進化論と創造論についての掲示板ログ312

2005年07月09日〜2005年08月07日
このファイルは、掲示板巡回ソフトのログファイルを元に再構成したものであり、投稿時の状態(フォントサイズ、文字の色、リンク等)をすべて反映しているわけではありません。いくつかの書名にアマゾンのアソシエイトのリンクを張らせてもらいました。
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キンシャチ様  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月07日 7時52分

レスありがとうございます


「看護婦」で叱られた経験あり  投稿者:えめ 投稿日: 2005年08月07日 7時14分

>看護士→看護師
>看護士:男性看護師の以前の名称
実は男の話なんだも〜ん……て
言い訳もむなしい
谷庵さん
訂正の指摘、有難うございます。
>古い変換ソフトだと変換してくれない
ひょっとして、と「かんごし」を変換してみました。
看護師なんてありゃしない
ああくやしい


ありゃりゃ  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年08月07日 6時25分

景山民雄→景山民夫ですね。
最初に景山民雄と変換されたとき、自信がなかったのでググってみたらいくつもヒットしたので正しいと思ってた。
噂を信じちゃいけないのは知っていたけど、検索も信じちゃいけないな。

その後、正確な死因を調べようとしても出てこない。
念のため景山だけでググったら、民夫だった。
景山民夫でググるといっぱい出てきた。
亡くなってから、まだ7年しか経っていないんだなあ。
何だかズーーっと昔のような気がしていた。

宗教への勧誘は気分が悪いけど、故人を引き合いに出して、しかも間違ってたなんて、もっと良くないな。
反省。


偽記憶症候群だったかな  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年08月07日 5時40分

景山民雄は完全に自殺だと思いこんでいた。

一部に自殺説があった。
報道を読んで、私は自殺だと思った。
「作家が宗教に染まるのは自殺行為だ」という野坂昭如の言葉が記憶に残った。
単にもうろくした。
上記のいずれかが原因じゃなかろうか。
謹んで訂正。

でも、死んだ景山民雄から大川隆法に連絡があったという話も記憶にあるのだが、これはどうなのだろう。
「何馬鹿言っているのじゃ」と思ったのは本当の記憶なのだろうか。

自分の間違いばかりじゃ悔しいから、他人の間違いもみっけ。
看護士→看護師
看護士:男性看護師の以前の名称
看護師:性別にかかわらず、看護業務に携わる国家資格を持つ職業人
    古い変換ソフトだと変換してくれない


しあわせ〜ってなんだっけ♪  投稿者:えめ 投稿日: 2005年08月06日22時50分

幸福とはいかなる状態を指すのか
例えば薬物によって副作用も無く「ハイ」でい続ける事が可能なら
(寝たきりでチューブで栄養補給しながら恍惚”ハイ”の状態)
それは個体にとって幸せとは言わないのだろうか。
言わないならそれは何故か
宗教ではなく、幸福の「科学」としての回答を頂きたく思います。
(個体はともかく、遺伝的には適応度として0に近いから「不幸」だろうな。スルより楽しい状態だし。せいぜい見舞いに来た身内が看護士さんと仲良くなれる可能性が増す…?くらい)


(無題)  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年08月06日21時51分

お坊さん。

>>「幸せになりたい」と考えて幸せになれない場合、その人は不幸だと思います。

> 幸せになりたいと考えたから不幸になったわけじゃないでしょう?

ああ、そういうふうにも読めますね。僕のいいたいのはもっと単純に、

>>>幸せになりたいとか悟りたいと考えても不幸になることも地獄に堕ちることもないんじゃないでしょうか?

そんなことはないだろう。地獄はともかく、不幸になる人はいると思いますよ、ということです。

キンシャチはサボテンの名前です。トゲトゲの痛そうなやつ。興味があったらググってみてください。


警察の発表じゃ  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日21時21分

景山民夫氏の死は自殺によるものじゃないということです
激務をこなす中で過労でたばこをふかしながら小説を書いてる時に熟睡してしまい、そのまま火事になってしまい一酸化炭素中毒で死んだんじゃないかと思います


自殺でしたっけ?  投稿者:ゆん 投稿日: 2005年08月06日21時20分

景山民雄氏は、自殺でしたっけか?
事故(プラモ作ってたら溶剤に引火で家事とかそんな)
だったよーな記憶があるのですが。


景山民雄  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年08月06日21時03分

ご存じの通り景山民雄は幸福の科学の信者であり、自殺した人でもあるわけです。
つまり、彼は幸福の科学の信者ではあったけど幸福ではなかったというわけですな。


地下猫さんトトロさん  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日19時28分

大川隆法先生の予言は外れたことを認めますが
ここではそれ以上のことは言いません


キンシャチ様  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日19時17分

HNの由来は名古屋にある金のしゃちほこでしょうか?だとしたら親しみがわきます 私はラジオで「マミのラディカルコミュニケーション」という番組を聴いてる者なんですが番組の中で金のしゃちほこが話題になりました 関係ありませんが…
レスありがとうございます

>「幸せになりたい」と考えて幸せになれない場合、その人は不幸だと思います。「執着を捨てる」というのは、究極には「幸せになりたい」「悟りたい」と考える自分の存在をも無にしてしまうことだと考えます。

幸せになりたいと考えたから不幸になったわけじゃないでしょう?仏教では確か善因善果悪因悪果という言葉があったはずだと思いますが、幸せになりたいと考えるのは善因です しかし不幸という結果が出た場合はそういう悪果を出すような悪因があったと考えるのが仏教的です

>「執着を捨てる」というのは、究極には「幸せになりたい」「悟りたい」と考える自分の存在をも無にしてしまうことだと考えます。

執着をすてろという教えは執着にとらわれている自分をすてろという教えです 執着にとらわれた自分を捨てた時に本当の自分・仏性が現れます


(無題)  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年08月06日18時26分

お坊さん。早速のレスありがとうございます。

>幸せになりたいとか悟りたいと考えても不幸になることも地獄に堕ちることもないんじゃないでしょうか?

地獄はどうだか知りませんが、「幸せになりたい」と考えて幸せになれない場合、その人は不幸だと思います。「執着を捨てる」というのは、究極には「幸せになりたい」「悟りたい」と考える自分の存在をも無にしてしまうことだと考えます。

>そういうわけで仏陀にとっても悟りとか幸せは意味があります

僕の考える仏、悟りとはだいぶ違いますが、お坊さんがそのように考えているのなら、これについてはなにも言いません


Re.お坊さんへネット相談  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日17時52分

>「幸福の科学」とかぬかす、教祖がどうしようもにゃー嘘吐きのゲロ臭い教団がありましてにゃ。この教団に所属する、いいとしぶっこいて自分の境遇を親のせいにするような、頭もワリイし精神も貧困な馬鹿下衆がいるのですにゃ。

私は自分の境遇を親のせいにしてません 私はもう36ですので私の人生に対する責任は私にあります 親の見識の限界、教育者としての実力が子供に与える影響は大きいと言ってます 私は勉強嫌いですから地下猫さんと対等に議論する力はありませんから頭は悪いでしょうね でも学校の勉強をしなかった松下幸之助氏のような人もいますし頭の悪さは関係ないんじゃないでしょうか 要するにこの世で勝利すればいいんです

>で、こともあろうに、この馬鹿下衆がネットで人生相談をしようなどと、悪い冗談の見本みたいなことをしたがってしょうがにゃーのですね。「まず自分の人生を考えろよ」、としかいいようがにゃーのですにゃ。身の程知らずもここに極まれりという感じにゃんね。

私は自分の人生を考えた上で人生相談を始めようと言うわけです これは小学生の頃からの私の悲願です

>で、ご相談なんですけどにゃ。
このような程度の低いクソバカ下衆のネット相談なんて、僕としては眼にすることすら不愉快としかいいようがにゃーのですが、なんせ「える・かんたあれ」を信じてしまうくらいのアホで恥知らずなので、自覚ができにゃーようなのです。
どうやれば、このような身の程知らずのはた迷惑な馬鹿下衆に自覚させることができるのですかにゃ? 教えて。

私はあなたの愚かさを自覚させるためにここに再登場しました


temaさま  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日17時33分

レスありがとうございます


Re.親に逢っては親を殺し、仏に逢っては仏を殺す  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日17時27分

>仏教では、執着を捨てろとときますね。「幸せになりたい」というのも執着なのではないでしょうか。「悟りたい」というのも同様ではないですか。

執着を捨てろと仏教で言われてるのは、執着することが不幸への道であり地獄への道だからだと思います 幸せになりたいとか悟りたいと考えても不幸になることも地獄に堕ちることもないんじゃないでしょうか?

>悟りをひらくというのは仏になることだと理解していますが、あっていますか?仏(佛)とは「人にあらず」という意味ですね。執着を捨てて人ではないものになったら、幸福だとか悟りだとか、そんなものが意味を持つものでしょうか。

悟りには階梯がありまして預流、一来、不還、阿羅漢、菩薩、如来、大如来という順にあります 預流は信仰の入り口にやっとたった状態です、阿羅漢でやっと後光が出るほどの悟りの高さが出ますが、それでもまだ人間的属性が出て退転する危険性が残ってます、菩薩でもまだ人間的な悩みで悩んでます だんだん如来に近づくにつれて人間的属性が抜けていって大如来になると光の固まりでしかなくなります 岩波文庫から出てる中村元博士訳の仏典を読めば分かりますが、仏陀に呼びかける時「幸せな方よ」と呼びかける箇所が随所に出るのに気づきます 要するに悟りを得ると幸せになれるというわけです そういうわけで仏陀にとっても悟りとか幸せは意味があります


親に逢っては親を殺し、仏に逢っては仏を殺す  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年08月06日15時17分

お坊さん。はじめまして。僕にも質問させてください。
仏教では、執着を捨てろとときますね。「幸せになりたい」というのも執着なのではないでしょうか。「悟りたい」というのも同様ではないですか。

悟りをひらくというのは仏になることだと理解していますが、あっていますか?仏(佛)とは「人にあらず」という意味ですね。執着を捨てて人ではないものになったら、幸福だとか悟りだとか、そんなものが意味を持つものでしょうか。


地獄への道は、、、  投稿者:JA50 投稿日: 2005年08月06日14時50分

盛り上がってしまったようなんで、、、

temaさん
>しかし、「ピンクチラシ」には金銭目的という余計なものが入り込んでいます。人によっては、金銭目的で布教する人も居るでしょうけれど、お坊さんの第一の目的は違う、と想像しています。

地獄への道は善意で敷き詰められているって言葉がありますが、なぜ金銭じゃないのか?
それは、金銭じゃ、地獄への道を敷き詰めるにはとても足りないからです。
一方、善意なら、ありあまるほどある。
たぶん、お坊さんの善意も地獄に達してあまりあるんじゃないですか。


お坊さんへネット相談  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年08月06日12時52分

「幸福の科学」とかぬかす、教祖がどうしようもにゃー嘘吐きのゲロ臭い教団がありましてにゃ。この教団に所属する、いいとしぶっこいて自分の境遇を親のせいにするような、頭もワリイし精神も貧困な馬鹿下衆がいるのですにゃ。
で、こともあろうに、この馬鹿下衆がネットで人生相談をしようなどと、悪い冗談の見本みたいなことをしたがってしょうがにゃーのですね。「まず自分の人生を考えろよ」、としかいいようがにゃーのですにゃ。身の程知らずもここに極まれりという感じにゃんね。

で、ご相談なんですけどにゃ。
このような程度の低いクソバカ下衆のネット相談なんて、僕としては眼にすることすら不愉快としかいいようがにゃーのですが、なんせ「える・かんたあれ」を信じてしまうくらいのアホで恥知らずなので、自覚ができにゃーようなのです。
どうやれば、このような身の程知らずのはた迷惑な馬鹿下衆に自覚させることができるのですかにゃ? 教えて。


Re.お坊さんに伺います  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日11時35分

>幸せな人も自殺するのでしょうか。

幸せな人で自殺する人を私は知りません

>それから、簡単に修正すると言うことは、他のことも簡単に修正するようないい加減な話なのでしょうか。

他のことはいい加減な話じゃありません


悟りと幸せに関するマルチレス  投稿者:tema 投稿日: 2005年08月06日11時08分

お坊さん、こんにちは。

> 根拠は大川隆法先生の400を超える書籍群です この本を眺めていると思想というものは一つの体系を持った集合思想に統合できるという考えに至ります でも統合するためには悟りが高くなければならないと考えます

 根拠が書籍ということは、その説は信仰なのですね。ならば、突っこむべき事ではありませんでした。

> 悟りには小さな悟りと仏陀が得た大悟があります
>(中略)
> 仏教教団に入って教学と修行をすれば仏陀の悟りは無理でも最低限の悟りは得られるというわけです

 上記についても、信仰の一部ですね。「仏教における悟り」や「幸せ」というコトについて、temaは、お坊さんと違う認識を持っています。しかし、信仰の一部である以上、議論で答えが出るものでは無いでしょう。

 議論の対象とならない信仰についてのみ記述しては、この掲示板の雰囲気から外れてしまいます。このため、一旦抜いた議論の矛先ですが、収めさせて頂きたい、と思います。


JA50さん、こんにちは。

> なんか、ここに時々やってくるピンクチラシの宗教版みたいな気がするんですが。
> temaさんのも、そのピンクチラシに、あれやこれやつっこみ入れてるようなもんだと思うけどなぁ。

 確かに突っこんでしまったのは、temaの若さ故の過ちというものです。ただ、たとえとして「ピンクチラシ」は不適切だと思います。

 性行為と宗教は、「人の心に安らぎを与える」という面で、共通点が有ると思います。その点においては、「ピンクチラシ」も適切なたとえなのかも知れません。
 しかし、「ピンクチラシ」には金銭目的という余計なものが入り込んでいます。人によっては、金銭目的で布教する人も居るでしょうけれど、お坊さんの第一の目的は違う、と想像しています。

 このため、お坊さんの投稿をたとえるならば、金銭が絡んだ「ピンクチラシ」では無く、むしろ(下ネタのため、以下自粛)


お坊さんに伺います  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年08月06日 9時45分

あの〜〜、幸せな人も自殺するのでしょうか。

それから、簡単に修正すると言うことは、他のことも簡単に修正するようないい加減な話なのでしょうか。


失礼  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月06日 7時14分

ではアルキメデスに修正します
ご指摘ありがとうございます


エウレーカ  投稿者:温泉カワセミ 投稿日: 2005年08月06日 1時29分

個人的には、この手の宗教系の話にインスパイアされることがないのでスルーしようかと思ったのですが、1点だけ確認を。

>悟りとはピタゴラスの言葉のように「分かったぞ!(エウレーカ!エウレーカ!)」という歓喜が伴っているものだとおもいます

「エウレーカ!」と叫んだ逸話が伝わっているのは、「ピタゴラス」ではなく「アルキメデス」では?


新興宗教の宣伝の場?  投稿者:JA50 投稿日: 2005年08月05日 8時39分

ここって新興宗教の宣伝の場でもあるんですか?

なんか、ここに時々やってくるピンクチラシの宗教版みたいな気がするんですが。
temaさんのも、そのピンクチラシに、あれやこれやつっこみ入れてるようなもんだと思うけどなぁ。


Re.楽な道か困難な道か  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月05日 7時41分

>> 思想というものは多様性と個性があるのがよいが同時に一つの大きな体系を持つ一塊(ひとかたまり)の集合思想にそれらは収斂(しゅうれん)される性質を持ってるんじゃないかということです

> 上記の根拠は何でしょうか?

根拠は大川隆法先生の400を超える書籍群です この本を眺めていると思想というものは一つの体系を持った集合思想に統合できるという考えに至ります でも統合するためには悟りが高くなければならないと考えます

>> 幸福の科学では幸福の定義として「悟りという名の幸せ」というのが説かれています 悟りを得ることが幸せに通じるということです

> 上記は、以下のどちらの意味なのでしょうか?
a.悟り=幸せ(正確には、悟り∈幸せ)
b.悟り=幸せを得る方法(正確には、悟り∈幸せを得る方法)

悟りと幸せが=で結ばれるといったわけじゃありません 悟りのない幸せだって世の中にはあるわけですし、だから幸福の科学で説く幸せというのは悟りの別名だと教えているわけです

>どちらにしても、多くの人の役には立たないと考えます。
 なぜなら、多くの人は幸せになったことは有っても、悟りを開いたことが無いからです。
 釈迦ですら、悟りを開くためには長い期間の修行が必要でした。ましてや一般の人では、一生かかっても悟れないでしょう。
 幸せになるために悟ろうとするのは、物理学者になるためにノーベル賞を取ろうとするようなものだと思います。とても困難な道です。星一徹以外の人は、もっと楽な道を選んだ方が良いと思います。

悟りには小さな悟りと仏陀が得た大悟があります 小さな悟りは「気づき」「小恍惚感・ピークイクスピーリアンス」ともいわれるものです そういうわけで仏陀でなくても悟りは得られるわけです 悟りを気づきという言葉で言い換えるならtemaさまにもそういう経験はあるんじゃなかろうかと思いますが どうでしょうか?
悟りとはピタゴラスの言葉のように「分かったぞ!(エウレーカ!エウレーカ!)」という歓喜が伴っているものだとおもいます そんな経験ないでしょうか?小学生の時に算数の問題を解いてる時にこういう経験はあったでしょう 悟りという名の幸せというのもそういうものだろうと思います
仏教の修行僧はみんな悟りを求めてるわけでブッダ以外の人間には悟りは得られないというわけじゃないでしょう 原始仏教時代も悟りを求めてブッダの下に弟子が参集したわけですし
預流(よる)、一来(いちらい)、不還(ふげん)、阿羅漢、菩薩、如来、大如来という悟りの階梯がありますよね
仏教教団に入って教学と修行をすれば仏陀の悟りは無理でも最低限の悟りは得られるというわけです

http://gold.ap.teacup.com/elcantare/


楽な道か困難な道か  投稿者:tema 投稿日: 2005年08月04日21時40分

 お坊さん、住所を削除していただき嬉しく思っております。

 さて、本題の突っ込みです。存分に行かせて頂きます。

> 思想というものは多様性と個性があるのがよいが同時に一つの大きな体系を持つ一塊(ひとかたまり)の集合思想にそれらは収斂(しゅうれん)される性質を持ってるんじゃないかということです

 上記の根拠は何でしょうか?
 temaは、思想というものは多様性を持たざるを得ず、一つの体系に統一することはできない、と考えています。

 例えば「人」を考えてみます。
 生物学の視点から見た「人」は、チンパンジーと多くの共通点を持ちます。一方、政治学の視点から見た「人」は、チンパンジーと共通点を殆ど持ちません。これは「人」という名詞が、視点によって様々な姿を持つからです。

 「幸せ」も同じです。
 脳生理学の視点から見た「幸せ」と、宗教学の視点から見た「幸せ」は違う姿になるでしょう。

 多分、(「人」や)「幸せ」という名詞は、あまりに多くの概念を含んでおり、その概念全てを一度に扱うことは、人類の能力では無理なのです。このため、様々な学問(思想)に分け、特定の視点だけから「幸せ」を捉え、「幸せ」が持つ概念の内、影響が少ない情報を切り落として扱えるようにしているのです。

 今後、学問が発展するに従って視点は増えていき、それと共に「幸せ」が持つ概念も増大していきます。我々が人類である以上、学問(思想)を1つに収束することは出来ない、と考えます。


> 幸福の科学では幸福の定義として「悟りという名の幸せ」というのが説かれています 悟りを得ることが幸せに通じるということです

 上記は、以下のどちらの意味なのでしょうか?
a.悟り=幸せ(正確には、悟り∈幸せ)
b.悟り=幸せを得る方法(正確には、悟り∈幸せを得る方法)

 どちらにしても、多くの人の役には立たないと考えます。
 なぜなら、多くの人は幸せになったことは有っても、悟りを開いたことが無いからです。
 釈迦ですら、悟りを開くためには長い期間の修行が必要でした。ましてや一般の人では、一生かかっても悟れないでしょう。
 幸せになるために悟ろうとするのは、物理学者になるためにノーベル賞を取ろうとするようなものだと思います。とても困難な道です。星一徹以外の人は、もっと楽な道を選んだ方が良いと思います。


temaさまありがとうございます  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月04日 7時29分

じゃあここでは住所は秘密ということで…


re:人生はひとときのメルヘン  投稿者:tema 投稿日: 2005年08月03日22時25分

 お坊さん、こんにちは。お久しぶりです。

 web掲示板において、個人を特定できる情報を記述することは危険です。
 「そんなことは構わない」と思うでしょうか? しかし、お坊さんに同居してる家族が居た場合、その家族の方も「構わない」と思っているのでしょうか?

 たとえ家族が居ない、または「構わない」と言っている場合でも、temaは構います。

 web上の仮想人格temaとtemaを演じている現実の人間は、別人格です。このため、論争になった場合でも現実人格は傷つかず、一歩引いて考える事ができるのです。
 同様に、相手が仮想人格だと思えばこそ、存分に突っ込みが入れられるのです。お坊さんのように、住所まで記述された場合、突っ込みを入れることに躊躇します。
 むしろ、腫れ物に触るように対応します。

 このため、お坊さんの記述に突っこみたいポイントは何点かありますが、住所等を削除されるまで突っ込みは行いません。個人情報を記述することは、(相手によっては)腫れ物に触るような対応を要求しているようなものだ、と認識して下さい。


人生はひとときのメルヘン  投稿者:お坊さん 投稿日: 2005年08月03日12時03分

今回は幸福論を述べたいと思います
幸福の定義は何かと皆さんに聞いたらいろいろな答えが返ってくるだろうと思います 幸福の定義は人それぞれじゃないかといわれそうです それはそれでよいと思います
思想は個性的で多様性があるのがよいと思うからです
しかし同時にこうも言えるかと思います
思想というものは多様性と個性があるのがよいが同時に一つの大きな体系を持つ一塊(ひとかたまり)の集合思想にそれらは収斂(しゅうれん)される性質を持ってるんじゃないかということです
幸福の科学では幸福の定義として「悟りという名の幸せ」というのが説かれています 悟りを得ることが幸せに通じるということです
この言葉はいたって仏教的な言葉です
岩波文庫から出てる中村元(はじめ)博士訳の仏典「ブッダのことばスッタニパータ」「ブッダ神々との対話」「ブッダ悪魔との対話」にブッダを「幸せな方よ」と呼びかける箇所が随所に出ます
つまり仏教においても悟りを得ることは幸せに通じているのです
悟りを得るためには幸福の科学では様々な教えが説かれてます
幸福の科学の教え1「苦楽中道」(くらくちゅうどう):苦行の中にも享楽的な生活の中にも悟りを得る因はない 悟りを得るためには苦行のような苦しい生活からも享楽的な生活からも離れねばならない これは仏教用語です
2「魂修行としての与える愛」愛とは与えること、と幸福の科学では教えてます。見返りを求めずに無償で与えないといけない。人間は人に与える時見返りを求めて与えるものなのでこれは難しい修行になります。これは修行なので悟りを得ることにつながります 与えることを仏教的には布施といいます 布施にはいくつかあります まず顔施(笑顔を与える)財施(金銭等の財産を与える)物施(物を与える)法施(宗教の教えを与える)
3「霊的人生観」あの世というのがあって人間は永遠に転生輪廻して仏近き人間めざして魂修行する存在だと受け入れることも悟りにつながります
4「善因善果悪因悪果」良い原因はよい結果を悪い原因は悪い結果を出すというものです これはもともと仏教で言う言葉です

PCメールで無料人生相談受け付けてます
メルアド:zeldahime2001@yahoo.co.jp

http://gold.ap.teacup.com/elcantare/


ルーシーはツイストをしたのか?  投稿者:えめ 投稿日: 2005年08月03日10時47分

マザーネイチャー」と言う本を読んだのですが※

その中で人間の赤ん坊は生まれたときに何故脂肪を多く蓄えているのか?
と言う話があり、彼女の考察は
赤ん坊が太っているのは自らの健康度を誇示する事で母親に対して養育を選択させる判断上有利に働くから、即ち丸々としていた方が適応度が高いからだ
と言うものでした。

かつてここでどの様なやり取りがあったのかは解りませんが、アクア説については懐疑的なんです。どうも都合が良すぎるような気がするんですよねぇ

まず無毛と水中生活が結びつかない。
現代を見ても水中生活をする哺乳類で無毛なのは生態や形態が「水中で全生涯を過ごす」ようになったものばかりではありませんかね。(熱帯の大型動物カバはちょっと脇に於いて)
自分はそのような哺乳類(水中に適応した)にとって体毛の喪失はかなり後だったのではないかと思うんですが。又、一部に体毛が残っている理由も顔を水に浸ける事があまり無かった、では説明として弱いように思います。

二足歩行についても水中歩行により進化が促進されたと考えるより地を歩く機会がましていった事により適応していったと考える方が無理がない気がするんですが。
水の中で歩くくらいなら泳いだ方が早いし、泳ぐという行為は歩くとは反対に足腰を萎えさせる方(体重を支えない)に淘汰を進めるのではありませんか?

もし、アクア説が本当だとして…
ガキの頃のハマグリ取りの話なんですが、胸よりややしたあたりの深さで海底の砂地に貝がいる痕跡を見つけると、足で砂を掘るんです。(手だと息が続かない)

方法はその場で爪先立ちになり、腰を左右にひねって両足先を砂の中にもぐりこませながら足先で貝を探る。早い話がツイストですね。初期の人類が海岸や浅い海で貝類などを採取していたとしたら…

約320万年前、アフリカでルーシー達がツイストをしていたかと思うと楽しい。

※自分は「かわいらしさ」の選択がヒトの進化に影響を与えたのではないか、と考えていたのでそういった意味でも大変面白う御座いました。


マルチレス  投稿者:クハ72 投稿日: 2005年08月02日19時11分

とりあえずうだうださんへ
 閉鎖以前にサーバーそのものが落ちているだけという考えを持つべきでしょう。

第10番惑星ネタ
 セーラー戦士が一人増えるか、せつなさんがセーラー戦士の任を解かれるか、アニメ業界にとっても予断を許さない状況になっているようです。そう言えば麻布十番って地名はこれを見越して名づけたのかもしれません。


えっ!  投稿者:Kosuke 投稿日: 2005年08月02日18時55分

> 太陽系の惑星は金・地・火・木・土・天・海になってしまうかも

水星は除外されてしまいますか?> 軌道は円に近く、軌道面もほぼ揃っている

って、調べてみたら・・・
http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter2/2_05_2.html
>  太陽系の惑星は、いくつかの共通する特徴があります。それを、下にいくつかあげます。
> ・惑星の公転が一致する。
> ・惑星の軌道面が一致する。(水星、冥王星は例外)
> ・軌道の離心率が小さい。つまり、円に近い。(水星、冥王星は例外)

あらまあ、そうなんだ。本当に知らないことばかりだなあ。


惑星  投稿者:ハッター 投稿日: 2005年08月02日16時27分

>惑星は同じ頃に同じ星間物質が凝縮してできたもの(だから軌道は円に近く、軌道面もほぼ揃っている)

私は勝手にそういう先入観で見ていたみたいです。
そういった気分で勝手にわけると、太陽系の惑星は金・地・火・木・土・天・海になってしまうかもしれません。

もちろん今回の発見が”10番目の惑星”ということになって欲しいんですけどね。


告白します  投稿者:Kosuke 投稿日: 2005年08月02日12時51分

この年になるまで私は、
水星の方が冥王星よりも小さいと思っていました。
当然月の方が 〃     〃        。
ハズカシー

それにしても、冥王星は惑星ということにしちゃったんだから、それよりも大きくて太陽の周りを公転してる星を惑星と呼ぶのに何か問題が有るのかしらん。
惑星は同じ頃に同じ星間物質が凝縮してできたもの(だから軌道は円に近く、軌道面もほぼ揃っている)、という暗黙の前提があるのかなあ。


10番惑星  投稿者:ハッター 投稿日: 2005年08月02日11時15分

セドナの時も思ったのですが、惑星の定義ってあいまいなんでしょうか。
今回のは大きさはともかく極端な楕円軌道ですよね。


他に  投稿者:うだうだ 投稿日: 2005年08月02日 7時34分

ツリーでレスがあったからついだらだらとしてしまったけど。僕はROMしないって言ったらしないから、出来たらここではレスしないで欲しい。第3者に話すつもりで書いて欲しい。久しぶりに書き込んで、アホみたいな気分になってるから、レスのレスを止めておけば良かったと思ってる。


それでは。


律儀に守ってこれか  投稿者:うだうだ 投稿日: 2005年08月02日 7時32分

1日3回まもってたんだが、もし閉鎖なら哲カテの進化論トピに書き込んで欲しい。


僕はまたここはもう見ない、盛り上がらない場所って嫌いなんだ。見るだけで不愉快になる。ただ僕以外の話の続きはあるみたいだけど。まいいや。


待つのが嫌で嫌でしょうがないんだ。(後、やっぱ居心地悪いから、ROMさえあまりしたくない)


んじゃ。気が向いたらで良いよ。


10番惑星  投稿者:A_shift 投稿日: 2005年08月02日 1時00分

> コメットハンター、「エスパー魔美」にでてきましたね。はるか果てにいるので「アトラス」星などはいかがでしょう。

アトラスは、もう土製の衛星に使われていたかと。

ギリシア・ローマ神話に拘るのなら、もう冥王星の嫁さんのペルセポネくらいしか、
思いつかないですね。
ローマ表記だとプロセルピナ。
他の惑星に比べても、やたらと綺麗過ぎる名前のような気がしますが。


星界の果て  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年08月01日20時59分

>冥王星の1.5倍「しかない」のでは難しいのかも。

景気よく天王星クラスの巨大惑星が見つかればよかったのですが。「理科年表」みてみると、水星もけっこう小さいですね。直径が冥王星の倍くらい。あ、冥王星は月より小さいんだ。たまにこういう一覧表を見ると面白いですね。

>コメットハンターによる彗星の命名騒動が、新惑星を舞台に見られそうですな。

コメットハンター、「エスパー魔美」にでてきましたね。はるか果てにいるので「アトラス」星などはいかがでしょう。


ネタ振りじゃー  投稿者:うだうだ 投稿日: 2005年08月01日20時52分

http://news.goo.ne.jp/news/jiji/kokusai/20050407/050406190855.xo06lfaz.html

○現地で使われているゴラン語で「トゥーマイ」(生命の希望)というアダ名がつけられたこの化石は2002年に中仏のポワチエ大学のミシェル・ブリュネ氏らのチームが発見を公表していた。しかし人類発祥の地とされてきた「大地溝帯」のエチオピア、ケニア両国は「まさか」と驚きを表明した。発見現場は大地溝帯から2500キロも離れている。陰険な競争が展開されている古生物学界でも強い反論が出ている。批判派は、頭骨が押しつぶされたような形をしており、脳の容積が小さいなどと主張し、「ただのサル」だと断定していた。

○陰険な競争が展開されている古生物学界でも強い反論が出ている。

あは陰険な競争ってのが、なんかヤフーの皆さんみたいじゃん。まああまりかりかりしないでね。まあそんな中傷がしたいから振ったわけじゃない。

http://www.nagaitosiya.com/a/aquatic_ape.html

以前もりがったし、またアクア説やりませんか?

ただ今回のただのサル説が問題だからつまらないけど。何せ潰れた頭骨だったって無理矢理こじつけたみたいな論で、しかもCG使って復元してあれは人類の祖先だって言ってるらしいです。

やっと物証が見つかったんですよ。いろいろ話してくださいよー。批判的だったPDXさんもいるようだし、是非反論が聞いてみたいですね。


まあこのミラーサイト本当に機能しているのですか?

僕は発言する時間が無いから、出来るだけ見るだけにしたい。後、ヤフーの人類トピでも良かったかも。でもあそこ盛り上がってないし。なんで盛り上がらないトピばかりなんだろうな。本当につまらなさすぎ。やっぱプロがいないと駄目だなー。


後他に  投稿者:うだうだ 投稿日: 2005年08月01日20時23分

ヤフーの進化論のトピ誰か盛り上げてよ。ネタ尽きてもう書く気しないから退屈なんだ。

昔は皆来てたじゃない。もう進化論飽きたのかな?


まあそろそろ飽きるか…。


サイト閉鎖もしゃーないか。長い間ご苦労さん。


じゃねー永遠にグッバイ。


マジで  投稿者:うだうだ 投稿日: 2005年08月01日20時20分

NATROMさん、サイト閉鎖したの?

別にどうこうってわけじゃないけど。繋がんないよ。JA50さんの少子化遺伝子の話、読もうと思ったのにがっくり来てます。

暇があればで良いんですが、リンクして欲しい。なんで僕のつまらない卒業だけリンクされているんだ。あれこそ消えて良いよ。まあ戻ってきて書いてるのなんとなく気が引けるけど。まあ別に書き込みはこれっきりだと思うから、過去ログ見たいだけだから。


新惑星  投稿者:遠藤 投稿日: 2005年07月31日 2時43分

>渡部助教授は「米国の学者が見つけた唯一の惑星を失いたくないとの政治的な意味もあったと思う。(略)」

「惑星が六つであることは神の完全性を示している。(6は、約数の和がその数と等しくなる完全数であるため)」と主張したケプラーは、このニュースを聞いたらどう反応するのでしょうね。コメットハンターによる彗星の命名騒動が、新惑星を舞台に見られそうですな。和名は拳王星とか死兆星とかはどないだ?


まぁ  投稿者:PDX. 投稿日: 2005年07月30日22時23分

To キンシャチさん

 冥王星そのものが、小さすぎて惑星の地位から追われかねないというか、そういう意見もある状況ですからねぇ。
 冥王星の1.5倍「しかない」のでは難しいのかも。


大きな前庭  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年07月30日21時06分

太陽系がまた広くなりました。

http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20050730/20050730010008602.html
> 太陽系で10番目となる新たな惑星を発見したと、米航空宇宙局(NASA)が30日、発表した。惑星は冥王星や海王星の軌道より外側で、氷の塊が集まったカイパーベルトと呼ばれる帯の中にあり、冥王星より大きいとみられるという。

あすかあきお氏の「ヤファエ」や星野宣之氏の「魔王星」とはだいぶ違います(あたりまえだ)。ちなみに、こんな意見もありました。

http://www.sankei.co.jp/news/050730/sha083.htm
>国立天文台の渡部潤一助教授は「認定には同じような軌道面に似た大きさの天体がないことも必要で、冥王星より大きいというだけではすぐに認定できない」と話す。


ちょっと訂正  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年07月22日 8時32分

1.と2.木村は「〜〜」と主張している。
という風に、脳内で「」を加えてください。

↑だけじゃ内容がなさすぎなのでコメント追加。

有利だ不利だって言ってる時点で、自然選択説に“毒されている”(笑)。


ちょっち整理  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年07月22日 7時52分

パラドックスさんへ。考えの整理のお役に立てればと思い、、、

1.木村は有利な突然変異は、速やかに集団中に広がると主張している。

2.木村は有利な突然変異は、滅多に起こらないと主張している。

3.進化における、形態の大きな変化(首が伸びるなど)は、多数の遺伝子の変化によるものである。(ホームの、馬が進化する確率とかも参照。←“多数の”有利な突然変異を前提にしてます)


有利な突然変異は滅多に起こらないので、
・有利な突然変異が複数同時に起こるということは考えにくい
・有利な突然変異が蓄積する(=形態に大きな変化を起こす)のには時間がかかる。

と導けます。
これは自然選択説と矛盾しません。


やれやれ…  投稿者:流木 投稿日: 2005年07月21日23時16分

>@ 専門の研究者が長い年月をかけてもできない>

 分子進化については中立説で、表現型については自然選択説でという使い分けを統合する試みは未だになされていません。あなたはそれが簡単にできるとおっしゃったので、「専門家が長年やってきてもまだできていないことを簡単にできるというのは、自信過剰と他人の過小評価じゃないですか」と申し上げました。

>A 分子進化の中立説と自然選択説とが矛盾すると思われていたのは、分子進化の中立説  が公表された直後のことであって、そうした議論の時期はとっくに終わりました。

 木村さんの中立説は分子進化について述べたものです。論争の初期においては、当時の主流派の中から木村さんが中立説を表現型について展開したと誤解した上で反論を加えるというものが見られたわけですが、今日では分子進化については中立説で、表現型については自然選択説でという使い分けをしています。初期に見られたような立場からの論争はとっくの昔に終わっていますよ。

>B 分子レベルの進化については中立説で、表現型レベルでは自然選択説と使い分けてい  ると理解しています。現代の主流派の進化学説はその意味では折衷的だといえます。

 上記で述べた通りです。

>流木さんの分子進化中立説と自然選択説の関係についての文章を並べてみました。
(中略)
>同じ争点で3つの文章でそれぞれ違うことをを書くとは、私にはできない芸当です

 あなたの読解力が単に足りないだけじゃないんですかね。

>流木さんは定説という言葉をどのような意味で使っているのですか。進化生物学の定説と言えばずっとダーウィンの自然選択説(性選択説を含む)だったんじゃないのですか。

 あなたは他人の書いたものを読んでいないんでしょうか。先に、「定説とは支配的な学説ということです」と述べています。木村さんの分子進化の中立説はその意味で定説の一部となっているわけですよ。それとも、分子進化の中立説はまだ定説になっていないとでもおっしゃりたいわけですか。意味不明ですね。


えめさんへ+パラドックスさんにも読んでほしい  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2005年07月21日21時14分

多分「盲目の時計職人」の9章「区切り説に見切りをつける」ではないかと。

実はパラドックスさんとの議論で使えないかと見直したんですが、ここでいう「ゆっくり」は突然変異の固定速度が「ゆっくり」なのではなく、変異が累積して進化が起こるスピードが「ゆっくり」かどうかの話なのであまり関係なさそうです。
例えばキリンの首が1メートル長くなったとして、100万年かかったのか1万年ですんだのか、という話。1メートル長くなるにはたくさんの微小な変異の積み重ねがあるでしょうが、その1つ1つの固定にどれぐらいかかるかじゃなく、合計でそれだけの進化が起こるのにどれぐらいかかるかの議論。

パラドックスさんの「ゆっくり」、グールドの「ゆっくり」、ドーキンスの「ゆっくり」がそれぞれまったく別物なので、話がややこしくなってます。

パラドックスさんは「ゆっくり」を「突然変異が固定する速度が遅い」の意味で用いて、木村の計算をもとに「ゆっくりじゃない」と主張しています。
ドーキンスは「ちょっとずつ」の意味で「ゆっくり」と言っていて、この意味で進化は確かに「ゆっくりだ」と主張しています。
(グールドは「突然変異が累積して進化が起こる速度が遅い」の意味で、化石記録で急速な進化が見られることをもとに「ゆっくりじゃない」と主張しています。)

というわけで、パラドックスさんの主張(とその根拠である木村の計算)は「ゆっくりじゃない」、ドーキンスは「ゆっくり」と言うので矛盾しているように見えますが、そもそもまったく別のものについての議論です。(グールドも。)


例えて言うなら、
「(ブッシュは)馬鹿だ!」「何を言う。(ブレアは)馬鹿じゃないぞ!」
という感じの、すごくナンセンスな議論。

そしてまた、中立説について書く時間はない・・・


うろですみません。  投稿者:えめ 投稿日: 2005年07月21日20時12分

確かね…
ドーキンスの書籍の中にあると思うんですが
グールドの断続平衡進化説に対して
ドーキンスが説明してたんだよなぁ

ダーウィンは進化が「常にゆっくり進む」とは言っていないと

いや、うろなんで


ドーキンス専門になりつつあるな僕  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2005年07月21日19時15分

>「ゆっくりした漸進的な累積淘汰こそが、生命の持つ複雑なデザインの存在を説明するものであり、しかも今までに提案されてきたうちで唯一の運用可能な説明である」

ドーキンスのライバル、グールドの言葉を引用しましょう。(二次引用ですが)
「引用を取捨選択したり限定的な脚注を探してみても、歴史をつくることはできない。」
(「盲目の時計職人」P389)

パラドックスさんが引用された文章の前後を読んでみましょう。彼は自然淘汰の速度について、ましてやその速度が遅くなければならないことについて、何か一文でも述べていますか?
彼の論旨は全面的に漸進性の賛美であり、速度の遅さについてなんてぜんぜん論じていません。「なぜ遅くなければならないか?」についてなど一言も説明していません。

おかしいですね?確かに引用された文(およびその周辺のいくつかの文)では「ゆっくりした」という言葉があり、ドーキンスが速度の遅さを主張しているように見えます。しかし彼は、それについて論理的な説明は一言もしていないのです。「なぜ漸進的でなければならないか?」についてはしつこいぐらいに説明し続けているのに?

この矛盾を解決する鍵は、「ゆっくりした」の直後にあります。引用された文及びその周辺で何度か出てくる「ゆっくりした」は、よく読むと全て「ゆっくりした漸進的な」なのです。この「ゆっくりした」は「漸進的な」の枕詞のようなもので、ただ漸進的というだけでは飽き足らず、その漸進性を強調するためにつけられた語であると考えられます。
結局のところ、ドーキンスは突然変異定着の速度については述べていません。
僕のこの主張は検証可能です。ドーキンスが、速度が遅いことの必要性について何か説明している文章が提示されれば、この主張は反証されます。と同時に、その場合のみ、木村の計算はドーキンスへの反論になりえます。

ですが、僕は無いほうに賭けますね。僕はドーキンスの著作のうち邦訳されているものは全て読みましたが、彼が「自然淘汰説に従えば、有益な突然変異が集団内に固定する速度は遅いに違いない」ということを説明している文章は記憶にありません。また、そもそも自然淘汰説にとっては、有益な突然変異は速く定着してくれたほうが都合がよいです。


で、中立説についても書きたいんですが、時間がないのでまた後日。


進化生物学の定説は自然選択説がその座を占めていたのではないのですか  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月21日 3時30分

流木さんへ
@ 専門の研究者が長い年月をかけてもできない>
A 分子進化の中立説と自然選択説とが矛盾すると思われていたのは、分子進化の中立説  が公表された直後のことであって、そうした議論の時期はとっくに終わりました。
B 分子レベルの進化については中立説で、表現型レベルでは自然選択説と使い分けてい  ると理解しています。現代の主流派の進化学説はその意味では折衷的だといえます。

流木さんの分子進化中立説と自然選択説の関係についての文章を並べてみました。
@ではまだ専門家でも決着がついていないと言い、Aではもうそんな議論は終わったことを示唆し、Bでは、結局のところ両者をただ折衷させただけで、理論的統合には至っていないという趣旨のことを書いておられます。同じ争点で3つの文章でそれぞれ違うことをを書くとは、私にはできない芸当です。

>大枠は変わっていないんですから>

流木さんは定説という言葉をどのような意味で使っているのですか。進化生物学の定説と言えばずっとダーウィンの自然選択説(性選択説を含む)だったんじゃないのですか。

カクレクマノミさんへ   お久しぶりです。

>ダーウィンやドーキンスの漸進説っていうのは「適応進化はゆっくり起こる」という説ではなくて、「適応進化はちょっとずつの積み重ねで起こる」という説なので、有利な変異がどれくらいの速度で集団中に固定するかは関係ありません。>>

「ゆっくりした漸進的な累積淘汰こそが、生命の持つ複雑なデザインの存在を説明するものであり、しかも今までに提案されてきたうちで唯一の運用可能な説明である」
R.ドーキンス「盲目の時計職人」早川書房、P.502
ここでドーキンスは速度もゆっくりしたものであると言っています。


知らぬが仏  投稿者:流木 投稿日: 2005年07月20日22時24分

>この分野以外で私はこんなにも短期間で激しく揺れ動いた学説を知りませんね。

 もし、「自分が知らない」=「そんなものはない」と考えるとしたら、それは自信過剰というものでしょう。

 大枠は変わっていないんですから、その中で学説の修正があったとしても、何の不思議もありませんよ。


木村さんの他意?  投稿者:流木 投稿日: 2005年07月20日22時18分

>進化の機構の表現型と遺伝子型の2つとも自然選択説が通説だったのに、論争の結果半分の領域(遺伝子型)を分子進化中立説に明け渡してしまいました。「定説の一部として認められた」のではなく、定説(自然選択説)の半分(遺伝子型)が他の説に取って代わられたのですから「大枠の中での補強・補完に過ぎない」というのは分子進化中立説の過小評価ですよ。

 よいですか、「定説」というのは、支配的な学説ということです。分子進化の中立説は定説の一部となったのです。あなたは「定説=従来のダーウィン派の進化学説」であるかのように述べておられるように思えますが、それは用語法として奇妙なものと映ります。

>自然選択説の表現型における正統的考えである長期間にわたる少しずつの進化とはかなり違う立場のように思います。

 ダーウィンが述べた漸進的な進化という発想は、「ちょっとずつの変化が積み重なって大きな変化となっていく」ということです。いきなり羽根が生えて、空を飛ぶようになるとか、いきなり人間のような眼ができるとかそういう変化は起きないという主張です。

 創造論者がよくいう「バラバラの部品を箱に入れて振っても、時計になるはずがない」という話も、いきなり時計という完成品が出来上がるとしている点でダーウィンが述べた「漸進的な進化」というアイディアを理解しているものとはいえません。

>木村さんのこのあたりの文章に他意はないのでしょうか。

 ないでしょうね。自然淘汰説を野外での直接観察で実証するのが困難なのは木村さんでなくても認めていることですよ。

 私が木村さんから読み取ったのは、「自分は分子進化の領域で中立説を唱えたのに、その点を無視して表現型について何かいったかのように反応して反論してきた主流派の研究者がいた。困ったものだ」ということです。

>私の思弁では、両者をスムーズにリンクさせることができます。

 専門の研究者が長い年月をかけてもできないことを素人の自分が簡単にできると思うのは、トンデモさんにありがちな自信過剰と他者についての過小評価ですが、あなたの場合がそうでないことを祈りますよ。


木村さんの本音  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月20日 2時41分

>ですから、分子進化中立説が「主流派の進化学説を保完・補強した」のではなく、両者の学問的立場は対等です。>> 主流派の進化学説と「対等」ということは、主流派の進化学説が2つあるということですか。あるいは、進化生物学が2つにわかれていると?>>

流木さんが書いておられるように、表現型については自然選択説、分子.遺伝子型については分子進化中立説がそれぞれ通説です。

>そして分子進化中立説に敗れました。>>勝ち負けで科学史を捉えるのは誤解のもとですよ。新説によって従来の説では説明のつかなかったことが説明がつくようになって、その成果が定説の一部として認められたのです。>>

進化の機構の表現型と遺伝子型の2つとも自然選択説が通説だったのに、論争の結果半分の領域(遺伝子型)を分子進化中立説に明け渡してしまいました。「定説の一部として認められた」のではなく、定説(自然選択説)の半分(遺伝子型)が他の説に取って代わられたのですから「大枠の中での補強・補完に過ぎない」というのは分子進化中立説の過小評価ですよ。

>分子進化の中立説は、ダーウィン派が想定したような有利な突然変異が自然選択で広まることまで否定しているわけではありませんし、既に指摘したように、木村さんご本人も自然選択説そのものを否定したとは考えておらず、.......形態や行動など大きなレベルでの進化については自然選択説がふさわしい....。>>

ところが木村さんは「個体の生存や繁殖にはっきり有利な突然変異遺伝子が集団中に出現すれば...進化の過程で比較的短時間に既存の野生型遺伝子に取って代わり新しく<正常な>野生型遺伝子の地位についてしまう」(「生物進化を考える」P.141)と考えておられます。仮に1400年という数字がさまざまな仮定の元に出てきた数字だからということでおいておくにしても、自然選択説の表現型における正統的考えである長期間にわたる少しずつの進化とはかなり違う立場のように思います。

「最近エンドラー....は野外での直接観察から自然淘汰を認めたと報ずるこれまでの論文を総説的にまとめ検討しているが、それによると大部分のものはいろいろと問題点を含み、満足のいく研究は少ないようである。これからも自然淘汰の実証的研究の難しさがうかがわれる」(前掲書、P.153)
木村さんのこのあたりの文章に他意はないのでしょうか。

>現状では、分子レベルでは中立説の有効性は認められていますが、表現型の進化を中立説で説明するのは困難ですから、分子レベルの進化については中立説で、表現型レベルでは自然選択説と使い分けていると理解しています。現代の主流派の進化学説はその意味では折衷的だといえますね。>>

私の思弁では、両者をスムーズにリンクさせることができます。実に単純な理屈です。しかしそれはいずれまた。


科学史全般ではなくダーウィンの問題  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月20日 1時40分

流木さん
>科学史を振り返れば、新たな発見によって直ちに従来の定説が覆ることはむしろ稀です。まずは、従来の定説を手直しして、その枠内で整合的に説明を試みます。....学説の修正は行われて当然なのです。修正が行われたからといって、大枠がダメだと即断することはできませんし、ましてや道徳的に問題だなどとされるわけでもありません。「学説の修正は一切許されない」「修正されるような学説はインチキ」などというのは、科学の歴史を知らない人の勝手な思い込みですよ。>>

科学の歴史全般にまで一般化しないでもらえませんか。ダーウィンの書いた本はいろいろと矛盾する点があったりあいまいな記述があって解釈の幅が広すぎるんですよ。だからその知的後継者たちも右往左往するんです。この分野以外で私はこんなにも短期間で激しく揺れ動いた学説を知りませんね。一般論として学説の修正を一切許さないとか、後から修正されるような学説はインチキだなんて私はまったく考えたこともありませんよ。


何だか…  投稿者:流木 投稿日: 2005年07月13日 0時55分

>木村の計算では有益突然変異遺伝子は1400年もあればその集団に広がるのです。「現代の主流派の進化学説」からすればダーウィンもドーキンスも現代のほとんどの主流派ももはや異端的立場なのですか。

 1400年という数字はモデルの置いた仮定に依存しますから、数字だけ振り回してみても意味はありませんよ。仮定を変えれば、その手の数字は変わってしまうものです。

 分子進化の中立説が発表されて、当時の主流派であった総合説の立場の研究者との間で論争があったのは事実ですが、最終的に大枠は何も変わってはいないのですよ。

>押しも押されぬ通説としての評価を確立しています。

 ご存じのように、1990年代に入ってDNAレベルでのデータが蓄積されてきて、これを利用した中立性のテストが行われるようになると、アミノ酸の変異については分子進化の中立説では必ずしも説明できないものがあることが示唆されていますね。

 問題なのはあなたの解釈なのですよ。分子進化の中立説と自然選択説とが矛盾すると思われていたのは、分子進化の中立説が公表された直後のことであって、そうした議論の時期はとっくに終わりました。現在に至るまで、自然選択説と分子進化の中立説とが対立し続けているかのように捉えるのは、認識がおかしくありませんか。

>ほとんどの自然選択説支持者は「正の自然淘汰一本槍みたいな学説」で、まさか中立突然変異や微細有害突然変異(事実上の中立突然変異)がその集団の大きさによっては広まることなど思いもよらなかったんじゃないでしょうか。

 当時の主流派がそういう想定をしていたのなら、木村さんが提唱した分子進化の中立説は新説でも何でもなくなりますよ(笑)。よいですか、現代の主流派の進化学説は大枠は維持しながら分子進化の中立説を取り込むことができたのです。分子進化の中立説とどうやっても折り合いがつかなければ、主流派の総合説は捨て去られていたわけでしょうが、そうはなりませんでした。

 電磁気学の分野ではかつてエーテルという媒体が考えられたことがあります。この宇宙はエーテルによって満たされており、地球はその中を運動していると思われていました。しかし、観測結果は地球に対してエーテルは静止しているというものでした。この矛盾を説明しようとして、ローレンツ短縮やエーテル牽引などの補助仮説が唱えられましたが、やはり説明がつかなくなって、最終的にはエーテルという想定そのものが捨て去られたわけです。

 科学史を振り返れば、新たな発見によって直ちに従来の定説が覆ることはむしろ稀です。まずは、従来の定説を手直しして、その枠内で整合的に説明を試みます。それでうまくいけば、従来の定説は補強されて生き延びますし、どうやってもダメとなれば、新たな説が定説となります。学説の修正は行われて当然なのです。修正が行われたからといって、大枠がダメだと即断することはできませんし、ましてや道徳的に問題だなどとされるわけでもありません。「学説の修正は一切許されない」「修正されるような学説はインチキ」などというのは、科学の歴史を知らない人の勝手な思い込みですよ。

>ですから、分子進化中立説が「主流派の進化学説を保完・補強した」のではなく、両者の学問的立場は対等です。

 主流派の進化学説と「対等」ということは、主流派の進化学説が2つあるということですか。あるいは、進化生物学が2つにわかれていると?

 光の粒子説と波動説との間では長い論争がありましたが、あれと同じように、分子進化の中立説が発表された直後になされた論争が今日でも継続しているとお考えなのでしょうか。

 お手もとに木村さんの『生物進化を考える』があるのでしたら、木村さんが

>中立説は決してダーウインの自然淘汰説を否定するものでないが、その頃主流だった進化総合説の考えとは合わないので多くの論争を引き起こした。

と述べていたのをご存じですよね?少なくとも、木村さんご本人の認識としてはそうです。分子進化の中立説発表当時の主流派だった総合説との間では論争がありましたが、それは既に終わったことです。今日の主流派は中立説を取り込んでいます。いい換えれば、分子進化の中立説は主流派の学説の一部となったのです。

>表現型と遺伝子型の間にどのような理論で橋渡しをすればよいかについてはまだ決着がついていませんよね。私が流木さんからお聞きしたかったのはその点です。改めてお聞きしますが分子進化中立説と自然選択説はどのように整合しているのでしょうか。

 現状では、分子レベルでは中立説の有効性は認められていますが、表現型の進化を中立説で説明するのは困難ですから、分子レベルの進化については中立説で、表現型レベルでは自然選択説と使い分けていると理解しています。現代の主流派の進化学説はその意味では折衷的だといえますね。

 もっとも、こうした使い分けそのものは、他の学問分野でも見られますし、別に珍しいことではありません。まぁ、単一の理論で全部説明できてしまえば、それはそれで便利なんでしょうが、現状ではそうした統一的な理論ができ上がっているわけではありません。そういう理論ができるまでは、とりあえず使い分ければよいのです。

 分子進化の中立説は、ダーウィン派が想定したような有利な突然変異が自然選択で広まることまで否定しているわけではありませんし、既に指摘したように、木村さんご本人も自然選択説そのものを否定したとは考えておらず、分子レベルの進化では中立説が適用されるが、形態や行動など大きなレベルでの進化については自然選択説がふさわしいと述べていますね。要するに、分子進化の中立説は当時の主流派の理論ではうまく説明できなかった分子レベルでの進化を説明することで主流派の理論を補完・補強したという認識を木村さんは持っていたわけです。

>そして分子進化中立説に敗れました。

 勝ち負けで科学史を捉えるのは誤解のもとですよ。新説によって従来の説では説明のつかなかったことが説明がつくようになって、その成果が定説の一部として認められたのです。

 分子進化の中立説で表現型の進化をも統一的に説明できたのならともかく、そうではないのですから、従来の主流派の説を修正したといえても、否定したわけでも、それに代わる新たな定説としての地位を得たわけでもありません。大枠の中での補強・補完に過ぎないと繰り返し述べているのは、そういう意味です。


かぶった  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2005年07月13日 0時30分

ミケさんの投稿と内容がかぶってますね。
リロードしてから投稿すべきでした。
(あと、ツリー式の方も見るべきでした。)
すみません。


パラドックスさんへ  投稿者:カクレクマノミ 投稿日: 2005年07月13日 0時27分

お久しぶりです。

>ダーウィンもドーキンスも(現代のほとんどの主流派も)、適応的進化は非常に緩慢に少しずつ進化すると考えていました。

勘違いされてるようですが、ダーウィンやドーキンスの漸進説っていうのは「適応進化はゆっくり起こる」という説ではなくて、「適応進化はちょっとずつの積み重ねで起こる」という説なので、有利な変異がどれくらいの速度で集団中に固定するかは関係ありません。
例えていうなら、彼らは、「適応進化は階段を一段一段上るのであって、大ジャンプは無い」と主張しているんです。
階段をゆっくり歩いて上るか駆け上がるかは別問題です。


1400年って何の時間か  投稿者:ミケ 投稿日: 2005年07月13日 0時01分

ここでいう1400年ってのは『サルがシェークスピアをタイプし終わる時間』ではなく、
シェークスピアの喩えになぞらえて言うなら
『いくつかの候補の中から適切な1文字が決まる時間』ですよ。
一文字目が決まる(一つの有利な突然変異が固定する)までに1400年ってことです。

でも、二文字決まるのには2800年とは限らなくて、適切な候補が出現する時間に依存します。
例えば、最初の1400年間で二文字目の候補が出揃ったら二文字目が決まるのは2800年より短くなるだろうし、逆に二文字目の候補が1万年くらい出てこない場合は2800年より長くなるでしょう。

すでにツリー式のほうでwadja さんやNATROM さんが指摘してますけど、
漸進説は
《シェークスピアの文章は、一文ずつではなく一文字ずつ決まっていっただろう》という説です。
で、漸進説では一つの文字が決まるまでの時間がすごく長かったとは言ってないですよ。
一文が完成するまでには長くかかったと言っていいでしょうけど。

シェークスピアだけじゃ分かりにくいかもしれないから念のため。
鳥が飛ぶためには色々な遺伝子が必要です(羽毛、軽い体重、筋肉等)。
これらはいっぺんに出揃ったんじゃなく、一つ一つ出てきたってのが漸進説。
また、体の大きさや首の長さにしたって、一つの遺伝子の変化では少ししか変化できないんです。


表と裏に分かれてますが  投稿者:wadja 投稿日: 2005年07月12日23時30分

>体調が悪いのでレスは遅れがちになりそう

お大事に。でも、掲示板2も宜しくです。


体調が悪いのでレスは遅れがちになりそう  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月12日22時28分

@ 突然変異+自然選択で生物の進化を説明するのが現代の主流派の進化学説だと理解して います。>

ダーウィンもドーキンスも(現代のほとんどの主流派も)、適応的進化は非常に緩慢に少しずつ進化すると考えていました。前回も紹介したように木村の計算では有益突然変異遺伝子は1400年もあればその集団に広がるのです。「現代の主流派の進化学説」からすればダーウィンもドーキンスも現代のほとんどの主流派ももはや異端的立場なのですか。ダーウィンは、自然は跳躍しないと言い、ドーキンスは一生懸命サルにシェイクピアを気長に打たせていますよ。

A 分子進化の中立説は突然変異が中立的だったり、若干負である場合について論じているのですから、>

進化の遺伝子型における通説である分子進化の中立説を、「突然変異が中立的だったり、若干負である場合について論じている」というあやふやな言い方でやり過ごさないでもらえませんか。中立説においては突然変異の大半は生存上有利でも不利でもない中立か、若干有害だが生物の活動にさほど支障をきたさないので両者を合わせて中立突然変異とみなしています。それに中立説は「若干負である場合について論じている」といった議論の時期はとっくに終わりました。押しも押されぬ通説としての評価を確立しています。

B 正の自然淘汰一本槍みたいな学説にとっては対立するものでしょうし、>

それはまさに当時の多くの自然選択説の支持者たちがそうだったんじゃないのですか。
ほとんどの自然選択説支持者は「正の自然淘汰一本槍みたいな学説」で、まさか中立突然変異や微細有害突然変異(事実上の中立突然変異)がその集団の大きさによっては広まることなど思いもよらなかったんじゃないでしょうか。

C事実、発表された当初は論争も起きたわけですが、突然変異+自然選択で生物の進化を説明するという大枠を否定するものではありません。>>

それはそうですけど、表現型と遺伝子型の間にどのような理論で橋渡しをすればよいかについてはまだ決着がついていませんよね。私が流木さんからお聞きしたかったのはその点です。改めてお聞きしますが分子進化中立説と自然選択説はどのように整合しているのでしょうか。適応的進化は短期間で広まるのか、非常に長い時間がかかるのか、その点はどう思われますか。

D つまり、分子進化の中立説は主流派の進化学説を根底から覆したとかそういうわけではなく、>>

木村も私もそこまで極端なことは言っていません。

E主流派の進化学説を保完・補強したに過ぎません。>>

両者の論争で、自然選択派はやれ安定化淘汰だとか負の淘汰とかあれこれの用語を急ごしらえして思弁的論争を挑み、そして分子進化中立説に敗れました。ですから、分子進化中立説が「主流派の進化学説を保完・補強した」のではなく、両者の学問的立場は対等です。


Re:統合  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年07月12日17時35分

>ここに引用した文の中で大文字ナンさんは分子進化中立説を「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」 の中に含ませています。せっかく自分が世界に先駆けてこの二つの理論を統合しようと思っていたのに、いつの間に誰がどのような理論で折り合いをつけてしまったのですか。お手数ですがその人の名と参考文献を教えていただけませんか。他の方でもご存知でしたら教えてください。

 ごく普通に最近の文献を含めた「メインストリームの進化生物学」をかじっていれば、中立説が自然選択説になんら矛盾しないことは分かっていることだ、と思います。逆に、パラドックスさんがなぜ、なにをどう考えて、中立説と自然選択説が相反すると考察するのか?の方が謎ではないだろうか、と私は思います。


Re:傍証  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年07月12日17時30分

>しかし木村によると生命進化史の早い時期にそれは底を尽きてしまい、もはや実験や観測で正の淘汰を確認するのは非常に困難であると指摘しています。そのような意味で安定化淘汰と正の淘汰を私と木村は非常に小さく評価しているのです。いずれかが100%でいずれかが0%と言っているのではありません。

 パラドックスさんと木村の見解が一致している、と私は思っていません。もっとも、現在手元に「生物進化を考える」がない(見つからない)ので、正確な引用ができないため、この件については保留しますが…。

 「生命進化史」の早い時期に正の淘汰(というよりも有利な突然変異)が尽きてしまい、現在は見られないと考察する根拠はどこにあるのでしょう。生命進化の初期であろうと現在であろうと、正の淘汰に対応する突然変異は「ごく稀にしか観測されないであろう」ことは変わりがないのではありませんか?

>傍証とは間接的な証拠です。「負の淘汰が数多く観測される」にもかかわらず間接的証拠で「正の淘汰が「必ずある」であろうことは自明的に導かれる」とおっしゃる大文字ナンさんの論理展開は飛躍しすぎです。

 私が「傍証」と述べるのは、生物進化のダイナミックな変化、つまり種分化に至るような大きな変化を直接観測することは難しい、もしくは原理的に不可能であることから、より小さな変化を観察することで、それらが積み重なることによって「やがては大規模な変化を生むであろう」ことの間接的な証拠になるだろう、という意味においてです。

 また、先にも述べたように、あるひとつの変異が適当的であるか、適応的ではないか、という選択は、環境によってなされるものであって、まったく同じ変化が適応的であることも、そうではないこともあるのですから、負の淘汰という「メカニズム」が観測されるのであれば、それは正の方向にも働きえることは自明的であろう、と述べています。

>先ほどの発言を繰りかえしながら申し上げますと、私も木村も正の淘汰を認めていないのではなく、それはもはや進化史のかなり早い地質的時期に試され、底をつきかけつつあるように思っています。

 パラドックスさんはそう考えているのでしょうが、木村が同じ考えに立脚していたかどうか?については疑問符です。ある時代には多く観測され、現在では観測されなくなるという理由はどこにあるのでしょう。

>適応的進化は非常にゆっくりと進むと考えていたダーウィンやその時代を超えた後継者であるドーキンスは、有益突然変異遺伝子が場合によっては1400年という短期間で集団中に広がると計算している木村の数理モデルと矛盾します。両者がどのように整合するのかについては自分でも考えているところですが、大文字ナンさんのご意見を聞かせてもらえませんか。

 これは私も覚えているところですが、ツリー式掲示板でwadjaさんが述べているように、木村の計算は「主張を簡単に読んでもらうために」かなりの範囲でパラメータを簡略化、制限して行ったものであったはずです。ですから「1400年」という数字そのものがダーウィニズムへの反証になるとは思えませんし、むしろ木村は自説がダーウィニズムを補強する形でこの計算を行ったのだ、としか私には読めませんがいかがでしょうか。

 なお、分子進化とダーウィニズムを結ぶ「架け橋」となり得る研究としては、以下などどうでしょうか。
http://www.brh.co.jp/experience/seimeisi/29/ss_4.html


メカニズムと学説  投稿者:流木 投稿日: 2005年07月11日19時53分

>分子進化中立説を「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」 の中に含ませています。せっかく自分が世界に先駆けてこの二つの理論を統合しようと思っていたのに、いつの間に誰がどのような理論で折り合いをつけてしまったのですか。

 メカニズムと学説とは違いますよね。酸素が発見される前にも、我々は呼吸をしていましたし、地動説が唱えられる前にも地球は太陽の周りを回っていたわけですから。

 突然変異+自然選択で生物の進化を説明するのが現代の主流派の進化学説だと理解しています。分子進化の中立説は突然変異が中立的だったり、若干負である場合について論じているのですから、正の自然淘汰一本槍みたいな学説にとっては対立するものでしょうし、事実、発表された当初は論争も起きたわけですが、突然変異+自然選択で生物の進化を説明するという大枠を否定するものではありません。

 つまり、分子進化の中立説は主流派の進化学説を根底から覆したとかそういうわけではなく、主流派の進化学説を保完・補強したに過ぎません。


1400年でシェイクスピアを打ってしまったサル。  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月11日 1時16分

To 大文字ナンさん

前回、大変なことを指摘するのを忘れていました。

>「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」の重大な傍証になる、と私は思います。つまり負の淘汰は「認める」が、正の淘汰は「認めない」という論理は、それだけですでに破綻している、と私は考えているのです。なにしろ、それは「ひとつの変異」が原因となって置き得る、いくつかの結果なのですから。>>

ここに引用した文の中で大文字ナンさんは分子進化中立説を「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」 の中に含ませています。せっかく自分が世界に先駆けてこの二つの理論を統合しようと思っていたのに、いつの間に誰がどのような理論で折り合いをつけてしまったのですか。お手数ですがその人の名と参考文献を教えていただけませんか。他の方でもご存知でしたら教えてください。


ついに我が家にコピー機がやってきた。  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月10日 6時17分

大文字ナンさん
>もしかしたら「認めるor認めない」という言葉に対する「用法の違い」なのかも知れませんが…、>>

私は、木村が正の淘汰を認めず、負と安定化淘汰のみを認めていたと言ったことはありません。私が木村から引用したのは、正の淘汰はきわめて短期間にある前提の下で急速に進むことに関する木村の数理モデルに基づく計算(彼はある前提化では1400年で有益突然変異遺伝子が集団中に広がるとしています)です。この点を引用したのですから私も木村も正の淘汰をもちろん認めています。しかし木村によると生命進化史の早い時期にそれは底を尽きてしまい、もはや実験や観測で正の淘汰を確認するのは非常に困難であると指摘しています。そのような意味で安定化淘汰と正の淘汰を私と木村は非常に小さく評価しているのです。いずれかが100%でいずれかが0%と言っているのではありません。

>負の淘汰が数多く観測されるのであれば、少ないながら正の淘汰が「必ずある」であろうことは自明的に導かれることであり。「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」の重大な傍証になる、と私は思います。>>

傍証とは間接的な証拠です。「負の淘汰が数多く観測される」にもかかわらず間接的証拠で「正の淘汰が「必ずある」であろうことは自明的に導かれる」とおっしゃる大文字ナンさんの論理展開は飛躍しすぎです。

>負の淘汰は「認める」が、正の淘汰は「認めない」という論理は、それだけですでに破綻している、と私は考えているのです。>>

先ほどの発言を繰りかえしながら申し上げますと、私も木村も正の淘汰を認めていないのではなく、それはもはや進化史のかなり早い地質的時期に試され、底をつきかけつつあるように思っています。

>なにしろ、それは「ひとつの変異」が原因となって置き得る、いくつかの結果なのですから。>>

自然選択説の主要理論を正の淘汰から安定化淘汰や負の淘汰にまで拡張するのは理解できますが、分子進化中立説にまでそれに含めるのはあまりにも無節操です。適応的進化は非常にゆっくりと進むと考えていたダーウィンやその時代を超えた後継者であるドーキンスは、有益突然変異遺伝子が場合によっては1400年という短期間で集団中に広がると計算している木村の数理モデルと矛盾します。両者がどのように整合するのかについては自分でも考えているところですが、大文字ナンさんのご意見を聞かせてもらえませんか。


Re:淘汰  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年07月10日 2時46分

 To パラドックスさん

 表に書けばいいのか、ツリーに書けばいいのかワカリマセンが(笑)、とりあえず私は表に書いてみます。さてさて…

>あるカテゴリーの中に3つの副次的領域があり、Aの部分に関する観測事実(証拠)が非常に少なく、BとCの領域に関する観測事実(証拠)がたくさんあると木村が言っているのだから、彼がそれを根拠としてA(正の淘汰)を消極的にしか認めないのは当然です。

 この議論で、パラドックスさんが「おかしい」と私に思えてしまうポイントは、以下にあります。

A:あるひとつの現象(ここでは突然変異)がいくつかの結果を生むであろうこと。
 ex:地球に飛来する隕石の大半は、地表に到達する前に燃え尽きる。つまり、ごく僅かな確率で地表に落ちる隕石もある。

B:いくつかのまったく異なる現象が、別々の結果を生むであろうこと。
 ex:地球に飛来する隕石の一部は地表に到達する。地球に飛来する隕石の大半は鉱石である。

 私がBのカテゴリーに属する現象に対して、先の主張を行ったのであれば、パラドックスさんの反論はまさに妥当だ、と思います。しかし、ここで議論になっている生物進化の現象はAのカテゴリーに属するものではないでしょうか。

 あるいは、もしかしたら「認めるor認めない」という言葉に対する「用法の違い」なのかも知れませんが…、負の淘汰が数多く観測されるのであれば、少ないながら正の淘汰が「必ずある」であろうことは自明的に導かれることであり。「正も負も中立も含めた自然淘汰というメカニズム」の重大な傍証になる、と私は思います。つまり負の淘汰は「認める」が、正の淘汰は「認めない」という論理は、それだけですでに破綻している、と私は考えているのです。なにしろ、それは「ひとつの変異」が原因となって置き得る、いくつかの結果なのですから。


たまたま  投稿者:wadja 投稿日: 2005年07月09日20時20分

To:パラドックスさんへ

掲示板の流れとは関係なく本当の偶然なんですけど、昨日「生物進化を考える」の該当箇所を読んでまして、うれしくなったんでツリーの方に横レスつけちゃいました(笑)


証拠がないことがまさにゴルゴ13がやったことの証拠です。  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月09日19時01分

生物進化を考える」を読むと、木村資生がダーウィンの自然淘汰を強力に支持していることが判ります。 端的に言うと、生物に有利な突然変異は、短期間で集団中に拡がって「正常」な遺伝子として組み込まれてしまうため、有利な突然変異は次第に底をついてしまいます。 正の淘汰はほとんど観察されないとはむしろ自然選択説を支持すると木村は述べております。 詳しくは「生物進化を考える」の p141-142 を御覧下さい。>>

ご指摘のところを読みましたが、木村のそのような数理モデルが適用できるのは、集団が非常に大きい(理論的には無限大で)時の話で、淘汰に有利な突然変異遺伝子はその有利さが10倍の1.0%なら1400年で集団中に拡がると計算しています。

もしこの計算が正しければ、進化は非常にゆっくりと進んでいくと考えていたダーウィンと、現代の彼の熱心な支持者であるドーキンスとの考えとも完全に矛盾します。さらにまた、生命進化史のそんなにも早い時期において正の淘汰が底をついてしまったのなら、ダーウィンやドーキンスはどんな証拠にもとづいて自然選択説における正の淘汰を主張してきたのでしょうか。証拠がないのが証拠だなんて、まるで禅問答ですね。


創造論者に笑われるかも  投稿者:パラドックス 投稿日: 2005年07月09日18時21分

大文字ナンさんへ

>木村は、正の淘汰はほとんど観察されないと言っていますから、逆に言えばほんの少しはそれも認めていると解釈できなくもありません。しかし負の淘汰に重点を置いているのは明らかです。>>

>ほんの少ししか観察されない、というのは「観測事実」であって、認めるとか認めないとかの判断基準にはならないでしょう。そもそも適応的な「表現型」が非常に現れにくい変異(とその積み重ね)であることを、木村が理解していないとは思えませんし。負の淘汰は観察されやすく、正の淘汰は非常に稀にしか起きない、という事実およびその背景理論から、正の淘汰は「少し認める」が、負の淘汰には「重点を置く」という解釈がなぜ生まれるのか、私には理解できません。>>

あるカテゴリーの中に3つの副次的領域があり、Aの部分に関する観測事実(証拠)が非常に少なく、BとCの領域に関する観測事実(証拠)がたくさんあると木村が言っているのだから、彼がそれを根拠としてA(正の淘汰)を消極的にしか認めないのは当然です。科学的主張をしようと思うなら、まず何よりも証拠が重要です。観測事実がきわめて少ない(証拠が乏しい)にもかかわらずそれを「認めるとか認めないとかの判断基準にはならないでしょう」とおっしゃるのなら、科学は何を判断基準としているのでしょうか。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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