このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
> そのようですね。「この時代にこの石器が出るのはおかしいだろ?」と思っても、「まあ、出たものは仕方ないや」で済まされたというのは、部外者にはよく分からないところです。常識的には「不自然だ=>捏造では?」となりそうです。先の書き込みでは、「面倒なことになるのを避けた」という見方を述べましたが、それが十分に説得的なのかどうかは分かりません。
まず、石器の場合、製造年代を直接計測する方法が無い場合が多いと言う点をご理解ください。旧石器時代の編年は、石器が発掘された地層など周囲の環境から測定され、石器の形式と結び付けられています。
日本での旧石器は発掘数が少なく、他の石器との比較が難しかったこと。また、石器は比較的狭い範囲で特殊な傾向がみられることがあることから、出土した石器が「不自然」とは言い切れないということだそうです。
尚、朝鮮半島や中国の石器と比較して疑いを持った学者は少なからずいるようですが、彼らが発言しなかったことが「面倒なことになるのを避けた」のか、反証に足る証拠を集められなかった為かは私にはわかりません。
ただ、この偽造が科学者の手ではなく新聞記者の手で暴かれたことを私は残念に思います。
シンさま
> ところでトトロというハンドルネームはとなりのトトロからですか?もしよかったら教えてください。イエス、ノーだけでも結構です。
元は、おっしゃるとおり「となりのトトロ」からです。私は比較的見事な(変な日本語ですが)ビア樽体型なので、となりのトトロが公開された時に、このあだ名が付きました。
というのが表の(?)設定です。それ以前、私はHNとしてTTROと名乗っていましたから、それがトトロと読み替えられたのです。TTROは漢字Talk(Macintoshの古いOS)のRead Only Textのファイル属性名です。
(ぱ)さま
>> 私の死についての理解は、私の思考が完全に消失することなので、
>
> 私もおそらくそうだろうとは思ってるんですが、これ、検証は不可能ですよねえ。
思考の消失を直接検証することは多分、不可能でしょう。私は思考は脳という器官が担っていると理解しており、脳内の神経細胞のイオン濃度による電位や神経細胞のネットワークが思考を形成していると理解しています。
それ故、思考を維持するためには何らかのハードウエアが必要であると考えており、ヒトの死を観察しても、そのような代替ハードウエアが形成されること及び思考に必要なハードウエアの初期条件が死んだヒトの脳から取り出されるという過程が観察できないことから、私の「思考が完全に消失する」という結論が導かれています。
> だから「死後の世界」があるかどうかについては、あるともないとも言えないです。「死後の世界」は反証不能な命題だと思います。
私が知っている現在の科学理論で、死後に思考の保存を行えるようなプロセスを構成できるものは無いと理解していますが、そのような理論(を担保する証拠)は未だ見つかっていないだけなのかも知れません。故に”「死後の世界」は反証不能な命題”だという主張には同意いたします。
しかし、現在の科学的理解をベースに死というものを理解することは、その「反証不能な命題」によって妨げられるわけではないと考えますので、他の科学理論と同じくらい、私の死に対する理解は正しいと考えています。
> んなことを生きてる間に考えてもしょうがないじゃん、ってのが、今の私の立場です。
完全に同意します。私は死後の世界の存在を持って現世の倫理観を説くことは問題があると考えています。
政治家や指導者の責任は、やったことの是非によるものであって、その人が善人かどうかではないと思うけどね。
っつーか個人的な意見として、「自分を疑う事をしない“善人”の“善意”ほど厄介なものは無い」って思ってるけど。
政治家に必要なのは善人か悪党かではなく、やる事がまともかどうか、ということだろうし。
いくら善人の政治家でもとんでもない事を仕出かしてくれる人間よりは、私腹を肥やす事もちゃっかりやりながらその責務を全うしてくれる人間のほうが良い。
・・・もっとも今の政治家は「私腹を肥やそうとしながらも責務を果たそうとしない」馬鹿者が多いのが難点。。。
>(波平恵美子 医療人類学入門 朝日新聞社から 要約して引用)
おお、さんきゅ。
>信じ込めばかなりの荒技でもできるものですが、器質的な疾患を完全に治癒させるのはまず無理です
そりゃそうだろうにゃー
むかーしのネタにもかかわるけど、西洋近代医学を他と隔絶した療法としたのは、まさにこの「特定病因説」にほかならにゃーもんな。この「特定病因説」が細菌性の伝染病に対して劇的な治癒実績を示したちゅうのは、科学史のみならず人類史的なトピックといっていいからにゃー。
キリスト教の宣教師にとっても、抗生物質は強い武器だったのではにゃーだろうか。
西洋医学の恩寵がなかったら、キリスト教もここまで広まってなかったかもしれにゃーもの。
>昔はウイッチドクターになりたかったんです。今は正反対の仕事してるけど。でも部屋に飾っている絵は錬金術師の肖像だったりする。
パラケルススか?
「ポルポトは善人」という言明を支持するにゃ。
付け加えると
「ポルポトは、自らの善意にいささかも疑いを抱くことのない善人だった」
こうした、「確信善人」なんざ、どこの社会にもいくらでもいるさ
(推定では善人の90%)
ところで、マルクス主義の持つ教条的で抑圧的などうしようもにゃー1面。
なにかというと、無辜の民を虐殺しまくる側面。
これらはユダヤ人であったマルクスが、ユダヤ教やキリスト教に表面的には反発しながら、
実はそれらをモデルに体系をつくってしまったからだ、という指摘はよくなされているにゃんね。
「共産主義の虐殺は、キリスト教の魔女狩りや十字軍を引きついただけさ。一神教はそうなんだよ」
ちゅうことになるらしい。
こうした言明を僕は単純に支持するつもりはにゃーけど、キリスト者がそうそう簡単に共産主義を非難できるものかとも疑問に思うのは確かにゃんな。
スタージョンの法則なら
「クリスチャンも共産主義者も、90%は屑である」でオシマイにゃんが
18〜19世紀ごろの欧州は啓蒙的なロマン主義が花盛りだったにゃんね。
当時は、ニンゲンの未来にはばら色の夢が約束されていたような時代だったようですにゃ
で、ばら色にみえる世の中の矛盾を鋭くついて登場してきたのがマルクス主義にゃんな。
しかし、マルクス主義そのものも、実は1種の進歩史観だったんだよにゃー。
この進歩主義史観というのを、ごく乱暴に定義すると
「ニンゲン(そのもの、あるいはその社会)は、本質的な意味で賢くなっていく」
ということだと思うのだにゃ。こうした立場を僕は「啓蒙ロマン主義」とかってに名づけているのだにゃ。マルクス主義というのは、この「啓蒙ロマン主義」最大のビッグ・ウェーブだったのではにゃーかと。
だから、若くて真面目な奴がガンガンひっかかっちゃうのだにゃ。
「20歳で共産主義者でないものは心が病んでいる
30歳になっても共産主義でありつづけるものは頭が病んでいる」
これはド・ゴールの名セリフにゃんな。
ソ連・東欧・中国などの国家における社会主義でなく、西ヨーロッパにおける社会主義の研究においては、マルクス主義の、いわば「普遍に対する無邪気さ」が断罪されていますにゃ。マルクス主義は、文化伝統やニンゲンの心理というものを簡単に見過ぎていた。それが多くの致命的な誤りを産んでいったと反省されていますにゃー。
しかしまあ、しょうがなかったいえばしょうがなかったのでにゃ。ロマン主義というものは、どうしても普遍を目指してしまうものですからにゃー。
つまり、20世紀における、いわゆる社会主義の敗北を、こういいかえることもできると思うのですにゃ
「機械的に定式化された「普遍」が、文化伝統や人間の心理に敗北を重ねた世紀」と。
生物学者においても、サヨクの人は進化心理学が嫌いなことが多いけど、それじゃいけにゃー
サヨクにおいてこそ「普遍」という理念が要諦になるんだから、そこのところを野放図な文化相対主義に任せては、いつまでたってもサヨクは馬鹿なままだし、本質的にはポルポトと変わりなくなっちまうのだにゃ。
サヨクこそ進化心理学、これでいかなくちゃ
普遍を取り戻せばサヨクは死なにゃーのだ
興味深く拝見しておりますにゃー
ニンゲン観において、いくつもの対立軸というものが数えられますよにゃ。
その中でも主要なもののひとつに「氏か育ちか」「遺伝か環境か」というものがありますにゃー。
で、一般に「左」と自認する人にある程度広く見られる傾向として、前述の対立点において「環境重視」に傾きがちだと思えるのですにゃ。
「ニンゲンの心理とは社会制度によって構築される。
例えば、奴隷根性は奴隷制度によって培われ、資本主義的な利己性は資本主義において育まれる。
社会をかえれば、ニンゲンも変わるであろう」
こうした発想は、今ある社会に不満を持っているものには受け入れられやすいよにゃ。
毛沢東の文化大革命にせよ、ポルポトにせよ、彼らはニンゲンというものが全面的に改造可能な存在だと思ってしまったところに最大の悲劇のネタがあったように思えますにゃ。
例えば、毛沢東は「社会主義的な人間をつくること」が社会主義の大きな目標だと考えていたにゃんね。同様の傾向はレーニンにもマルクスにもエンゲルスにも見られるし、世界中の社会主義・共産主義運動に見られるのではにゃーかと考えられますにゃ。
彼らの言う科学的社会主義の「科学」とは、実は「普遍」を意味していた、もっといえば「科学=普遍である べき もの」というくらいの意味で使っていたのではにゃーかと。
以前にも、「科学的社会主義」の「科学」っていうのは、使っている本人達は「正しいこと」くらいの意味で使っていた、というネタもあったにゃんね。彼らの使う「科学」とは「普遍的であるべき理念」と解釈すると、非常にイロイロと腑に落ちるのではにゃーかと思っているのですにゃ。
そしてその「普遍」はニンゲンにも適応されて当然である、と。
で、こうなる
「ニンゲンは共産主義的でなければならない。
教育によりニンゲンを共産主義的にすることは可能である。
共産主義的でないニンゲンは存在してはならない。ニンゲンは変われるのだから」
これで文革やポルポトがいっちょあがりにゃんな。
「マルクスの処方せんは間違っていた。」
にゃるほど、そうかもしれにゃー。
しかし、そのマチガイは人間観に対する甘さに由来するものだと考えるにゃ。
したがって、適切な修正は可能。
私は流木さんが、共産党員のアホなぺーぺーと話をしただけなんじゃないかと疑っていたのですが、丸ごとアホだったわけですな。
失礼しました。
アナクロニズム、恐るべし。
北朝鮮は絶対王政というのがふさわしいんじゃないでしょうか。
>>スターリンの息子の一人(後に、アルコール依存症になった)は、周囲が「スターリンの息子」ということでちやほやするので、わがままな子どもになっていました。スターリンは息子の家庭教師に手紙を書いて、「私の息子だと思って特別扱いしないで下さい。厳しく指導して下さって構いません。どうかよろしくお願いします」と述べているのです。また、米国に亡命したスターリンの娘は「父は彼ら(共産党大会などでスターリンを絶賛する人々)を嫌っていました」とも証言しています。
>これも反証の一つとして受け止め、あなたから学んだことをいつかの学びの時におおいに生かしたいと思います。
あれ?これ「小さいことに忠実、、、」の反証とも実例ともとれるな。
けど家族は救ってないから、実例と取れるな。
独り言です。
流木さん (RE:詐欺師と善人 投稿者:流木 投稿日: 9月 5日(日)01時19分46秒)
丁寧な解説ありがとうございました。何も勉強もしていない者がこれ以上親切に甘えるのは失礼にあたる、と考えます。
>スターリンの息子の一人(後に、アルコール依存症になった)は、周囲が「スターリンの息子」ということでちやほやするので、わがままな子どもになっていました。スターリンは息子の家庭教師に手紙を書いて、「私の息子だと思って特別扱いしないで下さい。厳しく指導して下さって構いません。どうかよろしくお願いします」と述べているのです。また、米国に亡命したスターリンの娘は「父は彼ら(共産党大会などでスターリンを絶賛する人々)を嫌っていました」とも証言しています。
これも反証の一つとして受け止め、あなたから学んだことをいつかの学びの時におおいに生かしたいと思います。
>ただ、マルクス主義に限らなければ、エンゲルスが空想的社会主義と揶揄した立場の人々の中で社会主義の実験を行った人たちはいました。例えば、ロバート・オーエンです。
オーエンの記録も読んでみました。素直に良いなあと思うだけで、何も分析できませんでした。
そういえば結局のところ、私の理解としては学生のころ資本主義と社会主義は割合が肝心で、どちらかに偏りすぎると、駄目になる。と理解した気がします。この場合の社会主義とは福祉、と置き換えて、考えた。ということを思い出しました。別に添削はしないでいいですよ。
これ以上はもし親切を受けるなら、自分もある程度勉強してからでないとこちらも心苦しいです。本当にありがとうございました。次の話題に移りましょう。
*シンさん(Re詐欺師と善人 投稿者:シン 投稿日: 9月 5日(日)00時37分41秒)
こんにちは。本掲示板の趣旨からずれてきたと思いますので、これの続きがあるようでしたら、ツリー式掲示板に移りたいのですが、よろしいでしょうか?
スターリンについては、以前NHKで海外のドキュメンタリー番組を紹介していました。スターリンの手紙や彼の娘の証言などから構成されていたのですが、一人の人間としてのスターリン(本名はジュガシビリ)のあまり知られていない一面に迫った内容でした。
スターリンの息子の一人(後に、アルコール依存症になった)は、周囲が「スターリンの息子」ということでちやほやするので、わがままな子どもになっていました。スターリンは息子の家庭教師に手紙を書いて、「私の息子だと思って特別扱いしないで下さい。厳しく指導して下さって構いません。どうかよろしくお願いします」と述べているのです。また、米国に亡命したスターリンの娘は「父は彼ら(共産党大会などでスターリンを絶賛する人々)を嫌っていました」とも証言しています。
>>上海とか香港とかの逆のようなパターンはなかったのですか?社会主義試験導入地区、みたいなのはあったのでしょうか。
逆はなかったと思います。急進的な政策をやってうまく行かないので、部分的に市場経済を許した(ネップなど)はありますが。革命ですから、まず押さえてしまって、一気にというのが基本的なスタイルだと認識しております。
ただ、マルクス主義に限らなければ、エンゲルスが空想的社会主義と揶揄した立場の人々の中で社会主義の実験を行った人たちはいました。例えば、ロバート・オーエンです。
http://www.yorozubp.com/0406/040620.htm
彼の発想は、西欧の社会主義者(民主社会主義者)や福祉国家に引き継がれていると思います。初期の資本家が労働者を人間扱いせず、それこそ死ぬまで働かせ搾れるだけ搾り取った時代に、労働者の福利厚生や子どもたちの教育に力を注いだのですから。
マルクスやエンゲルスはオーエンの業績に注目しつつ、「あれでは単なる社会改良であって、資本主義社会の矛盾は資本主義を手直ししても解決できない」との立場を打ち出したわけです。それが彼らのいうところの「科学的社会主義」なるものであり、20世紀に見られた(そして、今でも北朝鮮で見られる)社会主義諸国の惨状を生み出すもととなった誤った処方箋だったのです。
流木さん wadjaさん
こんばんは
私の方も疑問を出しておきながら言うのもなんですけど、ツリーに行くほどではないと思っています。(使い方は知りませんが。)
わからなければ気が済まない、というほどの性格ではないので。
十分答えはもらっています。私の質問など「何か知っていたら一言!」という程度の意味合いです。引き続きよろしくお願いします。
ツリーに移行するひつようはありません。仰ってることはハッキリししているので。
それにwadjaは政治思想や哲学に疎いので(笑)
ただ引っかかったのは、シンさんの歴史観に反論する目的で、マルクス主義の構造的・原理的な欠陥に表現のフォーカスを置き過ぎていないかってことです。善意でスタートしても、マルクス主義の構造的欠陥があったにせよ、結果として悪事を働いた人を善人とは呼びませんよねーって、言いたかっただけのことです。
*wadjaさん(うーん 投稿者:wadja 投稿日: 9月 5日(日)00時31分21秒)
こんにちは。
>>スタート地点が善意だからって、善人だとは、歴史は判断しませんでしょ?
それはそうです。ただ、ポル・ポトの大量虐殺は彼の善意から始まったというのは疑えないと思います。私腹を肥やすだけなら、日本の政治家でもできますから。
「ポル・ポトは悪人であった」という見方は「じゃあ、善人がやったらうまくいくんだ」との誤解を生みます。善人がやっても、あのような惨状を招いたということが構造的・原理的な欠陥といえるのです。これはシステムの問題であり、個々の指導者の資質とは基本的には何の関係もない話です。システムの問題を「○○は悪人だった」とすり替えて総括するのは、彼らの欺瞞といえます。
続くようでしたら、ツリー式掲示板にてお願いしたいのですが?
流木さん (詐欺師と善人 投稿者:流木 投稿日: 9月 4日(土)23時43分59秒)
こんばんは
>私は、スターリンやポル・ポトすら善意の人であったと考えます。善意の人が最終的には大量虐殺に至るところが構造的・原理的な欠陥なのです。
うーん そうですか。実に興味深い話です。とりあえず私は聖書にある悪い実を実らせたら、それは悪いものだ、と、単純に考えていたので、これは面白い話です。ただそんな例は他にも見てきたつもりです。スターリンやポルポトについては単に何も知らなくて偏見から言ってしまっただけです。理想に燃える好青年が、、、というのは歴史によく見られることですよね。映画「キリング・フィールド」も探して見てみようと思います。あなたの考えは特に否定も肯定もできませんが、それについては自分の目で確かめてみようと思ってみます。
ありがとうございました。
聖書の話をまた、させてもらいます。すみません、これしかネタ元がないもので。
「小さい事に忠実な人に大きいことをまかせる」とあります。これを人間関係のみに当てます。大義に犠牲はつきもの、とかいいますが、身の回り、例えば自分の家族の外面(経済など)を犠牲にするだけならまだしも、内面(心など)までを犠牲にしてまで、他の人たちを救う行動をとっても無駄なことが多いのではないか、と感じることが最近多いです。
家族を救えない者が他人を救えないということを、ことに教会内で見てきた気がします。聖書では管理職に就く時に、奥さんと子供がいて、子供が不品行をしていなく、家庭をよく治めている人、というものが条件にあてられます。
あなたは構造的、原理的な欠陥から判断しましたが、私はそれを上の基準から見てみようと思います。ただ、家族だけを幸せにする、という目的の人は別です。
国や世界を救おうとする人がまず身の回りの人と平和を築いていたか、うまくその制度は働いていたか、ということです。
普通、制度をつくったとき一部の地域で試験導入してから、全地域で導入します。
上に挙げた私の聖書からの判断はおそらく別の要因も働くので<絶対>ではないと思います。が、うまくいかない傾向は見られるとは思っています。なぜなら当たり前のことのように思えるからです。
上海とか香港とかの逆のようなパターンはなかったのですか?社会主義試験導入地区、みたいなのはあったのでしょうか。そしてあれば、それはどうだったのでしょうか。
小規模すぎれば権力が小さいので義務を守れ、うまくやることも可能に思えますが、社会主義は思想ばかり先に行って試験などをあまりやらなかったのでしょうか。まあ、今の時点では、そのように思っていますが。何かあればよろしくお願いします。
こちらの提示するものは、いつも当たり前のものばかりなのに、こっちは難しそうな質問ばかりしてすみません。ありがとうございます。
*谷庵さん(お見それしました 投稿者:谷庵 投稿日: 9月 4日(土)21時35分13秒)
こんにちは。
>>(私は基本的に専門家を信用する立場なので、共産党が流木さんの言うような総括しかしていないとはとても思えないのですが)
普通は「いくらなんでも、もう少し真剣に受け止めているんじゃないか?」と思われるでしょうが、日本共産党の総括は「スターリンは悪人だった」「あれは外国の党のことで我党とは関係ない」「ソ連などの問題は科学的社会主義からの逸脱が原因」との立場であり、「科学的社会主義そのものには何の問題もない」「日本共産党が政権を取ってもあのような問題は起きない」と主張しているわけです。
参考までに、日本共産党綱領(2004年1月17日の第23回党大会で改定)から引用しておきます。全文は、
http://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/
でご覧頂けます。
*****引用はじめ*****
最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
(中略)
ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九〜九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
*****引用おわり*****
KGBの前身であるチェーカー(全ロシア非常委員会)を作り、逮捕状なしの逮捕や無制限の拷問、裁判なしの処刑などを認め、強制収容所を作ったりしたのは、レーニン本人であり、スターリンはそれを引き継いだだけなんですけどね。さすがに、日本の共産党もレーニン批判にまでは踏みこめないようです。
機会があれば、ご自身でもお調べ下さい。これ以上は、本掲示板の趣旨と抵触すると思われますので、何かありましたらツリー式掲示板に移りたいと存じます。
横レスなんですけど>流木さん
>ポル・ポトは善人でした。彼の処方箋が誤っていたのです。
一連のシンさんへの発言から、一種のレトリックとして言っているのかもしれませんが、なんか最後の発言だけ読むと相当危なく見えますよ。スタート地点が善意だからって、善人だとは、歴史は判断しませんでしょ?
*シンさん(Re共産党宣言 投稿者:シン 投稿日: 9月 4日(土)15時57分2秒)
こんにちは。
>>スターリンやポルポトのような思想を利用する側を詐欺師、と評価したつもりです。
私は、スターリンやポル・ポトすら善意の人であったと考えます。善意の人が最終的には大量虐殺に至るところが構造的・原理的な欠陥なのです。
ポル・ポトを例に挙げれば、頭がよく心優しい青年として知られていた彼はフランス留学中に毛沢東思想にかぶれて、祖国カンボジアに農業中心の共産主義社会を作ろうと決意して帰国します。その後、カンプチア共産党(クメール・ルージュ)を率いて政権を奪取した彼は、自らの理想を実現するために急進的な政策を行います。
毛沢東思想は、オリジナルのマルクスの思想を毛沢東なりに解釈したもので、かなり単純なものです。それをさらに単純にしたのがポル・ポトの思想でした。彼は、マルクスが「社会の生産諸力が十分に発展すれば、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会が実現される。そうなれば、国家も貨幣ももはや不要となる」と述べたのを、「貨幣を廃止すれば、共産主義社会を実現できる」と受け取りました。彼は、貨幣の強制的な廃止を行います。また、都市部のインテリ層(役人・医師・教師ら)は、自ら額に汗して働くのではなく、社会に寄生しているウジ虫であり、ブルジョア思想の持ち主であるとの観点から、農村へ強制移住させました。これは、毛沢東の下放政策のカンボジア版です。
ポル・ポトはカンボジアの自然を大改造して、カンボジアに豊かな農業共産主義を樹立しようとしますが、うまくいきません。彼は考えました。「私の計画はマルクス・レーニン主義に基づいている。マルクス・レーニン主義は絶対に誤ることはない。つまり、私の計画は正しいのだ。にもかかわらず、計画がうまくいかないのは、私の計画を妨害する敵のスパイがいるからだ」と。
マルクス・レーニン主義を絶対視し、前衛政党の無謬性(誤ることなき前衛党神話)を信ずる彼はそうした妄想に基づいて、「帝国主義のスパイ」発見に熱中します。外国語を読み書きできるインテリ層は真っ先にスパイと疑われ、粛清の対象となりました。国民は互いに監視し合い、「明日は自分がスパイだと告発されるかも知れない」という恐怖心からお互いに「あいつはスパイだ」と密告し合ったのです。結果として、カンボジア国民の3分の1とも、2分の1ともいわれる数千万人の人々が処刑されました。
ポル・ポトは善人でした。彼の処方箋が誤っていたのです。
なお、ポル・ポト政権下のカンボジアの惨状は、映画「キリング・フィールド」でも描かれておりますので、機会があれば一度見て下さい。
*JA50さん(それは誰? 投稿者:JA50 投稿日: 9月 4日(土)15時37分48秒)
こんにちは。ご教示、ありがとうございました。
>>マーシュとコープのことじゃないですか?
この話ですね。
http://www.sizen.muse-tokai.jp/faq/faq009.html
流木さんがそれほど勉強しているとは思いませんでした。
でも、それほど勉強していながら、未だにスターリンがどうのこうの言うのが解せないのです。
今更共産党が政権を取ることもあり得ないでしょうし、たとえ政権を取ったとしても共産主義社会を作ることは無理でしょう。
(私は基本的に専門家を信用する立場なので、共産党が流木さんの言うような総括しかしていないとはとても思えないのですが)
まあ、共産主義について語る時にはクハ72 さんの提案に同意します。
私自身について言えば、共産主義の理念「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」が実現すればいいとは思います。
ただ、実際のところ人間に実現することは無理なので、ご承知のような末路をたどったのだと考えています。
方法論には反対ですが、理念だけなら私は共産主義者なのです。
ちなみに、資本主義がそう長続きするとは思っていません。
DBRCTさん、専門家のご意見ありがとうございます。
>臨床研究でプラセボを実薬だと偽って使用することは現在倫理的に認められませんので、実施不可能な研究です。
そうか、臨床だと被験者も深刻な病人の場合も多いだろうし、確かに倫理的に問題はありそうですね。全然気が付かなかった。
でも、何とか研究して治療に役立てて欲しい分野ではあるんですよね。様々な話を聞くに付け、人間の情緒や精神状態と病気って密接に関係していそうな気がするし(まあそういった話の中には、トンデモも当然入っているんだろうけど)。以前癌患者に落語を聞かせる実験をやってたのを新聞で読んだ記憶があるけれど、その後はどうなったんだろう?どなたか知っていたら教えてください。
#ところで、英語の発音ではプラシーボだと思うんですけど、プラセボはドイツ語からでも来てるのかな?
JA50さん こんにちは
>マーシュとコープのことじゃないですか?
>ただ、人格的欠陥があるとまで言えるかなぁ、、、
私も気持ち的に批判の目で見てしまうので、確かに言いすぎだったかもしれません。が
>その話は聞いたことがあります。周囲の過剰な期待に何とか応えようとして捏造を繰り返してしてしまったということではないでしょうか。ゴッドハンドさんは「NO」といえない弱い善人だったのかも知れません。
このように悪人でもない人でもありうるものなので、このように言い換えます。
「考古学において人格的強さは必要で、それらの人たちはそれを持ちえていなかったのではないか。特に私は考古学は誠実さ、正直さが必要であると考えたので、そういう人が多かったのは致命的だったのではないか、」とそれだけのことです。あくまで私の意見を述べたに過ぎません。
ご指摘ありがとうございました。
流木さん またまたこんにちは
>>>理想国家を作るよ、といってお金を集めてこっそり自分たちのために使っていた詐欺師が使用した思想だ、と思います。
>うーん、そうではなくで、「世のため人のため」と思って一生懸命やってきて、気がついたら大量虐殺をしていたというのがマルクス・レーニン主義なんだと思います。
私は理論の方はご存知のとうり知らないので、思想家の批難は一切しない立場を取ります。この場合、共産主義の思想から感じられることは悪いものではなかった、とも思っていました。マルクスは多分悪い人ではない、とも思ってました。なんとなく、ですけど。
スターリンやポルポトのような思想を利用する側を詐欺師、と評価したつもりです。
わかってくれている、と思ってはいますが。一応。
共産主義については少しは知識が増えました。また
>マルクスの一語一句を金科玉条であるかのごとく扱うのは、一見マルクスに忠実であるように見えて、実は科学的社会主義としてのマルクス主義を活かす途ではない」とし、学問研究と政治運動とを峻別して、学問研究の自律性を貫きました。宇野さんの姿勢というか生き方は私の手本となりました。
この部分からあなたの宗教に対してのスタンスも見えた気がします。宗教はあなたの言うように<一語一句を金科玉条であるかのごとく扱う>ことが多いからです。
私も気をつけねばなりません。けど、本当に正しい言葉は聖書であろうとなかろうと、状況次第、もしくはいつでも<金科玉条>である、ということもあるのではないか、とも思ったりします。
マーシュとコープのことじゃないですか?
ただ、人格的欠陥があるとまで言えるかなぁ、、、
流木さん こんにちは
私が引用した本は確か 図解雑学 恐竜の謎 という中高生向けの絵柄つきで簡単に記述されている本で最初の化石が発見されるようになって、というイントロからしばらくの説明でその発見者兼研究者がそうであった。という印象を受けました。その本は確かにそんな印象を与えるものだったと思っています。
キュビエやラマルクのことも多分書いてあったと思いますが、多すぎて憶える気がしなかった、という印象だったし、もう本も返してしまったので名前を正確に挙げることは今は出来ません。学会全体から見れば一部分のことなのかもしれません。が、少なくともその本はそんな印象を私に与えてきました。
最初の本を読む目的がおおよその枠組みを知ろう、とのことだったので、正確さよりフィーリング、でした。これについては、少なくとも引用した本だけでも、もう一度見てあなたが納得いくかわかりませんが、なるべく正確に回答しようと思っています。
気長にお待ちくださるとありがたいです。忘れててもそういう話題を私は必ず、また提示すると思います。あなたの<それは誰?>に対し、私の勘違いであったかも、という批判を自らにぶつけてもみようと思います。正当な疑問であると思います。
ご指摘ありがとうございました。
*シンさん(追記 Reゴッドハンドの真相究明 投稿者:シン 投稿日: 9月 4日(土)14時38分27秒 )
こんにちは。
>>理想国家を作るよ、といってお金を集めてこっそり自分たちのために使っていた詐欺師が使用した思想だ、と思います。
うーん、そうではなくで、「世のため人のため」と思って一生懸命やってきて、気がついたら大量虐殺をしていたというのがマルクス・レーニン主義なんだと思います。オウム真理教とその点では何の違いもありません。一人一人は善人ですが、彼らの思想を突き詰めると、スターリンの独裁を認めることになるのです。これは、構造的・原理的な欠陥であり、個々人が気をつけてもどうしようもない話なのです。カンボジアのポル・ポト政権下の大量虐殺も、そうした視点がないと理解不能でしょう。
マルクスは社会の虐げられている人たちを救おうとしました。彼は、資本主義という仕組みそのものが、貧富の差を生み続ける元凶であるとの結論に達し、人類解放のためにはプロレタリア革命によって資本主義そのものを揚棄(アウフヘーベン)するしかないと唱えたわけです。
彼の善意は疑いませんが、彼の書いた処方箋は間違っていました。彼の善意を活かす道は、彼の誤った処方箋にこだわり続けることではないはずです。特定の個人のせいにするとか、外国のことだから関係ないとかいうのではなく、20世紀の社会主義諸国の誤りから率直に学ぶ姿勢が求められると思います。
共産主義とは違うけど、共産党の憲法9条の解釈もこの間ラジオで党首の某さんが話されていることを聞いてみて、ただの理想だな、と思いました。
簡単に言うと、9条に書いてあることに近づける努力をする、そのためには今は守れなくて妥協するしかないが、憲法を変えてはダメだ、と言っていた気がします。
私はあれは精神であり法律の中身であって法律そのものとしては無理があるのではないか、と考えています。もちろんあの法律は支持していますが、あの法律を正確に適用していたら現実的な損はすると思います。私の場合は霊的なものを信じているので一見、損に見えてもトータルでは得してると思って納得しています。
あとsoft_tractorさん はじめまして
ゴッドハンドの人の詳しい情報ありがとうございました。
*()
こんにちは
>>恐竜や進化論の本を読んで、まずびっくりしたことが初期の生物考古学者たちに人格的欠陥があるような人が多かったことが、そのまま書かれていたことです。
これは誰のことなのでしょう?キュビエがラマルクを陥れた話は有名ですが?
*soft_tractorさん(ゴッドハンド 投稿者:soft_tractor 投稿日: 9月 4日(土)00時47分53秒 )
こんにちは。文献のご紹介、ありがとうございました。探して読んでみたいと思います。
>>それ以上にプロ、アマ含めた研究者達の視線が期待に満ちたモンだったみてえでやす。「あいつが来りゃあナントカなる」みてえな、ね。
その話は聞いたことがあります。周囲の過剰な期待に何とか応えようとして捏造を繰り返してしてしまったということではないでしょうか。ゴッドハンドさんは「NO」といえない弱い善人だったのかも知れません。
>>それにしても魂消るのは、あの事件が発覚するまで、遺跡の発掘の成果ってえのが、平たく言っちまうと「出ちまったんだからしょうがねえだろ」って具合でとらえられ、伝えられてきたってことでやしょうか。
そのようですね。「この時代にこの石器が出るのはおかしいだろ?」と思っても、「まあ、出たものは仕方ないや」で済まされたというのは、部外者にはよく分からないところです。常識的には「不自然だ=>捏造では?」となりそうです。先の書き込みでは、「面倒なことになるのを避けた」という見方を述べましたが、それが十分に説得的なのかどうかは分かりません。
独り言です。
>そこで、恐竜や進化論の本を読んで、まずびっくりしたことが初期の生物考古学者たちに人格的欠陥があるような人が多かったことが、そのまま書かれていたことです。
これに関してはそれはそれで真実だと思っていますが、その反面、創造を支持する昔の自然科学の学者たちが、進化論を成立させ進化論者に変わっていった、ということにも考慮にいれなければならないな。と、ふと、思いました。
次に
>生物進化に関する本も読まずに進化論を批判することが滑稽であるのと同様に、共産主義に関する本を読まずに共産主義を批判しているとしたら、やはり滑稽です。
共産主義についても谷庵さんの定義だと、私は滑稽な立場ですな。共産党宣言も知りません。が、それについては、次ように判断しています。宣言したことを実際に実行するのが難しすぎて成り立たないだけかな、と。特に権力を持つ程、義務を守らなくてよい、と前に少し書きましたが、共産主義はその傾向が強すぎるように思えます。共産主義国、というのは同国人への大量虐殺を必ず、と言っていいほど行ってきた歴史がある、と思えます。
理想国家を作るよ、といってお金を集めてこっそり自分たちのために使っていた詐欺師が使用した思想だ、と思います。言ったことを本当に守っていたら別に悪いものではなさそうですが、人には守ることが不可能な思想だ、と歴史が証明した。と考えています。
*谷庵さん(Re共産党批判 投稿者:谷庵 投稿日: 9月 4日(土)05時18分10秒)
こんにちは。ご指名をいただきました流木です。
まず、私は「政治」の話をしているわけではありません。日本の共産党の方々が「スターリンは悪人だった」というだけで、それ以上の分析を何もしない姿勢を取り上げ、石器捏造問題についてゴッドハンドさんを断罪して終わりにするのはそれと同じだと申し上げております。「政治」の話だとお考えでしょうか?これが政治の話なら、ルイセンコ事件を取り上げるのも「政治」の話になるのではありませんか?エルドリッジが『進化論裁判』の中で創造科学を支持するレーガン大統領(当時)の「進化論は1つの理論に過ぎませんよ」という発言を批判しているのも「政治」の話になるのでしょうか?あなたのお考えをお聞かせ下さい。
>>生物進化に関する本も読まずに進化論を批判することが滑稽であるのと同様に、共産主義に関する本を読まずに共産主義を批判しているとしたら、やはり滑稽です。
そうですね。同様に、読まずに擁護することも滑稽です。
私は、かつてマルクス主義に傾倒したことがあります。政治運動こそやらなかったものの、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、フォイエルバッハ、ヘーゲルらの著作は読み漁りました。『資本論』は通して読んだのは一度だけですが、気になった箇所は繰り返し読みました。
私は哲学(弁証法)の面からマルクス主義に接近し、最初にスターリン主義者のモーリス・コーンフォースの唯物論哲学の入門書を読んだのですがあまり興味を持てず、いろいろ読んでみて三浦つとむさんの本をよく読むようになりました。その後、「マルクスは哲学から経済学の研究に進んだのだから、やはりマルクス経済学の勉強をしなくては」と思い、日本共産党系の正統派のマルクス主義経済学(金子ハルオさんらの説)を学びましたが、これがどうも面白くありませんでした。いろいろ調べてみて、宇野弘蔵さんの宇野理論に強く惹かれるようになりました。宇野さんに惹かれた理由は、「原理論」「段階論」「現状分析」の3段階からなる精緻な理論体系に興味を覚えたこともありますが、生き方に共鳴したといえます。宇野さんは「マルクスの『資本論』といえども、明らかにおかしなところは率直に批判して訂正するべきである。マルクスの一語一句を金科玉条であるかのごとく扱うのは、一見マルクスに忠実であるように見えて、実は科学的社会主義としてのマルクス主義を活かす途ではない」とし、学問研究と政治運動とを峻別して、学問研究の自律性を貫きました。宇野さんの姿勢というか生き方は私の手本となりました。
もっとも、「科学的社会主義としてのマルクス主義はマルクス経済学によって科学的に基礎付けられる」という宇野さんのスタンスに共感していた私は、理科系の大学を辞めた後、宇野理論を本格的に学ぶつもりで経済学部に入り直したのですが、入って半年もしないうちに、マルクス主義の原理的な誤りを痛感し、長い時間をかけてマルクス主義から抜け出しました。
そういう経緯がありますので、少なくとも世間一般の方々よりはマルクス主義の文献は読んでおります。また、小泉信三さんの『共産主義批判の常識』を読んでも新発見がない程度にはマルクス主義についての知識を持ち合わせているのではないかと考えております。これで、ご質問に対する答えとなっておりますでしょうか?
とりあえず共産主義思想、共産主義者、共産党(員)、共産主義国家は区別すべきですね。
中には社会主義と共産主義を混同している人もちらほら……
この掲示板は政治的な議論をする場ではないから今まで黙っていたのですが、たびたびのことなのでちょっと一言。
話のついでに共産主義や共産党の批判をすることが時々ありますが、どの程度の知識で言っているのかいつも疑問に思うのです。
生物進化に関する本も読まずに進化論を批判することが滑稽であるのと同様に、共産主義に関する本を読まずに共産主義を批判しているとしたら、やはり滑稽です。
最後に共産党を批判した流木さん、いかがでしょうか。
ちなみに、私もそんなに詳しくはありません。
昔、共産党宣言を読んだことがあるくらいです。
流木さん(ゴッドハンドの真相究明 投稿者:流木 投稿日: 9月 3日(金)20時05分32秒)
こんばんは
>そうですね。なぜ、ああいう事件が起きてしまったのかについては、彼個人を責めるのではなく、背景も含めてきちんと究明してほしいものです。彼一人を断罪して、それで終わりにしては何の意味もないでしょう。
そのとうりですね。それについては私も原人ラーメンや村おこしの張り切りぶりなどから推察できます。ただ、最初は2,3回といっていた捏造を調べてみると40回以上もやっていたそうです。私が問題だと感じたのは捏造そのものではなく、それらが目撃されるまで長く公的な発見とされていた、という点についてです。創造科学者はよくピルトダウン人の例を提示して進化論の立場を批判してるみたいですが、それに似たケースかもしれません。私の場合は嫌に感じたのは捏造そのものではなく捏造が公的な発見とされ、長期に認めらていた、という事実に対してです。前に公的なものを見下げるようになってしまった、と書きましたが、やはりこの事件が大きいです。もし目撃されていなかったらまだ彼はゴッドハンドのままで、他にも小さいゴッドハンドが結構いるのではないか、という疑心暗鬼が生まれました。
伊集院光氏はラジオは親切で成り立っている。という持論を前に話していたのを聞いたことがありましたが、まさに、そんなのが彼の日曜のラジオの「秘密キッチの穴」というコーナーで体現されています。
昔の微かな記憶、つまり、昔の変わったお菓子、映画、音楽、漫画、イベントなどで、「こんなのあった気がするんですが、憶えてる人いません?」というものを「穴」としてリスナーが提示し、番組スタッフとリスナーが協力して埋めていく、というものなのですが、私は考古学とこのコーナーがダブって感じてしまいました。多くの「穴」は「こんなのわかるわけないよー」と思えるようなのばかりなのですが、不思議と大体解決されていくのです。たとえ解決しなくとも、その過程を聞いてるのが凄く楽しいのです。疑問を提示する人が嘘の情報を出していたら、あんなに解決されませんし、解決に結びつく情報に嘘が多い程、混乱して解決されにくくなっていくはずです。「穴」を決定的に埋めた情報提供者には5000円がでるのですが、やはりこの番組のリスナーに親切な良心ある人が多くて、それで成り立っている、ように感じています。
そんなわけで、発見物から推測的な仮説をせざるをえない考古学の分野で1番大切なのは、研究熱心でもなく、名誉欲でもなく、誠実であることではないかと思うようになりました。そして伊集院光氏の例のように、考古学は誠実で成り立つ、という図式が頭に浮かびました。
他の分野などでは名誉欲は向上心に働いたりして学会全体によかったりもします。数式を捏造するのは無理そうだし。
そこで、恐竜や進化論の本を読んで、まずびっくりしたことが初期の生物考古学者たちに人格的欠陥があるような人が多かったことが、そのまま書かれていたことです。もちろん性格が良くても悪くても発見物は変わりません。その性格から競争原理が働いて良かった側面もあるでしょう。けれど考古学においては上に挙げたように誠実でないことは致命的なのではないか、と思ってしまいました。
発見物から進化なりの推測をする部分は別に性格がよかろうと悪かろうと問題ありませんが、発見者兼研究者がそれをするのは人格者でないほど希望的観測が働いて問題なのではないか、と考えました。人格者であることを定規にするのはアホらしいと考えるかもしれませんが、少なくとも記録に残ってるほど悪い性格だったのはまずいのではないか、と思いました。上のコーナーだったらそれらしい嘘をいくらか送るテロのようなことをすればおそらくすぐに番組が成り立たなくなります。絶対にしないでほしい、と願っています。
もちろん多くの熱心で誠実な研究者が(それがあれば)それを修正していると信じていますが、私としては、この分野においては調べたい対象はなるべく自分の目と耳で調べ判断してみよう、出来なければ人の情報をメディアリテラシーでしたっけ、それをうまくやって上手に参考書を利用しよう、と思い至った、というところです。これは進化論とか創造論以前に自分の目標とする態度です。あなたの親切は本当に私には役立っています。
ありがとうございました。
シンさん、流木さんへ、えー口の悪いのが横から失礼いたしやす。
遺跡捏造については、スクープした毎日新聞の記者さんや編集者さん達がお書きんなった
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101468230/qid=1094222666/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/249-9951473-0345941
「発掘捏造」新潮文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101468249/qid=1094222666/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/249-9951473-0345941
「古代史捏造」新潮文庫
上記2冊に、事の顛末が書かれておりやす。
「発掘捏造」が、主にゴッドハンド氏の捏造の現場を押さえる過程、「古代史捏造」が、捏造発覚後のゴッドハンド氏の証言を中心に、発覚後の考古学界の動向を追ったものってえ具合になっておりやす。
今は2冊とも手元に無えもんで、うろ覚えになっちまいやすが、
流木さん>観光の目玉としてとにかく遺跡を見つけてほしいという自治体側の要求に応えていたのではないでしょうか?
こういった面もあったかもしれやせんが、それ以上にプロ、アマ含めた研究者達の視線が期待に満ちたモンだったみてえでやす。「あいつが来りゃあナントカなる」みてえな、ね。
もちろん流木さんがおっしゃられたように、ゴッドハンド氏の成果を疑ってた方々もいらっしゃったんでやすが、実際にモノが発掘されたってことと、そっから導き出される結論への期待感に押しつぶされたってことのようでやす。
それにしても魂消るのは、あの事件が発覚するまで、遺跡の発掘の成果ってえのが、平たく言っちまうと「出ちまったんだからしょうがねえだろ」って具合でとらえられ、伝えられてきたってことでやしょうか。まあ、ゴッドハンド氏の場合は、ちょっと神がかった特別な存在だったみてえで、なおのこと、そういった傾向に拍車がかかったみてえですが。
上記の本をお読みになりゃあ、お分かりになると思いやすが、一人の人があんなに多くの重大発見にかかわったってえのが、およそ馬鹿みてえなモンでやす。けども、その馬鹿みてえな話がついこないだまでまかり通ってたんでね、仮にそれがずっとそのまんまになっちまってたとしたらって思うと、なんとも言いようのねえ、複雑な心持んなりやす。
あいかわらずとりとめのねえことで、あいすみません。
そいじゃ、御免なすって。
ちなみに、日本では、嶋中 雄二さん(UFJ総合研究所投資調査部長)が太陽黒点説の立場です。この人は、バブルの直前に「太陽黒点説から見て、これから日本の景気は後退局面に入る」と予想して、見事に外したことで有名です。
まぁ、太陽黒点説なんかは「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」というよい例ですね。もっとも、提唱者のジェボンズは、ワルラスやメンガーと並んで、限界革命トリオの一人に名を連ねており、経済学説の上では必ずしもトンデモな人ではありません。ガリレオ・ガリレイも潮汐力の説明を間違えましたから、一流と呼ばれる学者でもおかしな間違いをすることはあるから、鵜呑みにすべきではないということですね。
「A型の人は几帳面、B型の人はマイペース、O型の人はおおらか、AB型の人は二重人格」とか簡単にいい切ってしまう血液型性格診断ですが、日本かせいぜい台湾ぐらいでしか行われていないんですよね。
血液型性格診断を批判する立場としては、例えば、
http://www.remus.dti.ne.jp/~nakanisi/
などを参照。一方、肯定派としては、
http://www.nan.co.jp/deaimasse/ketueki/ketueki.htm
あたりをご覧下さい。
ABO式血液型は、赤血球表面についている抗原というタンパク質の種類に基づく分類です。A抗原・B抗原・AB抗原と3つあるのを、A型・B型・AB型と呼んでいるわけです。ちなみに、O抗原というのはありません。赤血球の表面に抗原がついていない場合をO型というのです。
仮に、血液型と性格との間に統計的に有意な相関が見られるとして、どういうメカニズムで赤血球の表面についている抗原の種類と性格とが関係しているのかは全く不明です。19世紀にジェボンズが唱えた太陽黒点説(太陽黒点の増減と景気との間に関係があるという説)よりも根拠薄弱でしょう。芸能人やスポーツ選手や政治家を例に挙げて、血液型と性格との間には関係があるとかいい張る人たちが跡を絶ちませんが、少しは真面目に統計学でも勉強した方がよいと思います。
にしても、上で挙げた肯定派のサイトのアタマに「『血液型性格判断』は『占い』ではなく『科学』です」って書いてあるのには、笑いました。ここにも「科学」に権威を求める人が…。まぁ、「占星術も科学だ」と主張している本もありましたけど。そんなに「科学」を名乗りたいんですかね?
*シンさん(Re信仰へ至る道(2) 投稿者:シン 投稿日: 9月 3日(金)01時20分9秒)
こんにちは。
>>せめてゴッドハンドの人の嘘ぐらいは見破れる批判能力は欲しいとこです。
そうですね。なぜ、ああいう事件が起きてしまったのかについては、彼個人を責めるのではなく、背景も含めてきちんと究明してほしいものです。彼一人を断罪して、それで終わりにしては何の意味もないでしょう。
日本共産党の人たちがスターリンの独裁政治を批判するときに、「スターリンは悪人だった」で済ませていますが、じゃあ、なんでそんな悪人が共産党の権力の頂点に昇りつめることができたのか、なぜ彼を解任できなかったのかといった分析はまるでありません。「スターリンは悪人だった」「社会主義の道から外れていた」と繰り返すだけです。そして、「私たちが政権をとってもあんな風にはなりません」というわけですが、分析もできない以上、具体的な防止策が出てくるはずもないわけで、彼らの主張は単なる希望的な観測に過ぎません。
最近読んだ本の中である古生物学者が「化石を掘っているというと、『へぇ、考古学ですか』といわれるが、あの事件があってから、ああいうのと同列だと思われているかと思うと、複雑な気持ちだ。なぜ、あんなインチキを見抜けなかったのか」とおっしゃっていました。新たに埋めた場合は、土の着き方が違うし、年代からいって表面が侵食されていたり、変色していたりするので、本物をある程度見てきた人が見れば、ニセものだと判るのではないかというご指摘でした。確かにそうなのでしょう。
ただ、じゃあ、考古学の研究者は全員が彼の発掘した遺物を本物だと信用していたかというと、どうも違うようです。疑っていた人たちは少なからずいました。しかし、そうした声が私たちにまで届くことはなかったのです。なぜでしょうか?
私が思うに、あの人は観光の目玉としてとにかく遺跡を見つけてほしいという自治体側の要求に応えていたのではないでしょうか?古代の遺跡があったとなれば、観光客を呼べて村興しになります。そういう状況の下で「あれは捏造ではないのか?」と指摘しても歓迎されることはないでしょう。イプセンの戯曲「民衆の敵」で温泉が鉱毒に汚染されていることを公表しようとして糾弾されたストックマン医師のような立場に追い込まれかねません。自治体にとっては、本物かニセものかよりも、村興しになるかどうかが決定的に重要なのです。残念ながら、そこに学者的な良心の出番はありません。
内心「インチキじゃないのか?」と思っていても、それを公にすれば面倒なことになります。そんな面倒なことにわざわざ関わろうという研究者がいなかったというのがゴッドハンドを生んだのかも知れません。しかし、彼らの判断が正しかったとは思えません。結果的に、考古学に対する世間一般の信頼を著しく損なったからです。インチキを見過ごすのは、個人としてはそれなりに合理性のある判断だとしても、学界全体としては大きな過ちだったと思います。
http://www.gakken.co.jp/kyokatosho/hotai/60/htj60.pdf
このファイルには良く書かれています。
因みにモンゴロイドの傾向としては、氷河期に
洞窟内で身内同士、集団生活を行うのが主だったらしく、。
厳寒の地方で若くして自律するのは難しく
親から子へ沢山の物が与えられる文化で、親は子に対し過保護で子供は甘えん坊が多く、身体の発達も遅く、精神も幼稚なのだそうです。親子間の遺産相続を好む文化はそこから来てます。
集団性にとみ、保守的で新奇探索傾向の短い者が生き残るという、ピラミッドができたのです。
よってアジア人に多いB型はこう言った性格の者が必然的に多くなるはずなのです。
モンゴロイドに偶発的にA型やO型も現れますが、モンゴロイド特有の血液型としてはB型のほうがより近いと思います。
先日はO型云々書き込んでもうしわけございません。
はっきり言って私もO型に関しては血液型の特徴がつかめません。
ですから、軽い気持ちで書き込んでしまって非常に申し訳なく思っております。
又色々資料を見た結果、どうやら、O型はネグロイド、コーカソイド、古モンゴロイドが繁殖した頃に多く、A型はコーカソイドと古モンゴロイドが繁殖した頃に多く、B型は古モンゴロイド、新モンゴロイドが繁殖した時に多い、という統計が出ています。
発生順序は、ネグロイド→古モンゴロイド≒コーカソイド→新モンゴロイドという順序になっているらしいです。
尚、それから考察するにO→A→Bという繁殖順序になるはずです。
又、アメリカ大陸における、血液型別到達地点は、O型南米、A型北中米、B型アラスカ
という順序になっております、アジアから、離れている地点はO>A>B
という順序になります。
モンゴロイドとコーカソイドではDNAの新奇探索傾向を表す配列の繰返しが、
コーカソイドが4〜9
モンゴロイドが1〜3
ネグロイドが??
新奇探索傾向とは、新しいものを求める欲求の傾向のことです、
この傾向が強いと、言語能力に長け、先進性が高まり、多文化に対応する事ができるのです。しかし欠点もあります、より性格が侵略的、支配的、になり、危険を顧みない冒険心が強く、生活では、安定より不安定でも新しいことや変わったことを求めるようになります、
又、飽きっぽくなり浮気症になったり、自己中心的になったり自己主張が強くなったり、短気になったりするそうです。
そんなことから、日本人は古モンゴロイドが多いので、コーカソイドより自己主張を好まず、和を好む集団性の高い性格になるそうです。しかしモンゴル、ブリヤード(露)、朝鮮半島、東南アジア諸国、中国などの新モンゴロイドが多く移住した地域より、この傾向が少し長くなっているそうです。
すると、全世界的にみると、
O型とA型はB型より、こう言った傾向に近くなるのだそうなのです。
新奇探索傾向は
O≒A>B
と言う事になり、先進性ではB型よりO型A型がひいで、逆に保守性ではB>A≒Oという傾向が現れるらしいのです。
ですから、B型が発想力が富んでいるというのはちょっと間違い、むしろ前者の方が優れている可能性が高いと考えるのが無難なのです。
詳しくは、↓
欲脳−あなたを動かしている正体/大木幸介・北村美遵/光文社/2000「脳科学+進化生物学。フロイトは科学者ではない、チンパンジーとヒヒの獣姦、D4DR第3エクソンの長さと新奇探索傾向」
私も、「もろもろのバイアスが含まれたヒューマンエラー」を全てプラシーボ効果だと思っていたわけではありません。プラシーボ効果もその一つだと思っていただけです。
ただし、エラーであるのは変わりないので、シンさんみたいに、信仰したら病気がなおるのはプラシーボ効果によるとか言われると、なんか自分の主張は嘘だよと自分で言っているように私には見えたわけです。
シンさんには、何か分からないが信仰には特殊な効果があるということなんでしょう。
それを、プラシーボ効果というような科学用語(のようなもの)を用いて説明を試みたということかな。
>プラセボ効果は通常、被験者側の問題で、観測者側のバイアスについてそのような言葉を使う場合には「観測者におけるプラセボ投与によるバイアス」とでも但し書きをすべきだと思います。
これは言われ通りと思います。
wadjaさん、JA50さんへまとめレス
もともと、プラセボは薬だと偽って飲ませるとそれに反応して疾患の症状が軽くなることから使われ始めた用語、というのはご存じだと思います。
ここで混乱のもとになっているのはプラセボと二重盲検法が対になっているからかも知れないと感じました。二重盲検法は、被験者と観測者が予断を持ってしまうのを最小限にするための方法であり、必ずしもプラセボを使う必要はなく、Aという薬とBという薬の比較もあり得ます。さらに不公平な比較を避けるために、AとBへの割付をランダム化して行うことが普通です。わたしのハンドルはこの二重盲検比較試験(double blind randomized control trial)からつけたものです。通常、DBRCTを行えば観測者バイアスを最小化することができると考えられています。
新規治療とプラセボをDBRCTで比較すれば、新規治療のアドバンテージが測定できるので、プラセボ対照ランダム化二重盲検比較試験が臨床研究の王様です。
しかし、プラセボの研究には難しい問題があります。
真のプラセボ効果は、プラセボ投与後の反応から自然経過・一般療法の効果を除いたものと前の投稿で書きましたが、これを測定するためには、無治療群とプラセボ投与群を比較する必要があります。臨床研究でプラセボを実薬だと偽って使用することは現在倫理的に認められませんので、実施不可能な研究です。(プラセボ比較試験の場合には○○%の確率でプラセボに当たりますと説明しているのです。100%と説明すると無意味な検討です。)またヘルシンキ宣言でもプラセボ使用の研究を制限しており、プラセボに関する報告が少ないというwadjaさんの疑問はこのあたりに原因があります。
JA50さんの言われていることもわからないではないのですが、もろもろのバイアスが含まれたヒューマンエラーをプラセボ効果とは言いがたいと思います。プラセボ効果は通常、被験者側の問題で、観測者側のバイアスについてそのような言葉を使う場合には「観測者におけるプラセボ投与によるバイアス」とでも但し書きをすべきだと思います。
散漫ですがご参考までに。
wadjaさんのコメント
>以外にプラシーボの研究って少ないんですかね。二重盲検法がスタンダードになるほど良く知られている現象なのに。
プラシーボ効果って、私はエラーの代名詞みたいに思っていたんですが、こう考えていたんは私だけ?
実験や観察においてヒューマンエラーが入り込み、間違った結論を導いてしまうことがある。特に人を対象としたものでは、そのヒューマンエラーの代表格がプラシーボ効果で、そういうエラーを極力排除するために二重盲検法などの実験計画法が発達してきた。プラシーボ効果という、なんかよく分からないが特殊な現象があるってな考えを持つ人もいるんだろうけど、それはオカルトに入っている人達だからだろうと私は思っていた。
ところが、そうじゃなかったんだ!
って、これは驚きだなぁ、、、
そもそも、倫理的でない思想というものがありえるはずもにゃーのだ
たまたま周囲に「考えていない」人たちが多かったからといって
そして彼らが自らの信仰を共有してないからといって
自らの立場のみ(せまい宗派ということではなく、唯一神を信じるとか有神論とか)が倫理的である、などと考えるのは、それも「考えていない」にすぎにゃー
大文字ナンさん こんばんは
謝ることはありません。色々な考え方などを知るための書き込みでしたから、自分が発表して満足、というわけではありません。私の場合は議論が嫌で逃げてるわけではなくて、言葉尻を捉えられて話題が発展しないのが嫌なだけです。
霊とかを焦点にするのならそれはそれでやる時があるでしょう。
ただ、無宗教の人はあまり考えてないんじゃないか、とか思っていた偏見とか少なからずありまして、感心してる次第です。少なくとも私の友達は、そんなのどうでもいい、と、考えようともしていない人がたまたま?多かったもので、実に興味深いです。
命題を提示するとき、命題を批判するとき、意見を発表する時、使い分けているつもりなのですが、それらが混ざってしまって意図しない方向にいったりするのが困るだけなのです。(たまにはいいんですけどね。)
>つまりそれは物質的な意味でも精神的な意味においても、同じように生きているほかのヒトたち、との関わり方に帰結するのではないだろうか?ということです。
この点については宗教的な立場を抜きにして共感できます。
たびたび、信条の部分へのレスですみません。まぁしかし、これもひとつの考え方、という程度に…。
先にも書いたように(そして、いくつかのWEBサイトでも言及しているように)私にとっての「死後の世界」とは、私に「想像し得る」死後の世界であり、それは今のところ「まだ」私が生きているこの世界であり、「そのうち、確実に」私がいなくなった後のこの世界そのものです。
霊になるのであろうと、仏になるのであろうと、とにかく私が死んでしまえば、今もっている金銭、財産、その他物質的な「持ち物」になんの意味もなくなることは、あの世とかいうものがあろうがなかろうが同じことです。これは純粋に論理ですね。
さて、そこで「徳」だとか「信心」だとか「愛」だとか、まぁ言葉的にはなんでも良いのですが、そのヒトが「生きている間に」なにをしたのか?が問われるという意味において、私がいなくなった後のこの世においても、まったく同じ「裁き」がある、と言えるのではないでしょうか。
その上で、私が論じるような「死後」であろうと、スピリチュアルで霊的な「死後」であろうと、なすべきは「今ここにある自分」が何をするか、であり、つまりそれは物質的な意味でも精神的な意味においても、同じように生きているほかのヒトたち、との関わり方に帰結するのではないだろうか?ということです。
まぁ、基本的に私は「霊」だとか「魂」という考え方を却下して生きています。しかしそれは検証しようがないから、というだけの理由です。だからといって、死後、私がどのような評価、忘却、孤独の憂き目に遭っても良いのか?というと、それは違います。これは「霊界」だとか「死後の世界」をどこに持とうと、同じ課題ではないだろうか?と私は思うのです。
(ぱ)さん もう一回こんばんは
私の昔考えた死後の世界のイメージに「等価報復」というものがあります。旧約聖書などでは、イスラエル人は、その概念をひたすら刷り込み続けられてきました。
現実の社会でもそれは、なされなければいけないように思えます。とりあえずは罪の摘発と公正でよりレベルの高い裁判がなされるほど、社会は完全な姿になっていくと思えます。この定義については、はっきりできない領域だと思うので私に対しての突っ込みはなしです。
人は完全に公正に裁くことは出来ません。が死後においては自分の意識があれば全てが公正に<何か>によって、もしくは自分が自分によって裁かれるのではないか、と考えました。
そんな考えは多分、質量保存の法則から、イメージを喩えることができますかね。自分の行動、思い、記憶、感情、の全てはいろんな反応を起こしても霊の内にいつまでも残っている、という感じです。
現実世界で悪い事をしたのに裁かれずに済んだ人はそこについて自分に返ってきたり。
逆に裁かれすぎた人にはそのおつりが返ってきたり、やってしまったことに罪の意識があろうとなかろうと相手に赦されなければ全て自分に等価で返ってくる。という考えです。
生きてる間は死ねば終わりですが、霊はいくら苦しんでも死ねない、苦しみが終わらない、みたいな思いをするのではないか、アメリカの犯罪者とかで懲役200年とかありますけど、公平に報復できませんよね、その前に死ぬから。けれど霊はそれを受ける、みたいな感じです。
あくまでイメージです。突っ込まれても詳しいことを説明出来ません。が、もし、<無>でなかったら、これはある程度は理論的な考えかな、と思ってます。霊はあるのか!、とかはなしです。
これはただのつぶやきです。
temaさん (ぱ)さん こんばんは
>ただ、なぜ実行しないのか、という処が微妙に違います。
> temaは、他人からの評価よりtema自身の評価が重要なのです。粋でいなせで男らしい…そういう人格に憧れを持っています。その評価に合わない行動は、(それ以上のメリットが無ければ)やりたくありませんし、評価に合えば電車で席を譲ったりします。
> シンさんにとっての「<神>という設定」は、temaにとっては「<理想の自分>という設定」になります。このため、temaには神が不要なのです。多分。
> 実は私は相当な善人です。いや、本当に善人かどうかは知りませんが、少なくとも善人であるということにプライドを持っていますので、それに反するようなことはしたくありません。だから、人が見ていようがいまいが、万引き泥棒の類はしないわけです。
>…ただ、これは、あくまで私が「善人を装っていても何不自由なく暮らしていける」せいではあるかもしれません。盗まなきゃ飢えるというような状況では、私自身のプライドなんかより生きることを選択するかもしれません。そういう状況になったことがないのでわかりませんが。
これらの考えには個人的には好感を持てます。ただ(ぱ)さんの提示したように、<死>が近づいた時には設定不足になりえる可能性が高そうです。最後まで粋でいなせなまま死んだりするの見たらすげー、格好良いと思えます。が、それはすごく難しそうです。といってもクリスチャンでも死ぬの怖い人たくさんいると思いますし、私も死ぬの嫌です。
> 食うや食わずの世界(昔はたいていそうだったでしょう)には、確かに神が必要な面もあったのかなあ、とは思います。
># 日本では、その部分を「恥の文化」が補ってた気がするけれど。
客観的に見たら(ぱ)さんの言う、食うや食わずの人たちは今の時代でも、かなりいます。とりあえず、神はいらん!といわれたわけでもなく、必要な面もあったかなあ、ぐらいの意見が聞けて嬉しいです。客観的にそのような考えをしている人たちが多い方が社会的には暮らしやすいと思えます。
流木さん (信仰へ至る道(2)投稿者:流木 投稿日: 9月 2日(木)18時01分37秒)
こんばんは
>ただ、「ニワトリが先か卵が先か」ではありませんが、信仰心の芽を持って聖書なりを学び、信仰に至る場合は分かるのですが、一歩引いたといいましょうか、解剖台の上に横たわる遺体を調べるような姿勢といいましょうか、そういうスタンスで聖書なりを読んでいった場合、信仰に至るということがあるんだろうかとも思うわけです。
あなたの設定は良くわかりました。おそらくはあなたのようなスタンスによって信仰に至るケース、というのは、教会のほかの人たちを見てきた限り間違いなく少ない傾向にある、と言いきれるでしょう。
ただ、私もあなたのようなスタンスで読んでいたつもりなのですが、いつの間にか信じるようになっていました。が、信仰心の芽というものがあったのかもしれません。
ある学生が卒業制作で聖書を選び、その感想文でこんなことを書いていました。
「書いてあることを自分のために書いてある、と思って読むと得るものがすごくあった気がする。」
結局、人は自分のためになる考え方やトレーニング方法を採用して生きていきますから、その中のテキストの一つとして、聖書はある方向に対して人を導くものとしては優秀なものではないか、ぐらいには思えるんじゃないですか?
そしてその結果として良い実が結ばれることが求められています。キリスト教は悪い実を結んでいる事もありますが、私はその場合、聖書の文意に反している事をクリスチャンがした時に結んでいる傾向にある、と判断しました。しかしそれに従って生きる時は良い実が結ばれる傾向があるのも間違いないと思っています。
信仰に至るには結局<something else>が必要なのだと思います。それは神を科学するのが難解、もしくは出来ない、ように、理解できない領域なのかもしれません。
聖書では信じさせる<something else>の事を<聖霊>と定義しています。聖霊は神の力の属性を示している、と私は考えていますが、それも<神>なのでやはり、説明は不可なのでしょう。
あなたの提示した意見で私はいつも、かなり考えさせられ、思考を成長させてもらっていると思っています。
私は薬害エイズとかの問題などで国は嘘をつく、という事がわかって、公的なものを見下げるようになったついでに、一部の創造科学者たちのように公的な学会なども信用しなくなったりしました。(それについては、あのゴッドハンドの人が大きいです。公的なものに正確な批判能力がない、と思わされたからです。)
しかしあなたの意見をやりとりしたり、エッセイを拝見してやっぱり学者はすごいなあ、と思うようになりました。本当に尊敬しています。一部を見て全体を見下げた私は高慢でした。
学ぶときの態度が変わりたくさんのものを吸収できるようになってきた、と思っています。ただ公的なものだからそのまま受け入れる、という事はまだ出来ません。せめてゴッドハンドの人の嘘ぐらいは見破れる批判能力は欲しいとこです。
まだ確認しておきたい事がたくさんあるので、引き続きご教授よろしくお願いします。
トトロさん:
>私の死についての理解は、私の思考が完全に消失することなので、
私もおそらくそうだろうとは思ってるんですが、これ、検証は不可能ですよねえ。
だから「死後の世界」があるかどうかについては、あるともないとも言えないです。「死後の世界」は反証不能な命題だと思います。
だから、「もし死後の世界があって、そこで裁かれたら大変だから、生きてる間に悪いことはしないでおこう」という立場は、論理的に破綻はないと思いますよ。その賭けがどれぐらい割に合うかは知りませんが。
でもいざ死後の世界に行ってみたら、「現世で悪事を犯すことも出来なかったチキン野郎は存在する価値なし」ってことで、善人の方が酷い目に遭うのかもしれません。これまた反証不能な命題です。
んなことを生きてる間に考えてもしょうがないじゃん、ってのが、今の私の立場です。
トトロさん こんばんは
>私には、この文章が理解できません。それは、「死ね」といわれることと、ルールを守る自制心との間の関連が分からないからです。
>特殊な状況下(ハイジャックやテロの現場に居合わせたとか)以外に「死ね」といわれるような場面について、私は他人と喧嘩しているような場合しか思い浮かびませんでした。そのような場面に於いて、他人側から「死ね」という言葉が出てくるのは、多くの場合、私が有利な場合であり、相手の言葉は捨て台詞に過ぎない・・・と考えたからです。
>そのような場面に於いて、「死ね」という言葉ひとつでそれほど心を動かされる人は少ないのではないかと私は思うのですが・・・それとも「死ね」といわれるシーンに何か設定があるのでしょうか?
私は
>「私のように考える傾向を持つ人には、そういった設定を心に届かせれば、<必ず>何かしらの効果があるに違いない。」に直させてもらいます。
>そして何かしらの効果とは、心の些細な変化から、結局考えは変わらなかったが少し考えた。のように小さい変化から、劇的に生き方が変わった、などの大きな変化、または悪くなったなど、全ての心の変化を示しますが、何かしらの効果があるに違いない。とは、統計などを取れば道徳的に良い、とされる行動へ変化していく傾向が見られるに違いない!という希望的予測を乱暴に説明してしまっただけです。
この文脈を利用したつもりだったんですが、わかりにくくてすみませんでした。
「死ね!」という設定は詳しく言うと、とりあえず、どんな状況でもいいので、相手の「本当におまえ死ね」という意思が自分の心に届いたときです。実際に殺される状況かそうでないかは関係ありません。普通は怒ったり、むかついたり、哀しくなったり、相手に優越感を感じたりすると思います。
私は「死ね」とか言われても基本的に何も感じない、という人がいる、ということが信じられなかったので、あなたの心は物凄く強いのではないか、と予想し、自制心も当然持ち合わせている、と考えたまでです。
読めませんでしたか?すみませんでした。他のことに特にレスはありません。
ところでトトロというハンドルネームはとなりのトトロからですか?もしよかったら教えてください。イエス、ノーだけでも結構です。
>「シュレディンガーの猫とは…」と説明しないといけないわけで、
>そういう地味なことはあの人たちは多分嫌いでしょう。
ですねぇ字面も『相対性理論』と『シュレディンガーの猫』では迫
力が違い過ぎます、なんだか『長靴をはいた猫』みたいですもんね。
工学系の大学を卒業したわけですが、この前大学時代の友人に、
『シュレディンガーの猫』って知ってる?と質問したら彼は………
「なにそれ、小説のタイトル?」っていってました。マスターまで
行ったのにな彼、うちの大学は有名大学ではないけれど、理系の学
生の中でも認知度はかなり低いのかも……(彼の名誉のために‥‥
彼はとても優秀な成績で卒業しました、僕は彼がいなかったら卒業
できませんでした………)
キリスト教の外野から一言。
イエスはいいました。「右の手のやっていることを左の手に悟られないようにしなさい」「祈るときは他の人たちに見られないよう隠れて祈りなさい」と。
要するに、「善人ぶってはダメだよ」ということだと思います。善人ぶれば偽善になります。表向きはきれいでも、中は汚いもので一杯です。親切な態度の裏で他人を見下し自分を誇ることになります。
むろん、聖書(新約聖書)では、「神様はちゃんと見ておられますよ」と話が続くわけですが、「陰徳」という言葉があるように、神様を棚上げしてもそれなりに説得力はあると思います。
ただ、実際問題としては、他人の目は無視できません。とはいえ、わざわざ衆人環視の下でこれ見よがしに善い行いをするような人間にはなりたくないなと思います。
むろん、行為だけに注目すれば、偽善だろうがなんだろうが、コンビニで盲導犬基金に募金するのは善いことでしょう。「心がともなっていないからダメ」といい切れるの自信は正直私にはありません。実際、経済学でいう「見えざる手」のメカニズムというのはそうやって動いているともいえるわけですが、少なくとも自分のスタンスとしてはそういうのはやめたいなと思うのです。難しいでしょうけど。
以外にプラシーボの研究って少ないんですかね。二重盲検法がスタンダードになるほど良く知られている現象なのに。
ttp://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20040316308.html
>temaは、以下の言葉が理由だと思っています。
「お客様は神様です」
これ、結構wadjaは頷いてしまった。居酒屋を出るときに、店の人に「ありがとうございました」と言われて、「おう、当然だ」みたいな人と、「ご馳走様」と素直に口にできる人と2種類居るからね。前者のような大人を見て育つと、子供達が勘違いしてもあながち責められないかもしれない。
書き忘れましたが、シュレディンガーの猫については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB
が分かりやすいかと思います。パラドクス(逆説)の解説もありますし。
シュレディンガーの猫の話は、決定論の立場からシュレディンガーが量子力学のおかしさを示そうとして考えた話ですから、そのまま読めばおかしく思えるのは当然です。
放射線が出て青酸ガスがビンから漏れる確率が1/2だからといって、「箱を開けて中を見るまで生きている状態の猫と死んでいる状態の猫とが重なって存在していて、箱の中を覗いた瞬間にどちらか一方に収束する」…量子力学ってこういう立場なんですよとか聞かされたら、世間の人たちはおそらく一様に「そんなバカな話があるものか」というでしょうね。「中を覗こうが覗くまいが、猫は生きているか死んでいるかどちらかだ」と。
この謎解きの1つの答えは、上記のURLをお尋ねになればご覧いただけるわけですが、それにしても、やはり地味です(笑)。いちいち「シュレディンガーの猫とは…」と説明しないといけないわけで、そういう地味なことはあの人たちは多分嫌いでしょう。
いろいろ書きたいことはたまってるのですが時間がないのでとりあえずこれだけ。
>実は私は相当な悪人です。もし死後に何もなければ、犯罪者にならないように、自分のしたいことをします。
これについては私はtemaさんに同意ですねえ。
実は私は相当な善人です。いや、本当に善人かどうかは知りませんが、少なくとも善人であるということにプライドを持っていますので、それに反するようなことはしたくありません。だから、人が見ていようがいまいが、万引き泥棒の類はしないわけです。
…ただ、これは、あくまで私が「善人を装っていても何不自由なく暮らしていける」せいではあるかもしれません。盗まなきゃ飢えるというような状況では、私自身のプライドなんかより生きることを選択するかもしれません。そういう状況になったことがないのでわかりませんが。
食うや食わずの世界(昔はたいていそうだったでしょう)には、確かに神が必要な面もあったのかなあ、とは思います。
# 日本では、その部分を「恥の文化」が補ってた気がするけれど。
シンさん、こんにちは。
かなり昔の話題に、しかも横レスで失礼します。
>実は私は相当な悪人です。もし死後に何もなければ、犯罪者にならないように、自分のしたいことをします。
シンさんが悪人であれば、temaもまた悪人です。
格好いいバイクや車があれば人の物だろうが乗りたくなり、綺麗なねーちゃんがいれば人妻だろうが乗…いえ、そんな事はありません。本当です。 >tema夫人
ただ、なぜ実行しないのか、という処が微妙に違います。
temaは、他人からの評価よりtema自身の評価が重要なのです。粋でいなせで男らしい…そういう人格に憧れを持っています。その評価に合わない行動は、(それ以上のメリットが無ければ)やりたくありませんし、評価に合えば電車で席を譲ったりします。
シンさんにとっての「<神>という設定」は、temaにとっては「<理想の自分>という設定」になります。このため、temaには神が不要なのです。多分。
temaは、シンさんの「<神>という設定」こそ、本来の神様の役割である、と思っています。教義は神様を使って社会を造るための一種の道具であり、聖書などは教義を支えるための道具である、と思っています(temaにとっては、ですが)。
それゆえ、聖書の記述が事実に反してしたからと言って、神様の否定には繋がらないと思うのですが、どうでしょう?
*PEPEさん(シュレ猫 投稿者:PEPE 投稿日: 9月 2日(木)21時43分8秒)
こんにちは。
やはり「アインシュタイン」とか「相対性理論」とかに比べると、知名度が低いからじゃないですか?
「相対性理論の間違いを発見した!」といえば、「へぇ〜」となるけど、「量子力学の間違いを発見した」といっても「漁師がどうかしたの?」ぐらいの反応しか期待できそうもありません。まして、「シュレディンガーの猫」なんて、街角で聞いたら100人中で何人知ってるんでしょうか(説明はともかく)。
トンデモさんは「他の連中は権威に盲従している」とかいう割りに、実は権威が好き(というか、自己顕示欲が異様に旺盛)ですから、世間的な知名度の高いアインシュタインなんかは格好の標的になるんでしょう。知名度が高い割に中身が理解されていないというところは進化論もそうですが、地味な印象のダーウィンを批判するよりも天才と呼ばれるアインシュタインを批判した方が目立ちますよね。おそらく宗教系のトンデモさん以外では、進化論は批判しないでしょう。自分の「天才」ぶりがアピールし辛いわけですから。
>こういうのをプラシーボ効果(の一例)だとシンさんはじめ皆さんは言われているんですか?
再三「それはプラシーボ(プラセボ)効果とは言わないでしょう」と述べている私の文章を引用する意味がまったく分かりませんが?不適切な引用をされるのは気分の良いものではありません。
については誰か何かいってくれないんでしょうかねぇ?
春先に増えるとは聞いていましたが、最近では秋口にも出るんですね。
まぁ、そんな世紀の大発見なら、ネットで公開なんかするより、学会誌なりきちんとした匿名のレフェリー付きの学術誌に投稿されればよいでしょうに。「主流派の科学者はアインシュタインの権威に盲従していて、天才である私の偉大な研究を認めようとしないのだ」とかいうんでしょうけど(笑)。
「天才を自称して他を愚か者よばわりしつつ、被害妄想が強い」というのは、トンデモさんの特徴のように思います。
遂にニュートンの運動の法則が完全に
間違っていたことが証明されました。
彼の理論の基本原理である、絶対座標・絶対時間の
原理が根底から間違っていたことが証明されたのです。
非常に残念なことではありますが、彼の運動の法則に関する、
専門高校、大学の教科書は全て書き直さなければ・・・
ということにはもちろんなりません。
彼の理論は近似解であることが証明されたのであり、
日常的なスケールにおいては非常によく現象を説明できている事には
変わりがありません。
学生の皆さん、今となっては厳密には間違っている理論ではありますが、
段階を踏んで物理法則を理解するためには、ニュートンの法則はきちんと
勉強する必要があります。
勉強してもしょうがありません、などということは決してありません。
どこが間違っていたのかを、しっかりと目を見開いて確認し、
教師に対しても(もちろん自分自身に対しても)勉強宣言を
しましょう。
投稿者だけ変えていても、文章の内容と、何よりリンク先がいつものところというのが……(笑)
遂にアインシュタインの相対性理論が完全に
間違っていたことが証明されました。
特殊相対性理論の二つの基本原理の一つである、光速不変の
原理が根底から間違っていたことが証明されたのです。
非常に残念なことではありますが、相対論に関する、
専門高校、大学の教科書は全て書き直さなければなりません。
特殊は勿論、一般相対性理論も全て間違っていたという
ことになります。
学生の皆さん、間違っている理論を勉強してもしょうが
ありません。どこが間違っていたのかを、しっかりと
目を見開いて確認し、教師に対して勉強拒否宣言を
しましょう。
http://home9.highway.ne.jp/cym10262/fenomina.html
*(信仰へ至る道(2) 投稿者:流木 投稿日: 9月 2日(木)18時01分37秒)
(×)信仰の確信に迫ることはできない
(○)信仰の核心に迫ることはできない
*シンさん(REプラシーボ効果 投稿者:シン 投稿日: 9月 2日(木)02時31分59秒)
こんにちは。
>>理屈を追い続けた結果、信仰に至る人もいると思います。私がそれに近いと思えるからです。
まあ、絶対にないとはいえませんし、あくまでも私の現時点での感触として「そういうものなのかな?」と考えているということです。
ただ、「ニワトリが先か卵が先か」ではありませんが、信仰心の芽を持って聖書なりを学び、信仰に至る場合は分かるのですが、一歩引いたといいましょうか、解剖台の上に横たわる遺体を調べるような姿勢といいましょうか、そういうスタンスで聖書なりを読んでいった場合、信仰に至るということがあるんだろうかとも思うわけです。
私のサイトを覗いていただければお分かりになると思いますが、私はモルモン教会を批判しております。別にモルモン教会に属していたわけではありませんし、宣教師のレッスンなるものは『モルモン書』(モルモン教会の経典。ただし、彼らは経典をあまり重視しません)のほんの触り程度でしたから、事実上独学でモルモン教会の教義を学んだわけです。もちろん、専門の研究者のやっていることと比べれば、素人のお遊び程度のものに過ぎませんが、できる範囲ではいろいろと勉強したつもりです。
しかし、『モルモン書』を暗唱できるほど読んでも、私がモルモン教会を「真実の生きている教会です」と証することはありませんでした。経典に接する際のそういうスタンスは、聖書を読むときも変わりません。むろん、聖書については私などよりよほどお詳しい方が大勢おられるわけですが、少なくとも世間一般よりは詳しくなりました。しかし、信仰をお持ちの方からは「キリスト教の外野からあれこれいうあなたのようなやり方では、たとえ知識が山のようにあっても、信仰の確信に迫ることはできない」とのご指摘をいただきました。
まあ、おっしゃった方は「あんたなんかに何が分かる」という気持ちで単に書き込まれただけなのかも知れませんが、今にして思うと、なかなか的を得たご指摘だなという感じがしております。私のような読み方は、しょせんは「論語読みの論語知らず」みたいな立場なのかも知れません。
シンさま。早速のご返事、ありがとうございます。
> それは「死ね」といわれても基本的には何も感じないというのですから、そんなルールを守る自制心が備わっている、ということがわかる気がします。
私には、この文章が理解できません。それは、「死ね」といわれることと、ルールを守る自制心との間の関連が分からないからです。
特殊な状況下(ハイジャックやテロの現場に居合わせたとか)以外に「死ね」といわれるような場面について、私は他人と喧嘩しているような場合しか思い浮かびませんでした。そのような場面に於いて、他人側から「死ね」という言葉が出てくるのは、多くの場合、私が有利な場合であり、相手の言葉は捨て台詞に過ぎない・・・と考えたからです。
そのような場面に於いて、「死ね」という言葉ひとつでそれほど心を動かされる人は少ないのではないかと私は思うのですが・・・それとも「死ね」といわれるシーンに何か設定があるのでしょうか?
> ただ、社会保険庁の使い込みなどは法律にのっとってその法律も変えて正当にやり続けていましたから処罰をすることができませんでした。多くの偉い人たちは公衆の批難からうまく隠れています。
おっしゃる通りです。現実には法の修正は、少なくとも私の満足する内容、レスポンスで機能していません。だからといって立法府がその義務を負っていないとは言えません。
> もし、あなたが修正すべき立法府の立場であったら直されるまでひたすら、金を稼ぐ方法を考え、見つかるまで稼ぐ立場を取りますか?それともその法を変える努力をする立場をとりますか?
私の立場に拘わらず、私は法の抜け道があり、かつメリットがあればそれを利用するでしょう。例えば、これはあまり良い例とはいえないのですが、益税の問題(お客様から預かっている消費税の一部を特定の条件下で自分のものとできた)などで、収益があった場合など、私は如何なる良心の呵責を感じる事なしにそれを自分のものとするでしょう。
尚、私は日本国民であり課された義務(納税)は果たしていますので、当然のことながら、私が不備と考える法を修正させる努力は行っています。ただし、それは、選挙で国政に参加するということであり、微力であることもまた、事実です。
> 善ではない相対的評価と利益を天秤にかける計算をして行動を決める、と、とれるような気がします。
”善ではない相対的評価”を「違法ではない」という言葉に置き換えるなら、その通りです。もし、何らかの行動を行うにあたり、より違法に近い立場を選択することがコストの低減になるなら、私は極めて違法に近い適法の領域で行動を起こすでしょう。
> 死期が近づいた時には嘘でも偲んでほしい、という思いを周りに伝える努力、また偲ばれる対象になる努力をすることをお勧めします。安らかに死ねる確率が高まるでしょう。
> あなたに対してのアドバイスです。利用して利益になると思ったら、その時はそうしてみてください。
貴方のアドバイスに関してはお礼を申し上げますが、私の考えとは一致しませんので、そのアドバイスを実践することはないでしょう。私は信仰を持ちませんが、私の生は私の責任に於いて成し遂げられるものであり、私だけで完結すべきものと考えています。
故に私が辞世するときには、現世との全ての繋がりを無くし、誰の心にも残ることないというのを理想と考えています。
大文字ナンさん こんにちは
>で、JA50さんのこの指摘には同意。ですからちょっとシンさんの文脈に沿って「調子に乗りすぎました」ことをお詫びします。
文意に乗ってくださってありがとうございました。私も同じように反省しています。が、
これからもよろしくお願いします。変だな?と思ったら、そこで、話を止めない程度に注意してくださりますと、助かります。私はしばらくは、自習に専念するつもりです。といってもすぐに顔を出すと思いますが。
これからもよろしくお願いします。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。