このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
■進化論教育をめぐってテキサス州の科学者や宗教家らが大激論■
< http://www.hotwired.co.jp/news/news/20030916205.html >
米国最高裁は、政教分離に違反するという理由から、全能の創造
主が万物を創造したとする「創造説」を公立学校で教えることを
禁じている。一方、進化論の根拠は薄弱であり、進化には「イン
テリジェント・デザイン」があったという説を広めようとする団
体も積極的な活動を続けている。とくに大きな教科書市場である
テキサス州では激論が行なわれている。
[Culture]
saniku-aikiさん、お返事ありがとうございます。
私は時折あなたに対して失礼な物言いをしていますが、ストレートな表現しか思いつかないのでご容赦ください。しかし、お返事をいただいていることにはとても感謝しています。
>キリスト教信者(特に聖書原理主義者)はあらゆる人の中でもっとも愛されている、と
いう意味で書かれたように思いましたが、もしそうであるなら、それは違います。
なるほど、おおよそ理解しました。
さて、それではノアの箱舟(洪水)以前というものは、現代宇宙論で言うところの「ビッグバン以前」のようなものだ、としましょう。まさに神の領域とは、そんな人智の及ばない「認識を超えた事象」にあることだ、とは私も思います。するとどうでしょう?saniku-aikiさんはご自分で「思想霊感」を主張されたのですが、だとすると聖書の言葉一字一句をそのまま受け取って、私たちといらぬ対立をするくらいなら、1万年も寓意である、としてしまえば万事解決するように思えます。
saniku-aikiさんにもご理解いただけると私は思うのですが、聖書を少しも信じない私には、進化は明らかです。少なくとも神は、この地球に「さも進化があったかのように」証拠を残されたことは事実だと思えないでしょうか?
:saniku_aikさん
>キリスト教に限らず、どの宗教も自分だけではなく
>他人も救済しようと思うのではないでしょうか。
私の信仰する宗教には「救済」という概念はありません。
「どの宗教も」という一般化はおやめいただきたい。
(まあ、切支丹が他宗教を侮蔑するのを見るのは
これが初めてではないので、いまさら驚きませんが)
>科学というものが真理を求めるものであり、
科学は「真理を求めるもの」ではありません。
真理を求めたいなら神にでも聞きなさい。
#だいたい、真理と観測事実が異なることなんていくらでもあるだろうに。
#たとえば、地球の衛星は全部で七つですが、観測されるのは一つ(月)だけです。
#理科年表とか天文年鑑には地球の衛星について月しか書かれていませんが、
#この記述は充分科学的でしょう。
>機会を見て自分は何を信じているのか紹介すると思います。
たいていの人は、あなたが何を信じているのか知っていると思います。
単に、同意していないだけ。
個人の信仰は自由ですからそれはそれでいいのですが、
「聖書的創造論は科学的にも正しい」といえば、
科学的見地からは「それは嘘だね」と指摘されます。
ちなみに、「聖書を信じれば創造論を信じられる」のは当たり前です。
To saniku-aiki さん
斉一論を否定し、他人に納得をさせようと思うのであれば、斉一論が成立し
ないことを証明するしか無いと思います。
「聖書に書いてあるから」で納得するのは、信者だけ、それも聖書原理主義者
だけだと思います。
ノアの洪水が地球規模で実際に起こった、人間の寿命が1000年近くあった事
を示す物証がなければ、懐疑論者を納得させることはできないでしょう。
なお反証可能性については、自然科学の世界で広く受け入れられているルー
ルです。なにも進化論を含む生物学だけの考え方ではありません。
反証可能性を否定した上で「これは科学だ」と主張するのであれば、何をもっ
て科学とそうでないものを区別するかの定義が必要です。そしてそれは、自然
科学全体に対する問いかけとなりうるでしょう。
無論、反証可能性というルールが太古の昔からあったわけではありませんし、
科学哲学の発達と共に成立した概念です。それを覆し新しい定義を唱えるので
あれば別に止めはしませんが、それが学会に受け入れられるかどうかは保証で
きません。
大文字ナン さんへ
私の説明が悪かったようで、誤解されているので説明させていただきます。
>神は人間を愛した。つまり人間はほかの生き物とは違う「特別に愛されたイキモノ」であり、
そのとおりですが、次からがちがいます。
>さらにはキリスト教信者はもっと特別で、さらに聖書原理主義こそ「サイキョーに愛されてる」という理解で良いのなら、優性思想とまるっきり変わりないんだな
キリスト教信者(特に聖書原理主義者)はあらゆる人の中でもっとも愛されている、と
いう意味で書かれたように思いましたが、もしそうであるなら、それは違います。
信者であるからとか、正しいことをしているから、という理由で愛するのは人間で
あって、神は信者も信者でない人も同じように愛されています。「父は悪人にも善
人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからであ
る」(マタイ5:45)。それだけではありません。「敵であったときでさえ、御子の
死によって神と和解させていただいたのであれば」(ローマ5:10)とあり、キリスト
は、信者のためばかりではなく、未信者それもキリスト教に反対している人のために
死なれたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタ
イ9:12,13)ともあります。キリストがもっとも愛しておられるのは、正しい人では
なく罪人です。その観点から言えば、キリストは信者でない方の方を信者よりも
愛していると言えます。「聖書原理主義者がサイキョーに愛されている」とは全く
全く考えていません。
谷庵さんへ
>何を信じようと勝手だが、他人を救済しようなどと考えるのだけは勘弁して欲しい。
「とにかく信仰ありき」の人は、私にはとっても不気味です。
宗教を押しつける気はありませんが、キリスト教に限らず、どの宗教も自分だけ
ではなく他人も救済しようと思うのではないでしょうか。宗教はお嫌いのようですが
世界ではほとんどの人が何らかの宗教を持っていて、宗教を持つのがむしろ普通
だと考えています。
PDXさんへ
>創造論を「科学」(=自然科学)として機能させようとした場合、斉一主義をどこ
まで適用してどこで放棄するのか、明確な定義はあるんでしょうか?
また、それはよく言われるように反証可能なものなのでしょうか?
明確な定義があるのか私は知りません。ただ、私は時間的にはノアの洪水が分岐点に
なるだろうと思います。ノアの洪水後の地球は現在の地球と大きな差はないと思いま
すが、洪水前の世界は大きく変わっていたはずです。洪水前の地球には雨がなかった
ことを聖書は記しています。また、人間の寿命も1000年近くあったことが記されてい
ます。また、アダムが罪を犯すまでは死がなかったわけですから、罪以前と罪以後の
地球も大きく変わっているはずです。それらは斉一論では説明できないものだと
思います。こうしたことを考えるとき、洪水前の世界(創造時も含む)を考える際
現在観測される結果から全てを判断することには無理があります。地球上に雨が降らず、
人間が950歳まで生きることができる条件を仮定して考えるのが創造科学の立場です。
洪水前の地球については、斉一論で論じることはできません。「洪水以前の地球は
現在と同じではない」とは考えていても、具体的にはどうなっていたのかよくわ
かっていないので、反証もできないのではないでしょうか。ただ、反証可能性が
科学であるかどうかを決める唯一の定義でもないと思います。洪水以前も現在と同じ
であると考えなければならない理由はないと思います。科学というものが真理を
求めるものであり、事実の確認作業であるなら、斉一論のみ採ることが正しいという
わけではなくなります。
おずおずさんへ
>あなたと意見(信仰)を異にする人に対して、あなたはどういう態度でつき
あわれるつもりでしょうか?
自分の信仰を押しつけはしませんが、機会を見て自分は何を信じているのか
紹介すると思います。話したからと言って、相手がすぐにそれを信じるとは思
えないので、あきらめるというより、次の機会を気長に待つという所でしょうか。
これまでもそういうつもりで発言してきたつもりですが、信仰の押しつけに聞こ
えたのでしたら、お詫び致します。
本題と外れて恐縮します。田代広義と上原多香子云々という名前(tassyなどの
別名を使う場合もあります)で長たらしいメールを送った奴がいると思いますが、
出会い系サイト業者です。
hotmail.comとか、yahoo.co.jpの無料IDサービスを利用していますが、Yahooに調査を
頼んだところ、インターネットカフェなどを利用していて、サーバーを変えていて、
巧妙悪質だということです。
サーバーaa2003020685003.userreverse.dion.ne.jpを利用したことがあるところまでは
わかっています。
尚、田代正義というのは、犯人が嫌っている人のようで、悪質な人権侵害です。
ありがとうございます!今日だけは、みなさんの言葉が聖書より嬉しい(クリスチャンの方々ごめんなさい)。
wadja様
うれしい気持ちが伝わってきます。
そんなわで、、
おめでとう、wadja様!
星野ーっ!ありがとう!
阪神優勝(リーグ)万歳!
途切れてしまって、修正しようにもなぜかここではクッキーが効いていない。なんでだろ。
saniku-aiki様
なので、どのような返答をいただけるにしろ(無視なさってもかまいません)私としては議論終了と考えております。
いろいろ収穫はありました。
ありごとうございました。
また、家主様を始め他の常連さんのみなさま、突然乱入いたしまして申し訳ありません。
そのうちまた、参ります。そのときは相手してやってください。
では。
saniku-aiki様
科学的創造論が、科学的でありうるためには
「神の前提なく、神の存在を証明すること」
が必要だということがわかりませんか?
「いや、科学的創造論を主張するつもりはなく聖書の正当性のみを主張する」とおっしゃるのであれば、
(私は)気持ちよく議論を終了することができるのですが。
「これは科学的な話だ」とおっしゃるのであれば、私は根拠を示せといいますし、私の考えの根拠は示しました。
いまのところ、saniku-aiki様は、「根拠は私の頭の中にある!」としかおっしゃっておりません。
・聖書に書いてあるから神はいる。
・神はいるのだから聖書はただしい。
これは循環論法と言うものです……。
>なんだかねぇさん
「なんだかにいさん」ていうHNも有りだな(笑)
複数の福音書が正統なものとして認められてきた事の意味、ぽんさんの仰りたいことは充分伝わっております。
それに、ぽんさんが知ったかぶりしているとも思えない。他の誰かは知ったかぶりしたいようですが。
まあ、詰まらない所に脊髄反射的に突っ込むと自分が恥をかく、という好例ですなぁ・・・
>4つ選ばれたゆうんが正確やわ。
すんません。言葉遣いが不正確でした。
(言いたかったことは伝わったと思いますが。)
ま、確かに知ったかぶりはよくありませんね。気をつけます。
大学生時代、友人がひでぇ男に引っかかった。
うちらは、その男が色んな女の子に手を出していること、
彼女に酷い暴力を平気で振るうことがおかしいということ、
そして、彼女が彼のために平気でお金を使うことや、彼にどんどんお金を
貸すことが絶対変だ!!と主張した。
そして、何度も別れることを助言した。
でも、彼女は彼を「信じ」ちゃっていて、目の前の数々の「証拠」にも
関わらず「彼は自分を愛してる」「彼は素敵」と疑わなかった。
結局最後には、彼女は彼に殴られて鼓膜を破られ、その上さんざん脅されて
お金を取られてやっと別れたけど。
まぁ、これは極端な例だけど、恋は盲目ってのは、誰にでも当てはまるかもしれないと思います。
私も、なんでこの人と結婚したのかなぁって思うことがある。
別に、色んな男性を見比べて付き合い比べて、比較検討・批判分析した結果、
一番素晴らしい男を選んだ訳じゃない(そんな比較検討できるほどもてたわけじゃなし)。
まぁ、縁とか、相性とか、かなぁ。
信仰っていうのもそうなんじゃないかなぁ、って思うんです。
私は、こことあちらの掲示板の書き込みで、クリスチャンではない皆さんの考えに
とても感心し、共感することが多いです。
そして、面白いと思ったことに、それは、私が「聖書」から学んだことと
一致することが多いんです。
それは、何を表しているかというと、つまり、
「聖書は何も特別な(一番素晴らしい)書物ではない」
「イエスは何も特別な(一番素晴らしい)ことをしたのではない」
ということにもなるのではないでしょうか。
こういうと、じゃぁ、なんでお前はクリスチャンなんだよ、って言われるかもしれない。
でも、人は世間一般的に見て、特別、一番素晴らしい人間じゃなくっても、
自分にとって特別な人と結婚することがあるのと同じように(結婚しなくても一人で
たのしく生きていくひとがいるのとも同じように)、私にとってはたまたま聖書は特別
な書物で、イエスという人が特別な人だっていうだけなんだと思う。
きっと、自分の恋人のことを
「こんなとこがこんな風にこんなに素晴らしいから、みんなも好きになるべき!」
って主張する人がいたら、かなりヒンシュクを買うと思う。
布教って実はそんなことをしてることが多いんじゃなでいしょうか。
それよりも、
「いや、別に特別すごいひとじゃないし、欠点も沢山あるけど、
私にとっては特別な人なんだ」っていうほうが自然じゃないかなぁ、、
そのわりには、私は「聖書は実は素晴らしい書物なんだよ!」ってここで結構宣伝
している気もするが、、、
・・・こんな風に聖書とキリスト教の「ネガティブキャンペーン」を張られちゃうと、
「いや、ヤツもホントは結構いいとこあるんですわ・・・」と口出ししたくなるもの
人情でして・・・^^; スンマセン・・・
to:なぜ福音書は4つあるか。 投稿者:ぽん
「4つある」ゆうんは、変ちゃう?
4つ選ばれたゆうんが正確やわ。
ナザレ人福音書 エビオン人福音書 へブル人福音書 エジプト人福音書 ヤコブ原福音書 ペテロ福音書 ニコデモ福音書
知ったかぶりはあかんで
>「唯一絶対に正しいもの」として一つの文書が出来上がるということを危険視したからこそ、
>4つの別々の見方をあえてそのまま載せたのだそうです。
全員一致は危ない、というユダヤの知恵ですか。なるほど。
To saniku-aiki さん
>進化論側から言えばそうなるのでしょうが、何度言われても、
>私に言わせれば、「創造主の存在」を見るようにするかぎり
>創造論が正しいのです。創造主が見えていない進化論者の方が
>私は盲目だと思います。
おっしゃいたいことはわかります。
>「創造主の存在」を見るようにするかぎり創造論が正しい
というのは、原理主義的な信仰者の立場から見れば当然の考え方だと
思いますし。
ただ、世には原理主義的ではない信仰者の方々もおいでですが、
saniku-aiki さんにとっては彼らもまた創造主が見えていないという
ことになるんでしょうかね?
まぁキリスト教にもいろいろと宗派があるし、おそらくどこの宗派
も「うちだけが正しい」と主張しているでしょうから、saniku-aiki
さんも当然、ご自分の信仰に基づく解釈こそが正しいと確信していらっ
しゃるんでしょうけど……。
>創造主が見えていない進化論者の方が私は盲目だと思います。
これだけ進化論者と議論なさっていて、この言葉はないんじゃないかな?確かにsanikuさんの思い描く創造主は、進化論と対立するかも知れません。でも進化論はあらゆる創造主を否定するわけでもなく、また特定の創造主を肯定する訳でもない。だからこそ、ある創造主の存在を信じていても、進化論を許容できる人たちも存在し得ます。上記の発言は「ぼくの信じているこの創造主がぜったい正しいんだもんねー。他の創造主を信じている人や、この創造主や信じられない人は、みんな馬鹿だ。」といった、小学生レベルの主張を連想させます。
>逐語霊感ではなく思想霊感の立場です。
これって、saniku-aikiさんの重要なパラダイムの変化の様な気がしますが、wadjaの勘違いでしょうか?そうなると、聖書には寓話的な要素も含まれ得るということでよろしいのでしょうか?
>天地創造の時、神が作られた世界には罪がありませんでした。従って死もありません。
といった、解釈も寓話として解するのであれば、特段進化論に目くじらを立てる必要はなくなります。仮にアダム以前に死がなかったのなら、なぜ神はそれ以前にも死があったように見える科学的な証拠をこれほどたくさん残したのか、考えるべき話だと思うな。
・スコープス自身には有罪判決が下された。
・しかし、判決が正当な手続きを取っていなかったので無効になった。
ヒストリーチャンネルで「進化論裁判(スコープス裁判)」を取り上げた番組があったのですが、その番組では言っていたのは、
最初から町おこしを目的に裁判は起こされた
ということです。
進化論についての裁判ということは知っていても書籍は読んでいなかったし映画も見ていなかったので、思わず「へぇ〜」とうなってしまいました。
補足トリビア
1.スコープス先生は進化論についての知識はなかった
2.スコープス先生が勤務していた学校の教科書には進化論についての記述があった
saniku-aikiさん、お返事ありがとうございます。
>神の意志と思想が人間の意志と思想に結びつき、こうして人間の言葉が神の言葉になる
のです。逐語霊感ではなく思想霊感の立場です。
なるほど、あなたの考えは理解しました。saniku-aikiさんの信仰はsaniku-aikiさんの大事な宝ですから、私はそれを汚すつもりも奪うつもりもありません。ただ、どうやらあなたは一般論として「聖書は事実だけを述べている」と主張しているようなので、それはおかしいでしょう、と返していることはご理解いただきたい、と思います。
さて、逐語霊感ではなく思想霊感である、とのことですが…
『進化は間違いで、創造があり、聖書は無謬である、と思いたい』
のであれば、どうぞご自由にしてください、というのが私の立場です。そういう思想を持つことは自由です。
言うなればそれは、目先の勝負には負けたように見えるけれど、勝ったのは自分だ、と思いたい「願望」なのですから、事実から逃避し、神と聖書に無謬を覚えることも道理かと思います。自分の信仰という「獲得利益」の死守バイアスをかければ、都合の悪いことは見えなくなるでしょうし、都合の良いことはとてもはっきり見えて、しかも「思想霊感」によって見えないことまで感じることが出来るのでしょう。はっきり言って酔っ払いと一緒ですが、その手の願望を妨げることは出来ません。どうぞ邁進してください。
saniku-aikiさんへ
>こうして人間の言葉が神の言葉になるのです
なぜ、福音書が4つあるのかご存知ですか?
キリスト教の歴史の中で幾度となく「一つに統合しよう」という動きがあったにも
関わらず、それが非常に危険な考えだとしてその度に退けられてきたという事実はご存知ですか?
なぜ、それが非常に危険だと思われてきたか理由をご存知ですか?
「唯一絶対に正しいもの」として一つの文書が出来上がるということを危険視したからこそ、
4つの別々の見方をあえてそのまま載せたのだそうです。
一つの見方だけを正しいと信じる「原理主義的」な人間の危険を知っていたのでしょう。私に言わせれば、聖書は「こうして人間の言葉が神の言葉になる」危険を
避けようとしたのだと思います。
また、ユダヤ教では、聖書に載っている物語を「字にする」「文書化する」ことをずっと
避けてきた歴史は知っていますか?ずっと口伝を大切にしていたことを知っていますか?
にもかかわらず、最終的に文書化(旧約聖書が成立)してしまったのは、
ユダヤ教が滅びる危機に「やむを得ず」文書化したという歴史を知ってますか?
文書化すると、言葉が固定化されてしまうのをユダヤ教は恐れたのです。
古代人は既に、「原理主義的」な人間の言動の危険を知っていたのでしょう。
にもかかわらず、人間は進歩しないなぁ・・・
3ETさんへ
>証拠は目の前にあります。眼を開けば見えます。
でも見ようとしていないから、盲目だと言っているわけです。
進化論側から言えばそうなるのでしょうが、何度言われても、
私に言わせれば、「創造主の存在」を見るようにするかぎり
創造論が正しいのです。創造主が見えていない進化論者の方が
私は盲目だと思います。
大文字ナンさんへ
>聖書崇拝は偶像崇拝ではありませんか?なお、イエスは「聖書を信じろ」と
言ったのでしょうか?
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(2テモテ3:16)たものであり、
「神の言葉」(ローマ3:2)です。「 あなたたちは聖書の中に永遠の命がある
と考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをする
ものだ」(ヨハネ5:39)とイエスは言われました。イエスが聖書と言っているのは
旧約聖書のことですが、「モーセは、わたしについて書いているからである。
しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを
信じることができようか。」(ヨハネ5:46,47)とも言っており、聖書には自分の
ことが書いてあり、聖書を信じ、イエスを信じるように言いました。新約聖書に
関して言えば、イエスの「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」
(ルカ10:7)の言葉を、パウロは聖書の言葉としてとらえています(1テモテ5:18)。
旧約新約ともに聖書はあやまりなく神の言葉なのです。ですから、イエスはサタン
に試みられたとき、「……と書いてある」(マタイ4:4)と聖書の言葉で応戦し、
聖書の権威を強調されました。イエスはあらゆる人間の知識に勝る権威として
聖書を認めていたのです。創造論者が全てにおいて聖書の権威を認め、優先するのは、
イエスの真似をしているに過ぎません。なんといっても、イエス・キリストは
聖書を読む限り、れっきとした創造論者であり、進化を容認する余地は残されて
いません なお、聖書は神の霊感を受けて書かれたといっても、人間が書いています。
聖書を書いた人は、神のペンではなく、筆記者です。神の霊感は人間の言葉や表現
にたいして働くのではなく、人間の思想に対して働くと私は考えています。神の
意志と思想が人間の意志と思想に結びつき、こうして人間の言葉が神の言葉になる
のです。逐語霊感ではなく思想霊感の立場です。
おせっかい様、新改約では「それを取って食べる(その時)、あなたは必ず死ぬ。」とあります。「そこをどきなさい。この少女は死んだのではない。眠っているのです。」
マタイ8章22節では「私のあとに従い続けなさい。そして死人に自分たちの死人を葬らせなさい」ともあり、物理的な死そのものには触れておられません。
マタイ8章32節には有名な『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。とのみ言葉など、正に聖書は霊と真理によって読まれるべきではありませんか。
saniku-aikiさんへ
>その裁きの結果、罪があると判断された者には「第2の死」(黙示録20:6)が待っています。この第2の死を免れる方法はないか。愛の神は人間を何とかして救おうと考えました。
イエスが人の罪を背負って死んだ結果、この第2の死を免れる道ができたという事ですね。
理解しました。
で、質問はまだ胸の中に残っていますが...他の人から色々質問されているようなので、落ち着いてからにします。
では
聖書を読んでみましたが、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と書かれていました。
食べるとすぐに死ぬとは書かれていないので930年後に死んでも別に良いんではないでしょうか?
病原体も死なないから免疫も役に立たず永遠の病苦が……
>「人間を含む全ての動物に光合成能力を持たせて世界を平和にしよう」
こりゃまたF助教授の喜びそうなことを(w
始めまして 私は所謂バプテスマを受けたクリスチャンではありません。
suniku-aikiさんはたまに見受けられる何処かの教会の牧師さんではないかと思うのですが、創世記にはアダムが善悪の知識の木の実を(食べた日)に「あなたは死ぬ」と神から宣告されています。でも実際には食べたその場では死なずに900年以上経ってから死んだ事が記載されてあります。ではこの部分は聖書の矛盾なのかと言うとそうではなくて、これは「霊的な死」の暗喩。聖書を読んでみるとイエスの言葉などからもこの事が伺われる記述がありますよ。
進化論を信じるクリスチャンにどうのこうのより、今一度ご自身で聖書を赤子のように読まれては如何でしょうか? 通りすがりで失礼致しました。
>従って死もありません。当然肉食もありません。ライオンもトラも草食でした。
「人間を含む全ての動物に光合成能力を持たせて世界を平和にしよう」というボタニカ協会の方が
神様より上手だなぁ(w
>私の意図は進化論者を攻撃すること
>ではなく、創造論者の考えに同意してもらえないにせよ、その考えを正しく知って
>もらいたいという点にあります。
saniku-aikiさんの考えは、存分に正しく知ることができました。正しく知る=同意する、ではありませんのでね。saniku-aikiさんの考えが創造論者全員の考えかどうかは私にはわかりませんが。
>私のこれまでの経験では、「聖書をどう見るか」、
>「神をどう見るか」といったところに大きな隔たりがあるように思います。
saniku-aikiさんが「聖書をどう見ているか」「神をどう見ているか」ということはわかりました。当然ながら同意はできません。大きな隔たりがあるのは最初からわかっていることです。
>私はその隔たりをなくすために今発言を繰り返しています。
隔たりをなくすという意味は「saniku-aikiさんと我々の聖書や神への見方が一致する」という意味ですね? その場合2つの道があります。ひとつは我々が見解を変えてsaniku-aikiさんに同意する道。もうひとつはsaniku-aikiさんが見解を変えて我々に同意する道です。前者は無理ですから後者の道を試みられることをお勧めします。
なんでこんな初歩的なことを言わねばならん?
JA50さん
M.ガードナー「奇妙な論理」くらいしか手に入りやすい日本語文献はなさそうですね。英文サイトだと色々ありますが。
http://www.burgy.50megs.com/omphalos.htm
http://www.roizen.com/ron/omph.htm
理論そのものは簡単で子供でもわかるものですけど。
>私の意図は進化論者を攻撃すること
>ではなく、創造論者の考えに同意してもらえないにせよ、その考えを正しく知って
>もらいたいという点にあります。
貴殿がYahooに登場しているときからわかっているつもりなんじゃがのう
ワシは今、実はsaniku-aiki殿が反クリスチャンでキリスト教のネガティブキャンペーンを
行っているのではないかとチョット思っているんじゃが・・・
#だとしたら、大成功じゃな
> 天地創造の時、神が作られた世界には罪がありませんでした。
> 従って死もありません。当然肉食もありません。ライオンもトラも草食でした。
時々、エホバの証人のお人が尋ねてきて、頼みもしにゃーのに冊子をおいてくんだけどさ
その手の冊子によく
羊やウサギとライオンやら犬やらが田園で仲良くしている絵が描かれているのね。
心の底からげんなりする絵なんだけど
世の中にはそういう絵をみて「すばらしい」と感じるお方が現実にいるらしいですよにゃ
その事実にさらにげんなりだにゃー
だぶっておりやせんね?
あっしゃぁなにを勘違いしたんでやしょう?
なんにしても、どうもすいません。これで終わりにしやす。
(管理者注):明らかなダブりのミス投稿はこちらの判断で削除することがあります。
てめえのトンチキで、れすがダブってしまいやした。
しかも手荒く場違いだったようで。
皆様がたには、どうぞ平にご勘弁を・・・
ご教示ありがとうございます。
なるほど、聖書をそのように解釈すると、そういう信仰になるのですね。
参考になりました。
ちなみに、saniku-aiki さんが引用されたイザヤ53:4-6は、私もとても大切にしている
言葉で、よく読み返しています。
あと、『わたしの兄弟であるこの最も小さいものの一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』(マタイによる福音書25章40節)
も、私がいつも肝に銘じている言葉です。
この世界で最も小さきもの、といえば、だれか。
その人たちに、私たちは一体なにをしているのか。
現実を直視すると、先進国の富(軍需・石油産業の利潤・南北格差を無視するわけには
いかない)を享受しているクリスチャンとして、この言葉が非常に鋭く迫ってきます。
そして、イエスに従っていこうと決心する(イエスの生き方を指針として生きようとする)
とはどういうことなのかをあらためて考えざるを得ません。
なぁんちゃって、ここはクリスチャン同士が各々の聖書解釈を披露するところじゃねぇよ!
ってヒンシュクをかいそうなので、ここで止めときます・・・^^;
「議論するつもりもない」と書いたのに、ついつい、、、失礼しました…>ALL
一つ、質問です。
>>どちらの「奇跡」も、私にとっては神の存在の証明にはなりません。
>どんな奇跡が起きても、それを見て全ての人が神の存在を認めるわけではないと
>私は思っていますから、ぼんさんのお考えは理解できます。
>聖書にも「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らは
>イエスを信じなかった」(ヨハネ12:37)と書いてあり、イエスの奇跡を見ても
>信じなかった人がいたことを示しています。
ということは、saniku-aiki さんは、私が例に挙げた9.11のテロの成功も、
ブッシュ+ネオコンがアメリカの政治を牛耳る力を持てたのも
奇跡(神の業)であり、神の存在を証明しているとお考えなのでしょうか?
> 天地創造の時、神が作られた世界には罪がありませんでした。
> 従って死もありません。当然肉食もありません。ライオンもトラも草食でした。
きっと本気で言ってるんでしょうが…植物には命がないのですね?少なくとも、キリスト教的(いや、聖書教ですね、もはや)の立場では、動物には霊性(あるいは魂とか)があるから「死」があって、植物にはそれがない、ということでしょうか。馬鹿としか言いようがありません。
> その意味では、進化論者のクリスチャンには「クリスマスおめでとう」の意味がわかっていないと思います。
なんというか…そんなことじゃ地球に平和なんか絶対にこないな、と思いました。
>>決定的なことは、進化論を受け入れると言うことは
>>アダム以前に生物の死を認めるので、キリストによる救いを否定すること
>>になるからです。
>この教理は聖書のどの箇所を根拠にされているのか、ご教示ください。
「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とあり、逆に言えば罪がなければ
死もありません。天地創造の時、神が作られた世界には罪がありませんでした。
従って死もありません。当然肉食もありません。ライオンもトラも草食でした。
「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を
食べさせよう」(創世記1:30)。
しかし、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べて、罪がこの世界に入りまし
た。ローマ5:12「 このようなわけで、一人の
人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に
及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
その結果、全ての人は罪人となり、神の裁きの結果死ななければならなくなり
ました。死には2種類あります。正しい人も悪人も同じように死にます。これは
第一の死と呼ばれるものです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを
受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と聖書は述べています。全てのものは
死後神の裁きを受けるために復活します。その裁きの結果、罪があると判断された
者には「第2の死」(黙示録20:6)が待っています。この第2の死を免れる方法はな
いか。愛の神は人間を何とかして救おうと考えました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)それは、御子キリ
ストが人間の身代わりとして、罰としての「死」(第2の死)を受けると言うこと
でした。
なぜキリストが死ななければならないのか。それは「血を流すことなしには罪の
赦しはありえない」(ヘブル9:22)からです。キリストは「世の罪を取り除く神
の小羊」(ヨハネ1:29)となられたのです。「神がわたしたちを愛して、わたした
ちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
(1ヨハネ4:10)
では、いったいキリストが背負われた世の罪とは、人間以外のものも含まれて
いたのか。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」
(ヘブル9:28)とあり、キリストは人間の罪を背負ったのです。そうでなければ
キリストが人間の姿を取られた意味がありません。旧約聖書にもこうあります。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み
であったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は
苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり
/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめ
によって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちは
いやされた。……そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イ
ザヤ53:4-6)ですから、キリストの死は私たちのためであって、決して三葉虫の
ためではないのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたし
たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され
ました。」(ローマ5:8)「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの
罪のために死んだ」(1コリント15:3)
そして、このキリストを信じることで、人は誰でも救われると聖書は言っています。
「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの
人が正しい者とされるのです。」ローマ5:18-19
もし、人間が罪を犯さなかったのだとしたら、なぜ「私たちのために」
キリストは死なれたのでしょうか。単なる一般の死としてではなく、
「私たちの罪のため」のキリストの死は、人間がそのままでは救われないこと
を宣言しています。進化論を正しいとすることは、キリストの死を無意味にする
ことであり、私たちのために命を投げ出されたキリストの愛を無視することであり、
キリストが人として生まれてきたことの意味を無視することになるのです。(私た
ちのために死なれたのでないなら、私たちのために人として生まれくる必要はない。
犬でもいいし、三葉虫でも、大腸菌の姿を取っても良かったはずである。)
その意味では、進化論者のクリスチャンには「クリスマスおめでとう」の意味が
わかっていないと思います。
お話が盛り上がっているところ、失礼いたしやす。
ちぃと面白ぇモン見つけやしたんで、お知らせにめぇりやした。
ご存知のお歴々にゃあ、おかたじけでやすが、まぁちょいと試してやっておくんなせぇ。
え?なんでこんな文体なんかって?
ま、そいつぁ見てのお楽しみってことで・・・
そうそう、こいつぁ「じゃばすくりぷと」ってぇやつが大の苦手なんで、こちらの掲示板にゃぁ使えねぇかもしんねぇ。おいらぁだめだったね。
けどよ、NATROMさんのHPや、つりー式掲示板、それにこの掲示板の過去ろぐにゃぁでぇじょぶそうだから、ま、笑ってやっておくんなせぇ。
そいじゃ、ごめんなすって。
To saniku-aiki さん
>創造論者はそんなに攻撃的だとお考えですか。
少なくともアメリカの創造論者は、科学的に進化論を論破するのではなく、
法律を作って授業から締め出すという政治的努力で進化論を口に出来ないよう
努力する程度には攻撃的なようですが。
これが成功するなら、聖書と矛盾するかぎり天文学でもなんでも学校の授業
から追放するよう努力するのではないでしょうか。
また、エルドリッジの『進化論裁判』ですとか、グールドの著書をお読みに
なって戴ければ、アメリカの創造論者のかたがたが進化論を否定するために、
生物学者や地学者の著書から言葉を引用するさいに、前後の脈絡を無視して
限定的な引用をしたりして読者を欺くことを行っています。
このような「明らかな歪曲」は「嘘」であり「欺瞞」だと思うのですが、
信仰の為なら人を騙すことをあなたは許容できますか?
そんなことをするのはごく一部の過激な連中にすぎない、とお思いでしたら、
彼らに対してそのような欺瞞をやめるよう、良心ある創造論者として説得して
いただけないでしょうか、とさえ思います。
おせっかいさん
>何と言っても神は「光あれ!」と言われて無から光を創造された方ですから、
その話はウソ!(笑)
おそらくおせっかいさんがここにアドレスを載せたのをきっかけに、あのHPの掲示板にツッコミが入っていえもりさんがトンチンカンな回答をし始めてますよ。ここに書いたのが原因なら本当におせっかいでしたね。
>saniku-aiki
ノアの洪水で化石ができたなら、化石から得られる事実はノアの洪水を否定しているって、ずっと前に指摘したじゃないですかぁ。
頭、大丈夫?
「聖書のみ」の信仰者のsaniku-aikiさんにお尋ねします。ヤフー掲示板でも尋ねましたが、きちんとした回答をもらっていません。
・蛇はカエルなどの小動物ではなく、塵を食べるとお考えですか?
とうぜん、「聖書のみ」の信仰者であれば、「Yes」という返答であろうと愚考しますが、たしか、「口が非常に土に近づくことを表している」「食物として『塵』を食べるのではなく、一生の間隷属的な立場におかれることを意味している」という解釈をお取りになったはずです。そのような解釈は、聖書に書いてあるのでしょうか?それとも、人間が考えた解釈でしょうか。人間による解釈が絶対に正しいと言えるのでしょうか?科学よりも信仰を優先させるのであれば、科学者が蛇の食べ物についてどう言おうと、あるいは蛇がカエルを食べるところをその目で観察したとしても、聖書の記述を優先させるべきではないでしょうか。なにしろ、聖書には「蛇は塵を食べる」とはっきり書いてあります。科学や人の目は間違いうるのです。
「蛇は塵を食べる」という「聖書のみの信仰」を持っている人は、科学の時間に、「蛇はカエルを食べるというのは間違いで、本当は塵を食べるのだ」と教えることでしょう。「口が非常に土に近づくことを表している」などと解釈する聖書学者は、科学者にとって都合のよい聖書解釈をしているのであって、そうした聖書を信じない学者は悪魔と同じとみなすでしょう。蛇がカエルを食べるという説は神の不在を前提にしている、と考えることでしょう。神の存在を前提にするならば、とうぜん蛇は塵を食べているはずだからです。確認できるすべての証拠が、「蛇は塵を食べている」証拠となると考えることでしょう。こうした一連の考え方は正しいとお思いでしょうか?
> でも、私が言う前から、創造論者は進化論者は間違っていると言っているわけです。私の意図は進化論者を攻撃することではなく、創造論者の考えに同意してもらえないにせよ、その考えを正しく知ってもらいたいという点にあります。私のこれまでの経験では、「聖書をどう見るか」、「神をどう見るか」といったところに大きな隔たりがあるように思います。
> 私はその隔たりをなくすために今発言を繰り返しています。
saniku-aikiさん、あなたは「矛盾」という言葉をもちろん知っていますよね。あなたが聖書とどのように対峙し、信じているのか、は理解しているつもりです。しかし、あなたがた聖書原理主義に傾倒する方々がいくら「信じた」ところで、事実として進化の証拠は枚挙にいとまがありません。創造科学は科学ではなく、単に「こうであって欲しい」という「願望の体系」に過ぎません。神を信じればそれらの事実が見えなくなる、というのでしたら、それは目隠しをしているのと同じことです。
私は、進化論を覆すきちんとした証拠があれば、いつでも今ある進化論以外の理論を受け入れます。しかしそういう理論はなく、地球には進化の証拠が溢れているし、アダム以前にも死はあっただろうし、地球は一万年以上の年齢であると観測されるのです。あなたは、そういう事実を「受け入れ難い」のであって、それが事実ではない、と言い張るのでしたら、それは欺瞞で、つまり嘘つきです。
ひたすらに目を閉ざし、知見を得ようとせず、己の信じる聖書以外は認めないという姿勢に、私は違和感を覚えます。
#何度も言いますが、saniku-aikiさんが何を信じようと好きにすればいいのです。ただし、創造科学は科学ではなく、進化はほぼ揺るぎのない事実です。信じることと、暫定的に採用していることの差がお分かりでしょうか?
3ETさんへ
>残念ながら(確認できる)すべての証拠が、救いがないことを指し示していることにな
ります。
もし進化論が正しいのであればそうなります。しかし、私はむしろ確認できる
進化の証拠とされているものがかえって創造論の証拠になっていると考えています。
たとえば、化石はノアの洪水の証拠だというように。
ぼんさんへ
>どちらの「奇跡」も、私にとっては神の存在の証明にはなりません。
どんな奇跡が起きても、それを見て全ての人が神の存在を認めるわけではないと
私は思っていますから、ぼんさんのお考えは理解できます。
聖書にも「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らは
イエスを信じなかった」(ヨハネ12:37)と書いてあり、イエスの奇跡を見ても
信じなかった人がいたことを示しています。本当は奇跡を見ないでも信じるのが
一番いいのですが、信仰の弱い人間のために神は奇跡を通して神の力を示してい
るのだと思います。
RYU_TI_SYU さんへ
>そこらの寺院に乗り込んで「君たちは間違ってる」って言うんじゃな。
創造論者はそんなに攻撃的だとお考えですか。私がここで発言していることも
見方によっては、確かに進化論者のページに乗り込んで「君たちは間違っている」と
言っていることになりますね。でも、私が言う前から、創造論者は
進化論者は間違っていると言っているわけです。私の意図は進化論者を攻撃すること
ではなく、創造論者の考えに同意してもらえないにせよ、その考えを正しく知って
もらいたいという点にあります。私のこれまでの経験では、「聖書をどう見るか」、
「神をどう見るか」といったところに大きな隔たりがあるように思います。
私はその隔たりをなくすために今発言を繰り返しています。
ゆんさんへ
こちらこそ私の書き方がお粗末なために誤読をさせてしまい、
無駄な時間を使わせてしまいました。どうもすみませんでした。
光の速度は変化しているんだが、さも一定であるかのように見せることくらい、簡単だろう。さらに、この宇宙がさも137億年前にビッグバンで始まったかのように見せることも簡単。
そして、進化がさもあったかのように作ることも簡単だろう。あたかも、進化論が正しいかのように、神様がこの世界をお作りになったのだ。
しかし、実際は6千年前に7日間で作ったと。
この仮説を否定することは、人間には不可能です。
ただ、キリスト教徒には、この主張は不評らしい、、、(^^)
>何と言っても神は「光あれ!」と言われて無から光を創造された方ですから、
>光の速度を変えるぐらい簡単なんじゃないんですか?(^^ゞ
そうかもしれんのう・・・
じゃが、ここでの話は
「神が光速を変化させることが可能か?」
ではなく、
「光速が昔と今で変わっていたら観測結果と矛盾するのではないか?」
ではないじゃろうか?
実行可能なこと≠実行したこと
何と言っても神は「光あれ!」と言われて無から光を創造された方ですから、
光の速度を変えるぐらい簡単なんじゃないんですか?(^^ゞ
saniku-aikiさん こんにちは。トトロと申します。
横レス失礼します。
> 「長い年月」(何億年という単位)という当たり前に見える観測結果にすら、
> 創造論者は否定しています。たとえば、光速は不変という仮定の下に放射性年代を
> 測定しているはずですが、もし、変わっていれば計算上地球の年齢は1万年以下
> にもなりえます。神が光の速さを変えた可能性というのも考えてもいいのでは
> ないでしょうか。
diamonds8888x さんがすでに書かれているように、現在の原子物理学では、原子核の
崩壊と光速度の間に何らかの関係を見出してはいなかったと記憶しています。
saniku-aikiさんが上記のように記される理由をお教えください。”計算上”と記され
ているですから、光速度と半減期の間の関数式をご存知のはずですので。
また、上記の文からは過去を計るスケールは、同位体の半減期による方法しかないと
思われているようです。このWebページにもありますが、たかだか1万年程度の過去
ならば、複数の年代測定方法があります。
もし、ある資料に対してこれら複数の年代測定方法による結果が一致していたら、
光の速度は一定だったという証になりますか?
> 進化論者は、その理論にあう仮定しか取りません。その仮定が正しいと証明されて
> いないにもかかわらずです。
これは、理論が逆立ちしています。科学的手法とは、再現性のある観測結果を説明する
ために仮説を立て、それが、より一般的に成立することが証明できて、理論となります。
> 神は万物を支配されている方なので、当然全ての科学法則も支配されており、その
> 法則に縛られません。だからといって、何でもかんでも神は科学法則を無視すると
> 言うわけではありません。創造論科学者たちは、どんな仮定の下なら、法則を無視
> しなくても良いかを考えているのです。「〜はありえない」という言葉は神の前で
> は無意味です。
もし、全ての科学法則に縛られない存在があるとしたら、その法則性を考えることは
意味がありません。もし、”何でもかんでも神は科学法則を無視する言うわけではあ
りません”のなら、無視しない法則が存在するわけであり、矛盾します。
しかし、私は上記の文章が創造論科学者の方法をよく現していると思います。つまり、
観測事実のうち、自分たちに都合の良い部分だけを”神の意思”として選び出して
理屈をつけるわけです。自分たちに都合の悪い部分には”超越者”のせいにしてしま
えば良いわけです。
saniku-aikiさんは、自らこのように書かれているわけですが、これが正しいとお思い
ですか?
saniku-aikiさん こんばんわ
横レス失礼します。
>進化論をうけいれるクリスチャンは、「聖書のみ」の信仰ではないか、
>進化論の持つ意味に気付いていないからだと思います。
言葉が気になりました。”「聖書のみ」の信仰者”というのは神では無く聖書を信仰としているという意味でしょうか? すなわち、saniku-aikiさんの心の中(または心の向こう側)には神は居ないのでしょうか? そんな事は無いと思います。
>もし、進化が事実なら、人間登場以前に死があることになり、
>キリストは人間のために死んだのではないことになります。
なるほど。イエスはアダムがリンゴを食べた罪を償うため死んだということですね。
しかし、キリストが罪を償ったにもかかわらず、動物も植物も死に続けています。これではキリストの死が無駄になってしまうのではないでしょうか?
全ての人間がイエスを信じる事が不死への条件ということでしょうか?
>もし、新しい種が誕生する前に生物の死がなかった(=「化石」は存在し
>えない)のなら、創造論者も進化を受け入れることができます。
アダムがリンゴを食べた後、今現在は進化が存在するという考えは受け入れられる考えなのでしょうか?
p.s.
RYU_TI_SYUさん こんにちは
>聖書の中の人も大変だな
聖書の中の人などいないっ!(byかわうそ)
>創造科学者はもちろん、彼らに噛み付く私らも、この悟りの境地に至っていない馬鹿者どうしですなぁ・・・トホホ
相手の無知を嘲笑してささやかな自尊心を満たすってのに俗物は抗いがたいですからね。
でも私がsaniku-aikiさんを責めるのは彼が悪魔の手先だからです。
私の信仰がそれを証明しています。
>科学と信仰は相反するものでもなければ表裏一体でもない、
>お互いがどうなろうと知ったこっちゃねー
創造科学者はもちろん、彼らに噛み付く私らも、この悟りの境地に至っていない馬鹿者どうしですなぁ・・・トホホ
何故そうなるのか?
それは我々が片一方の事しか理解していないせいかも知れにゃーですな。
(済みません、少し猫さん入ってます)
(^_^).oO聖書は実際の出来事からかなり年月が経ってから文書にされたって聞いたけど……曖昧な伝聞推定が事実として一人歩きした可能性もあるし、メディアも発達せず識字率の低かった当時の記述を証拠にするにはかなり無理があると思うな……だからといって全部否定されるわけでもないし、まして信仰の書として価値がないということはないんだけれど……(独り言終了)
検証もできないような主張を科学とは呼べないのではないでしょうか。
アダムの前に死云々は信仰の問題であって科学の問題ではありません。聖書の記述をどうやって検証すればいいのでしょうか。
科学と信仰は相反するものでもなければ表裏一体でもない、お互いがどうなろうと知ったこっちゃねー、ということです。このサイトでは信仰としての創造論なら誰も否定はしていません。
>たとえば、光速は不変という仮定の下に放射性年代を測定しているはずですが、
この2つは直接の関係はないはずですが、間接的だと、どうなるのかな?
何万年、何十万年も昔に放たれた他所の星の光を観測している天文学に物凄い影響があらわれそうですが。
(E=MC^2のCが変わるから、質量をエネルギーに変換している恒星の明るさと大きさの関係なども変わってくるし)
>神が光の速さを変えた可能性というのも考えてもいいのでは
>ないでしょうか。進化論者は、その理論にあう仮定しか取りません。その仮定が
>正しいと証明されていないにもかかわらずです。
そのままそっくりお返しします。
# 神は光の速さを一定にしている可能性も考えてもいいのでは
# ないでしょうか。創造科学者はその理論にあう仮定しか取りません。その仮定が
# 正しいと証明されていないにもかかわらずです。
もちろん光速度一定はしつこいくらい何度も何度も確かめられ、証明されています。
進化論なんか相手にしている場合じゃないですね、まずは相対性理論をやっつけなく
っちゃ。その為にも神が光の速度を変えた証拠をぜひお示し下さい。世紀の大発見、
ノーベル賞間違い有りません。
>神は万物を支配されている方なので、当然全ての科学法則も支配されており、
>その法則に縛られません。
真偽は別として、そういう仮定を立てる事もできるかもしれませんね。
でも
>だからといって、何でもかんでも神は科学法則を無視すると言うわけではあり
>ません。創造論科学者たちは、どんな仮定の下なら、法則を無視しなくても良
>いかを考えているのです。
恣意的に無視したりできるものを「法則」とは言いません。
>創造論者がなぜ進化論に反対するのかよくわかっていないように思います。
理屈は良く解っていますよ、ハチャメチャだという事が。
気持ちも解る気がします、自分のドグマが一番大事だという気持ち。確かなものと
信じて心の拠り所にしてきた教義が、揺らいでしまうかもしれないという恐怖です
ね。そのためには事実に目をつぶる事もしょうがないという気持ちになる事も良く
解ります。それから、saniku-aikiさんが大変正直な方だという事も。
>創造論者のために、もし説得を試みようとされるのでしたら、
ハナから説得などという大それた事は考えていません。私の目的はsaniku-aikiさん
の述べられた事のおかしさを、例えを使って解り易く説明する事でしたから。
この度のsaniku-aikiさんの投稿を読み、落下の法則と「聖書」の例え話が実に適切
なものだった事が改めて確かめられました。
たまごちゃん(^-^)ノ様
初めまして。どーぞよろしゅう。
多少(いや、かなり)、情緒的に書き込んだので、そのままでは理解不能とされるのももっともですね。
科学は互いに補完しあっている、と書きましたが、あの部分はそれを受けてのことです。
月がなぜ丸いのかはご存じと思います。
実際には真球ではなくて地球との関係で少しゆがんでいることもご存じでしょう。
あるいは、その歪みは月の同じ面がいつも見えていることにつながっていることも。
また、満ち欠けの変化の理由と太陽の位置の関係も理解されていると思います。
さらに太陽が実はどんな物であるか、光とはなにか、「見える」とはどういうことなのか。
これらのことをきちっと説明するために集められた証拠、得られた結論はまた、進化論を補強するためにも使われているという意味です。
>>saniku-aikiさんが天国へ行ったら、そこで出会ったのはイエス・キリストで
はなくてお釈迦様だったということになる可能性もあり、てことですね?
>そうではありません。(中略)「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)
とあり、救いはキリストによって得るしかありません。(中略)これが私の聖書理解です。
聖書にそう書いていることは理解しました。さて、聖書に書いていることが正しいとすればその通りでしょうし、あなたは聖書を信じていると思います。それ自体は別に私には異存はないのですが、
別の宗教を信じている人にとってはそうではないですよね。例えば仏教徒は、仏教の聖典を信じているものです。「実証することの出来ないもの(死んでみなけりゃわからないもの)」について、あなたと意見(信仰)を異にする人に対して、あなたはどういう態度でつきあわれるつもりでしょうか?
たとえば、あなたの信仰を押しつける、一応説いてみて理解を得られなければあきらめる、その他...。
To saniku-aiki さん
>進化論者は、その理論にあう仮定しか取りません。その仮定が
>正しいと証明されていないにもかかわらずです。
まず進化論という理論があって、それから長い年月という仮説と、それを支持する
観察結果があるわけではありません。
進化論がなくても、地質学や天文学といった他の多くの科学理論も、長い年月とい
う仮説を前提にしています。なんらかの観測結果があって、過去においては光速が異
なる値であったことを仮定しなければいけなくなったのであれば、科学者はまずその
観測が正しいのか再度検証し、それでも否定できなくなったら新しい仮説を用意する
でしょう。
斉一主義が、進化論に限らず他の多くの科学理論で受け入れられているわけは、と
りもなおさずそれが過去大きな成功を収めてきたからです。現在観測可能な範囲では
それを放棄する必要に迫られてはいません。(ビッグバン以前ですとか、ブラックホー
ルの内部ですとか、観測の限界を超えた部分に適用はできませんが)
創造論を「科学」(=自然科学)として機能させようとした場合、斉一主義をどこ
まで適用してどこで放棄するのか、明確な定義はあるんでしょうか?
また、それはよく言われるように反証可能なものなのでしょうか?
単に信仰としての創造論であれば問題とならないと思いますが、科学と呼ぶに値す
るのであれば、そういった姿勢は必須と思われますが。
それとも、「科学」の定義すら変更を迫るのでしょうか?
殺人のことをポア(魂の救済)と言っていたなあ。
ガチガチの信者にしてみれば、地下鉄サリンの被害者がどうして感謝してくれないのか分からないのかも知れない。
何を信じようと勝手だが、他人を救済しようなどと考えるのだけは勘弁して欲しい。
「とにかく信仰ありき」の人は、私にはとっても不気味です。
宗教論を交わしても仕方がないのに、つい続けてしまいました。見苦しくてすみません>ALL
何事も「奇跡」「万能」で片付いてしまいますから、本来は価値のない議論です。立証の必要もなく、単に信じるだけで成り立つ信仰を相手に論理を述べても無意味であることをあらためて痛感した次第です。(kosukeさんへ、の投稿で明らかですが、なんでもアリな人とは議論にならない)
最後にひとつだけ言うと、神は人間を愛した。つまり人間はほかの生き物とは違う「特別に愛されたイキモノ」であり、さらにはキリスト教信者はもっと特別で、さらに聖書原理主義こそ「サイキョーに愛されてる」という理解で良いのなら、優性思想とまるっきり変わりないんだな、と思いました。
#信者じゃない人は「カワイソウ」とか思ってる欺瞞者軍団だったのか…
##ちょいと意訳してますがね。
再び返信ありがとうございます。saniku-aikiさんの信仰そのものについて、私はあまり関心を持っていません。あくまで一般論として、聖書は正しい、という立場を取られている、という解釈のもとに反論させていただいています。
#ここで言う一般論とは、信者であろうとそうでなかろうと、とにかく地球人類すべてに対して、聖書は一字一句に至るまで正しい、とする立場。
>教会が行った過ちというのが、魔女狩りや宗教裁判や十字軍などのことを指すの
でしたら、おっしゃることはわかります。<中略>その新約聖書の使徒言行録には
弟子達の布教も書かれており、使徒言行録に書かれてある弟子の教えと、福音書に
書かれてあるイエスの教えとが根本的に対立しているとは、とても読めないからです。
どんな点がそうなのか教えてください。
あなたが聖書に書かれていることはすべて事実であり、検証や懐疑の心を持つことなど一遍もなく、とにかく聖書は正しいとするのなら、私の批判は不適当でした。その点は謝罪いたします。
>私は神の言葉を代弁しているつもりはなく、聖書の説明をしているに過ぎません。
しかし、聖書は神の言葉なので、その意味では、神の言葉を代弁していると言え
るのかもしれません。
聖書は布教という「覇権」のためのツールである、としか私は思っていませんので、とても同意は出来ませんが、saniku-aikiさんにとってはそうなのでしょう。しかし聖書を翻訳するのは人間ですし、印刷しているのは印刷機械です。聖書崇拝は偶像崇拝ではありませんか?なお、イエスは「聖書を信じろ」と言ったのでしょうか?不勉強で済みませんが分かりません。もしも聖書が神の言葉そのものを綴ったものであるなら、イエス自身にしか聖書(新約聖書)は書けないことになります。イエスの死後かなりの年月が経って聖書が記されたはずですが、弟子たちも神そのものだったのでしょうか?
聖書逐語的解釈、ちゅうのは、表面的には聖書の記述に対して謙虚に見えるのだけど、
その実、科学主義に毒されきった現代人の傲慢極まる教典読解だといえるでしょうにゃ
逐語的解釈、ちゅう発想そのものが科学主義の匂いプンプンだにゃー
>a. 神が絶対であっても人は絶対では無い。聖書を書いた人は神の御心全てを受け取って記述した訳ではなく、その人なりの表現となってしまっているのではないか?
いわゆる聖書の逐語的解釈については、文献学的な立場から反対することがありえるわけですにゃ。逐語的な解釈なんてものはありえにゃー、とね。イソップ物語を聞いた子どもは、その寓話から寓意を読み取りますにゃ。「酸っぱい葡萄」ちゅうのは、くやしまぎれの捨て台詞だとわかるわけにゃんね。こういう話しを逐語的に見たって、いっつ・おんりー・無意味にゃんな。
ある程度逐語的に読むことが意味があるのは、ルポの類いにゃんね。言い換えると、自然科学・社会科学に共通した事実の記述に対応した読解のあり方にゃんよ。
聖書逐語解釈、ちゅうのは、二千年以上前の宗教的事実の記述が、現在のルポルタージュ的な観点から記述されたものだとみなすに等しいわけで、ひとことでいえば「大馬鹿」なわけですにゃ。
3ETさん、はじめまして。
>でも本当は、空が青いことも雲が白く見えることも草も土も、鈴虫のなく声でさえ、進化論は正しいと告げているのです。
見方さえご存じなら。
空が青いことや雲が白く見えることは,私には進化論の正しさを教えてはくれません。どうやら、私は見方を知らないようです。どうやったら空が青いことから進化論の正しさが分かるのか、見方を教えてはいただけませんか?
今夜のお月様はまん丸できれいです。このお月様のまん丸さも見方を知っている人には進化論は正しいと告げてくれるのだろうか。
おっとすいません。
前回の発言は、saniku-aiki様向けです。うっかりとお名前を入れ忘れました申し訳ない。
ところで、科学での議論の例を紹介しておきます。
SF作家の野尻さんのボードです。
新木 伸さんの、2003年09月01日(月)22時31分17秒 の発言から読むといいと思います。
科学に対抗するためには、この一連のやりとりを「理解」した上で論破する必要があります。
本当に理解しなければいけないのは、この議論に参加している人たちが、徹頭徹尾、示された証拠にのみ論拠をおいている点なのですが……。
http://njb.virtualave.net/nmain0132.html#nmain20030901223117
temaさんへ:
御丁寧に痛み入ります。半ばジョークでしたので、気にされているようなら誤っておきます。
saniku-aikiさんへ:
聖書に関する質問への回答ありがとうございます。wadjaが「極めて狭義の神」と書いたのは、一般的な絶対者・創造者としての神(広くはイスラムの神や、日本の八百万の神も含まれます)との対比で、「狭義」と書きました。そこに狭義だから良い悪いという意図は無かったことを補足させて下さい。
引き分けでもM2.週末の優勝だとうれしいなっと。
証拠は目の前にあります。眼を開けば見えます。
でも見ようとしていないから、盲目だと言っているわけです。
だから話はまったくかみ合いません。
でも、重大な誤解がありますのでそれを指摘しておきます。見えないでしょうが……。
進化論は、進化論だけで成り立っているわけではありません。
科学の分野はそれぞれお互いに補完しあっています。
ですから、進化論を否定するためには科学のあらゆる分野を否定しなければなりません。
それに気付いておいででしょうか?
いま、あなたの目の前にテレビはありますか?
ないとしても、テレビがどんな物かは理解なさっていると思います。
アンテナと電源をつなげば、映像がうつり音がなりますね。
これは、電磁気学の目に見える成果であり、逆に言えば、電磁気学が正しくなければ動作しません。
カーナビをお持ちでしょうか?
これは一般相対性理論が正しくないと動作しないと言うことを理解していますか?
化繊の服は持っていると思います。これは高分子化学の直接的成果です。
わかりやすく工学を例にしてあげてみました。
でも本当は、空が青いことも雲が白く見えることも草も土も、鈴虫のなく声でさえ、進化論は正しいと告げているのです。
見方さえご存じなら。
無意味な誤読をしてしまいました。
saniku-aikiさんは先の発言の中で
>神(6日間で創造した神)
と注釈つきで書いていらっしゃるわけですから
>なぜ、神の不存在を前提にすることが正しいと考えるのでしょうか。
と言うのは、「『創造科学の主張する通りに六千年前に世界を創造した
神』の不存在」を前提にしていると言う意味で取らなきゃいけないです
ね。誤読によって不適当に批判的なレスをした事を謝罪します。申し訳
ありません。
ちなみに私は、その解釈での『神』(以降、この書き込みでの括弧つきの
『神』はsaniku-aikiさんおっしゃるところの六千年前に世界を創造した
『神』の事を指します)の不存在を前提として物事を考えてはいません。
ただ、現在の自然科学を前提に考えた場合、その解釈としての『神』の
存在は否定されるだろうとは思っています。
これが『神の不存在を前提にしている』のとは微妙に違うスタンスであ
ることはご理解いただけるかと思います。『神』の不存在を前提として
理論を組み立てるのと、理論を組み立てて結果として『神』の存在を否
定するのでは、論理の筋道がぜんぜん違いますから。
ただ、saniku-aikiさんにとっては、信仰を真っ向から否定される行為
として、どっちも変わらないのであるだろうとは思いますが。
>生物が長い年月の間に環境との関わりの過程で変化してきた、という観測事実が
明らかになり〜
私がいつも残念に思うことは、原理主義者(根本主義者)に進化論を受け入れてほ
しいと考え、親切に色々教えてくださる方々の信仰理解の不足です。仕方のないこ
とだとは思いますが、Kosuke さんの場合も、無意識のうちに進化論のフィルターで
全てを見ているために、創造論者の見方を全く理解されていません。
「長い年月」(何億年という単位)という当たり前に見える観測結果にすら、
創造論者は否定しています。たとえば、光速は不変という仮定の下に放射性年代を
測定しているはずですが、もし、変わっていれば計算上地球の年齢は1万年以下
にもなりえます。神が光の速さを変えた可能性というのも考えてもいいのでは
ないでしょうか。進化論者は、その理論にあう仮定しか取りません。その仮定が
正しいと証明されていないにもかかわらずです。神は万物を支配されている方
なので、当然全ての科学法則も支配されており、その法則に縛られません。
だからといって、何でもかんでも神は科学法則を無視すると言うわけではあり
ません。創造論科学者たちは、どんな仮定の下なら、法則を無視しなくても良
いかを考えているのです。「〜はありえない」という言葉は神の前では無意味です。
>進化論の記述に神は出てきませんが、その変化のメカニズムを創造した存在として、
神を想定することは進化論を否定する事にはなりません。最初から現在見られる種を
そのまま創造した「神」は存在しませんが、単一の生物から多様な種が生み出される
メカニズムを創造した神は存在すると信仰しても一向に差し支えありません。
ここにも誤解があります。創造論者がなぜ進化論に反対するのかよくわかって
いないように思います。6日間による創造を信じる創造論者は、進化論を絶対に
受け入れられません。それは「死」の起源が問われるからです。最初の人間アダムの
前に死があったのかなかったのか。これが大切な点です。
聖書は「罪の支払う報酬は死である」と言ってます。最初の人間アダムの罪の結果、
地球に罪が入り込み、その結果死が入っていたと考えています。つまり、アダム以前
には生物の死はなかったのです。そして、イエス・キリストはこのアダムの罪の
身代わりとして、十字架にかかり、死なれたのです。キリストの死は、あくまで
人間の罪のためです。もし、進化が事実なら、人間登場以前に死があることになり、
キリストは人間のために死んだのではないことになります。人間の救い主ではなく、
たとえば大腸菌の救い主と言うことになるでしょうか。神は人間を愛しているとい
うのは、全くのウソであり、神がその命をかけて愛したのは大腸菌と言うことにな
るのです。そんなキリストなら私は信じません。でも、幸いなことに聖書は繰り返し
人間のためにキリストが死なれたと語っています。人間のために死なれたと信じる
ことは、論理的には進化論を否定することに結びつくのです。
もし、新しい種が誕生する前に生物の死がなかった(=「化石」は存在し
えない)のなら、創造論者も進化を受け入れることができます。しかし、化石
の存在(死の存在)をもって進化を説明する限り、進化は受け入れられません。
私のような創造論者にとっては進化論と信仰とは決して両立できないのです。
創造論者のために、もし説得を試みようとされるのでしたら、この視点を理解す
るために、どうか創造論者の聖書解釈を勉強なさってください。
saniku-aikiさんとしては「不可知」などと言うスタンスは詭弁でしか
なく、そんな態度は「信じない」と言われているのと同義だったりしま
すか?
そういう事であれば理解できなくはありません。
# 理解はできるけどそれ以上の対話も成立しないなとも思う。
>決定的なことは、進化論を受け入れると言う
>ことはアダム以前に生物の死を認めるので、キリストによる救いを否定すること
>になるからです。
この教理は聖書のどの箇所を根拠にされているのか、ご教示ください。
もちろん、私とsaniku-aikiさんとの解釈は異なると思いますが、
(そして、それを議論するつもりはありませんが)興味があるので知りたいのです。
差し支えなければ、教えてください。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。