このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
私は、「進化論が正しい、創造論は間違い」と思っている者です。
ですが、この場での創造論批判や、ネット上のあちこちにある擬似科学批判
にはときどき違和感を感じることがあります。
たとえば今でてきている「手口」という言い方です。
たしかに、科学を分かっている人の目で見れば、「手口といわれても仕方の
ない事」なんでしょう。
ですが、『彼ら』は、「善い事」を言っているつもりなんです。
もし『彼ら』に「科学的思考というものを分かってもらおう」としているの
なら、そういうのは、効果的でない方法だと私は考えます。
もし、『彼ら』を怒らせて遊ぼうとしているなら、効果的な方法ですが。
>「創造論者の手口」の「手口」とか、「…法則をまったく理解していない創造論者」など。
>「創造論者=まったく理解していない」と読み取れます。
創造科学支持者については、「手口」といわれても仕方のにゃーことをしつづけてますにゃ
また、創造科学支持者は、科学をまったく理解していにゃーといっていいでしょうにゃん
>別に表現は自由ですし、怨みがあれば自然に表現に出るのは仕方ありません。
>ただ、感情を抑えた方がより多くの人が読みやすいと思います。
創造科学支持者の言動を公正に評価すると、事情を知らない方にとっては「感情的」「怨み」と思われるかもしれにゃーですね。
でも、創造科学支持者のしていることは、本当にハシにもボウにもかからにゃーのです。
林センセイ関連の続きを書かなきゃならにゃーのだけど、その前に
みにゃ様のいいたいことはわかるけど、
誤解を招きえる「創造論者」という表現を「創造科学支持者」と表記を素直に変えたほうがこのHPの主旨からしても適当ではにゃーかと僕に思えますけどにゃ。
誰に対してモノをいってるのか、しつこいくらいハッキリさせることはとても大事なことだにゃ
明日からオープン戦ですので立てますた。
http://bbs9.otd.co.jp/915865/bbs_thread?base=4745&range=1
「…法則をまったく理解していない創造論者」から
「創造論者=まったく理解していない」と読みとり、さらに
『キリスト教徒全員に対して「まったく理解していない」』と
理解するのはなんか違和感あります。
まあ、一般的に神の創造をあらゆる意味で信じないキリスト教徒というのは定義からして矛盾しそうですので、広い意味で間違いではないと思いますが、通常、こういう書き方で「創造論者」という場合は、「進化論を否定する」という意味での「創造論」でしょうね。
進化論をなんらかの形で受け入れているキリスト教徒はたくさんいるはずですよ。今は無き宗教の坩堝だったかなあ、どこかの宗教系掲示板で、キリストの奇跡も神の創造も信じていないクリスチャンという人を見かけたことがあります。私でも、そこまでいったら「キリスト教徒」を名乗る必要自体ないんじゃないかと感じてしまいましたが、本人がキリスト教徒だと自分を規定しているのならそれはそれでありだと思います。
ちなみに我が家は仏教(時宗)で、私も念仏を唱えたり、家の宗教をついで仏壇を守ることに疑問を抱いていませんが、輪廻転生やら阿弥陀仏の救いやらはまったくこれっぽっちも信じていません。私にとって宗教は所属する親兄弟、親戚などのコミュニティにおける共通の道具でしかありませんが、そういうシステムに参加しているという意味で仏教徒であると考えております。
キリスト教徒にはそういう人は一人もいないのでしょうか。
キリスト教徒8さん
ご回答ありがとうございます。
「はじめに」のところでここで指す創造論者とは「創造科学を唱えている人たち」だと示唆しているのですが、そのように受け取れないという人がいるならNATROMさんが対処するかもしれません。
私は多くのキリスト教徒が「熱力学第二法則は進化を否定する」とは思っていないので(事実そうだと思いますが)、今回の指摘があるまでNATROMさんのHPで指している創造論者が科学的創造論を信奉する人を指していることは明白だと思っていました。
確かに一般の創造論者からみれば不愉快に感じるかもしれません。(でも彼らも自らを創造論者と名乗っているので他にどのように呼べばいいのでしょうね?困ったものです。「創造科学支持者」かな?)
「創造論者の手口」の「手口」とか、「…法則をまったく理解していない創造論者」など。
「創造論者=まったく理解していない」と読み取れます。
キリスト教徒全員に対して「まったく理解していない」と表現するのは無謀なのでは?
他にも熱力学第二法則についてのリンク先などで感じました。
別に表現は自由ですし、怨みがあれば自然に表現に出るのは仕方ありません。
ただ、感情を抑えた方がより多くの人が読みやすいと思います。
管理者ではない一参加者の立場ですが、考えを書きます。
聖書による、よらないに限らず「超越者による創造」そのものを、科学は否定していませんし、今後もしないでしょう。しかし、聖書に書かれているのはすべて事実であり科学的にも正しい、と主張する原理主義に基づく「創造科学」は、100年以上前に破綻した「疑似科学」です。
科学は宗教と並ぶものではなく、単に事実とそれを裏付ける理論の積み重ねによって構築されたものです。科学は人生を決定付けるものでも、心を満たすものでも(本質的に)ありません。一方の宗教は、人生に多大な示唆を与え、ある時は救いをもたらしてくれるでしょう。しかし、その宗教の大きな影響力の中で、事実を無理に捻じ曲げ、創造は科学であると言い張ることは許されるのでしょうか。私は許されないと思います。
それでもなお、創造は科学的に正しいと主張する「創造科学=疑似科学論者」たちの欺瞞と傲慢に私は疑問符を投げかけます。科学的手法に則った議論に応じ、検証を繰り返した上で提出された反証を認める姿勢ないのは、潔さに欠ける、規範たるに値しない姿勢だと思います。そのような姿勢に対して、私は批判するのであって、恨みに基づくものではありません。
次に、猿が進化して人間になったわけではありません。GOAさんがご指摘のように、猿と人間には「共通の祖先」がいて、地理的隔離や突然変異があり、自然選択が働いて、現在の人間や猿に長い年月をかけて変化したのだと考えています。また、中間の生物は当然あったでしょう。
キリスト教徒8さん
>文章を読むと創造論者をうらんでいるような感じがして、自分が怒られて
>いるような、「バカ!」と言われているような気がします。
>感情を抑えて冷静に書いた方がいいような気がしますが…
キリスト教徒8さんの書き込みは初めてのように思えますので、第三者にはどの文章をさしているのかさっぱりわかりません。よろしかったらどの文章を指しているのか教えていただけないでしょうか?
それから明らかな事実の指摘を受けてそれを無視するような人間を私は馬鹿だと思います。
>例えば人間の場合、猿が突然変異して人間になったと考えているのですか?
>中間の生物はなかったという考えですか?
>(これは批判ではなく管理者の考えを知りたいだけです。)
管理人さん(NATROMさん)のご意見が聞きたいのであって、定説を聞きたいのでなければ以下の文章は無視してください。
人間は今の猿と人間の共通祖先から分かれて進化したと考えられています。また今まで発見された化石などから中間の生物はいたと考えられています。
文章を読むと創造論者をうらんでいるような感じがして、自分が怒られて
いるような、「バカ!」と言われているような気がします。
感情を抑えて冷静に書いた方がいいような気がしますが…
あと質問がひとつ。
例えば人間の場合、猿が突然変異して人間になったと考えているのですか?
中間の生物はなかったという考えですか?
(これは批判ではなく管理者の考えを知りたいだけです。)
NATROMさま
(メールアドレスのことは、お手数かけて恐縮でした。)
>アーサー・ケストラーキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!って感じかな。
>http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/fusei4.html
>これを読めば、林道義氏が進化論について何を考えているか、明瞭ですなあ。
ケストラー、今西と並んでいるだけで、
あとは、なに考えているかわかってしまうよ...って、
(「なんとかの壁」みたいだ...)
ちなみに、林センセイのシンパと議論(?)すると、こんなふうになります。
[No. 808]からのスレッド(2002/07/18 (木) 08:27)
[No. 835]からのスレッド(2002/07/22 (月) 23:55)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/5715/log/1-2/log1-2-2.html
暴言を吐き散らしている彼を、平均的な「林シンパ」と
見ていいのかは、なんとも言えないけど...
(わたしとしては、彼と議論したつもりはないんだけどね。
勝手に吹っかけてきたので、ちょっとだけ相手にしてやりました。)
ところが、「林シンパ」のせいで掲示板が荒れたのに、
一方的にわたしのせいにされて、そこの管理者に圧迫されてしまったの...
まわりのかたたちも、「林シンパ」のほうにやたらやさしい...
(じつはこういうのも、とんでも蔓延の原因だったりするのかもね...)
[No.892]からのスレッド(2002/08/03 (土) 09:06)
[No.915]からのスレッド(2002/08/09 (金) 22:39)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/5715/log/1-2/log1-2-3.html
梁魁さま、はじめまして、ですね。
わたしもそんなに、見抜く目があるほうでもないので、
あまりエラそうなこと言えないんだけど...
とんでもが幅をきかせないようにするいい方法は、たぶん、ないんだろうと思います。
なにが、「とんでも」になって出てくるか、わからないですし、
ひとつづつ、たんねんに対処するよりないのでしょうね...
それには、知識のあるかたが、率先して
適切な知識を提供するしかないんだろうと思います。
でも、カバーすることは、ありとあらゆる分野におよぶし、
特定の人の守備範囲は限られてますし、専門家でも間違えることはあるし、
簡単ではないから悩んでしまうんだけど...
>世間一般の人がトンデモを見抜く目を養うにはどうしたらいいのかと考えさせられます。
林のサイトの読者は、『道義リンクス』も、おそらく見ているだろうと思います。
(リンクがはってありますし...)
両方を読んで、どう思ったのかな...?
(やはり林のほうを、「そうだ、そうだ」と思うのかな?)
EzoWolfさま
>まあ他の文章を見ても、気に入らないものに八つ当たりしているとしか思えない文章ですから。
なんかすさまじいですよね...
『道義リンクス』にかぎっていえば、
林センセイも、大学教授としてのプライドがあったのかもね。
どこのだれだかわからない一会社員に、さんざん批判されたあげく、
こけにされたので、むかつきまくっちゃったのかもしれないです。
>父性や母性が「文化的な発明品などではなく」というためにはまず歴史学や民俗学による
>説明が必要だと思うのだけれども。(それができないので類人猿の話なのかと邪推してみる)
林氏は、母性のほうは本能であると、疑問を持たずに思っているみたいです。
「母性すなわち母であることは遺伝的本能的な基盤を持っている」
と、『父性の復権』でも、11ページに書いていますし。
それに対して、父性のほうは、文化的、社会的なものだと思っていて、
ゆゆしく思っていたんじゃないかな...?
(のようなことを、やはり、『父性の復権』に書いている...)
そこへ、山極氏の類人猿の本、『家族の起源 父性の登場』を見て、
もしかして、これが父性も遺伝的だという
根拠になっているのでは、とでも思ったのかもしれないです。
(と、たんぽぽは想像する...)
地下に眠るMさま
(やっぱり、わたしには難しい...ちえねつ出そう...)
最初に保留をつけたのも、ユングがどうのというより、
批判(とくにフェミからの)を恐れたのかもしれないです。
本が予想以上に反響を呼んで、世間に受け入れられたので、自信をつけたのでしょうか?
本性を現わして、保留をはずしはじめたのかもしれないです。
(のように、たんぽぽは邪推するが...)
>ユングの「経験の集積」について
...ということは、「経験の集積」自体は、まったく心理学のもので、
生物学(進化学)とは関係ない、ということなのかな...?
(ようするに、ケストラー&今西を援用させたのは、
林センセイがオリジナルでそうしただけ、ということで...?)
To 梁魁さん
A:○○氏は著名な学者である。ゆえに彼の言うことは正しい(はずだ)。
こんな論調が世にはびこるのは当然です。また、だからこそトンデモさんや疑似科学商法において、やたらと学者や学会の名前を引き合いに出す傾向も生まれるのでしょう。
B:○○氏はトンデモ説を説いた。ゆえに彼の業績(のすべて)は疑わしい。
これはこれで陥りやすい誤謬ですね。件の脳生理学者の業績はまったくもって有効なものである。しかし、文化を見る眼はその辺のヒステリックなおじいちゃん程度しかなかった。Aという傾向が社会にあるがために、権威から発せられる「ことば」はなんでも有効なものだと受け入れられてしまう。
ところが、きちんとした科学的手法で検討を行うと、たとえある分野で業績を収めた人の説であっても、時にトンデモな説を主張していることがある。この時に、Bという文法が成立してしまうのも世の中ですから、正しい反論・反証にあっても論者はそれを正当な見解とは認めず、おそらくは保身のために激しく拒否反応を示すのではないでしょうか。
いわゆる社会信用というもののあり方を考えることが、これらトンデモ問題への対処にも繋がるんじゃないかな、と私は思います。間違いを正すために科学的手法はとても有効ですが、間違い=有罪、というわけではなく、単にその説が正しくないことが証明されただけのことであり、主張者の人格にダメ出しをしたわけではないことにも、配慮が必要なのではないか、と思うのです。野球選手がサッカーをやったらヘボだった。それは笑って済ませられることですが、生物学者が物理学について無知だったことは、どうやら同じ次元にはない感じがしますね。
さて、林センセイがのたまうところの、ユングの「経験の集積」について
ユング心理学のキモとなる考え方のひとつに「人間の身体構造においてある程度の普遍性が見られるように、心理構造においてもある程度の普遍性がある」というものがありますにゃ。ニンゲンの心を「タブラ・ラサ(白紙)」と見る(偏った)見方を採用しないのなら、この考えそのものは留保をつけつつも認めていいと思いますにゃ。
ユングは一人の臨床家として患者に接し、いまでいう統合失調症の患者たちの妄想に現れるイメージと、神話に現れるイメージと、錬金術などの神秘主義に現れるイメージの共通性から、人類の共有するイメージ群といえるアーキタイプ(元型)概念を構想しましたにゃ。神話などにはまったく通じていない統合失調症患者のイメージと、古代オリエント神話や錬金術のイメージに驚くほど似通ったものがある、あたりの事実がこの推論のミソ。したがって、ある種の根源的なイメージ群は、人類に共有されており、生得的なものであるとユングは考えたわけですにゃ。
ここまでは、自然科学畑の人もなんとか追える論理展開だとは思うのですにゃ。
「人類に共有され、生得的なイメージ群」といった考えは、自然科学的な考えとは言いがたいのだけれど、簡単に棄却できる仮説ではにゃーと僕は思う。例えば、言語習得能力は確かに人類に特徴的な生得的能力であるらしいですよにゃ。そして、言語の操作とはシンボルの操作にほかならにゃーのですね。他の類人猿とジンルイは、シンボルやイメージの操作能力において隔絶があるのではにゃーでしょうか?
ただ、ユングは「人類に共有される生得的なイメージ群としてのアーキタイプ」から、あの(悪名高き)「集合無意識」に踏み込んだのですにゃ。
腹が減ったのでつづきは夜にでも
河合隼雄によれば、父性原理と母性原理の説明は以下のようになるにゃー
******************************************
母性原理は包含の原理
その目標は場への所属・場の平衡状態の維持にあり
一体感・共生感に基づいて平等性を肯定し
場の責任を重視し
コミュニケーション形態においては非言語的
(日本は母性原理に基づく父権社会であると考えられる)
父性原理は切断の原理
その目標は個人の確立・個人の成長にあり、
契約関係に基づく機能的な序列を肯定し、
個人の責任を重視し、
コミュニケーション形態においては言語的
(欧米は父性原理に基づく父権社会であると考えられる)
******************************************
父性原理と母性原理というタームは誤解を招きやすいので(だからこそ本のタイトルにすると売れるんだろうけど)、切断原理と包含原理と呼ぶほうが適切ではにゃーかと個にゃん的には思いますにゃ。共同体が運営されるときの基本原理として、この2つの原理の綱引きがあるというのは、なかなか説得力のある論建てではにゃーかと考えますにゃ。まあ、これはあくまで文化論的な視点ではにゃーかとも思いますけどにゃー。
日本文化において「場の平衡を乱すものこそ悪」ちゅうのはなかなか説得力があるだろ?
ユング派の見解では、切断原理と包含原理は必ずしも性別によって振り分けられるものでもなく、したがって父親が母性原理をうけもち、母親が父性原理をうけもってもかまわにゃーわけ。問題は、包含と切断のバランスにあり、そのバランスによって個人的な強さ・責任感と心のやさしさ・安定が得られるちゅうあたりはなかなか説得力のある議論なのですにゃ。
その意味からいえば、立ち読みした程度にゃんが、林センセイの「父性の復権」はそれほどトンデモでもにゃーでしょう。父性を母親ももてるし、母性を父親がもってよい、ちゅう留保があった上での議論となっていますからにゃ。
ところがにゃー、調子に乗って書いた「主婦の復権」(だっけ?)以降は、この重要な保留がどっかにいっちゃって、父性と母性が性別のロールプレイになっちゃってましてにゃー。こんなもんは、もうユング派でもなんでもにゃーです(断言。
そもそも、ユング心理学においてもっとも重要な概念に「補償」といわれるものがありますにゃ。
これは、自我意識に対して無意識が補償をするというもので、例えば男性の無意識には女性性としてのアニマが働くといったもので、実はユング心理学においては、意識と無意識をあわせた「心」全体においては男女両性具有であるといった観点を打ち出しているのですにゃ。「補償」概念の導入のないユング心理学では、男性性も女性性も父性も母性も硬直化され、とんでもなく抑圧的なシロモノになっちまうのだにゃ。
どうも世のユング好きには確かに馬鹿が多くて、この辺の固定化をして喜んでいる輩が多いのだにゃ。林センセイも、「補償は大事だ」と口ではいっているのだけど、口と行動がゼンゼン一致しているようには見えにゃーね。
バランス感覚をもった合理的なものの見方が養われていかないと難しいですよね。
文部科学省のHPから引用した理科の目標です。
小学校理科
自然に親しみ,見通しをもって観察,実験などを行い,問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を図り,科学的な見方や考え方を養う。
中学校理科
自然に対する関心を高め,目的意識をもって観察,実験などを行い,科学的に調べる能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め,科学的な見方や考え方を養う。
高校理科
自然に対する関心や探究心を高め,観察,実験などを行い,科学的に探究する能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め,科学的な自然観を育成する。
科学を教えないとやばいんじゃないの?
お久しぶりです tema@インモラルな元キリスト教徒さま
当方現在相場をしているもので、この時間帯になると外電見るため、何故か目が覚める「パブロフの犬」状態なのですが、、、 相変わらずトレードするための事務所では、一人で立てないなよなよした(ふりだけ?)女性たちに責められ続けています。 (意味難解?)
>自然科学の結果だけでなく、自然科学の方法論を教え自分で判断する習慣を付けさせるべきだと考えています。
> 実は今月始め、似たような件を先生が大勢いる掲示板に投げかけてみました。結果、「学校で教えるのは”理科”であり、”科学”では無い」と、一本取られてしまいました。
じゃあ、”科学”は、いつ教えるんだ?と、小一時間・・・
>いでながら、林センセイは、『道義リンクス』の作者を、
> 「いちおうの自己紹介はあるものの匿名同然である。
> 匿名の通例にもれず、卑劣で幼稚な批判である。」などとお怒りになっています。
まあ他の文章を見ても、気に入らないものに八つ当たりしているとしか思えない文章ですから。
だいたいホモサピエンスの中でも時代や地域によって家族のあり方はかなり違うのだから、
父性や母性が「文化的な発明品などではなく」というためにはまず歴史学や民俗学による
説明が必要だと思うのだけれども。(それができないので類人猿の話なのかと邪推してみる)
ところで林センセイはユングの研究家らしい。昔ユングの入門書を読んだとき、始めの方に
「ユング心理学の学習は気をつけないと神秘主義に陥る」と書いてあったのだけれど、
読み終わっての私の感想は「ユングは神秘主義としか思えない」でした。
入門書一冊で決めつけるのはどうかとは思うのですが、私の感想間違ってますかね。
だれか詳しい人に聞いてみたい。
梁魁さん、こんにちは。はじめまして、temaと申します。
> しかし、いったいこのお粗末さでどうやって自分以外の人間に、進化論否定を説こうととしているのかも不可解なところです。もっと上手に自分の理論をごまかそうと考えないのでしょうか?
対象及び目的が違うからだ、とtemaは考えています。
創造科学を必要とする人は、
a.もともとキリスト教徒であり、聖書を心の支えにしている
b.科学の結果を(神様を信じるように)信じてしまっている
という人だと思っています。
この場合、信ずる対象a,bに矛盾が発生すると心が揺らいでしまうため、a,b間の整合性を求めます。「創造科学は科学である」という事を信ずれば、a,b間の整合性が保たれるため、安心できるのです。
このような人が対象であれば、理論の結果だけを見るので過程はお粗末でも構わないわけです。
また、創造科学は上記のような人の心を救うことが目的だと思っています。このため、信者に対する説得力は必要ですが、目的外である未来予測や科学的検証は不要です。現代科学と整合性を取ることも出来るのでしょうけれど、信者にとって理解が困難になったり、説得力が減ったりするなど、デメリットが大きいため整合性を取らないのだと考えています。
> 氏に限らず、一応科学者とされている人々の中にも、トンデモを吐く人というのはいますね。火の玉博士大槻教授、ゲーム脳の森昭雄教授etc‥‥。
トンデモを吐く方々より、その意見を「科学者の意見」として紹介してしまうマスメディアが問題だと思います。マスメディアの立場で見れば、そのような「科学者の意見」の方を視聴者・読者が好む、ということが問題となるのでしょうけれど。とまれ、何も知らない人にとっては、マスメディアで紹介された事が真実になってしまいますので、影響は大きいですね。
> トンデモ(単に疑似科学に限らず)に対する免疫を作るために、子供の時から教育で仮にやっていくにしてもどのようにやっていけばいいのでしょう。そもそも教師自身トンデモに取り付かれていることも珍しくないですし。
自然科学の結果だけでなく、自然科学の方法論を教え自分で判断する習慣を付けさせるべきだと考えています。
実は今月始め、似たような件を先生が大勢いる掲示板に投げかけてみました。結果、「学校で教えるのは”理科”であり、”科学”では無い」と、一本取られてしまいました。
ただ、この投げかけは色々な人が書き込んでくれたため、先生の目に触れる機会が多くなったと思います。小さい事ですが、積み重ねれば少しは状況が良くなるだろう、と思っています。
後、自分の子供には個別に教え込もうと思っています。もし、コウノトリさんが来てくれたなら…
(ぱ)さん、こんにちは。多分、はじめまして。
横レス失礼します。
> やっぱり「クリスチャン以外の人は、何らかのモラルに欠ける」と言われているように思える(´・ω・`)
ベレアの人々の末裔さんが書かれた”クリスチャンはその言ってる事で無く”の部分が重要かと思います。おそらく聖書は
−「自分がクリスチャンである」と言い、聖書の言葉を引用している人であっても、クリスチャンであるとは限りません。クリスチャンはその言ってる事で無くその実(行動・振る舞い)によって見分けがつくのです−
という事を示したかったのでは無いでしょうか?
上記のように考えれば、
・真のクリスチャンは、何らかのモラルを持っている
・偽物のクリスチャンは、何らかのモラルを持っていない
とは受け取れますが、非クリスチャン≠偽物のクリスチャンですので、「クリスチャン以外の人は、何らかのモラルに欠ける」という意図は無いと思います。
今晩は(ぱ)さま
ベレアの人々の末裔とはいかにも可笑しな名前なのですが、これはイエスの使途パウロが伝道に立ち寄った街のうちの一つの名がベレアで、その街の人々はそのパウロの言質をうのみにせずに丹念に自分の目で聖書を調べたとのみ書かれています。ですから私もクリスチャンと言うわけではありません。霊の実を宿さないクリスチャンと言うのは過去魔女狩りや異端審問と称し多くの人を殺した者や、十字軍などに向けられるべきものかもしれません。
PAの方です。
>とは聖書中に出てくる言葉で、
知りませんでした。失礼いたしました。
聖書にそういうことが書いてある、というのは、それはそれで気にならなくもないですが…
やっぱり「クリスチャン以外の人は、何らかのモラルに欠ける」と言われているように思える(´・ω・`)
創造科学論者の間違いというのは、科学知識に関してどうしようもない初歩的な間違いをしていることがあります。例えば、ここのサイトでもよく指摘されていることですが、「進化は熱力学第二法則(あるいはエントロピー)の法則には反している」とか、「進化論のような偶然の積み重ねでは、確立的に説明困難」といったことです。しかし、それらはミスというより、故意にわかっていながら、間違っているとしか思えないことがあります。
エントロピーの法則関しては、中高生でも知っているような初歩的な間違いを平気でしていながら、進化論を否定しているのをみてその無謀さに呆れますが、文系教育しか受けておらず、まあ本当に何も知らないのかもしれません。ですが、「進化は偶然の積み重ね」という指摘に関しては、自然選択説の「自然選択」という文字を故意に無視しているようにしか思えません。自然環境に対し優位な変異が選択されることで進化が起こると、説の名前で堂々とはっきり言っているにもかかわらずです。何か専門的で難しい用語を使っていて一目見ただけでは何を言おうとしているのか想像がつかないという言い訳は通じません。(少なくとも日本語圏では。私は英語が全くわからないので、もっとも英語圏では「自然選択説」という用語もラテン語を使っていて、日常語とかけ離れていて一般人には解らないという事情があるのかもしれませんが。)明らかに自分が間違っているとわかっていて悪意でしているとしか思えないのです。
しかし、いったいこのお粗末さでどうやって自分以外の人間に、進化論否定を説こうととしているのかも不可解なところです。もっと上手に自分の理論をごまかそうと考えないのでしょうか?
もっとも初歩的な間違いだけなら創造科学論者だけでなく自分も言えないと思っています。科学に限らず、知識がないゆえに気づかないうちにトンデモない間違いはしている可能性は十分あると思っています。例えば英語に関して、例えば日本のサイトでよくある「日本語だけで書いてあります」という意味のつもりで"japanese only"と「日本人以外お断り」と誤解されるようなトンデモない表記をしていますが、僕も下記のサイトで指摘されるまで全然知りませんでした。まだ、知らないでトンデモ英語を使っているかもしれませんし、英語以外にも何かトンデモな言動をしているかもしれません。ただそれでも、それに気づいたなら自分は素直に改めるように心掛けています。
彼らのように、自分の信じている宗教(あるいはその解釈)や、思想信条のために、たとえ善意のつもりであろうと、他人を騙すようなことは決して許されないはずで、少なくとも僕は道徳的なことと思えません。また、故意でない間違いであっても、それを指摘されても、改めず無視したり、拒絶するのも世間一般の道徳ではおかしいです。しきりに信仰と倫理を説く彼らの「良心」とやらはいったいどういうものなのでしょうか。少なくとも我々のいう「良心」とは違うようです。
http://www6.ocn.ne.jp/~exist/enja.html
(ば)PA?BA?さま
クリスチャンはその実によって見分けがつくのです。とは聖書中に出てくる言葉で、自らクリスチャンと名乗りながら(不法?)を行う者が現われる事が予言されています。
件の氏達がそうだとは思えませんが、あまりににべもなく進化論寄りの方々を峻拒しておられる様子ですので特にあの書き込みをしました。誤解があればお詫びいたします。
林道義氏のサイトの中に、アーサー・ケストラーや今西錦司の名前があるのを見て、氏の進化論に対する理解がどういうレベルなのかがすぐわかりますね。
氏に限らず、一応科学者とされている人々の中にも、トンデモを吐く人というのはいますね。火の玉博士大槻教授、ゲーム脳の森昭雄教授etc‥‥。
怖いのがこうした「科学者」「知識人」と呼ばれる人達の影響力です。科学の権威を安易に否定して、神秘主義や疑似科学にはしるのは大いに問題ですが、かといって「科学者」の肩書きを持つ人々のいうことを鵜呑みにするのも困りものですよね。
こういうことを見ていると、世間一般の人がトンデモを見抜く目を養うにはどうしたらいいのかと考えさせられます。と学会の本でも指摘されていることですが今の世間では残念ながらトンデモの方が幅をきかせているように見えます。現に進化論に関係する疑似科学サイトに対し、疑似科学批判をするサイトはここも含め限られています(「はじめに」でnatromさんが書かれたここを開設した時とあまり状況は変わってないようです)。
一見進化論をまともに取り上げているサイトかと思えば、よく読むとちらほら細かい記述に怪しいものがあったり‥‥。もっと地上波TVや一般の雑誌で疑似科学批判をテーマとして取り上げてくれないのでしょうか。そんなに商売として成り立たないのでしょうか。もっとも科学雑誌や科学番組でもあまり疑似科学批判は取り上げないですけど。
トンデモ(単に疑似科学に限らず)に対する免疫を作るために、子供の時から教育で仮にやっていくにしてもどのようにやっていけばいいのでしょう。そもそも教師自身トンデモに取り付かれていることも珍しくないですし。
なんだかこれに関して考えてますと絶望的になっちゃいます。
読み流せばいいんでしょうが、どうも気になったので。
>クリスチャンとして肝心の他人に対する気遣いが見受けられません。
>(中略)クリスチャンはその言ってる事で無くその実(行動・振る舞い)によって
>見分けがつくのです。
これはつまり、
・(長谷川氏みたいなのを除いて)クリスチャンは他人に対する気遣いを持っている。
・クリスチャンは、そういった他人に対する気遣いによる行動で、他の人々と見分けが付く。
・ゆえに、クリスチャン以外の人は、他人に対する気遣いを持っていない。
という意味でしょうか?
少なくとも私は、気遣いとかモラルとかいうものは人と人との関係があって成り立つものだから、宗教で規定されるものじゃないと思うんですよ。
おずおずさん、こんにちは。
>「創造科学教」だと言ってくれたら誰も反論しないのだ。
それでは、信者が救えないのでしょう。
アーサー・ケストラーキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!って感じかな。
>資料:他の著作で、私が進化について述べている箇所からの引用
>(拙著『ユング思想の真髄』朝日新聞社、1998.8、p.136〜141)
>(これを読めば、私が進化論について何を考えているか、個々人における「獲得形質の遺伝」などという水準のものでないことは明瞭であろう)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/fusei4.html
これを読めば、林道義氏が進化論について何を考えているか、明瞭ですなあ。
ついでながら、林センセイは、『道義リンクス』の作者を、
「いちおうの自己紹介はあるものの匿名同然である。
匿名の通例にもれず、卑劣で幼稚な批判である。」などとお怒りになっています。
|読み手が知りうる情報は、自称「氷見真一、1966年生まれ、メーカー勤務の一児の父」であり、
|本人を確かめる情報はいっさい書かれていないため、匿名と言っても過言ではない。
|匿名批判の通例に漏れず、その批判の仕方はきわめて卑怯卑劣なものであり、
|その内容も恐ろしく独断的かつ幼稚なものである。
↓の、長谷川寿紀氏の「匿名批判はおことわり」と、
あい通じるものを感じるのは、わたしだけでしょうか...?
このようなとんでもない主張には、とうぜん反論もありました。
(このサイト、よく理解しているかたが書いているようで、たいへん精力的と思います。
更新が止まったまま放置になっているのが、残念だけど...)
http://www.ne.jp/asahi/hyo/tadaon/michilyn/
くだんの「進化論」も、もちろん反論はなされてます。
http://www.ne.jp/asahi/hyo/tadaon/michilyn/reviews/fusei.html
|遺伝子の中に取り込み...って、どうやって? 思わず目が点になりましたね。
|大体、獲得形質(生まれながらに持ってはいなかったが、
|成長し生活する中でその個体のものとなった性質)は遺伝しない、
|というのは、生物学の常識でしょう。他の動物を見て学んだことなんて、なおさらです。
林道義氏の「進化論」(2) たんぽぽ
この『道義リンクス』に対する、林氏からのさらなる反論が、
じつは、さきのリンクだったのですよ。
「私が進化論について何を考えているか、個々人における
『獲得形質の遺伝』などという水準のものでないことは明瞭であろう」
なんて、誇らしげに書いているけどね...
数個体程度の行動が遺伝しないくらいわかっておる、
種の中の多くの個体が同じ行動をしていれば、
遺伝子になることもあると言ったのだ...で、反論のつもりみたいですよ。
個体の数が多くても少なくても、獲得形質は遺伝しないということが、
林センセイはどうしてもわからないようです。
それから、『道義リンクス』の作者が「個々の...」なんて、
断わり書きをしたとは、読めないです。
ラマルキズムと言われたくないがための、苦しい言い逃れを、
林センセイはしたのでは、というふうにも取れます。
進化や遺伝についてはこんなですし、そのさきも、『道義リンクス』を見れば、
林の本は「とんでも本」と言っていいでしょうね...
こんなのが、教育熱心な親や教師など、たくさんの教育関係者に
待ち望んでいたとばかりに、受け入れられたのだそうですよ。
「父性」については、いちおうのブームは去ったみたいですが、
林センセイのサイトは、(いんちきがなければ)40万ヒットをこえています。
いまもって、このようなでたらめな主張を
まともに信用する人たちがあとを断たない、ということでしょうか...?
とつぜんだけど、林道義氏という心理学者をご存知ですか...?
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/
何年か前に、『父性の復権』という本を書いて、一躍有名になった人だけど。
林氏は、この『父性の復権』をはじめとする、一連の著作の中で、
近年は教育の場から「父性」が失われてきている、
家庭や学校教育の場に、健全な「父性」を持ち込むことで、
いまの若者たちの無気力や自己中心的な傾向が改善される、などと主張しています。
でもって、林氏は、『父性の復権』の最初のところで、
「父性」には、進化学的な根拠がある、などとしているのです。
#人類の父性は決して人類史の中の比較的新しい文化的な発明品などではなく、
#類人猿の時代にまでさかのぼる遺伝子的な根拠を持っているということができる。(22ページ)
その「父性」は、どうやって遺伝してきたのかというと、
彼のサイトのコンテンツに、くわしく述べられています。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/fusei4.html(下のほうにある)
|ユングの「経験の集積」というのは、
|人類に大量的に存在している同じ類型の経験が遺伝子化するという事態である。
|個々の経験がすぐ次の世代に遺伝することはまずありえないが、
|しかし大量的につねに存在している経験ならば遺伝子化する可能性を否定しきることはできない。
|事実そういうことは可能であるどころか、そう考えないと生物の進化はありえない
ようするに、林氏は、産まれてから学習した獲得形質でも、
たくさんの個体に同じものが習得されたなら、
それは遺伝することがありえる、などと信じているようです。
(ユングって本当に、こういう「経験の集積」なんて「進化論」を、唱えていたのかな...?)
さらには、突然変異と自然選択だけではふじゅうぶんで、
生物の側からこう変異しよう、という意志もいくらかあると考えないと、
進化は説明できない、とも考えています。
つまり、林氏に言わせると、類人猿のころから父性行動が見られ、
種の存続のために、それを持ちたいという意志があった、
そして、多くの類人猿の個体でそれが学習されてきたから、
遺伝子として取り込まれ、いまの人類の「父性」となった...
ということになるみたいです。
> 独自の教義を主張し、批判にも耳を貸す(ただし一部のみという但し書きつき)というところは多いようですね。
そうですね。私もそのように感じます。
> さすがに「一切の批判に耳を貸さず」というところは少ないでしょう。
さすがに教祖が代替りしているような宗教では「一切の批判に耳を貸さず」というところは少ないように思いますが、初代の教祖が自らを神格化しているような宗教ではほぼ「一切の批判に耳を貸さず」状態のように思います。何処とは言いませんが・・・
創造説再評価HPの「創造論による新しい世界観」を見て感じるのですが、長谷川さんは何故、あの荒唐無稽(おそらく中学生レベルの理科知識で反論できるのでこう記述)な仮説を科学的に(だろうなぁ多分)説明したがるのだろうか?
そのことによって彼は「神の奇跡」が、単に物理的に生じた現象であったことを証明し、聖書はその記録に過ぎないことを証明したいのだろうか?
私には彼が”神がこの世界を創られた事を前提”としながら、神の業を否定しているとしか思えないのです。
上から見ると宗教、下から見ると信仰なんじゃないでしょうかね。批判はするな、という教条があるわけではなく、批判されると困るだけなのでは。しかし自分が批判することは大好きというステキな方々なのでしょう。
宗教を持つ人に限らず、そういう傾向はよくあるだろうなぁ。派閥ってのは、たいていそんな感じだったと覚えています。
独自の教義を主張し、批判にも耳を貸す(ただし一部のみという但し書きつき)というところは多いようですね。
さすがに「一切の批判に耳を貸さず」というところは少ないでしょう。
> 批判はするなが通用するのが宗教じゃないでしょうか?
私の個人的な意見ですが、「批判」を拒絶する宗教というのも少ないのではないかと思います。
宗教とて世の変化に対応していく必要があります。一切の批判に耳を貸さず、独自の教義のみを主張するというのであれば、狂信者以外の信者を獲得できないと思うのです。
キリスト教にせよローマ法王が進化論を認めたというのは批判を受け入れたからだと私は思いますし、仏教の解釈に於いても社会の常識的な考え方で行われ、仏典が成立したときには常識であっても現在では受け入れられない部分は無視されるか、より現在に適合した解釈がなされます。
「創造科学教」だと言ってくれたら誰も反論しないのだ。
批判はするなが通用するのが宗教じゃないでしょうか?
科学なら批判はするな、などということは通用しないけど、宗教なら通用する。
ネット上で自分の考えを述べると言うことはそれだけ批判に晒されるということです。
「言いたいことは自由に言わせろ、だが批判はするな」
これがダメだとは言いませんが、だんだん相手にされなくなるのは時間の問題でしょうな……
あの方々はしきりに創造論をぶっているようですが、それをすればするほど当人の内奥に流れる冷たさと言うか、何か違和感を感じるのは私だけでしょうか? 論語読みの論語知らずと言うのもありますし、dデモと言うよりクリスチャンから見ればピントぼけでは?
丁度律法を些事に亘り人々に強要する事に明け暮れ、しかしその内面の矛盾ををイエスに糾弾されたパリサイ人やサドカイ人のように。 イエスは「汝の敵を愛せよ」と言われましたが、某Hや棒Sは持論を展開するばかりでクリスチャンとして肝心の他人に対する気遣いが見受けられません。だから聖書は中途半端に読むものでないと思いますし、クリスチャンはその言ってる事で無くその実(行動・振る舞い)によって見分けがつくのです。
実は最近、長谷川さん@創造論再評価にメールを出したのだ。
**************************************************************
長谷川寿紀さん、こんにちは。NATROMと申します。自己紹介はしなくてもわかる
と思います。さて、
創造論(科学的)再検証会議室
http://158.teacup.com/kenko/bbs
の最近の発言に関して質問があります。
1月31日(土)21時00分43秒の長谷川寿紀さんの発言において、
>このHPと掲示板を批判している人たちは自分の実名表示すらも
>しないで対等な議論を要求している無責任さは片腹痛いものがあります。反論
>してほしかったら実名と勤務先を表記して話し合いを申し込んではどうかと言
>ってさしあげたらよいでしょう。
私は実名・勤務先を明らかにしての議論はいつでもOKですが、残念ながら長谷川
さんの掲示板には、「創造説を否定するための主張は趣旨が異なりますので書き
込みを禁止します」とありますので遠慮していました。たとえ実名・勤務先を明
らかにしても、長谷川さんの掲示板に私が書き込むのはNGだと思っていましたが
、実名を明らかにしたら書き込みOKなのでしょうか?創造論の妥当性が議論にな
っているのに、創造論の否定するための主張を禁止しているほうが片腹痛いもの
があると思いますが、いかがでしょう?
**************************************************************
残念ながら、長谷川さんからメールのお返事はありませんでした。代わりに、以下のような発言を掲示板でされておりました。
**************************************************************
再確認 投稿者:長谷川寿紀 投稿日: 2月 8日(日)22時30分17秒
当掲示板は聖書(特にトーラー)の創造記事を事実と受容し、進化論を科学として
認めず、殊更に創造科学を否定しない人々のための交わりと情報交換のために設置
されています。
進化論の信奉者、創造科学を科学として認めない人の利用は当掲示板での発言、情
報宣伝はご遠慮申し上げております。また参加者は実名表記と自己紹介をお願い申
し上げます。
**************************************************************
要するに反論したかったら実名を明らかにしろと言いつつ、「実名を明らかにしたら反論してもいいの?」と尋ねると、反論のための発言は禁止とのお返事でした。対等な議論をすればご自分が勝てそうにない、ということは自覚しておられるようです。
久しぶりに例の掲示板を読みましたが...。
>はっきり言って実名を表記するポリシーの掲示板と、そうでない掲示板とでは
>格が違います。それだけ発言者が己の良心に責任を持っていることを明確に表
>示しています。
長谷川氏の良心とは誤りをしてきされてもしらんぷりすることらしい。
以前私は偽名を使ってちょっと創造論よりの話を書いたら長谷川氏から評価されたぞ。「実名表記」の格ってやつはその程度。
(下の続きです。)
>それとも、地球の「自転」が一時的に止められたのでしょうか?もしいきなり地球の自転を止めると、赤道での自転速度は時速1,700kmにもなるので、世界中で人々や獣、物は飛んでしまうような災害が起きてしまう事になります。しかし、当時のイスラエル人も、そのような目にはあっていないですし、世界中に人や獣が飛んでいった昔の話や、災害の痕もノアの洪水のようにありません。やはり、太陽が聖書の記述通り止まったと考えるのが自然だと考えます。
>それとも、地動説という仮説が正しく、聖書が間違っているのでしょうか?しかし、それは聖書の内容が嘘であるということになりかねないと思います。
>テレビで、ある学者さんが、実は天体の運行を説明するのには、別に地動説でも天動説でも構わないのだそうです。ただ、地動説の方が、単純に説明できるのに対し、天動説は周転円など複雑になるから、前者が定説になったそうです。実際は、天動説でも、複雑にはなっても、天体の運行は説明できるそうです。だとすれば単に複雑で難しいという理由で天動説を捨てるのはおかいしいはずです。
>少なくとも、天動説も少数派であっても仮説として尊重されるべきでしょう。たとえ多数派であっても、地動説もあくまで仮説にすぎないのですから。
>そういえば、最近アポロの映像がヤラセで、実は人類は月面に行っていないのではないかという話がありました。ビッグバンとかなんとかいいながら、一番近い月でもこんなに怪しいのですから、現在の天文学はあてになりませんね。戦争屋の偽善クリスチャンのブッシュ大統領が有人火星探査計画を発表しましたが、騙されないようにしませんと。
>少し、話がそれましたが、もし、地動説が聖書と相容れないとなると、現在日本の小学校では、何の疑いも無く進化論どころか、地動仮説が教えられ、クリスチャンの児童に平気で聖書を否定する答えをテストに書くよう強要されているわけです。
>判例では信仰と授業の内容が対立する場合は、信仰における重要性の度合いによって、代替的手段なので済ませて単位を認めるべきとしているそうですから(ものみの塔の信者の剣道実技の拒否に関する裁判)、公立学校の科学の時間でも、聖書に則った解答に点数を認めるべきでしょう。
>せめて、ミッション系の私学だけでも、地動仮説を排除は難しいにしても、天動説も両方教えるべきではないでしょうか?
>それとも、聖書をもっとよく読むと違う結論が出るのでしょうか。まだまだ、聖書について勉強不足なだけに是非これについて意見を聞かせて下さい。
あづまという人のその典型的ともいえる、トンデモさん特有のカンチガイ満載の理論に、ただただ驚くばかりですが、この書き込みに対する、斉藤氏と長谷川氏の反応も面白いです。
詳しくはその掲示板を読んでみてください。このトンデモさんのトンデモさんに対する反論を読んでいると、考えさせられます。なぜなら彼らの聖書の解釈の基準というものがわからなくなるからです。異教徒の僕から見るとご都合主義にしか見えません。はたして、あづまという人は長谷川氏たちの意見に納得したのでしょうか。
はじめましてー。(^o^)/ 梁魁といいます。
natromさんのyahoo掲示板でのご活躍いつも拝見させていただいています。ここのサイト素晴らしいですね。以前大学のゼミで、創造論者のサイトにだまされてトンデモなレジュメを作ってきた人がいたので、みんなにここのサイト勧めておきました。
ところでここの方ならもうおなじみの長谷川氏の掲示板に、ついこの前まで天動説を信じる創造論者(といっていいのかな?根本主義者の一種にはちがいない)の書き込みがありました。もっとも、匿名での発言だったので最近長谷川氏よって削除されましたが。
アメリカでは、進化論を否定するどころか、地動説を否定する人がいると、どこかのサイトで見たことがありましたが、まさか本当にいるとは思いませんでした。まだ、大地平坦を主張する人がいるのだから不思議じゃないけど。さすがに長谷川氏達も、天動説は信じていないようでしたが、ある意味、長谷川氏たちも同じようなトンデモに陥っているということにはまるで気づかないようです。
まだ、googleのキャッシュには残っていたのでその人の天動説に関する主張を以下引用します。
>聖書の権威が失墜させられるそもそもの始まりは、ダーウィンではなく、コペルニクスとガリレオの地動説にあるのではないか、と最近考えるようになりました。
>クリスチャンの立場として、進化論の話をすると、よく中世ヨーロッパの教会みたいで時代錯誤だと、まともに取り合ってくれません。別にクリスチャンでない人に創造論を強要しているわけで無いのに、こちらの意見を尊重してくれません。やはりこの天動説と地動説の問題に原因の一端があると思いますが、いかがでしょうか。
>そもそも聖書には、
>
>「主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主に向かって言った、『日よ、ギブオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷に安らえ』。 民がその敵を撃ち破るまで、日は留まり、月は動かなかった。 これはヤシャルの書に記されているではないか。 日が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。 これより先にも、後にも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。 主がイスラエルのために戦われたからである。」(ヨシュア記第10章12・13節)
>
>という記述があります。明らかに、太陽は動く存在と言っています。しかもギブオンという地球上の一ヶ所の上空にこのときは止まったのです。
>現在の天文学で正しいとされる地動説のっとった宇宙観では、太陽は地球の100倍の直径をもっていて、「太陽」系の中心にいるそうですが(一応、太陽も銀河系の中では動いているそうです。誰か見たことある人がいるのでしょうか?)、地球の大地を中心とした聖書の記述と矛盾してしまいます。
>マルチン・ルターは「このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。 ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない」と地動説論者を批判したそうですがもっともなことだと思います。
(長くなったのでいったんここで分けます。)
http://cache.yahoofs.jp/cache?url=http%3a%2f%2f158.teacup.com%2fkenko%2fbbs&p=%a4%a2%a4%c5%a4%de%a1%a1%a5%e8%a5%b7%a5%e5%a5%a2&u=%2fbin%2fquery%3Fp%3d%25a4%25a2%25a4%25c5%25a4%25de%25a1%25a1%25a5%25e8%25a5%25b7%25a5%25e5%25a5%25a2%26hc%3d0%26hs%3d0
それにつけても、東京コミックショウが見たいのう・・・
ショパン猪狩カモーーン!!
>このアシナシトカゲは「尻尾をくわえてリング状になり転がって移動する恐ろしいヘビ」
と言われていたそうです
なるほど、フープスネークのモデルだったんじゃな。
他にも尾っぽの毒針で刺すヘビがいるとか言われておるらしいな。
西欧版のツチノコじゃな。
ヘビの起源については
PDXさんの言われるように足の徐々に退化する傾向のある
トカゲ類はいろいろありますし
地中生活からヘビへ進化したとの説が有力でしたが
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5218/pakirakisu.html
最古のヘビとされるパキラキスから
水中生活からヘビへ進化したとの説が出ております
私見ですが
アシナシトカゲは足が完全に消失してもまたトカゲの体型をしており
尻尾が体長の半分以上を占めるのに対し
パキラキスはすでに体がヘビに近い体型で
全長のほとんどが体で尻尾はかなり短いのに
後ろ足の痕跡をかなり残しているところから
この説にはなかなか信憑性が高いと思います(^ ^)
>RYU_TI_SYUさん
アシナシトカゲがヘビでなくトカゲなのは
まぶたがある(ヘビは透明なうろこで目をガード)
耳がある
尻尾が長い
体はヘビのようには曲がらない(ヘビよりだいぶ硬いです)
舌が二股でない
などがあるんですが
このアシナシトカゲは「尻尾をくわえてリング状になり転がって移動する恐ろしいヘビ」
と言われていたそうです
ヘビと思われていたようなんですが
やはり、「体が硬い」事などから
変わったヘビと思われていたようです
> ・前後の脚が失われている種
>という、段階的に脚が失われていくことを示唆するようなものが存在します。
>(最後のやつは、ビジュアル的にはほとんどヘビ)
これがビジュアル↓
ヨーロッパアシナシトカゲ
全長1mと言うから結構でかいな。
これを見ても、昔の人はこの生物はトカゲだと認識していたんじゃろうか?
それと、ヘビの骨はバラバラになりやすいく化石になりにくいから、ヘビの祖先種の研究はなかなか進んでいないと聞いたことがあるな。
>みなさんの一人ひとりに私の持論を紹介、ご理解いただくには
>正直、少し疲れてきました。
ソースを明らかにして、現在主流の進化の理論に即した形で反論を行い、客観的な事実と心情の吐露を区別して述べていただければ、反論はあっても矢継ぎ早に質問がくることはなかったように思えます。びっかむさんの発言は科学理論の紹介としては客観性に欠けて不適当なように思えました。
>諸説の中傷だけでなく、皆さんの持論や研究内容など
>是非ともお聞かせ願います。
諸説の誹謗は期待しないでください。おそらく批判か反論しか返ってこないでしょう。
みなさん私の投稿に対し、いろいろとご意見頂き有難うございました。
大変参考になるご意見とは認識していますが、
みなさんの一人ひとりに私の持論を紹介、ご理解いただくには
正直、少し疲れてきました。
これにて終わりにします。
ときどきはこの掲示板も拝見させて頂きますので、
諸説の中傷だけでなく、皆さんの持論や研究内容など
是非ともお聞かせ願います。
ありがとうございました。
To eizi さん
トカゲから進化したと言われているんじゃなかったかな。
草原で生活している「レーサー」と言われているトカゲの中には、体の長さの割に脚が非常に短い種類がいて、体をくねらせることによる走行の方がメインで、四肢はあまり役に立っていないという連中がいます。
そして、このレーサーの亜種の中には、
・四肢が非常に短い種
・前脚がない種
・前脚がなく、後脚も指が分化せず小さなヒレ状になっている種
・前後の脚が失われている種
という、段階的に脚が失われていくことを示唆するようなものが存在します。
(最後のやつは、ビジュアル的にはほとんどヘビ)
それでもなお、顎の関節の構造などで現在の脚無しトカゲとヘビは区別がつくわけですが、かつてヘビはこのような経過をたどって脚を失ったトカゲから進化したんじゃないでしょうかね?
へびはなにがしんかしたものなんですか?
個人的に、びっかむさんが書かれる「研究」という言葉に興味があります。
一体何をどのように研究している人なのでしょうか?
進化論に対する私見を読む限り、(wadjaごとき素人が口に出すのは失礼かもしれないけど)生物関係の研究をしている人とは思えない。既にみなさんが指摘したことの繰り返しは避けますが、たとえば特定の愛情・感情、もしくはそれに基づく行動をメカニズムとして捉えるのは、進化行動学では常識的な話ですよね?
どうも無理やり哲学的に進化論を捉えていませんか?
To びっかむさん
>進化論が正の速度だとすると、突然変異と自然淘汰は非負のスピード、
>つまり種が後もどりすることを防ぐメカニズム、という意味だと思います。
なにかこう、進化、という言葉の意味を取り違えられているようにしか受け止められません。ある共通の祖先を持つ魚がいたとして、一方は同じ環境にいたので姿(表現型)は変わらなかった、もう一方は別の環境、たとえば地底湖に地理隔離された結果、眼を失い、そのかわりに触覚を発達させた。そういう例は自然界に数限りなくありますが、進化という過程の「逆戻り」を退化と規定するならば、眼を失うことも「環境への適応」であるため退化とは言えません。びっかむさんの文法に従って退化を規定するなら、前述の魚は再び元の共通祖先と「同一なカタチ」に戻ることが「あり得る」となってしまいます。しかし、そんなイキモノはどこにもいません。
>努力して現状維持。努力しないと下に行ってしまう。
努力…う〜ん、努力…。イキモノは別に努力して突然変異しているワケではないと思えるのですが、叙情的表現ということでしたら仕方がありませんね。自然選択と自然淘汰が同じ意味であることは、この掲示板では誰でも知っていると思いますが、もしもそうした「淘汰圧」がまったくなかったとしたら、どんな奇形でも生き残ることになってしまい、機能性があろうとなかろうとイキモノのカタチは無茶苦茶な形状に変化していたことでしょう。もちろん、絶滅するイキモノもなかったことでしょう。そしてさらに、機能の高度化や器官の複雑化もなかったことでしょう。
>突然変異と自然淘汰で退化は説明できないどころか、
>突然変異と自然淘汰こそ器官の退化の明確な説明だと思えてきました。
どうしてそう「思えてくる」のか、もう少しご説明いただきたいと思います。
「器官の退化」と前置きされているので、イキモノが共通祖先に向かって逆行変化していく様子とは別に考えておられるようですが、なにも器官の複雑化や高度化だけを指して進化と呼ぶわけではありません。余計なモノは省かれる。これもあるイキモノ(の個体)トータルで見れば合理化あるいは効率化ですから進化に違いはありません。
#自然淘汰とは要するに「生き残るか、死滅するか」を指すんじゃないのかな?
>DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる
>才能にはそろそろ限界があると考えられます。
ちょっと揚げ足取りになってしまいますが、前段で「限界があるとすれば」としたうえで「限界があると考えられます」と締めくくられても、同義語反復なのですが…。
>私達の身も心も彼らが作った。
>彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。
果たしてそうでしょうか。遺伝子が変異した→表現型に現れた→環境がそれを生存させた→新たな変異が起きる…の繰り返しの中で、遺伝子だけが「作る」わけではありません。環境との相互作用の中で、変異が蓄積されたり表現型が固定されたりしてきたのですから、私たちを「作る」のは、遺伝子と環境にまたがるシステムなのではないでしょうか。
さらに言うなら、私たち、で括る必要はあるのでしょうか。進化の単位は個体または遺伝子型ですから、個体の目的は生存と繁殖と捉えられます。ですので、私の目的は「彼ら」を保存することだが、あなたの目的は良く分からない。私さえ生存し繁栄すれば良い。こんな風に表現するとより「叙情的」で良いかと思います。
かぶっちまったな
はじめまして、びっかむ殿
ちょいと横レス
>理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。
ん?どなたの理論なんじゃろうか?
現在のDNAをベースにした生命が五〇億年以上も存在している
というなら、まだ分かるんじゃが・・・
>DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる
>才能にはそろそろ限界があると考えられます。
前項と関係があるのかもしれんが、
遺伝子の耐久年数は50億年である。
生命の歴史は約50億年である。
故に、遺伝子が身体を設計できる能力は限界である。
ということなのかな?
これも、できれば、ソースの提示をお願いしたい。
>私達は死ぬが、遺伝子は死なない。
>老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。
>進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、
>遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。
>しかし、それでいいと思う。
わしもそれでいいとおもうんじゃが、先程の「遺伝子の能力が50億年しか持たない」という話と矛盾しとる気がするんじゃが気のせいじゃろうか?
で、全体的に、”つまり種が後もどりすることを防ぐメカニズム、という意味だと思います。”
に対する、トトロ殿の反論に対する答えになってない気がするんじゃが、
>質問とは異なりますが
>相対的に私見を述べますと、
と、仰っているので良いのかもしれんのう・・・
びっかむさま、早速のご返答ありがとうございます。びっかむさまの私見を拝見させていただきましたが、やはり私には理解に至らぬところが散見されました。失礼かとは思いますが、びっかむさまのご意見についてご質問と私の意見を述べさせていただきます。
> 私達の体の細胞は常に新陳代謝によって交換されていくが、
> 三ヶ月でほぼすべての細胞が入れ替わる。
> 言ってみれば、三ヶ月前の個人とはまったくの別人になってしまっているといっていい。
> 人はこれを一生のうちに一五〇回から二百回も繰り返します。
三ヶ月×200÷12=50年?現在の人の寿命から比べると若干短いようですが・・・
> 理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。
どういう「論理」なのでしょうか?確かに現在の生物の遺伝子は30億年以上受け継がれてきたものだということには同意できるのですが、それを保証できる「論理」というものを私は知りません。できれば詳しく教えてください。
それから、この文章が、前の文とどんな関係があるのでしょうか?
> DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる
> 才能にはそろそろ限界があると考えられます。
”DNAに限界があるとすれば”という仮定の元に以下の文章が続いていますが、限界があるという証明が提示されていない為、”いかなる状況下〜考えられます”については仮定に基づく推測にすぎなくなります。
で、前の文章との関連は?
> この遺伝子は意識のあるものとは考えられない。
”乗り物を設計できる才能”という記述をしたうえで”意識は無い”というのはなんだか矛盾に感じるのですが?
もちろん、遺伝子に意識が無いという意見には全面的に賛同いたしますが、それは、遺伝子が思考を行うために必要ではないかと考えられるハードウエアを持っていないという理由からです。
> 彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。
生物の肉的は子孫を残すことでしょうから、この文章自体は理解できるのですが、前の文章との関連は何なんでしょうか?
> 遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節があります。
意識がないものに存在を認めたりすることは出来ないと思いますが・・・
> 私達は死ぬが、遺伝子は死なない。
たとえば私が子孫を残さずに死んでしまったら、私の遺伝子はそれで潰えることになります。たしかにヒトは大きな集団を形成しているのでヒトの遺伝子という意味では滅することはないと言えますが、トトロという個体を形成した唯一無二の遺伝子は滅することになります。
> 老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。
この文章がびっかむさんの「進化論」の基本的な考え方であるなら、私の理解している進化論とは異なります。私の理解している進化論は、遺伝子は環境に適合したものが選択され拡散していくという考え方です。
トトロさんからの、私の持論のリクエストがありましたが
ここでは、文面に限りがるので、質問とは異なりますが
相対的に私見を述べますと、
例えば
私達の体の細胞は常に新陳代謝によって交換されていくが、
三ヶ月でほぼすべての細胞が入れ替わる。
言ってみれば、三ヶ月前の個人とはまったくの別人になってしまっているといっていい。
人はこれを一生のうちに一五〇回から二百回も繰り返します。
理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。
DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる
才能にはそろそろ限界があると考えられます。
この遺伝子は意識のあるものとは考えられない。
彼らには私達についての知識も、彼ら相互の知識もない。
進化に関与してる自覚もなければ、将来の発展の為に計画を立てたり、
夢を見たりすることもない。ただ存在するだけです。
私達の身も心も彼らが作った。
彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。
鶏は次の卵を作る手段にすぎない。
サルは木の上で遺伝子を保存する乗り物にすぎない。
遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節があります。
それでは、私達は遺伝子に占領されているのか?
私達は死ぬが、遺伝子は死なない。
老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。
進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、
遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。
しかし、それでいいと思う。
私達は死ぬかわりに自由な意志を与えられたのだから。
びっかむさま、レスありがとうございます。
とすると...
進化論は、まだ修正の余地がありそうだ。
すべての遺伝子が完全に利己的なのではなく、
利他的なメカニズム(「愛」のような...)が関わっている、
可能性があるかもしれないからである。
たとえば、「母性愛」は本能ではないにしても、
生物学的に、なんらかの意味のある機能なのではないか...?
のようにお考えである、となるのかな...?
> 突然変異と自然淘汰で退化は説明できないどころか、
> 突然変異と自然淘汰こそ器官の退化の明確な説明だと思えてきました。
上記の発言は、びっかむさんが「進化」と「退化」を相対する概念かあるいは異なる概念と捉えられているように私には理解いたしました。
でも、「進化」の定義はいろいろな表現がありますが「生物群が遺伝子的な変化を伴って変化すること」だと私は理解しています。
ですので「進化」と「退化」は同じ現象と考えています。ですので”『退化しない論』”=進化しない論 であり、これは「進化論」ではないと考えます。
従って、私はダーウィニズムが”つまり種が後もどりすることを防ぐメカニズム、という意味だと思います。”という意見には賛同できません。
もし、よろしければご持論をもう少しお聞かせください。
たんぽぽさんの質問ですが
>「母性」とは生物学的な本能である?
かどうかの質問には・・・答はNOと言えます。
何故なら「母性」を持たない生物はこの世には多く存在します。
ただ冒頭に述べた「愛=母性」とするなら
「愛=母性」は意味を持たない概念に過ぎない。
普遍的な愛なんてものは、進化の過程においては何の意味も持たない。
ということになってしまいます。
生物学者は、ある意味で皆そう思っています。
ただ、最近私の研究で
「愛」というメカニズムが仮にあるとして、それが進化の過程の中で
ある種、生物学上、仮に働いているとしたなら・・・
「進化論」の未完成な部分の「謎」を解くことができる・・のでは?
と考えています。つまり
生物学であるからこそ、「愛」を概念ではなく「メカニズム・機能」と
捉えるべきではないか?・・と最近、強く思っています。
私が言う自然選択とは自然淘汰を意味します。
例えばダーウィンの突然変異と自然淘汰ですが、
これは進化論と言うよりも『退化しない論』と言えます。
進化論が正の速度だとすると、突然変異と自然淘汰は非負のスピード、
つまり種が後もどりすることを防ぐメカニズム、という意味だと思います。
種の進化とは、下りのエスカレータを努力して
上ろうとしているようなものだという気がします。
努力して現状維持。努力しないと下に行ってしまう。
自然淘汰は適者生存と説明されているようですが、
これも正確には『非適者非生存』と説明すべきなんでしょう。
そのほうが明確に意味が伝わる気がします。
すなわち、からだの器官が(突然変異により)正常に働かない個体は
自然界では淘汰される。
逆に言えば、正常に機能しないといけなかった器官が
正常に働かなくても、生存できる環境になれば、
その種のその器官は退化する、ということでしょう。
突然変異と自然淘汰で退化は説明できないどころか、
突然変異と自然淘汰こそ器官の退化の明確な説明だと思えてきました。
もちろん、突然変異と自然淘汰だけでは
従来の進化(器官の発達、高度化)は説明できないと思いますが。
びっかむさん。質問に答えてくれて、ありがとうございます。最初に書き込みを見たときは、Aのよう印象を受けたのですが、必ずしもそうではないようですね。
>「進化論は未完成である」
これには、wadjaも同意します。というか、反対する人はほとんどいないように思われます。完成されたものであれば、多くの学者が研究する意味もありませんし。
>突然変異が自然選択で選ばれ進化するというのは過去の理論で
突然変異も自然選択も、今や正反対の働きをしている。
具体的にどういった理論を指しているのか、wadjaも聞いてみたい。
びっかむさま、はじめまして。
「たんぽぽ」ともうします。
書きこみの内容から察するに、「母性」とは生物学的な本能であると、
びっかむさまはお考えのようだけど、
そういうことでよろしいのかな...?
>確かに日本の神話などを読むと唯一絶対の神ではないですよね。
(ハッターさま)
さらに言えば、産まれたり、死んだりする(イザナミさまもそうでしたが)し、
神さまといっても、ギリシャ神話みたいに人間に近い存在のようですね...
diamonds8888xさま
ご紹介いただいたサイトを見てみました。面白かったです。チューリングは才能はもとよりその人生も人並みではないのですね。なんとなく映画ビューティフルマインドを思い出してしまいました。
びっかむさん、はじめまして。
>分子の結合により生命が偶然できる確率は、
>全宇宙の海から一本の針をさがすよりもありえないことであり
とても小さい確率の上に生命誕生が成り立っている、ということでしたら同意します。
しかし、進化理論は生命誕生を解き明かすものではないはずです。ヒントを与えることはあるでしょうが。
>しかし私達はここにいる。しかし、完全ではない。
一種の人間原理を言いたいのでしょうか?そして「完全である」とか「完全ではない」というのも「叙情的見解」なのでしょうか。
>生命の存続は不安定な状態の維持にかかっている。
>それはたえず、応急修理をほどこし、数限りなく部品を交換することによって
>やっと旅を続けられる車みたいなものである。
その通りなのですが、この喩えからなにを主張されたいのでしょう。
この宇宙では、恒星の核融合反応にしろ、なんらかの活動を行なっている「系」は、すべて不安定と言えます。熱的な「安定」とは、要するに私たちから見て「死んでいる」状態を指すのではありませんか。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。