進化論と創造論についての掲示板ログ290

2004年12月25日〜2004年12月27日
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>SFと神  投稿者:JA50 投稿日: 2004年12月27日22時17分

神への長い道、、、だったかな、私はこれが一押し。
その他、偉大なる存在とか。


本が見つかんなかった  投稿者:遠藤 投稿日: 2004年12月27日21時52分

>イエスキリストと呼ばれた宗教指導者がいたということは歴史的事実として
認められているが、聖書に書かれた事の大部分は歴史的事実とは認められていない。

そのとおりです。旧ソ連でもイエスが後世のでっち上げとする研究が行われたようですが、結局彼らも「ユダヤのキリスト」と称された人間が居たことを否定できなかった。実はこの出展を探したのですが、見つからなかったです。

>もちろん歴史的事実の当否と宗教の価値が直結するわけではありませんが。

ここ!大事なポイントですよ。(教師がこういったときにはテストに出ますな)


SFと神  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月27日21時25分

山尾悠子の「遠近法」にかなり不気味な「神」が出てきます。
また、ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズもキリスト教との関係をあれこれいわれます。娯楽性の高い冒険/思弁SFだと思いました。僕には特にキリスト教色は感じませんでしたが。

宗教SFといって思い出すのは清水義範の「神々の午睡」ですね。
宗教史の壮大なるパスティーシュ。
「虚構市立不条理中学」にしろ「偽史日本伝」にしろこの人の長編(連作短編)はそら恐ろしい。

西風隆介の「神の系譜」シリーズもけっこうイっちゃってて面白いですよ。

しかしやはり、「神」をテーマにしたSFで近年の収穫は
「神は沈黙せず」山本弘
です。
山田正紀も神をテーマにすることが多いけれど、どれも尻つぼみの感が拭えない。


トンボは不味くないぞ!(少なくとも人間には)  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月27日21時23分

TO:たまごちゃん (^-^)ノ 様

>トンボも不味いって・・・(^^;)

小生が直接経験したわけでなく、友人からの伝聞なのですが、ラオスのメナム川に臨む首都ビエンチャンの屋台では、タガメのから揚げとともに、トンボのから揚げもよく売られていて、ビールのつまみとしてはなかなかだそうです。(ま、味というよりほとんど香りとテクスチャだけでしょうが)
 来年のGWあたり、小生も自分でひとつ賞味しようとは思っていますが。(つーか、この何年か考えているんですが、ビザがいるとか、必ず一人対一人で通訳を雇うことを義務付けられるんで以外に高くつくとか、治安も十分でないとで、かなかなか入りにくい国なんですわ)

 それから、幼虫の「やご」について。
小生の友人の中には暇人が降りまして、以前長野名物の「ザザ虫の佃煮」をあちこちの土産屋で買ってきて、中身をせっせと同定したことがあります。(大分昔ですが、これ、たしか「昆虫と自然」誌かなんかに投稿して掲載されたらしく別刷りをもらった覚えあり)で、当然、種々のトビケラの幼虫がほとんどだったわけですが、カゲロウやカワゲラ、それに、渓流性のサナエトンボやムカシトンボの幼虫もふくまれていました(正確な比率は忘れましたが、トンボの幼虫も数パーセントはふくまれており、少なくとも「梅ほし昆布」にニッポンモバヨコエビがひっついているよりははるかに高い確率で)
 しかしながらヤゴが入っていたからというので、「こんな不味い虫を混ぜやがって!」と佃煮メーカーにクレームがいったとも聴いておりません

 ちなみに小生はゲテモノ好みではありませんが、わりと、「ゲテモノに強いほう」と以前は思っていました。しかし、本掲示板を拝見させていただくようになってからは・・・・・・
 単に自己形成された環境から隔たった食文化を許容できる程度のことでは、とても、「ゲテモノに強いほう」などとは恥ずかしくて名乗れないことを知りました。


RE:奇跡の補足  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月27日21時21分

テッド・チャンの「地獄とは神の不在なり」を思い出した 投稿者:ゆん  投稿日:12月27日(月)11時53分7秒

>このへんのお話を読んで、ああ、なるほどキリスト教的なそう
いう考え方がバックボーンにあるんだな、と(やっと)理解で
きました。

そうですね。

地獄とは神の不在です。
天国とは神の在るところです。

ならば、
地上でも、神のみこころが行われるところが神の国です。
救いとは、その神と共に在ることです。

>しかし、たとえば私は脚に障害があるけれど、救ってもらいたい、とは少しも思わない。むしろあって然るべき機能障害を跳ね除ける「営み」に私は生き甲斐を感じてたりするけれど、そういう<相手>であっても上記の救いは成立するでしょうか?

ひとりで「俺はだれの手も借りずにがんばってるんだぞ」というのは、寂しい気もしますが。。。
つまり、神と「ともに在る」ことが、救いであり、喜びだ、と言えるかもしれないです。


日本ミステリー文学大賞を狙う!>temaさんへ  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月27日21時19分

奇蹟といえば、モーゼやキリストが真っ青になって裸足で逃げていくのが、弘法太子!

よっし!弘法太子のおこしたあらゆる奇蹟の謎を解きながら足跡を辿る、長編ミステリー小説を書いてやる!!

...えーと、地面に杖を突き立てたらそこからこんこんと泉がわき出た、のは、...

地面のすぐ下に、古い水道管があって...。


Re:新たな愛人  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月27日21時06分

> その或る女性は心に誓った女性のおなかから現れた。なんて落ちもよく聞きますなあ(^_^)。

...えーと、...仮に、そんな状況があったとして、それはやっぱり、不倫、なのでしょうか?

とりあえず家庭を破壊することにはならないと思うのですけど...?
それと、やっぱり、好ましいことじゃないんですか...? (-_-;)


歴史的事実  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年12月27日20時32分

 立場の違いによる水掛け論になるので深入りしないけど、歴史的事実として
認められるためにはそれなりの検証が必要で、その宗派の文書だけでは不充分とされる。

 たとえば日蓮宗では日蓮が龍の口で切られそうになったとき、稲光がして助かったと
言われているが、日蓮宗以外の記録に表れないので歴史的事実とは認められていない。

 イエスキリストと呼ばれた宗教指導者がいたということは歴史的事実として
認められているが、聖書に書かれた事の大部分は歴史的事実とは認められていない。

もちろん歴史的事実の当否と宗教の価値が直結するわけではありませんが。


 投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年12月27日20時13分

 たまごちゃん (^-^)ノ の警告説が一番可能性が高そうに見えるけれど、
だれか確かめた人はいないのだろうか。

蛍以外の幼虫を発光させて鳥の様子を見ると言った実験した人はいないのだろうか。


岩清水君、死なないで  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月27日19時54分

 岩清水君も若いからね、愛する人に襲いかかる悪モンを体を張ってくい止める、とかいうシーンに陶酔しちゃうんだよね。男というのは闘いの好きな動物だから。でもこの平和な日本でそんな場面はめったにありゃしません。危機の大半は体を張った敵との闘いなんてものとはかけ離れた形でやってきます。日々の静かな疲労の積み重ねとして、ある時は見えないウイルスの姿で、または突然の災厄として、そして自分自身の心の中からも。

 諸君も御承知のように、攻撃側は好きな場所と時間と方法を選べるが、これは守る側としては非常に厳しい状況なのだ。

 だいたいにして死んじゃったら守る戦力としては役立たなくなることが普通です。様々のセーフティーネットのある今の日本と言えども、夫が死ねば妻と子は厳しい状況に立たされることが普通です。

 「神のためなら死ねる」なんて若者を増産してるけしからん奴らは誰だ。


新たな愛人  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月27日19時50分

>  ところがある日、或る女性に出会った瞬間、
>  昨日までの自分は死んで、別人として生まれ変わったような気持ちになりました。

 その或る女性は心に誓った女性のおなかから現れた。なんて落ちもよく聞きますなあ(^_^)。

 自分のおなかから現れた新たな男性に出会って夫のことは完全に頭から消えちゃったという女性の話もよく聞きますけど。

 どちらも好ましいことじゃあありませんけどね。新たな愛人のためにもね。


Re:奇跡2  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月27日19時31分

大文字ナン様へ No.2

>安易な「希望」だとか「癒し」としてイエスを捉えることと・・・

その通りです。安易なところで、人は「自分は救われている」と思っているものです。本来、キリスト教徒であるかぎり、神以外の他のいかなるものにも、安易な希望を置いてはいけない。「世をも世にあるものをも愛してはいけない」とある通りです。その自己批判の基準は神です。その基準とは、「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」その愛はキリストによって、多く赦されることによって、私たちは知ることができるのです。赦されるとは、同時に己の罪に気付いていくことでもあります。赦され、愛されている、と知る者だけが、他者を赦し、愛することができます。

 以上は、「まな板」の上でのことですが(「論」としての)、
>つまりですね、<教徒>であることを求めるのは教会もしくは弟子たちであって、イエスではないだろう、と考えているのです。聖書を読む必要もないし、教会に行く必要もない。教えを広めることが、却って信仰を妨げるのでは?というカタチの自己批判もあって然るべきでは?と思うのです。

私を含め、これまで、多くのクリスチャンが、まさに神について、ここで議論してきたように思います。上の言葉は、真剣に受け止めたいと思います。と言うのも、信仰を持つ前は、このことは実に当たり前のことですが、だれも神を信じていなかったからです!にもかかわらず、その事実を忘れて、当たり前の理屈として理解を要求して来たのではないか、と思います。それは実に、私も含め、皆さんの前でうんざりするほど。十字架の復活も、奇跡も、創造も、すべて、自分が神に愛されている、と信じたからこそ、みな、受け入れることが出来たはずなのです。その信仰自体、恵みにほかなりません。クリスチャンは、梯子に一歩、足をかけただけで、それさえも、悩みのなかで導かれたのは、一方的に神の愛のなせるわざなのです。それなのに、あなたたちはまだ、このレベルに達していない。「信じない者は滅びるのです」と、地に足を浮き立たせて言っているとしたら、実に悲しいものです。創造論者も、教会では、主イエスに愛されている、ハレルヤ!と歌っているのです。彼らは私の兄弟姉妹なのです。科学については、手法はまちがっていますが、本当のところ、心に受け入れたもの自体は、ちがうモノだったはずです。
 人が人の言葉を受け入れる理由は、二つあります。一つは恋人が正しい内容を語ったから、です。もう一つは、自分を想ってくれた上で言ってくれたから、その「言葉」を信じるのです。これがあべこべだから、だれも「奇跡」に耳を貸さないのではないでしょうか?
 自分が言うべきことは、このことだけだったかも。


Re:奇跡1  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月27日19時30分

大文字ナン様へ No.1  

「ひとくくりで『仏教系』と述べることには語弊がある」のは、おっしゃる通りでした。実は昨日、私の友人(S学会)と話して、まさにこのようなやり取りがあったので、それで、改めて考え直した次第です。
私が改めて書いたのは、盲人に対するイエスの言葉は以前、触れはしたものの、そのイエスの眼差しから、イエスの言葉を考えるべきだったと思い直して、書いたつもりでした。

> ん〜「なぜ!?」としか(笑。・・・

 時には、イエスは病いを癒したあとで、祭司長には見せても、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。(9:30)」と言われます。噂が噂が呼び、イエスのところに色々な人が押し寄せますが、イエスが与える「救い」の真意が誤解される恐れが、十分ありました。イエスは医者であって、医者以上であり、教師であって、教師以上であり、救世主であって、救世主以上だったからです。ですが、そこに人々は自分に都合の良い救世主しか、見ません。にもかかわらず、安息日であろうがなかろうが関係なく、自分に求めてくる人々を癒し続けました。その上で考えると、

 救いは「脚の障害」に限りません。また、そのような脚の障害よりも、もっと深刻な障害があるかも知れません。が、ご指摘の通り、必ずしもすべての人が救われたいと望んでいるわけではありません。指に刺さったトゲは、どんなに小さくても目立ちますが、こころのなかの大きな梁については、あえて気付こうとしないものだからです。「救われようとしない」のも、キリスト教的に言えば、罪です。主イエスを信じ、「救われた」のは、恵みです。けれども、「主よ。主よ。・・・」と言う者が、必ずしも「救われている」と言うのでもありません。大事なのは救われ「続ける」ことでないか、と思うときもあります。けれども、それさえも、導きである以上、誇ったり、見下したりなど、できないのです。
 「脚の障害」の癒しについては、そのような営みを送りつつも、望みを捨てるべきでもないように思うのですが。いかがでしょうか?必ずしも、すべての祈りが神のみこころにかなうとは限りませんが、だからといって、祈ってはいけないというわけではありません。むしろ、もっと多くのことを神に期待しても良いのです。それは「安易な」な希望とも違います。これは私自身、もっと訓練されるべきだ、と考えます。


私は信じます  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月27日19時26分

>イエスの復活は「使徒信条」に含まれており、いわゆる正統派のキリスト者ならイエスの復活を無条件に認めているわけですし、イエスの復活を歴史的な事実として写実的に受けとめる立場があることは承知しています。しかし、それ以外の理解もあります。

私の場合は書かれている通りの事があったのだろうと思っています。
マルコ書の中でイエスご自身が自分の身に起こる出来事を予言しています。
第10章の32節〜34節をお読みください。


ああ、じゃんぷ…ですか  投稿者:えめ 投稿日: 2004年12月27日14時47分

NORTON3rd 様へ 実はジャンプ、読んでないんです。月刊で「エンジェル伝説」が最後の付き合いでした。近年(もはや「最近」ですらない)のジャンプの(笑い)にはついていけなくて。「ぼーぼぼぼ」とか、笑いが来ない。
つまらないとか理解出来ないんじゃなくて、「ウン、君の意図はよく解る」と言うノリです。
ううう…加齢による現象かしら、ううう…漫画家だと星野宣之氏が大好きですね(うわぁ嘘泣きだぁ)

 ま、黄昏ているのもしょうがないので、話は変わりましてSFと宗教ってーと自分としてはロジャーゼラズニィの『光の王』でしょーか。
(ゆんさんへ テッド・チャンの「あなたの人生の物語」ですね。チェックさせて貰いました)


テッド・チャンの「地獄とは神の不在なり」を思い出した  投稿者:ゆん 投稿日: 2004年12月27日11時53分

テッド・チャンのSF短編集「あなたの人生の物語」収録の
短編「地獄とは神の不在なり」がちょうどそのへんの、信仰
とその理由、意味みたいなテーマを扱った作品でしたね。

舞台となるのは我々の住んでいるこの世界に似た世界、ただ
しその世界では神が実在し、定期的に天使がこの世に降臨し
たりしているのです。

ここで味噌なのが、天使がまるで自然災害の一種のように描
写されていること。天使が降臨すると、奇跡の光により障害
を癒される人がいる一方、新たな障害を蒙ったり、天使降臨
に伴う天変地異によって命を落とす人も出るのです。

で、天使は決してその「奇跡」や「被害」の意味を語らない
ので、奇跡なり被害なりを受け取った人は、その意味を自分
で解釈するしかなく、色々な葛藤が生まれるわけです。

>「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問され、
>イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1〜9:3)・・・」

このへんのお話を読んで、ああ、なるほどキリスト教的なそう
いう考え方がバックボーンにあるんだな、と(やっと)理解で
きました。

ちなみに、チャン自身は特定の信仰は持っていないそうです。


Re:奇跡  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年12月27日11時17分

 てつおさん

 ん〜、信仰告白なのかな?それとも自己完結文?
 てつおさんの信仰心には不服も不満もなにもないけれど、ここで提示された「ことば」については議論の対象にしちゃっていいんだよね? 多分、OKだな!

>おそらく、仏教系の人は先祖代々の所業に原因があると考え、またそのように説得されるでしょう。そのように受け入れてみると、たしかに恨みがましい思いを断ち切ることができるかもしれない。

 仮に「仏教系」の人がそう諭されたとして、なにが救いになると考えられるのか良く分かりません。<先祖>の業のせいで、現世の<私>が左右される、という意味であれば、自分自身には関係のない過去の経緯で人生をまっとうできないことに不服なのでは?

 また、ここで何度か繰り返されてきた話ですが、仏教はそれぞれの宗派(&成立年代や背景)によって、著しく現世と来世、過去世などに対する<基本的な考え方>が異なりますので、ひとくくりで「仏教系」と述べることには語弊がある、と思います。

>けれども、イエスは「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(イザヤ書53章4節)」人である。
>この生まれつきの盲人に対する、イエスの眼差しはいかほどの優しさに満ちたものだったか。たとえ目には見えていなくても、この人は私を救ってくれる人だ、と確かに感じ入ったことでしょう。

 ん〜「なぜ!?」としか(笑。
 説法には基本的に「救いを求めている相手」の存在が前提にあるのですよね?違っていたらごめんなさい。しかし、たとえば私は脚に障害があるけれど、救ってもらいたい、とは少しも思わない。むしろあって然るべき機能障害を跳ね除ける「営み」に私は生き甲斐を感じてたりするけれど、そういう<相手>であっても上記の救いは成立するでしょうか?

>。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(コリント第一15:19)」

 う〜…「信仰」とか「帰依」によって、却って<苦しみ>は蔓延するのではないか?と最近私は思うのですよ。これは、信仰が「悪い」とか、信仰を敵視した考え方ではありません。

>ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。(スッタニパータ1146 中村元訳)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html より

 安易な「希望」だとか「癒し」としてイエスを捉えることと、上記は似たような意味合いを持つ、と私は思うのです。つまりですね、<教徒>であることを求めるのは教会もしくは弟子たちであって、イエスではないだろう、と考えているのです。聖書を読む必要もないし、教会に行く必要もない。教えを広めることが、却って信仰を妨げるのでは?というカタチの自己批判もあって然るべきでは?と思うのです。
 現代にあるかも知れない「奇跡」って、そういうことじゃないのかな。


Re:影武者だった...   投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月27日 2時15分

>To:しろうと さん

>やっぱり時代考証や資料収集をきちんとしないといけないということですね...。

「見ずに信じる」のも、ありですよ。

> キリスト教原理主義者はボクを殺しには来ないよね...(-_-;)

私は殺しに行きませんが(笑)temaさんもご安心を〜


一連の奇跡について  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月27日 2時08分

 たとえば、ある人の病気が重くなった。医者からは、命が永くないと宣告される。
 おそらく、仏教系の人は先祖代々の所業に原因があると考え、またそのように説得されるでしょう。
 そのように受け入れてみると、たしかに恨みがましい思いを断ち切ることができるかもしれない。
 イエスは生まれつきの盲人を見られたとき、弟子たちたちに
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問され、
イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1〜9:3)・・・」
と答えました。
 「神のわざ」とは、主の栄光の顕現であり、イエスが主である、と告白する信仰にほかならない。そしてそれは、現前しつつあった。
 しかしながら、生まれつき盲目であったり、重い病いを背負った人に対して、たとえ、人が、あなた自身がそのような境遇にあるのは、
それはあなた自身が神を知るようになるためだったのです、さあ前向きに生きましょう、と言ってみたところで、はたして何になるだろう。
 Sigurdさんの言うとおりだ。
 もし神が「全知全能」ならば、その全知全能な神が何ゆえに私をしてそのような目に会わせたのか、ますます、分からないままである。
 病いを負ったことのない人に、その痛みは分からない。かえって、その言葉に無理解と孤独とを痛感するだけだろう。
 けれども、イエスは「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(イザヤ書53章4節)」人である。
 この生まれつきの盲人に対する、イエスの眼差しはいかほどの優しさに満ちたものだったか。
 たとえ目には見えていなくても、この人は私を救ってくれる人だ、と確かに感じ入ったことでしょう。
 
 他の箇所では、「あなたの信じるようになれ」と言い、「あなたの信仰」が彼や彼女、娘を「癒したのです」ともある。
 イエスの癒しは言葉によった。その「言葉」とは、神の言葉であり、同時にいのちの創造の言葉である。
 (医療神イエス 投稿者:diamonds8888x  投稿日:12月26日(日)15時52分30秒 )

 しかし、マタイ9:5では、中風の人を癒した奇跡のあとで、イエスは、「あなたの罪が赦された」と言うのと、奇跡によって癒された人に、床を離れて歩けと言うのとでは、どちらがやさしいことなのか、と、その場に居合わせた律法学者に問うています。
 イエスが「あなたの罪は赦された」と言うのは、神の子イエスの権威によることだからです。
 これを今、「私の罪が赦された」と言うのはやさしいが、聖書には奇跡や矛盾があるのでこれらの方がかえって難しいのだ、と、言わなければならないのでしょうか?
 私たちが主イエスキリストによって赦され、救われること、そのこと自体が、他の何にもまさって、奇跡なのです。
 義に達しない私たちが、信仰によって義とされること、そのこと自体が、すでに、他の何にもまさって、矛盾以外の何ものでもないはずなのです。
 パウロは言う。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(コリント第一15:19)」
 法然の弟子となったがために、たとえ親鸞が地獄に行ったとて、私(親鸞)にはほかになすすべを知らない、と告白したように、私にはこのパウロの言葉に従うほかないのだと思うようになりました。

 モーセの前に疲労と絶望の「葦の海」が広がる。理性と経験の此岸から、いかにして神は私たちを救出しうるのか?
 ノアやモーセが神の言葉を信じたのは、むろん科学ではないのだが。

 相変わらず「蛍」の話に乗れてませんでした。皆さん、すみまん。


命ある限り俺が!  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月26日21時07分

...と心に誓った女性がボクにもいました。

ところがある日、或る女性に出会った瞬間、
昨日までの自分は死んで、別人として生まれ変わったような気持ちになりました。

オトコなんてそんなもんです...。


Re:影武者だった...  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月26日18時40分

To:しろうと さん

やっぱり時代考証や資料収集をきちんとしないといけないということですね...。

To:tema さん

せいぜい掲示板ネタ程度の話題だと思ってたのですけど、
...こんなストーリーを本にした人がいるのですね...(@_@;)

ボクももう少し修行すれば、ミステリー作家になれるのかしらん♪ (^_^;)

 


あのトピの事  投稿者:うだうだ 投稿日: 2004年12月26日18時33分

NATROMさんごめんなさい。ちと予想外の流れになってしまいました。

不快な気分になっているかどうかまで分かりませんが、
どうも僕のアシストが決め付けの温床になってしまいました。
場所が悪かったと思います。
別トピではあの方、それなりに紳士なんですけどね。

朱に交われば赤くなる。

んじゃ。


(無題)  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2004年12月26日17時46分

>ネタから離れて、少しばかり素(す)で考えてみると、ホタルの卵や幼虫やサナギが光ることには、どんなメリットがあるんでしょうか?捕食者に発見されるという点では、光るのは目立つわけですからデメリットしかなさそうに思えます。

>むろん、外見を派手に毒々しく装って、「わたしは毒を持っているよ」と他者にアピールする生物もいるわけなので、例えば、ホタルは捕食者にとってすごくマズイとすれば、光っていることで「ああ、あのマズイやつか」となって、全体としては生存率が上がりそうにも思えます。あるいは、光ること自体が気味の悪いことで、捕食者が忌避する可能性もあるかも知れません。

流木さん、人の話し読んでないでしょ?

だから、「こっちのホタルはにーがいぞ♪ 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日:12月25日(土)14時44分28秒」ホタルは不味いって書いたのに、トンボも不味いって・・・(^^;)

おそらくホタルの発光は元々は捕食者への警告として発達したのだと思います。前にも書いたように、多くのホタルの種では、卵と幼虫のみが光って成虫は光らないし。

私が子供の頃住んでいた町は、そんなにたくさんではないけどホタルが見られる場所で、捕まえたりしたこともあります。で、やつらはそっと捕まえたくらいではおとなしくしているのだが、ちょっと強くつまむと変なにおいの液体を出すのだ。きっとあれを舐めたらすごく不味いんじゃないかなぁ。


こっちのみ〜ずはこ〜わいぞうー  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月26日17時31分

流木様

 >まぁ、ホタルの生態には疎いので、上記は想像に過ぎないんですけどね。

前投稿でも述べましたが東南アジアでは蛍はよく観察できます。ただし難点が

1)比較的流れに近いところの草むらや潅木
2)日没後

という条件でよく見られるのは蛍だけではありませんで・・・キングコブラとか百歩蛇とか、いろんなやつがやってきます。(小生は二つともでくわしたことがあります)
前投稿で述べましたカンピレーの滝のそばの蛍の生息地も、モロにサキシマハブの巣がありました


「死ねる」リストは・・・  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月26日17時20分

(ぱ)様はじめまして


>  彼女とかなら(そして本人と話していたのなら)ちょっとひくかも。

そういえば、「早乙女愛よ この岩清水 弘は君のためなら死ねる!」というのもありましたなあ。・・・(後に一二の三四郎でさんざんパロられてたけど

えーい、わしの頭はマンガだけでできとるんかい!


ごめんなさい  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月26日17時06分

To:えめ様

ごめんなさい。間違えていました
×ものすおっそ→○ものっそい
です(多分”ものすごい”のことらしい

「ごっそ」はシチュエーションから察するに大阪弁の「ごっつぅ」に相当する強調語のようです

「銀魂」は現在ジャンプに連載中のギャグ漫画で主人公は坂田銀時は推定30代半ばの何でも屋、少年漫画の主人公には珍しく血糖値が高くて、眼がにごっているのが特徴です


些か広う御座います  投稿者:えめ 投稿日: 2004年12月26日16時47分

>「ものすおっそ」「なまら」「ごっそ」などという言葉は北海道方言なのでしょうか?
NORTON3rd 様、役立たずですんまへん。
漫画「銀魂」………まずこれが解らない。パチンコ漫画ですか?(呆けナシの質問)
知っている限りでは
1.「なまら」はそうです。有名ですね。《とっても・凄くの意、名古屋弁では どえりゃぁ・でら》
2.ものすおっそ・ごっそ(これは何だろう、使用するシチュエーションすら解らない)
おそらく北海道弁の更なる方言かもしれません。
事実自分の出身の言語は岩内弁と言って他では使用しない言葉も有りますからねぇ。
例えば …「あや」→罵倒語 《馬鹿の意 名古屋弁では たわけ・たーけ!》
ですが、同じ罵倒語の「はんかくさい」=と違い、少し離れるともう通じない。
根室や稚内、あるいは旭川網走と北海も広いですから、方言も変わって来ると思いますが
役立たずで済みません。で、お詫びに しょうもない北海道弁を

どんず…肛門
へっぺ…性行為を一般に指して、但し挿入を含む行為にいたらぬ場合でも使用する

                では


ホタルが光るメリットは?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日16時44分

 ネタから離れて、少しばかり素(す)で考えてみると、ホタルの卵や幼虫やサナギが光ることには、どんなメリットがあるんでしょうか?捕食者に発見されるという点では、光るのは目立つわけですからデメリットしかなさそうに思えます。

 むろん、外見を派手に毒々しく装って、「わたしは毒を持っているよ」と他者にアピールする生物もいるわけなので、例えば、ホタルは捕食者にとってすごくマズイとすれば、光っていることで「ああ、あのマズイやつか」となって、全体としては生存率が上がりそうにも思えます。あるいは、光ること自体が気味の悪いことで、捕食者が忌避する可能性もあるかも知れません。

 ホタルの成虫の場合も、光ることについてはよく判らない面があります。メスは葉の上でじっとしていて、オスがメスを求めて飛び回るわけですが、「だったら、メスだけ光ればいいじゃない」という疑問が起きます。オスがメスを探すのなら、探しているオスが光る必要はなさそうです。下手に光っていると、カエルなどの捕食者に見つかってしまうリスクが増すでしょうし。ところが、ゲンジボタルなどでは、オスの方が明るく光ります。腹部の発光する節がオスは2つで、メスは1つなので、オスの光りの方が明るいようです。

 ここで考えられるのは、メスがオスの光り方を見て、交尾するか否かを決めるという可能性です。明滅の間隔はホタルの種類によって決まっているようですから、違いが出るとすれば光りの明るさや大きさぐらいでしょうか?光りが暗くて小さいオスは交尾させてもらえず、光りが明るく大きなオスは交尾させてもらえるといった事実が観察されるなら、オスが光ることにも意味があるでしょう。明るく大きな光りは、オスの身体が大きいことを表し、身体が大きく育ったオスと交尾すれば、子孫は繁栄する云々も考えられます。

 まぁ、ホタルの生態には疎いので、上記は想像に過ぎないんですけどね。


臭い言葉はフェロモンの香り  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月26日15時56分

 だって、それがユーザーの声なんですから。みえ張ってお客様の声に耳を傾けないから日本の男はだめだって言われる・・・って人のことは言えませんが。いや口だけで不良品を売りつけるよりはましだと思いますけど。


君を守る  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月26日15時54分

>  「チエ」が彼の子どもならまあほほえましい光景だけど、
>  彼女とかなら(そして本人と話していたのなら)ちょっとひくかも。

 うんにゃ、男子たる者それくらいの覚悟がなければ伴侶をめとる資格がない。実行さえ伴えば臭いも消える。けれど危機は常に予想外の所からやって来る[マーフィーの法則]。守りきれずにほぞをかむことも人生にはあるけれど、再びプリンセスを救い出せるのは君だけなのだ。がんばれプリンス・ナル。

 しかし、これは嘆かわしい。
http://www.convention.co.jp/ip/hira/kinyoubi.html


医療神イエス  投稿者:diamonds8888x 投稿日: 2004年12月26日15時52分

 出典は岩波かどこかの文庫だったと思うのですが、治療神としてのイエスという観点の考察がありました。つまりイエスの数々の奇蹟の治療伝説になんらかの史実を見ようとするとどうなるかということですが、当時やそれ以前には多数の治療神の伝説と信仰があったとのことでした。イエス以前で高名だったのがアポロンの子アスクレピオス、ギリシャ神話の医術の神様です。アスクレピオスの伝説には外科的医術を暗示させるものが多く、イエスの伝説には言葉による治療が多い。そして当時なぜかイエス的治療が人気を博してアスクレピオス的治療を凌駕していった。
 ただ、それがなぜかという点では歯切れが悪かったですね。精神神経的原因で歩けなくなったりしている人を「歩け」という言葉で治療したのだという例などを引いていましたが、当時そんな病気が多かったのかどうかが示されていませんし、アスクレピオス的治療は確実に効果はありそうに見えるのに何故衰退したのかも不明です。

 たぶん「イエスとその時代」(ISBN4-00-412158-2 C0216)でした。
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/qsearch

 キリスト教の人の間でも「イエスはウィッチドクターだった説」があるのですね。
http://homepage2.nifty.com/room30th/sermon/doctor_jesus.html


聖書の性格  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日15時43分

*しろうとさん

 こんにちは。

 聖書は、旧約も新約も、ある1人の人物が最初から最後まで書き上げたわけではなく、何人もの記者の書いたものが歴史的に編纂されて成立したものです。モーセ五書にしても、記者がモーセ本人ではないことは既に定説といえます。

 聖書学の研究によって最古の福音書であると認められている「マルコによる福音書」の初期の写本では、イエスの復活に関する記述はありません。「死後3日目にイエスは復活し、40日間にわたって弟子たちの前に姿を現した。そして、最後にはエルサレムの東にあるオリーブ山から弟子たちの見守る中、天に昇っていった」というのがイエスの復活ですが、この記述は最古の福音書にはなかったのです。

 新約聖書はイエスの言動を記録した歴史書ではなく宣教の書、神学書であり、そこに描かれたイエスの幾多の問答もいわば想定問答のようなものです。

 イエスの復活は「使徒信条」に含まれており、いわゆる正統派のキリスト者ならイエスの復活を無条件に認めているわけですし、イエスの復活を歴史的な事実として写実的に受けとめる立場があることは承知しています。しかし、それ以外の理解もあります。また、イエスの復活に限らず、聖書の記述を写実的に受けとめる立場のバリエーションには、例えば、創造科学のように擬似科学的な説明に陥るものも出てきます。

 よろしければ、当方のサイトの下記のコンテンツなどもご参照下さい。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/bib_sb1.html


Re: モーセの話  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2004年12月26日14時35分

>簡単に言うと適当な時間ある方向に吹き続けた風による海水の体積輸送なんですけど・・・。
(ハッターさま)

わたしも、聞いたことありますよ。
(なんてじつは、ちがう研究のお話かもしれないけど。)

モーゼの一行がわたったところは、
深さが2メートルくらいしかない、浅瀬だったらしいです。
それで、聖書にあるように強い風が吹きつけると、
海水が吹き流されて、海底があらわになることも、ありえるとか...

そのあと、エジプト軍が来たときのように
きゅうに風がおさまると、吹き流されていた海水が戻ってきて、
海底をわたりかけた人たちがいれば、飲み込んでしまう、とのことです。

コンピュータシミュレーションを使って、たしかめた研究だと思いました。


クリスマスが終わった...  投稿者:たんぽぽ 投稿日: 2004年12月26日14時34分

>しかし、この最も暗く光から遠い時期にクリスマスがあることは、
(たまごちゃん (^-^)ノ )

じつは、まさしくその理由(冬至(に近い日)だから)で、
12月25日が、クリスマスになったんじゃなかったかな...?


RE: 獲得された形質は遺伝するのだああああああ  投稿者:なまけもの 投稿日: 2004年12月26日13時13分

みなさま、お久しぶりです。
相変わらず流れが速くて、私のような活動性の低いものは、読むだけでも大変です。

> ダーウィニズムとその他の進化論を本質的に区別するのは何だと思うかにゃ?

最初から方向性をもって起こる変異の遺伝のみで説明するか、必ずしも方向性をもつとは限らない(原則としてはランダムな)変異の遺伝と自然淘汰の組み合わせで説明するか、だと思います。

ダーウィニズムに反対する人たちの主張は、現在見られる生物の多様性が、ダーウィンが説明したような機構で生じるとは、確率的に非常に低くて、現実に起こったとは実感できない(今もっている宝くじが本当に大当たりするなんてことは、ちょっと考えられない)というようなものが多いように思います。しかし、ダーウィニズムを暫定的にでも支持する人たちは、ダーウィンの説明で系統の分岐が起こることはほとんど必然であり、生物多様性を説明する理論としては説得力がある(個別番号のくじそれぞれの大当たりする確率は非常に低くても、どこかに当たりくじは存在し、はずれは地質年代規模での観測にはひっかからない)と考えているわけです。前者のような主張では、後者を否定することは全然できないのですが、ダー間さんたちはどうしてらそのことを理解するでしょう。


サイキックマフィア3たび現る  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月26日13時04分

しろうとさん。こんにちわ。
超常現象の記録としてキリストの復活をとらえると、難点があります
ミステリーでいうところの「信頼できない語り手」というやつです。
ビリーバーの証言は、鵜呑みにはできないのです。

また、聖書自体も何度も翻訳を繰り返されています。誤訳も発見されているようです。
そして、印刷技術の登場、普及以前は写本が一般的だったでしょう。意図的な改ざん、あるいは純粋なミスコピーもあったことでしょう。

聖書を丸ごと、当時の正確な記録だととらえることは、間違っていると思われます。
著者の思想、主張の反映くらいにとらえるのが無難なのではないでしょうか。

前にも書きましたが信仰は別です。イワシの頭も信心から。心清らかに生きるためのよりどころですからね。
僕の一連の投稿によって、信仰心を害されたのなら謝罪します。
ではまた。


獲得された形質は遺伝するのだああああああ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年12月26日11時49分

>私には、当初の流木さんの発言が「目的論的な説明はよくない」という意味にはとれなかったので、地下猫さんのツッコミの意図がわからなかったです。

確かにツッコミがぶれていて甘かったにゃ。流木に対しても申し訳なかったにゃ。
はっきりさせにゃーとね。

>後のキリンの首の発言についてですが、「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」と言う言葉が正しくダーウィニズム的に理解されるには聞き手側がダーウィニズムをちゃんと理解していることが前提で、その前提が成立していれば、手間を省くために有効だけど、そうでない場合、結構な確率で誤解を生むと思いますよ。それを問題視しておられるのではないでしょうか。

ダーウィニズムとその他の進化論を本質的に区別するのは何だと思うかにゃ?

たとえば、ラマルキズムの金科玉条のようにいわれている「獲得形質の遺伝」にゃんが、これはちょっと文言をいじると現代ダーウィニズムで受容可能にゃんぜ。
こんな風にいじる↓
「突然変異によって先天的に獲得した形質は遺伝する」


明確な区別?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日10時45分

*地下に眠るMさん(あらかじめ言っておくけど 投稿者:地下に眠るM  投稿日:12月26日(日)01時15分45秒)

>もちろん、「言い回し」の問題として明確な区別がつくということにゃんよ。

 そうでしょうか?

 「キリンの首はなぜ長いの?」
 「高い木の上にある葉っぱを食べるためだよ」
 「ふーん」

という話の流れで、聞いた相手がラマルキズム的な説明と明確に区別して理解してくれるんでしょうか?「高いところの葉っぱを食べようとしているうちに、首が少し伸びて、その獲得した形質が子孫に遺伝して…」といった受け止め方をされる蓋然性が高そうに思えますが?誤解は生じないものでしょうか?

 なお、当初からの当方の書き込みは、目的論的な説明全般を否定しているわけではありません。相手の説明を「それは目的論だ」と指摘しただけでは、批判としては不充分だと申し上げました。仕組みの説明をするべきところに、「〜のため」という説明を持ち出すことが不適切なのですとも述べました。

 …といいますか、素で返されても困るんですけどね。デートの際に、「ホタルはなぜ光るの?」と訊かれて、「ルシフェラーゼという酵素が…」と答えたのでは、例え、その説明自体が正しいとしても相手の問いかけの意図を正しく受け取っていないわけです。そうした応答は、その場の雰囲気にはそぐわないだろうし、(笑いを取ろうとしているのでなければ)そういう答えしかできないトンチキ野郎では困るよねというだけの話です。

 一連の流れでご理解いただければ幸いです。


re:影武者だった...  投稿者:tema 投稿日: 2004年12月26日10時38分

 おずおずさん、こんにちは。

>イエスはもちろんこの日の来るのを見越していて、弟子のなかで彼に最もよく似ていた一人に、
>
> 「宗教にはやっぱり奇蹟ちゅうもんが必要なんや。わてはモーゼはんのような大がかりなトリックはよー思いつかんけど、入れ替わりマジックならなんとか出来るよな気がするんや。

 ほとんどその通りのミステリィがあるのですが、ネタばれになるため、残念ながら紹介できません。

> キリスト教原理主義者はボクを殺しには来ないよね...(-_-;)

 その作者はまだ本を出してますから、おずおずさんもきっと大丈夫でしょう。
 でも実は、ペンネームだけ引き継いで、別の人が書いてたりして...


Re:影武者だった...   投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月26日 9時42分

>生き返りの場は大勢の見ている前で行われた。見た人はみな、奇蹟を信じた。

イエスが墓から出てくる場面は誰も見てないよ。聖書読めば分かるよ。

>生き返った彼が天に帰っていくところは誰も見ていない。

弟子達皆が見ている前で天にあげられたと書かれているよ、聖書には。


復活しました  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月26日 9時10分

京極夏彦の「巷説百物語」シリーズにも、
処刑した罪人が復活した話があります。
キリスト一味はもしかしたら、又一一味のような集団だったのかも知れません。
13人(キリストプラス12使徒)もいればいろんな技術を持った人もいただろうし。

ここから先は、無知故の疑問です。知っていたら教えてください。
キリストの実在は、どの程度確かなのでしょうか。新約以外に、当時の記録に残っているのでしょうか。
ローマの税金の記録とか、処刑者のリストとか、個人の日記とか。
キリストの生涯自体がでっち上げだったりして・・・


影武者だった...  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月26日 9時00分

イエスはもちろんこの日の来るのを見越していて、弟子のなかで彼に最もよく似ていた一人に、

「宗教にはやっぱり奇蹟ちゅうもんが必要なんや。わてはモーゼはんのような大がかりなトリックはよー思いつかんけど、入れ替わりマジックならなんとか出来るよな気がするんや。

あんさんに殉教せえとはいわん。わてが死んで埋められた場所を他の弟子達に手伝ってもらって夜中に掘ってわてと入れ替わって、3日後に墓から出てきて、「よみがえっただー!」と、大騒ぎしてくれたらそれでええんや...。」

んでこの弟子は言われたとおりにした。

大騒ぎしたあとしばらくしてこの弟子は、イエスにもっと近かった弟子に殺された。口封じのために...。

生き返りの場は大勢の見ている前で行われた。見た人はみな、奇蹟を信じた。

生き返った彼が天に帰っていくところは誰も見ていない。生き返りを信じてしまった人たちは、
「イエス様は今度は天に上ってったんだってさ...。」と人づてに聞かされただけの言葉でも容易に信じる心理状態になってしまっていた。

こうして奇蹟は完成された。

モーゼと違って、せっかく生き返ったイエスがその奇蹟を元に大キャンペーンに打って出ることなくすぐに昇天し、その結果、よみがえってからの活動が聖書に記されていないのは、タネがばれることをなにより恐れた結果である...。


キリスト教原理主義者はボクを殺しには来ないよね...(-_-;)


復活したんです!  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月26日 2時19分

>>ミステリーで死体が消えていたら、誰かが移動させたか、死体発見の証言が嘘だったか、死んでいなくて自力で移動したか・・・

>誰かが移動させたんですよ。その誰かとは墓場にいた主の使いだと私は思っています。

>死体が消えていたという証言が嘘だったかも

ちゃう。ちゃう。
「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、・・・」
復活したんですよ。
ここでわざわざ、「使徒信条告白」持ってくることないんだけど。
まあ、知ってて言われるのですから、もとも子もないですが。


(無題)  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年12月26日 1時54分

>ミステリーで死体が消えていたら、誰かが移動させたか、死体発見の証言が嘘だったか、死んでいなくて自力で移動したか・・・

死体が消えていたという証言が嘘だったかも


よくわからんのですが  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月26日 1時53分

私には、当初の流木さんの発言が「目的論的な説明はよくない」という意味にはとれなかったので、地下猫さんのツッコミの意図がわからなかったです。

後のキリンの首の発言についてですが、「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」と言う言葉が正しくダーウィニズム的に理解されるには聞き手側がダーウィニズムをちゃんと理解していることが前提で、その前提が成立していれば、手間を省くために有効だけど、そうでない場合、結構な確率で誤解を生むと思いますよ。それを問題視しておられるのではないでしょうか。


くさいセリフ  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年12月26日 1時46分

今日、道を歩いていたら、ケータイで
「命ある限り俺がチエを守る!」
と言っていた男性がいました。何だったんだろう。
芝居のけいことかではないとして、
「チエ」が彼の子どもならまあほほえましい光景だけど、
彼女とかなら(そして本人と話していたのなら)ちょっとひくかも。


 投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年12月26日 1時35分

>正気ですか?私には、昼間飛ぶより夜光りながら飛ぶほうがずっと目だって、餌食になるリスクが増えるとしか思えません。

餌食になるリスクが増えても伴侶を見つける可能性が高まれば適応的と言えるでしょう。


蛍といえば恋の為ばかりではなく、狩りの為に発光を使う蛍もいたりする。
他の種類の蛍の発光間隔を真似て、近寄ってきたところを補食するそうな。


あとオーストラリアには土ぼたるというのがいて、とてもきれいだそうだ。
こいつの正体は発光みみずなのだが、なんのために光るのだろう。


あらかじめ言っておくけど  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年12月26日 1時15分

>「ホタルが光るのは交尾相手を探すため」「トリが羽を持つのは空を飛ぶため」「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」「ネコの爪はネズミを捕らえるためにある」
>以上は完全にダーウィニズム的説明だにゃ。
>チミには上記とラマルキズムの区別がつかにゃーのかね?>流木

もちろん、「言い回し」の問題として明確な区別がつくということにゃんよ。


おいおい>流木  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年12月26日 1時12分

>>で、そういうことを指して、「ホタルが光るのは交尾相手を探すため」「トリが羽を持つのは空を飛ぶため」というふうに表現することには問題はないように思う。

> どうなんでしょうね?

> キリンの首が長かったことが過去において高い木の上の葉を食べることもできて生存上有利であったことを指して、「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」という風に表現してしまって、問題はないのでしょうか?それでは、マラルキズムに基づく説明といい回しの上では区別がつかないように思えますが…。


K.ローレンツ「鏡の背面」P49より引用
**********************************************
いうまでもなく一切の生物のすべての複雑な構造は、特定の種族維持的はたらきが自然淘汰の圧力の下におかれたことによって生じたものである。生物学者が一つの構造に出会ってその機能がわからないとき、その構造の機能は一体何だろうかと問うことは、彼にとっては自明の義務である。たとえばわれわれは、<何のためにネコは鋭い曲がった爪を持っているのか?>と問い、それに対して<ネズミを捕らえるため>と答えるとき、この問いと答えとは、問題設定と答えということの要約である。
コーリン・ピッテンドリは、種族維持的価値への問いをテレオノミー的問いと名づけたが、そのさい彼はこの造語によってテレオノミーを、ちょうどアストロノミー(天文学)がアストロロギー(占星術)から区別されている程度だけ、テレオロギー(目的論)から離すことを希望したのだった。
****************************************

テレオノミーを「種族維持的価値」と見做しているところは時代の制約が故のご愛嬌ということで。


「ホタルが光るのは交尾相手を探すため」「トリが羽を持つのは空を飛ぶため」「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」「ネコの爪はネズミを捕らえるためにある」
以上は完全にダーウィニズム的説明だにゃ。
チミには上記とラマルキズムの区別がつかにゃーのかね?>流木


元ネタ  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日 0時55分

*PDX.さん(ところで 投稿者:PDX.  投稿日:12月25日(土)14時22分37秒)

 ご推察の通りです。ネタバレはNGですので、よろしくお願いします。


本当に子どもか?  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日 0時51分

*しろうとさん((無題) 投稿者:しろうと  投稿日:12月25日(土)19時05分24秒)

>「強い日差しや砂ぼこり、それにいつでも車に踏みつけられて道路も大変なんだよ。
神様はそんな道路もシャワーで洗ってあげているんだよ。「ごくろうさん」ってね…。」

 「ふーん、でも、じゃあ、どうして酸性雨とか降るの?どうして大雨になって土砂崩れとか起きるの?」

 とうとう母親はブチ切れて、「いいから、宿題済ませて、さっさと寝なさい!」と息子を叱りつけました。こうして子どもは世の不条理(?)を知るのです。なんだかなぁ…。


鳥目なんですが…  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月26日 0時42分

*たまごちゃん (^-^)ノさん(こっちのホタルはにーがいぞ♪ 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日:12月25日(土)14時44分28秒)

 こんにちは。

 ホタルに限らず、トンボもまずいようです。ひょっとすると、肉食性の昆虫は概してまずいのかも知れません。

>正気ですか?私には、昼間飛ぶより夜光りながら飛ぶほうがずっと目だって、餌食になるリスクが増えるとしか思えません。

 捕食者が鳥なら、フクロウなどを除けば、鳥目ですから、夜は行動できそうもありませんが?

>で、そういうことを指して、「ホタルが光るのは交尾相手を探すため」「トリが羽を持つのは空を飛ぶため」というふうに表現することには問題はないように思う。

 どうなんでしょうね?

 キリンの首が長かったことが過去において高い木の上の葉を食べることもできて生存上有利であったことを指して、「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」という風に表現してしまって、問題はないのでしょうか?それでは、マラルキズムに基づく説明といい回しの上では区別がつかないように思えますが…。


想像ですが  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月25日23時33分

>ミステリーで死体が消えていたら、誰かが移動させたか、死体発見の証言が嘘だったか、死んでいなくて自力で移動したか・・・

誰かが移動させたんですよ。その誰かとは墓場にいた主の使いだと私は思っています。


RE:全知全能の神は創造される   投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月25日23時22分

>ここでも、関係のないものごとを結びつけて持論を展開しようとしているようです。

どこかで聞いたことがあるような言い回しですね。

>つまり、未来の領域の、何処で何がこれから起きるのか、全て知っていなければなりません。すると人間は自らの意志で動いているのではなく最初から定まった通りに動いているに過ぎません。自らの意志で行動をしているのではありませんから、主体であるはずがありません。また、同様に神自身も自分がこれから何をするかを知っていなければなりません。つまり「神」もまた予め定まった通りの行動をしているということになります。では「全知全能の神」がどのような行動をするのかを一体誰が定めたのか?それは「全知全能の神」の行動を定めた「全知全能の神」以外にあり得ません。

であれば、神の「全知全能」とは、惑星の軌道を計算し、予測することと同じでしょうが、どっこい、人間はお留守番をまかされても、約束を破ってしまう。お留守番は神の与える試練ですが、その試練は自分を知るためでもあります。人間には約束を守る自由もあり、約束を破る自由もあります。神は人間の主体性を尊重されます。人間が神を信じる以上に、神は人間を「信じ」ている、とも言えます。

>「人間性」という「本質」の無い「人間」の存在などあり得るのでしょうか?「人間」から「人間である」という「本質」を取り除いたら、それは「人間」では有りません。

そういう事を意図して、サルトルが言っているわけでないと思いますよ。人間性は学ばれ、修得されるのですから。サルトルの恋人で有名なボーボワールの言葉を借りれば、「女は女に生まれたのではない、女になるのだ」と。

 等身大で職人とそっくりなペーパーナイフねえ。
 神は人形より、罪を犯してでも、自分と会話できる友をこの地上に置いたのでしょう。
とでも、言っておきます。
 でもベビールームに適温の「環境」と適度な食事があれば、それで人は「遺伝子」で人らしく、成長できるのでしょうかね?

Sigurdさんは「浄土真宗」以来でしたね。今後ともよろしくお付き合いください。


モーセの話  投稿者:ハッター 投稿日: 2004年12月25日23時18分

先日モーセが紅海を割った(?)話について竹内均さんの津波説が出ていましたが、すごくうろ覚えなのですが、エクマントランスポート説というのも読んだ事があったように思います。簡単に言うと適当な時間ある方向に吹き続けた風による海水の体積輸送なんですけど・・・。それ以上思い出せない。


実体と属性  投稿者:Sigurd 投稿日: 2004年12月25日22時53分

付け足しです。

>けれども、両者とも、一人でそこに在ることはできません。ここで問題だと私が思うのは、ペーパー・ナイフにしろ、人間にしろ、単独な個物の実存を前提として、両者が論じられている点です。 すなわち、ペーパー・ナイフの存在に先立つのは、職人の存在であると同時に、人間の場合、子の存在に先立つのは、親の存在なのです。これらの両者のちがいは、ペーパー・ナイフは職人と関係を持つことはできないけれど、子は親と関係を持つことができる、と言えます。


「ペーパーナイフ」という「個物」と「ペーパーナイフ」という「名前」は「実体(個物)」と「普遍概念」の関係。「個物」が「実体」なのかどうかの議論は今は無し。

「ペーパーナイフ」と「職人」の関係は、様々に定義することが可能だが「実体」と「普遍概念」の関係ではない。


ここでも、関係のないものごとを結びつけて持論を展開しようとしているようです。


スラスラ吐けたらあなたも裕次郎    投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月25日22時00分

To:えめ様

>ああああ!! 臭いから窓開けてくれーぃ!

目的論や科学の話題からそれますが、その手のクサイせりふがお好みであれば古の日活映画「赤いハンカチ」をお勧めいたします

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006G90C/249-0154979-0465902

全篇どうやっても、小生には恥ずかしくて吐けないセリプだらけです

あと漫画「ハードオン」(矢作俊彦/平野仁)もいいです。
小生が好きな奴は

「キャッシュは駄目だがエールならおくるぜ。あばよ」

閑話休題
えめ様にお尋ねします。(確か流木様も別サイトで似たようなことを聞いていたが)
漫画「銀魂」にちょこちょこ登場する
「ものすおっそ」「なまら」「ごっそ」などという言葉は北海道方言なのでしょうか?


全知全能の神は創造される  投稿者:Sigurd 投稿日: 2004年12月25日21時50分

こんにちは。

「てつお」さんの「全知全能の神と主体性」の文章はかなりの誤解と混乱があるようです。

まず、私が「神が全知全能であれば人間は主体とはならない」と意味ですが「全知全能の神」に新たな知識が加わるハズがありません。なぜならばその「神」は全てのモノゴトの知識を有していなければならないからです。「えー!ワシャそのこと聞いてないよー」などと言うはずがありません。

つまり、未来の領域の、何処で何がこれから起きるのか、全て知っていなければなりません。すると人間は自らの意志で動いているのではなく最初から定まった通りに動いているに過ぎません。自らの意志で行動をしているのではありませんから、主体であるはずがありません。また、同様に神自身も自分がこれから何をするかを知っていなければなりません。つまり「神」もまた予め定まった通りの行動をしているということになります。では「全知全能の神」がどのような行動をするのかを一体誰が定めたのか?それは「全知全能の神」の行動を定めた「全知全能の神」以外にあり得ません。


>ペーパー・ナイフを定義しうるための製造や性質の全体―は、実存に先立つといえる。しかし、人間は自由であり、その実存が本質に先立つのだ、と。

「人間性」という「本質」の無い「人間」の存在などあり得るのでしょうか?「人間」から「人間である」という「本質」を取り除いたら、それは「人間」では有りません。


>ペーパー・ナイフについては、この職人は全知全能であり、ペーパー・ナイフの本質は、実存に先立つわけですが、神という職人について、これは創造論者のまさに言いそうなことだと思います。

「全知全能」ってどういう意味で使ってるんでしょうか?「職人」は「無」からペーパーナイフを取り出してみせるわけでしありません。しかるべき方法、材料を使用して、様々な制限の中で、製品を製造するんのでしょう。


>これらの両者のちがいは、ペーパー・ナイフは職人と関係を持つことはできないけれど、子は親と関係を持つことができる、と言えます。ペーパー・ナイフは職人に似ることはできませんが、子は親を知り、その性質は似てきます。

ここでは、ペーパーナイフを作ったのは職人ということになっているのではありませんか?これは「関係」ではないのですか?「関係」とは「作るもの」「作られるもの」が「似ている」ばあいだけが「関係がある」のですか?意図的に「無関係」なものごとを結びつけて自分の主張に引き寄せようとしていませんか?それとも自分で自分の書いていることのおかしさに気が付きませんか?


>ペーパー・ナイフは職人に似ることはできませんが、子は親を知り、その性質は似てきます。神は「われわれに似るように、人を造ろう」と言われました。神は人に知られることを望んでいます。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」「全知全能」とは、神の愛において、であり、愛は知り、知られる関係です。また愛は主体性を尊びます。

等身大で職人とそっくりなペーパーナイフを作ればいいじゃないですか。なんかこのあたりは論理もなにも吹っ飛んでるようですが。

私は詳しくありませんが、子供が親に似ているのは「遺伝子」や育つ「環境」などが原因でしょう。親が意図滝に自分に似るよう子供を創造したわけではありません。「神」の遺伝子が人間に組み込まれているとならば、人間は神に似るのかもしれませんがどうなんでしょう。人間はいきなり人間の姿で創造されたんでしょうか?神の遺伝子を受け継いで、神に似た姿で?

「神」が「全知全能」であるならば、誰が「神」を知り、誰が「神」を知ることがないのかは人間が決めることではなく「神」が決めることです。なぜならば全ての出来事の結果を「神」は知っているハズだからです。そして「全知全能の神」は「全知全能の神」によって「創造」されたはずです。その「全知全能の神」はさらなる「全知全能の神」によって「創造」されなければなりません。

最後の一行は何がなんだか解りませんでした。


しつこく蛍  投稿者:NORTON3rd 投稿日: 2004年12月25日21時34分

ゲンジボタルなんかは、光っているところを見ると♂と♀光っていない腹節の位置が違いますし点滅の間隔も異なりますので、「ははぁ、これは配偶行動なんだな」と、見当がつきます。

ところが、東南アジアや日本でも南西諸島の奴は、小生が目撃した限りでは♂♀で光る場所は変わらず、点滅せず、つきっぱなしって奴が多いんですね。
また、光は黄色っぽく、我々が判別できない紫外線領域で♂♀別の色に光っているというわけでもなさそうです

 それから卵や幼虫の光もかなり強くて、最初、小川の際の切り通しの面などがちかちか光っているんでナンジャラホイと思った覚えがあります。

そこら辺を考えると、小生は、あの発光は元々何か配偶行動とは別の由来で、生存上有利な形質として定着し(まさか、中立ってこたぁないでしょ、エネルギー使うんだし)後に配偶行動にも使われるようになったんじゃないかな?という感想(根拠 薄!)をもっています

甲虫の仲間はアマチュアの研究者は多いんですが、ホタルは一般人気がある割りにマニア人気は薄いようです。寧ろ、ハナカミキリとかキノコムシとか洞穴性のメクラチビゴミムシ(なんつーか罵倒語と差別語の塊)といった一般になじみのない虫のほうがマニアが多い

確か、1980年代半ばに西表島でホタルの新種が発見されたというニュースがあり、確認すると、小生らが以前からカンピレーの滝付近でしょっちゅう見ていたホタルだったのでびっくり。友人と顔を見合わせて
「あんな、あそこへいきゃ誰でも見つけられるホタル原記載されとらんかったんか」
「そんだけ、プロにしろアマチュアにしろ研究者の層が薄いってことだろ」
と語り合ったことでした。
 ついでにいうと、このホタルの♀成虫は翅が短くてとぶことができず、ピカピカ光って飛び回っているのは皆♂。♀を探し当てるのはフェロモンによるんだそうで


サイキックマフィア再び  投稿者:キンシャチ 投稿日: 2004年12月25日21時32分

流木さん。レスありがとうごさいます。
サントリーニ火山というのは、クレタ島のミノア文明にダメージを与えたやつですね。
これがアトランティス伝説の原型という説もあるようです。
ただ、クレタ島の被害は、文明崩壊にはほど遠く、農作業に1、2年混乱を与えただけだ
との意見もあります。

モーゼだったり、アトランティスだったり、忙しいですね。

僕も、信仰を科学の言葉で否定するのは間違っていると思います。
例えば、宇宙創世の神話など、各民族に様々なバリエーションがありますが、それを非科学的だ、と避難するのは筋違いでしょう。
僕の言葉足らずでした。

僕は原始キリスト教団が、奇跡を売り物にする一種の旅芸人一座ではなかったのか、といいたかっただけなのです。そんなサイキック・マフィアが世界宗教になったのでは、と。

しろうとさん
言葉足らずでした。というよりも、ツッコミがあるとは思わなかった。
キリストについてですが、僕は常識的なことを書いただけのつもりだったのです。
そうでしょう。ミステリーで死体が消えていたら、誰かが移動させたか、死体発見の証言が嘘だったか、死んでいなくて自力で移動したか・・・

せいぜいこれくらいだと思います。
また、この件に関しては、キリストのでっち上げだった、という可能性もあります。十字架にかけられた事自体がでっち上げだった。実際この時代の刑法にはそぐわない部分がこの「キリスト十字架事件」にはあるそうです。

モーゼは、これも言葉のあやですね。失礼しました。

おずおずさん。神は神を作ろうとしているのですよ(「神は沈黙せず」山本弘)。
まだまだですね。おっしゃるとおり。
我は神じゃと言い張る人もいますが。


たまごちゃん (^-^)ノの神の国  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月25日20時37分

>急に話が変わるのだが、そのギリシア哲学のセンセーはクリスチャンで、よく、「神の国では私とあなたが出来事になる」とおっしゃっていた。
「私とあなたが出来事になる」ってどういうことなんだろう。クリスチャンの方なら意味が分かります?

 ちょっと調べてみただけなので、何とも言えないのですが、へブル語の「ことば」という単語が同時に「出来事」とも訳せるらしいです。
 神の言葉、神の意志、神のみこころ。神のみこころにかなう祈りは必ず聞かれる。だからすでにかなえられた「出来事」と知って祈ることができるのだ、と。

ヨハネの手紙第一の5章14−15節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。1ヨハネ5:14−15

 神のみこころが行われるところでは、そこが地でも、神の国となる。

「神の国では私とあなたが出来事になる」
「神のみこころの行われているところでは、私とあなたが出来事になる」
「神のみこころの行われているところでは、私とあなたが出来事(神のみこころ)を実現する」
「神のみこころの行われているところでは、私とあなたが神のみこころを実現する」

たまごちゃん (^-^)ノは、札幌でしたよね?実は私も札幌なんです。
とすると、「そのギリシア哲学のセンセー」というのは、チバ先生ではないですか?
自分の友達が北大の哲学にいるので、そのつてで、一度だけチバ先生の無教会派の集会に行ったことがあります。チバ先生の言いそうな事かどうか、今度、友達に会ったら、聞いてみようと思います。


全知全能の神とその限界  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月25日19時47分

>神は「われわれに似るように、人を造ろう」と言われました。

多分神にとっての人間の完成度は、人間にとってのアシモの完成度よりははるかに落胆すべきレベルだろう...。


つっこまずにはいられない...Pert2  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月25日19時39分

>Q:「なんでアスファルトの道路にも雨は降るの?」

正解は、
「アスファルトの路面にも木や草の種は散らばってるんだよ。見ててごらん。車の走らない道路はすぐに自然に返るから...。」
(過疎地の道路管理者の証言...。)


つっこまずにはいられない...  投稿者:おずおず 投稿日: 2004年12月25日19時30分

> ある子どもが母親に「ホタルはなぜ光るの?」と尋ねました。忙しかった母親は「恋をするためよ」と答えました。すると、息子は「じゃあ、なぜホタルは幼虫のときも光るの?」といいました。母親が「…ったく、可愛くない子ねぇ!一体誰に似たんだか」とイライラを募らせたのはいうまでもありません。

正解は、「早熟なのよ♪」


(無題)  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月25日19時05分

>Q:「なんでアスファルトの道路にも雨は降るの?」

「強い日差しや砂ぼこり、それにいつでも車に踏みつけられて道路も大変なんだよ。
神様はそんな道路もシャワーで洗ってあげているんだよ。「ごくろうさん」ってね…。」
 


全知全能の神と主体性  投稿者:てつお 投稿日: 2004年12月25日17時50分

自然には意志がある 投稿者:Sigrud  投稿日:12月25日(土)10時21分18秒 より

>何故彼が「主体的」であるのか私には解りません。「神」が「全知全能」であるならば、人間が「主体」であるはずがありません。
>もうすこし突っ込むと「全知全能の神」が存在するならば、その神自身も定められた通りに動く「意志無き木偶の坊」にすぎません。

 サルトルがこのように言います。
 たとえばペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみるとき、この場合、この物体は、一つの概念を頭に描いた職人によって造られたものであり、ペーパー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途を持っている。ゆえに、ペーパー・ナイフに関しては、本質―すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製造や性質の全体―は、実存に先立つといえる。しかし、人間は自由であり、その実存が本質に先立つのだ、と。
 ペーパー・ナイフについては、この職人は全知全能であり、ペーパー・ナイフの本質は、実存に先立つわけですが、神という職人について、これは創造論者のまさに言いそうなことだと思います。と同時に、このサルトルと同じように、人間の「主体性」は、「全知全能の神」を必要しない、とあなたが言うわけです。
 けれども、両者とも、一人でそこに在ることはできません。ここで問題だと私が思うのは、ペーパー・ナイフにしろ、人間にしろ、単独な個物の実存を前提として、両者が論じられている点です。
 すなわち、ペーパー・ナイフの存在に先立つのは、職人の存在であると同時に、人間の場合、子の存在に先立つのは、親の存在なのです。これらの両者のちがいは、ペーパー・ナイフは職人と関係を持つことはできないけれど、子は親と関係を持つことができる、と言えます。
 ペーパー・ナイフは職人に似ることはできませんが、子は親を知り、その性質は似てきます。
 神は「われわれに似るように、人を造ろう」と言われました。
 神は人に知られることを望んでいます。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
 「全知全能」とは、神の愛において、であり、愛は知り、知られる関係です。また愛は主体性を尊びます。


水族館とか夜の浜辺とか  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年12月25日16時53分

 水族館に行ってカニを見る。→「美味そうだなぁ…」と云う。
 深夜に浜辺に行く。→「こんなとこ来た段階で、分かれよ、ヲイ!」と云う。

 Q:「なんでアスファルトの道路にも雨は降るの?」
 A:「アスファルトの道路の下にも土があるからぢゃよ」

>「神」が「全知全能」であるならば、人間が「主体」であるはずがありません。

 それ以上きちんと(自然科学的な方法で)考えなくても良い「口実」を与える面でも、それは最良の「合目的な発想」なのでしょうね。

 どうでも良いことですが、深夜の浜辺で腰を振ろうとすると、オマワリさんに職務質問されることがあります。はい。


こっちのホタルはにーがいぞ♪  投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ 投稿日: 2004年12月25日14時44分

>以下は、誰でも思いつきそうなただの想像に過ぎませんが、参考程度に読んで下さい。ホタルは飛ぶのが上手ではありませんから、昼間交尾の相手を求めてふわふわ飛び交っていると、容易に捕食者(例えば、鳥類)の餌食になるでしょう。その点、夜飛べばそうしたリスクは大幅に軽減されます。昼間飛ぶホタルは夜飛ぶホタルよりも、その点では生存上不利といえそうです。

正気ですか?私には、昼間飛ぶより夜光りながら飛ぶほうがずっと目だって、餌食になるリスクが増えるとしか思えません。ただし、もしもホタルがおいしいならば。
私は食ったことないから分からないけど、ホタルはまずいのだそうです。(どうまずいのか教えてください>トトロさん)

ホタルの発光は、最初は、いと賢くいらっしゃいます捕食者さまに、暗闇の中でも「こいつはホタルだ。不味い奴だ。」って分かっていただけるからっていうんで集団中に定着したのだと思います。そして、その後、一部のホタルでは求愛行動にも転用されるようになり、強い発光と独特の発光パターンが定着したのでしょう。

>ただ、これは暗闇で交尾相手を探すために光るようになったのではなく、光ることで暗闇で交尾相手が探せるということだと思います。元々光っていたが、昼間光ることには特にメリットはなく、夜行性となり暗闇で飛ぶという状況において光ることが交尾して子孫を残す上でアドバンテージを持つようになったということではないでしょうか?

「暗闇で交尾相手を探すために光るようになったのではなく、光ることで暗闇で交尾相手が探せる」というのは、ある意味では(目的のために突然変異が起こったわけではないという意味では)正しいのですが、やっぱり片手落ちだと思う。
究極要因を考える時には、「今日、多くのホタルが光るのは、過去において光ることが生存繁殖に有利だったからだ」とかというようなことの方に重点を置くように思います。で、そういうことを指して、「ホタルが光るのは交尾相手を探すため」「トリが羽を持つのは空を飛ぶため」というふうに表現することには問題はないように思う。


ところで  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年12月25日14時22分

 ホタルの件の「恋をするため」「ルシフェラーゼという酵素が……」って選択肢は、某ゲームが元ネタですよね?(笑)


恋をするため  投稿者:流木 投稿日: 2004年12月25日13時39分

*まごちゃん (^-^)ノさん(アリス&テレス 投稿者:たまごちゃん (^-^)ノ  投稿日:12月25日(土)08時16分55秒)

 こんにちは。

>ホタルの行動について「恋をするから」という方向の(つまり究極要因による)説明をしないのは、科学の答としても片手落ちですよ。とくに、ここのような進化論を問題にしているようなサイトでは特に。>流木さん

 素で返すと元も子もないわけですが、まあ、そうかも知れませんね。

 「ホタルはなぜ光るのか?」という問いに対して、どう答えればよいのでしょうか?「恋をするため」とか「オスとメスとが引き合う信号になっているから」とかいう説明は一面の真理ではありますが、交尾のできない卵も幼虫も蛹(さなぎ)もわずかながら光っているわけですから、そうした説明だけでは十分ではないでしょう。

 ホタルのメスはあまり飛び回りません。光りながら水辺の草かげに隠れていています。ふわふわと点滅しながら飛び回っているのは、ほとんどがオスのホタルです。ホタルの成虫になってからの寿命は約1〜2週間ですから、その間に交尾して子孫を残す必要があります。つまり、暗やみの中、川面近くを舞うように飛びながら交尾の相手を求めている姿を、我々は幻想的だとか情緒のある光景だとか初夏の風物詩だとか思っているわけですね。ちなみに、ホタルがふわふわ飛ぶのは、飛ぶのが上手くないからだそうです。

 以下は、誰でも思いつきそうなただの想像に過ぎませんが、参考程度に読んで下さい。ホタルは飛ぶのが上手ではありませんから、昼間交尾の相手を求めてふわふわ飛び交っていると、容易に捕食者(例えば、鳥類)の餌食になるでしょう。その点、夜飛べばそうしたリスクは大幅に軽減されます。昼間飛ぶホタルは夜飛ぶホタルよりも、その点では生存上不利といえそうです。

 暗闇で交尾の相手を見つけるには、音や匂いで探すという方法などもありますが、ホタルの場合は発光がその方法となったわけでしょう。ただ、これは暗闇で交尾相手を探すために光るようになったのではなく、光ることで暗闇で交尾相手が探せるということだと思います。元々光っていたが、昼間光ることには特にメリットはなく、夜行性となり暗闇で飛ぶという状況において光ることが交尾して子孫を残す上でアドバンテージを持つようになったということではないでしょうか?


私ではなく…  投稿者:しろうと 投稿日: 2004年12月25日12時54分

子ども「ホタルはなぜ光るの?」

母親「ホタルを造った神様にきいてごらん。」


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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