このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
別冊宝島の「新釈どうぶつ読本」(1990年発行だから古いのだが)カマキリの共食いについての研究があります。
とりあえず雌は動く適当な大きさのものはえさと感じていること、故に雄はかなり時間をかけて交尾にチャレンジし、食われなければ何度も交尾を行えること、そして頭が食われても交尾を行うプログラムは最後まで全うすることなどが書かれています。
この本には働きバチは実は怠け者だった。というような記述もありなかなかおもしろいです。
(働きバチはジェネラリストで、さらに人員が余剰しているためなかなか仕事にありつけないらしい。内容を見ると働きたくとも働く場所がないという記述なのだが)
さあこれから地下に眠るMさんが示してくれた引用文を気合いを入れて読んでみよう・・・でも幼態成熟であり欠陥生物である。その欠陥故に適応の範囲を広げている(正しく理解できているだろうか?)というのはけっこう好きになりそうなお話しです。
>とても早熟な「経済学部の後輩」さんによろしく。 (((((^^;
経済学「部」に入部したばっかりの、16歳の、高校一年生の後輩を
いじめるのは確かにかわいそう...。
いつかちぎれる絆見たさに 高く高く高く♪
To 妥当?進化論さん
>が、ヒトってそんな捨てたものじゃないよ、他の生物同様進化の生み出したその環境で最高に適応したものなんだよ。という意見があれば教えてください。
ヒトは(他の生物も)、環境に最高に適応しているわけではないけど、でも、人間って(他の生物もだけど)まんざら捨てたものじゃないと思うよ。
>人間のすべての行動が進化論で説明できるならば、あまりにむごい形質だと思う。
すべての行動を進化論で説明することはおそらくできないんだけど、それは置いておいて。妥当?進化論さんという一人の人間が、人間同士の殺し合いをむごいと感じる感性を持っている。それだけでも、人間ってわりと素敵だと思いません?
>なぜ進化は自己破壊させるような結果を生みだしたのだろうか。
淘汰は未来を見越しては起こらないからね。でも、私たちは未来を見越した上で行動することもできるのだ!!ねっ、やっぱり素敵だ♪(未来を見越す能力がいろいろと災いしているような気もしないではないけど・・・。)
To EzoWolfさん
なんだかお久しぶりですね
>犬や猫でも食べないのに狩りをすることはよくありますよね。
うちの猫も、鳥は食べるけど、ネズミ、ヘビ、トカゲetcは遊ぶだけで食べません。そして、飽きると私にくれる^^;
>交尾の時にカマキリのメスがオスを食べることを見たことがないと書いている人もいて、その人はメスがオスを食べるのは空腹の場合ではないかと推測してました。
私も、カマキリの交尾は見たことがありますが、オスが食べられているのは観たことがありません。それに、交尾が終わったあと、オスは後ろからそぉーっと離れていくし(私は、これは食べられないための行動だと思っています)。
オスは自ら進んで食べられているわけではなく、食べられるのはとろいオスだけだという話を聞いたことがあります。食われずに生き延びたオスは、もう一度他のメスと交尾をするチャンスはあるのかな?
>ただそんな絶対的な権力を持つ前にその下々の生物は淘汰されてしまうのでは
>ないか、とても戦力的に安定するまで持たないのではないか。自分の命を左右
>されるまでの権力を持たせるメリットがあるのだろうかということです。
淘汰されちゃったら権力者が権力をふるえないじゃないですか。それと思うほど絶対的な権力というのもなかなかないもので、「下々には対策あり」とか中国では言ってます。また権力者同士の交代や後継をめぐる争いも常にあって、その時に支配される者の意志と言うのが結構影響するんですよね。「私の仕事は人民への奉仕です」と言うのもあながち嘘でもない。
>ヒトでは自分の遺伝子とはおおよそ関係のないもののためにはたらき、命を
>投げ出すときまである。それでは自分の遺伝子の一部だけでも残せないのではないか。
伝統的には例えば武士社会のように「お家を残すためにこそ主君に尽くす」というのが一般的だったように思います。「おまえの子供のことは任せておけ」と言わないと死んでくれなかったでしょう。「国家」とか「正義」とか訳のわからんもののために死ぬのは歴史的にもかなり新しい行動ではないでしょうか。殉教は昔からありますが、これはどちらかというと「死ねば天国で幸せになれる」という結構利己的な動機に基づくものでしょう。
確かに妥当?進化論さんの提起したのはおもしろい問題です。現時点では仮説の応酬にしかならないでしょうが、だからこそ掲示板で話すのにおもしろいとも言えます。けれどこの説明が難しいからといって「打倒進化論」というのは誇大タイトルですね。これは進化論の枠組みの中での未解決の問題のひとつでしかありません。むろん既にたくさんの指摘があるように文化もからんできますから、純粋に進化論的問題とは言えませんが。
卑弥呼が昔邪馬台国を治めていたと同じくらいに確かな例の極一部
・かって恐竜が栄えていた、アンモナイトが、アウストラロピテクスが、エトセトラ
・地球上の全生命は30億年ほど前の微生物の子孫である。
相対性理論と同じくらいに確かな例の極一部
・自然選択の原理
・好気呼吸は嫌気呼吸より効率が良い
・水中で速く泳ぐ生物は流線型になりやすい
To たまごちゃん(^-^)ノ
とても早熟な「経済学部の後輩」さんによろしく。 (((((^^;
>ヒトってそんな捨てたものじゃないよ、他の生物同様進化の生み出したその環境で最高に適応したものなんだよ。という意見があれば教えてください。
ふにゃ
えと、リンクをはった先から少し引用しますにゃ
*************************************************
哲学的人間学の誕生にとって否定的媒介の役割を果たしたのは、動物学者ユクスキュルの「環境世界(Umwelt)」(5) の理論であった。それは、「あらゆる生物はそれぞれ独自の世界に住んでいて、その世界の中心はその生物自身である」(6) ことを生物学の従うべき原則として掲げ、「動物主体は、もっとも簡単なものも、非常に複雑なものも、同じ完全さでその〔それぞれの〕環境世界に適応している」(7) であり、ハエにはハエの、イヌにはイヌの、それぞれ固有な環境世界があることを主張した。動物はそれぞれ自らの種に応じた環境世界のうちに住んでおり、否もっと強く言えば、閉じ込められており、他の種の動物の環境世界については何も知らず、そのなかに移り住むことはできない。ユクスキュル自身はそこまではっきり主張してはいないが、この言わば〈動物種相対主義〉は人間にまで適用されるかのようである。しかし、動物の環境世界被拘束性とも言うべきこの考えを人間にまで適用することに対しては、人間存在の「世界開放性」を主張するシェーラーを始めとして、カッシーラー、ゲーレン、らが批判の声を上げた。彼らに共通な基本的論点は、「動物から取ってきた環境世界の概念を人間に応用することには原理的な困難がある」(8) という点である。それでは、なぜ人間には動物の環境世界の概念をそのまま適用できないのか、どのような異質な固有性があるのか。こうした問いに答えようとするところに哲学的人間学が誕生した、と言うことができよう。
では、どういう点において人間は他の動物とは異質なのであろうか。シェーラーは、「動物はおのれの環境世界のなかへと自己を没入して忘我的に生きており、……環境世界を対象とすることはできない」のに対して、「精神的存在者」としての人間は「環境世界から自由」であり「世界開放的」である(9) 、と述べていた。「精神」よりも「行為」に定位することによってシェーラーを批判的に継承しようとするゲーレンによれば、人間は「知覚しかつ表象する生物」であり、人間は直接的な「いま・ここ」に現前するものを知覚するだけではなく、「人間は知覚したもののうちに知覚し得べきものを、知覚し得べきもののうちに知覚しえぬものを内挿する」(10)。このように動物が常に捉えられたままである直接的なものの呪縛圈が人間においては破れる、すなわち、環境世界にもはや拘束されないことこそ人間の特徴をなすものである。しかし、ゲーレンは、ダーウィンの進化論以来の「人間も動物の一種である」という動物人間連続観に対して、動物と人間の間の不連続性(飛躍、断絶)を「理性的動物」という伝統的な人間観の繰り返しによって反対するのではない。ゲーレンは、動物に或るポジティヴな性格が加わったものとして人間を描くのではなく、新しい生物学の研究成果を取り入れながらむしろ、動物から何かが差し引かれた、あるいはネガティヴな性格が加わったものが人間だという、「欠陥生物(Maengelwesen) 」(11)としての人間観を展開した。ほかの動物が生まれてから後、それぞれの種に応じて環境に適応した成長を遂げるのに対して、人間は生物学的には幼態のままにとどまって生物学的な適応が停止してしまう(「幼態成熟(Neotenie)」)。しかし同時に、特定の環境に生物学的に適応してしまわないからこそ、特定の環境へと規定・限定されることがなく、非・生物学的な仕方で一つの環境から別の環境へと移り住むことが可能となり、個々の環境を越えた世界へと視野が開けて来るのである。そうすると、動物の「環境被拘束性」と人間の「世界開放性」は、生物学的にはネガティヴな性格が人間学的にはポジティヴな性格に変貌する転換点を表している、と言えよう。
*******************************************************
この章はだいたい全体の真ん中くらいから始まってますにゃー
いろいろ興味深いことが書いてある論文なんだけど、ここで議題にのっけるのは第三章に限ったほうがよさそうだにゃ。
僕はこの、欠陥生物としてのニンゲンが、欠陥生物であるがゆえに世界に開かれている、ちゅう発想はとても魅力的なものだと思いますにゃ。ニンゲンちゅうのは、なんだかんだいってヘンな生き物だとは思うんだよね。
あと、ニンゲンがニンゲン至上主義だってぜんぜんおかしくはにゃーと思うぞ。
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/bunka.html
>楽しみだけに魚を釣り、自分自身が食べる以上の獲物を狩り
ヒト以外にもこれを行う生物はいます。シートン動物記には遊びで羊を殺す若い狼の
話がありますし、あざらしを襲ってボール代わりに遊ぶシャチのドキュメンタリーも
ありました。遊びを行う動物ではよくあるのではないでしょうか。犬や猫でも食べない
のに狩りをすることはよくありますよね。
あとヒトの場合は文明の進歩が速すぎて、自分自身の作った環境に適合できていない
という考えもあります。たとえ不完全な適応であっても、とりあえず次の代の子孫を
残せれば種は存続します。そういう意味では生物は永遠の未完成品かもしれません。
#交尾の時にカマキリのメスがオスを食べることを見たことがないと
書いている人もいて、その人はメスがオスを食べるのは空腹の場合ではないか
と推測してました。
>なぜ進化は自己破壊させるような結果を生みだしたのだろうか。
「進化」は常に「結果」では無く「過程」です。
過剰な適応をしてしまったために、環境の変化に耐えられず絶滅してしまった
生物はいくらでもいます。むしろ、地球史のスパンで言えばすでに絶滅した
生物の数の方が圧倒的に多いです。
人間同士の争いはそのほとんどが、「資源の奪い合い」に端を発するでしょう。
で、その資源の奪い合いがどうして起こるかと言えば、人間の繁殖力が高すぎ
るせいかと。人間の繁殖力が無闇に高いのは、道具や火の使用といった文化的
な要因が大きく、特に爆発的な技術革新が起こったのはここ数千年の事で、こ
れは数百万年単位で進む進化のタイムスケールから言うと存在しないに等しい
時間です。
今の人間が互いに殺しあうのが恒常的である状態は、進化的要因というより、
社会的要因が大きいと言えるのかな、と言うお話でした。
何でヒトは殺し合うのだろう?ライオンの子殺しも、カマキリの共食いも将来自分のそしてより強い遺伝子を残すためだと理解はできる。
でもヒトの戦争で、兵士が他の勢力の兵士を殺すことに何のメリットがあるのだろう。
人間のすべての行動が進化論で説明できるならば、あまりにむごい形質だと思う。
さらにヒトはこの生物に囲まれた環境でしか生きられないのに、自らその微妙なバランスを崩している。ライオンだって食べるためにしか獲物を殺さないし、自らの体を最後には土に返す。
楽しみだけに魚を釣り、自分自身が食べる以上の獲物を狩り、そして自らの体を土に返すことはまずない。
なぜ進化は自己破壊させるような結果を生みだしたのだろうか。
今回は独り言のようなものです。ただの感情論です。この文章に対しての批判はぐっとこらえていただければ幸いです。が、ヒトってそんな捨てたものじゃないよ、他の生物同様進化の生み出したその環境で最高に適応したものなんだよ。という意見があれば教えてください。(何度も書きますがヒト至上主義ではありません。ホントだよ。)
HNを今の気持ちに一番近いものにしてみました。これで皆様の敵対心が薄まってくれれば・・・
>物事の説明には適切なレベルというものがあります。石を投げ上げたときの石の振る舞いを説明するには、ニュートン力学(+せいぜい空気の抵抗)のレベルで十分事足ります。
そのとおりだと思います。普通に考える範囲で、進化論にそれほど疑問を持っていません。そういう面では、学校で教える程度の範囲であれば、適切な理論なのかもしれません。実際、構造の簡単な生物から、その環境に適した変化があり、ある形質は淘汰されることによって、現在の形質となり得た。というおおざっぱなストーリーは正しいかどうかは別として、現段階ではそう考えるしかないだろうとも思っています。
範囲を変えれば、光の速度や宇宙空間のような広大なものを考えるには、古典物理学ではなく、相対性理論で、原子や素粒子ならば量子物理学で考えなければならない。(実は物理学はほとんど素人以下なので、おかしな表現だったらごめんなさい)
とするならば、進化論にもそんなレベルの分け方があるのでしょうか?例えば今話題にしている、文化とか意識とかの変化を考えるときは別の理論を使うとか。それともすべて進化論で説明できるのか。そもそも意識って化学反応の結果なのでしょうか。でなければタンパク質(酵素)を指定するだけのDNAは意識には影響しないことになるような気がしますし。
やはりあまりにも範囲を広げすぎたのか、自分でも自分の言葉が理解できていないような気がします。
届に行こう 命の砂漠へ
銀の龍の背に乗って
運んでいこう 雨雲の渦を
wadjaさんの仰るとおり、龍は洪水では死にそうにないです。
タイトルだけ聞いた時には、「中島みゆきついにメルヘンに転向か??」と思ったけど、違ってた。
なんだか、以前の少子化遺伝子の議論を見ているみたいだなぁ……。
ヒトの行動のどこまでが遺伝子に支配されていて、どこまでが学習によるものかとか
そういう線引きが難しいから、一方では竹内久美子のような極端な解釈になってしまっ
たりとかそんな感じ。
おっ♪自己犠牲的利他行動だ♪
個人的にはちょっとタイムリー。昨日、学園祭の打ち上げで隣に座った経済学部の後輩と、ゲーム理論がどうのこうの、マルクスが、アダム=スミスが、ジョン=ナッシュが・・・etcってな話をしたばっかりなのだ。共産社会が成り立ちうる条件について話していると見せかけて、進化とか淘汰という単語を使わないだけで実は利他行動の安定性について話をしていたりしても、相手が先輩だと文句をいえないから、後輩っていうのはかわいそうね。
To 打倒?進化論さん
>タイトルから中島みゆきが消えている・・・
中島みゆきの話で盛り上がっていた人たちに対して、ごめんなさい
私がしばらく書き込まなかったから自然消滅しただけで、打倒?進化論さんの発言とは関係ないと思いますよ。それに、本来の進化論の話題で盛り上がる方が好ましいことはいうまでもない。
って言うか、サイトとは無関係な話題を無節操に書き込む癖、何とかします・・・。(できたら良いな)
>思考や行動にヒトを用いたのは、イヌやネコでは正確にその気持ちがわからないからです。他の動物の行動は、外(ヒト)から見たものとその動物が本当に感じていることでは、ギャップが必ずあると思います。そこで一番ギャップを少なく考えることできるヒトの思考、行動で考えています。
まぁ、私たちにとって一番身近な生物はヒトなので、ヒトを材料に話を進めること自体には異存がないのですが、淘汰を考えるにおいて、正確にその気持ちがわかる必要はないのではないでしょうか?
淘汰を考える時に注目するべきなのは、自己犠牲的な感情ではなく、自己犠牲的な行動だと思います。自己犠牲的な感情でも、その感情によって引き起こされる行動が実際には自分の包括適応度を上げているような場合には自然淘汰による説明は難しくありません。逆に、たとえ利己的な感情によって引き起こされた行動でも、自分の包括適応度を下げるような行動を淘汰によって説明することは難しくなってくると思います。
>なぜ同じ種類で殺し合うという他の生物には見られにくい(ないとまではいわないが)行動がここまで広がっているのか。
同種での殺し合いが見られにくい理由の一つに、同種の個体は互いの持つ力が拮抗しているため、殺しあうことによる利益と比べコストが余りに高すぎるからというのが考えられます。一方の力が他方と比べて非常に大きい場合には、ヒト以外の種でも子殺しや共食いは普通に見られるように思います。
人間の戦争を淘汰的に考えるには、GOAさんも仰っているように集団の為に戦うことのコストと、戦わないことによって集団からはじかれる危険を冒すコストを天秤にかける必要があると思います。
>疑問に思っているのは、その自分の命まで左右されるような絶対的な権力を他の生物に持たせるまで、その下々の生物は我慢して生存していられるかということです。自分の命が左右されてしまうのであれば、血縁を残すためにあえて自分だけが犠牲になるということはあると思います。ただそんな絶対的な権力を持つ前にその下々の生物は淘汰されてしまうのではないか、とても戦力的に安定するまで持たないのではないか。自分の命を左右されるまでの権力を持たせるメリットがあるのだろうかということです。
ちょっとした力の差というものは簡単に生じます。権力者が生じると、たとえ小さな権力しか持たない権力者でも、権力者に奉仕することによるデメリットと権力者に逆らうことによるデメリットを天秤にかける必要性が生じます。いったん、権力者に逆らうことによるデメリットの方に天秤が傾くと、後は雪だるま式に権力が増大していくのではないでしょうか?(あくまで、竹内久美子的 just so storyに過ぎないけどね)
>また、種として強いものを残すのならいいのですが、種として優れているのではなく、ただの肩書きで、位の高いもののために行動しているのではないか。
関係なくない??
ところで、打倒?進化論さんの仰っていることって、かなりまとも&ドーキンスの言っているたぐいのことはふまえた上での問題定義なのかもしれないと思っているんだけど、たまごの気のせい??皆さんどうして、そんなに辛口評価になっているんだろう?やっぱり、HN効果??
変わりゆけ変わりゆけ もっと好きになれ♪
って、寝返ってどうする>自分自身
To wadjaさん
遅レスでごめんなさい。タイトルも本来の形に戻り、このサイトらしい話題が活発になってきたというのに続けるのはどうかという気もするけど・・・。
>歌姫の熱烈なファンでを自認するたまごちゃん
・・・。wadjaさん、私はみゆきさんのファンだけど熱烈なファンではないですよ。(思わず地に戻ったではないか^^;)
>たまごちゃんは、自然科学に人文科学の数学のような完璧な証明を求めておられるのですか?
「自然科学や人文科学に数学のような・・・」と書こうとして打ち間違えられたのでしょうか?
しかし、このwadjaさんの発言によってはじめて気がつきました。中島みゆきの歌とは、まさに「人文科学の数学」にほかなりません。中島みゆきの詞は、人文に関することを扱っていながら、あたかも数学のような正確性でもって真実を言い表しています。
♯ 何が悲しいかって、15%くらい本気でそう思っている自分が一番悲しい・・・(ToT)
>また、歌姫のひらめきから出た言葉以上に説得力をもつものが、他にあると主張したいのでしょうか?
もちろん、姫の御言葉に勝る説得力をもつものはありません。しかし、姫の御言葉が正しいからといって、御言葉に対するwadjaさんの解釈までもが正しいとは限らないことはいうまでもないでしょう。おそらく、「この空を飛べたら」の中で歌われている「鳥」とは実際の鳥のことではありません。
中島みゆき研究においてもっとも権威ある機関である中島みゆき研究所の発表によると、「この空を飛べたら」は、人間の原罪を悲しみながらもキリストの再来と神との和解を信じることの大切さを示した歌で、「空」や「鳥」は「善」や「罪を知らない理想的な状態」を表す比喩であると考えられています。その解釈にそって、少し歌詞を見ていきましょう。
「暗い土の上に 叩きつけられても こりもせずに空を見ている 凍るような声で 別れを言われても こりもせずに信じてる 信じてる」=「物理法則にしたがって物体が地面に落ちるように、人にはどうしようもなく罪を犯す傾向がある。しかし、同時に善を求めずにもいられない。人は罪を犯し神と離別することになったが、いつか神との和解が成立すると信じている」
「飛べる筈のない空 みんなわかっていて 今日も走ってゆく 走ってく 戻る筈ない人 私わかっていて 今日も待っている 待っている」=「人は罪を犯さずにはいられないと分かっていながら、それでも善を求める。キリストの再来はまだ遠いと分かっていながらも、キリストの再来をひたすら待っている」
「ああ人は昔々鳥だったのかもしれないね こんなにもこんなにも空が恋しい」=「人は、昔は罪のない理想的な存在だったのかもしれない。こんなにも善が恋しい」
「この空を飛べない」は確かに、人間の歴史を歌った歌ではありますが、進化の歴史ではなく、神との関係を歌った歌なのです。
>しかし、二足歩行という、重大な人と鳥との共通点・他の脊椎動物からの相違点を無視することは、それこそ木を見て森を見ずの論理構成です。
木を見て森を見ずなのはどちらでしょうか?鳥と人間は全く異なった形態をしており、二足歩行という小さな、そして表面的な共通点に拘泥するのは愚かなことです。
>本当に常識を疑ってしまいます。古来より龍は人の想像上の生き物であることは、世の常識でしょう!
私は龍は実在していた生物であると考えていますが、これについてはMEGAMIの次の預言を待ちましょう。(中島みゆきシングル「銀の龍の背に乗って」カップリング「恋文」7月23日発売予定。)
>本当に頑固な人ですね。高貴なお方の予言には、一つだけではなく幾つもの含意があるのです。・・・
変異とは、人間の現在後の環境の悪化に対応した結果生じてしまったもので、種の本来の姿からは逸脱する、いわば嘘のようなものです。中島みゆきは、この本質的種内での小さな変異を発見した自然科学者が、それを重要な世の中のしくみかなにかのように勘違いして進化論を唱え始めることをも、その預言の中で述べています。
「包帯のような嘘を 見破ることで 学者は世間を 見たような気になる」
戦争や自己犠牲を遺伝子の文脈から説明するのはそんなには難しくない。ただし、それをやっちゃうと、竹内久美子になっちゃう。打倒?進化論さんは、竹内久美子はご存知でしょうか。ヒトの行動を何でも進化論的に解釈しちゃう人です。まともな進化生物学者は、「ヒトのすべての行動は進化論の結果でなければならない」とは考えていないので、竹内久美子的な解釈はあまり好まれません。物事の説明には適切なレベルというものがあります。石を投げ上げたときの石の振る舞いを説明するには、ニュートン力学(+せいぜい空気の抵抗)のレベルで十分事足ります。生きている小鳥を投げ上げたときの小鳥の振る舞いを説明するのには、ニュートン力学は不適切です。ニュートン力学だけでは小鳥の振る舞いを説明できません。だからと言って、
「ニュートン力学は学校で教えられるほど確かな学問とは思えない。その理論が完璧でなければ、より完璧に近づける姿勢が科学だと思う。ニュートン力学の問題点をもう一度見直したい。」
などという主張は変ですよね。ニュートン力学の適用範囲はどこまでなのか、という問題と、ニュートン力学の確からしさはどのくらいか、という問題を区別しなければなりません。進化論も同様だと私は考えます。ニュートン力学と違って、進化論の適用範囲はどこまでなのか、という問題は微妙でしばしば論争の対象になりますが、よしんばヒトの行動のほとんどが進化論的に説明できなかったとしても、進化論という学説の確かさが低いということにはなりません。そういうことを忘れないようする一方、竹内久美子になったつもりで、どのくらい信頼できるか抜きにして、自己犠牲や権力者の存在を進化的に説明してみるのは面白いかもしれません。
昔々、ヒトは集団を形成して狩猟生活を行っておりました。大人数を支えるだけの獲物が常に取れるとは限りませんので、集団の大きさはかなり小さいものになります。よって、集団中の他のメンバーに対する血縁度は結構高いものになります。自己犠牲的な形質が進化してもおかしくありませんね。また、この集団は他の集団とテリトリーを巡って争うことがあります。こういうとき、きちんと統制をとれた動きをする集団の方が有利ですね。もちろん、遺伝子は集団の利益ではなく遺伝子自身の利益を大きくするように進化しますが、この場合、集団の利益と遺伝子の利益は一致します。特定のリーダーに従うことは、遺伝子の利益にもなるのです。たまにリーダーに従った結果、命を落とすこともあるでしょうが、平均的には一匹狼のライバルと比較して、協調性を発揮する個体は繁殖に有利なのです。また、リーダーを視点に考えてみましょう。他のメンバーをうまく操作できる能力(ときには命を落とすかもしれない行動をさせる程)が進化します。血縁淘汰、タイムラグ、操作する能力の進化を考えると、自己犠牲や権力者の存在は、進化的に十分に説明可能なのです。
こういう説明は、小鳥の振る舞いをニュートン力学で無理矢理説明しようとしているのに相当するかもしれない、ということは忘れないようにしてください。
>ただ進化論は、その理論を使って現実に何かが行われているわけではないし、まだ訂正の余地がかなりあるものだと思います。だけれども、相対性理論や、例えば卑弥呼が昔邪馬台国を治めていたと同じくらい正しいものでという言われ方をしている感じがするのです。
実用化されているか否かである学説の確かさをはかることはできませんが(魏志倭人伝を使って現実に何か行われているのか?)、最近は、ダーウィン医学なんてものが言われております。ドーキンスも木村も知らないような臨床の先生方でも、節約遺伝子の話は結構知っていたりします。あるいは、進化生物学そのものではありませんが、集団遺伝学はゲノム解析にばりばり使われております。また、遺伝的アルゴリズムってのもありますね。こちらはどのくらい実用化されているのかは存じませんが、ある特定のシチュエーションでは役に立つものだと私は理解しています。現代の進化生物学は、相対性理論と同じくらい確からしいと私は考えます。
再び 打倒?進化論さんへ
正直言って、打倒?進化論さんがお考えのような疑問は過去の私にもあったと思います。が、このサイトに出会って、改めて各種の文献を読んだり、掲示板で議論を重ねるうちに、進化論(といっても様々な説がありますが、基本はネオ・ダーウィニズム)に対する知識が深まり、特にドーキンスらの唱える利己的遺伝子説には感銘を受けた次第です。
結局のところ、進化論を批判したいのであれば、批判者自身が進化論について知ろうとするところからすべてが始まると思うのです。批判すべき対象を知りもしないで言葉を重ねても、結果は批判になり得ないと思います。
>自己犠牲の精神は利己的な遺伝子にはあてはまらないであろう
答えを持っているではないか・・・
わしも、打倒?進化論殿が「ヒトは完璧な生物」の呪縛から抜け切れてない気がするのう・・・
> 全体を通じて、打倒?進化論さんが本格的に進化論について疑問視し、問題点を提示していきたいのでしたら、
> 少なくともドーキンスの「利己的な遺伝子」と「ブラインドウォッチメイカー」あたりの文献には目を通されるべきと思います。
素直にこのアドバイスに従ったほうが、無駄な議論をしないで済むような気がしますですよ。
私、ちょうど今「利己的な遺伝子」を読み返しているところなのですが、
打倒?進化論さんが疑問に思われている事に関連する箇所が多いので、差し出がましいことを申しました。
大文字ナンさんへ
もちろんヒトが頂点だとは思っていません。現存する生物がそれぞれの環境で最も優れた形質を持っているのだと思っています。ヒトの戦争を例に出したのは、ヒトの行動も進化によるものの結果であるはずだと考えたにすぎません。つまり、ヒトの行動を進化論的な生態分類に当てはめようとしたのではなく、進化の考え方をヒトに当てはめただけです。ヒトも生物であり、遺伝子により形質を発現しているのであれば、ヒトであろうが、イヌであろうが同じであろうと。
あと何度も書いていますが、自己犠牲の精神は利己的な遺伝子にはあてはまらないであろうというところからこの疑問を投げかけています。自分と血縁がある個体を助けるのであれば、結果として自分の遺伝子の一部でも残せるだろうけど、自分とおおよそ関わりを持たない遺伝子を助ける意味があるのだろうかということです。利己的遺伝子とは種レベルではなく遺伝子レベルで子孫を残すことだと思っているのですが。戦争に関しても、全くの同種間での殺し合いが存在するかで考えなければならないと思っています。
GOAさんへ
えーと文章表現が下手なせいだと思いますが、うまく伝えられていないようです。
基本的にはGOAさんの書いてある範囲のことは納得しています。
疑問に思っているのは、その自分の命まで左右されるような絶対的な権力を他の生物に持たせるまで、その下々の生物は我慢して生存していられるかということです。自分の命が左右されてしまうのであれば、血縁を残すためにあえて自分だけが犠牲になるということはあると思います。ただそんな絶対的な権力を持つ前にその下々の生物は淘汰されてしまうのではないか、とても戦力的に安定するまで持たないのではないか。自分の命を左右されるまでの権力を持たせるメリットがあるのだろうかということです。そういう意味で連続的の変化では考えずらいと思っています。
根本的には、人間の文化や思考も進化論の範疇になるのでしょうか。個人的には、ヒトも生物のしくみから逃れられない以上、また他の生物と関わり合いこの環境の中でしか生きられない以上、ヒトのすべての行動は進化論の結果でなければならないと考えています。
思考や行動にヒトを用いたのは、イヌやネコでは正確にその気持ちがわからないからです。他の動物の行動は、外(ヒト)から見たものとその動物が本当に感じていることでは、ギャップが必ずあると思います。そこで一番ギャップを少なく考えることできるヒトの思考、行動で考えています。ヒトには後天的な要素が多いのですが、ヒトの基本が遺伝子の発現である限り、進化論からはずれてはいけないと考えていますが、他の方はどうでしょうか。
もう一度書いておきます。ヒトでは自分の遺伝子とはおおよそ関係のないもののためにはたらき、命を投げ出すときまである。それでは自分の遺伝子の一部だけでも残せないのではないか。
また、種として強いものを残すのならいいのですが、種として優れているのではなく、ただの肩書きで、位の高いもののために行動しているのではないか。
さらに、その遺伝子を残せず、生物として強いものを残すのでもなければせめて、自分に多大な利益が生じなければならないのではないか。しかしその利益というのがあるのか。
>ヒトが戦争を起こすとき、権力者が、下々のものに命じて戦わせるわけですが、なぜそのいうことを聞くものの遺伝子が伝えられるのか。
戦争というか戦いそのものは権力者の誕生以前から存在したのではないでしょうか?
また私も権力者のために利他行為を行っているとは思いません。前述のとおり集団の中の血縁者だったり自分の生存のためではないかと述べています。強い権力者を守ることがひいては集団の生存に役立つくらいの選択はあると思いますが。
私が言ってもいないことに反論されてもちょっと困ります。
ところで戦争に参加するという行為はどの程度遺伝子の影響を受けているのでしょうね。
To 打倒?進化論さん
もしかして、ヒトが進化の頂点にあるとお考えではないでしょうか?確かに人類は、ひとつの系統樹の末尾にくる種ではあるのでしょうが、同様にして現存するたいていの種はそれぞれの系統樹における進化の頂点にあると考えられます。ですからヒトが戦争を起こすことを指して、すべての生物における進化論的な生態分類を当てはめようとしても無理があるのではないでしょうか。なにしろヒトは高度な知能という厄介な形質を得たために、自己破壊衝動から逃げられないイキモノなのですし。
#人間は遺伝子に命じられ「本能」で戦争しているわけではないでしょうし。
また、社会性昆虫は近似種間で時折「戦争」していますし、ヒトの場合のそれも、もとを辿ればニッチの奪い合いから起きていたことは疑いないと思います。
全体を通じて、打倒?進化論さんが本格的に進化論について疑問視し、問題点を提示していきたいのでしたら、少なくともドーキンスの「利己的な遺伝子」と「ブラインドウォッチメイカー」あたりの文献には目を通されるべきと思います。
戦争の進化的問題点
・なぜ同じ種類で殺し合うという他の生物には見られにくい(ないとまではいわないが)
行動がここまで広がっているのか。
・ヒトが戦争を起こすとき、権力者が、下々のものに命じて戦わせるわけですが、なぜ
そのいうことを聞くものの遺伝子が伝えられるのか。ハチのワーカーであれば、血縁
がある女王ハチのために働くわけですが、社会性昆虫の行動とは根本的に違うし、霊
長類の社会でもボスのために命をはっているふうも見られない。そしてその権力者が
生物的に強い個体であるとも思えないので、自己犠牲をしてまで生かすシステムが成
り立ちにくいのではないか。
GOAさんの理論を受け入れられなくはないのですが、その権力者のいうことを聞くべきであるという他人のために行動する考えがどのように安定した戦略となりうるかに疑問を持っています。つまり戦争が当たり前の社会が定着していれば、そのとおりだとは思うということです。
>ヒトの有史からの事柄を見ると、戦争による発展のような気がします。その中で現代のように自分を犠牲にしても他人を助けることがよいことだという考えが広まったのか、ということが連続した変化の積み重ねで考えにくいと考えるだけです。
ヒトのように社会を作って生きていく生物は農耕や狩猟あるいは戦争への参加という義務を果たさなければ集団の中では生きていけない(集団からはじかれてしまう)のだから、自分ではなく血縁者が集団の中で生きていくために自分を犠牲にするというのは不思議ではないように思えます。
もっと利己的に戦闘に参加して死ぬ確率と参加しないことによる制裁や集団を逃亡して一人で生きていく難しさを計算して戦闘に参加している可能性も考えられます。
いずれも進化論的説明から外れる行動とは思えません。
自己犠牲が美徳といわれるのは集団を維持するのに都合がいいから称揚されてきたのかもしれません。(もちろん現代ではそんなに単純に決定できるとは思いませんが)
>血縁関係のある利他行動は一般的に言われているそのとおりだと思います。
血縁関係のない利他行動も進化論で説明されていますよ。
過去ログに一通り目を通していただいてから議論を進めた方が効率的だと思うのですけど。
この掲示板の下の方にホームページへの入り口があります。ボクはそれの発見が遅れてずいぶん無駄をしました。ご存じかとは思いますが。(自分へのいましめを兼ねて書いてます。)
>進化論と相対性理論とも違いは、まだ起きていない結果を、その理論で予測して確かめられるかどうかだと思います。
理論による予測可能性のことをお話なら、それも進化論と相対性理論において差は無いと思います。
光速度一定性や、ブラックホールは大昔から起きている現象です。ただ、発見あるいは実験がされていなかっただけ。
進化論によって、例えば何らかの動物の中間化石が存在する、という理論的予測が、ある日その化石が実際に発見されることにより実証される、といった展開の場合、相対性理論との違いは無いと思いますけど。
>その中で現代のように自分を犠牲にしても他人を助けることがよいことだという考えが(どうして)広まったのか、ということが連続した変化の積み重ねで考えにくいと考えるだけです。
( )の中を勝手に補足して読みましたが、それでいいでしょうか?
ちょっと意味が...(^_^;)
To wadjaさん、たまごちゃん(^-^)ノ
鳥人論争のファンの一人です。続きが待ち遠しい...。
タイトルから中島みゆきが消えている・・・
中島みゆきの話で盛り上がっていた人たちに対して、
ごめんなさい
血縁関係のある利他行動は一般的に言われているそのとおりだと思います。
問題はヒトには血縁関係が全くなくとも、自己犠牲できる形質があるということです。
ESS理論として、タカ派・ハト派ゲームというものがありますが、ここではタカ派で安定した集団の中にハト派は侵入し、さらに安定した戦略になりにくいと考えられています。ハト派、さらに自分を犠牲にして他人を助けるという考えは、その行動自体に自分自身や同じ遺伝子を有するものによほどの利益がなければ安定した戦略になりにくいと思います。
ヒトの有史からの事柄を見ると、戦争による発展のような気がします。その中で現代のように自分を犠牲にしても他人を助けることがよいことだという考えが広まったのか、ということが連続した変化の積み重ねで考えにくいと考えるだけです。(もちろん進化を考えるならば、有史以前のヒトの祖先から考えるべきですが、それにしてもその祖先もかなり攻撃的なものが生き残ったとどこかで読んだ気がします。)
進化論と相対性理論とも違いは、まだ起きていない結果を、その理論で予測して確かめられるかどうかだと思います。進化論はその理論の性質上、どうしてこの結果になったかという議論でしかありません。つまり、進化論という理論で考えれば、将来はこうなるはずだとか、未知の何かを予言して、実際にそのとおりに発見されるということが必要だと思います。ただ後者の方は、時間とともに変化が生じている証拠として、様々な化石が発見されている、また現存生物にも退化した器官を含め様々な証拠が存在するというのは理解しています。つまりその変化が連続的で淘汰によるものかどうかまでは証明していないのではないかと考えるのですが。
一つ断っておきますが、進化論は自然淘汰による連続的な変化と自分自身では定義しています。ここで進化は本当に連続的に淘汰によって起きたのかということについて、ヒトの助け合いはどうなるのかということです。
>ただ進化論は、その理論を使って現実に何かが行われているわけではないし、まだ訂正の余地がかなりあるものだと思います。
進化論の予測に従った結果が得られた観測というものが存在しますが、それでも「現実に何かが行われているわけではない」のでしょうか?
>その理論が完璧でなければ、出来る限りその疑問に対して考え、より完璧に近づける姿勢が科学だと思うのですが。
自分はより科学的に考えたいので進化論の問題点をもう一度見直して、考えていきたいと思っています
進化論を相対性理論に置き換えても同じことが言えます。意味のある発言とは思えません。
数年ほど前に相対性理論が修正を余儀なくされるのではないかと思われるような超光速現象が発見されたという騒動がありました。どのような理論もより完璧に近づく努力を続けています。
進化論が完璧でないことは明らかですが、それを一般論で批判しても仕方がないと思います。
たとえば利他行動についてなら、進化論的に説明されている利他行動についてどのように矛盾するのか、どのような問題点があるのかを明確に示す必要があるのではないですか?
基本的には完璧なものは、少ないと考えています。
ただ予測でも推測でも仮説でもいいから、つじつまの合う理論で納得したいと思っているだけです。
あくまでも一般人としての感覚ですが、同じく「と」の方々から批判を受けている相対性理論は、実際にその理論で天体観測や、宇宙探索などが行われているわけですから、正確に理解できなくても正しいのかなと思います。
ただ進化論は、その理論を使って現実に何かが行われているわけではないし、まだ訂正の余地がかなりあるものだと思います。だけれども、相対性理論や、例えば卑弥呼が昔邪馬台国を治めていたと同じくらい正しいものでという言われ方をしている感じがするのです。(あくまでも一般人の感覚として)
その理論が完璧でなければ、出来る限りその疑問に対して考え、より完璧に近づける姿勢が科学だと思うのですが。
自分はより科学的に考えたいので進化論の問題点をもう一度見直して、考えていきたいと思っています。
とりあえず理論に穴があるなら埋めていきたいし、埋まらなければ違うことを考えなければならないのではないでしょうか。
打倒?進化論さん
>あくまでも進化論が完璧か、訂正すべき点が残っているかという点で書き込みたいと思います。
そりゃあ当然訂正すべき点が残っているでしょう。(将来においても進化論が一切の修正を受けないということは極めて考えづらい)
打倒?進化論さんの大学では完璧な理論があるなんて教えているのでしょうか?
(利他行動については過去ログやネットでの記事以上にうまく説明できないので割愛)
とある本で(何かのMOOKだった気が)精神の進化について書いてある文章があり自分なりに考えた時期がありました。
ここで精神とはその生物の思考・感情のことと定義して話を進めます。
そうすると明らかに、例えばイヌとヒトでは精神というものは違うものであるし、その種に置いて個体差はあるもののある一定の範囲内で共通するものであるので、その生物の形質であると考えて
いいと思うし、また遺伝するものであると考えられます。
ここで断っておきますが、もちろん細かいところは獲得形質的なものもありますが、例えば楽しいとか悲しいとかの表現の基本などは、生得的だと考えられるということです。イヌにいくら人間と同じに教育したとしても人間と同じ感情や思考を表現できるとは思えないので。
そこでゾウリムシからヒトまで精神はどのように進化したのか、という話もあるのですが、自分の中でまとまってないので、今回はヒトに限定して話を進めます。
一番の疑問は、「自己犠牲愛」という感情がどのように獲得できたかと言うことです。自分の理解としては、進化とはその環境に適応した、後世まで残すことのできる形質を発現できる遺伝子が残り、積み重なっていくことだと思っています。(この辺でもし思い違いがあるようならご指摘を)であれば、親族愛であれば、納得できるのですが、全く遺伝子的なつながりのないものを助けてしまう個体がいるのなら、その個体の遺伝子はかなり早い段階で淘汰されてしまい現在まで残されていないと考えるのですが。もちろん現在は「文化」や「教育」というものによってその行動は後天的に与えられているとは思うのですが、その文化が定着するまでには、ヒト以前の生物から考えれば、とてもあり得ないほどの時間のギャップがあると思います。
つまり、次の世代に子孫を残しやすいやつの遺伝子が残るのであれば、もっとずるがしこい奴らのみが生き残っていなければ、つじつまが合わないと考えるのです。
遺伝子とそのような処世術のようなものは、相関がないと言われる方もいるかもしれません。(必ずいるであろう)ただ、文化が残っていくと考えてみてもその変化が断続的ではなく、連続的であれば、確率的にはかなり低いのではないかと考えます。
何度も書きますが、じゃあその変化の原動力は何かと聞かれてもわかりません。ただ進化論で言われていることでは説明ができないことがあるんじゃないかと思っているだけなので。
あくまでも進化論が完璧か、訂正すべき点が残っているかという点で書き込みたいと思います。
ここで完璧ではないと思われる方は、進化論のどこが問題点なのかというのが提示していただければ幸いと感じます。
To ぼんさん
丁寧なお返事ありがとうございます。確かにキリスト教の原典においては、数々の革新的な世界観や、神に対する理性的で冷静な記述があったのでしょうね。そしてそれらは「希望的解釈」によって、読む人の立場、広める人の目的に応じて歪められてきたのが実際ではないか、と思います。
宗教家の立場で聖書やその他の宗教における原典を読み解くのと違い、あくまで学問的にそれらを読む場合では、一般に知られている「宗教の姿」とは、また大きく違ったモノが見えてくるのだろう、と思います。なかなか興味深いですねぇ。
進化論というものは学校で教えられるほど確かな学問ですので、ここで
質疑応答を繰り返していけば、打倒?進化論さんが進化論には疑問の余
地がないと納得するようになるだろうという事を、私はまず確信してい
ます。
それはそれとして、進化論をつっこんで勉強してない人には「進化論っ
てなんとなく胡散くさい」という印象は割と普遍的に見られるな、とい
う気がしています。打倒?進化論さんが、どうして「この進化論という
ものは学校で教えられるほど確かな学問だと思えないような気が」した
のか語っていただけると、考察の材料としては色々おもしろいのではな
いかと思いました。
打倒?進化論さま
マイナーチェンジということで、
「?」を入れさせていただきますね。
>基本的な有機化学(高校レベルの)は理解しているつもりなので
>大学は理工学部でバイオ系なのですが、
あ、それなら、だいじょうぶだと思いますよ。
(もしかして、わたしよりくわしいのでは...?)
最初、人文系の出身のかたなのかな、
なんて思ってしまったもので...
(いささか失礼なことを言ってしまったかな...?)
気を悪くされたら、すみませんです。)
>ハンドルネームは、こんなに話題に上るとは思わなかったのですが、
>今更変えたくても変えられないような気がするので
そうなんですよねえ...
いったん決めてしまうと、あとから変えにくくなってしまうのも、
また事実なのでした...
機会があれば呼んで→ 〜読んで
ハンドルネームもマイナーチェンジして少しマイルドな感じ(?)にしてみました。
丁寧な返信ありがとうございます。
高校レベルの生物と化学は一応理解はしているつもりで疑問を持ちました。
無機物から有機物の生成(ミラーの実験とか)自体も、懐疑的ではありますが、何よりアミノ酸からタンパク質への生成についての疑問が解決していないので、「怪しい」と書いてみました。
素人考えでは、タンパク質を合成するにはリボゾームが必要だし、リボソームはタンパク質でできているし・・・と言うことは前にも書いたつもりなのですが。
ただまだ不勉強なところもあるとは思うので、紹介してくださったものを機会があれば呼んでみたいと思います。
基本的な有機化学(高校レベルの)は理解しているつもりなのできっと読めることを自分自身に期待して。
ハンドルネームは、こんなに話題に上るとは思わなかったのですが、今更変えたくても変えられないような気がするので(気が利いたものが思い浮かばないだけだけど)、進化論に対して懐疑的に孤軍奮闘していきたいと思います。
一応書いておきますが、私は「創造論者」ではありません。まあ都合のいいときに神様(キリストの神と言うより神道の八百万の神)に祈る、ごく一般的な宗教観を持って過ごしていると思います。大学は理工学部でバイオ系なのですが、講義の「進化・発生学」では発生しか教えてもらえなかったので(イモリの足を切断して、どのような処理をすれば切断面から3本の足をはやせるか、というのがレポートのテーマだった)、それこそ知識は高校生物に毛が生えた程度なのですが、この進化論というものは学校で教えられるほど確かな学問だと思えないような気がして、ここで進化論に反論してみようと思いました。結果、進化論には疑問の余地がないと納得できればそれはそれでいいと考えています。
>鳥人論争はなかなか楽しいですね。
ありがとうゴザイマス。悪ノリしちゃいます。
>棚の上に謎がたくさんあった方がワクワクして楽しいと思ってしまうので。だから棚に置くことに覚悟なんてものがなんで必要なのかな、と疑問なんです。
ワクワクには禿同なのですが、もう一度棚に戻すことには覚悟がいるような気もします。解こうとした雑誌のクイズの答えがどうしても分からず、しかも解答は来月号まで待たなきゃいけない時のイライラとか、会話の中でどうしても思い出せない人やものの名前とか(物忘れの激しくなったwadjaの一日は、大半そう言ったことで潰れたりします)。
ましてやそれが、自らの人生の意味に影響を与えそうな気がすれば、棚ザラシにするのはすごい覚悟が居ると思います。
なんで、中島みゆき?なんで?
疑問を残して去ります。
鳥人論争はなかなか楽しいですね。お二人ともすごいな。
みんなをーだまーすな、白いカモメよー
みゆきさんの歌じゃないけど似たようなお姉さんだからいいでしょう。て、人の祖先は鳥だった説もお登紀さんじゃないか!
トリックは見てないし本も読んでいませんので原文のニュアンスがわからないのですが、棚に置くといのは、説明は謎のままで置いておく、と解釈して発言して来ました。で、私には説明がつかないと不安という感覚がよくわかりません。棚の上に謎がたくさんあった方がワクワクして楽しいと思ってしまうので。だから棚に置くことに覚悟なんてものがなんで必要なのかな、と疑問なんです。
誤:diamonds8888x
正:diamonds8888xさん
>wadjaさん:科学は冷たいけれど、本当に心を落ち着かせるには科学的な説明こそが必要だ
は、ひょっとして違います(藁
元々、「diamonds8888xの意見はこうなのでは?」という主旨でレスさせていただきましたので、diamonds8888xの意見と同じになります(の、はずです)。今の科学で説明できないことは、「謎」として、棚に上げておく。
ぽんさん
回答ありがとうございます。
日本語では、いいのはないとのこと、残念です。
でも、せっかく興味をもったので、そのキリスト教っぽいのを探して読んでみます。
また面白い話の投稿を待ってますね。
では。
>旧約聖書学というのが、どういうものなのか、なんかお勧めの本はありませんか。
それが・・・、ないんですよぉ。
私が書いたことは直接学者さんから聞いた話なのです。そういうことを書いた聖書学の本は色々あるらしいのですが、出典を訊いたらドイツ語か英語の分厚い本ばっかなので私は読んでないのだ…
まぁ、ニーズがないから日本語に訳されないのでしょうね。日本で聖書を手に取る人って、殆どクリスチャンに限られるでしょうから。
日本語の旧約聖書学に関する本も(少ないけど)いくつかあって、手に取ったことがあるんだけど、もともと「聖書学」を始める人ってクリスチャンが多いからなのかも知れないけど、言葉遣いがキリスト教(宗教)っぽくってどうしても拒絶反応が出てしまって、読む気が削がれます。
私が直接話を聞いた旧約聖書学者さんに「早く一般人が読めるような本を書いてください」という要望がいろんな人から強く出されてるみたいだけど、今のところ忙しすぎて書けないみたいです。
ほんと、こんなに面白い話を知っている人があんまりいないこと(キリスト教会じゃぁそういう読み方はしないし)が残念だなぁ、と思うことがしばしばあります。
競馬=ファニーサイド、クローン技術で2世誕生も
クローンの健康面の課題は克服できたんじゃろうか?
そうじゃないと、調教に耐えられんのではないじゃろうか・・・
ぽんさん
こんばんは。
創造「神学」の話、大変興味深く読みました。
で、もっと知りたいとおもうのですが、
旧約聖書学というのが、どういうものなのか、なんかお勧めの本はありませんか。
素人むけの初歩的なのがいいのですが。
それと、
聖書は神を「分からない」としているのだから、
「神は天地を創造した」と言う文章は、実は、
「何か分からないものが、(人間のしない)何かをしたから、世界がある。」
という文章になる
これの出典って何でしょう?
ぜひ、読んでみたいです。
>そういえば人権思想は超越者を想定しないと成立しない、
>結局は宗教概念に過ぎないものだ、と言う話を聞いたことがあります
政治学者の小室直樹さんの書いた「痛快!憲法学」には、そこら辺の事情が詳しく書かれていて面白いです。
それによると、伊藤博文が明治憲法を作るときに「天皇教」を作ったのも、基軸となる宗教抜きには、ヨーロッパをまねた憲法(平等思想)は成立しないと彼が理解したからなんだそうです。
>人権や平等はもちろんすばらしいものだとは思うんですが
素晴らしいっていうか、紀元前4000年くらいの、絶対王政が当然だった時代に、よくも「法の前の平等」だなんていう、突拍子もない理想を発明したものだ、と感心します。(だからと言って、それが聖書に書いてあるまんま、そのまま現代にも通用する理想だとも思いませんが。まぁ、現代社会の理想として掲げられている「自由・平等・人権思想」の「起源」としての価値は結構あると思う。)
>ただ、宇宙からも超越した存在である神が聖書ではけっこう人間くさいところも
>ありますよね。
確かに〜^^;
ま、人間が作った神話なんだから、そこは仕方ないのかと思っていたけど、もしかしたら人間くさい神の方が「神秘的(謎めいて)」じゃなくて、絶対化されにくいから、あえて、そういう表現方法を用いて神を表現してるのかな?と思ったりも・・・
「超越」してるんじゃなくて、ただ単に「放り出した」だけかもしんないし。
私の発言の趣旨では、あきらめる=安易な説明に頼る、です。ではどうするかというと棚に置くしかありません。で、時々おろして来て眺めては、やっぱり説明できなくてまた棚に置くと(^_^)。
一番言いたいのは、神でも、超越者でも、なんだかグレートなものでも、所詮は誰か人間が頭の中で作り出したものに過ぎないんだということを忘れるな、ということですね。だから、そんなもんに頼った説明は安易なのです。
ただ現実の人生でなんらかの決断をする場面では、説明なんてものに納得できるまで待つわけにはいきませんから、サイコロとか占いとかなんらかの金言とか信頼する人の言葉とか、その人なりのものを指針とすれば良いのです。
僕の発言意図はそれでおけー>こうすけ
これまでの経緯をまとめると。
diamonds8888xさん:安易な説明をつけて納得するな、とことん科学的に追及せよ。
猫さん:一時棚に置くという姿勢を持っていないと科学主義に陥る危険性がある
Kosuke:diamonds8888xさんは棚に置く事までは否定してはいないのでは?
wadjaさん:科学は冷たいけれど、本当に心を落ち着かせるには科学的な説明こそが必要だ
という事でよろしいでしょうか。> ALL
(ひょっとして、wadjaさんの発言を正反対に理解している恐れあり >自分)
私の
>科学以外のものに拠りどころを求めても良いのかもしれないけれど、
>安易に解ったふうな説明をつけるな、という意味ではないのかな。
は
創造論を信じても良いが(科学とは別の土俵で心の安定を求める宗教だから)、創造科学はだめよ(科学的な根拠が無い安易な説明:疑似科学だから)
ということを言いたかったんです。
あと、ハンドルネームね。
やはり、そのハンドルネームだと、
最初に見たかたたちは、普通名詞的な意味を思い浮かべてしまいますし、
この掲示板に書き込めば、
やけに挑戦的に取られるものはあると思いますよ。
(せめて、「妥当進化論」なら、ねえ...って、
意味が反対になってしまいますね...)
ああ、でも、この掲示板に投稿をしばらく続けて、
あなたの人となりが知られてくれば、
個性や性格がハンドルネームにしみ込んでいって、
固有名詞的になってくるんだろうと思いますが...
打倒進化論さま、はじめまして。
「たんぽぽ」ともうします。
もう、つぎのお題に移るみたいだし、
掲示板を見るのが3日後になるみたいだけど、
遅ればせながら、コメントさせていただきますね。
>化学進化も怪しい気がします。
ミラーの実験はご存知ないでしょうか...?
高校生の教科書にも出ていると思ったので、
すぐ調べられると思います。
(あ、それとも、ミラーの実験は知ってるけど、
怪しいと思っていらっしゃるのかな...?)
メタン、アンモニア、水蒸気、水素の混合気体を閉じ込めて、
火花放電をすると(つまり、原始地球の大気を同じ成分&環境にすると)、
アミノ酸やいくつかの有機酸ができていた、というものです。
ほかにも、ミラーの実験装置を使って、
糖、有機塩基、ペプチド、ポルフィリンなど
複雑な有機分子ができることも、わかっています。
それで、原始大気の環境で、簡単な無機分子から、
大きな生体分子が、どんどん作られていたと考えられています。
あと、よく引き合いに出される(のかな?)ことに、
遺伝子を作っている核酸塩基のアデニンやウラシルが、
シアン化水素(青酸ガス)が縮合してできた、
なんてのがありますが...
(アデニンの化学構造式を、3分くらいじーっと見つめていると、
青酸ガス5分子からなっていると、わかってきます。)
こんなふうに、神さまや宇宙人を持ち出さなくても、
地球上で生命が誕生した可能性は、じゅうぶん示唆されるのでした...
化学進化については、
やはり、本を読まれるのがいいかと思います。
でも、ちゃんと理解するには、
化学の知識がある程度以上いりますが。
(打倒進化論さまが、「亀の甲」が苦手だったりすると、
ちょっときついかもしれないです。)
図書館でめぼしい本を探してみた。
『生物の起源と進化』(朝倉書店)
最初の1/4くらいが、化学進化に当てられている。
『生命の起源と進化の物理学』(共立出版)
さらに物理化学の知識もいる...
新書とかで、もっとわかりやすく解説してるのが、
あるかもしれない...
いつもROMっていていきなり横からの発言にレスしてくださり
ありがとうございます
>大文字ナンさん
ギリシャとか北欧の神話は神の誕生にも触れていますがずっとたどると
大元は混沌とか霧とか「わからない」存在に行きますから
やはり最初は自然発生としか言えないでしょうねΔ^_^;)
>GOAさん
本当に、そう思います。何度も進化論を批判する人が
生命の自然発生率の低さを根拠に現れるのを何度も何度も見てますから…(^-^;)
>ぽんさん
そういえば人権思想は超越者を想定しないと成立しない、
結局は宗教概念に過ぎないものだ、と言う話を聞いたことがあります
人権や平等はもちろんすばらしいものだとは思うんですが
最近宗教的押し付けがよくあるのも痛し痒しですね(^-^;)
なるほど、いろいろと勉強になりましたm(_ _)m
ただ、宇宙からも超越した存在である神が聖書ではけっこう人間くさいところも
ありますよね。本来の超越者ならば
私は日本神話の天之御中主神 ぐらいに謎めいた存在だろうと思います(^ ^)
大文字ナンさんへ
>私が科学を再認識するようになった理由は「分からないことは分からない」
>ときっぱり言い切る潔さとかに好感を持ったからかも知れない。
私の尊敬する古代オリエント学者(旧約聖書学)は、聖書のすごさを、
「聖書は、神も、死後の世界も『分からない』としていることだ」と言っていました。
私は、その言葉を聞いて、最近、聖書を再認識するようになりました。
「科学」じゃなくて、「文学」としてですが。
聖書の創造神話は、古代オリエントの他の創造神話から色々なアイディアを引っ張ってきて創られたものだから、似たような話はそこらじゅうに沢山あるらしいんだけど、それでも、他の神話から明らかに違うところがあって、それは、
「聖書は宇宙から神を放り出した」
ことだと、その人は言っていた。
つまり、同時代の他の神話は、太陽とか星とか大地とか(雨をもたらす)雲とかを神格化して「神」として拝んでいたんだけど、それに対するアンチテーゼとして「それらは神じゃない、(人間と同じ)被造物に過ぎない。だから、拝むべきものじゃないんだ」と言ってのけたのが聖書なんだと。
それで、何が凄いかと言うと、「神」を宇宙から放り出し、時の権力者から切り離したことによって、現代に通じる「平等」とか「人権」とかいう思想を生み出したことなんですって。
旧約聖書のサムエル記では、表面的には「ダビデ王万歳」と言っているけど(時の知識人たちがダビデ王に書かされたものなんだから仕方がない)、よく読むと、王は「必要『悪』」である、と結構あからさまに言っている。そして、政治権力者(王)は「法律(神から与えられる律法と表現されている)」によって権力を制限されなければならない、という、現代に通じる思想を思いついたということが凄いんだそうだ。(当時の他の王国では、王は神か、神の代理人として制限なき絶対権力を行使するのが当然だったのに対して。)
>「神は在りて在るもの」だから
その学者さん曰く、このヘブライ語原文は、文法的に日本語には翻訳できなくて、それを無理やり日本語にしたから、無理があるんだそうです。
その人は「もし私が訳すんだったら、『私は私』と訳す」と言っていた。
「貴方は誰ですか」という人間の問いに対して、聖書の神は「私は私」というような、突き放した答えをしている(結局「人間には分からん」ということ)。そこが、数多くある同時代の神話と違っていて面白いんだそうだ。
「初めに、神は天地を創造された」という言葉についても、
「創造された」という日本語が充てられている単語は、実は意味が分かってないんだそうです。前後の言葉から推測して「創造」という言葉が充てられているだけで。
ただ、その単語は、主語が「神」のときにしか使われない動詞だ、ということは分かっているそうです。
聖書は神を「分からない」としているのだから、
「神は天地を創造した」と言う文章は、実は、
「何か分からないものが、(人間のしない)何かをしたから、世界がある。」
という文章になるわけで、まぁ、現代的に訳せば「天地の始まりは分からん」と言っているに過ぎないのだそうです。分からないのだけれど、意味があって素晴らしいことのはずなのだ、自分たちはそういう立場をとる、というのが聖書の主張(神学)なのだそうです。
「創造科学」を批判するこのHPの趣旨とはちょっとずれるけど、「創造科学」からの視点だけだと、「創造神話」の価値がちっとも現れないから、「神話」としての素晴らしさを主張したくなったのです。長々とすみません。
創造「科学」の主張は、中島みゆきの歌詞の内容を「詩」として素晴らしいというのではなくて、「科学的に」正しいと主張することと相通じるものがありますな。
そうかぁ、創造論と並行して中島みゆきが論じられるのは、そのような理由だったのかぁ・・・。奥が深いですのう。
(いわゆる「キリスト教」が聖書のそのような側面を無視してきたのは、「キリスト教」がローマの国教になって以来、権力者の宗教になってしまって、王政を保護するために使われてきた歴史的背景によるのだと思う。キリスト教会は信徒に聖書を読ませなかったんだから。)
>バカラー波は余次元に至り、ループしているので現実には距離の自乗に反比例しているように「見える」のでしょう。
11次元が理解できたら、この文章で笑えるのかなぁ(泣)。
(せっかくご本を紹介していただいたのに、金欠続きでまだ買ってない。。。)
>起源などないといわれるのか?
それってダブスタでは?
私が思うに、進化論という言葉をイメージだけで捉えているから、生物の歴史に関わるあらゆるものを進化論にひっくるめているのではないでしょうか。(「進化論によれば生物の歴史は40億年」とか)
一般的にはそうした誤解があっても「まあいいんじゃないの」で済まされる範囲だと思うのですが、進化論について語ろうとするなら、進化論とは何かをちゃんと理解しておくべきだろうと思います。進化論を批判するならなおさらですね。
言い尽くされた議論ですが、人を神が作ったのなら、神はどうやって生まれたのだろう?結局そこに行き着くのですよねぇ(笑。私は科学以外の言葉を普段は使います。私のお客さんはオカルトも好きだし霊も信じているし占いにこだわったり「あるある大事典」を見てスーパーに走ったりしている人が大半なので、それらを頭ごなしに否定することなど出来ません。
私が科学を再認識するようになった理由は「分からないことは分からない」ときっぱり言い切る潔さとかに好感を持ったからかも知れない。だって私は(臭いことを言うけど)科学なんかより、愛とか情とか義理の方が遥かに大事だと思うのだし(笑。
馬鹿が時空を超えて発散するのであれば、バカラー波は余次元に至り、ループしているので現実には距離の自乗に反比例しているように「見える」のでしょう。ということは馬鹿とミクロスケールで接触すれば、バカラー波は16桁も強くなるはずなのですねぇ…朱と交われば紅くなるってなもんかなぁ…あはは。
進化論が生命の起源について語らないのは片手落ちだと
おっしゃる方は
神学が神の発生について語らないから不完全だと
言われたらどう答えるのでしょうか?
以前みたいに
「神は在りて在るもの」だから
起源などないといわれるのか?
それってダブスタでは?
>科学以外のものに拠りどころを求めても良いのかもしれないけれど、安易に解ったふうな説明をつけるな、という意味ではないのかな。
Kosukeさんそれは少し違うような気もする。科学には拠り所を許さない冷たさがあるような気がします。分からないことを何か別のものに頼るのではなく、分からないまま受け入れる覚悟が必要だということなのでは無いでしょうか?説明ができるることほど、心を落ち着かせるものはないのだから。
#さもなければ、大なり小なり大槻教授みたく科学主義に陥ることに...
>聖典の中の「人は昔々鳥だったのかもしれないね」という言葉を引用するだけで、証明が終わったとする態度に問題があると申し上げているのです。どちらが「と」であるかは一目瞭然かと思います。
これが自然科学を専攻し、歌姫の熱烈なファンでを自認するたまごちゃんの口にする言葉でしょうか?自然科学において主流の学説として認知されるのは、より説得力がある仮説なのです。「証明終わり」と書いたのは、「もうこれ以上の説得力は必要無いであろう」という意味でしかありません。たまごちゃんは、自然科学に人文科学の数学のような完璧な証明を求めておられるのですか?また、歌姫のひらめきから出た言葉以上に説得力をもつものが、他にあると主張したいのでしょうか?
>鳥の膝に見えるところは人間の踵にあたり、つま先だって歩いているような状態なのです。従って、両者の二足歩行は表面的な類似に過ぎず、比べても比べても、答えはでないのです。
鳥に限らず多くの哺乳動物の歩行様式は、人間に例えるならつま先立ちです。この点が人と鳥との違いであることは、幼少の頃からクリスマスに鶏の腿の丸焼きに慣れ親しんできたwadjaはとっくに気が付いていた点です。しかし、二足歩行という、重大な人と鳥との共通点・他の脊椎動物からの相違点を無視することは、それこそ木を見て森を見ずの論理構成です。
#ひょっとして、クリスマスに鶏食べるのは日本人だけ???
>ところで、恐竜と呼ばれているものは実際には龍で、銀色をしており、彼らが大洪水によって滅びるまでは...
本当に常識を疑ってしまいます。古来より龍は人の想像上の生き物であることは、世の常識でしょう!ましてやその龍は水の神様でもあります。なぜ龍が洪水で滅んだなどという発想が出るのでしょうか?
>「生まれつきのかもめはいない」は、進化論の立場に立てば、かもめも大昔はかもめ以外の何かだったのだろうという意味の比喩で使わせていただきました。
科学的な議論に、暗喩はさけた方が無難かとおもわれますが、意図は理解いたしました。
>wadjaさんは、はじめから終わりまで、カモメはカモメであるとお考えですか?
既に述べた文章から汲み取っていただきたかったのは、地質学的なタイムスケールの中で、ダーウィンやグールドの言っていることは矛盾せず、wadjaも支持するということ。すなわち、カモメであり続けたカモメもいるが、人になったカモメも居ると言う事です。
>あの詩を進化論を肯定するものと解釈するのは間違いです。
本当に頑固な人ですね。高貴なお方の予言には、一つだけではなく幾つもの含意があるのです。「本質的なもの」というのは、受けつがれる利己的遺伝子を意味し、変わり行くものはその表現形なのです。「変わらないものを流れに求めて」とは、変化の象徴である「流れ」に「普遍性」を求める哀しみを謳ったものであると、法王も消極的に認めています。
これから3日間くらいパソコンのない世界で生活しなければならないので、今とても質めんどくさいことを考えたのだけれども、次の書き込みの機会にします。ちなみに次回のテーマは、
「生物の精神の進化」
また非難を浴びそうな気がするけど・・・
中島みゆきはそこそこ好きです。一応大吟醸を持ってるし・・・
でもあえて言えば、ラジオの方が好きでした。(過去形)
お時間拝借とか毎週楽しみに聞いていました。
科学以外のものに拠りどころを求めても良いのかもしれないけれど、安易に解ったふうな説明をつけるな、という意味ではないのかな。
宗教・呪術・霊やら妖怪、これらは【合理的な】説明のために作り出されたものではなく、心を落ち着かせるために有る、と考えた方が良いと思う。
>科学による説明ができないとき、人はふと何かに頼りたくなる。だめ、あきらめちゃ。どんなに苦しくてもあきらめちゃだめ。
そかにゃ?
科学はもっとも有用にして開かれた説明の体系であることに疑義をさしはさむつもりもにゃーけどさ。
でも、「科学の眼で世界をみるならば、わからんことは棚に置く覚悟が必要」だろ?
棚をつくらない・棚におかないで科学だけを武器にしようとすると、
必然的に科学主義におちいるのではにゃーの?
宗教・呪術・霊やら妖怪も、説明のために存在するものだろにゃ?
(これらの世界観は、基本的にはコスモロジーだから、棚をつくるわけにはなかなかいかにゃーのだね)
わからんことは神様とか霊とか因縁とかでいいではにゃーの?
実際に、宇宙の全ての法則のデザイナーとしての神 ちゅう概念は否定しようもにゃーしさ。
進化論では生命の起源は扱わない、と言い切るとちょっと語弊があるでしょうね。無機物だけの状態==>塩基、アミノ酸等有機物の混合状態==>たぶんRNAから成る自己複製系==>タンパク質やDNAも加わった自己複製系〜始原細胞==>原核生物、と言う流れが有力視されていますが、遅くともRNAから成る自己複製系以降なら変異と自然淘汰の概念は通用します。生命とは畢竟化学反応ですから、このあたりになると化学と生物との境界は消失します。ああ「化学と生物」という雑誌もありますね。
進化分子工学とか進化工学と言ったキーワードも使うと色々ひっかかると思います。
>ただ唯物論的な科学のアプローチでは説明できてないので、それ以外の何か(宗教的な神を
>指すものではありません。それがなんなのかがわからないのですが)というもの、つまり
>唯物論科学ではない何かが生命にたずさわっていることを否定はできないのではないかと
>思うだけです。
科学による説明ができないとき、人はふと何かに頼りたくなる。だめ、あきらめちゃ。どんなに苦しくてもあきらめちゃだめ。
>馬鹿は、単に、個体の変異なのではないでしょうか?
ちがああああああああああう!!!
馬鹿は馬鹿というジャンルなのだにゃ
時空を越えた「バカラー波」が生物という形態を獲得した存在なのだにゃ。
だから、馬鹿からは遠ざかるしかにゃーのだ。
まさに、大文字ナンのいうように、馬鹿とは距離の三乗に反比例して惨状が参上する。
>だって、「馬鹿は死ななきゃ直らない」という命題は、「馬鹿が死ねば直る。つまり、遺伝しない。」という意味でしょう?
これにたぐいすることわざはあちこちにあるのだにゃ。
ロシア人いわく
「馬鹿は墓に入ったほうが幸せだ。墓を見ても馬鹿だとわからないから」
エチオピアでいわく
「馬鹿は馬鹿にしてもいい。馬鹿にされてもわからないから馬鹿なのだ」
イチバンすきなのが、スペインのことわざで
「山羊は常に山に向かう」
にゃんとシンプルで含蓄のあることわざか(うっとり
そういうわけで(どういうわけだ?)
死んで治る程度の馬鹿ならば、形而上学的馬鹿(すなわちバカラー波)とはいわにゃーのだ
>すると、馬鹿は距離の三乗に比例して弱まるのだろうか?
4番目の次元が折り畳まれている場合は、距離の2乗に比例した、弱い力になり得るのかも...。
>ゆえに、進化論はまちがっとる!!!!!
馬鹿は、単に、個体の変異なのではないでしょうか?
従って、進化論への反証とはならない。
だって、「馬鹿は死ななきゃ直らない」という命題は、「馬鹿が死ねば直る。つまり、遺伝しない。」という意味でしょう?
すると、馬鹿は距離の三乗に比例して弱まるのだろうか?
中島みゆきを「打倒」するとは、どぉいう状態を目指せば良いのだろう…
1:中島みゆきとなにかの勝負で勝つ。
2:とりあえず転んでもらう。
3:文字通り「打って倒す」…はは…
4:中島みゆきを好きになった上で、その後嫌いになる…
ふむ、中島みゆき本人を打倒するのと、誰かの心の中にある中島みゆきと戦う場合と、ふたつの戦略が考えられるワケですねぇ。まぁ私は椎名林檎なら好きだけど、中島みゆきにはあまり興味がない(笑。
>「生まれつきのかもめはいない」は、進化論の立場に立てば、かもめも大昔はかもめ以外の何かだったのだろうという意味の比喩で使わせていただきました
だがしかし、だがしかーーーーし!!!
馬鹿は生まれつき馬鹿なのではにゃーだろうか?
もちろん、後天的に馬鹿になることもあるだろうけど、むごい馬鹿をみると、
「ああ、これはもう、ア・プリオリに馬鹿だとしかいいようがない」と僕たちは直観する!!!
ア・プリオリ馬鹿というのは、それが馬鹿だから馬鹿なのだとしかいいようがなく
存在をもって説明せざるとえにゃーという意味では、形而上学的であるとすらいえるのだにゃー
馬鹿という生物は、時空を越えて最初から馬鹿であったああああああああ!!!!
ゆえに、進化論はまちがっとる!!!!!
中島みゆきを打倒しようにも、そもそも僕は中島みゆきを聞いていにゃーので
打倒しようもにゃーきもするのだが、この場合は
「僕は聞いてにゃーもーん」で私的には打倒できている気もするにゃ。
さて、薦められて京極夏彦の犯罪小説を読んだ。おもちろいね。
「世界を科学の眼で見るのなら、わからないことは棚に置く覚悟が必要だ」
は、なかなかいい台詞だにゃ。
To wadjaさん
>これは科学を専門とする人とは思えません。科学理論の多くは証明しようのない仮説であり、論文の多くも「・・・と思われる」で結論を述べるではありませんか。科学に必要以上に説明力を求めるのは、「と」の兆候の一つですよ。
科学理論の多くは証明の仕様がないというのはその通りです。ご自分の書いた文章をもう一度読み返してみてください。
>概出だけど、
>「あーあ〜人は、昔むかーしー、鳥ーだったのかもしーれーないねー」
>ということで、証明終わり。
私は、あなたが「かもしれないね」と述べたことを批判しているのではありません。聖典の中の「人は昔々鳥だったのかもしれないね」という言葉を引用するだけで、証明が終わったとする態度に問題があると申し上げているのです。どちらが「と」であるかは一目瞭然かと思います。
>私がそれだけで人間が鳥だったと主張するとでも思ったのですか?この地球上で、二足歩行を恒常的に行える脊椎動物がどれだけ存在すると言うのでしょうか?全生物の種の数を考えれば、係累にない種が、偶然にこのような重大な類似点を持つことは、まずありえません。そんなことは、小学生にだって自明のことです。
鳥と人間の歩行様式は全く異なります。鳥の膝に見えるところは人間の踵にあたり、つま先だって歩いているような状態なのです。従って、両者の二足歩行は表面的な類似に過ぎず、比べても比べても、答えはでないのです。人の叫びも、鴃の叫びも、風の叫びも、警笛の叫びも、みんな似ているからといって、これらの間に系統関係を考えることに意味がないのと同じ事です。
>鳥が恐竜の子孫であることは、現在の進化学においては有力な学説です。あなたは羽をむしられた鳥や、ラバーチキンを見たことはないのでしょうか?あの姿は、恐竜そのものです。
鳥の姿も恐竜の姿も共に空からもらった贈り物です。デザイナーが同じならば、形態に類似点が見られるというのは当然のことです。
ところで、恐竜と呼ばれているものは実際には龍で、銀色をしており、彼らが大洪水によって滅びるまでは人々はその背中に乗って移動していたという説があります。7月にも下るだろうといわれる次の預言では、龍について、はっきりしたことが示されるかもしれません。
>人が主張してもいないことに対して反論するのも、「と」の特色です。wadjaがいつ、「生まれつきのかもめはいない」と主張したのでしょうか?進化の速度は、数世代でそれと分かる速度でおきるものでは有りません。ダーウィンもそのようなことは主張していません。グールド達が主張した断続平衡説にしても、地質学的長さの時間を問題にしているのであって、とんでもさんが誤用するような速いスピードで進化が起きたと主張するものではありません。
「生まれつきのかもめはいない」は、進化論の立場に立てば、かもめも大昔はかもめ以外の何かだったのだろうという意味の比喩で使わせていただきました。紛らわしい表現だったかもしれません。申し訳ありません。wadjaさんは、はじめから終わりまで、カモメはカモメであるとお考えですか?
>でも一番重要なのは、「世の中はいつも変わっているから」とういう聖なる詩に書かれた真理なのです。頑固者は、悲しい思いをしますよ。
あの詩を進化論を肯定するものと解釈するのは間違いです。「変わらない夢を 流れに求めて」とは、本質的なものさえ失わなければ、本質的種の中でのマイナーチェンジは可能だということを示しているのです。
はじめまして、打倒進化論さん♪たまごちゃんと申します。
打倒進化論さんは中島みゆきについてはどのようにお考えでしょうか?
・・・って違うだろっ!!>自分自身
いきなり、進化論についてのサイトなのに中島みゆきや谷山浩子の話をしていてびっくりなさったかもしれませんが、呪ったり恨んだりはしないから怖がらなくても大丈夫ですよ♪
>ただ唯物論的な科学のアプローチでは説明できてないので、それ以外の何か(宗教的な神を指すものではありません。それがなんなのかがわからないのですが)というもの、つまり唯物論科学ではない何かが生命にたずさわっていることを否定はできないのではないかと思うだけです。
もちろん否定はできないでしょう。肯定もできないですけどね。
>タンパク質が先か、リボソームが先か。
これは当然、リボソームが先でしょう。だって、タンパク質はリボソームの構成要素の一つだもん。タンパク質が先かRNAが先かで言うと、今のところRNAの方に軍配が上がっているようです。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。