進化論と創造論についての掲示板ログ246

2004年08月30日〜2004年09月02日
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REうーむ  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月02日16時18分

大文字ナンさん こんにちは

>で、JA50さんのこの指摘には同意。ですからちょっとシンさんの文脈に沿って「調子に乗りすぎました」ことをお詫びします。

文意に乗ってくださってありがとうございました。私も同じように反省しています。が、
これからもよろしくお願いします。変だな?と思ったら、そこで、話を止めない程度に注意してくださりますと、助かります。私はしばらくは、自習に専念するつもりです。といってもすぐに顔を出すと思いますが。

これからもよろしくお願いします。


訂正  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月02日14時21分

誤 ステロイドについてもあんまりわからないので、

正 ステロイドについてもあんまりわかりません(調べてみますが)。


REプラセボ  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月02日14時19分

JA50さん こんにちは

私は流木さんへのレスで間違いを認めています。それについては流木さんにわかりやすく教えてもらったので、私はもういいです。

>もしそれが事実ならば、それはプラシーボ効果などと言わずに「積極的な情緒の働き」はステロイドの分泌に影響があると言えばすむことじゃないでしょうか。

ステロイドについてもあんまりわからないので、そこまで知識があるのなら、人の文章の文意を読み取ることは造作もないはずです。知識はあっても応用する知恵はないのですか?
あなたが正確に知識を使い正しく表現出来る。ということはわかりました。が、それをこっちに求められすぎたら、何もコミュニケーションが図れません。とりあえず私は難しい話題にはついていけないので、そんな話題になった時は読んで学ぶだけ、という立場をとります。それについては未熟だからです。ある程度成熟した、と思えるようになったときは是非よろしくお願いします。


プラセボ  投稿者:JA50 投稿日: 2004年09月02日13時45分

>「積極的な情緒の働き」がステロイドの分泌に影響があるらしい

こういうのをプラシーボ効果(の一例)だとシンさんはじめ皆さんは言われているんですか?

「積極的な情緒の働き」がステロイドの分泌に影響があるのかどうか私は知りません(実際、それを実証した実験や観察例の報告を知らないということで、否定しているわけじゃありません、知らないんですから否定しようもない)。
もしそれが事実ならば、それはプラシーボ効果などと言わずに「積極的な情緒の働き」はステロイドの分泌に影響があると言えばすむことじゃないでしょうか。
プラシーボ効果とは、「積極的な情緒の働き」がステロイドの分泌に影響があるという仮説を検証するときに、検証する側の人間や被験者がおかすエラー、意図的、非意図的に関わらずどうしても犯してしまう間違いによって起こってくる効果を指すと私は思っているんですが。そういうエラーを排除して(つまりプラシーボ効果を排除して)、さらに統計的にも有意な結論が得られたら「積極的な情緒の働き」がステロイドの分泌に影響があると言えることになる。


RE必ず?  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月02日13時01分

トトロさん こんにちは

理解してくれてありがとうございます。とりあえず科学的な考証をしている時は、もちろんとして、私の文章からは、それを気をつける、と感じてもらえているはずです。

>余談ですが、特殊な状況下でない限り、私は「死ね!」と言われても、何も感じません。、特殊な状況下とは、他人が私の殺生権を持っている場合です。この場合に於いてその他人が「死ね!」と言った場合、私は私の意に反して殺害される可能性があるからです。

>それからもう1つ、「私の死後」について、私は何の感慨も持っていません。私の死についての理解は、私の思考が完全に消失することなので、それ以降に誰かに偲んで欲しいという気持ちもありません。

それはまあ、あなたについては構わないのかもしれません。あなたは最低限ルールを守れる強さを持っていそうだからです。それは「死ね」といわれても基本的には何も感じないというのですから、そんなルールを守る自制心が備わっている、ということがわかる気がします。
ただ、社会保険庁の使い込みなどは法律にのっとってその法律も変えて正当にやり続けていましたから処罰をすることができませんでした。多くの偉い人たちは公衆の批難からうまく隠れています。もし、あなたが修正すべき立法府の立場であったら直されるまでひたすら、金を稼ぐ方法を考え、見つかるまで稼ぐ立場を取りますか?それともその法を変える努力をする立場をとりますか?

善が社会の相対的評価ということは、それで構いませんが、あなたの話を見ていると、善ではない相対的評価と利益を天秤にかける計算をして行動を決める、と、とれるような気がします。権限を持つほど、そのバランスは変わっていく傾向にあるはずなので、あなたがあまり社会的権力を持っていない、というのなら、あなたの考えはあまり問題ないでしょう。

>ただし、立法府は、そのような事例を認識したなら、法を修正して抜け穴を塞ぐ義務があると理解しています。

この場合の義務というものは権利を持っているほど持っていてほしいと願うものですが、実は権利を持っている人ほど守らなくても処罰されないように出来ていると思えます。

<法を修正して抜け穴を塞ぐ義務>というのはルールを守るためではなく<善なる設定>に依存して発動されると思っています。そしてそれはあなたにとっては社会の相対的な評価で見るかもしれませんが、あなたがもし大きな権力を持っているのに<法を修正して抜け穴を塞ぐ義務>を自分に定めるのなら私にはあなたに<善なる設定>が見え、それはあなたにあまり得にならないのに私たちには大きな利益になるのであなたに対して感謝します。

ただ、あなたの文章を読む限り、ですが、そのあなたの考え方と、もし上の2択の質問の答えによっては、あなたには権力を持って欲しくないと私は切に願います。

そして死期が近づいているあなたには出来れば近づきたくありません。そんなことはしない生き方が出来ますように、と、自分に定めてはいますが。
死期が近づいた時には嘘でも偲んでほしい、という思いを周りに伝える努力、また偲ばれる対象になる努力をすることをお勧めします。安らかに死ねる確率が高まるでしょう。
あなたに対してのアドバイスです。利用して利益になると思ったら、その時はそうしてみてください。


ぷらせーぼ〜、の続きなのか?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月02日12時00分

>>「思うこと願うこと信じることによって実際に体や心に効果が発揮される」ことがある
これは事実なのか?
そういうことを証明した実験とか観察例はあるのですか?

 本論に入る前に、↑を「プラセボ」とは言わないだろう、と考えていることをまず再提示。そのうえで、
 http://www.mmi-net.co.jp/menu/book/bb8/bb8warai.html
 ↑などは「医療」そのもの、ではないでしょう。しかし、情緒と免疫力に相関があることを「ある程度」裏付けているとは思えます。末期がんの患者を笑わせたりしたところで、疾患がなくなる、などということはないでしょう。
 しかし「積極的な情緒の働き」がステロイドの分泌に影響があるらしい、という報告は学会に提出されている、とのことですので、少なくとも「まったく科学的でなく、医学的にも議論の対象とはならない」とは、当の学者さんたちが考えていないもの、と理解しています。(先に挙げたリンクなどもご参照ください)

>↑と↓とでは、主旨がちょっとズレてきているように思うのですが・・・。

 ここは、ななさんに、ですね。
 「親にねだる」という過程を「すっ飛ばす」のは「楽」じゃありませんか?と述べたわけです。汗水流して働いた上で1000円しかもらえないなら、パチンコでも行って「稼ぐ」という生活パターンを嗜好する人は、今も昔も少なくはないでしょう。要するに、正当な手続きを踏まずに、いきなり「ゲットする」方法論には、法を逸脱するようなものから、順法ではあるが、社会的には評価されないようなものもある。というようなことを述べたわけです。また、このような「推測」を述べたからといって「万引きしても良い」とか「万引きするのは仕方がない」と述べているわけではありません。

>「信仰心」について、信仰者でない科学者が被験者に対して「あなたは信仰心が強くない」と「評価」しても「私は信仰心が強いです」と反論されれば、ほぼそれまでではないでしょうか。

 少々、四角四面に考えすぎではなかろうか、と微笑いたします。
 私の論旨は、強い信仰心そのもの、にあるのではなく、思い込み易さなどの「情緒的傾向」が、生理的な傾向と相関を持つことは、あり得ないとは言えないだろうし、実際の研究も学会議論の対象となっている、ということです。専門家による議論があるのですから、それを部外者が「科学ではない」と論じてもナンセンスではないか、と思います。

 思い込み易さ、だとか笑いなどというものを定量的に比較することは、なるほど不可能でしょう。しかし、そのような情緒反応がヒトにあることは確かですし、情緒不安と自律神経失調などは相関のあることだ、と述べてかまわないと思います。これが腹痛に対して坑うつ剤が処方されたりする理由なのですが、いかがでしょうか。

>それやこれやでプラシーボにも痛みが軽減したり血圧が下がったの、生命予後が延びたのという統計結果がでることになる。
こういうのを、私はプラシーボ効果というと思っているんですが、違うんかな?

 ↑のJA50さんの発言は「???」なのだった(笑。
 「全部バイアスなんだ」と言い始めたら、どのような統計資料も読めないのでは?


必ず?  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年09月02日11時45分

シンさま。横レスにつき失礼いたします。

> 私が使った<必ず>は正確には100%では、ありません。気持ち的には100%ですが、こういう主張をするときに100%だ。と言いきれる事例は少ないでしょう。私の気持ちが表れている、とご理解ください。

貴方のおっしゃることは理解はできるのですが、私も「必ず〜ある」という発言があった場合、じゃあ、例外を1例示せば反証できるじゃないかと考えてしまいます。

「必ず」とか【絶対」とかを語句を使用される場合は、注意されたほうが余計な誤解を招かずに済むと私は考えます。

余談ですが、特殊な状況下でない限り、私は「死ね!」と言われても、何も感じません。、特殊な状況下とは、他人が私の殺生権を持っている場合です。この場合に於いてその他人が「死ね!」と言った場合、私は私の意に反して殺害される可能性があるからです。

それからもう1つ、「私の死後」について、私は何の感慨も持っていません。私の死についての理解は、私の思考が完全に消失することなので、それ以降に誰かに偲んで欲しいという気持ちもありません。

> 権利を持つ人ほど、何か<善なる設定>を強くしていてほしい

私は権限を持つ人には<善なる設定>などではなく、定められたルールを遵守して欲しいと願います。私にとって善は社会の相対的な評価に過ぎません。もし、法に抜け穴があるのなら、それを使って違法状態を解消することは、問題ないと考えます。ただし、立法府は、そのような事例を認識したなら、法を修正して抜け穴を塞ぐ義務があると理解しています。


金を払えば良い理由  投稿者:tema 投稿日: 2004年09月02日 7時00分

 (ぱ)さんに対する横レス(しかも亀)になるのかな?

 盗みを働く際には、金で買える品の方が気が楽だと思います。金額が少なければ、更に楽でしょう。
 ただ、万引きの対象となる品は昔から金で買える品ですので、「何でも金で買える事」が万引きにつながることは無い、と考えます。この部分でtemaも(ぱ)さんに同意します。

 その上で、万引き少年達が「金を払えば良いのだろう」と発言をする理由を考えました。
 temaは、以下の言葉が理由だと思っています。
 「お客様は神様です」

 万引きして捕まった時点では犯罪者ですので、弱い立場です。しかし、金を払えば客すなわち神様であり強い立場になる…というように、万引き少年達は(意識してないかも知れませんが)誤解しているのではないでしょうか?


RE投稿者:なな  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月02日 3時55分

ななさん こんばんは

あなたの言いたいことは良くわかりました。ご指摘は感謝いたします。なるべくそのように努力します。

>シンさんは、「私のように考える人には」「<必ず>何かしらの効果がある」と書いておられたので、他者に対して<必ず>ということがどうして言えるのかとお尋ねしたのです。

<必ず>を<多分>など、あいまいな言葉にしても良いのですが、やはり<必ず>としておきます。

あなたは「死ね!」と言われたら何か感じますか?何も感じませんか?心に対し、それが届いていたら何かしらの効果が心に起こるはずです。
しかしそれが聞こえていても、忙しくてどうでも良かったり、何かの心の病気でそんな言葉も無視できる、とか、心に届かなくて何の影響も与えない、みたいな例外もあるでしょう。

私が使った<必ず>は正確には100%では、ありません。気持ち的には100%ですが、こういう主張をするときに100%だ。と言いきれる事例は少ないでしょう。私の気持ちが表れている、とご理解ください。

そんなわけで、「私のように考える人には」「<必ず>何かしらの効果がある」は

「私のように考える傾向を持つ人には、そういった設定を心に届かせれば、<必ず>何かしらの効果があるに違いない。」に直させてもらいます。

そして何かしらの効果とは、心の些細な変化から、結局考えは変わらなかったが少し考えた。のように小さい変化から、劇的に生き方が変わった、などの大きな変化、または悪くなったなど、全ての心の変化を示しますが、何かしらの効果があるに違いない。とは、統計などを取れば道徳的に良い、とされる行動へ変化していく傾向が見られるに違いない!という希望的予測を乱暴に説明してしまっただけです。

すみませんでした。

ただ、あなたが対象であるときは気をつけて書きますが、やはりこんな風に気を遣って書くのは時間がかかって大変です。私はこういったことに時間をかけるのはちょっと遠慮したいので、やはり突っ込みはあまりにもひどいときか、意味が全然わからないときだけにしてください。それが出来ないのなら私の書き込みは無視してくれると助かります。
論文や強い主張などであったらそんな間違いは直ちに直すべきですが、私は楽しみながら色々自分に必要なことを教えてもらったり他の意見に共感したりして自分なりのレベルアップの目的で利用させてもらっています。まだまだ若僧で文章作成能力が完璧ではありません。文意を読んでくれようとしない人にいちいち正確に説明するのは今の私のタイピングレベルではかなりの時間のロスをしてしまいます。言葉の正確な使い方はいつか上手くなるかもしれないので、もしあなたが私の表現能力のレベルが低くて気に障るのなら、とりあえず今の私の言動は無視されて、上手になったな、と思った、そのときから、お相手よろしくお願いします。
それがきっとお互いのためです。こんな事で私のためにあなたの貴重な時間を費やされるのは、もったいないと思います。もし私が議論を求めているようなら遠慮なくその命題について批判なさってください。私は未熟者ですから親が幼児のところどころわからない言葉から全体を予想して判断するようにしてくれると助かります。もちろん私は幼児ではないので、母親よりは幾分か楽だと思います。それでは、失礼します。


REプラシーボ効果  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月02日 2時31分

流木さん  (プラシーボ効果 投稿者:流木  投稿日: 9月 1日(水)12時05分54秒)
      (信仰へ至る道 投稿者:流木  投稿日: 9月 1日(水)17時37分17秒)
こんばんは

まず、プラシーボ効果について詳しい説明ありがとうございました。学がないもので学術的な難しい文章は読むのが大変なのですが、あなたの文章は難しく書いているように見えて、わかりやすくて非常に助かります。私は昔マガジンでやっていたスーパードクターKという漫画で見たことと、伊集院光がラジオのネタで使っていて、それを聞いたという程度の知識で使ったので他の方の指摘のとうり間違っていたと思います。

>私が先に申し上げたのは、「信仰は感性に近いのかな?」

ですが、そう思う人にとってはそうだと思います。ただ、

>教理というのは、理屈ですね。理屈だから、信仰を持たない人間でも理解できます。しかし、理屈をいくら追っていっても、それは信仰に至るわけではないでしょう。別ではありませんかと申し上げております。聖書を繰り返し読んで、どこに何の話が書いてあるか覚えてしまっても、それはただの物知りに過ぎません。信仰者というのは、そういう経緯で信仰に至ったのかといえば、それは違うのではないかと思うのです。

これについては、理屈を追い続けた結果、信仰に至る人もいると思います。私がそれに近いと思えるからです。聖書に書いてある福音とは都合の良いことだな、と理解して信じるようになった人がいて、それは私のことだからです。まあ理屈を突き詰めて、自分に都合が良い、と判断するのは、その人の感性ですから、やはりあなたの言うとうりなのかもしれませんが。

あなたへの感謝と私の独り言のレスと思ってください。ありがとうございました。


プラセボ  投稿者:JA50 投稿日: 2004年09月02日 1時24分

プラセボに拘る、、、(^^)

ある信仰が体にいいとかいうのが本当だと思っているのなら、それをプラシーボ効果によると言うのはおかしいと思うんですよ。矛盾したことを言っていると。

被験者は被験者で、自分は効く薬を飲んでいるんだということで、実際は効いていないのに効いた気になってしまう。実際は痛みは軽減していないのに軽減していると答えたり、関節により力を入れていつもよりよけい曲げたりしたりする。検討する方もする方で、被験者に暗示をかけたり、はてはサンプルを操作したりする。それも意識してじゃなく無意識的にそうしたりする。
それやこれやでプラシーボにも痛みが軽減したり血圧が下がったの、生命予後が延びたのという統計結果がでることになる。
こういうのを、私はプラシーボ効果というと思っているんですが、違うんかな?

もし、こういうのがプラシーボ効果だというのなら、ある信仰が体にいい、病気を治すこともあるとかいうのをプラシーボ効果によると言うのは、それは嘘だと言っているのと同じことだと思うんだがなぁ、、、


万引きに話をもどすけど  投稿者:wadja@本日は酩酊 投稿日: 2004年09月02日 0時14分

お金の価値は相対的なものです。

汗を流して稼いだ5千円も、デイトレードで稼いだ100万円にも大した違いはありません。でも、買えるものには明確な違いがある。

となると、金は絶対的な価値ではありえない。多くの場合、人を惑わすものでしかない。知ってか知らずかは別にして、金で償えるものは価値の無いものだと世間は教えたがる。視聴率を稼ぐために、「金こそ全てだ!」なんて声高に主張するメディアを私は知らない。

#どうでも良いけど、プラセボに拘るJA50さんに親近感を感じるwadjaは、プラシーボと言える年代の人より確実に年寄りだ。


ツリーに移動  投稿者:あき 投稿日: 2004年09月02日 0時11分

ハーミットさん、タックスさんへ

下記の通り、ツリーに回答を書き込みました。
今後はこちらの方にレスをお願いします

5540 工業暗化
5541 わからないところ


知られざる世界?  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年09月02日 0時02分

>私が子どもの頃、日立の提供で日曜日の夜の10時から30分ほどやっていた
>ドキュメンタリー番組がありました。

 うーん、日立でも同じような番組があったのかもしれませんが、私の記憶では、トヨタが提供した「知られざる世界」がこれに一番マッチします。オープニングだかエンドクレジットだかで、古代人の洞窟の壁画が映るやつ。
 おっぱいの回を親と一緒に見ていて大変気まずくなった記憶が (w

>あるとき、フィリピンの心霊手術を取り上げていました。米国からやって来た
>末期がん患者の腹部から血まみれの肉片を取り出す様子を流して、
>最後にその手術を受けた患者さんたちのその後を追跡したのですが、
>皆さんがんでお亡くなりになっていました。

このとき、十字架が林立する墓地が映りませんでした?


病は気から?  投稿者:流木 投稿日: 2004年09月01日23時00分

*DBRCTさん(ブードゥーデス 投稿者:DBRCT  投稿日: 9月 1日(水)18時10分45秒)

 こんにちは。

>>死亡した例はおそらく、恐怖から食欲が低下し、極度の脱水症状で死亡したものと考えられます。ヒトの心は傷つきやすく、思いこみで病気になることは可能です。

 がんの告知に慎重なのもそういった要素を勘案してのことだと聞きました。あるお医者さんのエッセイの中で、暴力団員のがん患者に「この人なら大丈夫だろう」と考えて告知したところ、急に弱気になり病状が急激に悪化してしまったという話を紹介しておられました。

 私が子どもの頃、日立の提供で日曜日の夜の10時から30分ほどやっていたドキュメンタリー番組がありました。あるとき、フィリピンの心霊手術を取り上げていました。米国からやって来た末期がん患者の腹部から血まみれの肉片を取り出す様子を流して、最後にその手術を受けた患者さんたちのその後を追跡したのですが、皆さんがんでお亡くなりになっていました。患部は全く取り除かれていなかったのです。

 私の母もS字結腸がんがあちこちに転移して苦しんだ末に数年前に亡くなりましたが、番組に登場した患者さんや家族の人たちとしては、藁にもすがる思いなのではなかったかと想像します。心霊手術が胡散臭いことは百も承知しているが、万に一つの可能性にかけて、高い治療費を払ってわざわざフィリピンまで来たのでしょう。でも、がんは治りませんでした。

 足裏診断で荒稼ぎした法の華三方行の福永さんは、病院の前でがん患者や家族を見つけてカモにするよう部下に指示していたとか。他人の弱みにつけ込んで暴利を貪ろうという連中がいるのです。天納金としてお金を巻き上げられた人たちも、普段の正常な心理状態であれば、福永さんの話におそらく騙されることはなかったでしょう。しかし、精神的に追い詰められていたために、正常な判断能力を欠いてしまい、ああいう詐欺商法に引っかかってしまったのです。

 「あんなものに騙されるなんて…」というのは簡単ですが、きちんと対応していなければ、同種の別のインチキに騙される可能性が誰にでもあるのではないでしょうか?


健康によい教義?  投稿者:流木 投稿日: 2004年09月01日21時51分

*地下に眠るMさん(ヴィバ! ぷらしーぼ 投稿者:地下に眠るM  投稿日: 9月 1日(水)15時19分6秒)

 こんにちは。

>>例えば、「大地を踏み占め、よく歩き、多種の食物を少しずつ食べ、神の恩寵に感謝しよう」という教義の宗教があったと仮定すると、その敬虔な信者の集団は多くの「生活習慣病」のリスクを低減し、平均寿命なりがあがると予想していいと思われますにゃ。

 モルモン教徒(末日聖徒イエス・キリスト教会の教会員)は、「知恵の言葉」という戒め(元々は、戒めではなかったが、その後、戒めに昇格)によって、酒(強い飲み物)・たばこ・カフェイン入りの飲み物(熱い飲み物)などを飲めません(本当は、「肉もあまり食べちゃダメ」と書いてあるんですが、これはなぜか無視)。そこで、そうした嗜好品が健康に与える影響を調べるときに、彼らを調べるのだと聞いたことがあります。

 もっとも、「甘いものは食べてはいけない」という戒めはありませんので、その影響をどうやって除去しているのかは不明ですが…。


「笑い」と「信仰心」  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日18時32分

大文字さん:

> 裏づけのない発言は「どんな話題に対しても」行えないものだ、とも考えておりません。

「裏づけのない発言」でも自由に発せられるべきで、これには全く異論はありません。
同時にそれは、発言について裏づけを求めることについても同様だと思います。

ところで、

> 私が見聞きしてきたこと、私の経験においては、親にねだる→たいていは断られる→それでも欲しい→どうしようか、などという連鎖がありました、と述べることは可能でしょう。

↑と↓とでは、主旨がちょっとズレてきているように思うのですが・・・。

> 親から金を貰うという「面倒なおねだり」を省いて、いきなり「欲しいモノをゲットする」ことが、いかに容易く魅力的であるか、ということは理解できます。

> 強い信仰心や思い込みは、科学の土俵に上げにくい「現象」であることは理解しております。しかし、あげにくいながらも「まったく上げられない」という類の概念とは思えません。

「まったく上げられないわけではない」を強く否定するつもりはありませんが、「笑い」と「強い信仰心」では科学的土俵にあげる時に必要な客観的、計量的評価の点で大きな違いがあるのではないでしょうか。
「信仰心」について、信仰者でない科学者が被験者に対して「あなたは信仰心が強くない」と「評価」しても「私は信仰心が強いです」と反論されれば、ほぼそれまでではないでしょうか。


Re:REプラシーボとプラシーボ効果など  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日18時29分

シンさん:

> だからダビデ王を例にあげました。
<中略>
> 簡単な話にあなたは根拠をあげろ、というのですか?

シンさんは、「私のように考える人には」「<必ず>何かしらの効果がある」と書いておられたので、他者に対して<必ず>ということがどうして言えるのかとお尋ねしたのです。

発する言葉は大切です。揚げ足とりだとおっしゃいますが、「言葉に不備があるのは重々承知です」と言われるのであれば、その点にもとづいて訂正なり、釈明されればいいのではありませんか。
「意味が通じない」という問題でもないでしょう。私だったら自分の言葉や説明に不備や誤解をまねく点があると、指摘などによって納得できたら、訂正することを第一に考えますが。

「<必ず>何かしらの効果があります」については具体的な訂正がありませんでしたのでシンさんの真意であると受け取り、再度お尋ねします。どうして<必ず>といえるのでしょうか。


ブードゥーデス  投稿者:DBRCT 投稿日: 2004年09月01日18時10分

本来、プラセボは専門なのでそちらにレスと思ったけど、地下に眠るMさんの投稿が刺激的だったのでまず、そちらに。

呪殺は1942年、W.B.キャノンがオーストラリアのカナカ族における呪詛された人間の死亡例を報告しています。しかし、これは伝聞に基づく報告であると批判が集まったため、精神医学者のH.イーストウェルが直接調査を行いました。39例の例をあげていますが、そのうち2例が実際に死亡したとのことです。
 (波平恵美子 医療人類学入門 朝日新聞社から 要約して引用)

死亡した例はおそらく、恐怖から食欲が低下し、極度の脱水症状で死亡したものと考えられます。ヒトの心は傷つきやすく、思いこみで病気になることは可能です。逆に信じ込めばかなりの荒技でもできるものですが、器質的な疾患を完全に治癒させるのはまず無理です。これはしかしプラセボ効果とは区別した方がいいと私も思います。たとえば、プラセボ投与後に病気が良くなるという効果には、自然変動(風邪なんて3日でなおるもんね)、一般療法(風邪引いたら栄養摂って、寝てるとか)の効果に加えて、真のプラセボ効果が含まれます。JA50さんの言われる観測者の予断はバイアスの1つではあるけれど、プラセボ効果という人は少ないと思います。「プラセボ投与群における効果」なら、JA50さんの仰るとおりです。

昔はウイッチドクターになりたかったんです。今は正反対の仕事してるけど。でも部屋に飾っている絵は錬金術師の肖像だったりする。


信仰へ至る道  投稿者:流木 投稿日: 2004年09月01日17時37分

*シンさん(RE現象の背後に何を感ずるか 投稿者:シン  投稿日: 9月 1日(水)02時06分47秒)

 こんにちは。本題です。

>>多分あなたの意見では、宗教はプラシーボ効果と一緒だから、裏づけはなくて、それを無理にこじつけても、でっちあげても、調べても無駄だ、と言いたいのだと、感じます。(あくまでも<感じる>です)

 私が先に申し上げたのは、「信仰は感性に近いのかな?」ということです。その例として、「天井が崩れないと思っているでしょ?」と指摘されて、創価学会に入信した人の話をしました。ご本人にとっては、入信を決意させるだけの何かすごい出来事だったのでしょうが、私にはそのインパクトが分かりません。伝聞ではなく、ご本人から直接お聞きしても多分分からないだろうなと思います。

 絵や音楽の好き嫌い、食べ物の好き嫌いなど、他人に説明しても分かるものではないでしょう。追体験できません。再現できません。そういう点では、科学とは対極にあるんじゃないだろうかと考えた次第です。

 教理というのは、理屈ですね。理屈だから、信仰を持たない人間でも理解できます。しかし、理屈をいくら追っていっても、それは信仰に至るわけではないでしょう。別ではありませんかと申し上げております。聖書を繰り返し読んで、どこに何の話が書いてあるか覚えてしまっても、それはただの物知りに過ぎません。信仰者というのは、そういう経緯で信仰に至ったのかといえば、それは違うのではないかと思うのです。


ヴィバ! ぷらしーぼ  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年09月01日15時19分

ちょい前のsci98との話もからむにゃんが、信仰とか信念とかいったものは、ほとんどの場合はある行動を伴うものだといっていいと思いますにゃ。ある神を心から信じていると口ではいいながら、その行動はまるで矛盾したものである、というのはその神を信じていることにはならにゃーと僕は考えるにゃ。

例えば、ある種の鬱病は光を一定以上あびることで治癒効果があるとのことらしいにゃんが、鬱病気味の信仰者に、別の信仰者が「部屋にこもっていないで、神の恩寵を感じるためにもっと外に出たらどうだい」といい、彼がそのとおりにしたら鬱病の回復に効果があると考えられますにゃ(光の問題だけでなく、他の要因もあるだろうと予測される)。

例えば、「大地を踏み占め、よく歩き、多種の食物を少しずつ食べ、神の恩寵に感謝しよう」という教義の宗教があったと仮定すると、その敬虔な信者の集団は多くの「生活習慣病」のリスクを低減し、平均寿命なりがあがると予想していいと思われますにゃ。

思うこと信じることと行動が無関係である、とはいえにゃーわけだ。それは暴論と言っていいだろ。
したがって、思うこと信じることと肉体の状態は相関することが普通であると考えるべきにゃんな。


ところで、文化人類学者によると、「呪殺」というものは本当にあるとのことでしてにゃ
(出典は忘れた)
ある種の世界観の中においては、「ある腕利きの祈祷師に呪いをかけられた」と知ってしまっただけで、食欲を初めとしてすべての意欲を失い、短時間で死にいたってしまう例ちいうのはあるみたいにゃんね。


医者とは単なる医療技術者であるだけでなく、「魔法医」でもあるべきだと僕は考えるにゃ。
「医は仁術」ということも「ヒポクラテスの誓い」も、そういうことだと僕は判断しているのだにゃ。

また、科学社会学の立場でいえば、科学者の業績そのものはもちろん「科学的」に評価されるものにゃんが、科学者を遇する社会においては、科学者の立場とは古来からの祈祷師・魔法使いの立場であるといえなくもないことは確認しておきたいものですにゃ。


プラセボ  投稿者:JA50 投稿日: 2004年09月01日13時01分

>「思うこと願うこと信じることによって実際に体や心に効果が発揮される」ことがある

これは事実なのか?
そういうことを証明した実験とか観察例はあるのですか?

ただし、「思うこと願うこと信じることによって実際に体や心に効果が発揮される」というのは非常にあいまいな言明だから、これじゃ真偽の判定をするのは不可能に近いんじゃないかな。

で、プラシーボ効果ということですが、こういう例はどうでしょう?
ある信仰を持つ人ではこれこれの病気が治るてな仮説の真偽判定をする。
ある信仰を持つ人の群と、でっち上げの信仰を作ってそれ信じさせた人との群、それと信仰など持っていない人の群で、ある病気について予後判定する。もちろん判定する人は被験者がどっちの信仰を持つ人かは分からないようにしておく。
この「でっち上げの信仰」ってのが、特定の信仰というのに対するプラシーボになる。
そして、もし「でっち上げの信仰」という群で予後が良かったりすると、それをプラシーボ効果って呼ぶのはいいと思うけど、「ある特定の信仰」という群で予後が良かったら、それはその信仰がある病気に効果があるということであって(その理由は分かりませんが)、それをプラシーボ効果と呼ぶのはおかしいと思いますよ。

「思うこと願うこと信じることによって実際に体や心に効果が発揮される」ことがある、とかいうのをプラシーボ効果と言ってしまってはおかしなことになるというのが分かりますか?


REプラシーボとプラシーボ効果など  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月01日12時07分

ななさん JA50さん こんにちは

プラシーボについては効果がない、とはいいきってはいないはずです。私のいいたいのは、わたされた嘘の薬などには効果の根拠がなくて、神には根拠があるのではないか、という媒介を対象にした希望的予測について述べたまでです。これについては価値観を押しつけるつもりはないので議論の対象にはならないはずです。プラシーボ効果について用法が間違っているのなら文脈で言いたいことを理解してください。ご指摘感謝します。
「思うこと願うこと信じることによって実際に体や心に効果が発揮される」ことがある、
については<なに効果>なのかを教えてください。

>シンさんご自身のことについてはお話から信じるとしても、「私のように考える人には」と他者のことについても効果があると断言できる根拠はあるのでしょうか、ありましたらお教えください。

だからダビデ王を例にあげました。この話が別に嘘か本当かわからない、というのなら、別に根拠にはしません。誰も見てないところで悪さをしてもバチは当たらない、という考えを持つ人(私のように)に、神は見ている!バチが当たるぞ!という設定であったり認識が、与えられて変えられる、という、簡単な話にあなたは根拠をあげろ、というのですか?それについてはあなたが倫理観の基準を友達にでも聞いてデーターでも作ってみることを、お勧めします。きっと役にたちます。私は体験的にはわかるのでいちいち、効果があった人、なかった人などをあげて検証した結果を発表し、根拠があるんだ!と説明するところまで大人の人たちにやるのは相手をバカにしているように思えるのでやりません。

揚げ足をとるのではなく、建設的な議論が出来る事を願います。言葉に不備があるのは重々承知です。あまりにも意味が通じない、というときにはフォローをお願いします。

適当とテキトーは用法を間違って使う方が今では自然ですが、間違っていても伝えたいと意図するものは相手に伝わります。私の文章はそんなに伝わりにくいですか?言葉で伝えるのは言葉ではなく、思いや考え方などの意識であると考えています。自分への手紙に言葉の用法の間違いがあっても相手の気持ちがわかれば、その手紙の役割は、ほとんど果たされています。それが伝わっていないのなら私の力不足ですね。この場合では私は議論を引き起こすためでなく、意見の交換によるお互いの高めあいを図っています。

確かに言葉の用法チェックはそれはそれで必要です。議論も必要な時があります。
それは理解しています。引き続きよろしくお願いします。


プラシーボ効果  投稿者:流木 投稿日: 2004年09月01日12時05分

*シンさん(RE現象の背後に何を感ずるか 投稿者:シン  投稿日: 9月 1日(水)02時06分47秒 )

 こんにちは。

 本題に入る前に、プラシーボ効果について私の理解している範囲で少しばかり述べさせて下さい。

 治験(臨床試験)においては、有効成分を含まず治療効果のない薬(プラセボ:placebo)を被験者に服用させる場合があります。プラセボは、治験薬(開発中の新薬)とそっくりに作られています。医師はもとより製薬メーカーの開発担当者であっても、成分を分析しない限り、治験薬なのかプラセボなのか判別することはできないそうです。

 プラセボを投与すると、症状が回復する場合(プラシーボ効果)もあります。しかし、症状が回復するとは限らず、逆に症状が悪化したり、副作用その他が発生する場合も見られるそうです。薬効成分を何ら含まないプラセボを服用して、副作用が出てしまうというのは理解に苦しむところですが、人間の心と身体というのはそういう面もあるんでしょうね。

 治験薬が本当に有効性を持つのかを科学的に明らかにする上では、プラセボと比較することが最も合理的であると考えられています。新薬に本当に効果があれば、プラセボと違いが現れるはずだからです(厳密にいえば、「治験薬とプラシボとは効果に関して違いがない」という帰無仮説が否定されるわけですが)。

 もっとも、プラシーボ効果は医師にも起こります。治験薬を投与する医師が「これは効果のあるはずの治験薬だ」と知ることで、それが診療態度に表れて被験者の病状が良くなったり、薬の効果とは無関係に起きた症状の変化を薬の効果だと間違って判断をしてしまう可能性もあります。「幸運のネックレスを身に付けたら、宝くじで1等賞が当たった」とかいう話と同じです(宝くじの購入者が全員そのネックレスを身に付けても全員が1等賞をとれるわけではありませんから、そんなのはただの偶然です)。

 そこで、そういった効果の影響を取り除くために、「二重盲検比較試験(ダブルブラインドテスト:Double Blind Test)」(二重盲検法とも呼ぶ)という手法が考え出されました。測定者である医者にも被験者である患者にも、どちらが治験薬でどちらがプラセボであるか判らないないようにして、治験を進めるという方法です。

 詳しくは、

 http://www.chikennavi.net/word/placebo.htm

 http://www.asahi-net.or.jp/~wa5h-mtmr/medical/report/dbt/dbt.htm

を、一般向けの簡単な説明は、

 http://www.micnet.ne.jp/daiichi/No29.html

 http://www2.icnet.or.jp/~isiyaku/senyaich/story/54.html

などをご参照下さい。


う〜む  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月01日11時16分

 多くは、ではなく、すべて、だった…。

>思いこみや信仰とかで病気を治せるんだという根拠にプラシーボ効果を持ち出されることが多いけど、それって違うんじゃないの?

 で、JA50さんのこの指摘には同意。ですからちょっとシンさんの文脈に沿って「調子に乗りすぎました」ことをお詫びします。


いろいろレス  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月01日11時11分

 多くはななさんへ、かな。

>ただその点について言えば、たとえば昭和の年代であろうが平成の年代であろうが大きな差はないのではないでしょうか。
 
 まず、私は「昭和と比べて平成は万引きが増えた」とは言及しておりません。

>自ら汗水流して働いて「金の価値」を分かっている子どもは逆に増えているのではないかという見方も成り立つように思いますが、どう考えられますか。

 そういう見方は、当然成り立つでしょう。ただし、私は統計的に「増えている」とか「減っている」ということを述べておりません。単に「金でモノが買える」ことと「万引きする子供の心理」との間に、こんな連想があるというなら、私は「分かる気がする」と述べております。

>もしそういったことが一般化できるというのであれば、その根拠のご教示を。

 私の発言が「私の主張は一般的で普遍的な裏づけのとれたものである」と捉えられたのでしたら、私の書き方が悪いのでしょう。しかし、私はなにかを証明したり、論破するためだけに発言しているわけではありません。また、裏づけのない発言は「どんな話題に対しても」行えないものだ、とも考えておりません。
 と、お断りをいれた上で

>万引きするより親に金の無心をすることの方が今の子どもたちにとっては心理的な抵抗や負担が強いということだと思います。

 今の子供たちがそうなのか、そうではないのか、を現実に調査して統計を出したわけではありません。もちろん、私が子供時代であった頃についても同様です。しかし、私が見聞きしてきたこと、私の経験においては、親にねだる→たいていは断られる→それでも欲しい→どうしようか、などという連鎖がありました、と述べることは可能でしょう。
 きちんとした議論にどうしてもされたいのでしたら、親子の間で対話は減ったのか増えたのか?などのデータを示す必要があるでしょうね。これは流れを見たうえで考慮いたします。

>身体的な強さやストレスに強い精神性などといった医学的、科学的な判断の土俵には乗せられない、それとは次元が異なる「生きざま」の評価の問題ではないかと思います。

 http://www.crn.or.jp/OFFICE/MESSAGE/
 ↑上記サイトの記事にどれほどの信憑性があるかの評価は、まだしておりません。ただ、同様のことを私の知人の医師が免疫学会に論文として提出しようとしております。これについてはWEB上には資料がありませんでした。
 強い信仰心や思い込みは、科学の土俵に上げにくい「現象」であることは理解しております。しかし、あげにくいながらも「まったく上げられない」という類の概念とは思えません。少なくともそのようなアプローチで研究している専門家がいて、EBMとして活用可能「かも知れない」と考えていることを「たまたま知っていた」ので、述べてみたのです。
 


完全にボケとる。。。  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2004年09月01日10時05分

誤)両親がとがめないのかなぁ。
正)良心がとがめないのかなぁ。


ずいぶんと長く話が進んでいる。。。  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2004年09月01日10時04分

焼酎(っつーか、韓国の“ソジュ”)の飲みすぎで頭痛い・・・
う〜ん、遥か彼方に自分の投稿が流れてしまっていた。
とにもかくにもレスを。

ちなみに最初の私の投稿には
>いずれにしても、「弁償すればいい」とか「物なんて買えばいい」なんて台詞はこの世界の殆どの国の人間を馬鹿にした言葉だという事を知ってもらいたいけど。
という書き方をしていて、「何でも金で買える」、とは書いていないのであしからず。

谷庵さんが既に書かれていますが、物を盗んで処罰されても、その本来の代価を払えば免罪される、という風に考えている少年達がかなりの数でいるのでは、ということです。
そういった意識が万引きという犯罪に対して、「失敗するとこっぴどく起こられるスリルのある行為」という間違った認識を与えているのではないか、という危惧を指摘したつもりでした。

つまり、万引きが「スリルを楽しみ、かつ失敗して見つかっても弁償で済む(=人殺しや強盗と違って、そんなに厳しく処罰はされないだろう)」という手頃なゲーム感覚になっていないのか、という指摘です。

まあ、“金”というのはあくまでも代価に過ぎないのであって、それ自体が真に価値を持ちうるわけじゃない。
お金を支払って欲しい、もしくは必要なものを手に入れることが可能だからお金は価値があるのであって、物を変えないお金は何の意味もない。・・・いや、邪魔くさいだけ厄介か。
お金で大概のものを買うことが出来る世の中とはいえ、お金で買うことの出来ないものもあります。
また、それを勘違いしたのが万引きという“スリル”なのでは?という感想もあり。。。
(スリルを味わって失敗したら代償を払って終わり、なんて拝金主義の代表的なものかもな・・・)

>>ただ、ここで言いたかったのは、物を作る苦労やその喜びを知らないからこそ、
>>スリルを味わいたいとか言う馬鹿丸出しの自分勝手で行動する連中が出てくるし、
>って書いておられるわけで、これを私は
> 「モノを自分で作れば万引きする気にならないが、カネで買えると万引きする」
>という意味だと解釈しましたが、これまたわからない。
> モノを作るには苦労もありますが、カネを稼ぐにも苦労はあるでしょう。

じゃあ、自分が苦労して物を作る側の立場だったら、スリルを味わいたい、というような感覚で人様の作ったものを盗んで両親がとがめないのかなぁ。
いや、自分の叔父さんの家が大工なので、そこで住み込みで働いている兄ちゃん達をみて育ったので。
確かにあの兄ちゃんたちはシモねた好きだったし、喧嘩っ早かったし、飲んべだったけど「弱いものに暴力は振るうな。人のものを盗むな。親に恥ずかしい想いさせるな」って厳し〜く教わりました。
で、「物ってのは人や自然から贈られたものだから、それに黙って手をつけるのはその人やそれを送ってくれた自然とかご先祖様に対して失礼なんじゃ」という理由だった。

・・・何て言っても機械で自動生産されるものが多くなったから、そんなこと言っても有り難味ってわからんのかもな。


プラセボ  投稿者:JA50 投稿日: 2004年09月01日 9時23分

>医学用語でプラシーボ効果というのがあるの、多分ご存知ですよね。思うこと願うこと信じること、によって実際に効果が発揮されたりすることです。

医学用語のプラシーボ効果って、「思うこと願うこと信じることによって実際に効果が発揮される」ってのとは違うと思うぞ。

意識的であるなしに関わらず本物か偽物かというのを関係者(使われる人、使う人、統計処理をする人など関わりなく)が知ることで統計的結果(良し悪しとか効果があるとかないとかも関係なく)が違ってくることをプラシーボ効果って言うんじゃないの?
なんか、思いこみや信仰とかで病気を治せるんだという根拠にプラシーボ効果を持ち出されることが多いけど、それって違うんじゃないの?


プラシーボとプラシーボ効果など  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日 7時38分

シンさん、はじめまして。

> 医学用語でプラシーボ効果というのがあるの、多分ご存知ですよね。思うこと願うこと信じること、によって実際に効果が発揮されたりすることです。けれど人はその裏づけを求める人と求めない人もいます。多分あなたの意見では、宗教はプラシーボ効果と一緒だから、裏づけはなくて、それを無理にこじつけても、でっちあげても、調べても無駄だ、と言いたいのだと、感じます。(あくまでも<感じる>です)

流木さんからレスがあるとは思いますが・・・・

ブラシーボ効果に対する科学的な裏づけは複数提出されています。したがって「裏づけはなくて、それを無理にこじつけても、でっちあげても、調べても無駄だ」ということはないと思います。

私もシンさんと同じように「裏づけを求めるタイプ」^^;なのでお聞きしますが、

> 私のように考える人には、<必ず>何かしらの効果があります。

シンさんご自身のことについてはお話から信じるとしても、「私のように考える人には」と他者のことについても効果があると断言できる根拠はあるのでしょうか、ありましたらお教えください。

大文字さん:

> 思い込みという「積極的情緒」に感受性の高いグループには「必ず、なにかしらの効果」があるわけですので、

「感受性の高いグループ」、暗示を受けやすい人と言い換えられると思いますが、このような群に効果が認められる傾向が高いというのなら分かるのですが、「必ず、なにかしらの効果」が現われたというデータ、報告はあるのでしょうか。

> 信仰もひとつの「積極的な情緒」である、と捉えれば、信仰心を持つことと「強く生きる、生きられる」ことの間に「自然科学的な意味での」相関がある、と述べても別に構わないように思います。

そうでしょうか。
ここで言われている「強く生きる、生きられる」とは、信仰的、宗教的な立場からの生き方を指していると思いますが、それは多分に主観的なものを認める立場に立ったものであり(もちろん他者から信仰的、宗教的な評価も下されるでしょうが)、身体的な強さやストレスに強い精神性などといった医学的、科学的な判断の土俵には乗せられない、それとは次元が異なる「生きざま」の評価の問題ではないかと思います。


Re:Re:なんでも金で買える  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日 7時34分

大文字さん:

> なんでも金で買えることと、万引きの蔓延が直接的に結びつくとは私も思いませんが、親から「小遣い」を貰うことでしか「金の価値」が分からない世代にとって、親から金を貰うという「面倒なおねだり」を省いて、いきなり「欲しいモノをゲットする」ことが、いかに容易く魅力的であるか

就労についていない子どもが大人が朝から夕まで働いて得ている「金の価値」を大人よりは実感として分かっていないということは、ある程度一般論として言えるだろうと思います。

ただその点について言えば、たとえば昭和の年代であろうが平成の年代であろうが大きな差はないのではないでしょうか。アルバイトをしている高校生などは昔より近年の方がずっと多くなってきているはずで、そういった意味では、自ら汗水流して働いて「金の価値」を分かっている子どもは逆に増えているのではないかという見方も成り立つように思いますが、どう考えられますか。

「欲しいモノをゲットする」という万引き行為が親から金を貰うという「面倒なおねだり」より「容易で魅力的である」というのは、言い換えれば、万引きするより親に金の無心をすることの方が今の子どもたちにとっては心理的な抵抗や負担が強いということだと思います。もしそういったことが一般化できるというのであれば、その根拠のご教示を。


カラーの夢をはじめて見た  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年09月01日 7時31分

今朝すごい夢を見た。きれいなカラーの夢。皆さん夢は大事ですよ。人間は睡眠中あの世にいってるそうですから。
今後の人生の指針をいただいた。青い色が記憶に残ってる色。とても透明度の高いきれいな青だった。青い光かな?私がはじめようとしている人生相談についてのアドバイスだと思うが、もう少し中身を詰めないと失敗するよというものだったような気がするが、彼が実際は何が言いたかったのかを今思案中。細かいところまでアドバイスをいただいたが、今は忘れてしまった。彼が私の知ってる誰かのような気がして思案中。
瞑想CDをやってたのがよかったのかな?これには天使と遊ぶ瞑想というのもはいってる。小さな天使と遊び、大きな大人の天使に質問できるという瞑想・・・


うーん  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月01日 5時58分

大文字ナンさん おはようございます。

>次に、プラセボ(プラシーボ)効果については、たとえば免疫学的にはプラセボでリンパ球が活性化したりという実証もあるようで、思い込みという「積極的情緒」に感受性の高いグループには「必ず、なにかしらの効果」があるわけですので、シンさんの言う「信仰とプラセボは違う」という点には異論を述べます。

うーん確かに、そのとうりです。実際に水が万能の霊薬であると良いんですけどね。プラセボは水で<神の存在の仮定>が万能の霊薬だ。と言いたかった感じなのですが。それを意地をはって主張するのはやめます。ただ私は神様がいると信じているので、そう思う人には実際にも水でなく万能の霊薬なのだ、と考えます。(おかしいことは承知です)
みなさんに対して神について話すとき、いつも<設定して、とか仮定して>という言葉を使ってるの、やばくないか?とか最近思ったりします。会ったとき怒られそうです(いればですけど)。この( )がそうなの!正直、畏れがあります。
だけど、この書き方はここでは変えません、このことに関しては(もしいれば)神様に赦して貰います。

あと
>これも議論というのじゃないでしょうね。互いの考え方ですから。
 で、私は、というと…私は「私が死んでも」私の周囲の人間たちは生きているのですから、そういう「私の死後」には具体的なイメージがあります。見たこともない神にどう思われても構いませんが、普段親しくしているみんなには死後もときどき私を思い出して欲しいな、と切に願います。

これには賛成です。あなたのような考えを最低限、人は持つべきなのではないかと思います。これを色々な方向に突き詰めて整理されたのが少なくとも、まともな宗教だと考えています。私がせめて他の人に求めたいのは見えない何かを自分の上に設定していてほしい、ということだけです。ただしそれは少なくともプラスの方向の思いや、願い、希望からです。

古代イスラエルのダビデという王様は部下のウリヤ将軍を殺してその奥さんを奪ったとんでもない罪を犯しました。かなりうまくやったので誰にもばれていない、と思っていたら、それは神にばれていて、それを預言者ナタンから告発されました。それに対しダビデは神を畏れて悔い改めました。(その後、神様から罰も受けましたが)という話があります。
ダビデは王様だからナタンを殺して口封じもできたのに、それをしませんでした。
彼は自分より上の存在を認めていたからです。まあ殺されたウリヤ将軍は可哀想でしたが、最悪、王様はこうあってほしいものです。失敗はだれでもします。

権利を持つ人ほど、何か<善なる設定>を強くしていてほしい、と願います。が、現実には逆の傾向にあると思います。<善なる設定>とは、現在の日本であったら、法律、ではなく法律の中身の精神ですね。言葉だけを見て抜け道ばかり探している人が多いみたいで本当に哀しいです。

そんなわけで、そういう話(あなたの死後に対してのイメージ)を聞くことができ、嬉しく思います。私はとりあえず進化論の方へ戻りますが、こんな話題はいつでも歓迎です。
これからもよろしくお願いします。


なるほど…  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月01日 4時37分

>私は、そのようにうまく生きたいと思います。死んだ私への生きている人間の評価など、どうでもいいです。死んだ後に評価されても、死んだあと<無>ならそんなどうでもいい名誉いりません。安らかに死ぬ準備だけはしますが。

 これも議論というのじゃないでしょうね。互いの考え方ですから。
 で、私は、というと…私は「私が死んでも」私の周囲の人間たちは生きているのですから、そういう「私の死後」には具体的なイメージがあります。見たこともない神にどう思われても構いませんが、普段親しくしているみんなには死後もときどき私を思い出して欲しいな、と切に願います。

 次に、プラセボ(プラシーボ)効果については、たとえば免疫学的にはプラセボでリンパ球が活性化したりという実証もあるようで、思い込みという「積極的情緒」に感受性の高いグループには「必ず、なにかしらの効果」があるわけですので、シンさんの言う「信仰とプラセボは違う」という点には異論を述べます。
 上記については、「ただの水」でも「万能の霊薬」だと吹聴されれば、それが積極的な(病気に対する)情緒反応となって自律神経などに作用し、免疫力が向上するという医学データが提出されています。あるいは「笑う」だけで自己免疫病を撃退したという報告などもあるようですから、信仰もひとつの「積極的な情緒」である、と捉えれば、信仰心を持つことと「強く生きる、生きられる」ことの間に「自然科学的な意味での」相関がある、と述べても別に構わないように思います。
 http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans069.htm


Re:なんでも金で買える  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月01日 3時50分

 なんでも金で買えることと、万引きの蔓延が直接的に結びつくとは私も思いませんが、親から「小遣い」を貰うことでしか「金の価値」が分からない世代にとって、親から金を貰うという「面倒なおねだり」を省いて、いきなり「欲しいモノをゲットする」ことが、いかに容易く魅力的であるか、ということは理解できます。
 #もちろん、これは万引きを肯定しているわけではありません。

 ちなみに私は万引きこそしませんでしたが、親の金をくすねたことなら数限りなくあります。これは要するに「同じコト」だと今は理解しています。1000円を稼ぐためにどれだけの「対価としての労働」があるかを骨身に染みて思い知らされた今の私には、到底できないことですが、それが「分からなかった時代」があったことは確かです。


高校生とバイク  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年09月01日 3時43分

>※原付は兎も角、自動二輪は高校生には経済的に不可能じゃろうな

 反論じゃないです、と注釈しながら(笑。
 私は、高校までなら「わりと進学校」みたいなの(謎)にいたのですが、バイク(400cc)はバイトして自費で買いましたし、保険も自分で払っていました。さらにメンテナンスは近所のバイク屋さんに教わりながら、たとえばアルゴン溶接を必要とするような作業さえ自分でやっていました。で、私が特殊だったのか?というと…私の周りは「そんなんばっか」だったので、特に異質なつもりはありませんでした。まぁ、そぉいう生活があんまり楽しかったので、結果的に「進学コース」からドロップアウトするのですが。

>誰かを怪我させたり死なせたりして、高校生に償いようがあるのか?

 この面については、高校生だろうと社会人だろうと、同じ問題と思います。たとえば私は自損事故によって、私自身に障害を負わせたわけですが、これを償う方法は原理的にありません。せいぜいが、保険に加入して医療費をまかなうくらいです。


RE現象の背後に何を感ずるか  投稿者:シン 投稿日: 2004年09月01日 2時06分

流木さん(現象の背後に何を感ずるか 投稿者:流木 投稿日:8月31日(火)22時03分45秒

こんばんは

>おそらく、その先生には何か心に迫るものがあったのだと思いますが、私の心には何も迫っては来ませんでした。「信ずる」とか「信用」ということについての話だったような気もするのですが、詳しくは覚えていません。まぁ、私に話してくれた人にとっては共感できる話だったのかも知れませんが、私には何のことやら…。

私もこれについてはその場にいてもきっと何のことやら、です。

医学用語でプラシーボ効果というのがあるの、多分ご存知ですよね。思うこと願うこと信じること、によって実際に効果が発揮されたりすることです。けれど人はその裏づけを求める人と求めない人もいます。多分あなたの意見では、宗教はプラシーボ効果と一緒だから、裏づけはなくて、それを無理にこじつけても、でっちあげても、調べても無駄だ、と言いたいのだと、感じます。(あくまでも<感じる>です)

私の場合どうなのか、という説明をしてみます。
実は私は相当な悪人です。もし死後に何もなければ、犯罪者にならないように、自分のしたいことをします。いくらでも考え付きます。友達には自分が良く見えるように一生懸命演出しつつ、自分の得にならない付き合いも一切やめます。見つからない、という確信があれば人もきっと殺します。実際殺してやりたい奴がたくさんいました。今話題になってる万引きに関しては、家がコンビ二を経営してたのでやりませんでしたが、そうでなかったら、じゃんじゃんやってたでしょう。今までの日本の万引き事情は話題になってるように甘々だからです。弱い奴をボコって自分の強さに浸るのも好きです。(まあ強い相手を倒すのはもっと気持ち良いですが。)しかし大きな意味ではそういうのは自分に返ってきます(社会の混乱、環境破壊などで)が、うまくやれば避けることも可能でしょう。現に日本の政治家などは私腹だけ肥やし寿命で死んだ人もいるでしょう。多分、年寄り政治家は未来の日本より自分のことだけを考えている傾向が間違いなくあります。未来の子孫のために、なんてただの奇麗事です。少なくとも子供がいない人にはわかりにくい感覚です。

私は、そのようにうまく生きたいと思います。死んだ私への生きている人間の評価など、どうでもいいです。死んだ後に評価されても、死んだあと<無>ならそんなどうでもいい名誉いりません。安らかに死ぬ準備だけはしますが。

そんなわけで、私には<神>という設定、思い込み、が必要です。それは私のように考える人には、<必ず>何かしらの効果があります。必ず効果があるものをプラシーボ効果とは、いえません。プラシーボ効果とは思い込みで効果がある時がある、というだけのものだからです。

私は無駄に終わった親切、誰も見ていないところでの善行、見返りを期待しない愛、挙げればきりがありませんが、それらは<無>にならない事を信じています。

これが信仰の本質の1つの側面だと思っています。

まあ私の信仰の初めは死んで<無>でなかったときの保険という極めて単純な理由からで、聖書は唯一、死んだ後の保険と保証が復活によって説明されているので信じただけです。今、送ってる人生は<神の設定なし>、の時より、まあ結構楽しいので、死んで<無>でもいいやぐらいに思ったりすることも、たまーにあります。

ちなみに私は裏づけを求めるタイプです。引き続きその辺のご協力よろしくお願いします。


正しいところはヘルメス☆さんに聞かなきゃわからないですが  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年09月01日 0時48分

 これは、最初にヘルメス☆さんが書いたことについて、一度私が質問し、回答をもらった上で「やっぱりわからない」と言っていることなので、

谷庵さん:
>「何でも金で買える世の中」というのは慣用句のようなもので、実際の意味は
>「多くの人が金を出せるようになった世の中」ではないかと思います。

 これはないんじゃないかと思いますよ。もし「慣用句のようなもの」であったなら、その真意を説明することは2回目の投稿のタイミングでできたはずだからです。

 さらに言えば、その2回目の投稿で、

>ただ、ここで言いたかったのは、物を作る苦労やその喜びを知らないからこそ、
>スリルを味わいたいとか言う馬鹿丸出しの自分勝手で行動する連中が出てくるし、

って書いておられるわけで、これを私は
 「モノを自分で作れば万引きする気にならないが、カネで買えると万引きする」
という意味だと解釈しましたが、これまたわからない。
 モノを作るには苦労もありますが、カネを稼ぐにも苦労はあるでしょう。

 谷庵さんのご意見は、「今はみんなカネ持ってるから、どうせすぐ手に入るものなので気楽に盗む」ってことなのだと思いますが、それじゃ「本を盗んでブックオフに売り金にする」奴らの行動が説明できないし、トトロさんのバイクを盗んだ連中も、欲しけりゃぽいぽいバイク(の部品?)を買える連中じゃなかったわけでしょう?


wadjaさん、RYU_TI_SYUさん  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日 0時36分

wadjaさん

> 金さえ出せば買える->金を出せば人を傷つけなくても手に入れることができる->人を傷つけることも無いのなら、取り返しのつかない大罪ではない->なんとなれば、金さえ出せば簡単に罪の償いができる

> と言った万引き者の論理を説明したものでは無いでしょうか。

万引した(している)青少年の心理、動機をこんな論理で一般化できるとは私にはちょっと驚きで、その根拠はと問いたくなります。
「うるせえなあ、金さえ払えばいいんだろ!」って開き直る万引き犯はいるでしょうが、それは一般化できるでしょうか。

RYU_TI_SYUさん

> わしは、自分でメンテナンス、保険一切のコストを自分で負担出来るのであれば高校生じゃろうがなんじゃろうがバイクに乗ってもいいとは思うがな・・・
> ※原付は兎も角、自動二輪は高校生には経済的に不可能じゃろうな

同意です^^;
ただし、安全運転講習などに力を入れて歩行者や自転車に対する保護の意識をしっかり高める必要はあるように思います。


何でも  投稿者:なな 投稿日: 2004年09月01日 0時16分

> 質問内容を見ると私への質問のようにも見えます。
> とりあえず私からもレスしておきます。

谷庵さんへのお尋ねでした^^;

> 1)自分が手に入れることの出来ない物を盗むのは、物欲しさからするので犯罪。
> 2)ポケットから金を出せば買える物を盗むのは、本当に欲しければ買えばいいのだから、物欲しさからではないのでゲーム。

1)はそれなりに理解できるのですが、2)はちょっと違うというか、浅い見方のような気がしますね私は。

まず気になった点ですが、2)で「物欲しさからではないのでゲーム」と、犯罪と規定するには何か問題があるかのような書き方をされていますが、かりに本人はゲーム感覚でやっているとしても犯罪は犯罪でしょう?

谷庵さんが言われた「買う気なら買えるような物を盗むのは気が咎めない」という万引きの「心理」言説に従えば、比較的小額な商品の窃盗という万引きの問題を考えた場合、それを買えるような人たち(中流層と便宜的に表記します)は、それを買うことにさえ苦労する人たち(貧困層と便宜的に表記します)より万引きをする傾向が強いという一面的な論理しか導かれないように思いますが、私としてはそれはちょっと表層的すぎる見方ではないかと思います。


じゃが、実際  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2004年09月01日 0時02分

>「運転している本人が事故に遭うリスクもあるけど、本人が加害者になってしまうケースだってあるだろ? 誰かを怪我させたり死なせたりして、高校生に償いようがあるのか?」
>「保険に入っていればいいだろ」
形としては金でしか償えないんじゃよなぁ・・・
勿論、札束を放り投げて「これでいいんだろ」とかいうゴミ虫は論外じゃけど・・・

わしは、自分でメンテナンス、保険一切のコストを自分で負担出来るのであれば高校生じゃろうがなんじゃろうがバイクに乗ってもいいとは思うがな・・・
※原付は兎も角、自動二輪は高校生には経済的に不可能じゃろうな


金さえ……  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年08月31日23時25分

>捕まった万引き犯がしばしば口にする、「うるせえなあ、金さえ払えばいいんだろ!」と言った発言

 これに類する発言を聞いた事を思い出しました。
 高校生のバイク通学の是非について友人と話していたときに、私は否定派、友人は肯定派というというスタンスで話が進んでいました。
 そこで、こんな会話に進展。
「運転している本人が事故に遭うリスクもあるけど、本人が加害者になってしまうケースだってあるだろ? 誰かを怪我させたり死なせたりして、高校生に償いようがあるのか?」
「保険に入っていればいいだろ」

 私の視点はあるいは過保護(高校生が交通事故の加害者になって自分自身も心の傷を負うことからの保護、という意味です)なのかもしれませんが、友人のあっさりした態度には正直ついていけなかったり。
 こいつも今は人の親なんだけど、自分の子供が高校生のバイクに轢かれて怪我をしたときに「金さえ払えばいいんだろ」と言われたらどう思うんだろう……(遠い目)

 脱線してしまいましたかね。いつものことですが(苦笑)


はーい  投稿者:wadja 投稿日: 2004年08月31日23時04分

当のヘルメス☆さんはまだ仕事中だろうし、だれに質問された訳では無いけれど、勝手に解釈しちゃいます。私も谷庵さんと似たようなことを考えましたけど、1)の部分はすっぽり抜け落ちてて、

金さえ出せば買える->金を出せば人を傷つけなくても手に入れることができる->人を傷つけることも無いのなら、取り返しのつかない大罪ではない->なんとなれば、金さえ出せば簡単に罪の償いができる

と言った万引き者の論理を説明したものでは無いでしょうか。捕まった万引き犯がしばしば口にする、「うるせえなあ、金さえ払えばいいんだろ!」と言った発言は、こう言った社会から許容されない論理から来ており、ヘルメス☆さんの発言は、これを一文に凝縮したものだったのではないでしょうか、なんてね。


Re:何でも金で買える世の中  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年08月31日22時49分

ななさんの文面を見るとヘルメス☆さんへの質問のような気もするけれど、質問内容を見ると私への質問のようにも見えます。
とりあえず私からもレスしておきます。

私が今までに聞いた言い訳から考えますと
1)自分が手に入れることの出来ない物を盗むのは、物欲しさからするので犯罪。
2)ポケットから金を出せば買える物を盗むのは、本当に欲しければ買えばいいのだから、物欲しさからではないのでゲーム。

これは感覚なのでしょうから、論理的には説明できないんじゃないかと思います。
私自身、賛成はしないけど理解は出来ます。(自分への言い訳にはなっているのだろうと言う意味で)


現象の背後に何を感ずるか  投稿者:流木 投稿日: 2004年08月31日22時03分

*シンさん(RE聖書の自然科学的解釈 投稿者:シン  投稿日: 8月31日(火)00時08分41秒)

 こんにちは。

>><出来事の裏に神を感じるか感じないかは人の勝手>自然科学を勉強してその裏に神を感じるのも感じないのも勝手、です。

 そうですね。同じ現象を見聞きしても、そこから何を感ずるかは千差万別でしょうから。それは感性の問題です。どれが正しいとか間違いとかいう問題ではありません。他人に説明することも困難ですし、他人の感じたことを再現して追体験することもできません。

 非キリスト者の勝手な想像として述べさせていただくと、(キリスト教に限らず)信仰というのは、むしろ感性の問題に近いのかなと思います。少なくとも、学問ではありませんし、科学とは正反対でしょう。

 私の親しい友人は創価学会の信者です。彼は、学会員には珍しく(?)他人にむやみに入信を勧めない人間なのですが、やはり地区というか支部でのつきあいみたいなものがあって、学会員さんの集会に一度つき合わされたことがあります。そのとき、ある方が「大学の先生で信心した人がいる」という話をされました。どういう文脈だったのか忘れてしまったのですが、その先生は「『先生は今この部屋の天井が崩れてくるとは思っていないでしょう?』といわれて、『ああ、なるほど』といって信心を決意した」そうなのですが、私には全く意味不明でした。おそらく、その先生には何か心に迫るものがあったのだと思いますが、私の心には何も迫っては来ませんでした。「信ずる」とか「信用」ということについての話だったような気もするのですが、詳しくは覚えていません。まぁ、私に話してくれた人にとっては共感できる話だったのかも知れませんが、私には何のことやら…。

 一方、「最近、台風が日本に来ないのは信心のおかげ」というお婆さんのお話はよく分かりました。次の週末には台風が日本列島を直撃したんですけどね。


Re:何でも金で買える世の中  投稿者:なな 投稿日: 2004年08月31日21時55分

ヘルメス☆さんの元発言は「そりゃ、こんだけ物が溢れかえって、金で買えるって考えてりゃ、万引きする事がたいした事だと思わないだろう」というものでしたが、この発言が以下の谷庵さんの解釈どおりだと仮定した上でちょっとお尋ねします。

> 買う気なら買えるような物を盗むのは気が咎めないと言うことではないでしょうか。

「買う気なら買える」ということが、どうして「盗むのは気が咎めない」に繋がるのか、よく分かりません。
どうしてそのようにストレートに結び付けられるのか、もう少し論理的、具体的にご説明いただけますか。


何でも金で買える世の中  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年08月31日18時23分

横レス失礼します。
ヘルメス☆さんは違った考えをお持ちかもしれませんが、前回の時に思ったことを書かせてください。

>「何でも金で買える」ことがなぜ「万引き」につながるのかの謎解きをお願いします。

「何でも金で買える世の中」というのは慣用句のようなもので、実際の意味は「多くの人が金を出せるようになった世の中」ではないかと思います。
とうてい買えないような物を盗むのは気が咎めるけど、買う気なら買えるような物を盗むのは気が咎めないと言うことではないでしょうか。
もちろん、それで良いとは思いませんが。


雑感  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年08月31日18時04分

香椎浜のイオンジャスコの未来屋書店で今日見つけためぼしい本 

自己催眠法のすすめ 平井富雄
なぜ人を殺してはいけないのか? 永井均、小泉義之
信じるということ スラヴォイ・ジジェク
死後の世界を知ると、人生は深く癒される マイケルニュートン これは総合図書館のサイトで蔵書検索して見つけた本

映画Loversの感想 
CGとワイヤーアクションと中国武術アクションとお色気満載のエンターティメントに仕上がっていた。お色気満載といってもハリウッドほど過激じゃないが、あまりおすすめできない。小学生の男の子を連れて来た人もいたが、男の子に見せられる代物じゃない。


ガードナーの新刊  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年08月31日16時17分

 書店に行ったら「あの」マーティン・ガードナー氏の新しい本が。
 ありゃりゃ、こんな本が出ていたなんて知らなかったですよ(^_^;

「インチキ科学の解説法 ついつい信じてしまうトンデモ学説」

 まだ買ったばかりで冒頭の部分しか読んでいないのですが、いつものガードナー節って感じですかね(笑)
 ちなみに、進化論と創造論についても2章があてられています。

 日本語版の訳者は太田次郎氏。
 原著では28章あるのですが、翻訳に際して21章に減らされているのが残念なところ。せめて原著での章の一覧だけでも載せてほしかったところ。


大文字ナンさん  投稿者:シン 投稿日: 2004年08月31日 8時56分

おはようございます

>私としては、どこかで何かを「信じて」しまうと、そこから理解が進まないことを経験したので、理解は一時的・暫定的なものに留める癖があります。この癖が「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは分かりません。ただ少なくとも「間違ってはいない」ことは自覚しています。

> ここでナニが言いたいのか、というと、ただ「私はこうしています」と述べたかっただけなのです。それでは。

つぶやきといってますがアドバイスとして受けます。おそらく私の心配してくれているのですね。ありがとうございました。
私もそれはわかります。長い間そうしてきたからです。疑いながら読んできました。思考を止めることは私も嫌です。宗教家からはそれを感じることが多くてうんざりでした。ただ、それは聖書にも書いてありました。パウロはある箇所で、こんな感じの事をいってます。

<掴んだとは思っていない。悟ったわけでもない。私はただ目標点に向かい懸命に走っているだけです。>

わかったつもりでいることの危険性は大きいです。宗教者から受けるそれは一部の人に対し嫌な気分を与えます。

なぜ信じるようになったのかという私自身の分析をしてみると、宗教家(主にクリスチャン)から感じるものと聖書に書いてある教えのギャップが激しくて宗教家のしてる、おかしいなと思えることは、聖書のフィルターからでもおかしい、と思ったからかな。という側面が大きかった、と思ってます。

ただ私は信じるという仮定をして読んでみても思考は止めることにはならないと思っています。疑って読んで得られるものもあるし、信じて得るものもあると考えています。これに関しては両方やってみたつもりです。

私が創造科学者の説明をしてもよい、といったのはなぜ信じるようになったのか、という心の分析ではなく、信じるに至った材料の分析について、です。その意味でもやはり聖書が必要かな?と思っただけです。物事を調べて神を感じるか感じないかはその人の勝手、です。ただし人にそれを強制するのは勝手じゃありません。

こんなところでしょうか、その材料の分析をしよう、ということになったときは協力させていただきます。引き続きよろしくお願いします。


恐竜>たまごさん  投稿者:JA50 投稿日: 2004年08月31日 8時54分

>「恐竜土偶は恐竜を模ったものだ。」とか、「西洋の物語に出てくる竜は実は恐竜のことだったりして。」とか、言う時の「恐竜」でしょう?

「恐竜土偶は恐竜を模ったものだ。」とか、「西洋の物語に出てくる竜は実は恐竜のことだったりして。」とかシンさんは主張したいわけなんでしょうか?

もしそうなら意味不明なのも当然で、言われるとおり意味不明じゃないことになるが、、、(^^)


ヘルメス☆さんへ  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年08月31日 8時13分

そろそろ復活される頃でしょうか。
繰り返し質問しますが、
「何でも金で買える」ことがなぜ「万引き」につながるのかの謎解きをお願いします。


教理と信仰  投稿者:流木 投稿日: 2004年08月31日 7時47分

 以下、最近考えていることを少しばかり述べさせていただきます。

 キリスト教に限らず、何かの信仰をお持ちの方(「持つ」のではなく、神様から「与えられる」のだそうですが)は、その宗教の経典(キリスト教でいえば、聖書)を読んで、その理屈に納得したから信じるようになったというのではないと思います。

 むしろ、先に信仰を持って、その立場から経典を読めば受け容れられるということではないかなと思うのです。「たとえどんなに膨大な知識を持っていたとしても、キリスト教の外野からその核心に迫ることはできない」とか「キリスト教を理解しようと思えば、あなたもクリスチャンになるしかない」とかいうキリスト者のご発言は、見方によっては高慢とも映りますが、経典を読んで教理をいくら学んでもそこで得られるものは信仰ではないという点ではその通りなのだなと思います。

 宗教改革以前は、ヨーロッパの民衆は自分で聖書を読めませんでした。文字を読み書きできる人々が少なかったことに加えて、聖書はラテン語で書かれ、教会での説教もラテン語でした。ちょうど、今の日本で仏式の葬儀の際にお坊さんが読経するのと同じです。元はサンスクリットの経典を中国語訳して、日本語読みしているわけですから、聞いていても意味は分かりません。しかし、じゃあ、ヨーロッパの民衆はキリスト教と無縁だったかといえばそうではありません。皆、神様を信じていました。もちろん、教理に詳しい聖職者から見れば、民間の自然信仰とゴチャ混ぜになった部分もあったでしょうが、信仰を持っていたことは否定できません。

 ですから、教理の面で不合理なところを指摘しても、信仰をお持ちの方にとっては本来痛くも痒くもないはずなのです。三位一体なんて、普通に考えたら意味不明な教理なわけですが、そこを批判しても無意味なのです。教理に納得して信仰を持ったのではなく、何か個人的な体験を通じて真理であるとの確信に至られたのだと思うのです。それは、おそらく言葉で他者に伝えることはできないでしょう。科学の再現可能性とは全く対極の立場といえます。


Re:「つぶやき」  投稿者:なな 投稿日: 2004年08月31日 3時48分

「つぶやき」にレスするのもちょっと可笑しいですけれど、以下も「つぶやき」、モノローグだと思って聞いてください^^;

> 私としては、どこかで何かを「信じて」しまうと、そこから理解が進まないことを経験したので、理解は一時的・暫定的なものに留める癖があります。この癖が「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは分かりません。ただ少なくとも「間違ってはいない」ことは自覚しています。

私なんかどこかで何かを「信じて」しまうと、そこで理解が「完結」してしまうことを経験しました^^;

でも、当然自分も含めて人間って「信じやすい」動物なんだなとはつくづく思います。それが人間の良さでもあり、必要なことでもあると思うのですが、そこで肝心なことは「信じやすい」ということを自覚すること、自己認知するということなんでしょうね。

「信じやすい」と言えば、↓などはそのことについて理解を深めさせてくれますね。

『人間この信じやすきもの』T・ギロビッチ著


シンさんへ  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年08月31日 1時52分

>議論になるのは嫌なので出来る限り簡単に答えてみます。

 お答えいただきありがとうございます。
 私が述べたかった真意は、すでに流木さんが簡潔に記されています。そして、現在のシンさんのスタンスも(ようやく)掴むことができました。

 以下、議論というものではありません。雑談のひとつ、一方的な「つぶやき」としてお読みください。
 たとえば生物学、たとえば物理学、なんでもいいのですがとにかく本を読むとします。私は科学について専門家ではありませんから、読むのは大変です。時には、日本語で書かれているのに、その単語の意味するところさえ分からないことがあります。しかし、せっかく読んだのに分からないのは「気に食わない」ので、分からなければ調べたり、人に聞いたりしてなんとか読み進めます。しかし、それでも納得がいかないこともあります。

 一冊の本で納得がいかないときは、同じ分野の別の本を読みます。すると、また違う見解や違う説明、あるいは対立する主張に出くわすこともあります。その繰り返しをしていると、いつまでも分からないことも多々出てきます。私としては、どこかで何かを「信じて」しまうと、そこから理解が進まないことを経験したので、理解は一時的・暫定的なものに留める癖があります。この癖が「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは分かりません。ただ少なくとも「間違ってはいない」ことは自覚しています。

 ここでナニが言いたいのか、というと、ただ「私はこうしています」と述べたかっただけなのです。それでは。


RE聖書の自然科学的解釈  投稿者:シン 投稿日: 2004年08月31日 0時08分

流木さん お久しぶりです。

あなたの言われることはごもっともです。ただ人はそんなに物分りの良い生き物ではありません。割り切るまでにもプロセスが必要です。今はそれをさせてもらっているところです。

私はとりあえず検証不可のものには触れません。よって、あなたと同じ立場です。あなたがどこかで書かれていたことです。<出来事の裏に神を感じるか感じないかは人の勝手>自然科学を勉強してその裏に神を感じるのも感じないのも勝手、です。

あなたのご意見は実に参考になります。これからもよろしくお願いします。


RE敢えて   投稿者:シン 投稿日: 2004年08月30日23時54分

大文字ナンさん こんばんは

答えるべきですか、、、。議論になるのは嫌なので出来る限り簡単に答えてみます。
まず一言で、こちらも「敢えて」答えるなら、あなたのいうとおり「荒唐無稽な話」だから信じている、といえます。最近は流木さんの言う、科学で神がわかったら神ではない。との意見にその通りだな、と歓心したものです。理性や知性、研究によって完全に理解できないから面白い、といったとこでしょうか。

あなたの理論の揚げ足をとる形になってしまいますが、予想でき、検証できる当たり前のことが書いてあり、自然科学的な意味でも多くの知識人が理解出来るものなら<神>という概念の底が浅く感じられます。人に完全に理解できたら神ではない、と思います。

当然、私も学校の成績とかは良かった方だったし、ずっと、あなたと同じように考えていました。それなのに今は、なぜ信じちゃっているのか、これ以上はやはり聖書から説明しないと無理です。創造科学者といわれる人たちも狂信的に見えるかもしれませんが、それなりの根拠があるんですよ。彼ら程でないにしろそんな面も私にはありました。だからここではその教訓を生かしているのです。

とりあえずは私の根拠は聖書の文章の流れ、から信じている、としかいえません。私は、とりあえずは創造論者がなぜ信じているのか、という説明をすることは出来ます。良かったら少しずつでも説明しますが、私は自然科学について知らないことが多すぎました。出来ればもう少し待って欲しいというのが正直な気持ちです。

結局のところ、最初は人のことより自分のこと。聖書に<盲人に盲人の手引きは出来ない>というこれまた当たり前のことが書いてあります。まず自分の目を見えるようにしたかっただけのことです。その結果クハ72さんのようになるかもしれません。


聖書の自然科学的解釈  投稿者:流木 投稿日: 2004年08月30日23時39分

*シンさん(マルチレス 投稿者:シン  投稿日: 8月30日(月)22時08分9秒)

 こんにちは。

 私のサイトを覗いてメールというか抗議文を送ってこられるキリスト者さんたちは、どうも聖書を自然科学の学術書か何かのように捉えて、「創造説か進化論か」といった発想をされているように思えます。

 しかし、聖書を自然科学の書物のように捉えることに意味があるのでしょうか?ご存じのように、科学上の定説というものは、論理と事実とに照らして覆るものです。従来の定説ではどうやっても説明のつかない発見があるなどすれば、修正されていくのが科学です。聖書が神様の「永遠の真理」を説いているというのなら、それを「論理と事実とに照らしていつでも覆り得る」ものと位置付けることは、果たして妥当なのでしょうか?

 旧約聖書の創世記に限らず、聖書に描かれる奇跡にしても、自然科学的には説明不能というより、不可能だと明らかなこともありますね。聖書の記者たちも、彼らの常識ではあり得ない事態だからこそ奇跡として描いたわけですから、それを自然科学的に説明のつく平凡な現象に解消することに意味はありません。

 水の上を歩くことが(条件はどうであれ)誰にでもできれば、それは奇跡ではありません。死者を蘇らせることが誰にでもできれば、それも奇跡ではありません。聖書の特殊創造説を「科学だ」と主張することは、キリスト教信仰をかえって損なうのではありませんか?


敢えて  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年08月30日22時41分

>しかし私は残念ながら聖書を信じちゃっているのです。

 ふ〜む…すごく単純な興味です。シンさんだから敢えて聞きます。
 「なぜ、聖書の荒唐無稽な話を信じられるのですか?」
 空想上の話、フィクションとして面白い、とは思います。しかし私は幼い頃から、聖書の「一字一句を」(自然科学的な意味で)信じられる話と思えませんでした。

 


心の境界はダブスタで  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年08月30日22時32分

>「戦後、私たちは物質的に豊かになった反面、大切な『心』を失った。それが学級崩壊につながっている」

 昔は良かった、最近の若者は、俺も若い頃には…こぉいうのはみんなダブスタでしょうな。「戦後」という社会を担ってきたのは、まさに今の政治家世代の面々。それを忘れてまるで「若いヤツら」が別の生き物であるかのように「心がない」とか言ってる。
 一方、若いヤツら(笑)は、じーさまたちのしてきたことをロクに知りもしないで老醜だけを蔑視する。要するに、どっちもどっち。そして、こんな連中にまだまだ席は譲れん、と利権に固執する大義名分を得るのでしょうか…ね。

 「どっちの心がないか合戦」とか、見たい気もするなぁ。


 投稿者:シン 投稿日: 2004年08月30日22時19分

temaさん 本の紹介のお礼書くの忘れました「さらば愛しき鉤爪」ですね。是非読んでみます。実はパソコン初心者でアマゾンとかでまだ買い物したことないんですよ。私事ですが。

たまごちゃん(^-^)ノさん
わかりやすいフォローありがとうございました。お世話になってます。


>心のノート  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2004年08月30日22時09分

うーーん

わしが生徒だったら
「校則厳しくしてもいい、丸刈りでもなんでもするから心の中だけには入ってくるな」
って言うかもな・・・


マルチレス  投稿者:シン 投稿日: 2004年08月30日22時08分

みなさん こんばんは まとめてレスします

まずPDXさん、ありがとうございます。
まず堆積岩について、ですね。じつは地層の形成などはネットで検索してみたのですが、ヒット数が少ない上、難しすぎなのと、テキスト量が多くて放棄してしまいました。これについては本でも探そうと保留にしていた、といったところです。まだ化石に突っ込むのは待ちましょう。それでは、またよろしくお願いします。


temaさん こちらこそ多分はじめまして、ですね
コモドオオトカゲ話には聞いていましたが、写真は初めてです。サイトの紹介ありがとうございました。けれど発見当初には大きさについて誇大報告がされていたようですね。本当に6メートルぐらいの大きさなら絶対見に行くのに、、、。ちょいとさびしいです。


Kosukeさん はじめまして 
>たまたま発見された化石から情報を読み取ることはできても、化石が有るか無いかという事だけから、生物の生態や進化の過程を推論する事はあまり意味のないことだと思いますね

ですが、
確かにあなたのいうとおり意味がないです。ただし、それは私が進化論の立場ならです。しかし私は残念ながら聖書を信じちゃっているのです。そして聖書から私自身、強く受けてしまったものがあって、それを自然科学や進化論を学ぶことを通して、何かしらのけりをつけたくて質問していました。だから私には意味ある疑問なのです。くだらない質問、疑問も多いかもしれませんが、それは私自身、承知の上です。
出来ればよろしく付き合ってください。

過去ログでは多くの創造論者がひどい目に会ってますが、それをクリスチャンが争いの種をまいているように見えて嫌でした。聖書に<平和をつくる者は幸いです。>という当たり前の言葉があります。あなたに好感を持ってもらえている、というのなら、励みになります。
ありがとうございました。


メディア・情報リテラシー&Re:心のノート  投稿者:なな 投稿日: 2004年08月30日21時30分

メディア・情報リテラシーに関する私の投稿の真意を理解いただけなかったヘルメス☆さんのレスは誤解にもとづくものなのか、意図的なものなのかよく分かりませんでしたが、「世間一般の人間はマスコミを簡単に信じ込む」と嘆いてみせる割には、ご自身の「他者から発せられる言説や情報を適確かつ多角的に読み解き、もってコミュニケーション能力を高める」という情報リテラシーについてはどうなのか、ということに疑問を感じたことは申し上げておきます。

ところでメディア・情報リテラシーを語るということでいえば、NATROMさんが精力的にアップされている一連のトピックス記事は絶好な見本、実践ではないかと思います。


> 地下に眠るMさん (Re:心のノート)

> 批判力のある市民が大勢いることこそ、その社会の活力を保障するものである

全くそのとおりですね。
「心のノート」の問題については、その作成に指導的に関わり「教育国民会議」の委員にもなっていたユング学者の河合隼雄、そして曽野綾子らの名前が浮かんできます。両氏は国政に審議委員として関わる言論人としてメディアへの登場機会も多いのわけで、彼らの言説に対しては情報リテラシーの視点をもって注視する必要があると感じています。

> 「戦後、私たちは物質的に豊かになった反面、大切な『心』を失った。それが学級崩壊につながっている」
(地下に眠るMさんが紹介されたWeb記事にあった亀井郁夫参議院議員の質問趣旨より)

「『心』を失った」などと簡単に言い切ってしまうことには唖然とさせられますね。
戦後、青少年が「心」を失ったとか、「心」の質が変遷した、などという言説には私はかなり懐疑的です。

これに関しては、先に紹介した(3) 少年犯罪は凶悪化しているかの中で奥平康照氏が「少年の凶悪犯罪が『経済的抑圧型』から『文化的抑圧型』に転化してきている」との論が展開されていますが、そういった論旨が「少年は『心』を失った、「心」が変った」という亀井参議院議員のような言説に不当に援用されることを懸念します。


Re:恐竜?  投稿者:たまごちゃん(^-^)ノ 投稿日: 2004年08月30日21時10分

JA50さんこんにちは。横レス失礼。

>意味不明になってきたなぁ、、、

別に意味不明じゃないと思いますよ。
「恐竜土偶は恐竜を模ったものだ。」とか、「西洋の物語に出てくる竜は実は恐竜のことだったりして。」とか、言う時の「恐竜」でしょう?文字通り恐い竜。
学術的な恐竜の定義とは一致しないけど、恐竜土偶の話から発展したものだから別にそれでよいのですよ。
(子供向けの恐竜の本にプテラノドンやプレシオサウルスが載っていたりするのも同じ感じかな?)


化石って  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年08月30日20時30分

そもそも、化石ができるというのは非常な偶然と幸運が重ならないと起こらない事だと思います。

たまたま発見された化石から情報を読み取ることはできても、化石が有るか無いかという事だけから、生物の生態や進化の過程を推論する事はあまり意味のないことだと思いますね。

もちろん、想像(×創造)の楽しさを否定はいたしません。
こんなことを申し上げてはおこがましいですが、シンさんの書き込みは大変バランスが取れていて好感が持てます。


恐竜のフィクション  投稿者:tema 投稿日: 2004年08月30日20時17分

 シンさん、こんにちは。多分、はじめまして。

> そしてそこから導きたいのは恐竜のいくらかは人類が発生する頃まで生きていた、という空想を許容できるかできないか、ということです。
> それが完全否定できなければ、結構面白そうなフィクションを本気で書けるな、とか考えています。引き続きよろしくお願いします。

 コモドオオトカゲなどは、かなり強そうです。恐竜というには、一般的すぎるでしょうか?
http://big_game.at.infoseek.co.jp/monitor/komodo.html

 なお、自然科学的にどうか、という事と、フィクションとして面白いかどうか、は別物と思います。temaは、片足をトンデモに踏み込んだくらいのフィクションが好きです。
 ちなみに、恐竜が今も生きているという設定のフィクションでは、これ↓がお勧めです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789717690/qid=1093863753/sr=1-14/ref=sr_1_2_14/250-5638491-6869854


化石より先に岩石は?  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年08月30日18時21分

To シンさん

>化石と半化石

 これについては、死体のおかれた状況や周囲の環境、分解者がどの程度いるのか、そもそも死体が動物質なのか植物質なのか、動物質でも骨や歯、殻のような硬い部分なのかそれとも軟組織なのか……等々、パラメータがたくさんありすぎて一般化は難しいのではと思います。陸上なのか水中なのかというのも重大ですね。

 圧力は、化石とは無関係に堆積した土砂が岩石になるために重要なファクターかと思います。圧力が高いほうが、より固められやすいでしょうから。
 それでも、圧力をどんどんかければ短時間で岩石になるかというとそうではないと思います。数百年とか数千年前の遺跡なんてのは、たいてい岩石ではなくて土の地層から出土していますし。
 もちろん、これらのような例を「浅いところにあったために圧力が足りなかったのだ」と主張はできるでしょうけど。
 化石云々は抜きにして、堆積岩ができるためにどの程度の時間・圧力がかかるのかをまず調べてみてはいかがでしょうかね? 普通化石は岩石の中にあるものですから、これは重要な点ではないかと思われます。


RE半化石、とか   投稿者:シン 投稿日: 2004年08月30日17時48分

PDXさん こんにちは
こちらの意図をよく理解してくださっていてありがとうございます。
色んなことを親切で教えてもらうばかりで本当にみなさんには感謝しています。

ところで段々(私にとっての)本題に入れそうな気がしてきました。

数年前、世界不思議発見で恐竜の話を紹介していたとき化石の作り方というのを見ました。女子アナの人がCG上の湖か海の底に横になり、水の中でたくさんの土砂に埋まり、細菌バクテリアなどから保護し腐敗を防ぎ圧力をかけ化学変化を起こします。数ヶ月、、、これであなたも化石になれます(女子アナが灰色になってました)! という感じの内容でした。

実際のところどうなんでしょうか。私は半化石については時間よりは圧力が足りなかった。と考えています(立場上)。上の方の地層に半化石は存在していて化石になるための圧力が不足だったのではないのでしょうか(詳しくはわかりませんが)。

もしそうであれば
化石になるためには、1どんな環境、2どれぐらいの圧力、3どれぐらいの時間、が必要なのでしょうか。圧力がなければ時間があっても化石化しないと思うし、環境が備わってなければ圧力があっても腐敗するだけだと思うし。

時間以外は実験可能ですが、壮大すぎて出来るのだろうか。鉱物変成などは出来るみたいですが、生き物となると、、、。私は上の仮説を支持していますが、何か修正すべき箇所がありましたら、ご教授お願いします。

最低でもこれぐらいは必要だな、という色んな見解が出ればみなさんの自然科学の理解の助けになると思います。しばらくは経過を見てみるつもりです。

よろしくお願いします。


心のノート  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年08月30日16時56分

メディアリテラシーネタちゅうことで

「心のノート」とやらを文部科学省が配付し、その「副読本」を使った道徳授業を実質的に強制しているみたいにゃんな。
ちらっと見たところでは、ウヨとかサヨとかいうよりも、トンデモやら馬鹿宗教にいかれちゃうようなガキを大量生産するための教材だとしか思えにゃー。

批判力のある市民が大勢いることこそ、その社会の活力を保障するものであるということが、馬鹿にはわからにゃーのだ。困ったことに。

http://www.kodomo-hou21.net/kokoro_note.html


半化石、とか  投稿者:PDX. 投稿日: 2004年08月30日16時53分

To シンさん

 中途半端に古いため、化石になりつつあるものは「半化石」と言われています。
 どこまで「半化石」で、どこからが「化石」なのかという明確な一線はないでしょうね。
 リニアに連続した変化の中に明確な境界線がないということで。

 半化石で検索したらHITしたページの1つ。
 http://www.ogasawaramura.com/Minamijima/Minamijima.html
 こちらの例では1,000〜2,000年というオーダーですね。

 琥珀は、植物の樹脂(ヤニ)が化石化したものですが、これにも「半化石」というべき Copal があるそうです。
 http://www.kuji.co.jp/amber/santi.html

>世間話

 まぁ真面目な話ばかりでは窮屈ですし(笑)
 私は以前から、アニメ・漫画ネタのヨタ話も振りまいてますしね(^_^;
 というかこの掲示板のヲタねた担当になりつつある悪寒…… orz


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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