進化論と創造論についての掲示板ログ293

2005年01月03日〜2005年01月06日
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ペニシリンが神経保護  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年01月06日18時17分

マウスでの実験ですが、ペニシリン系抗生剤に神経保護作用があるようです。
ALSにも効果があるようなので、ホーキング博士には朗報かな。

http://dp54020279.lolipop.jp/res-hypoxia/archives/2005/01/post_232.html


あれ?  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月06日18時04分

救キリスト狂信者さん。

>2.もう既に似たようなこと成し遂げている人がいるから。J氏のことです。

って、何のことですか?


会計士の卵さんへ  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時59分

私も超へ理屈人間なので、会計士の卵さんにさえもたてついてしまいます。
私も会計士の卵さんに全く同意するのですが、世の中には、どうも不思議なことが起こります。それを神のせいにするか、風が吹けば桶屋がもうかる方式にどうも関連があり必然的にそうなるかとかいろいろ考えさせられます。まず私は前者ではありませんけど。
とにかく、本当に超自然または不自然なものも一応関連性をとってみるのも悪いことではないと思いますよ。私らはそんな無駄な時間は費やしたくないですが、そういうことに無駄な時間を費やしている人がいてもいいのではないのでしょうか?ただしそれが少数意見であればいいのですが、その変な考えが大多数を占めてそれが本当に正しいとされてしまうなら話が別ですが。でも意外と多数をしめているのかも。
というのは、私が理学部に居た時は、皆へ理屈好きな人ばかりで幸せだったのですが。
世の中は、”屁理屈をこねるな!”の一言で終わらせてしまう頭の弱い人が実は多いのではないでしょうか?
ですから、ある書物に従って、疑問も持たずただひたすら、遂行するという現象が起こるのでしょうね。


アメリカインディアン考  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時41分

そもそも何故アメリカのキリスト狂信者に頭にきたか。これがきっかけです。
彼らリベレートするのであれば何しても構わないと思っているのです。
現在の戦争もそうです。
私は戦争自体は反対していません。それが人間の宿命なのですから。武器屋もいっそう整理する必要がありますし、破壊は新たなる創造を作り出します。かといって賛成でもありませんけどね。
とにかく、リベレーションの名のもとに何でもあり、インディアンを殺そうが何しようが、構わない考え方が気に入らないのです。そもそもキリスト教は排他的で日本土着の宗教のように包括的でないところに問題があるのです。もっとも日本人そのものは排他的ですけれど。それはまた別の話になりますね。
別にいまさら侵略が悪いとかいっていません。これもまた自然の摂理ですから。それに私自身恩恵をこうむって、広い土地に住んでいるのですし。
とにかくこの自然の摂理こそが進化を垣間見る時でもあるのです。ある種が侵略しそこで交わるという繰り返しから、ずうと長年かけて変化し続けてきたのですから。


あわてんぼうのサンタクロース  投稿者:会計士の卵 投稿日: 2005年01月06日17時30分

救キリスト狂信者さん、ご返事有難うございます。
子供だったら、意外と、そういう「科学的説明」には納得できると僕も思います(その子供がいつも質問して大人を困らせるような「なぜなにぼうや」だったら、なおさらとくに)。

でも相手が「大人」だったら?

大人はそういう答えを「野暮」「へりくつ」だとみなすことが多い、と思います(私の周囲ではそう)。具体的な場面を言いましょう。

私のうちには、今年の新年から、母の希望で、占い師の細木数子のカレンダーがかかげられています。私がちょっとからかって、「生まれた日で人の運命が決まるなら、インドネシアの地震で亡くなった15万の人たちは、同じ生年月日に生まれたの? 同じ水星人だったりしたの?」
とか言います。その後に、「二千年くらい前に『論衡』という本を書いた王充という中国人が、戦争で生き埋めにされた趙の降卒2000人が、同じ生年月日であるはずがない、といって、生年月日による占いを否定してたけど、それと同じ考えで」と、つけたします。

最後の中国人うんぬんはもちろん、母親に「へりくつばっかこねるな!」と言われる前にいそいでつけたす、野暮を承知のウンチクなのですが、わざと古代の中国人を持ち出すことで、野暮な(?)「科学的説明」にならないように、配慮しているわけです。これから、他の人と話すときに、なんかそういううまい言い方がないもんかなー、と探すつもりで、家族との他愛のないおしゃべりの中で、練習しているわけです。

私の例はあまりいい例ではありませんが、ドーキンス流の、身もふたもない、「意地悪な」言い方(モンティ・パイソンにも通じるようなイギリス人的な意地悪ジョーク)を読んだりすると、なんかほかに、日本人的な、「もののいいよう」ってものがあるだろう、と思ってしまうのです。
 だから、あくまで日常生活で言えるようなセリフですよ。


坂本竜馬の続き  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時17分

2000年後に神様になっても私はおどろかないでしょう。
では何故でしょう?
1.もう私は既に死んでいるので驚きようがない。
2.もう既に似たようなこと成し遂げている人がいるから。J氏のことです。
3.私は驚かない人だから。


答えは 2です。


一個体にまで減っても構わない  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時07分

一個体にまで減っても構わない!なんていってませんが。
あくまでも多個体が存在し、それがそれぞれの優性の方向へ進んでいったのでしょう。
あのでかい海に一固体だけ出現したのだと思うのですか?もしそう思うのなら、海を見たことがないのではないのですか?海といっても瀬戸内海ではだめですよ。といっても瀬戸内海だけでも相当な数がいろいろ出現するかと思いますけれど。


サンタはものすごく早いだね  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時01分

サンタはものすごく速いんだね でした。


まずはサンタクロースから  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日17時00分

私の妻は子供たちに夢を与えるためにサンタクロースがいると子供たちに教えていますが、私は彼女の主張を尊重して、子供たちに計算をしてあげます。まずサンタクロースが全ての子供たちの家に行くとしたら、夜中の12時に一時間かかって経度15度づつ北極から南極まで配っていくとします。そこで我が家のでかい地球儀でここは海だから一寸時間稼ぎ出来る。とかここは人口が多いから大変だとか、中国はキリスト教でないからいいか。とかいろいろ検討します。
また、一軒につき1秒かけたとします。それでも3600件しか配れません、だからサンタはものすごく早いだね。とか説明すると、どんな馬鹿な子供でも分かってきます。本当に馬鹿な子供もしくは大人でもわからないかもしれませんが。
とにかく、大人にも質問します。サンタクロースがいるのを信じるか?普通答えは否です。
そこで、どうしてキリストもサンタクロスと同じ用に考えられないのでしょうか?
キリストもサンタに同じように子供に難しいことを行ってもしょうもないので、分かりやすく説明するために祭り上げられたものではないでしょうか。


信仰者との共生はできる?  投稿者:会計士の卵 投稿日: 2005年01月06日16時26分

はじめて投稿します。私は、年末から年始にかけて、ドーキンスの『利己的な遺伝子』と『悪魔に仕える牧師』を読み、また、テレビでよくやってた血液型別性格判断に疑問を持ち、それらについてインターネットで検索しているうちに、この掲示板にたどり着きました。
 
科学や信仰や血液型について、いろいろと考えているうち、質問したくなってきました。

みなさんは、家族や友人が宗教を信仰している場合、あるいは「お前はAB型だけど、いい加減な性格だからB型寄りのAB型だな」とか言われたりした場合、どういうふうに対応していますか?
私は家族でそんな話題になったときは、その場がしらけないように、適当に冗談で返したりしていますが、家族の一人が信仰している宗教(この掲示板で過去話題になったこともある、「幸福の科学」ですが)の矛盾を面と向かってあげつらうのは、やはり気がすすみません。しかし、何か黙っていると欲求不満がたまってしまいます。

ドーキンスみたいに、堂々と娘にサンタクロースがいないことを言って聞かせるような、科学的態度というか、合理主義者のクソ度胸というか、そういうのが私にはありません。


共通祖先という恐ろしい観念  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月06日16時18分

救キリスト狂信者さん、はじめまして。
香ばしいHNですね。

>私の一番気に入らないもしくは恐ろしいことは、ノアの箱舟の観念です。なにしろ一対から今の数の動物に増殖したと考えるのだから、逆にとれば、一対にまで減っても構わないという観念がどうしてもあるのではないかということです。

私の一番気に入らないもしくは恐ろしいことは、共通の祖先からの進化の観念です。なにしろ一個体から今の数の生物に増殖したと考えるのだから、逆にとれば、一個体にまで減っても構わないという観念がどうしてもあるのではないかということです。

まぁ、あなたが個人的に気に入らないと思っている分には、私とかがとやかく言うことでもないんだけどね。私も、個人的にはノアの箱舟の話は好きでないし。


Re:信仰といえるのか?  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月06日16時14分

>あの方の「ロバが喋った」という話は、ビデオに映像と音声とで記録されるような意味で、つまり、比喩や象徴ではなく、写実的な記録として喋ったということでしょう。それは、もはや信仰上の事実(信仰者としての自分にとっては確かな出来事)という話ではありません。

「「ロバが喋った」という話は、ビデオに映像と音声とで記録されるような意味で、つまり、比喩や象徴ではなく、写実的な記録として喋った」と、彼が彼個人の信仰ゆえに、自分自身の目では見ていなくて証拠もなくても、信じているんじゃないんですか?

>現に目に見えるものを信じるというのは、信仰ではないでしょう。その範囲で批判されても、信仰批判とはいえないと考えます。

意味分からないんですけど。
しろうとさんはロバがバラムに向かって喋ったのを実際に自分で見聞きしたから信じているわけではないでしょう?
流木さんもロバがバラムに向かって喋らなかったのを実際に見聞きしたわけではないでしょう?


これで最後にしたい・・・  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月06日15時51分

キンシャチさんへ、こんにちは。質問にお答えします。

(根拠を知りたい 投稿者:キンシャチ  投稿日: 1月 6日(木)09時02分30秒)

>この文章は幼児洗礼ではなく、自らの理性と意思で入信し信仰している、と解釈しますがよろしいですか。

そのとおりです。

>あなたはどういう根拠で「キリストは復活した」と考えていらっしゃいますか。信仰は尊重しますが、循環論法、堂々巡りにならないお返事を期待します。

信仰を神から与えられたからです。キンシャチさんの期待通りの答えにはならないかもしれませんが、こうしか答えようがありません。

あえて言うなら、キリストの復活後の弟子たちの変化です。十字架の時、弟子たちはみんなキリストを裏切って逃げたのです。しかし、復活のキリストに出会った弟子たちは「キリストはよみがえった」と言って、死も恐れず全世界に出ていったのです。ある人たちは、そのために死んでいきました。人は嘘だとわかっていることに命をかけれるでしょうか。ばかばかしいと思うはずです。
ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちを、大胆な宣教者につくりかえたのは何だったのか。ひとつの合理的な説明は、弟子たちは復活のキリストに出会ったということです。

だぶんですが、救いの経験がない方には、循環論法、堂々巡りに見えるのだと思います。
こう書くと、救いの経験って何ですかと聞かれて、また引っ込めなくなりそうなので、もしおわかりでないのなら、私以外のお近くのキリスト者にお聞きください。


>僕は、キリストの復活は、福音書のフィクションか、(もとの出来事があったとしたら)トリックか勘違いではないか、という立場です。

キンシャチさんの立場を私も尊重します。
私だって、生まれた時からキリスト者ではありませんから、ある時期までは、キンシャチさんと同じだったわけです。ふとしたきっかけで聖書を読んだ。そのきっかけがなければ、死ぬまでノンクリスチャンだったでしょう。
ですから、私は、
「キリストの復活は、福音書のフィクションか、(もとの出来事があったとしたら)トリックか勘違いではないか」というその根拠は何ですかなどとは、キンシャチさんをはじめ誰にも聞くつもりはありません。

キンシャチさんが、聖書全体をフィクションとみなしているのか、はっきりはわからないのですが、フィクションなら、キリストは金太郎や桃太郎といっしょで、その辺にほっぽといてもいい存在ではないですか。どうしてそんなにこだわるのですか。否定したいためなら、信仰を尊重してるとは言えませんよ。

流木さんへ、

「違う流れ」という書き方は大雑把すぎました。すみません。
誰かの発言を見れば考えも変ることもあるわけで、それがきちんと反映されていけばいいのでしょうが、しろうとさんのことだけ気になりましたので、余計なお世話かもしれませんが。

これからもご意見、ご批判参考にしますから、お返事なくても無視してると思わないでくださいね。本とに少し休みたいです。
てつおさん、どなたか、私のようではなくちゃんとした文章書ける論客捜してきてください。


どこまでが信仰か?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月06日15時00分

 ちなみに、モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)では「アメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)の主な先祖はイエラエルから来た。彼らは神に背いたので、呪いによって肌が浅黒くなり、おぞましい習慣を持つ人々となった」と唱えています。

 彼らの中には「ネイティヴ・アメリカンの先祖は氷河期にベーリング陸橋を渡ってアジア大陸からやって来た人たちだ。DNAを調べてもそのことは確認済みだ」との指摘に対して、「いいえ、彼らの先祖はイエラエルから来ました。主がDNAも変えてしまわれたのです」と答えるわけです。

 で、最後は「御霊(みたま)が私に真実だと囁くから、この教会(モルモン教会)は真実です」とか証してうっとりするんです。

 ユタ州にあるブリガム・ヤング大学に集うモルモン教会の御用学者たちは、この手の珍説・奇説を唱えているわけですが、これらも「信仰だから批判してはならない」のでしょうか?そうではないはずです。仮にも、学説として唱えられたのであれば、きちんとした学問的な手順を踏んで、その主張の正否・妥当性の有無は検証されるべきものです。批判されるのは当然でしょう。

 「ロバが喋った」という話を写実的な記録であると主張するのであれば、その根拠を明確にすべきです。「主がロバの口を開いた」と聖書に書いてあるといった話は、非キリスト者にとっては意味をなさないでしょう。「信仰上の話ではなく、歴史的な事実なのか」を問いかけている中で「ロバは喋った。笑われても構わない」と述べられている以上は、信仰批判に当たるとのご指摘も正鵠を射ているとは思えません。


全然話が変わりますが坂本竜馬について  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日14時55分

全然話が変わりますが坂本竜馬についても非常に同じような事がいえます。
今日本人の坂本竜馬感ですが、正確に把握している人は何割くらい居るのでしょう。
司馬遼太郎だか誰でも構わないのですが、それがさらに漫画になり、アニメになりすっかり史実と違うものを植えつけられているのでは、ないのでしょか?
剣術の達人という史実を裏づけ出来る資料は本当はあまりないのし、江戸に行ったのも、砲術を習いに行ったとおもわれ、剣術のために行ったという裏づけもなければ、千葉道場の稽古をしたという証文見たものはあっても免許皆伝なんて裏付けもないようです。
しかし多分日本人ほとんどが事実と違ったものしか、事実とされていなく、これから1000年も経てば完全に事実になってしまいかねないし、ましてや2000年の歳月が経てば、完全に神様になっても私はおどろかないでしょう。


超自然現象について  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日14時29分

ロバが喋るとか、人の意思が読めるとか、超自然現象についてですが、人間の知覚なんてごく限られていて、それ以外の物を感知出来る人がいて、その人がそういう超自然現象的なことが出来てもおかしくないと思っています。たとえば脳は電気信号で、体の各所に連絡をとっているのでしょうけれど、それがもれていて外部の人が感知出来るのかもしれませんし、ですから、ある人がロバの考えていることが分かったのかもしれません。
しかし、いずれにしろいわゆる超自然現象というのは、われわれが知らない事を超自然現象というだけで、結局自然現象なのでしょうね。
今の自動車や飛行機を16世紀に持って行けば超自然現象になるのと同じように。


てつおさんへ  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月06日14時21分

確かに原文も読まずに言及したことには、謝ります。
今まで書いたことがなかったですが、私の基本理念は、”その人が良い人であれば、キリスト教だろうがブードゥ教だろうが関係ない”だったのです。
ところが私はアメリカに住んで12年になりますが、ここ最近この善い人であるはずのキリスト教信者は全然善い人ではなく単なる傲慢なあほな人としか目に映らなくなってきたのです。
日本でいるとあくまでも少数派で、善いキリスト教信者を沢山見かけます。しかし、大多数になるとやはり無能の人の出現率が高くなるのか、お金儲けができるせいか、相当目に余るものがあります。
私の一番気に入らないもしくは恐ろしいことは、ノアの箱舟の観念です。なにしろ一対から今の数の動物に増殖したと考えるのだから、逆にとれば、一対にまで減っても構わないという観念がどうしてもあるのではないかということです。
とにかく基本的には、ロバが喋ろうが喋るまいがどうでもよいのです。
実は、”超自然現象について”へ続く


信仰といえるのか?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月06日14時13分

*たまごちゃん (^-^)ノさん(どどんがドンキー♪ q(^-^q) (p^-^)p 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日: 1月 5日(水)10時16分7秒)

 こんにちは。

>本当にそうなの?私は「証拠だ」という主張だとは読まなかったんだけど。

 「神様が口を開いたから、ロバは喋った」とあれば、通常喋らない(喋れない)「ロバが喋った」理由は、「神様が口を開いた」からです。「ロバが喋ったの前に何と書いてありますか。聖書をよく読んで下さい」とあの方が述べたのが、「主がロバの口を開いた」云々の箇所であるとすれば、「ロバが勝手に喋ったのではない。神様がそうできるようになさったのだ」という主張だと読めます。物事の理由として神様を持ち出しているわけです。

 以前、こちらでも紹介されていましたが、

「主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主に向かって言った、『日よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷に安らえ』。民がその敵を撃ち破るまで、日は留まり、月は動かなかった。これはヤシャルの書に記されているではないか。日が天の中空に留まって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。これより先にも、後にも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである」(ヨシュア記10:12−14)

という記述を基にして、「地動説風に解釈すると、このとき地球の自転が止まったことになるが、そんなことがもしあったら地球では大災害が起きていたのではないか。そんな大災害が起きたとは聖書には書かれていないから、地動説はおかしい」という疑問を表明したあるキリスト者さんに対して、その掲示板の管理者さんが「神様がそうされたのなら、災害を防ぎつつ自転を止めることもできます」と答えていました。

 このような立場だと、「Aなら、Bとなるはずだが、Bとはなっていないから、Aではない」といった議論は通用しません。「いいえ、Aです。神様がBとならないようにされたからです」と。こういう解釈を「科学的」と称するから、創造科学は擬似科学なわけです。

 あの方の「ロバが喋った」という話は、ビデオに映像と音声とで記録されるような意味で、つまり、比喩や象徴ではなく、写実的な記録として喋ったということでしょう。それは、もはや信仰上の事実(信仰者としての自分にとっては確かな出来事)という話ではありません。現に目に見えるものを信じるというのは、信仰ではないでしょう。その範囲で批判されても、信仰批判とはいえないと考えます。


違う流れ?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月06日13時24分

*基世さん(こんばんは。 投稿者:基世  投稿日: 1月 5日(水)23時31分38秒)

 こんにちは。

>流木さんのサイト、部分的ですが拝見させていただきました。
その中に、ここでのしろうとさんの発言を掲載してましたが、違う流れの中に組み込んでもいいのでしょうか?

 「違う流れ」というのはよく判りませんが、当方のこちらでの投稿と別の掲示板(「キリスト教否定論入門」というところです。掲示板にはキリスト教否定論者が集まっているわけではありません)での投稿とを並べたものを載せております。時間があれば、きちんと編集するつもりですが、異なる文脈に組み込んでいるつもりはありません。


そろそろROM?  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月06日10時05分

申し訳ない、基世さんの代わりに答えてしまった。

>私は、みなさんのような科学者や研究者ではないので、そろそろROMに戻ります。

困ります。
あなたがいないと、私の文章は長く、退屈なので、だれも質問して来ないようですよ。


(ぱ)さん、キンシャチさん  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月06日10時00分

>つまり、イエスの復活は「歴史的事実」であると。それが「信仰の原点」であると。
「真実はいつもひとつ」というコニャン、じゃなくて江戸川コナンの立場に立てば、過去、歴史的事実としてイエスの復活があったかどうかに関する回答はひとつしかないはずです。
 それを検証するのに、科学とか証拠とかの客観的なツールを使うのが不適当とは思えないし、オッカムの剃刀だって振るってよいと思います。私は。

 立証する、しないは、方法にあるのでなく、方法を用いる人、つまり、あなたが人たることにあるのだとしたら、どうなのでしょう?
 ところで、「論理哲学論考」のウィトゲンシュタインが、こんな事を言っています。

 何が私をもキリストの復活を信じさせようとするのか?そこで私は、いわば思考実験をすることにする。・・・もしキリストが復活しないならば、彼は墓の中で、如何なる人間もそうであるように、朽ち果てる。彼は、死んで腐るのである。この場合には彼は、他の教師たちと同じ一人の教師であり、もはや我々を救うことは出来ない。そして我々は、またもや孤児になり孤独になる。かくして我々は、知恵と思弁で満足しなくてはならないことになる。我々は、ただ夢みることが出来るだけであり、天国からは、言うなれば天井一つで隔てられているのである。しかし、もし私が実際に救われねばならないとすれば、私には、・・・知恵、夢、思弁ではなく、・・・確かさが必要なのである。そしてこの信仰は、私の心、私の魂、が必要とするものについての信仰であり、私の思弁する知性が必要とするものについての信仰ではない。なぜならば、救われねばならないのは、情熱・・・いわば血と肉・・・をもった私の魂であり、私の抽象的な精神ではないのであるから。

これは言葉を換えると、基世さんの言ったことと同じです。
> イエス・キリストが、もし人の子であったなら、せいぜい隣の強盗一人の贖いしかできないのではないでしょうか。まして、存在しなかったら、罪の問題は解決しません。
> ですから、キリストの十字架が、ビデオで撮ったように写実的ではないにせよ、「神の御子が十字架にかかった。そして、三日後に復活した。」聖書の内容一万歩譲っても、これだけは事実として譲れないです。私の信仰の原点ですから。

 そしてさらに、聖書の歴史的物語とは、生活の中で、他の歴史的物語とは全く異なった場所を与えなくてはならない、とも言っています。

 キリスト教は、或る歴史的真理の上に基礎を置いているのでなく、我々に或る(歴史的)物語を与え、そして「さあ、信じよ!」と言うのである。しかしその物語を、歴史的物語を信じるときのような信念を持て信じよ、というのではなく、・・・如何なることがあろうとも信じよ、というのである。そしてこのことは、君には、ただ[君の]人生の帰結としてのみ可能なのである。君はここに或る物語を持っている。・・・君はそれに、それとは別の歴史的物語に対するように、対してはならない。君はそれに、君の生活の中で、[それとは別の歴史的物語とは]全く異なった場所を与えねばならない。・・・このことには、理に反することは何もない!

含蓄のある言葉ではないでしょうか?

>おなじみ佐倉さんのサイトより。
 佐倉哲さんのサイトですが、あそこには、問題と誤答例と同時に、実は正当例も(私があくまで『例』と言っていることに注意してください。)用意されているのですよ。あなたも佐倉哲氏に倣うのであれば、内村鑑三然り、八木誠一然り、これらの人たちに当たってみたら、いかがでしょう。
 しかし、自分の生活、自分の生き死にがかかっている問題について、他人のサイトを用いて代弁させる事自体、ナンセンスだ、と言っても差し支えないですね。
 あなたが明日、死ぬと分かっていたら、腰を据えて、じっくり「科学とか証拠とかの客観的なツール」を使って、自分がどの宗教で死のうか、考えることはないでしょう。
 ま、せいぜい疑似科学に引っかかるくらいでしょう。


根拠を知りたい  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月06日 9時02分

基世さん。はじめまして。突然ですが、

>(考えてみれば、信仰告白しなければ受洗できないんだから、杞憂でした。)

この文章は幼児洗礼ではなく、自らの理性と意思で入信し信仰している、と解釈しますがよろしいですか。
またあなたは、

> イエス・キリストが、もし人の子であったなら、せいぜい隣の強盗一人の贖いしかできないのではないでしょうか。まして、存在しなかったら、罪の問題は解決しません。
> ですから、キリストの十字架が、ビデオで撮ったように写実的ではないにせよ、「神の御子が十字架にかかった。そして、三日後に復活した。」聖書の内容一万歩譲っても、これだけは事実として譲れないです。私の信仰の原点ですから。

>イエス・キリストを知ったから、キリスト者になったのです。キリスト者になったから、イエス・キリストを知ったのではありません。
> イエス・キリストという前提があくまでも先です。

とも発言なさっています。

僕は、キリストの復活は、福音書のフィクションか、(もとの出来事があったとしたら)トリックか勘違いではないか、という立場です。
あなたはどういう根拠で「キリストは復活した」と考えていらっしゃいますか。信仰は尊重しますが、循環論法、堂々巡りにならないお返事を期待します。


(ぱ)さんへ  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月06日 8時41分

おはようございます。昨日は遅くなったので途中にしてしまいました。すみません。続きを書きますね。

この質問は、キリスト者であるてつおさんのお考えをお伺いしたものです。

ご存じでしょうが、キリスト者がみんな同じ解釈をしているわけではありません。
創世記だけでも、6日間の創造を信じている人もいれば、1日を千日とみなして地球創造を6千日としている人もいます。また、ビックバンがあって、しばらくしてから神が創造を始めたという説も聞いたことがあります。
このように、各章にさまざまな解釈があるわけですが、議論をする人もいれば、人それぞれの解釈にまかせる人もいます。
私は、それらを議論できるほど知識もないので、人それぞれの解釈でいいと思ってます。
ただ、キリストの十字架の贖いと死からの復活については、キリスト者の見解は一致していると思いますので、てつおさんに確認したまでです。

キリスト者でない方に、これを「事実です」と主張するつもりはありません。
信じがたいことであって当然だと思います。
ですから、循環論法だから虚偽である。科学的ではないから事実ではない。キリストは存在した、存在しない、どのようにお考えになってもいいと思います。

私は、みなさんのような科学者や研究者ではないので、そろそろROMに戻ります。

大文字ナンさんへ、原理主義と個人についてのお返事ありがとうございました。その辺をもう少し学んでみたいと思います。


Re:原理主義と個人  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月06日 5時07分

 基世さん、はじめまして。

>ということは、今のイラクとの戦争にも係わりがあるということですか?
>そして、人種差別、多神教の排斥、ユダヤ人迫害、あるいは十字軍までいってしまう危険性があるということなのでしょうか。

 宗教原理主義に大義名分を置いた支配、征服、主義の強要などと利権構造の融合が危ぶまれるというか、脅威であることは間違いないでしょうね。
 「疑いを持たない」「とにかく信じる」という思考スタイルは、逆を返せば自分とは異なる思考スタイルの否定に繋がり「やすい」ことは自明と思えます。もちろんこれは、ステレオタイプなモノの見方ですが、そうした通念がはっきりとあって、それを否定できる根拠よりも悪しき実例が満ちているのは現実でしょう。

 Aさんというひとが宗教原理主義的・教義の逐語解釈信仰を持つとします。だからといってAさんがすぐさま他者の否定や攻撃性・布教の名を借りた強要を示すとは考えられません。それは「個別の事象」であって、一部を全体に適用して判断することは出来ないからです。しかし一方、Aさん個人は違うかも知れないけれど、Aさんが象徴するグループによる「無分別な行為」が絶えないこともまた、現実ではあるでしょう。


(ぱ)さんへ、こんばんは。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月06日 1時28分

>「私はキリスト教徒だから、私にとってはイエスの復活は真実なのだ」

上記の文だと、確かに入れ替えても意味は同じですから、前提と結論は依存しあっているともとれます。
でも、私の経験としては堂々めぐりはしてません。イエス・キリストを知ったから、キリスト者になったのです。キリスト者になったから、イエス・キリストを知ったのではありません。
イエス・キリストという前提があくまでも先です。
これでも循環論法になるのかな。


ひとつ思い出しました。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月06日 0時40分

アメリカのブッシュ大統領の演説は、原理主義的キリスト教徒のガーソン主任スピーチライターが起草するそうです。(前期の話なので、現在は定かではありませんが。)
ということは、今のイラクとの戦争にも係わりがあるということですか?
そして、人種差別、多神教の排斥、ユダヤ人迫害、あるいは十字軍までいってしまう危険性があるということなのでしょうか。


ロバの話はどうでもいいけど  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2005年01月05日23時53分

以前私はこんなことを書きましたが、
>ロバがしゃべったかどうかは、確かに枝葉の問題かと思いますが、神による天地や人間の
>創造、禁断の実を食ったこと(原罪)、イエスの復活とかは、キリスト教にとって枝葉の
>問題じゃないんじゃないでしょうか。

これについて、temaさんはともかく、てつおさんや基世さんは、
>ですから、キリストの十字架が、ビデオで撮ったように写実的ではないにせよ、
>「神の御子が十字架にかかった。そして、三日後に復活した。」聖書の内容一万歩
>譲っても、これだけは事実として譲れないです。私の信仰の原点ですから。

という立場であると理解しています。
つまり、イエスの復活は「歴史的事実」であると。それが「信仰の原点」であると。

「真実はいつもひとつ」というコニャン、じゃなくて江戸川コナンの立場に立てば、過去、歴史的事実としてイエスの復活があったかどうかに関する回答はひとつしかないはずです。
 それを検証するのに、科学とか証拠とかの客観的なツールを使うのが不適当とは思えないし、オッカムの剃刀だって振るってよいと思います。私は。

 「私はキリスト教徒だから、私にとってはイエスの復活は真実なのだ」という言明は、まあ当人の勝手といえばそうなんですけど、それを「私の信仰の原点です」と言われると、通常それは「循環論法」って言うんじゃないでしょうか。

おなじみ佐倉さんのサイトより。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/bible/b416.html

原理主義者とは、聖書を文字通りに解釈する人のことではなく、「いかなる誤謬も含まないように聖書は解釈すべきである」と考える人のこと、だそうです。


こんばんは。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月05日23時31分

てつおさん、お返事ありがとうございます。
まったく同意見と書いてくださり安心しました。(考えてみれば、信仰告白しなければ受洗できないんだから、杞憂でした。)

リベラルと書くことは私も悩んだのです。ひとりひとりの信仰があるでしょうから、そういう意味では、全てのキリスト者がリベラル、自由主義者とも言えるかなって。
でも、自分の立場を何と言うのか浮かばなくて、ファジーと書くと、私はそうでも、てつおさんには失礼かと思い、とりあえずリベラル。適当な言葉があるようなら教えてください。
安心したところで、後はてつおさんにおまかせしますので、頑張ってください。


ここからちょっと、流木さんへ、(しつこくてごめんなさい。)

流木さんのサイト、部分的ですが拝見させていただきました。
その中に、ここでのしろうとさんの発言を掲載してましたが、違う流れの中に組み込んでもいいのでしょうか?

その後のみなさんの発言を聞いて、じっくり考えたのですが、

(ロバのおじさんチンカラリン♪ 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日: 1月 5日(水)10時49分6秒 )

>しろうとさんは「ロバが喋った」という話を擁護せざる得なくなったのではなく、「(神が口を開かれたので)ロバが喋った」ということを本当に当然のこととして信じているだけなのではない
  ↑
私もここに行き着きます。

しろうとさんが、キリストの奇跡を宇宙人やテクノロジーで証明しようとしていたとしても、ロバの場合は「神が口を開かれたので」と神の業にしてます。つまりこれは信仰です。
重複しますが、私もロバが喋ったと信じます。しかし、このことを信じる信じないは、キリスト教の本質には関わらないことです。
しろうとさんは、教科書に創造論やノアの洪水を採用しなさいと発言していますか?社会的に迷惑をかけているわけでもないですよね。
世界中にいるであろう(特にアメリカとありましたが)キリスト教原理主義者の弊害を述べる文章の中に、「ロバが喋った。笑われても結構です。」彼らはこんな愚かなことを言っていますみたいに取り込むのはひどすぎます。やめた方がいいと思います。

そもそも、流木さんにとって、キリスト教原理主義者の考えは、どうしても矯正されなければならないものなのですか。
福音を台無しにしないために発言されていることは理解してます。が、聖書は何をもって福音としているのか、本当にご存知ですか。福音は間単に台無しになるような弱いものではないはずです。
私も、キリスト者として勉強不足ではありますが、何しろキリスト教原理主義者という人にお会いしたことがないのでよく解らないのです。


基世さん、匿名希望さんへ  投稿者:てつお@今日はこれで最後 投稿日: 2005年01月05日22時19分

本当に自分が恥ずかしくなりました。

>私が聖書を読む基準は、子供やおばあさんのような学問のない人と同じ立場に立ちたいとは思っています。したがって、科学や歴史の議論もしません。これがリベラルだと言われれば、どうなんでしょうね?

嘘付きです。
子供やおばあさんが聖書を読むのに、わざわざキルケゴールやバルト、読みます?
それを子供やおばあさんのレベルに合わせるのだ、と?
とんでもない嘘付きです。
恥ずかしくて情けなくて、どうしようもないです。

第二ペテロ2:16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

不快なものを見せて、皆さん、本当に申し訳ありません。


救キリスト狂信者さんへ2  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日18時13分

 いきなりで失礼だったと思いますが、あなたの

ろばがしゃべった!なるほど! 投稿者:キリスト狂信者  投稿日: 1月 5日(水)03時14分50秒

をひっくり返して私の立場で言ってみると、互いの偏見、立場でしかモノを言っていないということが、いよいよ明らかになったと思います。
 そうである限り、何も建設的な意見が生まれないことは、明白なことと思いますが、「ろばがしゃべった!」というのは、実はこれまで、聖書中の文脈から切り離された議論しかなされていませんでした。しかし、そういったこともあなたはご存じないまま、原理主義者という固定観念のみ固まっていくのも、ある意味、残念なことです。
 のみならず、「ろばがしゃべった!」という事自体、もしあなたが具体的な論拠をお持ちでないなら、発言者個人の中傷に終わる可能性さえある事にもお気付きください。
 以前から、あなたが危惧を表明していた、アメリカキリスト教原理主義の問題は、確かに私にとっても、問題です。
 これまで、「原理主義」は、いわゆる「福音主義」と区別なく同一視されてきましたが、原理主義はその分離的傾向を強めるなかで、文化的反動、保守主義が下地にあります。
 私もその本質を見抜く目を持ちたいとは思っておりますが、ただ、本物を知らないでいては偽物を取り除くなどということは、決して出来るものではないということをも同時に覚えます。
 本物がない、と言えばそれまでですが、私は他の宗教に対しても、本物を見る目を養う上で、早まった判断はすべきでない、と私自身は思っています。
 先ほどの投稿のご無礼をお赦しください。
 本年もあなたにとって良い年でありますように。

==================================================================================
今日は多量の投稿、皆さんにご迷惑お掛け致しました。
これも、「ろば」のショックからです。


救キリスト狂信者さんへ  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日15時09分

>ろばがしゃべった!なるほど! 投稿者:キリスト狂信者  投稿日: 1月 5日(水)03時14分50秒

救キリスト狂信者さん。あけましておめでとう。
ふたたびですが、ロバがしゃべったことに関して。
無宗教者もどうやら多かれ少なかれ人の揚げ足取りしか楽しめない傾向があるようです。
これでほとんど全て解決いたします。なにしろ差別や偏見の根が宗教にあるかのように言っているようでいて、そうかと思えば、無宗教者だからといって、差別や偏見がないとは一概に言い切れないからです。争いが絶えなくても、だからと言って、宗教者と無宗教者を区別するのは不可能でしょう。
因みにSFや映画の宗教が本人にとって、絶対であるかのような錯覚です。それ以上知ろうとしないのにかかわらず、無知であることも顧みようとはしません。
というように、SFや映画とかは、事実とは違ったものに変えられるのです。ましてや2000年前のものが間違っているに相違ないという確からしさは、いったいどれくらいなのでしょう?


RE場違いですが・・・てつおさんへ  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日14時42分

>私たち二人で、なんかリベラルな聖書論を展開していると、流木さんの発言のように、他の方々にも、十字架での死と復活にしても、写実的に捉えているキリスト者はむしろ稀ではないかという印象を与えると思います。

昨夜、布団の中で、今朝の投稿を書きましたが、基世さんが、こうして発言されていたのですね。「稀」ということに異議を感じて。
ただ、「リベラルな聖書論」だったかどうかは、分かりません。聖書を唯一の神の啓示の書とするバルトがリベラルだと言えば、リベラルでしょうし、福音的と言えば福音的でしょうし。私が聖書を読む基準は、子供やおばあさんのような学問のない人と同じ立場に立ちたいとは思っています。したがって、科学や歴史の議論もしません。これがリベラルだと言われれば、どうなんでしょうね?

>イエス・キリストが、もし人の子であったなら、せいぜい隣の強盗一人の贖いしかできないのではないでしょうか。まして、存在しなかったら、罪の問題は解決しません。
ですから、キリストの十字架が、ビデオで撮ったように写実的ではないにせよ、「神の御子が十字架にかかった。そして、三日後に復活した。」聖書の内容一万歩譲っても、これだけは事実として譲れないです。私の信仰の原点ですから。
できれば、てつおさんにも、同じように主張してほしいのですが・・・。

まったく同意見ですよ。ただ、先に私が書いたもののうちでは、言い足りない部分もあります。イエスの身代わりの死そのものについて(一番重要な部分です!)は、触れてませんでしたね。片手落ち。


ロバのおじさんチンカラリン♪  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月05日10時49分

Re:)無題( 投稿者:sci98  投稿日: 1月 4日(火)19時04分21秒

>>sci98さん、レ(省略しすぎ)。

>5個入賞させたら打ち出しを止め、ホウキのちょい向こうにV入賞口がきたタイミングで2発打ち出して下さい。そしたらまた打ち出しを止め、これを繰り返します。

私はご飯はちょっと硬めが好きです。

>つまり、たまごちゃんの解釈はとくに有力視されるものではないわけですよね。
>ならば、その解釈に基づいて行われた流木さんに対する反論は当を得ていないのでは?

そうですか?
私は、「いったん死んだイエスが生き返るくらいなら、神がロバの口を開かれたならロバが喋っても不思議はない」とは思うけど、「いったん死んだイエスが生き返るくらいなら、ロバが喋っても不思議はない」とは思えないです。

私自身は、ナザレのイエスをキリストだと信じられないし、彼が復活したとも信じられないし、キリスト教の神の存在も信じられないので、「神が口を開かれたからロバが喋った」とも信じられないです。
ですが、もしも私がナザレのイエスはキリストであり、実際にいったん死んだ後生き返ったのだと信じるようになったとしたら、ロバが喋ったことも自然に受け入れられるように思います。

聖書をノンフィクションだと考える人々にとって、聖書にロバが喋ったと書いてあることは、ウィークポイントとはならないと思います。
流木さんは
>「信仰上で正しい」ということと「歴史的な事実である」ということの区別がつかないから、「ロバが喋った」という話まで擁護せざるを得なくなるのです。

とおっしゃっていますが、しろうとさんは「ロバが喋った」という話を擁護せざる得なくなったのではなく、「(神が口を開かれたので)ロバが喋った」ということを本当に当然のこととして信じているだけなのではない


昨日、ローソンで見つけためぼしいおやつ  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月05日10時22分

どうも。たまごちゃん (^-^)ノのコンビニで見つけためぼしい食品シリーズ第二段です。(シリーズ化するのか・・・^^;)

トリたま。
http://blog.goo.ne.jp/kazumucha/e/a27cd2f8636566e322c3b0375b460bb3

かわいいけど、杏仁豆腐がちょっと粉っぽかったぴょん。


どどんがドンキー♪ q(^-^q) (p^-^)p  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月05日10時16分

Re聖書にあれば史実なのか? 投稿者:流木  投稿日: 1月 3日(月)18時17分27秒

流木さん、遅レス失礼します。

>そうでしょうか?「福岡のおじさんからからし明太子が航空便で送られてきた」というのを「からし明太子が空を飛んだ」といえば、なるほど奇妙な言い方ですが、「からし明太子が届いた」といえば別に変ではないでしょう。「言った」と「喋った」とでどれぐらい違うのでしょうか?「主がロバの口を開き」の後に続くのは、ロバとバラムとの会話です。ロバは人間の言葉で喋っているのではありませんか。違うのでしょうか。

ちょっと表現が良くなかったかなぁ。
じゃあ、「空から豚が降ってきた」と「豚を輸送中の飛行機が事故を起こしたので空から豚が降ってきた」と同じくらい違うと思う。にしておこう。

>「主がロバの口を開いた」と書いてあるから、「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」ことの証拠だというご主張なわけですね。

本当にそうなの?私は「証拠だ」という主張だとは読まなかったんだけど。

>しかし、キリスト教信仰を持つ人であれば、「主がロバの口を開いた」のだから、ロバが人間の言葉でバラムに抗議をしても当たり前だと思えるでしょうが、それは信仰の上でそう信じられるというだけです。キリスト者一般がロバが喋ったことを歴史的な事実だと理解するわけではないでしょう。ましてキリスト教の造物神の存在を信じているわけでもない非キリスト者は、「主がロバの口を開いた」と書いてあったからといって、それを歴史的な事実である証拠とは考えないだろう、

まあ、それはその通りなんだけど。キリスト教信仰を持つ人であれば、「主がロバの口を開いた」のだから、ロバが人間の言葉でバラムに講義をしても当たり前だと思えるのだから、彼らにとって聖書にロバが喋った書いてあることは別にウィークポイントでもなんでもない。ってことは理解できますか?

>ロバが喋らないというのは常識です。シモンやヨハネの名を出して何の話か解る人がどれだけいるのでしょうか?失礼ながら、ご指摘は的外れと思えます。

って言うか、わざと、何の話か分からないくらいどうでも良いような話しを選んだんですよ。
とは言え、シモンという名前もヨハネという名前も、普通は熱心党のシモンとかバプテスマのヨハネとか違う人物を思い浮かべてしまうから、ややこしくてうまい例じゃなかったかもなぁ。どっちもありふれた名前だったんでしょうね。特にヨハネ。聖書の中だけで何人出てくるんだろう。

パウロと呼ばれたシモンがヨハネという人物の子だったというのは聖書に書かれていて、たぶん事実だろうと私は思っています。ですが、私はキリスト教の信仰とは「シモンの父はヨハネだった」と信じることだとは思わないし、「シモンの父はヨハネだった!!」とかって立て札を掲げて証しているキリスト教徒がいたら失笑してしまうと思います。(むしろ、可哀想に頭の病気なんだなぁって思って笑えないかも)
それは、「シモンの父はヨハネ」というのが事実でないからではなく、シモンの父がヨハネかどうかなどということは、流木さんもおっしゃっているようにほとんどの人は何の話かも分からないような、キリスト教の本質に関わらない枝葉のどうでもよいようなことだからです。そんなどうでもよいようなことをわざわざ証しているから失笑してしまうのです。

同様に、私はキリスト教の信仰とは「ロバが喋った」と信じることだとは思わないし、「ロバが喋った」という立て札を掲げて証しているキリスト教徒がいたら失笑してしまうと思います。
しかし、失笑するわけは、ロバが喋ったかどうかなんて、キリスト教の本質に関わらない枝葉のどうでもよいようなことをわざわざ証しているからであって、「ロバが喋った」というのが事実かどうかとは関係ありません。

>ロバが喋ったと証明できなければ、「聖書に描かれたことは全部史実だ」というあの方の立場は崩れてしまいます。

逆じゃないですか?ロバが喋らなかったと証明できたら、彼の立場は崩れてしまうと思います。
彼は「私はノンフィクションだと思っています。」とは言っていたけど、「ノンフィクションだという証拠がある」とはざっと過去ログを見たかぎりでは言っていないようですよ。


慌てて補足  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月05日 9時38分

「アマデウス」はいい映画ですよ。モーツァルトのデカタンぶりが観ていて痛々しい。
「ノストラダムス」は、まあどうでもいいや。


復活と使徒2  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日 9時32分

>神の国にせよ、永遠の命にせよ、言葉から受けるイメージとキリスト者の捉え方とは相当の乖離があるように思います。十字架での死と復活にしても、写実的に捉えているキリスト者はむしろ稀ではないかという印象を持ちます。

 稀?イエスの復活が、もし、何らかの比喩や象徴であって、ただイエスの復活「だけは」ありえなかったと言うのであれば、かえって、そういった信仰を持つことの方が、至難のわざでないかと思います。同じことは、奇跡「だけは」起らなかったが、あなたがたにとっては、奇跡の意味は十分意味深いことだ、考えなさい、と言われているのに等しい、とも言えます。イエスの水上歩行の話からは、たとえ私が水上を歩かないとしても、十分意義深い教訓を得ることはできますが、なおのこと、イエスは私以上の事を成し、実際に水上を歩いて見せたことでしょう。跳び箱を前にして、生徒らに跳べと言いながら、「たとえ話」をして茶を飲みに帰る、体育教師が本当の体育教師だとは思えません。

 十二弟子以降、あるいは福音書成立以降、それこそ「見ずに信じる」しかないのですが、少なくとも十二弟子は、イエスの復活を目の当たりにしたのだ、と考えるのは、無理なことではありません。
 史的イエスの実在については議論はありえないことではありませんが、ペテロやマタイをはじめとする十二弟子、あるいはパウロの存在については、そういった議論はまだ聞いたことがありません。
 復活の記事について、仮に福音書によっては、一部、不揃いがあることを認めたとしても、ある使徒はイエスは復活したと信じ、またある使徒は復活しなかったと言い、それでありながら、なおも使徒として共に働くことは、考えられないことです。また、使徒行伝2章に見られるような、聖霊降誕の五旬節(ペンテコステ)の日を、共に迎えたことも、使徒たちの信仰に不一致があれば、到底、考えにくいことです。むろん、その後も使徒たちは協力者を得ながら、働き続けましたが、信仰を捨て去ることが無かった彼らは、ある意味、信仰の根本的な事柄についても、誰から強制されるでもなく、変わることがなかったと思います。
 復活の教理を仮にパウロが作り上げたとしても、ペンテコステの聖霊降誕はパウロ以前の事でもありました。

 以上のことを、思い付くまま、挙げてみました。
 皆さん、ご随意に議論してください。


復活と使徒1  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日 9時31分

以下は皆さんに。(流木さんとは、別な板でガンガン議論しているので、ここでことさら流木さんのレスが欲しいわけでありません。変わるとは思えないし。笑。)

歴史的事実では不適切? 投稿者:流木  投稿日: 1月 4日(火)21時18分18秒より
>イエスの復活にしても、新約聖書にはイエスが墓から出てくる場面の描写はありません。聖書から外されてしまったペトロによる福音書にはイエスが墓から出てくる場面が描かれていたと思いますが、今日の新約聖書ではそういう記述はありません。イエスと出会った弟子たちも、一緒に歩きながら話していてもイエスだとは気づかなかったりするわけです。

ルカによる福音書24章13節から24章35節までの部分で、

エマオ途上の二人の弟子たちは、イエスの死と復活の一切の出来事について話し合っていました。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められましたが、しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
やがて、二人の目が開け、この方こそイエスだと分かったのは、イエスの聖書についての説き証しがあまりに素晴らしく、それで是非にと二人が乞うて、イエスと共に宿に入り、食事の席に着いて、賛美の祈りのあと、裂かれたパンをイエスから渡された時のことでした。

この二人の弟子たちは、イエスの死と復活について、あるいは聖書について、道中、ずっとイエスご自身と「問答」してきました。しかし、二人の目は開かれないでいる。二人の目には、イエスご自身が見えないでいました。

比喩や象徴 投稿者:流木  投稿日: 1月 3日(月)23時09分18秒より
>ただ、実話かというと、どうなんでしょうか?むしろ、想定問答のようなもの(これこれの場合はこうなるという話)ではないかと思います。ご存じのように、新約聖書のイエスの数々の問答も、実際にあった出来事を記録したわけではなく、一種の想定問答であったという捉え方を聖書学ではしています。「写実的に記録する」という発想自体がずいぶん後の世のものではないかと思います。

もし聖書に「問答」だけがあるとしたら、イエスにまつわる「写実的な記録」が仮に根拠の無いものであっても問題ではないでしょう。
姦淫の現場で捕まえられた女の話は、あれは「想定問答」だった。実際、あの場では誰も傷付かなかった。云々、としても。
けれども、問題を問うているその人イエスが、実際に生き、弟子たちの足を洗い、「このように」わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛しなさいと言われて、十字架に付き、三日目に復活したと言われる限り、また、「わたしのところへ来なさい」「わたしは、ひとりひとりの名を呼んで」と現代を生きる私たちに対して、なお強く個別にひとりひとりを誘い続ける限り、イエスの「事実」の信仰と、私たちひとりひとりの実在するイエスとの「関係」が、イエスとの「出会い」という、宗教的実存の根底に、なおも、場所を占めざるをえないのではないでしょうか?
キリスト者が持ちうるものは、神の倫理的命令についての数々でなく、神のひとり子イエスの事実と、観念としての罪でなく、私たちが個体的な罪人であるが故に問われる、その「関係」なのです。


RE:re:事実チガ〜ウ!  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月05日 9時26分

「ノストラダムス」の映画を史実だと信じちゃった人もいるようですね(本気で)。
「アマデウス」を史実だと思っている人も知っています(本気で)。


re:事実チガ〜ウ!  投稿者:tema 投稿日: 2005年01月05日 9時14分

大文字ナンさん、こんにちは。

> 体験してナイヨウ!「フィクションです」って注釈つけるの忘れたデスよぉ!

 今更何と言われようが、「二人はそのままカクテルとか飲んで、気付いたときにはホテルにいた」ということは歴史的事実である、とtemaは「信じて」おります。


預言者バラム  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月05日 7時57分

 なにゆえロバに見えて、預言者バラムに神の御使いが見えていなかったのか。そのことに触れたのは、地下に眠るMさんでした。
 コニャンが解決 投稿者:地下に眠るM  投稿日: 1月 3日(月)15時24分37秒

 最初のしろうとさんの、奇跡−超科学という前提は、確かに頂けないことではあったけれども、ロバが主(しゅ)により、いかに人の言葉を語り得たかということも大事ですが、ロバに見えて、預言者バラムになにゆえ神の御使いが見えていなかったか、を考える方が、より主のみ心にかなうことでした。

***********************************
分別をもたない被造物の方が目を眩まされて物の見えない人間よりも神の近くにありうるということ、預言者バラムにまつわる話はこのことを示している。つねは非常に賢い人間であるバラムが神がすぐ近くにいることに全然気づかないのに反して、バラムの乗る雌驢馬はこれをはっきり認める。
「雌驢馬は神の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見た」(民数22、21-35)
(地下に眠るMさんからの「聖書象徴辞典」(人文書院)引用)
***********************************

 それを、しろうとさんの賢明な気持ちを汲み取ることもなく、しろうとさんの発言を、私らは、ろば同様、扱ってきたのではないでしょうか。
 キリスト者でないなら、笑っても赦されることですが、私は笑って赦されることではありません。預言者バラムの姿は、己が姿です。


キリスト狂信者参上  投稿者:救キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月05日 3時33分

ろばがしゃべった!なるほど!をキリスト狂信で投稿してしまいました。
我輩は救キリスト狂信者です。あくまでも、狂ったキリスト教徒を救うために日夜努力はしてないけれど、ことある度に、救おうとしている、救世主なのじゃ。
ついでに一言、このサイトを簡易ログイン方式にすれば、名前の混同等はなくなるとおもうのであるが、どうでしょう。


ろばがしゃべった!なるほど!  投稿者:キリスト狂信者 投稿日: 2005年01月05日 3時14分

あけましておめでとうございます。
ずいぶん遅いレスですが、ロバがしゃべったことに関して。
キリスト狂信者はどうやら多かれ少なかれ幻覚幻聴を見る気があるようです。
これでほとんど全て解決いたします。なにしろ過の有名なジョンナッシュでさえ幻聴が聞こえるようなので、凡人の人に幻聴が聞こえたらそれを区別するのは不可能でしょう。
因みに映画のジョンナッシュは幻覚でしたが、実際には幻聴のようです。
というように、書物や映画とかは、事実とは違ったものに変えられるのです。ましてや2000年前のものが事実に相違ないという確からしさは、いったいどれくらいなのでしょう?


地獄とは他者のことである  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月05日 1時54分

ま、サルトルの場合は
「他者が「状況をつくる」とは自分が「状況をつくる」ことと対立することも十分にあり得るにゃんね」というあたりから
「地獄とは他者のことである」という名セリフが出てくるわけだにゃ。

>実はただ寂しかっただけで、誰でもいいから一緒に過ごしたかった。知りたくない「事実」が突きつけられ、夢は無残に砕ける。だけど、なにが彼女を「好き」と云わせたのか、それだけは信じずにはいられない。なにせそれは、確かに事実だったのだから。

まさに、地獄とは他者のことだよにゃ。(げらげら
「確かに事実だった」ことこそが、「私」との相克関係にはいっちゃったわけだにゃ。


というわけで、メタレベルでもひとつの事実が相克関係にはいったにゃ。
この話は「実話」に違いにゃーのだ。「週刊実話」とか「実話ゲンダイ」とか、そういう実話。
さらにこの話はフォークロアとなり、伝説に至る。
おお、なんと美しい構造!!!


混ぜっ返しはタノチイな  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月05日 1時31分

混ぜっ返しそのいち
さて、事実というコトバを大辞泉でひくと、「2 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。」とありますにゃ。
例えばデュルケムは「社会的事実」という用語を使っているにゃんが、このコトバの意味は、乱暴に言えば「制度」「構造」といった意味に近いんだよにゃん。

さーて、ここで「キリストが復活したという事実」「驢馬がしゃべったという事実」の「事実」の部分を、「制度」「構造」と乱暴にも言い換えてみようにゃー。
「キリストは復活したんです。それが制度なんだよ」
「驢馬はしゃべったのです。そういう構造なの」
にゃっはっはっはっは。こういわれちゃったら手の出しようがにゃーよな。
まさに「あるとき、あるところにおける経験的所与」だにゃ。


まぜっかえしその2

サルトルによれば、「状況」とは主体的な目的論的行為によってはっきりする世界の事実性だそうだにゃ。事実性とは、主体の目的論的行為と状況によって規定されるとも言い換えられるにゃんな。
人間は「自己をつくる」ことによって「状況をつくる」。また、「状況をつくる」ことによって「自己をつくる」わけにゃんね。そして、各人が「つくる」ことができるのは、みずからの状況でしかありえにゃーのも自明だよにゃ。僕は僕の状況を、邪教教祖17歳は邪教教祖17歳の状況を「つくる」わけだにゃ。
ならば、
他者が「状況をつくる」とは自分が「状況をつくる」ことと対立することも十分にあり得るにゃんね。たまご教と猫また教の争いみたいなもんだにゃ。
事実とは人間の目的論的行動、および状況と無関係に成立しにゃーわけで、事実そのものも相克の関係にはいるわけにゃんね。

そのいち と そのに は対してかわんにゃーな。にゃっはっは。
現象学でも持ちだすと、また目茶苦茶な混ぜっ返しができそうにゃんが。
それにしても「事実」は厄介でタノチイ。
自然科学における事実は、事実というコトバのほんの一分にすぎにゃーのだね。


場違いですが・・・てつおさんへ  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月05日 0時43分

てつおさん、こんばんは。この掲示板には、場違いとは思いますが、てつおさんに質問させてください。

>「キリスト教否定論入門BBS」で、佐倉哲氏の「聖書の間違い」に触れて、私がお答えした投稿より抜粋

上記の投稿、拝見させていただきました。「信仰こそが奇跡」これを忘れていました。気づかせていただき、ありがとうございました。(流木さんのサイトとリンクしているのかな?)


(私にとって確かなこと 投稿者:てつお  投稿日: 1月 4日(火)14時35分47秒 )

>>>信仰者にとって、それがそんなに大切なことなのですか。たとえ架空の人間の教えであっても、素晴らしいものは素晴らしいのではないですか。
>>「架空の人間」の教えなら信じたくありません。「本当の神の子」の教えだから信じるのです。

>これもアリです。

このてつおさんの発言は、一般論だと思いますが、てつおさんご自身の場合はどうなんですか?

今拝見してる限りでは、ここで発言しているクリスチャンって、てつおさんと私くらいですよね。私は、この掲示板に、キリスト者は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを信じているなら、聖書の内容を全て信じる信じないは問題ではない書きました。イエス・キリストについては、神の御子と書いたので、しろうとさんと同じように、本当に神の子だということです。

私たち二人で、なんかリベラルな聖書論を展開していると、流木さんの発言のように、他の方々にも、十字架での死と復活にしても、写実的に捉えているキリスト者はむしろ稀ではないかという印象を与えると思います。

イエス・キリストが、もし人の子であったなら、せいぜい隣の強盗一人の贖いしかできないのではないでしょうか。まして、存在しなかったら、罪の問題は解決しません。
ですから、キリストの十字架が、ビデオで撮ったように写実的ではないにせよ、「神の御子が十字架にかかった。そして、三日後に復活した。」聖書の内容一万歩譲っても、これだけは事実として譲れないです。私の信仰の原点ですから。

できれば、てつおさんにも、同じように主張してほしいのですが・・・。


事実チガ〜ウ!  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月04日22時58分

 To えめさん(苦笑

>貴重な体験談、有り難うございます

 体験してナイヨウ!「フィクションです」って注釈つけるの忘れたデスよぉ!
 で、調子に乗って「こんなの」書いたり(笑。

 http://www.doblog.com/weblog/myblog/29790

>一夜の浮気が発覚しかけた時、奥方の詰問には
>>「コンチクショー!おめぃの云ってることぁ、ちぃともワカンネー!」
>みたいな調子を貫き通したのでしょうか?

 一夜じゃないほうなら…いけねぇ、そんなことぁ云えなぃよぉ!


歴史的事実では不適切?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月04日21時18分

 歴史的事実か信仰の上での事実(自分にとって確かなこと)かという問いでは、どうも適切ではなかったかなと思います。

 地下に眠るMさんもご指摘のように、歴史的な事実を比喩や象徴で語ることもできるわけですから、歴史的な事実と比喩や象徴を対比して扱うのは適切とは言い難いわけです。

 バラムに打たれたロバが人間の言葉で抗議したという旧約聖書の記述は、写実的な記録なのかそうではないのかを尋ねた方がより適切だったかなと思います。例えば、当時ビデオ・カメラがあったとして、ロバに乗ったバラムを出発時点からずーっと撮影していて、あるところでロバが突然人間の言葉を喋ったのが映像と音声とで記録されたというような意味において、聖書の一連のバラムとロバとのやりとりは写実的な記録なのでしょうか、と。

 わたしは、写実的な記録ではないと思いますし、バラムという人物がそもそも実在の人物なのかさえ疑問に思っています。先にも書きましたが、昔の人は、出来事を写実的に記録するという発想をそもそも持たなかったのではないかという想いを最近抱くようになりました。

 聖書に書いてある言葉は昔のままでも、それを読み、解釈するのは後の世の人間です。元々どういう意味だったのかは、結局のところ判りません。実のならないイチジクの木をイエスが枯らしたのも、「実のならないイチジクの木はユダヤ教を意味している」といった解釈がなされたりもするわけですが、本当のところは判らないのです。ただ、単にイエスが木を枯らしたという奇跡を写実的に記録したのではなく、何かそこに意味が込められているのだろうとは思います。

 イエスの復活にしても、新約聖書にはイエスが墓から出てくる場面の描写はありません。聖書から外されてしまったペトロによる福音書にはイエスが墓から出てくる場面が描かれていたと思いますが、今日の新約聖書ではそういう記述はありません。イエスと出会った弟子たちも、一緒に歩きながら話していてもイエスだとは気づかなかったりするわけです。

 それこそゾンビのように死んだはずのイエスがむっくりと起き上がって…という話ではありません。ただ、聖書の記述を写実的な記録だと捉えれば、書かれてはいないにせよ、イエスがむっくりと起き上がって墓から出てきたといった解釈になってしまうでしょう。

 神の国にせよ、永遠の命にせよ、言葉から受けるイメージとキリスト者の捉え方とは相当の乖離があるように思います。十字架での死と復活にしても、写実的に捉えているキリスト者はむしろ稀ではないかという印象を持ちます。


大文字ナン 様へ ♪  投稿者:えめ 投稿日: 2005年01月04日19時58分

貴重な体験談、有り難うございます

 とても、いや、非常に参考になりました
で、恐れながら質問ですが
一夜の浮気が発覚しかけた時、奥方の詰問には
>「コンチクショー!おめぃの云ってることぁ、ちぃともワカンネー!」
みたいな調子を貫き通したのでしょうか?

※我ながら貴方の「仕掛けに食いついた」感が有りますが…(お魚になったキブン)
真面目な話、貴方に同意します。勿論「据え膳喰わぬは男の恥」も含めて
ただ人のスタンスも色々ですから…難しいかな。
(実生活でクリスチャンの方と話をする機会はまず有りません。そんな意味でも「経験」になります)


恋愛と信仰と科学議論  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月04日19時23分

 そんなこんなで、ニブチンな私もやっと気付いたんです。信仰を持ち、なおかつ合理的思考を持ち、世界を見渡すことはけっこう難しいってことに、かな。これは私に信仰がないからだろうけど、その代わり「恋するぜ!」な人生を地でイってると、あ〜なるほど、と思わされることが度々あることに気がつかされる、という具合でしょうか。

 素朴な信仰を持って、特に疑問のない人生。それはそれで問題ないでしょう。しかしひとたび芽生えた疑問や興味は、ここのような「科学議論の場」に巡礼させる機会を持たせるかも知れません。そんな「巡礼者」にとって、科学議論掲示板はときにそのひとの信仰を打ち砕かんとする裁きの場にさえ見えるのかも知れません。

 これはなんていうか、「恋の後始末」に似ているな、と思います。

 →ある夜、会社の飲み会の帰り、ほろ酔い気分でふらふら歩いていると、総務に入った新人(とても可愛い)が所在なげに街角に立っている。酔いも手伝い、世代の違いとか立場の違いとかを忘れて話かけてみると、あらためて彼女はとても可愛いことに気付いてしまう。二人はそのままカクテルとか飲んで、気付いたときにはホテルにいた。

 いわゆる不倫関係に陥ってなお、合理的に考えればそれがナンセンスであることなど百も承知しているのだけど、あの夜彼女が発した「好き」という言葉が脳裏にこびりつき、清算することが出来ない。気の許せる同僚は言う、あのコがお前を好きだなんて云うわけないだろう?そんなの「常識」だろう。しかし彼は確かにそれを聞いた。そして彼女は、確かに云った。それ以来、一度も繰り返されはしないけれど。

 ついに裁きの日はきて、彼女は別れを告げる。あの夜ぽつんと立っていた理由は、好きな男にフラれそうで、それで呆然としていたのだ。実はただ寂しかっただけで、誰でもいいから一緒に過ごしたかった。知りたくない「事実」が突きつけられ、夢は無残に砕ける。だけど、なにが彼女を「好き」と云わせたのか、それだけは信じずにはいられない。なにせそれは、確かに事実だったのだから。

 と、私にとっちゃぁ、ロバの口も彼女の口も同列なのです。なにかが「舞い降りて」あり得ないことを言わせることはある。そんなもんだと思う。確かにここは科学議論の場だけど、それだけってんでもない。雑談もあるしヨタ話もあるし、ゲテモノ話もある。これが「科学的言明」をなんとか論証しよって時だったんなら、そりゃぁ立証責任やら反証可能性やらという「ルール」を守らにゃ、ありていの批判にぶっ飛ばされてコっ恥ずかしい目にもあるでしょう。しかしときに、ここに巡礼してくるひとは自分のスタンス、つまり信仰者としての前提を話すこともある。これは別に科学議論でもなんでもなくて、聞いときゃイイってな類の話だと思うのです。

 まぁ、アレだ…私はすぐ「コンチクショー!おめぃの云ってることぁ、ちぃともワカンネー!」みたいな調子になりますが、分かってやりてんだけど、そりゃちょいと無理だ、くらいな按配に落ち着きたいトキもある…ってな具合でしょうかね。


)無題  投稿者:sci98 投稿日: 2005年01月04日19時04分

>sci98さん、レ(省略しすぎ)。

5個入賞させたら打ち出しを止め、ホウキのちょい向こうにV入賞口がきたタイミングで2発打ち出して下さい。そしたらまた打ち出しを止め、これを繰り返します。


>しろうとさんは、「聖書にはいかなる比喩的表現も含まれない」とおっしゃっているわけですか?

しろうとさんは関係ないですが…


>「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」の「言った」の部分も
>比喩的に解釈することはもちろん可能ですし、
>実際、かなりの数のクリスチャンが比喩的に解釈しているのではないかと思います。

つまり、たまごちゃんの解釈はとくに有力視されるものではないわけですよね。
ならば、その解釈に基づいて行われた流木さんに対する反論は当を得ていないのでは?


Re:Re:「信じる」 キンシャチ様へ  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月04日14時52分

大文字ナンさんのこの発言、これなんですよ。
色々、ごちゃごちゃ抜かしましたが、
何はさておき、私もイエス様に惚れたのですよ。
キリスト教に惚れたのでもなく、聖書に惚れたのでもありません。
まして、教会があるわけでもありません。
惚れることは、賭です。賭には危険も伴いますが、賭は危険をも越えます。


Re:Re:「信じる」  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月04日14時42分

大文字ナンさん。レスありがとうございます。
 
>『浪費癖があって、うそつきで、約束はすぐすっぽかすけれど、可愛いんだ!』

>↑こんな女の子に私が惚れたら、きっと合理的には見えないことでしょう。彼女が嘘をついていることを、誰かが囁くかも知れません。でも「好きになったもんは仕方がない」とする自由は、尊重したいと思うのです。これはそういう次元の話ではないでしょうか。

おっしゃるとおりですね。ぼくもまだまだ心が狭いようです。


私にとって確かなこと  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月04日14時35分

 どら焼きやからし明太子が、今私の目前にあるというそのこと自体は、科学上、歴史学上、如何であれ、「私にとって」確かなことだ、と言えます。が、しかし、その「確かさ」と、たとえば「JAL○○××便によって」というような科学的ないし歴史学的な仮説とは、同値ではないわけです。
 聖書の「確かさ」の根が、信仰者の実存にありながら、なおその口先からは「聖書から生まれた先端科学」しか出て来ないのも、この「確かさ」の混同に基づいているのではないかと、日頃から思っています。

以下、キンシャチさんのしろうとさん発言の引用から

>書かれている通りの事が実際にあった、という意味です。作り話ではないと思っています。

これはアリです。

>>信仰者にとって、それがそんなに大切なことなのですか。たとえ架空の人間の教えであっても、素晴らしいものは素晴らしいのではないですか。
>「架空の人間」の教えなら信じたくありません。「本当の神の子」の教えだから信じるのです。

これもアリです。

>>「ロバが喋った」では失笑を買うのがオチでしょうね。
>私は書かれているとおりロバが喋ったのだと思います。笑われても結構です

これもアリです。

ただ、聖書の出来事を「何か裏側でトリック」があったとか、「聖書に記されていない何か」
「超高度な科学技術のバックアップ」等、聖書を聖書以外の何かでバックアップしているのが超高度な科学だというのは、ちょっとね。


ノンフィクションとしろうとさん  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月04日13時46分

ロバがしゃべった、という現象は、「超常現象」なわけです。
現代に話を持ってくると分かりやすいと思います。

アダムスキーさんが宇宙人と円盤に乗ったよ、と報告します。
「ノンフィクショんライター」が取材をして記事にします。
記事を読んだAさんがそれを真実だと信じます。

記事が事実となるための条件は、
アダムスキーさんの「体験」は事実か(嘘をついていないか)。「体験」が客観的な証拠によって証明できるか(幻覚などではないか)。「ノンフィクションライター」は正確に記事を書いたか(でっち上げ、誇張がないか)。
いくつもの関門があります。

アダムスキーさんをバラムに、「ノンフィクションライター」を聖書記述者に、Aさんをしろうとさんに置き換えてください。
聖書の記述者は事実としてロバの話を書いたのか。バラムは正確に報告したのか。(体験が事実だとして)客観的に立証できるのか(勘違い、幻覚などではないのか)。

少なくともそれだけの条件が満たされていない限りこの事象を史実だと認めることはできません。
しろうとさんはそこを何歩も飛ばして史実だ、ロバがしゃべったとおっしゃるので、こういう事態になったのではないかと思います。

しろうとさんの一連の発言は聖書を「ノンフィクションオカルト」に貶める可能性があると思います。
以下引用
>私の場合は書かれている通りの事があったのだろうと思っています。
>マルコ書の中でイエスご自身が自分の身に起こる出来事を予言しています。

>>あなたのおっしゃる「書かれている通りの事があった」というのは、どのような意味ですか?
>書かれている通りの事が実際にあった、という意味です。作り話ではないと思っています。

>>信仰者にとって、それがそんなに大切なことなのですか。たとえ架空の人間の教えであっても、素晴らしいものは素晴らしいのではないですか。
>「架空の人間」の教えなら信じたくありません。「本当の神の子」の教えだから信じるのです。

>>「ロバが喋った」では失笑を買うのがオチでしょうね。
>私は書かれているとおりロバが喋ったのだと思います。笑われても結構です

>>処女懐妊にせよ、イエスの復活にせよ、それを信仰上の真実だと述べることはできるでしょう。しかし、それらの現象を「科学的に証明できる」と述べれば、それはもはや擬似科学に陥っているといわざるを得ません。
>科学で証明できるとは思っていません。何か裏側でトリックがあったのかも知れません。
>しかしガブリエルがマリアに会ったのは事実だろうと思います。
>聖書に記されていない何かが行われたかも知れません。

>また、イエスが自分で墓から出てきたとは書かれていません。書かれてはいない何らかの出来事があったのではなかろうかと推測しています。

> 水上を歩くことも超高度な科学技術のバックアップがあれば可能ではないかと思われます。

>トリックって言葉は何か誤解されそうなので取り消します。
しかし現実には現代科学でも解明できない不思議な現象も起こっています。
> 目に見えない世界のことについてもっと学びたいと思っています。


>>ミステリーで死体が消えていたら、誰かが移動させたか、死体発見の証言が嘘だったか、死んでいなくて自力で移動したか・・・
>誰かが移動させたんですよ。その誰かとは墓場にいた主の使いだと私は思っています。
以上おわり

発言を読む限り、聖書の記述はすべて歴史的事実だ、と主張なさっているようにしか思えません。
少なくとも、「私は信仰の上でこのように信じる」というようには読めません。
また歴史的事実だと主張する根拠を信仰に求めるのは堂々巡りではないかと考えます。


結局用語の不一致なんじゃないかな  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月04日13時15分

「歴史的事実」という語の意味を「(実際にはどうであったかには関わりなく)さまざまな文献、遺跡、伝承などにより、十分に確からしいとみなすことのできる歴史学上の仮説」とするか、それとも「(歴史学上どのようにみなされているかには関わりなく)過去に実際に起こったこと。真相は藪の中という時の、藪の中にある真相」とするのか。
もし平成元年2月3日午前4時5分にたまごちゃん (^-^)ノは実はトイレでおしっこしていたけど、本人も含め誰もそのことを覚えていず、全く証拠がない場合、その時刻たまごちゃん (^-^)ノがおしっこしていたということは歴史的事実といえるのか言えないのか。

しろうとさんは、「ロバが喋ったというのは歴史的事実(過去に実際に起こったこと)だと信じる」といっているのに対し、流木さんは「ロバが喋ったというのが歴史的事実(充分に確からしいとみなせる歴史学上の仮説)ではない」と言っているから話が噛み合わないのではなかろうか。

どちらの用法も日本語として間違ってはいないと思うけど、統一しないと話は噛み合わないよね。


単なる言い回しにすぎない  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月04日10時07分

>それを「歴史的事実」と称し、混同されている事です。

え?どこで?誰がです?
こういう科学哲学的な言い回しに明るくない「一般人」にとって、
「歴史的事実と『信じる』」という言い方は、我々にとって「信仰上の事実である」という意味と同義と思われますが?


私にとっての神の言葉  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月04日10時00分

 アッシジの聖フランチェスコは、「杖も持つな、袋も持つな、ただで与えられたものはただで与えよ」という言葉を聞いて、その歩みは確固とされた、というような話を聞きます。ですが、そのとき、フランチェスコは異端視されていました。けれども、裸のフランチェスコを見た司教は、フランチェスコを否定すること自体、福音書のイエスを否定することになると気が付いて、あわてて法王宛に推薦状を書いたそうです。
 むしろ、「神の言葉」と言うとき、聖書のすべてにおいて、それらが神の言葉である、と言うのは易く、ある人にとって神の言葉であることが、必ずしも、私にとってそうでないという事実。これをこそ嘆き、聖霊により頼んで、神にそうさせていただくよう、祈り求めるべきことかも知れません。

自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになつて
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがへの末は必ずここへくる(八木重吉『貧しき信徒』神の道)

「キリスト教否定論入門BBS」で、佐倉哲氏の「聖書の間違い」に触れて、私がお答えした投稿より抜粋
 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/280623/bbs_plain?base=1810&range=1
 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/280623/bbs_plain?base=1866&range=1


本質はまたしてもそこじゃない   投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月04日 9時42分

匿名希・望様

問題は唯一つ、「信仰上の事実」という言葉を何か勘違いして使ってませんか?という事です。
「信仰上の事実」というのは当人にとってそれを信じる「根拠」が「信仰」であるというだけで、
当人の中では、たとえ重みとして「歴史的事実」と全く変わらないものであったとしても、
それを「歴史的事実」と称し、混同されている事です。
あなたも本当に理解できているのでしょうか?


本質はそこじゃない  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月04日 9時17分

しろうとさんがどんな信仰してようが、キリスト教徒として異端的であろうがなかろうが、
そんな事はこの問題とはまったく関係ないどうでも良い事なんですよ。

問題は唯一つ、「信仰上の事実」という言葉を何か勘違いして使ってませんか?という事です。
「信仰上の事実」というのは当人にとってそれを信じる「根拠」が「信仰」であるというだけで、
当人の中では、重みとして「歴史的事実」と全く変わらないものであるという事を本当に理解できているのでしょうか?

別にラエリアン的な聖書解釈をしようともそれが「信仰」の「内容」であって「論拠」でない限り、
科学はそれに対して言うべき何事もありはしません。
ラエリアンの主張が「疑似科学」になるのは、その内容を「科学的に正しい」と主張するからであって、
「信じる」限りにおいてその内容にどんな疑似科学的な要素があろうがそれは「信仰」に過ぎません。

このサイトのトップにある記事、「科学主義は、疑似科学と同じぐらい有害だ 」から引用しますが、

>一方、進化を許容しない聖書解釈をする立場をとるキリスト教徒もいる。
>彼らは、科学よりも、逐語的な聖書解釈が正しいと考える。
>科学が絶対に正しいわけではないので、そう考える人もいたっていいだろう。
>彼らに科学主義的な価値観を押し付けるべきではない。
(中略)
>若い地球の創造論が科学的には正しくないからといって、逐語的な聖書解釈が誤りであるとか、価値がないとかは言えない。
>それを言ってしまうと、科学主義になってしまう。
>そもそも、どの聖書解釈が妥当なのかを考察する上で科学を持ち出したのが問題だったのだ。

「逐語的解釈」を「ラエリアン的解釈」と言い換えれば言いたい事が分かって頂けるでしょうか?


それを言っちゃあ  投稿者:えめ 投稿日: 2005年01月04日 1時24分

お終いヨ。
と思った方、場が読めない奴ですみません。


お気楽話  投稿者:えめ 投稿日: 2005年01月04日 1時20分

驢馬がしゃべった、と言う聖書の記述が(自分としては1万歩譲って)
「後の解釈や改変が全くないありのままの事実」
と認定するとして、この「事実」が
どういった種類の事実であるかが問題であろうと思われます。

 例えば「バラム」なる人物が驢馬と会話したと考える事は宗教や比喩を持ち出すまでもなく、
現代科学でも「事実として認識が可能である」と思いますが。
 但し、それは彼の主観上においての事実(早い話が幻聴)です。
つまり
1.高名な占い師であるバラムは巫女的体質の持ち主、即ちトランスに陥りやすい体質だった可能性がある
2.彼は元々イスラエルを祝福するのが望みで、例え王の頼みと言えど「呪う」のは本意でなかった。
  (精神的に不安定になっていた)
更に事象その物については
3.第三者が彼が驢馬と会話している所を見ていない。(驢馬の声を聞いたのが本人のみ)

客観的に見れば一番可能性が高いのはズバリ「そりゃ幻聴」でしょう

            幻聴だ、と言う可能性はどうでしょうか


補足  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日23時18分

 先の当方の投稿の最後の段落にある「史実」は、「写実的な記録」と読み替えて下さい。


比喩や象徴  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日23時09分

*地下に眠るMさん(イソップ寓話は事実である その他 投稿者:地下に眠るM  投稿日: 1月 3日(月)22時23分53秒)

 こんにちは。無視しているわけではありません。適当なコメントが思いつかないだけの話です。

 さて、

 イッソップの寓話で動物が喋ったりするのは、ご指摘のように、人間を類型化して動物に託しているわけです。「北風と太陽」なんかは動物ですらありませんね。

 ただ、実話かというと、どうなんでしょうか?むしろ、想定問答のようなもの(これこれの場合はこうなるという話)ではないかと思います。ご存じのように、新約聖書のイエスの数々の問答も、実際にあった出来事を記録したわけではなく、一種の想定問答であったという捉え方を聖書学ではしています。「写実的に記録する」という発想自体がずいぶん後の世のものではないかと思います。

 「ロバが喋った」という話を、イエスの復活と同等の奇跡と捉える立場はあるのでしょうか?当方の知る限りでは、ロバが喋ったという話をことさらに奇跡であると強調することはないように見受けます。一方、イエスの十字架での死と復活は(いわゆる正統派の)キリスト者にとってはクルーシャルな出来事でしょう。聖書の中で動物が喋ったという記述は、民数記のバラムのロバしかないようですが(新約聖書では2箇所でバラムのロバについては引用されているようですが)、一般にはロバが喋ったという点は重視されていないようです。少なくとも、ロバが喋ったという話に自らの信仰をかけるキリスト者がいるとは思えません。原理主義者の掲げる5つの基本的な信条にも「ロバが喋った」という話は当然に含まれてはいません。つまり、枝葉の話です。

 ところが、聖書に描かれた出来事は全部史実だ、比喩や象徴ではないんだといい始めれば、ロバが喋ったのも史実だといわなければなりません。そこだけ「比喩や象徴であって本当に喋ったわけではないんだ」というわけにもいかないでしょう。1つでも例外を認めれば、「全部史実だ」という立場が崩れてしまうからです。となれば、イエスの死と復活ならぬ、ロバが喋ったというどう見ても枝葉の話の正否に自らの信仰がかかってしまいます。それは変じゃないですかと申し上げました。


原理主義とラエリアン  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日22時33分

*基世さん(流木さん、こんばんは。 投稿者:基世  投稿日: 1月 3日(月)20時24分39秒)

 こんにちは。

 キリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)というと、米国の福音派の中でも特に保守的なグループを指しますから、ラエリアンを原理主義に含めることは一般的にいえばマズイでしょうね。

 聖書に書かれている出来事を信仰上の事実だと信じるにとどまらず、歴史的な事実ないし科学的に証明できるものだと捉える創造科学の支持者はキリスト教原理主義者に含まれています(原理主義者は進化論を毛嫌いしますが、その総てが創世記を科学的に云々するわけではありません)。彼らは、あれこれの擬似科学的な証拠を挙げて、「ノアの洪水は本当にあった。化石は逃げ遅れた生き物のものだ」とか「聖書の登場人物の年齢から逆算すると、地球の歴史は1万年以下だ」といった主張を行っているわけです。

 彼らは、なるほどUFOだとか宇宙人だとかを持ち出すわけではありませんが、聖書に描かれた出来事を歴史的な事実であり、科学的に証明できるものとしている点で、「イエスは超科学技術で水上を歩行した」と論ずるラエリアンと同じ土俵に立っているといえるように思います。出来事の説明に宇宙人を持ち出してくるかどうかの違いに過ぎません。もっとも、当方のこのような捉え方がそれなりに妥当なのか、全くの見当違いなのかは判りませんが。

 なお、当方のサイトは以下のところです。こちらでの書き込みもサイトのコンテンツに反映させております。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/


イソップ寓話は事実である その他  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月03日22時23分

僕の発言はどうも流木に無視されがちなので、もうちょっとつついてみるにゃ、にゃははは

「史実」とやらがメタファーやシンボルを用いて記述されていたからといって、それが史実ではないといえるはずがにゃーのは理解できるよね?>流木

イソップ寓話は事実である、という命題をちょい展開してみようかにゃ?
なに、簡単な話だにゃ。
1)イソップ寓話で語られているような話は実際にあった(ないわけはにゃーと思う)
2)そうした人物類型は動物に託され、編纂されてイソップ寓話が成立した。
これだけ、にゃははははは

こうした認識をベースに「イソップ寓話は事実なのだあああ」と主張する者に対して
「はあ? 動物がしゃべるわけないじゃん。アニマル教ですか?」
とか抜かしたら、そいつの脳が足りにゃーのではにゃーのかね?


で、もうひとつの論点
あと、チミの発言を弄ってこんな文章をつくってみたにゃ
「そうでしょうね。「キリストが甦った」という話にご自身の信仰をかけるなど、バカげています。それでは本当にゾンビ教でしょう。しかし、あの方のお立場は「聖書に書かれていることは全部史実だ」というものなのですから、「キリストが甦った」という話が史実でない(比喩や象徴その他だ)となれば、その時点で崩れてしまいます。つまり、論理的には「キリストが甦った」という話にご自身の信仰をかけざるを得なくなるわけです。それは変じゃないですか、そういうのがキリスト教信仰のあり方なんですかとお尋ねしているのです。」

驢馬がしゃべった を神の奇跡、神の存在の顕現とみなすのなら、チミの発言は上記とまったくいっしょなんだよにゃー。
奇跡に関する信仰告白に対して、そうした論法がまったく通じないだけではなく、みていてみっともにゃーことは理解できる?


ま、たしかに「しろうと」クンのラエルっぽいバカガク主義は確かに痛いにゃ。それは認める。


てつおさん、こんばんは。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月03日21時32分

>これ以上言うつもりはありませんが。。。

と言いながら言ってるのはなぜ?

>信仰に導かれた当初のことをいつの間にか、忘れてしまって、「聖書は正しい」と口をそろえたように絶対言わなければならないなどと、背負わなくても良い重荷を背負いすぎていませんか?

確かに、信仰に導かれた当初のことをいつの間にか、忘れてしまっています。
だからと言って、「聖書は正しい」と口をそろえたように絶対言わなければならないなどという重荷は背負ってませんので、ご安心ください。
初投稿で、聖書をある程度は信じているキリスト者ですと自己紹介しましたよ。

>、「聖書は正しい」ということより、もっと多くのことをあなたは証しできると思います。

そういう理想は正しいでしょう。でも、キリスト以外の証しが無い人もいると思いますよ。全てのキリスト者にそう言ってたら、むしろ重荷を背負わせることになりませんか。


REてつおさんへ  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月03日20時35分

>>流木さんは、聖書にかなり精通されているようですので解ると思いますが、聖書には、辻褄が合わない箇所がたくさんあります。それでも、総合的に見て信じるに値するという立場の方が多いように思われます。「ロバが喋った」ということがきちんと証明されなくても、信仰は揺らがないと思います。

>(聖書が)「総合的に見て信じるに値する」から、あなたは信じたのですか?
>私の場合は、てつおさんのおっしゃるとおりです。ちがいません。

と答えられたので、これ以上言うつもりはありませんが。。。

ここですよ。あなたが救われたから、聖書を読むのですよね?

読む方の霊感 投稿者:てつお  投稿日: 1月 3日(月)14時27分21秒

を見てもらえれば、そこで私の考えを述べたつもりですが、信仰に導かれたのは、主の恵みです。
 信仰に導かれた当初のことをいつの間にか、忘れてしまって、「聖書は正しい」と口をそろえたように絶対言わなければならないなどと、背負わなくても良い重荷を背負いすぎていませんか?
 あなた自身が主により、喜びのなか悲しみのなか、救われた信仰が証しなのです。時があり、場があり、どこでも同じように言うことでは、もちろんありませんが。
 ただ、人生の途上での主イエスキリストとの出会いに端を発する信仰なら、「聖書は正しい」ということより、もっと多くのことをあなたは証しできると思います。


流木さん、こんばんは。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月03日20時24分

質問へのお答えありがとうございました。

「ロバ教」から、こんなに長く書き込みするとは思いもしませんでしたが、流木さん、しろうとさんのスタンスがよく解りました。
でも、お二人がクリスチャンなのかどうかは、未だに不明です(笑。

最後に、私の誤解や認識不足で、ご迷惑をおかけしましたことを、重ねてお詫びします。

追伸、流木さんもサイトをお持ちなのですね。よかったら行き方教えてください。


てつおさんへ  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月03日19時44分

>これは、流木さんへの質問です。どうして、てつおさんがお答えになるのですか?

 
>「総合的に見て信じるに値する」から、あなたは信じたのですか?
 信じたから、「総合的に見」ることができるようになったのでなくて?
 だから、聖書の矛盾にも、耐えられるようになったのでないか、と思いますが。ちがいますか?
 
私の場合は、てつおさんのおっしゃるとおりです。ちがいません。

>しろうとさんは、はじめ、イエスは科学的なトリックで水上を歩き、復活のとき、イエスの肉体 は宇宙人である天使に取り去られた、と言っていました。「信仰上の事実」と言わず、科学的、 歴史的な証明に腐心しようとしたのは、発言を遡れば、分かります。

その発言は知りませんでした。「ロバが喋った」ことだけで、ここまで書かれるのが疑問だったので、発言させていただきましたが、私の認識不足でした。
流木さんにはお詫びします。申しわけありませんでした。
でも、過去にそのように発言されていたのなら、しろうとさんは、ますますキリスト教原理主義者とは程遠い方のように思えます。

>繰り返して言いますが、流木さんは奇跡や復活などを否定して、このような発言をしているので はないのです。聖書を聖書以外の権威と混同して説明しようとするから、それは創造科学と同じ 態度だ、と言ったまでです。

流木さんの発言が、奇跡や復活などを否定するためのものではないことはよくわかります。
「それらを科学的に証明しようとして、かえって福音を無駄にしないように」とおしゃっていたと理解しています。
(前に、流木さんの言うことも解りますので、流木さんの投稿を読めば二人の誤解が解けるのではと書きました。)

>だいたい、クリスチャンの主語って、どうしていつも「聖書」なのでしょう?
 なぜ「私が」と言えないのでしょう?

私の文章のどこの主語を「聖書」から「私」に直せばよいのでしょうか。

>だから、流木さんの批判が、聖書への批判、クリスチャンへの批判と捉えざるを得なくなり、そ れが自分にも言われているような錯覚に陥るのでないですか?

流木さんの批判が、自分への批判でもあるとは思ってませんでしたが、もしかして、流木さん、私も批判しているのですか?
これは、ご本人に聞くしかありません。


訂正  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日19時30分

> 「聖書は歴史的な事実の記録だ」「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」とあの方はされたわけですから、「キリスト教原理主義」の立場であろうと理解しました。

 「キリスト教原理主義」と同等の立場ないし「キリスト教原理主義」の同類ぐらいが妥当でしょうか?(「同等」と「同類」とは同じか違うかといった神学論争はご遠慮申し上げます)

 宇宙人とかトリックとかはラエリアン・ムーブメントの影響でしょう。過去ログが揃えば、それなりに検証できます。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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