進化論と創造論についての掲示板ログ292

2004年12月31日〜2005年01月03日
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訂正  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日19時30分

> 「聖書は歴史的な事実の記録だ」「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」とあの方はされたわけですから、「キリスト教原理主義」の立場であろうと理解しました。

 「キリスト教原理主義」と同等の立場ないし「キリスト教原理主義」の同類ぐらいが妥当でしょうか?(「同等」と「同類」とは同じか違うかといった神学論争はご遠慮申し上げます)

 宇宙人とかトリックとかはラエリアン・ムーブメントの影響でしょう。過去ログが揃えば、それなりに検証できます。


信仰上の事実との区別  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日18時49分

*基世さん(質問です。 投稿者:基世  投稿日: 1月 3日(月)16時08分46秒)

 こんにちは。

>「ロバが喋った」と真顔でいう人の立場が、流木さんがいうところの「福音派と呼ばれる系統のキリスト教原理主義者」であることが、かなりの確かさを以って予測可能という科学的な根拠はなんですか?キリスト教徒ひとりひとりに確認しているのでしょうか。

 「聖書は一語一句正しい」とするのが福音派です。その「正しい」が「信仰の上で正しい」であれば、どうということもないわけですが、「実話(史実)である」とか「科学的に正しい」とか言い出す人たちもいます。こうした立場の人たちがキリスト教原理主義者と呼ばれるわけです。

 「聖書は歴史的な事実の記録だ」「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」とあの方はされたわけですから、「キリスト教原理主義」の立場であろうと理解しました。

>私の周りの人を見た限りでは、「ロバが喋った」ことは信じられても、モーセ5書(天地創造、ノアの大洪水と箱舟、カナン侵略のための聖絶など)の方に疑問を抱いている人の方が多いと思います。牧師でも、創世記などは言葉を濁します。

 「ロバが喋った」と信仰の上で信じたからといって「原理主義」とはいえないでしょう。「ロバが喋ったのは歴史的な事実だ」と言い張るから「原理主義」だと疑われるのです。

>聖書には、辻褄が合わない箇所がたくさんあります。それでも、総合的に見て信じるに値するという立場の方が多いように思われます。「ロバが喋った」ということがきちんと証明されなくても、信仰は揺らがないと思います。

 聖書の個々の記述を調べて、その上でキリスト教に入信するのでしょうか?例えば、貴方は三位一体の教理について詳しく学んだ上でキリスト者になったのでしょか?恐らくは違うと思います。キリスト者になった、信仰を与えられた上で聖書を読むから、細部の不合理なところも気にならなくなるのではないでしょうか?学問的な探求の延長線上に信仰の門が開いているわけではないと思います。両者は別物でしょう。

>私も、全てのキリスト教徒を知っているわけではありませんが、このような状況を聞いても、流木さんは、しろうとさんはキリスト教原理主義者であり、ロバが本当に喋ったか否かに自分の信仰がかかっている方だとお考えになりますか?
キリスト教信仰が「ロバが喋ったのは史実だ」と信じることでないことぐらい、しろうとさん自身もおわかりだと思いますが。

 そうでしょうね。「ロバが喋った」という話にご自身の信仰をかけるなど、バカげています。それでは本当にロバ教でしょう。しかし、あの方のお立場は「聖書に書かれていることは全部史実だ」というものなのですから、「ロバが喋った」という話が史実でない(比喩や象徴その他だ)となれば、その時点で崩れてしまいます。つまり、論理的には「ロバが喋った」という話にご自身の信仰をかけざるを得なくなるわけです。それは変じゃないですか、そういうのがキリスト教信仰のあり方なんですかとお尋ねしているのです。

>流木さんの周りには、聖書の一語一句が歴史的事実だと主張する方がいるようですが、私もそのような方に一度お目にかかりたいです。

 キリスト者が集われる掲示板などでお探しになれば会えると思います。当方の場合は、モルモン教被害者の集う掲示板で偶然出あったり、当方のサイトをどこからか見つけてメールを送って来られてやり取りしました。概して話はかみ合わないまま終わります。

>そのような方は、聖書の矛盾、誰でも知っているようなことで言えば、ユダの死因は首吊りと墜落があるわけですが、ユダは二度死んだと解釈しているのでしょうか?どのような解釈をしているのか、ご存じでしたら教えてください。

 残念ながら、ユダの死因についてはお訊きしたことがありません。イエスの家系図の話は出したことがありますが、はっきりした答えはなかったように思います。ご参考まで。


聖書にあれば史実なのか?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日18時17分

*たまごちゃん (^-^)ノさん(なんだかなぁ 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日: 1月 3日(月)04時35分53秒)

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 さて、

>「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」と、「ロバが喋った」では、「航空便でどら焼きを送った」と「どら焼きが空を飛んだ」との違いくらいに違いがあるように思うのですが…。

 そうでしょうか?「福岡のおじさんからからし明太子が航空便で送られてきた」というのを「からし明太子が空を飛んだ」といえば、なるほど奇妙な言い方ですが、「からし明太子が届いた」といえば別に変ではないでしょう。「言った」と「喋った」とでどれぐらい違うのでしょうか?「主がロバの口を開き」の後に続くのは、ロバとバラムとの会話です。ロバは人間の言葉で喋っているのではありませんか。違うのでしょうか。

 あの方は、「ロバが喋ったの前に何と書いてありますか。聖書をよく読んで下さい」とおっしゃったわけですが、前に書いてあることとは恐らく「主がロバの口を開いた」云々の記述でしょう。「主がロバの口を開いた」と書いてあるから、「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」ことの証拠だというご主張なわけですね。しかし、キリスト教信仰を持つ人であれば、「主がロバの口を開いた」のだから、ロバが人間の言葉でバラムに抗議をしても当たり前だと思えるでしょうが、それは信仰の上でそう信じられるというだけです。キリスト者一般がロバが喋ったことを歴史的な事実だと理解するわけではないでしょう。ましてキリスト教の造物神の存在を信じているわけでもない非キリスト者は、「主がロバの口を開いた」と書いてあったからといって、それを歴史的な事実である証拠とは考えないだろう、そんなこともお分かりにならないとしたら、ずいぶんとおめでたいことですねと申し上げました。

 「聖書にこう書いてある」という指摘は、非キリスト者にとっては何の証拠にもならないでしょう。「聖書には神が天地万物を6日で創造されたと書いてある。だから、それは歴史的な事実なのだ」といった主張は受け容れ難いものです。天地創造を信仰として信じるのは結構ですが、「聖書に書いてある」というのは歴史的事実か否かの判定基準とはなり得ません。

>これは、失礼なだけでなくかなり的外れな発言だと思いますよ。

>「ロバが喋った」の部分を「シモンはヨハネの子だ」に置き換えると、どんなに的外れなことを書いていたか分かるんじゃないかな?

 ロバが喋らないというのは常識です。シモンやヨハネの名を出して何の話か解る人がどれだけいるのでしょうか?失礼ながら、ご指摘は的外れと思えます。

 聖書の一語一句が正しく、そこに描かれた出来事は全部実話であり、歴史的な事実であるとする立場は、「ノアの洪水は実際にあった」という限りではまださまになるかも知れませんが、「ロバが喋った」といったら笑われるだけでしょうと当方は述べました。それに対してあの方は、「ロバは喋った。笑われても構わない」と横レスをつけられたわけです。

 だったら、「ノアの洪水」云々を論ずるまでもありません。「ロバが本当に喋った」のかどうかを検討すれば済みます。ロバが喋ったと証明できなければ、「聖書に描かれたことは全部史実だ」というあの方の立場は崩れてしまいます。「全部史実だ」という立場はたった1つでも史実ではない出来事があれば成り立たなくなりますからね。つまり、ロバが喋ったか否かにご自身の立場をかけたわけです。これでは、あの方のお立場は「ロバ教」と呼ばれても仕方のないものだと思います。

 そして、あの方のお答えは「ロバが喋ったの前に何と書いてありますか。聖書のよく読んで下さい」だったわけです。恐らくは「主がロバの口を開き」云々とあるから、歴史的な事実だとおっしゃるのでしょう。それでは答えになっていませんよと申し上げました。


基世 さんへ  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月03日17時21分

>流木さんは、聖書にかなり精通されているようですので解ると思いますが、聖書には、辻褄が合わない箇所がたくさんあります。それでも、総合的に見て信じるに値するという立場の方が多いように思われます。「ロバが喋った」ということがきちんと証明されなくても、信仰は揺らがないと思います。

 「総合的に見て信じるに値する」から、あなたは信じたのですか?
 信じたから、「総合的に見」ることができるようになったのでなくて?
 だから、聖書の矛盾にも、耐えられるようになったのでないか、と思いますが。ちがいますか?
 だいたい、クリスチャンの主語って、どうしていつも「聖書」なのでしょう?
 なぜ「私が」と言えないのでしょう?
 だから、流木さんの批判が、聖書への批判、クリスチャンへの批判と捉えざるを得なくなり、それが自分にも言われているような錯覚に陥るのでないですか?

 しろうとさんは、はじめ、イエスは科学的なトリックで水上を歩き、復活のとき、イエスの肉体は宇宙人である天使に取り去られた、と言っていました。「信仰上の事実」と言わず、科学的、歴史的な証明に腐心しようとしたのは、発言を遡れば、分かります。
 私は穏やかに諭すつもりだったのですが、あなたがそのように言うので、再び持ち出してしまいました。
 繰り返して言いますが、流木さんは奇跡や復活などを否定して、このような発言をしているのではないのです。聖書を聖書以外の権威と混同して説明しようとするから、それは創造科学と同じ態度だ、と言ったまでです。


質問です。  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月03日16時08分

流木さん、こんにちは。質問があります。

>「ロバが喋った」と真顔でいう人がノアの洪水や6日間での天地創造についてどういう立場なのかは、ただの憶測ではなく、かなりの確からしさを以って予測可能だと考えます。貴兄は「実際にそういう発言がない以上はただの憶測だ」とのお立場でしょうか?

私は、実際にそういう発言がない以上はただの憶測だと考えます。
「ロバが喋った」と真顔でいう人の立場が、流木さんがいうところの「福音派と呼ばれる系統のキリスト教原理主義者」であることが、かなりの確かさを以って予測可能という科学的な根拠はなんですか?キリスト教徒ひとりひとりに確認しているのでしょうか。

私の周りの人を見た限りでは、「ロバが喋った」ことは信じられても、モーセ5書(天地創造、ノアの大洪水と箱舟、カナン侵略のための聖絶など)の方に疑問を抱いている人の方が多いと思います。牧師でも、創世記などは言葉を濁します。

流木さんは、聖書にかなり精通されているようですので解ると思いますが、聖書には、辻褄が合わない箇所がたくさんあります。それでも、総合的に見て信じるに値するという立場の方が多いように思われます。「ロバが喋った」ということがきちんと証明されなくても、信仰は揺らがないと思います。

>キリスト教信仰が「ロバが喋ったのは史実だ」と信じることでないのは、誰が見ても明らかでしょう。しかし、聖書の記述はその細部までも史実だという自分の立場では、確かにロバが人間の言葉を喋ったと言い張らざるを得ない。つまり、ロバが本当に喋ったか否かに自分の信仰がかかってしまうわけです。

私も、全てのキリスト教徒を知っているわけではありませんが、このような状況を聞いても、流木さんは、しろうとさんはキリスト教原理主義者であり、ロバが本当に喋ったか否かに自分の信仰がかかっている方だとお考えになりますか?
キリスト教信仰が「ロバが喋ったのは史実だ」と信じることでないことぐらい、しろうとさん自身もおわかりだと思いますが。

流木さんの周りには、聖書の一語一句が歴史的事実だと主張する方がいるようですが、私もそのような方に一度お目にかかりたいです。
そのような方は、聖書の矛盾、誰でも知っているようなことで言えば、ユダの死因は首吊りと墜落があるわけですが、ユダは二度死んだと解釈しているのでしょうか?どのような解釈をしているのか、ご存じでしたら教えてください。

(ぱ)さん、谷庵さんへ、投稿上のルールのご指摘ありがとうございました。

ここで発言することにそれなりの反応があるのは当然ですが、発言にルールがあるように、反応にもルールがあるのではないでしょうか。

あちこち見て書きましたので、誤解がありましたらお許しください。←予防線です。


コニャンが解決  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月03日15時24分

ありゃりゃ、手元にある「聖書象徴辞典」(人文書院)には、思いっきりこのことの回答があるではにゃーか。以下は引用ね。

*********************************
分別をもたない被造物の方が目を眩まされて物の見えない人間よりも神の近くにありうるということ、預言者バラムにまつわる話はこのことを示している。つねは非常に賢い人間であるバラムが神がすぐ近くにいることに全然気づかないのに反して、バラムの乗る雌驢馬はこれをはっきり認める。
「雌驢馬は神の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見た」(民数22、21-35)
***********************************

もちろん、ここでの「分別を持たない被造物」を、インテリに対する一般ピープル(死語)と見做すことも可能だろうにゃ。


コニャン再び  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月03日15時15分

さて、コニャンですにゃー。
問題の「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」ですけどにゃ。
そもそも「ろば」が何かの象徴であると解釈するのも現実的にゃんぜ。
流木がイソップ寓話を取り上げているにゃんが、あれは「動物がしゃべった」のではなく、「ある種のニンゲンを動物に喩えている」と考えるのがまっとうではにゃーのか?
酸っぱいブドウのキツネは負け惜しみニンゲン、コウモリは日和見ニンゲンのことを指しているのだにゃ。

ちゅうわけで、手元にある「イメージ・シンボル辞典」(大修館書店)のロバの項を見てみると、なんと延々と5ページにわたってロバの象徴が列挙されているのだにゃ。
ここから、関係のありそうなところを捜すと
・忍耐強いものの象徴
・貧者の象徴
・キリストその人の象徴
・抑圧された宗教の象徴
などがあるにゃんな。


もちろん、比喩で記述されていることと事実であることは何ら矛盾しにゃー。

(実は、比喩と象徴は違うもので、見る人がみれば僕の以上の記述は乱暴だにゃ。
 しかしまあ、そこまで正確に書くのはめんどいので、エクスキューズだけにしておく)


また、本当に神様がロバにしゃべらせたという「奇跡」と読むことも、何人かが指摘している通り可能だよにゃ。こう読むと、流木の指摘は
「えええ? あなた、死者が甦ることを信じているんですか? 死者が甦ることをカガク的に証明できますか? それね、ゾンビ教ですよ」
と言っているに等しいよにゃー。

銘探偵コニャンとしては、上記のどちらかがこの場合の読み方だと思いますにゃ。
タダモノ主義のコニャンとしては、ロバがなんらかの象徴だという見方に与するにゃん。

今回の話し、「しろうと」が仮によく勉強しているクリスチャンだったら、流木やキンシャチは返り討ちにあった可能性が高いにゃ。


ダーウィニズムは目的論だああああああ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2005年01月03日14時54分

みにゃさま、あおこよ

さて>(ぱ)
こちらこそ遅くなって申し訳にゃーですね

>>ダーウィニズムとトンデモ進化学説の本質的な違いは何だと思う?
>目的論の排除か?

という話しの続きですにゃ。
別にもったいをつけるような話しでもにゃーのだが、なんとなくずるずる年を越してしまいましたにゃー。

で、僕としてはダーウィニズムは必ずしも目的論を排除しているともいえにゃーのではにゃーかと。
去年も話していたけど「ネコの爪はネズミをとるためにある」で十分に正しい記述であるといえますからにゃ。
AはBのためにある という論理構造を広義の目的論といっていいなら、ダーウィニズムは広義の目的論の範疇に入ると考えられますにゃ。
これを言い換えると
・テレオノミーは広義の目的論的構造を持つ
となるにゃんね。

さらに、敢えて挑発的に言い換えると
・自然淘汰とは、広義の目的論的構造を持つ
とまで言えるかと思われますにゃ。

「ダーウィニズムは偶然だ」とかいう痴呆批判はあとをたたにゃーよね。
こういう痴呆批判に対して
「ダーウィニズムが偶然だなんてとんでもない。あれは広義の目的論です」
と切り返してあげるのもオモシレーかにゃと思ったりもするにゃんね。

この場合、ダーウィニズムがどういった目的論なのかという注釈が必須だにゃ。
「ただし、この目的論には、いかなる「意志」の介在もありません。
 複製子の自己増殖は意志とよべるものではありませんからね」


後天的に獲得した形質は、「意志」により獲得したものだにゃ。
つまり、一般的にいうラマルキズムとは、意志が遺伝する ところに眼目があるよにゃ。
今西進化論についても、個々の種あるいは生態系全体に意志があり、それが進化の駆動因であるかのごとき説だにゃ。
それでも哲学的な味わいのある今西説を疑似科学風に味付けしたウィルス進化論においても、そのようなウィルスの存在の背後にある意志の存在が見え隠れするにゃ。


信仰上の「事実」  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月03日14時39分

>「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」の「言った」の部分も比喩的に解釈することはもちろん可能ですし、実際、かなりの数のクリスチャンが比喩的に解釈しているのではないかと思います。でも、「ロバは実際には喋っていない」という解釈の仕方をした場合、聖書をノンフィクションとして読んでいるとはいえないように思います。
一方、「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに向かって言った」を「主が、ロバを喋れるようにしたので、ロバはバラムに向かって(人間の言葉で)言った」と解釈することは、聖書のこの部分をノンフィクションとして読んでいると言って問題がないように思うんだけど?

しろうとさん。ごめんなさい。私が寝込んでいるあいだに。私もそう言えば良かったのです。
「主が、ロバを喋れるようにしたので、ロバはバラムに向かって(人間の言葉で)言った」と。ただ、これは信仰上の「事実」です。信仰上の「事実」である限り、私もだれも責めないし、だれも私を責めることはできません。


読む方の霊感  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月03日14時27分

 ある人にとって聖書は神の言葉であり、同時にある人にとって聖書は、ただの本です。
それゆえ、聖書が神の霊感により、いかに編集されたかよりも、私の内で神の言葉がいかにはたらくか、が大事だと思っています。聖書を読む側、神の言葉を聞く側に、「霊感」が求められていないわけではありません。
 コリント人への手紙第一には、キリストの十字架がむなしくならないために、宣教は言葉の知恵、この世の知恵に頼ってはならない。それは十字架の言葉は、滅びに至る人々にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力であるからだ。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた。ユダヤ人は神の奇跡を追求し、ギリシャ人は哲学を追求する。けれども、私たちは十字架に付けられたキリストを宣べ伝えるのです。と、はっきりそう書いてあります。
 信じることは愚かなことです。ただ、聖書は信じる者にとっては、神の力なのです。
 聖書はわたしにとって、確かな書物だ、と言うとき、問題なのはその「確かさ」をどのように表明するかですが、しろうとさん自身、苦悩のなかを導かれ、内面と生活の変化を得た救いは、ここで示そうとした科学的、歴史的な方法ではなかったのではないかと「推測」します。
 もしそうだとすれば、それにもかかわらず、科学的、歴史的な事実云々と表明することによって自分の信仰を示そうとすることは、流木さんがすでに指摘したように、私にとっても疑問です。
 ただ、残念なことに、しろうとさん自身の背景は、ここでは触れられていません。
 私はおいおい、しろうとさんと対話が深められたらと思っています。私は聖書の物語を心に置くことで、あらゆる理解不能な事項を比喩的にもっともらしく解釈し、奇跡の翼をもぎ取る必要もないわけです。言うまでなく、両方、必要ですが、信仰上の「事実」なしに奇跡の果実を受け取ることはできません。


謹賀新年  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2005年01月03日13時02分

大晦日には伊達巻きの他に寿司の卵焼きも食べてしまった。ついでに魚卵も。


> 『浪費癖があって、うそつきで、約束はすぐすっぽかすけれど、可愛いんだ!』

> ↑こんな女の子に私が惚れたら、きっと合理的には見えないことでしょう。彼女が嘘をついていることを、誰かが囁くかも知れません。でも「好きになったもんは仕方がない」とする自由は、尊重したいと思うのです。これはそういう次元の話ではないでしょうか。

 ドロレスヘイズは体は貧相で性格は我が儘なのだが、ハンバートは萌える思いを
押さえることができない。最後は破滅するのだが、堕落する自由もやはり
尊重されるべきだろうと思う。

 原理主義も個人の内面に止まっていればよいのだが、他人の「堕落」を
許さず攻撃するとなると問題になる。


空とぶでかどら  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月03日11時39分

sci98さん、レ(省略しすぎ)。

>ということは、たまごちゃんは「口を開かれた」の部分を「比喩的に解釈すべき」とお考えなのですか?

はい。

>#ちなみに、私は「口を開かれた」の部分は比喩的に解釈すべきと考えていますが
>#(比喩的な意味以外で「口を開かれた」という表現が使われる方がレアであろう)、
>#それを言うなら「言った」の部分も比喩的に解釈できるわけで、話の前提が崩れてしまう。

しろうとさんは、「聖書にはいかなる比喩的表現も含まれない」とおっしゃっているわけですか?(あんまり丁寧に読んでいないので、もしかしたら、おっしゃっているのかもしれないけど・・・。)
「聖書はノンフィクションだ」って主張しているからといって「聖書にはいかなる比喩的表現も含まれない」と主張しているということにはなりません。ほとんどすべてのノンフィクションには比喩的表現が含まれていますから。
なんなら、手元にあるドーキンスの『利己的な遺伝子』から比喩的表現をいくつか抜粋してきましょうか?(この本をフィクションだと主張する人はここにはあんまりいないだろう。)

「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」の「言った」の部分も比喩的に解釈することはもちろん可能ですし、実際、かなりの数のクリスチャンが比喩的に解釈しているのではないかと思います。でも、「ロバは実際には喋っていない」という解釈の仕方をした場合、聖書をノンフィクションとして読んでいるとはいえないように思います。
一方、「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに向かって言った」を「主が、ロバを喋れるようにしたので、ロバはバラムに向かって(人間の言葉で)言った」と解釈することは、聖書のこの部分をノンフィクションとして読んでいると言って問題がないように思うんだけど?


ちなみに、私はクリスチャンではないので、ロバが喋ろうが喋るまいが、ナザレのイエスが復活しようがしまいが、イースターエッグさえあればご機嫌よん♪


Re:「信じる」  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月03日10時51分

 キンシャチさん、はじめまして。

>> あなたはほんとうに、聖書のすべての記述を当時の歴史の記録だと信じているのですか?(キン)

 「信じる」という表現の多義性について、時に科学的方法論の立場でそうではない立場のひとと対話するとき、おおらかでありたい、と私は思うのです。あるひとが、それを「信じる」のは自由ですし、信仰の尊重を前提に置かずに創造説を批判していけば、やがては信仰そのものの批判または否定にたどり着いてしまうのでは?と私は危惧します。

 もうひとつ、相手がどれだけ議論に慣れているのか?それを見極め発言すべきとも、私は思います。キンシャチさんに提示していただいたように、しろうとさんは「それを歴史的事実だと信じる」と述べていますが、ではそれを反証できるのか?と問うとき、果たして本当に可能でしょうか?先に述べたように、確かに「見た、感じた」と述べるひとがいたところで、なにも不思議はありません。少なくとも「信じている」ものを否定することは、誰にもできない、と私は考えます。

 『浪費癖があって、うそつきで、約束はすぐすっぽかすけれど、可愛いんだ!』

 ↑こんな女の子に私が惚れたら、きっと合理的には見えないことでしょう。彼女が嘘をついていることを、誰かが囁くかも知れません。でも「好きになったもんは仕方がない」とする自由は、尊重したいと思うのです。これはそういう次元の話ではないでしょうか。


しろうとさんのこと  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月03日10時31分

大文字ナンさん。はじめまして。

> 悪いンだけどさ、流木さん「は」憶測を書きすぎと思う。まず「信じる」こと、すなわちそれを「歴史的事実と考える」かどうかは、そのひとの価値観・文脈・言葉の解釈によって異なるだろうし、それを統一しと、というのは横暴に感じる。上記にしても「だとあの方が考えているなら」という憶測に基づく揶揄でしょ。

大文字ナンさんはこうおっしゃっていますが、かつてしろうとさんは、

>しろうとさん。
> あなたはほんとうに、聖書のすべての記述を当時の歴史の記録だと信じているのですか?(キン)

>はい、そうです。(しろ)

と御自分の考えを表明しています。
このような場では、過去の発言は有効でしょう。残っていて閲覧できるのですから。
議論の相手は過去の発言から推測します。
流木さんもおとなげないと思いますが(よくこんなロバの話を持ってきたもんだ)。

しろうとさんも、どこかで引っ込みがつかなくなったのだと思います。
僕がしろうとさんをハメたのか、とも危惧しています。聖書の記述に関する質問をいくつかぶつけて、追い込んだのではなかったか、と。

ただしろうとさんは断言するのが早いのでは、ともおもっていました。
言質を取られないように文章を工夫する、といった形跡が見えなかったのは確かだと思います。
とりとめのない文章になってしまいました。失礼します。


謹賀新年  投稿者:sci98 投稿日: 2005年01月03日 8時47分

あ(以下略)。

#文中、敬称およびフェイスマーク略。

>「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」と、「ロバが喋った」では、
>「航空便でどら焼きを送った」と「どら焼きが空を飛んだ」との違いくらいに
>違いがあるように思うのですが…。

ということは、たまごちゃんは「口を開かれた」の部分を「比喩的に解釈すべき」とお考えなのですか?
逐語訳的に解釈するならば、「口を開かれた」のは、単に「口を開かれた」だけなのだから、「私がどら焼きを箱から取り出したので、どら焼きが空を飛んだ」と「どら焼きが空を飛んだ」との違いくらいしかないような。

#ちなみに、私は「口を開かれた」の部分は比喩的に解釈すべきと考えていますが
#(比喩的な意味以外で「口を開かれた」という表現が使われる方がレアであろう)、
#それを言うなら「言った」の部分も比喩的に解釈できるわけで、話の前提が崩れてしまう。


なんだかなぁ  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月03日 4時35分

To 流木さん

「主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った」と、「ロバが喋った」では、「航空便でどら焼きを送った」と「どら焼きが空を飛んだ」との違いくらいに違いがあるように思うのですが…。

>つまり、あなたの信仰は「ロバが人間の言葉を喋った」と信ずることなわけですね。キリスト教というのは、ロバが喋ったと信ずることなんですか。立て札に「ロバは喋った!」とでも書いて、初詣の人々にご自身の信仰を証されたらいかがですか。あなたの望みどおりに失笑してもらえますよ。

これは、失礼なだけでなくかなり的外れな発言だと思いますよ。

「ロバが喋った」の部分を「シモンはヨハネの子だ」に置き換えると、どんなに的外れなことを書いていたか分かるんじゃないかな?(ペテロと呼ばれたシモンの父がヨハネという名前だということは、聖書に書かれており、おそらく歴史的な事実ですが、キリスト教信仰においては枝葉といえる事柄だと思う。)

ヨハネ教ですか?
つまり、あなたの信仰は「シモンはヨハネの子だ」と信ずることなわけですね。キリスト教というのは、シモンがヨハネの子だったと信ずることなんですか。立て札に「シモンはヨハネの子だ!」とでも書いて、初詣の人々にご自身の信仰を証されたらいかがですか。あなたの望みどおりに失笑してもらえますよ。


うーん…  投稿者:soft_tractor 投稿日: 2005年01月03日 4時20分

えー、ちょいと失礼いたしやす。

あっしは、「ロバが喋ったのは事実だ」ってえのが聖書を根拠にしているのにとどまるんなら、そして当のご本人が「信じてる」ってえことなら、別に構わねえんじゃねえかと思いやす。
そこで、例えば「ナントカ学的見地から云々…」とか、「今のカガクでは証明できんのだ〜」なんぞと始まったら、ちょいとアレでやすがね。

流木さん> 「ロバが喋った」と真顔でいう人がノアの洪水や6日間での天地創造についてどういう立場なのかは、ただの憶測ではなく、かなりの確からしさを以って予測可能だと考えます。貴兄は「実際にそういう発言がない以上はただの憶測だ」とのお立場でしょうか?
あっしもどういう立場なのかは、おおよそ見当がつきやす。けれども、そいつがご本人の信心にとどまってる限り、他人がどうこう言える筋合いのもんじゃあねえんじゃぁねえですかね?
発言を見る限り、しろうとさんは進化論とかなんとかに特段のアヤをつけてきたわけでもねえ。
「トリックがあった〜」ってえ発言もありやしたが、それにしたってご本人の解釈の内にとどまるもんでござんしょう。
いずれにせよ、しろうとさんは一般的に科学とか歴史(史実)とか呼ばれてるモンについちゃあ、触れていなかったように読めたんでやすがね。

あっしがちょいと怖えなと思うのが、んで、やっぱりご法度なんだろうなと思うのが「かなりの確からしさを以って予測可能」ってえことで話が進んでいっちまうことでやしょうか。
例えばあっしが「愛読書はナポコフとルイス・キャロルだ」って言ったならどうなるんでやしょう?
やっぱり「かなりの確からしさを以って予測可能」ってえことになっちまうんでやしょうか?
杞憂とは思いやすが、今回のことではあっしはある種の「危うさ」を感じやす。

繰り返しになりやすが、あっしはそれが当人にとどまってる限りは「ロバが喋ったのは事実だ」ってえことで構わねえと思いやす。
ましてやそれが信心に関わることなら、他人がどうこう言えるもんじゃあねえですし、一般的な科学や史実との折り合いは、当人がつければ済むことでござんしょう。
勿論「事実」という言葉にこだわったしろうとさんにも責めが無いとはいえねえですが、ただそのことをもって進化論とか科学や史実の否定としちまうのは、ちょいと急ぎ過ぎるんじゃあねえかと思いやす。

極端なことを言っちまえば、「どっちも事実」ってえ言い分だってありなんじゃあねえかと、ね。

あっしの勘違った独り合点…なんでやすかね(だったらいいんでやすが…)?
そいじゃあ、失礼しやした。
御免なすって。


糸口について、とディスコミ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月03日 4時14分

 疑似科学や創造科学と呼ばれるモノに含まれる誤謬や欺瞞が広まることへの危惧と警鐘、私は、それがこのサイト及び掲示板のテーマと思っています。

 これら似非科学の「諸説」を検証し、批判し矛盾を突き、それらが「自然科学として」まったく間違っていて、役に立たないことを解説するには、こちらのサイト・トップにあるテキストなどがあれば十分でしょう。
 しかしなお、それだけで科学的方法論や合理的な推論というものが普及したとはいえません。そもそも、この私にも多数の誤謬は潜み、正しさについて胸を張ることはいささか忍びないものです。そうした「なぜひとは軽信してしまうのだろうか?」を突き詰めるには、実際に対話を重ねて互いの理解を進めるしかない、という点において、この掲示板の重要度はとても高く、これまでに重ねられてきたログを公開することの意義は高い、と考えています。

 と、長い前置きになってしまいましたが(笑)、私自身、時に辛辣な言葉や斬って捨てる発言を武器に論客ぶっていることを自覚しますが、それでもなお、ただ相手の間違いを突くだけでコミュニケーションが図れるのか?果たして本当に自分の論証は的確であるのか?同じことを述べるにしても、もう少しマシなやり方があったのではないか?と、常々「対話の糸口」を探すことには善処したい、と思うのです。

 件のロバの件について「ロバが喋ったことは事実だと思う。それで笑われてもかまわない」と、強い信仰心を持つひとが述べることは不思議なことではありません。これを一意的に批判し揶揄することは「誰にでも」できます。しかし、それだけで「役目」は足りるのでしょうか?少なくとも「進化論と創造論」というテーマにやっと興味を持ったひとに対し、その「ひとの」解釈をただ批判するだけで問題なっしんぐなのか?ということです。

 つまり、私は年末に映画を見たわけです。シュレック2という映画ですが、ロバが喋ります。あのロバの声は某黒人俳優に酷似していたワケですが、見事に人語を喋っておりました。これは「歴史的事実」ですね。挙句にロバは、白馬に変貌しておりました。
 「ロバが喋った」という記述を科学的に解釈してでさえ、あるひとがそれを「見た」と述べることを「事実ではない」と繰り返すことには、無理解以外のなにものも感じません。我々の知覚は現実と夢を個体の認識のみで区別することが出来ないことも含め、あるひとの「心象に起きた事象」が、そのひとにとっての事実であることには疑いようがなく、それを認めたうえで対話してこその「糸口」では?と思うのです。
 #壁の中から金色の七福神が現れた!なんて光景を、事実として「見る」ことも出来るようですし。

 「トランス」は主観である、といくら述べたところで、確かに現実の重みを感じているひとにとってそれが揺らぐことはないでしょう。これはもう「仕方がない」の部類と考えます。ここで持ちたい視点は、それが信憑性のある客観的事実だと論証するには、証拠を沿えて提出しなければならない、という「視座」を提示することであり、ロバが喋らないことが「常識だ」と述べることではない、というのが私の視点です。

 と、まぁこれらも「私のスタンス」であって誰に強要するものではありません。無論、正しいかどうかなんて「分かりません」ですね。ディス・コミュニケーションに陥ることを避けたいだけです。


民数記22章  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年01月03日 2時56分

>ご本人が「ロバが喋ったという前に何と書いてありますか」とおっしゃっておられます。
>それらしき箇所は「主がロバの口を開き」云々ぐらしかありません。
(流木さま)

これかな...?
(訳がどこまで、原文に正確かつ忠実か、わからないけど...?)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~saitama/mikotoba/miko0308.htm


今後の反省材料として  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日 1時58分

*大文字ナンさん(今回はどうかな? 投稿者:大文字ナン  投稿日: 1月 3日(月)00時25分16秒)

 こんにちは。

>上記にしても「だとあの方が考えているなら」という憶測に基づく揶揄でしょ。

 ご本人が「ロバが喋ったという前に何と書いてありますか」とおっしゃっておられます。それらしき箇所は「主がロバの口を開き」云々ぐらしかありません。今は旧約聖書が手元にないので、ウロ覚えで申し訳ありませんが。他にそれらしき箇所があるようでしたら、ご指摘下さい。

>「ロバが喋った」ことも信じるに値すると考えるのは信仰心であって、科学的推論でないことはさすがに明らかだと思うけれど、

 「事実としてその通りのことが起きた」というのは信仰心ですか?当方は「信仰上の事実としてですか?」と重ねて尋ねていますが、「事実としてロバが喋った」とおっしゃるわけですから、これは信仰上のお話として正しいということではないと解釈せざるを得ません。もちろん、この解釈が誤っている可能性もあります。「歴史的な事実としてではなく、信仰の上で信じています」というのであれば、認識を改めます。

>彼は「おかしな創造科学」を振り回していたのではないのだし。

 「ロバが喋った」と真顔でいう人がノアの洪水や6日間での天地創造についてどういう立場なのかは、ただの憶測ではなく、かなりの確からしさを以って予測可能だと考えます。貴兄は「実際にそういう発言がない以上はただの憶測だ」とのお立場でしょうか?

>いきなりガツン!とやるのがこの掲示板のスタイルだとは、少なくとも私は思いたくありませんね。

 「笑われても構わない」とまでおっしゃるのなら、ご希望に沿う簡単な方法がありますよと指摘させていただきました。実際にやるだけの心構えはご本人にはなかったようですが。

 世の中には、街頭で「悔い改めなさい」とか「神を信じなさい」とかプラカードを掲げている人たちもいるわけです。彼らはそうすることで彼らなりに自らの信仰を証しているわけですが、じゃあ、「ロバは喋った。これは史実だ」と言い張るのが信仰なのでしょうか。「そうじゃないでしょう。自分で考えてもおかしいでしょう。おかしくないというのなら、彼らのように証して御覧なさい。できないでしょう。それは自分のいってることがおかしいと思うからですよ。イエスが死んだのはそんなことのためだとまさか本気で思っているわけじゃないでしょう?」と述べたかったのです。

 確かに、改めて読んでみても、トゲのある言い方です。やんわりと相手の出方を見ながら、刺激しないように話を進めることが当方にはできませんでした。その点は今後の反省材料とするべきでしょう。

 どなたかがおっしゃったように、ある対象を見て、ある人は「円だ」といい、別の人は「四角だ」といい争っているとき、実際にはその対象は円柱かも知れません。視点が異なれば、どちらも正しいし、どちらも間違いとなります。そういう可能性がありますから、自分にとって自明なことに異論を唱える相手がいても、頭ごなしにバカよばわりするのはマズイかも知れませんし、ご指摘のように最初からガツンとやるのもよくないでしょうね。議論をただの勝ち負けと見れば、捨てセリフを残して相手が逃げ出した=論破完了でンなとばかりに悦に入ればよいでしょうが、そんなことをしても虚しいだけです。

 例えば、「歴史的な事実」とか「科学的に正しい」という言葉を、単に「自分にとって確かだ」(実存的な真実だ?)という意味で使うなら、「ロバが喋った」という話を「歴史的な事実」だとか「科学的に正しい」ということも許されるかも知れません。そういうことなら解ります。ただ、そうした表現ははなはだ誤解を招きやすいわけであり、無限定に用いれば、反論されても止むを得ないでしょう。


推測ですが  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2005年01月03日 1時56分

 私は、かの人は「笑われても構いません」と書くことで、実際には笑われないよう予防線を張った(つもり)なのだと思ってました。
 こういうのはよくあるじゃないですか。私自身が、今この投稿の題名に「推測ですが」と書いてるようなものです(w ここで、「お前は推測を書いている」と突っ込まれたら私もふくれるかもね。
 んで、予防線を張ったつもりなのに、本当に笑われてしまったので、「もう来ねえよ!」宣言をした、と。
 でもまあ私自身、件の投稿を見たときは、「笑われても構いませんと言っておいて本当に笑われたらキレるのか」とツッコミを入れようと思いましたけど。


みなさまへ  投稿者:基世 投稿日: 2005年01月03日 0時54分

投稿の不手際がありましたことお詫びします。すみませんでした。

投稿者名訂正 投稿者:基世  投稿日: 1月 2日(日)21時41分50秒
これは、流木さん宛の投稿でした。
流木さんがすでにお返事されていますが、しろうとさんへのお返事の中で、ロバ教の立て札云々の箇所は、どうしても書く必要があったのか疑問に思いましたので投稿させていただきました。

流木さんの投稿は、一部のキリスト教原理主義者に対するもののように思われますが、しろうとさんは、キリスト教原理主義者なのでしょうか。
しろうとさんは、信仰によって「ロバがしゃべった」ということを信じている方であって、それを歴史的事実だと主張しているようには思えませんでした。(信じること=事実なのですか?)
人それぞれのとらえ方があるでしょうが、私にはそのように見えました。
流木さんの言おうとしていることもよく解りましたので、しろうとさんが、その後の流木さんの投稿を読めば、誤解が解けたのではないかなと思いました。
しろうとさんがなぜイヤミに感じたのか、それは、私のもそうですが、流木さんのも推測にすぎないですよね。その後、しろうとさんの書き込みもありませんし。
そういう終わり方はちょっとと思ったのですが、イヤミに感じたのは私だけかな…?
箴言に「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。」とあります。
こうして書き込みしているからには、私も気をつけたいと思います。


断定  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月03日 0時49分

*匿名希・望さん(科学は断定しない 投稿者:匿名希・望  投稿日: 1月 3日(月)00時34分57秒)

>科学は断定しない

というのは、断定ではないんでしょうか?私は、科学ではある限られた範囲では断定するとおもいますけどね。

 なお、当方は「ロバが喋らない」と科学的に証明済みであるとは、一言も申し上げてはおりませんので、過去ログをご確認下さい。「そんなことを真顔でいえば、失笑されるのがオチだ」と述べたのです。常識論での話です。


携帯だと改行が利かないので  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月03日 0時48分

これ以上込み入った話は後程。


科学は断定しない  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月03日 0時34分

常識として否定する事と、科学的に否定する事は違いますよ。もちろん神学的にも違いますが。


今回はどうかな?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月03日 0時25分

>「主がロバの口を開き…」というのが、歴史的な事実である証拠だとあの方が考えているなら、おめでたいといわざるを得ません。

 悪いンだけどさ、流木さん「は」憶測を書きすぎと思う。まず「信じる」こと、すなわちそれを「歴史的事実と考える」かどうかは、そのひとの価値観・文脈・言葉の解釈によって異なるだろうし、それを統一しと、というのは横暴に感じる。上記にしても「だとあの方が考えているなら」という憶測に基づく揶揄でしょ。

>あの方が不快に感じるとすれば、それはあの方が挙げた「いやみ」のせいではありません。何しろ、ご自身で「笑われても構わない」とおっしゃっていたわけですから、ほぼ確実に笑われるであろう方法を当方に提示されたからといって、それで不快になる理由がありません。

 ここも他者の思考回路を憶測だけで論じてないかい?
 しろうとさんが極端な原理主義者であるかどうかは判明しておらず、また科学的仮説や歴史的事実について横柄な発言をしたようにも私には見えない。「ロバが喋った」ことも信じるに値すると考えるのは信仰心であって、科学的推論でないことはさすがに明らかだと思うけれど、↑の発言はただの自己正当化に過ぎんでしょ。結局、価値観が合わないからと感情的になってる点ではどっちもどっちですね。

> いずれにせよ、あの方にとっては、「あきれた」「レスするな」「もう見ない」といえる恰好の口実が当方の先の「ロバが喋ったと証したら失笑を買う」云々の部分だったのです。あれがなければ、立ち去れなくなりますから。

 実は、私もあきれた。
 信仰はあっても、科学的方法論については考察の浅いひとがいても問題ないでしょう。増してや彼は「おかしな創造科学」を振り回していたのではないのだし。少なくともここでは、いったん土俵を整えて「なぜそう考えるのか?」「聖書を遂次歴史的事実だと考えることの問題点」「原理主義や万能主義の弊害」などを提示したうえで、それでも議論にならないor紛糾するような状態であって初めて、多少の「言い合い」もあるかと思うけど…いきなりガツン!とやるのがこの掲示板のスタイルだとは、少なくとも私は思いたくありませんね。

>科学的云々以前に、ロバが喋らない(喋れない)というのは、常識でしょう。いい大人が「ロバが喋ったんだ」と真顔でいえば、相手は当惑するでしょうね。第3者なら笑うでしょう。

 それだけなら、私は笑わないよ。なぜ「喋った」と考えるのか、それを吟味することの方がよほど興味深いからね。


ロバは何の象徴か?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月02日23時58分

*匿名希・望さん(本当に科学的な人は・・・ 投稿者:匿名希・望  投稿日: 1月 2日(日)22時50分13秒)

 明けましておめでとうございます。本年もよろしく願いします。

>ロバが喋る事は「無い」とは言わずに「証明されてない」と言うんじゃないかな?

 チンパンジーだったかについては、骨格や喉(声帯)を調べて、人間のように話すのは無理だと証明済みだったと思います。ロバについては、恐らく調べるまでもないとされていそうですが、意外と調べている人がいたりするのが怖いところです。

 科学的云々以前に、ロバが喋らない(喋れない)というのは、常識でしょう。いい大人が「ロバが喋ったんだ」と真顔でいえば、相手は当惑するでしょうね。第3者なら笑うでしょう。

 旧約聖書編纂当時のユダヤ教徒がどう考えていたのか知らないのですが、英語圏ではロバは愚か者の代名詞ですね。そう考えれば、「私利私欲に走ったバラムは(愚か者の)ロバにも見えた天の御使いの姿が見えなかった」>「バラムはそこまで愚かになっていた」という話のなかで、ロバが喋るわけです。

 まあ、何でも象徴や比喩で解釈するのも問題かも知れませんが、書いてある通りに「写実的に」受け止めるだけがノウじゃないと思っています。神話や伝説の類は、今日の我々が文字通りに読んだのでは意味不明というのも珍しくありませんしね(絵画でもそうですが)。


忘れてましたが  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月02日22時57分

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。


本当に科学的な人は・・・  投稿者:匿名希・望 投稿日: 2005年01月02日22時50分

ロバが喋る事は「無い」とは言わずに「証明されてない」と言うんじゃないかな?


不快になるのはなぜか?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月02日22時44分

*基世さん(投稿者名訂正 投稿者:基世  投稿日: 1月 2日(日)21時41分50秒)

 こんにちは。

>人を不愉快にさせると解っているのに、あえてそういう書き込みをするのは、どうでしょうか。

 確かに、愛がありませんね。相手を7の70倍も赦すことは私にはどうもできないようです。お恥ずかしい限りです。

 「立て札にでも…」と書いて一晩経って、「書き方にちょっとトゲがありすぎたかな」と反省していましたが、あのような開き直りぶり(「レスするな」「もう見ない」など)でしたので、相応に対応させていただきました。「主がロバの口を開き…」というのが、歴史的な事実である証拠だとあの方が考えているなら、おめでたいといわざるを得ません。

 あの方が不快に感じるとすれば、それはあの方が挙げた「いやみ」のせいではありません。何しろ、ご自身で「笑われても構わない」とおっしゃっていたわけですから、ほぼ確実に笑われるであろう方法を当方に提示されたからといって、それで不快になる理由がありません。

 あの方が不快になったのは、あの方が触れなかった当方の投稿の下の部分を読んで、自分なりの反論がまとめられなかったからです。キリスト教信仰が「ロバが喋ったのは史実だ」と信じることでないのは、誰が見ても明らかでしょう。しかし、聖書の記述はその細部までも史実だという自分の立場では、確かにロバが人間の言葉を喋ったと言い張らざるを得ない。つまり、ロバが本当に喋ったか否かに自分の信仰がかかってしまうわけです。でも、明快に言い切れない。「聖書をよく読んで下さい」ぐらいしかいえない。そこで不愉快になったのです。思い通りにいかないから、不愉快になるというのは別に珍しいことではありませんからね。小さな子どもでも機嫌が悪くなります。ただ、それで「もう見ない」といっていたら、ネットの掲示板に継続して書き込むことなど不可能でしょう。実生活なら、嫌なことがある度に仕事を辞めなければなりません。世間では、職を転々とする人を指して、「こらえ性のない人」というでしょうね(事情はその人なりにあるでしょうが)。まあ、同じ掲示板に継続して書き込まなければならないわけではないので、諸般の事情で立ち去るのはその人の自由ですが。

 いずれにせよ、あの方にとっては、「あきれた」「レスするな」「もう見ない」といえる恰好の口実が当方の先の「ロバが喋ったと証したら失笑を買う」云々の部分だったのです。あれがなければ、立ち去れなくなりますから。あの部分だけを取り上げて、肝心の他の部分(ご本人にとって痛い部分)は全部無視した上で、当方を悪者にして、自分は被害者面をできるのです。「進化論の掲示板にいったら、こんなヒドイことをいわれた」と。結果論としては、あれであの方にとっては好ましかったかも知れません。もちろん、それはあの方にとってのベストではないわけですけどね。


ひとまずは  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2005年01月02日22時19分

>人を不愉快にさせると解っているのに、あえてそういう書き込みをするのは、どうでしょうか。
>せっかくの、明快な文章がもったいないです。

これは誰のどの発言に対する御意見でしょうか。
人の発言を批判するのであれば、批判する箇所と、その理由を明確にするのが筋だと私は思います。


ここでは今年初めてかな  投稿者:谷庵 投稿日: 2005年01月02日22時18分

みなさん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

ところで基世さん
>人を不愉快にさせると解っているのに、あえてそういう書き込みをするのは、どうでしょうか。
せっかくの、明快な文章がもったいないです。

えっと、これはどの文章についての発言でしょうか。
流木さんの発言なのかな。
そして、誰を不愉快にさせるのだろう。
流木さんの発言であれば、特殊なキリスト教徒以外は当てはまらないと思うけど。

誰がどのような信仰を持っていようと自由だけど、ここで信仰に基づいた発言をすれば、それなりの反応はありますよ。
誰にも反応して欲しくなければ書かなければいいのです。


投稿者名訂正  投稿者:投稿者: 投稿日: 2005年01月02日21時41分

投稿者名、字が抜けてました。基→基世です。
投稿することは、あまりないと思いますが・・・。

人を不愉快にさせると解っているのに、あえてそういう書き込みをするのは、どうでしょうか。
せっかくの、明快な文章がもったいないです。


お手洗いの夢  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年01月02日20時52分

>うーん。初夢がおしっこする夢かぁ・・・。

それはもしかして、尿検査のお話をしたからでは...?(違)

わたしも、トイレで用を足す夢を見ること、
(初夢じゃないけど)結構、ありますよ。
夢の中では、おしっこをしてしまうことも、わりとよくあります。

でも、リアルにやってしまったことは、一度もなく、
おふとんに被害を与えたことは、幸いにして、まったくないです。
(たいしたもんでしょ?って、自慢できることなのか...?)


ホタルじゃないのか…  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月02日20時17分

*PDX.さん(謹賀新年 投稿者:PDX.  投稿日: 1月 1日(土)23時08分0秒)

 明けましておめでとうございます。

>酉年だからという理由で、水族館でペンギンを見てきた新春。

 年賀状の絵柄は、ニワトリかツルですからね。そうかペンギンという手があったか…と気がついてももう遅い。


動物が喋ってもよい  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月02日19時24分

 「笑われても構いません」といいつつ、実際に笑われるのはイヤなようですね。こういう人は「キミのためなら死ねる」とかどこかの青春マンガみたいなことをいいつつも、実際にそういう場面になると「助けて!まだ死にたくないよぉ〜」とか泣き喚いたりするかも知れません。まあ、いうだけなら(私も含めて)誰でもできますからね。

 「短気は損気」といいますね。あの手の人は、そうしてご自分にとって不愉快な(つまり、反論したいけど、論理的に反論し難い)話から逃げてしまうわけです。なお、経験則でいえば、「もう見ません」「これで最後」とかいいつつ、気になって覗いたり、レスを書き込んでみたりするケースも多々ありますね。

 さて、「ロバが喋った」という話があり得ないことは、聖書の記者も当然知っています。動物が人間の言葉を喋るというのは、神話にはよくあることですし、童話にもありますね。動物が喋ってくれないと、イソップの寓話などは成り立たないわけです。

 イソップの寓話は、動物が人間の言葉を喋るという仮構に基づいていますから、当然、史実ではありません。しかし、だからといって、イソップの寓話が読む価値がないわけではありません。イソップの寓話に読む価値があるからといって、「動物は本当に喋ったのだ。歴史的な事実としてその通りのことがあったのだ」と言い張る必要などないでしょう。イソップの寓話を「史実」だと強弁したところで、その価値がいささかでも増すわけではありません。

 聖書の記述には、それなりの歴史的な事実もバックボーンとしてはあるでしょう。しかし、その細部(例えば、ロバが喋ったという話)まで「史実」だと言い張る必要はないと考えます。創世記は世界中にある、この世の成り立ちに関する神話の1つでしょう。そういうものだと捉えればよいのであり、「史実」云々にこだわる必要はなさそうに思えますが、こだわる教派もあるわけですね。世界は文字通りに6日で創られたのだと。

 信仰の上で聖書を信じるのは、キリスト者として当然でしょう。しかし、聖書の一語一句が史実であるとみなしているのは、キリスト者の中でも福音派の系統に属する人たちだけです。そうした立場の延長戦上に「ノアの洪水は本当に起きた」「地球の歴史は1万年以下」といった話を「科学的に」証明できるとする人たちが出てくるわけです。

 なぜ、聖書の記述を「科学的に」証明する必要があるのでしょうか?そんな必要などどこにもないのではないかというのが、当方の抱いている疑問です。「イエスは水の上を歩きました。信仰の上で私は信じます」といえばそれで済むはずでしょう。「スーパーテクノロジーの助けがあれば…」などという必要はありません。そのような主張は聖書の奇跡をありふれた出来事に解消するだけです。何しろ、その「スーパーテクノロジー」とやらを入手すれば、誰でもイエスと同じに水の上を歩けてしまうわけですからね。そうなれば、奇跡でも何でもなくなってしまいます。

 聖書の記述を「科学的に」証明しようという努力は、方向が間違っているのではないでしょうか。それは、聖書を「ロバが喋ったのは歴史的な事実である」と述べたトンデモ本に貶め、福音をかえって台無しにするものではないかと思えてなりません。


初夢  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月02日14時04分

普段、初夢とかってみない(見ないはずはないから正確には覚えていない)のですが、今年は見ました。
時を遡ること10年ほど前。たまごちゃん (^-^)ノ、高校2年生です。まさに17さーいって奴ですな。
うちの高校は運動会で2年生がホームゲームとかいってクラス対抗で踊って演じるのですが、その練習のために夏休みに学校に出てきています。予定より15分ほど早く来たのですが、もうクラスの子がほとんど皆いて、一瞬、「あれっ?時間を間違えたかな?」とか思うのですが、みんな熱心なだけで、別に私が遅刻したわけではないようなので一安心。
友だち二人が隅の方の机で、振り付けとか各人の配置とかの説明をしていたので、その説明を聞きに行きます。どうでもよいけど、この二人、現実世界では部活の友だちでクラスは隣のクラスだし、こういうことでリーダーシップとるタイプでは全くないのですが…。
テーマは雪祭りと雛祭りをあわせたような奴で、なんだかダサいです。
説明を聞いているうちに尿意を催し、「ごめん、私ちょっとお手洗いいってくる」と断り廊下に出る。と、ちょうどそこに日本史の先生(授業をならったことはない)が通りかかったので会釈をして先生がいなくなったところで、トイレに入る。
で、正におしっこしようとしたその瞬間、「これは夢だ、このまま出すとやばいっ!!」と気がついて目が覚めました。

うーん。初夢がおしっこする夢かぁ・・・。今年はどんな年になるんだろう。


(無題)  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月02日10時08分

HN、間違えました。↓


RE神の存在証明  投稿者:大坂 哲男 投稿日: 2005年01月02日10時07分

 カントは、神の存在証明を徹底的に破壊しましたが、それでいて、カントのやったことは、ほらね、それでもやっぱり神がいないと困るでしょう?ということでした。カントは道徳(律法)のために、やっぱり神には居てもらわなくては困ると考えたのでした。
 その後、ヘーゲルが、カントは義務、義務、言ってるけど、喜んでやるのなら義務でなくなるのではないかと、気付きます。イエスは律法(義務観念)に対して愛を、すなわち和解性を上位に置いたのだ、と。
 他方、キルケゴールは、キリスト者とはイエスに恋する者でなければならない、と言います。恋人は、恋の沈黙のうちに、いかに愛するかを、三段論法で証明するようなことはしません。ヘーゲルのように、合理的なものにしてしまうと、それはもはや恋することでなくなります。同時に、カントのような存在証明の破壊に同意しながらも、依然、キリスト教を倫理学という枠組でしか認めることができない、というのにも抵抗を覚えます。
 たとえば、アブラハムがわが子イサクを全焼のいけにえに捧げる話がありますが、倫理からすると、誰が何と言おうとアブラハムのしようとすることは子殺しです。けれども、イサクは結局、そこに備えてあった雄羊のために、殺されずに済んだのですが、アブラハムはわが子イサクを神に捧げることに同意しながら、やがてイサクが自分の元に戻ってくるという望みを最後まで失うことはありませんでした。


キリスト教とは  投稿者:てつお 投稿日: 2005年01月02日10時01分

ぼちぼちレスします。

>ロバがしゃべったかどうかは、確かに枝葉の問題かと思いますが、神による天地や人間の創造、禁断の実を食ったこと(原罪)、イエスの復活とかは、キリスト教にとって枝葉の問題じゃないんじゃないでしょうか。
 temaさんのおっしゃるように、「イエスの教えは正しい」と考えることでキリスト教徒でいられるのなら、天地を創造した万能の神がいようがいまいが構わないでしょうが、世間の大多数のキリスト教徒さんは、temaさんと同じようなスタンスに立ってるものでしょうか。

(ぱ)さんの言うとおりです。
 「合理的」に納得できない部分を抜きにして、キリスト教の「教え」だけを抜き書きして、キリスト教信仰を語ることはできません。
 もしそのようなものがあるとすれば、それは、イチゴのないショートケーキのようなものです。もちろん、イチゴだけがあればよい、と言うわけではありませんが。

ただ、私が見るところ、流木さんは、そういったキリスト教の「イチゴ」を否定することをキリスト者に要求しているのではなくて、イチゴの「論証のあり方」をこそ、問題視しているのではないかと思われます。


ニワトリとは  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月02日 0時08分

一つの卵がもう一つの卵を産むための手段に過ぎない。

と、いう名言を述べたのは誰でしたっけ?

まぁ、ナンにせよ、今年が本当はたまご年であることは言うまでもない。


ロバの話はともかく  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2005年01月02日 0時05分

あけましておめでとうございます。
流木さんの投稿にレスしようと思っているうちに、話が進んでしまいましたが。

 ロバがしゃべったかどうかは、確かに枝葉の問題かと思いますが、神による天地や人間の創造、禁断の実を食ったこと(原罪)、イエスの復活とかは、キリスト教にとって枝葉の問題じゃないんじゃないでしょうか。
 temaさんのおっしゃるように、「イエスの教えは正しい」と考えることでキリスト教徒でいられるのなら、天地を創造した万能の神がいようがいまいが構わないでしょうが、世間の大多数のキリスト教徒さんは、temaさんと同じようなスタンスに立ってるものでしょうか。


賀正  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2005年01月01日23時55分

親戚の子供がハゲタカに見えるものより


謹賀新年  投稿者:PDX. 投稿日: 2005年01月01日23時08分

 今年もよろしくお願い申し上げます>ALL
 酉年だからという理由で、水族館でペンギンを見てきた新春。


あけおめ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2005年01月01日21時42分

 皆さん明けましてあおめでとうございます。

 昨年の年末は、もぉシッチャカメッチャカでタイヘンなこと(私事)になりましたが、新年もシッチャカメッチャカでタイヘンです(笑。
 そんなこんなで慌しい毎日ですが、今年も適当にイキたいと思います!


とかく蹴球と言う物は…  投稿者:えめ 投稿日: 2005年01月01日19時35分

天皇杯
ジュビロは負け、ベルデイ東京が勝った
くどい様だがサッカーは「強い者が勝つとは限らない、だが、勝った者が…」と私
はいはい、と娘
 この一年
         全世界が平和で有りますように


無題  投稿者: 投稿日: 2005年01月01日17時30分

聖書の記述を、ある程度(旧約はちょっと疑問かな?)信じているキリスト者です。
キリスト者とは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いが自分のためだったと信じる人です。それが、一番重要なことです。
聖書の内容を全て信じる、信じないはそれほど重要ではないと思います。

キリストの行ったさまざまな奇跡や死からの復活や昇天も、神の業と思えば、何ら不思議ではありません。科学的な証明も必要ありません。

科学的に証明できないことを、信仰によって事実だと信じる人も、そうでない人も、キリストの十字架の贖いを信じているなら、どちらもキリスト者です。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書12:24)

「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それ は、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」(ヨハネの福音書16:7)

復活されたキリストが地上にとどまらなかったのは、信じた人には聖霊(助け主)が与えられるという、もっと効率のよい働きが用意されていたからです。
その聖霊の働きによって、キリスト教は世界に広まっていきました。

また、創世記2章についてですが、私が使用している新改訳聖書で読みますと、(^▽^)さんのような解釈もできます。
ただ、原語ではありませんので、矛盾している可能性も確かにあると思います。

もう何度も聖書を読んでますが、私も「ロバがしゃべった」と何の疑問もなく読んでました。
笑われるとは、思いもつかなかった(笑)。

神の創造を無理に科学にしなくても、信仰で充分ではないでしょうか。


あきれた…  投稿者:しろうと 投稿日: 2005年01月01日17時15分

>つまり、あなたの信仰は「ロバが人間の言葉を喋った」と信ずることなわけですね。キリスト教というのは、ロバが喋ったと信ずることなんですか。立て札に「ロバは喋った!」とでも書いて、初詣の人々にご自身の信仰を証されたらいかがですか。あなたの望みどおりに失笑してもらえますよ。

「ロバが喋った」の前に何と書いてありますか?聖書を良く読んで下さい。
それとこういうイヤミな事を言う人は相手にしたくありませんので私にレスしないで下さい。
私もここの掲示板はこれでもう見ないようにします。


あけおめ、ことよろ  投稿者:PEPE 投稿日: 2005年01月01日16時58分

あけましておめでとうございます。
今年ももっぱらROMerですが時々お邪魔させてください。

レイカースファンです。


あけおめことよろ♪  投稿者:おずおず 投稿日: 2005年01月01日16時57分

こけこっこー!バタバタ!ポトン!

申年だからといってサルを食べるわけにはいかなかったから、今年は食べるぞ〜!
よくわけわからないけど...(-_-;)


あけおめ  投稿者:wadja 投稿日: 2005年01月01日16時50分

あけましてオメデトウございます。
本年もよろしくお願いします。

今年も一応阪神ファンです。


賀正  投稿者:tema@伊豆のすけ 投稿日: 2005年01月01日11時50分

 明けましておめでとうございます。
 大晦日の昼、伊達巻を1個食しました。このため、年越しそばには卵を入れる事ができませんでした。
 信仰とは、切ないものです…

 では、本年もよろしくお願い致します。


おめでとうございます  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2005年01月01日11時26分

2005年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします

きのうはたけしのTVタックル、「超常現象バトル」で脱力し(視聴者をなめるなといいたい)
東急ジルベスターコンサートの「ボレロ」を堪能しながら年を越しましたが、
皆様いかがおすごしでしたか。

昨日とうってかわっていい天気です。
今年はいい年でありますように。


ロバ教ですか?  投稿者:流木 投稿日: 2005年01月01日 9時52分

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、

*しろうとさん((無題) 投稿者:しろうと  投稿日: 1月 1日(土)00時33分51秒)

>私は書かれているとおりロバが喋ったのだと思います。笑われても結構です。

 つまり、あなたの信仰は「ロバが人間の言葉を喋った」と信ずることなわけですね。キリスト教というのは、ロバが喋ったと信ずることなんですか。立て札に「ロバは喋った!」とでも書いて、初詣の人々にご自身の信仰を証されたらいかがですか。あなたの望みどおりに失笑してもらえますよ。

 「信仰上で正しい」ということと「歴史的な事実である」ということの区別がつかないから、「ロバが喋った」という話まで擁護せざるを得なくなるのです。聖書の記述のどんなささいな事柄でもそれが歴史的な事実でないとなれば、あなたの信仰は覆ってしまうわけです。きっと、「ヘビは塵を食べる」とあなたは言い張るでしょうね。アダムやノアも900歳以上生きたのだと。聖書にはそう書いてありますから。

 新約聖書には、聖書が聖霊の導きによって書かれたとありますが、歴史的な事実を記したとは書いてありません。「聖書に書いてあることは歴史的な事実である」というのは後世の勝手な解釈です。それとも、私が知らないだけで、聖書には「歴史的な事実を書いたものだ」とでも書いてあるのでしょうか?聖書は信仰の書である限り価値を持ちますが、もし、聖書が「歴史的な事実を書いた」と称しているのなら、トンデモ本の仲間入りをさせざるを得ませんよ。歴史的な事実に照らして、その内容の正否が検討されるわけですから。聖書って、あなたにとってそういう書物なのですか。


おけましてあめでどう  投稿者:NATROM 投稿日: 2005年01月01日 8時26分

昨年はたいへんお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

ちょろっと生命の起源の話が出ていましたが、ご興味がおありの方は、「生命の起源 科学と非科学のあいだ」シャピロ著をお勧めします。参考文献にも提示しています。現在では入手困難かもしれません。やや古い本ですが、副題にもあるように、科学の境界領域の話をしています。

(^▽^)さんは、生命起源領域の最新情報を知りたいのではなく、進化論者が生命の起源についてどのような考え方をしているのか知りたいのでしょうから、適切な本ではなかろうかと思います。


謹賀新年  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2005年01月01日 1時42分

 あけましておめでとうございます

 昨年中はおせわになりました。(なにせ、インターネットで発言するという行為自体初めてで、投稿後赤面もののことも多く、あるいは不快に感じられた方もいらっしゃるとは存じますが)本年もご指導/ご鞭撻のほどを宜しくお願い致します


あけましておめでとうございます  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2005年01月01日 1時07分

新年あけまして、おめでとうございます。
ことしもよろしくおねがいいたします。

簡単ではありますが、年明けのあいさつとさせていただきます。


御慶  投稿者:soft_tractor 投稿日: 2005年01月01日 0時58分

えー、明けましておめでとうござんす。
昨年はひとかたならぬご厚情を賜り、ありがとうござんした。
相変わらずの無粋モンでござんすが、本年もよろうしゅにおねげえ申し上げやす。
皆さまがたも、どうかお体だけはお大切に。

まずは新年のご挨拶まで。

やわらけえ牽引車 拝


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2005年01月01日 0時33分

>「ロバが喋った」では失笑を買うのがオチでしょうね。

私は書かれているとおりロバが喋ったのだと思います。笑われても結構です。


あけましておめでとう♪  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2005年01月01日 0時28分

今年もヨロシクだぴょん
Σ^)/))θ  ←酉、卵を産む


矛盾は決してない?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月31日22時53分

*(^▽^)さん(流木さんへ 投稿者:(^▽^)  投稿日:12月31日(金)10時34分51秒)

>これはエデンの園における事柄ではないでしょうか?
地球上には動物や草木がもうすでにありましたがエデンの園にアダムを置いた後、そこに草木を生えさせ、動物をつれてきたのではないかと思いました。

 あなたはご自分の都合のよいように聖書の字句を解釈されているのではありませんか。アダムが創られたとき、地上にはまだ植物も動物もいませんでした。地下から水が湧き出して大地を潤しただけです。アダム以外に生きるものはいなかったのです。創世記第2章から原文(日本語訳)を引用します。

 ヤーウェ神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。 ヤーウェ神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 ヤーウェ神は土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 ヤーウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。ヤーウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ 、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。

 ヤーウェ神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(中略)ヤーウェ神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ヤーウェ神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造り、人のところへ連れて来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助け手は見つけることができなかった。ヤーウェ神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、肋骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取った肋骨で女を造り上げられた。

 人(アダム)が先に創られ、エデンの園に連れて来られます。エデンの園が創られたのは人の創造より後のことです。そして、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥が土で形造られ、人のところへ連れて来られます。どう読んでも、人(アダム)の創造が獣や鳥の創造よりも先です。人(アダム)の創造以前に既に形造ってあった獣や鳥を、エデンの園に住む人のところへ単に連れてきたわけではありません。

>繰り返しますが、これは第1章との矛盾では決してありません。

 どこをどう読むとそういう結論になるのでしょう?少なくとも、あなたの解釈では、国語の答案としては及第点はもらえそうにありませんよ。


創造科学とバラムのロバ  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月31日22時21分

 あと、2時間ほどで2004年も終わりですか。

 さて、先に民数記の第22章にあるバラムのロバの話を紹介しました。「聖書は正しい」という主張と「聖書に書いてあることは歴史的な事実である」という主張とを区別しない人たちは、「3度打たれたロバが人間の言葉を喋って抗議した」という話をも「歴史的な事実である。実際にその通りのことが起きたのです」といわざるを得ないでしょう。

 このような立場に立ってしまうと、「ロバが人の言葉で喋った」ということがきちんと証明できなければ、自らの信仰が揺らぐこととなります。「ロバはとにかく喋ったんだ」という証明にやっきになる姿は滑稽という他ありません。

 『新約聖書』テモテへの手紙2の3.16には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」とあります。また、ペトロの手紙2の1.20には、「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とあります。

 聖書は聖霊に導かれて神からの言葉を述べ記した書物であると聖書には書いてあるわけですが、どこにも「歴史的事実を記した」とは書かれていません。「(神の言葉だから)信仰の上で正しい」ということを、「歴史的な事実として正しい」としたのは、後世のキリスト者の一部が行った勝手な解釈に過ぎません。「ノアの洪水は本当に起きた」「地球の歴史は1万年以下だ」などの主張は、聖書を歴史的事実を記した書物であると誤って解釈しているところから出てくるわけです。「ノアの洪水は本当にあった」という話あたりはまだそれなりに格好がつきますが、「ロバが喋った」では失笑を買うのがオチでしょうね。

 それとも、福音派の系統の皆さんは「いいや、ロバが本当に人の言葉で喋ったんだ」と言い張るつもりでしょうか?イエスはそんなヨタ話のために十字架にかかったとでもいうのでしょうか?


今夜は雪です  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月31日20時31分

第九聴きました。N響。
シラーの詩はとっても大げさだ。
ベートーベンの曲も大げさだ。

てつおさん、またお話ししましょう。風邪お大事に。


体も頭も冷えました。。。  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月31日20時09分

皆さん。こんばんは。田舎に行って、屋根の雪おろしなどしていたら、風邪引いてしまいました〜。これから、じっくり皆さんの書き込みを拝見いたします。

>どうもてつおさんはキンシャチさんに「絡まれた」と認識しているようですが、

そうでしたね。何、熱くなってるんだろう、俺。すみません。
体も頭も冷えました。冷えすぎて、ホント、咳ゴホゴホしてます。
良いお年を!


神の存在証明  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月31日16時47分

 古来、神の存在証明と称するものはいろいろあります。有名なものとしては「神の定義を考えていくと、存在するというのは最も基本的な属性だから、至高の存在である神ともあろうものがそうした属性を欠いているのはおかしい。したがって、神は存在するのだ」というのがあります。

 これを裏返すと、神様とは正反対の最低の存在というものは存在しないことになります。何しろ、最低なんですから、存在するという基本的な属性を備えていることすらおかしい。で、存在しないわけです(笑)。

 要するに、この手の存在証明なるものはただの言葉遊びの域を出ておらず、何の証明にもなっていないのです。これについて徹底して考えたのがインマヌエル・カントという人です。(^▽^)さんが「神の存在証明」に興味を持たれたのであれば、カントの哲学について学ばれるとよいでしょう。


どこから始めるのか  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月31日16時34分

*(^▽^)さん(キンシャチさんへ 投稿者:(^▽^)  投稿日:12月31日(金)14時29分9秒)

 こんにちは。横レスです。予めお断りしておけば、私は、神の存在も、神の不在も科学的には証明不可能だと思っていますから、神がいるともいないともいえないという立場です。

 さて、

>神には始まりがなく、終わりもありません神は永遠です。
人間は神に作られた、つまり始まりがあるので理解しがたいでしょう。

 これを「宇宙には始まりがなく、終わりもありません。宇宙は永遠です。人の作ったものには、つまり始まりがあるので理解し難いでしょう」と書き直すこともできますね。

 「最初からある」ものを「神」とするか「宇宙」とするかだけの違いです。宇宙は観測可能ですが、神はそうではありません。神の存在は信じるものであって、あれこれの理論なり観察事実に照らして証明されるものではないのです。

 まぁ、現代の科学的知見では、宇宙には始まりがあるとの説が有力ですから、先のような言い換えは恐らく間違いです。ただ、その時点から宇宙が始まって、時間も空間もそこから生まれたとすれば、それより「前」を考えることはできません。それより前はないのです。日常生活の感覚では理解し難いかも知れませんけどね。


創世記と生命の起源  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月31日16時18分

*(^▽^)さん(流木さんへ 投稿者:(^▽^)  投稿日:12月31日(金)10時34分51秒)

 こんにちは。引用の際は、引用符(>)をつけると、どこからが相手の発言なのか見やすいと思います。

>とありましたが、これはエデンの園における事柄ではないでしょうか?
地球上には動物や草木がもうすでにありましたがエデンの園にアダムを置いた後、そこに草木を生えさせ、動物をつれてきたのではないかと思いました。

 まぁ、そういう解釈は私も思いつきましたが、聖書学者の研究によれば、創世記の第1章と第2章とでは元になった資料(伝承)が異なるのです。それが併記されているということです。旧約聖書の編纂過程では、あえて一つにするのではなく、古来の異なる伝承を互いに同等の価値あるものとして尊重し、あえて併記したのです。

 マルキオンが旧約聖書に代わる正典(カノン)を編纂したとき、いわゆる正統派とされる人々が彼を非難した理由の1つは、彼が福音書を彼の信仰に合うように都合よく切り貼りしたところにありました。

 記述が前後で矛盾することより、とにかく昔からそのように語り継がれてきているという事実を尊重したのです。記述の整合性を云々するのは、後世になってからのことであり、聖書が編纂された当時はそんな瑣末なことを気にする人はいなかったのです。

>とありますが生命の起源を扱わずにどう進化を説明するのでしょうか?

 現代の進化論は、生物進化についての仮説です。生命の起源は対象外です。生命の起源を扱うのは、化学進化の理論です。化学進化の理論は、突然変異と自然選択とを基本として生物の進化を説明するダーウィンの進化論とは無縁です。ダーウィンの進化論は生命の起源を扱わずに生物の進化を論じています。

>進化とは少数の単純な生物が長時間かけて様々な生物に変化した説だと思いますが、
そうすると生物を逆にたどっていくと少数の生物にたどりつきます。ではその生物は
どのように発生したかという疑問は生じませんか?

 学問的には、そうした疑問に答えるのは、化学進化の理論です。いわゆる進化論ではありません。ダーウィンの進化論は生物の進化についての仮説です。「化学進化も惑星の進化も、同じ『進化』なんだから、統一的に扱えるべきだ」といった議論は、ないものねだりです。あなたが生命の起源について現代の科学ではどのような議論をしているのかを知りたければ、進化論ではなく、化学進化の理論について学ばれるべきでしょう。

>自然発生説もあるようですが流木さんはどうお考えですか?

 どういう意味で「自然発生説」とおっしゃっているのか判りかねますが、「腐った肉汁からウジ(ハエの幼虫)が自然に沸いてくる」とか「池に落ちて腐敗した木の葉が魚になる」とかいう意味での自然発生説は、既に否定されているものと考えます。


始まり  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年12月31日15時42分

>神に発生、つまり始まりはありません

(^▽^)さんはこれをどのように確かめられたのでしょうか。
生物が進化してきたことは確かな証拠に支えられていますが、
それ以上に確かな証拠があるのでしょうか。


キンシャチさんへ  投稿者:(^▽^) 投稿日: 2004年12月31日14時29分

こんにちは
ところで創造論者の方々は「神」の発生についてどうお考えになっているのでしょう。
とありましたが神に発生、つまり始まりはありません
神には始まりがなく、終わりもありません神は永遠です。
人間は神に作られた、つまり始まりがあるので理解しがたいでしょう。


すいません  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月31日13時53分

とんからりんさん。

> 議論の内容からはなにか“現代科学は生命の誕生について知らんぷりをしている”みたいな話になっているような感>じを受けてしまいます。多分誤解なのでしょうが。

そう書いてありますね。失礼しました。
ところで創造論者の方々は「神」の発生についてどうお考えになっているのでしょう。


re:横レス2  投稿者:とんからりん 投稿日: 2004年12月31日13時02分

キンシャチさん、はじめまして。

>現代科学は生命の誕生について知らんぷりはしていないと思いますよ。
>「進化論」が生命の起源を説明しないだけ、と僕は読みましたが。

私の前回の書込みは「現代科学は生命の誕生について知らんぷりしておらず、進化論が生命の起源を説明していないだけにも関わらず、『現代科学が生命の起源について知らんぷりしている』ような話に議論が向かっている」という書込みでしたが、分かりづらかったようです。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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