歴史に由来する不完全性

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生物の体の構造には優れたデザイナーがデザインしたとは考えにくいような不完全性が存在する。そうした不完全性は突然変異と自然淘汰によって進化してきた歴史に由来するものであり、進化の証拠の一つである。

私が研修した病院は、本館と別館にそれぞれ病棟があり、2つの病棟で患者を診なければなりませんでした。本館から別館に行くには2階まで降りて小児科の病棟を通って行くか、あるいは一度建物の外に出る必要があります。ちょっとした用事でも別館に呼ばれれば、てくてく歩いていかないといけないし、検査の機械をえんえんと押していかなければならないこともありました。看護婦の方もたいへんで、用事があるたびに主治医がどちらの病棟にいるか探さないといけません。教授回診のときなどは、ぞろぞろと小児科の病棟を行列が通ります。小児科にとっても迷惑だったでしょう。

非効率であること、この上もありません。なぜこんなことになったのでしょうか?建物を建てるときに、わざわざ2つの病棟を離してデザインしたとすれば、そのデザイナーは無能です。もちろん、この病院はもともとそのようなデザインではありませんでした。初めは本館だけだったのですが、手狭になったため、新しく別館を増築したのです。建物を一から作り直すとしたら、もっと気の利いたデザインが可能だったのですが、すでにある本館をベースに増築したために、このような不完全なデザインにせざるを得なかったのです。

建て増しした建物に見られるような不完全なデザインは歴史に由来するものです。建物そのものを見なくても、その構造を見れば、かつて本館だけがあり、後に別館ができた歴史を推定できます。例の病院を見て、優れたデザイナーによる作品だと誰かが主張したのなら、その人物はよほどの愚か者でしょう。このような歴史に由来する不完全性は、生物の構造にも見ることができます。

進化論によれば、生物は優れたデザイナーがデザインしたものではなく、歴史をもっています。生物がもつ歴史に由来する不完全性の例として、古生物学者のグールドがあげたパンダの親指は有名です。パンダは両手で竹の茎を持ち、屈伸自在のように見える”親指”とその他の指との間に茎を通して葉をしごくようにしますが、実はその”親指”は親指ではなく、異常に大きくなった手首の骨の一つ(橈骨種子骨)なのです。そのため、外見上はパンダは6本の指を持っているように見えます。

エンジニアの考え出す最良の考案も、歴史というものにはかなわない。パンダの真の親指は他の役割を振り当てられて別の機能をもつように特殊化しすぎていたから、物をつかめるような対向可能な指に変わることはできなくなっていた。それでパンダは手持ちの部品を使わねばならず、拡大した手首の骨で間にあわせるという、少々不体裁でもひとまず役に立つ解決方法で満足しなければならない始末になった。種子骨親指は技術者たちの競技で賞をとるようなものではない。マイケル・ギゼリンのことばを借りれば、それは間に合わせの工夫であって、すてきな新発明ではない。だがそれは立派に仕事をしているし、上記のような思いもよらない基盤から成り立ってものだからこそ、われわれの想像をいっそうかきたてるのだ。(グールド 1986 P29)

もしパンダが進化したのではなく、なんらかの知性がパンダをデザインしたとするならば、いったいなんだってこのような奇妙な方法を使ったのでしょうか。もっと気の利いたデザインが可能だったでしょうに。ちなみにパンダの後ろ足でも種子骨が大きくなっていますが、なんの役にも立っていないようです。進化論では前足の種子骨の増大に伴う変化として説明できますが、創造論ではいったいどのような説明が可能なのでしょうか。

パンダの親指に限らず、歴史に由来する不完全性は生物の構造のいたるところで発見できます。脊椎動物の目の網膜では、光を感じる視細胞はもっとも内側に配置されていて、目に入ってきた光は配線のように絡み合った軸索を通りぬけないと視細胞にたどり着きません。なぜ創造主は、もっとも光に近い場所に視細胞を配置しなかったのでしょうか。例えば、タコの目はそのような設計になっています。なぜ脊椎動物の目も、タコの目のように気の利いた設計にしなかったのでしょうか。

創造論者は生物間の類似性を、見方によっては創造の証拠にもとれると主張します。同じデザイナーが造ったから似ているとも言えるというわけです。さて、脊椎動物の目とタコの目は、明らかに違っていますが、違うデザイナーが造ったとでも言うのでしょうか。類似性だけでなく、類似性に見られる階層状のパターンが進化の証拠となることを創造論者はまったく理解できていないのでしょう。脊椎動物の目がお互いに似ているのは共通の祖先に由来するからであって、デザイナーが同じだからではありません。タコの目は脊椎動物とは異なった起源をもち、それゆえに違った構造をもつのです。

痕跡器官と呼ばれるものもあります。例えば、ダーウィンは哺乳類の雄の乳首、クジラの大腿骨、ヘビの後ろ足の骨を例にあげています。創造論者はそのような痕跡器官が実はなんらかの役に立つと主張しますが、具体的に何の役に立つのかはあまり教えてくれません。たまに教えてくれることもありますが、その説明は説明になっていません。例えば、反進化論者のリフキンは、こう述べています。

盲腸は、化膿防止の重要な役目をすると今では結論が出ているが、進化論者は人に盲腸がなくても困らないから盲腸は痕跡器官だという。しかし、人間は腕や足がなくても生きていけることができるが、それらが不必要だとか痕跡器官だという人はまったくいない。(リフキン 1983 P146)

腕や足がなくても生きていけますが、たいへん不便でしょう。リフキン氏は腕や足がなくても困らないのでしょうか。私自身は、虫垂(文脈からリフキン氏のいう盲腸とは虫垂のことであろう)がなくても困りませんが、腕がないとたいへん困ります。「なくても困らない」と「なくても生きていける」の違いを区別しないリフキン氏の論理は破綻しています。また、虫垂は免疫系になんらかの関与はしていそうですが、重要な役目をするという話は聞いたことがありません。その代わり、しばしば化膿防止の重要な役目をするはずの虫垂自身が化膿して、新米外科医のかっこうの練習台になったりします。きっと、外科医養成のために虫垂は創造されたのでしょう。ありがたいことです。

まだまだ例をあげることができますが、これぐらいにしましょう。要は、地球上の生き物にみられる不完全性を創造論は説明できないということです。創造論者にできることは、神の意図は人間にはわからないものだと証拠から目をそらすか、神はあたかも進化したかのように生物を創造したという反証不可能な説に逃げるか、神から離れたため不完全になったなどという説明になっていない説明をするか、その位でしょう。

歴史に由来する不完全性は、たくさんある進化の証拠の一つです。地球上の生物を見て全能の神が造ったと言うのは、最初に例示した病院を見て優れたデザイナーの作品だと言うようなものです。

「進化の証拠は何一つない」

という創造論者の主張の誤りを指摘するには、これで十分でしょう。たくさんある進化の証拠の一つをここであげました。そのような主張は次のように言いかえられるべきです。

「私は進化についてまったく勉強していないので、進化の証拠を何一つ知らない」


参考文献

スティーブン・J・グールド 1986. パンダの親指 早川書房
リチャード・ドーキンス 1993. ブラインド・ウォッチメイカー 早川書房
宇佐神正海 1993. 崩壊する進化論 マルコーシュ・パブリケーション
チャールズ・ダーウィン著 リチャード・リーキー編 1997.新版図説 種の起源 東京書籍
ジェレミー・リフキン 1983. エントロピーの法則(II) 祥伝社
ジョージ・ウィリアムズ 1998. 生物はなぜ進化するか 草思社
ものみの塔聖書冊子協会 1985. 生命-どのように存在するようになったか 進化か、それとも創造か

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2000/02/13
2005/08/27最終改訂