参考文献

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NATROMの日記の中のNATROMによる書評

 
新版<図説 種の起源>
[Amazon] (チャールズ・ダーウィン著 リチャード・リーキー編 吉岡昌子訳 東京書籍  1997年 4800円)

原著は1859年。種の起源の邦訳は他にも八杉龍一訳が岩波文庫から上下二巻で手に入ります。しかし、初めて読む方には少々値は張りますが、こちらの図説版をお勧めします。

はっきり言って、私が種の起源を初めて読んだときには「なんて退屈な本なんだろう」と思ったものです。文庫で読むにはちときつい。図説版は、図だけでなくリーキーによる解説もついていてわかりやすい。現在のダーウィン説の位置付けについても知識を得ることができるでしょう。

100年以上も前の本をなぜ読まなければならないのか、リーキーの解説や養老孟司の序文に理由は書いてありますのでここでは繰り返しません。少なくとも進化についてなにか語ろうと思えば(否定するにせよ、肯定するにせよ)、ダーウィンを避けて通ることはできません。

種の起源すら読まずに「創造論は正しい」あるいはそうまでいかなくとも「進化論はなにか怪しいところがある」と思っている人がなんと多くいることか!創造「科学」者に反論するには種の起源だけで十分なくらいです。例えば、創造「科学」は、ダーウィンが論じた地理的分布についてほとんどなにも説明していません。その点では創造「科学」は100年前の科学以下なのです。

最後に、一番最近にこの本を読んだ感想を述べましょう。それなりの知識がついた後に読めば、性選択や中立進化、あるいは断続平衡説にもつながる記述を発見することができます。初めて読んだときの「退屈だ」という印象は間違いでした。退屈であると感じた原因は、本ではなく、私自身だったようです。


 
ブラインド・ウォッチメイカー −自然淘汰は偶然か?−(上下二巻)
[Amazon] (リチャード・ドーキンス著 中嶋康裕他訳 日高敏隆監修 早川書房 1993年 一冊1900円)

原著は1986年。著者のドーキンスは、本職は動物行動学者ですが、強力なダーウィニストとして知られています。著作「利己的な遺伝子」は有名。表題のブラインド・ウォッチメイカー「盲目の時計職人」とは自然淘汰のことを指しています。

自然淘汰は盲目に過ぎないのに、いかにして生物のような複雑なものを作れるのか疑問に思われるかもしれません。日本語版の−自然淘汰は偶然か?−という副題がついていることからわかるように、自然淘汰は偶然に過ぎないという誤解がまかり通っています。ドーキンスの目的はこの誤解を打ち砕くところにあります。

たとえば、「偶然」の問題を取り上げてみよう。それはよく盲目の偶然として脚色されて表現されている。ダーウィン主義を攻撃する人たちの大多数は、ダーウィン主義にはでたらめの偶然以外には何もないという誤った考えに、ほとんど見るに耐えないほどの熱心さでとびつきたがる傾向がある。生きている複雑なものはまさしく偶然と反対物を体現しているのだから、かりにダーウィン主義が偶然と同じと考えたなら、ダーウィン主義を論破するのは造作もないことだとすぐにわかるだろう。私の仕事の一つは、ダーウィン主義が「偶然」についての理論であるという、根強い神話を破壊することである。(P11)

ダーウィン主義は偶然に過ぎないという神話は創造論者のサイトに行けばいくらでも見られます。進化を否定するならするで、進化について最低限の知識くらいは身につけておいて欲しいものです。変異を提供する突然変異は偶然の作用ですが、それを選択する過程は偶然ではありません。わずかな変異でも累積すれば大きな変化になることをドーキンスは示しました。自然淘汰が偶然ではないとしたら、ドーキンスはいったいどういう意味で「盲目」であると言っているのでしょうか。

盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についてのもくろみをもたず、めざす目的がないからだ。(P46)
見通しをもたないとは、将来有利になるからという理由で形質が進化することはないということです。ダーウィニズムにおいては、生存に不利な段階を経なければならないのであれば、どんなに優れた形質でも進化しません。ダーウィニズムは、生物に存在する形質はみな進化の経路が拘束されていると予測します。

歴史に由来する不完全性(グールドはパンダの親指を例にあげた)は、進化の経路が拘束されていることに由来します。ドーキンスはカレイの頭骨と、脊椎動物の目の網膜を例としてあげています。どちらも、優れたデザイナーが設計したものではなく、一歩一歩の段階を進化してきたという歴史を証言しています。創造論者はこの生物の不完全性について、何かの役に立っているはずだという根拠のない信念か、創造主の気まぐれであるという信仰以外の説明をもっていません。

ドーキンスは他にも、生命の起源の問題、系統樹による進化の証明、進化が起こったメカニズムとしてダーウィニズム以外の説の弱点について語っています。もしあなたが進化についてまともに知りたいと思えば、このページを読むのに時間を費やすのはやめて、ドーキンスの本を買いに行くことをお勧めします。


 
進化論裁判
[Amazon] (ナイルズ・エルドリッヂ著 渡辺政隆訳 平河出版社 1991年 2300円)

原著は1982年。エルドリッジはグールドとともに断続平衡説を提唱した古生物学者です。しばしば難解な言い回しを使うグールドと違って、エルドリッジはわかりやすく現代の進化論について、アメリカ合衆国で起こっている反進化論運動について、そしてその運動のどこが間違っているかについて語っています。例えば、地質年代について、年代決定法について、異常な断層についてそれぞれ創造論者の主張のおかしさを指摘しています。このサイトではしばしばこの本は引用されるでしょう。

各論だけではなく、歴史を科学が扱うにはどうすればよいのか?進化は科学なのか?そもそも科学とはなにか?という疑問にも答えています。進化が科学とすれば、なんらかの方法で検証が可能でなければならないでしょう。過去に起こった出来事は実験的に証明や反証、あるいは直接観察の対象とはなりません。どうすればよいのか?進化は何か検証可能な予言を行うのでしょうか?

われわれは単にこう問いかける。現在および過去のあらゆる生物は、進化と呼ばれる祖先と子孫をつなぐ過程によって相互に関係させられているという基本的な考え方が正しいとしたら、現実の世界にはその結果としてどんなものが見つかると期待すべきかと。われわれがなすべき予言とはそうした観察可能な結果であって、将来何が起こるかという推測などではないのだ。そこでなされる一つの予言は、生物は歴史を背負っているというものになるだろう。まさに創造論者が否定する、長くて入り組んだ歴史をである。(P39)

観察可能な予測の例として、エルドリッジは、生物界の類似のパターンは何重にもなった入れ子の構造を示すことを挙げました。もしこの例外が発見されたとすれば、進化というアイデアは反証されます。創造論者の「進化論は科学ではない」という主張とはうらはらに、進化論は反証可能、検証可能であるです。ダーウィンの説は検証され続けてきましたが、いまだ反証されていません。将来、反証されない保証はありませんが、それは進化論は科学であるが故です。どんな証拠があっても絶対に反証されることのない聖書に基づいた説は科学ではありません。

進化は科学ではないという主張は、進化論がどんなものであるか、あるいは科学がどんなものであるか全く知らない人の主張です。そういう主張をする人にこそこの本を読んでもらいたいものです。


 
トンデモ本 1999
[Amazon] (と学会 光文社 1999年 1500円)

トンデモ本とは「著者の意図したものとは異なる視点から読んで楽しめる本」のことです。この定義からわかるように、必ずしも擬似科学を扱っている本だけがトンデモ本というわけではありません。しかし、UFOやユダヤ陰謀論を扱った本が取り上げられることは多いようです。創造科学も例外ではありません。

進化論は「地球が太陽を回っているとする説」と同じ位確からしいものとされています。それを否定しようというのですから、その論理に破綻が生じるのは当然と言えるでしょう。トンデモ本 1999のP136からは、皆神龍太郎氏により『地球史を覆す「真・創世記」』南山宏著が解説されています。

『地球史を覆す「真・創世記」』は進化科学と創造科学について南山氏が、第三者の立場から客観的に書かれた本なのだそうです。例えば、恐竜と人の足跡の化石の存在は進化科学では説明しがたいと南山氏は書いてますが、その足跡の化石は、皆神氏の指摘によれば、米国の創造論者ですら間違いと認めているものです。

光速度減衰説や「進化は熱力学第二法則に違反する」というお決まりの創造論者の間違いにも皆神氏は正しくツッコンでいます。南山氏も自分が何を書いているかぐらいは理解しておくべきでしょう。

と学会のトンデモに対する姿勢、笑いとばすというのは有益です。単なる擬似科学批判であればあれほどは売れなかったでしょう。批判のみでなく、プラスアルファ、すなわち笑いという付加価値をつけることで商品として成立したのです。その功績は大きい。


 
ミミズと土
[Amazon] (チャールズ・ダーウィン著 渡辺弘之訳 平凡社ライブラリー 1994年 1200円)

原著は1881年。ダーウィンによる最後の著書です。スティーブン・J・グールドによる「小さな動物に託された大きなテーマ」という解説がついています。科学は歴史を扱えない(要するに進化論は科学ではないと言いたいらしい)と思っている方は、このグールドによる解説を読んでいただきたい。グールドは一貫して歴史を扱う科学について良質のエッセイを書きつづけてきました。

ダーウィンのミミズの本は、一見取るに足りないものを扱っているように見えます。しかしダーウィン自身が前書きで書いているように、ミミズという小さな動物は興味深い問題を含んでいます。グールドはそこに歴史を科学的に扱う方法論という大きなテーマを見出しました。


 
生命の起源 科学と非科学のあいだ
[Amazon] (ロバート・シャピロ著 長野啓他訳 朝日新聞社 1988年 2300円)

原著は1986年。著者のシャピロによれば「図書館の棚は、生命の起源について書かれた本の重みできしんでいる」そうですが、日本語で読める生命の起源を科学的に扱った本の中で、わかりやすく書かれており、さまざまな仮説を網羅しているものを選ぶとしたら、この一冊でしょう。また、この本は生命の起源だけでなく、副題でもわかるように科学とは何か?という問題も扱っています。

生命の起源を完全に説明しうる科学的な仮説はまだありません。そこで肩をすくめて、「生命は神がつくったのだ」という結論を出すのは自由です。しかし、単に科学では生命の起源を説明できないと主張するにとどまらず、「創造主による生命の起源」を「科学的」な説であると主張するならば、科学の方法論に従わなくてはなりません。

科学は一組の与えられた解答ではなく、解答を得るための一つのシステムなのだ。解答を求めるさいの方法が、解答そのものの性質よりも重要である。(P32)
創造「科学」は自らを科学と名乗っていますが、まったく科学でもなんでもないことを、シャピロは創造論を科学として公立学校で教えようと運動を行ってきた、創造「科学」者自身の言葉を引用して示しています。
この運動の指導的人物は、自分たちが科学だと主張してきた教義の正体について、幻想など抱いていない。印刷物の中で、彼らはたいへん率直だった。ヘンリー・モリスはその著書『科学的創造主義』でこう言っている。「創造は……科学的方法でうかがい知りがたいものである。創造のプロセスを記述し、あるいはそのようなプロセスが行われうるのかどうかを確認するための科学実験すら、考案することはできない。創造主は、科学者のような思いつきで創造するものではない」
(中略)
宇宙と地球と生命が、うかがい知りがたい創造主によって超自然的な力を用いて作られたという主張は、科学の枠の外にでている。この主張は、検証すべき予言を何も与えない。それは科学によって否定されえない。(P299)

初めから「科学ではわからない」とだけ言えばいいものを、創造「科学」は自らを科学であると主張しています。彼らが自らの宗教を科学であるかのように言う動機はわからないでもありません。科学を持ち出すことで、何かしらの権威を得たいのでしょう。逆説的ですが、多くの宗教家や科学者自身よりも、創造「科学」の支持者たちの方が科学に過度の権威を認めているのです。真に敬虔なクリスチャンは、創造の科学的証拠など必要としていません。

神による創造が科学でないとすれば、生命の起源に関する他の多くの説は科学でありうるのでしょうか?その答えはイエスです。いまだに不明な点が多いのは間違いありませんが、例えば50年前と比べて私達の理解は確実に進んでいます。科学では生命の起源を説明できないとあきらめるのは時期尚早です。本当に科学が興味深く、エキサイティングなのは、不確定で議論が進行中の分野です。

新しい観察や理論をすべて懐疑の精神をもって扱い、実験の検証が終わるまでは疑いを残す。それからこれを、価値のある獲物を長く探し求めて手に入れた収集家のような注意をもって、他の獲物のそばに並べる。そのとき、科学の喜びを私たちは経験できる。生命の起源への探求を続ける私たちにとって、報酬となるはずのものは、当座の解答にこだわることではなくて、この喜びなのだ。(P361)

あなたもこの喜びを知りたいとは思いませんか?


 
奇妙な論理 だまされやすさの研究
[Amazon] (マーチン・ガードナー著 市場泰男訳 早川書房 2003年 720円)

数学パズルなどで知られるガードナーによる擬似科学批判の書。原著はなんと1952年。約50年前の本でありながら、古さをほとんど感じられないのは、擬似科学がほとんど進歩していないからでしょうか。進歩を拒むのが擬似科学と言った方がいいのかもしれません。擬似科学にない科学の特徴の一つは、新しい証拠や理論によって絶えず修正を行う精神です。

インチキ医療や反アインシュタインに加えて、ガードナーは「地質学対創世記」という一章を割いて、創造論について述べています。ガードナーの記述を読む限りでは、50年前の創造論者による進化論批判は、現代のそれとたいして変わっていません。50年前に比べ、分子生物学の発展による多くの新しい証拠は進化論を支持していますが、創造論を支持する新しい証拠はなにかあるのでしょうか。

創造論より興味深いのは、地球は丸いのではなく平らであるという主張でしょう。ガードナーによれば、1950年代になっても、イリノイ州のザイオンには、聖書に基づいて地球が丸いことを疑う人が何千人といたそうです。(2000年代でも平面大地協会は活動を続けているようだ。)人々は証拠があるから信じるのではなく、信じたいものを信じるのです。

かのアメリカ人たちを私たちは笑えません。現代の日本も似たり寄ったりです。ガードナーのこの本は、奇妙な論理を主張する奇人たちを笑うのが目的ではなく、トンデモを見抜く目を養うのが目的です。地球が平らであるとか、地球の年齢が6000年であるとか信じ込むくらいであれば大きい害はないかもしれません。しかし、非合理に対して免疫をもたないことはしばしば危険を伴います。

もしもドイツ国民がよい科学とわるい科学を区別する訓練をもっとよくうけていたなら、ナチスの人類学者の気狂いじみた人種理論にあんなにやすやすとのみこまれることはなかったのではなかろうか?(P16)

好むと好まざるとにかかわらず、私たちは科学の恩恵を受けて社会を営んでいます。もっと科学と擬似科学について知るべきではないでしょうか。疑似科学について気軽に知ることのできる本です。

[2003.2.7追記] 早川書房から復刻されました。山本弘(SF作家・と学会会長)の解説が新しくつきました。


 
スタイビング教授の超古代文明謎解き講座
[Amazon]  (ウィリアム・J・スタイビングJr.著 皆神龍太郎監修 福岡洋一訳 太田出版 1999年 2000円)

原著は1984年。科学の定説が間違いだとするトンデモ科学と同様に、歴史の定説が間違いだとするトンデモ歴史学も多いようです。例えば、アトランティス大陸やムー大陸は実在し、ピラミッドは超科学で建造されたといった説です。著者のスタイビングは豊富な文献から歴史学上の奇説を検討し、なぜまともな歴史学者がそれらの説を受け入れないのか説明しています。

ピラミッドを建設した古代の超科学、ノアの箱舟、アトランティス大陸について述べた各論もたいへん興味深い。そこには、創造科学と同様の欺瞞、すなわち間違いを正そうとせず、立証責任を転嫁しようとするトンデモ説信奉者特有の態度がみられます。さらにこの本の第6講では、奇説に共通する特徴を述べて、なぜ怪しげな説が人気を博しているか解説しています。

ある意味で奇説は、原始的な文化において神話が担っていた機能を果たしている。心理的な葛藤を解決し、未知のこと、知りえないことに対する答えを提供する。西洋では科学の発達とともに、物理的な世界を説明する方法としての神話はしだいに見捨てられていった。宗教はもっぱら意味、目的、倫理、形而上学の問題を扱うようになり、物質的世界については科学研究の正当性を認めた。しかし、現在の学術研究における客観的方法で、あらゆる現象について単純な説明を即座に提供できるわけではない。未解決の問題からくる心理的な不安への耐久が低い人びとは、新しい神話(もちろんその中には、非常に古くからある神話を受け継いでいるものもある)の格好の標的となってしまう。(P276)

科学的方法はあらゆる問題に答えを与えてくれるわけではありません。奇説はいくらでも心理的に満足のいく答えを与えることができます。だからこそ人は奇説を受け入れるのであって、証拠のあるなしは二の次なのです。この総論は、インチキ歴史学だけでなく、創造科学や反アインシュタイン説などの疑似科学、あるいは洋の東西を問わずはびこっているインチキ医学にも適用できます。

進化論はいかに生きるべきか答えを教えてくれません。聖書、そして創造論が正しいと信じることで人生の指針を得ることのできる人もいるでしょう。その人は証拠があるから創造論を信じているのではなく、心理的に満足するから信じているのです。こうした信仰は批判されるべきではありません。ただ、信仰心が足りないからなのか、他人にも自分の信仰を押し付けたいからなのか、創造論は科学でもあると主張するから問題なのです。こうして創造論は、古代の超科学やムー大陸といった奇説の仲間入りです。信仰と科学を区別できない創造論者は、自ら信仰をおとしめています。

アメリカ合衆国で見られるように教育に持ちこもうとしない限り、創造科学を信じるのは比較的無害です。しかし、信仰と科学を区別できないことはしばしば危険をもたらします。現代医学では治らない難病の人にとって、ある民間療法で病気が治るという説は心理的には満足を与えてくれます。ただ、心理的には満足でもしばしば不幸な結果をもたらします。特に、利益を得るために故意にインチキ医学を宣伝する輩にだまされた場合には。

超古代文明などばかばかしいと思っている人でも、この奇説に関する第6講は読む価値があります。現代社会を生きる上で奇説を見分けることが必要になりますが、多くの日本人が奇説を見分けられているとは限りません。例えば最近では「神々の指紋」がベストセラーになりました。医学に関する誤った(そしてしばしば危険な)俗説も広まっています。もっとこのような本が書かれるべきです。


 
生物進化を考える
[Amazon] (木村資生著 岩波新書 1988年 700円)

分子生物学の発展により、私たちはさまざまな生物の遺伝情報を手に入れることができるようになりました。これらの膨大な情報は進化論にどういう影響を与えたでしょうか。この本からその答えがわかるでしょう。著者は進化学にもっとも貢献した日本人です。生存に有利な遺伝子だけではなく、生存に有利でも不利でもない「中立な」遺伝子が集団の中に広がることによっても進化は起こるとした「中立説」の提唱者です。

中立進化の例として、哺乳類のヘモグロビンを挙げましょう。哺乳類のヘモグロビンのα鎖は141個のアミノ酸でできていますが、ヒトとゴリラはこのうち1ヶ所が異なっています。アカゲザルとでは4ヶ所が、ウシやウマやイヌとは20ヶ所のアミノ酸が異なっています。系統が離れているほど差異が大きくなるのがお分かりと思います。

ヒトヘモグロビンのアミノ酸配列はヒト特有のものですが、別にその配列でないといけない理由はありません。仮にすべて哺乳類のヘモグロビンのアミノ酸配列が同一であっても、そのヘモグロビンは正常に機能します。いったいなぜ、哺乳類のヘモグロビンのアミノ酸配列に差異があるのでしょうか?中立説では、この差異のパターンをうまく説明できます。中立な突然変異は通常は集団から消えていきますが、中には集団内に広がり、固定するものもあります。哺乳類の共通祖先がもつヘモグロビンのアミノ酸配列は、系統が枝分かれしていくにつれ、こうした中立な突然変異が累積していきます。共通祖先が古ければ古いほど、アミノ酸配列の差異が大きくなるのです。

ヒトとゴリラがほとんど同一のアミノ酸配列をもつのは、アカゲザルや他の哺乳類と比べて新しい共通祖先を持つからです。アカゲザルとゴリラとヒトは、他の哺乳類と比べて新しい共通祖先を持ち、すべての哺乳類は、魚や鳥といった他の脊椎動物に比べて新しい共通祖先を持ちます。進化論は、生物の遺伝情報の類似性には入れ子状のパターンが存在すると予測し、そしてそのパターンは実際に存在します。

もし哺乳類がそれぞれ個別に創造されたのであれば、いったいなぜ創造主は少しずつ違ったヘモグロビンを創ったのでしょう。それもわざわざ進化の系統樹によく合うように。創造論者は理にかなった説明をしていません。

この類似パターンはヘモグロビンに限らず、さまざまな分子で確認されています。再現性を問題にするのであれば、さまざまな種のさまざまな分子で検証できます。そうした検証の結果、すでに中立説は定説として科学界で受け入れられています。

「生物進化を考える」は中立説の提唱者、木村資生自身が一般の読者向けに書いた本です。いくつか数式が載っており難しいところもあるかもしれませんが、数式をとばしてもおおまかな意味は理解できるはずです。進化論や遺伝学の一般常識に加え、生物の遺伝情報が進化の強力な証拠であることを理解するのに最適な本と言えるでしょう。


 
進化と人間行動
[Amazon] (長谷川寿一 長谷川眞理子著 東京大学出版会 2000年 2500円)

東京大学のテキストで2000年4月初版。東京大学と聞くと難しそうですが、教養部1・2年生向けですので、高校卒業程度でも読めるように書かれています。この本では、人はあらゆる生物と同じく進化の産物であり、人の心理や行動を理解するためには進化を考慮すべきだという主張がなされています。進化という視点では人の心理と行動はどのように説明されるのでしょうか。

一例をあげると、他個体とうまく協力行動をとるために好悪、義憤、感謝、罪悪感といった感情が進化してきたと考えられます。ダーウィニズムが弱肉強食という言葉から連想される単純な競争でしかないという誤解は広く行き渡っています。進化論を教えれば、次の瞬間から生徒がみな利己的に振る舞うかのように言う創造論者さえいます。この単純な理解は完全に誤りです。他人とうまく協力関係を築く個体は、常に利己的に振る舞うライバルの個体より、繁殖に成功するでしょう。

しかし、無制限な利他主義は不安定です。フリーライダー(ただ乗り者)に利他主義を搾取されてしまうからです。誰に対して利他的に行動するかは重要です。好悪の感情は利他行動の対象を教えてくれるでしょう。ごまかしに対して厳しい態度をとることは有利に働きます。感謝の感情は、ごまかし者と思われることを避けることができるために選択されます。罪悪感を進化させた個体は、一度失敗しても再び協力関係を築くチャンスを得ることができます。

協力行動と感情の進化の他に、血縁淘汰(血のつながりが強いものに対してより利他的に行動する)、性選択(配偶者をどのような基準で選択するか)の話題がとりあげられています。竹内久美子の著作でも取り上げられているような話題ですが、竹内久美子の著作とこの本の決定的な違いは、前者がたいていの場合おもしろい「お話」に過ぎないのに対して、後者はできうる限りのデータを示して実証していることです。必要なら、引用されている論文に戻ってより詳しく知ることができます。酒の席での話題を得るためではなく、進化について何がしかの知識を得たいのならば、この本を選ぶべきです。

ドブジャンスキーの有名な言葉に「進化を考慮しない生物学は意味をなさない」というものがあります。社会人文科学で同様のことが言われる日は近いのではないでしょうか。文系の人にこそ、この本を読んでもらいたいと願います。最後に、前書きから引用しましょう。

本書の大きな狙い−希望でもあり野望でもありますが−は、自然科学と人文社会科学を橋渡しすることにあります。人対動物という単純な二分法にとどまらず、人も動物であり、しかし人はどのように特殊な動物であるかということを考えることは、地球規模での環境問題や核管理問題などを論じるときの基本的視座となるはずです。今や文系だ理系だといっている時代ではありません。理系、文系を問わず個別の学問の境界はどんどんあいまいになりつつあります。これらの学問を統合し、人間理解のために共通の基盤を築けるものがあるとしたら、それは進化理論をおいて他にないと私たちは考えます。進化は従来の学問の壁を打ち破る新しい知的武器であり、異分野の研究者を結びつける赤い糸なのです。(はじめに ii〜iii)

 
進化をめぐる科学と信仰
[Amazon] (大谷順彦著 すぐ書房 2001年 2310円)

私はこのサイトで創造科学を批判してきましたが、それに代わるキリスト教的な立場についてはあまり言及してきませんでした。非キリスト教徒である私から言えるのは、創造科学は科学を自称しているが科学的には間違っているということだけで、神学的に聖書の記述をどうとらえるかについての考察(例えば、創世記の「一日」は24時間なのか、それとも長い時代をあらわしているのか、あるいは比喩的な表現なのか、といったことについての考察)は私の能力を超えているからです。その点において、若い地球の創造論を信じている方にとって私のサイトは不十分な内容です。「地球の年齢は一万年以上だ」と言いつつ、若い地球の創造論に代わる聖書的な立場を示さないのでは、信仰を否定されたかのように受け取ってしまう若い地球の創造論者もいるでしょう。

そのような方々にこそ、この本を読んでもらいたいと思います。クリスチャンであり経済学者でもある著者の大谷は、進化論とキリスト教を考察することを通じて、科学と信仰が相容れないものではないことを示しています。「科学と信仰の衝突についての歴史的な事実は、キリスト教の世界観が問題なのではなく、教会や信仰者の誤った姿勢や科学者が信仰について十分な理解を示さない結果である(P47)」のです。この本は、自然選択による進化を否定しないクリスチャンの立場について説明がなされています。

しかし、聖書の示す神の働きは、地球上の生命の始まりが科学的メカニズムによって説明が可能であるかどうかにけっして依存していません。すべての被造物は神により保持されている、と聖書は主張します。自然の現象はすべて神の働きであるとするのが、聖書の立場です。当たり前の自然現象も神の支配と保持のもとで起こっていると聖書は主張しています。雨が降ったり風が吹いたりという自然現象には科学的な説明が与えられると同時に、それは保持という神のみわざとして説明することもできる、と聖書はいうのです。自然現象が科学的なメカニズムで説明できれば、それで神の働きは消滅するとはいえません。生命体の素晴らしい機構や適応性が、自然選択のようなプロセスによって説明できるというのは、けっして神の存在の否定、神の支配の否定につうじていくわけではありません。(P33)

また、この本は非キリスト教徒にとっても有益です。進化論を否定しないキリスト教の立場や、アメリカ合衆国における最近の創造科学の活動について知ることができます。さらに著者は、科学のみが真理に到達できる唯一の道とする科学主義も批判しています。安易な科学主義もまた、創造科学と同じくらい科学と信仰の理解のさまたげになるのです。

著者は、キリスト教の立場に立って進化を有神論的に解釈できること、その解釈が創世記の記述と神学的に矛盾しないことを論じます。その解釈を受け入れるかどうかは個人の自由であると私は思います。有神論的進化論を受け入れず、若い地球の創造論の立場をとるクリスチャンもいることでしょう。しかし、「若い地球の創造論の立場をとるもののみが真のクリスチャンであり、他はニセキリスト教だ」という考えが必ずしも正しくないことは理解しておくべきです。加えて、創造科学を支持する人の多くは科学について無知であるということも。ある分野(この場合は科学)についてウソやデタラメを主張する人たちが、別の分野(この場合は神学)について正確なことを言っていると私は期待できません。有神論的進化論の立場をとる著者の大谷は科学に関して理解する努力を惜しんでおらず、神学についての記述も信頼できると私は考えます。


 
アシナガバチ一億年のドラマ カリバチの社会はいかに進化したか
[Amazon] (山根爽一著 北海道大学図書刊行会 2001年 2800円)

私の実家の軒先には、よくアシナガバチが巣をつくっていました。春先は一匹のハチとせいぜい数個の部屋からなる小さな巣が、夏には近づくのもためらわれるほどの大きな巣に成長する過程を間近に見ることができました。ハチは身近な昆虫であると同時に、進化生物学的に興味深い昆虫でもあります。アシナガバチの社会は複雑で、さまざまな形質が関与しています。たとえば、巣の素材を作るための分泌物、植物繊維をかみとる顎、外敵から守るための巣の形、巣分かれの際の群れの組織化、などなど。ダーウィン的な進化に懐疑的な人であれば、「これらの形質は高度に関連しており、ランダムな突然変異によって段階的に進化したなどとは信じられない」とでも言いそうです。アシナガバチの社会はどのように進化したのでしょう?

また、アシナガバチには、自分の卵を産まず、女王バチの子を育てるワーカー(働きバチ)がいます。不妊ワーカーの進化はダーウィンの時代から大きな謎でした。ダーウィンは、子孫を多く残す性質が数を増すことによって進化が起こると論じました。ワーカーは子孫を残さないのに、いったいどのように進化したのでしょう?ハチやアリの仲間は、半倍数性という特殊な性決定様式のため姉妹間で血縁度が高くなり、ゆえに社会進化が促進されたというハミルトンの3/4仮説は有名です。しかし、この仮説で説明できない現象もあって批判もあるのだそうです。ハミルトンの仮説以外にも、天敵による捕食圧が高い状況下では、血縁関係になくても複数のメスが協力してコロニーを創設することでお互いに利益を得ることができたのではないか、という仮説も考えられます。

ハチの行動や巣はほとんど化石に残りません。しかし、現生の近縁種を比較することによって、ハチの社会の段階的な変化をたどったり、社会進化に関する仮説を検証したりすることができます。カリバチのグループはきわめて多彩であり、社会性の進化を推定するのにうってつけです。たとえば第二章「独居と社会生活の接点を探る」では、ハラボソバチの社会を紹介してます。社会といっても、数個体の小さなコロニーです。アシナガバチの場合は羽化した娘ハチは繁殖しませんが、ハラボソバチの娘ハチは、ワーカーとして働くこともあれば、自分で新しい巣を創設し繁殖することもあります。アシナガバチほど分業が確立していないのです。こうした祖先の性質を多く保持していると考えられる種を観察することによって、進化に関する謎を解くことができます。単純な目から複雑な目にいたるさまざまな段階の目の例を挙げ、ダーウィンが目の進化を論じたのと同じです。

遺伝学者のドブジャンスキーによる「生物学では、進化という光にかざして見ないかぎりなにごとも意味をなさない」という有名な言葉があります。さまざまなハチの社会、巣、形態などを調べてみても、進化という光にかざして見ないかぎり、それは知識の羅列に過ぎません。ハチの研究一つとってみても、進化という考え方が重要であることが理解できることと思います。


 
環境ホルモン 人心を「攪乱」した物質
[Amazon] (西川洋三著 日本評論社 2003年 1600円)

2003年7月発行。環境ホルモンの害は、これまで報道がなされてきたほど大きいものではなく、必要以上に騒がれている、という主張がなされています。著者の西川洋三は、三菱化学株式会社で製品安全を担当してきた、いわば、「企業側」の人間です。それだけをもってこの本の内容を信じない人もいるかもしれません。しかし、「危険だ」と主張する人たちなら信用できるのでしょうか。

主に研究費を獲得することが目的で、研究者が自分の研究分野が大きな問題であるかのように主張することもあり、環境ホルモンに関しても同様のことが起こったようです。環境ホルモンの研究者は、自分では「環境ホルモンの害はさほどでもない」とは言いたがらない傾向にあります。また、マスコミによる報道にもバイアスがかかっています。「危険である」という情報は、「安全である」という情報以上にニュースバリューがあり、偏った報道がなされがちです。環境ホルモンについて考えるには、こうした視点も必要です。本書のあとがきで、以下のように述べられています。

「危険だ」と主張する人、「安全だ」と言う人が、お互いに相手の痛い点を指摘し合うことが、安全性を高めるために重要だと思います。どちらか一方の見かただけでは十分ではありません。危険だという人はずいぶんいても、安全だと説明できる人はきわめて少ない。だから、本書の価値は大きいだろうと思っています。

危険を煽る「恐怖本」は、環境ホルモンに関しても多く出版されていますが、安全であるという視点から見たものはきわめて少数です。ですが、すべてではないにせよ、「恐怖本」の一部には、科学的に問題のある「疑似科学的な」主張が散見されることもあります。少なくとも環境ホルモンの件では、西川らの「安全だ」という主張のほうが、科学的な視点からは妥当な部分が多いと私は判断します。

未知の危険性が少しでもあるのなら、その化学物質の使用を避けたり、研究に予算をつぎ込んだりすべきだという意見もあるでしょう。しかしながら、天然物を含めて100%の安全性が保障されたものなどなく、研究のための予算にも制限があります。相対的にリスクの低そうなものを選択し、潜在的な危険性が大きいものに研究の予算を回す必要があるのです。恐怖を煽る本はもちろん、マスコミの情報も偏っていることがあることを常に忘れないようにするべきです。

関連サイトのリンク集:

 
どんと来い、超常現象
[Amazon] (上田次郎著 日本科学技術大学出版 2002年 1238円)

私がこのサイトで「低級オカルト」と呼んでいるものの一つに超常現象があります。厳密に言えば、原因不明の不思議な出来事を超常現象と呼ぶこと自体には問題はありませんが、不十分な検討しかしていないのにも関わらず、「現代科学では解明できない」「霊能力によるものだ」という結論に飛びつく安易な態度を問題にしているのです。超常現象を支持している人たちが必ずしも科学を「自称」しているわけではありませんので、超常現象=擬似科学であるとは言えませんが、両者が共通の問題点を持っていることは容易に見て取れます。

この本は、物理学的な見地から超常現象について精力的な解明を続けてきた、日本科学技術大学の上田次郎教授によるものです。本来の物理学研究にあてるべき時間を割かれるがゆえに、上田教授本人にとっては不本意であると思いますが、超常現象解明の第一人者といってよいでしょう。この本でも、さまざまな超常現象がらみの事件をぶっつりと解決してきたことが記載されています。どうして上田教授は超常現象を解明することができたのでしょう。もちろん、自然科学の知識も助けになりますが、もっとも重要なことは、だまされやすい人間の心理を自覚し、必要以上に超常現象を恐れないことにあります。そうした上で、ことの真実をしっかりと見極めるべきです。

 …超常現象とは往々にして単純でばからしい人為的トリックで成り立っているものなのだ。一見不思議に見える現象も、錯覚や焦り、恐怖心や思い込みなどで、真実が見えなくなっているだけのことが多い。この本を書き始めたそもそもの理由は、そういった弱い人間心理を取り払い、皆さんに偽りの超常現象と真正面から向き合う心構えをしてもらいたいと考えたからである。つまり、トリックにだまされて慌てふためく前に、恐れることなく目の前の現象の真偽をしっかりと見極めてほしいのだ。(P109-110)

上田教授は力強く、こう語ります。

 私に言わせれば、すべてのホラー現象は、ほらに過ぎない。超常現象を恐れてはならない。Don't be afraid! どんと来い、超常現象。(P8-9)

現代社会には、超常現象に限らず、だまされやすい人間の心理につけこもうとする輩がたくさんいます。上田教授による、「トリックにだまされて慌てふためく前に、恐れることなく目の前の現象の真偽をしっかりと見極める」という心がまえは、超常現象だけでなく、多くのことに適用可能であると私は考えます。[2003.4.1追加]


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