進化論と創造論についての掲示板ログ219

2004年05月27日〜2004年06月02日
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この世は仮の世さんがまったくまちがいってわけでもない  投稿者:NORTONV世 投稿日: 2004年06月02日22時08分

TO:トトロ様

ま、基本的にはトトロ様の言うとおりなんですが…
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初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、在家の信者に対しては主として「生天」の教えが説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという教えである。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。この天の原語はいろいろあるが、いずれも単数形でのみ用いられている。すなわち、天は一つであって、[後代に現れたような]天の細かな内容規定や、階層的な区別はなかったのである。誰でも能力に応じて布施を行い、道徳的に善であれば、死後に天におもむくとされたのである。この天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。浄土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。
(中村元『仏教語大辞典』、979頁)
********************************************************************************
 但し、釈尊は、論争を禁じられました。仏教にはキリスト教と異なり“異端”という概念が存在しません。従って後代、さまざまな形の“仏教”が生まれました。
 上座部も、鎌倉仏教も、ハウスホーファーやルドルフ・ヘスを通じてナチスのオカルティズムに影響を与えたチベット密教(ハーケンクロイツが裏卍なのもこの辺に由来)も、そのチベット密教を丸抜きしたオウム真理教も、幸福の科学(こちらはキリスト教やら生長の家やら何やかや入っているみたいだけど)も全部仏教に含まれるとなれば(不愉快な人も多いでしょうが)“天国の存在を肯定する”“仏教”はあってもおかしくない事になります。ま、所詮仏説は「如是我聞」(私はこう聞いた)受け取った人の自己責任であり「銘々が自分で考えること」(ホントはそのときこそ科学の出番)ですしね

寧ろ、“梵我一如”などという釈尊の教えとは正反対のテレオロジー(猫様に教えてもらったけど確かに便利な言葉だなア)が後代“わし、仏教思想の中心だもんね”みたいなカオをしてふんぞり返っている事を考えれば、釈尊が在家向けの方便に使った生天思想の拡大解釈がまかり通るくらいは可愛いモンだと思います


トトロ様へ  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月02日21時02分

>上記の浄土真宗の例は天国も浄土も極楽も否定してただ、成仏を求めます。そこに天国も極楽浄土も必要ありません。

あなたのご紹介のサイトを直接みましたが、不来迎がなんなのか、あなたが何を言いたいのかさっぱりわかりません。で、自分で浄土真宗と不来迎の関係を調べてみると以下のサイトを見つけました。
http://amida.hongwan.net/monsi/tiba01/monto0401.html
以下はこのサイトからの引用です。
「来迎ということは、もっぱら念仏をとなえて往生を志す専修念仏者のいうことではなく、念仏に自力の行を加えて往生を願う諸行往生の考えから起こっている。臨終ということも、諸行往生の人についていうことである。というのは、命が終わろうとするときに、仏の来臨を請い、たすけをたのむということは、それまでに、ほんとうに仏の救いの本願がわかっておらないからである。真実の信心を得ていないからである。真実の信心を得た人は、浄土に往生することが確定しているから、命が終わろうとするときに、仏の来臨をのぞむ必要はない。信心が定まったとき、浄土への往生が決定するからである。
 親鸞聖人は以上のようにいって、来迎を否定し、不来迎、平生業成を説かれました。」
このサイトの説明を見る限りあなたが主張するように「浄土真宗の例は天国も浄土も極楽も否定してただ、成仏を求めます。そこに天国も極楽浄土も必要ありません。」という主張は間違いであるといえます。浄土真宗もちゃんと浄土を肯定しているし、浄土への往生を説いています。否定しているのは臨終の床で神様のお迎えを期待する信仰だけです。

>私は、私の主張が誤りかどうか、新興宗教に分類されていない仏教(真言宗、天台宗、日蓮宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)について教義を調べてみました。真言宗のように仏と合一することを目指すものや、禅宗のように悟りをひらくことを目的としたものなど多様ですが、一義に天国や浄土を教義にとりこんでいるものはありませんでした。

仏がどこに存在するかわかっていってんですか?仏は浄土にいるんです。つまり真言宗は浄土にいる仏と合一することを目的にしてるんです。禅宗は悟りを開くことを教義に据えていると言ってますが、悟りを開くとはどういうことかわかっててものを言ってるんですか?説明できるなら説明してください。「宗教は人々を天国に導くために説かれている」という私の主張は全ての宗教の究極的な目的は結局そこにあると言ってるんです。禅宗も日蓮宗も真言宗も浄土宗も浄土真宗も時宗も天台宗も法相宗も律宗も原始仏教も教義にそんな主張がなくても本質的な布教目的は人々を天国に導くことにあると言うことです。各宗教の教義を表面的にのみ調べるだけではそういうことはわかりませんがね・・・

>元々、仏教は、死後の安寧を保証するものではありません。生衆の悟りを開くものですので、天国の概念が無いのは当然なのです。ただ、そうすると、教えが難しすぎる(抽象過ぎる)ことになるため、方便として極楽浄土をもってきたりします。

私が紹介した「神々との対話」には長者が、托鉢に来た坊さんに布施したら天国に生まれることができた、と書いてあったはずです。あなたの考えは仏教の一面にとらわれているにすぎません。よってあなたの主張は間違っています。


>JA50様  投稿者:のづち 投稿日: 2004年06月02日18時06分

「布教の義務」も「地獄論による脅し」も「死後の幸福の約束」もそれぞれがミームであり、「宗教」という共適応したミーム複合体を作ります。
ただ「布教の義務」ミームは他のミームと違い、自分の複製を作る指示を自分自身の中に持っています。「コピー・ミー・コード」というやつで、これこそが宗教が一種のウィルスであると考えられる根拠になっています。
「地獄論による脅し」ミームや「死後の幸福の約束」ミームは「布教の義務」ミームと共に行動するので、「布教の義務」ミームが自分自身を複製する際に共に複製されます。
逆に「地獄論による脅し」ミームや「死後の幸福の約束」ミームはアメとムチによって「布教の義務」ミームが特定の脳に受け入れられ、複製される率を上昇させます。
お互いが助け合うことでそれぞれのミームの複製率を高めているわけです。


布教というミーム  投稿者:JA50 投稿日: 2004年06月02日11時35分

「地獄のような概念で人を脅迫する」のも「天国という餌で人を釣る」のも、「布教というミームを信者に植え付け」る手段の一つじゃないでしょうか。
その他、いろいろ、手を変え品を変え、、、(^^)


>宗教が生き残る条件  投稿者:通りすがり 投稿日: 2004年06月02日11時34分

いや、血族以外への布教をいっさいしないゾロアスター教もいまだに生き残ってるんですが。
信者の人数は少ないけど金持ち揃いらしい。

あと、ユダヤ教もあんまり布教熱心じゃなさそうな。

#まぁ宗教つーより民族文化だと言ってしまえばそれまでのような気もしますが。


この世は仮の世氏へ:ゴミ混入のお詫び  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年06月02日 8時50分

なんか、変な記述が混じっていました。
「信楽開発()の」は、私の操作ミスによるものです。
お詫びいたします。


この世は仮の世氏へ  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年06月02日 8時48分

> 岩波文庫版「神々との対話」p198には「資産者たる長者は、タガラシッキという独覚に托鉢の食物を与えたので、その行為の報いとして、七たび天の世界に生まれた。・・・」とあります。仏典の他の各所にも天国というのは出てきます。懐疑主義者のあなたはこれを無視しています。また説話にも極楽浄土が出てくるならそれは仏教として説かれたのだから仏教にも天国の存在はあるという証拠になります。懐疑主義者のあなたに宗教を勝手に講義する資格はありません。

浄土真宗のホームページ(ttp://www.shinrankai.or.jp/sinsyuu/qa0419.htm)に、不来迎(ふらいこう)について述べられています。

<此処から引用>
 来迎ということは、平生努めて念仏を称えている人が臨終になると、その人の枕元へ阿弥陀仏が観音・勢至の二菩薩を従えて現れ、極楽浄土へ連れていってくだされるということです。これを信ずることを、来迎を信ずるというのです。
 これに対して、不来迎というのは、そんなことが全然問題にならなくなるということです。
 来迎を信じている人たちは全くお気の毒な人たちです。臨終の来迎を当てにしなくては往生の確信、安心がもてないため、現在が不安で苦悩に満ちた生活を送っている人々だからです。浄土宗の人たちがよくすることですが、臨終に、阿弥陀仏の木像の手に糸を引っかけ、その糸の端を自分が握り締めて、いや応なしに極楽へ引っ張ってもらおうとする儀式さえあります。
 これは、平生に阿弥陀仏の明らかな救いを体験することのできなかった人たちの最後のもだえです。それは真実の阿弥陀仏の本願を教える善知識に会わなかったからでもあります。

<中略>

親鸞聖人が不来迎だとおっしゃったのは、平生の時、信楽開発()の一念に久遠の弥陀と名乗りを上げ、昿劫流転の魂の解決をハッキリさせていただき、苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じさせていただき、「念仏者は無碍の一道なり」「有漏の穢身はかわらねど、こころは浄土にあそぶなり」と何ものにも恐れず屈せず、何事にもうろたえぬたくましい正定聚不退転の身に救われて、死んでよし生きてよし、動くままが南無阿弥陀仏の大満足だもの臨終来迎などさらさら用事はないから、不来迎とおっしゃったのです。
<ここまで引用>

> あなたが勝手に思っているだけです。仏教者のなかにも天国の存在を肯定する人はいます。否定していては葬式仏教としての存在意義すらなくなるでしょう。

上記の浄土真宗の例は天国も浄土も極楽も否定してただ、成仏を求めます。そこに天国も極楽浄土も必要ありません。私は、私の主張が誤りかどうか、新興宗教に分類されていない仏教(真言宗、天台宗、日蓮宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)について教義を調べてみました。真言宗のように仏と合一することを目指すものや、禅宗のように悟りをひらくことを目的としたものなど多様ですが、一義に天国や浄土を教義にとりこんでいるものはありませんでした。これらの宗派にたいして詳しく書くことは可能ですが、この掲示板の目的とは大きく異なるでしょうから割愛させていただきます。

元々、仏教は、死後の安寧を保証するものではありません。生衆の悟りを開くものですので、天国の概念が無いのは当然なのです。ただ、そうすると、教えが難しすぎる(抽象過ぎる)ことになるため、方便として極楽浄土をもってきたりします。

ただ、私が「仏教は宗教ですが「天国」の概念はありません」と記したのは不適当でした。この文面では全ての仏教が対象となってしまいます。従いまして「現在、日本に存在する伝統的仏教宗派のほとんどに「天国」の概念はありません」と訂正させていただきます。しかし、松原氏も”宗教は〜”と述べているので、私の主張の趣旨は変りません。


宗教が生き残る条件  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年06月02日 7時08分

>布教というミームを信者に植え付けられたら、宗教として成功する。

これもあるでしょうし、確か「利己的な遺伝子」には、
「地獄のような概念で人を脅迫する要素のある宗教は生き残りやすい」
なんてことも書いてありましたねえ…


仏教の天国  投稿者:まうまう 投稿日: 2004年06月02日 1時18分

 キリスト教の天国と仏教の天や極楽は違うでしょ。
キリスト教の天国は人間の最終目標だけど、仏教の極楽は、極楽はいいとこだからこの世
にいるより悟りが開きやすいよ、って話じゃなかったっけ。
 でも幸福の科学の教義は全然知らないんで、とんちんかんなこと言ってるかもしれませ
んね。だったらごめんなさい。


悪さ?  投稿者:JA50 投稿日: 2004年06月02日 0時37分

性欲って悪ですか?
悪さと言ってしまうのは、どうかと。

夫婦げんかも合体で解消、、、(^^)


モノは考えよう  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年06月01日21時45分

私は、♂の性欲なんて所詮利己的な遺伝子の悪さじゃないかという考えに至り、気持ち的に大変救われました。

この世は仮の世さんは、ダーウィンの進化論が人間の尊厳を貶めると考えていらっしゃいますが、現実世界の仕組みを正しく知る事で、却って救われる事も少なからず有るんですよ。
それどころか、真実を知らない限り本当の心の平安なんて有り得ないんじゃないんでしょうか。


>布教  投稿者:JA50 投稿日: 2004年06月01日21時40分

「布教に強く執着」している宗教しか、生き残らない。
逆に言えば、生き残っている宗教は皆「布教に強く執着」しているもののみである。

布教というミームを信者に植え付けられたら、宗教として成功する。


自殺願望…  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日21時08分

ですか…だれもが一度くらい思う物でしょうがやはり乗り越えて生きて行くべきでしょう。生きる支えとして宗教の教えは大変素晴らしいと思います。宗旨・宗派を問わずに。

>特に自分で働いて得た金は遊ぶ金とか観光に使うのが凡人の姿だと思います。

それも個人のささやかな営みです。みな凡なのだからそれはそれで自分の身分をわきまえた範囲であればいいと考えています。その観光に素晴らしい出合いや発見が個人の人生を豊かにする可能性があるとおもいます。

>教会とか托鉢に来る坊さんに布施するというのはできますか?

残念ながら僕も凡のうちです。しかし自分の活動が社会に貢献し多くの人に価値のあるものになるよう努力することは上記の行いと同等もしくはそれ以上に価値のあることだと考えます。

>私は性欲で人生を大分振り回されました。

すこし意地悪な質問失礼しました、やはり人生はいろいろな欲望にとりまかれているということでしょう。上手に生きていくのは容易なことではないし、死ぬ程辛いこともあるでしょう。だからこそこの世は生きる価値があると確信しています。


この世は仮の世  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日20時36分

私が「この世は仮の世」と名乗ってるのは精神的苦痛を和らげる効果がこの言葉にあるからです。私は一時自殺願望にとりつかれてました。「自殺志願者の憩いの場」というサイトがあるんですが、このサイトにおじゃまするようになったのもそういう願望があったからです。HNをどうしようと考えてるとき別に本名でもいいやと思いましたが、みんな仮名で参加してるので私も仮名で参加することにしました。それ以来この名前を名乗っているんですが、この名前で活動してるとそういう自殺願望が薄れてきました。そういうことです。これは大川先生の教えの一つです。
PEPEさんは偉いですね。目標を持って頑張ってらっしゃる。武田幸三の試合に臨む心境は内村鑑三の「一日一生」という言葉に通じますね。この心境で生きれるだけでも非凡だと思います。
ユニセフ貯金はしてるそうで失礼しました。人間というのは自分のお金を人のために社会のために使うというのはなかなかできるものではないと思います。特に自分で働いて得た金は遊ぶ金とか観光に使うのが凡人の姿だと思います。教会とか托鉢に来る坊さんに布施するというのはできますか?

>この世は仮の世さまは快楽に固執しないんですか?子供を作る目的以外のセックスをしないのですか?ましてオナニーなんて論外ですよねぇ?

私は性欲で人生を大分振り回されました。


>実を>現実と訂正させて下さい  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日19時51分

タイトルの通り訂正させて下さい以後誤植のないようできる限り努力いたします。


仮の世ということです  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日19時49分

>実とうまく向き合える人とはどういう人のことを言いますか?

例えば武田幸三と言うファイターは試合前に遺書を書いてリングに臨みます。毎試合悔いのないようにこの試合が最後の闘いだと決意して闘うのです。
今日も試合だけど来月も試合があるからとりあえず今日の試合を一生懸命やろう!とリングに上がるファイターと武田ではどちらが人の心を揺さぶるでしょう?
答える必要もないですよね。
この世は仮で天上界にこそ本当の世界があると言うのはとちらのファイターでしょう?命は一度しかないから尊いのでは…?

>だったら明日からホームレスにお金を布施するなり、ユニセフの国際ボランティア貯金などされてはどうですか?できますか?
ユニセフ貯金はしてますよ(笑)、ホームレスの方とは関係ないでしょ。この社会で生きていくにはお金が必要です。私の夢をかなえるためには現実お金が必要です。お金は手段です、固執するというのはお金が目的であることだと思っていました。お金を大切にすることを固執だとすると私は固執しているかもしれませんね。

そんな極端な例をだされるとこちらも過敏に反応します。この世は仮の世さまは快楽に固執しないんですか?子供を作る目的以外のセックスをしないのですか?ましてオナニーなんて論外ですよねぇ?←不適切な書き込みならすいません。


現実と向き合ってます  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日18時39分

>こちらの世界はあなてには住みにくいでしょう、そうやって仮の世と現実逃避している限りは。

現実逃避などしてません。成功者になろうと目指してます。

>あとかってに人を金とか肩書とか快楽に固執していると思わないで下さい。

お金に執着してないんですか?だったら明日からホームレスにお金を布施するなり、ユニセフの国際ボランティア貯金などされてはどうですか?できますか?

>もっと自分は高いものを望んで現実と闘っているんですから。天国を夢見てしょげかえっていればいいんじゃないですか?この世は仮の世さんは現実とうまく向き合える人のことがうらやましいんじゃないでしょうか?

もっと高いものを目指して現実と戦うというのはいいことです。現実とうまく向き合える人とはどういう人のことを言いますか?

>この世は仮の世さんは愛するだれかはいますか?その愛するだれかから愛される喜びを知っていますか?もし知っているならその喜びも結構捨てがたいですよ。だれからも否定も避難もされるべき事ではないんですが…あなたが誰かから愛されていることねがいます。

私は今まで私によくしてくれた人たちに感謝しています。感謝をどう形にしようかといつも思っています。これが愛というものでしょう?私は愛されてきましたよ。


布教  投稿者:通りすがり 投稿日: 2004年06月01日18時38分

「成立過程で迫害や既存宗教との強い軋轢を経験した宗教は布教に強く執着する」
「成立過程で迫害や既存宗教との強い軋轢を経験していない宗教は布教への執着は薄い」
という仮説を唱えてみる。


御丁寧に  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日17時58分

感謝致します


神は愛なり   投稿者:斉藤正郎 投稿日: 2004年06月01日17時34分

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ヨハネによる第一の手紙4章9〜10節


避難は否なんで非難と訂正  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年06月01日17時32分

単なる変換ミスだと思いますが、繰り返されているので訂正させていただきます。>PEPE 殿


現実と向き合った方がいいですよ…  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日17時02分

>天国が我々の本来のすみかで、この世は仮の世にすぎません。この世の金とか肩書きとか快楽とかこの世的なものに執着していると天国に帰れなくなりますよ。

かまいませんあなたこそ早く天国に行けるといいですねぇ、こちらの世界はあなてには住みにくいでしょう、そうやって仮の世と現実逃避している限りは。
あとかってに人を金とか肩書とか快楽に固執していると思わないで下さい。もっと自分は高いものを望んで現実と闘っているんですから。天国を夢見てしょげかえっていればいいんじゃないですか?この世は仮の世さんは現実とうまく向き合える人のことがうらやましいんじゃないでしょうか?


>>宗教などなくても自分は幸せに家族を友人を愛することの喜びを知っています。

>キリストは言いました。「自分を愛してくれる者を愛したからとて何ほどのことがあろうか」と

この世は仮の世さんは愛するだれかはいますか?その愛するだれかから愛される喜びを知っていますか?もし知っているならその喜びも結構捨てがたいですよ。だれからも否定も避難もされるべき事ではないんですが…あなたが誰かから愛されていることねがいます。


(無題)  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日16時25分

また本名で投稿してしまった。以下の投稿はトトロ様宛です。


(無題)  投稿者:松原 俊 投稿日: 2004年06月01日16時24分

>仏教は宗教ですが「天国」の概念はありません。説話としての極楽浄土があるだけです。

岩波文庫版「神々との対話」p198には「資産者たる長者は、タガラシッキという独覚に托鉢の食物を与えたので、その行為の報いとして、七たび天の世界に生まれた。・・・」とあります。仏典の他の各所にも天国というのは出てきます。懐疑主義者のあなたはこれを無視しています。また説話にも極楽浄土が出てくるならそれは仏教として説かれたのだから仏教にも天国の存在はあるという証拠になります。懐疑主義者のあなたに宗教を勝手に講義する資格はありません。

>最も、幸福の科学には、天国に近い物があるようですが、あれなどは古来より在る仏教宗派からみれば眉をしかめたくなるようなシロモノでしょう。

あなたが勝手に思っているだけです。仏教者のなかにも天国の存在を肯定する人はいます。否定していては葬式仏教としての存在意義すらなくなるでしょう。


(無題)  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日16時04分

信仰を持っているものが成功することは天上界においても是認されます。成功することによって社会的影響力を持って社会をユートピアにできるからです。私はそういう意味での成功者になりたいといつも思います。


必要です。自己矛盾  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年06月01日15時57分

”生きている間も成功者として生きていきたい”
”この世の金とか肩書きとか快楽とかこの世的なものに執着していると天国に帰れなくなりますよ”

ヲイヲイ自己矛盾していないかい?


必要ありません  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年06月01日15時55分

> 宗教というのは人々が天国に帰れるように説かれているんです。宗教が広まらなくては世界中の人は天国にスムーズに帰れません。

この世は仮の世氏の勝手な思い込みです。仏教は宗教ですが「天国」の概念はありません。説話としての極楽浄土があるだけです。最も、幸福の科学には、天国に近い物があるようですが、あれなどは古来より在る仏教宗派からみれば眉をしかめたくなるようなシロモノでしょう。


布教はやめれ  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年06月01日15時48分

天国なんて帰れなくても良いよ。


舌の根も乾かないうちに  投稿者:JA50 投稿日: 2004年06月01日15時47分

>生きている間も成功者として生きていきたいと熱望してます。

これって「この世の金とか肩書きとか快楽とかこの世的なものに執着している」ってことじゃないの?


必要です  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日15時38分

>宗教などなくても自分は幸せに家族を友人を愛することの喜びを知っています。

キリストは言いました。「自分を愛してくれる者を愛したからとて何ほどのことがあろうか」と

>天国でくらすために今は仮の世だといって現実から逃避することもしません。喜びも苦しみも受け入れて生きています。大切なのはあなたが仮の世といって軽んじている今、現在を大切にして生きることです。

私が「この世は仮の世」と名乗ってるのは逃避のためじゃありません。生きている間も成功者として生きていきたいと熱望してます。この世でも幸福になり、あの世でも幸福になりたいと思っています。

>天国に行くために生きているなんて寂しく無いですか?

天国が我々の本来のすみかで、この世は仮の世にすぎません。この世の金とか肩書きとか快楽とかこの世的なものに執着していると天国に帰れなくなりますよ。


必要ありません  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日15時18分

それこそよけいなお世話以外の何ものでもありません。

宗教などなくても自分は幸せに家族を友人を愛することの喜びを知っています。
天国でくらすために今は仮の世だといって現実から逃避することもしません。喜びも苦しみも受け入れて生きています。大切なのはあなたが仮の世といって軽んじている今、現在を大切にして生きることです。天国に行くために生きているなんて寂しく無いですか?


そうはいきません  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日14時53分

宗教というのは人々が天国に帰れるように説かれているんです。宗教が広まらなくては世界中の人は天国にスムーズに帰れません。


Let it be  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日14時43分

まったく同感です。


Let it be  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年06月01日13時53分

> よい宗教はその教えを奉ずる人々がその良さを一生懸命訴えないと広がらないんです。

いいよ、そんな無理して広めなくても。


布教について  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年06月01日13時46分

キリストも12使徒も教えを広げるために命をかけたし、人食い部族のいるところへわざわざ布教に行って命を落としたクリスチャンもいました。そういう命をかけた努力があってキリスト教は世界宗教になったんです。いいものは自然に広がるから何もしなくていいという考えは間違いです。よい宗教はその教えを奉ずる人々がその良さを一生懸命訴えないと広がらないんです。


よけいなお世話だ  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日11時06分

>愛をもって他者に呼び掛ける時、その他者は貴方に近づきます。
>是非心を込めてイエスキリストを貴方の救い主と告白してみて下さい。

下の書き込み間違えました失礼しました。
自分の宗教を他人におしつけないで頂きたい。結局ただ聖書を壊れたテープレコーダーのようにくりかえしているだけです。自分の意見もなくただ聖書(そのほかの教典)に書いてあることを盲目的に信じてそれを信じない人を不徳と避難する…最低です。

私は宗教などなくとも道徳的に誠意をもって自分と他人に向き合うことができます。
いちいち呼びかけなくとも真に価値の有るものなら何もいわず、人はひかれていくものです。


(無題)  投稿者:PEPE 投稿日: 2004年06月01日10時58分

愛をもって他者に呼び掛ける時、その他者は貴方に近づきます。
是非心を込めてイエスキリストを貴方の救い主と告白してみて下さい。


それは言われても困る・・・  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2004年06月01日 2時06分

> 愛をもって他者に呼び掛ける時、その他者は貴方に近づきます。
> 是非心を込めてイエスキリストを貴方の救い主と告白してみて下さい。

少なくとも宗教にトチ狂った馬鹿の集団に親友を殺された私には納得できない言葉です。
でもってそんな馬鹿者の行動を賞賛した馬鹿も大嫌い。

自分にとっての神は、少なくとも聖書だのコーランだのに書かれていることを押し付けるような存在じゃない。
無神論者ではなく、『神』という存在が「何故、“聖典”(聖書やコーランや、その他諸々の『神の教えを説いた書』とします)を与えたのか」という根本を大切にしたいから。
何故、そのような教えをするのか、それは神が教える唯一のものを示したいからでは?

それは、究極的には「人よ、幸せになりなさい。自分が幸せになれるように、人を幸せにしてあげなさい」というたった一つの根本に至るような気がします。
盗むな、姦淫するな、嘘をつくな、その他の戒律や制約は、当時の社会的な風俗、情勢を反映して、定められた「ルール」であり、「何故、神がそれを求めるのか」という根本は、それを行うことで発生するトラブル、問題、対立を避けなさい、という規範ではないでしょうか。

『神』は一片の紙に書かれた言葉を一字一句なぞらえるよりも、神が何を人に求めているのか、を考えて人が自ずからその倫理と道理を見出すことを望んでいるのでは、と考えます。

自分の生き方は、神に責任転嫁をするのではなく、様々な宗教や道徳を学んだ上で自分の倫理と道理で判断したいと考えています。
とはいっても神を絶対視する人たちは「自分の倫理で判断するなら、自分がしても良いことと判断する事全てを肯定できるではないか」という反論が来そうなので、先に一言。

「私はそこまで馬鹿ではないし、神に責任転嫁をして人を虐殺したような愚か者でもない」


愛?  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年05月31日21時11分

>愛をもって他者に呼び掛ける時、その他者は貴方に近づきます。
>是非心を込めてイエスキリストを貴方の救い主と告白してみて下さい。

宗教から受ける私のイメージは、愛と言うより憎悪なんだよなあ。
少なくとも、ここに書き込むガチガチの信者はそうだと思うぞ。


Re.宗教と科学について  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年05月31日 8時27分

はじめまして。仏教を信じる者様、私はトトロと申します。

さて、宗教(創造科学も含む)と科学(進化論も含む)について、私なりに論じてみようと思います。
まず、私なりの宗教と科学の関係について述べます。


> 仮に、真の宗教と真の科学があるとすれば、それは、相矛盾するものであってはならないはずです。

まず、この議論を始める前に”真の宗教”と”真の科学”についての定義が必要だと思いませんか?さもなければ”相矛盾するものであってはならない”という結論自体が成立するかどうか不明ですし。

> ある宗教と、ある科学があって、それが相矛盾するものであるなら、一方を修正するか、両方とも修正しなければなりません。

貴方の言う”ある科学”が、現在、我々技術者が一般的に使用している「科学」と同じ思想で構成されているものとすれば、「科学は無謬なもの」では有り得ません。科学体系を修正するのはあくまでも観測できる事象によってであり、宗教とは無権系です。
また、宗教は思想上の概念であり、宗教的事実は科学とは独立して成立すると私は考えます。従って、上記の貴方の主張には賛同できません。

> 確実な科学は、宗教を淘汰するとも言えるでしょう。

私は現在の科学は、実用する上で確実性の高いものであると考えています。現在の科学は人の生活に便宜を図ってきました。その結果、人の思想活動は活性化し、宗教(少なくともそう主張するもの)は増加しています。

> 確実な科学と矛盾する宗教はすべて、修正されるか、信じるに値しないということになるでしょう。
> その逆も然り。

現在の科学は宗教には縛られていません。そして信じるものでもありません。貴方の”確実な科学”とは一体、どういうものなのでしょうか?

> これが私の考える、宗教と科学の相対関係です。

現時点で貴方の考える相対関係は成立していません。この点についてどうお考えになりますか?

> 故に私は、科学崇拝や科学万能主義には反対だし、ただの人間が創り出した宗教を信仰しない。
> そういう私は、仏教を信じる者である。

おっしゃることに矛盾があるようですが・・・


愛はすべてを結ぶ帯である  投稿者:斉藤正郎 投稿日: 2004年05月31日 8時21分

愛をもって他者に呼び掛ける時、その他者は貴方に近づきます。
是非心を込めてイエスキリストを貴方の救い主と告白してみて下さい。


神は反証不能な領域に宿る  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年05月31日 3時37分

>私が宗教と科学はライバル関係にあるといったらそれは違うと批判されました。

 そう思う人がいてもおかしくないですが、(前にも書いたように)科学のおかげで、たとえば聖書の神様とかを、素直に信じられなくなってきてはいると思いますよ私は。
 大文字ナンさんが書いているように、個人的な信念や思想には反証のしようがないです。また、神様も、人類の科学技術で認識できないものならば、科学で不在証明を行うことはできないでしょう。
 でも、昔の人は(少なくともキリスト教徒は)、もちょっと単純でわかりやすい神様を信じてたんじゃないでしょうかね。そんな反証不能な領域に隠れ住むような神様ではなく、人と似た形をしていて、土をこねてアダムを作り、その肋骨からイブを作った神様を。
 聖書が「過去に起きた事実」について言及しているのだとすれば、それはたとえば進化論とは衝突します。両方正しいということは論理的にありえません。
# いや、パラレルワールドとか考えれば… でも、分岐するパラレルワールドはともかく、
# 収束するパラレルワールドってちょっとイメージしにくいなあ。

 進化論を信じているキリスト教徒はいるのでしょうが、そういう人は、聖書の記述を「まるごと」信じることは既にできなくなっているはずです。そこで何らかの折り合いをつける人もいるでしょうが、「やっぱり聖書はウソなんだ」と思う人もいるでしょう。その意味では、「宗教と科学はライバル関係にある」という命題は正しいと私は思います。科学のおかげで神様は(ほとんど)反証不能な領域まで追い込まれたわけで。
# 「ほとんど」と付けたのは、論理的に反証不能なことと、今の科学技術の範囲で
# 反証不能なことの区別が必要だと思ったからです。

 私自身はといえば、神様は反証不能な世界にいるんだから否定はできないけど、ことさらその存在を肯定する「必要がない」と思っています。そういう意味じゃ「無神論者」ですね。

 神様がいようがいまいが、私は別に割と楽しく生きてるし、反社会的な行動もしていない。ていうか、モラルの領域のことを神様に縛られるのは、私はまっぴらです。


真の宗教、真の科学?  投稿者:大文字ナン 投稿日: 2004年05月30日15時55分

 仏教を信じる者さん、はじめまして。
 
>もし、真の宗教があるとすれば、科学は、それと矛盾してはいけず、修正を余儀なくされます。

 上記について、主旨は分かりましたが、「なぜそのような相関になるのか」説明が一切ないので、このままでは「ただの宣言」で終わってしまいます。これに対して「私がそう信じるor思うからだ」というお答えでしたら、少なくともその考え方は「科学的ではない」ので、真の科学には到達できないでしょう。
 なぜ「科学的ではない」のか?それは個人的な信念や思想には、反証のしようがないからです。科学であるからには、証明もできるし、反証明もできる主張を行わなければなりません。


なんとなく  投稿者:ゆん 投稿日: 2004年05月30日14時24分

仏教を信じる者さん、ここにいる人はオリンピックの記録を絶対視していないようです。全てのオリンピックの記録は暫定的な結果にすぎないという立場をとっているそうです。実際オリンピックの記録の常識は今まで塗り替えられてきた。天上界を意識したことがなく、地上の人間だけの視点から見たらオリンピックの記録なんてのは人間が細々とやってる小さな営みにすぎないと考えてもおかしくない。でも私はオリンピックの記録というものは天上界があるから発展してこれたと考えています。決して地上の人間のみの小さな営みではない。オリンピックの記録の発展には天上界が力とインスピレーションを与えているんです。
私が宗教とオリンピックの記録はライバル関係にあるといったらそれは違うと批判されました。ならこう言い換えたいと思います。宗教とオリンピックの記録はテーゼとアンチテーゼの関係にあると・・・以上

# ちょっとした冗談ですよ、もちろん
# 気を悪くされたらごめんなさい>この世は仮の世さん


ちょっと休憩  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年05月30日13時59分

自伝めいたことを書いたらなんか一段落した感じだ。ちょっと休憩して議論を中断したい。
仏教を信じる者さん、ここにいる人は科学を絶対視していないようです。全ての科学理論は仮説にすぎないという立場をとっているそうです。実際科学の常識は今まで塗り替えられてきた。天上界を意識したことがなく、地上の人間だけの視点から見たら科学なんてのは人間が細々とやってる小さな営みにすぎないと考えてもおかしくない。でも私は科学というものは天上界があるから発展してこれたと考えています。決して地上の人間のみの小さな営みではない。科学の発展には天上界が力とインスピレーションを与えているんです。
私が宗教と科学はライバル関係にあるといったらそれは違うと批判されました。ならこう言い換えたいと思います。宗教と科学はテーゼとアンチテーゼの関係にあると・・・以上


>私的考察  投稿者:JA50 投稿日: 2004年05月30日11時55分

>仮に、真の宗教と真の科学があるとすれば、それは、相矛盾するものであってはならないはずです。

そもそも、真の宗教とか真の科学などというのがあるのか?
あったとして、それがなぜ相矛盾するものであってはいけないのか?
ここを固めておかないと、後の論理展開が、たとえ正しいとしても、そんなもの砂上の楼閣に過ぎない。

後、論理の飛躍(なんでそうなるの?、というやつ)が多々あるけど、一つだけ。
相矛盾する2つの体系があったとして、他方が一方を淘汰できるんですか?
一方が他方の何かの結論を間違っているとか正しいとか言えるのは、それらが矛盾しているものでないからこそ言えるんじゃないの。

>不完全性定理の要点は、人間の理性・知性に限界があることを証明した(もっとも厳密な数学の分野において)ところにあると思う。

これは逆だ。
不完全性定理は、人間の理性や知性でさえ限界がないんだということ証明したんです。


宗教と科学について 私的考察  投稿者:仏教を信じる者 投稿日: 2004年05月30日 8時45分

以前、HN「仏教を信じる者」で投稿し、これで2度目の投稿になります。
書き込みが、あまりにも多すぎて、以前の私の書き込みは、消えちゃいましたね。
全体の流れを把握してないので、この掲示板に書き込んでいいのか知りませんが、だめならば言ってください。

さて、宗教(創造科学も含む)と科学(進化論も含む)について、私なりに論じてみようと思います。
まず、私なりの宗教と科学の関係について述べます。
仮に、真の宗教と真の科学があるとすれば、それは、相矛盾するものであってはならないはずです。
ある宗教と、ある科学があって、それが相矛盾するものであるなら、一方を修正するか、両方とも修正しなければなりません。
真の科学・確実な科学があるとすれば、それは宗教をふるいにかけるものとなります。
真の宗教は、確実な科学と矛盾してはいけません。
確実な科学は、宗教を淘汰するとも言えるでしょう。
確実な科学と矛盾する宗教はすべて、修正されるか、信じるに値しないということになるでしょう。
その逆も然り。
もし、真の宗教があるとすれば、科学は、それと矛盾してはいけず、修正を余儀なくされます。
このように、真の宗教と真の科学は、相矛盾することがあってはならず、真の科学は、真の宗教に近づいて行くものであるはずで、真の科学に矛盾する宗教は、淘汰されます。
これが私の考える、宗教と科学の相対関係です。

さて次に、人間の知性や理性の限界について考えてみましょう。
これを考えるにあたっては、哲学者や論理学者の意見を参考にします。
まず、ソクラテスという偉大な哲学者は、「無知の知」を唱えました。
己が無知であることを自覚することが大切だ、ということだと想われる。
人間は、どのような賢人であろうと、すべてを知ることはできないから、自分の無知を自覚すること、これが人間にとって重要なことだということでしょう。
次に、カントは、『純粋理性批判』等で、「まさしく限界を知ることに哲学がある」と述べてます。
またカントは、『単なる理性の限界内の宗教』という著書も出してます。
カントが『純粋理性批判』で明らかにしたかったことは、私は何を知ることができるかという、人間の認識能力を批判検査してみて、その限界や働く範囲を明確にしたかったものと想われる。
さて次に、20世紀に入り、ゲーデルという数学・論理学者が登場し、『不完全性定理』を発表した。
不完全性定理の要点は、人間の理性・知性に限界があることを証明した(もっとも厳密な数学の分野において)ところにあると思う。
これらの例から何が言いたいかというと、人間の理性・知性には限界があり、限界がある不完全な人間の集合体である科学や「単なる理性の限界内の宗教」にも限界があり不完全ということである。
故に私は、科学崇拝や科学万能主義には反対だし、ただの人間が創り出した宗教を信仰しない。
全てのものが不完全で限界があるとすれば、では、私は何を信じればよいのか、何を基準に思索すればよいのか?
果たして、限界を超越したもの、不完全を超越した完全なるものが、この世に存在したのだろうか?
それが神や仏と言われるものなのだろうか?
それは、皆さんの解釈にお任せする。

そういう私は、仏教を信じる者である。


(無題)  投稿者:この世は仮の世 投稿日: 2004年05月30日 8時09分

図書館からやっと「新版図説種の起源」と「創造論の世界」を借りてきた。でもこの本の前に図書館から借りた本で受験の神様と昔呼ばれた和田秀樹の「痛快!心理学」と聖書学者の荒井献(あらいささぐ)の「ナグ・ハマディ文書U福音書」があるのでこの本から先に読まないといけない。


乱数の検定方法 その2  投稿者:tema@外出中 投稿日: 2004年05月30日 5時09分

 ほんまの乱数か否かを確認(検定)する方法がどんなものか、教科書から読みとってみました。読み間違ってるかもしれませんが、掲示板2に書き込んでおきます。

 それはそうと、面白いことに気づきました。
 旧約聖書が何文字で出来ているか知りませんが、仮に50万字あったとします。ほんまの乱数(16進)をASCII変換すると文字列になりますが、その文字列50万字分が偶然旧約聖書(英訳)になる確率は、256^-500000という途方もなく低い確率です。ただし、0ではありません。
 もしπが「ほんまの乱数」かつ「小数点以下無限に続く」ならば、πの中のある数列は旧約聖書に変換できるはずです。もちろん、「種の起源」に変換できる数列もあるはずです。


登呂の宿から  投稿者:谷庵 投稿日: 2004年05月30日 4時50分

乱数とは何の関係もなく、突然の乱入、お許しください。
今、初めて旅先から書き込んでいます。

ネットが出来るというので選んだ宿なのですが、遅い遅い。
たぶんISDNだな。

ちょっとリモートホストがみたかっただけなので、みなさん、無視してください。


む、懐かしいネタだ  投稿者:ヘルメス☆ 投稿日: 2004年05月30日 3時54分

ちょっと目を離すと面白いネタが飛び出してくるからなぁ、ここの掲示板♪
私もかなりハマったクチですが・・・
Z80のマシン語を直接叩いてプログラムしたなぁ。
「TRON」って映画が昔ありましたが(バイクみたいな乗り物使って陣取りしながら・・・って内容だったような???)、陣取りゲームを作ったりした覚えも。
PCの進化とか普及を見てると「必ずしも最適なものが繁栄するとは限らない」ってことが良くわかりますね。
x86のアーキテクチャよりもRISCの概念の方が理論的には最適化されているはずなのに、現実はx86の勝利(デスクトップに限っては)ですし、CPUの構造的にはCyrixのプロセッサのほうがIntelよりも美しく、Athronの処理効率はPentium4よりも優れているにもかかわらず、マーケティングの勝利でIntelの圧勝だし。
Opteron頑張れ!
(って思いっきり進化論から離れた主張をする私♪)


Re:乱数発生装置  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年05月29日19時00分

気温とか放射線とかを使う乱数発生装置は、昔々のAh!SKIのネタにあったような…


乱数発生装置  投稿者:とおりすがり 投稿日: 2004年05月29日13時05分

ガイガーカウンターとかはどうだろう。放射線の値じゃなくて、飛び込んできた粒子によるパルス1つ1つを
乱数として扱うとか。(放射性物質の崩壊は乱数だし)


GAME  投稿者:後藤寿庵 投稿日: 2004年05月28日23時12分

temaさんへ

GAMEとは懐かしい。僕はMZ80CとK2でパックマンを作りました。開発機種が途中で変わってるのは、ショップの店頭のCで開発を始めたが、占有時間が長くなったので、ゴキブリ族仲間の家にあったK2で開発を継続したからです。
#=10 <-GOTO 10
!=20 <-GOSUB 20
みたいな言語でしたね。ポインタの概念があったりして、後にCを理解する助けになったような気が…

TL/1やらGAMEは8bitの計算しか基本的にできない言語だったので(キャリー使って16bit計算もできるけど)、得点を100点単位にしたりして簡単に済ませてましたっけ(得点の後ろに"00"を常に表示する)。

パックマンでは乱数は使いませんでした。モンスターは常にパックマンを追いかけるので(笑)。


乱数の検定方法  投稿者:tema 投稿日: 2004年05月28日21時31分

Kosukeさん、こんにちは。

>しかし問題は「でたらめ」かどうかの判断が、その人の持つ知識に左右されるんじゃないかという事。

 本棚に目を走らせる。と、なぜか埃にまみれて残っていた一冊の教科書が目にとまる。その背表紙には「乱数」の文字。ビールを飲みながら、その本を − 数十年前の過去を引きずり出す。頁の中には、若かった頃の記憶と苦い想い出が刻まれている...おかしいですよ! ちぃとも理解できません。ひょっとしてこの教科書、外国語で書かれてるんじゃないかしらん。

 ともあれ教科書によれば、乱数かどうかの検定方法が色々あるようです。
  1.一様性検定
  2.系列検定
  3.すき間検定
  4.ポーカー検定
  5.連の検定
  6.t個の最大値検定
  7.線形合同法によって生成する一様乱数の結晶構造とスペクトル検定
それぞれ何を検定してるのかについては、万一、理解できたら報告します。


擬似乱数周期&挫折しました  投稿者:tema 投稿日: 2004年05月28日21時02分

EzoWolfさんへ

> ただし計算機の発達とともに使用する乱数の数はどんどん増えるから
>より長周期の数列を探す必要が出てきます。

 乱数の事を調べていたら、「メルセンヌ・ツイスタ」という疑似乱数発生アルゴリズムを見つけました。
http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-mat/MT/mt.html
 このアルゴリズムは周期が2^19937-1もありますので、大抵大丈夫です。
 仮に世界最高速の計算機(40Tflops)で、1つの値を1回の演算で計算できるとしても、1周期分計算するためには...
 (2^19937-1)÷(40×10^12) 2^10≒10^3として
≒10^5981÷(40×10^12) = 2.5×10^5967[秒](2^10≒10^3とした時点で2.5に意味は無いですが)

 10^5967秒…ちなみに200億年が6.3×10^17秒
 量子コンピュータが出来るまで、次の周期が来ることは無いですね。


NATROMさんへ
 temaはExcelでテトリスを...挫折しました
 インベーダならMZ-80K2で作りました。言語は、当時ASCIIに載っていたGAMEコンパイラで。


擬似乱数と周期関数  投稿者:ハッター 投稿日: 2004年05月28日 9時24分

擬似乱数をホワイトノイズとして入れた時系列に既知の周期関数の値を入れたものからもう一度その関数を取り出す手法の精度を議論するには、乱数の周期性に関しての考察が必要になりますよね?


乱数&私も作りました  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年05月28日 8時25分

To Kosukeさま

一般的に乱数が使用される目的から考えて、「等確率性」は重要な特性だと思います。でも、「等確率性」という特性を欄数列に与えてしまうと、隣接する(近隣の)数間の乱雑性というのは保証できても、乱数列全体を見た場合は完全に「出鱈目」というわけには行かなくなるのではと思います。

私が乱数について調べたのは、もう十年も前のこと(モータの制御用マイコンのプログラムを組む為)です。そのときの感覚では、
・実際に発生できる乱数はすべて擬似乱数である。
・理論上の完全な乱数列は生成できない。
・工業用として使用される乱数は、特性が検定できる擬似乱数の方が都合が良い。

といった結論でした。尚、件のマイコンにはM系列の乱数発生演算を行って処理しました。

To NATROMさま

PC8001のBasic(N-BASIC)のRANDAMIZE命令は、定数を指定しなければRレジスタの値を初期値として乱数列を発生させたはずです(これもうろ覚えです。私はPC6601でテトリスを・・・)。

(ぱ)さま

TL/1ですか。懐かしいです。ASCIIに載っていました。私は、あの頃はやたらとCompiler言語に憧れていました。


疑似乱数の周期性  投稿者:EzoWolf 投稿日: 2004年05月28日 1時58分

 よく使われる疑似乱数には周期性がある。ただし10万回の呼び出しで最初に戻る
数列でも、その周期の間一様に分布していれば1万回の使用に関しては問題なし
という考え方だったと思う。

 ただし計算機の発達とともに使用する乱数の数はどんどん増えるから
より長周期の数列を探す必要が出てきます。


#10年以上も前の昔の記憶で書いているので今は様相が変わっているかも。


私も作りました  投稿者:(ぱ) 投稿日: 2004年05月28日 0時10分

 あー私も作りました。PC8001でテトリス。1980年代後半に。
 私はビンボだったので、つてを辿って1万円でゆずってもらったPC8001を、数年に渡って使い続けていたのでした。
 機械語で書く元気はなかったので、TL/1コンパイラを使ったなあ。

 あのPC8001は、まだ実家の押入れにあるはずです。ヤフオクで売れるかと、数年前に動作確認したときにはちゃんと動きました。


あのP8いまどこにあるんだろう  投稿者:NATROM 投稿日: 2004年05月27日22時51分

>1985年なら、「ちょっと古め」ではきかないような(笑)。

中学卒業だか高校卒業だかの春でした。すでにPC-8801を持っていたはずなのに。


>Rレジスタ(メモリリフレッシュレジスタ)は使わなかったんですか?

だって存在そのものを知らなかったもん。というか、今知りました。PC8001マシン語入門とかいう本(実家にまだあるはず)に書かれていないことは何も知らなかったのです。インターネットもなかったし。


出鱈目  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年05月27日22時38分

管理人さんのお墨付きをいただいたので、続けさせてもらいましょう(笑)。

変な事を考えましてね。「等確率性」はまあなんとか解るんでひとまず傍らに置いておいても、「でたらめ」って大変判断に困る大変難しい概念じゃないかと。「でたらめな数の羅列が乱数だ」この文章の言わんとする事は解ります。しかし問題は「でたらめ」かどうかの判断が、その人の持つ知識に左右されるんじゃないかという事。

例えば無理数。何でも良いんですが、π=3.14159265358・・・・・・。この数列の適当な一部を取り出して、「これは乱数です」と主張した場合。πの値を知っている人にとってみれば、まごうかたなき規則性(π=で求められる)が有るのだからこれは乱数であるわけが無いですよね。ところがπの値を知らない人にしてみれば、乱数としか思えないんじゃないでしょうか?さらに言えば、たとえ値を何百桁暗記している人でも、185万桁からの100桁の数列を取り出した時、それがπの一部だなんて識別するのは無理ですよね〜。これがでたらめじゃない事をどう証明するんでしょう?

あまり良い例じゃないような気もしますが、「でたらめ」という概念に内在する「いかがわしさ」のようなものを感じるのは私だけなのでしょうか?

本当の乱数と擬似乱数というものが有るらしいと聞いて、そのへんどうよ?と突っ込んでみました。


乱数  投稿者:トトロ 投稿日: 2004年05月27日21時54分

To Kosukeさま

> 乱数の定義に試行回数を∞にした場合の極限値が入ってくるので、有限の数列では本当の乱数かどうかは「確かめられない」と理解すべきなのでしょうか。

多分、そうだと思うのですが。乱数列がN個の要素で出来ており有限の場合、原理的にはそのような数列を作ることのできる関数が存在することになる為、N+1の値が演算できるのであればそれは規則性を持つことになり本当の意味での乱数ではないといった内容だったと思います。
でも、これは多分に理論的な結論でしょう。実際に使用する乱数についてこのような厳密性は不用ではないかと思うのですが(かなり自信なし)。

> 乱数の持つ等確率性からすれば必然的に目の平均値は3.5になりますよね。
> ↓これは何かの誤りでは無いでしょうか?乱数にも異なる定義が有るのかしらん…

私の記憶にあるのは、等確率性を持たない乱数というのがある ということを何処かで聞いた覚えがある(じつに自信なし)というだけです。私の意見が間違っている可能性は随分高い(等確率性を持たない乱数というのがどんなものか予想もつきませんので)と思います。

いづれにせよ、うろ覚えで書き込みを行っていますので誤っていたらゴメンナサイ。


(無題)  投稿者:sci98 投稿日: 2004年05月27日20時47分

>乱数と言えば、その昔(1985年頃だったか)、当時ですらちょっと古目のパソコンだったPC-8001でテトリスを作った事があるのです。

1985年なら、「ちょっと古め」ではきかないような(笑)。


>ハンドアセンブルで。暇だったんですねえ。乱数発生をどうしようか考えて、ROM-BASIC領域を利用しました。

Rレジスタ(メモリリフレッシュレジスタ)は使わなかったんですか?


創造論者が  投稿者:RYU_TI_SYU 投稿日: 2004年05月27日20時26分

放流したてのニジマスのように食いつきそうなネタ発見

<遺伝子>チンパンジーとヒト、違い8割以上
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040527-00000145-mai-soci

乱数列について、
「乱数列は1種類しかない」
ってのを風の便りに聞いた記憶があるんじゃが、ホントのところはどうなんじゃろうか?

教えて、算数の偉い人


そうだったのか!  投稿者:ハッター 投稿日: 2004年05月27日19時44分

>乱数はシミュレーションなんかに使用されるそうですが、検定すると特定の性質を持つ乱>数列(擬似乱数)の方が扱いやすいというのを聞いたことがあります。

あ、なんかちゃんと考えると面白そうですね。
統計学は”都ぞ弥生”をフルコーラスかければ優だったけど、
今でもそう?→たまごちゃん


乱数の話題はOK  投稿者:NATROM 投稿日: 2004年05月27日18時29分

なかなかこの掲示板らしくていい話題だと思います。

乱数と言えば、その昔(1985年頃だったか)、当時ですらちょっと古目のパソコンだったPC-8001でテトリスを作った事があるのです。ハンドアセンブルで。暇だったんですねえ。乱数発生をどうしようか考えて、ROM-BASIC領域を利用しました。ROM-BASIC領域の数十バイトを全部足して7で割った余りを0-6までの乱数(テトリスのブロックの種類は7つ)とみなしました。厳密に言えば乱数でもなんでもありませんが、ゲームで遊ぶ上で何の支障もなかったです。ゲームで遊んだ時間より、プログラムに費やした時間の方が多かったですが。


期待できる平均値(しつこく乱数)  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年05月27日17時42分

トトロさん、ドモドモ

> 有限個の数列では、必ず何らかの規則性を持つため、本当の意味での乱数にはならないというのを聞いたことがあります。

乱数の定義に試行回数を∞にした場合の極限値が入ってくるので、有限の数列では本当の乱数かどうかは「確かめられない」と理解すべきなのでしょうか。

> 例えば、サイコロをふった場合、いんちきが無ければ出た目の平均値は3.5に近くなりそうですが、

乱数の持つ等確率性からすれば必然的に目の平均値は3.5になりますよね。
↓これは何かの誤りでは無いでしょうか?乱数にも異なる定義が有るのかしらん…

> 期待できる平均値が存在するということは、その目の列は乱数の資格の一部を欠く


(この話題、あまり続けるとNATROMさんに怒られそう)


無規則性  投稿者:Kosuke 投稿日: 2004年05月27日17時39分

PDX. さんサンクス。
まだ読み始めたばかりですが、噛み砕かれているようですよ(笑)なんとか理解できそうです。
とりあえず「A.乱数列の概念」の項を読みました。「等確率性」は良く解ります、その概念も検証の方法も。やはりちょっと引っかかるのは「無規則性」のところですね。

「数の系列の無規則性は、どのような数の選び方をしても(どのようにi番目とj番目を選んでも)その選ばれた数の間に相関(規則性)が無い場合にはじめていえる性質である」

この概念は理解できます。

疑問は2点、いずれも技術的な事かな。

1点目:おそらく膨大な組み合わせになるであろう数の選び方の組み合わせ全てを検証する事は現実に可能なのかという点。(コンピュータを使えば原理的にできるんでしょうね、きっと)

2点目:規則性と無規則性の識別方法の問題があると思います。グラフを見てそこに規則性を読み取るのは、いかにも人間的な直感に頼った判断になるのではないかと思われますね。例にあげられた二つのグラフは両極端の場合のものなので、判断を迷う事は無いでしょうが。これほど極端ではなく、「ぼんやり」と規則性が見られる場合はどうするのでしょうね。規則性の度合いを数値化する方法が有るのかなあ?

あ、もう一つあった。
3点目:これは本質的な事になるのかな。サイコロを振ったときに偶然にも同じ目が続けて出たり、偶数だけが続いたりする事は、可能性としても現実にもありえますよね。定義からすればサイコロは乱数を生み出すものなのだから、結果としてそこに規則性が見られたとしてもこれは乱数と認めても良いのか、悪いのか、良く解りません。


進化論と創造論(米国の最新事情)  投稿者:なな 投稿日: 2004年05月27日17時32分

『宗教社会の底流:04米大統領選の土壌 第1部』と題した毎日新聞の連載記事が5月25日から始まっていますが、Web上でも読むことができます。

1 科学に挑む創造論 (5月25日)
2 「進化論は仮説にすぎない」(5月26日)

近づく大統領選に絡んで米国の政治と社会に大きな影響を与えている宗教事情をレポートしたものですが、進化論や創造論に関する米国の最新事情がうかがい知れる興味深い連載記事と思いましたので紹介させていただきました。


モリスさんへ  投稿者:NATROM 投稿日: 2004年05月27日16時28分

>なかなか時間がとれません。それで、個人用に持ち歩いて
>読破したいのですが、コンテンツの内容を
>コピーさせていただいてもよろしいでしょうか?

はい、よろしいです。


>また、ネット環境にない友達で読ませたい友達がいるのですが
>コピーしてあげてもいいでしょうか?

はい、よろしいです。個人用であれば、いくらでもコピーしていただいて結構です。


ご意見、ご要望がございましたら、掲示板か、 e-mail:natrom@yahoo.co.jpへどうぞ。


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