<クハ72 さんへ> で。 ありましたか?
私は「生命はつくられて在る」と考えていますし、且つ、生命は「記憶に関わる物質」
から始まり、おおまかな表現で申し訳ないですが「蛋白粒」⇒「中心小体」⇒「原始
真核生物」⇒「多細胞真核生物」⇒現在 という流れを考えていますので、貴方の指摘
される循環論に当たらないと思っております.
又、「現在在る生命は始源生命体と繋がっている」と考えていますので「人ははじめ
から人だった」可能性もあると考えているからです。過去に私の書き込んだところを
読んで頂けたら理解していただけると思うのですが?
私の表現でnasuさんにご迷惑をお掛けした事をお詫びいたします。
優れている が 進化
ま・・まっ待ってください。
こんな 基本が科学を標榜するページで飛び交っている。
悲しいな〜
横レスは結構ですが、論点をずらさないでいただけるとありがたいです。
クハ72さんへの個人的なレスでしたので、かなり言葉を端折ったので誤解を受けても仕方がないのですけどね。
私の言い方がお気に召さなかったのでしたら、
「正論を語るのにもTPOがあるのでは?」というふうに言い換えましょうか。。
つまり、創造論者は変異を認めるわけですね。ある菌は、毒物の中に入れると、適応を見せます。それはもとの環境に戻しても大丈夫なのです。つまり、毒物に耐性を持った方は明らかに前のものより、優れています。前のものと、耐性を持つ方は、違う生物なのです。それが進化でなく、何なのでしょう?変異を認める事は、進化を認める事につながるのではないでしょうか?
>「聖書は非科学的、信仰と科学は違うという主旨の発言」はまずいですよ。
これがどうしてもまずいのでしょう?
信仰が科学とは違うのは当然で、同じだとするのこそまずいのじゃないですか。
その科学とは違う信仰が拠り所としている聖書が科学じゃないもの、つまり非科学的なものなのも当然と思うけど。
「まずい」とする意識の中には、何かしら科学=真理とか権威あるものというようなものがあるのじゃないかしら。
to クハ72さん
どうも、こんにちは。。
>これはひょっとして僕のことでしょうか(笑)。
クハ72さんだけじゃないんですけどね。。。。(^^;;;
まあ、クハ72さんも含まれてますね。。・・・・(; ^^)。コソコソ
どうも、失礼しました。( -o-)/☆ピシ! 〜(#ToT)アウ!
>進化論が科学的に間違っているかどうか、
>創造論が科学的に正しいかどうか、
まあ、これだけでも実は向こうの趣旨とは異なるように思いますので、
発言資格がないと言われてしまえばそれまでなのですが、
「進化論が科学的に正しくて、創造論は科学的に正しくないんだ」というような趣旨の発言さえしなければ、
こういう議論も不可能ではないように思いますね。
「聖書を盲信してないだけです」なんて言うからですよ(笑)
そんなこと言ったら追い出されますって(^^;;;
「聖書は非科学的、信仰と科学は違うという主旨の発言」はまずいですよ。
とりあえず、聖書に書かれていることに関しては妥協しないのが向こうの方針なんですから、それは尊重しないと、、、そういう態度は非科学的ですけどね。。
でも、だからといって、それを悪く言う必要はないと思いますが、、
「書かれていること」と「書かれてないこと」の区別はしっかりとつけるべきでしょうけどね。。
> あちらで「さようなら」といわれる人と、
これはひょっとして僕のことでしょうか(笑)。
僕は別に聖書は非科学的、信仰と科学は違うという主旨の発言をしただけであって
あちらの信仰までも否定したつもりではありませんでした(そう誤解され易い発言でしたが)。
僕が議論したかったのは、進化論が科学的に間違っているかどうか、
創造論が科学的に正しいかどうか、ということだけだったんですけどね。
『パンダの親指』は上巻だけです。
To PDXさん
返信疲れた
久保有政『創造論の世界』ジェレミー・リフキン『エントロピーの法則II』
スティーヴン・ジェイ・グールド『パンダの親指』『嵐の中のハリネズミ』
久保氏の本はじっくり読んだのは初めてですがあらためてそのトンデモなさに辟易しました。
グールドの本はいいですね。特に『嵐の中のハリネズミ』はリフキンに対する反論が痛快です。
>又、真の学者だと感じました。
私は学者などと呼ばれるようなシロモノではありませんからねえ。
竹内さんのこの御発言や、私に意見を求められたりしたことに、実は結構戸惑ったりしてるんですよね。。。。
はつさんみたいな御意見も出てくるしねえ。。
まあ、一応、コメントしておきましょうかね。。。
人ははじめから人だったっていうのは
神ははじめから神だったというのとは全然意味が違うということにはつさんは気付いていないのでしょうか。。
人には「神がお造りになった時点」という「はじまり」があるんです。
神には「はじまり」はないんです。
学者的でないのは認めますけど、循環論法っていうのはちょっと違うんじゃないかな。。
非科学的な話ですみませんが、こういうことは書き込んでおいて無益ではないと思うので書き込んでみました。
では。
>「人ははじめから人だった」というnasuさんの考え方をお聞きし共通性を感じました。
>又、真の学者だと感じました。
それって「じゃあ最初の人ってのはどこから来たの?」
「神様がお造りになりました」
「じゃあ神様はどこから来たの?」
「神ははじめから神だった」
という循環論法(堂々巡り)じゃないかなあ。
単なる思考停止であってとても「学者的」ではありませんがねえ。
創造論の方は進化と言う言葉がお嫌いなようで、毒物に対する適応は認めてもそれを違う言葉で表現する−変異ーわけです。詳しくは、この掲示板の下の方を御覧下さい。
創造論の方々は0157などももともとあったものとされるのでしょうか?また、ある菌を毒物の中に入れる事によってその毒物に適応する事を進化ではないとするのでしょうか?
分類学者さんへ 早速JT生命誌館のHPを見ました。そしてタイプスイッチング と平行放散進化のところを見ましたが私のイメージしている進化の考え方とは全く異なります。 中村桂子さんの本は少しよみましたが意味を感じませんでした。
To 分類学者さん
わかります。
まあ、メインストリームの雑誌に取り上げられるに足る実績が挙げられることを期待したいと思います。
さきほどの私の発言に関連して、、
進化論は科学的に正しい
創造論は宗教的に正しい
まあ、別に悪くはないんですけど、
補足をさせていただくと、
宗教的に正しい=迷信 ではないということには同意をしていただけると幸いです。
個々の事例については、片方が正しければ、もう一方は間違っているということは明白です。
それが必ず前者が科学で後者が宗教であるわけではないということに同意していただければ、少なくとも私は、あちらでの対話は可能であると思います。
(言わなくてもわかるとは思いますが、片方が間違っていれば、もう片方が正しい、ということは言えません。)
nasuさん
>創造科学が科学であるかないかについてはあまり興味はないのですが、(というか、心情的には創造科学が疑似科学だということを認めた
くない(笑))私は創造科学が将来的に科学たりうるものに成熟していくことを期待しています。
創造科学内だけでサークル的にやっていたのではだめでしょうね。創造科学や教会関係の雑誌でいくら取り上げられてもほとんど意味がないと思います。
大学等の紀要に論文を載せても業績にならないのと一緒です。レフリーのあるセキュラーな雑誌に投稿できるものでないと...。そういう意味ではアメリカ、オーストラリアの創造科学者は(日本にはいるのかなあ?)
生物学の博士といっても多様性に関することではしろうとです。新しい世代がどう育っているかでしょうね。
To セピア色さん
>>まさか生身の人間が太陽系全景を見られる位置から「目で」見るこ
>>とができるまでは認めてくれないわけですか?
> それを連中は言っているのでしょ。
> 見えないものをなぜ貴方は信じられるの。10000000000
>00000000000+1
> が問われているのです。
それを言われてしまうと、普段自分たちが使っているパソコンとかの
原理を彼らがどう説明するのか気になりますけどね。
電子や正孔のふるまいを直接見た人なんていないわけで、さまざまな
測定機器のおかげで我々エンジニア(注:小生はSEをやっております)
は「直接肉眼で見れない」もののふるまいを「観察」しているんですけ
ど。
テスターの針は直接目で見れるからいいのかな?(笑)
>やもさん
おいしいお茶をありがとうございます( ^-^)_旦~
少し、余裕ができましたか?
お久しぶりです。
> そしてなんか、こっちの人になってる!!!
ははは、、、こっちの人になったわけじゃないですよ(^^;;
やっぱりこっちはちょっと居心地がよくないです、、(苦笑)
ツッコんだ話は向こうでしましょう
ではまた。。
to 安賀須さん
まずはじめに、先日、お名前を間違えて書いてしまったことをお詫びいたします。
申し訳ありませんでした。
>これまでのご発言から、ダーウィンに由来する進化論が科学的な議論においてそれなりの説得力を持っていることと、科学的な説明という点では「創造科学」が遅れを取っていることを認めておられるのではないかと受け止めております。
そうですね。それは認めています。
>そして進化生物学が神話またはファンタジーとして「聖書の神による人間の創造」を語ることを禁じたりするものでないことについてもご同意いただけるのではないでしょうか?
ちょっと、ここが気になりましたので、
少し、修正させていただいてよろしいでしょうか?
私がファンタジーと書いたのは、
「皆さんにとってはファンタジーであることは承知の上ですが」という意味も含んでいます。
私は、本音では大真面目です。
「(聖書に)書かれていること」に関しては妥協はしませんので。
ですから、決して迷信、あるいは夢物語として、認識しているわけではありません。
ただ、だからといって、「自分の方が正しくて、科学の方が間違っている」と、ここで主張するつもりは毛頭ありませんので御安心下さい。
逆に「科学の方が正しくて、聖書の方が間違っている」と言われるようなことがあるとすれば私も心外です。
>信仰の名の下に科学を全否定するような態度には否定的です
結局のところ、ここに誤解があるのだと思いますが、
彼らは決して信仰の名の下に科学を全否定しているわけではないと思うんですよ。
うまく説明できませんが。
あちらで「さようなら」といわれる人と、
「またどうぞ」といわれる人の違いも、そういう誤解が解ければ
わかりやすくなるかもしれませんね。
>キリスト教徒の創造論者の少なからぬ人が「創造科学」を
>科学と思いがちである理由について、
>nasuさんのご意見を教えていただければ幸いです。
創造科学が科学であるかないかについてはあまり興味はないのですが、(というか、心情的には創造科学が疑似科学だということを認めたくない(笑))私は創造科学が将来的に科学たりうるものに成熟していくことを期待しています。
これはあくまでも一非キリスト教徒の見解です、というのをイクスキューズしておきます。
信じてしまえば、疑ったこと自体は問題じゃない。
少しも疑わずに信じた者だろうが、さんざ疑ったすえに信じた者だろうと(傷口に手を入れて初めて信じた者だろうと)、信じてしまえば同じ事。どちらがベターかなど言えない(そこに差などない)。ですから、「不信のトマスさえ「も」救われている」とするのは、私から見ればおかしいことになります。
問題は、疑うことです。
疑いがあれば、いつまでも救われないよ、とあそこでイエスは言っているのじゃないかと。
そして、科学はいつまでも疑うことこそが重要ですから(疑うことをしなくなった時点で科学じゃなくなる)、こういう意味では宗教と科学は正反対の位置にある。
てなことをドーキンスは言いたいのじゃないかと、私は解釈したんですが、、、
竹内美維さん 「生命体の中に生命体が存在している」と考えて
いるのです。しかも多段階に! だから、それぞれの段階に於ける生命体が「情報」に基づき、結果として
「再現性」が なされるのですから、「情報」が「同じ」であっても、それぞれの段階に於ける自然の
制約条件が異なれば「微妙に違う」事になると考えます。
そういう考えはありますよ。発生から進化を考えている方々の中に。否定する人は多いけどタイプスイッチング(JT生命誌館のHPを見られたし)なんかもこういう考えのひとつですね。
セピア色 さんへ 私は「前世説」の立場に立ち、「生物発生原則」は正しいと考えています。故に、私は 「生命体の中に生命体が存在している」と考えているのです。しかも多段階に! だから、それぞれの段階に於ける生命体が「情報」に基づき、結果として「再現性」が なされるのですから、「情報」が「同じ」であっても、それぞれの段階に於ける自然の 制約条件が異なれば「微妙に違う」事になると考えます。 <nasuさんへ> 上記の私の表現に対するアドバイスが頂けたら嬉しいのですが よろしくお願い致します。(無理にとは思っておりません)
「人ははじめから人だった」というnasuさんの考え方をお聞きし共通性を感じました。 又、真の学者だと感じました。 私もその可能性を考えておりますし、その事を 生物物理学的に説明できるという「時」は近いと思っております。
JA50さん
>子は親に似ていることが多い、日本人は一重まぶたの人が多いというのも「再現性」の一つじゃ>ないですか。
ありゃまー
簡単だな。微妙に違いますよっと。こまどり姉妹 違うな〜 ざピーナッツ 違うな〜。
>nasuさん
おおおお!!nasuさんがこっち来てる! そしてなんか、こっちの人になってる!!!
半分ファンタジーだなんて言って、山野さんや長谷川さんに裏切り者!!!といわれませんか?そうでもないのかな?
とりあえず、まずはお茶をいっぱい
お久しぶりです。
>つづきです、
さて、確かにダーウィンの進化論は唯物論的世界観を前提としていますが
家畜や栽培植物における人為選択をモデルとした自然選択説が
多くの生物学的問題に対して巧みな説明を与えることができたので
生物学においてクーンの言う意味でのパラダイムになったのです。
(ダーウィンが模範例であることで唯物論的説明が規範となった)
そして、当時の人々にダーウィンのパラダイムが受容されることで
その部分的要素である無神論的世界観が広まったわけです。
(だからキリスト教徒がダーウィニズムに反発するのでしょう。)
さて、「創造科学」にはクーン的な意味でのパラダイムは存在するのでしょうか?
エントロピー概念の誤用による間違ったダーウィニズム批判が
あまりにも頻繁に繰り返されているので、
ひょとするとこれが彼らの模範例なのかもしれませんし、
「反ダーウィニズム的見解は、創造論の味方であるとして良い」
という規範に従っているのかもしれませんが、
こういう意地の悪いパロディでも考えない限り、
学問として成立するためのパラダイムがないのではないですか?
(パラダイムが違うのではなくて、「パラダイムがない」)
プトレマイオスの天動説は衰退し切ってしまったとはいえ
過去にはパラダイムとして立派に機能していましたので、
歴史的事実として教科書に取り上げられる科学的価値が
わずかとはいえあるかと思いますが、
「創造科学」に関しては天動説ほどの科学的価値もないので
教科書に取り上げる必要がないというのが私の率直な判断です。
・・・・・
この回答をいただいたとき、本格的に回答できなかったので。もういちど。
つまり、まとめると、長谷川さんのパラダイムは、
パラダイムがない
ということですか?
でも、やはり、聖書というのはパラダイムとは考えないられないですか?蓄積されてきたパラダイムの危機にダーウィンが最後の一押ししてしまったということではないのでしょうか?
たとえば、
1)理論の形而上学的(存在論的)枠組み、世界観
はもちろん聖書だし、
2)専門家集団に受容された問いの立て方や答え方に関する規範、考え方
聖霊に対する問いかけの方法論や、神様についての考え方について、自分一人で突っ走り過ぎない(解釈しすぎない)ような規範的方法、などもクリスチャンの人にはあるようだし、
3)その分野の手本となる古典的業績、模範例
おそらく、目が見えるようになったとか、つまり、
奇跡?
まさに、パラダイム的に思えます。 そして、だから、ある種のリアリティを持つのではないでしょうか?もし、問題があるとしたらやはり、創造科学が、科学という名を使いながら科学として2)や3)を満たさないという話になるのではないでしょうか?
そして、いっしょに考える現世という世界観の基盤があるからこそパラダイムに共有される部分があり、お互い譲れない話になってくるのだとおもいます。(一方、あっちの世界を科学は語ろうとしませんから、ここはまったく完全に科学とすみ分けることができるので問題が起こっていません。)
ともあれ、パラダイムの話は安賀須さんの話を聞いて学んだだけですから、これでいいのかは確信がもてませんが。
皆さんこんにちは、natoronさんこんにちは、
書きこみ復活します。ところで、以下、
長谷川さんのパラダイムはパラダイムじゃない!!というようなことの説明を以前、安賀須さんから書いてもらったものです。長くなりますが、とても、コンパクトにまとまっているので、もういちどのせてしまいます。
まず、パラダイムという概念についてですが、日常語としてではなく
科学論で使用される場合は通常T.クーンが提唱したものを指します。
そこで、まずクーンのパラダイム論の紹介をします。
クーンのパラダイム概念は極めて曖昧で多様な意味をもっていますが
主要な要素としては次の3つにまとめられるでしょう。
1)理論の形而上学的(存在論的)枠組み、世界観
2)専門家集団に受容された問いの立て方や答え方に関する規範、考え方
3)その分野の手本となる古典的業績、模範例
科学哲学者からパラダイム概念の曖昧さを批判されたことに応えて
クーンはパラダイム概念の精密化を図るために
2)の意味を専門母体(disciplinary matrix)
3)の意味を模範例(example)と呼び換えています。
クーンのパラダイム概念は、
互いの研究成果を情報交換して共有したり、相互に批判したりする
専門家集団(=科学者共同体)の行う
専門的活動としての科学に対して考えられたものです。
粗っぽくまとめますと、
学生なりの非専門家が専門家集団の仲間入りを果たす中で
模範例を教科書などで学び、それを真似た研究を行うことで身につけていくような
研究の指針となるような規範や標準的な観点をパラダイムと呼んでいるわけです。
いわばパズルとして応用問題を解くようなを研究活動が行われ
パラダイムに沿って研究を進めて行くような時期の科学を
クーンは「通常科学」と呼んでいます。
また、パラダイムの枠内で説明できない変則例(anomaly、例外)が
無視できないほどに蓄積してきて古いパラダイムの危機が訪れ
新しいパラダイムにとって代わられることを「科学革命」と呼んでいます。
典型的な科学革命としては
コペルニクス革命やフロギストン説から酸素説への転換や
古典物理学から現代物理学への転換が挙げられます。
一方で、全ての学問分野にパラダイムが存在するわけではなく、
支配的なパラダイムが存在しない群雄割拠的状況にあることもあり
そのような学問として未成熟な時期を指して
クーンは「前パラダイム期」と呼んでいます。
天動説と地動説は同じ分野の競合するパラダイムですが
パラダイム間で恣意的でない優劣の比較ができるのか、
片方のパラダイムで語られたことの全てを他方で語ることが出きるのか
といった問題は科学論の分野で大きな論争を生みました。
この問題には深入りいたしませんが、
極端な相対主義者でもない限り、
論理的に一意的な優劣を比較することができないとしても、
ある程度の優劣の比較ができるとするのが普通です。
(やもさんが極端な相対主義者でないことはわかっています。)
以下、うえに続きます
「観察」というのは、「人間の肉眼で」見ることだけではありません
よね?
>まさか生身の人間が太陽系全景を見られる位置から「目で」見るこ
>とができるまでは認めてくれないわけですか?
それを連中は言っているのでしょ。
見えないものをなぜ貴方は信じられるの。1000000000000000000000+1
が問われているのです。
JA50様ならびにLucifeR様
不信のトマスの話は、要するに不信のトマスさえ「も」
救われているってことが重要なのであって、
疑ったこと自体の是非をうんぬんするものではないと思ふ。
「こーゆー奴のためにもキリストは死んで復活したのだ」と。
(あくまで私見です。)
WWJD?さん
哲学の「進化論」ならいるかも。
進化生物学者では聞いたことがありません。今西さんは生物学としての進化に見切りをつけただけで、「進化がおこらなかった」とは思っていないでしょう。
いずれにしろ、進化を捨てた場合、創造論者が期待するようには、創造の方へは行かず、不可知論へ行くでしょうね。あくまでも、創造は信仰をもった後に教理的に受け入れることが必要ですから
自然科学から直接創造へ移項することは普通ないでしょう。
To WWDJ?さん
>「進化がおこった」という大前提に疑問をはさもうとする進化論者は
>いないのでしょうか?
> また、現在は進化論がある意味で科学の前提の中にありますが、こ
>のような疑問をはさむことによって立場があやうくなり生活できない
>と考え、それゆえに進化論を捨てられないなんてことを考える人はい
>ないのでしょうか
進化論に異論を唱えることは別に禁じられてはいません。
問題は、異論を唱えて、他の科学者を説得できる理論を提唱、ないし
明確な証拠を提出できないと相手にして貰えないということです。
すくなくとも、根拠薄弱な理論では、論文を学会誌に提出されても却
下されるだけでしょう。
まぁ、個人レベルなら上記のような政治的な問題はありますけどね。
> そうなんです。全知でない人間はあくまでも前提(信仰)によって考
>え、行動するので現代の自然科学に信をおくことは明らかに信仰だと思
>います。
> すると宗教と科学は次元が違うということではなくなるのです。この
>掲示板上では2つを分けろという意見がありますが、実際そこを二元論
>的に分けても、実際面では科学信仰は生活に影響を与えるのですから同
>じです。
自然科学と宗教的信仰の間に一線を設けるとすれば、「他人を説得させ
るために証拠を必要とするか」でしょうか。
ただ、あくまで自然科学は本来自然のありさまを知るためのものさしで
しかありません。どんなに素晴らしい理論でも、それを否定するゆるぎな
い観測があれば否定されてしまいますし、空中浮遊をしたくて反重力の理
論をいくら作っても、投げた石が落下してしまえば終りです。
> 社会ダーウィニズムが生まれたのもそこにあるのではないでしょうか。
これは、ものさしを間違って使った例ですよね。
自然科学をあてはめるべきではない場所で使ったというか。
(既存の偏見を正当化するために自然科学を誤用したというか)
上記の通り自然科学は自然のありさまを知るためのものさしですから、
倫理とか、善悪とか、心の救済という問題には立ち入らない(立ち入れない)
ものです。
ですから本来、「科学か宗教か」という二元論で語ることが間違いであり、
この両者は併存が可能なのだと思います。
というか科学や技術というのは人間にとって「道具」でしかないわけ
で、生活面でそれに依存することがあるとしても、精神面で依存するの
はこまりものですけどね。
WWJD?さん
>ということは「創造科学」の仮説も捨てることができるので、科学と呼んでもよいということになりましたか?
Ayalaが創造科学を捨てたことが書かれている(できれば本人が書いている)ものはインターネット上にあり
ますか?
Ayalaは創造科学を捨てたのではなく(創造科学はまだなかった)神による創造を捨てたんです。これは、大学の時に、Ayalaと同じくDobzhanskyの弟子だった進化遺伝学の先生かその周辺の人に聞いた話しです。ネット上にはないでしょうね。
参考のため下のURLは見てみて下さい。
http://www.the-scientist.com/yr1996/feb/leaders_960205.html
それから、創造科学と仮説ですが、創造科学というか聖書の記述のある部分は仮説として設定はできると思います。私の「講釈」はまさにその可能性を試そうとしています。だからといって創造科学全体が科学と言える訳ではありません。
昨日紹介した「造物学(バラミノロジー)」の記事など読むと、もう彼らは一般の科学界とは一線を画し、自分らのサークルを作ろうとしていることが伺えます。アメリカのある反創造科学の方からのメールでは、もはや
ICS(Morrisらがいるところ−創造科学研究所)はもう科学的研究をしていないのだそうです。
>セピア色さん
>親に似た子が似る。
>日本人は目が細い。
>こんな意味で私が再現性を言ったというのか。
子は親に似ていることが多い、日本人は一重まぶたの人が多いというのも「再現性」の一つじゃないですか。
To セピア色さん
>太陽系であろうが、銀河系での運動であろうがいっしょだよ。見たの・・
>なぜ、われわれは知覚できないものを信じれるか。ここのところうまく
>説明できないと、創造論者には説得力ないとおもう。 アーメン
「観察」というのは、「人間の肉眼で」見ることだけではありません
よね?
まさか生身の人間が太陽系全景を見られる位置から「目で」見るこ
とができるまでは認めてくれないわけですか?
みんさん熱心なのでついていくのが大変
↓
みなさん熱心なので・・・
です。
ごめんなさい。
分類学者さん>
『だから、創造科学も同等に扱え、という主張がよくありますが...。それは違いま
す。仮説はやがて捨てられる可能性があるということです。しかし、教理としての創
造を前提にした創造科学の仮説(と彼らは呼ぶのだろうか?)は
捨てられないからです。いやまてよ。個人としては捨てられないことはないなあ。進
化論から創造論へ転向した学者の話しばかり強調されるけど、逆もあるはずだよな。
Ayalaがそうだ。』
ということは「創造科学」の仮説も捨てることができるので、科学と呼んでもよいということになりましたか?
Ayalaが創造科学を捨てたことが書かれている(できれば本人が書いている)ものはインターネット上にありますか?
PDXさん>
『ただ、自然淘汰説とか獲得形質の遺伝とかの論争は、つまるところ
「進化はおこったのだ」という枠の中での、「どのようにおこったの
か」についての学説同士の論争ですが。』
「進化がおこった」という大前提に疑問をはさもうとする進化論者はいないのでしょうか?
また、現在は進化論がある意味で科学の前提の中にありますが、このような疑問をはさむことによって立場があやうくなり生活できないと考え、それゆえに進化論を捨てられないなんてことを考える人はいないのでしょうか。
『人間が必要に応じて作り出した信念体系である、という点において
宗教も自然科学も大差はないかもしれません。自然科学に信をおくこと
も一種信仰かもしれませんね。』
そうなんです。全知でない人間はあくまでも前提(信仰)によって考え、行動するので現代の自然科学に信をおくことは明らかに信仰だと思います。
すると宗教と科学は次元が違うということではなくなるのです。この掲示板上では2つを分けろという意見がありますが、実際そこを二元論的に分けても、実際面では科学信仰は生活に影響を与えるのですから同じです。
社会ダーウィニズムが生まれたのもそこにあるのではないでしょうか。
キリスト教以外の宗教があまり進化論に文句をつけないのは二元論でいいからだと思います。(ですからクリスチャンでも二元論的に考えている人たちは気にしていません。)
しかし、聖書主義のクリスチャンが対決を辞さない(逃げているというウワサもありますが・・・笑)のはそのようには考えられないからです。
wadjaさん>
はじめまして。WWJD?です。何となく綴りが似ているので親近感を覚えます。(笑)
『天動説が支持されていたのは、ひょっとしたら聖書の影響があったので
はないかと思うのですが(根拠無し)。』
いえ、ガリレオが裁かれた当時の神学はスコラ学の影響を受けていました。
ガリレオはアリストテレスの哲学によって裁かれたのです。(当時の科学の定義や方法論が違っていたんですね。)
ですから、ガリレオは「もし人々が正しく聖書を読んでくれたなら、私の言っていることを理解するはずだ。」と言ったのだそうです。
どなたか?>
前にお尋ねしました今西錦司先生が進化論(大前提)を捨てたというのは本当ですか?
それが分かる資料はありますか?
教えてください。
LucifeR さんへ 半可通の同意を得た上で、代わりに私がお答えすることを許してください。 以後の責任は私にあります。 貴方の求められている Q:1〜5はそのように理解して下さい。しかし、 最後の Q:6は次のように訂正させて下さい。 {物質は物質であり、物質はエネルギーの「階層的集合体」である。且つ、 その属性は「膜」に在る} 故にエネルギー以外のものは存在しないと考えております。 上記の訂正を認めて頂けるなら返答はyesです。
To PDXさん
太陽系であろうが、銀河系での運動であろうがいっしょだよ。見たの・・
なぜ、われわれは知覚できないものを信じれるか。ここのところうまく説明できないと、創造論者には説得力ないとおもう。 アーメン
竹内美継 さんへ
親に似た子が似る。
日本人は目が細い。
こんな意味で私が再現性を言ったというのか。
再現性をもう一度考えてくらはい。
本日、仕事で疲れたのでここまで。
nasuさん、ごめんなさい、先程の書き込み途中で送信してしまったものです。
申し訳ありません。あわて者で失礼いたしましたことをお詫びいたします。
先程の続きです。
また「創造科学」が科学を標榜すれば、科学的な批判を甘受しなければならないことにはご同意いただけるものと思います。そして進化生物学が神話またはファンタジーとして「聖書の神による人間の創造」を語ることを禁じたりするものでないことについてもご同意いただけるのではないでしょうか?NATROMさんや他の多くの方も恐らくそうなのだと思いますが、少なくとも私は現状の「創造科学」なるものが、科学を自称することを批判しているのであって、キリスト教の信仰を批判しているわけではないのです。現状の「創造科学」が科学と称して教育されることには反対していますが、「創造論」を神話や神学として語られることに反対しているのではないのです。正直に告白すれば、信仰の名の下に科学を全否定するような態度には否定的ですが、それは疑似科学批判とは別のものだと考えています。ですからnasuさんが創造論について「私は科学を標榜しないので」と仰っていただいたことで、ホッと安心いたしました。
キリスト教徒の創造論者の少なからぬ人が「創造科学」を科学と思いがちである理由について、nasuさんのご意見を教えていただければ幸いです。
理屈っぽいくせに慌て者の私ですが、どうかよろしくお願いいたします。
nasuさん、こんにちは
これまでのご発言から、ダーウィンに由来する進化論が科学的な議論においてそれなりの説得力を持っていることと、科学的な説明という点では「創造科学」が遅れを取っていることを認めておられるのではないかと受け止めております。
>>誰がどういう考えを持っているかということにはあまり興味はないんですが、
>これは創造科学の意見の事ですか?それとも進化も含めて?
私のこの発言は、創造科学の意見に関してです。
したがって、創造科学者が科学的に進化生物学者を打負かすことが
できるとはあまり思ってないし(期待はしてますが、、、まあ、少なくとも現状では難しそう、、)
>私がいいたいのは、欧米で議論されていることのほんの一部が
(中略)
>実体は全然ちがうということですので注意が必要ということ。
に関しては、異義はありません。
というか、私は科学に関してはシロートなので、
科学的にどうこうという話には首を突っ込みたくても突っ込めません。。(^^;;;;
>科学を標榜するのであれば、一体どこからどこまでが本質的種であるのか
>明確にする必要がありますが、創造科学者はそうしません。
&
>要するに彼らにとっては、人間が神に直接作られたかどうかが重要であって、
>イグアナが恐竜と共通祖先を持とうと持つまいとどうでもよいのです。
「科学を標榜するのであれば」ですね。。。
私は科学を標榜しないので、半分はファンタジーの世界になりますが、
一つだけ言えることは、聖書は分類学についての記述はないし、
動物の種類に関してはヒト以外は極めて大雑把にしか書かれていないので、
いかようにも考察は可能だってことです。
科学の実績を無視していいという意味ではありません。
「答えは聖書からは具体的には導き出せない」ということですね。
だから、創造科学者達が、書かれてないことについて、
いたずらに自説に固執するような態度はよろしくないでしょうね。。。
>「ヒトだけは特別だ」と主張する一方で、その他の生物の扱いはぞんざいなのです。
ヒトだけが特別というのではなく「人間が神に直接作られた」ということが
聖書に書いてあるから、そう信じているだけの話ですよ。。私も含めて、、、
まあ、これは分類学者さんのおっしゃるように「科学議論の範疇にはありません」。
>進化論に基づく見方からは種、属、科それぞれの違いは単に程度の問題で本質的に違っているとは考えません。
さらに言えば、種以下の亜種とかさらに地理的変異など種内変異でさえも単に程度の問題と。
これを程度の差ととらえるか、いやきちんと先が引ける(離散的である)ととらえるかここが今問題になっています。系統派は前者、分類は後者、その間を行ったり来たり悩んでいます。
>進化論に基づく見方からは種、属、科それぞれの違いは単に程度の問題で本質的に違っているとは考えません。
さらに言えば、種以下の亜種とかさらに地理的変異など種内変異でさえも単に程度の問題と。
彼ら分類学そのものを変更しようとしている...
http://www.creationresearch.org/crsq/articles/37/37_2/baraminology.htm
To セピア色さん
> それはさておき、太陽系の運動を観察した、と言う主張は正しいか。
> これこそ創造論者が突きつけた問題だよ。
私の先の投稿記事をお読みではないのでしょうか?
「太陽系の運動」というのが「太陽を中心とした惑星の公転」のこと
なのか「銀河系内での太陽系の運動」なのか、視点によって観察方法
も変わってくるので、まずそこを限定していただけないと議論になら
ないんですけどねぇ。
とりあえず「太陽を中心とした惑星の公転」を観測する間接的な例
として惑星探査機が計画通りに惑星近傍を通過して写真の撮影や各種
観測ができたことを引き合いにして、地動説に基づく計算が正しい事
を示したつもりだったのですが。
>>イグアナと恐竜が本質的種内の変異に過ぎず恐竜がイグアナに変化することを認めるのに、
>これも小進化なんですか?進化生物学ではこれは大進化ですよ明らかに。
彼らにとっては小進化なのでしょう、多分。
創造論のよくある質問 (FAQ)で長谷川氏はこう書いています。
http://members.nbci.com/norih/creationFAQ.htm
>ダーウィン(クリスチャンだったそうですが多分旧約聖書は余りまじめに読んでいなかったのでしょう)は太平洋航海でガラパゴス諸島を訪れ、旧世界では絶滅した恐竜の子孫などを見て感動し、それで思い付いて「種の起源」というエッセイを書いた結果、不信仰な世論がミスリードされてしまったというのが事実に近いでしょう。
「絶滅した恐竜の子孫」がフィンチのことであれば生物学的には正しいのですが、長谷川氏はイグアナのことを指していたようです(あちらの掲示板でそのような発言があった)。要するに彼らにとっては、人間が神に直接作られたかどうかが重要であって、イグアナが恐竜と共通祖先を持とうと持つまいとどうでもよいのです。なので、チンパンジーとヒトがどんなに似通っていても「ヒトだけは特別だ」と主張する一方で、その他の生物の扱いはぞんざいなのです。両生類が本質的な種であるという主張すらあるようです。真面目に受け取れば、すべての両生類は基本的なただ一種の両生類からわずか6000年足らずの期間に変化して生じたということになります。彼らは生物学の知識が著しく欠けているために、自分たちの主張がどのような意味をもつのか理解していないと、私はみなしています。
イグアナの創造論者がもしいたとすれば、チンパンジーやゴリラやヒトや人類化石を観察して、「本質的な種内の変異だ。サルはいつまでもサルのままである」と言うに違いありません。一方、「リクイグアナとウミイグアナの違いは無視できないほど大きい。それぞれ個別に創造されたのだ」と。イグアナが恐竜の祖先であるなどと言おうものなら怒り出すでしょう。
NATROMさん
イグアナと恐竜が本質
的種内の変異に過ぎず恐竜がイグアナに変化することを認めるのに、
これも小進化なんですか?進化生物学ではこれは大進化ですよ明らかに。
アシモフの著作は見つかりませんでした。まだ、本屋で手に入りますか?そのかわり、昔買っておいた「創造科学不朽の名作(迷作?)」Duane GishのEVOLUTION THE FOSSILS SAY NO!や
Henry MorrisのTHE TROUBLED WATERS OF EVOLUTIONが出てきました。FOSSILS SAY NO!の序文でMORRIS ha,
There has been no evolution in the past, any more than in the present.といっているんです。ここがポイント。ノアの箱舟から全然変わってないと言う意味にしかとれません。
>以下のURLを読んでみたのですが、少なくとも半分は聖書と矛盾しないような印象を受けました。
>(あくまで印象ですが、、、)
>ところで、以下のURLの内容は皆さんの間ではどういう位置づけなんでしょうか。。。。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/index2.html
河田雅圭著の「はじめての進化論」ですね。ごく普通の正統派の進化論を述べていると思います。今西進化論などよりはずっと受け入れられている見解です。「少なくとも半分は聖書と矛盾しない」というのは、思うに「小進化」は自然淘汰で起こったという部分でしょうか。創造論者も「本質的種」内の変化は否定していませんからね。
以前から指摘されていることですが、進化論者から見れば、創造論者の言う「本質的種」はきわめてあいまいで恣意的なのです。「猫科の生物は本質的種内の変化におさまる」「イグアナは恐竜の子孫だ」と主張する一方で、「チンパンジーとヒトは別々に造られた」とも主張します。イグアナと恐竜の差異は、チンパンジーとヒトとの差異よりもずっとずっと大きいものです。イグアナと恐竜が本質的種内の変異に過ぎず恐竜がイグアナに変化することを認めるのに、チンパンジーとヒトが同じ本質的種内に属するのを認めないのは首尾一貫していません。
さらに本質的種と別の本質的種の違いが不明瞭です。進化論に基づく見方からは種、属、科それぞれの違いは単に程度の問題で本質的に違っているとは考えません。一方、本質的種がそれぞれ創造されたとしたならば、ある本質的種と別の本質的種の違いは明確なはずです(わざと進化論が正しいかのように創造されたのでもない限り)。実際の生物を観察して見れば、進化論的見方の方が正しそうです。ホモ・エレクトゥスはヒトと同じ本質的種に属するのでしょうか?アウストラロピテクスは?チンパンジーとゴリラはそれぞれ本質的種なのでしょうか?創造論が正しいのなら、分類学者はもっと仕事が楽だったに違いありません。
以上のように、創造論者の言う「本質的種」は、観察されている進化の説明やノアの方舟にすべての種を押し込めるのに必要であるからその場しのぎで作られた概念に過ぎないと考えています。科学を標榜するのであれば、一体どこからどこまでが本質的種であるのか明確にする必要がありますが、創造科学者はそうしません。
その「原則」なるものが間違っていたらどうするだろう?
また、「原則」なるものが複数ありえる場合には?
nasuさん ようこそ。ほかのかたはしらんぷりなのでnasuさんの御意見がたよりです。
>誰がどういう考えを持っているかということにはあまり興味はないんですが、
これは創造科学の意見の事ですか?それとも進化も含めて?
私がいいたいのは、欧米で議論されていることのほんの一部が、一部のひとによって紹介されているにすぎないということです。それだけ見るといかにも創造科学が進化生物学者を打ちまかしたように見えますが
実体は全然ちがうということですので注意が必要ということ。
「講釈」の続きで述べますが、
創造科学が問題にしているのは二点ですね。1.起源の問題(宇宙、地球、生命、その時期)−これは生物進化とはちょっと分野が違うので、これを進化の話しとして語るのは筋違い。
2.人間の起源−ここで進化の問題がでてくる。
あとのことは、ほとんど二次的な問題ではないかと思います。もっとも聖書を字句通りという方々は別のお考えでしょうが、こちらはもはや創造科学ではなく聖書原理主義(ファンダメンタリスト)で科学議論の範疇にはありません。
to 分類学者さん
「創造科学の大御所が実質進化を認めているのを御存じですか?皆さんがお(そしてわたしも)嫌いなダーウィンの自然淘汰を認めているんですよ。議論なんてしなくていいんです。この件について御存じかどうかだけ知りたいんです。」
誰がどういう考えを持っているかということにはあまり興味はないんですが、
私は進化論のすべてが間違いだとは思いません。
私は阿賀須さん達が「理解できない」とする「人ははじめから人だった」という苦しい考え方を持っている者ですが、、、
以下のURLを読んでみたのですが、少なくとも半分は聖書と矛盾しないような印象を受けました。
(あくまで印象ですが、、、)
ところで、以下のURLの内容は皆さんの間ではどういう位置づけなんでしょうか。。。。
To PDX
ごもっとも
どうも 私創造論者と思われたようだ。
それはさておき、太陽系の運動を観察した、と言う主張は正しいか。これこそ創造論者が突きつけた問題だよ。
今日は、早起きだ。
"講釈(4)" 分類学者 wrote:
> ところで、「ギルガメッシュ叙事詩」の洪水物語りではこの部分どうなっているんだろう?櫻井さん御存
じ???
罪ほろぼし:
手持の
「世界最古の物語(H・ガスター 社会思想社現代教養文庫)」
"THE OLDEST STORIES IN THE WORLD" Th.H.Gaster the viking press 1952
によると、ウトナピシュティムがエアに警告されて箱船を作ったとはありましたが、洪水で
乗りそびれが全滅したとは書いてありませんでした。
"なるほど" 分類学者 wrote:
> >アイザック・アジモフが書いた創世紀解説の書物
> はご存じですか?
>
> 持っているような気がしますが読んだ覚えはありません(買っても読んでいない本が山積み)。タイトル
は(できれば英語の)?
「アジモフ博士の聖書を科学する」 社会思想社 1983
"IN THE BEGINNING" Crown Publishers 1981
ってそのまんまですね。
さてソラで書いたらしっかり間違ってました。ヒマラヤじゃないや、
(どこで間違ったんだろう?)ウラル山系です。「ウラルトゥ」の転訛で
「アララテ」。失礼しました。
貴方は「個体発生は系統発生を繰り返す」をどのように「位置」づけされていますか? 私はこのことは「原則」だと考えています。故に、この「原則」から外れた進化論は 正しくないと考えております。(中立説なんてなんの意味もありません) この意味で「生命」を素直に見れば分かるように貴方もこの「再現性」に基づき在るの です。 勿論、この再現性の物質基盤は「記憶に関わる物質」です。 <スペースをお借りします> wadja さんへ 回答 : 同じものです。
順を追って話しをすすめようと思いましたが...。山野さんはここを見られているということですね。まず、私が創造や聖書信仰を理解していないと認識しておられたらそれは全くの誤解です。
私が問題にしているのはただひとつ−創造科学−だけ。
山野さん、皆さん 創造科学の大御所が実質進化を認めているのを御存じですか?皆さんがお(そしてわたしも)嫌いなダーウィンの自然淘汰を認めているんですよ。議論なんてしなくていいんです。この件について御存じかどうかだけ知りたいんです。
クハ72さん
見ました。科学者じゃない人から科学を語る資格がないっていわれちゃ立場がないね。
一体どこにあるのでしょう。僕にはわかりません。
後藤寿庵さん
ありがとうございます。ご紹介のページは英語が苦手な僕には重宝します。
分類学者さん
山野さんがいろいろ言われてますが、ここに来ないのは反論ができないからです。
「進化論を否定するための主張も別に書き込みを禁止してい」ないのですから。
私は植物を含めあらゆる生命体に「生への意志」が在ると認識しております。 又、「突然とか偶然という言葉は科学者の使う言葉ではない」と考えています。 そして、懸命に生きている「生物」見て、私は美しいと感じます。(ゲジゲジも)
進化論と再現性の話は
http://doko.totto.to/~tosakai/creationQA.html
で書かれています。
もう少し一般的な話を簡単に説明します。
確かに、再現性は科学の重要な特徴の一つです。
しかしながら、再現性がない=非科学とは言えません。
考古学だって立派な科学だし、阪神・淡路大震災がどのようにして起こったのかというのも科学です。
ようするに、再現性が期待できるものについては再現性を要求し、期待できないものについては必ずしも要求しない、というのが科学的姿勢だと思います。
話は変わりますが、半可通さんの最大の欠点は、自分が確信したことを伝えるのみで、どのようにしてそのように確信するに至ったかを全然説明できていない点だと思います。
>半可通 殿
えー、テキストのレイアウトばかりでなく、私の問いとご回答の順も入り乱れて
いる様なので、対応を確認させてください。それぞれ以下に示すようなQ&Aを
形成すると理解してよろしいですね?
Q:
>> 「人類が未だ認識していない『物質』」とは、「まさかそんな機能があるとは
>> 思っていない既知物質」ですか。それとも「未だ検出していない物質」という
>> 意味でしょうか。
A:
>回答:後者です。
Q:
>>また貴方はなぜ、どの様に其の存在を認識されたのですか。
A:
>回答:中心小体と地球上のあらゆる生命体との連続性を認識でき、確信したからです。
Q:
>>なぜそれは検出されないのでしょうか。
A:
>回答:「物と物は引き合っている」とか「時間と空間は同質である」という
>解釈大系のなかにいるから検出しようとしていないからだと思います。
Q:
>> そもそも「人類が未だ認識していない『物質』」にその様な機能を
>> 仮定しなければいけない理由、
A:
>回答:記憶はなされている。そして、「進化」が成り立つためには「情報」の連続性
>と持続性が絶対必要条件だとおもいます。そして、社会、個体、細胞、中心小体
>等は生命体であり、且つ、これらは「統合化」がなされています。
>これらの認識から「記憶に関わる物質」の存在とその機能の仮定は生物物理学的
>に可能と確信しています。
Q:
>>その存在を仮定する事で新たに説明が
>> つくようになる現象とはいったいなんでしょうか。
A:
>回答:物と物は引き合っているのではない、結果として引っ付くのだと知りました。
>即ち、「膜の存在とその階層性」です。これが私のイメージです。
>ですから、「エネルギー=物質」が在れば「膜」が在るのだと考えています。
Q:
>> 物質とは、物体の量と位置とエネルギー以外の属性
>> =具体的物体からそれらの概念を取去ったのこりを意味する抽象概念(で)ある
>>
>> でよろしいですね?
A:
> 私は物質は物質であり、物質はエネルギーの「階層的集合体』であると
>考えております。故に、エネルギー以外のものは存在しないと考えております。
恐れ入りますが最後の質問には「掘下げる前にまず」yes/noで御返答
頂けませんか? これは、科学のいう「物質」の定義なものですから、
もしこれがnoだとすると、議論の前になにか造語を考案して頂かないと、
ご提案していただいている概念を厳密に取扱うことができません。
「近視眼的にはyesだが、その実相は…」ということなら、とりあえず
yesとお答え下さい。我々にも「其の実相」に関するアインシュタイン・
ブランドのカードがありますので。
To セピア色さん
太陽系の運動というのは、天動説と地動説の話ということで
しょうか?
ボイジャーが太陽系から離れる際に、太陽系の全景を撮影し
た一連の連続写真があるのですが、何億kmの彼方から小さな点
(冥王星軌道から見れば地球なんてボイジャーのカメラのCCD
の素子数個ぶんの点でしかありません)を、計算した通りの位
置でカメラに収めることができる程度には、各惑星の位置を正
確に計算できます。
これらの実績は、惑星の位置や速度についての間接的な観測
とみなしてよいかと思いますがいかがでしょう?
また、ボイジャーを打ち上げた時の速度よりも、木星を通過
した後の速度の方が速いのは、スイングバイという技術による
のですが、これは木星が太陽の周期を回る公転速度のエネルギー
を若干拝借するものです。
ボイジャーが木星から土星、天王星…と飛行していくとき、
ボイジャー自身には推進材(いわゆる燃料)はほとんど積まれ
ていません。あるのはわずかな姿勢制御のためのものだけで、
飛行速度を変化させられるほどのロケット噴射はできず、各
惑星や衛星の際をかすめるときの引力を利用して軌道を変えて
います。
もし、地動説に基づく各惑星の未来位置の予測があてになら
ないのでしたら、こんな芸当はできません。
なにしろ、地球から木星まで電波が届くのに数時間、軌道が
間違っていたからって慌てて命令変更もできない相手ですので。
それに、何億kmもの直線距離ということは、出発時わずか
0.1度の誤差があれば、到着時には何万kmもの誤差になってし
まうわけですし。
まぁ、NASAの惑星探査はすべてでっちあげだ、と言えば
上記の話をぶちこわしにできる、と主張する人もいるかもしれ
ませんが(笑)
でも、現時点において地動説以上に惑星の未来位置の予測を
正確に行える仮説が存在しないのは確かなんですよね。
(厳密に言えば、地動説と相対性理論の組み合わせ、ですが)
でも、ボイジャーはこのまま減速もできずに宇宙の彼方に
飛んでいってしまうので非常に残念ですが、冥王星軌道のあ
たりを周回し続ける探査機を打ち上げて、太陽系の各惑星が
太陽の周囲を回りつづける様を連続写真で撮影すればそれは
「太陽系の運動を見た」ことにはならないんでしょうかねぇ?
もっとも、NASAの科学者は今更そんなことをしても新
しい発見があるとは思ってもいないでしょうからそんなこと
のために探査機を打ち上げてはくれませんが(^_^;
(予算不足であえいでいますから、あそこも…)
それとも「太陽系の運動」というのは、銀河系内での太陽系全体の
固有運動のことですか?
"もしかして" 分類学者 wrote:
> LucifeRさん
>創造科学者は(あとで述べますが)造山活動は洪水後と考えているようなので
これ自体が「地球上にそんなに水はナイぞ、何処に消えた?」というツッコミに
たいするアドホックですよね?
"もしかして" 分類学者 wrote:
> LucifeRさん
>
> 洪水で一番高い山まで水で満たされたからヒマラヤということですか?
いえ、考古学とか古文書学とかの「遺物・記録・言語」方面の学問による説です。
その辺も連中は目の敵にしますけどね。
> それに、アララテで箱舟を見つけようとしているのはどうして?単なる『と』ですか?
まさにソレだと思います。
LucifeRさん
洪水で一番高い山まで水で満たされたからヒマラヤということですか?だったら、創造科学者は(あとで述べますが)造山活動は洪水後と考えているようなので納得いってないのでは。
それに、アララテで箱舟を見つけようとしているのはどうして?単なる『と』ですか?
LucifeRさん
>アララテ」は
現在「ヒマラヤ」として知られる山系のことで、トルコのアレはすなわち「○○富士」
や「××のチベット」の類です。
創造科学はそれを認識しているんでしょうか?
>アイザック・アジモフが書いた創世紀解説の書物
はご存じですか?
持っているような気がしますが読んだ覚えはありません(買っても読んでいない本が山積み)。タイトルは(できれば英語の)?
ええと、表題の件でうちの日記のページにリンクされてましたが、ちと恥ずかしい翻訳なので、該当日の日記にExcite Japanの機械翻訳サービスへのリンクを追加しました。
この日の後ろの方の「2001年2/28追加」という所の下にあるリンクをクリックすれば、原文と訳文が対応した状態の翻訳が表示されます。これはこれで機械翻訳らしいヘンな所もありますが、僕の訳よりは見やすいのでお試し下さい。
うちの日記に行かずに直接問題の元記事を読みたい場合、こちらで見られます。
"講釈(4)" 分類学者 wrote:
> このアララテの山は、現在知られているトルコのアララテ山でいいのかという問題があります。
既知であり「確証」を求めておられたなら申し訳ありませんが、「アララテ」は
現在「ヒマラヤ」として知られる山系のことで、トルコのアレはすなわち「○○富士」
や「××のチベット」の類です。アイザック・アジモフが書いた創世紀解説の書物
はご存じですか?
長谷川さん(norih@concentric.net)、久保さん(remnant@mte.biglobe.ne.jp)がこの掲示板に来てくれるようにみんなでお願いしよう。
箱舟に入った動物がどこからきたかは記されていませんので憶測はやめてすすみましょう。
創世記7:14〜16「彼ら(ノアの家族)といっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。
こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。」
そして、洪水が起り、
創世記7:21「こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。」残ったのは箱舟の中にいたものだけと記されています。
ところで、「ギルガメッシュ叙事詩」の洪水物語りではこの部分どうなっているんだろう?櫻井さん御存じ???
で、創世記8:4「箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。」
このアララテの山は、現在知られているトルコのアララテ山でいいのかという問題があります。なぜ、その山がアララテと名付けられたのかは、検証の必要がありますね。どなたか御存じでしょうか。
いずれにしろ、ここまでのことを前提(一応そのまま認める)とすると一つの反証可能な仮説を提示することができます。つまり、
「現生生物はアララテの山から現在の分布に拡がった」
「信じる者は巣食われる」
く〜、こういうの大好き!
>だから、生物が意志で書換えられる核酸以外の遺伝情報メディアが存在する、
>というのですから、これは新説でしょう? 人はどうやら望んだ通りのものに
>なれるらしいですよ。
新設じゃないでしょう。
人類誕生とともにあったのじゃ?
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。