進化論と創造論についての掲示板ログ190

2003年11月12日〜2003年11月16日
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おずおずさんへ  投稿者:おせっかい 投稿日: 2003年11月16日13時01分

>その間に他の方から書かれてしまいましたが、「動物と人間は互いに違ったところを持っている。」ことは当然だと思います。ただ、「犬と人間」「鳥と人間」「犬と鳥」はそれぞれ違ったところを持っていますが、その中でなぜ「動物と人間」をことさらに分けるのでしょう?
なんとなく、あなたの言う「違い」の中に、価値観、を感じてしまうのです。「人間ってエライんだぞ!」とでもいったような、不合理な感情を...。

横レスで失礼します。下記をお読みください。
http://www.path.ne.jp/~millnm/no12.html


いたずら  投稿者:ぽん 投稿日: 2003年11月16日 9時42分

秋月さんへ

ご次男さまのお誕生、おめでとうございます!
たまたま、昨日テレビでお笑いタレント(だと思う)が、
「うちの母ちゃんは、いたずらで俺たち兄弟にスイカとトマトを逆に教えてた。
俺は、小学校でトマトが出たときに『やったスイカだ!』と喜んで、
その時に初めて逆に教わっていたことを知った。
帰って母ちゃんに抗議したら、大笑いして喜んでた」
って話してました。

悪魔の実験はやばいけど、もしも子どもがいたら、ちょっとそんないたずらしたいなぁ、
と思う今日この頃。
あんまり害がなくて、なんか面白いこと信じ込ませるいたずらできませんかね?
なんちゃって。


他にも  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年11月16日 7時51分

To ベレアの人々の末裔さん

 五島勉氏の場合、1999年を過ぎてしまえばもうノストラダムスで食っていけないことは明白だったので、90年代に入ってからはいろいろと他のものを予言解釈して新規開拓に励んでいたそうです。
 イソップだかの童話とか、ご指摘の聖徳太子も。
 しかも聖徳太子に至っては、「未来記」という聖徳太子の書いた書物から予言解釈をするという触れ込みなのに、京都の古寺を巡ったりした氏はついにその書物を手に入れられずじまいなのだとか(汗)

 直接ノストラダムスに関してではなく、ノストラダムスをとりまく周囲のあれこれについては、と学会の「トンデモ大予言の後始末」という本が面白いです。


預言者エンターテイナー  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年11月16日 7時06分

 確かに、(五島 勉)て方は終いには聖徳太子までかりだしていたみたいですね。
やがては預言者梯子の「限界効用逓減の法則」が働いたりして。


悪魔の実験  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月15日23時43分

 先ほど(15日22時06分)無事次男が誕生しました。
 ふと、思うのですが、このままこの子を一切の人間と隔離して育てた場合
どのような部分が発達しないのでしょうか、笑えるのでしょうか、涙を流して所謂悲しい顔をして泣けるのでしょうか?(長男を観察した限り笑うのは生得的なように思えます)
 あるいは文字のみを機械的に教えて成長させた場合彼の表現する精神社会はどのようなことになっているのでしょうか?
 少し興味は湧きませんか?


 おっと皆様ご安心下さい、私も子供の前にでるとデレデレのただのオヤジでこんな実験のことなど忘れ去ってしまってますから 


文化と信仰  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月15日23時25分

 temaさん、お返事ありがとうございます。

 岸田秀氏ときたので、もしや、と思っていましたが(笑)やはり唯幻論ですか。正直言って私は彼の思想には共感できません。ただ、temaさんのお考えを拝見して、なるほど、と思わないわけではありません。

 科学理論と違い、思想(論)においては、どうしても提唱者の偏見に主張が左右されます。時代背景、社会環境、その他との応答で思想への共感が起き、それが個人の主義や考え方の根本に置かれることに異議はありませんが、私はそうした思想を置くことを徹底的に嫌う傾向を持つので、つい科学を「偏重」してしまうのでしょう。

 さて、以下は反論と言うより、私ならこう考える、というケースです。お互いの考え方の違い、という風に解釈していただければ幸いです。

>「人は本能の壊れた動物である」というのが唯幻論の前提です。本能が壊れているため、そのままでは性行為も育児もできません。それでは絶滅してしまうため、人は本能の代替である文化を作り、文化の作り出す幻想の中で生きている..というのが唯幻論の概要です。

 私論においては、人はかなり本能的だ、となります。ですので前提から私とは対岸にあるようです。文化・文明を作ることが人の「本能的本質」であり、人がこれほど傲慢になった所以だと捉えています。文化は、遺伝子よりも遥かに早く集団に浸透し、継承されるので、縦にも横にも際限なく広がります。人は偶然手に入れた知性の産物として、文化を手に入れ、文化によって発展したのですから、文化を生むことこそ人の本能だ、と私は考えるのです。

>伝統的な宗教が見向きされなくなろうと、伝統文化が失われようと、新たな宗教や文化が本能の代替として有効に機能するならば、問題はありません。しかし現代では、文化の変化が暴走し、本能の代替としては無効なものに変わりつつあるのではないか?と思っています。

 思想における偏見が見えてしまいます。ここで言う文化の前段にはすべて「temaさんにとって」あるいは「temaさんに好ましい」が付加されるのではないでしょうか。もちろん、私も「大文字ナンにとって好ましい」様々なゲイジュツを持ちますが、それが見捨てられる時代になろうと、文化が壊れたとは少しも思いません。個人の持つ価値観には「好ましさ」が大きなファクターを締めますが、もうひとつ別の視点、つまり科学的な冷静さを持った客観においては、複雑さ、多様さ、などを総合した「豊富な情報量」を持ち得るかどうか?が「適応的価値」を代弁出来ると考えます。その点において、人類の無謀なまでに雑多な文化は、変化に対する貪欲さを含めて、実にダイナミックかつアグレッシブであり、暴走するからこそ有効なのだ、と思うのです。

>前の文章でtemaは「信仰」を既存の宗教の意味で使っています。確かに、現在の信仰心はハマアユやポルシェ、時には科学に対して発揮されていると思います。ただし、それらへの信仰が本能の代替として有効かどうかは、別問題です。

 もし人類が(幾分かでも)正しい信仰を持つのだとしたら、それは科学理論や工業技術、その他「生産性を裏付けるもの」に方向づけられることが、最も合理的だ、と私は考えます。これは見方を変えると原始宗教への回帰でもあると思うのです。魚や火や太陽や自然を崇めたように、自動車や原子力や超伝導やコンドームに信仰を求めることは、現代人にとって当たり前のことであり、神や仏に救いを求めることよりも、はるかに効率的で利便を得られる、と考えています。

>文化が、本能の代替として有効に機能できなくなった状態を「壊れる」と表現しています。本能が有効に機能せず、代替として作られた文化も有効に機能しなくなりつつある、のではないかと思っていました。

 本能の代用品である文化、という説を呑んだとして、要するにそれは人間(または個人)が適応するために必要なもの(であるべき)と私は捉えます。私自身も以前から「人間は自然に適応することよりも、社会に適応しようとしてきた」と主張してきたのですが、人類が増え続けている事実、生存圏を広げつつある事実を指して、文化の有効さは失われていない、むしろ強化の一途を辿っている、と考えています。ただしそろそろ物理的な限界が見え始めていることは確かですから、既存の価値観を根こそぎ崩壊させるような、いわゆる「パラダイムのシフト」が、近い将来に求められることは必然かも知れません。
 ただしこのシフトは、ランダムに発生した「亜文化」のどれかが、淘汰を経て発達するものであろう、と私は予想します。それだけに、反発も根強いものと思えます。もしかすると、今temaさんが抱えている文化への危機感も、そうした変化への不安を表しているのかも知れませんね(笑。


おいおい  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年11月15日23時23分

To ベレアの人々の末裔さん

「五@氏」ってのは五島勉氏のこと?
 彼の著書におけるノストラダムスの生涯についての記述はかなりいい加減で、ノストラダムスの伝記やそれに類するものをロクに読んでいないのではとすら言われているのに、それを元に語ってもしょうがないのでは。
 五島勉氏ではない違う「五@氏」のことだったら勘違いスマソ。


おずおずさんへ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年11月15日22時28分

>日本は、全国各地で復旧作業が続いているでしょう。(以下略)

比喩ではなく、(当たってはないけど)具体的な記述をしているのだと思います。


ミカエル・ノートルダム  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年11月15日22時00分

 黙示録には、この書に付け足す者や削除する者がいれば書かれてある厄災がその者に臨むと記されていて、大胆な名前のミッシェル・ノストラダムスは明らかに聖書からの引きで予言をしたとみられ、また五@氏に拠りますとノストラダムスは全身を覆う潰瘍で亡くなったとか。果たしてただのパクリでしかも大外れには厄災は降り注がないのでしょうか!?
ガクガク ブルブル だとすれば宗教家でも何でもなく、只の宗教エンターテイナーなの?


re :壊レル?  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月15日21時46分

 大文字ナンさんへ

 まず、temaの考えの基となっている岸田秀氏の唯幻論について、説明させて下さい。
 例えば、雀は(多分)本能により、つがい、雛を育てます。もし、この本能が壊れた場合、つがうことも雛を育てることもできず、雀は絶滅してしまうでしょう。
 「人は本能の壊れた動物である」というのが唯幻論の前提です。本能が壊れているため、そのままでは性行為も育児もできません。それでは絶滅してしまうため、人は本能の代替である文化を作り、文化の作り出す幻想の中で生きている..というのが唯幻論の概要です。

 次に、本件に対するtemaの考えを述べさせて下さい。
 本能の代替として文化を考える上で、価値観の統一や行動の規定を行える宗教は非常に重要です、いや、重要でした。ところが現在、伝統的な宗教は、かつての魅力を無くしています。そして、以前はある程度同じ文化の中、同じ幻想の中で生きていた人々が、多彩な文化の中、別々の幻想の中で生きているように思えます。
 伝統的な宗教が見向きされなくなろうと、伝統文化が失われようと、新たな宗教や文化が本能の代替として有効に機能するならば、問題はありません。しかし現代では、文化の変化が暴走し、本能の代替としては無効なものに変わりつつあるのではないか?と思っています。

 大文字ナンさんの質問に返答します。
>(前略)ここで言う「信仰」が既存の宗教の低迷を指してのことなのでしたら、それは単に魅力ある宗教がないからなのでしょう。
 前の文章でtemaは「信仰」を既存の宗教の意味で使っています。確かに、現在の信仰心はハマアユやポルシェ、時には科学に対して発揮されていると思います。ただし、それらへの信仰が本能の代替として有効かどうかは、別問題です。
>  次に、文化は情報に還元出来ると思いますが、これが「壊れる」という状態をどのように想定するのでしょうか。
 文化が、本能の代替として有効に機能できなくなった状態を「壊れる」と表現しています。本能が有効に機能せず、代替として作られた文化も有効に機能しなくなりつつある、のではないかと思っていました。

 ちなみに、地下に眠るMさんの説明を、temaはこのように受け止めました。
 本能は自然に相対するための道具であるが、人が作り上げた社会は、自然に対して充分に力を持った。このため、本能の代替である文化が(自然に相対するためには)有効に機能しなくなろうと問題は無い。
 問題となるのは、個人が社会にどう相対するか、または、ある社会と他の社会が相対した場合にどうするか、という事である。

 長文、失礼しました。


日常的信仰は不滅です  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月15日20時04分

 洋の東西を問わず多くの人の日常生活では、信仰とは現世の御利益を求めるものではないのでしょうか? 信仰厚きスポーツ選手が神に勝利を祈ったり勝利に感謝したりすることは普通らしいですが、キリスト教のように万人を愛する神を仮定すればとても矛盾してますよね(^_^)。
 こういう日常的信仰はあまり廃れているようにも見えないんですけど。現世の御利益と言えば商売繁盛とか健康とか素敵な恋人とかが多いのはむろんですが、中には良い人生を送りたいと言った人生戦略とか、死ぬときもしくは死んだ後で後悔したくないと言う長期的御利益を願う場合もありますね。

 このような信仰は個人が環境(社会的であれ自然的であれ)に適応する方策のひとつとも言えますね。で、あるものを信仰してみて運が向かなければ乗り換えるという結構科学的というか実践的というか体験重視というか、そんな人も多いのでは? 一神教社会みたいに選択の余地が少ないと乗り換えようもありませんが、アメリカではキリスト教からイスラムや仏教に乗り換える人も多いと聞きます。

 ということで「今の日本には信仰をなくした現代人が大量出現している」という話には簡単には賛成できません。もしかしてこれは単に「今の日本には道徳心をなくした現代人が大量出現している」と言いたかったのではありませんか? んで、「道徳心を無くしたのは信仰を無くしたからだ」と短絡してると。「昔は良かった」ていうのはどんな時代にも言われてたことらしいですけどね。

 上記のような信仰は真の宗教ではない、などという偏見反論は却下。ただし別に狭義に定義した信仰について論ずるなら問題なし。


検証とは疑うことなり  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月15日20時02分

*********************************************
私は検証もかねて大川先生の本を読んでいます。勉強していれば矛盾というのは発見できるものだと思います。しかし、たとえ間違った理論でも、それが堅固な理論ならば、そう簡単に矛盾も発見できないだろうとも思います。
*********************************************

 発見できるかどうかはその人の能力と意欲の問題もありますし堅固さの程度にもよります。理論の堅固さと突っ込み能力の勝負、ということになりますが、最初から降参していたのでは勝てないことは明らかですね。


Re.それは比喩では?  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月15日17時56分

GOAさま

> ご紹介の文章を読む限りでは「イギリスでは復興が始まったばかり、フランスはまだその緒に就くまでにも至っていない」というような意味を比喩的に語っているように思えます。

ご指摘ありがとうごじます。確かに、そう言えばそうですね。ロンドン〜ソビエトまでのくだりは、全て比喩的に語っているという理解が正しいようです。故に、”予言自体も全くの出鱈目ですが〜表現はおかしいでしょう。”という私の主張は取り下げると共にこの文章により気分を害された方々にはお詫びを申し上げます。
しかし、予言が外れていることを初めとするその他の主張は固持いたします。

ロンドン、フランスでは時間的経過を表現し、中近東、ソビエト、中国では生じた変化を書いているので、てっきりロンドン、フランスでは実時間の表現を行っていると思ってしまいました。


これも比喩?>GOAさん  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月15日17時36分

>日本は、全国各地で復旧作業が続いているでしょう。自衛隊員が、ミミズのように分断された新幹線の線路工事に、玉のような汗を流しているでしょう。かつて都市だった太平洋岸のある地域には、黒潮が打ち寄せて、藻が繁り始めています。日本各地で、政府主催の合同慰霊祭が行われて、その読経の声が低く流れております。しかし、日本は無事でした。この災難を機に、日本では、神理を求める声が全国津々浦々から聞こえてき始めて、人々は悪しき万能主義、唯物主義の迷信から目覚め、光へと向かいつつあります


この世は仮の世さま へ2  投稿者:tako 投稿日: 2003年11月15日17時07分

とりあえず科学で100%とか確信とかなるのは間違ってるように思います。科学は信じるものではありませんので。それに対し、「幸福の科学」は宗教なので100%確信されていても別に問題はないでしょう。ただ、「幸福の科学」は科学ではないことは気に留めておいたほうがよいと思います。

もし本能を、あるinputに対し特定のoutputを返す衝動とするならば、人の場合inputからoutputにいたるまでがえらく複雑で、理性とか抽象的思考とか呼ばれるまでになっているので、outputが様々に変わってくる(性的倒錯とか殉教とか)というのが特徴だと思います。仲間を作りたいという本能が変化して信仰になったとも考えられます。


それは比喩では?  投稿者:GOA 投稿日: 2003年11月15日16時23分

トトロさん

>ロンドンの人びとは、夜明けの薄明かりの中を、手探りをしながら歩いている状態です。フランスは、眠っております。中近東は、仮死状態です。中国では政変が起きて、共産主義体制が急速に崩壊していきます。ソビエト? その名は、死を意味しています。大きな死体が横たわっているのと同じです。

ご紹介の文章を読む限りでは「イギリスでは復興が始まったばかり、フランスはまだその緒に就くまでにも至っていない」というような意味を比喩的に語っているように思えます。


Re.(無題) 2  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月15日15時45分

> また、私は検証もかねて大川先生の本を読んでいます。勉強していれば矛盾というのは発見できるものだと思います。しかし、たとえ間違った理論でも、それが堅固な理論ならば、そう簡単に矛盾も発見できないだろうとも思います。

それでは、”大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ 作者:佐倉 哲”
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/reiji.html
について貴方の反論をお願いいたします。また、こういう情報もあります。

<ここから引用>
西暦2000年。世界の人々は、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでおります。この頃まで世界の中心だったニューヨークは、その機能をほぼ壊滅的なまでに失っているでしょう。ロンドンの人びとは、夜明けの薄明かりの中を、手探りをしながら歩いている状態です。フランスは、眠っております。中近東は、仮死状態です。中国では政変が起きて、共産主義体制が急速に崩壊していきます。ソビエト? その名は、死を意味しています。大きな死体が横たわっているのと同じです。 日本は――日本は、全国各地で復旧作業が続いているでしょう。自衛隊員が、ミミズのように分断された新幹線の線路工事に、玉のような汗を流しているでしょう。かつて都市だった太平洋岸のある地域には、黒潮が打ち寄せて、藻が繁り始めています。日本各地で、政府主催の合同慰霊祭が行われて、その読経の声が低く流れております。しかし、日本は無事でした。この災難を機に、日本では、神理を求める声が全国津々浦々から聞こえてき始めて、人々は悪しき万能主義、唯物主義の迷信から目覚め、光へと向かいつつあります
<ここまで>

この引用は、大川隆法『黄金の法』角川文庫版の204ページ15行目〜205ページ11行目までですが、現在では改定により上記の部分は削除されています。確認するのでしたら図書館などで 平成2年(1990年)9月10日発行の初版を探す必要があります。
西暦2000年にこのようなことがありましたか?予言自体も全くの出鱈目ですが、ロンドンのフランスの時間のとり方にも問題があります。フランスはロンドンよりも東にあります。この為、パリとロンドンでは1時間の時差があります。もし、ロンドンの人びとは、夜明けの薄明かりの中”仮に午前6時とすればパリは午前7時になり”フランスは、眠っております”という表現はおかしいでしょう。
私が上記の引用で言いたい事は、書物にもこれほどいい加減で杜撰な記述がいくつも存在していること、予言が外れたからといってそれを改定でなくすという悪質な意図をもっていること。貴方は恐らくそのような記述を目にしているはずなのにそれを矛盾と考えていないことが明白であるということです。

> 「高度な社会生活」がどの程度のものか知りませんが、未開部族にもアニミズム(精霊信仰)という信仰形態はあると思います。

私が言う高度な社会生活とは、言語あるいはその他の手段で、抽象的な概念を伝達および記録できる生命体が集団生活する場合を想定しています。言うまでも無く「神」は、抽象的な概念ですから、抽象的な概念を伝達および記録できる能力が無ければ信仰は生じないと考えます。
”未開部族”と書かれていますが、貴方の考えでは少なくとも彼らの社会は高度ではないと判断されているのですか?


Re.(無題) 1  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月15日15時44分

この世は仮の世さま

> 私が進化論の検証をして矛盾が発見できない場合も私は幸福の科学をやめません。「私には進化論の矛盾が発見できなかった」という事実があるだけであり、進化論が正しいことにはならないからです。私が進化論に100%納得できれば話は少し変わるかもしれませんが・・・

別に幸福の科学を止める止めないというレベルの話を聞きたかったのではありません。貴方の理解では、幸福の科学は進化論を否定しています。そして貴方は進化論を検証し、矛盾を見出せなかったとしたら、貴方の内部ではこの矛盾した状況をどのようにして調和するのかというのが私の疑問でした。私が思うに

(1)信仰を捨てる
(2)創造論は寓話として教義を信じる
(3)進化論は誤りであるとし、信仰を優先させる

貴方のお答えから(3)の進路を取ることが検証の前から決まっているようです。
これは、私の考えに過ぎないのですが、貴方が、教団以外のコミュニティで、貴方の考えを公開しない限り、進化論の検証などという非生産的なことは止めて、教団の活動や大川氏の研究に時間を費やしたほうが良いのではないでしょうか。

> やはり信仰とは「目に見えない存在を信じること」だと思います。

目に見えない存在=検証できない存在 というのであれば、基本的に私が行った信仰の定義とあまり差は無いように思えます。目に見える見えないは二次的なものです。たとえば原子物理学者たちは中間子やクオークの存在を信じています。しかし、彼らがその目に見えない存在を信じているのは、その存在が引き起こす色々な現象を観察できるからです。したがって、物理学者たちは検証できるから目に見えない存在を信じることができるのであり、これは、私の定義によれば信仰ではありません。
貴方の定義によれば、原子物理学者たちは素粒子を信仰していることになります。


この世は仮の世さま へ  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月15日11時12分

お返事有り難うございます。また、それへの返事が遅くなり申し訳ありませんでした。

その間に他の方から書かれてしまいましたが、「動物と人間は互いに違ったところを持っている。」ことは当然だと思います。ただ、「犬と人間」「鳥と人間」「犬と鳥」はそれぞれ違ったところを持っていますが、その中でなぜ「動物と人間」をことさらに分けるのでしょう?
なんとなく、あなたの言う「違い」の中に、価値観、を感じてしまうのです。「人間ってエライんだぞ!」とでもいったような、不合理な感情を...。

それと、横レスになりますが、
>トトロ様へ
>1)私が進化論の検証をして矛盾が発見できない場合も私は幸福の科学をやめません。「私には進
化論の矛盾が発見できなかった」という事実があるだけであり、進化論が正しいことにはならないからです。私が進化論に100%納得できれば話は少し変わるかもしれませんが・・・

...って、「進化論」と「幸福の科学」を入れ替えても成り立ちますよね。ということは、反論にも何にもなっていない...。


飲み過ぎにはご注意を  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月15日 1時34分

tema様
横レスですみません。

>1.信仰以外の文化が充分発達し、信仰に代って本能の代替物となりつつある
>2.人にとっての本能である文化が、壊れ始めている

 元々、私は人間は動物と同じで本能に左右されて生きていると思ってますので、文化も信仰も本能の代わりではなく、本能に従って人が発達させてきたツールだと思ってます。
 信仰が廃れてきた原因としては、この二つの中では、わたしも1だと思います。求めるものや、価値観や、畏怖するものが多様化して前々世紀ぐらいまでは信仰がになっていた部分に他に色々代替えできるようになってきたのではないでしょうか?
 地下に眠るMさんの言うように自然に対する恐怖感が薄らいできたのも大きな原因でしょう。また、自然に対する恐怖感に対して信仰ではなく科学と言う手段を用いられるようになってきたのも大きな要因でしょうか。
 でも、やっぱり人間もまだまだ自然を怖がってるのかも、自然保護すら『壊れてしまったらどうしよう』って言う恐怖心の現れに思うのですが、どうでしょう?

 キリスト者の私が言うのはなんですが、人間も所詮は文化(科学、信仰を含む)でやっとささやかなニッチを保っていられる動物に他ならないように思えてしまうのです。


ご説明有り難うございます  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月15日 1時14分

地下に眠るM 様
詳しい説明有り難うございます。

本能=生得的プログラム
は解ったのですが、どうして、どんな形でその様なものが獲得できてきたのでしょうか?
夜に出歩かない個体が自然選択的に生き残ったとして、その子孫に『本能的に闇を怖がる』性質が固定するものでしょうか?うーむ
 本能は非常に便利な言葉で簡単に使われすぎる嫌いがあるように感じます。
 中には獲得形質の遺伝を前提にしているような説明があったりして
うーん。


マルチレス  投稿者:tema@酔っぱらい中 投稿日: 2003年11月15日 0時10分

大文字ナンさんへ
 レスありがとうございます。
 返答はtemaの心の中に存在していますが、論理に置き換えるまで少々時間がかかります。
 時間がかかると思いますが、レスはします。待ってて下さい。

地下に眠るMさんへ
 私見、ありがとうございます。temaなりの解釈ですので、誤解しているかもしれません。ただ、temaのこの件についての迷いは、「乱暴なお答え」により、少なくとも今は晴れました。ありがとうございます。

ベレアの人々の末裔さんへ
 件名に「珍説」と書いたとおり、石女に対する解釈はtemaの勝手な想像であり、確たる根拠はありません。その点、ご注意下さい。
>(前略)一人で立って居られる女性ってすごすぎますね。
 本当に一人で立っていられる人が居るとすれば、それは女性であるとtemaは思っています。その点について、女性は凄いと男性であるtemaは尊敬しています。


屹然とした  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年11月14日21時26分

 tema様 貴重なる知識でのご教授有難うございました。
永久不変、岩のような女性。一人で立って居られる女性ってすごすぎますね。


自然主義的誤謬という神殺し  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月14日20時59分

「である」から「べき」を導くことはできないという現代倫理学の金科玉条がありますにゃ
例えば「君は女である」から「女は女らしくすべきだ」は導けにゃー、などとつかいますにゃ。
自然主義的誤謬とかいったりするけどね(厳密には自然主義的誤謬とはちがうみたいだけど、ここではパス)

このことを、さっきの文化・社会の外部に自然環境があり、内部に文化環境があると考えると、文化・社会の外部が直接に内部を規定することはできない、というふうにも読めると思いますにゃー。
しつこく書くけど、近代以前は、この「外部」の力が圧倒的であり、それに対抗して生き残ることこそが善であり正義であったといえると思うのですにゃ。そこでは、宗教とは圧倒的な存在感をもったことでしょうにゃー。

さて、神話をあるていど知っていればわかることだけど、もともと「神」とは自然の諸力、その圧倒的な力を概念化したものだにゃ。つまり、根源的には「神=自然」であり、神とは文化の外部にいて内部を規定するものだったのですにゃ。この「外部におわす神」という概念は、宗教心理学的にも肯定できるものだと思いますにゃ。
そして、外部が内部を規定する、という状況は人類社会にとっては長らくスタンダードだったのではにゃーかと思われるのですにゃー。「である」は「べき」を規定しなければならなかったのだにゃ。それが部族社会を生存せしめていた。


・「である」から「べき」は導けない

この言明は「外部」は「内部」を規定できない、ということであり、以下のように書き換えることが可能ではにゃーだろうか?

・たとえそれが神の法であるとしても、人間はそれに従う必要などない

残る問題は、ニンゲンの内なる自然、つまり内なる神ということになるにゃ。


乱暴なお答え  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月14日20時20分

僕の前提を受け入れるのなら、ニンゲンという生き物の「個体」においては、まず直接的に適応すべき環境とは自らの属する文化・社会にほかならにゃー。そして、文化・社会をとおして間接的に自然環境に適応するちゅうことになる。
すると、文化・社会は、自然環境に適応しつつそこに属するニンゲンの生存を保障するという制限ができるわけだにゃ。多くの宗教における戒律あるいは道徳は、厳しい環境下におけるニンゲンの生存に直接的に寄与していたのではにゃーかと思われますにゃ。

しかし、自然環境とニンゲン社会の力関係は近代において激変しておりますにゃ。
近年における自然環境とは、我々の生存を脅かすおおいなる力というより、保全・保護する対象にまでなっているのだにゃ。(このことが逆に、環境に対するある種の神秘主義的な傾向をつくっているともいえるだろうけど、ここではパス)

つまり、文化・社会を外側からおびやかすものがなくなったんだよにゃ。
「敵」がいなくなった時、文化・社会そのものが変質するのはある意味当然ではにゃーかな?

乱暴に言えば
 宗教とは自然環境への適応ツールという側面があった
 しかし、
 近代において自然とニンゲンの力関係が激変し、
 宗教の存在意義のある側面が失われた
てな感じが僕の私見ですにゃ>tema


(無題)  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月14日20時03分

Kousuke様へ
いつかはほめてくださってありがとうございます。まるで「天の声」です。
トトロ様へ
1)私が進化論の検証をして矛盾が発見できない場合も私は幸福の科学をやめません。「私には進化論の矛盾が発見できなかった」という事実があるだけであり、進化論が正しいことにはならないからです。私が進化論に100%納得できれば話は少し変わるかもしれませんが・・・
2)私はもともと「宇宙は神によって創られた可能性がある」と考えてたので、これが信仰に当たるかもしれません。やはり信仰とは「目に見えない存在を信じること」だと思います。また、私は検証もかねて大川先生の本を読んでいます。勉強していれば矛盾というのは発見できるものだと思います。しかし、たとえ間違った理論でも、それが堅固な理論ならば、そう簡単に矛盾も発見できないだろうとも思います。
3)>信仰は高度な社会生活により生じる現象だと考えます。
「高度な社会生活」がどの程度のものか知りませんが、未開部族にもアニミズム(精霊信仰)という信仰形態はあると思います。


壊レル2  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月14日14時07分

>今の日本には信仰をなくした現代人が大量出現しています。

 果たして本当にそうなのでしょうか?たとえばハマアユやGLAYやヴィトンやシャネルやDVDや携帯電話は、十分な「信仰対象」だと思います。これがたとえばポルシェなんていう工業製品に至ると、語り尽くせないほどの教義が凝集された姿をしていますし、かなりの裏切り方をしてくれたり、時に万能感を与えたりもしてくれるわけです。

 原始的な信仰は、たとえば太陽や星の運行を知り、自然の摂理を顕すさまざまな科学法則が教義だった面を持ちますが、たとえば出版業界における「Mac神話」とか、オーディオで言うと「JBL神話」だとか、神格化された「モノ」を身近に置くことが、現代人にとっては信仰の代替になっていることは無視出来ないでしょう。
 #オカルトに走るのに比べれば、よほど「信仰の原点」に近いとさえ評しています。


壊レル?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月14日13時51分

>ところが、この世は仮の世さんが書かれたとおり、今の日本には信仰をなくした現代人が大量出現しています。これが何故かを考えるに..
>1.信仰以外の文化が充分発達し、信仰に代って本能の代替物となりつつある
>2.人にとっての本能である文化が、壊れ始めている
>の2通りが考えられます。
 
 ヨコヤリですが、ここで言う「信仰」が既存の宗教の低迷を指してのことなのでしたら、それは単に魅力ある宗教がないからなのでしょう。あるいは、ニーズがない、ということかも知れません。
 次に、文化は情報に還元出来ると思いますが、これが「壊れる」という状態をどのように想定するのでしょうか。例えば「伝統的な日本の文化」というモノは、確かに失われつつある面がありますが、それはあくまで「変化」であって、ひとつの適応事例ではないか、と私は思います。時間と共に情報は増えていきますが、当然ミス・コピーも増えていくことでしょう。それらの結果、伝統的な信仰が衰退し、まったく別種のモノを崇めるようになったとしても、文化が「壊れた」という状態とは違うモノを指すように感じます。


本能  投稿者:通りすがり 投稿日: 2003年11月14日10時00分

「明確に定義できないので、本能という用語は用いるべきでは無い」とは岩波生物学辞典の言葉。

同じ「本能」という言葉でくくられる行動でも、例えば昆虫の「本能」と哺乳類の「本能」は
系統分岐の古さから考えて、全く違うメカニズムに支配されている完全な別物と思われ。


Re.トトロ様へ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月14日 8時20分

まずはじめにおことわりしておきたいのですが、私は、この世は仮の世さまの信仰を批判する目的でこれまでの文章や質問を記したのではありません。科学がそうであるように私には他人の信仰について立ち入る権利はありません。
にも拘らずこのような書き込みを行うのは、「トトロ様へ 」の書き込みの中で、進化論の検証が必要と論じられているからです。
また、”進化論者の皆様へ2”では、”進化論の論理的帰結と現実の間に矛盾はないのか再検討”と書かれていますので、進化論の検証が科学的(少なくとも検証できる事実での)検証であると判断したからです。

信用のおけないもの(進化論)を検証してみようとする態度は実に科学的であると私は考えますが、それは同時に、自ら信仰するものに対しても同じ態度で接する必要を生じるのではないかと考えました。貴方のお答えは

> 私は元々進化論に否定的だったので進化論を否定した「太陽の法」は自然に受け入れられるものでした。その後出された幸福論や宗教書を読んでますます「ここの教えは間違いない」と思いました。

というものでしたが、この答えからわかることは、貴方は進化論を否定したい故に「太陽の法」(あるいはその提唱者)を信仰したという事です。もし、進化論を検証した結果、それが”進化論の論理的帰結と現実の間に矛盾はない”との結論に至った場合、貴方はどのようになさるのでしょうか?

また、”私にとって大川先生は幸福論を説き、仏教解説をし、何でもわかる宗教者なので「なぜ神を認識できると判定できるのか」と考えたことはありません。”というお答えは、ある意味、信仰の本質をついていると私は考えます。
「おずおず様へ2」への横レスとなってしまいますが、”信仰とは「目に見えないものを信じること」「仏神を好きになること」”ではありません。信仰とは、信仰したい対象を無批判かつ無検証で信用することだと私は考えます、貴方の私への回答がそれを肯定しています。

「信仰の本能」ですが、私は本能を他から教示されなくとも知っている一連の行動様式と考えています。信仰は高度な社会生活によって生じる現象だと考えます。この世は仮の世さまの主張は人間と動物の違いは「信仰の本能」によるところが大きいというものですが、人間と動物の違いを’言語を使い、それを記録し(他の世代へ)伝えること’と’社会生活を営むこと’とした場合、「信仰の本能」の有無は人間と動物の違いとは無関係と考えます。


珍説 石女の語源  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月14日 6時37分

ベレアの人々の末裔さん、始めまして。temaと申します。

>何故、産まず女を漢字では石女と書くのでしょう?
 想像ですが、岩長比売命(いわながひめのみこと)からかと思います。
 彼女は、岩のような永久不変の象徴であり、容貌も岩のようだったと伝えられています。
 ちなみに妹の木花咲耶毘売命(このはなさくやひめのみこと)は、桜のような栄華の象徴であり、桜のように美しい容貌であったと伝えられています。また、木花咲耶毘売命は子安神でもあります。
 妹との対比からか、または邇邇芸命(ににぎのみこと)にフラれたからか、岩長比売命は「生涯独身」「子供は産まない」というイメージがあります。岩と石はちと違いますが、女神が岩なら女人は石だろうと...


本能が壊れた動物  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月14日 6時34分

地下に眠るMさんへ

 唐突ですが、temaは岸田秀氏の書く本が気に入っております。

>「動物+理性・知性」なのではなく、「欠陥を埋め合わせるために文化(宗教を含む)がある」ちゅうほうがいいかなと。

 特にこの部分は岸田氏の意見と似ており、temaにとって受け入れ易いものです。
 この考えに基づいてみると、この世は仮の世さんが紹介されていた以下の考えは、なかなか鋭い意見と思います。

>人間には「信仰の本能」があると言うことだそうです。これをなくすと人間と動物の違いはあまりないようになると言うことだそうです。

 ただし「信仰の本能」ではなく「本能の代替としての信仰」ですが...

 ところが、この世は仮の世さんが書かれたとおり、今の日本には信仰をなくした現代人が大量出現しています。これが何故かを考えるに..
1.信仰以外の文化が充分発達し、信仰に代って本能の代替物となりつつある
2.人にとっての本能である文化が、壊れ始めている
の2通りが考えられます。
 1であれば問題ありませんが、どうも2のような気がします。
 文化無しでは生存できない人間、自然環境ではなく文化に適応するよう進化した今の人間は、文化が壊れたら滅亡..まではしないにしても、相当悲惨な状況になると思います。

 地下に眠るMさんは、どのようにお考えでしょうか?


エル=神  投稿者:うにこ 投稿日: 2003年11月14日 3時30分

エルはセム語系で神を表す一般名詞(特定の神の名でもありますが)ですね。
多神教時代の神様も全部エルです。
ヘブライ語の複数(神々)になるとエロヒムだったとおもうけど
旧約聖書翻訳では単数として訳してるみたいです。


本能  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月14日 2時22分

一般的に「本能」なるコトバは実に歪められて使われていることは明らかだと思いますにゃ。
特に、個体の生理的欲求あるいは衝動を満たす行動のみを「本能」と呼ぶ馬鹿が多いのだにゃ。

群れ生活を営む動物(含むヒト)にとっては、個体の生存欲求も当然ながら生得的にプログラムされているだろうけど、集団に忠誠を誓い、集団とトラブルなしにやっていこうとする欲求も生得的にプログラムされているといっていいと思うのだにゃ。
ところが、「我を張る」行動については、動物的だとか本能むきだしとかいわれてけなされるのに、集団に合わせる行動様式は人間的とか理性的とかいわれるわけね。

「どっちも本能じゃーん」と、いっていえにゃーことはにゃーのだ。

なんにしろ、「本能」だけをとってみても、複雑で多方向のベクトルが存在するものであることはマチガイにゃーのだ。


本能(ニッポニカより全文引用)2  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月14日 2時12分

比較行動学における本能的行動


 本能的行動の生得性・自発性についての実証的研究はヨーロッパを中心にローレンツ、ティンバーゲンら比較行動学者によって行われ、その生起条件が追究されている。たとえば、伝書鳩(ばと)の帰巣本能は半世紀前までは不可解であったが、現在は、刻々の太陽の位置と体内の生理的周期変化との連動した機制から説明されようとしている。
 比較行動学によると、本能的行動は反射の連鎖ではないが、しかも、一定の反応型fixed action patternを示し、これを解発する一定の刺激が存在する。たとえば、イトヨの雄の腹部にある赤い部分は、テリトリーteritory(縄張り)に入ってきた他の雄に対する攻撃行動を解発する。これを解発子releaser、記号刺激sign stimulusなどという。一連の本能的行動は、解発子が次々に定まった反応型を解発する系列とみられるが、これが可能になるために、生体の内部に生得的解発機構innate releasing mechanismが存在するからであると想定する。解発子は、二重の意味をもつことがある。イトヨは自らのテリトリーに入ったものを攻撃するが、同じイトヨが相手のテリトリーに入ると相手を見て逃走する。赤い腹部は状況によって攻撃・逃走を解発する。もし、二匹のイトヨがテリトリーの境界で出会うと、倒立した姿勢で砂を掘る転位行動displacement behaviorを生じる。解発子が遮断され、本能的行動が遂行されないと、解発子の閾値(いきち)が低下したり、解発子のない定まった反応型、すなわち真空行動vacuum activityが出現する。
 本能的行動は、解発子を選択・探索する欲求行動appetitive behaviorと終了させる完了行動consummatory behaviorとに大別されたり、内的要因に依存する固定性と外的要因に制御される可塑性とが区別される。解発子となるものが、生後、ある時期に任意に定まる場合があり、これを刷り込みimprintingという。たとえばアヒルの幼鳥は、生後数時間の臨界期に動くものを追う行動を示す。動くものは親鳥に限らず、他の動物、物体でもよい。
 本能的行動と習得的行動との関係は複雑で、これを確かめることが課題でもある。たとえば、鳥の発声は本能的行動であるが、幼鳥の隔離飼育を時期・期間を変えて行うと、習得の機会の相違によって発声の様相が変わることなども確かめられている。
[小川 隆]


本能(ニッポニカより全文引用)1  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月14日 2時10分

instinct

種に特有な一連の生得的(遺伝的)行動の機制を意味し、本能に基づく行動を本能的行動という。反射reflex、動性kinesis、走性taxisも生得的行動であるが、反射はおもに身体の部分的行動をさし、本能的行動は全体的行動をさしていう。動性、走性は全身の行動であるが比較的単純な反応であり、これらからも区別される。また、反射、動性、走性は瞬時の環境状態に一義的に依存する反応であるが、本能的行動は、いちいちの反応が状況に可塑的に応答しながら固定した様式をもつ、一連の反応系列として現れる場合をさしている。

比較心理学における本能的行動


 当初、ダーウィンは本能の生得性について、経験によらない点を強調し、人および動物が幼児期に示す種に特有な行動の記述を重視したが、のちには行動が自然淘汰(とうた)の原理に従うという見地にたちながら、成長・発達と関係した習得行動との関連を無視できなくなっている。比較心理学は当然、本能的行動を扱ったが、その機制、また学習・習得行動との区別などについて二つの見解の流れがみられる。一つは、「モーガンの公準」Morgan's canonに従った機械論的見解で、本能を部分的な反射の連鎖chained reflexとして扱う立場であり、これはアメリカの行動主義に継承されている。行動主義では習得的学習行動が重視され、反射連鎖以外の生得性を行動に認めない傾向にあった。これに対し、経験から独立な本能の自発性を認めた立場がマクドゥーガルなどに代表される。この立場では、全体的行動はそれ以上分割されないものであり、本能はその機制を説明するものであっても、それ自身は説明されない概念として規定されている。マクドゥーガルは人間行動の推進力として、逃走、拒否、闘争、好奇、屈従、誇示、性、群居、暗示、同情、模倣など個人的・社会的行動にわたって十数種の本能を認めている。フロイトの精神分析にも同様の見解があり、結合を求める性本能エロスErosとこれを破壊する死の本能タナトスThanatosとが区別されている。
 しかし、たとえば動物が争うのは闘争本能があるからであるというのでは、同語反復であって説明にはならない。また、本能行動そのものの習得性が条件づけの実験から明らかになった。クオZ. Y. Kuoは、生後まもない子ネコを隔離して飼育し、親ネコがネズミをとるのを見せない場合と、通常に飼育し、これを目撃した場合とを比較し、成長後、ネズミを殺す行動が抑えられることを示したし、逆に、電撃条件づけを通じて、ネズミを恐れる行動を発生させることの可能なことを明らかにした。


信仰の本能  投稿者:秋月 投稿日: 2003年11月13日23時43分

 本能ってよく考えてみると解らないのだけれども、いったい何なのだろう?
 人間の信仰の本能って、動物的に解釈すると『不安を恐れる本能』『安心を得たい本能』ってことでしょうか。人間は大脳が(意味もなく?)大きくて想像力が豊かだから、想像上のもしくは漠然としたものに恐怖を憶えたり、逆に頼りにして安心を得たりするするけど、人間以外にもほ乳類ならこのような現象はみられるようです。
 例えば犬は雷や雨音(実害がある)だけではなくてサイレンや豆腐屋の声といったものに対しても(わからないから)恐怖を感じ、個体によってはそれを忌み嫌う。
 また、飼い主の存在下では安心して誰彼無しに喧嘩をふっかける犬もいる、あれは自分より強力なリーダーを期待して自分も強いと確信しているわけだけれど、実際に飼い主がそばにいなくても、飼い主がそばにいると想像して強く振る舞うことが観察されている。
 例えば熊狩りの猟犬が獲物を見つけて藪の中に飛び込んでいったとき、主人は吠え声のする方に銃を一発うつそうな。そうすれば猟犬は主人がそばにいると想像して自分の何十倍も大きな大きな熊に吠えかかっていく。
 猟犬の例はある程度の訓練もあるだろうけれど基本的に犬にはたとえ想像上でも自分より強力なものに隷属して安心を得たいっていう習性(本能?)がある。
 これって信仰の本能が犬にもあるってことでしょうか?


管理人さん キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!   投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年11月13日23時36分

ただそれだけ。
お久しぶりのような気がしたので(*^_^*)


唯一神エル  投稿者:NATROM 投稿日: 2003年11月13日23時07分

>唯一なる神、エルがおられた。アイダでイルーヴァタアルと呼ばれる方である。

指輪物語の神話はここから始まるんだけど、なんか関係があるのかな?


エル  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年11月13日22時54分

 ミカエル、ダニエル、ガブリエル、サムエル、エゼキエル、イスラエルなどなどエルはLで無くて(神)のことのようですよ。
 余談、、創世記に出てくるアブラハムの妻サライは「産まず女であった」
 イエスの時代、バプテストのヨハネは言った「マムシ(パリサイ人ら)の子らよ!神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こす力をお持ちになる〜」
 何故、産まず女を漢字では石女と書くのでしょう?ある意味船という文字より不思議!?


アビス キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!  投稿者:かくり 投稿日: 2003年11月13日21時58分

大文字ナンさん

正解です.おもしろいですぜ.
OFF会にでも持っていきましょうか?

ドラクエ&剣はプロモーションビデオの剣を振ってる後姿が結構間抜けでひかれませんでした.おもしろいのかな?


ところで人間はジーン以外にミームという自己複製子を持つ集団であると考えている私は少数派なのかな?  


悪の霊媒師連合  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月13日21時31分

 このサイトの常連さんなら既にお読みかも知れませんが、M・ラマー・キーン「サイキック・マフィア」太田出版、という本が出ています。なるほど組織トリックというのもあるのですね。これで原本は1976年初出というから驚き。取り上げられている悪の霊媒師連合は未だに健在と言いますから、インターネット技術とか日本得意の小型電子機器とか取り入れていることでしょう。

 この本も本サイトの参考文献にあげてもよろしいんじゃないでしょうか?==>管理人さん

 疑似科学批判とは多少趣旨が違うかも知れませんが。


予言4:科学的トリック(^_^)  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月13日21時30分

うだうださん、みのさん

 なるほど隠しカメラで読心術みたいな。技術進歩で可能になったことも遠慮会釈無く取り込むようですからね。単に器械でできるに過ぎないことなど使わないだろう、などと思うとこれが奇術師の思うつぼ。事情は深くは知りませんが新素材が色々出てきてやりやすくなったトリックもあるんじゃないでしょうかね。


手品サイトと見ると不満かも  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2003年11月13日21時28分

 けれどみのさんのサイトの趣旨は最初のページにある通り「超常現象、オカルト、超能力、占い、その他 私の気にくわない諸々 メッタ斬り」なのですから、あの予言の紹介は適切なものだと思います。ある人には不思議ではなくても、ある人には不思議に見える。手品のトリックを悪用しようという輩にはそれだけで十分なのです。100人のうち1人に売れるだけでも利益が出ればセールスマンはやっていけます。騙されなかった人から見れば、なぜ簡単に騙されるのか理解できないということが起きる。それが先に私がコメントした「『マジックなら100%の効果を狙ってるはずだ』という思いこみも一種の心理的盲点になりうる」ということです。
 むしろ100%の効果を狙わないトリックも世の中にはあるよという紹介なんですから。


光学(鏡像)異性体  投稿者: 投稿日: 2003年11月13日20時54分

Lカンターレというのがあれば
Rカンターレもあるのだろうか


re:信仰の本能  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月13日20時51分

 本能とは理性を離れた部分、つまり肉体的にそれを欲しがる、そういう行動をとってしまう、という類の性質と捉えるのが一般でしょうね。なるほど、犬や猫は腹が減れば食べるし、眠くなれば寝てしまいます。そういうのを本能的な行動と言うのでしょうね。

 しかし、だとすると信仰の本能とやらに正直に行動することとは、おならがしたいからところ構わず放つ、みたいなものなのですね。TPOをわきまえ、理性的に行動するようでは本能に反するので「人間的じゃない」と、かの教祖は説いたわけなのでしょう。


零脳者(レイノウシャ)  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月13日20時31分

零脳者ちゅう言葉をいま思いついたにゃー

ちゅうわけで、ちょいまえの投稿の、
「O川センセイは低級霊に騙された善意の無能者」

「O川センセイは低級霊に騙された善意の零脳者」
と訂正しとくにゃー


この掲示板って、すごい  投稿者:Kosuke 投稿日: 2003年11月13日18時08分

思いっきり理系かと思えば、すごくディープな人文系なお話にも触れられるし・・・


新宗教いろいろ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月13日17時42分

新宗教の教義が浅いちゅうのは、必ずしもそうはいえにゃーな。
オウムは神智学の理論をパクリまくっていたので、実は教義はそこそこ悪くなかった(だから、宗教学者が騙されたりした)。信者への説得力のあるオウムに対する教義の否定は、実はそんなに楽ではにゃーのだ。

メイドインジャパンの教義で深いものとして一例をあげると、大本教があるにゃ。
金光教、天理教、大本教などの第一次新宗教の波にあるものには、幕末から明治期の動乱の時代、貧しい中年女性に啓示が降りたことに端を発するものが多く見られますにゃ。啓示とか憑依については、精神医学的な事柄ではあるだろうけれども、どのような人生経験をつんできた者どのような性質をもった者に啓示が降りたのか、そしてどのような時代にそれがおきたのかが重要であるといえますにゃ。動乱期において労苦と人生経験をつんだ善良な女性にそのような事態がおこったとき、その託宣の内容は単なるタワゴトとはいえにゃーものになっていたのだにゃー。(その教義は農本主義的なものが多い)
柳田国男が「妹の力」で明らかにしているように、農民の男性というのは、普段邪険にしているようでいて女性の言動を実によく聞いていたということで、これらの宗教においても、まず家族の男性が最初の信者となっていますにゃ。
そして、その後、インテリゲンチャといいえる男性が入信し、その教義の体系化に努めるということがおこると、その宗教は長く命脈を保ちうるものとなるにゃ。特に、大本教においては出口王仁三郎を得てなかなか壮大な教義を構築しておりますにゃ。

別に僕は大本の信者でもにゃーのだが、いろいろと調べている理由は、大本教が教団としてはほぼ唯一といっていい第二次大戦における反戦の主張と徹底弾圧をうけている点ですにゃ。個人としての例外は色々あったけど、ほとんどの宗教は教団としてはまるでヘタレだったにゃ。

真光だの真如苑だの、手かざし を行う宗教は、みな大本教の分派だにゃ。
弾圧から逃げ出したヘタレがつくったものが多いらしいけどにゃ。


欠陥動物  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月13日17時11分

以前、紹介したニンゲン観なんだけどにゃ
「欠陥生物であるがゆえに世界に対して開放されている」のがニンゲンである、ちゅうのが僕の好みの見解ですにゃ。「動物+理性・知性」なのではなく、「欠陥を埋め合わせるために文化(宗教を含む)がある」ちゅうほうがいいかなと。
地球上で豊かな一部の地域を除けば、ニンゲンは文化ナシでは生存すらおぼつかにゃーだろう。文化なしでは生きていけないという意味では、それは第二の本能というか、本能の代替物であるといっていいように思えますにゃ。文化によって適応する、ちゅうのはニンゲンという種の適応戦略であるといっていいでしょうにゃー。

だから、ニンゲンの個体にとっての「適応」とは自然環境ではなく、人為的環境たる「文化・社会」になるわけですにゃ(自然環境に直接に適応するのは「文化・社会」)。文化や社会への忠誠は、適応戦略として有効であることは間違いなく、血族の重視という「利己的遺伝子」からの要求とも矛盾しにゃー(少なくとも、近代以前はそうだった)。

文化の重視という意味で、確かにニンゲンは特殊といえば特殊な動物であるとは思いますにゃ。


ニンゲンの個体が忠誠を誓う文化・社会も、自然環境に適応するという目的というか制限があるために、ニンゲンの価値観も自然と離れることはなかったわけにゃんね、長い間。
ところが、文化・社会が自然に対して圧倒的な力を振るいだし、文化・社会の存在意義が自己を目的とするようになってくると、ニンゲンの価値観も自然から遊離するようになる。このあたりをK.ローレンツはだいぶ憂慮しておりましたにゃ。いろいろいわれている人にゃんけど、その功績は偉大だし、ナチュラリストとしてのニンゲン社会への批判には耳を傾けるべきところも多々あると思いますにゃ。


科学的な議論じゃないけどさ(笑)  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年11月13日15時09分

To この世は仮の世さん

>私は元々進化論に否定的だったので進化論を否定した「太陽の法」は自然に受け入れられるものでした。

 つまり最初から信じたい対象が存在して、それに適う物が出てきたから信じたということですね。まぁある意味信仰の基本だとは思います。
 しかしそれは、少なくとも進化論を科学的に否定したことにはなりえません。
 進化論をあなたが拒絶した、それだけのことです。


>信仰の本能

 元々ヒトは群を作る動物でしょうから、その群の中で強弱の関係が存在し、リーダーに対して従うことで自分自身の安全を保障するという行動パターンが本能に存在するかもしれませんね。
 それが、「偉大なもの」に対する信仰の原点足りうるかもしれません。
 
 でも、個人的には人が動物としてのヒトではなく「人」足りうる基準は「理性や知性で本能を克服する」ことだと思っています。
 だから、信仰の本能があっても、理性や知性がそれを否定するなら否定できるのもまた人足りえる要素かもしれません。


おずおず様へ2  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月13日15時01分

大川隆法先生の本に人と動物の違いについて書いてありました。人間には「信仰の本能」があるそうです。これは松下幸之助氏も言っていることだそうです。信仰とは「目に見えないものを信じること」「仏神を好きになること」だそうです。これをなくした現代人が大量出現していますが、人間には「信仰の本能」があると言うことだそうです。これをなくすと人間と動物の違いはあまりないようになると言うことだそうです。


トトロ様へ  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月13日14時35分

レス遅れました。返事を考えてたら時間がかかりました。
(なぜ進化論に否定的な私が大川先生の教えに疑問を抱かないか)
私は元々進化論に否定的だったので進化論を否定した「太陽の法」は自然に受け入れられるものでした。その後出された幸福論や宗教書を読んでますます「ここの教えは間違いない」と思いました。
まず愛と反省の教えを具備しています。愛と反省の大切さは私でもわかることですし、「反省する気のない人間は反省の教えなど説かないだろう」と思いました。
(なぜ大川先生が神を認識できると判定できるのか)
私は創世記とヨハネの福音書と現実の宇宙論(ビッグバンで宇宙は生まれたとする説)の矛盾を解決する理論はないかと思っていました。創世記もヨハネの福音書も宇宙創生の頃の話を描いてると思ったからです。それが「太陽の法」で解決しました。この本はすごいと思いました。
私にとって大川先生は幸福論を説き、仏教解説をし、何でもわかる宗教者なので「なぜ神を認識できると判定できるのか」と考えたことはありません。お近くの信者の方にきいてみればよい答えが返ってくるかもしれません。


Re.色んな宗教  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月13日11時44分

通りすがりさま

> 新興宗教系は教祖一人しかモノを考える人間がいないせいなのか、理論武装の深みに欠けるねぇ。

理論武装していてくれるならまだマシですが・・・基本的に”我を信ぜよ、ゆめ疑うことなかれ”でブッとんだ主張をしているものが多いし。


色んな宗教  投稿者:通りすがり 投稿日: 2003年11月13日10時07分

キリスト教系は昔から色んな人が創造論やアンチ進化論を研究してきたから
それなりに見ごたえがある(しかし概ね食傷気味のネタばっかりだが)けど、
新興宗教系は教祖一人しかモノを考える人間がいないせいなのか、理論武装の深みに欠けるねぇ。


進化した動物とは  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月13日 6時54分

この世は仮の世さん、こんにちは

>「進化した動物は元の動物とは別物」というtema様の主張は人間を見て言われるのだろうと思います。(後略)

 少しtemaのイメージと違います。説明が不充分だったようです。
 「進化した動物」のイメージは、例えば、イルカを人為的に(脳が発達するように)進化させ、言葉を覚えさせた..そんなイメージです。
(「人為的に」と書いたのは、自然に進化させるためには膨大な時間が必要であり、かつ、脳が発達するような進化をするとは限らないからです。偶然、脳が発達するような進化を自然にしても同じです)
 上記のように進化したイルカは、今現在、海にいるイルカとは別ものです。
 人と言葉を交わせ、意志疎通できるようになったイルカ達が宗教・思想・音楽を持つかどうかは知る術がありません。知る術が無い以上「宗教・思想・音楽を持たない」とは言えないと思います。


信者失格  投稿者:tema 投稿日: 2003年11月13日 6時52分

半熟たまご様(^-^)ノと温泉たまご様(^-^)ノ、迷える子羊のtemaでございます。

>さぁ、目をつぶってあなたの半熟たまご様(^-^)ノが江頭氏の温泉たまご様(^-^)ノと、あなたの温泉たまご様(^-^)ノが江頭氏の半熟たまご様(^-^)ノと出会うのを感じてください。

 うげ...下品な想像をしてしまった...
 せっかくのお言葉ながら、発言は自粛させていただきます。

>「ペア同士で一致していたら信仰が深い」ということをカードを選ぶ前から教えてしまうと、相手の選んだ「特徴」を持つカードを選ぼうという心理が働くため、予言1でハートの4を選ぶ可能性は低くなってしまうのではないかと思うのですが、temaさんはどう思われますか?

 ハートの4を選ばせる可能性を高めるためには、いかに考えなく選ばせるかがポイントでしょう。カードを選ぶ人が、目的を知らされなかった場合に考え込むタイプなのか、目的を知らされた場合に考え込むタイプかは、その人によって違ってきます。どちらのタイプが多いのかtemaには判りませんので、この観点からは判断できませんでした。
 一方、目的を知らされなかった場合、多少なりとも不安になります。不安になった人は無難な特徴の薄いカードを選ぶ..ということはありそうです。この点から「ペア同士で一致していたら信仰が深い」という情報は、後から与えた方が良いと思います。


イエスの誕生  投稿者:ベレアの人々の末裔 投稿日: 2003年11月12日23時00分

 
 イエス・キリストが12月にお生まれになってたなら、外に居た羊飼いたちはガクガク・ブルブルの世界だっただろう と 多くの学者が唱えています。ちなみに聖書ではイエスの言葉として「私の死を記念しなさい」としか表現されていないようです。
 saniku-aiki様も6日間に拘泥されてこの辺で偶像崇拝に陥ったかもです。


動物になくて、、、  投稿者:JA50 投稿日: 2003年11月12日22時24分

人間特有のものを持ち出して、他のものにはないと言うことにどういう価値を見いだしているんだろう?

逆のものをいっぱいあげることも可能だぞ。
たとえば、鳥には羽があるが人間にないとか、昆虫には触覚があるが人間にはないぞとか。人間には目が2つしかないが、蜘蛛には、、、

まぁ幸福の科学の信者に何を言っても、それこそナンセンスでしょうけど。
そもそも教祖自体が慢性の妄想性障害だからなぁ、、、


おずおず様へ  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月12日20時54分

人間と動物の違いは難しい問題と思います。動物にも霊はあります。意識もあります。感情もあると思います。ある程度の知性もあると思います(飼い犬と人間の間にコミュニケーションがなりったているから、あるいはイルカと人間)。動物になくて人間にあるのは信仰心、文明、宗教、芸術でしょうか?


アビス♪  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月12日20時18分

To かくりさん
 をを!オモシロソウだ〜〜。公式HP見て欲しくなりました(笑。
 ちなみに最近、ウチではドラクエ&剣が流行ってるようです。
 #けっこう腕が疲れたりします。


知的生物って  投稿者:える・あかんたれ 投稿日: 2003年11月12日19時16分

この世は仮の世 さま

「動物は進化しても動物のまま」なのは当然だと思いますが・・・。人間も動物ですし。
微生物レベルでは動物とも植物とも分類できないようなのもいますけど、
あるていど大きな生物を対象に話をしていると思いますのでそちらは省きます。

>人間以外の知的生物(異星人とか)で

という発言から想像するに、地球上に知的生命は人間しかいないと
思っていらっしゃるようですね。
私はいると思いますよ。海棲哺乳類や植物等にね。
「自分に理解できないものは存在しない」という考え方はしないほうがいいと思います。

ちなみに私には エル・カンターレも第9次元も理解できないけど、
「絶対存在しない」とは思ってないです。
「個人的には存在しないと思って」います。

ではでは


この世は仮の世 さまへ  投稿者:おずおず 投稿日: 2003年11月12日18時26分

はじめまして。一つ質問させてください。
人と動物の違いってなんですか?

動物には「霊」はないのですか?あるいは「意識」がないのですか?「感情」?「知性」?
あなたの考えが今ひとつ飲み込めないので...。


イタコラブ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月12日17時33分

またも余談
筋肉少女帯に「イタコラブ」なる究極のプラトニックラブを歌った歌があるにゃ
「僕の好きなもの 青い心 君の心さ
 この心イタコに呼んでもらおう
 そしてそのまま イタコと暮らす」
と始まる曲

ロマンティック・ラブだにゃー


騙されてるのかもしれにゃー  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年11月12日15時13分

霊界の権威(w)、つのだじろうに拠れば、修行が足りない者が霊界と交信しようとすると低級霊がよってきてウソばっかり吹き込むということらしいので、O川センセイがウソをついたのではなく、低級霊に騙された善意の無能者ちゅう解釈も成り立つのではにゃーかな?
で、低級霊にそそのかされて、「える・かんたあれ」を自称するに至った、と。
なににしろ、ワライモノにゃんがね。

余談だけど、つのだじろうの「霊」とか「霊団」ちゅう概念は、心理学的にみてちょいとオモシレーのだにゃ。ユング心理学に拠れば、ニンゲンの内面ちゅうのは、喩えて言えば自民党みたいなもんで、我々の自我とは主流の派閥にすぎないと考えるのね。主流以外にもいろいろな派閥があって、行動や意思決定に参与していると考えるわけですにゃ。で、この霊とか霊団とかいうものは、そうした自我意識以外の内面的な力の概念化であるともいえるわけだにゃ。霊がどうとかいう人がみなインチキであるわけではなく、少数ではあるけれど非常に優秀なカウンセラーといいえる人物が存在するのも確かなわけですにゃ。霊とかいう現象を完全に否定したとしても、その辺は否定できにゃーのだ。もちろん、O川センセイは「まるでダメ夫」クンだけどね。

さらに余談
つのだじろうの「後ろの百太郎」をみて、スタンド能力を思いついたと、ジョジョの奇妙な冒険の荒木ヒロヒコがいってるみたい。


人間は進化しても動物のままですが???  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2003年11月12日13時38分

 ええ、もう、そりゃぁ、ワタシらケダモノです。

 誰がどんな宗教に染まろうと自由ですから、好きにしたらいいです。何色の傘を差そうと好きにすればいいのと同じです。しかしつい、ボロボロで穴だらけの傘を差していて、雨に濡れているのに気付かない風な人を見てしまうと、冷えますぜ、と言いたくもなる(笑。どうせ差すなら、もう少しマシな傘にすれば?とかね。


そりゃあヤバいよ  投稿者:GOA 投稿日: 2003年11月12日13時04分

トトロさん

ご案内のHPを拝見しました。
大川隆法はイエスの誕生日が12月25日でないことを知らなかったのですね。キリスト教信者じゃなくても雑学レベルで知られた話なのですけど。

イエスの誕生日って夏の時期だというのが有力な説だとか?


大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月12日12時53分

地下に眠るMさま

WEB上でも、このようなページがあります。

大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ 作者:佐倉 哲

ttp://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/reiji.html

結論より引用

霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
<引用終わり>

この手の本を書くなら、もう少し調べてから書けば良いのに・・・合掌


tema様へ  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2003年11月12日12時49分

tema様の言われるようにおそらく1から3の経路をたどって「人間が猿から進化しただけの動物にすぎないとするなら高度な宗教も思想も音楽も不要なはず」という結論に達したのだと思います。何しろ私がこんな結論に達したのは小学生か中学生の時なのでどんな筋道でこんな結論に達したのか覚えていない。三段論法を使ったのだと思います。
「進化した動物は元の動物とは別物」というtema様の主張は人間を見て言われるのだろうと思います。でも人間以外の動物で進化してきた動物はやはり動物のままだと思います。人間以外の知的生物(異星人とか)で、ある生物から進化してきた生物のサンプルがほかに数例あれば別ですが・・・よって「動物は進化しても動物のまま」だと思います。


何故??  投稿者:トトロ 投稿日: 2003年11月12日12時41分

この世は仮の世さま

トトロです。こんにちは。私は非常に不思議で仕方ないのですが、

> エル・カンターレという神は「9次元存在」〜略〜本に書いてません。

この文章を見るかぎりこの世は仮の世さまは、大川何某の書いた内容を理由もなしに信じているように見受けられます。進化論に対しては、非常に懐疑的なのに何故、この点については疑問を抱かないのでしょうか?また、

> 神というのは〜略〜3次元世界に住む我々人間には認識できる概念ではありません。

とのことですが、それならば何故、大川何某がそれを認識していると判定できるのでしょうか?


こっちだけ  投稿者:PDX. 投稿日: 2003年11月12日10時34分

To KENさん

>あと、細胞共生説でミトコンドリアの共生以前で植物細胞に葉緑体がいないのはどうしてでしょうか?

 ミトコンドリアを持たない場合、その細胞は酸素に対する抵抗性が低い(無い)んじゃないでしょうかね?
 そんな細胞にとって、体内で酸素をバラまく葉緑体との共生はそれこそ死活問題ではないかと思います。
 我々は酸素で呼吸ができて当たり前だなんて考えがちですが、ミトコンドリアの前身である好気性細菌が登場するまで、酸素というのはタンパク質や糖、脂質といった生物に不可欠な物質を酸化し分解してしまう「劇物」でした。(嫌気性細菌にとっては今でもそうです)

 なにせ、最初に光合成を行ったバクテリアですら嫌気性だったくらいですからね(笑)
 自分自身が光合成の結果「排出」する酸素ガスで自分自身がダメージをうけてしまうわけで。
 実際今でも、嫌気性の藻類と好気性のバクテリアが共生しているコロニーなんてものが存在します。そこでは両者を分離してしまうと前者は自分の吐き出す酸素のために弱ってしまいます。周囲のバクテリアが酸素を「消費」してくれないと生きていけないわけです。

 つまり、ミトコンドリアと共生して酸素を効率的に中和できるようになって初めて、葉緑体との共生が可能になったのではと。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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