このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。
教ではなくて経ですね。
temaさんへ
なぜ人心の統一が必要と思うのですか? というより、どの程度の統一が必要と思うのですか、とお訊きすべきでしょうね。個人的には「自分のわがままで他人に迷惑をかけてはいけない」という一点での統一は必要だと思います。なかなかこれで統一されきった社会はなかったんでしょうけど。
本来この掲示板の趣旨とはずれちゃうけれど
自分で発言しておいて?になったので質問です。
仏教の聖典と仏教の関係ってどうなっているんでしょう?
仏教の聖典というとホテルなんかにおいてあるあれですよね。
でも、一般的な仏教徒のお家にはおいてない(と思う)。
父の実家が加賀で大きな仏間があってお経の本もあったけれど聖典はなかった(どっかに有ったのかもしれないけれど)
ホテルでぱらぱらとめくった記憶では確かお釈迦様の生涯についてと仏教の教えについて書かれていて、一家に一冊あっても不思議じゃないのだけれども。
普通のお家にはお経の小冊子みたいなものがおいてあって、お婆ちゃんが仏壇にむかって読んでいる(あくまで秋月のイメージです)
そう言えばお経と聖典の関係もよくわからないな?
昔、どのような心の働きが有ったかは、今の私たちには、しかとは解りませんわな。
よしんば輪廻転生という現象が実在し、
大川氏が仏陀の生まれ変わりであったとして、
それが何を保証してくれるのか、というのは微妙な問題かと。
昔立派な人間だった事が、今も立派な人間である事を保証するわけではなし、
個人的にはむしろ神格化された過去の自分の名前を持ち出すような人格には、
ある種の胡散臭さを感じます。立派な宗教者なら、過去の名声なんかに頼ら
ずに一からやり直して見せろ、みたいな?
「生まれ変わった宗教者が過去の自分の威を借るのは倫理上問題だ」という
のは私の個人的感想で、一般化できるほどの説得力は無いと思いますが、ま
あなんか怪しい空気が漂うのは確かですよね。
diamonds8888xさんへ。こんにちは。
>(中略)しかし上記の役割を担うのは伝統的な宗教のみならず、私の言った広い意味での日常的信仰や哲学やイデオロギーでも担うことはできます。
「宗教の役割は、日常的信仰、哲学、イデオロギーでも担うことができる」という事は認識しています。不安を感じた点は、現在の日常的信仰、哲学、イデオロギー現在が「充分」担うことができるかという点です。
宗教の役割の一つに「人心の統一」ということがあると考えます。
主観ですが、この点について、日常的信仰、哲学、イデオロギーでは、昔の宗教ほどの力を持っているとは思えません。この力は強い程良い..とは思っていませんが、現在の状況に対する最適な力というものがあると思います。そして、現在の力は最適な力より小さくなっているのではないか?という根拠の無い不安があります。
なぜ、このような不安を感じるかというと、temaが古い男だからなのかもしれません。
おかしい...若さ溢れる紅顔之美少年なのに...(一部嘘アリ)
> えっ、昔は民族ごとや部族ごとに違う神様をあがめていたのでは?(後略)
そのとおりだと思います。同じ神様をあがめていた者が集団を作り、その集団の中では皆同じ神様をあがめていた、と想像してます。
一方、現在は集団の中で、別々の神様をあがめているような気がします。例えば...日本人という集団に属している意識(というより知識)はあるが、心はMacを信仰しており、Macの為ならアメリカ人になっても良いと思う。しかし周りに他のMac信者はいない...といった状態です(注:temaはMac使用者ですが、信者ではありません)。
こういった状態では人心の統一は難しいと思うのです。
フォローありがとうございました。
結局私の発言は言わずもがなの、野暮なものだったようで、
皆様がたには失礼いたしました。
こんにちは、大文字ナンさん、トトロさん。
実在する魂のような存在の否定を理論を体系づけたのは、むしろ大乗仏教です。それは「論」と呼ばれる「教」の注釈書に書かれています。
初期の教典だけを読んでも、ブッダが死後の事を説いたか説かなかったか、はっきりと決めるのは無理です。ただハッキリトと言えるのは、死後の事を幾ら考えても、現在の苦しみを根本的に消す事は出来ないという事です。
大川さんの転生を否定するのならば、理論的に輪廻転生が成立しない事を証明して迫らなければなりません。
もっとも、創造科学と一緒で、いくらその誤りを指摘しても耳を貸すとは思えませんし、大川さんが、直接議論の場に出てくるともなかなか思えません。
この世は仮の世様、こんばんは。
> お二人の仏教の詳しいことに驚きました。
大文字ナン様はいざ知らず、私の仏教知識なんてほんの付け焼刃に過ぎません。この掲示板を見ておられる方々にだって、私が足元にも及びつかない知識と見識を持っておられる方は沢山おられるでしょう。
> きっと40代以上の方なんでしょうね。
貴方が私の年齢を40代以上と判断する理由は何なのでしょうか?私は奈良県の高校野球で有名な某大学の図書館によく行きますが宗教学科宗教学コースの学生なんかは20歳前でも私など足元にも及びつかないほどの博識を持つ人が沢山います。
> 心の教えを求めていらしたんでしょうね。
私はブッダの唱えた無我の思想や空の思想や縁起の思想や諸行無常の考えについて共感しています。ただし、大川氏の似たようなタイトルが付いた教えとかいうものに対しては軽蔑しています。これは私個人の感情であり、個人的に抱いている幸福の科学への侮蔑です。
> ただ惜しむらくは仏教は死後の世界を説かなかったと信じられていることです。
また、勘違いしていますね。仏教は死後の世界を説いています。仏典による検証の結果からブッダはそれを説かなかったということが判明しているだけです。また、そう信じるに足る証拠があると私は考えています。
仏教はインド思想の一部です。ブッダだけが仏教を説いたわけではありません。
> 私は大川先生の教え以外に反論する材料を持たないのでこれ以上の反論はさけます。
ハテ??以上の文章は何の反証になっているのでしょうか???ご自分の勝手な憶測を述べられている以上の理解は私には出来ませんでしたが????
> 大川先生はこういってます。「私は見ました。あの世は100%存在します。」
また、根拠の無い主張をされています。大川氏が何を見ようと、何をほざこうと私には興味はありませんし、大川氏の発言事実であるという証拠もありません。が
> 後佐倉哲氏とオカルトのことですが、佐倉氏はエドガーケイシーの予言の検証もしています。
これが貴方が佐倉氏をオカルトに詳しいとした理由ですか。佐倉のWebページ「佐倉哲ホームページ佐倉哲エッセイ集」を見てみると、宗教以外で予言を扱っているのは「エドガー・ケイシーのデタラメな予言」だけです。そして「来訪者の声」を丹念に読んでみると氏はしばしば人には予言と言う能力は無いと主張されています。氏の主張を以下に引用します
<ここから引用>
未来についての断定は、それがどんなに無茶苦茶なものであったとしても、それが正しいかどうかを決定する術はありません。わたしたちは未来を知る能力を持っていないからです。そこにペテン師はつけ込みます。わたしたちにできることは、どんな根拠でそれが語られたかということです。自然科学における予測のように、実験と観察に裏付けられた合理的根拠があれば、それなりに信頼できるかもしれません。そうでなければ、ペテンです。ノストラダムスはその予言に何の根拠も示していません。したがって、エドガー・ケイシーと同じく、ノストラダムスもペテン師です。
根拠のない主張にはそれを検討する価値がありません。彼らの予言というものは、デタラメな思いつきによる主張なのですから、無視してよいのです。
<ここまで引用>
氏は主張を検証するために「エドガー・ケイシーのデタラメな予言」というページを作ったのだと私は感じました。私は佐倉氏の主張は至極当然のものであり、無知蒙昧にとらわれずに常にこのような態度を保ちたいと考えます。
また、予言は期日を過ぎてしまえば当たり外れが明白です。だから予言の検証はオカルトに詳しくなくても容易に行えます。この点からも私は佐倉氏のWebページを見ただけでは氏がオカルトに詳しいかどうか判断できないと考えます。
> ケイシー批判のサイトもつくって彼の予言を「くだらない」と断じています。
まぁ、外れた予言の検証をしても「くだらない」以外の結果はでないと思いますが、氏の意図は「予言なんて能力は人には無いのだからそんなくだらないことに惑わされないでください」と言う事だと私は理解しています。
で、この世は仮の世様は何を主張したかったのでしょうか?(<-これが一番の謎だったりして)
comさま、こちらでははじめまして、ですね。
「たんぽぽ」です。
>某サイトの常連さんである「音研」さんそっくりで、
あっちこっちで、うわさされてますよ、この人。
(みなさま、いろいろと、お怒りのようで...)
ちなみに、「音研」が出てくる掲示板は、ここです。
http://www.kakaku.com/bbs/Main_kakaku.asp?ItemCD=216080&MakerCD=80&Product=CAF%2DC3&CategoryCD=2160
トトロさん
体外衝撃波破砕法…こぉなんつぅかサイクロトロンとかスーパーカミオカンデとかトラクタービーム(by Dr.イーブル)とかに匹敵する超絶最先端豪快技術っぽいですねぇ。なにはともあれ、ご自愛ください。
魂の存在証明はともかくとして、一般に言う「生まれ変わり」は輪廻の結果として「私の前世は○○である」というカタチで成されるのでしょうね。であるからには、魂というメモリ媒体は過去世で遭遇したであろうすべての情報を現世に引き継いでいて、だからこそ自分が生まれ変わりだと主張できるのだろう、と私は解釈します。
だとするなら、生まれ変わりであることを自覚している誰かは、前世に行なった行動や言説のすべてを再現出来なくてはならない。それが出来ないようなら、生まれ変わりであるという主張はマヤカシだろう、というのが論理的な証明・反証だろうと思います。最低限、それが出来ないようなら、輪廻する魂の存在は主張できないはずですから。
きちんと提起された問題に答えてください(私のは無視してもよいですが)。あなたの意見があるなら、はっきり書くべきです。書かれていない行間を読み取って返事をしても、そんなことは書いてないといわれ萎えるのは誰だって嫌ですから。ただ教義を垂れ流すだけであれば、写真教を復活させますよ(w
名無しさん
勇み足は私のようで、失礼しました。とりあえずの論題は、大川ナニガシと仏陀の相違になりますので、輪廻を解脱したとされる説とも、どうすり合わせが行なわれるのか興味を持つべきなのでしょうね。この辺について他にご意見が伺えるようなら、私も聞いてみたいと思います。
takoさん
あらもったいない…takoさんはtakoさんで気後れすることなく議論されれば良いと思うのですが…収束は、私が話を広げちゃったからしといた方が良いかな、と思ったのです、あくまで。
トトロ様、大文字ナン様お二人の仏教の詳しいことに驚きました。きっと40代以上の方なんでしょうね。心の教えを求めていらしたんでしょうね。ただ惜しむらくは仏教は死後の世界を説かなかったと信じられていることです。私は大川先生の教え以外に反論する材料を持たないのでこれ以上の反論はさけます。
大川先生はこういってます。「私は見ました。あの世は100%存在します。」
後佐倉哲氏とオカルトのことですが、佐倉氏はエドガーケイシーの予言の検証もしています。で、ケイシー批判のサイトもつくって彼の予言を「くだらない」と断じています。
ちょっとした意見を論点をかき回すような形で提示してしまい大変申し訳ありませんでした。写真教は終了させていただきます。
com様 はじめまして
> この手の議論を読んでいていつも思うのですが、なぜ、キリスト教のある宗派は、自分たちのパラダイムを他人に押し付けようとするのでしょうか?
布教活動を目的とする方をのぞいて(もちろんあの人たちは押しつけるのを目的としてます)一般の信者が押しつけるのはそのパラダイムの否定が自らの教義の否定に感じられるからでしょう。
キリスト教やイスラム教のような聖典宗教つまり教義を記載した文章(聖典)を持つ宗教は聖典の内容(の細かい部分に至るまで)を逐次的に押しつけやすい傾向にあるという欠点を持ちます。
聖典中の細かい部分の否定が聖典の否定、しいては教義の否定につながるという観念を持ちやすいのです。もちろんすべての信者がこんな考え方を持っているわけではなく、comさんがある宗派の方とおっしゃってますが、さらにその内の一部だと思ってます。
>論敵の理論が間違っている、という論法が多く、同調する気にもなりません。
まったく、その通りですよね。
ふつうに議論してても最後には攻撃口調になってくる。
『汝の敵おも愛しなさい』じゃなかったかしら?
名無し様、はじめまして。
>>↑は(すでにトトロさんがご指摘ですが)後代になって大乗仏教で付け足された思想です
> 仏教学者でもあまりこうした認識をしている人は少ないんじゃないかと思います。現代のヒンドゥー教ではブッダ・ゴータマもヒンドゥーの神の一人になっていて、仏教の教えはヒンドゥーと全く同じだという事になっています。仏教側の方が、ヒンドゥーとは違うと言っているのだと思います。ヒンドゥーと同じだと輪廻は肯定しますね。
私の意見は石上玄一郎著「輪廻と転生」レグルス文庫を参考としています。「輪廻と転生」は20年ほど前の本であり、著者の石上玄一郎氏もジャーナリストであり仏教の専門家というわけではないので、信頼性という面では若干疑問も残るのですが、手元にあった書物で適当なものをを調べた結果です。以下はその要約です。
ブッダは「我」を否定しバラモンから決別した。「我」=アートマンという超越的存在を関知しない考え方である。輪廻の前提として、主体=「我」がなければ、輪廻は成立しない。しかし、ブッダ入滅後、「有情」という五感の統一体を肯定する上座部の説が成立し、輪廻が復活する。「有情」は自らのカルマの報いとして五趣を転生するという考え方である。五趣とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上のこと。
上座部仏教が五趣を取り入れた時点で、ブッダの思想とはかなり異なり、むしろ、続いて勃興してくる大乗仏教の考え方に近いのではないかという判断で”大乗仏教で付け足された思想”と記しました。最も、この考え方(輪廻)は、バラモンや民間信仰と馴染みが良かったようで広く信じられるようになったようです。
名無し様も仏教には詳しそうなので色々教えてください。
PDX.さん
一般に「水商売」と言えば、酒飲ませる商売を指すのであります。そして無論、一般でない方も存じております。まぁ私の場合「空気商売」と戦った経験もありますので。
To 大文字ナンさん
>水商売人の私は
え? 浄水器でも売ってらっしゃるんですか?(笑)
com さんのおっしゃる「水商売」とは、こちら「冨永研究室びじたー案内」
http://atom11.phys.ocha.ac.jp/index.html
の下にある、「水商売ウォッチング」
http://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/intro.html
および、そこの掲示板
http://133.65.184.185/bbs01/list.php
での定義に拠っています(笑)
いちおう私もあちらの掲示板でふらふらしているもので(笑)
こんにちは。
ご紹介のサイトは日蓮宗の僧侶が作成したホームページですね。
始めにお断りしますが、私は輪廻を肯定したり、いわゆる原始仏典書かれている事全てが歴史上のゴータマ・ブッダの言説だとは思っていません。
ただ、初期に作成された仏典には。輪廻の事や、悪霊、聖霊、諸神などが数多く出て来るという事実を書いたのです。
又仏教学者などの研究にょって、当時のバラモン教と仏教を分ける仏教独自の教えとは何かという事はホボ定説となっていますが、実際にゴータマ・ブッダが何を説いたのかは性格には誰にも解らないわけですね。それと仏典は教だけではなく、律と論の三点セットになっています。
多分私の書き込みで「ト」が又来たかと思われたのかもしれませんが、御心配はいりません。
ただ、チベット仏教を始め、日本の諸宗派も、例えば輪廻転生を否定する事はないと思います。又歴史的にも、インド、中国、南方上座部ともに仏教教団では否定しない。否定はしないが、それが実際に有るのかどうかは、別の話です。ご紹介頂いたホームページの作者もあえて否定はしないとおもいます。肯定するかどうかは何とも言えません。日蓮宗だと密教も入っていますから、とってもドロドロしてますよ、きっと。
例えば、ある人が「輪廻は本当にあるのか」と聞けば「何故それを知りたいのか?」とか「人はどうして輪廻すると思う?」などと言うでしょう。たぶん(笑)
どうしてこんな曖昧な言い方になるかというと、そのホームページの「小乗仏教 教義の発展」にもあるように「たくさんの部派に分かれたのは、もともとお釈迦様が対機説法で体系的な教理の説法をされていなかったことにも起因するのだろうと思われます。」という事でしょう。
仏教徒は仏典に輪廻や悪霊の事が書かれているのを「ブッダの教説ではないものが混ざった」と捉えるのでなく「何故このように説かなければならなかったのか」という発想で、アプローチの仕方が違うようです。
>↑は(すでにトトロさんがご指摘ですが)後代になって大乗仏教で付け足された思想です
仏教学者でもあまりこうした認識をしている人は少ないんじゃないかと思います。現代のヒンドゥー教ではブッダ・ゴータマもヒンドゥーの神の一人になっていて、仏教の教えはヒンドゥーと全く同じだという事になっています。仏教側の方が、ヒンドゥーとは違うと言っているのだと思います。ヒンドゥーと同じだと輪廻は肯定しますね。
comさま、はじめまして。
> さて、今回書き込みをしようと思ったのは、この世は仮の世さんが発端の、一連の論争(?)について2、3言いたいことがあったからです
先の議論から、論点が幸福の科学の教義批判に移りつつあるように私は感じています。その点について「論点の収束」というタイトルで書き込みをしました。
> 科学とは、ある事象をありとあらゆる方向から考察するものであり、(ありとあらゆる)宗教とは、自分たちの置かれているパラダイムの方向からのみ考察する、という差があるのではないでしょうか。
私はある事象を客観的な証拠をもって検証することを科学的というのではないかと考えます。例えば、神といわれる存在があるとして、特定の状況を作り出せば、必ず奇跡を起こしてくれるというのであれば神の存在は科学的に実証できます。
> バックグラウンドが異なる以上、どちらかの土俵にあわせた議論をしない限り、不毛な議論が続くのでは?
神の存在は、信仰上以外には検証できる証拠がないことが普通です。従って、科学は神の存在を証明できません。また、存在を証明できないということは、存在しないと言う事と同意ではありませんので、存在しないことも証明できません。だから、科学は神を論じないという立場をとります。
また、科学は信仰を批判することや価値観に対する議論もいたしません。これらには共通な物差しが無いため、批判や検証ができないからです。
> この手の議論を読んでいていつも思うのですが、なぜ、キリスト教のある宗派は、自分たちのパラダイムを他人に押し付けようとするのでしょうか?
自分たちのパラダイムを他人に押し付けようとする人はそれほど多くは無いと私は考えています。科学的手法は極論すれば誰でも検証できる方法です。このため、広く信頼されています。私が考えるに彼らのパラダイムが科学的に正しいというお墨付きを得られると言うことは、とりもなおさず、そのパラダイムが正しいものとして広く受け入れられると捉えているのではないでしょうか。その為に、神の存在(あるいは神が介在する何か)は科学的にも正しいと論じたり、科学的な理論である進化論を間違っていると攻撃して科学より正しい創造論を唱えようとするのではないでしょうか。尚、例え進化論が否定できても創造論が正しいということにはならないのですが・・・
> 仏教徒である(そんなにまじめではないですが)僕には理解できません。ましてや、自分たちの理論が正しい、という言い方より、論敵の理論が間違っている、という論法が多く、同調する気にもなりません。
仏教には、物事は変化し同じでないという考え方が根底にあります。また、輪廻にしても、次に生まれ変われるのは人とは限らないという思想もあります。そして仏教の思想は人が考えるという点に重点が置かれており、天地創造などに重点が置かれていません(皆無ではなかったと思いますが)。このことが、進化論を受け入れやすい易い理由ではないでしょうか。
名無しさん、こんにちわ。
初期の仏典と言っても、仏陀入滅後400〜500年はざらに経過しているものばかりで、原始仏教=初期の仏典とは言い切れません。多くの仏教学者によって研究された原始仏教の思想、つまり仏陀が直接的に述べたと「推察される」主張では、輪廻や魂、死後の世界などの形而上概念については、肯定も否定もせず、口を閉ざしたとされており、私はこの「科学的な研究成果」の信憑性に重きを置く立場で発言しています。
http://www.kosaiji.org/Buddhism/early.htm
>どちらにしてもブッダは輪廻の世界を乗り越えたので、生まれ変わることはありません。
↑は(すでにトトロさんがご指摘ですが)後代になって大乗仏教で付け足された思想です。
comさん、はじめまして。大文字ナンと申します。
水商売人の私は、今まさに寝起きなので、ヘロヘロなことを書くかも知れませんが、ご容赦ください。
>科学とは、ある事象をありとあらゆる方向から考察するものであり、(ありとあらゆる)宗教とは、自分たちの置かれているパラダイムの方向からのみ考察する、という差があるのではないでしょうか。
うまい表現ですね。ですがこの表現を完成させるためには「科学的な立場」とか「思想的な立場」という風に、両者の枠を広げておくとより良いかも知れません。
>バックグラウンドが異なる以上、どちらかの土俵にあわせた議論をしない限り、不毛な議論が続くのでは?
確かに不毛っぽいのです。しかし議論は行なわれるべきだ、と思うのです。どっち道世の中はかなり不毛ですから、投げやりにしてるよりは議論してみるべきだ、と思えるのです。そうやってるうちに、少なくとも私はいろんな主張に触れ、その考えの問題点や自分自身が理解していなかった論点に気付いたりします。収穫を期待して行動しているわけではありませんが、自分と異なる立場でモノを考え主張する人と討論することが、不毛にならないよう気をつけます(笑。
>ましてや、自分たちの理論が正しい、という言い方より、論敵の理論が間違っている、という論法が多く、同調する気にもなりません。
創造科学論者の多くは、まず「聖書的創造は科学的に正しい」と主張し、だから進化論は間違っている、と主張してきますので、一応の筋は通っています。問題は、創造の根拠も進化を否定する根拠も脆弱である以上に、ただ単に「そう信じている」と主張するので、土俵を同じくすることはかなり難しいですね。
ですが、予言者や霊能者が「つい地上のことを述べてしまう(by佐倉哲氏)」のと同じように、進化論を否定する信仰者の方も、つい事実について述べてしまうので科学議論に持ち込むチャンスが生まれます。それと、この掲示板は科学議論だけに限定されるのではなく、様々な思想・立場・思惑について寛容ですので、こちらも独自のスタンスを取れる自由さがあり、奔放な議論が期待出来ます。こうした雑多さも、私がこの掲示板に居座りたくなる理由だと思っています。
どもです。
初期の仏典に輪廻転生の話しは嫌と言うほど出てきます。
特に在家の人々には良い行いを積めば、来世では良いところに生まれると説かれています。
それに対して、出家者に対しては輪廻を乗り越えるようにと説かれます。
どちらにしてもブッダは輪廻の世界を乗り越えたので、生まれ変わることはありません。
ただし、実際に輪廻転生するのかどうかは又別の話です。
皆様はじめまして。普段は「水商売」にたむろしていますが、ちょっと勇気を出して書き込みしてみることにしました。どうぞよろしくお願いします。
当方、進化論vs創造論(進化論否定論?)的な論争は疎く、いきなり地雷を踏んでしまうような発言があるかもしれませんが、その時は容赦無くご指摘ください。
さて、今回書き込みをしようと思ったのは、この世は仮の世さんが発端の、一連の論争(?)について2、3言いたいことがあったからです(どなたかがもうご指摘かもしれませんが)
科学とは、ある事象をありとあらゆる方向から考察するものであり、(ありとあらゆる)宗教とは、自分たちの置かれているパラダイムの方向からのみ考察する、という差があるのではないでしょうか。
バックグラウンドが異なる以上、どちらかの土俵にあわせた議論をしない限り、不毛な議論が続くのでは?
この手の議論を読んでいていつも思うのですが、なぜ、キリスト教のある宗派は、自分たちのパラダイムを他人に押し付けようとするのでしょうか?仏教徒である(そんなにまじめではないですが)僕には理解できません。ましてや、自分たちの理論が正しい、という言い方より、論敵の理論が間違っている、という論法が多く、同調する気にもなりません。
最後に、最近のこの世は仮の世さんの論調は、特に「これ以上議論してもしょうがない」系の発言は、某サイトの常連さんである「音研」さんそっくりで、残念に思います。そのような議論をしている限り、「創造論は科学か」という議論は永遠にしてもらえないのでは、と思います。
昼休みが無くなってしまったので、書きたいことを十分に書けませんでしたので、整合性が無いかもしれませんが、お許しください。
この世は仮の世様
> 大川先生の仏教思想と旧来の仏教については現在検証中です。
> 中略
> 佐倉氏も大川先生の仏教思想について正面から批判することはできないようです。大川先生の仏教思想が誰かの受け売りにすぎないとしたら、仏教理解が未熟ならそこをつけるはずですが、仏教思想自体が難解なため、佐倉氏も誰も攻撃できないと見ます。
大文字ナンさまも”論点を収束させておきましょう。”とかかれており、私もそう考えますので、幸福の科学の教義について議論が展開しないように私の認識を記させていただきます。
私は(多分、大文字ナンさまも)幸福の科学の教義について否定も、批判もするつもりはありません。それが仏教をベースにしていようと、いまいと、似て非ざるものであろうと私には興味がありませんし、議論するつもりもありません。
教義というものは、それがどのようなものであろうとも批判されたり差別されたり検証されたりするものではないと私は考えます。
ただし、大川氏が自らをブッダの生まれ変わりだと公言した場合、これは教義の問題とは別に検証と批判の対象になります。第三者にそのことを納得させようとすれば一般的には証拠が必要でしょうし、その証拠は、検証され却下される場合もあるのです。
この世は仮の世様の書き込み(上記)を見ていると大川氏の仏教思想(これはとりもなおさず幸福の科学の教義でありましょう)が攻撃されているかのように捉えられていますがこれは大きな誤解です。
大川氏の仏教思想がどのようなものであれ、それ自体を攻撃する人はいなかったし、これからもいないと考えます。
たまごお嬢さま。
わたくし、おもひますに、moon4844さまのおっしゃるのは
(1)ブッダ氏は解脱して輪廻転生の輪から外れたのだから生まれ変わることはない
(2)従って生まれ変わったと主張するならば、彼はブッダではない。唯のゴータマ君だっ!!
ということだと理解しております。が、この結論に至った場合、比較的容易に科学的ではない反論が可能です。
反論
STEP1 ブッダ氏が輪廻転生の輪から外れたというのは大乗仏教の教えで後から付け加えられた考えです。
STEP2 ブッダ氏は転生に対して何も語っていません。従って転生しないとも語っていません。
STEP3 従ってo川氏がブッダの転生した人物ということを否定することはできません。
というようなロジックでしょう。その為、私はmoon4844さまの意図とは異なるのですが転生自体が検証できるのかという方向に論点をずらしたのです。
>> もし、生まれ変わったのなら、その時点で仏陀ではないと言う事になると思います。
>ある生き物がいたとします。名前が無いと不便なのでその個体名を仮に「めそ」としておきましょう。めその個体は消失してしまいました(死んで火葬にでもしたと考えてください)。・・・以下省略・・・
トトロさんこんにちは。moon4844さんがおっしゃりたいのはそういうことではないのではないでしょうか?
仏陀(目覚めたもの)っていうのは輪廻から解脱した者なのだから、ゴータマ君が生まれ変わったとしたら、その時点でゴータマ君は仏陀ちゃうやん。仏陀じゃないただのゴータマ君じゃん。って突っ込みを入れたかったのではないかと・・・。
moon4844さま。はじめまして、トトロです。
> 件のO先生とやらは仏陀の生まれ変わりと明言されているのでしょうか?
件のO先生はあちこちの本で同様のことを書いているのですが、ずばり「仏陀再誕」というタイトルの本が幸福の科学出版から出ています。この本、1,748円(税別)もするので、買って読むならもう少しましな本を選んだほうが良いと(あくまで私は)思います。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の声を憶えているか。
あなたがたは、かつて私の話を聞いたはずである。
だそうで、”仏陀の生まれ変わりと明言”されていると私は理解しています。
> そもそも仏陀は輪廻から超越しているわけなので、生まれ変われるわけがないと思うのですが。
輪廻からの開放をブッダが唱えたかどうか私には判断できませんが、彼が認識の及ぶ限りを真実とした考え方から、輪廻云々については何も語らなかったのだろうと思います。生まれ変われるかどうか、そもそも生まれ変わりという現象が存在するのかどうかを私は知りませんので私も黙ることにします。
> もし、生まれ変わったのなら、その時点で仏陀ではないと言う事になると思います。
ある生き物がいたとします。名前が無いと不便なのでその個体名を仮に「めそ」としておきましょう。めその個体は消失してしまいました(死んで火葬にでもしたと考えてください)。しかし、めその科学的な情報(外形やら遺伝子やら思考やら必要とされる情報は全て)は記録されているものと仮定します。
さて、ここにめその生まれ変わりという個体が出現しました。これを「うる」と呼ぶことにします。うるの科学的な情報は完全にめそと一致したならばうるはめその生まれ変わりと判断できるのでしょうか?
件のO先生の例は上記の問題よりも単純です。O先生は生物学、医学的にブッダと同一である可能性はまずありません。従って、科学的にブッダの生まれ変わりではありません。私はここでAがBに”生まれ変わる”ということをAとBが同一の生体情報を持っていることと定義しました。この定義が妥当であるかどうかの批判があると思います。
もし、”生まれ変わり”が生体情報などではなく魂などの再現だと主張するのであれば、魂の科学的存在証明が必要であると私は考えます(そのようなことを主張しそうな方もおられるでしょうから)。
> 尿管結石の間違いではないでしょうか。
> 尿道:膀胱からおしっこの出口まで
> 尿管:腎臓から膀胱まで
ご指摘ありがとうございます。
”尿管結石”の間違いです。(私にとって)右側の比較的腎盂に近い所にあったそうです。
州知事就任のシュワルツェネガー氏かく語りきしゃりき、、(聖書に手を置きつつ)
「私は州民の皆さんと手をとって(重たい石)を持ち上げ〜云々」
やがてはツラストゥラのように転がすだけで悩むのか〜?!
箴言16章3節 あなたの業を主にゆだねれば(転がせば)計らうことは固く立つ。
トトロ さん
>火曜日に腎臓結石(正確には尿道結石)を体外衝撃波破砕法で破砕しました。
尿管結石の間違いではないでしょうか。
少なくとも私の病院では尿道結石を体外衝撃波破砕法で破砕することはありません。
尿道:膀胱からおしっこの出口まで
尿管:腎臓から膀胱まで
(一般向けのため正確ではなくてもつっこみ禁止)
皆様はじめまして。横レスですが、失礼します。
件のO先生とやらは仏陀の生まれ変わりと明言されているのでしょうか?
そもそも仏陀は輪廻から超越しているわけなので、生まれ変われるわけがないと思うのですが。
もし、生まれ変わったのなら、その時点で仏陀ではないと言う事になると思います。
話題がずれているかもしれませんが、御容赦を。
>大文字ナン さん
お医者様の主催されるサイトでこのようなものを紹介するのは気が引けますが、考えさせられるところがあるのでどうぞ。
http://www2f.biglobe.ne.jp/~yasuq/schizophrenia2.htm
To 大文字ナンさま
> ところで、そんなに横たわってるのですか?
火曜日に腎臓結石(正確には尿道結石)を体外衝撃波破砕法で破砕しました。とりあえず一泊して帰ってきたのですが、1〜2日は安静にせよとのことでしたので、自宅に引きこもっています。
とりあえず。今週一杯は有給休暇を取るつもりです。
と、こんな時間に出勤するヤルセナサよ(笑。えへへ。
>takoさん
なんちぅか…ジツに参考になる資料でした。
そして、
>イデアは二次元の空間に普遍的に存在しそれは不朽のものであるのに対し、われわれの空間は4次元目として示される時間軸をあてもなくさまようわけです。
については、かなり「エレガントだなぁ」と感じたことを素直に告白します。Pブレーンのホログラム論みたいですね(笑。
>「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」
>科学的、客観的に盲信であると証明できますか?
今書くとジャンケンの後出しみたくなりますが…文言(教義?)に対して盲信であることを証明することは不可能です。私の提言による盲信は「客観的に信仰心を見たときに行なわれる評価の一種」ですから、takoさんの「信心の様子」を観察し、少なくとも複数の分析者による検討を行わなければ、科学的かつ客観的な論証を行なうことは不可能です。
>え?そんなことを言う根拠ですか?啓示です。
科学的な論証ではなく、takoさんにとって客観で、私にとっては主観な意見を述べると、盲信と言うより「デンパ障害」に陥っているのでは?と申し上げます(笑。
>トトロさん
横レスおおいに結構なお手前です。仏教および宗教に関するトトロさんの知識の深さに敬服します。ところで、そんなに横たわってるのですか?
>この世は仮の世さん
論点を収束させておきましょう。仏教思想についての議論はともかく、大川センセーの虚言については、トトロさんによる
>もし、違った考えを説いたのでは、その者はブッダではなくブッダの名を騙る者です。
が、すべてを集約しています。
信仰の役割は2種類に分けられるでしょう。
1.社会の利益−−道徳を守らせる
2.個人の利益−−生き方の確立や人生の不安の解消
ヒト以外の動物ではおおむね本能がこれらの役割を担っていると考えれば、まさに宗教は本能の代替物と言えます。しかし上記の役割を担うのは伝統的な宗教のみならず、私の言った広い意味での日常的信仰や哲学やイデオロギーでも担うことはできます。
で、「信仰心が薄れる」ことを心配する人というのは結局は上記の役割を担うものが無くなることを心配しているのだと思ったのですが。役に立たない信仰なら別に薄れても問題ではないと思うのだけど。
************************
昔は同じ神様を崇めていたが、現在は個々人で別の神様を崇めているような気がします。そのように変わることがイカンというわけではなく、それで人間は大丈夫なのかということが不安だったのです。
************************
えっ、昔は民族ごとや部族ごとに違う神様をあがめていたのでは? 別々の集団が統一されていくときに神様も統一されてだんだん数が減ってきたという歴史はあるでしょうけど。それともこれは日本の明治時代と現代の比較でしょうか?
日本人が民族としてバラバラになることが不安とか?
>大文字ナン さん
ここの6.1を参照にしてください(^^)
>地下に眠るM さん
頭痛の原因を代表してお詫び申し上げます。
>たまごちゃん(^-^)ノ さん
わけもわからず信じることが盲信とご指摘ですが、信仰の篤さがその教義の理解度により貶められるのはいかがなものかと思うのです。人である以上完璧は求められません。篤い信仰によってのみ人は真の教えを一歩一歩理解していくのです(うわっ)。
せっかくですので、写真教の教えを未熟ながらご紹介いたします。そもそも、この天地にある万物はイデアと呼ばれる高貴な本質がこの三次元の空間に不完全に投射されているに過ぎないのです。イデアは二次元の空間に普遍的に存在しそれは不朽のものであるのに対し、われわれの空間は4次元目として示される時間軸をあてもなくさまようわけです。写真というものは不完全なわれわれの姿を人工的に二次元の形に焼き付けようとする試みであり、われわれの真に高貴なイデアに対し不遜な行為であり、われわれのイデアを損なうものでしかありません。かつて、キリスト教の神は楽園に通じさせようとした意図を持ったバベルの塔を打ち倒したと伝えられています。人が天国に無理やり道筋をつけようという行為が如何に罪深いかはそのことが示しており、その冒涜性において写真機などまさに悪魔の発明と申せましょう。今より昔の子供、先進国より発展途上国の子供のほうがバイタリティにあふれる目をしているのは、写真に暴露した量が違うからなのでしょう。影響はすでに広がっているのです。悔い改めよ!(間違い)
え?そんなことを言う根拠ですか?啓示です。
>この世は仮の世 さん
>大川先生の仏教思想と旧来の仏教については現在検証中です。
そんな悠長なことを言っていてはなりません(w 私は写真教のほうが幸福の科学より論理的整合性があり真理に近いと主張しているのです。
To大文字ナン様
横レス失礼いたしました。
なんだかなぁ〜〜、大文字ナンさんのレスの方がわかり易いしかっこいい!!
おぉっと3分割になっちまったい。
> 佐倉氏も大川先生の仏教思想について正面から批判することはできないようです。
佐倉氏は「聖書の間違い」でもキリスト教の思想について批判することを注意深く避けています。氏か「聖書の間違い」の「はじめに(目的と方法論)」で書かれているように氏の目的は思想や教義を批判することではありません。
「ブッダと大川隆法 」(ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html)に於ける佐倉氏の検証は、大川氏がブッダの生まれ変わりというのが信用できるのかに向けられています。
> 大川先生の仏教思想が誰かの受け売りにすぎないとしたら、仏教理解が未熟ならそこをつけるはずですが、仏教思想自体が難解なため、佐倉氏も誰も攻撃できないと見ます。
仏教理解が未熟かどうかだけなら「ブッダと大川隆法 」で十分でしょう。
> タンパク質の一片が生命になりそれが人類になり、2500年前に難解な仏教思想をそれもあの世や神々の存在を説くとは信じられません。
まだ、根拠の無い主張のみを続けるのですか?
> 仏陀が2500年後に日本に生まれた場合、現代日本人に向かって2500年前と全く同じ教えを説くと考える方が無理があります。
もし、違った考えを説いたのでは、その者はブッダではなくブッダの名を騙る者です。今日、我々がブッダの教えを知ることができるのはそれらが記録された書物が残っているからです。その教えと異なる教えを唱えられた場合、我々が彼がブッダであるかどうかを判断できません。また、DNAを始めとする生物学的な検証を行えば必ず彼がブッダと同一人物ではない(なにしろ日本人だし)という確証が得られるでしょう。現在ではブッダをブッダたらしめている証拠は彼の思想以外には無いからです。
> でも私も仏典は2冊持ってます。仏教思想の解説書も読みました。解説書は難しすぎて理解できなかったけど・・・一般向けにかかれた仏教書も2冊持ってます。
仏教はキリスト教とは異なり、膨大なインド思想を構成する要素の1つです。ですから文献も山ほどあるのですが・・・ちなみに、私の机の上でストックされている本だけでも鎌田茂雄著「仏陀の観たもの」,増谷文雄著「釈尊のさとり」,上村勝彦訳「ニーティサーラ」,金倉円照他訳「ヒトーパデーシャ」,中村元著「ゴータマ・ブッダ - 釈尊の生涯 -」,友松圓諦著「仏教聖典」,水野弘元著「仏教文献研究」・・・(文庫が多いのはご愛嬌)などがあります。多分、引越しの時に段ボール箱に入れたままになっている本ならばまだ数十冊はあるはずですが。「ブッダの真理の言葉」も「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」も確か持っていたはずです。
> 佐倉氏は宗教やオカルトに詳しいけど何のために研究してるんでしょうか?宗教はあの世や神や天使の存在を前提にした神秘思想だと思うのですが・・・カントの哲学でも研究してるつもりで思想的にのみ宗教やオカルトの研究をしているように見えます。この人のいうことは信用できません。
佐倉氏が何を考えているのかは氏に聞くより他に方法がありません。が、氏が”オカルトに詳しい”という点については氏のWebページを(多分)全て拝見させていただきましたが確認できません。何故、そのように断言できるのですか?
むしろ、佐倉氏は「来訪者の声」でオカルトには興味が無いこと、そのような質問や意見に対して実証できる事象だけで返答を行っています。
”宗教は〜神秘思想”と思うのは貴方の勝手ですが、氏は、「仏教について」で、そういう神秘思想でない教えと言うものについて考察をおこなっています。
貴方に”カントの哲学”が何なのかの理解があるかどうか私には判断できませんが実証主義をもって宗教の研究を行うことは、宗教に含まれる主張を解釈者の立場によらない共通の物差しで検証することであり尊い仕事であると私は考えています。私は、このような立場でのみ信仰者と信仰を持たない者が対等に話し合える方法だと考えます。
何故”この人のいうことは信用できません”のでしょうか?佐倉氏は主観によらない方法で検証を行っています。誤りを指摘する場合、その理由も明示しています。氏の検証に対する態度は非常に誠実です。
私には、批判に対して根拠も示さずに正しいとする態度のほうが遥かに「信用できない」と考えるのですがこの点については如何でしょうか?
> あの世や霊についてどう思ってるんでしょうか?創世記について解説できるとでもいうんでしょうか?
佐倉氏のWebページを読めば明白だと思うのですが。氏が「仏教について」でブッダの思想について書かれていることから、私には、”あの世や霊について”についてはわからない、そして、わからないことに対して誠実であるために議論の対象としないという立場だと考えています。これは科学が宗教を扱わない理由とほぼ同じで、私には大変よく理解できる考え方です。
> 大文字ナン様は「仏陀は死後の世界や転生について説かなかった」とおっしゃってますが、確か岩波文庫で「神々との対話」「悪魔との対話」という仏典があると思います。仏陀が2500年前に死後の世界をとかなったかどうかは今となって仏典を通して推し量るのみです。
「神々との対話」はサンユッタ・ニカーヤ経の第1集1〜3編、「悪魔との対話」は、4〜13編です。サンユッタ・ニカーヤ経 (『阿含経』相応部)は、古い経典であることは確かですが、前述のとおり、それだけで判断を行うことは危険です。また、 川上貞信(仏教学者)らの時代からこれらの原始仏典が大乗仏教の影響を受けているとの指摘もあります。来世は、仏教の前にあった古い概念ですが、上座部仏教の勃興により一旦、退行し、大乗仏教で再び蘇った考えです。
「悪魔との対話」には、悪魔や尼僧,バラモン,在俗信者などとの対話での説話が多く収録されています。
この世は仮の世様
この書き込みは大文字ナンさまへの貴方の書き込みに対する横レスです。自宅のベッドで横たわっているのも退屈なので失礼を承知で書いてみました。分量が多いので分割してあります。
> 私が持ってる仏典「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」には信仰について一章割いてますが、信仰の大切さは説いても「信仰を捨て去れ」とは説いてません。
> 第10章信仰14番
> 「信仰のない人とつきあうな。水のひからびた池のようなものである。もしも、そこを掘るならば泥臭い臭いのする水が出てくるだろう。」
この世は仮の世様が持っておられるという書物は「ブッダの真理の言葉」中村 元 訳(岩波文庫)の続編でしょう。「真理の言葉」はダンマパダ経(法句経)、「感興の言葉」はスッタ・ニパータ経を示しています。
スッタ・ニパータ経は、ブッダの言行を集めた(と思われる)経典ですが、実際には異問が多く含まれていることも知られています。例えば、マッジマ・ニカーヤ経他多くの原始経典に於いてブッダは信仰の廃棄を唱えたことを記しています。もちろん、スッタ・ニパータ経に於いてもそのような記述がありますが、スッタ・ニパータ経にはそれと反する記述も多くあるのです。
例えば、弥勒信仰はスッタ・ニパータ経に含まれており、小乗仏教の教義と相反するものになっています。これについては「弥勒の「救い」と約束の日」(ttp://www2.spitz.net/amou-field/hatake/bukkyou/mitry1.html)に詳しく解説されています。
原始仏典といえども、文字にされたのはかなり後代であり、それまでは口伝えの伝承でした。現代に伝わる貝葉(ヤシの葉)などの写本は最古のものでも1世紀をさかのぼることはできないそうです。ブッダの入滅から400〜500年経っているわけで、その時代は部派仏教の教義も発展しあるいは展開していましたし、その時代には初期大乗仏教も興起しています。
文字化されない丸暗記による口から口への伝承は意外と正確に行うことが可能なようです。しかし、どうしても教義の展開の影響を受けてしまいます。また、パーリー語和訳などに用いられている原始仏典の底本のスリランカ写本は意外と新しいと聞きます(確認中)。そのような点から、最古層の原始仏典といえども、更にその最古層の部分を見極める必要もあります。同じ経典内でも古く成立した部分と、後から付け加えられたものがあるのは他の仏教経典と同じです。
従って、スッタ・ニパータ経だけに頼ってブッダの言動を推定することは誤謬を生む可能性があります。ブッダの思想を理解するためにはサンユッタ・ニカーヤ経やマッジマニカーヤ経のような多くの書物から導く必要があります。
> 佐倉哲氏が引用した箇所について・・・仏陀はピンギャという人に自分の信仰を捨て去れ、といったのだと思います。仏陀自身に対する信仰を捨て去れといったのでは2500年続いた仏陀に対する信仰が成り立ちません。
ブッダが信仰を捨てよと言ったのは、縁起の思想から連なる一連の思想の結果です。ブッダは、自ら感じるものと自らの心だけを真実として認識し、感じられないものについては語るべきではないとの思想から信仰を捨てよと論じたのです。今日では中学校で習うインド思想史でも上座部仏教(小乗仏教)から大乗仏教への変遷を教えています。上座部仏教には救世主という思想はありませんでしたから”2500年続いた仏陀に対する信仰”なんてものは元々成り立っていません。
> 大川先生は不特定多数の人に信仰の大切さを説いたのであり、信仰の大切さは誰にでもわかる話です。
誰にも信仰が大切というのは、貴方の勝手な思い込みに過ぎません。私には信仰よりも理性と知性の方が大切です。まぁこれは良いとして問題は大川氏の布教の方法でしょう。
第二東京弁護士会の山口広弁護士が、宗教法人「幸福の科学」を相手に起こした裁判で、判決は、教団の書籍や過去の訴訟から、大川代表は教団を批判する者に対する攻撃、威嚇の手段として訴訟制度を利用する意図があったと認定しています。教団を批判する者達におどしをかけるようでは教えの程度も知れようというものです。
ふと、オレオレ詐欺を連想しましたにゃ。
みにゃさまも、じぶんのじーちゃん・ばーちゃんに電話してオレオレ詐欺をやってみて
金が振り込まれるようだったら、説教してやるべきではにゃーでしょうか?
「ダメだよばーちゃん、こんな手にひっかかったら。
気をつけなきゃだめだよー。今回は授業料として1割もらっとくよ。」
てな感じで。
なんだったら僕の口座貸すぞ、一回一万円で>みにゃさま
精神病院での会話
患者A「俺は、世界の人々を救う救世主なんだ」
患者B「おいおい、いきなり何を言い出すんだ?」
患者A「昨日の晩、神から啓示を受けたんだ。世界を救えと」
患者B「はて、俺はおまえにそんなこといってないぞ」
統合失調症における救世主妄想(メサイア・コンプレックス)という症状のありかたは、日本では他国に比べて非常にたかいちゅう話がありますにゃ。これはどうも、テンノーと関連があるようで、いわゆるテンノー妄想(俺はテンノーだじょー、とか思い込んじゃうやつね)は非常に多いと聞きますにゃ。
こんなことは専門家に説明される必要すらにゃーことだけど、ユングによればメサイアコンプレックスには常に極端な自我肥大が見られるそうですにゃ。そして、実際に偉大とされる宗教家・教祖にもある程度の自我肥大が認められることも多いみたいだにゃ。ユングに拠れば、かのイエス・キリストすら自我肥大が見られるらしいのね。ところが、この自我肥大がまったくといっていいほど見当たらないのが、ゴータマ・ブッダであると、ユングは驚嘆しているのだにゃ。あれだけ孤高の境地にあった者に自我肥大が見当たらないとは奇跡であると。
お釈迦さんはね、「我を信じろ」とは決していわにゃーのだよ。彼の教えとは「法(ダルマ)に帰依しろ、法を信じろ」だにゃ。あと、「修行せい」だにゃ。
禅仏教とは、ある意味では仏教の先祖がえりにゃんが、そこではこう説かれとるにゃ
「仏に会ったら仏を殺せ」
これぞ仏教の基本的な態度であるといってよいのではにゃーだろうか。
O川ダイセンセイの、メサイア・コンプレックスで醜くぶくぶくに肥大した自我を思えば、
あの虚言屑に仏教の「ぶ」の字もわかっていることはありえにゃーのさ。
To この世は仮の世さん
仏教を仏教たらしめ、その他の宗教と明確に分け隔ていている思想に「縁起」(因縁生起)があることは、仏典を読まれているというこの世〜さん(呼称を省略させていただく失礼をお許しくださいませ)もご存知でしょう。結果には原因があり、苦しみが今あるのなら、その苦しみの元になるものを見つめ、取り除きなさい、というのが概要かと。他力本願に拝んだり、信仰に頼ることなく、自分で自分を見つめ、苦しみの元凶を知り、打ち勝てるよう努力しなさい、という「現実主義」な思想は仏教の源流として知られています。
http://pund.kosaiji.org/Buddhism/syaka.htm
たとえば↑のサイトを参考にしてください。
次に、『仏陀はピンギャという人に自分の信仰を捨て去れ、といったのだと思います。仏陀自身に対する信仰を捨て去れといったのでは2500年続いた仏陀に対する信仰が成り立ちません。』についてですが、ビンギャに仏陀が述べたのは、言うまでもなく彼が持つ信仰を捨て去れ、という意味にしか捉えようがありませんが、かと言って「仏陀を信じろ」などと彼が述べたとは、到底考えられません。現在の仏教(特に日本の仏教)が、原始仏教とはかけ離れたものであることを、この世〜さんはご存知ないのでしょうか?(原始→小乗→大乗の流れなど)
なお、参考文献として挙げられた「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」は、仏教学者中村元博士の著書ですが、これを「仏典」と呼ぶのは微妙かと思います。啓蒙書ではあっても、仏典とは言えないのではないでしょうか。博士の国内における業績にとやかく言う気はありませんが、ことに原始仏教の理解(解釈・研究)については、かなり異論があるようです。以下のサイトを参照ください。
http://page.freett.com/Libra0000/082.htm
>佐倉氏は宗教やオカルトに詳しいけど何のために研究してるんでしょうか?宗教はあの世や神や天使の存在を前提にした神秘思想だと思うのですが・・・
佐倉氏がどのような動機で研究をしているのかを、私に問うことは無駄です。私にとってそれは「十分な信憑性を持つ資料」として評価されているだけです。また、宗教のすべてがあの世とか神とか「形而上な存在」を前提にしているわけではないことは、原始仏教として知られる思想を見るだけでも明白です。原始仏教について(たとえば中村博士のような)異論があったとしても、既にそれは多数に認められた事実ですので、この世〜さんの考えは明白に間違っています。
>タンパク質の一片が生命になりそれが人類になり、2500年前に難解な仏教思想をそれもあの世や神々の存在を説くとは信じられません。
私との議論の中に脈絡はありません。ですが、この世〜さんは「信じられない」のではなく「信じたくない」のではないか、と推察します。信条論を述べるのならば、私は自分を救えるのは自分だけであり、他の誰でもない、という信念を持っています。神や仏や天使に救ってもらおうと考えたことは一度もありません。この世に生きている誰かに助けられて生きているのが実際ですが、その誰かを得られるのも、自分という人間が生きた結果であって、他力本願に都合良く現れたわけではありません。また、このような信条を持つことも一種の信仰である、と私は考えています。
信じる、信じないに関わらず、事実は厳然と存在します。あなたが進化論を信じようと信じまいと、生物進化の事実は確固たる証拠を得て現実の成果をあげているのです。
たんぽぽ様「イスラエルの気候」について教えていただきありがとうございます。
Kousuke様「新版・図説種の起源」から読もうと思います。ありがとうございます。
私が持ってる仏典「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」には信仰について一章割いてますが、信仰の大切さは説いても「信仰を捨て去れ」とは説いてません。
第10章信仰14番
「信仰のない人とつきあうな。水のひからびた池のようなものである。もしも、そこを掘るならば泥臭い臭いのする水が出てくるだろう。」
佐倉哲氏が引用した箇所について・・・仏陀はピンギャという人に自分の信仰を捨て去れ、といったのだと思います。仏陀自身に対する信仰を捨て去れといったのでは2500年続いた仏陀に対する信仰が成り立ちません。
大川先生は不特定多数の人に信仰の大切さを説いたのであり、信仰の大切さは誰にでもわかる話です。
仏陀が説かれたことは2500年前のインドの衆生に対して語ったことであり、教えも時代的制約を受けています。仏陀が2500年後に日本に生まれた場合、現代日本人に向かって2500年前と全く同じ教えを説くと考える方が無理があります。
大川先生は2500年前説かれた仏教の復活をさせるために仏教思想書を出してるのではありません。現在でている仏典と教えが違って当然です。
でも私も仏典は2冊持ってます。仏教思想の解説書も読みました。解説書は難しすぎて理解できなかったけど・・・一般向けにかかれた仏教書も2冊持ってます。
大川先生の仏教思想と旧来の仏教については現在検証中です。
新興宗教にはいるか、やめるかは人生の一大決断なので教えの周辺的な違いだけでは簡単に判断するものではないと思います。
佐倉氏は宗教やオカルトに詳しいけど何のために研究してるんでしょうか?宗教はあの世や神や天使の存在を前提にした神秘思想だと思うのですが・・・カントの哲学でも研究してるつもりで思想的にのみ宗教やオカルトの研究をしているように見えます。この人のいうことは信用できません。あの世や霊についてどう思ってるんでしょうか?創世記について解説できるとでもいうんでしょうか?
大文字ナン様は「仏陀は死後の世界や転生について説かなかった」とおっしゃってますが、確か岩波文庫で「神々との対話」「悪魔との対話」という仏典があると思います。仏陀が2500年前に死後の世界をとかなったかどうかは今となって仏典を通して推し量るのみです。
「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」には地獄という題で一章割かれています。一部を引用します。
第22章地獄306番
「偽りを語る人、あるいは自分がしておきながら「私はしませんでした」という人、この両者は死後には等しくなる、来世では行いの下劣な業を持った人々なのであるから。」
「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」には神々、悪魔、天国、地獄、来世という言葉がよく出ます。
佐倉氏も大川先生の仏教思想について正面から批判することはできないようです。大川先生の仏教思想が誰かの受け売りにすぎないとしたら、仏教理解が未熟ならそこをつけるはずですが、仏教思想自体が難解なため、佐倉氏も誰も攻撃できないと見ます。
タンパク質の一片が生命になりそれが人類になり、2500年前に難解な仏教思想をそれもあの世や神々の存在を説くとは信じられません。
つい長く書くことがある私は、短く簡潔に著してみちゃろうじゃねぃか、と企んだのでした。しかしもう、一行で書く限界を超えたのでした。
takoさん
>私は指摘する側の人の主観が入り込んでるんじゃないかと思うんです。
血中アルコール濃度を測定するのがむつかしいので、吐息の中のアルコール分子量を測っちゃろう!ちゅぅのが官憲によるヨパーライ検問だったりします。凶悪な口臭消しでコイツを欺くことができると言われておりますが、私は試したことがありません。吐息のアルコール濃度がヨパライー度を表すかどうかはともかく、確かに飲酒の証拠にはなるので、まぁ「客観的指標」にはなるのでありましょう。
ぷぅ、と風船膨らまして「信じてる度」が分かれば、あ〜あんた盲信レベル3だねぇ、4からは反則金でなく罰金だよん、とか言われることもあるのでしょうが、原理的にそんなこと(指標)はあり得ません。何を言いたいかと言うと、客観と言っても当然(takoさんがご指摘のように)評価する側の価値観とか先入観とかイヤラシサが入り込むのであります。
A:「あっしは、おめぃの、すべてを信じるでやんす!」
B:「うふふ、あ・り・が・と」
C:「誰か…この二人をヤっちゃって…やっちゃってください(心の声)」
などという、虫唾の走る「盲信の屈み合わせ」も存在しますが、どっちにせよ、盲信も軽信も評価のひとつであり、理性的であろうとなかろうと、とにかくダメ政治家へのアホな献金のごとく「信じたいヤツら」を指して「盲信さん」と申すのが世の常でありましょう。そりゃもう、アタマが頭痛が痛いこと然りなのです。
↑魔女の辞典(だったはず)より借用
盲信=わけもわからずに信じること
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%CC%D5%BF%AE&kind=jn&mode=0
takoさんが「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」と信じる理由をご説明ください。もし満足な理由を述べられないとしたら、「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」というのが事実かどうかとは関係なくあなたの信仰は盲信だというより他ないでしょう。もちろん、takoさんに限ってそんなことはないと信じていますが。
大文字ナンさんが盲信は客観と指摘されておられますが、私は指摘する側の人の主観が入り込んでるんじゃないかと思うんです。
O川氏の言動のように明らかに論理矛盾が指摘されるのは論外としても、そうではないものを盲信かどうか判断するのは難しいと思うのです。
そのうえで、あえて問います。
「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」
科学的、客観的に盲信であると証明できますか?
#実はこれ、どっかの学者さんが迷信と宗教とは違うとおっしゃっていたのを聞いて、「いや、おなぢだ」と強弁するためにでっち上げたものです。
兄貴「うぃー、酔っぱらっちゃったよーん」
弟分「そうっすよ、兄貴。飲みすぎですよー」
兄貴「バカヤロー、俺のどこがよっぱらってるっていうんだー」
弟分「え? だって兄貴、今、自分で酔っぱらってるって・・・」
兄貴「そうだ、俺は確かに飲みすぎてゲロ酔いだ!」
弟分「・・・じゃあ、ヤパーリ酔ってるんじゃないすか」
兄貴「バカヤロー!!!! だからこそ俺は酔ってねえんだよ」
弟分「ハア!?」
兄貴「やはりテメエにはわかんねーんだろうな」
弟分「ぜんぜんわかんねっす」
兄貴「いいか? 自分が酔っぱらっていると自分でわかるほど冷静な俺の、
どこがどう酔っぱらっているというんだ?」
弟分「・・・・・・」
兄貴「おーし、次いこ、次」
たまごちゃん(^-^)ノは、多くの人にとっては才能豊かではあっても一人の人間にしか見えないであろう存在を言霊を操る女神だと信じています。そして、信者集団に帰属したり礼拝したりするためにお布施を払ったりだとか、お札とか経典を買ったりだとか、教団に対して馬鹿にならない金額のお金を払っています。また、彼女はところかまわず宣教してまわるくせの持ち主でもあります。
私は彼女の信仰は盲信だと思います。この意見を彼女に伝えると、彼女は私に対して、「私は自分が女神を盲信していると自覚しているので、私の信仰は盲信ではない。自分が盲信していると自覚しているものは盲信しているとはいえないだろう?」と答えました。
私はやはり、彼女は盲信していると思います。
♯ 関係ないけど妄信と盲信って違いますよね。
信仰ってのは主観なのです。盲信は客観。私は盲信してます、とは誰も思わない。
ここ2日ほど、
展開が凄く早くて、しかも面白い
でも僕には時間がな〜い
(子育て奮闘中新米二児の父)
私が持っているのは「原色CCD」タイプですが、屋内の撮影で微妙に色合いが変といわれればそうかもしれません。色を気にせず文書等を写す分にはきれいに写ります。
この世は仮の世さんへ。こんにちは。
本当の定義は国語辞典に任せるとして、temaの考えは以下のとおりです。
信ずることと幸せになること、どちらか一方しか取れないとすれば、どちらを取るでしょう。
幸せになることを選ぶなら、信仰です。信ずることを選ぶなら、盲信です。
現在手持ちのカメラが200万画素で、そろそろ400万画素が欲しくなっているのです。
んで、今悩んでるのが、CCDのこと。「原色CCD」、どう思います?
新製品にはこのタイプのが多いように思うんですけど、補色タイプの方が感度が良いらしいし...。
キャ○ンの、イ○シー400が欲しいけど、ソ○ーのD○C−T○も気になる...。
ごめんなさい。
実は奮発したんですよ。400万画素。・・・すみません。自分以外の写真とってます。
>写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない
30万画素以下のデジカメなら大丈夫だそうです。
確か、某真理@と某科学とは早くから罵り合う間柄で、松本サリン事件をA師の仕業と踏んだO氏は千載一遇のチャンスと捉え、政治家の多数に相談を持ちかけたものの、唯一三@某しか聞いてくれなかったそうな。で、当然O氏はその時、@塚某が総理になると周囲に漏らす。しかしここでまたこの予言の成就も無く、ふてくされたO氏は自分が失敗した政界進出に、早くから根を下ろししかも着々と布石を打つ某学会を事あるごとに目の敵にするのでありました。
> 私は、面白くて無意味なことを信じ込ませる、「いたずら」がしてみたいなぁ、と思ったのだ。
うーん、そんないじわるなことを言われても(^_^)。サンタさんの話とか、月にはウサギがいるとかが「面白くて無意味なこと」ではないと言われては、ぼんさんにとって面白くて無意味なことが何かなんてわからないじゃありませんか。
・チチンプイプイ、痛いの痛いの飛んでけ
・アダブラカダブラ
・蹄鉄を壁に飾ると幸運が入って来る
・マザーグースの唄
だめ?
くやしいからこちらもイジワルな反論を。
> 殆どの親が信じ込ませてることは、害(もしくは益)があるか、面白くないか、どっちかでしょう。
それは因果関係が逆です。殆どの親が信じ込ませてることだから、ひねくれた人には面白くないのです(^___^)。
> もし、この世は仮の世さんに対するレスであったら、横レスになってしまいますが...
私のコメントは「今の日本には信仰をなくした現代人が大量出現している」という意見に対するものですので、そう考えている人からのコメントは誰の物でも歓迎です。
>トトロ さま
ここですね(^^)。
「痛くない、痛くない、痛くない・・・大丈夫大丈夫大丈夫。。。勉強するぞ勉強するぞ勉強するぞ…」
「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」ちょっと過激ですか?
僕は盲信をみると頭痛がすんだにゃ(げんなり
takoさま
以前、この掲示板で「頭痛に盲信」という言葉が流行った(?)ような覚えがあります。
確かに二重盲検法で検査はされていないでしょうが、アラクス社の似た名前の頭痛薬よ
りは効きそうな気はします。
でも副作用は激しそうです。場合によっては廃人になるかも。
トトロです。議論の方法が二重投稿になってしまています。
お見苦しいことをしてしまいました。掲示板をご覧の皆様にお詫び申し上げます。
秋月さま、遅ればせながらお子様のお誕生をお祝い申し上げます。
マコトさま
悪戯が過ぎたでしょうか?もし、そうお感じならばお詫びいたします。
”他のサイトで議論”については非常に興味がありますのでぜひ、お話をお聞かせください。
また、この掲示板ですが、基本的には疑似科学批判の掲示板となっています。ただし、この掲示板では、信仰に基き、かつ科学的(客観的)な事実ではないと言明した上での主張(創造論を含む)は科学は宗教を扱えないとの立場から批判の対象にはならない・・・はずです。
>この世は仮の世 さん
>「信仰したい対象を無検証かつ無批判に信用すること」
これが盲信に当たるという御主張だと思いますが、盲信なんて言葉を持ち出すことは適切でしょうか。難しいですよ。
実は私「写真に写ると魂を抜かれるので写真に写ってはならない」ということを固く信仰しているんです(笑)。どなたかこれが盲信だと証明できますか?(マコトさんみたい)
ところで、マコトさまは、どうなっちゃったのかしら?
肩透かしを喰わせるレスばっかりで、
(って、わたしも、そういうレスをした一員だけど...)
面喰らうか、拍子抜けするか、しちゃったかな...?
>皆さん、こんにちは。僕は、進化論・創造論、にとても興味が有ります。
>そして、他のサイトで議論をしています。
(マコトさまは、進化論を受け入れていると考えて、以下...)
もしかして、どこかでやっていらっしゃる、議論の対策のために
おたずねしたのかな、とも思うのですが...
それで、相手(創造科学論者)が、
「神さまの存在は真実だ」と言い出したら、どう返したらよいか、
参考になりそうなことを、お聞きしたかったのかな、と...
議論の戦略としても、神さまの存在証明を論ずるのは、
避けたほうがいいと思います。
検証のしようがないし、ここに論点を持っていかれたら、
それこそ、創造科学論者の思うつぼ、
議論は泥沼になってしまうと思います。
神さまが存在するかどうかは、なにも語らないことにして、
論点は、あくまで、創造科学が科学理論として正しいかに、
しぼったほうがいいと思いますよ。
(そうではなくて、マコトさまは、創造科学の支持者だというなら、
この場合、どういう戦略を取ったらいいかは、見当がつくでしょう...)
この世は仮の世さま、矢継ぎ早に書き込みを行う失礼をご容赦ください。
貴方の書き込み(と言うかレス)には主張はあるのですが根拠がありません。
主張のみの書き込みでは、議論が成立せず、威圧的な批判のみの応報となってしまいます。私はこれまでの対応からこの世は仮の世さまは非常に律儀な方だと感じておりますのでひょっとするとご自分の書き込みの問題点に気づいておられないだけかも知れません。
お節介とは思いますが、”地下に眠るM様”の書き込みに於いて何が問題であるかを解析してみたいと思います。
> 周りの人が大川先生の予言を嘘だと断定したのを私が今更反論しても始まらないと思います。
私を始めとする予言はウソとの指摘に対する貴方の答えです。しかし、結論が曖昧です。この文章では反論できるけどもしないのか、反論できないのかがわかりません。故にこの文章は読む人によっては、挑発的と捉えられます。
> 納得してもらえないでしょう。
この文章で反論を諦めたようにみえますが、正しい、正しくないレベルの話を納得する,しないのレベルに変換(?)しています。予言はウソでしょう?という議論に対して納得するしないの結論は変です。ゆえに議論を持ちかけている方々にとっては、議論内容がかみ合っていないように感じられます。
> 私は予言は的中したと思います。
貴方の結論です。が、議論を持ちかけている方々に対して何故”予言は的中したと思”うのか説明がありません。証拠を突きつけられたときに反証せずに証拠を無効とするのは黙秘するより相手を挑発する行為です。そして掲示板のような形式の議論では、相手に対して失礼な行為であると私は考えます。もし、貴方が相手の書き込みを読んだ上で尚、”予言は的中した”と思うのならばそれなりの理由があるはずです。きちんと反論してください。
もし、その理由が宗教的なものである場合でも、それを公表すれば、この掲示板ではそれ以上追求されることは無いでしょうから・・・
> 大川先生は虚言屑ではありません。
ダメ押しです。この文章は議論相手を挑発する以外の効果はありません。この一文は貴方が思考停止状態にあることを明言しているように私には思えます。
単なる雑談ならともかく、掲示板上の議論ではお互いが根拠(証拠)を述べた上で主張を展開し議論を進めます。この世は仮の世さまにはこの基本を理解していただいたうえで議論に参加いただければより有用な対話が成立するのではないかと考えます。
乱文につき失礼いたしました。
この世は仮の世さま
>現在のイスラエルの気候も2000年前の
>イスラエルの気候も知らないので私には何ともいえません。
2000年前はいざしらず、
現代のイスラエルの気候でしたら、簡単に調べられることですよ。
(この程度のことなら、ちょっとした旅行ガイドにも、
出ているんじゃないかな...?)
http://www.israel.co.jp/general/general.html
|季節は大きく分けて二つ、4月から10月の夏(乾季)と11月から3月の冬(雨季)です。
|冬の間は雨が降りますが、雨量は地域により差があります。
|また毎日雨が降るわけでもなく、晴天の日もけっこうあります。
|エルサレムなどの高地ではかなり寒くなって、雪が降ることもあります。
|それ以外の地域は比較的温暖です。
|死海やエイラットは冬でも雨が降ることはほとんどなく
|暖かいので泳ぐこともできます。
...というふうに、こちらのみなさまが
おっしゃっていることは本当だと、すぐに確かめられるのでした。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。