創造「科学」信奉者は、「進化は歴史であり、科学的検証が不可能であるから科学ではない」と言います。よく使われるフレーズは「進化は実験室で再現できない」です。実験室で再現できるもののみを科学としてしまうと、進化論のみならず、天文学、地質学、地球惑星科学は科学ではなくなってしまいます。創造論者の「進化が起こるのを見たものはいない。よって進化論は科学ではない」という論理は、「地球が太陽の周りを回っているのを見たものはいない。よって地動説は科学ではない」という論理と同義です。
もちろん、地動説は科学ですし、進化論も科学です。地動説は観測された惑星の動きをより簡単に説明でき、日食や月食を正確に予測し、ニュートン力学という理論的な裏づけがあります。進化論も、現世生物の構造や地理的分布、あるいは化石の系列をうまく説明でき、種間のDNA配列の一致率を予測し、遺伝学による理論的な裏づけがあります。
創造論者は歴史を科学が扱いうることを理解できていません。ここではサンゴ礁のでき方について述べますが、地球の歴史が6000年であるという創造論者の主張を論破するのが主たる目的ではなく、どのように科学が歴史を扱いうるかを示すことこそが真の目的であることに読者の方々は留意して下さい。
大きくわけてサンゴ礁には、裾礁(海岸線にそって形成されたもの)、堡礁(陸地とサンゴ礁の間が海で隔てられているもの)、環礁(真ん中に陸地が無くなってしまったもの)の3つのタイプが存在します。光の届かない深さではサンゴは生育できないので、特に環礁についてはなんらかの説明が必要です。
「沈降説」では、次のように説明されます。まず 火山島の周囲にサンゴ礁が成長したのものが裾礁です。もし火山島が徐々に地殻変動で沈んでいけば、サンゴは上へ上へと成長していきます。火山島のてっぺんだけが海上に出ている状態が堡礁で、その火山島までも海中に沈み、サンゴ礁だけが残ったのが環礁です。島が沈降してくにつれ、裾礁→堡礁→環礁と変化するのです。
歴史を再現するために、現在観測できるさまざまな段階を利用するのは一般的な方法です。沈降説の場合は、裾礁、堡礁、環礁を単一の歴史的過程の段階であると説明できます。天文学では、恒星の種類を若い星から古い星までさまざまな段階の恒星があることで説明します。進化論は、種分化が始まったばかりの種、種分化が進行中の種、種分化が終わりつつある種が存在することを予測し、実際に存在します。
科学が科学であるためには検証可能でなければなりません。サンゴの形成に関して、「沈降説」は検証可能な予測をします。「沈降説」が正しければ、環礁を深く掘っていけば火成岩にぶちあたるはずです。現在では多くの研究が知られていますが、その中でもっともよく知られているのがラッド(H.S.Ladd)によるエニウェトク環礁で1952年に行われたボーリング調査です。
一九五二年、エニウェトク環礁での二本のボーリングは、分厚い石灰岩を貫いて、初めて基盤の玄武岩に達した。玄武岩までの深さは、一四〇五メートルと一二六七メートルとであった。(中略)分厚い石灰岩は、ボーリングコアに含まれる化石の分析によって、第三始新世から現在に至るまでの長い間のサンゴ礁が積み重なったものであることが判明した。この事実は、まさに基盤の沈降を考えることなしには説明できない。(高橋 1988 P69)
仮にサンゴがずっと成長に最適な状態に置かれていたとしても、6000年で1200mも成長することは不可能です。1200mを超える石灰岩という証拠に直面しても、創造論者は「地球の年齢は6000年」という信念を変えません。なぜなら、彼らにとって地球の年齢とは証拠から導かれるものではなく、聖書によって定められ変更してはならないものだからです。彼ら自身の態度が、創造論は科学ではなくドグマ(宗教上の教義)に過ぎないことを証明しています。
サンゴの形成に関して、沈降説が予測を行い検証された例を示しました。ボーリング調査の他にも、火山島の沈降がプレートテクトニクスの予測と一致することも沈降説の正しさを支持しています。さてここで、「サンゴ礁ができるのを見た人はいないし、実験室で再現もできない。沈降説は科学ではない」と誰かが言いはじめたとして、その主張は正しいでしょうか?科学を実験室の中だけに閉じ込めることはできません。実験室で再現できるもののみを科学とするのは間違いです。沈降説と同じく、進化論も検証可能な予測をします。例えば、ヒトの祖先の化石について、さまざまな種のDNAの配列について、種分化しつつある種について。
沈降説を提唱した人物はチャールズ・ダーウィンです。古生物学者のグールドは、そのエッセイの中で、ダーウィンの功績は自然選択という進化のメカニズムを提唱したことの他に、歴史を復元しようとする科学のために有効な方法を確立したことにあると主張しています。
アイデアと方法には、理性そのものがもつ不滅性のすべてが備わっている。ダーウィンが没してからもはや百年がたつが、時間について考えようとするときには、いつでも彼はわれわれとともにある。(グールド 1994 P310)