>「およげ!たいやきくん」のたいやきの哀しみは理解できないでしょうね・・・
よかったら、たいやきくんの気持ちを代弁していただきたいと思います。(皮肉で言っているのはありません。)
前回、「包丁の作り手が意図した本来の目的と違う目的のために使われた包丁は悲しい存在です。もちろん、包丁に心はありませんが....。」と書きました。....で誤魔化した部分を少し書きますと、包丁には心がないが、その包丁を作った作者には心があり、その作者にとっては、不本意であると考えていただければと思います。
>・・・とにかく、「被造物は造物主の目的に従うのが幸せ」っていう見解は必ずしも他人に支持されないし、そういう人々にはフィッツジェラルドさんの意見を支持しないもっともな理由があるということです。
被造物に心がない場合、幸せかどうかは考えられないと思いますが、造物主にとっては、一般的には、本来的な目的以外に利用されるのは、悲しいことであると思います。
私は多くの宗教が指摘するように、神は人間を愛の対象(子)として創造したと考えています。神も独りでは、喜ぶこともできないのです。そういった意味で、神は万能ではありません。神は人間を支配しようとして創ったのではなく、人間の親が子を産に育てるように、愛情を注ぎ、人間を幸福にするために創造したと考えています。
つまり、神が悪意で人間を創ったのではなく、「神の目的=人間の幸せ」と考えているので、私は「人生の目的=神の子として、幸福に生きること」だと考えています。
申し訳ありませんが、私もこちらのボードでの話に、膨大な時間を割くことはできませんので、論理に飛躍があったり、そのように考えるようになった、プロセスを省略して述べてしまう所が多くあると思いますが、お許しください。
植物の葉の形の多様性について、進化論でも説明はできそうな気がしました。ご意見ありがとうございました。
>フィッツジェラルドさん、創造的進化論の立場からは葉の形の多様性はどのようにお考えでしょうか? もし何か考えておられるようであれば、ご参考までにお聞かせねがえれば幸いです。
植物に関していえば、葉の形も多様性があり、花の色や模様も多様性があります。私の考えでは、創造主は人間を愛の対象(子)として創造したので、人間の幸福に対して、直接または間接的に、有益であるように創造したと考えています。親も子どもにおもちゃを与えるときに、消防車のおもちゃばかり与えはしません。花も葉もいろんな色、模様の多様性がある方が、人間としては、楽しいのです。
野原に咲き乱れる花の美しさ。私は花が美しいのは、花のためだけではなく、それを観るものにとって、感動を与えるように、美しく咲いていると思います。ちなみに、多くの花は、人間の眼の方向に向かって咲いているようです。たんぽぽは上向きに、花を開き、ひまわりは横向きに花を開き、桜の花の多くは下を向いています。林檎にしても、ミカンにしても、バナナにしても、人間の味覚に合うように、人間の食べやすいサイズで、できていると感じます。林檎の果肉は、林檎のためにあるのでしょうか? 林檎自身のためにだったら、もっと小さくてもいいんじゃないですか? 何で、甘くないといけないんですか? 甘いのが生存に有利だったら、どの林檎も同じ味だったらいいのではないですか? ミカンが林檎の味がしてもいいのではないでしょうか。
私は、ミカンを食べやすいように、一袋ずつ包んでくれた、神様にありがとうと言いたいです。バナナも食べやすくしてくれて、ありがたく思います。
他の方からも、反論がどっと来そうな気がしますが....。私のレスにも限界がありますので、お手柔らかにお願いします。
To ユリイカさん
「幻肢」と聞くと、「幻肢痛」と関連して、手術などで手足を失った
人が、もう無いはずの手足の痛みを感じたりする心理作用の方を思い
出すのですが、臓器移植に伴なう他人への記憶転写(錯覚?)のこと
もそう形容するのでしょうか?
まぁ医学の用語ではなく、超常現象関係のページで幽体離脱体験を
した人が、精神体となっていて肉体とは離れているはずの自分に手足
の感覚があることを「幻肢」と形容しているページはありましたが、
この用法が一般的なものかどうかはわかりませんし…。
フィッツジェラルドさんの話、あるいは主張は、最初から進化論(科学の範囲の中の進化論)とはずれている、というか無関係な話だと思います。
それと、私はちっとも気を悪くなどしていません。逆にフィッツジェラルドさんの話が面白いと思うから、フィッツジェラルドさんのメッセージにレスしています。ですから、もっとフィッツジェラルドさんの考えをお聞かせ下さい。
>進化に意志が介在しないなら、やはり進化した結果の存在に目的はないといえるのではないでしょうか?
ここにある「意志」と「目的」という用語の意味如何でしょう。
例えば、「目的」というのが「生き残って子孫を残すため」というのであれば、この「目的」というのは「適応」というのと同じ意味になってしまう。もしこういう意味なら、目的はないのかという質問には、科学である進化論はイエスとかノーと答えられるでしょう。
一方、「目的」というのを「神様の御心に従う」というような意味だとするのなら、このフィッツジェラルドさんの主張は宗教そのもの、それもある特定の宗教になってしまい、科学とは無関係になります。もしそういう意味で言われているのなら、科学である進化論は、この「進化した結果の存在に目的はあるのかないのか」という疑問に、イエスともノーとも答えられない。
「意志」についても同じだと思います。「意志」があるとかないというのは、何で判定したらいいんでしょう。その定義(これを操作的定義と言うのだと思います)をしてもらわないと、科学はその正否の判断をできない。
>私が言いたかったのは、「物の価値はその物の状態がどうであるかどうかということよりも、目的にどれだけ合致しているかということで決定する。」ということであって、それは人間にも当てはまると思っているのですが、私の論理に誤りがあるでしょうか?
これも「目的」というのが何かによるでしょうが、それ以前に、このフィッツジェラルドさんの主張は、正しいとか誤りとか言えるものではないのではありませんか?
フィッツジェラルドさんの人生の意義は、その(たぶんフィッツジェラルドさんを創った神様の)目的にどれだけ合致しているかということで決定する(フィッツジェラルドさんは決定することにしている)ということで、それを他人の私がとやかく言う資格はないと思います。ご自身のことなのですから、ご自身で決定したらいいんで、他人の意見、それもフィッツジェラルドさんの宗教の信者でもない私の意見などナンセンスだと思います。同様に、科学(進化論も含む)がとやかく言う資格も全くない。
他の方からもいろいろレスがあります。
「意志」、「目的」、それぞれフィッツジェラルドさんの意図している意味とは異なるのじゃないですか?
そこをきちんと説明しないと、この議論は行き違い、ナンセンスになりますよ。
フィッツジェラルドさん,おはようございます.
包丁ネタは少しブラックユーモア入っていたかもしれません.もう酔いはさめましたのでしっかりとした話を.
目的以外の使用をされるパターンで,一度目的の事に用いられた後,別のことに利用されるというものがあります.
まず第一に,ウェスです.これはまず最初は肌着であったり,T−シャツであっったりした古着を裁断したものです.工場とかの掃除に重宝されます(油汚れとかを非常に良く吸います).元々は肌の上に直接着る服でしたので,ものの汚れをとる目的には作られておりません.それが,本来の仕事を終えると第二の人生として形状を変えて別の仕事につくわけです.
第二に,使用済み切手です.切手はは先に金を払って郵便物を届けてもらう為の「金を払った証拠」なのですが,デザインが綺麗な為,その使用済みの収集マーケットがあります.よって,使用済み切手を慈善団体に送ることで,一種の寄付を行ったことになるわけです.ここでは第二の人生として切手は人助けや環境保護等に一役買っているというわけです.無論,特殊な目的で発行された切手以外が本来の「金を払った証拠」以外の目的はありません.
追加:
葉の形状についてのご質問ですが,あまり「適者」という言葉にとらわれないほうが良いでしょう.むしろ単純に遺伝子どおしの競争と考えたほうが分かりやすいかもしれません.同一種において複数の形状がある場合は特に対立遺伝子どおしの競争と考えるほうがしっくりくるでしょうね.
中立説についてはおおざっぱに,「適者生存といっても確率的要素も入るんだなあ」と理解しておけば良いでしょう(なたでざくっと切ったような説明をしていますので本家の方は怒るでしょうが).
では.
> なぜ、そんな無駄とも思える多様性があるのでしょうか?
> 最も生存に適した数種類の形でいいのではないかと思いますが、
中立説を持ち出すまえに、自然淘汰による説明は可能かも知れません。
(というか、どうしてここに中立説が?
普通は中立説っていったら「分子進化の中立説」を指すんではないですか?
葉の形は中立形質かも、というのなら理解できるけど)
進化論のありがちな誤解のひとつに、「適者」の解釈の誤りがあります。
しばしば「適者は唯一である」という誤解をする人がいるのですが、あくまでダーウィニズムは「環境に対する適応」の進化論ですので、何が適で何が不適かは、生物の置かれた環境によって変わります。
傍観者である人間にはよくわからない環境の違いが、しばしば生物にとっては重要な環境の違いだったりします。植物の場合、土の質とか土壌の水分とか雨とか日照とか気温とか湿度とか自分の大きさとか天敵の数とか・・・環境に関わる要素は様々です。
さらに(フィッツジェラルドさんご指摘のとおり)まったく同じ環境であっても唯一の最適な形があるのではなく、最適な形が複数の場合もありえます。
また、多様であること自体が重要であるかもしれません。同じ性質を持っている個体が沢山いると、それらの個体の間ではその性質に適応した天敵や病気が拡がりやすくなるので、他の多くの個体と違った性質を持っている個体が生き残る確率が高くなります。その結果として、同種内や近縁種間で様々な性質が進化する場合があります。
また、生物はそれまでの進化の道筋を引きずっているので、同じような機能を果たしているものでも構造が違っていたりします(たとえば鳥・コウモリ・翼竜の羽は全て解剖学的構造が違っている、というように)。
たとえば葉のギザギザに天敵よけなどの適応的意義があったとして、その構造ができる進化の道筋には幾通りもあったことが考えられます。進化の道筋が違えば細かい部分は当然変わります。
他にも可能な仮説が考えられるかも知れませんが、とにかく、葉の形が多様であることはダーウィン進化論上の説明が困難なことではないと私は思います。
もちろん、私自身はこれらの説を支持するデータを持ってないので、あくまでこれらは仮説です。
もしかしたら植物の葉の形は植物の生存上、そんなに重要では無いのかも知れません。特に細かい箇所は。
そういう理由で、進化の過程で収束しなかったのかも知れません。
なので、或る植物がどうして或る形の葉になったかどうかを示すには、その植物の環境なり系統なり発生なりをよく調べてみないと尤もらしい結論を出せないことは、言うまでもありません。
蛇足:
創造論の立場だと、葉の形の多様性はどう理解してるのだろう・・・?
また、フィッツジェラルドさん、創造的進化論の立場からは葉の形の多様性はどのようにお考えでしょうか?もし何か考えておられるようであれば、ご参考までにお聞かせねがえれば幸いです。
人間が直接・間接に利用する便宜を考えた場合、葉の形の多様性は無意味というよりかえって邪魔なような気がしますが、違います?
>・例えば、適者が残っていくのなら、植物の葉の形などは、多様性がなくてもいいと思うので>すが、いかがでしょうか。あるものはギザギザで、あるものは丸みを帯びています。また、ギ>ザギザと一口にいっても、その形は多種多様です。なぜ、そんな無駄とも思える多様性がある>のでしょうか? 最も生存に適した数種類の形でいいのではないかと思いますが、いかがでし>ょうか
こんばんは。
適者生存(というか生残かな)だけが、進化論を支える理論じゃないの
です。ここでも再三論争が起こったのですが、中立説というのがあるの
です。あなたの上記の疑問に答えを与えるのは、中立説だという気がし
ます。
フィッツジェラルドさん、はじめまして。ユリイカです。最近おもしろい話を展開されてるので、注目させてもらってます。ところで……
>人間でいえば、創造主が人間を知恵ある存在として創造したとして、創造主はその知恵を善のために使って欲しいと願っていても、人間は悪のためにも使えるでしょう。でも、そういった使い方は、本来の目的ではないので、人間を不幸にするように思うのです。
……を読ませてもらった私の感想。
どうも「善と悪」「幸不幸」で進化を見ちゃう傾向が強いみたいですね。フィッツジェラルドさんの意見は大変好きな部類ですけど、ちょっとこの辺の「感じ方」はいただけませんね。
そんなものは結果論ですし、主観でころころ変わりますよ。
進化論としても語るにも、まるで無意味ですし……
フィッツジェラルドさんならもっと価値ある意見なり、疑問があるんじゃないですか?
あと、竹内美継さんとのやりとりで……
>>私は「細胞」に「生への意志」も「心」も在ると考えておりますが貴方はどうですか?
>答えになるかどうか分かりませんが、心の存在は信じています。無形の心が、有形の肉体(物質)を動かしていると考えています。
>>そして、「記憶に関わる物質」が在ると考えておりますが貴方はどうですか?
>それに関しては、考えたことがありませんでしたが、在るように思います。
と書かれてましたが、それなら「無形の心」ではなく、「有形の心」になるのでは?
ちなみに私は「有形論」を指示します。つまり、心=物質。
櫻井さんの……
>ああ、付け加えるなら、あなたが好きな機械論、決定論も、ベルの定理では条件付きで保証されます。
立場としては量子力学と互角よ。ただし、こちらの条件を飲めば、超光速作用を容認しなければならない。
あなたが大好きなアインシュタインちゃんが、量子力学の間違いを指摘したEPRパラドックスを、逆に認めてしまうことになるのよね。
のなかで……
『超光速作用』――認めます。あるでしょう。櫻井さんの言う「イデア界」では速さの概念はどうなんです? もし「念速」というものがあるなら、無限に早いのでは……
※あとついでに、時間の概念は?
『アインシュタイン』――大好きじゃないですよ。あの「言葉」が好きなだけです。アインシュタインだったら、よっぽど櫻井さんのほうが興味ありますよ。
あと、夢・多重人格・幻視について尋ねたことにお答えいただきありがとうございました。
まずなによりも先に謝りたいのですが、幻視→幻肢の間違いです。すみません。
「移植された側の人間がドナーの記憶を持つこと=幻肢」です。
「包丁の作り手が意図した本来の目的と違う目的のために使われた包丁は悲しい存在です」とおっしゃるフィッツジェラルドさんには、「およげ!たいやきくん」のたいやきの哀しみは理解できないでしょうね・・・
そんな古い話は知らない?
じゃ、天馬博士に造られたけどロボットサーカスに売られてしまった鉄腕アトムは幸せ?
あ、これはもっと古い話だ。
・・・とにかく、「被造物は造物主の目的に従うのが幸せ」っていう見解は必ずしも他人に支持されないし、そういう人々にはフィッツジェラルドさんの意見を支持しないもっともな理由があるということです。
その理由についてはすでに他の人が書いておられるので、この投稿は単にウケを狙いました。
>確かに包丁は料理(正確には材料をさばく)の為に作られていますが,別の目的にも使えます.(中略)あなたに勇気と知恵と実行能力と計画性さえあれば,包丁もって銀行行けば沢山お金が手に入ります.
>「目的に応じて作られている道具すらその目的以外の用途に用いることが出来る.目的が無く作られた人間が,どんな目的を持とうと自由じゃないか」
包丁の作り手が意図した本来の目的と違う目的のために使われた包丁は悲しい存在です。もちろん、包丁に心はありませんが....。それが人間だと、創造主が在るとしたら、その本来の目的に生きるのが最も良いと思います。もちろん、それ以外の使い方があることは当然でしょう。ですから、私は「本来の目的」と表現しました。
人間でいえば、創造主が人間を知恵ある存在として創造したとして、創造主はその知恵を善のために使って欲しいと願っていても、人間は悪のためにも使えるでしょう。でも、そういった使い方は、本来の目的ではないので、人間を不幸にするように思うのです。
申し訳ありませんが、私には難しくて、文章がよく理解できません。もし、私のような者にも分かりやすく表現できるようでしたら、お願いしたいのですが....。
>私は「細胞」に「生への意志」も「心」も在ると考えておりますが貴方はどうですか?
答えになるかどうか分かりませんが、心の存在は信じています。無形の心が、有形の肉体(物質)を動かしていると考えています。
>そして、「記憶に関わる物質」が在ると考えておりますが貴方はどうですか?
それに関しては、考えたことがありませんでしたが、在るように思います。
>人生の本来的意義というのを、時計の時間が正確というような、物の価値というもので比喩していいんですか?
私の譬えが悪くて、お気を悪くされたのでしたら、謝ります。
私が言いたかったのは、「物の価値はその物の状態がどうであるかどうかということよりも、目的にどれだけ合致しているかということで決定する。」ということであって、それは人間にも当てはまると思っているのですが、私の論理に誤りがあるでしょうか?
「人間」という生命を「時計」といった物で譬えたのが良くなかったですか? そのことを神を信じる人から指摘されたのではなく、唯物論を支持する人から指摘されたわけですが、進化に意志が介在しないなら、やはり進化した結果の存在に目的はないといえるのではないでしょうか?
お気を悪くなさらないでください。私は議論をふっかけようとしているのではなく、私の論理に誤りがあれば、教えていただきたいと考えているのです。
だんだんと、話が進化論からずれてきているようですので、もとに戻します。もちろん、存在目的についての私の論理に誤りがあれば、ご指摘ください。
・例えば、適者が残っていくのなら、植物の葉の形などは、多様性がなくてもいいと思うのですが、いかがでしょうか。あるものはギザギザで、あるものは丸みを帯びています。また、ギザギザと一口にいっても、その形は多種多様です。なぜ、そんな無駄とも思える多様性があるのでしょうか? 最も生存に適した数種類の形でいいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
今まで、勝手な質問を続けざまにさせていただきましたので、私の考えを簡単に書いておきますと、以前にも書きましたが、「創造的進化論」という立場です。しかも、神は人間を最終目的として創造し、その他の万物は、直接または間接的に、人間のために創造したと考えています。
フィッツジェラルド さんへ
まずビール飲んで好い気分でのレスなので後で見るととんでもないことを書いているかもしれません.
ご質問の件,2つに大別できると思いますが,
@道具は目的に応じて作られている
確かに包丁は料理(正確には材料をさばく)の為に作られていますが,別の目的にも使えます.
良い子はまねしちゃいけませんが,あなたに勇気と知恵と実行能力と計画性さえあれば,包丁もって銀行行けば沢山お金が手に入ります(良い子は絶対真似しちゃいけません).
他にも仮に宿題で「料理以外の包丁の使い方を5つ考えてくるように」といわれたら,多分大抵の人は思いつくでしょう.
まあこれは質問ではありませんでしたが,次ぎにつなげるということで.
A「同様に、人間が進化の結果、偶然生じたものであるならば、人間の存在に目的はなく、人生に本来的な意義を見いだすことは不可能であるという結論に達すると思います。しかし、神とか宇宙意志といったものが存在し、原始的な生命体から徐々に、方向性を持った意志のエネルギーを働きかけ、人間という生命体を創ったとするならば、人間には存在の目的があると言えるでしょう。
進化論を支持する人は、人間には存在目的がないと考えているのでしょうか?」
こちらが本題ですね.私は哲学的なことはわかりません(基本的に科学的なことを除くと歴史とか小説とかは中国モノになるのですよ).
ですから私個人の考えになりますが,
「目的に応じて作られている道具すらその目的以外の用途に用いることが出来る.目的が無く作られた人間が,どんな目的を持とうと自由じゃないか」
というとこでしょうか.結構気ままに自分で目的を立てて生きていって良いと思いますよ.仮にある目的に沿って人間が作られていたとしても(普通に考えるとそういったことはないのですが),初期設定の目的を無視してもOKでしょう.
1011さん
>最近の「理科離れ」は、実は「外界に対する関心の低下」であるという意見があります。私もそれに同感です。
でも「『私』が登場しなければ無意味」というのは、要するに自己中心主義。「私」の外にある「世界」はそんな幼児的態度を許すほど甘くない。
私の出方がすこし、高級になってくるってことかな。とにかく、低級だろうが幼児性あろうが、なんだろうがのその自分と物との関係に、命を考えるかぎがあるってことをずーーーーーーーーーーーーーーーーといってるのだけどね。
そこに、私を見ずに人間は物を考えることができるか?
って高級な問いかけなら逆にわかりやすくなるのかな?
心の定義のとこちゃんと読んでくれたのかな?とりあえず斬新な方法じゃん。
フィッツジェラルド さんへ
私(偶然を否定します)の感想を述べさせていただきます。
>進化論を支持する人は、人間には存在目的がないと考えているのでしょうか
私は、生命体が今あるのは「進化」の結果だと思っております。そして、生命体である私に
は「生きる」目的というものは無く、只、「方向性」があるだけだと考えております。しかし、
人間としてある私には「生きる」目的があると思っております。何故なら、私は「生命体の
階層性」を認識しているからです。ですから、階層毎に「目的」があり、それは、階層性の中で
収束化されているのだと考えております。故に、「物の価値」とか「意味」というものは、それ
ぞれの階層における「価値」なのであり、「意味」なのだと考えております。
以上が貴方の質問に対する私の回答です。 で、フィッツジェラルドさんに質問があるのですが
お答え頂けるでしょうか?
私は「細胞」に「生への意志」も「心」も在ると考えておりますが貴方はどうですか?
そして、「記憶に関わる物質」が在ると考えておりますが貴方はどうですか?
宜しくお願いいたします。
人生の本来的意義というのを、時計の時間が正確というような、物の価値というもので比喩していいんですか?
「人生の本来的意義」とかいうことを言っている人が、それを時計の価値というようなものを用いて話しているのが不思議でなりません。
それでは、「人生の本来的な意義」なるものが時計が正確かというようなことと同等だと言っていることになりませんか?
全く違うものだというのなら、全く違うもので比喩することに何か意味があるのかとなってしまう。
皆さん、いろいろと教えていただき、ありがとうございます。
>存在目的があろうとなかろうと進化論の真偽とは無関係
同感です。今回の存在目的の質問は、進化論を否定する根拠としてあげたのではありません。ただ、意志のない進化の過程でできた存在に、その意味を見いだすのは不可能ではないかと思ったものですから、進化論を支持し、神のような無形の存在を否定している方は、そういったこと対してはどのように感じていらっしゃるのかお聞きしたいと思って、質問させていただきました。
逆に、JA50さんが、私に質問をされましたが、それに対する自分なりの答えはあるのですが、このボードの主旨と離れてくるのではないかと思ったことと、結構長文になりそうなので、遠慮させていただきました。他の掲示板で、私が考える「人生の目的」に関する文章がありますので、興味のある方はその場所をお教えします。
>なんで、偶然に生じたものなら、その存在に目的はないとか、本来的な意義を見いだせないとなるんだろう、、、
>ほんと、不思議です。
存在目的の有無に関しての、私の論理の展開に間違いがあるのかもしれませんが、今までそれに対して、明確に私に分かるように指摘してくださった方がありませんでしたので....。
その物の価値は、その目的にどれだけ合致しているかによって、より大きい価値があったり、そうでなかったりすると思います。
例えば、腕時計を考えてみましょう。その腕時計が、秒単位の正確さを必要とする仕事に従事している人の手にはめられるならば、その腕時計は示す時刻が正確であればあるほど、価値は高くなります。1カ月で30秒も時刻が狂うようであれば、価値はかなり減ります。しかし、ファッションモデルが身を飾るための腕時計であれば、1カ月で30秒ぐらい狂おうが関係ないのです。彼女にとって重要なのは、そのデザインがであり、輝きなのです。また、いくらいい腕時計でも、サルの腕にはめれば、価値は発揮できません。また、腕時計が壊れて動かなくなったら価値がなくなるかといえば、そうとばかりは言えません。その腕時計が亡き母の形見であるのならば、動かなくても価値は失われないのです。
このように、物の価値は、その目的に対して、どれだけ対応しているかによって、変わってくるものではないでしょうか? 人間を分析して、歩行する機能があるから歩く、思考する機能があるから考える....というのは、人間の本来的な目的ではないかもしれない可能性があると思います。仮に、人間が神からある目的を持って創造されたのなら、その創造目的に合うように生きるのが、幸せではないのかなぁと思っています。
哲学的な内容になってきて、申し訳ないです。この掲示板の目的は、進化論などの科学的なことについて議論するために存在しているのですから、存在目的と違う、非本来的な使い方をしない方がよいかもしれません。次に書き込みするときは、科学的な内容になるように心がけます。
私も「存在目的があろうとなかろうと進化論の真偽とは無関係」でいいと思います。
一部の創造論者が「進化論を認めると人間の存在目的がどうのこうの」と批判しているのを、進化論のすべてを批判していると受け取って創造論批判をされることがありますが、
まあ、不毛な論議です。
そんな論議をするくらいなら、「無関係」で割り切った方がすっきりするし、
「事の真偽」を論ずるにあたっては、事実「無関係」でしょう。
それから、心については、1011さんが以下のように述べられているのに同意します。
====
心の問題に限りませんが、科学に何が出来るか出来ないかという問題は、具体的にやってみないとわからないところがあります。出来ないことが証明されないかぎりは。
誰もが不可能と信じてたことを、ある日突然誰かが斬新な方法で可能にしてみせると、それで科学が進歩するんだと思いますよ。
====
心の問題は物質のやり取りが心に関係していることがわかったから
精神医学の薬物療法が可能になったわけですし、
私は物質のやりとりがすべてだとは思わないけど、
とりあえず、物質のやりとりですべてを説明しようとする試みは科学の姿勢としては間違ってないと思いますよ。
進化論も一緒ですね。
>成人病関連の因子って不具合が結婚年令以降に出るので、子孫を残す妨げとならなくて永久に選択とか淘汰とかされなさそうな気がします。
そうでもないんじゃないですか。
人間のように、子育てをする動物は、生殖可能年齢を過ぎても、その変異が自分の子孫の適応度を低めるものこともある。そしてそういう変異は淘汰されていく(その集団から消えていく)。ただしこれには長い時間がかかるから、寿命がこれほど延びたのはつい最近の話だとか、数百万年飢餓が常だったとかいうのが今効いている。
>同様に、人間が進化の結果、偶然生じたものであるならば、人間の存在に目的はなく、人生に本来的な意義を見いだすことは不可能であるという結論に達すると思います。
こういう思想というのか、考えというのか、さっぱり理解できないんです。
なんで、偶然に生じたものなら、その存在に目的はないとか、本来的な意義を見いだせないとなるんだろう、、、
ほんと、不思議です。
私にすれば、ある目的で作られたというようにされた方が、よっぽど虚無感にさらされるけどなぁ、、、
それにしても、フィッツジェラルドさんは、ご自身はどういう目的で作られたと考えているんでしょうか?
偶然で、今の自分という存在があるんだというのでは、人生の本来的な意義を見いだせない
とされているんだから、ご自身は何かの目的で作られたと思っているんでしょう?
その目的って何と考えているんでしょうか?
ホームページじゃなく、掲示板なのですね。
「夢」、「多重人格」などなどのような櫻井さんの考えがいっぱい書かれているところかと期待していたいのです。
統一協会かぁ、「と」も面白いけど、カルトも横から眺めているぶんには面白いですね。
被害者には、なんと不真面目なと怒られるかもしれませんが、、、
やもさんへ
> 自分が何売ってるのかわからないけど、売れるから売ってるのは不安じゃないけ?
> そういう不安の自覚は大切じゃないのけ?野菜と思っていたら、化け物売ってるかもよ。
御意。
だからこそ、とりあえず行動とか記憶とか、客観的手段で扱えそうなものを扱い、それ以上は扱わないのです。それらはたぶん「心」の一部には違いないが、「『心』の定義」がはっきりしないと扱えないようなものではない。
(だからとりあえず店はひらける、と)
でも、中には困った研究者もいますね、
神経やってるだけで「心」そのものを語ったりする、しかも一般人向けに。
> ご不満です。自分の写っていない運動会のビデオばかり見つづけるようなことは死んでもごめんです。
> 科学離れが進みますよ。
最近の「理科離れ」は、実は「外界に対する関心の低下」であるという意見があります。私もそれに同感です。
でも「『私』が登場しなければ無意味」というのは、要するに自己中心主義。「私」の外にある「世界」はそんな幼児的態度を許すほど甘くない。
そして、科学っていうのはまず、そういう厳しい世界と対峙するための道具だと思ってます。
たしかに近所の運動会のレベルだったら、自分が出てなかったら見たくないでしょうけど。
でも科学は過去数千年(もっと?)の人間の知恵の積み重ねだってことをお忘れなく。
そういう意味ではオリンピックなんかより遥かに高度なレベルの人間活動なので、「私」がいなくても面白いはずだと思いますよ。・・・ただ面白さが伝わってないだけで。
例えば日本の科学番組ってほとんどつまらないものばっかりだと思います(が、この話題はまた後日)。
私の言いたかったこともだいたい尽きましたし、他の話もしたいので、この話はこれで最後にしたいと思います。
この投稿に対する反論に対して再反論はしないことにします。
ここで哲学論争すると反則なんで、クハ72さんのように
>存在目的があろうとなかろうと進化論の真偽とは無関係
とするのが正解なんですよね、この掲示板では。でも進化論支持したからって、人間の存在目的を否定してるわけじゃない。なんかそう言われると、進化論支持者って殺人者予備軍って呼ばれてるみたいで、あんまし好きじゃない。で、反則承知のカキコです。
wadjaはクリスチャンじゃないから、神様の与えた絶対的な「人間の存在目的」は肯定こそしませんが、別に否定しようとも思わない。人それぞれに、その人なりの存在目的があっていいと思ってます。それは、例え心が単なる化学反応の集積であってもべつに揺るがない。進化論を支持する多くの人々にとっては、進化論そのものは人の存在目的を肯定も否定もしないと思う。
#逆に、人間が神様の創造物だから、神様に愛されているから存在目的があるというけれど、じゃ#あ神様の存在目的って?聖書って、そこまで教えてるのかしらん?
> 進化論を支持する人は、人間には存在目的がないと考えているのでしょうか?
もしそうであれば世の中のほとんどの人に存在目的がなくなってしまいます。
世界は今よりももっと犯罪に満ち溢れていることでしょう。
というより進化論が提唱される以前の世界だって目的を失った人はいたはずですし。
また、言うまでもなく存在目的があろうとなかろうと進化論の真偽とは無関係です。
>「不確定性原理」主義者が思考停止に(中略)
>自らの能力の無さを認めない「ひねくれ坊や」の言い訳のようにしか聞こえません。
まぁ、これはあなたが不確定性原理をよく知らないから、そう思うだけね。もっと勉強すること。
不確定性原理を基礎とした量子力学は、ベルの定理というものによって(その検証実験によって)、
正当性が条件付きで保証されています。
ああ、付け加えるなら、あなたが好きな機械論、決定論も、ベルの定理では条件付きで保証されます。
立場としては量子力学と互角よ。ただし、こちらの条件を飲めば、超光速作用を容認しなければならない。
あなたが大好きなアインシュタインちゃんが、量子力学の間違いを指摘したEPRパラドックスを、
逆に認めてしまうことになるのよね。まぁ、あたし的にはこっちも好きだけど。
>私はなにも「神」が完全とは思いません。「できそこないの神」がいてもいいと思います。
>完全じゃない私たちを創ったのは、やはり「完全な神」ではないでしょう。
これでは神の定義に外れるのよ。神は全知全能絶対善というのが宗教の定義ですからね。
>「夢」、「多重人格」、「幻視」などの実際の現象に対する捉え方がどうもわかりませんでした。
>その三つだけでも、ちょっと「イデア論」による解釈をしていただければ、
>もう少し私なりにも理解できると思います。
あたしは、これらの理由には2種類あると思う。1つは脳の機械的な異常。
もう1つはイデア界での出来事。あなたの聞きたいのは後者の方の解釈なので、そちらの立場で答えます。
「夢」
脳の拘束を一時解かれた心が、イデア界にいって見聞きしてきた記憶ね。
「多重人格」
悲惨な人生を送ったままあの世(イデア界)に帰った心たちが、その事実(あの世に行った)ことを認めたがらず、
「もっといい人生を送りたぁ〜い」っていうことで、似たような境遇の人の脳にとりつくのね。
そして本来のその脳の持ち主の心と、そのとりついた心が所有権争いを起こしている状態。
「幻視」
これは幻じゃないの。いわゆる心の目でみた映像よ。イデア界のものを見たのね。
どう? わかりやすかった?
あと、誰だったっけ? あたしの掲示板みたいと言ってた人。
ここ、2〜3日見ないとどんどんカキコされてるから、誰だったか探すのおっくうになっちゃう。
しかも、ここにカキコする人たちって、ハンドルが個性ないのよね。数字とかアルファベットとかで、覚えにくくて。
とにかく下のアドレスよ。
ただし、ここ系の話はないわ。今あたし、統一教会を研究してるから、その情報収拾のために設置したの。
1011さん
自分が何売ってるのかわからないけど、売れるから売ってるのは不安じゃないけ?そういう不安の自覚は大切じゃないのけ?野菜と思っていたら、化け物売ってるかもよ。
>やもさんはそういうのには不満なご様子ですが、
ご不満です。自分の写っていない運動会のビデオばかり見つづけるようなことは死んでもごめんです。科学離れが進みますよ。
>科学ができないこと
科学では一番大切な”客観的検証”がそれゆえに、不可能にさせてしまうことがあるという意味でいいました。オカルトのこと言っているのじゃないよ。お笑いの例でいえば、分析してしまったとたんに、それは干からびた標本になってしまうでしょ?
フィッツジェラルドさんへ
>人間の脳がよく使う人でも10%に満たないとするならば
この人間の潜在能力開発などの議論で出てくる10パーセントという根拠は本当でしょうか?算出方法はどうなってるのでしょか。ただ、脳の興奮が全体同時にはわずかしか起きないことをもって脳の一部しか使っていないということですか?
記憶装置の全部から同時に読み出すことは、「壊れちゃった」に他ならないとおもいますけれど。
一部だけの脳みそを使っているから人間らしく考えられるのじゃないのかな?
人間はなんらかのテーマでしか考えられないのだ。
「ブラインド・ウォッチメイカー」という本を教えて頂き、ありがとうございました。図書館で探してみたいと思います。
まだ、質問があるので、させていただいていいでしょうか?
・例えば、包丁は何のために存在するかといえば、料理をするためですよね。それは、人間が料理をしたいという目的があって、その為に都合のいいように設計されて、そのような形をしています。もし、包丁がないので、河原から適当に尖った石を探してきて、それを包丁の代わりに使ったとしても、その石は本来、包丁の役割をするという目的で存在しているのではありません。
同様に、人間が進化の結果、偶然生じたものであるならば、人間の存在に目的はなく、人生に本来的な意義を見いだすことは不可能であるという結論に達すると思います。しかし、神とか宇宙意志といったものが存在し、原始的な生命体から徐々に、方向性を持った意志のエネルギーを働きかけ、人間という生命体を創ったとするならば、人間には存在の目的があると言えるでしょう。
進化論を支持する人は、人間には存在目的がないと考えているのでしょうか?
ドーキンスが著書で詳しく述べていますので,そちらをまず読まれることをおすすめします.
@ブラインド・ウォッチメイカー(早川書房) 上巻 P134−151
ちなみにこの本ではこのページ以外にもたびたび目に関しては登場します.
A遺伝子の川(草思社) P117−123
目をコンピュータ上で突然変異でどれくらいで出来あがるのがシュミレーションした実験について書かれています.
ちなみに人間の目は誰かが設計したにしては,おろかしいミスがあります.それもブラインド・ウォッチメイカーに書かれています.以前質問なさっていた翼についてもブラインド・ウォッチメイカーの上巻p156あたりに載っています.
フィッツジェラルド さんへ
ほぼ 同意 致します。
NATROM さんへ
投稿日:3月20日(火)18時58分30秒 投稿の下記言葉は私の言葉でありませんので削除お願いしたいのですが。私のミスです。
>記事の詳しい内容と、その実験方法の開発がなぜ中心小体が生命体であることの証明になるの
>か、またどのように中心小体が細胞の統合体であることを認識したのか、ツリーの方にでも投稿
>下さい。
ここの掲示板はレスポンスが早いですね。嬉しく思います。それに私のような初心者(?)にも親切ですし....。レスして下さった方に、お礼申し上げます。
レスを読んで、納得できるところもあれば、そうでないところもあるし....。
安全率の書き込みでいいますと、人間の脳がよく使う人でも10%に満たないとするならば、今の人間の脳の10分の1の容量でも、5分の1の容量でも、今の人間と同じ容量でも、適者生存という観点から言いますと、まったく同じ条件ということになるように思うのですが....。なぜ、そんなに安全率が高いところまで、一気に進化したのでしょうか?
まだ、疑問があるので、ご存じの方にお答えいただきたいと思います。
・例えば、眼という器官ができるには、眼の器官を構成する水晶体、角膜、まぶた、涙腺、毛様体などのパーツが相互にうまくかみ合わなければなりません。それと同時に、脳にも眼でキャッチした情報を処理する機能ができていなければなりません。また、その眼と脳を結ぶ神経も同時に備わらなければなりません。眼だけでも、私にとっては、とても偶然にできたとは思えないのです。あたかも、動物に眼ができる前から、光があることを知っていた存在が、光の情報をキャッチするために創造したように感じるのですが....。
RE:実験について 投稿者:T8848 投稿日: 3月19日(月)07時45分24秒 にお答えします。
>その中心小体が生命体であり、細胞の統合体だと言う認識
この件に関しては「中心小体と創造的進化との関係」についてセピア色さんとツリーで議論
していますのであちらでお話をしたいと思っておりますので参加をお願い致します。
(他の方々も是非)
>蛋白質も核酸も生細胞外で合成できまし、核酸(DNA,RNA)は複製もできます。しかしこれらは「生命体」ではありません。
蛋白質、核酸(DNA・RNA)を生命体とは思っておりません。私は「生命体は作られてあ
る」と考えていますので、これらの物質は生命体に「利用」されているのだと考えています。
故に、DNA・RNAの複製は複製であり、「自己複製」とは考えておりません。
>> 入力失敗しました。すみません。(無題) 投稿者:竹内 美継 を削除お願い致します。
>> 分類学者さんへ 「がまんします」
記事の詳しい内容と、その実験方法の開発がなぜ中心小体が生命体であることの証明になるのか、またどのように中心小体が細胞の統合体であることを認識したのか、ツリーの方にでも投稿下さい。
RE:実験について 投稿者:T8848 投稿日: 3月19日(月)07時45分24秒
>そういった生物が適者生存の世界で生き残れるのでしょうか?
こういう疑問がよくあります。が、適者生存というのは私たちが適者と判断するかどうかにかかわらず、自然の中で間引き(こんな言葉使っていいのかな?)されなかった個体に遺伝的に(竹内さん、ちょっとがまんね)継承されている特徴、またはそれを備えた個体が生存しているってことです。適者じゃなければ生存していません。では、中間型(創造科学者はそれがないと主張していますが)は適者なのかというと適者としかいえないでしょうね。
>前の発言では、鳥の翼を例にとりましたが、それ以外にも進化の途中のものでは役に立ちそうもないような例はないでしょうか? 卵生から胎生への進化の途中とか....。
これについては途中段階の生物はたくさんいます。脊椎動物だけを考えるとなかなか解決がむずかしそうに見えますが、昆虫には各種各段階いろいろそろっております。
"心臓に血液を送る血管" クハ72 wrote:
> > 進化論だと、生き残りに必要最低限の安全率しか保証されないような気がするのですが....。
>
> 余裕があった方が生存に有利です。必要最低限だと心もとないし。
> でも環状動脈(漢字あやふや)なんて必要最低限しかありません。進化途上なんでしょう。
成人病関連の因子って不具合が結婚年令以降に出るので、子孫を残す妨げとならなくて
永久に選択とか淘汰とかされなさそうな気がします。もっと早くに具合が悪くなる因子は
排除されていくのでしょうが…
> 進化論だと、生き残りに必要最低限の安全率しか保証されないような気がするのですが....。
余裕があった方が生存に有利です。必要最低限だと心もとないし。
でも環状動脈(漢字あやふや)なんて必要最低限しかありません。進化途上なんでしょう。
つづき……
そしてまた「辞書」について思うのですが、辞書とは基本的に「一般の人が一般の生活の中で使うであろう範囲」で言葉の意味を記しています。同じ言葉でも科学で使う○○と哲学で使う○○、それに一般人が使う○○では意味合いも深みもまるで違う「ずれ」が生じますよね。それと同様にここは「科学の場」ですありますので辞書の枠に止まらず、「生」についても「心」についても、(まだなんら科学的立証がされてないことでもありますし)お互いの持論を自由奔放に議論しあったらいいのではないかと思います。【かのナポレオンはどうやら「自分の辞書」をもってたようですが、これは本来、皆が持ってるものだと思いますよ】
私にとって「心」という言葉には、「知」「情」「意」などの総称、などではどうしてももの足らぬ、大いなるずれが生じます。どうでもいい相手にただ伝えるためなら別ですが、「ちゃんと相手に伝えたい」との思いから、ああして本来の意味を超えたものになってしまったのでしょう。それでもし「伝わらなかった」としたら、それは私の過失であり、いたらなさであります。
以上のように、『人はどうしても主観の中でしか生きれない』を前提に、『人が言葉を使う際、また伝えたいとの気持ちの強さにより、その意味はどうしても辞書の意味を超える』と私は思っております。こうした深く意味ある議論をする際には、またこの「掲示板」のように真剣に皆の意見をぶつけあうようなところでは、各々の言葉の定義をしっかりと掴みあったうえで言葉を交わさなければならないと私は思います。
今回は安賀須さんへの返答として、こうした意見を述べさせていただきましたが、次回からはまたばんばんいろんな意見に参加していきたいと思っております。宜しくお願いいたします。
安賀須若人さんへ。
……ポーのあの「詩」は、人間の想像力の偉大さを示す素晴らしき書で、いわば私の「バイブル」です。もっとも、私にとって「バイブル」は一つではありませんが……。
さて安賀須若人さんの……
>単細胞生物や多細胞生物の各細胞に「心」を認められるお考えは理解できましたが、それだと日常的な意味で使っている「心」という言葉の意味をだいぶ拡張しないといけなくなりませんか?特に科学的な議論をしようと言う場合には、言葉の意味に公共性がないと議論がうまく行かなくなるので、御再考いただければ幸いです。
について……
安賀須さんの仰る通り、もしまるで公共性の無い意味合いで言葉を使った、もしくはその言葉に伝達能力がないとすると、それは言葉ではなく、なにか「それ以下」のものでしかありません。もし私の言葉の使用法についてそう思われたのでしたら、この場をお借りし謝罪させていただきます。
しかしながら、「伝えたい」との気持ちから、「ああしか書けなかった」私の能力の無さを許してくれた(?)、また、上記のように私の意見にも聞く耳を持ってくれた(?)、そうした安賀須さんの好意に勝手に甘え、ささやかな私の意見、というか「言葉観」を一つ。
言葉とは、その言葉の本来の意味をもつものである――(こうした言い方を許してもらえるならば)言葉に気持ち(自意識)があるとすれば、『言葉とは、その言葉本来の意味を追求するものである』――これが私の基本的な言葉観であります。
※補足……これは【「言葉自身は」は、自分を軽軽しく扱ってもらいたくない、無思慮に、ほとんどオートマチック的に「言葉」を使う(選ぶ)人が多いが、そんな使われ方はされたくない。もっと意味をよく吟味したうえで使って欲しい、と願っているで】……そんな意味です。
で、ありつつ、言葉とは『伝えるもの』であります。
例えば「愛してる」と彼女に言った際、決まって「どのくらい、愛してるの?」と問われますが、それは「言葉」の意味合いが人によって多種多様だからであり、また強弱があることを、女性が見事に「知っているから」です。人と人とが言葉を交わす際、「人に何かを伝えたい」という気持ちと同時に「その人が何を言っているのか、その本当の意味を知りたい」との気持ちも同時に強くありますよね。たとえば、そんな彼女に対し「辞書にある言葉どおり、愛してるんだ」と言っても、馬鹿にしてるの?と拗ねられるか、またもしそれで一時は喜んだにしても、やはりあなたの思っている言葉で答えて欲しい、とのはかない願いはいつまでも消えないでしょう。
本当に彼女が好きなら、また本当に自分の言っていることをそのまま相手に伝えようという真摯な気持ちがあるなら、言葉は辞書の意味を超え、大いに羽ばたくものだと私は思います。そして、それがその人のもつ「言葉本来の意味」であり、それを「そのまま伝えるため」には、(残念ながら人は主観でしか生きれませんから)自分の主観でつくりあげたその言葉を、他人の主観にも伝わるよう努力することが必要であると思います。
すみません、つづく……
Dear 櫻井さんへ
私の要望通り、小学生にもわかるよう、櫻井さんの「イデア論」をご教授していただき、誠にありがとうございました。櫻井さんの――まず神がいるのね。……とつづく論調の明快さには驚きつつも感心した次第です。かく言う私も、既存の科学では解けない疑問、またぶち当たる壁に出くわした際には、やはり「神」というアイテムを想定してしまいますし、また科学だけの狭いキャパであれこれ思考を巡らすより、よっぽど「目的」のためには効果的だと思い、共感しております。
さて、私が櫻井さんの「イデア論」を読ませていただきました際、ある古人の言葉を久しぶりにふと思い出しました。私としては古人である彼の物理理論をあまり好まぬのですが、300年後1000年後、彼の理論がガラガラと崩れても、この言葉だけは残るであろう彼の名言――即ち『神はサイコロを振らない』であります。
櫻井さんの「イデア論」を読ませていただく前から思っておりましたが、櫻井さんは「不確定性原理」好きのようですね。ということは、「偶然」という現象も、まるまるすんなり認める、ということなのでしょう。であるならば、ミクロ的に考えて「不確定性原理」が絶対であるならば、ひるがえってマクロ的に考えてもこの世は「不確定」でしかなく、即ち「必然」などという現象などありえない、とのご意見をお持ちなのでしょう。申し訳ありませんが、私も「神」好きの一人として、すべからく反対の挙手をあげさせて頂きます。
ちょっとここで「天気」を例にあげさせてもらいます。これは「ミクロ的」であり「マクロ的」な日常現象でありますので。
現在のところ「天気」の予想には不確定性原理がはびこり、例えば一年後の今日の「天気」など予報できないのが常識となっています。風の流れ、水温の移り変わり、太陽風の影響など数え切れないほどの影響を得て、時々刻々と絶えず状況は移り変わっていきます。どれか一つの現象なり影響なりでも見逃したら、また見誤ったら、おそらく一年後の天気などとても的中さすことなどできないでしょう。しかし、それは「見逃したり」「見誤ったり」した場合のことです。
我々が日常生活中ときおり「偶然」っぽい現象(たとえばロンドンで昔の彼女にばったり会うなど)に出くわし、「あー、こんな偶然ってあるんだなー」と一人感嘆してしまうときなどありますが、もし「神」がはるか頭上で全てを把握しつつじっくり眺めているとするならば、それは「偶然」ではなく「必然」の出来事でしかないでしょう。私が生活の中であらゆる選択肢の中からそのときロンドンに行ったのも、彼女が同じようにロンドンに行ったのも、そしてばたりと出会ったのも、全ての裏事情を知り尽くしてる「神」の目には「そうなるべくしてなった」と見えるに違いありません。ただ、その裏事情に精通してない我々の目には、「ロンドンで昔の彼女に会ったこと」も「天気」の予報も、果ては「電子」の動きも予想なんてできっこないものとしてしか見えないだけの話です。
『それは偶然なんだ、そうだ、不確定なんだ』と、「不確定性原理」主義者が思考停止に(裏事情を探ろうとも努力せず)わいわい騒いでるざれ言は、私に言わせれば「自分のわからない問題」に取り組んだ末わからなかった際、「そうか、これは誰にもわからない問題なんだ、だからわからないというのが答えなんだ」とすぐさま何ものかに責任転嫁したがる、自らの能力の無さを認めない「ひねくれ坊や」の言い訳のようにしか聞こえません。
櫻井さん、私はなにも「神」が完全とは思いません。「できそこないの神」がいてもいいと思います。完全じゃない私たちを創ったのは、やはり「完全な神」ではないでしょう。しかし、全ての結果には原因がある――このことだけは「神」が我々に約束を交わした幾つかの中の「一つ」だろうと思います。
……でも櫻井さん、「不確定性原理」を「イデア論」に取り入れたという点を除けば、櫻井さんの「イデア論」、けっして嫌いじゃないですよ。むしろ好き、ですね。いろいろ空想膨らむ論で、おもしろかったです。ただ、勝手ながら櫻井さんの「イデア論」を理解しようと様々な形で膨らませた私の空想の中で「夢」、「多重人格」、「幻視」などの実際の現象に対する捉え方がどうもわかりませんでした。その三つだけでも、ちょっと「イデア論」による解釈をしていただければ、もう少し私なりにも理解できると思います。すみませんが、ご教授宜しくお願いいたします。
やもさん:
> まだ心の定義が完全じゃない状態なのに無理に科学的方法に見られるものを
> 前面におしだしてやろうとしているから問題じゃないのだろうか?心の科学って
> ありえるかのか?科学ってなに?どこができない?そして何ができる?ってことに
> 対してがフラフラしてるからじゃないのかな。?
心の定義ですか? それは実際の研究上、本質的な問題ではありません。
生物学の研究において、生物の定義が本質的でないように。
既存の自然科学的「心の科学」では「心」そのものには踏み込まず、行動とか記憶とか知覚とか神経とか、客観的検証に耐えうると思われる切り口を見つけ出して研究しているだけです。
(非自然科学系のほうは踏み込んでる気がするが・・・)
やもさんはそういうのには不満なご様子ですが、私にはけっこう面白いと思って見てますよ。
また、心の問題に限りませんが、科学に何が出来るか出来ないかという問題は、具体的にやってみないとわからないところがあります。出来ないことが証明されないかぎりは。
誰もが不可能と信じてたことを、ある日突然誰かが斬新な方法で可能にしてみせると、それで科学が進歩するんだと思いますよ。
蛇足:
> 心の問題ってお笑い論に似てます。どこが面白いかを説明しようと躍起になれば
> なるほどつまらなくなるのだよね。
それはきっと
1) 説明するまでもなく面白い。
2) 本当は面白くない(または、面白い理由を勘違いしている)。
3) 説明のしかたが拙い。
のどれかだと思います、私は。
wadjaさん。
虚無さえ人のこころの大切な働き
だとおもった瞬間なんだか唯物論もなんもなくなった気がします。これが正反合なのかな?
フィッツジェラルドさん
>生き残りに必要最低限の安全率しか保証されないような気がするのですが....。
いまの環境が変わらないでつづく世界なら最低限の安全率に収束するはずです。でも、そんなことはありえないで、今日の有利は明日の不利で、今日の不利は明日の有利が世の常です。たとえば、筋肉の大きなものが他の個体を押しのけて生きていく場合が有利な環境であったとします。小さい個体も生まれたりします。そのときにたまたま食物がたくさんあって、小さい個体も養えるだけの潤沢な環境であれば、小さい個体のものもお恵みをもらって生きていく事ができます。しかし、このままの状況が続くといずれ小さい個体はなくなるでしょう。しかし、ここで環境の変異が起こって小さい個体が有利となる状況が起こったとき、逆に小さい個体のものが生き残ることができるはずです。環境がやさしい時にはいろんな変なものも明日の可能性のために生きられるということで。。。
つまり、変異自身とそれを許す余分な環境がキャパシティということじゃないのかな?。役にたつたたないは明日にならなきゃわからないからとっておけるものならとっておくと思えば良いのじゃないでしょうか。
う〜ん、私はそちら方面素人ですが面白くなってきました。
ツリーでやりませんか? (もち他の方々も)
分類学者さんと皆様へ
>「アメリカのマサチューセッツ大学のグリーンフィールド・スミス達とスタンフォード
>大学のチム・ステアンズ達のグループは、中心小体の複製が生細胞外で成り立つ
>実験方法(アッセイ法)の開発に成功した」という記事を科学新聞(1999年
>7月9日)で読みました。
上記に誤りがありましたので下記のように訂正いたします。
科学新聞
1999年7月9日(金曜日)第2759号
マサチューセッツ大学医学部のグリーンフィールド・スルダー達
スタンフォード大学の細胞生物学者チム・ステアンズのグループ
上記二つの研究チームは、中心体の複製を生細胞外で調べるアッセイ法を開発した。
ーーーー中心小体は分離するーーーー
3月7日の実験について を上記のように訂正致します。
新聞の記事を読みどのように位置づけし解釈するかは人によって異なると思います。
私は「生細胞外で中心小体の複製をなした」という実験がなされたのだという事の
重要性を感じました。
分類学者さんには申し訳ないですが直接科学新聞社に問い合わせをお願い致します。
終ってしまいましたがご参考に送付します。
緊急情報 サトルエネルギー学会年次大会 3月18−19日
21世紀の科学を創造する学会の年次大会です。
一般のかたも参加できますので、ご参加ください。
サトルエネルギー学会年次大会
省資源・環境保全から・健康まで ― 科学的解明と実用成果 ―
「水」そして「ヒーリング」
2001年3月18日(日)19日(月)工学院大学・3階大教室
3月18日(日)
10:00〜12;15
挨 拶 学会会長 大島正光
大会委員長 吉田太郎
基調講演「21世紀の生命科学」
国際生命情報科学会 会長 河野貴美子
学会総会 学会副会長 久保田昌治
13:30〜17:45
発 表
@ 波動測定機器分析結果 工業部会 田中孟憲
A 浄活水器テストの報告 三菱電機 田中 博
バイタルウェーブ 村田幸彦
B 農業部会「自然生命の環境」
〜農業こそ愛〜 赤城ナチュラル 須永幸彦
C 環境建築部会「環境場によるヒーリング」
風水環境科学研究所 松永修岳
D クリーンエネルギー
クリーンエネルギー研究所 井出 治
18:30〜20:30
懇親会 司会・進行 村田幸彦
3月19日(月)
10:00〜12:00
基調講演「テレパシーとヒーリング」
日本自然療法協会会長 東京造形大学教授 佐藤 彰
調査報告
@ 米国における代替医療
ナチュラルグループ 伊藤 周
A サトルエネルギー外国事情 寺山心一翁
発 表
@ 健康医療部会「マイナスイオンとヒーリング゙」
東京大学医学部 山野井 昇
13:00〜17:30
Aヒーリング関連調査報告
「ヒーリング゙の本質への道」セントラルメルコ 土橋理博
Bエキササイズ「感気」
はりきゅう千歳 茂木敏雄
C 五感を超えたヒーリング
「フラワーエッセンス」 ハートサポートシステム 山崎芳伸
D ヒーリングの実際
「遠隔ヒーリング」 大山重忠
E ヒーラーによるヒーリング
「鍼灸における脳波観察」
脳力開発研究所 志賀一雅
閉会の辞 副会長 久保田昌治
参加のお申し込み
当日お申し込み下さい.
◆ 参加のお申し込み 当日お申し込み下さい.
◆ 参加費
学会員:1日につき \5,000
一 般:1日につき \6,000
懇親会:お一人 \5,000
サトルエネルギー学会について
サトルエネルギー学会は、「物質や生体の持つ固有のサトルエネルギー(微弱、微
細、未知エネルギーなど)を産学官の協カのもとに究明し、新しい科学と産業を創造
し育成することにより、地球環境の保全と人類の未来に貢献する」ことを目的として
1995年1月に設立されました。
サトルとは、もともと英語のSubtleつまり微弱な、微妙な、不思議な、とらえがたい
などの意味からきています。また、サトルば、日本語の「悟る」にも通じるもので
す。現在会員は32O名。 医学、農業、畜産、水産、科学、工業、建築、芸術、
スポーツ、芸能、文化などの各分野におけるサトルエネルギーに関する事象の調査・
研究及び技術開発など幅広い分野で活動を続けています。
サトルエネルキー学会の活動
下記の4つの専門部会が設けられており、会員の傘下を得て、テーマ毎の研究や技術
情報交流などが積極的に行われています。
入会された学会員の方々が、それぞれの目的に沿って研究や技術の研鑚に役立てて頂
けるように企画されているもので、学会員有志による個別の部会活動として実施され
ております。
◆ 工業部会
◆ 農業・食品部会
◆ 健康・医療部会
◆ 環境・建築部会
入会ご希望の方は事務局までご連絡下さい。
サトルエネルギー学会事務局
〒161-0033 東京都新宿区下落合 3-17-40
FAX:03-3565-0335
お問合せは: TEL:03-3565-0374
http://www.subtle-eng.com
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情報提供 愛うえおプロジェクト 21世紀創造・政策提言します
愛は飢えを終わらせる!! 明るい21世紀・誉ある日本 榊原祐輔
Email:hhappy@anet.ne.jp
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>しかしやもさんのおっしゃる「心」は、主観の意味合いが強いようなので、既存の自然科学的な「心の科学」で扱うのは困難な問題のようですね
そうかな?まだ心の定義が完全じゃない状態なのに無理に科学的方法に見られるものを前面におしだしてやろうとしているから問題じゃないのだろうか?心の科学ってありえるかのか?科学ってなに?どこができない?そして何ができる?ってことに対してがフラフラしてるからじゃないのかな。?
科学性を持たせつつ心を語ろうとする方法は考えていますが、書きこみをもう一度よんでみてください。
心の問題ってお笑い論に似てます。どこが面白いかを説明しようと躍起になればなるほどつまらなくなるのだよね。
>つまり前足は走るためではなかった。
なるほど。
>その鳥類の祖先が木から木へと飛び移るときには少しでも翼に近い方が有利だったのでしょう。
なるほど。でも、その少し翼に近い前足というのは、本当に便利なのかと疑問ですが、納得できないわけではありません。前の発言では、鳥の翼を例にとりましたが、それ以外にも進化の途中のものでは役に立ちそうもないような例はないでしょうか? 卵生から胎生への進化の途中とか....。
その他の疑問もあるので、書かせて下さい。
・例えば、人間が橋を造ったり、エレベーターを作ったりする場合は、万が一のことを考えて、通常の使用では不必要と思われるような強度を持たせますよね。人間の脳にしても、骨格にしても、そのような安全率というか、脳でいえばキャパシティにかなり余裕があると思うのですが、進化論でそれを説明できるのでしょうか? 進化論だと、生き残りに必要最低限の安全率しか保証されないような気がするのですが....。(伝えたい意味が分かりますか? 説明がうまくありませんね。)
はじめまして、進化論を支持するクリスチャン・クハ72です。
鳥類の祖先となった爬虫類はトカゲのような4足歩行ではなく、
ティラノサウルスのような2足歩行していたようです。つまり前足は走るためではなかった。
その鳥類の祖先が木から木へと飛び移るときには少しでも翼に近い方が有利だったのでしょう。
そのため自然淘汰が進み現在の鳥の翼へと進化したと考えられます。
はじめまして。フィッツジェラルドといいます。
私は神の存在を信じています。今の考えは、有神論的進化論ということになるのでしょう。
私は勝ち負けを目的とした議論をしたいのではなく、私の考えに誤りがあれば、教えて頂きたいと思っています。自分の考えに固執するつもりはありません。
進化論に対して、いくつか疑問があるのですが、ご説明いただけると幸いです。あまりにも基本的な質問かもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。
・例えば、爬虫類の前足が進化して鳥の翼になったとするならば、その中間の前足は、走るのにも不都合であるし、飛ぶこともままならないのではないかと思います。そういった生物が適者生存の世界で生き残れるのでしょうか? それとも、前足から一気に翼にまで進化したのでしょうか?
私は皆さんのように、頭脳明晰ではありませんので、分かりやすくお答えいただけると嬉しいです。
やもさんへ
「問題提起」とおっしゃいますが、
> 科学論議が、いつもテクニカルな話ばかりして、うわべだけの話をしている
> ように思われるのならそれはやはり、進化論がわの責任になるとおもうぞ。
「責任」とか「罪」とか、やっぱり「八百屋に来てみたら魚が無かったと文句を言う、ただのわがままなお客」にしか見えません。
少なくとも、凡百な八百屋には理解できない注文なので、有効な問題提起にはなっていない。
> 私自身は科学で心を語ろうとする野心の持ち主
私も心の科学、とくに進化心理学には興味があります。
しかしやもさんのおっしゃる「心」は、主観の意味合いが強いようなので、既存の自然科学的な「心の科学」で扱うのは困難な問題のようですね。
私にはどうやったら主観を計れるのか全然思いつきませんが、具体的に、なにをどうやって検証したらいいのか、アイディアをお持ちということなのでしょうか?
もしそうであれば、そのアイディアを何らかの方法で発表されることがもっとも有効な問題提起になると思います。
> 私自身肉屋で野菜を売ってみたいと思う
期待しています。
科学の進歩ってコロンブスの卵がごろごろ・・・ってコロンブスの卵は転ばないか(^^;
To:舞さん
心脳同一説というのは、心的現象は脳神経系の過程(ニューロンの発火パターン等)と同一である、とする立場です。この立場を単純化すると熱力学の統計力学への還元で見られる「温度とは分子の平均運動エネルギー」と全く類比的な意味で「〜〜という心理状態(例えば怒り)は○○以下一連の神経の興奮状態である」を主張するということになります。この立場でも比較的単純なレベルの心理状態であれば問題点は表面化しないのですが、抽象的概念を含むような思考(例えば「三角形の内角の和は180度である」とか「メンデルの法則」とか)を対象にすると、どの個体でも全く同一のニューロンの発火パターンが対応しているかどうかは非常に疑問です。一方、心的状態を情報処理上の機能や状態と同一視すれば、心脳同一説のこの難点を回避することができます。このような心的状態を情報処理上の機能や状態と同一視する立場は機能主義と呼ばれるます。私の立場は機能主義に属します。機能主義では、心的状態はそれを実現する物理的基盤の如何にかかわらず定義されるので、心を持つものが蛋白質からできていてもシリコンからできていてもいいことになるので、人工知能の研究者の多くに支持されている立場です。生物間でニューロンと心の関係が多少異なっても、良いとする立場(舞さんもそうだと思いますが)は、心脳同一説ではなく機能主義に属することになります。
この機能主義における大きな難点の一つが感覚質(クオリア)問題で、「私のこの歯痛」とか「私の見ている赤さ」のような直接的な感覚の質的な同一性を、機能主義ではうまく扱うことができないのです。また感覚質と同様に「私の恋人への想い」のような極<私>的な心理現象の同一性を機能主義的に扱うことは(今のところ)全くといって良いほどうまく行かないのです。また、機能主義への反論として組み立てられた議論の一つがサールによる「中国語の部屋」で、中国語を全く解さない人間を部屋に閉じこめて「こういう記号列(漢字の列)が来たら別のしかじかの記号列を差し出せ」という対応表に従って応答させた場合には、「部屋」は中国語を理解して応答している様に見えるが、中の人物は中国語を理解していないとする議論です(古典的な人工知能は本物の知能でない、とする議論です)。
因みに櫻井美佐子さんのような立場は相互作用説と呼ばれています。意外に思われるかもしれませんがポパー(専門的な「心の哲学」を展開しているとは言い難いですが)はこれに近い立場のようです。それから、櫻井美佐子さんの書き込みには、「クオリア」という言葉がありましたので、機能主義者の私としては相当ヘビーな準備なしに本格的な論戦を挑むのは避けたいと考えているのです。
補足の補足の補足
補足を繰り返してよけいわかんないこといってますね。
×別に神にはむかおうと思って人類は科学をはじめたわけじゃないのですよということを補足します。
→別に神にはむかおうと思って人類は科学をはじめたわけじゃないのですよということも(科学は無信仰のなかから生まれたと思わうかもしれない創造科学の人に向かって)補足します。
それにしても、わかりづらいですね。
>たしか、ご自身の掲示板もお持ちで、あちらでは公開されてましたよね?
もしさしつかえなくれば、紹介してください>櫻井さん
興味わいてきました。
竹内さん
マサチューセッツ大学とはMITのことでしょうか。また、チム・ステアンズの綴りをおしえてください。できれば、大学名だけでなく、DepartmentかInstitution名もお願いします。検索に必要です。
お返事もせずすみません。
しかしながら教えていただいた情報が少なすぎてなんとも言いようがありません。
>>>私は「中心小体」が細胞の「統合体」であると認識しております。
>>>中心小体が「生命体」であることを証明する実験はすでになされているのですよ。
>>>只、その実験の重要性を多くの人々が認識していないだけなのです。
>>その中心小体が細胞の統合体だと言う認識、生命体だと言う実験について教えて欲しいのですが。
>「アメリカのマサチューセッツ大学のグリーンフィールド・スミス達とスタンフォード
>大学のチム・ステアンズ達のグループは、中心小体の複製が生細胞外で成り立つ
>実験方法(アッセイ法)の開発に成功した」という記事を科学新聞(1999年
>7月9日)で読みました。
手近に科学新聞はありませんので、その記事は未読です。
科学新聞社のページ( http://www.sci-news.co.jp/ )は見つけましたが、「今週の一面」以外の記事は載っていませんし、当該記事は「今週の一面」にはありませんでした。
記事の内容はわかりませんが、「中心小体の複製が生細胞外で成り立つ>実験方法(アッセイ法)の開発に成功した」というだけで、なぜ中心小体が生命体である証明なのか、どうして中心小体が細胞の統合体だと認識できるのかがさっぱりわかりません。
蛋白質も核酸も生細胞外で合成できまし、核酸(DNA,RNA)は複製もできます。しかしこれらは「生命体」ではありません。
記事の詳しい内容と、その実験方法の開発がなぜ中心小体が生命体であることの証明になるのか、またどのように中心小体が細胞の統合体であることを認識したのか、ツリーの方にでも投稿下さい。
>安賀須さん、ユリイカさん、他の方々 投稿者:舞 投稿日: 3月17日(土)02時41分12秒
>ふ〜、やはり「心」の定義の問題でつまづいてしまいますね。
>精神活動の中の、ある一側面を「心」とするのでしょうか。
上記の舞さんの質問に私なりに答えたいと思います。
私は原始地球の海に於いて「物質」から「生命」が誕生したと考えております。そして、
{あらゆる物質(エネルギー)の階層毎に「膜」があり、物質の属性はその「膜」にある}
と考えております。これら二つの認識に基づき「心」(知・情・意の総体)の成立基盤
は「膜」だと考えております。この「膜」が階層性を所持し、且つ、「統合化」された
段階で原初の「心」が誕生し、生命体の進化過程と並行し「心」の進化も結果として
なされたと推定しております。又、「記憶に関わる物質」もこの「膜」と関係があると
考えております。
私は「細胞」は生命体であり、多細胞生命体である個体は「生命体」の集合である。且つ、
階層毎に統合化されていると考えております。故に、我々「人間」の「心」は結果として
統合化された「心」なのだと認識しております。
ちょっと補足
ちょっと1011さんへの答え補足
人間は100パーセント客観的態度でいられることができるでしょうか?どんな科学的といわれる考え方であったってまったく関係のないとかんがえられそうな自分の経験などが自分の世界観を裏打ちしているわけで、客観的態度とは自分が思い込んでいるだけなのかもしれません。
でも、そこは科学は人間主義なのだと思います。つまり、たくさんの人に検証を自由にしてもらうことによって 人間を信用しているのだとおもいます。
どうせ人間が人間同士で確かめあっているものは神様から下賜されたものよりは当てにならん。
となるともうそれまでであるという話をしたかった
コペルニクスの話は蛇足だったのかもしれんと思い補足しました
別に神にはむかおうと思って人類は科学をはじめたわけじゃないのですよということを補足します。
ユリイカさんへ
>どうも虚無虚無してるのが解せませんね。
キョムキョムしているのはやはり学生のころ、なやんでた経験があるわけです
じぶんがたいしたもんじゃなくなる。
瞬間はあってべつに科学ではなくとも、会社で一生懸命がんばっていたらある日突然に無残にリストラされて、会社にとっていてもいなくてもいいという存在であると気づいてしまっったときや、戦後の日本人が味わった感覚などとまったく同じであって、
>虚無感=自己の存在への無力感から生み出されたもの』ともし定義するならば、科学の目標とは『自己を知り、他者を知ること』。
のような事をやはり考えて、離脱していったような気がするからです。
>で、私はやもさんとは逆に、科学の存在(っていうか進歩)とは、「虚無からの離脱に向けた人類の努力」だと思いますね。
とは逆じゃないはずで、そのままそう思っています。ちがうようにみえてるかな?
いましていることは、問題提起なのだ。
科学論議が、いつもテクニカルな話ばかりして、うわべだけの話をしている
ように思われるのならそれはやはり、進化論がわの責任になるとおもうぞ。
1011さんへ
でも、いまやコンビニで肉と野菜もうっています。私自身は科学で心を語ろうとする野心の持ち主あり、でも科学の限界も知っています。肉屋で野菜が買えたらいいのにと考えています。
創造科学者のかたがたが、科学の検証を経ない方法で、科学として発表されることは肉屋で野菜を売ろうとすることで起きる問題であることはわかっていますが、私自身肉屋で野菜を売ってみたいと思うわけで、そこのところは同じなので共感できます。
また、科学というものがある種の信仰心なしでやれるものかについては疑問だと思います。(そこのところが山野さんたちに突っ込まれるところですが)。
コペルニクスはそのころ流行の太陽神信仰を持っていたそうですから。
いましていることは、問題提起なのだ。
科学論議が、いつもテクニカルな話ばかりして、うわべだけの話をしている
ように思われるのならそれはやはり、進化論がわの責任になるとおもうぞ。
1011さんへ
でも、いまやコンビニで肉と野菜もうっています。私自身は科学で心を語ろうとする野心の持ち主あり、でも科学の限界も知っています。肉屋で野菜が買えたらいいのにと考えています。
創造科学者のかたがたが、科学の検証を経ない方法で、科学として発表されることは肉屋で野菜を売ろうとすることで起きる問題であることはわかっていますが、私自身肉屋で野菜を売ってみたいと思うわけで、そこのところは同じなので共感できます。
また、科学というものがある種の信仰心なしでやれるものかについては疑問だと思います。(そこのところが山野さんたちに突っ込まれるところですが)。
コペルニクスはそのころ流行の太陽神信仰を持っていたそうですから。
3月7日20時57分の<実験について>は見ていただけたでしょうか?
貴方の感想をお聞きしたいです。私はこの実験を知り、『生命体の「最小基本単位」は「細胞」
ではない』ということをより強く認識しました。
ユリイカさん。
>>あたしも物質(脳)が心と無関係だとは思わない。
>>両者は独立している実在だけど、密接な相互作用をしていると考えてます。。
>これを読ませてもらったとき、あれっと思いましたね。
>櫻井さんの言う「心はイデア界に存在する」理論でいけば、矛盾が。
イデア界にある心と、物質世界にある脳が、相互作用しているのだから、別に矛盾しないでしょ?
>「私」が生まれる前から「私」の心はイデア界にある?
>「私」が死んでも「私」の心はイデア界にある? ←あるんでしょうね。
あるあるあるぅ〜ッ。(厳密にはちょっと違うけど。後述。)
>で、どんなふうに?
>そろそろ、わかりやすくご指導くださいよ。お願いします。
わかりやすくねぇ…。難しい要求ね。ま、トライしてみるわ。
まず神がいるのね。その神のイデアの中にあなたのイデアがあるわけね。
あなたのイデアとは、あなたの設計図みたいなものね。
それは心と体の設計図よ、間違わないでね。
しかしこの設計図は、決定論ではないのよ。
あなたの体は物質でできていますから、不確定性原理により確率的に成長してゆく。
心も一緒。体と言う物資と連動しますからね。
まず、あなたが生まれると同時に、心の胎児も生まれるのね。そして体と共に相互作用して成長してゆく。
つまり、あなたがうまれる前からイデア界にあるあなたの心は、設計図(不確定要素を含む)としての心です。
そして、あなたが死んでからイデア界にあるあなたの心は、成長して自我を持った心です。
あなたが今日死ねば、あなたのその精神年齢(レベル)で、イデア界で生存しつづけるわけね。
このように、心は肉体を通して成長する。
だからあの世(イデア界)に行ったら急に仏様になちゃうという、日本的死生観は間違いだと思うわ。
恨みを持って死ねば、うらめしや〜って思ったままイデア界にいるのね。
安賀須若人さん。良くわかりました。
あたしは方程式とか言ったのは、一応わかりやすく説明するために希釈して使ったのです。
厳密に言い出すと、素人にはチンプンカンプンになっちゃうと思ったからね。今後気をつけるわ。
チューリングテストの件ですが、とにかくあたしは国語辞典にあるごく一般的な心の定義、
「知性、感情、意志の総称」というもので判断しています。
だから1歳児だって、それぞれ割り合いは違ってもこの3つがあるから、
チューリングテストに合格すると思うわ。
まず wadja さんの問いに対する答えはイエスです。
理由は前の書きこみ(安賀須さんへのメッセージ)に述べた通りです。
安賀須さんへ
>「〜〜という心理状態はヒトでは○○以下一連の神経の興奮状態だが、
>インコでは○○と相同な一連の神経ではなく××以下一連の神経の興奮
>状態に対応する」「ヒトでは○○以下一連の神経の興奮状態が〜〜とい
>う心理状態に対応するが、インコでは○○と相同な一連の神経の興奮状
>態は‥‥という心理状態に対応する」となるのではないかと
この辺は、「生き物によって多少仕組みは異なるけれども、心はニューロ
ンの働きによって生み出される」というふうに解釈され、「心脳同一論」
となんら違いを見出せないのですが。それとも「心脳同一論」というのは
なにか別な概念なのでしょうか。
暫くお休みをいただきました。掲示板に復帰させていただきますので宜しくお願いいたします。
このところ「心」の問題が議論されていますが、感想を述べたいと思います。
私の「心」のイメージは下記のとおりです。
「心」と記憶とは関係があり、記憶は「記憶に関わる物質」と関係がある。私はこの物質が
あると認識しておりますので、「心」の成立基盤は「記憶に関わる物質」だと推定しており
ます。そして、この物質の「階層性」と「生命体の階層性」とは関係があると考えておりま
す。
To:舞さん
誤)脳神経系の構成が大幅に異なっても、ヒトの「心」に似た情報処理が可能ではないだろう。
正)脳神経系の構成が大幅に異なっても、ヒトの「心」に似た情報処理が可能だろう。
です。申し訳ありません訂正いたします。
To:舞さん
この掲示板で、「心」を巡る哲学的論戦に参加しないと表明したのは私の方が先なので、「埋め難い溝」を作ってしまったのは私の方ですから、そのことについては謝罪します。もとの書き込み「物心二元論について」(投稿者:安賀須若人、投稿日:3月13日(火)15時47分04秒)では、私の考えの根拠や論証部を省略してますから、わかりにくいのは当然です。哲学的細部については突き詰めて考えていないし整理できていないので、概略しか示せないのですが、
まず、
1)脳神経系の情報処理は、サイバースペース上でシミュレートできるだろう。
2)脳神経系の情報処理を別の情報処理方式の上でエミュレートできるだろう。
という2点の予想から
3)脳神経系の構成が大幅に異なっても、ヒトの「心」に似た情報処理が可能ではないだろう。
という風に考えているのです。
生物進化にアナロジーを求めるなら、飛行能力は鳥、コウモリ、昆虫で異なる形態で獲得されていますが、「心」も異なる脳神経系のあり方の上に(=系統的に離れた生物で)独立に獲得されるものではないかと考えているのです。
そこで、心脳同一説(極端に単純化すると「〜〜という心理状態は○○以下一連の神経の興奮状態である」)には賛成できず、「〜〜という心理状態はヒトでは○○以下一連の神経の興奮状態だが、インコでは○○と相同な一連の神経ではなく××以下一連の神経の興奮状態に対応する」「ヒトでは○○以下一連の神経の興奮状態が〜〜という心理状態に対応するが、インコでは○○と相同な一連の神経の興奮状態は‥‥という心理状態に対応する」となるのではないかと、まぁ勝手に推測しているのです。
生物学的に考えるなら「心」の進化的説明というのは、至極まっとうな発想と思いますので、哲学の藪に突っ込むことなく考察してよろしいんじゃないでしょうか。
To:やもさん
実存哲学等(ハイデガーなど、私自身は決してお薦めしないものですが、、、)で「実存する」といわれる対象は、社会的に「心」(自我、人格)を認められている範囲とほぼ一致するし、やもさんもご指摘のように法律や倫理の分野の考え方とも良く合うようなので、「心」を考える切り口として考えてみました。私自身は、動物も「心」を持つとする立場ですが、そうでない人も多いので、そういう人でも納得できるような厳しい基準で「心」を考えても、全てというわけにはいかなくても動物に「心」を認めさせることができるのではないか、と考えているのです。それから「うそつけるやつが心を持つ」のではなくて、うそをつくことが可能になるためには「他者の心」を考えられないといけないのです。やもさんがご指摘のように、他の個体(人格)を識別して覚えたり、その属性(人格像)を持つということが「心」を考える上で大切であるとするなら、「互恵的利他行動」の進化と「心」の進化の間に密接な関係がありそうに思います。
>櫻井美佐子さん
名前を間違えてしまいましたね。申し訳ない。
>あたしも物質(脳)が心と無関係だとは思わない。
>両者は独立している実在だけど、密接な相互作用をしていると考えてます。
また時間のある時にでも、その相互作用のイメージや、根拠を教えていただけると幸甚。物質と物質ではないものがどうやって相互に作用するのか、頭の悪いwadjaはイメージできずにいます。
>やもさん
>うーむ、私は、虚無自身は科学的態度うまれのものだとおもいます。徹底徹尾の客
>観性を推し進めていけば、虚無になるのでしょう。
徹頭徹尾客観性を推し進めていくと、虚無もへったくれもなくなります。だって、虚無かどうかなんて主観的なものの見方ですから。ちがいます?問題は、客観性を重んじる科学を見たときにやもさんという主観がどう判断するか。
科学は虚無だとか人間の価値観をないがしろにする唯物論だという批判を聞く度に、求めるものと場所がが違うのではという疑念を抱きます。
>1011さん
>八百屋では野菜しか売ってません。魚が入り用な客は魚屋に行きましょう。
wadjaは、この表現気に入ってしまいました(笑)
>JA50さん
ご無沙汰です
>やもさんが桜井さんを物理やとされているのは、何か客観的な根拠を持たれている
>ためかなと思っただけの話です。
やもさんと櫻井さんが創造学校の掲示板で活躍されていた時に、櫻井さんご自身が物理が専門だと書かれていた気がします。たしか、ご自身の掲示板もお持ちで、あちらでは公開されてましたよね?
>舞さん
別に意識がニューロンの発火の集合でも、wadjaは全然平気です。心が物質とは全く異なる存在であって欲しいという願望は特にありません。ただ、刺激とそれに対する反応の連続が意識だとしたら、自分の内部で自我を一つの存在として感じられることが不思議なんです。舞さんはイメージできます?安須賀さんの考えでは、人工知能(所詮プログラム)を極めていくと、その人工知能が人間のように「自我」を持つことも可能だということになりそうですが、舞さんも同様にお考えでしょうか?
安賀須さんへ
>>どうして、情動の中心を心の生まれる場所とせずにあえて、知能や記憶をつかさどる新皮質に心をもとめるのかな?
>これは、私の書き込みに関連しているかなと思うので、ちょっと補足させていただきます。私達の日常で「心」が問題になるのは人間について考えるときですが、特に社会的に重要な問題になるのは行為の意図や目的について考えるときだと思われません?別の文脈で殺人事件におけるナイフの比喩がでていましたが、日常的な意味で行為の責任を考える上で責任主体に「心」がないとどうしようもないですよね?そういう点から「心」を考えると、他者に「心」を考えて、その意図を考慮できるところが、「心」問題の大きなポイントではないかと思います。
これはこれで、この考え方はありだと思います。社会的存在としての人の責任はいわゆる法的な人格としてとらえられ、例えば、猿は、人間社会に参加できるほどの人としての責任などはありえないですから、猿に法的な心(??人格??)は与えられません。その意味で言えば、子供も100パーセントの社会的存在ではありえません。ただ、もちろん、社会的に責任のおえない子供や障害者も法的には人権があるで良いと思います(あたりまえか)。法的存在といえば会社なども法人格という心?が認められています。これはこれの話で良いと思います。でも人社会での問題はこれはこれの話だと思います。
>動物行動学者の研究によれば「他者の心」を考えて、その裏をかくなどの駆け引きが出きるのは、ヒトだけでチンパンジーでも限定的レベルだそうですから(要するに大抵の動物は嘘を付けない)、その種の知性(他者の「心」を考える「心」)となると新皮質辺りが座になるのではないでしょうか?
やはりわかりません。うそつけるやつが心を持つでよいのだろうか?
知能は現実をシュミレーションできる機能がさせた話であり、つまりそうさせたものはただたんに、膨大なRAMを持つようになったぐらいの話(ここらはかなり勝手な推論)かもしれんとはおもいませんか?
そのシュミレータの結果に対してどのような気持ちをいだくかという機能のほうに心の座を設けるほうがやはり妥当じゃないのだろうか?
大体、自分の心の中にある他人像ぐらい当てにならんものはないはずで、そんなめんどっちい像ではなく、現場で気持ちをきめる現場主義の動物たちのやり方のほうが効率が良い場合だってあるとおもいます。他者の心を推し量って自分の心を決め、それに対してさらに心をきめるだののことはそりゃーそれだけの話じゃないだろうか?お互いのことにどう感動するかについてのほうが心の座じゃないのだろうか?
でも、心のもんだいにとって、自分を覚えてくれたり、自分像をもってくれるということがどんなに大切なことはわかります。でも、インコでも覚えてくれますよ。
ハムはだめですね。いくらやってもちっとも覚えてくれません。コイのほうがよほどかわいい。
安賀須さん
生来鈍いためか、安賀須さんとの間に認識について「埋
め難い」溝は感じないのです(というか、認識の差がなぜ
生じるのかがわからない、というのが正直なところかも)。
はた迷惑だったら申し訳ありません。
脳は遺伝的プログラムに基づいて形成されたニューロン
のネットワークです。ここに生後、毎日、起きている間(or
24時間とも言えるか?)絶え間無く、情報が五感を通じて
インプットされ、初めて機能するようになっていくと考えら
れます(回路の増強、廃止、つなぎ換え etcにより情報が
蓄えられ、インプットに対し適切なアウトプットをするように
なる)。単純な思考実験(?)ですが、生後に脳にまったく
情報をインプットしなかったら、心は成立しないのではない
かと思っています。逆に、このような装置を全く違う原理で
模倣し(例えば本能のようなものまで含めて)、情報をイン
プットしていったなら、いわゆる「心」が成立するのではな
いかと考えています。ただ、人間の場合はその装置は脳・
神経系そのものであるため、安賀須さんの
>私は心は脳の活動に還元されるとする心脳同一説には
>賛成していませんが、心的活動と脳との間に何らかの対応
>(決して一対一対応とは思わない)は成り立っているのだろ
>うと考えています。
これがわからなかったのです。そこで、例えば、進化によ
る「心」の獲得などについて話すことにより、考えるヒント
が得られるかな、と思った次第です。まあ、私の場合、哲
学的議論はできない、と表明してしまっているので、ここ
までということでしょうかね。
T8848さん
>
>で、虚無と言うのはわかりますが、なぜ虚無の「罪」なのでしょうか。
さむーいのはいやです。でも、
>人間なんて所詮は飯を糞にする機械
となるととたんに、勇気がでてくるから不思議です。
>でも科学の源は物事を知ろうとする人間の欲求ですからね。この人間らしさを支持したいものです。
罪な話ですよね。りんごなんか食っちゃったばっかりに
>さむーい考え方と言えば、運命論(予言や占も)なんかもそれが本当なら相当さむいものです。
DNA診断なんかはさむいですよね。
>#パンドラの箱にたった一つ残った不幸は「未来を知る力」(希望ではなく)。
でも、人間はあるテーマでしか世の中を把握できていないので、たとえ、未来が予測されたものになったとしても、その、未来は予測されたその限りの未来であって、そのあとには、いつでも、それぞれにとっての新たなる意味付けが待っているはずです。
>ちょっと思考実験:ゾンビ考
もし物を状態も含めて完璧に複製できるとして、生きている人間をコピーしたらそのコピーは生きているか。
生きているとは最終的にはなにか焦点のはっきりしたものにあたえられるものなんじゃないでしょうか?どうして神様や好きな人がいつも人間にとって、一人じゃなきゃいけないのかについての議論といっしょになってくると思います。(ちょっといってる意味わかりづらいですか?)
つまり、生きているためには、ぶれのない対象が必要になるとか。
>哲学の中から唯物論で取扱えるものだけが科学として独立したのでしょう。
科学とよばれるに、大切なものは、なんだか、科学っぽい言葉ではなく、ある種の手法を経たものということですね。
>くさい喩え話はよくわかりません
”一般”のみに真実はなし
という話です。いづれちゃんと説明したいと思います。
ところで、なんで、宗教のはなしっていつも、たとえ話がおおいいのだろうか?
マルチレスです。
To:櫻井美佐子さん
色んな論者とのやり取りの中で勢い余ってだとは思いますが、数理論理学や科学論にかなり詳しいはずの櫻井美佐子さんが、安易に物理学の方程式を「実験で証明」などと書かれていたりしたので、おやっと思ったのです。実験で方程式が「証明」できるなどというのは、通常の数学的な概念である「証明」概念ではなくて、「強い帰納主義」における「検証」の意味でないと通じないかと思います。一方で概念枠や理論概念によって「観測事実」が構成されているという話を、それもかなり社会的構成主義色の強い言い回しでされているので、「強い帰納主義」と両立できないのじゃないのかな?物理学(相対性理論etc.)では「強い帰納主義」であるが科学一般(進化生物学etc.)については「社会的構成主義」という両刀遣いなのかな?と疑問を持ったわけです。「強い帰納主義」と「社会的構成主義」は異なる科学論上のパラダイムなのに「科学」とか「事実」とかパラダイム間で異なる意味を持つ用語を区別して使い分けておられるようには見えないので「用語の混乱がある」と申し上げたのです。用語上の問題そのものではないですが、人工知能との対比で「心」を論ずるためにチュ−リング・テストを出してきておられるけれど、その論法だと1歳児のような言葉を解さない人間はチューリング・テストに通らないから幼児の「心」を否定することになりそうですが、死者の心云々しているのに3歳児くらいまでは「心」なしにしておくのか?等々疑問が多数生じるのは、立場が整理されていないからではないでしょうか。博識でインターディシプリナリーに考える櫻井美佐子さんが立場を整理できていないとしたら、主に用語の混乱に起因するところがあるだろうと見ているのです。
なおゲーデルの定理についてですが、「物理理論は、数学的体系としても自らの無矛盾性は証明できない」から、「物理理論は証明できる」という言い回しには問題があるよ、とする程度の軽いツッコミですので深く考えないで下さいね。
To:やもさん
> どうして、情動の中心を心の生まれる場所とせずにあえて、知能や記憶をつかさどる新皮質に心をもとめるのかな?
これは、私の書き込みに関連しているかなと思うので、ちょっと補足させていただきます。私達の日常で「心」が問題になるのは人間について考えるときですが、特に社会的に重要な問題になるのは行為の意図や目的について考えるときだと思われません?別の文脈で殺人事件におけるナイフの比喩がでていましたが、日常的な意味で行為の責任を考える上で責任主体に「心」がないとどうしようもないですよね?そういう点から「心」を考えると、他者に「心」を考えて、その意図を考慮できるところが、「心」問題の大きなポイントではないかと思います。動物行動学者の研究によれば「他者の心」を考えて、その裏をかくなどの駆け引きが出きるのは、ヒトだけでチンパンジーでも限定的レベルだそうですから(要するに大抵の動物は嘘を付けない)、その種の知性(他者の「心」を考える「心」)となると新皮質辺りが座になるのではないでしょうか?
To:舞さん
ご指摘のように私は、「心」の問題は生化学や分子生物学に還元する形では片づかないと考えています。というのは、私はニューロンの発火などの神経活動を完全に模した電気回路やコンピューター・シミュレーションが可能になれば、そこにも「心」(機械の「心」)があるとする立場だからです。神経生理学等が我々の精神活動の物質的基盤について多くの情報をもたらしてくれると思いますが、物質的に見て全く異なる系でも相同な現象を生じることが可能ならば、両者の物質的差異を越えた構造的な同一性が問題になります。すると「心」の問題は生命に関する物質科学の問題と言うより、抽象的な構造に関する数学的な問題に還元されてしまうと考えているからです。舞さんと私の間にあるこの認識の差は、現時点では単なる抽象論であるとともに埋めがたい溝のように思いますので、この辺で止めておきます。
To:ユリイカさん
まずお詫びです、私はポーの作品の一部は読んでますが、「ユリイカ」については存在は知っていても未読ですのでがっかりさせてご免なさい。さて、単細胞生物や多細胞生物の各細胞に「心」を認められるお考えは理解できましたが、それだと日常的な意味で使っている「心」という言葉の意味をだいぶ拡張しないといけなくありませんか?特に科学的な議論をしようと言う場合には、言葉の意味に公共性がないと議論がうまく行かなくなるので、御再考いただければ幸いです。
>T8848さん
>科学が虚無をもたらしたと言うこと(及びそれゆえ科学に否定的なこと)と、神がいなかったら虚しいということは違います。
たぶんその方は、科学(進化論に代表される)は神を否定するものととらえ、もし科学が正しければ神がいないことになり「虚しい」となっているのじゃないでしょうか。
もちろん、こんな考えは誤解以外の何ものでもない(と私には思える)。
こういう人たちは、LucifeRさんが言われていましたが、神がライナスの毛布になっているんだ。
>桜井さん、やもさん
物理やのこと。
私は桜井さんを「物理や」じゃないと言っているわけではありません。
それに決して個人攻撃のつもりもありません。
そういうことは、こういうBBSの世界ではどうでもいいことですし。
やもさんが桜井さんを物理やとされているのは、何か客観的な根拠を持たれているためかなと思っただけの話です。私は、やもさんと違い桜井さんが物理や(物理学の専門家という意味)に見えなかったもので。それも、何か客観的な根拠があってそう思えたというのじゃなく、単に印象です。
やもさんが「やはり、生半可ではなく物理を知っているようにみえました。」というのと同じく、単に「みえた」というだけの話です。
とにかく、BBSの世界では、こういうことはどうでもいいことですので、この話は終わりにしましょう。
もし、個人攻撃ととられたのなら、謝ります。
そういうつもりは、全くありません。
初めて投稿いたします。
やもさんへ
「科学のもたらした虚無の罪」などという言いかたは上記の例に似ています。
八百屋では野菜しか売ってません。魚が入り用な客は魚屋に行きましょう。
虚無主義というのは、客観的態度(というより、非当事者的態度というべきか)に徹した結果であるかもしれませんが、もしそれに罪が在るとしたら、その責めはそういう態度しかとらない人間が負うべきです。
しかし人間の知的営為は科学だけではありません。
人間の存在理由を探求するための活動としては、文学や芸術などがあるのではないでしょうか。
この例でいえば、創造科学は「『野菜を売ってる』と称して実は魚しか売ってない店」でしょうかね。
羊頭狗肉というか。
最近、やもさんがアツイですね。私としては根本的に嫌いではない、どちらかと言えば好きな考え方の人なんだけど、どうも虚無虚無してるのが解せませんね。私はあまり詩的な人間ではないので「科学によりひき起こる虚無感」と言われても、どうもピンと来なく、『あっ、もしかしたらサッカーの試合に負けたときのあの脱力感かも?』なんて思い当たる程度です。ま、やもさんほど人生経験がないからなのかもしれませんが。
「原爆で肉親を殺された人が科学の進歩を恨み、また悲しみの果て虚無感に陥ることがある」ともし誰かに言われれば(それがちょっと筋違いなものであろうとも)、それは何を差し置いても私は同意しますが、やもさんの文章を拝見した限りでは科学により人間の無力さを覚え……云々、ってなとこでしょ。
何事にも「功罪」はあります。そして、それは受け手の気持ちの持ちよう、だと思いますよ。
で、私はやもさんとは逆に、科学の存在(っていうか進歩)とは、「虚無からの離脱に向けた人類の努力」だと思いますね。なぜなら『虚無感=自己の存在への無力感から生み出されたもの』ともし定義するならば、科学の目標とは『自己を知り、他者を知ること』なのだから。
確かにそれは困難です。また、途中の挫折に終わってしまえば、やもさんの言う虚無感なのかもしれません。しかし、その方向に向かうという姿勢を諦めず持ちつづけている限り、科学はきっとその人にとって生き方さえ教えてくれる素晴らしいものになると私は思います。
ハロー! 安賀須若人さん。
仰る通り、私はポーの大ファンですよ。安賀須若人さんも読んでらっしゃるようで……それだけで嬉しく思うほどですよ。それはいいとして……
>それから、この季節だと花粉症でクシャミを繰り返す人を見掛けますが、個体としてはしなくて>もよいアレルギー反応を引き起こす免疫細胞に「心」があるとしたら、「この人でなしの免疫細>胞どもめ」とののしらないといけないように思いますので、私はそのような立場はとりません。
と書かれてましたが、それでは「自分本位」で考えすぎ! 確かに花粉症で苦しむ「自分」は『この人でなしの免疫細胞どもめ』と思いがちかもしれませんが、免疫細胞にしたら「自己」の住処である「自分=ご主人」を守るため(それが過剰防衛かもしれませんが)、せっせと頑張ってくれてるわけでしょ。けな気じゃないですか、免疫細胞。
Dear 櫻井さんへ……
>あたしも物質(脳)が心と無関係だとは思わない。
>両者は独立している実在だけど、密接な相互作用をしていると考えてます。。
これを読ませてもらったとき、あれっと思いましたね。櫻井さんの言う「心はイデア界に存在する」理論でいけば、矛盾が。
ちょっとご質問。
「私」が生まれる前から「私」の心はイデア界にある?
「私」が死んでも「私」の心はイデア界にある? ←あるんでしょうね。
で、どんなふうに?
そろそろ、わかりやすくご指導くださいよ。お願いします。
どうして、情動の中心を心の生まれる場所とせずにあえて、知能や記憶をつかさどる新皮質に心をもとめるのかな?
楽しかったり、悲しかったり、すっぱかったり、せつないのはより原始的といわれるぶぶんじゃないのかな?
やはり、高等生物にたいするエリート意識がそういった、心を持つのは高等動物からとさせるんやないの?
有色人種は野蛮でおよそ人間的やさしさからほど遠い
のような議論ににてるとおもうけど。
櫻井さんについては、やはり、生半可ではなく物理を知っているようにみえました。(高校レベルの物理の理解力の私にはでも、みなさん、物理の話だと、なにいってるかさっぱり・・・)
ともかく、やっぱ、個人攻撃はあんまりよくないですよ。殺伐としてそれこそ、虚無の掲示板になっちゃう。
ふ〜、やはり「心」の定義の問題でつまづいてしまいますね。
精神活動の中の、ある一側面を「心」とするのでしょうか。
例えば、「記憶」という精神活動(脳の機能と言うべきかしら?)
は、恐らく爬虫類より下がるのではないかと思います。ただ、そ
れは原始的になるほど、安賀須さんのいう「反射」に近いような、
「精神活動」というよりは単なる「(複数のニューロンが連関し
た)神経活動」というべきもののような形になっていくでしょう。
しかしながら、人間の「記憶」という精神活動も「神経の可塑性
にもとづく仕組み(具体的には説明しませんが)」で行われており、
その「パーツ」としては前述のような「神経活動」に帰結できる
のではないかと考えられています。つまり、原理は同じものなのに、
複雑になっていく過程で新たな機能を追加獲得したのか(神経→精神)、
それとも実は両者(「反射のような神経活動」と「人間の記憶のよ
うな、複雑な精神活動」)は連続しているのか? このことは、記
憶に限らず、いろいろな精神活動についてあてはまる問いだと思わ
れます。→例えば「情動」とかが考えやすい例かな。
それにしても、皆さん「心」を「単なるニューロンの活動にもと
づく脳の機能」と捉えることには抵抗があるようですね(安賀須
さんまで含めて)。でも、ニューロンって100億個以上あって、
1個のニューロンには平均10000個のシナプスがある(つまり
10000個の他のニューロンと相互作用している)、というこ
とになっていますから、その働きたるや、とてつもなく複雑です
よね。それでも、それ以外の何か、「摩訶不思議な何か」、を想定
しなければならないのでしょうか? 既知の物理法則に全くあては
まらない何かが、そう簡単に地球上に60億個もありふれて存在し
ているのでしょうか?
#結局櫻井さんは、私の問いに答えなかったね。答えられない
#んだね。
Wadjaさん
>虚無の罪は科学がもたらしたものだと、wadjaには思えません。進化論を知って「そうか、私の遺伝子は、原始の生命から、途切れることなく受け継がれてきたものなんだ」と感激するwadjaみたいな馬鹿もいれば、「それでは、人の命に価値なんて無くなる」と感じ、進化論は自殺や無差別殺人の原因だとする人もいる。考えてください。「過去に何が起きたか」を知ったところで、「いかに、生きていくべきか」という結論は、人によってまるで異なります。多様な結論は、多様な哲学や価値観(含む信仰)が主体的に下すもの。「過去に何が起きたか」を少しでも良く知ろうとするための手段に過ぎない科学に、原因はあるのでしょうか?「科学のもたらした虚無の罪」という表現は、哲学や価値観という犯人の責任を、科学という道具に全て押し付けようとする責任転嫁に思えます。殺人罪を裁く法廷で、犯人を差し置いて凶器のナイフが告訴されているようなものです。
・・・レスはここから
うーむ、私は、虚無自身は科学的態度うまれのものだとおもいます。徹底徹尾の客観性を推し進めていけば、虚無になるのでしょう。
ただ、虚無による、殺人の罪となるとそれこそ、ナイフに罪をかぶせてしまうようなことになりますね。
虚無によらなくても、たとえば、意味のあふれる明日への、はえある、栄光へのステップとしての殺人をヒトはしかねないわけですから、(生贄みたいなもの?)殺人の罪に関しては。
科学があふれる>>>虚無があふれる>>>>虚無殺人があふれる>>>>科学なんかないほうがまし。
という、図式は問題があるのだとおもいます。
ただ、現在の虚無殺人はの多くは、
虚無に耐えきれなかった自己の脆弱性が、ねじくれた自己顕示をともなって溢れ出したものだと思います。 (私たちは野菜みたいなもんかもしんない。でも、だからどうして、そのうちらを殺すの?という問いかけを、刑務所のさかきばら君にはききたい。)
つまり、虚無にたえきれんやつにどうする???
という問題をやはり聞きたい。
つまりは、「心」という「価値観」そのものにたいして、
脳の電気信号の組み合わせ
と、定義するからには、それなりの、予想される虚無に対して、勝算のある答えが出てくるつもりでいるのかな?
ということは問題にしたいと思います。
あと、100年後、
「私の遠足の記憶は脳内のxxxという場所にあり、そこを想起するときxxxの部位がxxxの濃度のドパーミンで興奮した。」
となることは十分ありえる。
その時の、私たちはどのように道徳を作ればいいのだろう?
そして、ほんとにそれでいいの??
あえて、この場に、ライナスの毛布を持ち込みたいわけはこういうわけです。
下の方で城さんが紹介されている本の著者の別の本(顔の科学)が手許にありましたので、その抜粋をツリーの方に投稿しました。(管理人様、引用ルール上問題があると判断されるなら削除下さい)
この本はいわゆるトンデモ本ではないのですが、相当に偏った、誤解にもとづいた、もしかしたら個人的に何かあったのではないかと思われるほど、ダーウィニズムや現在の生物学・医学への不満があるようです。
で、読んだ時の私の印象は「つまらない、買うんじゃなかった」
JA50さん
もし科学が人間に虚無をもたらしたのだったら、「科学のもたらした虚無の不幸」と言った方が適切ではないかと思います。
科学が虚無をもたらしたと言うこと(及びそれゆえ科学に否定的なこと)と、神がいなかったら虚しいということは違います。
別にキリスト教に限らず、また神に限らず、完全な唯物論で全て(感情や意志も)が説明できるのだったら、人生は虚しいと言う人は多いんじゃないですか。
もし科学的に何でも説明できるようになったら、私にはそれはそれで大変楽しみなことなんですが、同時につまらなくなると思いますね。ある意味決定論だから。
ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。