進化論と創造論についての掲示板ログ291

2004年12月27日〜2004年12月31日
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re:横レス2  投稿者:とんからりん 投稿日: 2004年12月31日13時02分

キンシャチさん、はじめまして。

>現代科学は生命の誕生について知らんぷりはしていないと思いますよ。
>「進化論」が生命の起源を説明しないだけ、と僕は読みましたが。

私の前回の書込みは「現代科学は生命の誕生について知らんぷりしておらず、進化論が生命の起源を説明していないだけにも関わらず、『現代科学が生命の起源について知らんぷりしている』ような話に議論が向かっている」という書込みでしたが、分かりづらかったようです。


訂正  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月31日12時36分

>またDNA/RNA以外に「遺伝子」がないとはいえないと思います。
「遺伝子」ではなく「自己複製子」と訂正します。


横レス2  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月31日12時32分

とんからりんさん。はじめまして。
現代科学は生命の誕生について知らんぷりはしていないと思いますよ。
「進化論」が生命の起源を説明しないだけ、と僕は読みましたが。

>また現在の生物が単一の起源を持つからといって生命の誕生が1回しかなかったかどうかは分かりません。一度生>命があふれてしまった後では新しい生命が誕生したとしても拡散できない可能性がありますし、もしかしたら現在>の生物につながる生命が誕生する前にもあっという間に消えてしまった生命があるかもしれません。

おっしゃるとうりです。またDNA/RNA以外に「遺伝子」がないとはいえないと思います。
生命の祖先を辿っていくと、いつのまにか無生物の高分子になってしまう。生物と、無生物の境界は曖昧でしょう。
少し話がずれました。これからもよろしくおねがいします。


横レス  投稿者:とんからりん 投稿日: 2004年12月31日11時17分

生命の起源に関する理論はネットで調べれば触りくらいはつかめると思いますが、この掲示板で議論されているのは、もっと高度な話なのでしょうか?それとも流木さんの個人的な見解なのでしょうか?読んでいて分からなくなってきました。
議論の内容からはなにか“現代科学は生命の誕生について知らんぷりをしている”みたいな話になっているような感じを受けてしまいます。多分誤解なのでしょうが。

生命の誕生が極めて稀なのか比較的頻繁に起きるかはまだ断言できるほど解明されていないのではないかと素人の私は思います。理論的には頻繁に起きえたとしても、大昔の地球が生命の誕生に厳しい環境だったとも考えられますので。
また現在の生物が単一の起源を持つからといって生命の誕生が1回しかなかったかどうかは分かりません。一度生命があふれてしまった後では新しい生命が誕生したとしても拡散できない可能性がありますし、もしかしたら現在の生物につながる生命が誕生する前にもあっという間に消えてしまった生命があるかもしれません。
生命の起源に関する研究の発展と古代地球環境の解明がいっそう進めばこうした疑問にもある程度の答えが出るかもしれません。
先ごろタイタンに降下したホイヘンスが有力なデータを送ってくれることに期待したいです。


流木さんへ 補足  投稿者:(^▽^) 投稿日: 2004年12月31日10時59分

創世記の第2章は明らかに、いくつかの詳細な点を付け加えています。それは、多くの人が結論づけているような第1章と矛盾する別の創造の記述ではありません。
それは3日目のある時点、すなわち、乾いた陸地が現れて後、陸生植物が創造される前
の状態から記述して、人間の出現に伴ういくつかの詳細事項、つまり、生きた魂としての
アダム、彼の住まいであるエデンの園、妻エバなどについて述べられています。
繰り返しますが、これは第1章との矛盾では決してありません。


流木さんへ  投稿者:(^▽^) 投稿日: 2004年12月31日10時34分

返信ありがとうございます
第2章をよく読めばお分かりのように、アダムは動物はおろか植物が造られる前に創られています。聖書の天地創造に関する記述は、自己矛盾しているといわざるを得ません。
とありましたが、これはエデンの園における事柄ではないでしょうか?
地球上には動物や草木がもうすでにありましたがエデンの園にアダムを置いた後、そこに草木を生えさせ、動物をつれてきたのではないかと思いました。

また、進化論が生命の起源を扱っていない以上、そのような対比そのものが的外れです。
とありますが生命の起源を扱わずにどう進化を説明するのでしょうか?
進化とは少数の単純な生物が長時間かけて様々な生物に変化した説だと思いますが、
そうすると生物を逆にたどっていくと少数の生物にたどりつきます。ではその生物は
どのように発生したかという疑問は生じませんか?
自然発生説もあるようですが流木さんはどうお考えですか?


信仰の一つの例  投稿者:tema@元キリスト教徒 投稿日: 2004年12月31日 8時58分

(ぱ) さん、こんにちは。

> 神による創造も、イエスの復活(その他の奇跡)も信じないのなら、その人は何をもって「キリスト教徒」と言えるのでしょうか。

 temaの場合、「イエスの教えは正しい」(注)と信ずることで、「キリスト教徒」と自称していました。キリスト教の価値は、「奇跡」では無く「教え」にある、と思っています。このため、(極論ですが)仮にイエスが空想の人物であったとしても、さほど問題はありません。

 信仰の在り方は人それぞれでしょうし、何が正しい在り方かは、信者個人が決めれば良いことだと思います。

注) 時代も場所も違うため、イエスの教え全てが現在の日本で通用するとまでは思いませんが、それでも価値は高いと思っています。


正しく読もう  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月30日20時19分

>「時は来た。神の国は近づいた」ってどういうことですか?

正しくは「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。(マタイ、4,17)


Re:獲得された形質は遺伝するのだああああああ   投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月30日19時50分

しばらく二日酔いやら風邪やらで寝込んでたので、ずいぶん遅くなりましてすみません。

獲得された形質は遺伝するのだああああああ 投稿者:地下に眠るM  投稿日:12月26日(日)11時49分27秒
>>後のキリンの首の発言についてですが、「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸び
>>た」と言う言葉が正しくダーウィニズム的に理解されるには聞き手側がダーウィニズムを
>>ちゃんと理解していることが前提で、その前提が成立していれば、手間を省くために有効
>>だけど、そうでない場合、結構な確率で誤解を生むと思いますよ。それを問題視しておら
>>れるのではないでしょうか。
>
>ダーウィニズムとその他の進化論を本質的に区別するのは何だと思うかにゃ?

といきなり言われても。
ダーウィニズムといわれれば「突然変異と自然淘汰」でしょうが、この文脈からすれば期待される答は、
「ダーウィニズムは目的論を排している」
ってとこですかねえ。
合ってますか?


歳末商戦まっただ中  投稿者:えめ 投稿日: 2004年12月30日17時51分

>「時は来た。神の国は近づいた」ってどういうことですか?生きるか死ぬか、つまり剣か聖書かってことですよね。
「さあ今から3割引!3割引!今買わないと売り切れちゃうよォ!」
って聞こえる…
 済みません。無視して下さい


合理的であるということ  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月30日16時40分

(ぱ)さん。こんにちは。
僕の意図を汲み取ってくださって、ありがとうございます。

信仰と史実
興味深いご意見です。
私見ですが、古代、学問は未分化だったと思われます。宗教は哲学であり、化学であり、礼儀作法であり、信仰するものであった。

ギリシャなどがそうですね。道教や陰陽道などはモロです。儒教もその傾向があります。孔子は探求者だった。
世界を記述したい、という欲求が宗教の原型ではないか、と考えています。

宗教は、世界を理解するためのツール(のひとつ)だったのでしょう。
アニミズム、シャーマニズム、トーテミズム、といった「原始宗教」をみればわかります。
現在と違い、観測に使える道具は限られています。
分かりやすい例を挙げれば、そうですね、宇宙の起源などはいかがですか。
現在のビッグバン理論は、巨大な望遠鏡や大型粒子加速器などの観測機器を必要とします。

しかし当然古代人はそんなものを持っていません。
自分たちの住むこの大地も、いずれかの起源を持っているのだ、と考え始めたときに、未知なる偉大な創造者にその役を担わせたことは当然といえます。

自然科学的なアプローチではなく、合理的なものの見方です。勝手にできたとするより、誰かがつくった。
その時代の合理的な解釈が、現代人がみると「超自然現象」になってしまうのです。
当時の人々はそれらを「超自然現象」とは考えずに、「神の意志」や「奇跡」と捉えたのではないでしょうか。

宗教が成立した時代と現代とでは人々の常識、立脚点が違う、ということです。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月30日16時20分

>「人の書いたものなら価値がない」とお考えのようにも見えますが、

そんなふうには考えておりません。聖書も人が書きました。

>では、文学作品や映画その他は無価値でしょうか?

無価値とは思いません。素晴らしい作品がいっぱいあると思います。


ツリー式掲示板について  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月30日16時11分

 ツリー式の掲示板のURLがだいぶ前に変更されて、ちょっと前までは旧URLでも行けたのですが、今は新URLじゃないと行けなくなっていますね。
 トップページのリンクが古いままのようです。お手数ですが修正願います > NATROM様

新URLはこちら。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/915865/bbs_thread

ちなみに旧URLはこちら。
http://bbs9.otd.co.jp/915865/bbs_thread


ロバは喋るか?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月30日16時10分

*(ぱ)さん (流木さんへ 投稿者:(ぱ)  投稿日:12月30日(木)15時44分43秒)

>それはもちろん知っていますが、そういう人は何をもって自分をキリスト者であると名乗っているのか、というのが私の疑問です。

 まあ、「何を以ってあなたはキリスト者を名乗っているのですか?」という問いに対する答えは十人十色・千差万別でしょうが、少なくとも「史実であるか否か」という点は福音派以外のキリスト者にとっては大した問題ではないということです。

 史実に拘り始めたら、旧約聖書の民数記に述べられたバラムのロバの話も「事実としてその通りのことがあった」と解釈せざるを得なくなります(注)。

(注)バラムのロバ
 バラムのロバは進路を天の御使いに妨害されたので立ち往生してしまいましたが、天の御使いに気付かないバラムはロバを鞭で打ちます。3度打たれたロバが耐えかねて人の言葉を喋ってバラムに抗議したという話です。

 カラスとかならともかく、ロバは少なくとも人の言葉で喋らないでしょう。こうした話まで「いいや、史実だ。その通りのことが事実として起きたのだ」だと言い張り始めると、ほとんどトンデモさんですね。ロバが人間の言葉を話したか否かがキリスト教信仰にとって死活的に重要な話でないことはいうまでもありません。どうでもよい枝葉の話でしょう。

>進化論者にもいろいろいるでしょうが、その中の多数派(?)と思しき人たちが、生命の起源をどう考えているか、ってことなんじゃないでしょうか。

 進化論が生物進化に関する仮説である以上、進化論の対象外の生命の起源について進化論についてある程度の知識を持っている人たちに尋ねても、意味があるのかなと疑問に思います。野球に詳しい人たちに新体操の話題を振るようなものです。生命の起源について詳しく知りたいのであれば、化学進化について述べている書籍その他を読んでみるのが結局は早道でしょう。まあ、野球ファンでも新体操に詳しい人もいらっしゃるかも知れませんが…。

 というより、創造説を信じておられる方は、現代の科学的な知見でどのように生命の起源を説明しているとお考えなのでしょうか?私はその方がよほど興味があります。


流木さんへ  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月30日15時44分

>「史実」であると信じなくても、キリスト者を名乗る人たちは大勢いますよ。「

それはもちろん知っていますが、そういう人は何をもって自分をキリスト者であると名乗っているのか、というのが私の疑問です。大勢いる、というのは私の疑問の前提であり、答ではありません。

>「進化論者」という部分は「進化論」という意味だと解釈して話を進めますが、

 うーん、元の発言どおり「進化論者」と解釈すれば、「進化論を信じている人(※1)は、生命の起源(始まり)についてどのように説明されるのでしょうか?」ということなので、進化論が生命の起源を説明しているかどうかは関係ないんじゃないかなあ。
 進化論者にもいろいろいるでしょうが、その中の多数派(?)と思しき人たちが、生命の起源をどう考えているか、ってことなんじゃないでしょうか。

 ところで、生命の起源について、私は無知なのでたいしたことは言えませんが、「確率的になかなか起こりそうもないことが起きた」ってのは事実と考えてよいんですかね?
 現状の進化論で、生命は全て同一の起源を持つとされている以上、生命の起源は一度しか起きなかった(※2)ってことですから。

※1 進化論に限らず、科学は「信じる」ものじゃないですが、まあここでは置いといて。
※2 他にも起きたかもしれないがそれらは全て早期に絶滅した、という解釈も成り立ちますかね。うーん。


進化論  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月30日15時17分

*(^▽^)さん

 補足です。進化論が生命の起源を扱わない以上、「最初の生命は神様がお創りになった」という考え方と両立することは可能です(いわゆる有神論的進化論)。ただし、キリスト教の場合、旧約聖書の創世記で生物を創った順番まで書いてありますから、現代の生物学その他の知見と整合性を持たせるのはかなり無理だと思います。あえて両立させようとすれば、細かい部分には目をつむるしかないでしょう。

 もっとも、創世記には2種類の創造説が述べられています。創世記の第1章(1−23)に見られる創造説によれば、第3日に草木、第5日に魚や鳥、第6日に動物、そして最後に人間が造られます。ところが、第2章における創造説によれば、人であるアダムがまず造られた後、草木や動物が造られ、最後にエヴァ(女性)が造られます。キリスト者の中には「創世記の第2章は、第1章で述べた創造の第6日のことを詳しく説明しただけであり、何の矛盾もない」と解釈する方もおられます。「第2章では、既に創造されていた動物がアダムの前に連れて来られただけであり、アダムの後に動物が創造されたとは書かれていない」といった主張です。しかし、第2章をよく読めばお分かりのように、アダムは動物はおろか植物が造られる前に創られています。聖書の天地創造に関する記述は、自己矛盾しているといわざるを得ません。

 「進化論は間違いで、聖書の創造説が(科学的に)正しい」とおっしゃる方は跡を絶ちませんが、進化論が生命の起源を扱っていない以上、そのような対比そのものが的外れです。さらに、そのような主張をされる方は、聖書のどちらの創造説を「正しい」と信じておられるのでしょうか?第1章の創造説ですか、それとも第2章の創造説でしょうか?


史実と信仰  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月30日14時56分

*(ぱ)さん(史実と信仰 投稿者:(ぱ)  投稿日:12月30日(木)14時42分21秒)

> 神による創造も、イエスの復活(その他の奇跡)も信じないのなら、その人は何をもって「キリスト教徒」と言えるのでしょうか。

 「史実」であると信じなくても、キリスト者を名乗る人たちは大勢いますよ。「史実である」と主張しているのは、キリスト者の中でも福音派と呼ばれる系統の人たちです。この中でさらに保守的な人たちが米国の南部諸州で根強いキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)であり、創造科学の支持者とほぼ重なるわけです。

 まあ、彼らにいわせれば、史実であると信じている自分たちだけが本当のキリスト者であり、自分たち以外のキリスト者は堕落した連中だということにでもなるのでしょうが。


史実と信仰  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月30日14時42分

 いやあ、この掲示板ではよく
「聖書に書いてあることが歴史的な事実であるかどうかという問題と、信仰とは無関係だ」
という主張が出てきますが、正直、私にはよくわかりません。
 神による創造も、イエスの復活(その他の奇跡)も信じないのなら、その人は何をもって「キリスト教徒」と言えるのでしょうか。
 聖書が「文学」として面白いとか、人の生き方としてよいことが書いてあるとか、それはそうなのかもしれませんけど、でもそれだけじゃ「孔子様がこうおっしゃった」というのと同じですし、儒教は(一応)宗教の一種とはされていないと思いますし。
 「宗教を信じる」といったときには、超自然的なナニモノカを、(自然科学的な意味で)信じるという意味が、定義として含まれているんじゃないかなあ。


てつおさんへ  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月30日14時33分

 どうもてつおさんはキンシャチさんに「絡まれた」と認識しているようですが、少なくとも私から見て、キンシャチさんの

>神の御心が行われている場所というのは、誰に対しても解放されていて、僕のような無心論者の目にも、そうとわかりますか?
>神の御心が行われる場所、というのはどういうところですか?

>信仰しないと入れない。信仰すると検証が不可能。ジレンマですね。

という疑問は、至極もっともに見えます。
 「神の国」とやらが(科学的な意味で)どこかに存在するというなら、それは客観的に検証できなければいけないでしょう。科学的な意味でないとするなら、それは「信仰の別名」でしかなく、他人に対してその存在を主張できるものじゃない。だって客観的な検証が不可能なんだから。
 こういう疑問に対し、てつおさんは
>「神のいない国」の具体的な地名、国名。あるいは条件をぜひ、教えてください。
だの、
>「神のいない国」にあなたがいるなら、身分証明書がおありなのでしょうか?ぜひ見せてください。
だの。逆ギレしてるようにしか見えません。

あげくのはてに
>あなた自身がいかに「主体的に生きる」のかという問いに、もしあなたが真摯に向き合う
>なら、これらのことが自ずと見えてくるものなのですが。。。

 …キンシャチさん(や私)は、『いかに「主体的に生きる」のかという問いに、もしあなたが真摯に向き合』っていない、と言いたわけですかね?

 ところで
>これらのことが自ずと見えてくるものなのですが。。。
 「これらのこと」って何さ?


史実でないと無価値なのか?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月30日14時31分

*しろうとさん((無題) 投稿者:しろうと  投稿日:12月29日(水)23時58分9秒)

>内容は全部誰か人間の創作で、信じるに値しないと思われているわけですね?

 聖書は人の書いたものです。旧約聖書にせよ、新約聖書にせよ、聖書学者の長年の研究によってその編纂過程はかなり判ってきています。

 「人の書いたものなら価値がない」とお考えのようにも見えますが、では、文学作品や映画その他は無価値でしょうか?史実でなければ価値がないわけではありません。私は「聖書は人の書いたもの」であることを知っていますが、「価値がない」とは思っていません。

 なお、聖書の記述を「史実」とすれば、イエスの家系図が2通りあることやイエスの幼年期についての記述が食い違うこと(ヘロデ王の迫害を逃れてエジプトに避難したか、エルサレムに宮参りにいったか)なども、むりやり合理化することになるでしょう。聖書の記述相互の矛盾ですから。

 しかし、そんなことに血道をあげるのが信仰のあり方としてまっとうなのかなと疑問をおぼえるわけですよ。屁理屈に屁理屈を重ねて聖書の「無謬性」を示したところで、あとに残るのはただの虚しさだけではありませんか。


進化論  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月30日14時11分

*(^▽^)さん(初投稿 投稿者:(^▽^)  投稿日:12月30日(木)13時51分23秒 )

 こんにちは。流木と申します。

>進化論者は生命の起源(始まり)についてどのように説明されるのでしょうか?

 「進化論者」という部分は「進化論」という意味だと解釈して話を進めますが、ダーウィンらの進化論は「生物進化」に関する仮説ですから、生命の起源は扱いません。対象外です。

 生命の起源を扱うのは、化学進化についての議論ですが、こちらはいわゆる進化論(突然変異や自然選択の理論)とは関係ありません。別の話です。


初投稿  投稿者:(^▽^) 投稿日: 2004年12月30日13時51分

こんにちは初投稿です
進化論者は生命の起源(始まり)についてどのように説明されるのでしょうか?
ちなみに私は創造論を信じています


本質的な暴力性  投稿者:Sigurd 投稿日: 2004年12月30日11時17分

こんにちは神は愛さん。

「時は来た。神の国は近づいた。心を切り替えてグッドニュースを信じなさい」

私はこういうところにユダヤ教と同じ本質的な暴力性を感じるんですが。

「時は来た。神の国は近づいた」ってどういうことですか?生きるか死ぬか、つまり剣か聖書かってことですよね。


決論は出ています  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月30日11時01分

てつおさん。ツリーに行くまでもないでしょう。
双方の見解は一致しています。ただ、表現が少々異なるだけです。

「神の国」なる場所は、この地上に存在しない。それは信仰の別名だ。そしてそれは、救いを請うことでもある。

どうですか。間違っていたら、訂正してください。いずれおなじ結論に達しているのではないでしょうか。


レスするなら、  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月30日 9時59分

キンシャチさん、
レスするなら、ツリーの方へどうぞ。
はっきり言って、あなたのその「神の国」の

>具体的な地名、国名。あるいは「神の国」たる条件

を見せろ、と言う議論は、もし神の国が、他者との「関係」にあるなら、それは、たとえば「友情」の

具体的な地名、国名。あるいは友情たる条件

を見せろ、と言うのと、同じことなのです。

神がイヤでも良い。信仰を持たなくても良い。無神論でも、何でも良い。
「主観」でもない、「客観」でもない、あなた自身がいかに「主体的に生きる」のかという問いに、もしあなたが真摯に向き合うなら、これらのことが自ずと見えてくるものなのですが。。。
あなたにはそれがまるで分かっていない。
ケータイのGPSで恋人の場所を示すことは出来ますが、「恋」はGPSではかれません。
恋は私とある人との「あいだ」にしか、ない精神的な関係です。
あたりまえ。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月30日 9時14分

>聖書はフィクションでしょう。

私はノンフィクションだと思っています。

>信仰者にとって、それがそんなに大切なことなのですか。たとえ架空の人間の教えであっても、素晴らしいものは素晴らしいのではないですか。

「架空の人間」の教えなら信じたくありません。「本当の神の子」の教えだから信じるのです。
もう止めましょう。キンシャチさん、レス有難うございました。


にゃんだ??  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2004年12月30日 9時06分

>たまごちゃん様お慈悲を

ナンで、この人は私に慈悲を乞うているのだ?
昨日、卵を二個食ったのか?

まぁ、いいや。私は気前が良いのだ慈悲くらいいくらでもあげよう。

 ・・・((((( ^-)_●~* どうぞ


神の国  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月30日 8時35分

確かにカッコの位置が違うようだ。

>「神のいる国」をこの地上に求めるのなら、そのことについて詳述するのはてつおさんだと考えます。

だから、以前、

>神の御心が行われるのは、場所でなく、あなたにあるのです。

と申し上げている通りです。。。文字が読めてます?
もし私に「トゲ」が刺さったというのであれば、それはあなたの発する問いに対してではありません。

>「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(新共同訳)これを素直に読めば、いわゆる「天国」は出てこない。いかなる次元であるにせよ空間や場所とは無関係である。とすればこれは国土ではない。
 そうではなくて「あなたがたの間」にあるという。つまり人と人との交わりの中にあるというのだ。それは関係であり、状態である。

神は愛さん、書き込みありがとうございます。

ともあれ、皆さん、良いお年を!
オイちゃん、いろいろありがとうございました!


てつおさん、しろうとさん*オイちゃんです  投稿者:神は愛 投稿日: 2004年12月30日 8時12分

 人間の不幸はどこから来るのか。人が人に支配されることから来る。金持ちは貧乏人をますます虐げ、力ある者は弱い者にあぐらをかき、しいたげられた者の声に耳を貸そうとしない。人間関係は破壊され、怒りと絶望と不安とが残る。征服する者は征服されざる人々の復讐に絶えず怯え、反逆の芽を摘もうと悪政を敷く。
 だが それはもうおしまいだと、イエスは言う。そんな悲惨な状態が神意ではない!!さあ、気持ちを切り替えようではないか。人間の救いなんて難しい神学はいいから、死後の事も神さまにまかせて 今生きているお前さんたち互いの間で神さまのお取り仕切りに身をゆだねよう!!
 こんな感じじゃなかったのかな 純朴なナザレびとイエスの天国とは パラダイスとは…ね
 イエスの教えは、そんな惨めなとらわれの状態から、人間を本来の喜びと希望の光の中へ解放することだと思います。
 「時は来た。神の国は近づいた。心を切り替えてグッドニュースを信じなさい」

 オイちゃんモスラの成虫が最後の鱗粉出して幼虫に 託すように一連の掲示板から身を引きますので 「エウアンゲリオン」に生きて下さいね。
 素敵な便りに身をゆだぬつつ
 さようなら ごきげんよう。赦しあい愛しあい。 神は愛。


たまごちゃん様お慈悲を  投稿者:神は愛 投稿日: 2004年12月30日 7時29分

 「天国」とは「ヘー・バシレイア・トーン・ウーラノーン」と言うギリシャ語(コイネー)の訳で「神の国」とも訳される。
 ウーラノーンはウーラノス(天)の複数形の属格です。しかし誤解されやすいのだ。なぜなら、「国」とは国土の概念が思い浮かぶ。でも、それはイエスの真意とは違うらしい。
 新約聖書ルカ伝17章20〜21節に「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(新共同訳)これを素直に読めば、いわゆる「天国」は出てこない。いかなる次元であるにせよ空間や場所とは無関係である。とすればこれは国土ではない。
 そうではなくて「あなたがたの間」にあるという。つまり人と人との交わりの中にあるというのだ。それは関係であり、状態である。
 「バシレイア」は「増補改訂新約ギリシャ語辞典」によると「@王たる事、王位(王権)、支配、統治A王国」とあります。

 とすれば「神の統治」とするほうが、イエス・キリストの言葉を正しく表すのにはよいのではないでしょうか。ユダヤ人は「神」ということばを無遠慮に使うことを畏れ 「天」という神の代名詞にしたらしい。

 〜続く。


(感覚的に)お久しぶりです  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月30日 5時09分

しろうとさん。こんにちは。

>そうですか?それでは流木さんにとって聖書とは何ですか?誰がいつ何の目的で書いたのだと思われますか?内   容は全部誰か人間の創作で、信じるに値しないと思われているわけですね?

聖書はフィクションでしょう。
信仰者にとって、それがそんなに大切なことなのですか。たとえ架空の人間の教えであっても、素晴らしいものは素晴らしいのではないですか。

信仰と歴史的事実とは切り離して考えるべきではないのですか。


トゲがささりましたか  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月30日 4時54分

てつおさん。以下の文章が僕には理解できません。

>信仰を「文字どおり」信じることだと勝手に定義しておきながら、自分のような無神論者には、所詮、「神の国」は「客観的」に「検証」が不可能なので、「神の国」には入れない。ジレンマだ、とあなたは言います。

カッコの位置が違います。僕の発言をよく読んでください。文字どうり、ではなく、信じる、の方につけています。この場合、だいぶ意味が違ってきます。
それに。
信仰とは信じないことなんですか?僕の発言を「勝手な定義」とおっしゃるのなら、てつおさんの考える、あるいは一般的なキリスト者の考える「信仰」とはいかなるものなのですか?
まあ、それはおいて。

> 地獄とは神の不在です。
> 天国とは神の在るところです。

> ならば、
>地上でも、神のみこころが行われるところが神の国です。
>救いとは、その神と共に在ることです。

過去にてつおさんがこのように書いていらっしゃいました。僕の質問はそれを受けてのものなのです。
なんどでも繰り返しますが、僕は無神論者です。神が「いる」も「いない」も信じていないのですよ。残念ながら。
「神のいる国」をこの地上に求めるのなら、そのことについて詳述するのはてつおさんだと考えます。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日23時58分

>ここだけ読むと、「信仰上の事実」という意味ともとれますが…。

そうですか?それでは流木さんにとって聖書とは何ですか?誰がいつ何の目的で書いたのだと思われますか?内容は全部誰か人間の創作で、信じるに値しないと思われているわけですね?


ちわ〜♪  投稿者:仔猫 投稿日: 2004年12月29日23時44分

久々に大ネタ。↓Nスペの「地球大進化」についての2ちゃんの書き込みなんだけど、
誰か見た人いる?

326 :考える名無しさん :04/12/28 21:34:36
>>323 >>325
科学的にはその通りで、凄まじいばかりの偶然の積み重ねで
多細胞になったり神経が出来たり脳が出来たりしてきたし
それ自身はまったくパワーアップでも上等でも無い。

問題はむしろそうやって「たまたま偶然出来てしまった人類」という
科学的に正しい見方をどうしても拒絶したがる脳の構造にあるのではなかろうか。

NHKの地球大進化でも「生存への意志」だとか「進化の意志」だとか
やたら電波丸出しなシナリオを捏造してストーリーを作っているが
「自分は何かしら正しい意志によって正しい欲望を持ち生きている、いや絶対そうだ。
そうでなきゃ拠り所が無くて不安で生きてゆけない。自分の生を肯定する欲望を疑うなんて
そんな事絶対に出来ない。」といった脳のメカニズムを伺わせる。


こうかな?  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日23時17分

>それでは、あなたに聞いてみましょう。
「神のいない国」の具体的な地名、国名。あるいは条件をぜひ、教えてください。
その時には、私は是が非でも、その国に行きたく思います。

それは全世界だ。こうかな?

それでは、あなたに聞いてみましょう。
「神のいない国」にあなたがいるなら、身分証明書がおありなのでしょうか?ぜひ見せてください。


キンシャチさまへ  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日23時12分

信仰を「文字どおり」信じることだと勝手に定義しておきながら、自分のような無神論者には、所詮、「神の国」は「客観的」に「検証」が不可能なので、「神の国」には入れない。ジレンマだ、とあなたは言います。

本当に「ジレンマ」なら、一度「ジレンマ」してから言っていただきたいものです。

「神の国」はどのような国か?と、私が答えに窮するだろうと思いながら、あえて試してみて、私が「神の国」は、赦し、赦される「心」にあるのだと答えると、あなたは「具体的な地名、国名。あるいは『神の国』たる条件」を示して欲しい、とさらに詰め寄ります。

それでは、あなたに聞いてみましょう。
「神のいない国」の具体的な地名、国名。あるいは条件をぜひ、教えてください。
その時には、私は是が非でも、その国に行って「神の国」を伝えようと思います。


禅の公案は結構楽しい  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月29日21時11分

楽しければいい式に読んでいる禅の公案のなかから、とっておきを紹介します。(岩波文庫「臨済録」より引用)
「鳳林和尚を訪ねる道で、一人の老婆に逢った。婆「どちらへいらっしゃる。」師「鳳林へ。」婆「あいにく鳳林和尚は不在ですぞ。」師「どちらへ行かれたか。」老婆はさっと歩き出した。師は「ばあさん!」と叫んだ。老婆が振り返ると、師は打った。
「打」を「行」に改めているバージョン(明版「古尊宿語録」)もあるようですが、打った方が面白いですよね。道を聞かれて打たれる老婆・・・もうムチャクチャ(松本零士風に)。


事実とは何か?(2)  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月29日20時32分

*しろうとさん((無題) 投稿者:しろうと  投稿日:12月29日(水)09時40分43秒)

 こんにちは。

>科学で証明できるとは思っていません。何か裏側でトリックがあったのかも知れません。
しかしガブリエルがマリアに会ったのは事実だろうと思います。
聖書に記されていない何かが行われたかも知れません。

 ここだけ読むと、「信仰上の事実」という意味ともとれますが…。

>また、イエスが自分で墓から出てきたとは書かれていません。書かれてはいない何らかの出来事があったのではなかろうかと推測しています。

 イエスが墓から出てきたと述べているのは、確か、ペトロによる福音書でしたか。あれは、正典ではありませんが。

>水上を歩くことも超高度な科学技術のバックアップがあれば可能ではないかと思われます。

 ここを拝見すると、擬似科学的な解釈としか読めません。まぁ、「イエスは反重力ロケットで水の上を歩いた(飛行した?)」という解釈をするキリスト教系の新興宗教もありますからね。


Re意地悪な質問1のお答え  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月29日19時54分

てつおさん。丁寧なお返事ありがとうございます。
さて、僕の訊きたかったこととは少しずれてきているようなので、そこのところを少々。

僕は無神論者です(以前の投稿で「神」を「心」に変換ミスしました。訂正します)。そのような者が知覚できる、「神の国」(この言葉を今僕は「神の御心が行われる場所」と同義に使っています。この二つの言葉はイコールと考えていいですね?)はこの地上に存在するのかを問うたのです。具体的な地名、国名。あるいは「神の国」たる条件などです。

てつおさんのおっしゃることを要約しますと、信仰を持たないと「神の国」を知覚できない、ということになるのでしょうか(間違っていたら訂正してください)。以下、その判断に従って考えを述べさせていただきます。

信仰を持って「神の国」に臨む場合、信仰者には客観的な判断ができなくなると思われます。信仰するというのは、文字どうり「信じる」ことですから。信仰を持たない者が客観的に検証できない以上、「神の国」は地上に存在しないと考えます。

信仰しないと入れない。信仰すると検証が不可能。ジレンマですね。

>その古事記も、ユダヤ人の子孫によった、という都合の良い説があるらしいですよ。この辺は、流木さんが詳し >いです。
失われた十氏族とか、竹内文書のことですか?興味深い「と書」ではありますね。


トリックと言えば・・・  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2004年12月29日19時53分

お前らのやってることは、全部全てまるっとお見通しだ!!

蛍と言えば
なんで、肛門科なんだよぅ


Re:宇宙人と聖書  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日19時26分

てつおさん、あのサイトはいかがわしいのかも知れませんね。半信半疑です。
しかしある意味、聖書は初めから終わりまで異星人とのコンタクトの記録のようにも見えます。
雲とはUFO、天使とは地球外人類…今はそれについてもう少し学んでみようと思っています。
まだあれこれ意見を語れる段階ではありませんので書き込みは控えます。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日19時14分

トリックって言葉は何か誤解されそうなので取り消します。
しかし現実には現代科学でも解明できない不思議な現象も起こっています。
目に見えない世界のことについてもっと学びたいと思っています。
しばらくは書き込みをひかえます。失礼しました。

http://www21.0038.net/~gaia-as1/formation.html


宇宙人と聖書  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日18時35分

しろうとさんの紹介にあったリンク先は、ニューエイジのひとつだと思うのですが、
エドアルド・マイヤ−氏が宇宙人とコンタクトして、そこから色々、始まるのですよね?
しろうとさん自身、聖書はよく読んでおられるようですが、
エドアルド・マイヤ−氏の宇宙論と聖書がどうつながるのか、今いち、掴めません。
その辺言って頂くと、助かるのですが。。。

http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/earth2.html


蛍食いな  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年12月29日16時51分

>まっさきに連想したのはキウイだったけど、日本にはいないしなぁ(笑)

 ご親戚のクイナがいまっせ。検索してみたら半夜行性だし、
水辺によく出没したりするから生態的には蛍とよく遭遇しそう。

 もっともクイナが蛍を捕食したとしても、生息密度が低いからたいして
たいした脅威にはなりそうもない感じ。


イエスはトリックで水上を歩いた?  投稿者:ゆん 投稿日: 2004年12月29日12時31分

イエスが実際にはトリックで水上を歩いたと考えるのって、
不敬な考えにはならないんですか? トリックで奇跡を起こして
見せたっていうのだと、麻原の空中浮揚と大差ないような気が
するのですが……

(素朴な疑問です。信仰批判のつもりはありません)


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日11時36分

>しろうとさん。おそれず、じっくり、自分と自分の宗教のあり方を見つめて行きましょう。

てつおさん、大変善いHPですね。じっくりと読まさせていただきます。

http://homepage3.nifty.com/koffer/souzou/index.html


あれ?  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日10時08分

「意地悪な質問1のお答え」がだぶってしまいました。すみません。

しろうとさん。おそれず、じっくり、自分と自分の宗教のあり方を見つめて行きましょう。
自分もあなたと一緒に考えて行こうと思います。すなわち、自分の「望み」が何に打ち立てられているか、をです。


意地悪な質問1のお答え  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日 9時51分

>てつおさん。質問です。
>今現在、地上で神の御心が行われているところがありますか?
過去に地上で神の御心が行われていたところはありましたか?

 上田敏(1874-1916)の名訳で、カール・ブッセ(独 1872-1918)の
「山のあなたの空遠く幸(さいはひ)住むと人のいふ。」
ではありませんが、幸(さいはひ)、いわゆる「神の国」はどこにあるのでしょうか。
 それはマルクスの言うような、「真理の来世」でしょうか?
 イエスは「悔い改めなさい。神の国が近づいた。」と宣言されました。その「神の国」について、ルカ福音書(17:20〜17:21)によれば、

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

と語られました。「あなたがたのただ中にある」、とはどのようなことを言うのでしょう?

>神の御心が行われている場所というのは、誰に対しても解放されていて、僕のような無心論者の目にも、そうとわかりますか?
神の御心が行われる場所、というのはどういうところですか?

イエス様が十字架に付いたとき、同じくルカ福音書(23:39〜23:43)によれば、

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
刑罰を受けて十字架についた犯罪人のうちの一人が、実は自分とともに十字架についたこの方が、義なる方、イエスその人だったのだ、と知ったとき、彼はすでにイエスとともにパラダイスにいたのだ、とも言えるのではないか、と思います。
パラダイス、すなわち神の国とは、神とともにある、イエスとともにある、赦し、赦される国、ということになります。神の御心が行われるのは、場所でなく、あなたにあるのです。
あなたを傷付け苦しめてきた人があれば、そこに。あなたが傷付け苦しめてきた人があれば、そこにこそ、神の国があるのです。現実を見つめて、自分は心豊かな人間では決してない、実に心が貧しい人間なのだと悟り、赦しを乞う願いを以て、主イエスに告白し、近づくなら、その時は幸いです。神の国はあなたのものです。イエスがともにいてくださる、そこに神の国があるからです。

>少し意地の悪い質問だったかもしれません。ゆっくり考えてください。
「意地悪」ではありませんよ。ゆっくり考えてください。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日 9時40分

>処女懐妊にせよ、イエスの復活にせよ、それを信仰上の真実だと述べることはできるでしょう。しかし、それらの現象を「科学的に証明できる」と述べれば、それはもはや擬似科学に陥っているといわざるを得ません。

科学で証明できるとは思っていません。何か裏側でトリックがあったのかも知れません。
しかしガブリエルがマリアに会ったのは事実だろうと思います。
聖書に記されていない何かが行われたかも知れません。

また、イエスが自分で墓から出てきたとは書かれていません。書かれてはいない何らかの出来事があったのではなかろうかと推測しています。

水上を歩くことも超高度な科学技術のバックアップがあれば可能ではないかと思われます。


意地悪な質問1のお答え  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日 9時38分

>てつおさん。質問です。
>今現在、地上で神の御心が行われているところがありますか?
過去に地上で神の御心が行われていたところはありましたか?

 上田敏(1874-1916)の名訳で、カール・ブッセ(独 1872-1918)の
「山のあなたの空遠く幸(さいはひ)住むと人のいふ。」
ではありませんが、幸(さいはひ)、いわゆる「神の国」はどこにあるのでしょうか。
 それはマルクスの言うような、「真理の来世」でしょうか?
 イエスは「悔い改めなさい。神の国が近づいた。」と宣言されました。その「神の国」について、ルカ福音書(17:20〜17:21)によれば、

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

と語られました。「あなたがたのただ中にある」、とはどのようなことを言うのでしょう?

>神の御心が行われている場所というのは、誰に対しても解放されていて、僕のような無心論者の目にも、そうとわかりますか?
神の御心が行われる場所、というのはどういうところですか?

イエス様が十字架に付いたとき、同じくルカ福音書(23:39〜23:43)によれば、

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
刑罰を受けて十字架についた犯罪人のうちの一人が、実は自分とともに十字架についたこの方が、義なる方、イエスその人だったのだ、と知ったとき、彼はすでにイエスとともにパラダイスにいたのだ、とも言えるのではないか、と思います。
パラダイス、すなわち神の国とは、神とともにある、イエスとともにある、赦し、赦される国、ということになります。神の御心が行われるのは、場所でなく、あなたにあるのです。
あなたを傷付け苦しめてきた人があれば、そこに。あなたが傷付け苦しめてきた人があれば、そこにこそ、神の国があるのです。現実を見つめて、自分は心豊かな人間では決してない、実に心が貧しい人間なのだと悟り、赦しを乞う願いを以て、主イエスに告白し、近づくなら、その時は幸いです。神の国はあなたのものです。イエスがともにいてくださる、そこに神の国があるからです。

>少し意地の悪い質問だったかもしれません。ゆっくり考えてください。
「意地悪」ではありませんよ。ゆっくり考えてください。


意地悪な質問2のお答え  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月29日 9時37分

>意地悪ついでにもう一つ。質問ではなく、意見です。

>幼い子供が大人のだれかに、「今日のお弁当の中身はなに?」と聞かれて、それを言葉で伝えるようなものかもし>れません。その子は、ご飯と梅干を対比させて言うかも知れません。野菜とから揚げ、玉子焼きとウィンナーを対>比させて言うかも知れません。拙いながら、それだけでも弁当をつくってくれた母親の細やかな愛情が伝わるもの>ではないでしょうか?その子に弁当の中身を聞いた大人は、調理法について、あるいは調理の順番について、あれ>これ詮索するわけでないのですから。

>おっしゃりたいニュアンスは伝わってくるのですが、創世記の口伝者を幼い子供に喩えるのは適切ではないと考えます。口伝者を必要以上に矮小化していませんか?

「科学の説明が聖書に近づいた」として、天地創造やノアの洪水を現代地球科学と符号的に調和させる解釈もあります。けれども、古代オリエントの世界観を現代科学の用語を用いて、証明しなければならないという道理はありません。からといって、そこから汲み取るものがないというのでは、決してありません。古代オリエントの世界観を、現代科学の地球観、世界観から見て、私は「幼い子供」と称したわけですが、幾分、愛嬌を込めたつもりで言いましたが、「矮小化」と取られたようでした。

>また、対句表現と細やかな愛情は無関係ではないでしょうか。

対句表現はイメージの鮮烈さにあります。対句表現と細やかな愛情は無関係です。ただし、私が言わんとしたことは、書かれたものの文体(弁当の対句表現)に、細やかな愛情が感じられる、ということでなく、神がこの世界(弁当の中身自体)を造ったということに、愛情が感じられる、ということでしたが。。。

>天地創造のくだりは僕も大好きです。イマジネーションをかき立てられるという点が、ですが。古事記なんかはそこのところ下手ですよね。延々長い神様の名前が並んでいて。

その古事記も、ユダヤ人の子孫によった、という都合の良い説があるらしいですよ。この辺は、流木さんが詳しいです。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月29日 9時28分

>エホバは全知全能の造物主だと信じていらっしゃいますか?
その能力(と、表現してしまっていいのかな?)は、過去、現在、未来にわたっているとお考えですか?
>キリスト以後に預言者は現れていますか?

私はこういう分野はしろうとなので分かりません。私がお尋ねしたいです。

http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/earth2.html


事実とは何か?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月28日23時05分

*しろうとさん((無題) 投稿者:しろうと  投稿日:12月28日(火)17時39分34秒)

 こんにちは。

>書かれている通りの事が実際にあった、という意味です。作り話ではないと思っています。

 「作り話」かどうかをお尋ねしているのではないのですが、当方の意図がうまく伝わらなかったようですね。

 処女懐妊にせよ、イエスの復活にせよ、それを信仰上の真実だと述べることはできるでしょう。しかし、それらの現象を「科学的に証明できる」と述べれば、それはもはや擬似科学に陥っているといわざるを得ません。

 あなたの信仰は尊重しますが、仮に擬似科学的な解釈をなさっておられるのであれば、それは見過ごせないというだけのことです。

 なお、「イエスが水の上を歩いた」という奇跡を「写実的に」イエスが単に水の上を歩いたことと理解する立場もありますが、「水」とは人の「心」「内面」のたとえであるとする解釈もあります。日本語でも「心が波立つ」といいますしね。ペテロがイエスに向かって水の上を歩いていこうとして、途中まではうまく歩けたが、足元が心配になった途端沈みそうになる云々も、イエス以外のことに気をとられると、道を誤るという意味が込められているのだといった解釈です。

 私個人としては、「写実的に」聖書の記述を理解して、「イエス様は水の上を歩いた。さすが、神様はすごいよね〜。何でもおできになっちゃうよね〜」という見方より、その記述の行間を読んで、現代的な問題意識に照らしてそこから学ぶという姿勢に共感を覚えます。ただ、この点は人それぞれでしょうから、どちらが正しいとかいう問題ではないでしょう。「写実的に」理解する立場があっても当然よいわけです。

 もっとも、聖書を「文字通り」受け取ることは誰にもできません。聖書の記述が過去から未来に向けて一語一句たりとも改変されなかったとしても、字句を読んで解釈するのは人間だからです。解釈は人の数だけあるのです。福音派の方々のお話を伺っていると、字句を字句のまま理解できるかのように錯覚しておられるように思えます。そんなことが可能なら、世の中に誤解というものは存在しないことでしょう。


もう一度、質問  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月28日21時15分

しろうとさん。
気になることがあるので、もう一度お訊ねします。
エホバは全知全能の造物主だと信じていらっしゃいますか?
その能力(と、表現してしまっていいのかな?)は、過去、現在、未来にわたっているとお考えですか?
キリスト以後に預言者は現れていますか?

てつおさん。
少し意地の悪い質問だったかもしれません。ゆっくり考えてください。
意地悪ついでにもう一つ。質問ではなく、意見です。

>幼い子供が大人のだれかに、「今日のお弁当の中身はなに?」と聞かれて、それを言葉で伝えるようなものかもし>れません。その子は、ご飯と梅干を対比させて言うかも知れません。野菜とから揚げ、玉子焼きとウィンナーを対>比させて言うかも知れません。拙いながら、それだけでも弁当をつくってくれた母親の細やかな愛情が伝わるもの>ではないでしょうか?その子に弁当の中身を聞いた大人は、調理法について、あるいは調理の順番について、あれ>これ詮索するわけでないのですから。

おっしゃりたいニュアンスは伝わってくるのですが、創世記の口伝者を幼い子供に喩えるのは適切ではないと考えます。口伝者を必要以上に矮小化していませんか?また、対句表現と細やかな愛情は無関係ではないでしょうか。

天地創造のくだりは僕も大好きです。イマジネーションをかき立てられるという点が、ですが。古事記なんかはそこのところ下手ですよね。延々長い神様の名前が並んでいて。

「ひかりあれ」
史上最高の名文句だとおもいます。史上初のタイトルも同時に与えるべきですかね。


平等に愛せよ  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月28日20時51分

 そう言えばイスラム教では、「どの妻も平等に愛せ。それができない男は複数の妻をめとる資格はない。」なんて意味のことを言われてますね。
 中国古典任侠小説?の「十三妹」なんか、姉妹が同じ男の妻になって「3人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」なんてのがハッピーエンドだったりする。


新たな愛人  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月28日20時47分

>それはやっぱり、不倫、なのでしょうか?

 不倫と呼ぶ人はいないでしょうが、愛の海に溺死する○バカ、とは呼ばれるでしょう(^^;。

>  それと、やっぱり、好ましいことじゃないんですか...? (-_-;)

 極端な話、元愛人をほったらかしすぎて破局に至れば、一番つらいのは現愛人ですよね。現愛人の生殺与奪の権は元愛人が握っているのですから、元愛人を守ることで間接的に現愛人を守るというのが賢い戦略というものでしょう。
 ま、なんだかんだ言っても両愛人間の絆も強いんですから大事に至る可能性は少ないとは思いますけど、これが男女逆の場合はマジでやばいケースは普遍的ですね。守ると誓ったガーディアンにとっては予想外の攻撃の一例ですなあ。


天地創造について  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月28日19時03分

もともと創世記の天地創造物語は、口伝によることだったことを考えると、大事なのはイメージをより鮮明に伝えることにあっただろうと思います。詳細は触れませんが、そこには際だった対句表現が見られます。そしてそれは、幼い子供が大人のだれかに、「今日のお弁当の中身はなに?」と聞かれて、それを言葉で伝えるようなものかもしれません。その子は、ご飯と梅干を対比させて言うかも知れません。野菜とから揚げ、玉子焼きとウィンナーを対比させて言うかも知れません。拙いながら、それだけでも弁当をつくってくれた母親の細やかな愛情が伝わるものではないでしょうか?その子に弁当の中身を聞いた大人は、調理法について、あるいは調理の順番について、あれこれ詮索するわけでないのですから。

下記URLを参照ください。(私の)

http://homepage3.nifty.com/koffer/souzou/index.html


Re:Re:奇跡1〜2   投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月28日18時36分

大文字ナン様

 脚の障害について、そのようなプライベートな部分で、臆面もなく、信仰の解釈として私が申し上げたことは、他方で無礼だったと思います。「たとえば」が「たとえば」でなかったからです。どうか、お赦しください。そして、大事になさってください。
 信じることは「教会」にあるのでなく、だれの心にもあるものです。「神」と「恵み」とは教会の内部にとどまるものではありません。風を捕らえることが、だれにも出来ないのと同じようにです。また太陽の光が、だれにでも惜しみなく注いでいるのと同じようにです。神も良心もえこひいきなどありません。
 そういったことを踏まえて語るべきところを、先日からの議論の延長として語ってしまったがために、申し訳ないことをしたのではないかと、危惧致しております。

>>人が人の言葉を受け入れる理由

>ほとんどの場合「それが耳に易しいから」でしょうね。

愛の言葉は愛にとどまる、と言いたかったのですが。。。

※キンシャチさん、今日中にレスできないかも。ちょっと待っててください。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月28日17時39分

>あなたのおっしゃる「書かれている通りの事があった」というのは、どのような意味ですか?

書かれている通りの事が実際にあった、という意味です。作り話ではないと思っています。


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月28日17時36分

>しろうとさん。
あなたはほんとうに、聖書のすべての記述を当時の歴史の記録だと信じているのですか?

はい、そうです。

>もうひとつ。キリストは奇跡を行ったから偉大なのですか?あるいはすばらしい教えを解いたから偉大なのですか?

両方です。


>SFと神  投稿者:JA50 投稿日: 2004年12月28日12時10分

小松左京です。
SFマガジンで読んだもので、単行本かされているかどうかは知りません。

偉大なる存在(だったと思います)なんて、水の上を歩くとか病を治すなどというのは原爆の前の線香花火ですよ、、、(^^)
復活!、、、なんて、それってゾンビじゃないかと言いたい。
どなたかが言われていましたが、奇蹟で神かどうか判定されたり価値が決まったりするわけじゃない。

そういやぁ、小松左京さん、今どうしているんだろう、、、


夜行性の鳥  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年12月28日10時20分

 まっさきに連想したのはキウイだったけど、日本にはいないしなぁ(笑)
 フクロウ・ミミズクの他に日本にいそうな夜行性の鳥……ヨタカ? でもあれはガを食べるだろうし。
 トラツグミも夜行性でミミズ等を食べるとあるのでホタルの幼虫も餌になりうるかも?


鳥よりも  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2004年12月28日 9時44分

虫食性の哺乳類対策なんじゃないの。多くのホタルの幼虫は陸生で地べた這っているわけだし。


蛍の発光  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年12月28日 8時47分

夜行動する(少なくとも餌を見つけるために)鳥って、フクロウ以外には知らないんですが、どうなんでしょう。で、フクロウと蛍の生活圏は重なるのか。フクロウは蛍を食べるのか。疑問は尽きません。


RE>SFと神  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月28日 8時24分

>神への長い道、、、だったかな、私はこれが一押し。
JA50さん。こんにちは。
小松左京、でしたかね。アマゾンで探してみたけどヒットしなかった。
アシモフのエッセーに「人間への長い道のり」というのがあります。

仏教宇宙論SFで谷甲州の「天を超える旅人」(早川文庫)がすばらしいです。
仏教の「無」の思想って、宇宙論とあうのでしょうかね。
バリントン・ベイリーの「禅・銃」という傑作もあります。


質問です  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月28日 8時06分

しろうとさん。
あなたはほんとうに、聖書のすべての記述を当時の歴史の記録だと信じているのですか?
もうひとつ。キリストは奇跡を行ったから偉大なのですか?あるいはすばらしい教えを解いたから偉大なのですか?

てつおさん。質問です。
今現在、地上で神の御心が行われているところがありますか?
過去に地上で神の御心が行われていたところはありましたか?
神の御心が行われている場所というのは、誰に対しても解放されていて、僕のような無心論者の目にも、そうとわかりますか?
神の御心が行われる場所、というのはどういうところですか?


まあ、それはよいのですが…  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月28日 0時33分

*しろうとさん(私は信じます 投稿者:しろうと  投稿日:12月27日(月)19時26分59秒)

>私の場合は書かれている通りの事があったのだろうと思っています。
マルコ書の中でイエスご自身が自分の身に起こる出来事を予言しています。
第10章の32節〜34節をお読みください。

 まぁ、あなたや福音派の方々が聖書の記述をそのように「写実的に」信じられるのは一向に構わないのですが、キリスト者の中にもあなたとは見解の異なる人たちがいることはご承知でしょう。使徒信条を受け容れたからといって、総てのキリスト者が聖書の記述を「写実的」に理解しているわけではありません。

 また、「写実的」にその通りのことがあった(例えば、イエスは水の上を歩いた)として、それを信仰の上のみならず、「科学的にも正しい」といい始めれば、擬似科学の立場に陥っているといわざるを得ません。あなたのおっしゃる「書かれている通りの事があった」というのは、どのような意味ですか?


「純!」いや、EzoWolf 様  投稿者:えめ 投稿日: 2004年12月27日23時21分

>たまごちゃん (^-^)ノ の警告説が一番可能性が高そうに見えるけれど、
>だれか確かめた人はいないのだろうか。

成虫での補食実験の有無については書かれていませんが、幼虫の補食実験では魚類(金魚・ヤマベ)は食べないようですが(分泌線からくっさいのを出すそうで)、でもヤゴなんかは気にせず食べる様ですね。
(参考元)http://members.jcom.home.ne.jp/hotaru-net/hotaru/hajime.html#目次
ちょっとここを読んでみましたが、教祖様とほぼ同じ理由が書かれていました。
自分としては教祖様に異論を挟もうと1時間下書きした後に確認のつもりで検索しただけなんだけど…
結局書き方教室に費やした1時間でした。悔しいので
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
…卵が不味いと言うのは考えられるのでしょうか?これは初耳ですし、蛍に限らず様々な生物に関してすらこんな事今まで考えたこともなかった。
       別に卵教の教祖様だからおべっか言っているんじゃなくて
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今回はこの言葉だけをここに上げさせていただきましょう。


Re:奇跡1〜2  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年12月27日22時44分

 てつおさん、レスありがとうございます。

>「救われようとしない」のも、キリスト教的に言えば、罪です。主イエスを信じ、「救われた」のは、恵みです。

 なるほど、私が「救われたいとは思わない」というのは「神とか宗教などに」を頭につけなければ間違いでした。一方で、医師や、医学や、家族や、あるいは自分自身の治癒力や、その後の鍛錬というものに「救い」を求めたのは事実なのです。そして、私風に考える神というものがもしもあるのなら、それさえも「神の御業」であって、「恵み」は、ある教義への信仰や教会への帰依とは少しも関わりなくもたらされるだろうな、ということなのです。

>「脚の障害」の癒しについては、そのような営みを送りつつも、望みを捨てるべきでもないように思うのですが。いかがでしょうか?

 思想や信条という面で、私にとっての「祈り」は、たとえばトレーニングをすることだとか、自分の陥った状況を少しでも正確に把握するために整形医学の本を読むことだったわけです。医療についても信仰と同じような面が実はあって、セルフ・コントロールや積極的に自分の疾患と取り組む姿勢がなければ、治癒はなかなかもたされないでしょう。
 てつおさんの考える「望み」がどんなものであるかは分かりませんが、私は望みを持たないわけではありません。また、生まれたままの機能に「奇跡的に回復する」とも思いません。一部の機能は欠損したかも知れないけれど、それを代替して余りある機能を自分で得て、心に思い描く理想的なラインで雪山に挑むことが出来れば…そんなのが私の「望み」なのです。

>十字架の復活も、奇跡も、創造も、すべて、自分が神に愛されている、と信じたからこそ、みな、受け入れることが出来たはずなのです。

 恐らく、これは本当に根拠の薄い経験的な推察ですけれど、救う対象が「自己」であるうちは、結局エゴイズムの一種にしか他者には見えないだろう、と思います。言葉を変えると、神の言葉だとか愛というものが、本当にそのひとに宿っているのであれば、それこそここで論じられてきたような「くだらない対立」そのものがないはずなのではないでしょうかね。

>人が人の言葉を受け入れる理由

 ほとんどの場合「それが耳に易しいから」でしょうね。


>SFと神  投稿者:JA50 投稿日: 2004年12月27日22時17分

神への長い道、、、だったかな、私はこれが一押し。
その他、偉大なる存在とか。


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