進化が起こった、つまり祖先の生物が長い時間をかけてさまざまな生物に変化してきたことを認めない人たちがいることは、メインのページで示したとおりです。ここでは、進化が起こったかどうかではなく、進化がどのように起こったのかという進化のメカニズムに関する、ある異説を検討することにします。しばしば、中原英臣・佐川峻によって提唱された「ウイルス進化論(ウイルス進化説)」という言葉を聞きます。中原・佐川によれば、ウイルスは、生物が進化するための「形態」であり、種の壁を超えて遺伝子を運び、急速な進化をもたらすのだそうです。
ウイルス進化論は「ダーウィン進化論に代わって期待されている学説だ」とか、「もはや定説となっている」とか、言われることすらあるようですが、進化生物学の専門家によって中原・佐川のウイルス進化論(以下単にウイルス進化論とする)が言及されることはほとんどありません。特に、海外の文献で言及されているところを私は見たことがありません。専門家には相手にされていないのです。しかしながら、中原・佐川は進化論に関する啓蒙書を多く書いているがゆえに、進化生物学に詳しくない方々が誤解していることもあるようです。ウイルス進化論にはさまざまな難点があります。中原・佐川の主張を引用し、その問題点を指摘していきましょう。
目次
「ダーウィン進化論で説明できないことが、ウイルス進化論では説明可能である」と主張するためには、まず、ダーウィンの主張を理解しておく必要があります。しかしながら、たとえば以下に指摘するように、中原・佐川はダーウィンの主張を十分に理解していないように見えます。
100年前の議論です。このような複雑な変化が同時に起こる必要がないことを、ダーウィン自身からして目の例を挙げて説明したことは有名です(「種の起源」第6章)。さまざまな種が、段階的な目の構造を持つことを示したのち、ダーウィンはこう書いています。
翼の進化も同様のことが言えます。最初は飛び上がることができなくても、木から木へ滑空する際に(あるいは単に落下の衝撃を少しでも和らげることで)不完全な翼でも生存に有利だったことは十分に考えられます。あるいは、羽毛はもともとは体温保持のためのものだったのかもしれません。いずれにしろ、不完全な翼をもった鳥の祖先が滑空するようになれば、ほんのわずかでもうまく滑空することに寄与する遺伝的形質(軽い骨であるとか脳の変化であるとか)は、自然選択によって累積的に進化します。不完全な翼でも翼がないよりはましであるのなら、すべての変化が同時に起こる必要はありません。
跳躍的とは大きな変化を指します。たとえば、「骨の中空化、羽毛の発生、それを動かす脳の変化」が同時に起こったとしたら、それは跳躍的な変化です。中原・佐川のいうように、このような変化が偶然起こる確率はきわめて小さくほとんどゼロです。ゆえにダーウィンは、こうした跳躍的な変化ではなく、小さな変化が累積することによって、連続的に変化してきたと考えたのです。しかし、中原・佐川は翼の進化はそれでは説明できないと主張しています。ウイルス進化論ではどのように説明しているのでしょうか?
羽根がはえる病気を引き起こすウイルスが存在するとして、そのウイルスは同時に、骨の中空化、羽毛の発生、脳の変化をもたらすことが必要ですね。でないと、中原・佐川の主張によれば、そんな病気にかかった種は絶滅するはずです。そんな都合のよいウイルスが生じる確率はきわめて低そうです。爬虫類を鳥に進化させるような跳躍的な変化をもたらすウイルスはどうやって生じたのでしょう。中原・佐川は説明していません。むろん、軽微な変化をもたらすウイルス(「ほんのちょっとだけ骨を軽くする変化をもたらすウイルス」)はもしかしたらあるかもしれませんが、それは、ウイルス進化論の利点(と中原・佐川が思っているもの)をもたらしません。
中原・佐川は、適応的な形態について、まったく何の説明もしていません。爬虫類から鳥への進化がウイルスによるものだったとして、いったいなぜ、あの見事な翼が生じたのでしょうか。そのことこそ、真に説明が必要なところなのに。「突然、羽根がはえる病気にかかったから仕方なく飛び出した」とか「種は変るべきときがくれば変わる」とかだけ言って何の説明をしないよりも、なんらかの知性が関与したとする主張(創造論およびインテリジェント・デザイナー説)のほうがまだ正直であるように私は思います。ダーウィンの時代にも跳躍的な変化を仮定した学説を唱える人がいて、ダーウィンが以下のような反論をしています。
「内在する能力」を「ウイルス」に代えればそのまんまウイルス進化論への反論に使えそうですね。この問題についてより詳しく知りたい読者は、ブラインド・ウォッチメイカー、ドーキンス著の第4章および第9章を参照してください。
中原・佐川はウイルスによって遺伝子の水平移動が行われると主張します。遺伝子がときには種を超えて水平移動することがあるのは事実です。しかし、遺伝子の水平移動自体はダーウィン進化論と矛盾するものではありません。
「ダーウィン進化論では、遺伝子が生殖によって次の世代へ伝わる垂直移動しか考えていない」というのは誤りです*。そう主張するにあたって、中原・佐川はなんら根拠となる文献を提示していません。進化にどれくらい寄与しているかは不明ですが、ダーウィン進化論で遺伝子の水平移動を考えていないわけではありません。特に、遺伝子を淘汰の単位と考えた場合にはそうです。染色体から別の染色体へ、あるいは同種の個体間で、あるいはときには種を越えて、自分のコピーをゲノムに挿入し、さらにそのコピーをばらまくような能力をもったDNAの断片は、まさにその性質ゆえ、数を増やすでしょう。我々のゲノムには、「がらくた」に見える部分がたくさんありますが、その一部はそうしたDNAの断片に由来するものだと考えられており、「利己的DNA」として知られています。遺伝子を淘汰の単位と考えた場合、垂直移動と水平移動には重要な区別はありません。ダーウィン進化論を支持するドーキンスは以下のように書いています。
ダーウィン進化論とウイルス進化論の違いは、遺伝子の水平移動を認めるか否かではありません。どちらも遺伝子の水平移動を認めています。これらの二つの進化論の一番重要な違いは、適応的な変化の由来です。ダーウィン進化論では小さな変異が自然淘汰によって累積して起こったと考え、ウイルス進化論ではウイルスによって跳躍的な変化が起こったと考えます。遺伝子の水平移動の証拠をいくら挙げても、ウイルス進化論の証拠にはなりません。ウイルスによって跳躍的な変化が起こった証拠が必要なのです。
認められてきたのは遺伝子が水平移動しうることであって、ウイルスが進化の道具であるとか、ウイルスによる変化が進化の原動力であるとかいう説が認められてきたわけではありません。人間のゲノムにウイルス由来のものがあるという証拠はありますが、私の知る限り、ウイルス進化論が主張するほどの跳躍的な変化をもたらしたという証拠はありません。
中原・佐川は、熟練した狩人であり高い知能レベルにあるネアンデルタール人が、世界各地でいっせいに消滅した現象は、適応と不適応では説明できないとしています。
まず、ネアンデルタール人が世界各地でいっせいに消滅したというのは誤りです。また、種内の闘争、自然淘汰、適応、絶滅は架空のプロセスであるそうですが、このいずれも実際に観察できます。たとえば、絶滅は珍しい現象ではありません。個体数の少ない大型の動物は、核兵器など使わなくても容易に絶滅します。一方、ウイルスによっていっせいに種が変化したという現象は、一例でも観察されたことがあるのでしょうか。ネアンデルタール人の絶滅を説明するのに、ウイルス感染によっていっせいにヒトに変化したなどという架空のプロセスを持ち出してくる必要はまったくありません。「その謎は、遺伝子を運ぶ存在であるウイルスやプラスミドの働きが解明されたことで解決されました」とありますが、ウイルスやプラスミドの働きが解明されたことでわかったのは、遺伝子が水平移動することもあるということであって、ネアンデルタール人の絶滅との関係は示されていません。
ネアンデルタール人が現代人に進化したというのであれば、現代人のDNAはネアンデルタール人に由来するもののはずです。しかし、少なくともミトコンドリアDNAに関しては、ネアンデルタール人のDNAは現代人に受け継がれていません。中原・佐川の新しい本には、多地域進化説がミトコンドリアDNAを調べることによって否定されたことを述べたのち、以下のように書かれています。
少なくともネアンデルタール人の絶滅については、ウイルス進化論による説明は間違っていたようです。新しい知見によって自説を修正するというのは恥ずかしいことではありませんが、「核兵器を使ってもかくも完全なホロコーストはむずかしい」とか「このような変化は、ウイルスによる遺伝子変化のメカニズムを解明したわれわれのウイルス進化論によってのみ、きわめて明快に説明できる」とか「その謎は、遺伝子を運ぶ存在であるウイルスやプラスミドの働きが解明されたことで解決されました」とか書いておきながら、新しい本にはそのことにまったく触れていないというのはどうなんでしょう。
なぜ人間だけがビタミンCをつくれないのですか?という章で、中原・佐川は以下のように書いていています。
確かに狭い意味でのダーウィン進化論で説明するのは難しそうですが、分子進化の中立説で簡単に説明できるように思われます。分子進化の中立説は、ウイルス進化論とは違って広く受け入れられており、主流の進化論に組み込まれています。ヒトがビタミンCを合成できないのは大きな謎ではありません。中原・佐川のこの本のビタミンCの段落には、中立説による説明はなされていません。もっと無難な説明があるのにも関わらず、あたかも主流の進化論では説明できないかのように誤解させる中原・佐川の書き方は不誠実です。「進化論」を楽しむ本(2001年)では、「人間はビタミンCをつくれなくなるようなウイルス病にかかったのかもしれません」という慎重な書き方をしてますが、以前は
と書いていたところを見ると、ウイルス進化論による説明がまずいものであると、中原・佐川も自覚つつあるのかもしれません。私の調べた限り、ビタミンCを合成する遺伝子の活動を停止させるようなウイルスは発見されていません。一方、ビタミンCを合成する経路でヒトにおいて欠損している遺伝子(GLO:L-グロノ-γ-ラクトン酸化酵素)は同定されています。また、単一の突然変異でこの遺伝子の働きが失われることもわかっています。GLO遺伝子にたった一つの突然変異が起こっただけで遺伝子の機能を失ったモデル動物(ODSラット)が知られています。ヒトの遠い祖先も、GLO遺伝子にたった一つの突然変異が起こったためビタミンCを合成する能力を失い、それから長い年月を経てGLO遺伝子に多くの変異を蓄積したのでしょう。ビタミンC合成能を失ったことを説明するのに、わざわざウイルス感染を持ち出してくる必要はありません。以下に専門家によるビタミンCのなぞの説明を引用します。
中原・佐川が、現代の進化学説を「わかっているようで、実はほとんどわかっていない」ことは示した通りです。進化論に限らず、科学でわかっていないことはたくさんあり、これまで説明が難しかった現象を説明できるようになることは、科学者の大きな喜びです。優れた啓蒙書は、この科学の楽しみ、喜びを伝えてくれます。しかし、著者自身がそれまでの定説を理解していなければ、優れた啓蒙書を書くことはできません。ましてや、新しい学説の提唱などで無理です。
現代の進化学説をよく理解していない著者によって書かれた、進化論に関する安易な啓蒙書が出回っていることは、私にはきわめて残念でなりません。なるほど、中原・佐川による著作はわかりやすく書かれています。著者自身からして難しいことは理解していないので、既存の進化学説で説明できることでも、安易に「ダーウィンの進化論で説明できない」としてしまうからです。理解する楽しみは読者から奪われています。
進化論の楽しさはそんなものではありません。確かに理解するのが困難な部分もあるでしょう。だからこそ、理解したときの楽しみも増すのです。本当は理解していないのにわかったような気にさせてくれるだけの安易な啓蒙書ではなく、本当の意味での優れた啓蒙書が多くの方々に読まれてもらいたいと願います。ドーキンスのブラインド・ウォッチメイカーなどはいかが?あるいは、木村資生の生物進化を考えるも良書です。進化論を楽しみましょう。
*中原・佐川のいう「ダーウィン進化論」は、文脈にもよるが、主に現代の主流な総合的な進化学説を指していると思われる。とくに断りのない限り、本ページでは「ダーウィン進化論」を現代の総合的な進化学説のことを指すものとする。「ダーウィン進化論」という言葉をもっとも狭義にとれば、確かに「ダーウィン進化論」では遺伝子の水平移動は考えていない。遺伝子の存在すら考えていない。メンデルの法則の再発見以前のダーウィンの時代には遺伝子の存在は知られていなかったからだ。重要なのは、ダーウィン進化論のキーポイントは、方向性のない変異、自然選択、微少な変化の累積であって、遺伝子の垂直移動ではないということだ。
鳥類の進化についても同じようなことが言える。鳥の翼は爬虫類の前足が変化したものとされているが、そのためには骨の中空化、羽毛の発生、そして当然のことながら、翼を空気力学的に動かすための脳の変化が同時に起こることが必要である。
これらの高度に関連性のある変化が、果して突然変異だけで起こるかどうか、しかも、それが同時に起こるような確率がどれほどあるのか。いや、それどころか、そのような移行期の前足は足でもなく、翼でもないものだろうし、そんな中間期の動物は、それこそ生存競争に敗れて絶滅してしまう可能性の方が高いだろう。
(山梨医科大学紀要 P15)
だが、この考え方に異論を唱える人たちもいる。目がこのように変化し、完全な器官としてずっと保持されるには、多くの変化が同時に起こったはずであり、それでは自然選択によって変わってきたのだとはいえないというのである。しかし、私が飼育動物の変異について明らかにしてきたように、変化がごく軽微で段階的なものならば、種類の異なる変化が同じ目的の役に立っていることもあるのだ。ウォレス氏が述べているように、「水晶体の焦点距離が短すぎたり、長すぎたりすれば、屈折率を変えたり、光学濃度を変えたりして修正できる。屈折が不規則で、光線が一点に収束しなくても、屈折をもっと規則的になるようにすれば改善できる。だから、目の虹彩の収縮や筋肉の動きはいずれも視力によって必須のものとはいえず、目という器官ができあがる過程で改良を加えたり完成させることができたと考えてよい」のである。
(種の起源 P110)
つまり、進化とは、種が「進化病」というウィルス性の伝染病にかかったと考えればいいのである。キリンの首は、高いところにある木の葉を食べるために長くなったのではなく、長くなる”病気”にかかったため、仕方なく長くなった。爬虫類は、飛びたいから進化して鳥類になったのではなく、突然、羽根がはえる病気にかかったから仕方なく飛びだしたのだ−と。
(山梨医科大学紀要 P17)
生物の古代種が内在する能力によって突然変態して、たとえば翼をもつようになったと考える人は、その種のたくさんの個体が同時に変異したと仮定せざるをえないだろう。構造のそうした突然の変化は、大多数の種に起こった変化とはいちじるしく異なっているはずだ。そのことは否定できまい。さらに、このような突然変化説をとる人は、その生物のほかの部分や周囲の条件に見事に適応した構造が突然生じたのだとも考えざるをえず、そうした複雑で驚くべき共適応について何の説明もできないだろう。そして、この大きな変態が胚にその作用の痕跡をまったく残していないことを認めるしかないだろう。それを認めれば、奇跡の領域に入ってしまい、<科学>の領域に背を向けることになると、私には思えるのである。
(種の起源、P134)
ダーウィン進化論では、遺伝子が生殖によって次の世代へ伝わる垂直移動しか考えていない。ところが、自然界では遺伝子はウイルスという道具を使って個体から個体へと水平に移動する。この遺伝子の水平移動は、時として生物の種を超えて行われることもある。
ウイルスはまさに遺伝子情報を伝えるメディアなのだ。
(ヒトはなぜ人になったか P5)
他の寄生者や共生者は寄主のシステムにもっと緊密に浸透している。その極にあるのはプラスミドその他のDNA断片である。それらは9章でみたように、寄主の染色体の中へ文字どおり自らを挿入している。これ以上緊密な寄生者を想像することはできない。「利己的DNA」そのものもそれ以上に緊密ではないし、「がらくた」であるにせよ「有用」であるにせよ、われわれの遺伝子のどれくらいの数が、挿入されたプラスミドのような起源をもっているのか、われわれはまったくもって知らないのだ。本書の論題からすれば、われわれ「自身の」遺伝子と寄生的ないし共生的な挿入配列の遺伝子との間には重要な区別がないことは当然のように思える。それらが対立しているのか協同しているのかは、それらの歴史的な起源に依るのではなく、それらが現にどのような状況から利益を得る立場にあるかに依っているのだ。
(延長された表現型 P420)
その後、人間の遺伝子のなかにもぐりこむHIV(エイズウイルス)が発見され、さらに遺伝子組み換えが行われるようになると、ウイルス進化説も少しずつ世の中に認められていくことなります。
(「進化論」を楽しむ本 P188)
クロマニヨン人がネアンデルタール人を絶滅に追い込んだ、と考える学者もいる。しかし、核兵器を使ってもかくも完全なホロコーストはむずかしいのではないだろうか。
闘争の結果滅ぼされたのでもなく、環境の変化に適応できなかったのでもないとすれば、ネアンデルタール人の消滅は、どう説明すればいいのだろうか。
われわれがウイルス進化論の立場に立って考える一つの可能な回答は、ネアンデルタール人は絶滅したわけではなく、クロマニヨン人へと変容して行ったとすることである。地球上から消えてしまったのでない以上、代を重ねるうちに全部の個体が自然に新人へと変ってしまったと考えるほかはない。
むろん、このような変化は突然変異でもなければ、適応でもない。なんらかの理由で、ネアンデルタール人はある時期に、いっせいにヒトに変らざるをえなかったのである。
このような変化は、ウイルスによる遺伝子変化のメカニズムを解明したわれわれのウイルス進化論によってのみ、きわめて明快に説明できる。ウイルスによる遺伝子変化が、ヒトの進化をもたらしたとすれば、ヒトの進化を説明するのに種内の闘争、自然淘汰、適応、絶滅などという架空のプロセスを持ち出してくる必要はまったくない。
ネアンデルタール人は、あるウイルスに感染してクロマニヨン人へと進化せざるをえなかったのである。
ヒトはなぜ人になったか P142)
急激で大規模な環境の変化がないのに、どうしてネアンデルタール人は消滅してしまったのでしょうか。その謎は、遺伝子を運ぶ存在であるウイルスやプラスミドの働きが解明されたことで解決されました。
ネアンデルタール人の例でいえば、彼らの間に、あっと言う間にウイルスが感染した結果、ネアンデルタール人の遺伝子に変化が起こり、すべてのネアンデルタール人が短期間でヒトに変化したのです。これが、著者らの提唱したウイルス進化論なのです。
種の急速な進化、新しい種の誕生にともなう古い種の絶滅についての問題は、ダーウィン進化論では説明することができませんでした。環境との相関関係でみる自然選択では、どうしても無理があったのです。
(人間は遺伝子を超えられるか P145)
いまから約十三万年前くらいまでヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスの直接の祖先でなくて、いまから約三万五千年前に絶滅したことがわかったのです。
(「進化論」を楽しむ本 P278)
この人間がビタミンCをつくれないということも、ダーウィン進化論では説明することができない大きな謎のひとつです。地球上のほとんどすべての生物はビタミンCをつくることができます。ところが、人間とごく限られたサルとネズミの仲間だけが、自分の力でビタミンCをつくることができません。
(「進化論」を楽しむ本 P198)
わたしたちの祖先は、あるときビタミンCをつくる遺伝子の働きを抑える遺伝子をもったウイルスに感染したと考えるのです。そうすると、人間がビタミンCをつくれないことを説明できます。人間はビタミンCをつくれなくなるようなウイルス病にかかったのかもしれません。
(「進化論」を楽しむ本 P200)
[ビタミンCを合成する遺伝子の活動を停止させるような]ウイルスはまだ存在していて、現在でもサルとヒトのなかに潜伏したままになっているに違いないと思われる。
(ヒトはなぜ人になったか P209 [ ]内は引用者)
ODSラットにおけるGLO遺伝子の異常は、通常のヒトの遺伝病の場合に見られるような単一の変異に基づく。これに対して、ヒトとモルモットのGLO遺伝子の異常は、多彩な変異が数多く遺伝子中に存在する点が特徴的である。これらの動物の祖先は、進化の過程で突然変異によってGLO欠損を起こしたにもかかわらず、食物からビタミンCを摂取することができるような環境に生息していたため、その変異は生存に有利でも不利でもない中立的なものであったと考えられる。ヒトとモルモットのゲノムに存在するGLO遺伝子は、そのような遺伝子が偶然に種全体の中に固定されたものであろうと考えられ、中立進化説を説明する上で格好な例である。
(錦見盛光、アスコルビン酸生合成の研究における新展開、生化学 68:P377-380, 1996)
いろいろある科学の理論のなかでも、進化論ほどわかっているようで、実はほとんどわかっていないものはありません。もっとも、その分、だれもが参加できるという意味で、進化論ほど楽しいものはありません。
(「進化論」を楽しむ本 P292)
参考文献
中原英臣,佐川峻 2001. 「進化論」を楽しむ本 PHP文庫
中原英臣,佐川峻 1987. ヒトはなぜ人になったか ダーウィン理論を超えたウイルス進化論 経済界・リュウブックス(タツの本)
中原英臣,佐川峻 1998. 人間は遺伝子を超えられるか DNAと脳そして生き方 素朴社
錦見盛光 1996. アスコルビン酸生合成の研究における新展開 生化学 68:P377-380
中原英臣,佐川峻,富家孝 1986. ウィルス進化説について−ウィルスによる遺伝子の水平移動− 山梨医科大学紀要 第3巻 P14-18 URL:http://www.yamanashi-med.ac.jp/~tosho/mokuji/kiyou/kiyou3/kiyou3--014to018.html
リチャード・ドーキンス 1993. ブラインド・ウォッチメイカー 早川書房
チャールズ・ダーウィン著 リチャード・リーキー編 1997.新版図説 種の起源 東京書籍
木村資生 1988.生物進化を考える 岩波新書
[2004年6月26日追加] タックスさんより紹介の文献です。Networks in Evolutionary Biology誌のNo. 4, 1987及びNo. 5, 1987に掲載の論文(PDFファイル)です。
謝辞
このページの作成にあたって助言してくださった方々にお礼申し上げます。
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