不完全な引用とは、引用元から文脈を無視して一部分だけを引用することで、オリジナルの文献とは違った結論を引き出すことです。例えば、不完全な引用によって、進化のメカニズムについて論争があるのに過ぎないのに、あたかも進化が起こったかどうかについて論争があるかのように見せかけることができます。不完全な引用は、引用者がオリジナルの文献を理解していないためになされることもあれば、読者をだますために意図的になされることもあるでしょう。どちらにしろ、健全な議論にはふさわしくありません。
創造論者はしばしば不完全な引用を行いますが、ここでは特に、ものみの塔聖書冊子協会 1985.生命-どのように存在するようになったか 進化か、それとも創造か、について述べます。この本は多くの科学者の言葉を引用して、あたかも進化が起こったことを信じていない科学者がたくさんいるようにみせかけています。私が引用元にあたって調べたのはその極一部ですが、その引用の仕方を見れば、この本における引用が信頼できないことがわかるでしょう。少なくとも、引用元を確認するまでは、この本の引用を信じないほうがよさそうです。
ダーウィン自身も自然選択による進化がばかげたものと認めている証拠として、エホバの証人の本に限らず、反ダーウィニストに引用される有名な一節があります。種の起源のその前後を読みさえすれば、それが不完全な引用であることは明らかです。まず創造論者を引用しましょう。
進化論の難問の一つは、見たり、聞いたり、考えたりすることがなされるために、それらの器官のすべての部分がいっせいに作動しなければならない、という点です。個々の部分すべてが完成するまで、そのような器官は役立たないでしょう。それで、疑問が生じます。進化の推進力と考えられる、方向づけのない偶然の要素が、それらの部分すべてをそのふさわしい時に結合させ、それによって、このような精巧な仕組みが作り出されたのでしょうか。ダーウィンもこれが難問であることを認めていました。例えば彼はこう書いています。「目が[進化]によって形成されたとするのは、率直に告白すれば、極めてばかげた考えに思える」。以来1世紀以上がたちました。その難問は解決されましたか。
(ものみの塔聖書冊子協会 1985 P18)
種の起源から該当個所を引用しましょう。
完璧で複雑な器官といえば、たとえば目がそうだ。さまざまな距離に焦点を合わせ、さまざまな量の光を受容し、光の球面収差や色収差を補正するといった比類なき機能をそなえた目が、自然選択によってつくられたのだろうと考えるのは、率直にいって、このうえなくばかげていると思える。だが、太陽が動いているのではなく、地球のほうが太陽の周囲をまわっているのだと最初にいわれたとき、われわれの常識はその説を誤りだと断じたものだ。(ダーウィン 新版図説 種の起源 1997 P108)
そのあとダーウィンは単純な目から複雑な目にいたるさまざまな段階の目を例にあげ、それぞれの段階がその目の持ち主にとって有用であると示しています。また、ウォレスの言葉を引用して、目に関するすべての変化が同時に起こる必要がないことも示しました。ダーウィンの主張は、複雑な目が自然選択によってつくられたという考えがばかげているように見えるのは、かつて地動説がそう思われていたのと同じく、見かけ上のものに過ぎないということです。
ダーウィンが目を難問と認めていたのは事実ですが、1世紀を待つまでもなく、ダーウィン自身がその難問に対する説明を試みています。創造論者の主張は、1世紀前から進歩していないようです。エホバの証人の本があげた、複雑な器官はすべての部分がいっせいに働かないといけないという自然選択説に対する疑問は、とっくにダーウィン自身によって解答が与えられています。その部分はなぜ引用しないのでしょうか。
1世紀前にとっくに反論された疑問をあげ、さらにその進化論者の反論には言及せず、その代わりに文脈を無視した引用を行い、あたかもダーウィン自身が自然選択による進化をばかげたものとみなしているかのようにみせかける手法は公正なものではありません。
動物行動学者のドーキンスは著書「利己的な遺伝子」(エホバの証人の本では、ひとりよがりの遺伝子と訳されている)の中で、生命の起源についてふれました。ドーキンスの偶然に自己を複製する分子が生じ、細胞に進化したという主張に対して、エホバの証人の本は、
この時点で、「本書[NATROM注:利己的な遺伝子]はおおむね空想科学小説を読むような気持ちで読むべきものである」という、その本の前書きにあるドーキンス自身の注釈の意味を理解しはじめる読者もいるかもしれません。(ものみの塔聖書冊子協会 1985 P39)
と述べました。確かに前書きでドーキンスはSFのように読んでほしいと書いてありますが、ものみの塔の引用者はその次の数行を見落としたのでしょう。「利己的な遺伝子」から引用してみましょう。
この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。(ドーキンス 1991 P4)
ここで問題としているのは、引用が適切かどうかです。ドーキンスの主張がSFに過ぎないと言いたいのであれば、ドーキンス自身の言葉を引用すべきではありません。
フランシス・クリックは、DNAの二重らせん構造を発見した、今日もっとも有名な科学者のうちの一人です。クリックは、生命の起源に関してあるユニークな説を提唱しました。地球上の生命の起源は、他の天体で高度に発達した生物が意図的に送り込んだもので、送り込まれたのは細菌のような単純な生物であり、地球上の全生物はその子孫だというのです。この説は意図的パンスペルミア(汎宇宙胞子)説と呼ばれています。意図的パンスペルミア説は現在の技術では検証が困難であるので、あまり議論の対象とはなってはいませんが、生命の起源を説明する説の一つとして認められています。意図的パンスペルミア説は、あらゆる進化の証拠と矛盾しません。
エホバの証人の本では、生命の起源に関する、進化論者たちの過去と現在の見解の一つとして、クリックの意図的パンスペルミア説を主張する本「生命 この宇宙なるもの」から、次のように引用しています。
「我々が現在知りうるかぎりの知識を備えた正直な人であれば、生命の起源は、現時点では、ある意味でほとんど奇跡のように思える、ということをただ認めざるをえないであろう。」-生物学者フランシス・クリック-(ものみの塔聖書冊子協会 1985 P52)
該当個所をクリックの本からもうちょっと長く引用してみましょう。
正直のところ、現在の知識を総動員して言えることは、生命誕生のために満たされるべき条件は非常に多いので、現時点では生命の起源はまず奇跡としか思えない、ということだ。しかしこれを、通常の科学反応が理屈通りの順序で起こっただけでは地球上に生命は発生できなかったと言えるだけの理由があるという意味に受けとってはいけない。(クリック 1989 P88)
要するに、クリックは生命の起源は奇跡であると言いたい訳ではなく、現時点ではよくわかっていないという、すべての科学者が同意することを述べているにすぎません。