進化論と創造論についての掲示板ログ320

2005年11月03日〜2005年11月10日
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独り言では有りません。  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日12時03分

議論は人を説得するためにあるとはかぎりません。
それに情報について調べたければ調べればよいし、知りたくない人は知らなければよい。それぞれの自由です。


何故発言したの?  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年11月10日11時29分

独り言なら日記にでも書いてたらいいのではないでしょうか。


説得するつもりはないですよ  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日11時08分

いや説得するつもりで書いたわけではないですよ。どう受け取るのはあなたの信条の自由だけど。「どれくらいO型が入ってるか」それは当然の前提として述べている。わたしの今の自分の考えを述べただけで、ここで関連が有ることを科学的に証明するつもりもないし立場にもいない。それをどう曲解しようと、どう受け取ろうとあなたの自由ではあるが。この掲示板の方々の信念を突き動かすことはできないとおれは思っているしそのつもりもない。


例えばね  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年11月10日10時55分

『ある大学の学生二百数十人』の中に、どれくらいO型が入ってるかとか(もともと45%だったら変わんないし)、
『1200人の信用カードのタイプとその選択理由』および『血液型ごとに一般的に知られている傾向』の具体的内容とか(なにぶん、性格のパラメータってのは恣意的に判断できるもんだしね)
に触れないまま「関連がある!!」と高らかに宣言されてしまったら、誰だって眉にツバつけますよ。

誰かの行った調査内容をもって相手を納得させたいならたいなら、きちんとその具体的内容(もしくはその情報源)を明示しないとダメ。
さしあたっては
ある大学の学生二百数十人の喫煙者を血液型別に調べたのは誰か?(できればその詳細も)
朝鮮日報の記事のソースは何か?(誰によるどのような調査か)
ハンス・アイゼクの言ってる内容は具体的にどんなもので(O型が神経質とか言ってたらどうするよ?)どのような根拠に基づいているか?
浅尾哲朗教授は論文にはしてないのか?(著書と論文はけっこう違うよ)
・・・・・・ってところかなあ?

>ほぼ100%科学的に否定された関係だと決めつけられるほど確たる証拠はまだないのではないでしょうか。

具体的な内容に触れず、血液型と性格を取り扱った人がいることをもって
「ないことは証明されていない!!」
って言っちゃうのは軽率。科学的態度ではないよ。


ほぼ100%科学的に否定されている説なの?  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日10時22分

ある大学の学生二百数十人の喫煙者を血液型別に調べたところ喫煙者(全体の32%)の内45%がO型だったという報告をみたことがあります。朝鮮日報では(当然韓国でのことですが)、現代カードの社員他約1200人の信用カードのタイプとその選択理由を調べたところ血液型ごとに一般的に知られている傾向があったと報道されてました。著名な心理学者レイモンド・キャッテルの論文もあります。ロンドン大の心理学者ハンス・アイゼクも血液型と性格の関係を結論づけているそうです。こういった外国の心理学研究は日本では無視されているのかどうかは知りません。聖マリアンナ医科大学の浅尾哲朗教授は「血液型によって脳の活性部位に差異が認められる」という結果を本にしています。まあ、これで直ちに実証されたとは言いません。ただ、ほぼ100%科学的に否定された関係だと決めつけられるほど確たる証拠はまだないのではないでしょうか。

カール・セーガンはこうも語っています。「人間には、思い通りの証拠や結果がほしい、まずいものには目をつぶりたいという強い誘惑がある。」

わたしの態度がそうだと思いますか?自分では逆だと思っているのですが。

カール・セーガンはまたこうも語っています。
「そして、新しいアイディアが出れば、それがどんなに奇妙なものであっても心を開いて受け止める一方で、新しいアイディアであれ定評ある学説であれ、とことん疑ってみるよう強く迫るのである。」

わたしは否定も肯定もどちらも疑うつもりでいるのです。

また、国立遺伝学研究所の斉藤成也さんは著書の中でこう語っています。
「少なくとも私は[性格とABO式血液型の関連性について]全然信じていない。ただ、両者に関係があるという可能性を頭から否定するのも、科学者の態度ではないと思う。否定するにはそれなりのデータが必要だが、それもないようだからだ。ABO式血液型の型物質である糖鎖は赤血球だけでなく、多くの細胞表面で見いだされる。性格に深くかかわると思われる脳神経系の細胞にもABO式血液型の型物質がその表面にあるかもしれない。だとすれば、血液型の型物質の違いが、性格とはいわないまでも、なんらかの脳神経系の活動に影響を与える可能性はあるだろう。このように、可能性は自由に広く考えておくべきだと思う。」(『ゲノムと進化』より)


トピずれついでにもう一つ  投稿者:JA50 投稿日: 2005年11月10日10時10分

トピずれついでにもう一つ、いつも不思議でならないんですが、負け戦、それもこれ以上ないというさんざんな負け戦の指導者を神様に祭り上げるという心性がさっぱり分からない。
今時大戦で負けたイタリアじゃ、たしか民衆によってなぶり殺しされた上に縛り首になったんじゃなかったですか。これが普通じゃないですか、人間の感情として。

それが日本じゃ、神様になって、今じゃ、時の首相までがそこにお参りしている、、、

なんで?

戦死した兵士が神様にされるってのなら分かるんです。
そして身内がそこに奉られて、多くの人の祈りの対象になるってのがありがたいことだというのも分かる。
でも、むごたらしい戦死をさせた直接的、間接的指導者もいっしょにってのになると、、、

それが勝ち戦ってのなら、まだ分かるんだけど、、、
負け戦。
まともに考えたら、とても勝てないという戦争を始めた上に、戦争中もさんざんな判断ミスを犯した上に、何百万という戦争による死亡者と焼け野原の国土を残したリーダー達。
それを、神様にする、、、

私にはさっぱり理解できない。


非難はされますよ  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年11月10日 9時56分

ただし勝者は処罰されないだけで。不幸な事ですけどね。


一般化の誤謬  投稿者:JA50 投稿日: 2005年11月10日 9時47分

>当時の日本人が相手が中国人ならこういうことをやっても構わないと考えていた証拠じゃないの。

「当時の日本人」と一般化していいんかなぁ、、、
(「相手が中国人なら」ってのも、同じ誤謬)

この手のやり方は、トンデモさんがよく使う手ですよ。
こういう証拠からは(その証拠が事実として)、当時の日本人の中に「相手が馬賊なら(中国人ならじゃなく)こういうことをやっても構わないと考えていた」者もいた、とまでしか言えない。

中国戦線に行っていた人の話を、もうウン十年も前に聞いたことがあります。捕虜を銃剣で殺すってのをやらされた話。
人のいい農家のおじいさんなんだけど、そういう人でも戦争となればそこまでやるのか、やらされるのかというのを感じた覚えがあります。

それと、常々おかしいんとちゃうかと思っていることがあります。
1万メートルの上からなら、人間を何人殺そうが、非難されないってこと。何万、何十万人殺そうと、それは戦争の勝つためと正当化される。それが女や子供などの非戦闘員だろうと関係ない。一方、目の前の人間になると、非難される。兵士、スパイ、馬賊であろうと同じで、殺し方が野蛮だと非難されもする。

そして、戦争に負けると、戦犯だと言って、処刑もされる。

戦争ってのは、勝つ戦争をしろってことなんですかねぇ、、、


RE:セーガンの言葉を悪しき相対主義を正当化するのに使うなよ  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日 9時08分

NATROMさん、攻撃したいがためだけに悪しき相対主義とレッテルを貼って攻撃するのは止めて下さい。


Re:カールセーガン  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日 8時36分

大文字ナンさんの考えは、どう読んでも同じ意見なのですが(最後の3行の勘違いを除いて)、まるでわたしへの異論として書かれているような不思議な現象が起きてます。それをここに書くことの限界があると先に書いた理由です。驚くべき現象のように思います。


RE:キリスト教の影響?  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月10日 8時29分

誤解を招く表現をしてしまいましたが、宗教の影響に触れたのは古代についてではなくずっと後世についてです。天動説の時代は長いですから。また、古代については流木さんと同じように想像してましたよ。そして、生活実感に基づく、もっともらしい理屈というのは信念になりやすく影響を与え得ると思います。「学者がどちらの仮説の支持に回るかは将来性なり筋のよさで判断している」について時代の信念の影響をだれもが受けると思います。それを人によっては排除することは難しいですができないことでもないとも思います。


Re:カールセーガン  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年11月10日 5時29分

 「カールセーガン科学と悪霊を語る」は「人はなぜエセ科学に騙されるのか」と改題されています。それはともかく、この本は私の愛読書でもあるので、ココさんの引用した前後の流れを含め、少しだけ紹介しつつもう少し考えてみましょう。

 「科学者という人たちは〜(中略)〜新しい状況があるかも知れないからだ」
 で結ばれる文章は、上巻のP67にあります。これにつながるのは
 『たとえばブラックホールの内側や、電子の内部や、光速に近い状況では、信頼していた法則が成り立たなくなるかも知れない。普通の状況ではやはり有効だとしても、なんらかの修正が必要になるかも知れないのだ』
 という文章です。

 これらの文章は、上下巻にわたる疑似科学への批判と科学的思考法および検証法について啓蒙しようとした本書の「サワリ」にあたる部分です。そこでは主に、科学の方法論がどれだけ慎重で、誤りに対して「厳しい現実」を突きつけるかについて語られています。

 また、引用された文章の前段では、
 『学術論文でデータを示すときには、必ずエラーバーをつけることになっている。エラーバーは、完璧な知識などないことを思い知らせてくれる。それは、ある知識がどれくらい信頼できるかを測る尺度なのだ。エラーバーが短ければ短いほど経験的知識は精密になり、エラーバーが長ければ、それだけ知識はあいまいになる。純粋数学を別にすれば、確かな知識などというものは存在しないのだ(逆に、確かな誤りは非常に多い)。』
 と、結ばれています。

 一般論にしろ個別の議論にしろ、このような流れの中でセーガンが主張していることは、
 ■科学は懐疑的であること
 ■科学には自己修正機能(エラーバー)があること
 などです。これは、さらに前の部分で
 『知識を得るための道具という点では、科学はとうてい完璧などといえた代物ではない。ただ、人間が手にしている道具のなかでは、いちばん”まし”だというだけのことだ。』
 とあるように、科学は「絶対的正当性」や「無謬性」を保証するものでは決してない(絶対に確かなものは常にわれわれのそばを通り抜けていくだろう)けれど、ニンゲンが手にした道具の中では「最上級」の信頼性を持ち、その信頼性を保証(進行的な意味ではなく、客観的評価対象として)するものこそ、反証可能性だとかエラーバーだとかという、批判精神であることを強く訴えています。

 さて、このような視点に立つとき、十分に科学的〜つまり、現在考え得るさまざまな科学的方法論を用いて検証を行い(経験的知識を積み)、誤りと判定された「ある仮説」について、ことさら重視したり、再検討の必要性を(必要に迫られてもいないのに)論じることにどれほどの価値があるでしょうか。
 カールセーガンは、現在否定されている仮説や、まだ知られていない仮設を研究したり、なんらかの動機にもとづいて(誰か、あるいは研究者が)再検討することを「否定」してはいません。しかしそれが「正しい」と主張することには慎重でなければならない、と述べているのであり、現在支配的な「有力説」に対して、真っ向否定するような仮説を公平に扱うべきだ、とはどこでも述べていません。むしろ、誤りとされている仮説が確かに誤りというデータを提出しているのであれば、その「事実もしくは現実」に従うべきであることを訴えている、と私は捉えています。

 ココさんの「解釈」では、現在支配的な仮説でもいつかは覆されるかも知れない、の部分が強調されすぎではないでしょうか。ほぼ完膚なきまでに否定されている仮説を支配的仮説と対等に扱おうとするような姿勢こそ「慎重さに欠ける」ものであり、セーガンの主張する「エラーバーによる自己批判」に反する(科学的仮説との)対し方ではないか、と思います。


間違えた  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2005年11月10日 2時18分

>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H10/1009/100916propaganda.html
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110101nankin.html

ここの写真G「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊の首」というやつだけれど、
江戸時代じゃあるまいし相手が誰であれ、首を切って晒すというのは
野蛮な行為じゃないの。当時の日本人が相手が中国人ならこういうことを
やっても構わないと考えていた証拠じゃないの。


http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/ichiran_1.htm
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/ichiran_2.htm

こちらは改竄説に対する反論ページだった。


ヘルメスさんへ  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2005年11月10日 2時14分

とりあえず2点。

>http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/ichiran_1.htm
>http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/ichiran_2.htm

ここの写真G「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊の首」というやつだけれど、
江戸時代じゃあるまいし相手が誰であれ、首を切って晒すというのは
野蛮な行為じゃないの。当時の日本人が相手が中国人ならこういうことを
やっても構わないと考えていた証拠じゃないの。


>派遣軍に於て統制し之に任する人物の選定を周到適切にし

業者の選定に口出しすることを日本語では「関与する」といいます。


#もし続きをするんならツリー方がよいと思う。


「カール・セーガン科学と悪霊を語る」に関して(RE:一般論の限界を感じる)  投稿者:温泉カワセミ 投稿日: 2005年11月10日 0時24分

ココさん、

>温泉カワセミさんの説明も納得できるのですが、そういう話で済むのならカール・セーガンの引用部分ようなの哲学的なことを語る必要性がないと思います。その辺りが腑に落ちないところです。

ワタシは「カールセーガン科学と悪霊を語る」は未読なので、ココさんの「この疑問」に確たる答えを返せないのですが、同書のタイトルとココさんの引用された部分から、セーガンの文意はココさんの解釈されておられることと別のところに在るのではないか?と言う推測をしています。ただし、コレは前後の文脈を読まないことには、当然判断することが出来ませんので、今のところは、ただ単なる『私個人の憶測』と思ってください。(今日、近所の本屋2軒回ったけど、見付からんかった。)


ただ、コレだけは言っておきますけど、もしワタシが先に示した科学の必要条件を「現状」満たしていないのが明らかであるのに、今後に覆る可能性が「0ではない」と言う理由で、「現在、科学的に評価・検証を行う方が良い」等という言説には、たとえセーガンやアインシュタインが主張していたとしても、ワタシはソレに同意は出来ません。


アリスタルコスの地動説  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月09日23時45分

 ちなみに、アリスタルコスが地動説を唱えたのは、地球よりも太陽の方が大きいという計算結果に基づくものでした(測定誤差が非常に大きいので、計算結果の数字は間違いですが、測定のやり方は原理的には正しいといえます)。「小さな地球の周りを大きな太陽が回っているのは不自然じゃないか」とアリスタルコスは考えたわけです。

 まぁ、「大きい太陽が小さい地球の周りを回る」というのは確かに不自然といえなくもありませんが、「世の中、そういうものだ」ということもできるわけで、決定打といえるようなものではないんですよね。彼の計算結果を受け容れるとしても、それが直ちに地動説を認めることにはならなかったでしょう。実際、アルキメデスはアリスタルコスの説を紹介していますが、地動説に賛同はしていません。


キリスト教の影響?  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月09日22時22分

>天動説・地動説は宗教という信念の影響を受けていたのではないでしょうか。

 直接的な関係はないと思います。プトレマイオスが天動説を採用したのは、古代の地動説と比較して天動説の方がより説得的だと考えたからに過ぎません。なお、彼は地球球体説は採用していました。地球が丸いということは、当時のエジプトやギリシアの知識人にとっては常識だったわけです。例えば、アリストテレスは『天体論』の中で3つの証拠を挙げて大地が丸いことを論じていますし、エラトステネスが地球の大きさをほぼ正確に測定したことは有名ですよね。

 まぁ、中世になると、「聖書には神の威光によって大地が動かなくなったと書いてある。大地が動くなどという話は冒神的だ」といきまく教会関係者もいたようですが、古代において天動説が支配的な学説になった理由とは無関係です。そもそも、古代において地動説を唱えたアリスタルコスは紀元前300年頃の人物ですから、まだイエスは生まれてもいなかったわけです。

 かつて天動説が支配的だったのは、何よりも生活実感に一致するからです。朝、太陽が東から昇って夕方西に沈んでいくのは体験できますが、地球が太陽の周りを回っていることを実感できる人はいませんよ。生活実感に即していえば、天動説の方が説得力があります。我々が地動説を受け容れられるのは、知識として知っているからに過ぎません。少し前に、「小学生の4割が天動説を信じている」と話題になりましたが、あれは今の理科教育で地動説の説明を全然やっていないからです。地動説を知らなければ、生活実感としては天動説になって当然でしょう。「地球の方が太陽の周りを回ってるなんて、それぐらい常識だろ」というのは、彼らには通用しない話です。


ココ さんへ  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年11月09日22時00分

こっちでは、科学的な立証・否定に関するお話、
むこう(第三掲示板)では差別の定義および血液型のお話、と言う具合に分けたのかな?

科学的に否定された説を証拠ナシに支持するのは科学的態度ではありません。ま、当たり前だよね。
『科学的に否定された説も絶対に間違いとはいえない』というのは、『証拠さえあれば覆すことができる』以上の意味ではありませんよ。
つまり、《証拠があるのに頑なに受け入れないという態度》は科学的態度としてダメってこと。

大切なのは、適切な証拠が提出されたとき血液型性格診断や天動説を受け入れられるかであって、
適切な証拠がないのに血液型性格診断や天動説にこだわることではありません。


セーガンの言葉を悪しき相対主義を正当化するのに使うなよ  投稿者:NATROM 投稿日: 2005年11月09日21時33分

>誰からも相手にされていない一人の推測が実るとも知れない何十年の執念の末に実る例があります。カール・セーガンもそういう事例に敬意を表しているはずです。

>「科学者という人たちは、自分のやっていることが正しいと断言することにはとても慎重なものである。推測や仮説は当然ながら暫定的なものでしかないし、くりかえし検証されてきた自然法則でさえも、絶対に正しいとは言い切れない。なぜなら、まだ調べられていない新しい状況があるかもしれないからだ。」カール・セーガン「カールセーガン科学と悪霊を語る」より)


ココさんが、セーガンの名前を出して、ご自分の非科学的な信条を肯定するのに疑問を持っています。ココさんは、ヴェリコフスキーの「衝突する宇宙」をご存知でしょうか。話をすると長いので、リンクします。

http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/ningen/node81.html

さて、セーガンなら、こうした主張に対して、どのような対応をとったと思います?


>明々白々な場合を別にして否定された推測や仮説を科学者なら絶対に間違っていると断言するのを慎重にするでしょう。さらに疑似科学と判断することは尚更控えるでしょう。

「血液型と性格には、保育に利用できるほどの、強い相関が存在する」という主張は、かなり明々白々に間違っています。まあ、「衝突する宇宙」と同じくらいには。悪しき相対主義に陥るくらいなら、間違っているものは間違っていると断言するべきです。


>>社会心理学の統計では相関の大きさはともかく有意差は認められていると思われます。
>これについてはたぶん間違いないと思います。多少の有意差は認めていると思います。外国の心理学者の論文もあるようです。

ココさんが、「間違いない」とお考えになった根拠を説明してもらえませんか。まさか、「あるある大辞典」や「ABO FAN」じゃないでしょうねえ。数万人規模のスタディで有意差があるんだかないんだかという状況は、強い相関が存在しない証左に他なりません。まだ、「シャクティパッドで癌が治る」という主張のほうがまだありそうなくらいです。誰もシャクティパッドによる癌の治癒を研究した人はいませんが、血液型と性格の関連については、多くの人が研究しましたが、誰も強い相関を見つけていません。


RE:キリスト教と天動説  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月09日18時00分

「天動説か地動説かというのはそうしたデータをどういうモデルで解釈してみせるかの違いだといえます。」そうだとしたら、それに最初の段階で地動説が何かの有利な根拠で優位に立てた可能性もあると思います。
また、「学者がどちらの仮説の支持に回るかは将来性なり筋のよさで判断している」それは宗教やイデオロギーの影響を受けなければですが、天動説・地動説は宗教という信念の影響を受けていたのではないでしょうか。


RE:キリスト教と天動説  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月09日17時50分

知られていない原理があれば、その当時では稚拙な批判ともいえない、確かに稚拙は今から見た価値判断が含まれていて不適切でしたね。その時点でもっともらしい根拠を持った批判も将来はそうではなくなるといった例にも当たると思います。


キリスト教と天動説  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月09日17時38分

 旧約聖書には天動説ととれる記述があり、コペルニクスの地動説の噂を聞いたルターがそうした記述を根拠に「このばか者(コペルニクスのこと)は自分が馬車に乗って動いているのに、周りの風景の方が動いていると考えているようなものだ」云々と批判したのは有名です。ルターって人は、新約聖書に収録されている「ヤコブ書」についても「福音的な内容のないワラの書だ」と決めつけていたりするので、結構激しい人だったんでしょうね。今日では、カトリック、プロテスタントを問わず、天動説にこだわるキリスト者さんはほとんどいません(ということは、少しはこだわる人がいるわけですが)。

 なお、古代において天動説を支持した人たちが「大地が動いていれば、反対方向に常に猛烈な風が吹くはずだ」とか「空を飛ぶ鳥や雲は大地が動いていれば取り残されてしまう」という批判は、慣性の法則が知られていなかった当時としてはもっともらしい根拠を持った批判であり、必ずしも幼稚とはいえません。

 それと、観測データだけでいえば、天動説でもそれなりの精度で天体の運行は予測できたわけですし、天動説か地動説かというのはそうしたデータをどういうモデルで解釈してみせるかの違いだといえます。チコ・ブラーエの頃までは、モデルの説明力なり再現性なりにほとんど差はなかったわけです。最終的には仮説の優劣は実証的に判断されますが、学者がどちらの仮説の支持に回るかは将来性なり筋のよさで判断しているように思われます。この辺りは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』などを読まれると面白いかも知れません。


歴史にもしは禁物ですが  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月09日17時16分

 歴史に仮定を持ち込んでも仕方ないことですが、もし天動説派の「大地が動いているとしたら、反対方向に常に猛烈な風が吹くはずだが、そんな風は吹いていない。したがって、大地は動いてはいないのだ」といった幼稚な批判に対して、当時の地動説支持者が、簡単に屈せず、アイデアを信じて、どこかの学者さんみたいに黙々と頑張る人が一人でもいたら、天動説と地動説のポジションが逆の運命を辿っていたかもしれません。ただ、どちらにしろ最終的には地動説になるのですが。キリスト教のない時代なら宗教的な非難にもさらされず、純粋に観測データを詳細に検討することで勝負できたかもしれない。宗教の教義にも影響していたかもしれません。まあ単なる想像にすぎませんが。


一般論の限界を感じる  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月09日15時26分

 一般論としては話すのは限界を感じますね。どこまでいっても血液型の話が想定されてしまうのしょう。ここで話すことの限界ですね。具体論でしか語れないのなら一般論を語る意味はないです。でもカール・セーガンも一般論として語っているのでそれでもいいのかと思ったのです。温泉カワセミさんの説明も納得できるのですが、そういう話で済むのならカール・セーガンの引用部分ようなの哲学的なことを語る必要性がないと思います。その辺りが腑に落ちないところです。

 流木さんの「復活」の話はセーガンに近いものを感じる。「支配的な学説と並べて過去に否定された学説を同程度の重みで尊重すべきだという話にはならないでしょう。」その通りだと思う。古代の地動説のあまりにも素朴で稚拙な仮説というかアイデア、これを同程度の重みで尊重すべきとは思いません。当時、この素朴なアイデアを否定するのは簡単だった。初期の天動説が確固とした仮説ではなくても十分だった。しかし時代が進むと天動説は補助仮説で補わないと説明できなくなってくる。こうした話はとても面白いと思いました。


地層の出来方  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月09日13時19分

簡単な説明書こうかと思ったのですが、そのものずばりぐーぐるで
検索すると、ちゃんとした説明が見られますね。アニメーションも
ついてわかりやすい。

http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E5%9C%B0%E5%B1%A4%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%81%9F&num=50


ダイヤのたとえでココさんが誤解するのは私のミスです  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月09日13時15分

あの文脈だと、私の出したたとえ話が、

・ココさんの書き込みにある「学会から全く相手にされないまま半生を賭けた
学者の研究がついに実を結んだとある偉人」を、「根拠もなく、砂漠の中にダ
イヤがあると叫んだ奇人」と同一視した揶揄。

と取れてしまうのですよ。それが完全に誤解で私の意図したところが別にある
のは、すでに先の書き込みで述べたとおりなのですが、誤解を与える余地を作っ
たのは私のミスです。具体的には次の2点かな。

・ココさんが議論したい内容と違うことを語っている
・ダイヤを掘った男が何を根拠としたところは「敢えて説明してない」のだけど
あの構成だと「根拠がまったくない」という風に読める。

というわけで、diamonds8888xさんの指摘はその通りなのですが、ここにはあんま
りこだわらずにスルーしていただけるといいかと。


来る馬  投稿者:レモン 投稿日: 2005年11月09日11時55分

地層ってどうやって出来るの


学説の「復活」  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月09日 7時05分

 さて、先の私の投稿では、地動説の「復活」について述べたわけですが、お読みいただければわかるように、古代の地動説がそのまま復活したわけではありません。「太陽の周りを地球その他の惑星が回っている」という基本的なアイディアの点で古代の地動説とコペルニクスの唱えた地動説とは共通しますが、コペルニクス以前に天動説が支配的な学説となったのは古代の地動説との比較からいえば当然といえます。何しろ、プトレマイオスの体系では天体の運行についてがまんできる範囲の誤差で予測ができましたが、古代の地動説はあえていえばアイディアの域を出ていなかったわけですから。

 なお、先の投稿では触れませんでしたが、古代の地動説にとって大きな難点とされた「大地が動いていれば反対方向に常に猛烈な風が吹いているはずだ」という批判に対しては、ガリレオの慣性の法則が一応の回答を与えたことになります。動いている列車の中で乗客が真上にジャンプしても着地点がジャンプした場所のはるか後方になるわけではありませんよね。

 他の方も既に述べられているように、ある学説が従来の学説に代って支配的な学説となる場合、従来の学説で説明できていた諸現象をその学説で説明できる必要があります。コペルニクスの地動説の場合、古代のアイディアで止まっていた地動説とは異なって、(円軌道を仮定していたためいくつかの補助仮説は必要でしたが)天動説と同程度の精度で天体の運行を説明できました。それに加えて、天動説では説明できない現象も説明できたから、支配的な学説となり得たわけです。

 過去に否定された学説が「復活」する可能性は確かにあるでしょうが、否定されたことでただちに「擬似科学」とされるわけではありません。ガラス玉はダイヤモンドを気取るからニセものと呼ばれるのであり、ガラス玉そのものがニセものなのではありません。過去に否定された学説の「復活」の可能性を信じて研究を続ける学者なり市井の研究者がいてもよいでしょうが、支配的な学説と並べて過去に否定された学説を同程度の重みで尊重すべきだという話にはならないでしょう。せいぜい学説史の1ページとして語られるぐらいではありませんか。


絶滅種クローン復活  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月09日 5時59分

 絶滅種クローン復活の過程で過去のウイルスも復活する可能性は大いにあるでしょうが、そのウイルスが現代の生物に感染できる可能性は少ないだろうと思います。他の寄生生物でもそうですが、元々の宿主に近縁な種ほど感染しやすいものです。過去にさかのぼるほど、当時のウイルスが現代の生物に感染する可能性は低くなるでしょう。
 英語学校の先生が想像されたウイルス復活の過程は存じませんが、例えば琥珀に閉じこめられた蚊の吸った血から核酸を抽出しようとすれば、吸った動物の血液細胞の核酸のみならず、そのあたりの微生物の核酸も同時に抽出されるでしょうし、ウイルスのようにゲノムの小さい生物の核酸はより完全に近い姿で抽出されやすいでしょうね。要するに目的の核酸以外の汚染です。とはいえ、ウイルスの化石というのはむしろ大発見かも知れません。生物学者としてはむしろ高等生物の遺伝子完全復活の前にウイルスの化石発見の方を狙うかも知れませんね。


ダイヤモンドは素晴らしい(^_^)  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月09日 5時56分

 「否定された推測や仮説を疑似科学だと決めつけるのを慎重にすべき」という一般的な話と、特定の仮説「血液型と性格の相関」の検証の話ははっきり分けて議論した方が良いでしょう。

 で、一般的な方の話ですが、慎重にすべきかどうかは否定の根拠の強さによるでしょう。わかりやすくするために極端な例を示しますが「結核は結核菌が原因ではなく呪いにより起きるのだ」という仮説も疑似科学だと決めつけるのを慎重にすべき、とは思いませんよね? ガリレオが弾圧された昔ならいざ知らず、現代では専門家の間で一般的に否定されている仮説には、否定するにたるそれなりの強い根拠があるものです。将来認められる仮説があるとしても、それが現在の定説を完全に覆すことなどまずありません。提唱者は「覆した」とアピールしたがるかも知れませんけどね(^_^) 相対性理論はニュートン力学を覆したわけでもないし、量子力学は古典力学を役立たずにしたわけでもないのが良い例です。

 「学会から全く相手にされないまま半生を賭けた学者の研究がついに実を結んだ例もあります。」とのことですが、どなたのことでしょうか? 具体的におっしゃっていただけば例えば「血液型と性格の相関」仮説との関連も議論できるのですが。それと、ゆんさんのダイヤモンド掘りのたとえとの関連も。ちなみに、ダイヤモンド掘りのたとえが何故偉大な発見をした学者を愚弄することになるのか私にはわかりません。偉大な発見は素晴らしいダイヤモンドに例えられると思うのですけれど。いや、人の感じ方は様々ですからいいんですが。

 ダイヤモンドを愚弄しないでね<−−冗談(^_^)

 ゆんさんのたとえ話は、ココさんの「現状科学としての期待値が0のモノを切り捨てても、それによりこうむる害は大して存在しません、そう断言してしまうのは正しいのでしょうか。本当に0ならばそうかもしれません。」に対する答えだと思いますよ。大きな利益を失ってはいるかも知れないけど害はなかった、と。


絶滅種のクローン  投稿者:PIP 投稿日: 2005年11月08日23時42分

はじめまして。私は生物学に詳しくない素人ですが、ちょっと専門家の皆様に伺いたいことがあり投稿しました。
先日、通っている英語学校で「絶滅種をクローン技術で再現することの是非」について話ました。アメリカ人講師は、絶滅種クローンは「過去(ある動物が生息していた時代)のウィルス」を現代社会に持ち込み現代の動物に悪影響をもたらす、そしてそれが絶滅種クローンの最大の問題点だと言いました。
でも、私は、ウィルスは獲得形質だから遺伝しないのでは?と最初考えました。
当サイトの「ウイルス進化論の難点」の中に「人間のゲノムにウイルス由来のものがあるという証拠はありますが」という箇所がありますが、ある絶滅種の遺伝情報にもウイルスは組み込まれ、それが現代社会でクローン化されると、猛威を振るうなどというSFチックなことが起こり得るのでしょうか?? そもそも絶滅種のクローンということ自体多分に妄想的なのかもしれませんが…。専門家の皆様の意見を伺いたくよろしくお願いいたします。


社会心理学と血液型性格学(?)  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日23時30分

>社会心理学の統計では相関の大きさはともかく有意差は認められていると思われます。

これについてはたぶん間違いないと思います。多少の有意差は認めていると思います。外国の心理学者の論文もあるようです。ただ、社会心理学とは社会的行動と心理を研究対象にする学問だと思われますので、細胞表面のある種の糖鎖のタイプが精神面に関わるかどうかを科学的に論じるよな学問領域ではないと思われるのです。その点は性格診断を主張する側も似たようなものだと思われます。


ココさんへ  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2005年11月08日22時01分

>現状、否定された推測や仮説を疑似科学だと決めつけるのを慎重にすべき理由はここにあります。

というのは全くその通りです。
ですが、「否定された仮説や推測を、新たな肯定的証拠(それも、かつての否定を却下するのに十分なほどの証拠)なしに肯定すること」は明らかに疑似科学です。
血液型性格診断でも、創造科学でも、天動説でも、証拠探しをするのは自由だし、それはまともな科学だと思います。
ゆんさんのたとえを借りると、ダイヤ探しをするのは自由でも、ダイヤが見つかっていないのにもかかわらず見つかったと主張をするのは嘘吐きだ、ということになります。

>社会心理学の統計では相関の大きさはともかく有意差は認められていると思われます。

ABO血液型性格分類の「科学的根拠」を最初に提唱したのは心理学者古川竹二です。彼の論文を読んだわけでもないのでよく知りませんが、もしかしたらその時有意差は出ていたのかもしれません。しかし、その後300本以上の追試論文が出され、それらの結果は古川の説とは一致しませんでした。そのため、現在では心理学者は古川の説を否定しています。

有意水準には通常0.05が用いられます。これはつまり、全く何の関連も無いデータを20個分析すると、うち平均1個は有意差が出るということです。だから有意差は1回出たらいいってものではなく、多数の追試で否定されたなら意味を失います。

もちろん、今から血液型性格分類の新たな証拠探しをするのは自由です。ただ十分な証拠が見つかるまでは、科学的根拠ありと言いふらすべきではありません。
心理学者たちが証拠探しをしないのは、見込みがなさそうだと思っているからです。「もしかしたら相関があるかもしれないもの」なんてのは世の中に無数にあるわけで、全部データ集めて検定してたらキリがありません。だから科学者は見込みがありそうなやつだけを調べます。


地動説の「復活」  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月08日21時46分

 否定された学説が「復活」した例としては、地動説が挙げられます。

 「昔の人は迷信深かったから天動説を信じていたのだ」という人がいますが、必ずしも正しい認識ではありません。古代において天動説が支配的な学説となり得た理由としては、大地が動いているという実感がなかったことに加えて、「大地が動いているとしたら、反対方向に常に猛烈な風が吹くはずだが、そんな風は吹いていない。したがって、大地は動いてはいないのだ」といった批判に対して当時の地動説支持者が有効な反論をできなかったことが挙げられます。

 その後、観測精度が上がるにつれて、単純素朴な天動説(地球中心説)では天体の動きをうまく再現できなくなったので、周転円や離心円などの補助仮説を導入する必要に迫られました。その結果、コペルニクスの頃には天動説が提示するモデルはかなり複雑なものとなっていたわけです。コペルニクス本人は、当時の天文学者らが放棄していた天球という考え方にこだわっていたりしたわけですが、太陽を中心に据えて、地球がその周囲を公転していると考えることで惑星の逆行や見かけ上の大きさ(明るさ)の変化など、従来の天動説に基づくモデルではかなり面倒なことをしないと説明が難しかった諸現象を簡単に説明することに成功しました。もっとも、コペルニクスは惑星は円軌道を描いて太陽の周囲を回転していると考えていたので、蓄積されていた天文データと整合性を持たせるためには周転円などの補助仮説も必要だったので、従来の天動説のモデルと比べて格段にシンプルになったわけではありませんでした。

 コペルニクスの地動説には支持者も増えましたが、チコ・ブラーエは地動説を採用しませんでした。彼は肉眼で天体観測を行い膨大なデータを残しましたが、地動説が正しければ観測できるはずの年周視差が観察できなかったことを理由として天動説と地動説とを折衷した独自のモデル(太陽の周囲を水星と金星が公転し、太陽が地球の周囲を公転しているというモデル)を提示しました。彼の死後、膨大な観測データを引き継いだヨハネス・ケプラーはいくつかの今から見れば奇異に思える思い込みに基づいて計算を重ね、惑星は円軌道ではなく楕円軌道を描いていることを見つけました。ガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を使って金星の満ち欠けを観測し、地球と金星との距離が変化していることを示すこの現象が地動説では説明できるが、従来の天動説では説明できないことなどを理由として、地動説を支持しました(ガリレオは潮の干満も地動説の証拠だと考えましたが、あれは間違い)。

 その後、1727年にブラッドリーによって年周光行差(地球の公転により恒星から来る光の角度が変化する現象)が観測されて(こちらは年周視差よりも変化が大きい)、地動説が正しいことがわかりましたが、チコ・ブラーエがこだわった年周視差は1838年にベッセルらによってようやく観測されたわけです。年周視差が最大なのはケンタウルス座α星ですが、値としては0.742″です。これは、直径が0.4mm以下の物体を1km離れた見たときの大きさに相当しますから、いくらチコ・ブラーエでも肉眼で観測することは不可能でした。地球の公転軌道の半径に対して恒星までの距離が非常に遠かったので、地球が少々動いたところで恒星の見え方が肉眼でわかるほどの変化を示さなかったわけですね。


RE:科学の必要条件の無謬性の確からしさ  投稿者:温泉カワセミ 投稿日: 2005年11月08日18時34分

ココさん、

>>(1)目的とする対象を論議・あるいは検証するに際して、客観的に確からしく、かつ適した論理及び手法を用いて得られた結果であること。

>これが満たされているかどうかの認定が困難な場合はどうすればいいのでしょうか。

従来の手法や理論で「認定が困難な場合」は、まず、それを客観的に認定するのに何が必要であるかを、論議すれば良いのです。と言うよりも、論議をするところから始めなくてはなりません。要するに、そこから研究するってことですね。でなければ、いつまで経っても客観性を保証できずに、使い物にならないデータが出て来るだけになってしまいます。

そもそも、この条件として示している「客観的に確からしく、かつ適した論理及び手法」は、過去から現在に至るまでの科学者の論議の積み重ねなのです。ですから従来のやり方で困難な場合は、さらに(1)を満たすための議論や研究を積み上げていくしかないのです。

それを積み上げてもまだ判らなければ、大文字ナンさんの仰るように、ペンディングにするしか在りません。これは葬り去るという意味ではなく、「検証の俎上に上げない」と言うことです。これは、むしろ科学が扱えない領域にまで立ち入ってしまう「危険性」を排除しているのです。なぜなら科学で扱えないはずなのに、科学を用いて検証したとしたら、その結果は「ウソ」になってしまうからです。


しかし、今、「擬似科学」と批判されているモノの多くは、良くても、この論議の部分を端折って、あるいは避けてしまっているのです。それらの主張を単純化すれば「某かは観察(観測)されている」→「現在の科学では客観的な検証が困難(あるいは不可能)」→「現在の科学で判らないだけで、本当は科学的に正しいのだ」と。

でも、我々の様な科学を生業としている者から見れば、何かの結果が見えてるように思うのは、いわば「身長を測るのに体重計を使ってるからじゃないのか」と言う様にしか見えないのです。(こう見えてるのは、まだマシなヤツなんですけどね。)


ですから(1)を満たさずにペンディングは、批判されるべきではないのです。それが客観的検証に供することが可能となるまで、待たねばならないだけです。

しかし、(1)を満たすべく論議も尽くさず、客観的な検証も行えない状態にあるにもかかわらず客観的根拠を主張することは「擬似科学」として批判すべきなのです。


また、ココさんが上げておられる「学会から全く相手にされないまま半生を賭けた学者の研究がついに実を結んだ例」と言うのが、具体的にどの例を示しているのかは判りませんが、その場合でも、その学者は最低でも(1)を満たすべく努力をしていたはずですし、おそらく(1)の課程はクリアしていたのではないかと推測します。ただし、その当時の科学や技術のレベルでは(2)をクリアできていなかったのかも知れません。


すいませんね  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日16時22分

もう一回自分の書き込み読み直しましたが、

>>偉大な科学者の頭脳と努力に対する愚弄です。
>すいません、私のたとえ話は、
>>学会から全く相手にされないまま半生を賭けた学者の研究がついに実を結んだ例
>というココさんの歴史上の具体的な例に対するたとえ話ではありません。

これは、私の「たとえ話」の持っていき方が不適切ですね。
そこのところはお詫びします。

ココさんの書き込みに触発されて作ったたとえ話ですが、
私の意図としては、もうちょっと一般論よりな所を指してます>例のたとえ話。

あと、このたとえ話は出発点でしかなくて、必要に応じて
いくらでもヴァリエーションを作れるところがポイントです、とだけ。

本筋と関係ないと思うなら、別に無視してくださってかいませんよ>たとえ話のところ


そうですね  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日16時12分

>偉大な科学者の頭脳と努力に対する愚弄です。

すいません、私のたとえ話は、

>学会から全く相手にされないまま半生を賭けた学者の研究がついに実を結んだ例

というココさんの歴史上の具体的な例に対するたとえ話ではありません。
# 誰の話だろ。ウェゲナー?

対応するのはむしろこちらで、

>現状科学としての期待値が0のモノを切り捨てても、それにより
>こうむる害は大して存在しません、そう断言してしまうのは正しいのでしょうか。

科学と疑似科学を分ける境界線は何か、というあたりの話を深めるのに
役に立つかと思って提出した、たとえ話です。


そのたとえ話は  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日15時56分

更に論点はずれますが……、偉大な科学者の頭脳と努力に対する愚弄です。執念といったのは単なる思い込みのことを指しているいるのではありません。膨大な知識と明晰な頭脳に基づく直感と、その直感が動機となる更なる知識と思考の積み重ねの末に新たな理論が発見されたのではないのでしょうか。後知恵で判断するのは簡単なことでしょうが、単なる思い付きによる執念だけで科学の理論が発見されるとは到底思えません。


血液型性格判断の妥当性  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日14時46分

>ここで、どうしても血液型と性格のことが想定されてしまうようなので一言
>だけ言っておくと、社会心理学の統計では相関の大きさはともかく有意差は
>認められていると思われます。心理学者もそう言っていたと思います。

ん、そうでしたっけか?
すいません、私の記憶違いかも知れないので、調べる機会があれば調べておきます。

ただ、たしか有意差があってもほとんど無視できる範囲という結論は変わらなかっ
たはずなので、血液型性格診断に利用価値は無いという私の判断は変わりません。


たとえ話をしましょう  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日14時44分

たとえ話をしましょう。
(たぶん、適切なたとえになっていると思います)。

ここに、露天の宝石鉱山と、砂だらけの砂漠がありました。

ある男が「この砂漠を掘り続けるとその下には直径五十センチの
ダイヤがごろごろしているかも知れないぞ!」と言いました。

でもみんな、その男の話には耳も貸さずに、露天の鉱山に殺到
しました。男は悔しく思い、一生をかけて砂漠のダイヤを見つ
けてやると決心しました。

・ストーリー1
男は結局砂漠のダイヤを見つけることは出来ないまま死にました。
砂漠にダイヤはあったのでしょうか? それは誰にもわかりません。
またいつか物好きが砂漠を掘り返してダイヤを見つけてくれる
かも知れません。しれないかも知れません。それは歴史が明らかに
してくれることでしょう。

・ストーリー2
男は執念で砂漠を掘り進め、地下百メートルの地点でついに直径五十
センチのダイヤを見つけました。「見ろ、やっぱりダイヤはあったん
!」男はそう叫ぶと息絶えました。その後、みんなは砂漠に殺到し、
砂漠を掘り返し、直径五十センチのダイヤを掘り出して大もうけし
ました。男は、「砂漠の英雄」として長く称えられました。


さて、上記のたとえ話で「みんな」が「男」の話を無視して
露天の宝石鉱山を掘り続けたその判断に、非難すべき点は
あるでしょうか?

私は、特にないと考えます。


RE:そんなんは簡単です  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日14時33分

ちょっと論点がずれているような気もしますが……、現状科学としての期待値が0のモノを切り捨てても、それによりこうむる害は大して存在しません、そう断言してしまうのは正しいのでしょうか。本当に0ならばそうかもしれません。

学会から全く相手にされないまま半生を賭けた学者の研究がついに実を結んだ例もあります。それも大変な重要な発見です。最初から「必要条件」が整っていれば半生を賭ける必要などなかったのではないでしょうか。現状保留としておいたのでは決して実を結ばなかったのではないでしょうか。そういう例があります。科学者は物好きだからといって放っておいてもどんな研究にも殺到してくれるとは限りません。確かに期待値が高いところには殺到するでしょうが。誰からも相手にされていない一人の推測が実るとも知れない何十年の執念の末に実る例があります。カール・セーガンもそういう事例に敬意を表しているはずです。それを踏まえてあのようなことを言っているのではないでしょうか。

ここで、どうしても血液型と性格のことが想定されてしまうようなので一言だけ言っておくと、社会心理学の統計では相関の大きさはともかく有意差は認められていると思われます。心理学者もそう言っていたと思います。


逆に、ココさんはどう考える?  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日13時54分

>現状、科学の定説を覆すこととの期待値が0でも
>切り捨てることの危険性は残るように思われます。

では、逆にお聞きしますが、ココさんはそうした場合、どうすべきだと考えますか?

実際のところ、「切り捨てる危険性は残るように思われます」だけでは何も言って
いないのと同じです。「切り捨てる危険性はゼロだから、科学者はあらゆる理論を
常に吟味検討し続けよ」というのが暴論だと言うのは、ココさんにも同意いただけ
ると思います。結局「じゃあどういう方法論を取るべきなの?」というのが重要。

理論への現時点での期待値を元に研究方針を決める今の自然科学のやり方はじゅう
ぶん妥当であると私は考えます。

余談だけど、血液型性格診断はそういう意味では「かつて科学になるかも知れない
と思われて研究されたけど、その結果血液型と性格の間に有意な相関は認められな
かった」すでに終わった理論に属します。常温核融合みたいなもんかしらん。


そんなんは簡単です  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日13時44分

>これが満たされているかどうかの認定が困難な場合はどうすればいいのでしょうか。

これは簡単で、「認定が困難な場合、現状保留としておく」で問題ありません。
現状科学としての期待値が0のモノを切り捨てても、それによりこうむる害は
大して存在しませんから。

科学者はそもそも物好きな人種ですから、そのトピックが本当に重要な代物で
あれば、放っておいても研究に殺到してくれます。じゃあなんで、そういう
「期待値によるスクリーニング」が必要かと言うと、そもそも世の中には研究
に値すらしにいい加減なトピックがあふれすぎいて、そういう道具を使って
事前に足切りしないと、そもそも重要なトピックにすらたどり着けないから
なんです。

ただ、上記原則にも例外はあって、特定のトピックが社会的にきわめて重要
な影響力を持つ場合は、対策が先行されることもあります。地球温暖化問題
がその例で、温暖化のメカニズムに関する研究はまだ完全に煮詰まっている
わけではないですが、二酸化炭素排出と温暖化の関連にじゅうぶん蓋然性ア
リと認められる、という現状ですでに政策レベルでの対応が行われています。


科学の必要条件の無謬性の確からしさ  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日13時08分

>(1)目的とする対象を論議・あるいは検証するに際して、客観的に確からしく、かつ適した論理及び手法を用いて得られた結果であること。

これが満たされているかどうかの認定が困難な場合はどうすればいいのでしょうか。現状の手法や論理の不備の可能性も十分検討される必要もあるように思われますが。当然それは(2)にも影響します。観察・観測され方が的外れの場合もあるかもしれません。現状、科学の定説を覆すこととの期待値が0でも切り捨てることの危険性は残るように思われます。「必要条件」の理論・判断の無謬性も絶対とは考えないものだとカール・セーガンは指摘しているように思われます。


科学の必要条件  投稿者:温泉カワセミ 投稿日: 2005年11月08日12時17分

ココさん、

>度々検証された自然法則でさえも、絶対に正しいとは言い切れない(その自然法則以外の推測・仮説の可能性は限りなく0でしょう)。

客観性を重んじる「科学」おいて、「絶対に正しい」等という「文語的表現」がマッチしないのは仰るとおりです。もちろん、それまで正しいと思われていた「科学理論」が新規に判明した事実や理論によって覆されることも、間々あることです。

ただし、そのような「科学の定説」を覆す「新説」には、「満たすべき資格」が存在します。

すなわち、

(1)目的とする対象を論議・あるいは検証するに際して、客観的に確からしく、かつ適した論理及び手法を用いて得られた結果であること。

(2)今現在判っている(観察・観測されている)事象に対して整合性を持っていること。

の2つです。

これらは科学として論議するために最低限の「必要条件」であり、これらを満たして居ない場合は、「科学」として検討するべきものではありません。よって、これらを満たしていない「言説」では、現在の科学の定説を覆すことは不可能です。ゆんさんの仰られる「期待値0の方針を採用」と言うことは、おそらくこれを表現したものだと思います。

ただし、「必要条件」を満たしていない言説だからと言って、それが即「擬似科学」になる訳ではありません。例えば占いや宗教に対して、そのような批判をするのはナンセンスです。「必要条件」を満たしていないのに、科学的根拠が在ると主張する、もしくは在ると明言せずとも在るかのように誤解をさせる場合に「擬似科学」と言う忌むべき虚言となると、ワタシは考えています。


また「ABO式血液型性格診断」に関して、専門家なり学者が「可能性が0とは言えない」と言うコトはありますが、それはあくまで『「今後」に上記必要条件を満たすようなデータが得られた場合に限り』と言う「仮定」の話です。

今現在流布している「ABO式血液型性格診断」は少なくとも(1)の条件を満たしておりませんので、科学的議論の俎上に上げることは出来ません。NATROMさん達は、「現状流布しているABO式血液型性格診断」が、あたかも科学的な客観的根拠を有していると誤解させるような言説に対して、批判されておられるのだと思います。


昼休み中にコソッと書いたもんで、雑な表現や論になってるかも知れませんが、とりあえずはこんなモンで。


ググってみりゃいいのに・・・  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2005年11月08日11時52分

なんでググって見たら5分で検索できる事、それも検証不可能なものでもないでしょうに・・・

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H10/1009/100916propaganda.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110101nankin.html

ちなみにサンフランシスコ・クロニクルではこのような特集を組んだ。
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2004/11/20/DDGN29TV0G1.DTL
南京大虐殺があった、無かったとは言っていないが、アイリス・チャンの著書の証拠の信頼性には困難がつきまとう、との話。
普通、証拠の信頼性に問題があったら、裁判では敗訴する可能性が極めて高いだろうに。。。


Re:否定された推測や仮説  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年11月08日11時34分

 ある仮説が現在否定されているならば、それを(私たちのような専門家や研究者でもない者が)再検討する必要性がどこにあるのでしょうか。再検討するに値するデータがあるのなら、話は変わります。しかし、その提出がない状況において、疑似科学としか評価のしようのない説を(とりわけ)公平に扱う理由はどこにない、と私は思います。

 信憑性0である仮説が、将来的に中心仮説となる「可能性」は必ずあります。
 ですが同時に、その仮説が将来的にもまったく否定され続ける可能性は遥かに高く、揺るぎのないものである、といえるでしょう。仮に再評価する場面がきたのであれば、それはそのときに考えれば良いことであって、現在認識すべき重要な点は、その仮説が「信憑性ゼロである」ことではないでしょうか。


んじゃ、こちらも・・・  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2005年11月08日11時32分

調べてみれば判ると思うけど、

1.秦邦彦氏(「昭和史の謎を追う」の著者、千葉大学教授)が現地調査をした結果、韓国・済州島で女刈りをした」という吉田証言は全くのデタラメ。
2.済州島の地元紙「済州新聞」の女性記者、許栄善氏は独自調査の結果89年8月14日付の紙上で吉田証言はでっち上げだと断定。
3.後日、吉田氏もフィクションと認めた。(『週刊新潮』1995年1月5日号)


他にも、韓国ソウル大学の安垂直教授は、彼がコンタクト出来た40人以上の女性の証言を検討した所、半数以上の証言は矛盾していたり、時代背景と違っていたり、事実を歪められていたと報告している。彼はそのうち19人の証言をまとめて発表しているが、その内日本軍に強制されて慰安婦にさせられたと言っているのは、僅か4人に過ぎないそうだ。しかもその内の一人は釜山で働いたと言い、他の一人は富山で働いた、と言っているのだが、釜山にも富山にも軍の慰安所はなかったのである。残る2人の内一人は前述の金学順であり、今一人は文玉珠という女性であり、彼女は日本政府に対する訴訟で、当初は娼婦として売られたと言っている。
この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行 などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っているとな。

「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。
 三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、
 華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付」


他にも、日本軍の関与があったとされる資料として
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「軍慰安所従業婦等募集に関する件」
(昭和13年3月4日、陸軍省兵務局兵務課起案、北支那方面軍及び中支派遣軍参謀長宛)

支那事変に於ける慰安所設置の為内地に於て之が従業婦等を募集するに当り
故らに軍部諒解等の名義を利用し為に軍の威信を傷つけ且つ一般民の誤解を
招く虞あるもの或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を
惹起する虞のあるもの或は募集に任する者の人選適切を欠き為に募集の方法
誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要するもの少なか
らずに就ては将来是等の募集等に当りては派遣軍に於て統制し之に任する人
物の選定を周到適切にし其実施に当りては関係地方の憲兵及警察当局との連
繋を密にし、次て軍の威信保持上並に社会問題上遺漏なき様配慮相成度依命
通牒す

(漢字は新字体に、カタカナはひらがなに修正)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
というのがありますが、これをどう読んだら軍が主導して奴隷狩りをしたって事になるの?

んでもって、宮沢喜一首相の韓国訪問5日前という絶妙のタイミングで、1992年1月11日、1面トップという大々的な報道がなされた結果、ハト派の宮沢総理(当時)は謝罪する以外の道がなくなったわけではないのかな?
当時の朝日新聞の影響力の強さは、10年前の事を覚えている人は良く御存知のはず。

でも、1992年7月6日、日本政府は1月の日韓首脳会談の約束に基づく調査結果を発表。
関連資料が127点発見され、「政府の関与があったことが認められた」という結論を出しましたが、強制連行に関しては資料が発見されなかったので認めてません。


高木健一弁護士を代理人に立てて「太平洋戦争犠牲者遺族会」が1991年12月6日、日本政府を提訴しますが、その高木弁護士はこの裁判の争点を、「従軍慰安婦と戦後補償」という本にまと
めています。この本では、慰安婦は軍によって計画的・組織的に狩り集められたものだと、断定しています。その根拠は、例の吉田清治。
この弁護士のヤリ口は「サハリン残留裁判」で、マスコミや社会党(当時)を焚きつけて、社会運動までして、裁判の外で32億円の補償を日本政府に拠出させるや否や、訴えを取り下げるって、トンでもないインチキめいた技を使った人だし。

ちなみに朝日新聞やその関係者が関与していることでは、例のNHK番組改変問題で一躍有名になった「女性国際戦犯法廷」の関連団体もそう。
あろう事かその裁判ごっこで検事役を務めたのは北朝鮮の黄虎男対外文化連絡協会日本担当局長、鄭南用朝鮮国際法学会常務委員。
議員会館の会場手配は民主党衆議院議員石毛えい子。

そして、「「女性国際戦犯法廷」に対する冒とくと誹謗中傷を許さない日・朝女性の緊急集会」
http://www.worldcorea.net/modules/eguide/event.php?eid=6&PHPSESSID=39967d17f9e69ba645ba52ca3c5e4bec

の連絡先の電話番号は 『在日本朝鮮民主女性同盟中央本部 』という団体の事務所と同じ電話番号
http://www.chongryon.com/j/cr/link1.html

疲れた・・・


RE:きわめて一般的な答えになりますが  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日 9時46分

カール・セーガンさんの言葉が全てだと思いませんが、度々検証された自然法則でさえも、絶対に正しいとは言い切れない(その自然法則以外の推測・仮説の可能性は限りなく0でしょう)。しかし、まだ調べられていない新しい状況によって、他の推測や仮説の可能性がほぼ0%からほぼ99%に変わることがあり得ると言っているように思われます。つまり(科学者以外?)誰もがほぼ0%だと思うことでも新しい状況によってはそうではなくなると言っているように思われます。


RE:藤岡信勝(3)  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月08日 6時29分

>いや、社会運動にかかわる、熱意のある人たちすべてのことを
>言っているのでは、さすがにないでしょう...

 残念ながら私にはそうは読めません。

>たとえば、「『社会正義』を消費していないと実存の問題を
>解決できないオールドタイプたち(笑)」なんて書いているし、
>特定のタイプを指して、「困ったチャン」と言っているのでしょう。

 それどんな人達のことか多くの人に明白なんでしょうか? 実存の問題と書いてますが、どうもサルトルの哲学と関連する問題とも読めません。「社会の問題」で騒ぐ前に本来取り組むべきもっと身近で実際的な問題を「実存の問題」と書いているように読めました。なんだか「身の程知らずが社会の問題なんぞに手をだすんじゃねえ」と言ってるみたいに読めちゃうのですよ。
 能力が卓越しているだけに危険でファナティックな運動家をネットで批判するのも『社会正義』の一種だと思うのですけどね。そしてこの『社会正義』自体は私は評価しますよ。


きわめて一般的な答えになりますが  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年11月08日 4時12分

Q:否定された推測や仮説はすべて疑似科学だろうか
A:いいえ。あらゆる仮説はいつか真となる可能性を持っている

でも、質問を以下のように変形すると、

Q:では、あらゆる推測や仮説は同等の重みで扱われるべきか?
A:いいえ。仮説や質問には「確からしさの程度」が存在する。
確からしさが限りなく0に近ければ、それは当座0であるとみなすべき。

一般論的にはそんなものでしょう。
「可能性」には、0%〜100%までの大きな幅があって、それによって
取り扱いを変えるのはきわめて妥当な態度であるとかなんかそんな感じの話。

血液型性格診断はそういう尺度で見ると現在はほぼ「0」。
期待値0の方針を採用する理由が無いので、血液型別保育は特に導入する必要なし。
むしろデメリットが予想されるので導入するべきでない、てな感じか。


否定された推測や仮説はすべて疑似科学だろうか?  投稿者:ココ 投稿日: 2005年11月08日 3時54分

最近の「血液型保育は差別か?」というようなテーマの議論において疑似科学の強い信念に引きずられた感があり議論を上手く進められたとはいえない状況になりました。そこで、一つ問題提起をしたいと思い投稿します。

科学の定説といわれるものもご存知の通りひとつの仮説にすぎません。科学の定説となるのは仮説同士の中で競い合い現時点で最も現象を矛盾なく説明できる仮説に過ぎません。(「真理とは仮説である。その仮説で現に知られている全ての現象を説明できれば、その仮説が真理である」実証主義の科学者ポアンカレ)しかし、現時点では決着がついたかに見えたとしても、だからといって否定された残りの推測や仮説全部をきれいさっぱり破棄してよいことにはなりません。ただし明らかに科学の仮説とは呼べないようなものを含む場合もあるかもしれません。仮説同士で競い合えないような仮説はもしかしたらこの中に含めてよいかもしれません。(いわゆる反証可能性のない仮説です。)しかし、それ以外の推測や仮説は一旦は否定されたとしても未だに科学の仮説の一つと言ってかまわない場合もあるかと思います。なぜなら別の新たな科学的知識や新しい測定技術などの技術の出現によりこれまでの定説が矛盾したものになり、これまで否定されてきた推測や仮説が再び脚光を浴びないとは限らないからです。特に、未解明な点が多い分野に関しては何が起きるか分かりません。新たに解明される可能性のある領域が多く残されていれば、それに関わりのある分野では従来の真理とされた仮説が影響を受ける可能性は多いにあると思います。現状、否定された推測や仮説を疑似科学だと決めつけるのを慎重にすべき理由はここにあります。明々白々な場合を別にして否定された推測や仮説を科学者なら絶対に間違っていると断言するのを慎重にするでしょう。さらに疑似科学と判断することは尚更控えるでしょう。(「科学者という人たちは、自分のやっていることが正しいと断言することにはとても慎重なものである。推測や仮説は当然ながら暫定的なものでしかないし、くりかえし検証されてきた自然法則でさえも、絶対に正しいとは言い切れない。なぜなら、まだ調べられていない新しい状況があるかもしれないからだ。」カール・セーガン「カールセーガン科学と悪霊を語る」より)

みなさまどのようにお考えでしょうか。冷静なご意見をお聞かせ下さい。


藤岡信勝(4)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年11月07日22時20分

> ただ、その人の人格と主義主張の内容の正確性は基本的に別のはず。(ヘルメス☆さま)

くだんの記事は、藤岡氏の主義主張ではなくて、
人格のほうを、議論しているんだと思いますが...?
(狂信さとか、運動の手練手管のことだから、
「人格」というと、語弊があるかもしれないけど。)

あの論調からして、記事を書いたかたは、
藤岡氏の共産党時代のご活躍を、冷笑していそうですし、
「つくる会」なんて、なおさらナンセンスと思っているでしょうけどね...
こうした正確性自体は、すでに了解ずみの前提として、
直接の論点にはしてないと思いましたが。

>もっとも、ある意味では自分の意見に対する頑固さは学者なら大概誰でも
>(多かれ少なかれ)あるんじゃないかな。

記事を書いたかたは、「学者」としてではなく、
「運動家」としての藤岡氏を、批判しているのでは...?
(「この藤岡という『評論家』というよりは『運動家』である
この男を敢えてここに取り上げたのは」と書いています。)

それに、運動家藤岡のファナティックさは、
学者に必要な平均的な頑固さより、はるかに強烈で、
「多かれ少なかれ」なんて程度ではないようですけど...?


藤岡信勝(3)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年11月07日22時18分

>成功させるにはある種の熱意が必要です。
>それを一般的に「困ったチャン」と表現されても意味不明なんですよねえ。

>間違ってるかも知れないからやめとこうとばかり言ってるのも
>別の意味で「困ったチャン」とも言えますし。(diamonds8888xさま)

いや、社会運動にかかわる、熱意のある人たちすべてのことを
言っているのでは、さすがにないでしょう...
たとえば、「『社会正義』を消費していないと実存の問題を
解決できないオールドタイプたち(笑)」なんて書いているし、
特定のタイプを指して、「困ったチャン」と言っているのでしょう。


歴史研究  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2005年11月07日20時41分

ネットで見た限りではアイリス・チャンの仕事は些か雑で、勇み足もあったようだ。
しかし南京事件に関する歴史研究の成果が揺らぐはずもなし。


>そもそも、従軍慰安婦問題に関しては、その出所の情報である吉田作治の著書が、
この問題が大きくなってきてから後に誤りだと指摘されたにも拘らず、

はて誤りだと証明されたという話は聞かない。それに調査の結果政府も認めているよ。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html


>また、中国共産党政府や韓国政府による日本からの賠償請求と絡み、

中国や韓国だけではないよ。外務省のページにはフィリピン、韓国、台湾、
インドネシア、オランダがある。調査研究が進めば他の占領地での事例がでてくる可能性もある。


>藤岡信勝( 東京大学教授、教育学者 )

教育学者は歴史の専門家ではあるまい。

間違った歴史の本
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/uso-hon.htm

第三部 東中野氏の徹底検証
http://www.geocities.jp/yu77799/

実証的歴史研究ができない連中が「新しい歴史教科書」というのは
悪い冗談としかいいようがない。

『 自由主義史観研究会 』というのは自分の思想信条に受け入れられないので
学問的に決着済みの問題に難癖をつけているだけ。
そういう意味では創造科学となんら変わるところはない。


キリスト教掲示板  投稿者:管理人 投稿日: 2005年11月07日13時24分


http://sky.advenbbs.net/bbs/jesus.htm


主張と人格  投稿者:流木 投稿日: 2005年11月07日 7時51分

>要するに、どのような内容であろうとも、その論文や文章の正確性、それを補足する資料の検証が基本であり、それを主張する人間の人格や性格は問題では無いのでは?

 確かに、原則論としてはそうですが、その人がどんな人なのかもその人の主張の確からしさを判断する材料の1つになっているんじゃないでしょうか。例えば、「オオカミが来た」と何度もウソをついて村人を騙していた羊飼いの少年の場合、本当にオオカミが現れたときに村人から信じてもらえません。「あいつのいうことなんか信用できない」という人物評ができあがってしまったので、「本当かも知れない」と誰も思ってくれなくなったわけです。

 ジャーナリストの本多勝一さんの場合、毛沢東が晩年に引き起こした文化大革命を手放しで礼賛したことがあります。当時、文革を誉めた人たちは知識人の中にも大勢いたわけですが、本多さんの場合、著作集として当時の文章を収録するに当たって、相当に修正を加えてまるであの当時から自分は文化大革命に対して批判的だったかのように書き直していたりするわけです。で、そのことについては何の説明もありません。こういうやり方をみると、本多さんという人間を疑ってしまうし、彼の話を聞くときも眉にツバをつけて聞かなければならないなという気持ちになります。

 むろん、オオカミが来たとウソをついていた少年の場合、オオカミは本当に現れたわけですし、本多勝一さんの場合も本当の話も書いているかも知れません。でも、疑われてしまうのもご本人のやったことからすれば止むを得ないのではありませんか。


ねむ・・・  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2005年11月06日23時59分

う〜む、何時に無くのほほんとこの掲示板の流れが緩やかな気が。
ともあれ、例の藤岡信勝氏の件は、確かにあの人も『思い込みが激しい』人らしいですけど。
ただ、その人の人格と主義主張の内容の正確性は基本的に別のはず。(論文等に滲み出るニュアンスは別として)
もっとも、ある意味では自分の意見に対する頑固さは学者なら大概誰でも(多かれ少なかれ)あるんじゃないかな。

>EzoWolfさん
たしかにアイリス・チャンは学者ではなくジャーナリストですが、だからといって不正確な情報や明らかに歪んだ内容を“ドキュメンタリー”として報道する事は許されないのでは無いでしょうか?
ジャーナリストであればなおさら、これは自分が調査して実際に起こったことだ、という報道をするなら、正確な情報に基づいて報道をする義務と責任があります。でなければ、言った者勝ち、2chも真っ青の誹謗中傷の嵐にもなりかねない。
NHKの番組改変問題に関することや、所沢のホウレンソウ事件のように、本当に行われたのかどうか、真実は何か、それをどう証明できるのか、を検証して報道するのがジャーナリズムであり、それがおろそかにされているからこそ、この一件は問題になるのでは無いでしょうか?

そもそも、従軍慰安婦問題に関しては、その出所の情報である吉田作治の著書が、この問題が大きくなってきてから後に誤りだと指摘されたにも拘らず、その全貌が正確に検証される前に政治問題化したこと(あるいはさせられたこと)が根本の原因にあるような気がします。
また、中国共産党政府や韓国政府による日本からの賠償請求と絡み、多国間の問題になり、それに加えて中国・韓国寄りの姿勢を強く出す朝日新聞などの一部メディアが過剰な報道を行ったことで、余計に問題が拗れてきているのでは、と感じています。
(おっと、脱線気味だな、これは)

要するに、どのような内容であろうとも、その論文や文章の正確性、それを補足する資料の検証が基本であり、それを主張する人間の人格や性格は問題では無いのでは?
というのが私の疑問。


レポートを作りました  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年11月06日13時45分

一つは「幸福を感じ取る天才になれる7つの方法」というレポートで自殺願望の塊だった私が信仰によって自殺願望から解放されるためにとった7つの方法を紹介した物です。
もう一つは「統合失調症を治す18の方法」で私が統合失調症を治すために信仰によって乗り越えた18の方法を紹介した物です
レポートは各300円で配布中です
ご希望の方は私のメルアドまでよろしくお願いします
分量はどちらもA4の紙に20枚ほどです
発送は添付ファイルのメールでします


訴訟  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月05日13時14分

 中西準子のHPはよく読むので訴訟のことは知ってましたが詳しい経緯まではフォローしていませんでした。議論の中味はともかく、こんなこと裁判所に持ち込むなよなあと言いたい。シンポジウムの発言を見ると、中西さんの判断も早とちりだったようにも見えはしますが。


RE:藤岡信勝(2  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月05日13時13分

 たんぽぽさんの推定も当たっているのかも知れませんが、あのサイトの表現からはそのように詳しいメツセージは読みとれませんでした。
 それはそれとして「何か」をやりたくてしょうがなく、実際にやってしまう、というだけでは必ずしも困ったものとは言えないでしょう。やる内容によって、誰かにとっては困るし、誰かにとってはありがたかったりするものでしょう。カルト活動もそうですが、会社経営でも宇宙開発でも、同窓会や趣味の会の企画でも、成功させるにはある種の熱意が必要です。それを一般的に「困ったチャン」と表現されても意味不明なんですよねえ。

 自分達が信じている正義が本当に妥当なのかどうかを常に自問すべきだ、というなら、その通りなんですが、間違ってるかも知れないからやめとこうとばかり言ってるのも別の意味で「困ったチャン」とも言えますし。


ネタの提供でございます  投稿者:Kosuke 投稿日: 2005年11月05日 5時46分

昨夜のプチオフでちょこっとお話したら、どなたもご存じなかったのは意外でした。

環境省主催のとあるシンポジウムでのこと。京都大学教授が行ったプレゼンに対してその座長がご自分のサイトで批判したら、名誉毀損で訴えられてしまったという、???なお話し。
http://www.i-foe.org/

訴えた側のバックには、どうもトホホな「市民団体」があるような・・・。
科学と社会の関係、情報リテラシーについて考えるという意味でこちらの掲示板の主旨にも合うかなと。


抗体じゃねえですが  投稿者:soft_tractor 投稿日: 2005年11月05日 0時08分

えー、毎度どうも

仔馬は腸内で必要な微生物を得るために、母親の糞を食うそうでやすね↓。
http://www.tokachi-nosai.or.jp/backup/0205/gijyutu200205.htm
”食糞”ってんだそうで、まあ、まだ詳しいこたわかってねえみてえですが↓。
http://www.equitation-japan.com/library/pdf_01/btc_news.pdf


なんだか2chの環境・電力板に、スレが乱立しておりやすね>アイエスガスシステム


母乳  投稿者:NATROM 投稿日: 2005年11月04日23時25分

イヌネコが仔をペロペロなめるのは、仔についたバイキンを取り込むためだとか。本当かどうかは知りません。

初乳に限らず、母乳には白血球が入っています。何らかの役目を果たしているかどうかは知りません。体外で白血球がそれほど働くとは思えないのですが。なお、HTLV-Iというウイルスは、母乳中のリンパ球を通じて母子感染します。母乳の数少ない欠点の一つです。

それにしても、↓アイエスガステム↓の投稿意味不明。


進化ゼロなアイエスガステム  投稿者:原田泰三 投稿日: 2005年11月04日22時12分

進化どころか退化しているガス会社


母乳  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2005年11月04日13時14分

>しかも今までの抗体ではやっつけられない新しいバイキンが赤ちゃんの身体の中に侵入してくると、その情報をお母さんのおっぱいに伝え、すぐに新しい抗体をつくって母乳を通して赤ちゃんを守ってくれるのです。

新しいバイキンが寝起きを共にする母親にも同時に侵入するからと考えると、
赤ちゃんからの情報のフィードバックは別に必要ないのではないだろうか。


>初乳に抗体が多いことは濃度も測定されてるみたいだし間違いないでしょうけど。

初乳には白血球も入っていると何かで読んだことがあります。


藤岡信勝(2)  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年11月04日12時31分

「困ったチャン」たちは、「何か」をやることが
目的化さえしていて、その社会的な意味や影響を、
あまり考えないことの危険性を、言いたいんじゃないかな...?
(というより、「何か」がなんであろうと、それが絶対的な
正義なのだと思い込む、というのが、正確かもしれないけど。)

藤岡氏にとっては、「共産党」も「つくる会」も、
社会正義の実現のための、取りうるオプションのうちに
すぎないのかもしれないです。
(政治思想的な方向が、まったくちがうので、まどわされそうだけど。)
その意味で、彼の「転向」は、たいした変化ではないと、
くだんの記事は、言いたいのだろうと思います。


それから、藤岡氏が、かかる「困ったチャン」たちの、
カリスマの役をはたしていることも、問題視していると思います。
カルト化した集団は、まわりの人たちや自分たちに、
多大な悲劇をもたらしたあげく消滅する、というのが相場ですからね。

このあたりは、集団妄想の起きるメカニズムが、念頭にありそうです。
「正義のお題目を説くカリスマと、それに盲従する信者たち」という構図、
そして、藤岡カルト発生の社会的素地として、
「『天下国家の問題』を捏造しなければいけないくらい、
我々が『こういうネタ』を欲して」いる状況があると、
くだんの記事は、ご指摘なんじゃないかな...?


藤岡信勝評価サイト  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月04日 5時59分

 wadjaさん御紹介のサイトは藤岡信勝氏については貴重な情報を教えてくれたサイトですが、私はむしろあのサイトの著者のスタンスがわからなくて戸惑いました。スタンスと言って悪ければ評価の基準ですかね。本人にとってはその基準はわざわざ言うまでもないことなのかも知れませんが、他人はまた違いますからねえ。
 「何か」がやりたくて仕方がない困ったチャンたちをニヒルに見とこうとする姿勢も理解は示せますまが、誰がどう困るのかが示されてないから、まあよくわかりませんよね。少年よ大志など持つな、と言ってるみないな。ある意味、堅実な人生哲学の持ち主なんでしょうか。


鳩さんは嘘つき?  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2005年11月04日 5時39分

>>しかも今までの抗体ではやっつけられない新しいバイキンが赤ちゃんの身体の中に侵入してくると、その情報をお母さんのおっぱいに伝え、すぐに新しい抗体をつくって母乳を通して赤ちゃんを守ってくれるのです

>...って、ほんとですか?

 これはウソでしょうね。出典を示せ、と問いつめてみようか。いや本当にそんな実験結果でもあれば大発見だと思いますが。

 初乳に抗体が多いことは濃度も測定されてるみたいだし間違いないでしょうけど。


ほとんど忘れてた  投稿者:wadja 投稿日: 2005年11月03日18時10分

To:ヘルメス☆さん

多分誤解…かな?

これは、wadjaの全くの独断やけど…。

一般的に人生の途中で主義信条を変えることは、それ程問題無いやろね。wadjaも60過ぎたら改宗する可能性もあるし。せやけど、それが政治信条の場合、特にそれが180度の極から極への方向転換やったら、wadjaはその人に対する見方は慎重にします。もちろんその人にはその人なりの理由があるんやろけど、「ようまあ極端から極端に、よっぽど思い込みが激しいんかいな?」位は思とかな。そんな人が「アイリス=チャンは大嘘付きだ!」と根拠を挙げて主張したとしても、その根拠がどれだけ正確な史実に基づくものか、検証が必要やと思うやないですか。

これが自然科学に関して、立場や主張を変えることやったら、それはまた判断基準が違うねんけどね。歴史や政治より、色んな意味で客観性が高いから。

しかーし!(誰かの真似)

wadjaがあのHP紹介した意図はそれとは別なんよ。

wadjaは別に権威主義やないけど、自分が全く知識の無いことに関しては、やはり「ちゃんとした」大学の「教授」や、それを専門とする「研究者」の言うことには「ふーん、そうなんや」って思う方なんよ(まあ、主観の入り易い歴史やなんかに関しては、必ずしもそやないねんけど)。せやけど、当時(えーと半月ほど前か?)反中国流さんの書き込みにはただ「藤岡信勝( 東京大学教授、教育学者 )」とだけあって、大学教授の権威付けを利用しようとする意図が見えてるような気がしたんで、「この人に関しては、こんな反対意見もあるけど…」程度のつもりで、件のHPを紹介してん。言い訳に聞こえるかもしれへんけど、あれを以って「藤原なんてただの阿保やん」というつもりもなかったんよ。まあ、「つくる会」の話に詳しい人やったら藤岡氏のひととなりとかもある程度は知識としてあるやろうけど、そうで無い人には有益な情報かなと思ったもんで。


藤岡信勝  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年11月03日 8時28分

>藤岡信勝の事は正直、興味も無いが「考え方が変わる」事は許されないのかな?

この記事のことでしたら、そんなことを言いたいのではないと思いましたが?
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-hujioka.htm

むしろ批判したいことは、藤岡信勝とかいう人物の、
教条思考の激しさにあるんだろうと思います。
かつて共産党員だったことを、持ち出しているのは、
「思い込みの強烈な人は、どっちに向いても、
やみくもに突っ走るんだねえ。」ということを、言いたいのでしょう...

>「進化論よりも確からしい証拠が提示され、それが検証されたなら、
>進化論よりもその理論を選ぶ」ことと、どう違うんだろう?

藤岡の転向は、そのような実証的態度とは、おそらく別物で、
「信仰の対象が変わった」のほうに、近いのではないかな...?
(すくなくとも、くだんの記事を書いたかたは、
そう考えているんだと思いますよ。)


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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