進化論と創造論についての掲示板ログ357

2006年05月20日〜2006年05月24日
このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。いくつかの書名にアマゾンのアソシエイトのリンクを張らせてもらいました。
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メビウスさんへ  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2006年05月24日21時08分

では、ちゃんと返信しましょう。

メビウスさんの主張は、「ダーウィンは、生物間相互作用に比べて物理的環境を軽視していたが、フィンチの例などを見ると物理的環境のほうが重要である」ということですね。

ここで気をつけなければならないのは、「重要」と言うときには「何にとって重要か」をちゃんと考えなければならないということです。もちろん「進化にとって」だと思われるかもしれませんが、この場合、もっと細分化する必要があります。
具体的には進化(ここでは、適応進化のみを考え、中立進化は除きます)の「きっかけ」「連鎖」「動因」「結果」の4つを考える必要があるでしょう。この3つは密接に結び付いてはいますが、別個のものです。

まず、メビウスさんが挙げられたフィンチの例ですが、これは物理的環境変化が「きっかけ」として重要だということを明白に示しています。直接のきっかけは種子の減少という生物的変化ですが、さらにそのもとをたどれば気候の変化であり、生物的環境はそれに付随して変化したにすぎません。
物理的環境は地球の気まぐれで変化しますが、生物的環境は、物理的環境が一定であれば安定しているのが一般的でしょうから、変化のきっかけになることは少ないでしょう(ただし、その安定を保っているのも生物間の競争であるというミケさんの指摘にも留意)。

ここで、同じ資源を競争する生物間の関係と、そうでない生物間の関係を区別したほうがよさそうです。

上に述べた、種子の減少は、競争しない生物からの作用です。最初の「きっかけ」後の「連鎖」反応として、このような作用はある程度重要でしょう(僕の5月23日(火)22時54分1秒のレスはこれ)。上に述べたように、最終的にフィンチに淘汰圧をかけたのは、水不足ではなくて種子不足だったのですから。

そして僕が5月22日(月)23時36分35秒のレスで書いたのは、「動因」としては競争する生物的環境が重要であるということです。
物理的環境変化(及びそこから連鎖した生物的環境の変化)そのものがある遺伝子型の個体をほとんど殺してしまう、というような事態はそれほどありません。もちろん全くのゼロではなく、その場合は物理的環境そのものによって遺伝子頻度が変化したわけなので、物理的環境が動因となったということになります。
ですが普通は、物理的環境の変化は、最大の適応度をもたらす遺伝子型を変化させるだけです。今まではA型が最適であったのに、環境変化でB型の方が最適になる、というような。個体数が際限なく増えられるのであれば、A型だって消え去りはしません。あるいはもっと不利なC型、D型だって、致死的でなければ、突然変異で供給されるがままに増えて(頻度ではなく絶対数が)いくでしょう。
ですが、資源の量は限られているので、同じ資源を利用する生物集団の個体数には限度があり、ここで生存闘争が生じます。生存闘争によって、競争さえなければ生きていくだけの能力があったはずのA型は消え去り、B型のみになります。生物間の競争が、「動因」として働くわけです。
ダーウィンが生物間関係を特に重視しているように読めるとしたら、この部分でしょう。

そして、「結果」です。進化の方向とその結果には、物理的環境と生物的環境の両方が明らかに重要です。ミケさんの挙げたランとガは、生物的環境によって進化の結果が決まった例でしょう。逆に例えばマンモスの毛皮は、寒さという物理的環境によって決まったのでしょう。

まとめると、進化と一口に言ってもいろんな側面があって、進化にとって何を大事と思うかは、どの側面を強調するか次第だということですね。長々と書いたわりには、あまりにも穏当な結論ですが。


深みへ…  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月24日17時13分

To diamonds8888xさん

さらに深みへ嵌ることになるな…と思いつつ、ご紹介のページを読みました。
なるほど、
「形態と進化」(http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/insei/SALOON/OKU/OKU.HTM)
は、読みやすく、なおかつ面白いですね。どこが面白いかというと…

--------------------------------------------------------------
オサムシ亜属の種や亜種はミトコンドリアDNAに基づく系統樹ではバラバラに出現し、形態の類似と系統の近縁さは全く相関しない。この分子系統樹では同じ地域に住む別種は系統が近く、離れた地域に住む同種は系統が遠いことを示す。これはオサムシの形態を支配する複数の遺伝子を発現させる上位遺伝子が様々な地域で独立に同様の変異を起こした結果、同じ形態へ平行進化が起こったことによるという。
--------------------------------------------------------------

の部分でした。
あるイキモノに対して「近くに住む別種」は近縁であり、「遠くに住む同種」が、遠縁である、という観測事実があることでしょうか。
進化の収斂というと、「盲目の時計職人」で紹介されているように、生息環境や生活形態に対応する形で、まったく別々のイキモノがそっくりの形態を持つことばかり想定していましたが、これが発生過程だとか変異の飽和によって「取り得る形態の制限」がかかることにより、収斂するのだとしたら…私の持つ「進化観」も、かなり変わることになります。
#この点、素人ゆえの誤読をしていないか心配ではあります。

もう少し(間違いであるかも知れないことを認識しつつ)想像を膨らませると…
「生物の系統は、ある程度『決定論的に』定まることがある』
ということであり、それは、
「遺伝子および発生過程の制限によって対応する」
ということでしょうか。

これは、ドーキンスも同様のことを示唆しているように思いますが、オサムシのケースはニュアンスが大きく違うように感じました。こうした分野でさらに発展があると、生物相全体に対する進化のイメージも、一新されていくかも知れません。
#ちなみに、理性的な「創造」のイメージには味方するかも知れない。


RE:変異の飽和  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月24日 5時28分

>「原生生物における種の実在性について」
>http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/JSEP2003/text.html
>は、特に面白かったです。

 よく読むとすごいことが示唆されていますね。ゾウリムシみたいに高等な生物でも系統樹が網の目状かも知れないというのですから。もしかして全てのゾウリムシは単一種とか。
http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/JSEP2003/jpg/07.jpg
http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/JSEP2003/jpg/19.jpg

 でも、犬みたいに多様な形態でも単一種と言えるなら、ゾウリムシ程度の形態変異では単一種でも不思議はないのかも知れません。実はこのような収斂進化に関しては、大澤省三らによるオサムシの研究で似たようなことが提起されています。私は、大澤省三らの結論付けを今ひとつ理解していないのですが。
http://www.nig.ac.jp/labs/AR99ja/kinen/kinen-2-4.html
http://www.brh.co.jp/experience/seimeisi/28/ss_2.html
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/insei/SALOON/OKU/OKU.HTM

 3番目のサイトは進化論解説サイトとしてもなかなかよさそうなのでじっくり読んでみようと思ってます。オサムシの研究の詳細は次の本が良いのでしょうね。読んでませんけど。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=997564046X

 ただゾウリムシの接合型の場合は生殖隔離にも効いてくるので、そうなると定義上別種のものの系統樹が網の目に、ということにもなってきます。点突然変異による生殖隔離である日突然に別種が誕生するというシナリオも出てきますし。


人文科学は何%  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月24日 5時26分

>>科学哲学者とか科学評論家という言葉をどんな人達という意味でおっしゃっているのかよくわからないので何とも言えませんが>>
>
>竹内薫、吉永良正など。

 評価や解説の仕事はしているが研究者としての業績は挙げていないという意味でしょうか? それだとラマルクには当てはまらないように思えますが。

>引用文から察せられるのは、ラマルクはもはや生物の変化、あるいは進化の仕組みについて最終的な「正解」を得たという自己完結的な態度です。そして同じ主題ではもう書かないと言っています。こういうのを反証不可能っていうのではないでしょうか。だからこれは自然科学100%の本ではなく、人文科学が幾分混じっていると評価せざるを得ません。

 私は単なる自信の表明と受け取りましたよ。今から見ればその自信の裏付けは確固たるものとは言えませんが。本人の自信はともかく、ラマルクの「最終的な「正解」を得た」という考えは反証可能だし、反証されちゃいました。
 動物哲学では生物界のみならず全宇宙の階層構造を解き明かすのだという思想がちらほらしていて、そのあたりは人文科学が幾分混じっていると言えるかも知れません。でもそれを言うと、ニュートンやアインシュタインの仕事に「神は宇宙を単純に創られたに違いない」という思いこみがちらほらすることだって、人文科学が幾分混じっていると言えますしね。


じゃ、色々ありがとう  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月24日 4時35分

物質的変化が見えなければ(証明できなければ)、意味がない
と言うことですね。
では、今後地球がどうなるか楽しみですね。


Re:ゲンドーリョク  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月24日 2時16分

To ミケさん
(ていうか、寝しなにここを覗いてしまった我が身を悔いつつ…)

>まず注意して欲しいのは、「効率的になる」という意味合いがなくても進化と呼びます。

ご指摘の通りですね。私の認識が甘かったです。
上記を書くときも「ある環境に対して」を頭につけるか迷ったのですが、もっと抜け落ちていた項目がありました。ありがとうございます。
#できるだけ簡潔に書こうとしても、含ませる「べき」事象の複雑さを省くわけにはいかないってことなんだろうなぁ。

しかし、ホントに『ダヴィンチコード』見に行ったんだろうか…>誰か。
原作なら私も読んだが映画は未見だ。明後日あたり見に行けたらいいなぁ…。
#ちなみに「謎」うんぬんより、女性崇拝うんぬんについての考察のほうが、読書としては面白かったです。


マルチレス:進化の原動力  投稿者:ミケ 投稿日: 2006年05月24日 1時59分

>多くの「進化を誤解しているひとびと」にありがちな現象ですが、生物学的にいう進化は、必ずしも「機能が増えていく」ものではありません。目が縮小するなど、不要な機能を削除してしまうことも、その生物がより「効率的になる」という意味合いにおいては立派な「進化」となります。
(大文字ナン さん)

まず注意して欲しいのは、「効率的になる」という意味合いがなくても進化と呼びます。
集団サイズが小さいと中立的な変化だけでなく、生存上不利な形質さえ固定することがあり得ます(遺伝的浮動)。
これも立派な進化。
さらに、「目の退化」について別の視点をば。
この掲示板では『暗いところでは目がないほうが適応的であるから目が退化する』ということがしばしば言われますが、
有利・不利だけでなく、中立・ほぼ中立という概念が加わったことで別の考え方もできます。
・目は多くの遺伝子により成り立っている。
・それらの遺伝子に不利な(機能を失うような)突然変異が起こると目は対抗していく。
・しかしそのような突然変異は自然選択により常に取り除かれ続けている。
・暗闇ではそうした自然選択が働かない。(見えても見えなくても一緒)
・機能を失う突然変異は、機能を向上させる突然変異よりも遥かに多い。

集団サイズが十分に大きい場合は遺伝的浮動よりも自然選択の寄与が大きいので“ほんのわずか”な有利度の違いが効いてくるのですが、ある程度小さな集団だとかなり有利度が違わない限りは遺伝的浮動の影響を強く受けてしまうのでむにゃむにゃ。。。
。。。ということを最近耳にしました。


>しかし、ある環境に適応した生物集団には安定化淘汰が働いて平均から極端にかけ離れた個体を排除するようになります。いずれ外的(非生物的、物的)環境が変化した時に、改めて生物変化の引き金が引かれ生存闘争が激しくなります。
(メビウス さん)

分かっているかもしれませんが一応フォローしておきますね。
安定化淘汰とは、生存闘争がない状態ではありません。
安定化淘汰がかかっている状態とは
生存闘争により、平均から外れた個体が常に淘汰され続けている状態に他なりません。
そしてそれは、場合によってはとても強い生存闘争であるかもしれませんので注意が必要です。


>しかしダーウィンは、「種の起源」全体を通して、外的環境よりも生物間の相互関係、生存闘争を圧倒的に重視していました。これはダーウィンの間違い、もしくは今のところ証拠は極めて乏しいです。
(メビウス さん)

どちらが重要か、はとりあえず置いといて、
『生物間の相互作用で進化した』と考えられる生物は実在します。
例えば、長い『距』を持つラン(Angraecum sesquipedale)の標本を見たダーウィンが、
このランから蜜を吸うなが〜い口を持ったガの存在を、それが発見されるウン十年も前に予言したってのは有名な話。


kitarowさん  投稿者:いらはい 投稿日: 2006年05月24日 1時01分

ダーウィン的な進化の結果、人類が皆オーラが見えるようになるなんて、ずいぶん救いがないですね。
オーラの見えない、我々大多数の人間はどうがんばっても
死んだり結婚できなかったり子供ができても生き残らない可能性が高いってことでしょう?


よう さん宛て、再度  投稿者:ミケ 投稿日: 2006年05月24日 0時03分

昨夜の文章だとまとまりが悪く、自分で気に入らないのでもう一度。
まあ単に接続詞があるかないかの問題なんだけど。

>種を超えて、異なる種が「共通の祖先を持つ」としなければ何の意味も無いのだ。時間の浪費は止めたまえ。

・『種を越える変化』というものを想定するのは本来はナンセンス。なぜなら、『これくらい違っていれば別種、これくらいまでなら同種』という線引きが厳密にはできないから。

・とはいえ、広く使われている種の定義(生物学的種概念)を適用する場合、『種を越える変化』は実際に観察されている。


上記二点、どちらの視点から考えても、
>異なる種が「共通の祖先を持つ」としなければ何の意味も無いのだ。
という批判は何の意味もありません。

なお、質問してくだされば
・『種を越える変化』なんて言葉が幻想だと言い切れるくらい、種の境界が曖昧である例
・異なる種になった例
どちらについても第三掲示板に提示いたします。


再度:ひも理論との関係は?  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2006年05月23日23時17分

>すまんUFOとは関係ありません。
>貼る場所を訂正する必要あり。

それはわかっとる。
んで、脳みその働きとひも理論の関係は?


>見たい見たいと想像すると、見えないものが見えてくるという内容なのでしょうか?

MJ12については、そんな生暖かい話じゃなく、
「うそつくならもっと上手についてはどうか」
と言うくらいのツッコミじゃな。

>又、知的生命体は地球だけと考えているのでしょうか?

個人的な見解じゃが
この広い宇宙に人間だけが知的生命体として存在していると考えるのは無理があるとおもうな。

しかし、人間以外の知的生命体が地球に来ているという事とはまったく別問題じゃな。

インド人が存在していることは、間違いないが、だからといってわしの家にインド人が来訪しているとは限らない。


あれ?  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2006年05月23日22時54分

>しかし、ある環境に適応した生物集団には安定化淘汰が働いて平均から極端にかけ離れた個体を排除するようになります。いずれ外的(非生物的、物的)環境が変化した時に、改めて生物変化の引き金が引かれ生存闘争が激しくなります。
>「フィンチの嘴」でその様子が描かれているのにもかかわらず、観察事実を無視して仮定によって反論する人がいるのです。

えっと、そんな人います?具体的に、誰のどの言葉か教えてください。

付け加えるとしたら、「非生物的環境の変化⇒生物Aの進化(生物Bにとっての生物的環境の変化)⇒生物Bの変化」という連鎖的パターンも忘れてはいけないよ、ということぐらいですかね。
生物的環境は一定の非生物環境の下では安定するのが普通なので、その状態からの変化のきっかけとなるのは物理的変化なのが普通でしょうね。まったく異議はありません。完全に正統派ダーウィン理論の見解だと思いますが・・・?


とりあえづ全般  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月23日14時41分

To kitarowさん

いくつか絞り込んで話しますか。
まず、この掲示板は「科学系」であり「議論の場」として知られています。ですから、kitarowさんの主張する「進化」だとか「オーラ」というテーマは、ここで扱う以上は議論の対象となります。無論、その内容は徹底的に疑われ、論拠のない場合は完膚なきところまで叩かれます。
ですので、もしもkitarowさんがそれを知らず、ご自身の「信仰」を広めようとここに来たのでしたら、場違いですから早々に退場されることをお勧めします。しかし、kitarowさんの考えが「自然科学で扱うべきテーマ」だ、ということでしたら、今後は容赦のない検証にさらされることになります。

次に「オーラ」について。
口語の「お話(特に根拠のない適当な雑談)」の中でなら、私もオーラという言葉を使うことがあります。「あいつってオーラ出ているよね」などですね。しかし、私がオーラという言葉を使うとき、それは科学的な意味においてではありません。
たとえば私は職業的に写真や文字を大量に扱います。そのとき、大量に見ているがゆえに、他人にはなかなか「見えにくい」情報を瞬時に見つけること「が」あります。たとえば平行がズレているだとか、露出がおかしいだとか、色に不具合があることなどを、即座に見分けることができます。これは職業的に当たり前な能力なのですが、それを知らないひとにとっては一種の超能力に見えるかも知れません。
視覚に優れていれば、他人には見えにくい光や影が見えるでしょう。聴覚に優れていれば、聞こえにくい音が聞こえるでしょう。あるいは、総合的に高い集中力を発揮できるひとは、なんらかの変化に常に敏感であることも道理と思われます。そしてこれらは「鋭敏な感受性」として、オーラという概念なしに説明がつくものです。

kitarowさんの主張する「教師が嘘を見抜いた現象」なども、オーラという概念なしにまったく科学的に説明可能です。そのひとは、単に相手の表情や声のトーン、瞳孔の開き具合、毛穴の緊張度など、十分に鋭敏な感受性を持っていれば観察可能な事象を認識していて、しかし自分がそうしたものを認識しているという自覚がないまま、オーラという概念に「逃げている」可能性が低くありません。
(あるいは単に、作り話である、可能性も低くありません)
テレビで紹介された、だとか、科学的な検証を踏んでいない書籍に出てくる、だとか、みんなが見えるというから見える、などという主張に、なんら信憑性はないのです。

今はこれくらいにしておきますが、オーラについてのkitarowさんの主張は、極めて信憑性に乏しく、説得力がない「お話」です。今後さらに掘り下げるのならば、さらに多方面からの批判にさらされることになることをご自覚ください。

さて、次は「進化」です。
多くの「進化を誤解しているひとびと」にありがちな現象ですが、生物学的にいう進化は、必ずしも「機能が増えていく」ものではありません。目が縮小するなど、不要な機能を削除してしまうことも、その生物がより「効率的になる」という意味合いにおいては立派な「進化」となります。
>もし、われわれが次の発展段階に進むとしたら
という問いかけは、生物学的には無意味なものです。それは「ニンゲンの考える希望」に過ぎません。今後、バイオテクノロジーの発展によって、ニンゲンが自ら遺伝子をデザインするような現実が訪れるかも知れませんが、それは「オーラを見る」以前に、遺伝病の克服や障害の予防などという方向に作用するであろうことは十分に予測がつきます。なぜなら、そっちのほうが「遥かに切実な問題」だからです。
進化とは、希望的観測のことでも発展のことでもありません。単に、生物が「変化していく」ということなのです。この点に誤解を抱いたまま、今の主張を続けられても、それが科学的予測であると認められることは「ほぼ」あり得ないでしょう。

最後になりますが、私たちはkitarowさんが主張するようなニューエイジ的予言、終末メッセージなどを、これまで数限りなく見聞しています。おそらく、その知識はkitarowさんが思う以上に膨大なもので、kitarowさんとまったく同じ予言を、kitarowさんが行っているものよりも詳細に、少しばかり説得力を高めて展開することさえ可能です。正直申し上げて、その手の主張には「慣れて」いるのです。
それが信仰であるなら、私はこれ以上の批判をしません。しかし、この場でやり取りを続ける限り、kitarowさんの主張は議論の対象となります。今一度、考慮してみてください。


長いので誤字があればお許しを  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月23日13時44分

>「自分の感情や何気ない考えを隠すことは不可能になります。」という着想をどこから持ってきたのでしょうか?
マリアメッセージと書いたつもりなんですがーーー。

でも今回はエドガーケーシー我が信ずることから
私は、オーラに関連づけないで、人間を見るということは考えられないことでした。私の
友人や親しい人が、時の経過とともに病気や、落胆や、愛情や、満足などにより刻々とその色
の移り変わるのを見てきました。私にとってオーラは魂の風向計なのです。それは運命という
風がどうような方向に吹いているかを示しているのです。
多くの人がオーラを見ることができます。多くの人が私と同じような経験をしていますが、
それが特別なものだということを長い間知らないでいるだけです。

 人のオーラは、そのことを非常に多く語っています。オーラを見ることのできる人はごく僅
かで、しかもそれが霊的な重要性をもっているということを知ってから(途中カット)
 その色は、どこから来るのだろうか、そして、何によって動いたり変化したりするのだろう
か? そう、色は振動という特徴が本質的にあるようです。そして、私たちの魂は、原子のあ
 つまりである肉体の鋳型を通して、振動を映し出していると言えましょう。われわれは、魂の
鋳型であり、色を放出しており、それを見ることのできる人には確かに今ここに現存するもの
 です。

 もし、われわれが次の発展段階に進むとしたら、それは何を意味するものでしょうか? そ
うですね、それはわれわれがオーラを見ることができるということを意味するでしょう。これ
はどういうことでしょうか? これに答えるために私は、オーラを見ることのできる友人の体
験を二例お話してみることにしましょう。婦人であるこの人物は私に、次のように語りまし
た。

「知らない人でも親友でも、家族の者でもかまいませんが、その人が私に嘘をつこうとした
り、私の質問に対し素直に答えようとしなかったりした場合、私はいつもその人の頭の上を彼
のオーラを通って水平に一筋のレモン色がかった線が放射されるのを見ます。私はそれを気体
光緑色ーガスライトグリーンと呼んでいます。私はそれが嘘をつこうとしたり、答えを逃げ
たりすることを示す印であると知りましたが、今まで見誤ったことは一度もありません。私は
長い間、学校の教師でしたが、生徒が本当のことを言っていない時に、それを見抜く私の能力
にとても驚いていました」

 このことが意味することを想像してみて下さい。あなたが嘘をつこうとした場合、たと
えそれが他愛のない善意の嘘であっても、誰からも見抜かれてしまうのです。だから、われわ
れはみな正直にならなければならないでしょう。というのは嘘、偽りはもうできなくなるから
です。
 さて、もう一つのできごとをお話しましょう。(カットしました)

 オーラを見る技術が誰にでもできるものとなれば、その意味たるやどんなものになるでしょ
うか? 危険、変動、事故および死亡などは前ぶれなしには来ません。われわれは、昔の予言
者がしたように、その知らせを自分自身で見るのです。そして、昔の予言者がしたように自分
の死を悟り、その本当の意味を理解して、喜んで死を受け入れるのです。
 人々がお互いの徳、不徳、長所、短所、病気、不運、将来の成功なりを見抜けるような世界
に自分を置いてみることは、なかなかできません。他人がわれわれを見るように、われわれが
われわれ自身を見るようなことになれば、われわれはみな全く違うタイプの人間になってしま
うでしょう。すべての人があらゆる他人に見抜かれるということになれば、われわれの悪徳も
大いに減少すると思われるからです。

 オーラは結果であって、原因ではありません。あらゆる原子、あらゆる分子、そして原子・
分子の集合体でも、複雑であれ単純であれ、小さくあるいは大きくとも、それはそれ自身の物
語、型、目的をそれから放射される波動によって語りかけているのです。色というものは、こ
れらの振動を人の目によってとらえたものです。人の魂が生命の領域を通り抜けるとき、それ
らがその前に現われた機会をどのように利用し、また濫用したかにしたがってその型を変換
し、変質するのです。このようにして、世界中、いついかなるところでも魂はそれ自身の物語
を、そして今ある現状を振動を通じて表現しているのです。もし、他の意識がその振動をとら
え、それを理解することができるなら、その仲間の状態、つまり今の苦しい状況や進歩してき
た努力の跡を知ることができるのです。


どこに貼るか思考中  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月23日11時08分

>んで、本題に戻るが貴殿のHPが真実と仮定しても「ひも理論」との関連性がみえんのじゃが、どう関係しとるんかのう?

すまんUFOとは関係ありません。
貼る場所を訂正する必要あり。

>人類はなぜUFOと遭遇するのか C・ピーブルズ
を、読む事をお勧めする。
は読んでませんねえ。見たい見たいと想像すると、見えないものが見えてくるという内容なのでしょうか?
又、知的生命体は地球だけと考えているのでしょうか?


(無題)  投稿者:鶏糞 投稿日: 2006年05月23日11時04分

どの宗教を信じるかは、「科学的根拠」ではなく、「主観」で決まるのが現実。


Re  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月23日10時27分

>つまり将来の環境の変化によって人類にそのような淘汰圧がかかると予想しているのですね?
はい、そうです。
地震の急激な増加と巨大化(もはや震度5など珍しくない)ーーー地下核実験と自然破壊が原因と言われている。
自然災害の増加・地球の浄化作用を上回る人間活動(ガン細胞と同じ働き)
気候変動(地球温暖化はプロパガンダと思われます)
動物の大量死
ハルマゲドンの準備が見られる(人類が自ら滅びるための)
地球磁力の低下

人類が激減する.
UFO特集では二分の一
日月神事では三分の一
マリア今よりずっと少なくなります


訂正  投稿者:メビウス 投稿日: 2006年05月23日 8時24分

訂正
×diamonds8888xxy^さん
○diamonds8888x さん


diamonds8888xxy^さんへ  投稿者:メビウス 投稿日: 2006年05月23日 8時19分

>その生存闘争は外的環境にいかに適応できるかという意味での競争なのですから。>

ご指摘の通りダーウィンは生存闘争という言葉を
「外的環境への適応」、「生物間の相互関係」の2通りに分けています。その上で、後者を主要だと考えていました。しかし、ある環境に適応した生物集団には安定化淘汰が働いて平均から極端にかけ離れた個体を排除するようになります。いずれ外的(非生物的、物的)環境が変化した時に、改めて生物変化の引き金が引かれ生存闘争が激しくなります。
 「フィンチの嘴」でその様子が描かれているのにもかかわらず、観察事実を無視して仮定によって反論する人がいるのです。

私はダーウィンが主張した学説をそのままの形で受け入れているのではなく、その後研究者がいろいろな間違いを指摘したり修正し、通説となった自然選択説(性選択説を含む)を支持するものです。

>科学哲学者とか科学評論家という言葉をどんな人達という意味でおっしゃっているのかよくわからないので何とも言えませんが>>

竹内薫、吉永良正など。

>ラマルクに対して批判的な意味でおっしゃっているなら、そんなことはないのでは?と思います。科学研究には無意識にせよ科学哲学は含まれますし、他人の研究を評価するときは科学評論家の立場と言えますし。>>
*************************************
....「動物哲学」は、動物、その一般的および特殊的性質、その体制、その発達および多様性の原因、ならびに動物がそれによって獲得する能力に関する私の研究結果を提示するものである。そして本書を書くのに私は私が「生物学」Biologieの表題の下に生物に関する著書をなす心算で集めた材料の主なものを用いた。この「生物学」は私としては出版しない心算である。
 私の引用した事実は非常に数多くかつ確実なもので、私がそこから引き出した結論は、私には正しく又必然的なものと考えられ、そのためにこれ以上のものを以て代えることは非常に困難であると信じている。
************
ラマルク「動物哲学」岩波文庫、P.18
(旧字体や当て字は引用者の判断で現代風に改めた)
**********************
引用文から察せられるのは、ラマルクはもはや生物の変化、あるいは進化の仕組みについて最終的な「正解」を得たという自己完結的な態度です。そして同じ主題ではもう書かないと言っています。こういうのを反証不可能っていうのではないでしょうか。だからこれは自然科学100%の本ではなく、人文科学が幾分混じっていると評価せざるを得ません。


生存競争  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月23日 5時41分

 「生存競争は同種個体間で起きるものであり、異種個体間の相互作用は外的環境の一種である」というのがスタンダードな解釈ですが、私は最近、この解釈だけで良いのかなと思っています。ひとつには、同種とか異種とか言っても種の境界が曖昧な場合はどちらか決めかねる場合があるはずだからです。
 また近縁な種Aと種B(交配不可とする)が同じニッチを占めている場合に、時につれてどちらかが絶滅することが起こり得ます。古生物学ではこのような場合に「種Aと種Bとの生存競争により絶滅が起きた」という言い方をしていて、これはこれで認められた使い方なんだろうと思います。「絶滅の原因は環境変化か生存競争か?」という問いを立てるときは、明らかにこのような種間の生存競争を意味しています。このような事情が、エルドリッジやグールドのような古生物学者とドーキンスのような動物行動学者との論争のタネになっている面はあるように思います。
 ドーキンス流に「生存競争は遺伝子間に働く」としてしまえば、かなり曖昧さは少なくなりますが。
 生存競争にも広義と狭義がある、くらいに構えて、文脈中での意味を見失わないようにしておけば良いのかなという気もしますが。


外的環境と生物間相互作用  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月23日 5時07分

 純粋な外的環境と生物間相互作用を分けることは十分に意味があるでしょう。生物の存在自体が外的環境を変えるということもありますが、ではどのように変えるのかという問い自体が科学的研究に値するテーマですし。
 例えば単一種の微生物を閉じた容器中で培養し、栄養等は常に一定量供給し老廃物は流し出す、ということをすれば、外的環境は完全に一定で、ゆえに収容個体数の限界も一定で、あるのは同種個体間の相互作用のみという条件になります。この場合に各世代で個体間の生存競争は起きていますが、形質変化は中立なものしか定着しないでしょう。
 ああ、他の個体を殺しまくる変異が生じてその子孫のみが生き残る可能性はありますね。でも殺す相手が絶滅すれば、その形質はもう中立になってしまう。


浅間一男ですか?  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月23日 5時05分

 浅間一男「生物はなぜ進化したか」ブルーバックス、は読んでいました。色々と自然選択説の矛盾点(と浅間が考える点)を挙げていますが、今となっては総合説の立場からきちんと反論できるものばかりですね。「誰でもが疑問を感じるだろうと思われる点は、個体に生じた多くとも10万個に一個という突然変異を、ただちにその集団のジーン・プールに加え、それが集団に影響を及ぼす、と考えることです。」p134、とか、集団遺伝学をちゃんと理解してないと感じました。というか統計的センスがないのかな?

 環境の変化>>生活の仕方の変化>>形質の変化>>遺伝子の変化、という理論の弱点は、ラマルクや今西錦司もそうなのですが、各段階をつなぐメカニズムを全く提示していないことです。現象論としてそうなると言っているだけです。自然選択説はそのメカニズムを提供します。ですが、複雑系の遷移モデルで「形質の変化>>遺伝子の変化」もありうると示した研究のことを読んだ記憶があります。今ちょっと出典が出てきませんが、わかりましたら御紹介しましょう。これはなかなかおもしろそうなんです。

 メビウスさんのように「外的環境の変化が最も大きなきっかけとなって生物は変化する」と解すれば、それは極めてまっとうな話です。環境の変化がなければ、自然選択はその環境での最適者を維持するように働きますから、最適者はそのまま変化しません。ただしこの場合も各世代ではたくさんの仔が生まれ、その中の少数しか子孫を残せません。その際に、突然変異した個体は常に不利ですから淘汰されます。どれも最適形質である個体のどれが子孫を残すかは、まさに運命のルーレット。つまり生存競争は起きています。

>しかしダーウィンは、「種の起源」全体を通して、外的環境よりも生物間の相互関係、生存闘争を圧倒的に重視していました。

 これは誤解でしょう。その生存闘争は外的環境にいかに適応できるかという意味での競争なのですから。種の起源では3章「生存闘争」での「広義の意味で使われる生存闘争という言葉」の箇所で述べられています。

>ただ、公正に考えるならどう見てもラマルクは「動物哲学」で自然科学100%に徹しきってはいません。彼は今の日本で言うところの科学哲学者とか科学評論家と科学者の中間くらいの立場です。

 科学哲学者とか科学評論家という言葉をどんな人達という意味でおっしゃっているのかよくわからないので何とも言えませんが、ラマルクに対して批判的な意味でおっしゃっているなら、そんなことはないのでは?と思います。科学研究には無意識にせよ科学哲学は含まれますし、他人の研究を評価するときは科学評論家の立場と言えますし。


Re:外的カンキョー  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月23日 1時23分

>「外的環境」と「生物間の相互作用、生存闘争」を別物のように扱い比較することに意味があるのですか?

横レスで申し訳ありません&メビウスさん擁護でもありません。
「ダーウィンの間違い、もしくは今のところ証拠は極めて乏しいです」については、私も早計に過ぎると思います。
一方、「それはそれ」として(本人の主張を待つことにして)、外的環境の変異を引き金に進化が起きる、という主張を見るとき、即座に「個体以外の要因はすべて外的環境」という答えが出てくるだろうか?というのには、かなりの躊躇を伴います。

進化の主体が「個」であるとき、ある個体「以外」のものはすべて「外部」に違いないけれど、それはかなり大枠の解読であって、実際には、地形や気候、などという「狭義」の環境もあれば、同種個体間といういわゆる「生存闘争」による「個体と外部との作用」もあります。また、この生存闘争とは主に「同種間」で起きるのか、あるいは「異種間」であるのか、という議論も(解決済みだけど)ありました。

これらを「理解を深めるために」一度分けて考えることには、一定の効果があるのではないか?と私は思います。また、コンセンサスは「ひとつの文脈」でなければならない、という必要も感じません。


Re:よう さんはもう出てこないのかな?  投稿者:fukken 投稿日: 2006年05月23日 1時16分

早速『ダ・ヴィンチ・コード』見に行って、またどこぞで罵ってんじゃないですか?


(無題)  投稿者:鶏糞 投稿日: 2006年05月23日 0時56分

進化論を支持している学者は懸命に進化について研究しているだけであって、「聖書の記述のここが科学的に間違っている!」と言って、キリスト教を叩いたりはしない。

それなのに、科学について素人の創造論者は間違った科学知識で、わざわざ進化論に首を突っ込んできて、生物進化を否定しようとする。


よう さんはもう出てこないのかな?  投稿者:ミケ 投稿日: 2006年05月23日 0時25分

>種を超えて、異なる種が「共通の祖先を持つ」としなければ何の意味も無いのだ。時間の浪費は止めたまえ。

よく創造論者が出してくる『種を越える変化』というのは幻想です。
そもそも『これくらい違っていれば別種、これくらいまでなら同種』という線引きが厳密にはできないからです。

ちなみに、種の定義としてもっとも頻繁に使われるのは生殖隔離ですが(生物学的種概念)、
生殖隔離が短期間で成立してしまった観察事実もあります。
↑『生物学的種概念で言うところの一つの種』が二つの種に分かれたっていう観察事実ね。(実際には分かれつつある、だけど)

ま、異なる種が共通祖先を持つ、とすることができるわけ。OK?


環境  投稿者:なまけもの 投稿日: 2006年05月22日23時59分

> 外的環境よりも生物間の相互関係、生存闘争を圧倒的に重視

生き物にとって、競争相手であれ餌であれ捕食者であれ他の生き物というのは「外的環境」の一部、それもかなり重要な一部でしょう。「外的環境」と「生物間の相互作用、生存闘争」を別物のように扱い比較することに意味があるのですか? それこそ「間違い、もしくは今のところ証拠は極めて乏しい」と思います。


メビウスさんへ  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2006年05月22日23時36分

>しかしダーウィンは、「種の起源」全体を通して、外的環境よりも生物間の相互関係、生存闘争を圧倒的に重視していました。これはダーウィンの間違い、もしくは今のところ証拠は極めて乏しいです。

本格的な返信はもう少しお待ちください。
とりあえず今は簡単に書いておきます。

ダーウィンが生物間の関係を重視したのは、進化には生存闘争がほぼ必須であるからだと思います。厳しい環境変化が起こったとしても、生存闘争がなければほとんど進化は起こりません。
フィンチの例でいうと、いくら旱魃で小さな種("しゅ"じゃなくて"たね")が減少したとしても、個体数が十分に少なければ問題にはなりません。小さな種を食べつくし、食べにくいハマビシの実に手を出さなければならなくなるほど個体数が多かったからこそ、進化が起こりました。
もちろん、外的環境の変化が重要でないわけがありませんが。


何も答えて下さらないので  投稿者:クハ72 投稿日: 2006年05月22日21時38分

kitarowさんが進化の意味を正しく理解されているという前提で話を進めます。

>人間はさらに精神的な存在へと進化します。
つまり将来の環境の変化によって人類にそのような淘汰圧がかかると予想しているのですね?


ひも理論との関係は?  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2006年05月22日21時00分

>>”MJ12:マジェスティック12”の間違いなのでは?
>ですね。う〜ん ぼちぼち直します。

貴殿のHPじゃったんか・・・

つーか、MJ12の話は極めて信憑性がないぞ。

MJ12は突っ込みどころが満載過ぎて引用はしないが
具体的なツッコミは

人類はなぜUFOと遭遇するのか C・ピーブルズ
を、読む事をお勧めする。

それでも書きたければ貴殿のHPじゃから止めはせんがな。


んで、本題に戻るが貴殿のHPが真実と仮定しても「ひも理論」との関連性がみえんのじゃが、どう関係しとるんかのう?


文脈の解釈と見方  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月22日16時47分

To メビウスさん

>しかし獲得形質の遺伝の証拠はありませんから、ラマルクと浅間の考え方を、私は、外的環境の変化が最も大きなきっかけとなって生物は変化すると解釈しています。

その「読み方」で問題はないと思います。また、ある程度「解釈問題」に委ねられはするものの、それくらいの(弱い、あるいは慎重な)異論の主張が妨げられる筋合いはないでしょう。(もっとも、ラマルクや浅間を引き合いに出すより、メビウスさん固有の考え方でなんら問題なさそうですが)

さて、ここからは私による補足というか私流の「解釈」になりますが、
 1:もともと生物には多型がある。→中立進化による変異が蓄積されていく。
 2:なんらかの環境変化が生じる。→選択の「条件」が変わる。
 3:新たな条件に応じた系統が増える。→自然選択が活発になる。
という具合に、「どこが主題であるのか?」を考えるときには、卵が先か鶏が先か、的な議論も往々に生じるのでしょう。

ただ、このような議論を踏まえると、先にあった「ダーウィンは種が恣意的なものであることを指してなにを啓蒙しようとしたのか?」が、より明確になるのでは?と思います。また、「キリンの首伸ばし説」にあるような、生物が能動的に「努力して」進化していくようなイメージは捨てておいたほうが良さそうであることも、明確なのではないでしょうか。

なにしろ、あるひとつの自然現象を言語で説明すれば、いくつもの文脈が生じるだろうし、そのすべてが正しいことは、珍しくないでしょう。


kitarowさん  投稿者:いらはい 投稿日: 2006年05月22日15時41分

kitarowさんの未来イメージは人類が次の段階に進化するというニューエイジ的世界観と
考想伝播が結びついているのが珍しい点です。

他人に考えが漏れるというのを好ましいイメージで捉えてらっしゃるのですか?
実際にそういう体験をした人は大抵、恐ろしいこと、悪意のあることだと感じるようですが、
kitarowさんは「自分の感情や何気ない考えを隠すことは不可能になります。」という着想をどこから持ってきたのでしょうか?

また一般的なニューエイジの人は、人類が次の段階に到達するには
何かの高次的存在の導きや超自然現象(フォトンベルトなど)が必要だと考えることが多いようですが、
kitarowさんは進化する、つまり突然変異と自然選択で人間が変わるとおっしゃるのですか?


人類は進化の途中  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月22日13時55分

>”MJ12:マジェスティック12”の間違いなのでは?
ですね。う〜ん ぼちぼち直します。

何故、目とか耳の話をしたかと言いますと
災害後の人類の進化について書いても、受け入れられないからです。
進化の時代
現在の蛮族である人間が進化すると、エドガー・ケーシーなどの能力が普通の人にも使えるようになる。彼は人間のオーラが見える人でもありました。


人間はさらに精神的な存在へと進化します。
現在では聞こえない音が聞こえるようになります。
今では見えない見えない光の分子を見通すこともできます。
人間は精神により、聞いたり、話したりします。
心の力がさらに活用されることになります。
直感と呼ばれているものが、全人類の中で活発に働き始めます。
精神で物事を聴くのですから、正直さが求められます。
現在では、人間は自分の感情や考えを隠すことができます。
しかし、未来では自分の感情や何気ない考えを隠すことは不可能になります。
内に秘められた動機が知られ、あらゆる関係が露呈し、あらゆる考えが聞こえてしまいます。
必要上、人類は平和にならざるを得なくなります。マリアメッセージより

長すぎるので極一部だけ書きました。


バイアスの起原  投稿者:メビウス 投稿日: 2006年05月22日13時33分

>それにしても彼のダーウィンに対する「バイアスの起原」は一体どこから来るのだろうか?>>

私のダーウィンに対する批判的発言はラマルクに傾倒する反動です。私が彼に傾倒する理由は2つあります。一つ目は最初に読んだ進化論の本がラマルクの進化説を継承する人の書いたもので、その影響が今も続いています。

*「ダーウィン進化論を解体する」(浅間一男、光文社、カッパサイエンス)
著者はラマルクを土台としつつ、自説を「生命環境均衡説」と称しています。
「環境の変化に応じてまず変わるのは生活の仕方であり、それにともなって形質も変わる。そしてそのような形質が永続する場合は、遺伝子もそれに応じて変わる。こうして獲得形質は遺伝しうる、ただし地質学的時間をかけて」というのが筆者の基本的な進化説です。筆者の専門は古植物学と古気候学です。

しかし獲得形質の遺伝の証拠はありませんから、ラマルクと浅間の考え方を、私は、外的環境の変化が最も大きなきっかけとなって生物は変化すると解釈しています。薬剤耐性菌、ガラパゴスフィンチ、マンチェスターの工業暗化など、自然選択説の証拠とされている生物の変化はいずれも外的環境の変化がきっかけです。また、この派生的な考えとして、その形は生体力学的な制約を受けるとも考えています。これらの全ては通説で説明可能であることは承知しています。

しかしダーウィンは、「種の起源」全体を通して、外的環境よりも生物間の相互関係、生存闘争を圧倒的に重視していました。これはダーウィンの間違い、もしくは今のところ証拠は極めて乏しいです。

もちろんこちらにおられる定連さん方は
「自分たちは何もダーウィンが主張したことをそのままの形で受け継いでいるのではない。彼の間違いは修正されたり補足されてきた。そうして形成された自然選択説を支持している」としきりにおっしゃっていますから、これもまた、ダーウィンの犯した間違いだという主張も検討の余地はあるでしょう。

ラマルクに傾倒するもう一つの理由は、月並みですが恵まれない悲運の先駆者に対する判官びいきです。ただ、公正に考えるならどう見てもラマルクは「動物哲学」で自然科学100%に徹しきってはいません。彼は今の日本で言うところの科学哲学者とか科学評論家と科学者の中間くらいの立場です。


変異の飽和  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月22日11時46分

diamonds8888xさんご紹介の、
「原生生物における種の実在性について」http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/JSEP2003/text.html
は、特に面白かったです。

ここでは、私がなんとなく思い描いていた「もやもや」が、かなりの範囲で具体的に説明されているように思いました。引用させていただくと、

----------------------------------------------------------
すなわち,ゾウリムシでは,祖先が異なるにもかかわらず,見かけ上,同じ接合型特異性を持つものが多数存在する(すなわち接合型に関して収斂進化が起きている)可能性が高い。
<中略>
この理由としては,ゾウリムシの細胞形態があまりに単純なため,取りうる「変異幅」が限られていて,形態レベルでは十数種以上には多様化できなかった可能性が考えられる。
----------------------------------------------------------

の部分が肝なのでしょう。
「種」という概念に対する疑念に通じる現象として、私は進化の収斂について時折(勝手に)考えていました。祖先が異なるにも関わらず、それらが地域的にも生殖隔離されているのにも関わらず、結果として非常に良く似た特異な形態を持つようになる生物が実在することが確認されている事実と、そうした「進化の不思議」に対する興味は尽きなかったのですが、それが「なぜ、どうして、どのように」起こるのだろう?という疑問に対する決定打は、これまでの私にはありませんでした。それが…「変異の飽和」という可能性を持ち出すことである程度説明できるのは驚きです。

このような変異の飽和による収斂が、広大な範囲(生物系統上の)で起きているのだとすると、生殖隔離されていたり、そもそも祖先がまったく異なる生物間でさえ、生殖可能な接続型に収斂してしまうこともある、ということなんでしょうか。だとすると、ますます「種」という概念は曖昧なものなのかも知れない、と思えてくるのです。


うにさんへ  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月22日 7時13分

大変失礼なことをしてしまいました。申し訳ありませんでした。
第3掲示板にお返事を書いていますので、ごらんの上、私の謝罪を受け入れていただければ幸いです。


ダーウィン本紹介  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月22日 4時50分

 どちらも読んではいないのですが、本の紹介です。

マンガ「種の起源」。評判はよさそうです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061549014/503-7830360-8148715?v=glance&n=465392

ダーウィン著作集〈別巻1〉現代によみがえるダーウィン
長谷川真理子、三中信宏、矢原徹一
http://www.bk1.co.jp/product/1671272/review/14125

 種の話題が書いてありますが、ついた書評が著者の一人のものだけというのはもの悲しい。


種の曖昧性  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2006年05月22日 4時49分

 久しぶりにまっとうなテーマがメビウスさんにより提起されて祝着です。

 カクレクマノミさんの適切なコメントがありましたが、補足しておきます。現在では種の境界というものは曖昧なものであることが広く認識されていて、「種などない」という過激派生物学者?もいます。全般的話は例えば以下。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/species.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE_(%E7%94%9F%E7%89%A9)
   「種に対する疑問」の項

 単細胞のたぐいは言うに及ばず、高等植物や魚類昆虫類でも現場の方々は種の区分に悩まされているようです。

http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/JSEP2003/text.html
原生生物における種の実在性について
http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/scripts/evol.html
種は実在する分類単位なのか(2006.04.03)

 しかし種という概念に固執してしまう人もまだまだ多いようです。役に立つ概念でもありますしね。現在でもこのように人々を悩ませる種という概念について、的確に疑念を示していたことはダーウィンの鋭さを示していると思います。


『種』への疑問  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月22日 4時47分

常々、というか、以前から思っている疑問を(ちょいとまとめなおしつつ)再提示してみましょうか。火種も投下されたことだし(笑。

まず、一番大きな疑問。
「種の定義、分類とは、果たしてどこまで信用していいものなんだろうか?実はそんなもの、あらゆる意味に於いてニンゲンによる一方的なおしつけ、ある程度共有された主観に過ぎないのではないだろうか?」
#上記は「共有された主観(あるいは、幻想)」が、ツールとして実用性を保つことを否定するものではありません。

次、個人的な考察。
我が家にチワワが二頭います。こいつらを見ていると、どう見てもセントバーナードと交配可能なようには見えません。しかし、どっちも「犬」ですよね。
従姉妹の家には、チワワとハスキーと猫8匹とグリーンイグアナとハムスターがいますが、彼女に云わせると、♀猫が発情期に入ると、ほかの♂犬たちが(まったくヨコナラビではないけれど)いっせいに大騒ぎ(おっ立つ)をはじめて大変なことになるそうです。

実際に、馬とロバだとか、トラとライオンだとかは雑種が固定されているし、きっとその他の動物でも同様の交雑はあることでしょう。すると、ヒトとその他の類人猿も交雑可能なのでは?と考えられる。でも、あまり知られていない。(というか、知らない)
では、「それが可能」な状況において、なにかが抑止力として働くのだとしたら、それはなんなのだろう?本当のところ、交雑可能な(一般的に云う)種というのは、どの程度の拡がりを持っているのだろう?などという疑問があります。

遺伝子がこれくらい違えば「別種」である、とか、形態がこれくらい違えば別種とみなす、だとか、さまざまな「基準(ものさし)」が、生物学にはあるのでしょうが、それらは学問上の要請以外に、いかほどの「用途」があるのか、あらためて興味を持っているのです。


>おずおずさん  投稿者:うに 投稿日: 2006年05月22日 2時17分

第3掲示板にレスあげておきましたので、気が向いたらご覧下さい。


ミニヨンさん、はじめまして。  投稿者:メビウス 投稿日: 2006年05月22日 0時01分

>聖書は是非とも、皆さまの蔵書に一冊加えていただけますと幸いです。>>

ずっと以前、創造論者の方が来られた時に、口語訳の旧新約聖書普及版(表紙がベージュ色)を買いました。放蕩息子の話は何回読み返しても感動的ですね。自分も父親といろいろあって、その後和解しましたが、そのことを思い出さずにはいられません。それと生活の都合で早朝に起きることが多いのですが、よくラジオのキリスト教系宗教番組を聴いています。

Kosukeさん、カクレクマノミさん、レス、もう少しお待ちください。


訂正  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日22時43分

3番目のフレーズは、ミードーミーミ「ラ」、でした。


あのね...  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日22時38分

,,,だめだ、ミニヨンさんにこれだけは言わなければ、と思ってたことを、この雰囲気では、とてもいえない...。

一つにはボクの娘も「ゆみちゃん」だし...。

ちなみに、娘のためにボクが作詞作曲した、「ゆみちゃんの歌」

「ゆーゆーゆーみちゃん、ゆーゆーゆーみちゃん、ゆーゆーゆーみちゃん、...」
ミードーミードソ、レーシーレーシソ、ミードーミーミソ、レーシーレーレソ、

これを飽きるまで続けた後、
「ゆーゆーゆー」
ソーファーソー
で終わるのです。

著作権はボクにありますっ!


おずおずさん  投稿者:ミニヨン 投稿日: 2006年05月21日21時36分

ありがとうございます!
へぇーそうなんだ

真摯に学ばれているんですね、バイブル

ミニヨンフアンゲット(*^_^*)
あのね、正直に言うと私は 数年前から此処知ってたよ。過去ログ見ると ゆみちゅん、或いは由美ちゅんで来ていたから。。そうなんです、私が あのクハ72さん旅ノートのゆみちゅん号のモデルです!今はミニヨン言います。

アカネちゃん見てる
愛ちゃん見てる

ね、久保先生ハンサムでしょ、身長190近くある50歳だょ、大好き。。

おやすみなさい。失礼します。


影の政府  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2006年05月21日21時20分

kitarow殿の指し示したHP先頭の

 ”影の政府 NJ12”

って
”MJ12:マジェスティック12”の間違いなのでは?

ひところ、矢追あたりが盛んに言ってたな。


ついでながら  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日21時05分

ボクにはそれなりに親しくお付き合いしていただいています、プロテスタントの牧師さんが居ます。
彼から新約聖書についていろいろ教えてもらっていますが、
「この場面でのイエス様の言葉は旧約聖書のここをふまえてのことなのです。」
といった説明がしばしばあって、旧約聖書がどんなに新約聖書の理解のために欠かせないか、ということも、よく分からないなりに、彼から教えてもらっています。


わーいミニヨンさんだ♪  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日20時34分

> お邪魔いたします。

いらっしゃいませ♪遠慮して玄関で立っていないで、どうぞリビングへ。紅茶をどうぞ!

確かに、進化論とキリスト信仰は、土俵が違うのかもしれません。
でも、土俵が違うだけのことで、互いに理解し合えないのは、あまりにも悲しいことだとは思いませんでしょうか?

例えば無神論者であるボクの言葉は徹頭徹尾、あなたには意味不明ですか?
こと信仰に関してならともかく、例えばティッシュペーパーを買い込むのならバーゲンをしてる店で買おう、とかいった判断は、理解していただけないはずがないと思うのですけれど。

ボクは、ボクの考えのせめて一部でも、あなたに分かってもらいたいと思っています。
同様に、あなたのせめて一部でも、理解したいと思っています。

失礼な言い方をしたことは謝罪します。

どうか、よろしく、お願いします。


こんばんは  投稿者:ミニヨン 投稿日: 2006年05月21日19時27分

お邪魔いたします。

改めまして、進化掲示板での無礼な振る舞いをした事を謝罪し キリスト関係者の皆さんにも 有らぬ誤解をかけ 教会員とはこのような無礼者なのかという印象を抱かせる発言書き込みをした事を認め、今後 気をつける事を申し上げます。

特に、谷庵さんのフォローに感謝すると同時に 大文字ナン様の口の悪さに対して、久保先生を思う余りの失礼な書き込みを ヒラに御容赦下さい。

思うに 進化論とキリスト信仰とは 違う土俵ではありますが、久保先生の創造論擁護は確かに 進化論シンパな皆さんにとっては、多少の悪口は そよ風みたいなものなのですから、過敏に反応した私も大人気無かったと反省です!

ただ ようさんの件に関しては 確かに 意味不明素人には大変難解なる理論らしく、普通は 戸惑う書き込みではないかと存じますけど。
クリスチャンではないが、久保先生の著作に共感されておられる由 ますます精進されて その道を究められますように。

失礼します。

ミニヨン。

PS,聖書は是非とも、皆さまの蔵書に一冊加えていただけますと幸いです。出来れば新約だけでなく、旧新約聖書をお勧めいたします。


kitarowさん  投稿者:クハ72 投稿日: 2006年05月21日19時00分

ご紹介のHPざっと見てみました。バラエティ番組を鵜呑みにしているという感じです。
本当ならニュースやドキュメンタリーで取り上げている筈ですが、そう言う話も聞きません(どこの局も)。
この手のテレビ番組や本はオウム真理教事件以降は自粛してたんですけどね。


祝着至極  投稿者:Kosuke 投稿日: 2006年05月21日17時24分

早々にカクレクマノミさんの大変適切かつ本質的なツッコミが戴けて良かったですね > メビウスさん

それにしても彼のダーウィンに対する「バイアスの起原」は一体どこから来るのだろうか?
これについて考察する事は、よう様と議論(あればだが)するよりも建設的であることは確かだろう。


メビウスさんへ  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2006年05月21日15時34分

全く逆です。ダーウィンは、種がうまく定義できなくて困ったから、曖昧な表現をとったのではありません。その反対で、種について万人が合意する定義のないこと、せいぜい「便宜のため任意に」しか定義できないこと、それこそがダーウィンにとっての論拠の1つなんです。

創造論では、種は種ごとに、個別に作られたと考えます。ヒトはヒト、オオガラパゴスフィンチはオオガラパゴスフィンチ、ミスジリュウキュウスズメダイはミスジリュウキュウスズメダイ、マムシグサはマムシグサとして作られたはずです。
だとしたら、種と種の間は明瞭に分かれるはずです。オオガラパゴスフィンチだかガラパゴスフィンチだかわからないようなのはいないはずです。種に万人が合意する完全な定義を与えられるはずです。
ところが、そうではない。それはなぜだろう?前提である、種ごとの個別の創造という考えが間違いなのではないか?
―と、これがダーウィンの論拠です。種が定義しにくくて困るのは創造論者であり、進化論者にとってはむしろ有利なことなのです。


ゆんさんへ  投稿者:メビウス 投稿日: 2006年05月21日15時17分

>「種の遺伝(起原)」でダーウィンの歯切れが悪くなるのは、たいてい遺伝に関係する箇所なのだ>>

私にはそれ以前の根本的な問題があると思います。
「...私はここでは、種という術語にあたえられてきたさまざまな定義について議論することもやめる。すべての博物学者を満足させた定義はまだ一つもない」
(C.ダーウィン「種の起原」岩波文庫、上巻、P.65)
おいおい、あんたも博物学者だろっ!!これから考察する対象の概念規定を放棄して、しかもそれを自分以外の博物学者に責任転嫁するのか。ダーウィンの言い分にもう少し耳を傾けてみましょう。
「...私は種という語を相互に近似している一連の個体に便宜のため任意に与えられたものとみなしていること、およびそれは、それほど著名ではなくまたもっとばらつきの多いものに与えられた変種という語と本質的に違うものではないとみなしている....。なお変種という語も、単なる個体的差異と比較してみると、やはり任意に、ただ便宜のために適用されたものである。」
(同書、P.75-P.76 なお、...は引用者による省略。)

非常に好意的に解釈するなら、微細な変異が長期間累積していって、その結果新しい種が生じたのだとみなさなければ、生物の変化の過程や機構を解明するのは非常に困難だから、ここに引用した態度を取らざるを得なかったのではないかと推察されます。しかしそれならそれで、種の定義に触れた65ページにちゃんとそう書けばいいのに、とも思います。そこでまた、ダーウィンを尊敬する者として言わせてもらうなら、そんな小さな個体間の差異から生物が別の種へ変化するのかという批判を浴びせかけられないように、種の定義についていったん博物学者に責任転嫁しつつ、少し離れたところで自分の見解を「任意に」「便宜上」と二重に保険をかけて書いたのではないかと思います。これはゆんさんが指摘されているように
「当時の進化論批判のなんと力強いことか」という時代背景も含めて考えれば、仕方のないことです。
 しかし、こういった文体も「種の起原」を読みにくくしている一因なんでしょうね。


まるで宗教みたいな話  投稿者:kitarow 投稿日: 2006年05月21日13時42分

>無謀に過ぎます。
のですがーーー。

耳が無くても聞こえる。

目が見えなくても、見える(次のページの住基ネット・インプラント・チップの下の方にあります)

http://www2.ocn.ne.jp/~chikyuu/ciamaind.htm


といいますと?  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日12時57分

ボクのどの発言がおっしゃってることに当たるのかはよく分かりませんが、書物を読む際には普通、とりあえず逐語解釈から入りません?
それを出発点として議論を進めていって、やがてより正しい結論に至ればいいのじゃないのでしょうか?


逐語解釈  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2006年05月21日12時16分

自分のやった聖書批判の方法論が逐語解釈に基づくものであるという自覚はあるかにゃ?>おずおず


訂正  投稿者:ゆん 投稿日: 2006年05月21日11時28分

>「種の遺伝」でダーウィンの歯切れが悪くなるのは

「種の遺伝」てなんだよ(^^;
正しくはもちろん「種の起源」です。


引き続き「種の起源」  投稿者:ゆん 投稿日: 2006年05月21日10時34分

ようさんがらみのネタはもう面倒で手を出したくないので、私は訥々と読書感想文を続けますよ。

今日は、「進化論に対しての批判へダーウィンが反論する」章をいくつか読んだ。っていうか、反論のためだけに複数の章が用意されているのね。当時、いかに進化論への批判が根強かったかが伺える。

そしてまた、当時の進化論批判のなんと力強いことか。

ダーウィンは博物学の人なので、膨大な証拠を並べて「進化論でなければならない理由」を説明している。それに対して反論する方も、当代一流の学者だ。博物学の知識をもって「進化論ではダメな理由」をこれでもかこれでもかと並べ立てる。

もちろん、それは現在の知識に照らし合わせると、進化論批判としては間違いであったことがわかる。進化論がまだ受容されていない時代の空気というのもあるのだけど、それ以上に「遺伝の法則」が未解明であったことによる誤解というのが大きいな、と感じた。そうした項目では、ダーウィン自身の反論もいまいち切れが悪かったりする。ダーウィンが存命中にメンデルの業績を知っていたら「これぞ!」と手を打っていたことは間違いなだいろう。「種の遺伝」でダーウィンの歯切れが悪くなるのは、たいてい遺伝に関係する箇所なのだ(ダーウィン自身は当時の常識と同じく、遺伝というのは「混ざり合う」現象だと思っていた。そして、当然その解釈では現実の遺伝で説明できない現象が多々あった)。それもまた、時代の空気。

結果として、それらの進化論批判の理屈は今では棄却されてしまったわけだけど、それらの持つ迫力は疑いようが無い。(これもまた仕方の無いことなんだけど)、今の創造科学の進化論に対する批判は、ダーウィン当時の議論に比べると、説得力の面でいかにも弱弱しいなあと感じる。

さて、ここでようやく折り返し地点。濃ゆい本でありますことよ。


谷庵さん  投稿者:ミニヨン 投稿日: 2006年05月21日10時25分

フォローありがとうございます!

教会なので、また後でね♪

話合いましょう!

キューティ・ブロンド
ソクラテス問答教授法?


確かに。  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日 9時43分

うにさんについては、ボクの勘違いでした。失礼しましたm(__)m


おずおずさんへ  投稿者:谷庵 投稿日: 2006年05月21日 8時17分

>また、うにさんとミニヨンさんは、他者の運営する掲示板に来て、自分の言いたいことを言って、あとはなにを返されても無視を決め込む。

うにさんは違うんじゃないかなあ。
ミニヨンさんは、仲間がいじめられていると思って、味方をしたつもりなのでしょう。
議論の中身については、まるっきり分かっていないと思います。


Re: 管理人NATROMさん  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2006年05月21日 7時13分

ようさまの言いぶん、拝見したけれど、
あなたは、被害者としての、自分ばかりを強調する、
きわめて独善的なかただと、あらためて思いましたよ。
ようさまは、ご自分が、ほかのみなさまを、
誹謗中傷してきたことには、謝罪どころかろくな言及もなく、
責任転嫁と、自己正当化ばかりですからね...

それとも、人格攻撃は「おたがいさま」ではなく、
自分だけが一方的に受けていると、本気で思っているのかな...?
(ご自分は、人格攻撃など、いっさいしていないと言うのでしたら、
たとえば、「愚かで陰湿で偏狭」「詐欺師」は、なんなのか、
納得のいく釈明をしてくださいね。)

こちらの掲示板のことを、「反進化論者には人格攻撃も
やむなしとの戦略を立てている」と、おっしゃってますが、
これも、ちっとも当たらないですよ。
NATROMさまは、「ようさんの自由な発言を保障」しているのだし、
実際、ようさまからの、ほかのみなさまへの人格攻撃も、
あえて「無言の容認」をしているのですからね。


>私は、人格攻撃は止めようと提議している。

それについては、わたしも、提議しましたよ。(5月19日(金)21時51分)
ようさまの、自己中心的な態度こそ、真の根源なのだから、
それを全面的に改めることが、いちばんの解決だと。
(あなたが、人格攻撃がやむのを望むなら、
これまでのすべてについて、悔い改めてはいかがでしょう...?)

>私と「山オヤジ」と特定しての非人間的批判は醜悪の極みである。

これは、わたしのことも、言っているのかな...?
だれでも読めるものを、参照しているだけですし、
どこが「非人間的」で「醜悪」なのか、ちっともわからないな...
(ウェブに公開された記事の扱いのことは、
fukkenさまがお話しているので、いちいちくりかえさないけれど。)


それにしても不思議だ...  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月21日 5時35分

つねづね、キリスト教徒の方から、
「もしも神を信じないのなら、人はなにをしても良いことになり、道徳も倫理もなく、獣のように、自分の欲求を満たすことだけを考えて生きるようになる。」
といった言い方をされてきた。

さて、ようさんはボクのような無神論者と違って、神を信じているらしい。

その、ようさんが、他者の真剣な議論に耳を貸さない、ダーウィンを、彼の著作を1冊も読まないで、論理的でないと決めつける、自分の知りもしない科学理論を思いつきでねじ曲げて放言してはばからない、議論相手を口汚くののしる、嘘をついて、その嘘を指摘されても謙虚に謝罪することも出来ない...。
また、うにさんとミニヨンさんは、他者の運営する掲示板に来て、自分の言いたいことを言って、あとはなにを返されても無視を決め込む。

そういえばウニさんもミニヨンさんもキリスト教を信じているらしい。

もちろんわずか3人の例からキリスト教徒全ての人格を断じることは出来ないが、
キリスト教を信じているにもかかわらず、人間的、道徳的、倫理的に、とうてい優れているとは言えない人が居るというのが、このところここでした経験からくる、帰納的な結論だ。

一方で、神を信じない「進化論者」達は、忙しい時間を割いて資料を集めたり、自分の主張の裏付けを取り確認を行い、誠実に、倫理的に、道徳的に、対応していたように思う。

なぜ、神を信じる人たちが、このような人倫にもとる行動をとれるのか?
彼らのいう、神と対峙して生きる、というのは、たかが議論の相手だけでなく、すべてをお見通しになっている神に対しても、嘘をついて平気だ、ということなのだろうか。

或いは、少なくとも一部のキリスト教徒にとっては、キリスト教を信じない我々は、誠実に対応する価値すらない、獣程度のものでしかないとでもいうことなのだろうか。そうとでも考えなければ、ここでの彼らの行動が理解できない。(ちなみにボクにとっては動物は、この地球に生きる、仲間だ。)

彼らを見た限りでは、キリスト教に対して、ボクの心には、不信感以外の感情はなにひとつ芽生えてこない。


カガクのジョウケン  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月21日 3時46分

■演繹法:「一度説明原理として認められれば、「仮定・推論・結論」の手順を省き、「説明原理が正しければ」と言う前提で、様々な事象を説明する事が出来ます。この論理法が演繹法です」

上記は、すでに終わっているひとによる「演繹の定義」ですが、これがすなわち「カガクなのか?」というと、少しばかり違います。
 →「説明原理が正しければ」
 ではなく、
 →「(この)説明原理によって事象を説明するならば」
 となります。もっとも、これは「アブダクション」という第3の推論法の内部工程でもあり、http://www.dumbo.ai.kyutech.ac.jp/hirata/research/research.htmlなどで解説がされています。

もう少し具体的に書くと、
 1:多岐にわたる生物において、非常に似通った構造が発見された。→個別事象の観察
 2:このとき、「共通の祖」がある、と考えれば、それらが似通った構造を持つことは当然であろう。→観察をもとにした推論の構築。(ここが演繹の出番になります)
 3:ゆえに、これらの事象を「共通の祖先を持つ生物」という観点にもとづいて検証する必要性が生じた。→ここからが真の意味での「帰納」です。

カガクである、ということは、常に「事実を発端」にして「事実によって検証される」工程の繰り返しになります。たとえば数理理論であれば、数式に破綻がなければ、その解は「常に真」であることになります。が、いかに数式が無矛盾であっても、それが「事実に反している」ようであったり、「事実を発端にしていない」のであれば、すべての工程が「非科学的である」ことになります。それは、よくできたフィクションであるけれど、自然科学とは云えないものです。無論、演繹の出発点となる「文脈」が無矛盾であることは当然ですから、正確な事実そのものとは云えない寓話や説法を演繹の前提に置くことは無謀に過ぎるでしょう。


誹謗チューショー  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2006年05月21日 2時35分

屑ことようくん。
私はね、恐ろしく心が狭くて偏屈で頑固な自分を知っているので、私のことを「馬鹿」でも「屑」でも「あほ」でも、どう呼んでもかまわないし、キミが再三「大文字」と私のHNを誤用することも、別段気にしていない。さらに、

■大文字 投稿者:よう 投稿日: 5月12日(金)18時40分9秒
>「実証」と言う言葉安易に使うな。詐欺だ。お前「詐話師」同然だよ。しかも実証に「ほぼ」付けるか。近代科学は帰納法だから、実証と言っても正しいかもしれないし、正しくないかもしれないんだよ。

とかって具合に「詐欺」という、我が国に実在する犯罪行為を取り上げてきみに呼ばれたことにも、特に噛み付く気はない。それは、今をもってない。
しかし、第三者的にこの状況を見たとき、公平性のもとに裁決をするなら、上記したきみの「勇み足」は致命的だよ。これは解釈の幅もなにもなく「犯罪行為」を指すものとしか誰も捉えないだろう。これくらい「根拠のない誹謗中傷」はないんだぜw。

分かるかい?これは単に「私はそんなミスを犯さない」ということ。そしてさらに、キミがミスを犯すことなんか分かりきっているし、その点に抗議をしたところで、私としては「少しも面白くない」ので、やらない、ということ。キミは掌の上で暴れているに過ぎないのさ。

さて、この状況を打破する方法がひとつだけキミにはある。
私やほかのひとをどう呼んでも構わない。進化論批判も続けたらいい。ただし、私やほかの皆さんが提示しているキミへの反論、および質問に、
 ・明確に論理的にコドモでも分かるように答える。もちろん、証拠も添えて。
ということだよ。それさえできれば、キミを取り巻く状況は激変するだろうね。


wadjaさん  投稿者:いらはい 投稿日: 2006年05月21日 2時04分

ようさんは生殖隔離と形態の変化がどこまですすんでも種が分化しないと思っているのではないかな。
人種(亜種)の違いくらいにしかならないと。

地理的な生殖隔離は認めても交雑が不可能になることは認めてないとか?


補足  投稿者:fukken 投稿日: 2006年05月21日 0時34分

>し返し?
>非合法的手段でも取らないと出来ないんじゃないかな。
>だって私も含め皆さんそんなバカじゃないと思いますよ。

それに、たとえ”特定”が出来たとしても、し返しにはならないでしょう。
これについても理由は、そんなバカじゃないから。


これは私にも答える権利はあるよな  投稿者:fukken 投稿日: 2006年05月21日 0時09分

>私と「山オヤジ」と特定しての非人間的批判は醜悪の極みである。例えば私も貴方がたを「特定」して、それ以上の非人間的攻撃を加えることも貴方は許容すると仰るか?そして貴方がたが更にそれを上回る攻撃を私に加える。そういう事を貴方は、「それも致し方の無い事」とお思いか。

ようさんがここでまともに議論をしていたら、私も「山オヤジ」を探したりしません。
「一体何なんだコイツ」って誰にも思われるような投稿を続けてしまった自分自身を悔いてください。
フツーにぐぐっただけで簡単に探し出せるような投稿をしている自分の愚かさを恥じてください。
そしていい歳してそんな子供みたいな泣き言を言ってしまった自分を哀れんでください。

し返し?
非合法的手段でも取らないと出来ないんじゃないかな。
だって私も含め皆さんそんなバカじゃないと思いますよ。

でもそんなに”山オヤジ”が困るなら私がジャブを出したあたりで大人しくすれば良かったのに。
いっこうに悪びれる様子もなく悪態を続けるので思いきり披露させてもらいましたが、まさかこんなに打たれ弱かったとはね。

まあ、ネット上の公開掲示板で発言するにはそれなりの注意が必要であるということを勉強させてもらったのですから、少々の痛みは授業料と思ってください。


(無題)  投稿者:えめ 投稿日: 2006年05月21日 0時06分

>人間、人類は様々である。民族部族的にも特徴がある。・・・(中略)
>これがなんの意味を為すのだ?単なる観察事実に過ぎない。
種を超えて、異なる種が「共通の祖先を持つ」としなければ何の意味も無いのだ。時間の浪費は止めたまえ。

 第一に
異なる種がかつて「共通の祖先を持つ」たであろうと推察される観察結果は様々に(DNAや化石、現在の生物の生態や解剖的特長等々)発見され検証されている。

第二に
観測事実をないがしろにする奴が科学の論理を語るのはそれこそ烏滸がましいと言うものだ。単なる「観測事実」こそが科学に於いては仮説の生殺与奪を握っていると言うのに。


 こんな単純な理屈すら、科学と言う分野さえも理解していない貴方は一体ここで何を垂れようとしているのか。

(もっとも引用した貴方のレスが観測事実を記しているとは思わないよ)


いらはいさんと同じ疑問  投稿者:wadja 投稿日: 2006年05月20日23時47分

いらはいさん初めまして。

>いったい「種」ってものをなんだと思っているんだろう。

wadjaも気になってたんですが、ようさんは「人種」の「種」と、生物学的な「種」が一般的な定義では異なることを知ってるんだろうか?生殖隔離も誤って理解している可能性があると思う。生物学的には一つの「種」に過ぎない人間に、生殖隔離が生じてるなんて証明できたら生物学上の大発見なのに。

好意的に解釈すれば、「人種」は変異の累積を例示したいだけだと思えなくもありません。しかし、種の分化を議論したい時に「人種」を例として使う不適切さは、生物学を少し勉強した人ならすぐに気がつくでしょう。しょせん彼の生物学の理解はその程度なのかもしれません。

進化論も知らないで批判しているだけ。だからみんなに馬鹿にされる。


ようさんは  投稿者:いらはい 投稿日: 2006年05月20日22時56分

いったい「種」ってものをなんだと思っているんだろう。


ようさん  投稿者:Kitkat 投稿日: 2006年05月20日21時30分

私は、ようさんに対して誹謗中傷や人格攻撃をしたことはありませんし、感情を排した議論を進めてきました。
にもかかわらず、答えを頂けませんので、再度投稿させて頂きます。

ようさんの発言を引用します。
「妥当性、つまり仮説のリアリティで言えば、私は断然創造論を支持します」
ここでの主張は、創造論の方が進化論より仮説として妥当性があるということですね。
そしてその妥当性は、演繹法の説明原理として認められる程度であるという主張です。

では、創造論が演繹法であるためにはどのような条件が必要でしょうか。
ようさんの発言を引用します。
「一度説明原理として認められれば、「仮定・推論・結論」の手順を省き、「説明原理が正しければ」と言う前提で、様々な事象を説明する事が出来ます。この論理法が演繹法です」
繰り返しになりますが、創造論が説明原理として認められる必要かあるわけです。

ようさんは説明原理として認められる条件についても明確に書かれています。
ようさんの発言を引用します。
「帰納法はある事象に対して一般的な妥当性の高い説明原理を導くやり方です。そしてその説明原理を元に検証していくのです。検証を重ねれば、妥当性は益々高くなります。
その場合、論理手順と言うのは、事象に対して「仮定条件をおき」「推論し」「結論」を導くと言うものです。検証の結果次第では仮定条件が公理なものへ近づき、推論・結論が益々強固になっていくでしょう」
つまり創造論は検証を重ねていって妥当性を高くしていき、説明原理として認められる必要があるということです。

上記に引用した、ようさんの主張は妥当です。

ではその前提の真偽はどうでしょうか。
「聖書の記述が自然科学の説明原理として正しいか」と言う以前に、聖書内に於いてさえ「絶対真理」ではないようです。

こちらを引用しておきます。久保有政氏が論破されています。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/harmonization.html

この場合、聖書が「絶対真理」であるとすると、聖書内の記述の全てが正しいことを示さなければならなくなります。
それに対して、聖書が「絶対真理」でないとする側は、聖書に一カ所でも、誤り、矛盾を見つければよい訳ですから、久保有政氏が論破されたという言い方をしました。

創造論が「聖書が正しければ」という前提に立って理論展開されている訳ですから、その前提に疑義がある以上「創造論は演繹法である」と言う主張は効力を失いました。
これ以降、「創造論は様々な事象を「聖書が正しければ」と前提に立って理論展開されています。しかし、その前に帰納法的立論がなされなければならない」と言うことになります。繰り返しになりますが「創造論は演繹法」は使えません。
ということで、始祖鳥以外の検証結果の提示をお願いします。


ようさん  投稿者:おずおず 投稿日: 2006年05月20日20時24分

あなたはエントロピーを理解していない。
にもかかわらずあなたは、エントロピーについて、自分の思いこみだけで間違ったことを言い放している。
あなたは我々に嘘をついているだけではないのですよ。
そもそも我々はだまされないから、別に被害はない。
本当の被害者は、あなたなのです。あなたは他者に嘘をつくとき、同時にあなた自身にも嘘をついて、あなた自身をだましているのです。
そのことが実は、もっとも大きな被害なのです。

あなたは、ここじゃなくて、あなただけしか読まない日記か何かにでも、「自分はエントロピーを理解している。」と書けますか?

読者はあなた自身、だけなのですよ。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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