぁ」と感じるのだが、彼だけは10年後には信じていないような気がしてないのはどうしてなのだろう。不思議だ。
To:Kosuke様、はじめまして、初対面で大変失礼ですが
>招魂酒(字違ってる?)
ぷぷぷっ、マジっすかぁ?ネタっすかぁ?(笑)
もちろん正しくは紹興酒で中国浙江省紹興(魯迅の出身地として有名)のお酒ですが
招魂酒って何だろう?靖国神社で売っている酒とか・・・・・
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3776/yasukuni.html
拝啓
今や国内外の諸状況は風雲急を告げるほどの歴史的大激動に突入してきたようだ。残念ながらその危機感を真底から認識している者は殆ど皆無のようだ。確とした展望もなく具体的解決策もないままに、激しい激流に押し流されているようだ。数千年来の大激動の到来に伴う大改革に際しては、最早、画期的な技術による国家的政策の推進と画期的意識変革を伴う国民総懺悔の天下の大掃除が必至となったようだ。ここに提言するものは、新しい国家社会の建設を目指して、広範多岐に亘る諸問題を総合的且つ多角的に検討し解決策を提示するものだ。霊魂と神仏の正しい概念、真の宗教と信仰の在り方等を提示し、文明史の大転換を図り、日本のみならず、全世界の窮状を救済して行こうとするものである。
併せて、真の仏身顛化の歴史的大偉業の達成を御紹介し、国家危急存亡に際して、国内外の邪悪で猜疑な想念の一掃、廃絶、淘汰を目指して、数千年来の歴史を総決算し、新たなる光輝ある仏土を厳浄し衆生を理益せんとするものである。詳細は某HPを参照下さい。
http://www4.ocn.ne.jp/~mukzke98
私からみた父は人格的におかしい人間です。母も理想的な母とはいえません。
子供というのは自分がどれほど親から愛されたかわかるようになるには自分が子供を持たないとわからないと言います。そういう意味では今のわたしは子供などいないので実感として自分がどれほど親から愛されてるかわかりません。
同様に神の子たる人間も自分がどれほど神から愛されてるかわからないようです。神の愛を理解するためには自分が子供を持たないと実感としてわからないのかもしれません。遠藤周作は「沈黙」という小説を書きました。中身は忘れましたが、大川隆法先生は神は沈黙などしていないと教えています。神の愛は時には優れたインスピレーションとして、時には歴史に名を残した偉人として現れます。私はまだ神の愛を実感する心境にはなっていませんが、そういう心境になりたいと思います。
誰に当てた発言ではありませんが・・・
「喫茶ほっと」について、私は興味深いな、と思いました。私は社会人になって間もないころに、統合失調症(と思われる精神疾患)を患った友人を亡くしていて、当時、彼女が置かれた状況がそれで良かったのかどうか、いまでもよく分からないし、精神病や神経症医療に対する批判的な見方と一種の偏見がぬぐえずにいる面があります。しかし、縁とは不思議なもので、なんだか知りませんが私の周囲には似たような疾病を持つ人物が代わる代わる現れる(笑。そのたび、なんとなく放っておけなくて一緒に病院に通ってみたり、じっくり話をしてみたり、自分なりに専門書を読むとか専門家に質問をするなど交流をしているうちに、医療の現場にいる人たちもまた、制度的な問題や医療で行えることの限界について痛感していることを知り、単に否定する形の批判では語れない問題であることも理解しています。
臨床心理学とか、カウンセリングというものの「まやかしっぽさ」を私はよく知っていますが、同時にこれがとても役に立つことがある面も知っています。時にカウンセラーはただのオカルトさんだったりするし、世に流通しているこの辺を扱った文学(最近だと田口某かな)も、オカルトやトンデモに通じていたりして、カルトに走る人たちも霊媒だかカウンセラーだか分からないような人物に頼る人も、通じているものは同じじゃないか、と思うこと然りです。まぁそれは、極論すると私みたいなのに頼ることさえ、相似というか似てるんでしょうしねぇ。
愛についてだとか、人生についてだとか、「簡単に割り切った答え」を与える(オ)カルトの影響力が私の周囲にも及んでいることについて、だから苦々しく思うのです。JA50さんのご指摘は実に的を得ていると思うのですが、ひたすらに「信じ続ける」ことが薬効を持続させる鍵となる、精神的なプラセボというか、依存性の高い「砂糖水」みたいなものがそこにはあって、刹那的に答を与える「似非救いの手」の存在と、連中の低級な「搾取の構造」については悪寒を禁じえないです。何故って・・・弱っている者を相手に「救い」で釣って利用するから。
さらに言うと、カルトや似非救済者を頼った結果、それが「信じられなくなったとき」に起きる反動の恐ろしさもまた、言及に値すると思います。一度「まがいもの」に染まってそこに依存してしまうと、もう抜け出せない。ある程度の論理力を持つ人たちが実際には集まっているんだから、誤謬に気付いていないわけがない、と私は思う。実際、だからこそカルトからうまく抜けた人たちに対する「現役信者」の異様なまでの攻撃性は、自己のアイデンティティを守るために必要なんだろうな、と思います。
なんにせよ「喫茶ほっと」については応援したいが、カルトに染まったところで人生が好転するとは思えない。しかし本人は好転したのだ、と実感しているのでしょうし、実際そういう面もあるのでしょう。この辺のディスコミュニケーションについて、私は雑感を書いてみたのだ・・・。
私があまりにも簡単に紹介したようです。一部ですが「自殺志願者の憩いの場」にのせられた投稿を引用します。これはたった今載ってる投稿なので今見に行けば投稿全てをみれます。
>私と両親の関係は最悪です。
心の病気に理解がありません。具合が悪くて横になるしかなくても、ぐうたらして・・・なにせ外見が健常者に見えてしまうので、とても病人とは思えないようです。
父は私とは一切口は聞きません。
「一度巣立った鳥は巣には戻らないんだ、死ぬんだ」といいます。
母も「産むんじゃなかった」「大学までしてこのざまなの?」
「その学費があれば今の老後は楽だったのに」
けれど、居候の身、聞き流すようにしてましたが、とうとう切れて
「何でそんなに冷たくするの?いい加減にして!」怒鳴りました。
すると、父が「お前は邪魔なんだよ!!!」と言って私の顔を殴り続けました・・・私はやり返したかった、ですがやらずに、
「やるならやれよ!殺したけれりゃ殺せよ!刺したきゃさせ!首絞めたかったら絞めろ、殺人者になりたくなければ自分で死ぬ」 と言いました・・・・・・
もう家族も、大家になり、こうやってパソに向かえるときは発言できますがそれ以外はほとんど人との接点がなくなりました・・・
トトロさんのレス
>世間一般には反抗期と呼ばれるものですが、貴方は30を過ぎて未だにそれを引きずっているのですか?
私の文章を理解されてないようですね。私は反抗期はとうにおわってます。私が簡単に書きすぎたのかもしれません。酒におぼれているときの父はそれはひどい状態でしたよ。
トトロさんは親の愛を絶対化してらっしゃるようですね。私は親の愛も相対的なものだと思っています。
> でもその本能の愛も簡単なきっかけで壊れます。子供が大きくなって病気にかかった。もう働ける年齢なのに家でごろごろしている。親としては「病気が治ったら働け」と言います。この事例は「自殺志願者の憩いの場」というサイトに出たものです。親としては自分でできるぎりぎりの発言ですが、もう子供を愛しているとはいえない段階です。
こればかりは、人様々なので、比較的一般的な捉え方しかできませんが、上記の文章を読む限り、”子供を愛しているとはいえない段階”とは思えません。むしろ、親としては子供の身を案じながらも、自立させようとしています。
言うまでも無く、親は子よりも先に死にます。その時までに、可能な限り自立を促し、親の援助が無くとも一人で生きていけるようにというのが親の望みのはずです。そして、私はそれが親の持つ究極の愛ではないかと思います。
もし、親が子供の面倒を最後まで見ることが出来るなら、子供に対してそれほど自立を求めないでしょう。
> 私自身の事例もあります。父は仕事はまじめにやってましたが、酒が好きでよく酒を飲んでました。泥酔して母に暴力をふるったこともあります。母は一度は離婚を考えました。私も父みたいな大人にはなりたくないと思っていました。この家族に愛はありません。
世間一般には反抗期と呼ばれるものですが、貴方は30を過ぎて未だにそれを引きずっているのですか?
家庭に愛があろうと、無かろうと、その家庭は貴方を30半ばまで育ててくれたのでしょう。その実績を見る限り貴方の家庭に愛が無かったとは私には思えません。
> このように本能の愛というのを通して人間は見返りを求めない無償の愛を学ぶのですが、本能の愛というのはちょっとしたきっかけで簡単に壊れるのです。本当の愛とはいえません。世界中の皆さんが考えられる愛はこの本能の愛だと思います。
私は、この世で最も尊いものは親の愛であると「信じて」います。そしてその愛は普遍的です。貴方もこの点を理解するから、”世界中の皆さんが考えられる愛はこの本能の愛だと思います”と書くのでしょう。
貴方の人生に何があったのか、そして今どのような状況であるのか私には判りません。けれど、貴方が挙げた例を見る限り、「いい歳こいて、何を寝ぼけてやがる。」という罵倒の言葉しか浮かんで来ません。
> 大川隆法先生はこの本当の愛について教えています。
大川某の虚言、妄言に付き合うよりも、貴方にはもっと感謝すべき手を差し伸べてくれる人がいるのではないですか?反発する前に良く考えてください。
> 本当の愛とは自分が神から無償で与えられていると気づくことから生まれます。無償で与えてくれる神の愛に気づかないで本当の愛を理解することはできません。
その通りです。でも、それは大川某ではなくて、最初に、そして今でも、それを与えてくれたのは第一に貴方のご両親でしょう。
宗教、特にカルト教団は、人生の問題に対し「簡単に割り切った答え」を与えてくれる。
愛とは何か、どうすればその意味を分かることができるのか、そんなの理解することができるのか。
難解な問題です。
それなのに「本当の」という修飾語さえつけて、誰それは理解していないと断言してしまえる。
なんという安直さだろう。
まさに、カルト教団が与えてくれる「簡単に割り切った答え」の一つでしょうね。
とにかく、教祖の言っているを信じさえすれば、人生の意味を与えてくれるし、死という究極の恐怖にさえ天国という処方箋を示してくれる。
ただし、それが有効であるためには、教祖の言っていることを、ただ、ただ信じないといけない。そこに疑問を差し挟めば、その効果は減弱したりなくなってしまったりする。
教祖が分裂病型というのも、感応される理由の一つだろうけど、カルト教団とは接触を絶った方がいいと思うなぁ。
宗教を選ぶにしても、もっと枯れた宗教を選んだらいいのに、その方が精神障害にとってもいいことだろうに、、、
と言っても、無駄でしょうが、、、
どういう宗教を選ぼうが当人が選ぶことで、無関係な他人が強制できることじゃない。
それもあなたの人生だ。
>世にいる非幸福の科学の会員が本当の愛を理解しているとは思えません。
comさんのこだわってるのがこの私の発言だとしたら、私の説明不足としか言いようがありません。
私のこの発言で不快に思われた方もいただろうと思います。人間というのは見返りを求めない無償の愛を本能的に理解できるからです。たとえば母親が子供にミルクをやるのは見返りを求めてやってるのではありません。子供がかわいいから愛しいからです。
でもその本能の愛も簡単なきっかけで壊れます。子供が大きくなって病気にかかった。もう働ける年齢なのに家でごろごろしている。親としては「病気が治ったら働け」と言います。この事例は「自殺志願者の憩いの場」というサイトに出たものです。親としては自分でできるぎりぎりの発言ですが、もう子供を愛しているとはいえない段階です。
私自身の事例もあります。父は仕事はまじめにやってましたが、酒が好きでよく酒を飲んでました。泥酔して母に暴力をふるったこともあります。母は一度は離婚を考えました。私も父みたいな大人にはなりたくないと思っていました。この家族に愛はありません。
このように本能の愛というのを通して人間は見返りを求めない無償の愛を学ぶのですが、本能の愛というのはちょっとしたきっかけで簡単に壊れるのです。本当の愛とはいえません。世界中の皆さんが考えられる愛はこの本能の愛だと思います。大川隆法先生はこの本当の愛について教えています。本当の愛とは自分が神から無償で与えられていると気づくことから生まれます。無償で与えてくれる神の愛に気づかないで本当の愛を理解することはできません。これが私の上記発言の趣旨です。
>これは言い杉。
ありゃ、すみません。
一応釈明しておきますと、私は別にこの世は〜さんが本当にご両親から愛されなかったと言いたかったわけではなくて、NATROMさんも引用されたとおり、
>世にいる非幸福の科学の会員が本当の愛を理解しているとは思えません。
この発言を文字通り解釈すると、(ツリー掲示板の発言を見る限りこの世は〜さんのご両親は幸福の科学会員じゃないようだから)この世は〜さんのご両親も「本当の愛」を知らなかったということになり、よってこの世は〜さん自身も、本当の愛を与えられずに育ったということになるけど、それでいいの? と書きたかったわけです。
この世は〜さんが、「おまえは何を根拠にそんなことを言うのか。それは私のみならず両親に対する侮辱である」とか食いついてきたら、「侮辱したのは私ではなくあなた自身である」と返そうと思ったんですが。
私は、この世〜さんの件の発言は、幸福の科学非信者全てに対する侮辱であると思います。でもまあ、暴言に暴言で返すというのもあんまり品のいい行為ではありませんね。失礼しました。
ゆんさん:
>いくらなんでもそんな尊大な発言をこの世は仮の世さんがなさり
>たかったとも思えないので、筆が滑ってしまっただけなんでしょうけど。
筆が滑ったんなら訂正・撤回の機会はいくらでもあったはずです。何せこの発言には、すぐに反論がいっぱいついたはずですから。
comさんがこだわっておられるのもそこだと私は思っています。「(おまえの定義する)愛(の概念)を押し付けるな!」という意味で。(違ってましたらご指摘ください)
>世にいる非幸福の科学の会員が本当の愛を理解しているとは思えません。
字面どおりに受け取ると
「世界人類の大多数は本当の愛を理解しているとは思えない」と
いう意味になるんですね。
いくらなんでもそんな尊大な発言をこの世は仮の世さんがなさり
たかったとも思えないので、筆が滑ってしまっただけなんでしょう
けど。
(ぱ)さん、
>あなたは、両親からさえ、本当の愛を与えられなかった。断言してもよいです。
>だから性格がこんなにねじけたんでしょう。きっと。
これは言い杉。
この世は仮の世さんの「愛について」の発言は、別にそれほど異論があるわけではありませんが、以前、
>世にいる非幸福の科学の会員が本当の愛を理解しているとは思えません。
とも、おっしゃっておられますよね。で、ご両親や友人たちはみな、幸福の科学の会員なんですか?見返りを求めずに与える愛を実践することは確かに困難でしょう。でもね、幸福の科学の会員でないと本当の愛を理解できないってこたないでしょう。
進化論とも無関係だと思います。ご両親や友人たちはみな、進化論を否定しているんですか?進化論を否定しなくても、見返りを求めずに与える愛を実践することは可能です。進化論を否定したって、本当の愛を理解できるとは限りませんし。
http://plaza26.mbn.or.jp/~hotto/
これは喫茶ほっとという精神障害者授産施設の運営しているサイトです。
私はこのほっとにメンバーとして通っています。職員ではありません。社会復帰のトレーニングをやっています。日給1000円です。授産施設としては高い方です。
授産施設ではありますが、普通の喫茶店と変わらないくらいメニューが充実しています。カレー、ピラフ、スパゲティ、各種コーヒー、紅茶、ココアをみんなでつくっています。
福岡在住の方はお客さんとしてきてください。普通のレストランででるものよりおいしいですから・・・
緑茶や中国茶の類に砂糖を入れるというのは、中国や台湾・香港あたりではポピュラーなのでは。
日本人が現地のコンビニで烏龍茶とか買うときも、「無糖」と明記されているものを選ばないと驚くものですし。
まぁ、タピオカの入った、ジャスミンティーのミルクティなんてものもあるわけですから、砂糖ぐらい……ってことで(ぉ
トマトに何をかけるかは、日経WEBの日曜版で連載されている新日本奇行かなにかで、地域ごとの傾向をアンケート調査していたような。
comさんが私に何を聞きたいのか見当もつきません。愛について何を私から聞きたいんですか?
それから私は「誰からも愛されなかった。本当の愛など知らない」といった人がいますが・・・私は小学生の頃からクラスにとけ込めず、そういうことで悩んでいました。小学生の私と今のわたしを比べるとまるで別人です。
クラスメートたちの何気ない一言が私には何よりもうれしかったです。私が心を開いてクラスにとけ込むように努力したとき周りの人は温かく迎えてくれました。そういう経験があって私は周りの人にいつも感謝しています。感謝を形にしようと考えて生きてきました。今も何気ない良好な人間関係のなかで生きていられると言うことがどれほど有り難いことか痛感しています。そういうわけで私は愛されて生きてきました。
両親からも愛されて生きてきました。父は職場の宴会など泥酔して帰ってくるととても怖い存在でした。また休日も酒を飲みながらテレビをみたりして暮らしていました。酒におぼれて仕事を辞めるほど無責任な人ではありませんでした。教育熱心で小学生の頃はかけ算の九九をよく暗唱させられました。
そして私が人生に行き詰まって先に進めずにいたときにもう大学に入る年齢ではないのに大学進学を勧めてくれました。そして遠回りながら大学進学しました。そして統合失調症にかかって仕事のない現在も私に対し理解を示してくれています。私は両親からも愛されています。
「本当の愛」とは私は無償の愛だと思います。これは見返りを求めずに与える愛です。自分の子供に対し、恋人に対し、伴侶に対しこういう愛を実践することのできる人はいても赤の他人にこれのできる人は少ないと思います。親子、兄弟、夫婦、恋人でもこれを実践できる人はいないかもしれません。見返りを求めずに与えるというのはなかなかできることではないと思います。人間、自分の行っている愛についてどこか心の奥で見返りを求めます。私もこの無償の愛を経験しました。両親や友人たちの愛は無償の愛だと思います。
大川隆法先生は「愛とは与えること」と教えています。与えることが愛なら愛されることは与えられることと言うことになります。私は多くのものを与えられてきました。友人の優しい言葉、教育、良好な人間関係などなど・・・与えられていることに気づくことが感謝につながり、感謝を胸に秘めた与える愛の人生を生きようと言う原動力になると思います。
レストランで出たらちょっと引くけど…
子供のころ、うちの田舎ではトマトに砂糖はデフォルトでした。
あと、緑茶に砂糖ってのはやったことないけど、抹茶系の甘いドリンクもありますし、
麦茶なら砂糖入りってのもありだと思うので、「想像と違う」というショックを
乗り越えれば結構いけるのではないかなあ。
老酒系統にはザラメをどさっと入れて飲むのは普通かと思ってました。
#予言Part-2:過去ログに入ったときのタイトルに「甘茶・甘酒」と付くであろう。
恐ろしく甘ったるい代物です。
こってりとした劇甘ミルクに独特のスパイスを加えたコーヒーは、流石に強烈な甘さと南国の風味満点♪
思わず癖になるような味です。
で、たぶんこの6月末から僅か数日間の予定ですが、北京に行って来る予定。
彼女の両親とご対面だ・・・
何故に美味しいものを食べる“だけ”のはずだった旅行がこうなるのだろう???
To:大文字ナン様
>街のあちこちにカフェテラス風の店は並んでるんですけど、なかなかコーヒーがない。やっとコ ーヒーを見つけたら、なぜかレモンが浮いていて最初からたっぷりガムシロップが入ってて挙句 にぬるいとか
タイ.マレーシア.香港では最初からガムシロップたっぷりの上に、コンデンスミルクまでたっぷりと・・・
幼稚園時代風呂屋で飲んだコーヒー牛乳をさらに甘くしたようなシロモノが頂けます(笑)
それにしてもマオタイ酒の砂糖飽和溶液とは・・・、
小生も酒好きで甘いものもOKですがさすがに想像しただけで胃液が上昇してくる
おずおずさんご紹介の話はエディアカラの話かと思っていたのですが、それ以前の話だとyahooの方で紹介されています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040604-00000001-jij-int
「こうした多細胞生物としては、オーストラリアで発見された「エディアカラ生物群」の化石(約5億4300万年前)より古く、最古だという」
多細胞という新たな環境を求め何回もトライしたやつがいろいろいたということでしょうか。
NORTONV世さん、おそらく直接レス差し上げるのははじめてですね。
今週の月曜〜金曜朝まで中国にいたのですが、黒龍江省内を回って、というかハルビン〜牡丹江を行き来して日程を消化しました。初日にハルビンで行動したときから「中国の緑茶は、とりあえづ甘い!」とは思っていたんですけど、木曜に、再びハルビンのロシア教会前広場の出店で、懐かしい日本の「生茶」を発見したので買ってみた次第です。
#ちなみに「午後の紅茶」もあったけどこれは日本でも普通に甘いので気にならなかった。
私は中国本土に行くのは初めてでしたし、それも北部の黒龍江省なので色々と事情は違うのかも知れませんが、食事はおいしい(ってかマジうまい)ものの、時折「うへぇ〜」と声を漏らしたくなる出来事も多々ありました(笑。たとえば牡丹江市内の「どうやら有名らしい餃子レストラン」では、トマトの盛りがあったので皿にとってみると、かかっていた白い粉は塩ではなく砂糖でした。それと、地元の人たちと夕食をとっていると、52度はあるという「中国酒」に、なぜか砂糖を「飽和水溶液になるまで」注ぎ込んだうえで一気飲み・・・コレにはついていけません、さすがに・・・
街のあちこちにカフェテラス風の店は並んでるんですけど、なかなかコーヒーがない。やっとコーヒーを見つけたら、なぜかレモンが浮いていて最初からたっぷりガムシロップが入ってて挙句にぬるいとか(笑。でもバーに行った時は、私が日本で出しているような(バーテンダー兼デザイナー兼モノ書きというワケの分からん職種なもので)普通のカクテルが飲めて安心しました・・・あぁ、でもBOLSのクレーム・ド・カカオの瓶になぜか(同じくBOLSだと思うけど)ホワイト・キュラソーが入ってて「入れ替えてんのかよ!?」とか言いたくなったけど。
買い物しようと街に出ると、延々と続く地下街がほぼ全部服屋でびっくり。ビルによってはフロアが全部靴屋とか。それで予想はしてたんだけど、いくらなんでもそりゃないだろ!ってなくらい「高級ブランド品らしきもの」が縁日の出店風の軒先にぶら下がってました。シャネルにディオールにジバンシィ、エルメス、男モノだとヒューゴ・ボスとかベルサーチが「ゴッチャゴチャ」に並んでる風景はかなり異様(笑。まぁそんなこと、かの国ではどぉでもいいんでしょうねぇ。ていうか、異様だけど楽しいことは楽しい。
そんな私を歓待してくれた「地元の偉い人らしいオヂサンの嫁はん」は、かたことの日本語で「どうぞ、食べろ」と繰り返し、英語も通じないけど気さくな友人たちを相手に、私はなぜか「ガイジン日本語」でこたえてしまうのでしたとさ。
創造論者達の進化論への反論として、
カンブリア紀に爆発的に多様な生物が発生したのは斬新的な進化では説明できない、
というのがありますが、今日のBBCニュースで
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/3776853.stm
カンブリア紀の少なくとも5千万年前に複雑な形の生物がいた証拠となる化石が見つかったそうです。
つまり、カンブリアン爆発はやっぱり、単に化石がまだほとんど見つかっていない(観察例が少ない)だけの、見かけの現象に過ぎない...。
おずおず様
>ちなみにあなたの言うとおり、ボクは(comさんと違って)、あなたの発言に(押しつけにせよ)愛を感じません。このところ...。
僕だって愛なんぞは感じていません。絶対に。
この世は仮の世様。
PEPEさんが6月1日に「自分の信念を他人に押し付けるな」と指摘しています。また、同様の指摘をおずおずさんがしています。
この事実を元に、以下の書き込みをしました。
>一連の書き込みから察するに、あなたの書き込みは多くの方々から、あなた自身の「愛」を押し付けられている、と解釈されているのでは?
そう曲解されるのはROMの方の責任ではなく、書き込みをした方の責任ですよ。
けれど、またがっかりです。せっかく食いついてきたと思ったら、「愛」という言葉尻だけで、「あなたの書き方がまずいから誤解されてるんだ」というところにはいつまで経っても到達できないようですね。
そうやって話を逸らさないでください。
くだらない宗教観を書きたいなら別の板へ行けばいいんぢゃない?
出張とかいろいろあって、すっかり遅いレスになりましたが。
>私は今まで私によくしてくれた人たちに感謝しています。感謝をどう形にしようかと
>いつも思っています。これが愛というものでしょう?私は愛されてきましたよ。
嘘はいけませんね。
あなたは愛されてきてなどいません。少なくともそれは「本当の愛」ではない。
あなたは、両親からさえ、本当の愛を与えられなかった。断言してもよいです。
だから性格がこんなにねじけたんでしょう。きっと。
TO:ヘルメス☆様
ヘルメス☆様がこの世は仮の世様に対して為された幾つかのアドヴァイスですが、この世は仮の世様は知らず、小生には尽く、心臓にぐさっ!ぐさぐさっ!と突き刺さりました。(ネット初心者であり皆様のやり方を真似ていたつもりなんですが・・・)
以後、よく気をつけますので(でもきっと冗長な文章は直らない)今後もアドヴァイスをお願いいたします
To:大文字ナン様
はじめまして。げっハルピンでもですか。
実は小生は昆虫観察や採集が道楽で毎年1回か2回、タイ、マレーシア、香港などに出かけるのですが今年のGWにやはりチェンマイのセブンイレブンで砂糖入りのPET入り緑茶にお目にかかりました。
一口飲んで目が点になり、こんなアホなもの作りやがったのはタイのメーカーだろうと思って(またラベルの緑茶という字がいかにも怪しげだったんですわ)ラベルの横を見たら「AJINOMOTO-CALPIS」。
友人と「多分タイ人の好みをマーケットリサーチして開発したんだろうなあ」と話しておりました。
大体、東南アジアの人は甘いものが好きで屋台の食卓にも必ずグラニュー糖のガラス瓶がおいてありますし、ファンタ/スプライトなど世界同一名で売っている清涼飲料水でも甘めです。だけど北のハルピンでも・・・・・
去年のマレーシアではPET入り”緑茶”自体見ませんでしたし、同時期にタイに行った友人に聞いてもそうですので、大文字ナン様の話も総合すると、どうやら今年から日本の各社がアジアで売り出したもののようですね。ただ、追従しだしたタイのメーカーもあるようでTVコマーシャルではすんごーくアヤシゲな羽織袴のおっさんが、へたくそな字で
「緑茶」と揮毫しておりました
この世は仮の世さんは、私たちが何度も「結構です」といってるにもかかわらず、大川先生の教えを押しつけることによって私たちが天国に入れるようにしてくれてる(つもり、な)のでしょう?
そのあなたの情熱が「愛を押しつけてる」んじゃないのなら、単に自分が正しい(つまり異宗徒達はみんな間違っている)と言いたいだけなのですか?
ちなみにあなたの言うとおり、ボクは(comさんと違って)、あなたの発言に(押しつけにせよ)愛を感じません。このところ...。
comさんが愛について私にコメントを求めてるそうで・・・まさかcomさんがそんなコメントを私に期待してるとは思いませんでした。私が愛を押しつけてると思ってるのはあなた一人ではないかと思います。私のコメントはこれだけです。
さっきハルピンから帰ってきて、日本の味「缶コーヒー」を飲んでます(笑。
キリンの「生茶」が甘かったのにはびっくりしました〜。
To この世は仮の世さん
>私としては短くてもつまんない投稿より中身のある長い投稿の方が好感が持てる
議論の要点が的確にまとめられていれば、短くてもつまらなくなったりしないと思いますが?
スルーしますか。この世は仮の世さん。「愛」についてのコメントを期待していたのですが、他方に食いついてきましたか。
>comさまへ
あなたのアドバイスはちょっと難しいですね。かみ砕いて説明してくれませんか?そもそも「全員の問いに返答するのが礼儀だ」というのはあなたの考えにすぎないのであって、実は私はそうは考えていません。言いたいことを言えばそれで満足です。
しかしながら、あなたという人が良く判ったので、ある意味収穫があったとも言えましょう。あなたは最初からこの掲示板で議論などするつもなく、身勝手に自分の都合の良いことばかり書く人だということが判りましたから。
一般的に認知されている「議論」の意味をご再考されてはいかが?
最近、何回か続けてここのチラシがポストに入っていたの。
ちょっと面白いからご紹介。
http://www.nikonikogenki.com/onlineshop/k-10b.htm
手元のチラシより
>私たちは酵素がなければ話すことも呼吸することも腕を動かすことすら出来ません。
そりゃそうだけどさぁ(笑)
この世は仮の世さんこんにちは
>アインシュタインなら相対論を小学4年生にもわかるように説明できると思います。
私の記憶が正しければ、アインシュタインは「相対性理論を小学4年生(数学や物理の知識のない人)でも分かるように説明することは無理だ」ということを「生まれつきの視覚障害者に白いという色を理解させるのは無理だ」というたとえを使うことによって小学4年生でも分かるように説明したそうです。
(出所は、私が子供の頃に受けた模擬試験の国語の問題文)
と、いうわけで、アインシュタインには相対性理論を小学4年生にも分かるように説明することは出来ないのではなかろうか?
RYU_TI_SYUさんへ
ROM者さんは別にこの世は仮の世さんに「短く要点を衝いた中身のある投稿」をしろと言っている訳ではないから、ハードル高くない。
この世は仮の世さん
確かにWebブラウザーで見る文章は以外に読みづらかったりします。
本や新聞などの印刷物とちがって、モニターはそれ自体が発光して情報を表示しているので、目に対する負担が大きいのと、解像度の違い(印刷物は数千dpi相当、でもPCのモニターはせいぜい96dpiとか72dpiくらい:dpi=ドット・パー・インチ、1インチ当たり、どれだけのドットを表示できるか、という解像度の単位)が相当、読みやすさを左右します。
ですので、出来る限り行間や段落明けを取るようにすることで、低い解像度の文字(=ぶつぶつしているスムーズではない文字)がすっきりと読みやすくなります。
特にWebブラウザーの表示はワープロでの表示とも違って、更に長文を読むのに適していないフォントを使っています。行間が詰まっている、解像度の低いフォントの条件は長文を書くのにはあまり適していないので、段落ごとに行を一行あけることで読みやすさを提供することが出来ます。
これはWebデザインの基本で習ったことですので、結構参考になろうかと思います。
ヘルメス☆様私としては気を付けてるつもりなんですが、あなたからすればまだ読みにくいと言うことなんでしょうね。これでも段落分けとかは気を付けてるつもりなんですよ。
comさまへ
あなたのアドバイスはちょっと難しいですね。かみ砕いて説明してくれませんか?そもそも「全員の問いに返答するのが礼儀だ」というのはあなたの考えにすぎないのであって、実は私はそうは考えていません。言いたいことを言えばそれで満足です。
なっているcomです。
さて、この世は仮の世さん、小官・・・ぢゃなくて、僕が先月「あなたの愛を押し付けるな!多様な愛の形を認めろ!」と書き込んだ時、あなたは「そんなことは一言も言ってないし、否定するつもりもない。」と書き込んだのを覚えていらっしゃいますか?
一連の書き込みから察するに、あなたの書き込みは多くの方々から、あなた自身の「愛」を押し付けられている、と解釈されているのでは?
そう曲解されるのはROMの方の責任ではなく、書き込みをした方の責任ですよ。
皆さんの質問に対症療法的に、なし崩しに返答するのではなく、一度ご自分の言いたいことを全部書いてから、ご返答してください。
僕が以前「全員の問いに返答するのが礼儀だ」と書いたのは、そういうつもりだったんだけどね。
この世は仮の世さんへ。
一つの段落は4〜5行として、一行あけてから次の段落を書く、という程度の心配りです。
起承転結をきっちりと書いて欲しい、ということではありませんが、論点を可能な限り簡潔に纏める、他の人や過去の引用文の直後に続けて書くのではなく、一行空行を空けてから自分の記述を書く、などの「人が読みやすい文章かどうか」を考えるのは結局のところ、自分の意見を本当に理解してもらえるのか、という点を自分が考えて書いているかどうか、という印象に関わってきます。
人に理解してもらおう、というのであれば、まず人に読んでもらえる文章にすることです。
いきなり高度に纏められた文章を書くのは難しいので、まずは4〜5行を目処にして自動的に改行して一行空行を入れてみてください。
あと、人の文章の引用や過去の文章の引用を行うときに、やはり段落分けしてから一行空行を前後に入れる。これだけで相当読みやすさが変わってきますので気をつけてみてはいかがでしょうか?
>To この世は仮の世さん
>なぜそこで「短く要点を衝いた中身のある投稿」が出てこないのでしょう?
そりゃ、ハードル高杉。
小学4年生でもわかるようにかみ砕いていえるほど勉強した訳じゃないからじゃないでしょうか?大川隆法先生は自分の教えを小学4年生にもわかるように書いてるそうです。それで先生の本はさらっと読めるんです。アインシュタインなら相対論を小学4年生にもわかるように説明できると思います。でも短い投稿ってそれに応じて中身もないから読む気にならないんだけど・・・
To この世は仮の世さん
なぜそこで「短く要点を衝いた中身のある投稿」が出てこないのでしょう?
ご存知でしょうが、文章を書く場合、相手に意図が伝わりやすいよう平易に、できるだけ
簡潔に描写するのが基本だと私は思います。特に何かを主張する場合は。
それを守って、その上で長文になるのを見て嫌う人などまず居ないでしょう。
私としては短くてもつまんない投稿より中身のある長い投稿の方が好感が持てるんですが、嫌われるというならそうかもしれませんねえ・・・
To この世は仮の世さん
スレッド式ではない掲示板では、長文の連続投稿が続くとそれ以外の話題が流されてしまうからだと思います。
ここのサイトの場合、スレッド式の掲示板も併用しているので、両者の使い分けは重要かと。
もっとも、下手に長文を書くのではなくて、要点のみをまとめて短い文で書くことも重要ですが。
(スレッド式だからといって長文をダラダラ書くと、やはり嫌われます)
トトロ様のレスは長文の連続投稿なので「進化論と創造論についての掲示板2」の方で議論したいと思います。長文の連続投稿はまずいそうなので・・・なぜまずいかわかりませんが・・・私のレスは2の方にのせたのでみてください。
> 仏がどこに存在するかわかっていってんですか?仏は浄土にいるんです。つまり真言宗は浄土にいる仏と合一することを目的にしてるんです。
真言宗(ttp://www.koyasan.or.jp/)のいう仏との合一は
・仏の誓願を堅く信じ、すべてのものの本性が清浄な心であることを、ありのままに知ること。
・この世のすべてのものを愛する心と、真実を求める心を堅く持って、行いと言葉と心のすべての働きを通じて、真理を悟り、実践する仏の智恵に気づくこと。
であると、真言宗の総本山 金剛峰寺では教えます。決して”浄土にいる仏”を云々するものではありません。
また、真言宗では仏はその教えとして世界に遍在するものであるとも教えています。
> 禅宗は悟りを開くことを教義に据えていると言ってますが、悟りを開くとはどういうことかわかっててものを言ってるんですか?説明できるなら説明してください。
黄檗山萬福寺(黄檗宗本山)によると禅宗の悟りとは、仏道の真理を究めることで、仏道の真理とは、「無限の自由と愛の世界この身このままが仏である」ということだそうです。禅宗は、この悟りを禅によって自ら体得することを目的としています。そして体得できればそれが成仏となります。
私が黄檗宗を禅宗の代表として選んだのは私の家の近所に黄檗宗の分寺があり、そこの住職と顔見知りだからです。彼の話によると黄檗宗には『唯心(この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものである)の浄土(汚れや迷いのない土地、佛の世界)己身(自分の身、自身)の弥陀(阿弥陀仏)』という教えがあるとのことで、浄土は人の心の中にあり仏は自分自身に内在するということだそうです。そしてそれを知ることが座禅の第一ステップであるとのことです。
> 「宗教は人々を天国に導くために説かれている」という私の主張は全ての宗教の究極的な目的は結局そこにあると言ってるんです。
で、貴方の書き込みに対して真言宗と禅宗(黄檗宗)の概要を記しました。真言宗が目指す仏との合一は仏の真理を知ることで、現在の苦悩を無くし良く生きようということですし、禅宗の目的は浄土は人の心の中にあり仏は自分自身に内在するということを理解することで煩悩から解き放たれようというものです。
いづれも現世に生きている生衆を対象にしたのもで”人々を天国に導くために説かれている”のもではありません。
> 禅宗も日蓮宗も真言宗も浄土宗も浄土真宗も時宗も天台宗も法相宗も律宗も原始仏教も教義にそんな主張がなくても本質的な布教目的は人々を天国に導くことにあると言うことです。各宗教の教義を表面的にのみ調べるだけではそういうことはわかりませんがね・・・
また、勝手な思い込みですか・・・懲りない人だこと。
主張が無いのであればそれは目的ではありえないでしょう。私が調べた限り、これらの宗派は、現在、生きている人たちを救うことを目的とし、そのために教義を制定しています。そして、それは、仏陀の言葉に適うものでもあります。
尚、私が記した真言宗の総本山 金剛峰寺と黄檗山萬福寺は、浄土真宗親鸞会は、いずれも本山であり、その主張はWebページで確認できます。
元々、成仏とは、さとりを開いて、仏陀になることを示しています。真言宗のように仏と合一することを目指す仏教は第一にこれを目指します(方法は様々です)。
仏教の開祖釈迦は、仏陀、すなわち覚(さと)れる者となりました。さとりをさまたげる煩悩から解き放たれることを解脱といい、仏陀と成るという意味で成仏といいます。
釈迦が入滅した後、仏弟子たちは成仏を求めて禅定や止観とよぶ宗教的瞑想につとめました。
他方、大乗仏教では菩薩の修行である六波羅蜜が重んじられるとともに、それらの修行の階程をふむことを歴劫修行と否定し、信によってただちに煩悩の結縛から涅槃に昇化する即身成仏の思想が生まれました。
日本語文化のなかでの「成仏」は、大衆信仰によってさとりを開いて仏陀になることではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指す場合があります。その意味では、この世は仮の世氏の意見は正しいのですが、現在の伝統仏教がそれを認めているのかというと、微妙に異なっています。
> 真実の信心を得ていないからである。真実の信心を得た人は、浄土に往生することが確定しているから、命が終わろうとするときに、仏の来臨をのぞむ必要はない。信心が定まったとき、浄土への往生が決定するからである。
> 親鸞聖人は以上のようにいって、来迎を否定し、不来迎、平生業成を説かれました。」
”「されば親鸞聖人の仰には、『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚に住す、正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし』といえり」(御文章、一帖四通)”
さて、親鸞会のWebページをご覧になられたなら、不来迎のページの末尾に上記の文言が記されていたはずです。これは、蓮如の御文章、一帖四通に記されている親鸞の言葉です。これを読めば解るようにこの文句には、浄土への往生云々は記されていません。
確かに仏教の成仏の意味は難しく、浄土はあまりにも理解しやすいでしょう。だから、説法で”浄土への往生”を持ち出すことが多々あります。私はこれを指して”説話としての極楽浄土があるだけ”と記しましたが、貴方はその実例を探し当てたようです。従って、
> 浄土真宗もちゃんと浄土を肯定しているし、浄土への往生を説いています。否定しているのは臨終の床で神様のお迎えを期待する信仰だけです。
いいえ、”神様のお迎え”が何を意味するのか考えてください。神様のお迎えは、浄土への確実な転生を示しているのです。浄土真宗は明確にこれを否定しています。この否定は浄土がありえないという意味での否定ではありません。浄土があろうが無かろうがそんなことは問題としないという意味での否定です。ですので、”浄土真宗もちゃんと浄土を肯定している”というのは誤りです。
上座部仏教で、仏陀はあの世の存在を人智が及ばぬものとして不問にしています。浄土真宗の立場もこれと同じです。
梵我一如は由緒正しい神秘主義だからにゃー
「東洋神秘主義思想の華」とも呼ばれているらしいし。
1)神秘主義思想は必ずテレオロジーである。それはニンゲン存在の「目的」を示す
1)神秘主義においては、「対立物の結合」という命題が語られる
上記は僕の考える神秘主義の定義
例えば、ボードレールの「悪の華」において語られる「万物照応(コレスポンダンス)」は、ミクロコスモス(としてのニンゲン)とマクロコスモス(としての宇宙)との照応であり、最終的には両者は合一しなければならにゃー。まさに梵我一如。
梵我一如とは、対立物の結合の最終形態ともいえるものですにゃ。
あらゆる神秘思想に対立物の結合があるといっているのはユングにゃんけどね。
「結婚神秘主義」などというものもあり(確かキリスト教系の神秘主義)、対立する二者(♂と♀、笑)の結合というものは、そもそもニンゲンの神秘主義ダマシイを著しく刺激して活性化させるらしいのだにゃ、にゃははは。
対立物の結合、といえば弁証法ともいえますにゃ。
ヘーゲルによれば、歴史とは絶対精神の自己展開、だからにゃ。もう神秘主義もいいとこ
ヘーゲルとくればマルクスにゃんが、これも対立物が結合しながら歴史のステージがあがっているとかいうのだから、立派な神秘主義だにゃ。だから正しいと僕なんて思ってるんだけどね。
私見では、神秘主義そのものが僕たちの「世界像装置」(ばい K.ろーれんつ)と親和性が高いのだと思うにゃ。
神秘主義的な見方でしかすくい取れにゃー1面が確かに僕たちにあるのは事実だと思うんだよにゃ。
だから、仏教にだってそうした1面がどうしても顔を出してしまうのだと思うにゃ。仕方にゃーのだろ。
神秘主義の単純な否定は、バ科学主義だろうにゃ。個人的に嫌うのは別にいいけど。
後は神秘主義の程度の問題だにゃ。
大川センセイあたりが最低レベルに位置するのだにゃん。
天国と反対の地獄は?てえとニッポン人の場合は平安時代に源信の書いた「往生要集」でんな。この人天台宗の高僧だったんで、比叡山出身の法然/親鸞/道元/日蓮の思想形成に大きく影響している
「オイラのホームポジションは所詮地獄なのさ」(歎異抄/小生のめっちゃんこ意訳)
でも、ここに出てくる地獄の責め苦を見ると人間の想像力の限界を思い知りますね(あ、無論漢文の原典なんか読んでませんよ。中村元博士の解説本を読んだだけ)
所詮、現世でイヤンなことだけだもん。
責め苦のうちで一番笑えるというか泣けるというか・・・衆合地獄にある「刀葉林」
http://tchannel.hp.infoseek.co.jp/index.htmこちらからコピー
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獄卒は罪人をつかまえて、刀のような鋭い葉が茂った林のなかに置く。罪人が木の上を見ると、美しい女性がいる。罪人は美女を求めて木に登るが、鋭い葉が全身を切り裂く。ようやく登り終えると、美女はいつの間にか地上に降りている。媚びを含んだ目で罪人を見上げて美女は言う。「あなたを慕って降りてきたのに、どうしてあなたは私のそばに来ないの。私を抱かないの」。これをみて罪人は欲情を燃やして木を降りるが、上向きに剃刀のような葉によって、また全身を切り裂かれる。ようやく地上に降りてみれば美女は木の上である。罪人はまた木に登る。
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こんなもん、こんなもん、獄卒につれられんでも何遍も自分でとびこんだことあるわいっ!おまけに結構イイトシになるまで(泣 わーん)
また、この責め苦が野郎限定ってのも・・・・
#そういえば、この梵我一如(“我と世界は一体である“或いは“純にして善なる超越的実在・本源を想定し、我々はそれを分有している”)という「仏教の顔をした反仏教思想」も、釈尊以前からある伝統的なインド哲学に含まれる壮大なテレオロジーですが、実にタフなミームですな。(先日、本掲示板で少し話題になった”火の鳥・未来編“の宇宙観なんかモロにこれです)
釈尊没後は、釈尊独自の「無我」(人間も含め全ての事象は無前提には存在しない)も、「無常」(全ての事象は常に変化し同じ状態にとどまる事は無い)も「無記」(証明も反証も不能な領域のことについては、沈黙を守る事)も押し分けて(相反するにもかかわらず)“仏教”に侵入して如来蔵思想として、でかいツラをさらし、仏教とともに海を渡って日本にやってくると、”本覚思想“として禅に遺伝し、京都学派に遺伝し、手塚マンガに遺伝し、今西進化論に遺伝し、これを継いだウィルス進化論まで遺伝して…・といった具合です。
松本史朗と言う駒澤大学の先生が「縁起と空」(大蔵出版)という本の中で曼荼羅に代表される如来蔵思想批判をやっていますが、これが、管理人様に教えていただいた河田雅圭先生の「はじめての進化論」の中の今西進化論における「種社会」批判と笑えるくらいクリソツうり二つです。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page28.html
小生は猫様に教えてもらった「テレオロジー」なる言葉をキーワードにして理由がチョッピリ理解できました
又、厳正公明な科学精神の持ち主にして「ドーキンス聖職者教会」員たる管理人様が今西進化論のシッポをひきずる中原・佐川のウィルス進化論の主張に対し「何で、同時に(一変に)跳躍的に、進化するなんて不自然な考え方をするんだ?アホか?こいつら」と訝られるのは誠にご尤もですが、(でも「矢」が刺さってスタンド能力が発現したらうれしいな)何の事はない、ルーツが科学じゃなくて、古代カーストの固定(変化禁止!)を正当化するためのウパニシャッド哲学なんで、進化の事実と、もともと相性悪いのを無理ムリひっつけようとしているからなんですね。(さすがに生き物相手の理科系のショーバイやってりゃ、進化そのものは否定できんでしょうが…、でもないのかな?)
以上多分に小生の妄想が入った床屋談義ですが、そんなに外してないんじゃないかな?
TO:トトロ様
ま、基本的にはトトロ様の言うとおりなんですが…
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初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、在家の信者に対しては主として「生天」の教えが説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという教えである。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。この天の原語はいろいろあるが、いずれも単数形でのみ用いられている。すなわち、天は一つであって、[後代に現れたような]天の細かな内容規定や、階層的な区別はなかったのである。誰でも能力に応じて布施を行い、道徳的に善であれば、死後に天におもむくとされたのである。この天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。浄土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。
(中村元『仏教語大辞典』、979頁)
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但し、釈尊は、論争を禁じられました。仏教にはキリスト教と異なり“異端”という概念が存在しません。従って後代、さまざまな形の“仏教”が生まれました。
上座部も、鎌倉仏教も、ハウスホーファーやルドルフ・ヘスを通じてナチスのオカルティズムに影響を与えたチベット密教(ハーケンクロイツが裏卍なのもこの辺に由来)も、そのチベット密教を丸抜きしたオウム真理教も、幸福の科学(こちらはキリスト教やら生長の家やら何やかや入っているみたいだけど)も全部仏教に含まれるとなれば(不愉快な人も多いでしょうが)“天国の存在を肯定する”“仏教”はあってもおかしくない事になります。ま、所詮仏説は「如是我聞」(私はこう聞いた)受け取った人の自己責任であり「銘々が自分で考えること」(ホントはそのときこそ科学の出番)ですしね
寧ろ、“梵我一如”などという釈尊の教えとは正反対のテレオロジー(猫様に教えてもらったけど確かに便利な言葉だなア)が後代“わし、仏教思想の中心だもんね”みたいなカオをしてふんぞり返っている事を考えれば、釈尊が在家向けの方便に使った生天思想の拡大解釈がまかり通るくらいは可愛いモンだと思います
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