進化論と創造論についての掲示板ログ143

2003年02月25日〜2003年03月02日
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...軽薄な発言だったかも...。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月02日22時21分

失礼しました...。


こんな純粋なねずみさんは久しぶり  投稿者:sci98 投稿日: 2003年03月02日22時11分

>あなたは初めの『3人』に案内するだけで、
>後の『36人』の入金は勝手に口座に入ってきます。

この「36人」ってなんだよ(笑)。
手紙式(送付人数指定式)の文章をほとんどそのまま借用してるな。


>これで順番に上の人が抜けます。
>この仕組みが「違法性がない!」根拠になります。

なるかい(笑)!

#無限連鎖講の防止に関する法律2条、3条参照。


>参加して損はなし!!!

最大で二十万と三千円損します。


口座番号まで晒しちゃって……  投稿者:クハ72 投稿日: 2003年03月02日20時55分

↓リモホも晒しとこ
zaqd37897ad.zaq.ne.jp


おりょりょ  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年03月02日20時53分

やっぱし犯罪なんですか、下記の行為はうーんすごいですね。こりゃNATROMさんも
消さないでしょうね。消す時に僕の発言も消してもらおうと考えていたのですが、そういう
事なら頼む必要ないですね。


とりあえず  投稿者:GOA 投稿日: 2003年03月02日20時47分

警察庁に「警察庁生活安全局生活環境課生活経済対策室」という専門の部署があるので通報しておきました。せっかくあるんだからちゃんと利用しないとね。
それにしても同じことをやって捕まっている人もいるのに、こうやって堂々と犯罪を言いふらして回る人って、どういう神経しているんでしょう?


消されちゃうかも・・  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年03月02日20時38分

おそらくただのねずみさんでは?マルチにしては商売道具がありませんね。
ニューねずみですね。進化したか。


今夜はもう書かないつもりだったけど  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月02日19時50分

下記の三人の口座に振り込む、のを省いても成り立ちそう...。
そのほうが3千円よけいに儲かる♪


マルチ?  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2003年03月02日19時31分



これオススメ☆☆  投稿者:とも 投稿日: 2003年03月02日19時12分

これは、アメリカで大人気のビジネスゲームです。
3000円と比較的低価格なので、ゲーム感覚で楽しんで頂ければ幸いです。
参加方法
1.まず、下記の三人の口座に1000円ずつ振り込みます。必ずATM(振込機)で。
あさひ銀行     狭山支店    1620938
王子信用金庫   蕨支店     5028964
三井住友銀行   庄内支店   1583190 
2.三人の口座の一番上の人を削除します。そして、リストの一番下にあなたの口座を加えて順位を繰り上げます。
3.後は、できるだけインターネットの掲示板に載せたり、メールで宣伝していけば、それを見た人がどんどん同じように振り込んでくれます。(一週間ぐらいして口座を確認してみてください。ビックリするくらい入金があります。)
※リストにある三人の口座の一番上の人(1番の人)を必ず削除します。そして、リストの最後にあなたの口座を書き加え、番号を上から順にずらしてつげなおします。これで順番に上の人が抜けます。この仕組みが「違法性がない!」根拠になります。最上位の人が権利が消えてなくなる仕組みなので、下の人や後から参加した人が不利になるというわけではなく、条件がまったく同じになるシステムです。
あなたは初めの『3人』に案内するだけで、後の『36人』の入金は勝手に口座に入ってきます。
あなたが送信する人数に制限はありませんので、より多くの人にメールを送ることが、より多くの入金を得る可能性が高くなります。参加して損はなし!!!


あ、  投稿者:Hue 投稿日: 2003年03月02日 5時31分

かぶってたか。

まえに Hotwired でも記事になってましたね、そのてのヤツ。


ちょいと前のだが  投稿者:Hue 投稿日: 2003年03月02日 5時28分

こういうものを見ておけばいいかと。

http://www5.ocn.ne.jp/~report/news/dnacom.htm


忘れてください。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月02日 2時17分

....。
なんでこんなこと考えてたんだろう?


...。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月02日 2時10分

AorT(0,1)、GorC(0,1)...。
いやー、♪
A(AorT),T(TorA),G(GorC)、C(CorG)
で、8ビットだと思っていました...。
...片方だけなんですよね...(^o^;)


それは…  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年03月02日 0時34分

>おずおずさん

DNAだから…ATGC…


告白...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月01日23時13分

PDXさんへ
...実は、このコンピューターは2進数で動くのだろうか、という疑問を出そうとして、
ちょっとバカにされそうで発言を取りやめたのです。
...で、(お願いですから、私をバカにしててもその事は心にしまって)教えていただきたいのですけど、
...なぜ、4進数なのでしょうか? (T_T)


用途か・・  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年03月01日21時43分

ソートの処理などだけ任せてしまうとかならどうでしょうかね?

他に組み合わせの問題などは強そうですよ。例えば将棋やチェスなどですね。短時間で
何万通りの組み合わせを検索して欲しい時は有効な気がします。

ただやはりPDX.さんの言うとおり既存のコンピューターと組み合わせてしか考え付か
ない。そもそも並列処理のプログラムってどう組むのだろう・・。

ちょっと話が広がって嬉しかったです。ちょっと書き込みしすぎました。ほなもう寝ます。
みなさんおやすみなさーい。


やはり用途次第ですかねぇ  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年03月01日20時44分

 結局のところ、塩基対を4進数の記憶装置とみなして、パターン認識とかを並列で処理するのに向くって感じなんでしょうかねぇ。
 単純な四則演算とか、あるいは浮動小数点演算みたいなものを塩基対と制限酵素の組み合わせで実現できれば、あるいは用途も拡がりそうですが。
(というか、こういう「既存の半導体コンピュータの延長」として見ているうちはダメなのかな、という気も)


DNACOM  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年03月01日20時17分

また時間があれば読んで見てください。ただしちょっと前に言い過ぎましたが、
リンク先を強制的に読ませる僕の行為はちょっとひどすぎますね。あくまで
参考までにしておきます。配慮が足りませんでした。

ただし僕はこのHPを読んでも理解できませんでした・・・。

http://www5.ocn.ne.jp/~report/news/dnacom.htm


この場合...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年03月01日17時14分

ハッカーがそおっとコンピューターの蓋を開けて、インフルエンザウィルスを放り込んだり出来る...。

読んでみましたけど、コンピューターって感じがしませんね。想像力が貧困なのかもしれませんけど。それに、電気泳動って、すごくのんびりしてそう...。


DNAPC  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年02月28日11時53分

なんかすごい事です。DNAコンピューターなんてどういう代物なんでしょうかね。
以前から注目してましたが、夢の話だと考えてました。プログラム(ソフト)はどう
なるのか興味津々です。量子コンピューターとどちらが早く家庭に普及するのかな。
ただこのコンピューターで既存のPCに使用している暗号解読されないだろうか・・。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030227-00000003-wir-sci


賛成  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月27日23時22分

そうですね。意見も収束する所まで収束しましたし。ただ一つ言いたいのが、私はトトロさんとの議論がとても楽しかったという事です。なぜなら、トトロさんの文章からは自分の意見を相手に正確に伝えようというだけでなく、相手の意見をしっかり聞こうという相手への誠意、そして真実への誠意が大いに感じられたからです。これほど議論をしていて楽しい相手はいません。お付き合いいただきありがとうございました。


山本勘助さまへ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月27日19時43分

> 最後に、私は、聖書に記述されている事が普遍的真理であれば、の話をしているのであって、聖書に記述され
> ている事が普遍的真理であることを主張している訳ではないということを確認していただきたいと思います。
> (聖書が正しい可能性はあるとは思っていますが)

その点については認識しております。山本さまの意見が、前提を仮定しているだけであり、その仮定が真実であ
るとの主張しておられません。

また、お釈迦様云々の話を書いたのは、山本さまが、佐倉さんの説を否定するのに使用した方法が”普遍的真理
”を探求する(あるいは証明する)為に最もふさわしくない方法(反証不可能な説)で行われた為、ちゃかした
だけのことです(この手の反証不可能な説はこの掲示板では過去に何度か使用されています)。

大地平ら教の話も、単に、聖書の解釈の問題ではないということが言いたかっただけで、少々くどすぎたかもし
れません。ちなみに大地平ら教の話はNATROMさまが好んでよく使われる(?)たとえ話です。

> 私は科学に関しては何が科学的に正しくて、何が科学的に正しいかという定義を知りませんし、創造科学者の
> 意見を直接聞いた事も無いので何ともいえません。だから、
>
>>山本さまの言う創造論者は創造「科学」を標榜する方々を対象にしているのでしょうか?<
>
> と言う意見に対しても答える事はできません。よく分からないからです。

私が理解している限り、科学が絶対的に正しいと保障している真理は存在していません。より真理らしいと考え
られている仮説があるだけです。
だから、聖書に記載されている内容が普遍的な真理であるということを証明することは理論上、不可能ではあり
ません。それには、いままで”科学的に”挙げられている証拠以上の普遍的な証拠を提示して、仮説に反証すれ
ば良いのです。科学が扱う真理は反証可能な仮説にすぎません。
けれども、これは容易なことではないでしょう。たとえば、地球の年齢が科学が言及しているものより遥かに若
いことを証明するため、放射性元素の半減期が過去には早かったなどという主張が創造科学論者からなされたこ
とがありましたが、このような議論のほとんどが「反証不可能な説」に論拠を求めるか、観察(実験)結果の無
い単なる憶測であったりしました。

現在の科学は様々な分野が絡み合って成立しています。”放射性元素の半減期が過去には早かったという主張”
を押し通そうとすれば、原子物理学だけを否定するのではなく、その応用技術である原子力技術や半導体技術ま
で現在の技術全てに対してそれが成立している別の理由をつけなければなりません。
進化論も同じです。進化論を無効化するには、遺伝メカニズムに対して種は変化しないことを論証すれば良いの
です。しかし、人類は品種改良という人工進化をこれまでに行い、普段食べているであろう食物のほとんどを作
り上げてきました。進化を否定するには品種改良を否定し、野菜や豚や穀物などに原種が存在しないことを証明
必要があります。また、遺伝子工学の成果を否定する必要もあります。大腸菌にDNAを注入してインスリンを生産
させるという工場を否定する必要もあります。

創造科学論がどのようなものかは”創造説再評価HP”(http://www.concentric.net/~norih/earth.htm)をご
覧いただければよいかと思います。

私は山本さまが、創造科学論者であるとは考えておりません。また聖書原理主義の方であるとも考えておりません。
それはこれまでのやりとりを通じて常に感じていたことです。”確認したいと思います”で山本さまが書かれて
いるようにこれまでの書き込みは”主張”を議論したものではありません。私にとっては楽しいディペートでし
た。しかし、山本さまも、この書き込みをご覧になられている方々も、もう、そろそろうんざりしてきたのでは
ないでしょうか?

誠に勝手な意見で恐縮ですが、もし、よろしければこの議論はこのへんで終わりにいたしたいと考えるのですが、
如何でしょうか?


トトロさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月27日16時49分

じつは、この世(世界でも宇宙でも可)は2003年2月25日の17時40分(日本時間、日付も)にお釈迦様によって作られたのです。それ以前は混沌としていて、仏の御霊が混沌の表を覆っていました。釈迦は、現世の全てを2003年2月25日の17時40分につじつまが合うように作り、全ての人と生き物と物には2003年2月25日の17時40分以前の記憶も与えています。それで私達には古い記憶があり、これまでの歴史を感じることができるのです。 反証できますか?<

できません。てか、このことを通してトトロさんが言いたいことと、私が佐倉さんの説を否定して言いたかった事はおなじことでしょう。ただ立場が違うだけです。


>先の文章をよく読んでください。私の疑問および質問は、信仰に立脚した創造論者に対して為されているものではありません。あくまでも”聖書の記述は絶対に正しく、科学的な証明が可能”と主張する創造科学論者に向けたものです。現代の科学で証明(説明)が可能という主張に対応するには、現代の科学が用いている手法を使えばよく、聖書は必要ありません。<

それなら聖書は必要ありませんね。

>たとえば、大地は平らであるという教義をもつ大地平ら教という宗教(あくまで例え話です)があったとします。彼らの聖書には”大地は平らである”と明記されており、大地平ら教を信じる人は、”聖書に書かれていることは普遍的真理であり科学的に証明できる”と言ったとしましょう。
もちろん科学者たちは”大地(地球)は球体である”という科学的な論拠と知識を持っていますから、大地平ら教の聖書は”科学的”に誤りであるというでしょう。この両者の対立に対してどちらが真理なのかという決着をつけるためには、双方が持っている科学的な証拠を並べて、より矛盾の無い方を、より真理に近いとして認証することが必要です。そしてこの方法は、大地平ら教の聖書の解釈の問題ではありません。<

私は科学に関しては何が科学的に正しくて、何が科学的に正しいかという定義を知りませんし、創造科学者の意見を直接聞いた事も無いので何ともいえません。だから、

>山本さまの言う創造論者は創造「科学」を標榜する方々を対象にしているのでしょうか?<

と言う意見に対しても答える事はできません。よく分からないからです。


確認したいと思います  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月27日16時07分

私の主張をもう一度ここに書いておきましょう。聖書に記述されている事が普遍的真理であれば聖書の内容を全く正確に多言語に訳す事が出来る。普遍的真理でなければそうではない(つまり正確に訳せない言語が存在する)。前半については普遍的真理が見えるものかどうかが今重要なポイントだと考えます。これについてはトトロさんが設計図から実物を思い描くようにして、聖書を通して理性の目によって見ることが出来るでしょう(もし聖書があなたの中で真実なら)。でも、少しでもあなたの心の目に先入観というくもりがあったら真実であってもゆがんでみえ、真実に見えないかもしれません。そして聖書に記述されている事が普遍的真理であれば、あなたが聖書を通してみた真実をそのままかけば、例え違う言語で書いたとしても誤った記述は無いでしょう。後半についてですがこれは明かにみえます(トトロさんのおっしゃる伝言ゲームです)。つまり聖書があなたの中の真実でも、ある地域で真実でなければ、訳す段階で単語の歴史的背景などによって正確な訳が難しくなる事はごんばさんやたまごちゃんのご指摘の通りです。最後に、私は、聖書に記述されている事が普遍的真理であれば、の話をしているのであって、聖書に記述されている事が普遍的真理であることを主張している訳ではないということを確認していただきたいと思います。(聖書が正しい可能性はあるとは思っていますが)


山本勘助さまへ2/2  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月27日14時52分

前の続きです。長すぎるので2つに分けました。

> 最初の創世記についての矛盾ですが、例えば、神様が一度この世界を造り、何かの理由でまた壊し、その後
> また創り直して、聖書の作者の一方が先の創造物語を書き、もう一方が後の 創造物語を書いたとすればおか
> しくなくなるのではないでしょうか。聖書には真実のすべてが記述されているわ けではありませんが、書い
> てあることはすべて真実だとしても問題ないと思います。

佐倉哲氏のWebページに収録されている聖書の誤りは内部矛盾のもののみに限っても”創世記”だけではなく
”カインの言葉”や”イエスの最期の言葉”など多くあります。
上記の説は、反証不可能な説なので科学的には肯定も否定もできませんが、私の感覚的にはずいぶん変な説だと
思います。創世に対してあれだけの記述を行うのならば、一旦、壊した前世に対してなんらかの言及があるのは
普通だと思うし、前世を壊したのならば、神の絶対性を記述するためにも終末の記述がなされて当然だと思うの
ですが・・・また、世界(宇宙までも)が壊れてしまったのに、その記録はどうして現世に引き継がれたのかな
どの疑問もあります。

それでは、上記の説に対して私の説をご披露いたしましょう。
じつは、この世(世界でも宇宙でも可)は2003年2月25日の17時40分(日本時間、日付も)にお釈迦
様によって作られたのです。それ以前は混沌としていて、仏の御霊が混沌の表を覆っていました。釈迦は、現世
の全てを2003年2月25日の17時40分につじつまが合うように作り、全ての人と生き物と物には200
3年2月25日の17時40分以前の記憶も与えています。それで私達には古い記憶があり、これまでの歴史を
感じることができるのです。 反証できますか?(石を投げないでね)

> 進化論者が「科学的」立場にたち、「これを見なさい。明らかではないか。」というのに対し、創造論者は
> 「我々の五感が絶対に正しいとは言い切れない。だから聖書を見よ。真実は明らかではないか。」と言います。
> これでは全く話になりません。そこでどちらかが一方の内部矛盾あるいは自分達の意見を批判することがおか
> しいと言うようなことを示すための議論になるでしょう。すると聖書の解釈の話になると思います。

先の文章をよく読んでください。私の疑問および質問は、信仰に立脚した創造論者に対して為されているもので
はありません。あくまでも”聖書の記述は絶対に正しく、科学的な証明が可能”と主張する創造科学論者に向け
たものです。現代の科学で証明(説明)が可能という主張に対応するには、現代の科学が用いている手法を使え
ばよく、聖書は必要ありません。

たとえば、大地は平らであるという教義をもつ大地平ら教という宗教(あくまで例え話です)があったとします。
彼らの聖書には”大地は平らである”と明記されており、大地平ら教を信じる人は、”聖書に書かれていること
は普遍的真理であり科学的に証明できる”と言ったとしましょう。
もちろん科学者たちは”大地(地球)は球体である”という科学的な論拠と知識を持っていますから、大地平ら
教の聖書は”科学的”に誤りであるというでしょう。
この両者の対立に対してどちらが真理なのかという決着をつけるためには、双方が持っている科学的な証拠を並
べて、より矛盾の無い方を、より真理に近いとして認証することが必要です。
そしてこの方法は、大地平ら教の聖書の解釈の問題ではありません。

山本さまの言う創造論者は創造「科学」を標榜する方々を対象にしているのでしょうか?


山本勘助さまへ1/2  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月27日14時51分

>> もし、、”ある建造物=普遍的真理”、”最初の設計図=原典”として解釈すると上記のたとえ話は”普遍的
>> 真理が存在し、その普遍的真理をそのまま見て描けば翻訳聖書は少しの間違いも含む事はないでしょう”とい
>> う結論に至ります。<

>私の言いたかったのはこのことです。

>> これはこれですじの通った結論のように思えますが、原典が普遍的真理を持たなければならない理由にはなっ
>> ていません。上記の文章は”普遍的真理”を”誇大妄想”に替えても成立します。<

> この部分を私は、たとえ聖書が普遍的真理ではなくて、誇大妄想を記述していても、訳は正確にできる、とおっ
> しゃっていると解釈しました。誇大妄想というのは妄想というくらいだから実在はしないのでしょう。実在しな
> いものを見て描く事はできません。だからそれを訳そうとしたら文面あるいは図面からそうぞうして、訳者が最
> も適当だと思う訳をするでしょう。でもある文章についての解釈は人様々であるため訳を重ねる度に原典の意味
> から訳本の意味が遠ざかることになると思います。

普遍的真理も見ることは出来ません。見ることができるのは”普遍的真理を持ているという原典”です。これを普
遍的真理に代入する(おお!数学的)するとやはり、文章はおかしくなってしまいます。

実のところ、山本さまのおっしゃりたいことは、理解できないわけではないのです。伝言ゲームをする際、多くの
人に言い継がれた伝言は、元の内容と大きく異なる可能性があります(とゆーか、それを楽しむのが伝言ゲームで
すが)。しかし、最初の伝言を書き写しておいて、最終伝言者がそれを見ながら話せば内容の誤りは発生しません。
多分、山本さまの伝えたい内容はこういったことでしょう。しかし、私には、”書き写し”が”普遍的な”真理で
ある必要がわからないのです。なぜ、宗教的真理ではいけないのでしょうか?

”普遍的”な真理ということであれば、それは、宗教を信じる信じないに拘らず真理なはずで、その真理は、科学
的な検証にも耐えうるはずのものです。私には創世記のように明らかに科学的証拠と異なる事象を含む聖書を普遍
的真理の書としてみなすことはできません。

それでも、多くの方々が翻訳聖書を経典として使用しているからには、それなりの真理(宗教的な)の継承性を認
めているのではないかと私には思えるのです。従って、例の命題には、”普遍的”な真理と言う部分に誤謬がある
のではないかと私は考えています。

誇大妄想という物は実在しませんが、誇大妄想をもっているのではないかという書物は存在しえます(多かったり
して)。”誇大妄想をもっている書物が存在し、その誇大妄想書物をそのまま見て描けば”翻訳図書はその誇大妄
想を受け継ぐというのも偏在的真理(笑)のような気がしますが。(この部分は議論には関係ありません;汗)


トトロさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月27日11時36分

>もし、、”ある建造物=普遍的真理”、”最初の設計図=原典”として解釈すると上記のたとえ話は”普遍的真理が存在し、その普遍的真理をそのまま見て描けば翻訳聖書は少しの間違いも含む事はないでしょう”という結論に至ります。<

私の言いたかったのはこのことです。

>これはこれですじの通った結論のように思えますが、原典が普遍的真理を持たなければならない理由にはなっていません。上記の文章は”普遍的真理”を”誇大妄想”に替えても成立します。<

この部分を私は、たとえ聖書が普遍的真理ではなくて、誇大妄想を記述していても、訳は正確にできる、とおっしゃっていると解釈しました。誇大妄想というのは妄想というくらいだから実在はしないのでしょう。実在しないものを見て描く事はできません。だからそれを訳そうとしたら文面あるいは図面からそうぞうして、訳者が最も適当だと思う訳をするでしょう。でもある文章についての解釈は人様々であるため訳を重ねる度に原典の意味から訳本の意味が遠ざかることになると思います。

>普遍的真理については、佐倉哲氏のWebページが役に立ちそうです。氏のWebページ
(http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html)には、”何を根拠に間違いを判断するか”という章があります。その内容を引用します。”ある聖書の記述が間違っていると判断する方法は、基本的には二種類あります。一つは、その記述の内容が、私たちが確信している知識と一致しないために、その記述が間違いであると決定される方法です。もう一つは、聖書に内部矛盾があって、私たちの知識とは無関係に、聖書の間違いの存在が決定される方法です。”とあり、いくつもの内部矛盾が記されています。この点から判断すると元の命題を否定することは出来ませんが、元の命題に従う限り、少なくとも和訳聖書は原典とが全く同じ意味を伝えてはいませんという結論に至ります。<

佐倉哲氏のホームページ読みました。最初の創世記についての矛盾ですが、例えば、神様が一度この世界を造り、何かの理由でまた壊し、その後また創り直して、聖書の作者の一方が先の創造物語を書き、もう一方が後の創造物語を書いたとすればおかしくなくなるのではないでしょうか。聖書には真実のすべてが記述されているわけではありませんが、書いてあることはすべて真実だとしても問題ないと思います。

>私は、”進化論と創造論の話は結局聖書の解釈の議論”になるとは考えていません。そもそも、信仰上に成立する創造論であるならば、科学(進化論を含む)はこのような創造論に立ち入りませんし、創造科学ならば、”聖書の記述は絶対に正しく、科学的な証明が可能”が前提で、科学(進化論を含む)側は聖書を持ち出さなくとも論証することが可能です。<

進化論者が「科学的」立場にたち、「これを見なさい。明らかではないか。」というのに対し、創造論者は「我々の五感が絶対に正しいとは言い切れない。だから聖書を見よ。真実は明らかではないか。」と言います。これでは全く話になりません。そこでどちらかが一方の内部矛盾あるいは自分達の意見を批判することがおかしいと言うようなことを示すための議論になるでしょう。すると聖書の解釈の話になると思います。


Re.トトロさんへ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月26日20時45分

山本勘助さま

> では、違う例え話をしたいと思います。ある建造物があって、その設計図があるとします。トトロさんは技術
> 者ということですから設計図をみるのには慣れていらっしゃると思います。設計図も慣れてくると見ただけで
> 頭の中に完成した光景が浮かんでくるのではないでしょうか?
> その設計図で、完成した光景を見ることと聖書の言葉を通して真実を見る事は似ているのではないでしょうか?
> 設計図にはその建造物のすべてを描くことはできません。建造物は三次元空間にあり、図は二次元だからです。
> そこで設計図にはその建造物についてのたくさんのヒントがちりばめられています。
> さて、ここで作図法が全く違う人があらわれ、その人もその建造物を理解したいと言いました。もちろんその人
> は初めの設計図は理解できません。
> そこで二つの作図法を理解出来る人が現れ、その図を訳すことになりました。設計図から別の設計図に訳すのは
> かなり難しいし、少しくらい間違いを含んでいるかもしれませんが、その建造物が存在し、その建造物をそのま
> ま見て描けば少しの間違いも含む事はないでしょう。
> その設計図も勿論建造物を完全に描写しているわけではなく、ヒントとなるだけですが。

つまり原型(建造物)から、2種類の図面を起こした場合、どちらも誤差を含まないという理解でよろしいでしょう
か?

しかし、このたとえ話を”最初の設計図=原典”、”訳された別の設計図=訳聖書”とすると、ある建造物とは
いったい何なのでしょうか?この話を素直に理解すると原典が示しているものですから、神の意思とでもいったも
のになるのではないでしょうか?
このような理解の仕方をした場合、神の意思が理解できれば聖書の翻訳は完璧になるというふうに理解できます。
訳本が全く同じ意味を伝えるには”建造物が存在し、その建造物をそのまま見て描”くことが必要とされているか
らです。

次に、”ある建造物=普遍的真理を持つ聖書=原典”であったとしましょう。この場合、上記のたとえ話は”原典
が存在し、その原典をそのまま見て描けば少しの間違いも含む事はないでしょう”という結論に至ります。この文
章が変なことは明白でしょう。

もし、、”ある建造物=普遍的真理”、”最初の設計図=原典”として解釈すると上記のたとえ話は”普遍的真理
が存在し、その普遍的真理をそのまま見て描けば翻訳聖書は少しの間違いも含む事はないでしょう”という結論に
至ります。これはこれですじの通った結論のように思えますが、原典が普遍的真理を持たなければならない理由に
はなっていません。上記の文章は”普遍的真理”を”誇大妄想”に替えても成立します。

元の命題が”聖書が普遍的真理を持っていなければ訳本が全く同じ意味を伝えることはできません。”ということ
なので、”訳本が全く同じ意味を伝える”為には、原典が普遍的真理でなければならない。というふうに言い換え
ることができます。私には聖書に対する知識が十分ではないので、翻訳聖書が原典と同じ意味を伝えているかどう
かの判断はできませんが、如何なものなのでしょうか?

普遍的真理については、佐倉哲氏のWebページが役に立ちそうです。氏のWebページ
(http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html)には、”何を根拠に間違いを判断するか”という章が
あります。その内容を引用します。

”ある聖書の記述が間違っていると判断する方法は、基本的には二種類あります。一つは、その記述の内容が、私
たちが確信している知識と一致しないために、その記述が間違いであると決定される方法です。もう一つは、聖書
に内部矛盾があって、私たちの知識とは無関係に、聖書の間違いの存在が決定される方法です。”

とあり、いくつもの内部矛盾が記されています。この点から判断すると元の命題を否定することは出来ませんが、
元の命題に従う限り、少なくとも和訳聖書は原典とが全く同じ意味を伝えてはいませんという結論に至ります。
(クリスチャンの方々、石を投げないで!!)

それから、本論とは関係がありませんが、山本さまは、設計図に対して誤解があるようです。確かに土木建築物の
場合は現物合わせや習慣的省略が多く使用されるため、”設計図にはその建造物のすべてを描く”ことは少ないの
ですが、それは決して”。建造物は三次元空間にあり、図は二次元だから”ではありません(主に工作精度の問題
です)。例えば、自動車のエンジンの図面などでは、この建造物(エンジン)を作るために必要な全ての寸法が誤
差範囲までを含めて全て図面には記入されています(一般的には複数の部品図と加工図に分けられるので1枚の図
面に全ての寸法が記入されるわけではありませんが)。そうでなければ建造(加工)できないからです。


トトロさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月26日18時34分

>真実のすべてではない”ということと”数学の世界は存在”することの関
連が理解できません。また、それが”無いものをみる事はできない”とどのような関連があるのでしょうか?<

では、違う例え話をしたいと思います。ある建造物があって、その設計図があるとします。トトロさんは技術者ということですから設計図をみるのには慣れていらっしゃると思います。設計図も慣れてくると見ただけで頭の中に完成した光景が浮かんでくるのではないでしょうか?その設計図で、完成した光景を見ることと聖書の言葉を通して真実を見る事は似ているのではないでしょうか?設計図にはその建造物のすべてを描くことはできません。建造物は三次元空間にあり、図は二次元だからです。そこで設計図にはその建造物についてのたくさんのヒントがちりばめられています。さて、ここで作図法が全く違う人があらわれ、その人もその建造物を理解したいと言いました。もちろんその人は初めの設計図は理解できません。そこで二つの作図法を理解出来る人が現れ、その図を訳すことになりました。設計図から別の設計図に訳すのはかなり難しいし、少しくらい間違いを含んでいるかもしれませんが、その建造物が存在し、その建造物をそのまま見て描けば少しの間違いも含む事はないでしょう。その設計図も勿論建造物を完全に描写しているわけではなく、ヒントとなるだけですが。


山本勘助さまへ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月26日13時46分

> 私の言うヒントというのは、数学における証明のようなものです(数学の話ばかりですいません)。数学の証
> 明を読んで理解するというのはどういうことでしょうか?その証明が正しい事を確認することでしょうか?
> 違うと思います。その証明を通して数学の世界を見ることだと思います。数学の証明はすべて真実であるが、
> 真実のすべてではないというべきでしょうか。そして数学の世界は存在します。無いものをみる事はできない
> からです。

私には”その証明を通して数学の世界を見ること”というのは理解できません。数学自体、それほど詳しくは無
いので証明がどのような意義を持つかは私には何ともいえません。もちろん、私も技術者の端くれですから、ツ
ールとしての数学は使用しますが、ある数学的命題の証明は、解法を導くための手法の1つぐらいにしかとらえ
ていません。
従って、上記の文章のうち、私には”真実のすべてではない”ということと”数学の世界は存在”することの関
連が理解できません。また、それが”無いものをみる事はできない”とどのような関連があるのでしょうか?

> 聖書も同じなのではないでしょうか?だから、聖書が普遍的真理でなければ訳本が全く同じ意味を伝えること
> はできません。

恐らく数学の話は、例えなのでしょうから、数学の証明が、真実のすべてかどうかなどの議論は不要なのでしょ
うが、何故、この話が聖書と関連するのかは全く理解できておりません。
私は”普遍的真理”と翻訳の完全性にどのような関連があるのかを理解できません。

> また、この議題はこの掲示板の趣旨に合うと思います。なぜなら進化論と創造論の話は結局聖書の解釈の議論
> になるからです。そのとき訳が完全に出来るかどうかの議論は極めて重要な議論を含むと思うからです。

私は、”進化論と創造論の話は結局聖書の解釈の議論”になるとは考えていません。そもそも、信仰上に成立す
る創造論であるならば、科学(進化論を含む)はこのような創造論に立ち入りませんし、創造科学ならば、”聖
書の記述は絶対に正しく、科学的な証明が可能”が前提で、科学(進化論を含む)側は聖書を持ち出さなくとも
論証することが可能です。
この掲示板の一番下にある”ホームページへ”のボタンを押してQ&Aを(そして他の部分も)読んでみてください。
科学(進化論を含む)側が、創造科学と討論する際には聖書は不要であることがわかると思います。何故ならば、
本来、宗教の範囲内で議論すべき聖書の内容を彼らは、科学的であるという主張を行っており、その主張が誤り
であると科学側は主張しているからです。科学的であるという主張は、現代の科学で検証可能であるということ
と同意であり、それには聖書は必要ありません。


トトロさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月26日12時27分

>、”神様の言葉を理解した人間が記述した神様の言葉を理解するためのヒントだとしたら、訳本も全く同じ事を
つたえる”という点には完全に同意いたします。しかし、そう考えるのであれば、聖書の内容は”神様の言葉”
あるいは神の意思を理解するための道具であり、その内容自体は絶対である必要は無いとも考えられるのではな
いでしょうか?

こう考えれば、天地創造なども”神の偉業と神が作られた人というものの特殊性”を理解するための寓話であり、
現在の科学が提唱しているストーリーと異なるからといって、創造科学を打ち立てる必要も無くなります。
また、そうであれば、”聖書が普遍的真理”でなくとも訳本も全く同じ事をつたえることができると考えます。<

私の言うヒントというのは、数学における証明のようなものです(数学の話ばかりですいません)。数学の証明を読んで理解するというのはどういうことでしょうか?その証明が正しい事を確認することでしょうか?違うと思います。その証明を通して数学の世界を見ることだと思います。数学の証明はすべて真実であるが、真実のすべてではないというべきでしょうか。そして数学の世界は存在します。無いものをみる事はできないからです。聖書も同じなのではないでしょうか?だから、聖書が普遍的真理でなければ訳本が全く同じ意味を伝えることはできません。また、この議題はこの掲示板の趣旨に合うと思います。なぜなら進化論と創造論の話は結局聖書の解釈の議論になるからです。そのとき訳が完全に出来るかどうかの議論は極めて重要な議論を含むと思うからです。


脱線は続く  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年02月26日10時04分

To たまごちゃん

>「誰がために鐘はなる」や「風とともに去りぬ」も邦題を口語体にする奴がいたらぶん殴っちゃうかも(w

 昔は、洋画の邦題ってかっこいい名前が多かったよなぁ、とか思ったり。


To トトロさん

>この言葉をハイドパークで〜

(滝汗)

「兄貴ぃぃ! 好きじゃああ!」だったら嫌かもねぇ(汗)
「ヘイ兄弟! 愛しているゼ HAHAHAHAHA!!」という程度のニュアンスかと(^_^;


Re.でも  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月26日 9時58分

山本勘助さま

> でも、聖書が普遍的真理なのであって、訳者が聖書の真理を理解しているのなら、訳本も原典となんら変わり
> ない役割を果たすと思います。神様は原典どおりの言葉で真理をつたえたのではないとおもいます。なぜなら
> 神様は普遍的存在だから。原典もまた、神様の言葉を理解した人間が記述した神様の言葉を理解するためのヒ
> ントだとしたら(つまり数学書のような ものだとしたら)、訳本も全く同じ事をつたえるでしょう。つまり、
> 人間は聖書を通して神様の声を理解するのではないでしょうか?

、”神様の言葉を理解した人間が記述した神様の言葉を理解するためのヒントだとしたら、訳本も全く同じ事を
つたえる”という点には完全に同意いたします。しかし、そう考えるのであれば、聖書の内容は”神様の言葉”
あるいは神の意思を理解するための道具であり、その内容自体は絶対である必要は無いとも考えられるのではな
いでしょうか?

こう考えれば、天地創造なども”神の偉業と神が作られた人というものの特殊性”を理解するための寓話であり、
現在の科学が提唱しているストーリーと異なるからといって、創造科学を打ち立てる必要も無くなります。
また、そうであれば、”聖書が普遍的真理”でなくとも訳本も全く同じ事をつたえることができると考えます。

山本勘助さまの書かれている上記の内容について、異論のある進化論者はすくないのではないかと私は推測しま
すが、この手の議論を進めることはこの掲示板の趣旨に反するのではないかと考えて、私は議論の終了をお願い
いたしました。
元々、逐語霊感の立場の原理主義者の方々の考え方を知れば、創造科学を信奉する方々の考え方を理解する助け
になるのではないかという浅考から始めた議論だったのですが、それが、聖書自体の議論に向かうような方向に
向かいつつあるように感じられました。聖書自体の批判は、宗教批判と同意であると考え、それはこの掲示板の
趣旨ではないと考えたのです。

PDX.さま

"brother, I love you." 私は、この言葉をハイドパークで、みるからにマッチョなおじさんに言われたこと
があります。ど〜訳せばいいんでしょうか?!(ちなみに私は40過ぎのおぢさん)。


(無題)  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年02月25日23時37分

To PDX.さん

>「ツァラトゥストラはかく語りき」と「ゾロアスターは言ったとさ♪」じゃ、重々しさが数桁違うと思います。

それ、聖書は文語体のに限るよねー♪ って話のときに挙げようかと思っってやめたんですよ。
ニーチェの『ALSO SPRACH ZARATHUSTRA』の邦題には「ツァラトゥストラはかく語りき」「ツァラトゥストラ」「ツァラトゥストラはこう言った」などがありますが、私としては「ツァラトゥストラはかく語りき」であってほしい!!(って、私が持っているのは「ツァラトゥストラはこう言った」だけど・・・^^;)

「誰がために鐘はなる」や「風とともに去りぬ」も邦題を口語体にする奴がいたらぶん殴っちゃうかも(w


>この手の意訳の比較で好きな例は、

私が好きなのは、ビバヒルでドナちゃんがセクシーな格好をしてでてきたのに対するデビット坊やのセリフ。邦訳は「ワァーオです。ドナちゃん」だったけど、英語では単に「wow」だったそうな。他人からの又聞きなんだけどね。
これはある意味誤訳。でも、デビット坊やには「ワァーオです」って言ってほしい。


To 山本勘助さん

>はじめまして。フルネームを書くのは大変ですね。「たまごちゃん」でもいいですか?

「(^-^)ノ」はHN占いを元に私の運気を高めるためにつけているものです。私が不幸になってもよいとお考えなのでしたらどうぞ御自由に!!

なーんてね、その顔文字にはあんまり執着はないので、皆さんに省略していただいています。山本さんもどうぞご省略ください(HN占いを元にっていうのは本当)。

> そうなんですか?てか、めっちゃすいません!私は聖書を読んだ事無いのに、パスカルの「パンセ」を読んで読んだ気になってました!

うんっ?私の書いた話って、聖書を読んだことがなくても通じる話だと思うんだけど??なんなら、「そして、それらは聖書にも当てはまるのではないでしょうか?」の一文を除いてしまっても良いですよ。(そうすると、あの投稿から聖書に関わる記述は全くなくなるけど、それでも成り立つ話だと思う)

でも、パンセ読むには聖書を読んでいた方が良くはないかい??

>でも、聖書が普遍的真理なのであって、訳者が聖書の真理を理解しているのなら、訳本も原典となんら変わりない役割を果たすと思います。神様は原典どおりの言葉で真理をつたえたのではないとおもいます。なぜなら神様は普遍的存在だから。

私もそう思う。でも、逐語霊感の立場をとる原理主義の方にとってはそうではないでしょう?
トトロさんは最初、青野さんが逐語霊感の立場の原理主義者だと思ったから、「訳によって意味が変わるのでは?」というような質問をなさったのではないでしょうか?で、話しているうちに青野さんがそういう立場ではないと気がついたから、話題を打ち切りにしたんじゃないかな?(私はトトロさんのあの対応は非常に適切だと思った。)


でも  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日23時02分

でも、聖書が普遍的真理なのであって、訳者が聖書の真理を理解しているのなら、訳本も原典となんら変わりない役割を果たすと思います。神様は原典どおりの言葉で真理をつたえたのではないとおもいます。なぜなら神様は普遍的存在だから。原典もまた、神様の言葉を理解した人間が記述した神様の言葉を理解するためのヒントだとしたら(つまり数学書のようなものだとしたら)、訳本も全く同じ事をつたえるでしょう。つまり、人間は聖書を通して神様の声を理解するのではないでしょうか?


たまごちゃん(^-^)ノさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日22時06分

はじめまして。フルネームを書くのは大変ですね。「たまごちゃん」でもいいですか?

そうなんですか?てか、めっちゃすいません!私は聖書を読んだ事無いのに、パスカルの「パンセ」を読んで読んだ気になってました!つっこまれるとやっぱきついっすね!粘って迷惑かけました。でも、なんか退くに退けなかったんですよ。この気持ちわかって!


意訳の難しさ  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年02月25日21時52分

(注:おフザケ度高し)

To たまごちゃん

>ごんばさんも仰っていることですが、文学作品の翻訳が難しい理由は、使われる単語が多義的、
>婉曲表現や比喩表現が多い、使われる単語や表現が(共有の難しい)歴史的背景を持つことが
>ある、などなどがあげられると思います。

 状況によって表現も変えないといけませんしね。
「ツァラトゥストラはかく語りき」と「ゾロアスターは言ったとさ♪」じゃ、重々しさが数桁違うと思います。

 この手の意訳の比較で好きな例は、

 "brother, I love you."

を、「お兄ちゃん、大好き」と訳すか「兄貴ぃぃ! 好きじゃああ!」と訳すかという……(こら)


To 山本勘助さん  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年02月25日21時09分

山本勘助さん、はじめまして。 

>「数学書は普遍的な内容であり、はっきりした用語や概念の定義をどんな言語でもすることができ、そのためどんな言語でも同じように理解する事が出来る。聖書もまた普遍的真理であるため同様に正確に訳すことが出来る。」というのはどうでしょう?私は聖書と文学作品は違うと思います。なぜなら、聖書は真理についての記述であり、文学作品は架空世界についての記述だからです。

学術書と比べて文学作品を訳すのが難しいのは、架空の事柄を扱っているからではないと思います。事実に即して書いた随筆でも翻訳は難しいでしょう。また、ある種の小説は書かれている事柄こそ事実ではないが、真理を扱っていると思う&そういう作品こそ翻訳が難しいと思います。

ごんばさんも仰っていることですが、文学作品の翻訳が難しい理由は、使われる単語が多義的、婉曲表現や比喩表現が多い、使われる単語や表現が(共有の難しい)歴史的背景を持つことがある、などなどがあげられると思います。そして、それらは聖書にも当てはまるのではないでしょうか?

>数学の専門書などを読むと誤字脱字が少なくありません。そして日本語としておかしな表現が使われていたりします。しかし筆者の意図を取り違えるということはめったにありません。それは数学が絶対真理だということなのでしょうか?みなさん、どう思いますか?

真理を扱っているものでなくても、誤字脱字によって書き手の意図が全く通じなくなるということはそうそうあるものじゃないと思いますよ。(例外も結構あるということをこの掲示板で知ってしまったけど^^;)


RE 私の解釈  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2003年02月25日20時49分

GOAさん、レスをありがとうございました。こちらこそ、丁寧な御挨拶どうもですm(_ _)m
それにしても、見事に過去に追いやられていますね^^;)

GOAさんが凰妃綺星さんの書き込みをどのように解釈なさったか、どの部分を「進化論と生命の起源を混同している」と考えられたか、大体理解できました。また、そういう解釈に即しているのでしたら、GOAさんの凰妃綺星さんへの質問は非常に適切なものだったと思います。


>「進化論のようなこと」とは種内の変化のような小さなものを指すのであって、一部の知的生命体が進化によって誕生した可能性を示唆したものではないと理解しました。

私も最初そう考えましたが、その後になされた以下の二つの投稿からそうではないと解釈しました。

>進化が全く無かったということではなく、一般的に言われる総合説進化論に対する
意見です。  省略してしまい申し訳ないです
(進化論に関して 投稿者:凰妃綺星  投稿日: 2月23日(日)16時59分21秒)

>さて、進化論についてはですね、多少の進化はあったでしょう。という、私の唐突な切り出しは、非常に失礼。皆さまと類似してくる部分が多いので、つまらないと思いまして。確かに進化が見られる証拠はあります。ただ一般的な進化論は証拠にかけると。  
((無題) 投稿者:凰妃綺星  投稿日: 2月23日(日)21時47分00秒 )

2月23日16時59分の投稿と同21時47分の投稿で凰妃綺星さんが部分的に肯定した進化は、「地球における、種ない変化のような小規模の進化」だと思います。そして、それ以前の投稿( おそらく、 同 16時13分の投稿 のことを指す)において、そのこと(進化論を部分的に肯定していること)を省略して申し訳ないと書いてあります。
と、言うことは16時13分の投稿で「ほんの極一部には進化論のような事が起こったことはあるでしょう。」と述べているのは、それとは違う現象、つまり地球外での知的生命の無生物からの進化を指しているのだろう。 と、いうのが私の解釈です。

また、
>この地球での進化論はそれこそインチキです。
とあるので、地球以外の特定の星での進化はインチキではないと考えているのだろうと解釈しました。私は「地球での進化論」とは「地球上で進化が起こったとする考え」の意だろうと解釈しましたが、GOAさんの解釈では「地球で唱えられているところの進化論」ということになるのでしょうか?


>>一言で言えば、私たちが自然の産物であることはあり得ないに等しい。しかし、起源はどうした? 進化して地球人が原点とは成り得ないのか?ということですが、そのような星であれる場合、もう少し人間が出来るという確率に恵まれた星なのではないでしょうか。そして証拠ももっとみつかる。事実であれば。
((無題) 投稿者:凰妃綺星  投稿日: 2月23日(日)22時24分33秒 )

に関して私は、「私たちが自然の産物であることはありえないに等しい。なぜなら、その確率に恵まれた星ではないし、証拠も足りないから。」という構造をとると解釈したのですが、GOAさんは「私たちが自然の産物であることはありえないに等しい。第一、…。」と解釈なさったわけですね。確かにGOAさんの仰る通りなのかも。

♯ なんだか、古典作品の解釈をめぐって議論しているような感じですね(w


ごんば@いちおう言語屋さんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日16時47分

ご指摘ありがとうございます。この掲示板は本当に勉強になります。では、「数学書は普遍的な内容であり、はっきりした用語や概念の定義をどんな言語でもすることができ、そのためどんな言語でも同じように理解する事が出来る。聖書もまた普遍的真理であるため同様に正確に訳すことが出来る。」というのはどうでしょう?私は聖書と文学作品は違うと思います。なぜなら、聖書は真理についての記述であり、文学作品は架空世界についての記述だからです。


とおりすがりさんへ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年02月25日15時28分

あ〜…やってたァ…(笑。
誠に申し訳ありません、ご指摘の通りです。「重力をはじめとする自然の定数、特に四つの力についての再検討」を頭の中でしていたつもりが、つい重力だけでなんでも変わるように指摘してしまいました。ご指摘ありがとうございました。


冗長性  投稿者:ごんば@いちおう言語屋 投稿日: 2003年02月25日15時19分

山本勘助さん

普通、自然言語に関して「冗長性」といったら、言語が余分な情報を含んでいることを指します。
そのため、情報の一部が欠落(聞き間違い/言い間違い)しても、たいていは話が通じます。
トトロさんのおっしゃるのはその意味の冗長性だと思います。この意味だと、冗長性が言語の
違いにつながることはないでしょうね。また、翻訳の困難さは、基本的には冗長性とは無関係
でしょう。翻訳がうまく行かなかった場合に、言語の冗長性のおかげで一部が復元可能である、
というだけです。

数学書に限らず学術書は翻訳が容易なことが知られています。それは主に、はっきりした用
語や概念の定義があり、それらの知識を読者が共有しているため、また出来る限り誤解を招かな
いように配慮した表現が用いられているからです。

一方、聖書の翻訳が難しいのは、文学作品の翻訳が難しいことと似た理由ではないでしょうか。
すなわち上とは反対に、明言の回避、暗喩や象徴的な表現などが多用されるから、また用語や
概念に対して定義、あるいは共通の認識がないために、適当な翻訳を当てることが困難なので
はないかと思っています。


トトロさんの青野さんへの質問について  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日13時56分

ただ、終わって残念です。この掲示板の趣旨に合った、いい議題だと思ってましたから。


すいません  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日12時20分

>私も信仰自体を批判するつもりはありませんので、この議論は終了とさせていただきたいと思います。ご丁
>寧なご教授を賜り、まことにありがとうございました。

あ、もう終わったんですね。失礼しました。


トトロさんの意見にヒントを得て  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日12時15分

トトロさんへ
>私は、言語の持つ冗長性のためだと思います。自然言語は、特に長い文章になると、若干の単語>を省いたり接続詞を間違えたりしても大意は通じます。(数学の場合、不等号の方向などを間違>えると全く意味が通じなくなる場合がありますが)

そしてその冗長性の部分が言語の違いを生み出しているというのはどうでしょう?例えば数学の場合、同じ書物が違う色々な言葉に訳されて、世界中の人読むという事は珍しい事ではありません。しかし、その書物が伝える事は何語でも同じだとおもいます。それは書物をヒントに数学の世界を見るからだと思います。つまり数学に於いて言語の違いは冗長性に過ぎないんだと思います。そこで聖書も同じだと考えるのはどうでしょう?(聖書に詳しい青野さんどうですか?)


青野さまへ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月25日11時30分

私が質問を発したのは、聖書に記載されている言葉は全て神の言葉であり、完全であり、真実であるという
聖書崇拝者の立場に対して翻訳という作業1つにしても誤謬が入りえるのではないかという疑問からでした。

青野さまには、多くのご教授をいただきましたが、これまでの議論から青野さま自身の立場が聖書崇拝者と
いえるものではないと思いますし、これ以上、信仰を前提とした議論を続けても、この掲示板の意図とは異
なる方向に進展するばかりだと考えます。

私も信仰自体を批判するつもりはありませんので、この議論は終了とさせていただきたいと思います。ご丁
寧なご教授を賜り、まことにありがとうございました。


ごめんなさい(T_T)  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日11時05分

うだうださん、の、間違いm(__)m


Re.青野さんへ、みなさんへ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月25日11時04分

山本勘助さまへ

> 数学の専門書などを読むと誤字脱字が少なくありません。そして日本語としておかしな表現が使われて
> いたりします。しかし筆者の意図を取り違えるということはめったにありません。それは数学が絶対真
> 理だということなのでしょうか?みなさん、どう思いますか?

私は、言語の持つ冗長性のためだと思います。自然言語は、特に長い文章になると、若干の単語を省いた
り接続詞を間違えたりしても大意は通じます。(数学の場合、不等号の方向などを間違えると全く意味が
通じなくなる場合がありますが)
数学が絶対真理だということと関係は無いように思います。

> 翻訳者の主観ということですが、その人が創造主を信じていれば問題ないです。

の回答の元となった私の質問の意図は、”聖書に記載されている一言一句を絶対真理とする聖書信仰者”
が、翻訳聖書に対しても同じ立場を取っているのならば、翻訳の際に混入するであろうノイズ(意訳など
)に対してどのように考えているのかを知りたいということでした。

青野氏が記しているように翻訳は”かなり正しく、ふさわしい表現を求めて”書かれているであろうこと
は全く疑いの無いことだろうと考えますが、ふさわしい表現を模索して言葉を紡ぐのは、和訳の場合、現
在の日本人(だけではないかも)であり、言語上の制約からも何らかのバイアスが重畳しているのではな
いかというのが私の主張です。

もちろん、和訳された聖書が、内容的に改変されているという主張ではありません。”聖書に記載されて
いる一言一句を絶対真理とする聖書信仰者”以外であれば十分、正確にその内容を伝えてるものと考えて
います。


うださん、助けて...(ToT)  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日11時03分

まとめてツリーに持っていく方法が分からない...(TへT)


大文字ナンさん  投稿者:とおりすがり 投稿日: 2003年02月25日10時58分

>もしも重力が今より大きかったら、生命どころか電子が原子核に落下してしまい、物質が出来ません。重力が小さい場合でも同じことになるのでは?と私は考えますが。

・電子と原子核を結ぶのは電磁力です。重力はほとんど効きません。
・古典力学は量子である電子には適用できないので電磁力がどう変わろうが電子は原子核に落ちないはずです(多分)。

重力定数が小さい場合、形成される恒星や惑星は今とは全く違ったものになるでしょう。
生命を維持できるような恒星(安定性、等級)と惑星(距離、質量)の組み合わせができるかどうかは一概にはなんとも言えません。


しばらく沈黙します。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日10時52分

トトロさん達の今の話題をじゃましたくないから。


Gについて  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年02月25日10時46分

もしかしておずおずさんは重力定数の方ではなく、重力そのものの話をしているのですか?
例えば、G自体は定数ですが、1Gなら人間中心のものとなります。

人間はG定数そのものが狂う前に、100Gぐらいで生存不可能なのではないでしょうか、
例えば深海や加速装置の中に置いてです。かなりとんちんかんな事を言っている可能性も
あります。

それよりも再三言っていますが、ツリーにおいて話せばよいのではないでしょうか?

おずおずさんはすぐに終わる話だからと考えているかもしれませんが、もうツリーにしたら
かなりの長い物になっていると考えます。以前谷庵さんが、メイン掲示板で散々話し合った事を
まとめてツリーに持っていったところ、ツリーの方でも盛り上がりました。

ツリーの方で盛り上がらなかったら、その程度の話だと考えて止めてしまえばいいと
考えます。(僕はあの手この手で同じような内容をしつこく挙げてますが・・怒られ
てますけどね)

何故ツリーを押すかといえば、青野さんの話と混じってしまって、おずおずさんの話を
読むのに苦労します。おずおずさんだけをツリーに行ってしまえと追い出しているように
見えますが、青野さんがこっちの話を聞いてくれると思えません。だからおずおずさんに
お願いしています。

> 流れが速いなあ(青野さんと今さんへ)

遠藤さんが遠回しに、うーん・・って言ってるようにも聞こえます。おずおずさん
回転が早いのはとても見てて楽しいです。しかし今のペースは速すぎます。
どうか紳士的な配慮でツリーの方へ、お引越しを計画して見てください。


Re.原典2/2  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月25日10時32分

長くなりましたので分割しております。

> さて聖書は何と言っているか?神は特に旧約聖書の頃から、神を愛し、隣人を愛せよ、とメッセージしているのです。
> 今のヒューマニズムはそれを温床にして生まれたのです。私たちはみな聖書の恩恵にあずかっています。
> 『奇妙な論理』もイエス様が当時 疎外され軽蔑されていたサマリヤ人への愛を持っておられることを認めていま す。
> ニグロをサマリヤ人におきかえてみたらどうか、と。弱い者、小さい者、貧しい者、力無い者への愛は聖書に繰り返
> し述べられています。中絶を反対するのも小さい者、弱い者を愛する事を聖書が命じているからです。

創世記には、イスラエル人が奴隷を持ったことが記されています。私有財産として所有する奴隷に関しては、神もイス
ラエルの指導者も何も言っていません。すこし、分量が多いですが、佐倉哲氏のWebページ
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
から引用させていただきます。


創世記17:26
アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買った奴隷も皆、共に割礼を受けた。

創世記24:35
ヤーヴェが私の主人 [アブラハム] をたいそう祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与
えになったので、主人は裕福になりました。

創世記32:5b-6
わたし [ヤコブ] はラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。

創世記47:20-21
ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分
の畑を 売ったからである。土地はこうしてファラオのものとなった。また民については、エジプト領の端から端まで、
ヨセフが彼らを奴隷 にした。

また、奴隷の扱いにしても二十四時間以内に死んでしまう程、自分の奴隷を棒で打つのは犯罪になるが、少なくとも
二十四時間は生き延びられる程度であれば犯罪にならない。その理由は、奴隷はそもそも私有財産だからである、という
扱いがされています。

出エジプト記 21:20-21
人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。ただし一両日でも生きていた
場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。

また、申命記の中でモーゼは、侵略した町の人々を奴隷にするか略奪して殺せと命じています。

申命記20:10-17
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開く
ならば、そ の全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせね ばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、
町を包囲しなさ い。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃た
ねばならない。だだし、 女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
あなたは、あなたの神、主が与 えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く
はなれた町々に対してであって、次に挙げ る国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えら
れる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一 人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、
ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたよう に必ず滅ぼし尽くさねばならない。

というわけで聖書を読む限り、”神は特に旧約聖書の頃から、神を愛し、隣人を愛せよ、とメッセージしている”とは私に
は到底考えられません。中絶云々以前に他民族が従わなければ部族の血を絶やし、あとくされの無いようにしてから略奪、
強姦せよと言っているように思います。

> ちなみに、すべての宗教に共通の真理があるのではないのです。

キリスト教の真理と仏教の真理は多くの矛盾を含んでいると考えます。もし、尾山令仁氏の”矛盾する二つの真理が存在
することはありえないから”という立場に立った場合、キリスト教の真理のみを認めると言う検証可能な方法はあるので
しょうか?

> 聖書に書いてあることは「道徳的説話」ではなく、福音であり、道徳は信仰の成熟にともないでてくる歩みであるのです。
> 神学用語では聖化(ホーリネス)と言われます。
> まず恵みにより、信仰によって救われ、救われた人は良い行いができるように主によって変えられていきます。
> 人は行いによって救われるのではなくイエス・キリストを信じる信仰によって救われますが、主の恵みは良い行いをも与え
> てくださいます。

十字軍とか、魔女裁判とか、イスラエルによる武力制圧とかですか?


Re.原典1/2  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年02月25日10時31分

青野和明さま

>> と要約できると思いますが如何でしょうか?もし、この要約が正しいならば、新改訳聖書は、翻訳者(個人である
>> かどうかは不問です)の思想によりバイアスがかかっている可能性があると考えます。この点の矛盾を聖書信仰さ
>> れている方々はどのように解決されているのでしょうか?書き込みにある

> 翻訳者の主観ということですが、その人が創造主を信じていれば問題ないです。
> たとえば、「この絵はAさんの遺作である」というメッセージを書いたBさんがいたとします。
> Bさんのこのメッセージに感動したCさんが母国語に訳すなら、かなり正しく、ふさわしい表現を求めて書くでしょう。

本論とは内容が異なるのですが”後藤文彦の頁”というWebページにある”女は本当に「女言葉」を使っているか?”
http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#dawa
に、翻訳文学における「捏造」が疑われる例として、『大草原の小さな家』の例が記載されています。この例で記載
されている内容は男言葉、女言葉の翻訳者による差異ですが、近代文学を翻訳するだけでもこの程度の差が生じてい
ます。ましてや時代背景や思想そのものが大きく異なるだろう聖書の翻訳に於いて、翻訳者が如何に創造主を信じて
いたとしても、時代による翻訳バイアスがかかるのではないかと考えています。

ただし、これらのバイアスは通常のクリスチャンにとっては問題とならないのかもしれません。私の質問のベースは
”聖書の内容の一言一句が真実”と考える聖書主義者に対するものなので翻訳に対する改変を彼らが認めているかど
うかを知りたかったからです。


青野さんへ、みなさんへ  投稿者:山本勘助 投稿日: 2003年02月25日10時24分

>翻訳者の主観ということですが、その人が創造主を信じていれば問題ないです。

信じているという事は「宗教的真理」が見えているということだからでしょうか?それと似たような事(と思うのですが)に、次のような事があります。数学の専門書などを読むと誤字脱字が少なくありません。そして日本語としておかしな表現が使われていたりします。しかし筆者の意図を取り違えるということはめったにありません。それは数学が絶対真理だということなのでしょうか?みなさん、どう思いますか?


補足...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 9時54分

人間原理の記述からすれば「gが違っていたら人間は生きられなかった」ということですが、
仰るとおりなら、「gが違っていたら原子は存在できなかった」という記述で良いのでしょ
う?この方が包括的な命題だと思うのですが。

ただ、この話題は創造論でも疑似科学でもないから、そもそもここで話すのは不適当、かも
しれない...(-_-;)


流れが速いなあ(青野さんと今さんへ)  投稿者:遠藤 投稿日: 2003年02月25日 9時51分

>もと宣教師のアメリカ人教授が第三世界の人々には三段論法が通じないと書いています。

えーと、ギリシャ思考って三段論法のことですか。それならそうと言ってくれればいいのに、意地悪な人だ。ちなみにあなたの例題では、第三世界の人にも理があると思う。寒い、暑いというのは温度の連続的な関数であるため、彼らが綿花栽培の可否は見てみないとわからないと答えても間違ってはいない。三段論法が分かるかどうかのテストならばもっといい質問もあるだろうに、この元宣教師のアメリカ人教授も意地悪だ。

>ユダヤの言葉は「時制」がなく、完了、未完了、という表現で、将来必ず起こることが完了形だったり、以前その時点で確定していなかったら未完了だったりするのです。

ユダヤの文法が日本と違うのなんて全く問題していません(なぜユダヤ?)。私は「ギリシャ語に抽象名詞が少ないのか」と聞いたのです。私は違うと考えています。日本語でぴったりの抽象名詞がない場合、日本人は外来語や造語で表現しようとします。そして使いこなしてしまえば、それは日本語の語彙になる。哲学(フィロソフィ)も科学(サイエンス)もそうです。遡れば漢字だってそうでした。ギリシャ人だって同じだろうと考えています。「にせユダヤ人と日本人」のp95から読まれてはいかが?

今さんへ。
本多勝一編「ペンの陰謀」(潮出版社)という、全て山本七平氏のペテンを暴くという本がある(本多は一章担当と前書きくらいであまり書いていません)。「私の中の日本軍」のホンカツ攻撃がいつなされ、どういった内容なのか知りません。まあ軍配は決まっている。あの七平さんが勝てる訳ない。

紹介しておいてなんですが、この本つまんないのよね。山本式英語の翻訳(ロッキード事件のコーチャン氏の証人喚問の訳)が全部間違いというところだけ面白いんだけど。第一、この本絶版になっているのかもしれません。七平氏のインチキ性は「にせユダヤ人と日本人」、「殺す側の論理(この本はイザヤベンダサンの翻訳?論文もあり、ディペートを楽しめる構成になっていてお得です)」だけで十分。彼の誤訳は、今ならトンデモ本候補になった可能性もあるくらい面白いです。


やっぱりもっと整理してからにします...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 9時45分

>言うまでもなく、この宇宙が人間そしてあらゆる物質の存在を許す構造であることは真理
ですが。
そのとおりだと思います。つまり、「知的生命体も含め、宇宙に存在するすべての存在」が
許されているわけで、その中から特に人間を抜き出して論じるのかが分からないのです。

gの検討についても同じなのです。まさに仰るとおり、gが違っていたら、「人間の存在に
影響を及ぼしただけでなく」「すべての存在に」影響を及ぼすはず、なんです。
で、なぜ、「人間」に、こだわらなければいけないのか?なぜ、「知的生命体」にこだわら
なければいけないのか?

少し整理する時間をください...大文字ナンさん


どうしても記号化したいのかな?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年02月25日 9時33分

> 単純化すれば、「人間がこの宇宙に存在しているのは、この宇宙が、人間が存在出来るように
出来ているからである(あろう)。」
> という命題が、トートロジーであるのか、あるいは、観察や実験により判定が出来る、科学的
仮説であるのか、ということですし、

なんでそれほどトートロジーにこだわらなければならないのか、が良く分かりません。内容の検討をするまでもなく、行の構造から真理であることを示す必要があるのでしょうか?
#言うまでもなく、この宇宙が人間そしてあらゆる物質の存在を許す構造であることは真理ですが。

> この場合、「この宇宙のgに適応出来なかったために絶滅した生物」の化石が見つかれば、
>「非人間原理」はトートロジーで無いことの証明となる..。また、gが別の定数であった
>なら現存する動物の足がどの程度太くなっていたか、を、遠心分離器に入れた動物の変化で、
>「別の宇宙に行かなくても」推論できる。(人間原理の場合、宇宙が生物に合わせるわけだ
から、この実験は意味がない。)

ここでも、かなり論理の飛躍というか、問題を良く吟味していないように見えます。
地球の重力が今より大きかったなら?ということを考えているのか、あるいは宇宙にある重力そのもの、つまりは時空構造そのものが、もしも大きかったり、小さかったりしたら?という疑問なのか定かではありませんね。

もしも重力が今より大きかったら、生命どころか電子が原子核に落下してしまい、物質が出来ません。重力が小さい場合でも同じことになるのでは?と私は考えますが。
http://homepage3.nifty.com/iromono/hardsf/bhinlab.html

↑たとえば、このページをご覧ください。重力について理解が深まると思います。


嘘つきを誠実とか人格者と言うか?  投稿者:JA50 投稿日: 2003年02月25日 9時08分

その嘘を根拠に他者を説得するというようは、卑劣というもんだろう。
それも、その相手が望まない妊娠をした、どうしようと不安にかられているような人たちだとしたらなおさらだ。
そういう嘘つきは、誠実でもないし人格者でもない。


検証は可能なのか?  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年02月25日 9時00分

To 聖書信仰者さん

>統計は誰が集計するかによって、またサンプルの抽出方法によっても変わってしまうのです。
>嘘とは違います。
>『小さな鼓動のメッセージ』
>http://www.wlpm.or.jp/forest/2311.htm
>辻岡健象牧師の本にはこの数字がでていました。

 だからこそ、統計処理をする前の生データ(他の人が検証することが可能な資料)が重要視されると思いますが、この本には生データや出展が明記されているのでしょうか?

>辻岡先生は誠実な牧師であり、人格者、優れたクリスチャンとして尊敬に値する人物です。

 南京事件が無かった、と主張する人物の統計結果では、南京での死者は少なくなる傾向があり、南京事件があった、と主張する人物の統計結果では、死者は多くなる傾向があります。
 おそらく、両者とも自分の主張に対して誠実に仕事を行っているかとはおもいますが。

 脱線しますが、とある漫画で、「戦場の空に散った数十万の少年たち」と書いて失笑を買った作家さんもおみえでしたが。
# 日本の航空兵の戦死者の数は十万に満たない


理由は...  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 8時54分

To PDXさん
>「人間原理」という言葉は、そういう響きを持っていますが、ここでいう「人間」は「知的
生命体による観測」という意味合いだと思います。

ということでしたので、「観測」に関する話だと思ったのでした。部分に拘泥してはよくない
ということですね...。


牽強付会という気が  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年02月25日 8時51分

To 聖書信仰者さん

>ちょっとおもしろい話をさいごに。
>「東風が地の上で散り広がる道はどこか。」旧約聖書ヨブ38:24 で、気流の存在を
>研究したのがきっかけでジェット気流が発見されたのです。」
>(ある神学生)

 最初に発見されたジェット気流は偏西風、つまり西風なのですが……。

> ジェット気流にしてから単純な話ではありません.本書によれば,ジェット気流は
>日本本土を空襲しようとした米軍爆撃機が発見し,戦争直後にアメリカの手によって
>詳細な研究がされて有名になったものですが,すでに大正15年に日本の気象学者が
>日本上空の強い偏西風を発見していました.

http://www02.so-net.ne.jp/~tornado/books/fusen.html からの引用

「研究のきっかけとなったのは聖書なのだ」という主張なのかもしれませんが、ある事件や発見について、なんでもかんでも聖書に由来する、とこじつけているように思えます。
 川尻徹氏あたりのノストラダムス解釈のように。
 それは却って聖書の権威を傷つける行為だと思うのですが……。


???  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年02月25日 8時42分

To おずおずさん

 なぜ「強い宇宙原理」についての質問を私にされるのかよくわかりません。
 私は以前、多くの科学者は、「強い宇宙原理」に対しては否定的で、「弱い宇宙原理」に対しては「それくらいのことはあるだろう」という認識だろう、という意味の事を書きました。
 私自身も「強い宇宙原理」を肯定なんてしていませんし。
 横槍を入れてからの私の発言も、「弱い宇宙原理」に終始しているつもりだったのですが、おずおずさんは「強い宇宙原理」の話をしていたのですか?


...。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 8時17分

消去ボタンがほしい...。

イギリスの王立植物園の温室内(に−>で)は...


聖書信仰者様へ  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 8時15分

>欧米人も日本人も三段論法が通じます。この教授が書いた例として、
綿花は寒いところでは栽培できない。イギリスは寒い、イギリスで綿花は栽培できますか?
と聞かれた場合 欧米人なら子供であってもイギリスでは綿花栽培ができないと答えるのに、
第三世界の人は自分が見なければわからない、などと答えるとのことです。

兵器査察を命じておきながら「査察の如何にかかわらず侵略する!」という欧米人がいます。
イギリスの王立植物園の温室内には綿花の栽培に失敗し続けているのでしょうか?


昨夜は失礼しました。  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年02月25日 7時58分

うだうださんへ
計算ミスをしでかしがちな人が、似た人に検算を勧めるのは親切以外の何ものでもないと
思います。私も気をつけますけど、これからもアドバイスしてください。m(__)m

大文字ナンさんへ
昨夜は失礼しました。
ただ、自分では混同しているつもりはなくて、弱い人間原理については大文字ナンさんに
質問し、強い人間原理についてはPDX.さんに質問しているつもりだったのです。

で、弱い人間原理(大文字ナンさんへ)、についての質問は、
「我々が存在し得る、ということは、この宇宙は(観測される限りにおいて)我々の存在
〈発生)を許す構造になっているのだろう。」

単純化すれば、「人間がこの宇宙に存在しているのは、この宇宙が、人間が存在出来るように
出来ているからである(あろう)。」
という命題が、トートロジーであるのか、あるいは、観察や実験により判定が出来る、科学的
仮説であるのか、ということですし、

強い人間原理(PDX.さんへ)、についての質問は、
「宇宙は、認識するもの(知的生命体)によって、その存在が規定されるのか。つまり、認識
されることのない宇宙は「存在出来ない」のか、単に「存在しているかどうか分からない」だ
けなのか。」
ということなのです。

言葉足らずで申し訳ありませんでした。で、上記表現でもまだ、言葉足らずでしょうか?
論理的でない質問は答えられないと思いますが、自分ではこの質問は創造論者の質問よりは
論理的だと思っています...。


ちなみに、宇宙の緒定数について常識的に進化論を適用するなら、「この地球の、例えば重
力定数から導かれる緒結論(自分の体重とか)に適応できない動物は死に絶える。つまり例
えば、「この宇宙のgに適応した生物」のみが繁栄出来る。」
つまり、我々は、「この宇宙」に存在できるように、「我々のことなんか気にとめてくれな
い、この宇宙」の緒定数に、「しかたなくこちらから歩み寄って(自分を適応させて)」、
進化してきたのではないでしょうか。

この場合、「この宇宙のgに適応出来なかったために絶滅した生物」の化石が見つかれば、
「非人間原理」はトートロジーで無いことの証明となる..。また、gが別の定数であった
なら現存する動物の足がどの程度太くなっていたか、を、遠心分離器に入れた動物の変化で、
「別の宇宙に行かなくても」推論できる。(人間原理の場合、宇宙が生物に合わせるわけだ
から、この実験は意味がない。)
ちなみに、現実の話、とりあえず我々の足はこの地球のgに耐えられる。知的かどうかはと
もかく..。
つまり、

宇宙は、塵でしかない我々の身体に合わせてわざわざ緒元を設定してはくれないけれど、
我々はとりあえず生き物だから、相手(宇宙)に合わせられる..。
そりゃ、gが今の半分だったらボクの体重は40キロだけど、無い物ねだりをしたって宇
宙が聞いてくれるわけがない。

...と考えるのは、知らず知らずのうちに、議論を単純化する過程でねじ曲げてそれに
反論する、という、創造論者と同じミスに陥っているのかなあ...?


おずおずさんへ2  投稿者:うだうだ 投稿日: 2003年02月25日 7時11分

昨晩ちょっと寝られませんでした。僕の普段の行動からおずおずさんに、何か言う
資格があるのかと考え込んでしまったからです。

量子力学に関して実在の問題ですが、以前僕も同じような質問をした事があります。

http://bbs9.otd.co.jp/915865/bbs_plain?base=2550&range=1

こちらにも質問して答えて頂きました。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qa_a57.htm#q305


僕はあまりに哲学的な質問はここでします。既知かもしれませんが、科学系の
哲学に関して豊富な知識を持った管理人さんがいらっしゃいます。(NATROMさんも
優秀ではありますが、哲学すぎる話はこの掲示板に向かない為、NATROMさんの
爪は普段はここでは隠されているのでしょう)

http://www-miyakelab.mp.es.osaka-u.ac.jp/morita/philosophy/philindex.html


いい加減にしてくれ  投稿者:谷庵 投稿日: 2003年02月25日 6時08分

青野和明君、ここは布教の場じゃない。
頼むからどこかに行ってくれ。


ギリシャ思考。統計。  投稿者:聖書信仰者 投稿日: 2003年02月25日 3時54分

>オレって、ギリシャ思考とやらで物事を考えていたんか?三代遡っても、ギリシャなんぞ行ったことないがな。
> 具体的と抽象的についても、本当かいなというのが正直な感想です。ギリシャ語って他言語に比べて抽象名詞が少ないんですか?

もと宣教師のアメリカ人教授が第三世界の人々には三段論法が通じないと書いています。(出典を探したが今見つからない。)
欧米人も日本人も三段論法が通じます。この教授が書いた例として、
綿花は寒いところでは栽培できない。イギリスは寒い、イギリスで綿花は栽培できますか?
と聞かれた場合 欧米人なら子供であってもイギリスでは綿花栽培ができないと答えるのに、
第三世界の人は自分が見なければわからない、などと答えるとのことです。

ユダヤの言葉は「時制」がなく、完了、未完了、という表現で、将来必ず起こることが完了形だったり、
以前その時点で確定していなかったら未完了だったりするのです。そういう言語を日本人が理解するのは非常に困難です。
だから間違い、と言ってはいけないのです。それぞれの文化だからです。

> 何を言い出すのかとお思いですか?異星人?エイリアンか?気持ちが悪い。 そうですかね。信じてませんか?最近騒がれている霊は?写真に
写っ
ていますよね。信じますか?人の感覚はいいかげんなもので、多数派に支配されやすいです。少し角度を変えてものを見ましょう。 地球人はやが
て他の星に移り住む事を真剣に研究しています。そこには私たちの創造した生物もいる事でしょう。 

これもまったく聖書を読んだことのない証拠ではないでしょうか。
聖書の神はこのようか方ではありません。
創造主なる三位一体の神は全能、永遠、不変、絶対、完全、無限、不滅の方であられます。
神が創られるまでは時間も空間も存在しなかった。(アウグスティヌス)
永遠の昔にはただ三位一体の神のみがおられたのです。


・・・・・  
「神様は、旧約聖書でそのような人間の意図を見抜いてます。
だから、終わりの日には宇宙空間からも引きずりおろす、と書いてあるよ。
聖書のみことばは本人たちに探させたらいい。」 
ちょっとおもしろい話をさいごに。
「東風が地の上で散り広がる道はどこか。」旧約聖書ヨブ38:24 で、気流の存在を研究したのがきっかけでジェット気流が発見されたのです。」
(ある神学生)
・・・・・・・

統計についてですが土曜の夜にNHKで引きこもりの特集をしていました。
NHKは50万人から100万人の引きこもり人口があると言っていました。
ゴーグルで調べると160万と書いてありました。
統計は誰が集計するかによって、またサンプルの抽出方法によっても変わってしまうのです。
嘘とは違います。
『小さな鼓動のメッセージ』
http://www.wlpm.or.jp/forest/2311.htm
辻岡健象牧師の本にはこの数字がでていました。
闇から闇へと葬られる中絶というものの性質上、正確な統計結果はなかなか出にくいものであると思います。
辻岡先生は誠実な牧師であり、人格者、優れたクリスチャンとして尊敬に値する人物です。


続き。聖書  投稿者:青野和明 投稿日: 2003年02月25日 3時47分

>
> > 神学者カール・バルトは誤っている聖書と 誤り無い神のことばを区別し、両者の一致の契機の説明にキルケゴー
> > ルの哲学を採用した。一個人の神との出会いという瞬間においてのみ、断片的に神のことばになる、とします。
>
> という立場ならば、聖書にある言葉が如何なものであろうとも、それを正しいと認識できるということは理解でき
> ますが、そうでない限り、原典には誤りが無くとも、その訳および理解に於いて誤謬を含みえると思うのですが・・・
>
> > 聖書は、自然科学や歴史について教える書物ではなく、神について人間が知るべきこと、私たち人間に対して神
> > が求められることを教える書物です。
>
> と言うのは人間側の傲慢と勝手だと思うのですが

人間は罪びとで傲慢です。主イエス様は私たちをその罪から救うために来てくださいました。聖書はイエス様の十字架の愛が中心です。

聖書を読んだことがないのに批判するのは、悪意の証拠と言うこともできます。
私たちは当然の事実のように進化論を学校で習っています。
聖書への反感を持って読む人もいるのでしょうか?すべての人が先入観無く聖書を読んでくださる事を望みます。

さて聖書は何と言っているか?
神は特に旧約聖書の頃から、神を愛し、隣人を愛せよ、とメッセージしているのです。
今のヒューマニズムはそれを温床にして生まれたのです。
私たちはみな聖書の恩恵にあずかっています。
『奇妙な論理』もイエス様が当時 疎外され軽蔑されていたサマリヤ人への愛を持っておられることを認めています。
ニグロをサマリヤ人におきかえてみたらどうか、と。弱い者、小さい者、貧しい者、力無い者への愛は聖書に繰り返し述べられています。
中絶を反対するのも小さい者、弱い者を愛する事を聖書が命じているからです。
淨土真宗も中国でネストリウス派のキリスト教の影響を受けていると複数の学者が言っております。
歎異抄とパウロの信仰義認との類似性はよく指摘されています。
ちなみに、すべての宗教に共通の真理があるのではないのです。

> 科学が取り扱う対象となりうる事実ならば、科学の立場にたった検証が可能なはずです。この”科学が取り扱う対象”
> について、どのようなものがあるのかをお教えいただけないでしょうか?
> また、私は”聖書は歴史的事実を土台として”いることには同意いたします。ただし、土台としているだけで、それを
> 道徳的な説話とするために改変が加えられているという批判にどのように”科学的に”答えていくのでしょうか?

> では、宗教的真理(と言われているもの)どうしで矛盾するものが有る場合にはどうなるのでしょうか?私は葬式仏教徒
> (浄土真宗)ですが、この宗派では私の理解する限り、最後の審判などの存在は認めていませんし、世界規模の洪水があ
> ったことも言及していません。

聖書に書いてあることは「道徳的説話」ではなく、福音であり、
道徳は信仰の成熟にともないでてくる歩みであるのです。神学用語では聖化(ホーリネス)と言われます。
まず恵みにより、信仰によって救われ、救われた人は良い行いができるように主によって変えられていきます。
人は行いによって救われるのではなくイエス・キリストを信じる信仰によって救われますが、主の恵みは良い行いをも与えてくださいます。

「宗教的真理」というのは、キリスト教だけに関することです。
真理そのものであられる方はイエス・キリストです。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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